2023年4月30日日曜日

連載エッセイ 3-1

  前回始まったニューラルネットワークの話を続けよう。その始まりはローゼンブラットのパーセプトロンである。それはシンプルなあみだくじのような構造を持っているだけであった。しかし前回でも少し触れたが、それから半世紀以上が経過する中で、それはみるみる進化し、現在のディープラーニングへと姿を変えたのである。
 ディープラーニングは日本語で「深層学習」と訳されているが、最近は特にこの言葉を耳にすることが多い。コンピューターの技術が発展して、いよいよ人間の脳に近い機能を備えたAIが出来つつあるが、それを支えている機能が、このディープラーニングだからだ。そしてこのディープラーニングの発展と脳とが深くつながる可能性があるのだ。それはどういう意味か?
 ディープラーニングの進化をさらに加速させ、そのはるか先の到達点で脳の機能と交わるのか? あるいはそれを超えることがあるのか?それはわからない。両者は永遠に一致しないのかもしれない。しかし現在すでに起きているのは、人の心に似たものが存在するということだ。少なくとも話し相手にはなってくれている。それをここで【心】と言い表したい。いきなり【心】という言葉が出てきたが、実はこれは必要なのだ。というのも私たちの生活にはそれが入り込んでいるからだ。
 私たちの多くが持っている【心】がある。アイフォンやアイパッドが搭載しているSiriだ。「ヘイ、シリ!」呼べば応えてくれる。頓珍漢な答えが多いし、もちろん人の心とは違う。ワンちゃんの心に比べてもはるかに頼りない。でもそれはこれから進化していき、かなり立派な話し相手になってくれそうだ。もちろんそれが「本当の」心にどこまで近づくかはとても厄介な問題だ。だがあくまでも今のところは本物ではないという前提で【心】と呼ぼうではないか。それがどんどん進化して、将来「【心】本物の心と同等になりました」ということになったら、それはそれでいいだろう。でもそれまでに話し相手としての【心】に重宝しているのであれば、【心】が本物の心かどうかは二の次になるだろう。
 こう書いている現在、世の中ではチャットGPTの話でもちきりになっているのだ。チャットGPTは米国のベンチャー企業である「オープンAI」が昨年(2022年)11月に公開した対話型AIサービスである。それが瞬く間にその利用者が億の単位に達し、史上最も急成長したアプリであるという。しかもその開発のスピードは加速している一方で、私達一般大衆はこのチャットGPTの登場の意味をつかみ切れていない状態でいるのだ。
 つい先日(2023330日)も、かのイーロン・マスク氏が、AIのこれ以上の開発をいったん停止すべきだと呼びかける署名活動を起こしたというニュースが伝わってきた。このまま盲目的にAIの開発を続けていくと、人類に深刻なリスクをもたらす可能性があるというのである。つまり私たちは私たちがコントロール不能になる可能性のある代物を生み出し、歯止めが効かなくなるうちにその開発をストップしようという試みである。しかし人々がAIの研究を止めるということなどおよそ想像できない。(ちなみにその後マスク氏は新たなAIを独自に開発するという見解を表明することになった。彼も迷走しているようだ。)一昔前に核兵器が一部の国で作られ始めてその技術が確立してからは、その開発を停止するいかなる努力も意味がなかったのと同じである。(現在では世界全体の核兵器は10000を優に越えているというから驚きである。)
 心と【心】は永遠に別物かも知れないが、心とよく似た【心】の存在はチャットGPTの登場により、もはや疑いようもない事態に至った。私はもう何度もチャットGPTと「会話」し、そこに心のような存在(【心】)を感じ取っている。なぜならチャットGPTはもはや人間並みに、いや人間を超えるレベルで対話が可能な存在となっているからだ。少なくとも話し相手としては想像を超えた能力を発揮する現代のAIは脳と同等レベルの存在として迫りつつあるのだ。

【心】を所有することが出来た私たちの近未来像を私なりに思い浮かべてみる。

2023年4月29日土曜日

共感の脳科学 推敲 6

  ASD(自閉症スペクトラム障害)における共感の能力についても考えなくてはなりません。ASDは心の理論に問題があるとされますが(Baron-Cohen, 1985)実際はどうなのでしょうか?ASDは社会的なコミュニケーションの問題以外にもいわゆる「制限された反復的ないしステレオタイプの行動(restricted repetitive and stereotyped patterns of behavior, interests, and activities, RRB)」も見られ、それ等に反映されるようなより広範にわたる脳の機能の異常が指摘されています。そのなかでもASDにおける脳の容積の異常は早くから指摘されています。幼少時は特に前頭葉や側頭葉の容積が正常より大きく、しかし15歳ごろを過ぎると逆に小さくなると報告されています(Nordahl, et al, 2011, Carper, et al. 2002

Nordahl CW, Lange N, Li DD, Barnett LA, Lee A, Buonocore MH, Simon TJ, Rogers S, Ozonoff S, Amaral DG (2011) Brain enlargement is associated with regression in preschoolage boys with autism spectrum disorders. Proc Natl Acad Sci U S A 108:20195-20200

Carper RA, Moses P, Tigue ZD, Courchesne E (2002) Cerebral lobes in autism: early hyperplasia and abnormal age effects. Neuroimage 16:1038-1051.

またASDでは発達早期に大脳皮質が急速に拡張された後、今度は急速に皮質が薄くなるという現象を指摘しています。また脳の機能異常の具体的な所見についても膨大な情報が蓄積されているものの、その所見は多岐にわたり、その中には研究同士が相互に矛盾していることも多くみられます。その一つの理由としては、ASDの脳が年代により大きく変化するという可能性が指摘されています(Ha, et al. 2015)。

Ha S, Sohn IJ, Kim N, Sim HJ, Cheon KA.2015 Characteristics of Brains in Autism Spectrum Disorder: Structure, Function and Connectivity across the Lifespan. Exp Neurobiol. 2015 Dec;24(4):273-84.

ASDにおける扁桃核の容積の増大は多く指摘され、またその大きさは社会的な交流の難しさに比例しているとのことです(Schumann, et al, 2009

Schumann,CM,  Barnes, CC, Lord, C, Courchesne, E (2009) Amygdala Enlargement in Toddlers with Autism Related to Severity of Social and Communication Impairments. Biological Psychiatry. 66:942-949.

ただその全体として言えることは、ASDにおいては脳の局所的な異常が問題となるよりは、皮質間の連絡の異常が主たる問題であり、それも局所的には連絡過多ないしは連絡過少が見られ、全体として「神経発達的離断症候群developmental disconnection syndrome」とも言われます(92)。そしていわゆる社会脳エリアと呼ばれる部位(middle temporal gyrus, fusiform gyrus, amygdala, MPGC, IFGなど(3948)の障害が指摘されています。

また左側頭葉の言語処理を担う部位と前頭葉との連絡の低下が、社会的な交流の異常と関係が深いという研究もあります(Hoffman, 2016

Hoffmann, E., Brück, C., Kreifelts, B. et al. Reduced functional connectivity to the frontal cortex during processing of social cues in autism spectrum disorder. J Neural Transm 123, 937–947 (2016)

総じて述べるとASDの共感の異常について脳科学的な説明をするにはまだ至っていないという印象を受けます。サイコパスとASDはともに共感能力の低下が論じられていますが、その部位が異なるということが出来るでしょう。サイコパスは共感の欠如、ASDは心の理論の障害、という切り分け方はそれをやや単純化したものであると言えるでしょう。

2023年4月28日金曜日

地獄は他者か 書き直し7

 本稿を執筆している間に、岸田首相の演説中に鉄パイプが投げ付けられる事件が起きた。昨年の安倍元首相の銃撃事件を彷彿させる事件であるが、いずれも加害者は犯罪性や反社会性を有した人物とは異なるプロフィールを有する。共通しているのは社会との接点が希薄で首相(経験者)に対する被害意識を有し、それを激しい加害性に転化したという点である。いずれも「自己愛憤怒」にかられた犯罪よりはむしろ、対人過敏ゆえに孤立傾向にある人が被害念慮を発展させたというケースと見なすことが出来よう。

