2018年9月30日日曜日

パーソナリティ障害はまだ・・・4

ウーン、いつも起きることだが、だんだんサイコパスということが分からなくなってきている。よくあることだ。遠目に見たら大体わかっている感じがするので、もう少し詳しく知ろうとすると、かえってぼやけてしまうことが。昨日の話もそうだ。自分や相手の痛みを感じないというサイコパスの特徴は、うまくそれらを感じるのを回避しているからか、それとも本当に感じていないのか。あるいは両者は本当に異なることなのか?
今日読んだ第3章にはこんなことが書いてあった。理由なき反抗に出てくるようなチキンゲーム。車が崖に向かって突進する。どちらが崖の近くまで車を進めることができるか。これを少し変えて二つの車がお互いに反対方向に突進するように走ると考えたほうが実はわかりやすい。ギリギリのところでハンドルを切って、相手をよけるのが安全だが、そんな心構えでは負けてしまう。絶対こちらはまっすぐに突進して向こうにハンドルを切らせる。そうすると勝利は間違いないが、死を伴うかもしれない。
このようなゲームはサイコパスにとってお手の物だ。これはよく映画や小説の題材になる。二人が互いにブラフをし合い、最後にどちらかが折れる。たいていは勝った方が勇気ある行動を示したといって、その男らしさを称賛されるだろう。本当のヒーロー、ともてはやされるかもしれない。しかしこれなども考えていくとよくわからない。本当にいざとなって正面衝突して死ぬのが怖くないのか、それともそのような状況では死ぬということを、そもそも想定していないのか? サイコパスはどっちだろう?
81ページ当たりに、Hideki Ohira オオヒラヒデキという人の研究が出てくる。最後通牒ゲームに関するものだ。二人がペアになり、Aに「二人の分です」と言って100ドル渡される。ABに、「50ドルずつ折半しましょう。」と提案すると、もちろんBはそれを受け取るだろう。ところがAが「私には80ドル、あなたには20ドルにしましょう」と提案すると、Bはそれを受けることもできるが、腹を立てて拒否することが出来る。するとその結果として両者とも取り分がなくなるという決まりだ。どんなアンフェアな提案でも受けていればお金は貯まっていくだろうが、普通は私が70、あなたが30ドル、つまり7-3あたりで相手はそれを拒否するという傾向がある。「バカにするな、お前も金がもらえないようにしてやる!」という頃合いが、平均すると7-3だというわけだ。さてそれをサイコパスにやるとどうなるか? サイコパスはアンフェアな提案も特に気にせず受けるという。そして最後は金を蓄える結果になるというのが研究の結果だという。それがオオヒラさんの研究だ。
いよいよわからなくなってきた。私の予想だとサイコパスはそんな提案をされただけで席を立って出ていくのではないか。しかしここで例の頭のいいサイコパス、そうでないサイコパス、という問題が出てくる。頭のいいサイコパスは最後は自分が得をするように事態を持っていく。この様に考えると二種類のサイコパスは全然違う種類の人間に思えてくるのだが、でも共通している部分がある。自己中心性だ。前者は長期的に見て自分が得をするように。後者は短期的に、刹那的に自分を満足させるような自己チューなのである。
ところでグーグルで出て来たぞ。大平英樹先生。名古屋大学の教授、有名な先生でした。

2018年9月29日土曜日

ある対談 7

質問者3:開業している精神科医です。今日はありがとうございました。私自身が考えていることは神田橋先生が「心は複雑に、行動はシンプルに」っていうようなことをおっしゃっているので、心の中というのは基本的にごちゃごちゃしていて全然構わないと考えています。逆に心を一つにまとめようとすると、むしろ行動の方がぐちゃぐちゃしてきちゃうような気がします。それとは別に私がいつも考えていることは、どの精神科の疾患に関しても、マラソンレースで例えば100メートルダッシュみたいに最初に一気に走ってしまって、バタッと倒れてしまうような走り方しかできない人がいるということです。するとバタッと倒れてしまうのは頑張りたい自分に対して休みたい自分がすでに限界に達してしまうということですね。すると治療として先ほどB先生がおっしゃっていたような、頑張りたい自分と休みたい自分というのが融合したとしたら、半分のペースでしか走れなくなってしまうということは起きると思います。でも状況によってペース配分を行い、ちょっと速めに走ろうとか、ちょっと疲れたから休もうとかっていう自由なペース配分が出来るようになるかもしれませんね。そういった行動のバリエーションが増えていくようなかたちの関わりというのが出来れば、それが統合なのかな、と思います。私はそのような単純なモデルを考えていて、それは走ることでもあるし、うつの治療でもあるし、統合失調症の方のそういった幻聴との関わりでもあるし、そんなことをちょっとお伝えしようと思いました。
B先生:いまのお話、すごく共感できます。それで何よりもまず一番最初に大事なことは、ここにいらっしゃる方はたぶん多重人格なんてないよ、という人ではないということです。私がいったん多重人格の方たちの臨床から外れたのは、虚偽性経路を持って虚偽を言っていた人格状態がいた方たちとの関わりの中で、自分のいたコミュニティを追われた、出入り禁止にされた、ということがあったのです。だからそういう状況とは違ってここに集まっておられる皆さんは仲間だと私は思っているので、ほんとにそれだけでまず素晴らしいということを一つ申し上げたいと思います。それといまの多面的、多重的という話で、ほんとにそうだなぁって思ったんですけれども、じゃぁそのいわゆるその離散型行動状態パターンによる統合っていうのが起きにくい人たち、起きてない人たちがどのような状態にあるかということです。私は施設の子ども達をたくさん見てて、どんなに並べても彼女たちはそこにストーリーを見出すことが出来なくて、カードがバラバラに見えるんですね。そういう体験ってみなさんしたことがありますかっていうのが、その多重性の世界。それで彼女たちが例えばどういうふうに体験をしているかというと、やはりバラバラな体験をしているところはあると思うんです。バラバラな視点を持っていて、それこそピカソみたいにあっちから見た絵と、こっちから見た絵とが一緒になったのが彼女たちの世界、彼ら彼女たちの世界なんですよ。それを理解した上で私たちがそういう人たちをどのように支えていくかということなんです。

