2021年12月30日木曜日

偽りの記憶の問題 21

 何といっても年の瀬、大晦である。昨日は診療所の大掃除、床の汚れ落としをした。最初はあきらめムードだったが結構きれいになり、最後は楽しくなってしまった。オミクロンの流行が吉と出るか(つまりほぼ普通の風邪であり、PCRをするまでもないということになるか)凶となるか(δ株に置き換わる感染力のさらに強い株であることが判明するか)? とにかく来年が皆さまにとって良い年になるように。

ショウの本もあと50ページである。これを読んだ後いよいよ原稿を書き始めなくてはならない。「あなたは自分で思うほど魅力的ではない」という章は、私が前々から疑問に思っていたことに答えてくれる。なぜ自分の写真を見て「写真写りがよくないなあ」と思うのだろうか?ところが他人の写真となると、「これってまさにあの人の顔の特徴をつかんでいるよね」と思えるのに本人は「ちゃんと私が写っていない!」と不満を言うのである。 ある研究では写真の顔を魅力的に出来たり、不細工に出来たりするソフトを作り、(面白いソフトがあるものだ)被検者のオリジナルの写真と、加工を加えた何枚かの写真を提示したという。するとほとんどの被検者が自分を正確に写しているものとして選んだのは、オリジナルより10~40%魅力度を上げた修正写真だったという。ちなみに友人の写真と面識のない人の顔では、10%上げたもの、面識のない人なら2.3%上げたものを選んだというのだ。まあ分かりやすく言えば、人は自分の顔を美化する、ということだが、これは過誤記憶の問題にもかかわってくる。ところでわたしはここでダン・アリエリーの研究を思い出す。2016年4月26日の私のブログから引用する。こうなると過誤記憶というより「盛った記憶」ということになるだろう。

人は本来「弱い嘘」つきである、というアリエリーの主張

「アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる―嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
 アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在していた。
 しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に6尾釣った(ということは二尾は逃がした、人にあげた、という言い訳をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。
 アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換えよう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人は強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。
 ではどうしてごまかすのか?それは快感だからであろう。4尾というより6尾の方が自慢のし甲斐がある。気持ちがいい。だからであろう。あとは嘘をついていることによる良心の呵責がどの程度それに拮抗するかだ。その拮抗点がその人にとっては10尾でもなく、5尾でもなく、6尾ということだ。このような嘘を「弱い嘘」と呼んでおこう。
 話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。
 そこで話を最初の賄賂を受け取った政治家に戻す。彼の嘘もこの魚の話の延長なのだろうか?恐らく。そして「秘書が受け取ったかもしれないが報告を受けていない」というのは、「絶対に受け取っていない」と言うよりは良心の呵責が少ないはずなのだ。そして「秘書が・・」と「弱い嘘」をつくことは、「ごめんなさい、受け取りました」と頭を下げるよりはるかに快感原則に従うのだ。

うん、後から読んでも結構うまく書けている。


2021年12月29日水曜日

偽りの記憶の問題 21

  昨日はあるバイジーさんたちと話をしていて、色々洞察を得たことがあった。どうやら私たち精神科医が遭遇する過誤記憶に類似した現象には、他にいくつかありそうだ。その一つは過誤記憶そのものである。しかしそれ以外を考慮に入れない傾向が私たちにはある。類似の現象としてもう一つは妄想、そして最後に虚言、つまり嘘である。これらは精神病理学的に明白に区別されるべきものだが、これが案外厄介だ。
 ある架空のAさんを考えよう。彼は野球をやっていて、巨人軍のスカウトからアプローチをされたという。その話を聞いた私は、Aさんの野球の実力を知っているためにそれがおそらく現実には起きそうにないように思えるとしよう。しかし全くあり得ないことではないところが難しいのだ。まずこれが妄想である可能性はもちろんある。現実にないことを頭の中であたかも実際に起きていることとして作り上げてしまうという病的な現象が妄想だ。あるいは虚言(つまり嘘)であるという事も十分ありうる。こちらは精神疾患とは言えない。多かれ少なかれ人間は嘘をついてしまうことが時々ある。

 ところがこれが過誤記憶である可能性があるとはどういう事だろうか。例えばAさんが夢を見て、その中で野球の練習からの帰り道に、ある男が「私は巨人軍のスカウトですが、貴方の練習を見ていて将来性を感じました。連絡先を教えていただけますか?」と言い、Aさんは電話番号を告げるとその男は立ち去ったとしよう。ところが月日が経つと、Aさんはそれが夢なのか現実なのかがわからなくなって来たとしよう。その練習場所はいつものなじみのグラウンドだし、そこでAさんの練習をたまたま見ていたスカウトがAさんにアプローチするという事は全くないわけではない。そして夢の内容を現実に起きたものに知らぬ間に置き換えてしまうというのは過誤記憶に分類されるのだ。こうなると一見あり得そうにない話を聞いた場合、それを過誤記憶か妄想かという問題になるが、前者は正常でも起き得ることで、後者は精神病の症状だという区別をすればそれで済むというわけではない。何しろ妄想的な着想は一見正常人と思われる人にも突然孤立して現れることがあるからだ。
 ちなみにこれにはさらに厄介な事態が関係する。Aさんにファンタジー傾向が強く、実際にプロ野球の球団からスカウトされることを夢見ている彼は、そのような場面を夢想することもあるだろう。白日夢、ファンタジーという事になるが、それは夢とは違い、ある程度意のままに構築することが出来るのだ。そしてAさんがそれに没入した場合に、これも将来過誤記憶として成立する可能性がある。ファンタジーの中で生じる出来事が、より現実に近い内容であるとするならば、それは現実といよいよ区別がつきにくくなることもあろう。

2021年12月28日火曜日

偽りの記憶の問題 20

 ショウの本を読んでいるうちに、p.225 でミラーとブッシュマンの研究に突き当たった。要するにあることを意識しているとは、それに関連した神経ネットワークに参加するニューロンが同期化しているという話だ。以下の論文はネットで手に入るのだ!

Miller ,EK & Buschman, TJ(2013Brain rhythms for cognition and consciousness. Neuroscience and the Human Person; New Perspectives on Human Activities.121.

この論文を読んでいる余裕はないが、結局ワーキングメモリーとはこういう事か、という事を考える上での参考になる。でたらめな7桁の番号、例えば 34290765 を一分間保持しよう。これは貴方が常に復唱し続けることで一分間持ちこたえるような代物である。電話番号をメモ帳に書き留めてダイアルしているようなものだ。(メモ帳、とかダイアル、とかもそのうち死語になるだろう。)これは無理やりいくつかの数字を同期化させることで維持する労力なのだ。同期化とは、自然に起きない場合にはそれこそ意識のワークスペース全体を使わなくてはならないことだ。もしこの 34290765 が 034290765 が貴方の電話番号なら、一分間何もせずともこの数列を同期化させることが出来る。ところがそもそも同期化したことがないニューロンを同期化させ続けるのが短期記憶というものなのだ。それをしている時、意識は他のことが出来ないほどに忙殺される。
 ショウの本はさらに、人間の意識がどうしてマルチタスクが出来ないかについても説明している。それをするには一つのニューロンがいくつもの波長のリズムを送り出さなくてはならないが、それが出来ないというわけだ。そしてこのことが、心がマルチタスクでありかつシングルタスクでもあるという矛盾を説明する。シングルタスクというのは、いちどに34290765一つしか復唱できないという事だ。マルチタスクとは他の脳の部分が勝手に無意識的に同期して鳴っているという事を意味する。例えば🍎を思い浮かべると、その味、色合いなどはそれぞれ対応する神経ネットワークが同期化して鳴っている状態であろう。ただそれが無意識的なのだ。しかし人格がいくつも存在するとは、一つの神経細胞が何種類もの同期を持つ能力を意味しないだろうか?

2021年12月27日月曜日

偽りの記憶の問題 19

  本書の記述には時々「あれ?」と思うこともあるが、だいたいよく書かれていて、これまでの知識の整理になる。いろいろ物議をかもした、ジェフリー・ミッチェルのストレス・デブリーフィングのことも書いてある。CISD(Critical Incident Stress Debriefing 緊急事態ストレス・デブリーフィング)というやつだ。ある事故が起きて、多数の人が犠牲になっている時、そこに専門家が乗り込んで犠牲者を集め、何が起きたかを徹底的に聞くという手法だ。これは911の米国多発テロ事件の時も用いられた有名な手法だが、その後これを受けた患者により多くPTSDが発症したなどの報告があった。ショウの本はこの試みがどの様な意味で問題なのか、なぜ記憶の専門家からの異論があるのかを解説する。一つにはこのCISDは人の記憶を融合させる見本であるという。例の「言語隠蔽効果」(言葉にすることでかえって誤った記憶が生成される)により自分の描写と他者の描写が記憶として混同されて残ってしまうかもしれない。それに代理トラウマも起こる。こんなことが書いてある。トラウマになりかねない体験 potentially traumatic experience, PTE はアメリカ人の90%が体験する。ところがそれによりPTSDを発症するのはその10人に一人だという。つまりほとんどの人は深刻なトラウマとなりうる体験に対して反応を起こさないのだ。しかしそれでPTSDになるかもしれないのではないか、という疑いを自らが持った人は、実際にそうなってしまう可能性があるという。

