2015年12月31日木曜日

小寺セミナー資料

フロイト私論 
-自己愛の文脈から見たフロイト
-恥の病理から見たフロイト
-スタイリストとしてのフロイト

この論考は、フロイトを様々な視点から眺めることを目的としている。私はフロイトは彼が自らについて作り上げていたイメージや、彼が打ち立てた理論と実像とに大きな違いがあるように思う。そして彼の実像に迫ることが、その理論を逆照射するという意味を持つと思う。彼が活躍した時代から一世紀が過ぎようとしているのに、フロイトの理論がこれほど大きな影響を及ぼし続けている以上、この様な作業にもそれなりの意味があると考える。
私の彼の理解は、もちろん私の理論的なバイアスの産物でもある。それを承知の上で、フロイトに対する三つの視点を挙げたい。それは、自己愛的な文脈、恥の病理という文脈、そしてスタイリストとしてのフロイトという文脈である。

1.自己愛の文脈から見たフロイト
-精神分析の祖は自己愛的な人間だったのか?

フロイトの人生を辿ってみると、人がつながったり離れたりするきっかけとしてもっとも大きなものの一つはプライドであり、裏切られることによる自己愛の傷つきの恐れであるという印象を強く持つ。端的に言えば、フロイトの人生はまさに「コフート的」な世界であったといえよう。というのも彼の人生を振り返ると、フロイト自身はコフート的な治療者を追い求めていたのではないか、という印象を受けるからだ。彼を支えた人々、つまりブロイアー、妻のマルタ、フリース(フロイトより2歳年下)、フェレンチ(フロイトより22歳年下)、ユング(フロイトより20歳年下)、その他の人々は、まず第一に彼の説の良き聞き役であった。そしてフロイトが彼らに話を聞いてもらい、わかってもらっていると感じる限り、それらの人々との良好な関係は続いたわけである。そしてまた、それの周囲の人がそのような役割を負えなくなった時、フロイトは彼らから精神的に遠ざかっていった。(とはいえ彼は妻のマルタとは添い遂げたわけだが、婚約時代にあれほど熱烈な手紙を書き送ったフロイトが、結婚後はその情熱を別の人々に振り向けてしまったという印象は否めない。)だからもしフロイトがコフート的な治療者を一生持ち続けたら、フロイトの交友関係はもっと安定したものになっていた可能性があるだろうと思う。でもそのかわり、二十巻以上の全集を生むようなあれほどの多産さを示したかどうかはわからない。というのもフロイトの書くという作業の一部は、それにより自分の説の正しさを証明し、周囲から理解して欲しいという願望に基づいたものだったからだ。例えばフロイトの「科学的心理学草稿」という初期の論文は、本来フリースに宛てられた手紙を集めたものである。またシュレーバー症例は、精神分析が分裂病の治療に有効であるということを、その頃分裂病に興味を示していたユングに対して示すという目的があったともいわれる。
ところで私がフロイトの人生を考える上で一つの仮説として考えていることは、彼の人生の後半になり、その自己愛の質が変ってきたのではないか、ということである。結論から言えば、フロイトの自己愛的な欲求は、彼が業績を積み、地位を確立していくにしたがって、私の考える自己愛の第一のタイプから第二のタイプに変わっていったと考えられるのだ。
ここでいう二つの自己愛のタイプは、相手に「わかってほしい」という願望の種類により分けられるものである。第一のタイプは,患者さんが話を聞いてもらえるだけでとりあえず満足するような,つまりコフートのいうミラーリングを体験することでとりあえず満たされるような種類のものである。そこで患者さんは, 自分の存在そのものを肯定され.受け入れられながら生きているのだという感覚を昧わうわけ
だ。この場合,わかって欲しい対象は,自分の存在そのもの, と言うことができよう。それに比べて第二のタイプでは,患者さんは自分の持っているもの,容姿,業績,地位といったものについて肯定してもらうことを望む。患者さんは自分の存在そのものというよりは, 自分を定義するような何か、自分が持っている何かについて見てもらい司認めてもらうのだ。つまりこの場合,「わかって欲しい」対象は,自分の持っているもの,自分に属しているもの,と言うことができまる。

 この第一から第二のタイプの自己愛への推移は、フロイトのフリースとユングとの関係の違いに顕著に表れているといえるであろう。フリースはおそらくフロイトが第一のタイプの自己愛を満たすための相談相手であったのに対して、ユングはフロイトの第二のタイプの自己愛に関わっていたのだ。
もう少し具体的に見てみよう。フリースを相談相手にしていた1890年代は、フロイトはフリースを自分にとってのアドバイザーとして扱っていたというニュアンスがある。だから情緒的には、フリースはシャルコーやブロイアーなど、彼を教え導く父親的な人々に類似した存在だったといえる。実際にフロイトは自分の理論にフリースのいくつかの説を取り入れたりしているのだ(たとえば周期説や、両性具有説などである)。
ところが1900年代にユングにのめり込むようになり、さかんに手紙を交わすようになったフロイトは、自分の方が20歳も年上であることもあり、相手に対して自分の説を全面的に受け入れる事を期待し要求するような、絶対的な師弟関係を求めるようになる。そしてフロイトは自分の説に関してはかなりなで、融通が利かなくなっていった。これはむしろ自分がこれまで積み上げた理論や精神分析の組織が、自分を取り囲む自己愛的な衣服や鎧のようになり、それを防衛することにエネルギーを注ぐようになったことを意味する。そしてこの自己愛的な病理は、かなりカーンバーグ的な、あるいは先ほどの第二のタイプの自己愛のニュアンスを帯びてきたといえよう。
フロイトとユングとの関係
フロイトとユングとの数年にわたる関係については、何冊かの本でかなり詳しく窺い知ることが出来るが、そこではフロイトが対人関係の中で具体的に何につき動かされていたかが分かる。それは彼の精神分析理論とは別に、実生活で彼が見せた行動とその病理の可能性を表現しているといえよう。そこで感じられるのは、フロイトとユングとの関係は合理的な関係に留まるものではなかったということだ。単に互いの理論が食い違うだけならば、そこで冷静に議論をして、お互いに得るところを模索するべきであろうし、そのような付き合いを通じて互いを高めあう事が出来るだろう。ところがフロイトとユングの関係を支配していたのは、理論とは別の、むしろ情緒レベルでの交流であり、その破綻が二人の訣別を決定的なものにしたのだ。
ともに心理学史上の巨人とみなされ、一時期はあれほど親密な関係にあったフロイトとユングは、どうして別れなければならなかったのか?19073月に最初に出会った時は、13時間もノンストップで話し続けたという逸話は有名であるが、それほどまでに意気投合した彼らが、どうしてほんの数年後には訣別してしまったのだろうか? 二人の関係を追って行くと、フロイトはユングが自分の理論を作りはじめ、自分から独立して行くことに耐え難かったという事実が浮かびあがってくる。この時期のフロイトには、自分の作り上げた精神分析理論をそのまま肯定しない人に対しては、感情的になりそれを排除する傾向が目立ってきた。もっともフロイトは自分の理論に一致しない考えをことごとく排除しようとしたわけではない。それが自分の理論の根幹部分に関わるものでない限りは、比較的寛容な姿勢を示す事もあった。つまり相手の理論より自分の方が優れ、それを説得により変える自信がある限りは、そこに自己愛的な傷つきが伴わないわけで、それだけ心の余裕を保つ事も出来たのだ。とすればやはり自己愛的な問題、つまり相手が自分を受け入れていると感じられるかどうかが、フロイトがその相手の理論を受け入れるかいなかの鍵であったといえる。
事実フロイトはユングが理論において自分と非常に隔たっていることがわかっても、最初のうちは寛容だった。たとえばリビドーは性的なものに留まらず、一種の生命エネルギーであるというユングの考えは、二人の関係が始まった最初のころからユングの中にあり、それをフロイトも知っていたのだ。あるいはユングは患者と性的な逸脱を起こしてかなり奔放なふるまいをしたことが知られているが、たとえそれがいかにフロイトの唱える禁欲原則に反していたとしても、フロイトはユングを破門するどころか、それを慰めるような手紙さえユングに送っている。ユングが自分に従う意思を示し、手紙を頻繁に送ってくる限りは、この様な決定的ともいえるユングの逸脱行為もフロイトは許す事が出来たのだ。
ところがフロイトにとって痛手だったのは、そのようなユングからの手紙の頻度が次第に減っていったことだった。1911年頃になると、ユングはフロイトから精神的に独立する態度を表し、フロイトはユングからの手紙が遅いことを非難するといった姿勢が見られた。1912年二月、ユングは、「自分は自分自身の仕事の方により多くのリビドーを向けるようになった」と認める手紙を送っている。こうしてユングはもはや自分が任されていた国際精神分析学会会長としての仕事を続ける意欲を失って行き、それを許す事の出来ないフロイトは苦悩のうちにユングとの訣別を決心することになる。
しかしそれでも二人は本当に別れたかったのかがわからないようなエピソードもある。いわゆる「クロイツリンゲンの振る舞い」も1912年に起きた出来事だったが、スイスのクロイツリンゲンに病床にあったビンスワンガーを見舞ったフロイトが、近くのチューリッヒに棲んでいたユングのもとに立ち寄らなかったことを、いつまでもユングは恨みがましく思っていたという。このフロイトとユングのやりとりをみていると、お互いに相手に振られたと勘違いして分かれていく、二人の非常にプライドの高い恋人達のようだという印象すら受ける。ユングの方もフロイトとの訣別に深く傷つき、アーネスト・ジョーンズにフロイトとの仲の修復を頼んだりしたとつたえられている。たとえ信じる理論が異なろうとも、ともに人間の深層心理に魅せられた心の探求者であることには変わらなかったのであり、二人が何等かの形で関係を維持する事は互いに有益であったに違いない。しかし二人とも関係を続けて行くことは、自分の自己愛やプライドが許さなかったのであろう
ただしこの場合私はやはりフロイトの方により多くの非を感じてしまう。というのも、彼は20歳もユングより年上でありながら、ユングが自己を確立して、独自の理論を打ち立てていくことを許せなかったからだ。一方のユングとしては、自分の独自の理論を作り上げることによりフロイトと理論的な距離が出来るのは当然であるし、フロイトのプライドを守ってあげるために汲々とする必要はなかったのだ。いうならば、年齢的にはユングの父親に近いといってもいいフロイトが、ユングに対して本当の意味で父親的な態度を示せず、まともにライバル心をむき出しにしてしまったことが問題だったわけだ。これはやはりフロイトが持っていた自己愛の病理の未解決な部分のせいといえるだろう。
 