2018年9月28日金曜日

パーソナリティ障害はまだ・・・ 3


ということで読み進める。今日読んだところは面白かった。おそらくこの Dutton の本が有名になった一つのきっかけではないか。それは彼が紹介している、スコット・リリエンフェルドという学者の研究である。それはこれまでのアメリカ大統領の自伝を書いた作者に対して行った研究である。彼らは自分たちの描いた元大統領たちがどのくらいの反社会性を備えているかについて尋ねられた。すると驚くべきことに、かなりの元大統領に反社会性が見られるということになった。いわゆるサイコパス・パーソナリティ・インベントリーPPIの二つの次元、つまり恐れを知らない支配欲 fearless dominancce,そして衝動的な反社会性 impulsive antisociality についてみたのだが、そこで一番高い位置にランクされたのが、かの JFケネディー、二位にはビル・クリントンが入ったという。「ちなみに詳しくは psychopathy and the presidents というサイトに行けば明らかだ。」残念ながらまだ●ランプさんの名前が出てこないが、それはこれが2010年の研究だかららしい。
ただしこの研究をあまりセンセーショナルなものと考えない方がいい。考えてみよう。一般人に対して行ったテストとの比較を述べているわけではない。そしてサイコパス性は悪いもの、というよりは人間集団の中で成功するためのカギと考えるのであれば、歴代大統領がそれらのスコアが高いのはむしろ当然と言えるかもしれないのだ。
その後に書かれていることは少し省略するが、一つ学んだことがある。私はサイコパスとASP(反社会性パーソナリティ障害)は同じことだと思っていたが、今回は Dutton が書いてあることに納得した。彼はこう書いている。DSMでのASPの定義には一つ重要なことが欠けている。数え上げてみよう。1.社会の規範に反すること。2.人をだますこと。3.衝動性。4.攻撃性。5.危険を顧みない。6.無責任。7.反省の念の欠如。そう、この7つの中に入ってこないがとても重要なのが・・・・冷酷さ、残酷さである。Dutton はこういう。「ASPマイナス感情が、サイコパスである。」 分かりやすいではないか。

2018年9月27日木曜日

パーソナリティ障害はまだ… 2


一応私が論じたいのは Kevin Dutton The Wisdom of Psychopath (2012) に書かれているような内容だ。前から気になっていたがちゃんと読んでいなかった本を下敷きにすることにする。この本がすばらしいのは、パーソナリティ障害について根本的に見直し、それをサイコパス-アスペルガー軸で論じなおしているからだ。だからこの機会にしばらく読んでいこう。と言ってもざっと、である。
序論のところでニューレグリン1という遺伝子の話が出てくる。この遺伝子が一塩基だけ変異したものは、従来は精神病や記憶障害や批判への敏感さと結びついていたのだが、最近創造性とも深い結びつきが発見されたということである。この厄介な遺伝子の変異は、実は適応的にもはたらいていたということだ。要するにノーベル賞をもらうような人たちの中に、これらの要素を持った人がより多いという可能性があるという風に考えてもいい。要するに創造的な人は、ちょっと変わっていて、通常の秀才とはおそらくかなり違っている可能性があるということだ。
似たような研究がいくつかあるのだが、これらが重要なのは、なぜか人間が持ち続けている、通常なら問題となる傾向が、なぜか適応を助長しているということがよくあるという事情を伝えてるからだ。精神病の人はそれだけ子孫を増やす確率を(どちらかと言えば)下げているだろう。でもどうして一定の割合の精神病の人が人類の中にいるのか。それはおそらく精神病を起こしやすい遺伝子が、他の適応的な部分に直接、間接にかかわっているかもしれないということなのだ。このように人間の特徴を決める形質は実は他のいくつかの性質にも貢献していて、互いが複雑に入り混じっている。決して有名な性格のビッグファイブ、OCEANSの、「体験に対するオープンさ」「良心的な性質」「外向性」「人当たりのよさ」「神経症的性質」のそれぞれをひとつずつの遺伝子が担当する、というような簡単な話ではないのだ。
サイコパス性、というこの本の主題について再び考えよう。サイコパスがいくつかの遺伝子により構成されていると仮定しよう。それらの遺伝子を多く持つ人は、それだけ生存の機会が増え、したがって子孫にその遺伝子を残しやすいのか。おそらくそうだろう。たとえば、である。ある国にスランプという人がいて、大統領だとしよう。スランプ大統領。余計な想像はしないで欲しい。そして彼はおそらくかなりのサイコパス性を備えているとしよう。彼が子孫を増やす可能性は・・・。おそらく高いのではないか。たくさんの人を押しのけ、自己主張を通し、そのためにはおそらく怪しげなことにも手を染めるかもしれない。いや、あくまでもスランプ大統領である。サイコパスの人の持つ、自己中心性、表面上のスムーズさ、計算高さ、女性を甘言に乗せることのうまさ・・・・。
おそらくことごとく社会での成功を勝ち得る方向につながるだろう。ここまでのロジックは一見スムーズに見える。ただ第一に挙げられる疑問は次のことだ。もしサイコパスが社会適応性を獲得するのであれば、そしてそれだけ遺伝子を残す可能性が高いのであれば、どうして世の中はサイコパスだらけにならないのだろうか?慧眼な読者ならこの問題が実は容易に答えが出ないことがわかるだろう。ただし答えの可能性のあるものだったら、いくつか思い浮かぶであろう。たとえば Dutton 先生は、サイコパスの人と話していて、なんとなく不気味で、寒気のする人が多い、と述べている。一見スムーズで人当たりのいいサイコパスの人をみると鳥肌が立つ人が多いのはなぜか? それはおそらくそれを働かせることの出来ない類の人は淘汰されてしまったのかもしれないからだ。そして今生き残っている人たちはサイコパスにだまされることなく繁栄できた人たちだと考えることができる。それはそうだろう。サイコパスだらけになってしまったら、お互いに殺し合いをするわけにはいかない。サイコパスではないものの、サイコパスに対する敏感さを備えた人たちもまた生き残ってしかるべきだ。
もうひとつは私の考えたアイデアだ。サイコパスの人とて、実際に愛をはぐくむ相手を見つけなくては繁殖できない。おそらくは社会性があり、ある程度人をひきつける魅力があり、自分の子孫を大事に育てるだけのやさしさを備えたサイコパス、つまりプチサイコパスでなければ生き残れない可能性がある。
このロジックはこの本のひとつの方向性ではある。まだ25ページくらいしか読んではいないが、出てくるテーマは賢いサイコパスとそうでないサイコパスの違い、ということである。前者は自分にとっての報酬を先延ばしに出来るだけの力を持ち、また人を巧妙にだますだけの巧緻を有し、また罰則や報復を恐れないだけの勇気/鈍感さを備えている。そういう人たちは社会の成功者と目される人たちに実はたくさん見られるということだ。