 ここの部分は私がこの偽りの記憶について書く論文の核心部分になるかもしれない。私が個人的に知りたいところだからだ。いつか英国と米国でPTSDの罹患率がずいぶん違うというデータを見たことがある。同じ戦闘体験による外傷でも、米国ではそれがPTSDを起こしかねないという言説に晒されると、よりPTSDになりやすいという話を聞いて、とても混乱させられた。でもここはその問題を扱っているのだ。
 以下に書く問題はこの偽りの記憶の問題とは必ずしも結びつかないが、大切な点だ。自分が親から厳しいしつけを受けるとしよう。体罰も含めて虐待に近い扱いだ。ところがそれを受けた子供本人が当たり前だと思うと、それがトラウマになりにくい。昔は多くの家庭で、子供が悪さをしたり、行儀が悪いだけで殴りつけられていた。そのような社会では、自分だけがひどい扱いを受けているという実感がなく、したがってトラウマとして体験されにくいという事はより少ないのではないか?このことは子供を人とも思わない扱いをしてきた人類の歴史を考えればわかる。これは悲しい現実だが、あらゆる機会に子供は虐められ、女性は凌辱を受けかねないというのが私たちの歴史である。その様な状況で、おそらくPTSDは今ほど起きなかった可能性がある。それは一つには「皆がそのような扱いを受けている」という感覚があったのではないだろうか。奴隷は人間として扱われないという過酷な状況を生き抜いたが、みなCPTSDを発症したわけではないだろう。あるいは社会主義、共産主義体制が厳格に守られている社会で、さらには軍隊のような規律が厳しい体制の中で、例えば不登校、出社拒否に相当する行為が許されただろうか。トラウマによる被害と発症は、それが可能な状況においてのみ起きるのではないか?
 これは想像するだけで怒られそうな話だが、このことと代理トラウマの問題が関係していそうだ。

2021年12月26日日曜日

偽りの記憶の問題 18

  ショウの本を読み続ける。P210 あたり。「言葉にすると記憶が損なわれる」という節では、面白い実験が描かれている。人に30秒ほどある人物の写真を見せ、二つのグループに分ける。一つにはその写真の人物を言葉で描写してもらい(例えば紙が茶髪、目の色が緑、唇が薄い、など)、もう一つのグループには何も施さない。そして数日後にその写真をどのくらい覚えているかを調べる。すると書き留めてもらった人の正解率は27%で、それをしなかったコントロール群は61%であったという。つまり言葉に直した方のグループに、そこで大きな記憶の歪曲が起きたのだ。この種の実験も結構色々な研究者により追試されて、同様の結果が出ているという。色や味、音などについても同様の結果が出ているらしいのだ。言葉にするということはそれをかなり限定し、歪曲することに繋がる。それが過誤記憶を生む傾向を増すという事らしい。ここで、

この件で連想した私自身の話をしよう。(ただし上の例とは直接関係ない。)この間「帯(おび)」という文字を手書きで書く必要が生じた。「帯状回」という脳の部位を描こうとしたのだ。そして少し字が読みにくかったので消しゴムで消して書こうとして、またうまく書けず、もう一度消して書き直そうとしたとき「例のこと」が起きた。これは私がこれまで何度か体験したことだが、簡単な漢字を何度か書き直そうとしているうちに、それが一時的に書けなくなってしまったのだ。考えれば考えるほど書けない。というより映像として思い出せない。私はこのような場合、しばらく「寝かせて」置けばまた思い出すことを知っているので、しばらく忘れていて、一時間ほどして書くことが出来たが、それまでほとんど自動的に行えたことが、意識するとわからなくなることはよくある。恥ずかしい話だが、私はネクタイを年に数回結ぶ機会がある時は、なるべくササっとやるようにしている。というのはやっているうちに分からなくなるのが怖いからだ。(私は実はこれは種の学習障害の傾向だと思っている。ごく若いころからすでに、こんなことはよくあったのだ。)

この現象は結構他人にも起きることと聞いているのである程度一般化できるであろうが、それはすでに述べた記憶の再固定化と関係しているように思う。ある事柄を思い出すとそれが不安定になり、そこから消えたり、逆に再固定されたりするという現象が起きるという例の話だ。しかしこれはその現象とは明らかに違う。なぜなら私は「帯」という字がそれを機会に書けなくなってしまうという事はないからだ。「帯」と書く能力はすでに獲得されている。ただそれを意識化する過程でおかしなことが起きてしまうのだ。

敢えて説明すると次のようなことが起きる。通常は半ば無意識的に、ABCDE と筋肉の動き、あるいは文字の流れが記憶され、それは半ば無意識的に再現される。ところが一つ一つを意識化するとこのサラッとした半ば無意識的な流れが阻害されるのだ。

 

2021年12月25日土曜日

偽りの記憶の問題 17

 昨日の続きだが、トラウマ記憶という事に関しては、臨床家と研究者の間には大きな隔たりがあるという印象を持つ。解離性健忘やトラウマ記憶がかなり特異なふるまいをすることはわかっているが、ショウの本では、「感情的な出来事の最中に解離を起こすことはなく、トラウマとなる状況の記憶が特別に断片化されることを裏付ける証拠もないと主張している」と記されている(P194)。一般的に言われているのは、脳に損傷がなければ、記憶に対する「トラウマ優位効果」が存在するという。ある研究者は最近トラウマを経験したという被検者を集めて、その時点、三か月後、三年半後に聞き取り調査をしたという。そしてそれとともに心に良い影響を与えた記憶についても尋ねたそうだ。そして衝撃的な出来事の記憶は、時間を経ても非常に一貫性があり、特徴の大部分がほとんど変わらなかったという。また心に良い影響を与えた経験に比べ、悪影響のあった経験の記憶は時間を経過しても極めて安定していたとされる。これが「トラウマ優位効果」という事であろうが、私たちが体験しているPTSD症状を伴う体験を持った人々の語りはこうではない。という事はこれらの実験に参加した人々は、臨床群とは異なると考えるしかないように思える 
 P202に書かれていることは本書全体にとってとても重要だ。それは著者が実際に行った過誤記憶の植え付けの実験であり、結論から言えば、被検者の70%以上が、犯罪と感情的な出来事の両方で、完全な過誤記憶を作り上げるという。こうなると例えば裁判などにおける証言の意味すら曖昧になってきたりする。(裁判にかなりの回数出た経験があるが、利害関係を有しない人に関する証言は、サイエンスにおけるエビデンスと同等にあつかわれるという印象を持っている。)
 P208 には海軍でのサバイバル訓練の例が挙げられている。そこで模擬的に捕虜にされて特定の人物に厳しい尋問を受けるという状況に身を置かれた人たちは、偽の尋問者の写真を示された。やがて解放された被検者は、何と8491%の率で、写真で見せられた人物を尋問者として報告したという。それに具体的な情報でさえ、質問をそのように仕向けるだけで過誤記憶を生み出した。例えばそこに電話はなかったにもかかわらず「尋問者は電話をかけることを許可したか?」そしてその電話について描写せよ、と言われただけで、98%の被検者は、そこに電話があったと証言したという。

読んでいくうちに、記憶のことがいよいよわからなくなってきた。

2021年12月24日金曜日

偽りの記録の問題 16

  6章「優越の錯覚」に進む。ここに記載されていることはただ事ではない。イノセンスプロジェクトという団体が冤罪の濡れ衣を着せられた人たちを337人ほど釈放させたという。それらの例の少なくとも75パーセントで、誤った記憶が有罪の根拠とされていた。この数字は米国の、それもDNA鑑定が出来た事件に限ったものだという。また次の話題。数多くの研究で、殆どの人は、自分は平均より知的で魅力的で、有能だと思っているという。そしてこの過信の影響はあらゆる領域で見られるというのだ。そしてこれがこの章のタイトルにもなっている「優越の錯覚」という事だという。もうひとつ面白いのが「生存者バイアス」。スティーブン・ジョッブスは大学中退者だった。だから僕も成功するために大学を中退する、という類の錯覚であるという。
 第7章「植えつけられる偽の記憶」は本書の要となる章と言える。そこに記されたたくさんの実験例が、偽りの記憶が実際に作られるプロセスを示している。その中で特に興味深いのが、「トラウマ記憶は特別か?」というテーマだ。2001年にポーターとバートにより発表された研究では、トラウマ記憶についての研究を行い、いくつかの定説を否定した。たとえば通常の記憶より弱いという理論がある。戦場の記憶は断片的であり、フラッシュバックとしてよみがえってくるという性質を持つと言われる。そしてその理由として考えられるのが解離であるわけだ。ところがポーターとバートはそのような理論に根拠はないという。精神医学では半ば定説化しているこのトラウマ記憶と解離との関係についての否定的な理論も2000年以降提出されているというのは意外だった。

2021年12月23日木曜日

偽りの記憶の問題 15

  さてそれから先のサブリミナルメッセージに関する著者の歯切れは悪い。サブリミナル効果とは、意識にのぼらないような刺激を与えられることで、人間の行動に変化が生じるという事である。実は有名なポップコーンの実験以来このテーマの研究は色々行なわれているが、今一つその存在の決め手がないようだ。「サブリミナル効果」でウィキペディアで調べたら面白くなってきた。以下若干コピペしてみる。

 19579月から6週間にわたり、市場調査業者のジェームズ・ヴィカリー(James M. Vicary)は、ニュージャージー州フォートリーの映画館で映画「ピクニック」の上映中に実験を行なったとされている。ヴィカリーによると、映画が映写されているスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであった。しかし、ヴィカリーは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表しなかった。19582月には、カナダのCBCが「クローズアップ」という番組の中で、ヴィカリーの会社に再"実験"をさせた。番組の時間を通して352回にわたり「telephone now(今すぐお電話を)」というメッセージを投影させてみたが、誰も電話をかけてこなかった。また、放送中に何か感じたことがあったら手紙を出すよう視聴者に呼びかけたが、500通以上届いた手紙の中に、電話をかけたくなったというものはひとつも無かった。 さらに、1962年には、Advertising Age が、ヴィカリー自身の「マスコミに情報が漏れた時にはまだ実験はしていなかった、データは十分にはなかった」という談話を掲載した。新潟大学の鈴木光太郎教授は、この実験そのものがなかったと指摘している。