フロイトの自己愛をわかっていたフェレンツィ

フロイトの自己愛的な側面をそばで見守っていて、その気持ちをわかってあげたのが、フロイトより22歳年下のフェレンツィであった。(その詳しい事情は、最近アメリカで話題になったのフィリス・グロスカースの「秘密の指輪」(Grosskurth, 1991)や、ジョン・カーの「最も危険な方法」(Kerr, 1991)に詳しく書いてあるので、もし入手できればお読みいただきたい。)この当時のフロイトに対するフェレンツィのふるまいを見る限り、フェレンツィこそがフロイトの持つ自己愛的な問題について十分理解し、かゆいところに手の届くような対応をしていたことが分かる。そのせいもありフェレンツィは長期にわたってフロイトと訣別することなく忠実な弟子であり続ける事が出来た。その一番の理由はフェレンツィがフロイトの自己愛を上手に守ってあげたからではないかと私は思うのだが、もちろんその裏にはフロイトに可愛がられ続けたいというフェレンツィ自身の自己愛的な欲求があったことは想像するに難くない。そのようなフェレンツィの特徴を表したものに次のようなエピソードがある。
1912年頃にはフロイトとユングの関係はかなり疎遠なものになっていたが、その年の終わり頃、フロイトの弟子の一人であるシュテッケルの裏切り行為をめぐってフロイトが弟子達と会議を持つ必要が生じた。その時、フロイトとユングは珍しく長い散歩を共にしたが、その時ちょっとしたやり取りがあり、フロイトはユングの前で失神するというハプニングを起こしている。その後の手紙のやり取りの中でユングはフロイトを分析し、「あなたは本当は神経症患者を嫌っているから愛情を持って接触できないのではないか?」と書き送り、これはフロイトには相当こたえたようである。ところがこのやり取りを聞かされたフェレンツィは、「おそらくグループの中で分析を必要としていないのはあなただけだ」、「あなたはすべてにおいて正しい」、と言ってフロイトを慰めたということだ。
私はフロイトとフェレンツィのこの様なやり取りに非常に興味を覚える。考え様によっては、このように「自分にはもはや分析は必要ないのだ、自分は分析し尽くされているのだ」、と信じることや、人にそう告げることは、分析的な考え方の停止すら意味するといえるだろう。現代的な精神分析においては、分析家や治療者は他人(患者)を前にして必然的に起きてくる様々な感情、すなわち逆転移を率直に認め、それを治療的に応用することを原則にしている。これは治療者もまた人間であり、患者に対して様々な感情を持つこと自体は非常に自然であるという考え方に基づくものだ。つまり逆転移は、それを持つ事そのものが問題であるというよりは、それを持っている事を否認するところから問題が生じると考えられるようになったのだ。分析的な思考にとっての禁忌は、自分がもう自己分析を必要しないと主張してすべての問題を相手に帰してしまうことであろう
ただしこのような議論の裏には、治療者も含めた人間が持つ自己愛的な幻想、すなわち自分はすべてにおいて正しく、特別な人間であるというファンタジーをいかに抱きやすいかという認識がある。特に社会的な地位を遂げた人にとっては、自分の地位や業績を理想化し、自分を特別な存在であると信じる傾向(私のいう第二のタイプの自己愛的願望)は極めて自然に生じるものだ。フロイトも生身の人間だから、同様の傾向はあったのだが、何といっても精神分析の創始者だから、この様な自分の傾向に対する洞察も得られていたとの期待を私たちは抱きやすい。しかし実際は必ずしもそうではなかったようである。フェレンツィもまたこのような「禁じ手」を使ってまでフロイトを慰め、しかもそうすることでフロイトの寵愛を受け続けることを必要としていたわけなのだ。
しかし以上のように述べたからといって、私は天才フロイトの人間的な側面を批判するつもりは毛頭ない。人を批判する事がいかに安易で、いかに自己愛的な行為かはわかっているつもりである。私が言いたい事は突き詰めればただ一つ、それは人間にとって自己愛的な願望がいかに大きな意味を占めるか、いかにフロイト自身や彼の弟子たちが、その分析理論とは別に自己愛的なこだわりによって動いていたかということだ。フロイトは心理学や精神分析に関心のある私たちが最も良く知っている人であるため、この様な形で彼の人生を考察の材料に使わせてもらったわけだ。。
フロイトの精神分析家としてのキャリアーの前半と後半で、その自己愛の病理の質が変った可能性については、先にすでにふれた。すなわちフロイトは精神分析理論を確立する過程で、その自己愛的な願望の質が第一のタイプから第二のタイプに移っていったのではないかという仮説である。そこにはフロイトが理論体系を構築し、本を出版し、名声を高めて行ったことが、ある種の決定的な役割を果たしているといえるだろう。これは悪く言えば、人が自分の業績にあぐらをかいてその自己愛を肥大させて行くプロセスということになる。しかし見方によっては自分が生んだ作品を保護し、それを傷つけることなく温存しようとする気持ちは当たり前の事であるし、ある意味では母性本能にもつながるものではないかと考える。私はこれをあながちネガティブなものとは考えていない。むしろフロイトが自分の理論をそのまま弟子に伝える事に固執したことで、より強固な国際組織が維持され、現在まで国際精神分析学会として維持されてきたともいえるのだ。
フロイトをことさら擁護するわけではないが、彼の人生を振り返ると、彼が必ずしも自分の積み上げた業績に「あぐらをかく」タイプではなかったと考える根拠もある。これはおそらくフロイトの最も天才的な側面であり、またフロイト理論の分かり難さにもつながる問題である。彼の全集には、互いに矛盾する、あるいは晩年に近づくにしたがって棄却される理論や仮説が多くある。時にはそれまで基本原則としてきたような理論に対して疑いを挟むような事さえ書いているのだ。これは七十才をすぎた理論家の行った事としては驚くべき事だ。彼は精神分析の基本理念については強固な信念を持っていたにもかかわらず、その具体的内容を新たな、より自分にとって納得の行くものに変えて行く驚くべきエネルギーを発揮し続けた。これはおそらく自分の理論を聞いて欲しいという自己愛的な願望とは異なる、創造的な、天才的な側面であり、常人が容易に理解できないもう一つの顔という気がする。

フロイトは自分の自己愛の問題をどのように説明したか?
――― アドラーの「劣等意識」の議論に対するフロイトの反発を通して ―――

 フロイトが自己愛的な人であったということは、これまでの説明からある程度は了解していただけたと思う。すると次に問題になるのが、心の専門家たるフロイトがなぜこんなに大切なことをその著作の中で言わなかったのか、どうしてそれを彼の分析理論の体系に組み込まなかったのか、ということだ。それにはおそらくわけがあったのだろう。一つの可能性としてフロイトが、私たちが考えているような意味での自己愛の問題をそもそも着想として持たなかった、ということが挙げられるだろう。これは最も手っ取り早い理解の仕方だが、事情はもう少し複雑だろうと思う。そこでもう一つ考えられるのは、フロイトの理論が自分の自己愛的な問題を見ないための防衛だったという可能性である。
そこでフロイトが自分の自己愛的な傾向、ないしはユングの自己愛的な傾向(という呼び方をフロイト自身はしなかったわけだが)についてどのように説明したかといえば、それを自分の同性愛傾向として理解したようなのだ。これはユングと一緒にいて彼が起こした二回の失神(1909年、1912年)について、彼自身が下した診断だったわけである。つまり自分が潜在的に持つユングに対する同性愛願望が、様々な葛藤という形をとって表れているものだと考えたわけだ。(この事情はピーター・ゲイ(Gay, 1988)のフロイトの伝記に比較的詳しく書いてある。)
皆さんはこのフロイトの説明にどの程度納得がいくだろうか? もちろん性愛的な理論により人間の心を説明しようという見方は、フロイト理論の根幹であり、この様な理論はその意味では特に驚くに当たらない。それにおそらくユングに対するフロイトの様々な感情の中には、同性愛的なそれが一つの要素となっていた可能性もある。ただしもちろんそればかりではないだろう。人間はみな、他人から認めて欲しいという強い願望を持っているということを前提とすれば、そしてフロイトの驚異的な生産性が自分を認め賛成してくれるような存在をそれだけ多く求めていたとすれば、それでも十分フロイトとユングの間の葛藤を説明できるであろう。しかしそれをあくまでも性愛性一本で説明しようとしたことが、フロイトが同時代人の弟子達の多くを失った一つの大きな原因だった可能性はないであろうか?
このような事情は、フロイトとアドラーとの対立のプロセスにも表れていた。アドラーはフロイトの早くからの弟子で、ちょうどユングと同じ時期にフロイトと袂を分かった人である。日本では今アドラー理論が大流行といった感があるが、アメリカでもアドラー派が活発に学会活動を続けているが、それはフロイトとの論争の結果アドラーが米国にわたり独立の学派を築いたことに端を発している。そしてこのアドラーもユングと同じように、フロイトの性愛論について行くことが出来なかった人である。
アドラーという人は、恥と自己愛という文脈でぜひ触れておかなくてはならない人物である。というのも実は精神分析の創生期にこの自己愛的な問題について初めて正面から取り組んだ数少ない人がこのアドラーであり、それを論駁して行く過程でフロイトは同性愛の理論を固めていったと考えられるからだ。その事情を少し見てみよう。
アドラーがフロイトの性愛論、リビドー論中心の理論にあき足らずに自分の理論を作り上げていったのは1908年以降であるといわれる。アドラーが自分の感覚と経験をもとに作った理論はフロイトのそれとあまりに相容れないものになってしまったため、フロイトは当惑し、怒り、ついにアドラーはフロイトのサークルから脱退することになった。この時フロイトを怒らせたアドラーの主張を簡単にまとめるならば、人間は本来自分の弱さを克服し、力を獲得することを希求するものとし、それこそが人間にとって本質的な問題だ、という考え方である。彼は男性はもともと女性性や受け身性に対する恐怖を持ち、それに対する防衛から男性的な抵抗や主張を希求するようになると考え、またその試みの失敗が神経症を生むと考えたのだった。
このアドラーの視点は、人間存在を考える上で説得力ある視点の一つであることは確かである。そしてそれは私がこれまでに示した視点、つまり人間は本来他人から自分の存在を認められることを希求するものだという立場にも、考えの方向性としては通じるものといえよう。ただしアドラーが女性性に対する恐怖や劣等意識をその根底に置くとしたら、私の立場はそれとは異なる。私は自己愛的欲求と恥に対する恐怖は表裏一体であり、どちらが先かを論じることは出来ないと考えるからである。
ところがこの一見わかりやすい議論が、おそらくはそのわかりやすさゆえにフロイトにはまったく受け入れがたいものだったのだ。このアドラーの議論はあまりに皮相で、意識的な心の動きを重視したものであり、性愛性や無意識の重要性を前提にした精神分析理論とは異なるとフロイトは主張した。そしてアドラーの劣等意識や男性性の主張は、同性愛願望やエディプス・コンプレックスの議論により説明される、と主張したのである。つまりアドラーが女性性や受け身性に対する恐怖として説明したものは、実は同性愛願望に対する恐怖として説明されるべきであること、そしてそのような同性愛願望は、彼が言う「陰性エディプス・コンプレックス」として理解されると述べたのだ。
この部分のフロイトの論旨は、理論的な整合性はともかく、私には実感を持って追うことが出来ない。フロイトの理論の中でも、私には最も疎遠な発想に感じられるものだ。もちろんこの同性愛的な傾向というのも、ユングやフリースとの関わりの中でフロイトが持った実感だったのではないかと思う。しかしフロイトの同性の話し相手への執着は、彼自身の自己愛的な満足体験を求めたものであるという理解の仕方の方が、より奥行きがあるように思える。