2018年9月26日水曜日

ある対談 6


質問者2:今日はいろいろと解離の話を聴かせていただいて、ありがとうございました。クリニックの開業医ですが、私も統合ってあんまり考えたことないんですよね。そういう意味ではC先生のお考えと似てるんだなぁと思います。私たちは昔からずっとメーリングリスト等でやってたから思うのかもしれないのですが、僕らにもmultiplicityっていうか多重性っていうか、それをさっきは多面性とどなたかおっしゃったと思いますが、いまこうやって喋ってる私と、家にいる私、あるいは診察してる私、あるいは教壇に立ってる私、というのは、みんな違うわけですよね。でもそのことは意識して、コントロールしているわけです。ところが解離はそのコントロールを失った状態だと思っています。そしてそれを統合するかどうか、ということなんだろうと思います。私は交代人格の扱い方については、まず彼らが出てこられるということが、そこでの安心安全が確保され、安心感を持たれているからだと思うのですが、その時になぜこの人がこういうかたちで現れているのか、ということについての、まるで何か推理小説を読むようなストーリーというのを自分なりに、あるいは一緒に考えて話をしていくと、その人がその状態、その時代に受けておられない、あるいはその時代に満たされなかったものというのが明らかになり、治療者との関係や、ほかの人との関係のあり方のなかで、満たされていくものがあるように思ってるんです。それが満たされるようになってくると、子ども人格が大きくなるし、ある種、理想となっているようなかたちで大人になってきますと、年代よりかは上の人が自分らしく落ち着いてくるというか。そんなかたちで年齢層がだいたい交代人格の方たちが同じになってくるのだと思います。私自身は「寝る」という感覚はあまりわからなくて、どちらかというとバリアが消えていって、それぞれの交代人格というのは、ジグソーパズルのピースであって、そのピースの溝みたいなものがなくなっていく、融けていく、というみたいなかたちのことが最終的な到達点じゃないかなと思っています。そしてそこからのことが、そういうかたちで生きていくということが、その人にとっての必要な本当の治療じゃないかなと思ってるんです。だから統合したとしても、と言っても私はほとんど統合という言葉は使わないけれども、そのまとまった感じになる、あるいは解離という機制を使わなくなった、その時点から、解離を使わなくて生きていく、さっきはその以前出来ていたことが出来なくなってしまう、ということがあるっていうお話しもあったのですが、その状況でなるべく解離を使わないで生きていくということについて一緒に考えていこうっていうのが治療じゃないかなと思っています。

B:このテーマについてなのですが、まず多重性の対になる概念として、私はずっと多面性ということを考えてい
ます。英語ではMultifacetedness、つまり割面がたくさんある多面体を考えているのですが、私たちは普通多面的であって多重的ではないわけです。だからA先生がこうやってお話をしている時に、携帯が鳴ってお子さんが、「今日の晩ごはんはどうしたらいいの?」と聞かれて、「ちょっと待ってね」というときのB先生は、途端にお母さんになる、これが切り替えが出来るのが多面的だと思うし、我々は普通そうなっていると思うんですよね。それが多重と多面の違いだなっていうふうに思う。存在者としての私とまなざす私というSM先生の分け方も、実はこの2つは常に存在していて高速に入れ替わることが出来るんだけれども、それがどちらかに固まってしまうような状態、これが解離している状態というふうに考えることが出来ると思います。そうだとしたら、そういうたくさんの面が、高速で移ることが出来るようなある種の脳の機能を我々は備えていて、だから普通に生活が出来ているんだというようなことをちょっと考えました。もう一つ簡単にですけども、私はね、多重人格の統合ということでいつも考えるのが、ヘンゼル姉妹、ヘンゼル姉妹って日本ではよくわからないかもしれないけれど、アメリカにいるシャム双生児の、頭が二つあるブリタニーとアビゲイルという姉妹がいます。小さい頃からずっとメディアに出て、ずっとフォローされてるんだけれども、この二人がどうやって生きていくかというのは、すごく悩ましい問題で、おそらく例えば人格が二つ入れ替わりに出ていてお互いを眺めている患者さんがいらっしゃいますが、一人はAさん、もう一人はBさんを好きになって、どっちと一緒になったらいいのか、というのがわからないという状態なのです。それをどう考えるかというときに、やっぱりこのシャム双生児のモデルを考えてしまう。で、この二人が二人ともハッピーになることは、なかなか難しいかもしれないけれども、どこかで交渉をして、最終的にどうするかを二人で決めていかなくちゃいけない。そういう場を与えるのが、我々の治療かな、というふうにちょっと思ってこんなことを言いました。

2018年9月25日火曜日

ある対談 5


B先生(続き): そのあたりのところは、私達治療者側の捉え方だったり、トラウマ処理の進行具合や心理教育がどこまで進んでいるか、ということとの兼ね合いで判断される、とてもダイナミックなプロセスだと思うんです。私は個人的には第三次解離のままで、つまりいくつかの人格が統合されずに存在していても、うまく行っている人をたくさん知っています。統合を急がないとすれが、その人のANPがきちんと機能しているのであれば、それでいいではないか、という気持ちがあるからです。私達には患者を傷つけてはならない、というヒポクラテスの誓いが頭にありますので、第三次解離の人たちにも非常に気を付けて関わっています。それと治療に当たっては、やはり優しい人の方がうまく行きます。やっぱりそうですね。
A先生:1つ、いいですか?統合に代わるアイディアとしてあるのは、ANP、EP。ところでこの言葉、私あまり使わないようにしてるんですけども、でもやはり使っちゃうんですけれども、主人格が例えば怒れなかった、でも自分のなかに黒いものを感じる、というような人が、怒ることが出来るようになるというプロセスがあるわけです。例えばお母さんに対して、全部「はい、はい」って聞いていた人が、お母さんに対して、意見を言えるようになったときに、自分のなかにある黒い部分っていうのが、だんだん広がってきて自分が灰色になった気分になった、っていうような患者さんがいらっしゃいました。その方の場合には、ANPとしての主人格が、機能を広げて、スキルを蓄えて、そして、「あ、自分は、いろんな感情を持ってもいいんだ」みたいになった場合に、他の人格が出てこなくてもよくなる、だから他の人格が安心して休むことが出来るようになる、という状況に持っていくというのは、わりと求めるべき、追求するべき方針だろうと思っています。統合を目指すというよりは一人一人の柔軟性を育てていく。また私が何が何でも統合に反対するのではなく、自然に起きるのなら大変結構だと思うところがあります。私だって、患者さんが「ABが統合しました」っていうふうに言われたら、「良かったですね」だと思うんですよ。その後も、もうちょっとフォローする。ただ、治療者がかなり強制力を加えて「あなた方を統合しました」という治療があるようです。それに関しては、ちょっと異を唱えたい、そういうことをちょっと申し上げたかったんです。

2018年9月24日月曜日

パーソナリティ障害はまだ… 1


オピニオン「パーソナリティ障害の現在(題名は変更可能)」 1126日締め切り? 4800字、って何のことだ? 
ということで緩い文章でよさそうだ。題名は「パーソナリティ障害はまだ存在するのだろうか?」にしてしまおう。
昔からパーソナリティ障害 personality disorder(長いから以下PD)と呼ばれてきたものは、だいぶぼやけてきてはいないだろうか? 普通PDは主として生育環境により形成され、成人後に診断が可能、というニュアンスがある。一生持ち続けるものであり、勿論遺伝的な要素もあるが、やはり環境因が大きいというニュアンスがある。まあ誰もそんなことを明言はしていないだろうが…。
反社会性? かなり生物学的な検索が進んできて、脳の異常ではないか、ということも言われている。とすると一種の発達障害ではないか? ボーダーライン? 私は多くの場合は「ボーダーライン反応だ」と言っている。多くのBPDの患者さんは数年たつと基準を満たさなくなってしまうというガンダーソン、ザナリーニらの研究は有名だ。スキゾイド? 最近聞かない。皆発達障害の方に合流してしまっているのか? ということで私の印象ではPDの概念は風前のともしびという印象がある。まあ少し考えてみる機会にはなりそうだ。

2018年9月23日日曜日

解離はいつ起こる? 周囲の人はどうしたらいいの?