 なんかひどい話という気もする。この種の検証は色々行なわれていて、あるものはサブリミナル効果の存在を示し、あるものは示さなかったという結果になっているらしい。ところで私は米国の分析家グレン・ギャバード先生の「力動的精神療法」というテクストを自分の臨床の一つのベースにしているが、彼は精神分析における無意識についての説明に、このサブリミナル効果を用いている。これは興味深いことだ。なぜなら精神分析の世界で通常私たちが無意識として考えるのは、私たちの心の奥底にうごめいているが意識できないような本能や願望などである。しかしそのような無意識内容などそもそもあるのかという事について、疑問符が付けられるという動きが、精神分析の内部でも、少なくとも一部の分析家によりみられる。これはその様なフロイト的な無意識が存在しないというわけではなく、それを確かめようがないという問題があるからだ。そしてギャバード先生のような、精神分析の奔流にいる分析家が、無意識の例としてサブリミナル効果を上げているという事は、彼もまたフロイトの古典的な意味での無意識をあまり想定していないという事になるのだ。それよりは、意識していない部分が私たちの意識的な考えや行動に影響を与え得るという意味で一番検証しやすい「無意識」内容こそがサブリミナル効果なのである。ギャバードさんが彼のテクストで挙げている例は、比較的信頼のおけるものらしい。Berridge and Winkielman2003)による研究であり、参加者を募って3つのグループに分け、彼らが気が付かないようなほんの一瞬、3枚の写真のどれかを見せる。それらの写真とは笑顔と中立的な顔と怒った顔の三枚である。そしてその後フルーツ飲料を自分で好きなだけ注がせるという実験である。その結果は笑顔を見せられた人たちは、それ以外の人たちに比べて50%ほど多くフルーツ飲料を自分のグラスに注いだという。比較的信頼のおける学術誌に掲載されたであろう(そうでないとギャバード先生も引用しないであろう)この様な研究もあれば、ウィキペディアの記事に乗せられたような結果となった実験もあるわけである。ただ一つ言えるのはこうだ。私たちが思ったほどサブリミナル効果は発揮されない。

  私はこの文章を書いていて、フロイトの理論を思い出す。フロイトは夢において極めて特徴的なプロセスが働き、いくつかの単語が組み合わさるといったいわば化学反応のような現象が脳で生じて、それが症状として表れるという説明を行った。しかしそれは最近のサブリミナルメッセージの研究の一つと似ている。例えば歌に組み込まれたバックワードメッセージ(逆に再生すると現れるメッセージ)が効果を発揮するという研究もある。こんな例を考えてみる。「ルイテレワノロハエマオ」と聞いた人が、なぜか背筋がゾッとする。それはこれを逆向きに読むと「お前は呪われている」となり、しかし無意識はその様なパズルを解き、ヒヤッとするという理屈だ。しかしこのような効果は十分に検証されてはいないようだ。

2021年12月22日水曜日

偽りの記憶の問題 14

  ショウの本はこれから洗脳、サブリミナルメッセージの問題へと進むが、なぜかあまり詳細に触れてはいない。初めに洗脳についてであるが、著者はどうも洗脳 brain  washing という言葉を回避したがっており、むしろ感化 influence という言葉を選んでいる。そしてそれは何も催眠のような特殊な方法を必要としているわけではないという。それは日常的に起きているものである。私たちはよく、「自分は洗脳などされていない」と思いがちである。しかし私たちはこの国に生まれて、ごく普通に生きているだけで、すでにたくさんの考えを植え付けられ、信じ込んでいるものだ。例えば私は無宗教だが、●●教の信者に彼らの信じていることを話してもらえば、彼らのことを一種の洗脳状態が起きていると見なすかもしれない。しかし●●教の側から見れば、私の方が明らかに無宗教という形での洗脳の犠牲者になっているように思えるだろう。いや、宗教などを持ち出すこともないかもしれない。例えば私たちが属する学派などはその例かも知れない。私は××(どちらかと言えば)学派に属するわけであるが、▽▽学派に属している先生の気持ちはわからない。ところが向こうはこちらのことを同じように考えているであろう。一つ確かなことは、私たちはある環境である考え方を取り入れ、それをかなり頑強に守るという傾向がある。それは何となく信じている感じでも、それをいったん変えようとするとかなりの抵抗を自分の中で感じる。つまりこれは一種の信じ込み、洗脳のレベルと考えてもいいのであろう。私は時々人はなぜこれほどまで自分の考えを変えないのかと不思議に思うことがある。もちろん私自身も含めてだ。ある時AM真理教の元信者がインタビューに応じるのを見たことがある。彼は今でもM教祖様との間柄について問われると、陶然とした表情になり、いかにM様に救われたか、いかに自分を分かってもらえたかと話す。つまり洗脳状況ではある思想、思考は報酬系としっかり結びついているのだ。一種の嗜癖と考えてもいいだろう。ある思考は、それに関連した人間関係、知識体系を巻き込んでいて、全体がその人の快感につながっている。だからそこから逃れられないのだ。ではなぜその宗教や人に信心し、ほれ込むのか。それは恐らく非常に偶発的なものだ。たまたまその人との関係に嵌まり込み、そこで快感を体験すると、そこから抜け出すことが出来なくなっていく。それは人が恋愛対象を見つけるプロセスとかなり類似しているのだ。

 

2021年12月21日火曜日

偽りの記憶の問題 13

  睡眠学習が効果がないとわかってがっかりしたところで先に進もう。もう一つ本書で問題にするのが、「催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか」というテーマだ。こんなことを自らに問うてみよう。「催眠にかけることで、人はその人の埋もれた記憶を取り戻すことが出来るだろうか?」想像してみよう。非常に有能で経験豊かな催眠術師がAさんに深い催眠を掛けると、彼はたとえば子供時代のあるエピソードについて滔々と語る。そんなことが起きるだろうか?私自身にも問うてみる。うーん、何となくありそうだなあ。実際この章の本によれば、アメリカの大学生の44%はそのような現象を信じているが、その実証性はなんと、「ない」そうなのだ。そうか、私の認識もアメリカの大学生のレベルだったのだ。精神科医失格だな。そして最近の催眠の研究はもっぱら痛覚刺激を小さくした、タバコを止められた、過敏性大腸症候群などが改善したなどの研究に限られているというのだ。
  ショウの本はこれからさらに催眠の話に入っていくわけだが、私にはだんだんわからなくなってきたことがある。例えばこんなことが書いてある。


   1962年の研究で、ボストン大学のセオドア・バーバーが発見したのは、幼児期まで退行するという暗示をかけられた被検者の多くが、子供の様なふるまいをし、記憶を取り戻したと言い張ったことだ。しかし詳しく調べてみると、その「退行した」被検者が見せた反応は、子供の実際の行いや言葉、感情や認識とは一致しなかった。バーバーの主張によれば、被検者たちには子供時代を追体験しているかのように感じられたのだろうが、実はその体験は再発見した記憶というより、むしろ創造的な再現だった。同様に、心理療法中、暗示的で探るような質問に催眠術を組み合わされると、複雑で鮮明なトラウマの過誤記憶が形成される可能性がある。

  なぜこの数行の文章が悩ましいか? 考えてみよう。退行催眠が可能な人のいったい何人にDIDの人が混じっている可能性があるだろうか?そもそも催眠にかかりやすい人とは、結局解離性障害を有している人という事はないだろうか? 誰かこの疑問に答えてくれないだろうか?


2021年12月20日月曜日

偽りの記憶の問題 12

 .138には面白いことが書いてある。2011年、アメリカ小児科学会は、2歳以下の子供には画面を全く見せるべきではないと明言しているという。この画面にはタブレットもテレビも含まれる。実際言葉の力も画面を見る時間が長いほど遅れが目立つという驚きの研究もあるそうだ。このことはミラーニューロンのことを考えれば納得がいく。ミラーニューロンでは例えば母親が発した言葉と自分のおうむ返しをした言葉の微妙な差異をキャッチして修正する出だろう。あるいはニューラルネットワーク的に言えば、ディープラーニングは相互のやり取りを通してしか学習していけない。一方向性では意味がないのである。
 次のテーマは睡眠と記憶との関連である。これも大きなテーマだ。
 まず定説となっているのが「アクティブシステム固定説active system consolidation theory」これは徐波睡眠中に、記憶が強化されるというものだ。これは必要なシナプスの結びつきを強め、余分なものをなくすという意味では、刈り込みpruning なのだという。そしてそこで重要な役割を持つのがグルタミン酸であるという。これはカルシウムの入流を導き、細胞を活性化する。これが睡眠中に起きるが、あまりカルシウムが入りすぎると例のアポトーシスを起こす。ところが睡眠を十分にとることで、この過剰なグルタミン酸の生産が抑えられるという。ン? 睡眠によりグルタミン酸が放出されるが、十分睡眠をとることでグルタミンの過剰な放出が抑えられる? 睡眠とグルタミン酸の関係も微妙なようである。
 その後ショウはこれまでさまざまな形で論じられることの多かった「睡眠学習」について、その存在を示すような実験結果は何も得られていないという。睡眠中に流しっぱなしにすると語学が学習できる、などの触れ込みの教材などを耳にしたことがあるが、結局それらは科学的な根拠がないという事になる。 

 

2021年12月19日日曜日

偽りの記憶の問題 11

  昨日の続きだ。こんな実験があるという。ある架空の事故について説明し、それが広くテレビニュースやネットで流されていると伝え、その映像を見たことがあるかと尋ねる。するとHSAM29%、非HSAM20%が実際にそれをテレビで見たことがある、という過誤記憶を報告している。これは人がいかにうそを信じやすいか、という話ではなく、記憶の生成そのものがそのような過誤記憶を生み出す性質を持つからであり、HSAMの人々はその力が強いために過誤記憶もより多く生み出すということだ。
 この記憶のメカニズムについては、コリンズとロフタスによる「活性化拡散モデルspreading activation model」というのがあるという。要するにある単語や概念が四方八方に連なっていて、そのうちの一つが興奮すると周囲にその影響がいきわたり、周囲を活性化させるというモデルである。ショウの本に出てくる挿絵をここに示す。

 