フロイトはエディプス理論を、自己愛的な傷つきに対する防衛として用いていたのではないか?

  さてフロイトはユングとの確執についてもう一つの説明を用いているが、こちらの方も重要である。それはエディプス理論に基づく考え方だ。フロイトは、ユングが自分の理論を確立し、フロイトの提唱する理論から遠ざかって行くことについて、次のような説明をした。「ユングは父親コンプレックス(エディプス・コンプレックス)を解決していないからだ。」「ユングは私を殺して私の座に取って代わろうとしているのだ。」それを典型的に示すのが、1909年にユングを前にして気を失ったという逸話である。つまり最近発見されたミイラの話をしたユングに対して、それは私が死ぬことの願望の表れだ、と解釈を施したのだ。
確かにこの時のフロイトは、ユングの存在を脅威に感じていたのかもしれない。フロイトは自分が確立した精神分析学の後継者としてユングに大きな期待をしていたが、それはまたユングによって自分の座を追われる可能性をも意味していたからである。ただしフロイトはその点にのみ目を奪われて、もう一つの感情を十分に体験していなかったのではないか、というのが私の仮説である。ではそのもう一つの感情は何かといえば、それはユングから見捨てられる、相手にしてもらえない、ということへの恐れである。この点についてはもう少し説明が必要であろう。
 そもそも感情的に対立している相手が、自分に父親殺しの願望を持っているという発想の前提となっているのはどうことであろうか? それは自分が父親のように強く、息子がそれを乗り越えるために打ち倒さなければならないような存在であるということだ。ところがこの強気の論理は、自分が弱くて取るに足らない存在であり、相手から見捨てられようとしている、という可能性をうまく防衛していることになる。私はフロイトとユングとの関係が非常に錯綜したものであり、そこに様々な幻想や思い入れがあり、分析用語で言えば様々な転移関係を含んだものであったと思う。それを前提として言うのだが、フロイトの論理には、自分が相手を圧倒して殺害願望を起こさせている、という強気な側面が強調される傾向があり、他方では、自分の弱みや見捨てられ不安を表す用語がどちらかといえば不足している印象を持つ。否、確かに受け身性や他人に対する従順な態度はフロイト理論に出てくるのだが、それは彼自身がそうしたように同性愛的な願望、という性愛化された感情に置き換えられている傾向があるのだ。フロイトの人となりには、何かこの種の弱音を見せない、自己韜晦的なところがあるように思えるのである。

自己愛とエディプスの問題、あるいは「肯定されたい、わかって欲しい」と、「勝ちたい、他人を打ち負かしたい」ということ

最後に、自己愛の問題とエディプス葛藤の問題について一言まとめておきたい。この問題は精神分析理論を学ぶ私たちを混乱させ、悩まさせるものの一つだと私は考えるが、フロイトの例を考えた機会を利用して是非触れておきたいものである。この問題は、実はコフート派の考えをフロイト的な考え方との違いから理解する上での一つの視点を提供してくれるものだ。
あまり理論的になるのを避けるために、非常に具体的な話をしたい。私がこの文章を書いているという行為をどう考えるべきであろうか? 私のこれまでのお話しからお察しの通り、それは非常に自己愛的な行為である。すなわち私は人にうなずいて欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しいという気持ちを持っているし、それはそれと対になっている、いいかげんな文章を書いて恥をかきたくないという不安と同様に非常に強い気持ちである。そのような時、私は同時にエディプス的な願望を持っているのだろうか? 胸に手を当てて考えてみると、おそらくそれも否定できないかもしれないという気もする。そのエディプス的な願望を単純化して言うならば、ここで書いている私の主張に対する反論をすべて打ち負かしたい、という願望である。これは全くないわけではないのだ。ではこれと先ほどの自己愛的願望のどちらがより本質的なものなのだろうか?
この問題から様々な主張が分かれてよいことになる。つまりこの自己愛的な願望と、エディプス的な願望の関係を巡った理解の仕方が人により異なるわけだ。もちろんフロイトならばエディプス的な願望を本質的なものとして主張するであろう。他方コフートであったら、エディプス的な願望は、自己愛的な願望の防衛である、と主張するであろう。おそらくこの両者のうち正解がどちらかにあるわけではないのだ。しかし私自身にはやはり、コフート的な考え方の方がより真実味を持っていると感じられるのだ。つまり私が皆さんの反論を打ち負かしたいと思うとしても、それは私がいい気分になって自分の考えを述べている時に、それを誰かに批判されたその時から強く頭をもたげてくる願望なのだ。つまりエディプス的な願望は、自己愛的な願望が満たされるのを邪魔するようなある第三者が登場した瞬間から始まると考えられるのである。もちろんそれは私自身の体験であり、人によっては周囲を打ち負かしたいという願望を、自己表現の基本的な動機として有する人もいるかもしれない。でもそのような人はむしろ例外的ではないかと思う。
ちなみにここで(自己愛的な願望が満たされるのを邪魔するような、ある)第三者、と言ったが、自己愛的な願望は常に二者関係的なところがあるのは事実である。つまりそれは最早期には母親と自分の関係の中で育まれ、それが父親や兄弟の登場により崩される、という構造を持つ。もしこのエディプス的な願望が、自己愛的な願望に対する防衛として生じているという議論が多くの場合において正しい場合、患者さんに対する治療的な介入はエディプス理論に基づくものとは非常に違ったものになる。例えば治療者に対して挑戦的な態度や敵意をむけている患者さんがいたとしよう。その様な時にエディパルな解釈にしたがった場合は、その敵意をプライマリーなものとみなし、その患者さんが治療者を打ち負かしたい願望の直接的な表れと見ることになるが、自己愛的な解釈は治療者あるいはそれ以外の人により、現在ないし過去において自己愛的な傷つきを体験した結果、その敵意や怒りが生まれたと考えるわけである。


2.フロイト理論と恥
                  
恥にまつわる議論は1980年代よりアメリカでも高まっている。従来「罪の文化」と形容されていた西洋社会において、一般ないし臨床家の関心が恥に向かうことは、これまで欠落していた議論や視点を補うという意味で重要である。そしてこのような恥のブームは、フロイト以来の伝統的な精神分析がそれを不十分にしか扱わなかったという事実を、あらためて浮き彫りにしたといえる。
フロイトが生涯第一に依拠したのは、いわゆる欲動論であった。それは本来は生身の人間が主観的に体験する情動や感情にも及ぶ議論であり、そこには恥の感情も含まれてしかるべきであった。ところがフロイトのリビドー論はむしろ生物学的、機械論的であり、その筆致は常に科学者として人間の心を客観的に切り分けていく冷静さを表していた。
 フロイトが情動 Affekt について扱わなかったわけではない。しかし彼が中心的に論じたのは、欲動が過剰に抑圧されることにより生まれる罪悪感であった。他方、恥についてはフロイトの著作の中でいくらか言及されているものの、その理論の中ではむしろ片隅に追いやられているといった印象を受ける。
 フロイトが恥の問題を十分に扱わなかったのはなぜかという問題に分け入ろうとすると、そこで出会うのがフロイト独特の自己韜晦であり、彼自身が生身の人間として持ったであろう様々な感情に対する秘密主義的な態度である。フロイトが恥を扱わなかったことに防衛的な意味があったとすれば、それが翻って彼の精神分析理論とどのように関わっていたのかという問題は、精神分析を学ぶものにとって興味深いものであり、またフロイト学徒として一度は問わなくてはならない問題だろう。それはフロイトの打ち立てた精神分析学の未知の可能性や、その限界を示すことにもなるからだ。
 恥に関するフロイトの理論はさらに、フロイトという人間自身が果たして「恥の病理」を持っていたかという問題へとつながる。いわゆる「過敏型自己愛パーソナリティ障害」(Gabbard, G の概念も最近ではよく知られるようになっているが、このパーソナリティ障害に見られる「恥の病理」とは、自分を恥ずべき存在だと感じ、低い自己価値を持つと同時に、他方では理想自己イメージが強く、非常に高い達成水準を持つもの、として規定した。フロイトにはこの性格傾向があてはまるのだろうか? フロイトはシャイなナルシシストだったのだろうか?
 アメリカにおける「恥ブーム」を起こしたいくつかの著作は、右の問いについて、すでにある程度の答えを用意している。そこで何人かの識者により指摘されているのが、精神分析学の創始者であるフロイトが恥の問題をことさら回避していたように見られる点である。それらの論者は、実は恥こそフロイトにとって最も重要な体験であったものの、それだけにそれを抑圧していたのではないかということを示唆している(Broucek, 1991)。フロイトが最も抑圧していた感情の一つが恥であり、いわば精神分析理論はそのネガとしての意味を持つとしたら、これは重大問題ということになろう。これは妥当な指摘なのか、あるいは極論なのだろうか? 
 以下に、これらの疑問に関して、いくつかの著作を手がかりにしつつ私自身の考えを進めたい。