こんなことも書いた。

3 解離はいつ起こる?

解離がどのような仕組みで起きるのか、いつどのような状況で起きるかは、詳しいことは医学的にもわかっていません。人間の心も体も、それだけ気まぐれなのです。人の心はいろいろな部分の共同作業で成立しています。ときどきその一部が独り歩きをしてしまうこともあり、私たちの多くがそれを体験したことがあります。酔って何かをしでかして、翌日覚えていない、とか、夜夢遊病のようになって、知らない間にお菓子をたくさん食べてしまっている、というのはその例です。違法薬物を用いて人工的に解離を作り出すという人もいます。ただし病的な解離性障害の場合は、その発症の原因となったストレスやトラウマのシーンが思い出されるような状況で解離が生じてしまうという傾向があります。昔自分を虐待した人に出会ったり、その人の消息を知ったり、トラウマを思い出させるようなシーンを夢や映画やドキュメンタリーで見たり、あるいは人が感情的になっているのを見る機会があったりした場合です。実際の対人場面できつい言葉を投げかけられたり、さらには実際にある種のトラウマを体験したりした場合にも解離が起きやすくなります。それ以外にも抑うつ気分が強かったり、酒に酔ったりした時にも解離症状が悪化することがあります。解離を持つ方は痛みや疲れやその他の苦痛を感じにくい傾向にあるため、それらが体が耐えられる閾値を超えた時にも、自分の身を守るために解離が生じることもあります。
解離が生じやすい人の場合には、これらの日常生活の危機をやり過ごすために、日ごろから準備が必要といえるでしょう。なるべくストレスを抱えない仕事や生活環境が必要で、温かく支えてくれる家族やパートナー、ないしはセラピストの存在も特に重要になってきます。そしてそれらの人との関係でいろいろな感情を体験する準備をすることが、突然の解離から身を守る方法といえるでしょう。

4 周りの人にできること
解離性障害は、その性質をなかなか一般の人にはわかってもらえないという事情があります。もうこれは解離性障害の宿命のようなものです。解離性の症状は脳のレベルでの神経回路に繰り返し生じる誤作動により起きます。例えば声が出ないという解離症状は、喉に問題があるのではなく、喉の筋肉を支配する脳の部位に起きている異常信号が原因となります。ところがそのような脳の誤作動は普通の人には起きにくいため、周囲の人たちはそれを意図的なものと考える傾向にあります。普通の生活を送っている人が、突然目が見えなくなる場合、目に異常がないなら人はそれを意図的な行動、つまり一種の演技だと考えてしまい、当人ががそれをコントロールできないという訴えをあまり信じようとしません。実はこの種の誤解は、医療従事者からも受けてしまうということがいまだに起きています。
解離性障害を持つ人の周囲の人に必要なのは、この解離症状の性質をよくわかってあげて、本人がわざと症状を作り出している、演技している、という見方をしないということです。本人が一番苦しんでいることを理解することです。解離性障害を持つ方の周囲の人がさらに気を付けるべきことは、症状の改善を急かしたり、過剰な期待をかけるべきではないということです。例えば昔の記憶を失ったという症状(解離性健忘)を持つ人の場合、周囲が様々な努力をして本人に過去を思い出させようとする努力は、多くの場合無駄に終わり、当人にとってのストレスとなるだけです。むしろ記憶の回復を待つ代わりに昔その人が体験したことを本人が望む範囲で伝て人生の年表作りを手伝ったり、あるいは健忘があっても保たれているスキルを伸ばす、といった援助が役立つでしょう。その中でふと記憶が戻ることもあり、もちろんそれは大歓迎すべきことです。

2018年9月22日土曜日

解離性障害とは? 双極性障害って何?


あるところにこんなことを書いた。

1 解離性障害とは?
解離性障害とは、昔からヒステリーと呼ばれていたものを正式な病気としてとらえ直したものです。解離(乖離)とは心や体の一部が本体部分から離れてしまっていることを意味します。解離性障害は大きく分けて心の症状を起こすものと、体の症状を起こすものとに分けられます。心の症状としては、一定の時間内に起きたことを思い出せない、あるいは別の人格に入れ替わってしまう、等の症状があります。また体の症状は「転換性障害」と呼ばれ、突然体の機能や感覚が止まってしまったり、勝手に動き出したりするという症状が起きます。
解離性障害の中で最も典型的であり、かつ不思議な症状を示すのが、かつて「多重人格」と呼ばれていた「解離性同一性障害」です。患者さんはいくつかの心の存在を体験し、時には別の心により体を支配されてしまい、その間後ろから見ていたり、その時のことを覚えていないということなどが起きます。このような現象は比較的急に、多くは何らかのきっかけで生じ、人格のスイッチングと呼ばれています。
解離性同一性障害を持つ方の多くは、幼少時に深刻なトラウマやストレスを体験しています。その体験に耐えられない時に、他の人格が突然出現してもとの人格に代わってその場の対処をする、ということが繰り返されて人格の数が増えていきます。ただしどうしてそのようなことが可能なのかは医学的にもほとんど分かっていません。しかし心にいくつかの人格がいてそれらの間の会話が聞こえる、というだけの経験を持つ方は案外少なくないようです。解離性障害は病気というよりは、その人の心の特殊な能力と考えることもできるでしょう。それぞれの人格は全く異なった性格を持ち、また特技や才能を持つこともあります。ただしいわゆる黒幕的な人格が攻撃性や自傷傾向を有する場合には、適切な治療が必要とされます。

2 双極性障害ってなに?

双極性障害とは、一般には「躁うつ病」、という呼び方をされている精神科の病気です。よく似た病気に「うつ病」がありますが、これとは類似はしていても別の病気と考えられています。人間の脳の活動には波があり、活動が高まる時と低まる時があります。もちろん日常生活で嫌なことがあったり、うれしいことがあったりすると、気分が落ち込んだり、逆に舞い上がったり、ということは自然に起きます。しかし時には理由もなく気持ちが沈んだり、逆になぜかウキウキしておしゃべりになり、今日は「どうしたの?」と友達に言われたりすることもあります。その気分の調子の波は、季節や天気に関係していたり、女性の場合には生理の周期に関係していたりします。ところが双極性障害では、その波が極端で、深刻な鬱や突き抜けたような躁状態(気分が高い状態)が何日も続くことになります。特に躁状態では睡眠を必要とせず、声がかれるまで話し続けたり、気が大きくなって無謀な計画を立てたり散財をしたりするのが特徴です。しかししばらくすると、今度は深い鬱状態になり、何日もベッドから起き上がれなくなったりします。
双極性障害は20代から発症することが多く、かなり遺伝する傾向があります。最初は鬱状態から始まった場合には、躁状態があるまでは双極性とわからないこともあり、治療が遅れることもあります。しかし双極性の人の中には非常に才能にあふれていている方々がいらっしゃいます。かつての文豪や芸術家にも双極性障害を持っていた人々が数多く知られています。双極性障害の治療には薬物が用いられ、気分の波をかなり抑えられる場合もあります。その場合はその患者さんは社会生活を営み、生産的な人生を送っています。ただし長い鬱期を抜けられずに、薬もあまり効かず、満足な生活を送れなくなってしまう人もいて、その意味で深刻な精神科疾患といえます。