要するにHSAMの人たちはこの蜘蛛の巣状の結び目が極めて太いということであろう。

次に本書はサバンについても触れているが、これはHSAMとかなり違う。というか逆の性質を有する。HSAMの人々は個人的な記憶が異常に優れているが、事実や情報などは普通である。ところがサバンは個人的な記憶ではなく、事実と情報に限られる。うーん、確かに逆だ。こうして二つの超人的な記憶のパターンが紹介されたが、がっかりすることに、結局は彼らの異常なほどの記憶力の秘密は解き明かされていないということだ。
 この章では興味深い記載を見つけた。PTSDについてである。この病気ではいわば忘れられないトラウマ記憶にさいなまれるわけであるが、それ以外にも記憶の問題がみられるという。PTSDの患者さんと一般人に記憶力テストを行うが、その際一連の単語を見せた後、それを覚えておくか忘れるかを指示される。すると、患者さんの方が記憶できた単語数が少ないという。ところが興味深いことに忘れるように言われた単語は逆に余計覚えているという所見も明らかになったという。つまりPTSDでは「忘れる」能力が低下しているということなのだ。

 

2021年12月18日土曜日

偽りの記憶の問題 10

  101ページあたりにある、「ファジー痕跡理論 fuzzy trace theory」というのも興味深い。記憶には要旨的な要素と逐語的な要素がある。例えば私たちの多くは人の名前を思い出すことが難しいだろうが、Aさんのことについていくらでも記述が出来ても、肝心のAさんという名前が思い浮かばない。前者は要旨的gist、後者は逐語的 verbatimだ。そしてこのような解離が起きることが、これらの両者の記憶は別々に貯蔵されるという事を意味しているのだという。これはよく分かる説明だな。そしてこれらが別々に保存されるという事が、両者が誤って結び付けられることの原因の一つでもあるという。
 さて第4章の「記憶の魔術師たち」の章は,きわめて興味深い、超能力的な記憶力を誇る人たちの話だが、その内容もさることながら、私は自分の記憶力の悪さについて一つの洞察(言い訳?)を得た。それは忘れるというのは偉大な能力であり、私は一度記名したことを消去する力が非常に優れているという事だ。
 まあそんなことを考えさせてくる例として、いわゆる超記憶に悩む人たちの話が出てくる。この本ではそのような超記憶を、いわゆるハイパーサイメシア、エイデティカ―、サバンの三種類に分けている。二番目のエイデティカ―は、いわゆるフォトグラフィックメモリーのことであるが、ここは省略する。
 最初のハイパーサイメシアについてであるが、AJという人は、過去の出来事を何年何月何日というレベルでことごとく語ることが出来、それは彼女が詳細につけている日記によってその正しさが証明できるというのだ。研究者たちはこれを「ハイパーサイメシア」(超記憶症)ないしHSAM (highly superior autobiographical memory)名付けた。そしてこのような桁外れの能力は現在では世界中で少なくとも56人が確認されているという。
 さてこのメカニズムを説明するためにペンフィールドは大胆な理論を提出したという。それは脳の中にはPCみたいな装置があり、すべてを記憶している部分があり、私たちはそれにアクセスできないというものだ。HSAMの人たちはたまたまそこにアクセスするカギを持っているからそれが可能だという事になる。しかしこの理論は今ではあまり受け入れられていないという。さてここからが面白いのだが、彼らはHSAMに過誤記憶を作ることがどれほどあるかを調べたという。ある話をし、あるいはある映像を見せ、後にその詳細について尋ねる。そこに誤ったものが含まれると過誤記憶というわけであるが、HSAM群は非HSAMよりも不正確な細部を受け入れる傾向が強かったという!!

2021年12月17日金曜日

偽りの記憶の問題 9

 96ページあたりに出てくる「連想活性化 associative activation」の記述も大切だろう。要するに記憶は、ある事柄からの連想という形で活性化されていくという事だ。この事柄のつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶが、似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。私がパリという言葉を思い出すと、30歳の頃から留学した一年間の出来事がザザーッと流れてくる。そのうちの一つ、例えばパリにいた5月のヨーロッパ旅行のノードについて思い出すと、そこからザザー。パリの時には思い出すこともなかった、ミュンヘンの街角の喫茶店で食べた、クリームてんこ盛りのケーキのことまで思い出すのだ。そして97ページ目に重要なことが書いてある。連想活性化については、符号化encoding と想起recollection の二つの時点で過誤記憶を生むという。前者は要するに覚え込むという事、後者は思い出す、という事だ。この本にはいい例が載っていないので、私が作ってみると、「ある日焼けをしたいかつい肉体労働者が工事現場でミスをした部下を怒鳴りつけた」という話を覚えてもらって、後に想起をしてもらう。その際その肉体労働者はひげを生やしていたかに、イエスと答えた人が多数いたとしよう。ところが実はその肉体労働者は若い女性だったこともありうる。しかしその符号化の時点で、被検者はそのいかつい肉体労働者が男性であるという思い込みと共にそれを覚え込んでしまう可能性がある。(あまりいい例ではないか?)しかし私が言いたいのは「過誤記憶」はこの連想活性化という強力な心の働きのマイナス面でもあるという。

このあと98ページあたりに出てくるエングラムたちのパーティのシーンが秀逸である。要するにエングラムはパーティに出席して次々と新しい友達を作ろうとする人の様だという。「人間と同様、記憶の断片は新しい結びつきを作ろうと、他の記憶の断片を積極的に探す」

そしてその新しい結びつきこそ、創造的、芸術的な事であり、新しい思考を生み出し、複雑な問題を解決することが出来るという。しかしそれは過誤記憶の原因ともなるのだ。でもこれは夢を見ている間も盛んに起きているのではないであろうか?

 

2021年12月16日木曜日

偽りの記憶の問題 8

 引き続きショウの本を読み進める。

P84あたりに、例の再固定化の話に関連する話題が出てくる。ラットにある音を聞かせたのちに電気ショックを与える。その際に扁桃体にアニソマイシン(タンパク質合成阻害薬)を与えるとその条件反射が形成されない。ところがその薬物を用いることなく、通常の条件反射が出来たラットに例の音を再び利かせ、その時にアニソマイシンを扁桃体に与えるとその記憶が消去される。つまり思い出すという事は、その記憶が一時的に不安定になるという例の話だ。しかし以前に書いた喜田先生たちの研究との違いは、恐怖記憶を310分の間思い出させることで消去に向かわせる、というのではなく、そこにアニソマイシンという薬物を用いているという違いがある。

91ページあたりの記載が興味深い。海馬に場所細胞という細胞がある。ある特定の場所に来ると興奮する細胞だ。例えばネズミが檻の右端に来ると興奮する細胞が海馬にあり、「今右端にいるよ」と教えてくれる。その場所細胞に刺した針から電気が拾えることになるから、そこの興奮が分かる。これによりネズミは今自分がどこにいるかを知る。さて次にネズミに夢を見させ、たまたまその細胞が興奮した時に、(つまり檻の右端にくる夢を見ている、という事だろうか)快感中枢に刺した電極を刺激し、心地よさを体験する。その様な処理をされたネズミは、起きた後に、その檻の右端に行くと気持ちよくなるので、いつもそこに行くという事になる。この実験では、夢を見ているネズミの場所細胞が興奮した時に不快な電気刺激を与えると、今度はその場所に近づかなくなってしまうというわけだ。

これらの記載の中で私がいつも理解しては忘れてしまうオプトジェネシスの説明が書いてあったので、そのうち復習してみよう。

2021年12月15日水曜日

偽りの記憶の問題 7

 ジュリア・ショウの好著「脳はなぜ都合よく記憶するのか」を読み始めて59ページ目に目から鱗のことが書かれていた。

記憶に関してよく出てくる「ヤーキーズ・ドッドソンの法則」というのがある。いわゆる逆U字カーブの話だ。

簡単に言えば、私たちは覚醒度が低すぎても高すぎても記憶力を発揮できないということだ。適度の覚醒度が一番効果があるというわけである。しかしそれはすべてを説明しないという。マーラ・マザーとマシュー・サザーランドは、覚醒度が高まると、重要性の高い、あるいは印象的な情報の記名は高まると同時に、重要度の低い情報の処理が抑制されるという事が分かったという。つまり「情動換起下で情報の淘汰が進む」というのだ。その例として、銀行強盗に出くわせば、自分を狙っていた拳銃のことはしっかり覚えていても、他のことはまず思い出せない。本当は銀行強盗の顔を覚えておかなくてはならないのに、そうはならないというのだ。それを「凶器注目効果 weapon-focus effect」というらしい。結局こういうことが言える。私たちは印象深い出来事をそれだけ正確に覚えているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろその出来事の些末部分は偽りの記憶化するというリスクを有しているのだ。

 

 