フロイトにおける恥 -その原著から-

フロイトの作品はドイツ語で書かれたことは言うまでもない。そこでドイツ語で恥がどのように表現されるかについて若干論じたい。ドイツ語には恥を表現するものとして、Scheu(ショイ)、Scham(シャム)、Schande(シャンデ) の三つの語がある。このうちScheu は英語の shyness にほぼ対応し、自分の持つ陽性、陰性の価値は直接は問われず、見知らぬ他人や不馴れな状況に身をさらすことへの一種の生理的ともいえる抵抗が相当する。要するに「恥ずかしい」という気持ちである。一等賞を取ってクラスで表彰されてもこれは生じるだろう。ということは自分が目立ってしまうことへの面映ゆい気持ち、と考えればいい。他方のScham は、性的な事柄と深く関連している。それはつまり本来秘めておくべきものが人目に触れてしまうことに対する抵抗という意味を持つのである。さて問題はSchande である。これは英語のshame に相当し、要するに恥辱をさす。この場合は積極的に自己価値低下や自己嫌悪を生むような正真正銘の恥を意味することになる。「恥の病理」にかかわる恥は、まさにこの Schande であると理解できるのだ。
  ところがこのうちフロイトが用いた語としてそのドイツ語の全集 Gesamelte Werke の最終巻の目録に出ているのは、Scham Scheu の二つであり、Schande の項目はない。また Scham Scheu のうちフロイトが主として用いたのは、Scham である。従ってフロイトの意図した恥とは、もっぱら性的なニュアンスを含んだ Schamだということが出来る。フロイトの論じた恥が主として Scham である点に関してはキンストン(Kinston, W.1983)が論じているのがおそらく最初であるが、フロイトの用いた恥の概念を考える際には重要な点である。またその意味で「そもそもフロイトは恥に関して定見を持っていなかった」というブルーチェック Broucek, 1991)の見解もまんざらうなずけないわけではない。ただし私の印象では、フロイトが使う恥 Scham, Scheu の概念は、意外に単純で分かり易い。少なくともそこにはいくつかの基本的な公式を考えることが出来、フロイトの Scham Scheu の使用例の多くは、それらに当てはめることで整理可能である。


  Hogarth 社の英語の「標準版フロイト全集」(Standard Edition)には、shame という言葉が出てくるのは90個所に及ぶ(Guttman, et al, 1980)。フロイトが恥をどのように論じたかを知るためには、これを一つずつ検討するという方法もあるが、これには注意が必要である。彼が実際に用いたドイツ語として Scham Scheu を考えた場合、これらの全てが標準版で shame として訳されているわけではないからだ。(他方 shame の原語をたどるとそのほとんどが Scham であることがわかる。)
 そこで逆の方向から、すなわちドイツ語の原著の索引で Scham, Scheu の出てくる個所を探して標準版と照合し、それぞれがどのような用い方をされているかという点から検討してみよう。もちろん恥として最も重要な Schande が用いられている個所についても論じたいが、さきほども述べたように、全集の索引にない以上探すことが出来ないし、フロイトの原著をつぶさにあたって Schande という語の出てくる個所を洗い出すという余裕は私にはない。そもそもフロイトがそれを用いることが非常に少なかったからこそ索引にも出てこなかったのだということが想像され、むしろその意味を考える事の方が重要である。
 早くも1886~1889年の間にフリースに宛てた手紙(草稿K)( Freud, 1896)には、フロイトが意図する恥 Schamのニュアンスがいくつか出揃った観がある。この手紙では、フロイトは恥を性的な体験に対する抑圧の根拠として、倫理観や「うんざり感 Ekel 」と共に挙げている。しかしこの手紙ではまた、恥を女性性と、そして恥の欠如を男性性と結びつけてもいる。それによれば、男女の差は思春期で決定的となり、男性はペニスを性感帯としたリビドーを持ち続けるのに対して、女性の場合はクリトリスが性感帯としての意味を失い、むしろ性的な嫌悪感を持ち始めるという。
 ここでのフロイトは、女性が性的な事柄に対する嫌悪を生じるのはむしろ疑問の余地のない当然のことと考えている。そしてフロイトが恥を女性性と結びつけ、恥の欠如を男性性と結びつける論述は、少なくともこの草稿の段階では、女性性に対する価値低下を意図したものであるという印象を与えない。むしろ社会通念として女性が性的なものに対して大きな抵抗や嫌悪を持つという理解がここに反映しているといえよう。
  1896年の「防衛の神経精神病に関するさらなる言及」(Freud1896)には、幼児期の性的行為に対する自己批判が、しばしば恥 Scham に変わるという記載がある(p.171)。そして恥 Scham は、本来は恥ずべきではない事柄(幼児期の性行為)に対する防衛として現れるという見解を示している(原文p.178)。これはそもそも恥の感情が、最初から存在するのではなく、ある役割を担って二次的に生まれてくるというフロイトの見解を示していることになる。この点はフロイトの恥に関する捉え方を知る上で重要である。 
 1900年の「夢判断」(Freud, 1900)では、子供時代には恥 Scham は体験されない、という趣旨の論述がみられる。それによれば、楽園で人が裸で平気でいられるのは、楽園がそもそも私たちが持つ子供時代についての集団幻想であるからだという。しかし恥 Scham と不安 Angst が芽生えて楽園を追放されることで、性的活動や文化的な活動が始まる(p.245)。恥はまた夜尿や、自分の裸を隠したい欲求と結びつけられている。しかしその裏にあるのは、無意識的な露出欲求であるとしている。
  この露出欲求と恥 Scham との関連は、さらに1905年の「性欲論三編」(Freud1905)で展開されている。ここでは、露出本能が満たされることへの障害として、うんざりすること Ekel 恐怖 Grauen、痛み Schmerz、道徳 Moral と同時に恥があげられている。ここで注目するべきは、フロイトは目を一種の性感帯として捉え、露出と窃視をそれに関連した欲動として考えたことである。そして恥はそれに対する防衛として説明されている。
 1908年の「性格と肛門性愛」(Freud, 1908)では、肛門エロティシズムが抑圧や昇華を受ける原因として、反動形成をあげているが、そこで再び出てくるのが、恥 Scham とうんざりすることである。恥を性的なもの、ないしは性器と関連づける傾向は、フロイトの後期ないし晩年の著作を見ても変わりない。1930年の「文明と不満足」(Freud, 1930)では、人間は直立歩行するときになり初めて恥を持つようになったとする。
 恥と女性性を結びつける傾向は、フリースへの手紙の時代から記載があったが、1932年の「新・精神分析学入門」(Freud, 1932)に至ってもその考えが維持されている。その一部を引用してみる。「 Scham は女性的な特徴の最たるものと考えられるが、それは想像するよりもはるかに伝統に関するものであり、それは性器の Defekt(欠陥、欠如)を隠すものという目的を持っているものと考えられる。後に恥は別の機能を持つようになったことも私たちは知っている。女性は文明の歴史の中で、発明や発見をほとんどしていない様にみえるが、実はある技術を生み出したのは女性達のようである。それは編み物と、機織りである。もしそうだとすると、その無意識的な動機を考えたくなる。人間は成熟するに至って性器を隠すような恥毛を発達させるが、自然はこのようなことを生み出すことで、[編み物等の]技術が模倣すべきものを提供したのである。(p.132)」
 さて以上フロイトの用いた恥 Scham について論じたが、もう一つの恥 Scheu に関してはどうか? フロイトの著作を見る限り、Scheu は、その用いられている個所が Scham に比べて少なく、恥そのものよりはむしろ漠然とした恐れ、恐怖といったニュアンスを与えられている。標準版のフロイト全集でも Scheu shame ではなく、むしろ dread, aversion, horror, dislike といった英語に訳されている。そこでこの Scheu については、フロイトの扱った恥として特に考察の対象にする意味を見いだせない。
 以上を振り返れば、フロイトにおける恥とは、もっぱら Scham としての恥であるというキンストンの主張は妥当であることがわかる。それは発散されることを望んでいる性的欲動に対する防衛であり、その充足を阻止するような力ないし要素ということになる。そこには本来自己価値の低下というニュアンスを伴なわず、むしろ社会や文化が性的活動に対して課す抑制のための道具として捉えられた。これは Scham というドイツ語本来が持つ性的な語感(先述の Schambein 恥骨、Schamhaar 恥毛という表現が示す通り)と関連があるのであろう。ドイツ語を母国語とするフロイトは当然この語感にしたがったものと考えられる。そしてこのように一種の文化の装置として恥が捉えられた場合、それを体験することに特別の価値基準や病理性は与えられていないことになる。
 ところがフロイトが恥 Scham を女性に特有のものとして記述する際に限っては、明らかにそこに価値判断が持ち込まれてしまったという印象を受ける。女性が性的なものに対して恥じらいを見せやすいという観察を得たのは、フロイトに限っての事ではないであろうが、彼がそれを「器官劣等性」により説明しようとした際に、この価値判断が混入してしまったのである。そこでのフロイトの主張は、女性性器はペニスを欠いており、その意味で劣等な器官であり、従ってそれを人前にさらすことに恥を感じるというものである。これは先述の「新・精神分析入門」の記載を見れば明らかであり、ペニスには無条件にポジティブな価値が与えられ、それを欠いた女性性器は欠損 Defekt として表現されるべき、いわば恥ずべき状態として描かれているように感じられる。
 私自身はこの部分のフロイトの論旨にはついていけない気がする。 Scham を文化の所産と見なすという立場から、恥を女性性器に特徴的なものとするところに論理の飛躍を感じるのである。むしろ彼の言う通りScham が露出欲求への抵抗であるという論旨をそのまま辿るならば、最もそれがな形となるペニスを有する男性こそ Scham を体験するという議論になりはしないか? この点に関しては、アメリカでの恥に関する研究の権威であるネイサンソン  もその著書(Nathanson, 1987)ですでに同様の見解を示していることを、私は最近になって知った。彼はその最近著(1992)で、男性が勃起という形で性的な興奮を隠すことが出来ない点で、女性よりもはるかに恥の感情を持ちやすいとし、恥は女性に特有の感情であるというフロイトの見解を否定している(同著 p.288)が、この考えには一理あると私は思う。