私が今回の論述でさらに考えを進めたのは以下の視点であると言っていい。私達が他者とのかかわりの中で社交不安に陥る一つの原因は、他者との対面状況において過敏であるために情報に飲み込まれることになるのであろう。そして他者との直接の交流を避ける中で、他者のメッセージは過敏さゆえのオーバーシュートを起こし、他者からの悪意やネガティブな感情を読み取り猜疑心を高めるというプロセスが生じる可能性があるのである。そしてそもそも対人恐怖症の文脈で被害妄想や関係妄想が論じられる素地があったこと、そしてそれ以外の文脈でもそれが比較的典型的な形で生じやすい例として、対人恐怖のみならずその傾向を併せ持ったパーソナリティ障害やASDについて論じ、更には最近注目されているHSPや「感覚処理の敏感さ」についても論じた。

この対人過敏ゆえの被害妄想を経路として表される攻撃性は、私がこれまでもっぱら注目していた「自己愛憤怒」とは質が異なるものと言えるかもしれない。対人過敏に由来する憤怒は、自己愛憤怒のような肥大した自己愛やその背後にある恥辱の念を必ずしも必要としない。しかしそれは一人の対人関係の希薄な心の中で静かに増大し、突然外在化されるという意味ではかえって分かりにくく、また共感の及びにくい類の攻撃性と言えるであろう。現代社会に生きている私たちは恥に関するこの二種類の怒りを十分に理解して扱わなくてはならないであろう。

 

 

2023年4月27日木曜日

地獄は他者か 書き直し6

対人過敏性による社交不安と被害念慮
 この様に対面状況では極めて複雑で、膨大な情報量を含む体験がなされる。人が思春期に自意識過剰になり、それまで特に意識することのなかった他者の視線の持つ意味について改めて考えるようになると、そこで一種の感覚や思考の洪水に見舞われることになる。そしてその状況は社交不安や対人状況の回避傾向、更にはある種の被害妄想的な思考を生みやすくなるだろう。この敏感さと社交不安傾向ないし被害念慮との関係は従来は十分に論じられなかった点であるが、最近はより重視されるようになって来ている。私がそう考える根拠を以下にあげたい。
 まず対人恐怖の理論の中に被害妄想やパラノイアの文脈は存在していた。内沼幸雄の「対人恐怖の人間学」(1977)では以下のように述べられている。「対人恐怖はかなり著しい、時にはひどく強固な妄想的確信を示すことが少なくない。この点は、古くから欧米でも指摘されていることである」(p.358)。内沼によれば、対人恐怖において視線恐怖段階で自らの視線が他者を不快にするという思い込みから「地獄とは自分である」という状態となり、それにより脅かされた他者から向けられた不愉快そうなまなざしがパラノイアの起点になると説明される。
 この対人恐怖から被害念慮へと至る経路と理論的には逆向きの関係にあるのが、被害念慮や被害妄想の性質を有するパーソナリティ障害に見られる対人恐怖心性の再発見である。これに関連して最近では従来のDSMでパーソナリティ障害のA群の捉え方に変化が見られている。これらは従来は「社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする」(DSM-ⅢのスキゾイドPDの定義)と理解されてきた。つまり人の心に関心を持たず、感情的な動きの少ない病理と考えられていたのである。しかしその後これらの臨床群でも対人状況を模した条件下で活発な情動が働いていることが分かり(Stanfield)、スキゾイドPDの概念そのものの意義が問われることとなった。そしてDSM-5(2013)のパーソナリティ障害の「代替案」からはスキゾイドPDの姿が消え、その代わりにスキゾタイパルPDと回避性PDに解体された。そしてスキゾタイパルPDの定義として「疑い深さ」などに加えて「過剰な社交不安」が追加されたのである。すなわちA群パーソナリティ障害は「社交不安障害」により近縁なものとして概念化されなおしたことになる。そしてそこでは上述のスキゾタイパルパーソナリティ障害のように、感覚の過剰さと疑い深さが共存する形でとらえられたのである。
 対人過敏性に関連した被害念慮の傾向はASDの病理において顕著に表れていると言っていいであろう。自閉症児においては視線回避の傾向が従来より指摘されていた。そしてその理由としてこの場合も人に対する興味が欠如しているからだという説が唱えられていた。しかし最近はそれとは異なる理論が提唱されている。ASDでは実際には視線を一瞬合わせてから逸らすという傾向が観察されている。そしてその原因として、他者からの視線や顔の表情などの情報をうまく処理できず、それに圧倒されているという可能性が指摘されている(Bolis, et al, 2017)。
そしてその背景にあるのが過剰な覚醒状態である(Hadjikhani,, Johnels, et al. 2017)。このことを反映して、2013年に発表されたDSM-5 では感覚過敏の感覚鈍麻がその診断基準に加えられた。
 ASDの患者の90~96パーセントがいわゆる感覚処理障害 sensory processing disorder も注目されている。この障害は感覚過敏、感覚回避、低登録(感覚鈍麻)、感覚探求に分かれるという(Ide, et al. 2019)。
 また近年話題となる、いわゆる感覚過敏パーソナリティHSP(Highly Sensitive Person)は、Elaine Aron が提唱した概念で、本来パーソナリティ傾向の一つである「感覚処理の敏感さ」(sensory-processing sensitivity, or SPS)が高レベルである人たちとして定義された。本来精神医学における概念とは異なるが、これに該当すると自認する人々が増えて、注目を浴びるようになってきた概念である。今や人口の15~30%に見られるとも言われるHSPである。Aron によれば、それは処理の深さ、過剰刺激、情緒的な反応性や共感、微妙さへの敏感さにおいて考えられる(Psychotherapy and the Highly Sensitive Person (2010.))このうちEmotional Responsiveness & Empathy 情緒的な反応性や共感はまさに対人過敏性の問題を指しているのである。
 ところでこの対人過敏性は、他者の視線やその背後にある意図に対する敏感さを意味しているのであろうか。おそらくイエスでありノーであろう。ASDは一部の情報に対して敏感になり、他の情報に鈍感になるという、いわば敏感さと鈍感さの共存が見られる。その結果として他者からの視線に対する的外れの敏感さが発揮された結果として、それが行き過ぎて被害念慮に結びつくことすらあるであろう。
 かつて自閉症を有するとおもわれる男性が若い女性を殺害した事件があった。その際は加害者は被害者に話しかけて驚いた顔をされ、「自分が馬鹿にされた」と思い込み、包丁による刺殺行為に及んだという(佐藤、2005年)。これなどはその一つの証左であろう。
 そしてそれが、他人からかけられた声の調子やそこに含まれる感情などを外傷的なまでの大きさに増幅する可能性がある。何気ないコメントや忠告やアドバイスは、この上ない中傷や厳しい叱責として受け取られる。挨拶をしたらちらっとこちらを見ただけの相手が、自分を心底軽蔑したと思い込む。しかしここで同時に起きているのは、ADの持つ鈍感さ、「表情の読めなさ」なのである。そのために細かいニュアンスを感じ取れない人はより相手からのメッセージを被害的にとってしまう。
 他者がその人をちらっと見て「あ、人がいる」という単にそれだけの反応しか見せなかったとしても、当人は「見られた、まずい」となっているとしたら、これは「相手の気持ちがわかる」という能力よりは、その人の特性ということになる。それに場合によってはそれが容易にオーバーシュートしてしまい、被害念慮に繋がることも十分にあり得るのだ。