2021年12月14日火曜日

学ぶこと 4

 B. 離脱のプロセス

私は以上のプロセスを「取り入れのプロセス」として描いたが、それはあなたがおおむねその教育機関での方針を受け入れ、実際に取り込んでマッサージ師になっていくだろうからだ。しかし次に論じる「離脱のプロセス」はこの「取入れのプロセス」においてはすでに静かに始まっていた可能性がある。
 先ほどすでに述べたことだが、あなたは教育マッサージを受けつつ、その上級者のマッサージのやり方をそのまま受け入れるとは限らない。というのもその上級マッサージ師とのすれ違いが、より頻繁に起きるかもしれないからだ。「そこ、もっと力を入れてやってくれませんか?」とあなたは要求するかもしれない。すると上級マッサージ師は「わかりました。ではそうしてみましょう」と言うかもしれないが、「いや、ここはこのくらいがいいんですよ。私の経験上そうなんだから」と言うかもしれない。また教育マッサージ師が次のように言ったとき、あなたの反応は込み入ったものになるだろう。「今は少し痛いかもしれませんが、きっと後で効いてきますよ。」「本当は気持ちいいはずですよ。あなた自身がそれに気が付かないだけです。」何しろあなたはそれを受けている張本人であるから、「どうしてあなたに私の気持ちがわかるの?」と疑問に思ってもおかしくない。
 そのような対応を何度か受けるうちに、あなたはもう少し教育マッサージ師にチャレンジしてみたくなるかもしれない。「そこの部分はもう少し優しく揉んでほしいといつも言っているのに、どうしてやり方を変えてくれないんですか?」あなたが少しきつく教育マッサージ師に不満を言うとすればそれなりの訳がある。というのも教育マッサージでは、それを受ける側は、心に浮かんだことを何でも言っていいということになっているのだ。しかしあなたは少し躊躇する。そして心の中でいろいろ考えるのだ。「この教育マッサージ師には随分お世話になったし、あまり文句ばかり言って機嫌を損ねられても困るから、このくらいにしておくか。それに狭い業界だから、これからお世話になることもあるし。」あるいは次のように自分に言い聞かせるかもしれない。「しかし待てよ、ここで教育マッサージ師ととことん問題のありかを明らかにすることが、自分がこれからマッサージ師として独り立ちをする上で大事かもしれない。」気が付くとその教育マッサージ師とのかかわりは5年に及んでいる。そろそろ潮時かもしれない。それに私もマッサージ師として随分自信もついてきたし。
 おそらくこのプロセスはこれまでの取り入れや受容のプロセスとはずいぶん違うことになるであろう。私はこれを離脱のプロセスと表現するが、それはいくつかの形をとる可能性がある。一つにはあなたが「この先生にはもう何を言っても通用しないな」とその上級マッサージ師を心の中で見限る場合があるだろう。そしてこれはかなり平和的に行われる可能性がある。あなたは上級マッサージ師の先生にあまりそれ以上ダメ出しをせず、静かに教育マッサージの過程が終了するのを待つかもしれない。もちろんそこにはその先生に対する不満ばかりが残るわけではない。ここまでよく体をほぐしてくれた、おかげで自分は生まれ変わったという感謝の気持ちもあるのが普通ではないか。
 しかしもう一つの離脱の仕方は少し荒波が立つようなやり方かもしれない。それは「私が本当に目指しているのは、先生のやり方とは少し違ったやり方です。それがようやくわかりました。私はこれからは別のマッサージ師について修業します。」という、一種の決別や喧嘩別れといった形をとるかもしれないのである。
 このあたりからマッサージの比喩にも限界があるので、実際の教育分析に即して考えたい。教育分析の場合には、あなたの体のどこが凝っていて、それが教育マッサージ師によってどのように揉みほぐされていくかということが中心テーマではない。あなたが分析家に自分自身のことを本当にわかってもらえて、受け入れられていると感じることができ、的確な指摘や解釈を与えてもらい、そしてカウチの上でできるだけ抵抗なく話すことができるようになるかどうかが最も重要な問題である。とはいえこれは教育分析であるため、そこには治療と同時に教育やガイダンスのニュアンスも伴っていることを、あなたもあなたの教育分析家も互いに前提としつつセッションが行われるはずである。そして最初は教育分析家の言動を「自分がクライエントを扱う際の見本」として体験しているかもしれないが、そのうちそれどころではなくなる。この人は私とどうかかわっているか、信用するに足る人間なのか、自分の秘密をこの人に話して大丈夫なのか、などの問題の方がより重要になってくる。これはあなたが分析家との間で本格的な転移関係に入ったから、と言ってもいいかもしれない。そしてこれが離脱のプロセスの始まりである可能性がある。
 教育分析家がいかにかかわってくるかという問題が非常に重要なのは、それがあなたの気分をかなり大きく左右するからである。週に4回ないし5回のセッションを受け、それなりの対価を払うというプロセスにおいては、分析家はあなたがかかわりを持つ人間関係の中でかなり大きな部分を占めることになる。あなたは分析家に依存的になるかもしれず、また理想化の対象とするかもしれない。すると自分の人生について話すことで、分析家の頷きやコメント、直面化、ないしは解釈の一つ一つが特別な意味を持ってくるはずである。当然のごとく、分析家の一言に反発したり、疑問を呈したりということが出てくるだろう。そしてそれが分析でどのように扱われるかはその後の治療を左右するほど重要なことになるだろう。
 あまり抽象的な話になってもよくないので、もう一つ例を挙げよう。私は自分自身の分析の体験で、分析家の言ったことにかなり不満を覚えたことがある。ある時「自分に自信が持てないというのは私だけの問題でしょうか。先生は同じような訴えをほかのクライエントからも聞きますか?」と問うた。私は分析家に質問をぶつけることは少なかったので、これは明らかに例外的な出来事だったのだが、よほどこのことを分析家に直接訊ねたかったのだろう。そしてその時分析家の言ったことをはっきり覚えている。「ほかの人がどうか、ということは問題ではないのです。あなたがどう体験しているか、というあなた自身の問題としてここで扱うことに意味があるのです。」
 私はこの分析家の言い方にかなり抵抗を感じ、分析家に「今の言い方にはちょっと納得できません…」と言ったと思う。そのあとのことを私ははっきり覚えていないので、おそらく大きな問題としては発展しなかったのであろうと思う。そして私の分析家の応答の仕方は私を納得させるか、あるいは引き下がらせるのに十分なものであったのだ。しかし分析家の応答の仕方によってはここから大きな対立に発展したという可能性もある。もし私がこの「それはあなた自身の問題であり、ほかの人のことは関係ない」という返答の仕方に一種の不誠実さや欺瞞を感じたとしたら、もう少し食い下がったのではないかと思う。そしてここでとても大事なのは、この種の齟齬に誠実に向き合ってくれるかどうかでその分析家の度量の大きさがわかるということである。幸い精神分析ではクライエントは何を言っても許されることになっている。不満や憤りは抑えられるべきものではない。もちろん分析家だって教育分析家になれば、クライエントからの攻撃性の表出には慣れているし、覚悟ができているはずである。そしてこの分析家への不満や考え方の齟齬はゆっくり治療の中で扱われていくのである。私がこの問題でいかに分析家と対決してそれなりの解決を見出したかはこれ以上は触れないが、少なくとも私の分析家ドクターKはそれに根気強く付き合ってくれたことだけは確かである。
 私は精神分析においていろいろな対決が生じる場面としては、教育分析よりもスーパービジョンの方が多いような気がする。そこではあるケースをめぐってあなたの考え方とバイザーの考え方に違いが生じる。そしてそれはあなたがどの程度治療者として自己を確立しているかということにかなり大きく関係している。そこで生じうるのが、私が最初の例で示したような事柄である。あなたはAという扱いをしたが、バイザーはBとすべきではないかと提案する。そして両者がなかなかかみ合わなかったりする。あなたは結局BではなくAを選ぶことになるかもしれないが、それはそのスーパービジョンを継続することに意味があるのか、という問いにも発展するかもしれない。私もそのような体験をしたことがあるので、その経緯を述べたい。(以下略)

2021年12月13日月曜日

学ぶこと 3

 A.取入れのプロセス

教育分析のプロセスがはじめは取入れのプロセスであることは論を待たないであろう。その分野において初心者である場合には、教えられたことはなんでもその通りに取り入れるということは、むしろ安全で確実なことであろう。
 ここからは一つ比喩を思い浮かべよう。貴方がマッサージ師になりたいとする。調べると自宅近くに「分析的マッサージ養成所」という不思議な名前の付いた養成所があったので、そこに入会することにする。そこでは、自分が指導を受けつつ人に施術を行うというトレーニングとは別に、「教育マッサージ」というのを受けなくてはならないという。それは上級のマッサージ師(「教育マッサージ師」という資格を与えられている)に実際にマッサージをしてもらいながら学んでいくというシステムだという。自分の体のケアをしてもらいながら、他人の体のケアの仕方を学ぶ。そこには「マッサージをする人は、される側の体験を持つべきである」という基本精神も謡われており、それはとても理屈にかなっているように思える。
 あなたはともかく「教育マッサージ」を受けてみる。週4回、50分というのはきついシステムだが、幸い料金が安いので受けることにする。まずあなたは「教育マッサージ師」に
体のどこが凝っているのかを聞かれる。ここで「どこも凝っていません」とは言えない雰囲気である。「自分の体の凝りを否認し、抑圧している」などと言われかねない。それにこの「分析的マッサージ養成所」に入所した時、「まずは自分の体のどこがどのように凝っているかを知るところから、真のマッサージ道が始まる」というような講義を聞いたことがある。さらに本当に体のどこも凝っていないかと自問すると、自信がなくなってくるものだ。そこでちょうど腰のあたりが少し凝っている気がしてきたので、そこからほぐしてもらうことにする。こうして週4回の「教育マッサージ」は始まるが、それはどのように進んでいくだろうか?

 あなたは上級のマッサージ師に体を揉んでもらううちに、多少なりとも凝っているところがいくつかあることを自覚する。そして「ああ、こうやって揉んでもらうと楽になるのだ」という体験を幾度となく持つだろう。どのような揉み方をしてもらえば痛くもなくくすぐったくもなく、ちょうど「いた気持いい」のだ、ということを学び、自分もそのようにマッサージを客に対して施してみようと思う。またその上級マッサージ師の客扱いのマナーや客への声のかけ方なども、実際にされていろいろ参考になる。というよりは最初はそれ以外のやり方はありえないと思うかもしれない。そして少し遅れて始まる実際のお客さんを相手にした訓練でも、自分がマッサージをしてもらったのと同じようにお客さんにすることになるだろう。
 ただこの比喩を続けると、あなたはおそらくその教育マッサージ師からは、学ぶことだけではないであろうことが分かるだろう。その教育マッサージ師は教師であるとともに反面教師でもありうるという事がやがてわかってくるはずだ。実際身体を揉んでもらっていても、「それちょっと違うんじゃないかな?」と思うことも増えてくるかもしれない。最初は教育マッサージ師のマッサージの仕方はどれも正解だと思っていたが、少しずつ疑問がわくようになってくるのだ。それにマッサージを自分自身でも施術するトレーニングが進むにつれて、「ここは自分だったらこうするな」と思うことも増え、また上級のマッサージ師は案外迷いながら、手探りでマッサージをやっているんだな、という事もわかってくるだろう。
 さてあなたは教育マッサージを受けつつ、自分自身もお客さんを取って低額でマッサージを施すことになる。これには「コントロールケース」と呼ばれるそうだ。こちらはどうなっているだろう? このコントロールケースはあなたがお客さんにどのようなマッサージをしたかを上級のマッサージ師に報告して、ここをこうしたらよかった、などの助言を聞くことになる。これがマッサージ・スーパービジョンと言われる。そしてこのコントロールケースを無事二例継続して行わないと、訓練の過程を卒業できないという。そして途中でマッサージに来なくなってしまうと、最初からやり直しというシステムもあるそうだ。もちろんこれはこれでとてもあなたにとって参考になるのだが、自分自身が受ける教育マッサージと、自分自身が施術するコントロールケースではある種の質の違いを感じることにもなる。