2018年9月21日金曜日

ある対談 4


B先生: 先程養育の話をしましたけど、まなざされることによって存在する私、というのがいると思うのです。そのときに、相手との近さだとかと遠さというのがあるんだと思うです。すなわち、たとえば、ある治療者はものすごく再養育的なっていうか、お姉さんのような働きかけの中で、人格同士がすごくエンパワーメントされて協力し始める、というふうなものがあるのだと思います。そして、先ほどSM先生の治療の話を初めて肉声で聞いたのですが、わあ、この先生、私よりもヒーラーみたいだと思ったんです(笑い)。なんというか、そこに何かがあって、立ち上ってくるもの、入ってくるもの、それこそ場があり、というふうなその中で先生がどーんと構えておられて、何かその人の中で動いていくものがあるような、エネルギーの流れがある、という印象を受けました。まなざされることによって存在する私はいろいろなポジションを取るんです。すごく近くになり、ダイレクティブになるときもあるんですが、そういう時に心がけるのは、患者さんが自分で自分をまなざせるようになるのを助けるということです。それが愛だと思うんです。愛、愛情というのは、誰かのことを好きになるという愛ではなくて、私たちが生かされていること自体、生まれて、ここにこうやって生まれていること自体が愛であり、いろいろな体験することも含めて、この世界で生きているということだけでなんだという目で見ることができるようになったときに、自分を愛おしい目で見ることが出来るようになり、そうすることで結局、発達を促しているのだと思います。これは私にとってはすべて生物学的なプロセスだと思います。トラウマ記憶は精神生理学的な爆弾みたいなものだし、それをいかに、外すかということばっかりやってきたわけで、それもトラウマとか愛着とかの、問題についても同じような原理を用いてずっとやってきた立場からすると、生物学的なメタ認知的な回路を作るということを私は心がけているのだと思います。その場における近さ、遠さ、その中で見るということ、それが治療者の個性によってさまざまな形でありうるという風に感じました。
質問者:先ほどB先生が、融合したらこれが出来なくなってしまった、という症例をお話しされていたんですけど、逆にかつて先生が統合を志向していたころに、融合したことによって上手く良くなったっていう例があれば教えていただきたいのですが。それと統合をどう考えるかということですが、安先生がお訳しになったパトナムの本を読むと、統合っていうのは人格構造の統合的、総合的統一化のことを指していて、融合fusionとは個々の人格同士の融合ってことだと書いてあります。そのあたりは先生方はどのようにとらえていらっしゃるのかということをお聞きしたく思いました。
 B先生: ご質問なさった方の気持ちは私もすごくよくわかります。人格たちは「統合しなきゃ」と言われたときにそれを恐れるということがあるのですが、彼らは融合を恐れているのでしょう。ですから統合ということの意味をもう1回ここで明確にしなくてはならないと思います。最初は統合を志向していたということについては、私はどちらかというと融合っていう方向性で考えていたので、そこのところで齟齬が生じていたかもしれません。統合が、連携とか協力し合うということであるとしたら、それは大変結構なことだと私は考えています。また統合することの良さについては、トラブルが起きなくなることですよね。いろいろなEPが存在する第三次解離からは、もう全く違うものだと考えた方がいいと思うんです。第二次解離までは、やはりANPがちゃんと機能しているわけです。ところがもうANPが耐えられなくなってしまって、第三次解離になってしまうのです。それはもう統合が出来なくなったっていう姿なのかもしれません。つまり第二次構造解離までは、なんとか統合してるのかもしれないのです。そういう広い意味での統合を考えてはどうか。第三次解離を無理やり統合させようとすると、ものすごく危険だと私は思っています。第二次解離までではちゃんと人格状態達がよくわかって、そこにメリットがちゃんとあって、それでその同意のもとに自然に融けるっていう融合が起きてくっていうことは、私はとてもいいことだと思います。


2018年9月20日木曜日

ある対談 3


A先生:その場合、ひとつの指標というのが、交代人格のエネルギーなんです。彼()が出ているときに眠くなって、もういい、みたいになっていくんですよね。そうすると、これがひとつのサインかなというふうに思います。そのような時は自然に、「あぁ、眠たいんだね、じゃあ、寝ていいよ」 というふうな感じで。でも、眠たくなる前には、何かを達成したいと思っている可能性もあります。何かに満足したい。そしてどうしたら満足できるか、ということは、人格によって違うと思います。自分がかつて見たこと、聞いたことを話したいのかもしれないし、自分が買ってもらえなかったリカちゃん人形を買って、遊んでもらってから眠る、ということかもしれません。人生で何を思い残しているのかを、それぞれの人格に聞いていくことが必要なんだろうなっていうふうに思いました。

B先生:あの、ある面白いエピソードがあって、それを話してみます。すごい難しいDIDの方を外来で診ていたんですけれど、来るたびに、話を始めるとピュ-って帰っちゃう方がいらしたんです。(やむを得ず中略)

A先生精神分析の場合には、たとえば、子どもの人格が出てきたら、「それは、あなたが抑圧していたものを今、表しているんでしょ、あなたが。」というふうになってしまいます。分析家たちは「あなたはひとり、唯一の存在です」という前提に立っています。ブロイアーとフロイトが「ヒステリー研究」を書いたときに、ブロイアーが「いや、ふたつの心があってもいいじゃないか」というふうに考えたときに、フロイトは絶対それはだめだと考えて、そのことは考えないようにして理論を作り上げて、今の精神分析があります。フロイトはリビドー論だったから、心の中で見たくないものはぎゅっと力をこめて無意識に押しやる、そこでもってもう一つの意識が生まれる。でもそれは、ひとつの心の中の下の部分、無意識だという図式をずっと変えなかったので、今まで来ています。

2018年9月19日水曜日

ある対談 2

A先生:そしてもうひとつ言えば、“統合”という言い方に対して、クライエントさんはほとんどみんな怯えて、「自分は消されるんだ」というような他の人格の声が聞こえてきて、アポイントメントを取ったけれども、治療者のところに行かないということが起きがちです。すると私たちがまず、心理教育的なアプローチとして必要なのは「みなさん、統合といっても、あなた方の一部が消える、というような話ではありません。」ということを伝えることなんです。初診のときは最初に主人格と話しているときにも、他の人格が聞いている場合があるので、こうして最初から、“皆さんに対して”という言い方が必要になります。ただし同時に伝えるべきなのは、「皆さんの中で疲れたら、寝ていい、そういうことなんですよ」とも伝えるわけです。ということで、それが私のテーマとしてはどうか?と考えたひとつの動機ですけれども、こんなところでいかがでしょうか。