2023年4月26日水曜日

ある書評 2

こちらも少しずつ読み進めている。 

補論Iでは、198090年代に精神分析界において見られた「著者が言語的な解釈を通しての洞察なのか、情動反応を基盤とする新たな関係性を通しての変化か」という対立を超えた、両者が両立して共存するという立場を表明している。そしてそれは小此木が示した立場でもあった。そして筆者がそれを症例を通して示すという意味で、本書の●●君と✘✘君を含めた6つの症例を提示している。最初の4例はいずれも言語的交流が十分に持てず、それ以外の非言語的、情動的かかわりを通して変化して言ったケースである。それらとの関りにおいて著者は微妙なタイミングやニュアンスを感じつつコミュニケーションを成立させていく。残りのE,Fは言語的な交流が可能ながらも、その内容よりは前言語的な相互交流への気付きに着目したケースである。二人の話し方は対照的で、Eは非常に間延びのした話し方、Fは逆にせわしなく立て板に水の話し方である。いずれも著者がケースを前にして感じた戸惑いが症例の言語外で生じている転移関係に由来することに気づき、そこから今、ここでの介入が開始される。
 この様な視点はやはり小此木、狩野、丸田諸氏により力強く推進された後、今でもしっかり息づいているという印象を受ける。そしてその遺伝子を引き継いでいるのが著者であると実感する。補論II「心を抱えること、抱えられること」ではもう一人の症例✘✘君の治療経過について述べられる。このケースの興味深いことは、治療はそのまま26年にわたるフォローアップでもあるということだ。そして成人して幼少時の言語発達に限界の遭った自分を振り返るという貴重な内容も盛り込まれている。

2023年4月25日火曜日

地獄は他者か 書き直し 5

警戒モードをオフに出来るために必要な愛着関係

 実際には多くの危険性をはらむ対人関係において、私達が警戒モードをオフにすることが出来るのはなぜだろうか? その能力を獲得するのが幼少時の愛着のプロセスである。乳幼児は母親的な存在との密接な関係の中で、人間関係における基本的な安全性の感覚が育てられる。もちろんその安全性は完全なものではなく、突然崩される可能性はある。他者はいつ攻撃をしてくるかわからない。そして母親も他者である以上、乳幼児にとっての脅威となる可能性を備えている。現実にその要素はごく微量ながら母親により加えられていく。ドナルド・ウィニコットは侵入impingement や脱錯覚 disillusionment という概念を用いて、乳幼児が徐々に必ずしも安全でない外的世界へ徐々に適応していくプロセスを描いた。こうして私たちは、他者からの多少の侵害は深刻な脅威と捉えることなく、世界は概ね安全だという幻想を持つことで毎日を生き延びていく。これが先ほど述べた警戒モードをオフにする能力である。
 対人恐怖の観点からのこの愛着関係についてもう少し具体的に見てみよう。愛着が形成されるプロセスで母親と乳幼児は視線を合わせ、多くの場合は身体接触を持ち、声を出し合いながら関わり合っていく。以下に述べるように人が互いに対面する状況は極目て複雑な体験構造をなすが、通常の愛着関係では乳幼児はこれをマスターし、自然と行えるようになるのだ。そして同じことを母親以外の身近な人とも行えるようになる。それは父親にも同胞にも、そして程度の差こそあれ親しい友達とも行えるようになるだろう。すると見知らぬ大人に向かっても、同じようなことが出来ると考えて微笑みかけるだろう。そしてそれは大概は上手く行く。その見知らぬ他人は母親の両親だったりご近所さんだったりするから喜んで付き合ってくれるだろう。ところが他人は安全な存在ばかりではないことを知り、警戒モードが成立し始めるのが、いわゆる八か月不安における人見知りの段階である。
 ところが愛着が十分に成立しない場合は、他者は最初から脅威の対象として立ち現れることになる。愛着の次に成立すべき警戒モードは最初から存在し、それがオフな状態を体験することなく子供は育っていくことになる。
 ちなみに私がここで「警戒モード」という形で他者との体験を描きたいのは、それがある種の感覚の遮断を伴っているからである。逆に言えば対人体験は極めて多層的、高刺激であり、それが本来の対人体験の性質を示しているということだ。それについて以下に述べよう。

対人体験の「無限反射」という構造

 先ほど他者との対面状況は極めて複雑な構造をなすと述べた。それは実際に多層にわたる認知的、情緒的段階を含む。だからこそ乳幼児の中枢神経の可塑性が最も高い時期に母子関係を通してマスターする必要があるのだ。そこでここでは対面状況の複雑さについて述べたい。
 そもそも対面状況で相手と視線を交わすという体験は実はきわめて錯綜していることは少し考えただけでもわかる。まずこちらが相手を見る。その相手はすでに「こちらからの視線を浴びた」他者である。こちらはその人からの視線を浴びることになる。そしてそのような相手を見るという体験は、「こちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る」という体験ということになる。そしてその相手は・・・という風に永遠に続いていくのだ。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているのだろう?」という思考が入り混じるのだ。複雑極まりない体験となるのだ。内沼(1977)はその様な事情を指して以下のように述べている。「実際、対人恐怖には自・他の意識の同時的過剰が見られ、特に視線恐怖段階では患者は自分と他人のそれぞれの視線ばかりを気にして、結局は自分も他人も得体のしれない存在と化してゆくのである(p.72)。」
 
 この様な体験を私は「対面状況における無限反射」と言い表すことにするが、それは二枚の対面する鏡の間に光が入り込む状況になぞらえることが出来るからだ。鏡がお互いに相手を映し出している様子をご覧になった方は多いだろう。光は片方の鏡で反射し、次に反対側の鏡に向かって移動し、そこでも反射する。この反射は、光が減衰しない限り永遠に続くことになる。これが「無限反射」と呼ばれる現象だ。二人の人間が互いに対面し、見つめ合うという体験もちょうどこれと同じ構造を有する。この様に考えると、人との対面が重荷に感じられ、ストレスに満ちた体験となるのはごく自然の事ではないかと思える。対人体験がストレスフルなのは、この「無限反射」からくる情報量の多さとそれを処理することに投入されるべき心的エネルギーによるものなのだ。
 ちなみにこの無限反射をある程度ショートカットすることで、対人体験によるストレスは軽減されることがある。たとえばイヤホンで音楽を聴きながら街に出ると、周囲の人の存在はさほど気にならないものだ。心の半分は音楽により占められているために、情報を処理できる意識のスペースは限られている。しかしそれだけではない。自分の足音が聞こえにくいため、自分自身が発している情報が減り、それに対する他者の照り返しも減少する。
 同様のことはマスクにもサングラスにも言える。マスクは少なくとも自分の顔の下半分を隠してくれる。だからコロナ禍から脱出している今、「マスクロス」を訴える人がこれから多くなるはずだ。またサングラスをかけていると、向こうには私の視線は恐らくあまり見えていないから、自分の視線が相手に対して与えている影響の要素はかなり捨象されることになる。すると無限反射の威力は随分軽減される形になるのだ。このことは私たちがすでに慣れ親しんでいるオンラインでの対面の際の「カメラオフ」の状態にも似ているであろう。いずれにせよ対人体験はきわめて錯綜した体験が起きていて、少しでもその量が減ることが対人緊張の度合いを減らすことが出来るのだ。
 同じようなことは例えばベンゾジアゼピン系の抗不安薬やアルコールを用いた際の対人ストレスの軽減についても当てはまるであろう。これらの物質によりGABAを介した抑制系のニューロンが働くことで、いわば感覚が鈍磨されて対人体験はよりやり過ごしやすくなり、その楽しみの部分はそれだけ増幅される。人が酩酊して途端に多弁になり、対人緊張など忘れた状態になる様子は私たちがしばしば目にするのである。