例えばあなたがマッサージ・スーパービジョンで、スーパーバイザーから「あなたはAという揉み方をしたが、そこはBという揉み方をするべきだった」という助言を受けることがある。あなたは実はそれについてあまり納得がいかないとする。しかしスーパーバイザーにそのように反論しても、「いや、お客さんの側からは、Bの揉み方が心地よかったはずですよ」と言われた場合、それで終わってしまうかもしれない。つまりその時のお客さんに詳しく確かめることが出来ないのである。ところが教育マッサージでは、何しろ自分がマッサージを受ける側なので、ある意味では正解を自分自身が知っていることになる。

こうしてあなたは教育マッサージとスーパービジョン付きのコントロールケースを無事終了し、そして週末に4年間にわたって行われるマッサージ理論を学んでその「分析的マッサージ養成所」の過程をすべて終了し、一人前のマッサージ師として巣立っていく。

2021年12月12日日曜日

学ぶこと 2

 

2.教育分析、またはパーソナルセラピーについて

次に私が話を進めたいのは、パーソナルセラピーを通して関係精神分析をいかに学ぶということであるが、これは実はかなり混み入ったテーマである。いわゆる「教育分析」という概念は、特に精神分析の分野ではかなり私たちに馴染みがあるはずだが、このプロセスで起きうることは実はとても複雑なのだ。

従来教育分析には、教育、指導する、という意味と治療するという意味が両方含まれていた。実際に自分自身がある意味では実験台になって、上級者にお手本を示してもらえるという意味では、実に分かりやすく効率の良い学び方と言える。人によってはこれこそが究極の学び方と考えるであろう。
 精神分析には、一つとても興味深い慣習がある。それは教育分析を受けた被分析者は、その分析家の学派に属するようになることが多い、というものである。もちろん例外はたくさんあろうが、いわば世襲制のようにある経験豊富な分析家が後継者を育てていくことをあまり疑問に思わない。それだけそのような例を私たちはたくさん知っているのである。
 例えば父親であるフロイトに分析を受けた(ただしそのことはあまり公にはされなかったが)アンナ・フロイトは、父親の死後は彼の精神分析理論の守護神のようになったことはよく知られる。あるいはメラニー・クラインに分析を受けたハンナ・シーガルやジョアン・リビエールは当然クライン派になるし、ウィニコットに受けたマスッド・カーンはウィニコッチアンと目される。フェレンチに教育分析を受けたバリントはフェレンチアンである。コフートに分析を受けた人たちでコフート派にならなかった人はむしろ例外的であろう。
 しかしこれがどうして当たり前の様に考えられているのかについては、一度問い直す必要がある。少なくとも私が考える限り、どのような治療スタイルを選択するかには、その人の性格や感受性、人生観などが大きく影響しているはずだ。○○派の先生に分析を受けたぐらいで簡単に○○派になれるものだろうか? 私の考えでは、ちょうど芸能や習い事の世界で弟子が師匠の後を継ぐように、精神分析の世界でも被分析家も分析家の後を継ぐような慣習がきっとあるのだと思う。少なくとも教育分析と言われる分析についてはその様なことが起きているのだ。
 でも私の考えでは、そもそも精神分析とはそのようなことが起きる場では必ずしもないはずだ。精神分析はある意味では分析家との対立であり、戦いであってもおかしくないだろう。戦い、対立を通して、被分析者は自分の進む道を見つけていくのだ。ところが教育分析では本来の分析とは異なる、一種の教育のようなもの、それは弟子が師匠の理論を引き継ぐという、いわば家元制のようなプロセスが生じる。そしてはある意味では馴れ合いも生じ、おそらくそれは純粋な心の探求というものとはかなり質の違うものとなる可能性がある。そしてこの馴れ合い的な関係は教育分析ではない、一般の分析においてもある程度は生じる可能性があるものと思われる。

2021年12月11日土曜日

学ぶこと 1

 半年ほど前にまとめたものを正式な文章にすることになった。

精神分析を学ぶという事                           

  

1.まずは「学び」、そして「学びほぐし」という事

  私が臨床家や心理を学ぶ学生から問われるのが、「心理療法や精神分析をどのように学ぶべきか?」という事である。本稿ではこの本質的でかつとらえどころのない問いについて、私の個人的な体験を交えて考察を加えたい。ちなみに私はかつて2017年秋の日本精神分析学会の「精神分析をいかに学んだか」という企画で、「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というタイトルで発表し、その発表の内容が論文化されたという経緯がある。そこで書いたことを復習しよう。以下はその発表の内容である。

  かつて精神療法の技法論についてのセミナーで、何人かの講師とともに話をしたことがある。その時あるテーマが議論を呼び起こした。それは「患者からのメールにこたえるべきか」、という類の話題であった。そのセミナーは複数の講師が担当していたが、講師によりその問いに対する答えが異なっていたらしい。ここで「らしい」というのは前の講師が話を終えて帰るのと入れ替わりで私が話をしたので、その講師も私もお互いの講義の内容を聞いていないからである。

そのセミナーでは私が「そのメールに答えるべきである」というようなことを言って、別の先生が「答えるべきでない」と言ったのか、その逆だったかはわからない。しかしともかくも両方の言うことがかなり異なっていたということである。そしてそれを聞いていた聴衆の方から、後で苦情があった。講師が同じ質問に対して違う答え方をしたので混乱したというのである。

私はこの苦情のことを知った時一瞬「しまった、受講生を混乱させてしまった」と焦った。しかしその考えに対して、別の自分が突っ込みを入れているのを感じた。「ホラ、こここそ皆さんに学ぶという事の意味を伝えるときじゃないか。」と。そこで私はこの苦情について、次のような応答の仕方をした。

「異なる先生が異なる意見を持つというのは臨床場面では日常茶飯事です。そして異なる専門家が違う意見を言うという事は、そこにおそらく正解はないという事を表しているのでしょう。そしてこれからのみなさんの課題は、どちらの言い分がすんなり飲み込めるか来るかを判断し、ご自分で判断することです。もちろんどちらに決めなくてもいい場合も少なくありません。意見が分かれるのはほとんどがケースバイケースのことですから。そして断っておきますが、いかなる先生も、どちらが正しいかを教えてくれないという事です。」

そしてこのプロセスで重要なのがいわゆる「学びほぐし」のである。(ちなみに似ている概念として、フロイトの学習learning と事後学習after-learning という区別があり、少し関連性がある。)精神療法を学ぶためには、この「学びほぐし」が重要なのである。

そこでこの「学びほぐし」という言葉について説明しなくてはならない。この言葉は、哲学者である故鶴見俊輔さんがかつて作った言葉である。彼が若いころにヘレンケラー女史と面会をした際、彼女が自分は「沢山学んでは脱学習しました I learned a lot and then unlearned them」と言ったのを聞いて、即座に鶴見先生の頭には「学びほぐし」という言葉が浮かんだのだという。ちょうど編まれたセーターの毛糸をほぐして自分自身のセーターを編む、というニュアンスをそこに込めたようだ。つまり学びほぐしとは、いったん教わったことを改めて自分のものとすることだ。

 

 

 

そもそも物事を学ぶという事は「ABである」とか「●●はしてはならない」などのいくつかの決まり事を頭に叩き込むプロセスと言える。しかしそれを深く学んでいくうちに、「ABであるという教えはこのような根拠から生まれたのだ」とか「●●はしてはならない」とはあのような意味が込められていたのだ、と知ることで、逆に「でもABではないこともあるな」とか「●●はしていい場合もあるな」という考えが生まれ、これらの決まりごとが常に正しいわけではないことが分かってくる。そこから先は「いつ、どんな状況でABなのか?」とか「●●してもいいのはどんなときか」という自分にとっての判断の基準を作っていくというプロセスに入っていくべきであり、それがこの「学びほぐし」だと言える。

ではそもそもどうして学びほぐしが必要かと言えば、ある理論はそれを作った人思い付きや気まぐれがかなりの部分を占めているからだ。ここではとくに精神分析を考えよう。

フロイトの理論には素晴らしい概念や発想と、彼の誤りや気まぐれの産物ではないかと思えるものが混在している。フロイトは天才だったが、天才はいくつもの真実を発見するだけではない。いくつものミスショットもあるのだ。霊能力者と言われる人たちでも、その発想や直感のいくつかは真実であってもその他の多くが誤っているものであるが、それと似ているのだ。そしてフロイトの理論の中にも、無意識や転移や抵抗と言った優れた概念もあれば、リビドー論、死の本能などのように、後世の分析家にあまり受け入れえられなかった概念もある。そしてその中間にある多くの概念は、それが当てはまるかどうかはケースバイケースとしか言えないものもある。例えば「人間は想起する代わりに反復する」という言葉も、素晴らしい考え方ではあるものの、例外もまた見出すことが出来るというわけだ。

フロイトが治療原則として掲げた、匿名性とか禁欲原則、受け身性なども、同様である。これらはどの患者との治療においても守らなくてはならないものではなく、相対的なものであり、ケースバイケースであるということを、グレン・ギャバード先生がそのテクスト「精神力動的精神療法」の中で喝破している。だからフロイト理論を学ぶことは、必然的にその理論のどれを自分のものとするかにおいての取捨選択がどうしても必要になるのである。

 

さて学びほぐしは、師弟関係でも、バイザーバージ―関係でも起きる。フロイト全集を何度も読んでまずは学び、それを学びほぐしていくことはできるが、多くの場合私たちは実在する師匠やバイザーとの交流の中で何かを学ぶ。そしてその学んだものをほぐしていく過程で、彼らとの一種のバトルは必然的に起きてくる可能性がある。そのことを次に論じたい。

2021年12月10日金曜日

偽りの記憶の問題 6

 という事でこれからは少しずつこの本を読んでみる。と言ってもキンドル版なので書き込みも出来ず不便だが、流し読み程度ならできる。P.401あたりには、1994以降のSpanos らの研究があり、被検者は自分たちの眼球運動や視覚的探究の能力が高く、それは生まれた病院にカラフルなモビールがつるされていたからだ、と伝えた。これはもちろん嘘の話だが、今度はその被検者たちに年齢退行催眠を施し、生まれた時のことを「思い出させ」たという。すると51%の被検者がカラフルなモビールのことを「思い出せた」、という結果が得られたという。

という事でこの本を読み進めようとしていたら、新たな事実が発覚。実はこの本には日本語訳があり、私はこれをすでに持ってパラパラとは読んでいたのだ!!!

