2021年12月4日土曜日

解離における他者性 64

 そもそもAさんと会ったはずなのに、Bさんという人格が出現した場合、そしてどう考えても私たちはいつものAさんと会っているはずだと思えるとき(高さは違っても同じ声、同じ顔かたち、など)私たちはおそらく「あ、Aさんじゃなくて、Aさんの部分だ!」とは絶対に思わない。(もちろんBさんが次のような自己紹介をしたならまた別であるが。「こんにちは。私はAの中の聴覚部分を担当しているA”です。普段は表に出てきません。」と普段のAさんと同じ声で語り掛けるのだ。そこで「きのう話したこと覚えているの?」と聞くと「昨日起きたことの中で聴覚に関係することしかわかりません…。」という答えが返ってきて、ああ、この人格さんはAさんの昨日の一部を担当しているんだ。だから人格部分Bさんなんだ、と納得するだろう。あるいはBさんは体の左側しか動かせず、右の方が麻痺していて「私はAの左部分です」と自己紹介をするなどの場合も、Bさんはいかにも「人格部分」っぽいと言えるだろう。ところがしばしばBさんはAさんにとって異性のような声や仕草を見せ、しばしばAさんを嫌っていたりする。そしてBさんもちゃんと五感が備わり、考えや判断を下すのだ。それがむしろ普通だとしたら、Bさんを「人格部分」と呼ぶ理由などあるだろうか?

結論から言えばこうだ。ふつう私たちは交代人格さんをどのように理解したらいいかわからない。何と呼んでいいかもわからないのだ。しかしテキストブックには「人格部分」などと書いてある。そこでそのように呼び、それに慣れていくのである。