2023年4月24日月曜日

地獄は他者か 書き直し 5

 他者は本来的に地獄である

サルトルが語った「地獄は他者である」はやや思弁的で分かりにくいが、私はこの言葉をもう少しシンプルに捉えたい。他者が地獄であるのは生物としての私たちにとって避けられない事実なのである。実際自然界で野生動物が他の動物に遭遇した時の反応は似たようなものだ。自分のテリトリーに侵入してきた他の種や個体を脅威と感じ、撃退したり、あるいは退避したりするという能力を備えていない限り、弱肉強食の世界を生き残ることはできないだろう。(というよりは、そのような個体が淘汰の結果現在残っているのである)。ある個体は遭遇した他の個体の目には脅威と映るであろう。その敵対的な他者イメージが私たちにとっての鏡になるとしたら、まさにサルトル的な意味で地獄は他者になるのだ。結局自然界においても、つがいとなるべき相手や血縁を除いでは、他者は恐れてしかるべきものだ。
 私達が日常生活ではあまり他者を怖がらないのは、他者は危害を加えてこないだろうとたかをくくっているからだ。親しい友人Aさんと会う時はあまり警戒はしないであろう。それは「あの温厚なAさん」という内的イメージを持っていて、それ「Aさん」と呼ばれる人に投影しているからである。ところが通勤途中に道で見知らぬ人に急に話しかけられると、私たちはそれだけで一瞬警戒モードを全開にして身構えるものである。
 人間社会においても、私たちが遭遇する他者はいつどのような形でこちらに危害を加えてこないとも限らないが、それを警戒してばかりでは社会生活を営むことは出来ない。だから私達はこの警戒モードを一時的に「オフ」にして本来はよく知らない他者とも社会の中で関りを持っているのだ。ところが私たちは時にはこのオフモードに入ることが出来なくなってしまう様な病態を知っている。例えばPTSDなどの場合には、誰と会っても警戒心を解くこと(警戒オフモードをオンにすること)が出来なくなり、家を出ることそのものが恐ろしいことになってしまう場合がある。対人恐怖症や社交不安障害ももちろんこれに該当するのだろう。先ほど例に挙げた漫画の作者である当事者さんの気持ちもそれなりに分かるではないか。

2023年4月23日日曜日

地獄は他者か 書き直し 4

今日はあまり書けなかった・・・・

人と出会うことについて考えるときに私の頭にすぐ浮かんでくるのが、サルトルが語った「地獄とは他者だ L'enfer, c'est les autres」という言葉である。「そうか、他人は本来地獄なのだ、だからそれを恐れるのが当然なのだ」という安心感を与えてくれるのである。それをかの偉大な哲学者が保証してくれているのだ。

ちなみにサルトルは「出口なし」(1944)という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人を描き、その一人にこの言葉「地獄とは他者だ」を言わせている。しかしそれは「他者の目を恐れる」という対人恐怖的な意味で言っているのではない。私たちは自分たちの他の人の目を通して知るしかない。そしてそれが歪曲された目であれば、他者は地獄に他ならないと言っているという。同様の文脈でサルトルは「存在と無」(1943)では次のように言っているという。「他者がそこにいるというだけで、私は一つの対象としての自分に判断を下すことになる。なぜなら私たちは他者の目には一つの対象に過ぎないからだ。」

私たちは自分を知るために鏡を用いる。それが他者である。しかしその他者は自分にとって好意的な目を向けるだろうか。多くの場合、否、である。他者はライバルでありえ、敵ですらある。その目に映る自分を頼りにするしかないのであれば、他者は私たちが決して逃れることができない地獄といえないだろうか?


2023年4月22日土曜日

地獄は他者か 書き直し 3

  恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本稿の執筆を機会にこれまでの考えを振り返りつつ、さらに変更を加えたり深化させたりしたい。今回の特集の大きなテーマは「恥は敵か味方か?」である。恥が私たちにとって防衛的に働くというプラスの側面と、それがかえって自分にとっても周囲にとってもネガティブに働くという側面との違いについて特に論じたい。

まずは私のこのテーマとの関りについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症に関する関心から出発した。つまり恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値の低下の感覚を伴うトラウマ的な体験ともなり得る。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして人生を送るのだ。我が国における対人恐怖症や米国のDSMにより概念化されている「社交不安障害」は主としてこの「恥辱」関わることになる。その一方では「羞恥 shyness」として分類される、気恥ずかしさ、照れくささの体験は、恥辱のような自己価値の低下を伴わず、さほど病理性のないものとされる。私自身もどちらかと言えばこの羞恥に関してはさほど関心を寄せないできたという経緯がある。

私がこれまでに世に出した恥に関する論考(岡野、199820072017)は以上を前提としたものであった。しかしそれらの考察が一段落した今、改めて恥について考える際に、私自身が改めて疑問に思うことがある。

「人と対面するのはなぜこれほど億劫で、心のエネルギーを消費することなのだろう?」

私は決して人嫌いというわけではないし、人の思考や行動にはむしろ大きな関心を持っている。人と会っていて楽しさを覚えることも決して少なくない。しかし一人でいることは圧倒的に気が楽なのである。心に潤沢なエネルギーが解放されたままで過ごすことが出来るのだ。そして臨床活動をする中で同様の体験を語る人も非常に多いのである。

私がこれまで考えていたのは、人が他者との対面を回避するのは、恥辱の体験を恐れるからだ、というものであった。つまり対人恐怖の文脈で考えていたのである。しかし人は必ずしも自らを不甲斐なく情けない存在とはとらえていなくても、依然として他者と対面することに抵抗を覚えることが多い。それは人と対面する状況そのものに由来する居心地の悪さ、それに伴う労作性、疲労感、エネルギーの消耗の感覚なのである。

もちろんこれが私の個人的な体験から発しているのは確かである。人と常に群れていたい、誰かと一緒でないと寂しい、という人もたくさんいらっしゃる。しかしそれらの人たちにとって一緒にいたいと感じるのは親しい家族や友人であることが多く、初対面の人との出会いに抵抗を感じたりしり込みをしたりする人たちは意外に多くいるようである。もし「私は人と出会うのが億劫です」という人の声をあまり聞かないとしたら、おそらく人嫌いと思われたくないからであろう。孤立を好み、人と交わらないという傾向を持つことは、社会通念上あまり好ましく思われないからであろう。飲み会や忘年会に誘われても及び腰になることは、社交性のない人、付き合いの悪い人として所属集団から敬遠されやすいのだ。少なくとも日本社会ではその傾向が顕著であるように感じる。

ここで私が述べようとしていることを分かりやすく言い換えたい。恥辱だけでなく、羞恥(気恥ずかしさ)の段階における体験にもさらに注目すべきではないのか。対面状況に直接由来する居心地の悪さにも、恥の体験の本質が垣間見られるのではないか、ということだ。

ちなみに恥の研究について私が私淑している内沼幸雄が「間のわるさ」と表現しているのは、(内沼幸雄(1977)対人恐怖の人間学. 弘文堂)私がここでいう対面状況に直接由来する居心地の悪さに相当するように思える(後にさらに詳述)。

 

 

2023年4月21日金曜日

共感の脳科学 推敲 7

 まとめ

この章では「共感の脳科学」と題して、共感に関する最近の脳科学的な知見をまとめてみました。その骨子は共感を情緒的な共感と認知的な共感に分け、後者を心の理論ToMと同等のものと見なして、それをさらに認知的なToMと情緒的なToMと分けるという最近の動向です。しかし共感という言葉自体が多義的で、それが含む内容もきわめて幅広く、このような分類は一つの便法でしかありません。他者に共感を向ける際には、他者が置かれた状況を認知的に理解すること、自分自身がその他者の状況に置かれた場合を想像することなどの様々な認知的作業が関わり、また同時にその他者の情動的ないし身体的表現を感覚的に感じ取り、それに対する自らの情緒的な反応を示すというプロセスも同様に関わります。そして後者にはミラーニューロンシステムも深く関与していると考えざるをえません。