そこで今後はこれを読み進めていくことになる。日本語だから助かる!


2021年12月9日木曜日

偽りの記憶の問題 5

  さてトラウマ記憶を想起させると、その時間に応じて3つのフェーズに分かれるらしい。再固定化期(最初の1分)、移行期、消去期(3から10分)である。大切なのは、再固定化も消去も、タンパク合成が伴うという事だ。つまりはシナプスを工事しなくてはならない。(忘れると言ってもただで忘れていく、というわけではないのかもしれない。例のエビングハウスの曲線も、ただダラダラと下がっていくのではない???ここら辺は私にもよくわからないが、まあ先に進もう。)そのことはタンパク合成を阻害する薬を注入すると、再固定化も消去も両方とも阻害されるからだという。ちなみにタンパク合成が行われるのは、再固定化なら扁桃核と海馬であり、消去は扁桃核と内側前頭前野だという。
 ところで私はこれを先述の論文を参照しながら書いているが、ここら辺までは追えたが、論文はさらに難解になって行ってこれ以上読み進められなくなったのでこのくらいにしておく。ともかくも記憶が増強されたり、逆に薄れたり、というメカニズムは結構込み入っていて、これから解明されなくてはならない点は多いが、かなり治療に直結した重要な研究であるという事である。

 ところで私が書こうとしているのは「偽りの記憶」についてのものだが、この再固定化や消去という現象はそれと関係しているのだろうか?一つ言えるのは、ある記憶が再固定化を繰り返した場合に、その内容にどのような変化が起きるのか、という問題が関係しているであろうという事だ。例えば記憶内容は「コンビニにコーヒーを買いに行った」だとしよう。その記憶が増強されていったら、その記憶にいろいろな尾ひれがついていくのであろうか? 例えば実際にコンビニにコーヒーを買いに行った場合、コンビニに行く途中で体験したこと、コンビニでほかに手にした商品についての記憶なども一緒に覚えているであろうが、だんだんエビングハウスの曲線に従って忘れていくであろう。ところが「コンビニにコーヒーに行った」という事だけが再固定化されて増強していったら、途中で見たものなども一緒に残っていくのか、それとも「新たな尾ひれ」が付け加わるのか。想起されるのがコンビニにコーヒーを買いに行ったことだけであるなら、それが生々しく保存する際にはその周辺部も必ず一緒に思い出される筈である。するとそれが新生されてしまうことはないのか。おそらくこの辺が偽りの記憶とも関係しそうである。なぜならロフタス先生をはじめとするFMS派の先生方の実験は結局は子供に架空の話を何度か教示することでそれが定着してしまうというパラダイムに従っているからだ。

2021年12月8日水曜日

偽りの記憶の問題 4

 昨日は東大の喜田グループの最新研究の「まとめ」を私なりに書き直して示したが、読んでも分かりにくかったかもしれない。そこで私なりにさらにもう少しわかりやすくまとめ直してみる(と言っても自分でも十分に納得していないので、ちゃんとわかりたいからに過ぎないが)。
 まず私たちはある出来事を記憶する際、特に印象に残った記憶は海馬が強く働いてそれをよりしっかりと記憶にとどめる。しかしそれでも記憶は次第に忘れていくものだ。それを心理学用語で消去という。これは時間経過とともにいわゆるエビングハウスの曲線に従って忘れられていくと考えられる。この図に書かれた一番下の黒い曲線がそれに相当する。


これを見る限り、何と一日後には40パーセントくらいしか覚えていないが、繰り返し復習すると記憶の定着度が高まるというわけである。それが赤線部分が示すところだ。(ちなみに記憶した内容は一晩寝た後にはより多く定着するという研究がなされている。)つまりある印象深い内容は、最初に強く記名されるとともに、何度も思い出されることで「復習」という効果があり、それだけ定着していくというわけだ。そしてここでの記憶は一般的なものであり、トラウマ記憶に限ったことではない。例えば、辛い出来事、驚いた出来事以外にも、嬉しい出来事なども何度も反芻するから長く記憶に残るというわけである。

 ではトラウマ的な記憶はどうだろうか。すでに書いたように、いやな記憶は何度も反芻され、それだけ定着しやすいという事が言える。でも単に嫌な、怖い出来事、というだけでなく、PTSDで問題になるような明らかなトラウマ記憶はどうだろうか?

 トラウマ記憶は通常の記憶と異なる性質を有するという事が知られている。一番の特徴はそれが通常の記憶と異なり、いわば情緒的な部分が時空間的な情報の部分と別れてしまったものである。これについてはかつて「忘れる技術」という本を書いた時に、記憶は認知的(「頭」の)部分と情緒的な部分と情緒的(「体」の)部分の組み合わせであるという説明の仕方をした。前者は時空間的な情報の部分であり海馬で作られるが、後者は扁桃核や小脳で作られる。一般的な記憶はその両方を備えているのがふつうであるが、それが分かれてしまい、例えば体の部分のみになってしまったり、両者はバラバラに思い出されると言ったことがトラウマ記憶の特徴であると説明した。
 さてその上で喜田グループの研究である。彼らはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはあることを思い出そうとしないのに突然襲ってくる記憶である。それはトラウマ記憶として理解でき、つまり認知的部分と情緒部分が分かれてしまっていて、襲ってくるのは情緒的な部分のみである。それは自分でもよく分からないような何らかの切っ掛けで突然襲ってくる。その詳しいメカニズムは十分に分かってはいないが、一つたしかなのは、その記憶の想起の仕方が、その後その記憶がどの様な運命をたどるかに関係しているという事である。特に興味深いのは、トラウマ記憶は、そしておそらく記憶一般は、それを思い出すという事で一時的に「不安定」になるという事だ。不安定、とはそれがその後より強く記憶され続けるか、それとも忘れられていくかという選択肢を与えられるという事である。誤解を恐れず比喩を用いるならば、それまでパズルの一つのピースとして治まっていたものが、それを思い出すことでそこから外れ、それから先にどのような形で嵌っていくかが未定になるという事である。そして彼らが見出したのは、トラウマ記憶を思い出す時間が短いと、その記憶はよりしっかりと定着し(つまりそのピースはよりしっかりと嵌り)、思い出す時間が適度に長いと(例えば10分以上)それは薄れる方向に働く(つまりピースはサイズが小さくなったり、より外れやすくなる)という事だ。これを私はサラッと書いたが、実は臨床的にとても大きな意味を持つ。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。どうせ思い出すなら、安全な環境で10分以上思い出す必要があるという事だ。そしてひょっとしたらこのことは、EMDRがどうして有効な場合があるかとも関係しているかもしれない。EMDRではかなり時間をかけて個々のトラウマ記憶を想起し、作業を加える。それがその記憶の消去に繋がるのではないかという考えにも一理あるだろう。

2021年12月7日火曜日

偽りの記憶の問題 3

  この偽りの記憶の問題、実は解離を扱う立場からは少し異論がある。このFMSの立場からは皆さんは長い間忘れられていた記憶が突然思い起こされるようなことはないと考えるかもしれない。そして通常はそういうことは起きにくいのだ。ただし数少ない例外は、その記憶が解離されていた場合である。解離における記憶の保存状況は通常の記憶とは異なる。それはしばらく「通電」されることなく眠っていた神経ネットワークであり、そのまま冷凍されていたという印象を受ける。これは例えば幼少時のトラウマの記憶を持った人格が起きだして当時の記憶について語るといった状況に近い。この解離性の記憶が通常の記憶とどのように異なるかを少し考えてみよう。通常の記憶は想起されるごとにいわば解凍され再固定化される。つまりは想起されることに書き換えられるという事である。すると想起されない解離性の記憶は書き換えられることなく、より正確に保存される????? というのが私の憶測であるが、私が専門家として論文を書いたりする立場である以上は安易に断言できない。というよりはこの辺の曖昧さをもう少し明確化できるようになるという意味でも、この記憶に関する論文を書く意味はあるのかもしれない。

  ところで記憶の問題について考えるが、私が一番これまで興味を持っていたのは、記憶の再固定化の問題である。つまり一度記憶されたことがさらに増強されたり、変更を加えられたりするという現象である。これについては東大の喜田 聡先生のグループの研究が有名であるが、彼らの最新の研究を何とネットで拾える。その日本語の報告を私なりに読みやすくして以下に示そう。(私なりにかなり書き換えてある。)

Fukushima, H, Zhang, Y & Kida, S. (2021) Active Transition of Fear Memory Phase from Reconsolidation to Extinction through ERK-Mediated Prevention of Reconsolidation. The Journal of Neuroscience 41:1299-1300.