フロイトのおこなった恥の力動的理解
             
 以上に述べたフロイトの恥 Scham の議論は力動論的には次のように捉えられよう。フロイトが恥を倫理観や「うんざり感」などと同列に論じた際、それらは内的な欲動に対抗するもの、その充足を阻止する力として理解された。したがって恥は二次的な感情であり、外的ないし表面的な感情ということになる。私がこう述べる意味をもう少し説明したい。
 フロイトのリビドー論を簡単に整理してみる。まず幼児期に性感帯(口、肛門、性器)から発する性的なエネルギーがある。それはその器官に結びついた欲求の充足を求める。この性的エネルギーをプライマリーなものとして捉えるところにフロイト理論の原点がある。この体の内側から沸き起こってくる、生物学的に運命づけられている性的エネルギーを認めることが、欲動論の根拠となっているのである。ところがこの性的欲動がいつも満たされ、エネルギーが発散されるというわけにいかない。それはある種の阻止を受けることになるのだが、この阻止は内的欲動とはまったく逆の方向から来ることになる。つまりそれは外的な影響、つまり両親を含めた他者からの禁止であったり、社会の及ぼす禁制だったりするのである。内的欲動がその充足をあきらめる結果として生じるのが抑圧であり、昇華であり、無意識的な罪悪感や神経症症状はその結果として生じてくる。
 この図式における恥の役割は明らかである。それは一次的な内的欲動の充足を二次的に阻止する外界(社会)からの力である。そしてこの図式が立てられた時点で、すでに恥は内的欲動やそれが形を変えた罪悪感という主役に対して、脇役に甘んじる運命にあったのだ。いうならば、フロイトにおける恥は病理を形成するための要因の一つにはなっても、その病理自身にはなれなかったのである。しかもそれは心の痛みをともなった感情というよりは、外的な力として、あるいは物理的な障害物のようにしか扱われなかった。先述の「防衛の神経精神病に関するさらなる言及」(1986)でフロイトが「恥は本来は恥ずべきことではない事柄に対する防衛として生まれた」(原文p.178)と言っているのもその証拠である。恥を体験している主体は本来は何にも恥じていず、むしろ恥とはまったく逆の傾向、すなわち露出傾向に対する防衛であるなら、真に自分を不甲斐なく思い、恥じ入る感情はどこで扱われるのだろうか?
 ここでさきほどの独、英、日本語の対応表を思い出してほしい。フロイトが Schande は実質的に扱ってないことは述べた。フロイトが扱った恥は Scham であり、自己愛の傷つきとしての Schande を扱ったわけではなかった。これがフロイトの恥の議論についての一つの結論である。ただし女性に特有の恥、器官劣等性に結びついた恥に関連した議論においては、そこに恥と劣等意識との関連が見られた。しかしフロイトはそれを Scham の文脈でのみ扱おうとしたために、その説明は十分なものとはならなかったのである。
 そこでフロイトが Schande を扱わなかった理由を問わなくてはならない。それはなぜだったのだろうか?
 一つの見方は、これをフロイトが立てた理論が必然的に招いたものとする立場である。恥はフロイトが成立させた理論の陰で裏方を演じる羽目になった。彼はそれを特に意図したわけではなかったが、彼がいったん打ち立てたリビドー論の整合性を求める過程で、必然的に要請されたことになると考えられるのである。心にあるプライマリーな力ないしは動因(性的欲動)を想定した場合、それに対する対立項を想定しなくてはならない。恥や道徳心はその役割を担ったのだ。
 このように考えれば、フロイトがリビドー論をそもそも選択しなかったとすれば、恥の議論もその理論体系に入ったであろうという可能性も見えてくる。人間の心の理解にあたって、リビドー論とはまったく別の体系のモデルを考えるべきだとの見解は、すでにフロイトの時代に、それも精神分析の世界の中ですでにあった。それはたとえば「対象希求性」を人間の精神にとってプライマリーなものに据えたフェアバーン(Fairbairn, 1952)であった。彼のモデルでは、フロイトが考えたような葛藤は、対象への愛が受け入れられない場合に生じるさまざまな心の問題という風に論じ直されることになる。フロイトの理論と違って、この理論(対象関係論)はエネルギー論ではないために、機械論的な変形や昇華ないしは心のメカニズムとしては想定しない。対象を希求するという欲求が阻止されたものは、エネルギーの変形としての症状ではなく、感情である。それはおそらく私たちが呼ぶ恥の感情や、自己愛の傷つきなどに近いものであろう。フェアバーン自身は恥を直接は扱わなかったが、後に同様の路線を引き継いだコフート理論では恥に類する感情はもっと中心的な役割を占める。このようにエネルギー論に従わなければ、恥はすぐにでも人間の心を扱う体系の中に入ってきてしかるべきものなのである
 フロイト理論が恥を扱わなかった可能性の少なくとも一つは、ここに示すことが出来るが、さらに問題となるのは、フロイトの日常的な感情体験との関連である。最近の恥にまつわる研究のほとんどが、恥がすべての人間がことごとく体験する感情であるという前提から出発している。もしそうならば、フロイトも同様に恥の体験を自分の中に持ち、そして患者の中に見いだしたはずである。フロイトはどうしてそれを彼の理論の中核に入れようとしなかったのか? その問題が次に問われなくてはならない。

フロイトは恥の感情を防衛していたのか?

 フロイトが本来の意味で心の痛みを伴う恥 Schande について正面から扱わなかったのはなぜか? フロイトは自分自身の感じる恥の感情を防衛しようとしていたのだろうか? 私はこの問いに、フロイトと自己愛との関連という方向からではあるがアプローチを試みた(本稿の前半部分)。ここでは恥の文脈からフロイトの人生を捉える次の二つの説を紹介し、それをヒントに私なりの仮説を示したい。
 ひとつはバロンその他による「フロイト:自然の秘密と、秘密の性質」( Barron, J. 1991)という論文である。この論文は、フロイトがその著作や臨床を通じてみせた秘密へのこだわりについて論じたものだが、フロイトが自分自身に対して持っていた秘密主義や恥の感情を推察する上で非常に参考になる。まずここにその要旨を紹介しよう。
 フロイトは生涯にわたって「秘密」に特別の関心を寄せていた。彼が心の探究の手段として精神分析を創始したのは、「自然の持つ秘密」を明らかにするという試みであり、彼が発展させた精神分析の理論や技法もその秘密の解明に向けられたものという意味を持っていた。しかしフロイトが同時に持っていたのは彼自身の秘密主義であり、自分自身の内面を隠し通そうとする傾向であった。「夢判断」において自分自身について極めて多くを明らかにしているようでいて、彼自身の性的な夢がほとんど語られていないという事実、フリースとの文通が公表されることを固辞したという事情、当時の弟子との間で秘密結社的な組織を持っていたことは、それらを示しているとされる。
 さらにこの論文では、フロイトと母親との関係に触れている。そのイメージはアンビバレンスと前性器的な外傷によって満たされており、「自然の秘密」の解明に向かうことは、それを明らかにしたいという欲求の昇華という意味を持っていたのではないかと推論される。またフロイトが最終的に探究し切れなかった「秘密」とは母親そのものであり、おそらく自分の中に持っていた母親へのネガティブな感情であったとする。フロイトはその著作で、子供が保護を求める際に向かう対象として父親の存在を強調しているが、母親の持つ役割には、不思議にも言及していない。そこで以下の仮説が生まれる。それはフロイトが自分の母親が持つ誘惑的で破壊的な側面に対する感情を認めようとしなかったのではないかということだ。フロイトの秘密主義は母親に対する感情の防衛としての意味を持っていたといえよう。 
以上がこのバロンの論文の要旨であるが、そこで問題とされているフロイトと母親との関係については、それがフロイト自身により十分に扱われなかったという点が従来さまざまに論じられてきた。そもそも母親アマリエの影響こそが、フロイトの心的世界を支えていたのではないか、という仮説はこの論文に始まったものではない。フロイトの女性性に対する理論の不十分さも、彼が女性(母親)に対する感情を抑圧していたという事情、特に女性への敵意や、自分自身の女性性に対する恐怖心を抑えていた事の表われではなかったかという見解もある。(これら説についてはフリーマンとストリーンによる「フロイトと女性」(Freeman & Strean1981)等を参照されたい。)
 ところでフロイトが母親に対して持っていた感情の謎を解く一つの決め手は、彼が母の死に際して示した反応である。フリーマンらの著作をもとにそれを紹介しよう。
 フロイトが母親の死に対して示した反応をひとことで言えば、それは安堵である。フロイトの母アマリエが95才で他界した時、フロイトはその3日後に弟子のアーネスト・ジョーンズにこのように書き送ったとされる。「・・・私は(自分の心に)表面的には二つのことを見いだせる。一つは私自身の自由が増したという気持ちだ。なぜなら、母親が私の死を聞きつける、というのは恐ろしい考えだったからだ。・・・」同様のことをフロイトはサンドール・フェレンチに対しても書いている。「私は彼女が生きているうちは私は死ぬことが許されなかった。今はそうすることが出来る。」
 その当時顎のガンでいくつもの手術を体験していたフロイトは、母親が死ぬことで、やっと自分も安心して死ぬことが出来る、と思ったようである。これにはもちろんいくつかの解釈が可能であろう。そこには母親が死んだ以上、自分も生きる希望もない(だから死んだ方がましである)という気持ちもあったかもしれない(Freeman)。ただし私はそれ以上のものをここで読み取りたい。それがフロイトが無視した恥の文脈にも関わってくる。
 以下は私の仮説である。フロイトが生涯苦しんだのは、母親からかけられた強烈な期待に見合うことができない、劣った恥ずべき存在になるという恐れではなかったか? フロイトのことを宝と思い、生涯にわたって期待をかけつづけた母親の存在は、また常に人より優れ、常に精進し、また道徳的に間違ったことを決してしてはいけないという超自我的な声でもあったのだろう。フロイトが母親に持ったネガティブな感情は、自分自身を劣った弱い存在、非道徳的な空想を持つようなふしだらな存在であると考えることによる恥の感情への恐れを理解してもらえなかったことと関連していたと推察される。フロイトが母親の死に際して感じた安堵の少なくとも一部は、このような母親の重圧から解放されたことによるのではないだろうか?
 フロイトにおける恥についての議論としてもう一つ紹介したいのが、これまでに何度となく引用したブルーチェック(Broucek1991)による説である。アメリカにおける恥の論者の中でもブルーチェックは特に舌鋒鋭く古典的な分析技法への批判を展開するが、その議論は分析技法の核心へと迫るものが多く、傾聴に値する。
 ブルーチェックはフロイトにより創始された分析理論や治療技法が、さまざまな意味で分析家の側の恥の感情を回避する役目を果たしている点を指摘している。フロイトによる寝椅子の使用は、もともと彼が患者から性的な興味の的となることを回避するために創り出したものであるが、それは自分自身を患者に向かってさらけだすことによる恥の感情を防ぐための道具でもあったという。さらにフロイトの転移の概念も、「分析家はその場面から人間としてあることをれて分析者であることを可能にする」(同書 P.87)働きをしていたとする。ただし治療者が恥を回避するというこの治療構造は逆に、患者の側に余計恥の感情を生むことになる。患者は,自分を語らずに自分の姿を寝椅子の後ろに隠したままの分析家により、精神的に裸にされるという体験をするのである。
 このようにブルーチェックの恥の理論は、分析理論や治療技法の全体にまで及ぶ批判となっているが、その論旨の全体に流れるのが、フロイトに始まった精神分析がいかに恥の感情を回避してきたかという問いかけである。フロイト自身の持つ秘密主義や対人場面での敏感さないしは恥の感情の持ちやすさが、彼が打ち立てた理論体系や治療技法を必要としていたともいえよう。人間の行動はことごとく、防衛的な意味を持っているという精神分析の教えが正しいならば、古典分析理論の唱える中立性や匿名性の原則ないしは寝椅子を中心とした治療技法もまた、分析家の側の防衛の産物といえることになる。