B先生:はい、最初に告白すると、私は解離の治療を統合志向的にやっていたんですね。クラフトとか、パットナムの本を読みながらやっていたものですから、それはもう20年も前のことです。それで自分の臨床体験からなんですけれども、統合の悪影響というのは、特にDIDレベルの人にはたくさん起きて、後になって、うまくいくように、統合…さきほど、統合ファンタジーではないか?というお話もあったのですが、それまで出来ていたことが出来なくなってしまう。たとえば、お姉さん人格とお掃除人格を統合したんですね。ここからだったら、一緒にやれるだろう、ヘルパー的な役割だし、と。そうしたら、お掃除ができなくなった、とかいうことが起きました。あるいは子ども人格と仲の良いお姉さん人格を融合したら、IQが落ちたような感じになっちゃったこともありました。ある種の様々な機能というのを特にDIDレベルの方は持っていらっしゃるので、その機能がなくなったということを数件経験してから、一切統合ということを意図しなくなりました。だから、みんな連携して一緒にやるというところが、私の今のところの一番の目標です。



2018年9月18日火曜日

ある対談 1


OKこれまでは「現代における解離の治療とは?」とかいう漠然としたテーマばっかりなので、好きなことをみんなが話しっぱなしで終わっていたのですが、今回ちょっとチャレンジングなテーマを選んでみました。それは「統合ってどうなんだろう?」というテーマです。ただしこれは私だけが思っていることかもしれません。「専門家は皆、解離性障害の最終目標は人格の統合ということを言うけれど、そんなに簡単なものではないはずだ」と私はいつも思ってきました。そこで他の専門家の方々はどう思っていらっしゃるのだろう、ということを確かめたかったのです。ですからこれはちょっと危ないテーマであり、専門家の先生方にバッシングされるかもしれないという危惧もあるのです。
 私は精神分析学会に属しているんだけれども、たとえば精神分析学会の大会で解離をおおっぴらに扱うことはどちらかといえばタブーなわけです。治療者が別人格に話しかけるようなことは、普通はあり得ないことです。それは、やはり精神分析では心はひとつであるという大前提に立つからです。心とは一つしか存在しないというのはそもそもの前提なのです。それがいくつもあるんだとすると、心をどうやって理解していいかが分からなくなってしまうわけです。Dissociation、解離と反対の概念は association、つまり統合なわけです。解離とは本来は一つだったものが2つに、3つに分かれた状態だという認識が私たちの多くの中にあります。ただ私の個人的な体験だと、まず1人の人格がいて、その人格が耐えられなくなったときに、突然、忽然ともう一つの人格が表れるという感じがするのです。眠っていた人格が覚醒するといった感じです。だから我々の脳というのは、そういうものが覚醒するような素地を持っていて、皆さんの中の何人かは、そういうものが内部にいるものを感じ取っていて、でも DIDの場合には、ある時突然、生まれる、覚醒するというニュアンスが在ります。そうすると、それは分かれるというよりは新たに加わるというイメージがあるのです。その場合は回復のプロセスとは、新たに加わった人格が再び眠りにつく、冬眠状態に入るというプロセスがあってしかるべきだと思うのです。ここらへんのところをシンポジストの先生方はどうなのか という点に関心があります。

2018年9月17日月曜日

刻印 推敲の推敲 2

今日も小さい文字で。
3.自律神経系を介する症状ポリベイガル・セオリー
トラウマは自律神経系を介して運動、感覚器官以外の様々な身体症状にかかわっている可能性がある。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、あるいは胃、腸管、肝臓、腎臓、膀胱、肺、瞳孔、心臓などの臓器、そして一部の感覚器官を支配している。自律神経系は交感神経系と副交感(迷走)神経系からなるが、通常は両者の間で微妙なバランスが保たれており、人はその支配する期間を意図的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどにより自律神経のバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れることになる。
一例を挙げよう。職場のストレスを抱える人が、出勤の途中でめまいが起き、心臓がドキドキしたかと思うと汗が出てきて嘔気がする、などの症状を呈する様になる。症状の表れている器官や部位は特定できているため、彼は内科や眼科、耳鼻科などを受診するであろう。しかしそれらの個別の器官に異常は見られず、医師からは対症療法的な薬物が処方されたうえで経過観察ということになるだろう。しかしそれでも症状が改善しない場合は、彼は精神科や心療内科の受診を勧められることになる。
もちろんこれらの自律神経症状がどこまで職場のストレスやトラウマと因果関係を有するかを明らかにすることは難しい場合もあろう。またこれらが抑うつ症状その他の種々の精神疾患や心身症に伴うことも非常に多い。しかしこれらの症状は1.で述べたフラッシュバックに伴う形でも頻繁に見られる。
この様に自律神経症状はトラウマにとって特異的とは言えないが、両者の関連性についての近年の研究に大きく貢献したのが、メリーランド大学のポージスStephen Porges 1994年に提唱したポリベイガル polyvagal 理論(重複迷走神経説、多重迷走神経説、などとも呼ばれる)である(Porges, 2011)。ポージスは特に従来光を当てられてこなかった腹側迷走神経の役割を解明したことで知られる。系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経 unmyelinated visceral vagus で、これは消化そのほかを司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経(DV)の機能である。そして第二の段階は交感神経系である。さらに第三の段階は、有髄迷走神経myelinated vagus で、腹側迷走神経(CV)とよばれ、これは哺乳類になって発達したものであるとされる。VCは環境との関係を保ったり絶ったりするうえで、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類に特有のVCは、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。このように自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり副腎皮質、視床下部下垂体副腎系、オキシトシンとバソプレッシンの分泌、免疫系などと共に進化してきたのだ。
これらの自律神経の三段階のうち、特に解離症状と関連が深いのが第一の段階である。つまり強烈なトラウマ状況におかれると、緊急事態の際のVCによる不動状態 immobilization が生じる。これは本来哺乳類に備わった防衛であり、それにより酸素の消費を温存すべく、生体が体の機能をシャットダウンしてしまう機制であり、また人間においては解離性の昏迷状態にも相当する。
5.その他
最後に「その他」の項目を設ける理由は、最近の画像診断の発展により、私たちがこれまで知ることのなかった形での、トラウマの「脳への刻印」が注目されるようになってきているからである。端的に言えば、過去のトラウマの体験により、脳の特定の部位が減少したり、逆に増大したりするという現象が数多く報告されるようになっているのだ。
海馬の容積の減少はうつ病や統合失調症やアルコール中毒にも多くみられることが知られているが、とりわけPTSDにおける所見として注目を浴び、トラウマやストレスによるコルチゾールの影響なども考えられた(Bonne, O, Brandes, D et al (2001)。ただし最近の双子研究は、トラウマを受けずに発症しなかった双子の片割れにおいても海馬の容積が小さいことが見いだされ(Kremen, WS, Koenen, KC. et al2012)、海馬の容積の小ささはPTSD結果と同時に遺伝的な体質とも相関があると考えられている(Kremen, WS, Koenen, KC. et al2012)。
それに加えて最近では扁桃核の容積の減少も報告されている (Rajendra A. Morey, R. Gold, AL.et al. 2012 )。扁桃核の容積に関しては、幼少時のトラウマとの関係が種々に指摘されてきた。最近でも人生の上での短期間のストレスがその容積の減少と関係しているという研究が見られる(Sublette MEGalfalvy HC, et al. (2016)
 さらにトラウマとの関連で注目されているのは、虐待を受けた子供に見られる前頭前野や側頭葉の容積が低下しているという所見である(Gold, AL, Sheridan, MA., et al, 2016)。最近のメタアナリシスでは、腹側前頭前野、上側等回、扁桃体、等の体積の減少が指摘されている。さらには虐待を受けた子供で、一次視覚野の容積の減少が見られると報告され、ある研究ではこれはワーキングメモリーに関わるためであるとする(Tomoda ANavalta CP et al 2009)一般に記憶を短期間保持する場合に、視覚的な情報に依存する場合が多く、一次視覚野の体積の現象はこの機能を低下させるためと考えられている。
さらに興味深い事実としては、虐待がどの年齢に起きたかにより、脳のどの部分が委縮するかという「感受期」が知られているという。それによれば記憶に関わる海馬は3から5歳、脳梁(左右半球をつないでいる部分)は910歳、前頭前野は1415歳であるという。ここで考えられるのは、幼少時のトラウマは海馬の機能不全を介して解離の病理を生む可能性があるということだ。また興味深いのは、虐待により脳は萎縮するばかりでなく増大も見られるという。特に暴言を聞き続けた子供は、聴覚野の一部が増大し、それはそこで正常に行われなくてはならなかった神経線維の刈り込み(剪定 pruning)が損なわれているためであると説明されている。
 ところで先述の通り、神経細胞は一度出来たら再生することはないと考えてきた。胎生期に最大の数に分裂した神経細胞は、基本的にはそれから消失されていく一方であると考えている。1990年代に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示され、成人で神経が新生される可能性も示されたが、その詳細はわかっていない。するとトラウマによりその容積が減少するのは、トラウマが神経細胞死を招いたとしたら説明されようが、また治療により回復するという現象は、この神経細胞の数からは説明できないことになる。おそらくこの問題についてはほとんど理解が進んではいないが、最近のグリア細胞に関する知見はひとつの可能性を示しているであろう。グリア細胞とは、神経細胞の50倍もの数が存在し、神経細胞を取り巻き、栄養を送り、支えている、別名神経膠細胞と呼ばれている細胞だ。このグリアが実は脳において以外にも大きな働きをしているということが研究により次々と明らかになってきている(Fields, 2009)
おそらくこのグリア細胞の数のかなり急速な増減が、脳実質の縮小ないし増大という「脳の刻印」に関係していることが推察されるが、今のところこれは私の推察の域を出ない。
6.終わりに
本稿ではトラウマの身体への刻印という表現を用いてきたが、より正確には、やはりトラウマは脳に刻印されるのである。そしてそれが身体症状につながるのだ。しかしその機序は極めて複雑であり、その大まかなアウトラインが本稿で示した1~4の機序によるものである。そしてそれらのどれもが、解離の病理との関連性を有しているのである。逆に言えば解離の病理の理解はトラウマの身体()への刻印をより包括的に理解することにつながるのだ。