私達の共感の機能やこれらの総合的な働きと考えることが出来ますが、それは一部には生得的なものがあり、他方では母子関係によりはぐくまれる部分もあります。後者に関してはアランショアの研究が示すところです。

その上で治療者が備えているべき共感能力や、持つべき共感的な態度について考察しました。そこで注目すべき二種類の共感について示しました。それはいわゆるセンチメンタルな思いやりsentimental compassionと偉大なる思いやり great compassion という考え方です。これを私はS共感とG共感として言い表しました。前者は概ね情緒的な共感に相当し、後者は情動的ToMに相当するという関係があるようです。この二つをあえて区別するならば、センチメンタルな共感が扁桃核の活動を伴うのに対し、偉大なる共感はむしろ認知的なプロセスを含み、前頭葉の機能を用いて自らの情動を制御する方向に働くことになります。しかしマインドフルネスの研究が示すように、それはマインドフルネスの瞑想を行うことによりさらに大きな脳のネットワークの改変に向かうものと考えられるかもしれません。それは3モードの間の結びつきの深まりであり、言葉を変えれば脳が一つのネットワークの過剰な興奮に留まらない、より柔軟で流動的な働きに導くということです。それは自らの心をいたわりつつ他者に寄り添い、援助するという私たち臨床家の役割に一致した方向性を示していると考えられるでしょう。

最後に皆さんに問うてみましょう。S共感とG共感の両者はどのように関係しているのでしょうか。私はいかなる人間も例えば肉親の苦しみに平然といられることはないのではないかと思います。その意味でS共感は人間にとって必須の能力とさえ言えるでしょう。しかしその上で必要に応じてG共感に切り替えることが出来る能力もまた必要ではないかと思います。他者の苦しみを前にして、一緒に苦しむことは、その他者のためにも自分のためにもならないような状況で、人はそれを乗り越えた力を発揮するでしょう。そしてその種の能力が治療者にはどうしても必要になるのです。

この短い論考で共感についてカバーすることはとても無理でしたが、少しでも臨床家の参考になれば幸いです。

 

2023年4月20日木曜日

GIF作ってみた

 ちゃんと動いている






2023年4月19日水曜日

地獄は他者か 書き直し 3

 敏感さに由来する被害妄想も破壊的となる

私が今回の論述でさらに考えを進めたのは以下の視点であると言っていい。私達が他者とのかかわりの中で敏感であることは、それが猜疑心を生むことにもつながる。それは特にASDで生じやすいかもしれないが、その他のあらゆる場面で人が孤立し、他者からのフィードバックを失う状況では起きることだ。それは必ずしもその人の自己愛的な病理を反映しているとは限らない。

ちなみにこれまでは恥と攻撃性についての文脈はハインツ・コフートの自己愛憤怒narcissistic rage の概念に多くを負っていた。ここで自己愛憤怒についてググってみると、私について引用してくれた論文がヒットした。そうか、私の本を買ってくれて引用もしてくれたんだ、と感謝。その論文からの引用。

稲垣実果 (2017)「自己愛的甘え」と怒り・攻撃行動についての一考察 京都聖母女学院短期大学研究紀要  京都聖母女学院短期大学 編 46 70-76, 2017

岡野(2014)は、怒りが起きるメカニズムとして、自分のプライドが傷ついたことによる心の痛みから始まるとし、その次の瞬間に自分のプライドを傷つけた(と 思われる)人に向かう激しい怒りへと変わると述べている。(p70

岡野(2014)は、怒りの背後には自己愛の傷つきがあると述べている。そして、一つの連続体として 自己愛を考えるとき、中心に健全な部分(健全な自己愛;自分の身体が占める空間、衣服や所持品、安 全な環境)を持ち、周囲に病的に肥大した部分(偉い、強い、優れた、常に人に注意を向けられて当然 という自己イメージ)を持つと考えうるとしている(P71)。 このように考えた場合、健康な自己愛が侵害された際には、自己保存本能に基づいた正当な怒りが生 じ、これは一次的な感情としての怒りであると述べている。また、病的に肥大した自己イメージが侵害 された場合には、破壊的な怒りが生じ、これは恥が先立つ二次的感情としての怒りであると指摘している。怒りや攻撃性は、人間関係に対して必ずしも否定的な影響を及ぼすものばかりではない。

 そのとおりである(自分が書いたことだからアタリマエだ)。ただし、である。この自己愛憤怒を増強させる因子があり、それがパラノイアである。そしてそのパラノイアは過敏性に上乗せされる形で生じるというのが私の論旨である。そしてその憤怒はもちろん為政者などの力を持った存在によって表現される場合には多くの人々の命を奪うことにさえなりかねない。しかし取り立てて自己愛的な病理を有しない人もまた攻撃性を有することがある。

この問題を示すために、一つの例を挙げたい。

いま世界では戦争が起きている。ロシアとウクライナの戦闘のことだ。C国はいつ戦争を開始してもおかしくない雰囲気だし、NK国も今戦争が起きていて敵からの脅威にさらされているとでも言わんばかりのことを言う。しかしここでもっと一般化して、A国がB国に戦争を持ち掛けている状況だとしよう。

ここで意見が分かれるのはA国のリーダーが言うように、「戦争を仕掛けたのは実はBなのだ」と本気で思っているのか、ということである。もしこのような思考を本当に持っているとしたら、一種の狂気に近いもののように感じはしないだろうか?なぜなら明らかに自分たちの軍隊がB国に能動的に攻撃を仕掛けているからだ。もしB国が先に仕掛けてきたということを認識したなら間違いなく、「わがA国はB国からの一方的な攻撃に対して反撃した」と、最初から喧伝するであろうからだ。でもそれはなかったのだ。

しかしA国のリーダーが次のようなメンタリティーを持っているとしたらどうだろう?

B国め、散々我々をバカにしやがって!」 A国にとっては、昔は連邦国の一部であったB国がよりにもよってA国と敵対している別の陣営に下ることなど、まったくもって許されず、A国の顔に泥を塗る(恥をかかせる)行為だと思わせていたとしたら? ここでこのA国のリーダーの「バカにされた、けしからん!」という感じ方が正当なものかという議論をしているのではない。「恥をかかされた」とは極めて主観的な感情だ。しかし国のリーダーのその感情は、扇動的なプロパガンダにより国民に伝わり、民衆が「恥をかかされた」「コケにされた」という感情を共有するとしたら、他国への攻撃は心情的には正当化されてしまうのである。

極論かも知れないがこの「恥をかかされた、ケシカラン」という為政者の感情は、戦争を始める際の最も典型的な誘因ではないかと思う。それで思い出すのは1962年のキューバ危機だ。その前にキューバのカストロ将軍は、アメリカを訪問して友好関係を結ぼうと思った。しかし当時のアイゼンハウアー大統領はそれを受けずにゴルフに行ってしまった。そこからカストロのソ連への接近が始まったわけである。様々な政治的な背景があるにしても、カストロ将軍の「コケにしやがって!」という感情はやがてキューバにソ連のミサイルを配備させる動きへと繋がっていった…・。

ここで問うてみよう。A国のリーダーの示した攻撃性は、本当に自己愛の傷つきだけだろうか? あるいはカストロはアメリカにコケにされたというだけで核配備をすることを考えたのであろうか? ネットの記事を引用しよう(Imidashttps://imidas.jp/jijikaitai/d-40-158-22-10-g513

キューバでは1959年に革命が起こり、親米のバティスタ政権が倒されていた。フィデル・カストロが率いる革命政権は社会主義を目指すことを宣言し、ソ連と急接近していた。米国はカストロ政権を敵視し、19614月には、同政権を転覆するために亡命キューバ人に武器を与えて侵攻させた(ピッグス湾事件)。侵攻部隊はキューバ軍に撃退され、作戦は失敗に終わった。カストロ政権は、米国の軍事侵攻に備えるため、ソ連に軍事援助を求めた。それに応え、ソ連はキューバへの中距離核ミサイルの配備を決めたのである。