 フロイトの人生を思う時、「夢判断」(Freud1900)において彼自身が語っている忘れられないシーンがある。フロイトの父ヤコブが、ユダヤ人であるというだけで人から罵倒されて帽子をどぶに落とされた時に、それに立ち向かわずに、落とされた帽子を黙って拾って立ち去ったという話である。それを聞いた時の幼いフロイトの反応は、無力な父親に対する情けなさや恥の感覚であったに違いない。フロイトは後の人生でそれを強気ではね返した。彼は人間の心に常にポジティブな欲動や攻撃性を常に想定することで、父親や自分の中に潜む無力感や弱さを合理化していたのではないだろうか? それが「恥は本来は恥ずべきことではない事柄に対する防衛として生まれた」という先述のフロイトの議論につながるのである。

フロイトは「過敏型」の病理を持っていたのだろうか?

 最後に、私が先に示した「フロイトは過敏型の自己愛性格であったか否か」、というテーマについて考えたい。これまでに私が紹介した「過敏型」の自己愛人格障害とは、自己イメージが「理想自己」と「恥ずべき自己」に分極し、両者の葛藤に悩むものの、基本的には「恥ずべき自己」に居場所を見いだすような性格である。これはギャバードの「過敏型自己愛性格 のモデルに由来することは繰り返してきたが、これはまたクレッチマーの「敏感性格」(Kretchmer1950)とその基本においては通じている。
 私自身の見解としては、たとえフロイトは典型的な過敏型の性格傾向からは外れるとしても、その兆候を多く持っていたと考える。少なくとも彼の中の「理想自己」と「恥ずべき自己」との分極はかなり明らかなように思える。ボスという分析家が「フロイトの人格が精神分析理論と技法に及ぼした影響」という論文( Voth, H. 1972)で述べているが、フロイトは「受け身的で、遠慮がち unobtrusive で、対人関係に小心 timid であり、自分自身や他人の攻撃性に煩わされた」(p.49)という側面を持っていた。このような性格はしかし、将来は閣僚や傑出した政治家になることを夢見たという、フロイトの野心的で自己愛的な側面との見事な対照をなしている。いわばこの両極端の側面は、「理想自己」と「恥ずべき自己」イメージの間の分極およびその間の葛藤を特徴とする過敏型に比較的よく当てはまるといえる。このように見れば、フロイトの展開した分析理論や技法も、この両「自己」の間の葛藤の産物、ないしは症状としての意味さえ読み取れることになろう。彼が生涯唱えたテーマである、男性のエディプス葛藤の克服と女性的受け身性の克服、ないし女性のペニス願望の克服等も、彼自身の持っていた女性的受け身的性格を克服したいという願望の反映と見ることもできる。これに関して先のボスは言う。「フロイトが生涯固執した両性具有性は、彼自身の防衛的な必要に見合ったものであり、また同時に彼自身の母親との症状的な同一化のあらわれであったと思える。」(同論文 P.53)。


以上恥という文脈からフロイトの理論やその人柄について考えた。恥という心理現象についてフロイトが多く論じなかったことは事実である。それを説明する一つの仮説として、フロイトが恥を感じつつ、それを防衛しようとしていた可能性を指摘した。もちろんフロイトの主観世界において実際に何が起きていたのかは彼以外には誰にもわからない。しかし私はフロイトは対人関係に非常に敏感な人であったと考える。そしてこの敏感さと恥の感じやすさとはほぼ同義であると私は理解している。その意味でここでの考察が、前半のフロイトと自己愛についての考察と結局は同じ方向に向っている事に気づかれたと思う。それはフロイトは野心的で、強気の姿勢を保つ一方では、弱い自分、恥ずべき不甲斐ない自分、見捨てられるのではないかという不安におびえる自分を受入れるのに抵抗があったのではないか、という見方である。フロイトが弟子との間で見せた態度も、恥についての理論的な価値を刑したのも、その表れである可能性がある。そしてその源流にあるのは幼い頃の母親との体験であろう。フロイトの母はフロイトに過度の愛情や注意を向けつつ、しかしフロイトが持った様々な感情を本当の意味で汲む事が出来なかった可能性がある。そしてフロイトはその後の人生で注目や愛情を周囲の人から望み続けると同時に、恥の感情やそれへの恐れを抑圧し続けたのかもしれない。フロイトの理論全体は、実はその恥や自己愛の傷つきを体験する事への防衛というニュアンスを含んでいたのである。

3.スタイリストとしてのフロイト

フロイトは私にとってのヒーローのひとりである。そこで私の「フロイト観」をある視点から描いてみたいが、ただしフロイトについて書くことには様々なタブーがいまだに付きまとうのも確かである。それをフロイディアンの精神分析の大家の前で話すことには抵抗がある。しかし私が書く内容は、それがフロイトの全面的な礼賛にも、否定にもならないことは、稿を進める前から自分でもわかっている。以下に述べるように、フロイトに関する否定的な事実は数多く知られるようになっている。それらはそれでゴシップ的な面白さはあるが、それらを論じることはあまり生産性はない。それよりも私の中でどうしてフロイトが大きな意味を持ち続けているかについて、これを機会に少し考えてみたいと思うのである。

逆風にさらされるフロイト

フロイトに対する理想化の強い私のような人間は、1980年代以降何度も頭から冷や水を浴びせかけられる体験を持っている。そのうち代表的な三つの報告をあげるならば、第一はフロイトのフリースにあてた書簡の全面的な公開であり、第二には実際にフロイトの治療を受けたという患者たちの生の声をまとめた研究報告であり、第三は、1990年に明らかになったフロイトにまつわる、スキャンダルといっても過言でないエピソードである。
フロイトの実像に迫ろうというこれらの一連の動きは、娘のアンナ・フロイトが1982年に亡くなったことをきっかけに、あたかも堰を切ったような勢いで生じているという印象がある。アンナはフロイトにとっていわば老エディプス王に終世付き添ったアンティゴネであり、彼女により公開を免れていたさまざまな史料の多くがまだ眠っているというのであるから、同様の流れは当分続くことになろう。しかしこれらの動きは意外に日本語では伝わっていない様なので、少し書いておきたい。

1のフロイトとフリースの書簡は、人間フロイトの様々な側面を明らかにすることになった。それまでのフロイト・フリース書簡集は、娘のアンナが「学術的でない」という理由で多くの部分を削除したものだったが、それを含めて新たに1985年に公にされた「完全版」の書簡集には、フロイトの本音や様々な個人的事情が書かれていた。ちなみにこの書簡集は日本語にもすでに訳されている (Freud, S., Masson, JM, 986) それまではフロイトの伝記としてはアーネスト・ジョーンズの伝記が長い間定本となっていたが、新たな一連の資料をもとに書かれたピーターゲイのフロイトの伝記は、この「完全版」を豊富に引用し、ジョーンズ版では知られていなかった「人間味のある」フロイトの姿を描いた画期的なものだった(Gay, 1998)。たとえばフロイトが朝のうちは患者に催眠をかけている間にせっせとフリースに手紙を書き、午後遅い患者が自由連想中には自分も居眠りをした(Crews, 1995)、などの「人間的」な姿もそこには描かれていたのだ。「完全版」はフロイトが同業者であるフリースを相手に、かなり本音に近い部分をもらしたものであり、天国のフロイトはそれが表ざたになっていることにさぞかし憤慨していることだろう。(ちなみにフロイトの「居眠り」に関しては、最近のルイス・ブレガーのフロイトの伝記が、複数の患者側から、「セッション中に居眠りをして、葉巻を床に落としたことがある」等の証言を紹介している)ヘレーネドイチュが自分の分析でフロイトが二度それを行ったと報告しているという。 (Breger, 2000。カーディナーのことを好んで、勇気づけをしたが、父親への従順さを指摘したものの、実はフロイトを最も恐れていたことを取り上げなかった。的外れの無意識的な同性愛について解釈した、などの話も載っている。