(参考文献)  略

2018年9月16日日曜日

刻印 推敲の推敲 1

この論文も終盤だ。本当によくも書いたものである。ブログの勢いなしには到底無理である。感謝感謝。(実は分量を約半分に減らす、という仕事がまだ残っている・・・・)

解離-トラウマの身体への刻印 

本稿では「解離-トラウマの身体への刻印」と題し、トラウマがいかに身体的なレベルで継続的な影響を及ぼすかについて、特に解離の文脈から論じることを試みる。
最初に用語についてであるが、一般に「外傷trauma」とは精神的なものと身体的なものの双方を含む概念である。しかし1980年のDSM-(American Psychiatric Association, 1980)において登場したPTSDpost-traumatic stress disorder)の疾患概念が通常「心的外傷後ストレス障害」と訳されていることに鑑み、本稿では心的な外傷一般をさすものとして一貫して「トラウマ」という表現を用いることにする。その上でこの「外傷」の分類を考えた場合、一般常識的には精神的な外傷(「トラウマ」)は心的な症状を生み、身体的な外傷は身体症状を生むという考え方がなされていたと考えられる。
1914年の第一次大戦時に、いわばPTSDの前身として「シェルショック」と呼ばれる病理が注目されたが、それは耳鳴り、頭痛、記憶障害、眩暈、震戦、音への過敏性等の身体症状が前景に立っていた。ここでの「シェルshell」とは砲弾を意味するが、それを近くで浴びたたことによる頭部外傷や脳震盪、毒物の影響等の器質因、すなわち身体的な侵襲が、その原因として考えられていたのである(Jones EFear NTWessely S., 2007)。しかしその後に考案されたKardinerら(1947)の戦争神経症の概念においては、心的なストレスやトラウマに伴う身体症状がすでに詳細に記載されるようになった。
 他方DSM-ⅢにおけるPTSDの登場以来、トラウマがいかに身体症状を生むのかというテーマは広く研究されるようになってきた。その背景には、最近の医学的な技術の発展に伴いその脳生理学的なメカニズムもますます明らかにされてきたという事情がある。
 本稿ではトラウマの身体表現について、以下の四種の項目を設けて述べ、それらの一部がどのような解離症状と結びついているかについても論じたい。
それらの四種類とは、
1.        フラッシュバックに伴う身体症状
2.        転換症状としての身体症状
3.        自律神経系を介する症状
4.   4. その他、である。