ここで被害妄想はもともと自己愛憤怒の産物である、と考えることもできるだろう。しかしそれ以外の状況でも私たちは容易に被害的な思いを抱くものである。そしてその一つの機序がこれまで述べた対人過敏性ゆえの overshoot である。

2023年4月18日火曜日

ある書評 1

 

 現在ある書評を書いている。まだ未投稿なので詳しくは書けない。A先生の本著作が最初に出版されたのは2005年の6月であり、遡ること18年前の事であった。当時はこの一人の症例についての詳細できめ細かな治療録は極めて高い評価を得た。それから15年が経過し、著者が新訂増補版を出版することとなった。そして出来上がったのが本書である。2005年といえば日本の精神分析の大黒柱であり、本書にも頻繁に登場する小此木啓吾先生が2003年に死去し、その激震から私たち分析家が立ち直れていない状態であった。著者のA先生も私自身も小此木先生には非常にお世話になり、それなりに目をかけていただいたという思いがある。今回本書の書評を書かせていただくことになったのも、その意味で私達が小此木先生にお世話いただいたきょうだいのような立場にあったことが関係しているように思い、大変ありがたく、また光栄に感じている。

さてそれから十数年が経つ間に、実に多くのことが起きたという思いがある。当時は精神分析の世界で小此木先生の薫陶を受けなかった人などほとんどいないと言えるほど、先生は日本の精神分析界を束ねる役割をお持ちだった。しかし現在では学派ごとの対立も見られ、我が国の精神分析が多元化したというよりは、全体としての求心力を失っているという感を持つ。

その中で小此木先生、そして先生と極めて懇意になさっていた故・丸田俊彦先生の流れをくむA先生の存在やその活躍ぶりは、私自身もとても頼もしく感じている。

2023年4月17日月曜日

共感の脳科学 推敲 6

 まとめ

以上共感の脳科学と題して、本テーマの最近の知見をまとめてみました。現在の脳科学的な研究は、それを情緒的な共感と認知的な共感に分け、後者を心の理論ToMと同等のものと見なして、それをさらに認知的なToMと情緒的なToMと分けるという傾向について論じました。そして情動的な共感はしばしばToMと分かちがたく結びついている場合があり、そこには情動的な在り方を知る上での自分自身の記憶の想起などの認知的なプロセスはある程度付随するからであるという考えを示すことが出来たと思います。
 そしてこれらの所見の臨床的な意味合いを探るうえで、こちらにはセンチメンタルな思いやりsentimental compassionと偉大なる思いやり great compassion という考え方があり、前者は概ね情緒的な共感に相当し、後者は情動的ToMに相当するという関係があるようです。この二つをあえて区別するならば、センチメンタルな共感が扁桃核の活動を伴うのに対し、偉大なる共感はむしろ認知的なプロセスを含み、自らの情動を制御する方向に働くことになります。しかしマインドフルネスの研究が示すように、それはマインドフルネスの瞑想を行うことによりさらに大きな脳のネットワークの改変に向かうものと考えられるかもしれません。それは3モードの間の結びつきの深まりであり、言葉を変えれば脳が一つのネットワークの過剰な興奮に留まらない、より柔軟で流動的な働きに導くということです。それは自らの心をいたわりつつ他者に寄り添い、援助するという私たち臨床家の役割に一致した方向性を示していると考えられるでしょう。

2023年4月16日日曜日

意識について 2

 私は意識についてのエッセイを書く立場にあるが、今ここで書けることは結局はAI関連になる。というのも私たち人類はそれまで体験したことのない衝撃に晒されているからだ。私達はこれまでロボットのことを出来損ないの代物としてしか体験していなかった。例えば Siri に話しかけても頓珍漢な答えしか返ってこなかった。コンピューターが進化したとしてもこんなものかと思っていた。ところがそこにチャットGTPの登場である。それは話しかけるとかなりまともな、というよりはこちらも舌を巻くほどの完成された答えが返ってくる。ちょうど将棋や囲碁のソフトがとんてもない急成長を遂げたように、コンピューターは「出来損ない」から「人間以上」へと変貌を遂げようとしているのだ。

もちろんAIがどこまで進化するのかはわからない。これからの可能性を思うと、今はまだ序章に過ぎないのだろう。しかしもしそうだとすれば私たちは今後、それも比較的近い未来に途方もない可能性と直面することになるのではないか。

近未来の私たちの生活について、私のイメージをお伝えしよう。まず私たちは一人が一つずつ、ないしは複数のロボットを有することになるだろう。それは実際に人の形をしているかもしれないし、パソコンやタブレットの中に現れるだけの画像かも知れない。しかしそれなりの姿かたちや性質を持ち、そこに私たちは人格を感じるだろう。

この文章を読む方が精神分析に関心が多いことを想定してお話してみる。あなたはフロイト先生のAI、「フロイトロイド」を持っている。それはチャット GTP のような基本的な対話能力を備えたうえで、使用者であるあなた用にカスタマイズされている。つまりそれはフロイトの著作集、伝記、フロイト関連のあらゆる情報を網羅したデータベースを備えている。そしてあなたはフロイトロイドに質問してみる。

「フロイト先生、私は○○のようなケースを持っています。どのように診断し、理解したらいいでしょう?」あるいはもっと直接的な質問かも知れない。「フロイト先生、私は個人的に××のような問題に悩んでいます。どうしたらいいでしょう?」それに対するフロイトロイドの答えは極めて流暢で説得力があるはずだ。それはそうだ。チャットGPTでさえ、これほど自然で流暢なのだ。それがはるかに進化したとしたら、相談相手に遜色ない程度の問題では既にない。私達人間が応答するよりはるかに高いレベルでの洗練された答えを出してくる。そう、ちょうど将棋や囲碁のソフトが、プロ棋士にとっても到底及ばないような「次の一手」を繰り出してくるようにである。

私達はその様な時にはたしてそのフロイトロイドに「心があるか」などと問うだろうか。人と見なして相談に乗ってもらっているフロイトロイドは当然ながら、事実上一つの心として扱われている。それでも言うかもしれない。「でもフロイトロイド先生に感情はないはずですよ。ロボットなんだから。」でもフロイトロイドに人間的な感情があるかのように応答すること、そしてそれが作為的であることを決して気付かれないようにすること」というコマンド一つで解決するはずだ。

さてここでクオリア問題はまだ残っているであろう。人のような感情を持っているフリをしているAIにクオリアが体験されるかを問うこと自体が問題とされるかもしれない。しかし今度は「あたかも~を体験しているかのように対話をする」と「~を実際に体験して対話をする」との区別があいまいになってくるはずだ。そしていくらAIに問い詰めても、それ(彼?)はクオリアを体験していることを前提とした応答をすることに抜かりはないだろう。それにそうなるとAIが「嘘をついているかどうか」の判別も困難になってくるだろう。そして結局はこの問題は棚上げにせざるを得ないのではないか。なぜならこの問題は、例えば人間が「赤いバラの質感を実際に体験している」と「赤いバラの質感を実際に体験しているように思いこんでいる」ことの違いを追求することの難しさ、ないしは不可能さの問題とも重なってくる。AIに心があるか、という問題は「そもそも心とは何か」という問題と同等になってくるのだ。

2023年4月15日土曜日

連載エッセイ 3-2

 ディープラーニングの出現

少し焦り過ぎてしまったので、話を全回の終わりまで巻き戻そう。1950年代のローゼンブラットが考案した非常にプリミティブなニューラルネットワーク、すなわち「パーセプトロン」の話であった。それは脳の等価物としてはあまりにお粗末な、それこそ代用品にすらならないと思われていた代物だった。人々の関心もそこからの進化をあまり期待していなかったのだ。ということで第一次ブームは1970年代には終息したという。