ただしこのフロイト―フリース書簡集の「完全版」には「人間味のある」フロイトの側面だけでなく、倫理的に首を傾げたくなるような部分も描かれている。フロイトがフリースとの共通の患者エンマ・エクスタイン (その臨床像の一部は「イルマの夢」に登場する) について行った治療的なかかわりについてなどはその例である。フロイトはフリースに頼み込んでエンマの鼻の手術を施行してもらったが、そののちに彼女は鼻からの大出血を起こしてしまう。そしてそれはフリースが術後にガーゼをエンマの鼻の中に置き忘れたためのものとわかったという。これだけでも立派な医療過誤だが、フロイトはそれでもフリースの方をかばって、「エンマの出血は心因性のものだと主張した」とされる。オーマイゴッド! フロイトは患者を大切にせず、自分の研究や個人的な交友関係の方を優先させたという例だとされている。
第二の報告は、分析家としてのフロイトの臨床スタイルを知るうえで非常に参考になる。以前からサミュエル・リプトン(Lipton, 1977)は、いわゆるラットマン(鼠男)のケースその他におけるフロイトの実際の治療の様子について論じていたが、ポール・ローゼンというハーバードの政治学者は、フロイトが生前実際に治療した患者のうちまだ生存している人々に果敢にインタビューを行い、臨床家としてのフロイトの実像にさらに迫った(Roazen, 1995 )。さらにはこれらの研究に基づき、デビッド・リンらは、1907年から39年までにフロイトが治療した43のケースについてまとめている(Lynn, Vaillant, 1998)
このリンの報告によれば、フロイトは自らが著作において述べているやり方から常にはずれ、非常に「自己表現的expressive」であり、「強引なまでに指示的forcefully directive」であったとしている。さらにフロイト自身の「ブランクスクリーンであるべきだ」という勧めに関しては、彼自身がほとんどそれに従わず、100パーセントのケース(43例すべて) について自己開示を行い、72パーセントで分析関係外で患者との接触持ったという。すなわちフロイトは自らが定めている中立性や匿名性などの基本原則にはほとんど従っていなかったという、かなりショッキングな内容をこの論文は伝えていたのであった。
第三の報告は、実は第一、二番目に比べてはるかに深刻な問題を提起する意味で、フロイトの「スキャンダル」と呼んでも過言ではないだろう。私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものであり、それが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフは競って読んでいたのを思い出す。
これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。フリンクは当時自分の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。(実は精神分析の草創期は、そしてそれ以後も、分析家が患者と関係を持ってしまうことは、ありふれた出来事であり、それをしなかったフロイトがむしろ例外的に見えてしまうという事情がある。)
この分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまり患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだが、そこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在する恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」と言い、アンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を顕在化させ、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。経緯から見てフロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。
以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。
このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?
ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか?彼の真価はどこら辺にあったのだろう?

スタイリスト」としてのフロイト

フロイトに対する毀誉褒貶は山ほどあるが、ひとつ確かなことは、フロイトは紛れもなく成功者であり、ある事を見事に達成したということだ。それは精神分析という理論および治療法を確立し、学会を立ち上げてそれを国際的なものとし、全世界に支部を広めたことだった。そしてその組織は一世紀経った今日も、依然として存続している。精神分析そのものは医療の場では衰退し、組織そのものにも往年の勢いはないにしても、いまだに健全に機能している。国際精神分析学会の専門誌が年々薄くなり、廃刊の危機にあるという話も聞かない。日本の精神分析学会に限って言えば、黒字の運営が続けられ、会員数は今も増し続け、演題の発表申込数も年々増加の一途をたどっている。
脳科学がこれほど進み、心に関する生物学的な理解が浸透し、他方精神分析以外にも数百を超えるといわれる種類の精神療法が提出されるようになっても、フロイトが読まれなくなることはまず考えられない。それどころかフロイトのドイツ語の原典をもう一度訳しなおし、現在の「標準版Standard Edition」を全面改訂しようという動きがもう何年も前からある。また日本では独自に岩波書店から新たなフロイト全集が出版され、広く引用され、一つのスタンダードとなりつつある。
フロイトの編み出した精神分析という概念が過去の遺物ではなっていず、依然として多くの人により引き継がれているからこそ、フロイトは何度も否定され、糾弾され、スキャンダルの種ともなり続けるのだ。では人格的には傑出していなかったフロイトがどうしてこのような成功を遂げたのだろうか。それはひとことで言えば、フロイトがスタイルの提供者として紛れもない天才を発揮したからである。
実は私がこのフロイトに関する説を唱えたいと思うようになったのには、ひとつのきっかけがあった。あるものを読んでいて、一種の作図線が引けたような気がしたからだ。それにより私なりにフロイトという人物が「結局はこんな人だったんだ」とわかった気になれたと思ったのである。では私にとっての作図線は何だったかといえば、それは先にも述べたポール・ローゼンの「フロイトはいかに仕事をしたか?」(Roazen, 1995)の中にあった「フロイトは偉大なるstylistであった」という文章である。フロイトが優れた文体家literary stylistであったことはマホーニー (Mahony, 1982) その他により指摘されているが、このローゼンの主張にはもう少し一般的なstylistという意味が込められているように私には思えたのである。すなわちフロイトは精神分析というstyleを創造し、提供することに非常に長けていたということである。ここでのstyleとは、構造、形式、様式というニュアンスを持つものと考えてほしい。それはしっかり内実も伴った一つのスタイル(=形)だったのである。もちろんこれは取り立てて目新しい指摘ではないかもしれないが、その意味するところは私には大きかった。
このような視点からフロイトを見ると、非常に多くのことに納得がいく。彼が精神分析に関する論考をあれほど力をこめて書き、同時に組織を作り上げていく仕方は、精神分析の内容と入れ物に同時に(スタイル)を与えていくプロセスだったのだ。
フロイトはきわめて多筆だったが、同時に人生において何回かその手紙や診療録や論文を大量に破棄している。それは彼が人目に触れるように残したものは、すべてそのスタイルを構成する要素であるという認識を持っていたからであろう。それ以外のものは公的には存在してはならなかったのである。(ただし彼の努力のかいなく、沢山のものが「流出」してしまったのは、フロイトにとってはかえすがえすも不幸なことであったが。)
フロイトが精神分析に与えた(スタイル)は、「標準版」にして全24巻にも及ぶ体系であったが、もちろん完成形ではなかった。それはたとえて言うならば、いくつかの枝をすでに出し始めた若木のようなものであった。その幹にあたる部分は、エディプス・コンプレックスやメタサイコロジーという理論的な実質が詰まっていたが、そこから転移、逆転移の概念に見られるような患者治療者間の情緒的な交流という枝を伸ばし、「悲哀とメランコリー」(1917)に見られるような対象関係理論の萌芽もあり、かと思えば「科学的心理学草稿」(1895)や「夢判断」(1900)のいくつかの章に見られるような生物学的な視点という枝もあった。そしてさらには外傷理論に基づく症状理解という枝も決して枯れることなく伸び続けていたのである。
後にフロイトの理論を批判する形で発展した精神分析の分派は、結局はフロイトの理論がすでにその枝をもっていたことを認めざるを得ず、完全な形でのアンチテーゼにはなりえなかった。そしてそれらはいずれも精神分析の体系に含みこまれることになったのだ。
さらにたとえるならば、フロイトが打ち立てた理論は幹細胞のようなものであった。そこに様々な萌芽を含んでいたのである。しかし幹細胞と違って、それは幾多もの器官をすでに持っていた。それは独自の(スタイル)としてそこにすでにあったのだ。これは驚くべきことなのである。



フロイトは治療者としての能力はどうだったのか?