  恐怖記憶を思い出した後には、恐怖を維持増強する再固定化が起きるか、消去反応かに分かれる。そしてその決め手となるのが細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase; ERK)の活性化であることを発見した。ERKは再固定化から消去への分子スイッチとして働いていたのだ。

マウスを最初明箱に入れられ、暗箱に移動する際に電気ショックを受けて、暗箱に対する恐怖記憶を形成させた。この後、マウスが再び明箱に入れられると海馬、扁桃体、前頭前野で神経活動依存的遺伝子が発現し、再固定化が起きた。ところがマウスを暗箱に戻すと、一分以内では再固定化も消去も起きなかったが、そのときERKキナーゼの活性が起きていて、これにより再固定化が中止されたのだ。さらに10分入れると(消去のための???)遺伝子発現が起こることが分かった。一分でERKの活性化はキャンセルされた。さらに10分間滞在させると再び遺伝子発現が起こり始め、消去が起きることが分かった。すなわち、ERKの活性化を通じて再固定がリセットされることが示唆された。この分子スイッチの働きで、恐怖体験を思い出すだけでは震え上がることがなくなると言えよう。
 ERKの働きにより消去が起こりやすくなると考えられるため、PTSDの治療方法開発に貢献できると考えられる。

2021年12月6日月曜日

偽りの記憶の問題 2

 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。以下に日本語判ウィキペディアの「エリザべス・ロフタス」の項目からまとめてみる。

 ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきました。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのです。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになりました。これが記憶の再構成的モデルと言われるものです。」
 ところでロフタスとワシントン大学は、2003年ににより、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、そのケースであるタウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。
 ロフタスは「回復した記憶の理論」への批判および記憶の性質と保育園などでの性的虐待の可能性に対する社会的恐怖の一部に見られた虚偽の児童性的虐待の主張について証言したが、そのためにネット上などでの誹謗中傷を受けた。それによればロフタスが悪魔的儀式虐待またはより巨大な陰謀の一部であるこれらの犯罪を隠蔽する仕事をしていたと断じた。「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていた。
 ロルフ・デーケンは、著書『フロイト先生のウソ』にて、「『ほんの些細な暗示によって記憶が書き換えられてしまうことから考えても、過去の出来事の映像がそのままの形で記憶のなかに保存されているなどということはまったくあり得ない話である』と心理学者エリザベス・F・ロフタスは指摘している」(文庫版199ページより引用)という形で彼女の発言を引用することで、「心のどこかに、過去の体験の映像が完璧な形で保存されている?」というフロイト流精神分析学における無意識の存在の否定の根拠の一つとしている。
 スーザン・クランシーは、著書『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』にて、「記憶の研究における世界的な権威であるエリザベス・ロフタスは、実際には起きていない心的外傷体験の記憶をつくりだした人たちの事例を数多く研究している。」と紹介することで、アブダクション(地球外生命体、いわゆる宇宙人に誘拐されたとされる事件)が偽りの記憶であることを示唆している。

さてこうやってまとめているうちにいろいろ私の中にも考えが浮かんできた。一つにはロフタスの主張は概ねその通りであるという事だ。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。特に政治的な利用のされ方をした場合には、そうだ。それにこの文章に出てくるロルフ・ゲーデンの本を日本語訳で読んだが、かなり信頼できないものという印象であった。

2021年12月5日日曜日

偽りの記憶の問題 1

 暫く依頼原稿が途絶えていたので、のんびり「解離における他者性」などと60回以上も書いたが、また新たなる原稿を書かなくてはならない。「偽りの記憶」についてである。私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1990年代はずっとアメリカで臨床をやっていたのだが、これらの関心にワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマである。そしてあっという間にFMSF偽りの記憶症候群財団が出来上がった。ベタな言い方をするならば、米国人(もちろん欧州人も同じ傾向を持つが)は肉食系であり、物事をことごとくpolemic なものに仕立て上げる。そのことは新型コロナウイルスのワクチンを打つか打たないかという事でデモ行進や争いごとが起きるという事情を見れば明らかであろう。「え、そんなことで?」と私達なら思うようなことで彼らは意見を対立させ、訴訟を起こし合う。そしてFMSの場合もそれは同様だったのだ。それはこんな経緯で起きた。

幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされるとともに、幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる心理士やソーシャルワーカーが現れる。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。

2021年12月4日土曜日

解離における他者性 64

 そもそもAさんと会ったはずなのに、Bさんという人格が出現した場合、そしてどう考えても私たちはいつものAさんと会っているはずだと思えるとき(高さは違っても同じ声、同じ顔かたち、など)私たちはおそらく「あ、Aさんじゃなくて、Aさんの部分だ!」とは絶対に思わない。(もちろんBさんが次のような自己紹介をしたならまた別であるが。「こんにちは。私はAの中の聴覚部分を担当しているA”です。普段は表に出てきません。」と普段のAさんと同じ声で語り掛けるのだ。そこで「きのう話したこと覚えているの?」と聞くと「昨日起きたことの中で聴覚に関係することしかわかりません…。」という答えが返ってきて、ああ、この人格さんはAさんの昨日の一部を担当しているんだ。だから人格部分Bさんなんだ、と納得するだろう。あるいはBさんは体の左側しか動かせず、右の方が麻痺していて「私はAの左部分です」と自己紹介をするなどの場合も、Bさんはいかにも「人格部分」っぽいと言えるだろう。ところがしばしばBさんはAさんにとって異性のような声や仕草を見せ、しばしばAさんを嫌っていたりする。そしてBさんもちゃんと五感が備わり、考えや判断を下すのだ。それがむしろ普通だとしたら、Bさんを「人格部分」と呼ぶ理由などあるだろうか?

結論から言えばこうだ。ふつう私たちは交代人格さんをどのように理解したらいいかわからない。何と呼んでいいかもわからないのだ。しかしテキストブックには「人格部分」などと書いてある。そこでそのように呼び、それに慣れていくのである。


2021年12月3日金曜日

2021年12月2日木曜日

解離における他者性 62

 

人を部分と見なす、とはどういうことか?

 

部分と見なす、という表現を書いていて、私自身もこの意味がよく分かっていないと感じる。私たちは恐らく交代人格にどのように会ったらいいかを本当はよく分からない。あるいは私がいま用いている「交代人格」とは何かという事が分からないし、そもそもその様な呼び方がふさわしいかもわからない。でもなんともほかに呼びようがないのである。別人格alter personality, alternate personality, alternative personalityや副人格という呼び方も昔はあったが、あまり最近は目にしない。専ら用いられるのは部分 parts とか人格部分 parts of personality という言い方である。私の考えでは、DIDの方との関係の中で出会う人格は、他に何と呼んでいいかわからない人格ではないかと思う。そこでとりあえずつけられた交代人格とか部分とかの呼び方をあまり深く考えることなく用いるのではないか。あるセラピストの方は、私が「部分 part」という呼び方に異議を唱えると言ったら、「では何と呼ぶのですか?本にもパーツと書いてありますよ」という反応だった。たしかにそうなのだ。どのような呼び方をしたらいいかがわからず、とりあえずその様な呼び方をしている先達を習ってそうしているだけかもしれない。 

ただパーツと呼ばれた人格さんの中には「私は部分じゃありません!」とか「どうしてパートと呼ぶんですか?」という反応をされる方もいるであろう。だから呼び方はやはりかなり重要な問題なのだ。そう反発したくなる気持ちもわかるだろう。もしあなたが例えば一卵性双生児の一人で、「貴方がたは二人で一人前なので、半分の人格にすぎません」と言われたら憤慨するだろう。というよりも「あなたは半分です」と言われたことの意味が分からないのではないだろうか。もちろん「あなたは半人前です」という言い方があるが、それはまだ十分に成長していない、という意味であり、「まだ幼い」、「子供の様だ」という意味であろう。しかし子供の心は大人の半分だ、という発想は恐らくないのである。大人の心を大きな円だとしたら、子供の心は恐らく小さな円であり、「半円」ではないはずである。

そこで半分、部分であるという言い方はある種のイメージに由来することがある。それは最初は丸だった自分が半分に分かれたという考え方だ。

 

2021年12月1日水曜日

解離における他者性 61

 まずは1から考えましょう。他者として見ずに、例えばその人自身の演技とみる。

 この演技という範囲は非常に広い。~と思い込んでいる。~のつもりになっている、というものを含むとしたら、どこまで「意図的」な行為かはわからない。そしてその演技の意図としては大抵が「注意を引こうとする」ため。というのが定番である。この最後の点については、以下の文章を約7年前にこのブログに乗せたことがある。2015111日である。

先日「プリズム」(百田尚樹、幻冬舎文庫、2014年、ただしオリジナルは2011)を手に取った。解離性障害をテーマにした小説である。本文を読む前に「解説」を読んだが、そこに書かれている某精神科医の言葉には本当に失望した。これを読むことでますます一般の人々のこの障害についての誤解が深まることは間違いない。

 私自身は、岩本広志のような「見事な多重人格」とは出会ったことがない。ただ、あたかも多重人格だけれども実はそれを装っているだけ(決して詐病ではなく、本人がそのように思い込むところに病理がある)といったケースなら何名か知っている。多重人格といういかにもドラマチックでしかも精神科医が関心を向けそうな症状を呈することで、自分自身をアピールしている。私はこんなに辛いんだ、こんなにユニークな私なのに(あるいはそれゆえに)世間は私を退ける、私はもっと注目され特別扱いされるべきだ―そんな気持ちが多重人格という大胆な症状に仮託されているのだ。(中略)こうしたケースに薬など無用である。人格変換という「派手な症状」にはあえてそっけなく向き合い、アピールなんかしなくてもあなたは十分言い切る価値があるし意味があるという事実を理解してもらうことに力を注ぐ。催眠療法とか精神分析などの込み入った療法を採用すると、むしろ本人は「多重人格である私」を肯定された気分になって勢いづいてしまうので、淡々と対処していく。・・・

 ちなみに私は「解離新時代」(岩崎学術出版社,2015年,pp.2-3)で以下のように書いた。

解離否認症候群は以下の6項目にわたる主張をほぼ全面的に受け入れるものである。

1.私は定型的な解離性同一性障害に出会ったことはほとんどない。

2.ただし自分を解離性障害という患者さんには何人かであったことがある。

3.自分がいくつかの人格を持つという主張はアピールであり、それを一つのアイデンティティと見なしている。

4.最善の対処の仕方は、人格部分が出現した場合に、それを相手にしないことである。

5.相手にしないことで、人格部分の出現は起きなくなる。

6.解離性障害はおおむね医原性と見なすことができる。