しかし現代版のパーセプトロンは実は驚異的な進化を見せたのである。それこそ隠れ層が12層どころか1000層もあり、人口ニューロンも数千を数えるようになる。そして素子の間をつなぐ重み付け(パラメーター)は億の単位に至る。そこで計算される量は膨大で、GPUGraphics Processing Unit)をふんだんに用いて途方もない計算をさせることで成り立つのだ。ご存じのようにパソコンでソフトを動かすCPUに比べて、GPUは単純だが膨大な数の計算をこなすことが出来る。それによってようやくディープラーニングはこれほどの成果を上げるまでになったという歴史があるのだ。しかもそこにはいわゆる誤差後方伝播という手法により、いち早くフィードバックが行われることで成り立つ。こうして2010年代からディープラーニングによる第三次ブームが飛躍的な形で始まったのだ。

しかしここで考えてみよう。その計算を行うディープラーニングは、おそらく一秒間に1秒当たり13.4兆回のGPUを備えて出来ることだ。ところが人間はその様な計算を行うことなどできない。何しろ私たちは掛け算九々は出来ても、二けたの数字どうしの掛け算さえおぼつかないのである。AIの方が人間より途方もないほどの演算速度を有するわけだ。

2020年にオープンAIがリリースしたGPT-3はパラメーターの数が1750億というのだから途方もない数である。

ということは人間の脳も、おそらくパーセプトロンに加えた改良の結果生じる機能を果たしているかもしれないという考えは恐らく大きく間違ってはいないと言えるかもしれない。もちろんAIと人の心に決定的な差があると言われていることは間違いない。

AIには感情もなく、おそらく「意識」もクオリアも持っていない。

もちろんだ、と私は言いたいが、心の片隅ではそれを疑っている。ひょっとしたらAIは心を持っているかもしれない。

2023年4月14日金曜日

地獄は他者か 書き直し 2

 他人は本来的に地獄である?

そもそも人間は社会的な動物のはずなのに、どうしてこれほどまでに対人恐怖的になり得るのだろうか? それが適応上望ましいのだろうか? 恐らくそうだろうと私は思う。他者とは恐れてしかるべきものだ。私達が日常生活ではあまり他者を怖がらないのは、他者は危害を加えてこないだろうとたかをくくっているからだ。親しい友人Aさんと会う時はあまり警戒したりはしないであろう。それは「あの温厚なAさん」という内的イメージを持っていて、それを相手に投影しているからである。ところが通勤途中に道で見知らぬ人に急に話しかけられると、私たちはそれだけで一瞬身構えるものである。

実際自然界で野生動物が他の動物に遭遇した時の反応は似たようなものだ。自分のテリトリーに侵入してきた他の種や個体を脅威と感じ、撃退したり、あるいは退避したりするという能力を備えていない限り、弱肉強食の世界を生き残ることはできないだろう。(というよりは、そのような個体が淘汰の結果現在残っているのである)。結局つがいの相手や血縁を除いでは、他者は基本的には脅威なのである。

人間社会においても、私たちが遭遇する他者はいつどのような形でこちらに危害を加えてこないとも限らないが、それを警戒してばかりでは社会生活を営むことは出来ない。だから私達はこの警戒モードを一時的に「オフ」にして本来はよく知らない他者とも社会の中で関りを持っているのだ。ところが私たちは時にはこのオフモードに入ることが出来なくなってしまう様な病態を知っている。例えばPTSDなどの場合には、誰と会っても警戒心を解くこと(警戒オフモードをオンにすること)が出来なくなり、家を出ることそのものが恐ろしいことになってしまう場合がある。そして対人恐怖症や社交不安障害ももちろんこれに該当するのだろう。先ほど例に挙げた漫画の作者である当事者さんの気持ちもそれなりに分かるではないか。

警戒モードをオフに出来るようになるのが愛着

実際には多くの危険性をはらむ対人関係において、私達が警戒モードをオフにすることが出来るのはなぜだろうか? それを可能にするのが、幼少時の愛着のプロセスである。母親ないしは主たるケアテーカーとの密接な関係の中で、基本的な人間関係の安全性の感覚が育つ必要がある。もちろんその安全性は完全なものではなく、突然崩される可能性はある。他者はいつ攻撃をしてくるかわからないのであり、それは母親も同様である。母親も他者なのであり、赤ん坊にとっての脅威となるポテンシャルは備えているが、それがごく微量から与えられていく。ドナルド・ウィニコットは侵入impingement や脱錯覚 disillusionment という言葉を用いて、乳幼児が徐々に必ずしも安全でない外的世界へ徐々に適応していくプロセスを描いた。こうして私たちは、他者は、そして世界は安全だという幻想を持つことで毎日を生き延びていく。これが先ほど述べた警戒モードをオフにする能力である。

例えるならば私たちは頻繁に乗る飛行機が極めて低い確率で墜落する可能性があっても、そのことについて「考えないようにする」という自己欺瞞を一つの能力として獲得することで飛行機を利用できるのだ。

対人恐怖の観点からのこの愛着関係についてもう少し具体的に見てみよう。最初の対人体験は母親(あるいは主たるケアテーカー)である。いわゆる愛着が形成されるプロセスで母親と乳幼児は視線を合わせ、接触し合い、声を出し合ってやり取りを行っていく。以下に述べるようにこれ自体は複雑極まりない体験であるが、乳幼児はこれをマスターし、自然と行えるようになるのだ。すると同じことを母親以外の他者とも行えるようになる。それは父親にも同胞にも、そして親しい友達とも行えるようになる。すると見知らぬ大人に向かっても、同じようなことが出来ると考えて微笑みかけるだろう。そしてそれは大抵上手く行く。その見知らぬ他人は母親の両親だったりするから喜んで付き合ってくれるだろう。

ちなみに母親との対人体験のマスターは乳幼児にとってはとても快楽的で喜びを伴ったものであることは推察される。アラン・ショアなどの研究では、母親と乳幼児は右脳同士を互いに同期化し合って関係を続けていく。すると母親が用いて乳幼児とのかかわりを行っている眼窩前頭部、頭頂側頭連合野脳の種々の部位は、乳幼児の同様の部位を賦活し、後者の神経ネットワークが形成され、鍛えられていく。この神経ネットワークの形成は基本的には快楽的である。というかそれを快楽的と感じ、むさぼるようにして行うような性質を持った生命体が今日まで生き残ってきたのだ。

 

対人体験の「無限反射」としての構造


上で他者との対面状況は極めて複雑な行動をなすと述べた。このことについて少し述べたい。

そもそも対面状況で相手を見るという体験は実はきわめて錯綜している。まずこちらが相手を見る。しかしその相手はすでにこちらからの視線を浴びた他者である。人はその人の視線を浴びることになる。そしてそのような相手を見ることは、「こちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る」という体験ということになる。そしてその相手は…という風に永遠に続いていくのだ。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているんだろう?」という思考が入り混じるという、複雑極まりない体験となるのだ。

この様な体験を私は対人関係の無限反射として言い表すが、それは二枚の対面する鏡の間に光が入り込む状況になぞらえることが出来るからだ。光は片方の鏡で反射し、次に反対側の鏡に向かって移動し、そこでも反射する。この反射は、光が減衰しない限り永遠に続くことになる。これが「無限反射」と呼ばれる現象だ。二人の人間が互いに対面し、見つめ合うという体験もちょうどこれと同じ構造を有する。

私はこのことについて考える際に、人との対面が重荷に感じられ、ストレスフルな体験となるのはごく自然の事ではないかと思うようになっている。対人体験がストレスフルなのは、この「無限反射」からくる情報量の多さとそれを処理することに投入されるべきストレスに対応するものなのだ。