フロイトは治療者としてどれほどの能力を持っていたのかという問題について考えてみる。これまでに述べたとおり、フロイトがあらゆる点において優れていたと考えることは理屈にかなっていない。精神分析という(スタイル)を創出することに発揮された才能は、治療者としての資質とは別個のものと考えなくてはならないだろう。ただし治療者としての才能をフロイトに期待する根拠はないわけではない。なにしろフロイトの作り出した(スタイル)には治療技法も含まれるのであり、その著作には当然ながら治療者の取るべき態度についても記されていたのである。
しかし繰り返すが、フロイトがその実践についても才能を有していたという保証はない。それは偉大な作曲家がいかに優れた楽曲を生んだからといって、彼自身がそれを見事に演奏し、歌いこなせる保障などないのと事情は似ている。天才といわれるほどの才能は普通はかなり狭い領域に特化して生じるものだ。イチローは打者として天才でも、サッカー選手としては大成しなかっただろうし、天性のキッカー中村俊輔だって少年野球をやっていたら社会人野球どまりだった可能性がある。
さらには先ほどの第2の報告に見られるように、フロイト自身が自分が創出した技法を少しも忠実に守っていなかったという可能性が高い。もしそうであればフロイトは優れた精神分析の治療者であったか、という問いに対する答えは、すでに出ているといわなくてはならない。精神分析的な治療は、それを創始したフロイトのみが神髄を知り、正確に遂行できた、という幻想はおそらく多くの人々が漠然ともっていたものであろうが(私自身も時々そのような考えに浸ってしまうことがあるが)、それは事実と一致してはいなかったことになる。ことフロイト流の精神分析技法に関する限り、たとえばニューヨーク精神分析協会のような伝統を守る訓練機関において、多くのスーパイザーの厳しい目にさらされつつトレーニングを行った末に資格を得た分析家のほうが、よほど「フロイディアン」であったという意見はしばしば聞かれるのである。なにしろフロイトは自分では正式な分析を受けたことも、スーパービジョンを受けたこともない、ある意味では精神分析の歴史の中で、もっとも「正式なトレーニングを受けていない」分析家だったのである(!)。(フェレンチなどは、フロイトに「あなただけは分析を必要としていない人だ」と言ったといわれるが、もちろんフロイトに対して「あなたもスーパービジョンを受けてはいかがですか?」などといえる人などいるわけはなかっただろう。(Grosskurth,
1992)
では「分析の」という制約を外して、一般的な意味での治療者としてのフロイトはどうだったかを考えてみよう。するとこれがまた非常に悩ましい問題なのだ。治療者としてのフロイトの技量を論じる前に、治療者としての才能をどのように計測できるかについて、識者の間に一致した見解などないからである。そこでここからは私の個人的な考えにより、治療者としての能力を規定してみたい。
私は治療者の能力とは、患者の心を癒そうという強い情熱と、そこに伴いがちな自己愛的な満足を自制する力との絶妙なバランスにより決まるものと考えている。そしてそれは技能とか才能の類のものとは異なるのだ。たとえるならば子供を深く思い、懸命に世話をしようとする一方で、それが押しつけがましくならないように心がけている母親のようなものである。そのような人を「母親として優れた才能のある人」と形容するのはおかしいであろうし、同様に治療者としての天賦の才などというものも本来は概念化しにくいものなのだ。
良き母親はそれこそいたるところにいるであろうし、同じように良き治療者もそこここに存在している可能性がある。良き母親も治療者も論文を書いたりマスコミにもてはやされたりすることにあまり興味を持つとは思えない。だから彼らは特に目立つことなく市井に埋もれているのだろう。
医師でもある作家南木佳士(1997)が、丸谷才一のエッセイを引いて、医者に向く人の三条件を述べているが、これなどは私も非常に共感を覚える。その三条件とは「丈夫な体、やさしい心、まずまずの頭」だという。そして南木は「まずまずの頭」という条件に関して、「おそらくそれは切れすぎる頭は優しい心と共存しにくいからだ」と言っている。 
これは実に面白い視点である。私は「切れすぎる頭」がやさしさの障害となると確信しているわけではないが、事実としてありそうな気もする。いわゆる高偏差値人間が人を思う気持ちを併せ持つ保障は必ずしもないという実例をかなり多く見てきたつもりである。この丸谷氏の条件は医師一般に言えるのであろうが、精神療法家についてもおそらくあまり変わることはないだろうと思う。
フロイトの場合はどうか?彼の頭は・・・間違いなく切れわたっていた。切れすぎていたといってもいい。フロイトの残した著述のどこを切り取っても、高度の知性に自然に伴う難解さを感じ取れる。(ここで自然に伴う、とはつまり本人が難解さを狙っていたわけではなく、ただ俗人がその理論の展開のスピードについていけないために生じる難解さ、という意味である。)
フロイトの書き方は、いつも即興に近く、あたかも最初から文章が構成されたような形で出てきたという(Mahony, 1982)。同様のことは講演でも言える。1909年、アメリカのクラーク大学での講演(精神分析学入門の5つのレクチャー(日本語題は「精神分析について」)などは、フロイトはメモなしの即興の形で行なわれたといわれる。この種の才能に関しては、フロイトはまさに天才的だったといえる。
他方ではフロイトが患者に対してどれだけ暖かさを持っていたかについては、あまりいいニュースはない。伝記や書簡集から伝わってくるのはせいぜい、「フロイトは患者に対して過剰に冷たくはなかった」とか「暖かい側面を見せることもあった」というほどのことである。
よく精神療法の世界では、治療者としての力を考える上でカール・ロジャースのクライエント中心療法に見られるような的な資質が論じられる。すなわち患者に対して示す愛他性や共感能力、あるいは治療的な情熱といったものも重要視される。これは丸谷のいう「優しい心」に相当すると考えていいでであろうが、フロイトはそのようなものを、少なくとも治療者の要件とは少しも考えていなかったようである。むしろフロイトは治療者としては、科学者や外科医のような冷静さ、冷酷さを強調していたのだ。もしフロイトが「あなたは治療者としての暖かさを患者さんにはあまり示さないのですね」といわれても、フロイトは肩をすくめるだけだっただろう。
ところで「優しい心、まずまずの頭」という治療者の条件に関しては、反対意見も当然おきうる。治療者が病気を見出し、それを確実に取り去るという作業を遂行するならば、そこに「やさしさ」は必ずしも必要ではない。私は心理療法において「やさしさ」の要素の介入しないかかわりはあまり想像できないが、たとえば外科医のモデルを考えるならば、それはありうるだろう。外科医が診断と治療に関する正確無比なマシーンとして機能するならば、それはそれで患者に対して貢献するに違いないからだ。そしてフロイトが治療者として目指していたのも外科医的なそれであったというニュアンスがある。
外科医の場合は、現実の事物を扱うことを通しての人への貢献が特徴である。難しい手術や手技を遂行することは、それを受けた患者の喜びを直接目指すこと以外にも、物(肉体を含む)に刻まれた美しさや整合性を通した充実感や喜びがともなう。フロイトの場合も彼が目指していたのは、ある手法、メソッドを適応することによる成功という、理科系特有のワンクッション置いた人間への貢献だったといえる。
そしてもちろんこの優秀な外科医という比喩は誤解を生む可能性がある。フロイトの場合、その手術方法は彼自身の中では確実に治癒に導く可能性があるが、十分なエビデンスがあるわけではなかった。でも十分根拠のない、しかし新しい画期的な手術方法を精一杯やったという事でその外科医の倫理性が問われるのであれば、歴史上の多くの革新者も同罪となるだろう。
フロイトが治療者として持っていた情熱は、実は教育者としてよりよく発揮されていた可能性がある。フロイトが残したといわれる言葉で注目に値するものがある。「私は神経症患者よりも、生徒の方が10倍好きだ。」(Wortis, 1994, p.18)というものだ。これは何を意味するかといえば、フロイトにとってはおそらく人に癒しを与えることよりも知識を授与することの喜びが勝っていたということである。そしてこれもまた知識という具体物を伝授することによる間接的な人類への貢献である。実際フロイトはその種の能力に関してはきわめて高いものを持っていた。彼が書いたものも、レクチャーも一級品であった。それは彼の24巻の全集がいまだに読まれ続けている(あまつさえ、再度翻訳されなおそうとしている)ことからも明らかであろう。



最後に - フロイトの人間性について考える

この「フロイトの人間性は果たしでどうだったのか?」という問いを立てながら、思わず苦笑してしまった。結局人間フロイトについて、最終的には全面的に肯定したいという私の願望が表現されているからだ。冒頭にはあれだけフロイトがさらされている逆風について書き、しかも天才は特化されたことにしか才能を発揮できないと主張し、フロイトは治療者としても正式なトレーニングを受けてはいなかったという趣旨のことを書いたあとで、でも最後には「フロイトは結局人間全体としては素晴らしかった」と書いて終わりたいのである。
しかし結論から言えば、私はフロイトはその才能は別にしても、ひとりの人間としてもまずまず尊敬するに値する人物であったと考える。すくなくともフロイトは人を利用し、搾取することに積極的な喜びを見出すような人間であったとは思わない。ただこれまでも述べたとおり、フロイトは特別高潔な人間ともいえず、倫理的なレベルとしてはむしろ平均的であった。
他方ではフロイトはきわめて野心的でかつ自己愛的であり、精神分析の運動のためにはしばしば盲目的となった。そのような側面が「フリンク・スキャンダル」のようなエピソードに表れていたと考えるべきだろう。フロイトが特別不道徳的な人間であったというわけではない。平均的な道徳観念を持った人間はしばしば自分の自己愛的な欲求の満足に関しては善悪の見境がつかなくなりがちなのだ。もちろんそれは望ましいことでは決してないが、これは人間の性というべきだろう。
この、「平均的な人間は道徳的な過ちをしばしば起こす」という主張は無茶な話だろうか? しかし例えば多くの政治家が政治献金を適切に申告しなかったり、国立大学の教授が国庫からおりた研究助成金の余剰を返納せず、隠し金としてプールするといった違法行為に集団で手を染めてしまうといった日常ニュースで目にする現象のことを私は言っているに過ぎないのだ。
もちろんフリンクとの一件は多くの犠牲者を出す様な事態を引き起こしたのであり、金銭的な問題よりさらに深刻な倫理的な問題であるという意見はあるだろう。しかしフロイトは自らの「潜在的な同性愛」という学説を信じていたのであり、それを用いた治療がそこまでの不運な結果をもたらすとは予想していなかったのであろう。だからフリンクの治療そのものが非倫理的であったとは言い切れないのである。
フロイトが野心的であり、精神分析を広げるという大義のために患者への顧慮が足りなかったという点は、私たちがおそらく一番がっかりする部分である。ユングには患者をrabble(「下層民」というほどのニュアンスか?)と呼んでいたというエピソード(McGuire, 1974)などもあまり信じたくないはないが、フロイトの人間性や倫理性を問いたくなるような同種の言質は決して少なくない。しかしそれを離れたフロイトはごく一般的な配慮と理性と、優しささえ持った人間だったようである。
私がそう考えるのは、フロイトが家族に対して、そして友人に対して示した態度にも注目するからだ。たとえばフロイトはよき家庭人であり、普通のgood enoughな父親であったように見受けられる。末息子のマーチン・フロイトの自伝(Freud, M. 1983)が描いているフロイトはおおむね子供思いでやさしい。それによれば、フロイトは息子が将来どのような仕事につくべきか、という相談には、仕事で忙しくても夜遅くまで相談に乗ってくれた、という。
もちろんフロイトの子供たちへの態度に問題がなかったかといえばそうではない。フロイトは3人の息子達に、医者になることを厳しく禁止したという。そこには息子たちに追い落とされ、負かされ、あるいは象徴的に殺害されるのではないかという、フロイト自身の未解決なエディプス・コンプレックスが関係していたのだろう。
またフロイトが末娘のアンナに対しても父親でありながら数年間にわたって精神分析を行っていたという事実は、精神分析界の内部でも様々な議論を呼んでいる。特にアンナが父親への強い執着とともに未婚のままで精神分析に身をささげることになったことを考えれば、そのフロイトの「治療」が必ずしも良い結果をもたらしたとはいえないという主張も十分頷ける。
しかしそれでもフロイトはおおむねよき家庭人であり、子供たちに情愛に満ちた父親として接していたとした点は評価すべきであろう。フロイトが精神分析を離れた時には普通の父親であったことが、アンナにとっての救いだったという逆説もそこにあったのであろう。 
精神分析を離れたプライベートな生活でフロイトが示した人間らしさや優しさは、実は患者たちにも発揮されていた、といったら読者は若干混乱するだろうか? たとえば前出のリプトンの研究などからも明らかなように、フロイトはねずみ男に食べ物をふるまう、個人的なことを話すなどの治療者らしからぬ側面を見せている。さらにはすでに紹介したリンの研究から推し量ることができるのは、フロイトはこの種の人間としてのかかわりをおそらくほとんどの患者に対して行なっていた可能性である。
もちろんフロイトはこれを治療とは考えなかったのであり、患者と一人の人間として接することの持つ治療的な意義についてフロイトが顧慮しなかったことは問題ではあるが、患者を一個の人間として遇したという点については依然として評価するべきであろう。
フロイトはこうして、構成の分析家や分析研究者達に、治療構造と治療効果のきわめて複雑な関係というきわめて悩ましい問題を残していったのである。

最後に結論めいたことは何も書けないが、フロイトはその天才の部分と精神分析への自己愛的なこだわりを除いては、常識的な人間であったと私は考える。その世界に与えた影響の大きさゆえにいまだに毀誉褒貶にさらされているが、要するにいろいろ突出した部分を備えた人間であったということだ。私たちはそれらの突起の部分に関して、倫理的な善悪とは別に(善悪を問わずに、ではなく)冷静な目を向けることで、フロイトの人間としての全体像が浮かび上がってくるのではないかと私は考えている。

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