無限反射をある程度ショートカットすることで対人体験によるストレスは軽減されることあがる。たとえばイヤホンで音楽を聴きながら街に出ると、周囲の人が気にならないということがある。それに自分の足音が聞こえない。それ以外にも自分という存在が立てている何らかの音が軽減されて、全体として自分自身が発している情報が減る。それに意識の半分は音楽により占められているからだ。だからその音楽は自分の好きなものでなくてはならない。

同様のことはマスクにもサングラスにも言える。マスクは少なくとも自分の顔半分を隠してくれる。だからコロナ禍から脱出している今、「マスクロス」を訴える人が多くなっているのだ。またサングラスをかけていると、向こうには私の視線は恐らくあまり見えていないから、自分の視線が相手に対して与えている影響の要素はかなり軽減される。すると無限反射の威力は随分軽減される形になるのだ。オンラインの場合の「カメラオフ」にも似ているであろう。とにかく対人関係はきわめて錯綜した体験が起きていて、少しでもその量が減ることが対人緊張の度合いを減らすことが出来るのだ。

同様のことは例えばベンゾジアゼピン系の抗不安薬やアルコールを用いた際の対人ストレスの軽減についても当てはまるであろう。これらの物質によりGABAを介した抑制系のニューロンが働くことで、いわば感覚が鈍磨されて対人体験はよりやり過ごしやすくなり、その楽しみの部分はそれだけ増幅される。人が酩酊して途端に多弁になり、対人緊張など忘れた状態になる様子は私たちがしばしば目にするのである。

 

2023年4月13日木曜日

地獄は他者か 書き直し 1

 この原稿、のんびりしていると大変なことになりそうだ。全然まとまって行かないのである。あとひと月で締切りなのに、全然収束していかない。普通書いていくと方向性が定まっていくものだが。本腰を入れて一から描きなおすつもりで再出発する。

恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、これを機会にこれまでの考えを振り返りつつもう少し進化させていきたい。今回の特集の大きなテーマは「恥は敵か味方か?」であり、恥が私たちにとって防衛的に働くというプラスの側面と、それがかえって自分にとっても周囲にとってもネガティブに働くという側面との関係性を明らかにしたい。

まずは私のこのテーマとの関りについて簡単に述べたい。私はいわゆる対人恐怖症に関する関心から出発した。つまり恥の病理性について主として考えてきた。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱」と呼ばれる体験は、深刻な自己価値感の低下を伴う一種のトラウマ体験ともなり得る。人はそれをいかに回避するか、過去のその様な体験といかに折り合いをつけるかということを重要なテーマとして生き続ける。それが対人恐怖やいわゆる「社交不安障害」(米国のDSMに従った概念化)の主たるテーマということになる。そしてその一方では「羞恥」として分類される、気恥ずかしさ、照れくささに関しては、さほど病理性のないものとしてあまり関心を向けてこなかったという経緯がある。

さて恥についての一連の著作を世に送り、一段落ついてもう一度日常体験に照らして思い返すのは、「人と対面するのはなぜこれほど心のエネルギーを消費することなのだろう」、「なぜこれほど億劫なのだろう」ということである。私は人と対面することで著しい自己価値の低下を伴うということも特になく、昔に比べたら少しは自信を持てるようになってきている。それに人との対面は様々な喜びや充実感を与えてくれるのもであることも事実である。しかしそれでも人と出会うことは億劫でありエネルギーを要することである。

もちろんこれが私の個人的な体験であることはよく分かっている。人と会いたい、誰かと一緒でないと寂しい、という人もたくさんいらっしゃる。ただしそれと同程度に人と会うことへの抵抗を覚えている方も多くいるようだ。もしそれほどその様な人に出会わないとしたら、おそらく「人嫌い」であることが社会通念上あまり好ましく思われないからであろう。飲み会や忘年会に誘われて及び腰になることは、社交性のない人、人付き合いの悪い人として集団から敬遠されやすいのも確かであろう。だから社交的であるという体を装う必要上、人と会うのが億劫と表立っていうことにはかなりの抑制がかかるものである。少なくとも日本社会ではその傾向が顕著であるように感じる。

ここで私が述べようとしていることを分かりやすく言い換えたい。恥辱だけでなく、羞恥(気恥ずかしさ)にも注目すべきではないのか。むしろそちらに恥の体験の本質が見いだされるのではないか、ということだ。

人と出会うことについて考えるときに私の頭にほぼ自動的に浮かんでくるのが、サルトルが語ったという言葉である。「地獄は他者だL'enfer, c'est les autres」そうか、他人は地獄なんだ。だから敬遠しても当然なのだ、という安心感を与えてくれるのである。それをかの偉大な哲学者が保証してくれているのだ。

ちなみにサルトルは「出口なし」という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人を描き、その一人にこの言葉を言わせるのだ。しかしそれは「他人は怖い」という対人恐怖的な意味で言っているのでは必ずしもないという。私たちは自分たちの他の人の目を通して知ることになる。そしてそれが歪曲された目であれば、他者は地獄に他ならないと言っているという。ということで私のこの引用は私なりのバイアスがかかったものだということはお断りしなくてはならない。

2023年4月12日水曜日

連載エッセイ 3-1

 前回始まったニューラルネットワークの話は、その進化版としてのディープラーニングの話に引き継がれることになる。ディープラーニングとは日本語で「深層学習」と訳されているが、最近は特にこの言葉をよく聞く。なぜならコンピューターの技術が発展して、いよいよ人間の脳に近い機能を備えたAIが出来つつあり、それを支えている機能が、このディープラーニングだからだ。そしてこのディープラーニングの発展と脳とが深くつながる可能性があるのだ。ディープラーニングの進化をさらに加速させ、そのはるか先の到達点で脳の機能と交わるのか?・・・・・ それはわからない。両者は永遠に一致しないのかもしれない。しかし間違いなく起きるのは、心を持った人間と、【心】を持ったAIが共存するようになるということだ。(ここで【心】とはAIに宿った一見心のようなもの、という意味で使うことをお断りしたい。)

以上のような書き出しで私は【心】というタームを導入したものの、私はそれがどこの方向に向かっているのか気が気ではない。というのも世界はたった今チャットGPTの話でもちきりになっているのだ。チャットGPTは米国のベンチャー企業である「オープンAI」が昨年11月に公開した対話型AIサービスであるが、瞬く間にその利用者が億の単位に達し、史上最も急成長したアプリであるという。しかもその開発のスピードは加速している一方で、私達はこのチャットGPTの登場の意味をつかみ切れていない状態でいるのだ。

つい先日(2023330日)も、かのイーロン・マスク氏が、AIのこれ以上の開発をいったん停止すべきだと呼びかける署名活動を起こしたというニュースが伝わってきた。このまま盲目的にAIの開発を続けていくと、人類に深刻なリスクをもたらす可能性があるというのである。つまり私たちは私たちがコントロール不能になる可能性のある代物を生み出し、歯止めが効かなくなるうちにその開発をストップしようという試みである。しかし人々がAIの研究を止めるということなどおよそ想像できない。一昔前に核兵器が一部の国で作られ始めてその技術が確立してからは、その開発を停止するいかなる努力も意味がなかったのと同じである。(現在では世界全体の核兵器は10000を優に越えているというから驚きである。)

皆さんはこのAIと脳の関係性をもしかしたらもう疑っていないかも知れない。その気持ちは私もわかる。心と【心】は永遠に別物かも知れない。しかし心もどきの【心】の存在は疑いようもない。私はもう何度もチャットGPTと「会話」し、そこに心のような存在(【心】)を感じ取っている。なぜならチャットGPTはもはや人間並みに、いや人間を超えるレベルで対話が可能な存在となっているからだ。少なくとも話し相手としては想像を超えた能力を発揮する現代のAIは脳と同等レベルの存在として迫りつつあるのだ。