1. フラッシュバックに伴う身体症状

1の反応については、すでに上述のKardinerの戦争神経症の記載において、その概要は示されていた。そしてそれは1980年に刊行されたDSM-Ⅲに正式に記載され、近年はそれらについてさらに研究が進められている。PTSDの病理についての研究を精力的に進めるvan der Kolk (2015)の著書はその研究の集大成でもあり、優れた解説書ともいえる。
PTSDにおいて生じるフラッシュバックの機序は広く知られるようになってきている。以下にそれを概説する。
通常視覚、聴覚、触覚などの知覚情報は、大脳皮質の一次感覚野に送られ、そこで大まかな処理が行われたのちに、視床 thalamus に送られる。そこで出来事に意味の概要が与えられるが、それはおおむね闘争-逃避反応を起こす必要性について伝えるレベルでしかない。
たとえば森の中を歩いていたら、長い紐状のものが上から降ってきたとしよう。視床は「頭上から落下する紐状のもの、おそらくヘビだ」と認識するかもしれない。これは荒削りの情報であるが、網膜に配列された無数の視神経からの個別の情報に対する膨大な情報処理が行われた結果であることに注目すべきであろう。
視床でまとめ上げられた情報は、次に情動処理や記憶に関わる扁桃核 amygdala に送られる。視床からヘビのような物体の落下を伝えられた扁桃核は、すぐにそれを危険と認識し、扁桃核に直結している視床下部や脳幹に指令を発して、ストレスホルモン(コルチゾールとアドレナリン)を放出するとともに自律神経を介して身体全体を戦ったり逃げたりという反応を起こす態勢に切り替える。これが闘争‐逃避反応と言われる反応である。その際には交感神経の活動昂進に伴う身体症状、動悸、頻脈、発汗、瞳孔の散大、骨格筋の緊張などの自律神経を介した身体反応が生じる。
ここで注目すべき点は、視床からの情報は扁桃核の他にも大脳皮質に送られてより詳細な処理が行われるという事実である。これらはJoseph Ledeux1996)の研究により示された、high road low road の概念である。知覚刺激は先ず上述のように直接的に扁桃核に伝わり、そこでアラームが鳴らされる。これがLow roadである。しかし他方は視床による情報はワンテンポ遅れて大脳の前頭皮質にも伝わり、ここでは時間をかけて総合的な判断が行われる。そしてたとえば「以前にも同じようなことがあり、結局は木の枝だった。今回もおそらくそうだろう。」とか、「とりあえずいったんよけて様子を見よう」、あるいは「なんだ、良く見直したら、やはり木の枝じゃないか」などの判断がなされて、逃走-逃避反応にストップをかけるのである。
この逃走-逃避反応においてその情動のレベルが極度に高まった際に、それを誘発した扁桃核の興奮はその情動的な反応パターンを強く記憶するとともに、海馬を強く抑制し、結果的にその陳述的な記憶の部分の定着を阻害することが知られている。そのようにして形成された記憶がいわゆるトラウマ記憶である。そしてこの興奮パターンが脳にまさに刻印された形となり、将来そのトラウマ状況を想起させるような刺激により、この興奮パターンが再現されることになる。そして人は最初のトラウマ状況において体験したのと同様の恐怖や不安や、同様の身体感覚を体験することになる。それがフラッシュバックと呼ばれる状態である。
以上のフラッシュバックの概要は、深刻なトラウマを負った人がそれ以降長期にわたってこのフラッシュバックにさいなまれ、それを引き起こすような刺激を回避する行動をしめる事情を説明している。ただし最近では深刻なトラウマの際に、むしろ交感神経の活動低下と副交感神経の活動昂進による解離症状がみられるタイプが同定され、それはDSM-5において「解離症状を伴う」という特定項目を有したPTSDとして分類されることになっている。その特徴は、離人感か現実感消失のいずれかを伴うものとされている。
2.転換症状としての身体症状
トラウマの身体への刻印とその表現の第二のタイプは、いわゆる転換症状と呼ばれる身体症状である。転換という用語自体は、S.フロイトが無意識の葛藤が症状として反映されていると仮定して用いたものである。ただし「1.フラッシュバックに伴う身体症状」で示した身体症状に比較して、転換症状の生じるその詳細な機序についてはほとんど明らかにされていないと言わざるを得ない。転換症状は臨床上は極めて多彩に表現される可能性がある。それを一言で表現するならば、「機能的な神経学的症状」となる。通常は個別の随意筋や感覚器官による運動機能や感覚機能は、そこに器質因がうかがわれる際には神経学的症状として、神経内科や脳神経外科の扱う対象となる。
例えば声が出ないという症状があるとしたら、声帯そのものの異常所見が見いだされないのであれば、次に声帯に向かう運動神経(反回神経など)に何らかの器質的な原因を探ることになる。神経が途中で損傷されていたり、腫瘍や脊椎などにより圧迫されていたりする場合が考えられるだろう。しかしそれらの病変が見つからない場合には、それは「機能的」な神経学的症状として記載する以外にない。この「機能的な」症状とは苦し紛れではあってもそれ以外に表現しようのない状態像の表現なのである。つまりそれは「声帯やそれに向かう神経には明らかな病変はないが、それでもなぜか声が出ない状態」を意味し、原因不明であることを言外に含んでいる。そしてこの表現が、最新の診断基準であるDSM-52013)およびICD-102018)では「転換性障害」にかわって用いられていることに注目すべきである(DSM-5では「機能性神経症状障害」、ICD-11では「解離性神経症状障害」と表現されている)。すなわち従来はフロイトが無意識の葛藤が身体に転換された機序そのものの信憑性を問い直す形となっている。
更には従来転換性障害と同様に用いられていた「心因性psychogenic 」という表現も、DSM-5ICD11では用いられていないことも注目すべきであろう。「心因性」とうたうからには、その症状がある程度理解可能な精神的な原因があることを想定していることになるが、その表現さえ用いないことで、私たちはこれらの「機能性神経症状」について何らかの原因を求めることを保留したものと考えられるだろう。
ところでこれらを前提とした上で、この機能性神経症状において何が起きているのかをもう一歩進んで考えてみよう。ここで話を単純化するために、機能性の運動障害の中でも失声症を選び、それに限定して考えてみる。人の脳は「声を出せ」という命令を、声帯や横隔膜その他の随意筋に向かう運動神経に対して伝えることによって発声が生じる。そしてその命令を出す部位は運動野のすぐ隣に位置する運動前野であり、そこから高次運動野を介して一次運動野に指令が渡ることになる。ところが運動前野には、脳のほかの部位からも指令が伝えられる可能性がある。例えば何かに驚いて思わず叫びそうになった時に、周囲の人への影響を考えてそれを抑えるという場合を考えよう。その場合は一度声帯その他の筋肉に「動かせ」と命令を送りかけた運動前野には「やはり声を出すな」という抑制がかかることになる。そして結果的に声が出なくても本人には特に違和感はないはずだ。それは自分の意思で声を出すのを抑えた、という実感を持つからである。しかし心の別の部分から「声を出すな」という運動抑制の命令が運動前野に送られ、そしてその当人が、その命令が出たことを知らない場合はどうだろう? 
機能性の神経症状症では、この不思議な事態が生じていると考えざるを得ない。ただし上述の例での運動抑制が運動前野よりさらに脳の「上位」の部位、たとえば帯状回運動野などの運動連合野において生じているのか、あるいは「下位」の高次運動野に生じているのかは不明である。そして無論この「心の別の部分」が何をさすのかも明らかではない。すると機能性の神経症状とは、当人の意識に上らない形での、原因不明の運動機能や感覚機能の抑制(ないしは逆に賦活の場合もありうる)が生じる事態と言い換えることができる。
ちなみに「心の別の部分」については、精神分析的には前意識、ないし無意識などと説明されることになろう。100年前のフロイトなら以下のように考えたはずだ。「心の中で抑圧している部分、すなわち無意識がそうさせているのだ。たとえば仕事を休みたいという無意識的な願望かあれば、足が動かないという症状を形成することでその願望が叶うのだ」。ここで解離の概念を用いるならば、脳の中で解離された部分が発生に関する運動を抑制しているということになる。

2018年9月15日土曜日

刻印 推敲 5


なんか無理やりまとめた感があるなあ。今回の依頼論文も相当苦労した。でもまとめる上でたくさん勉強させていただいた。感謝感謝。

5.その他

最後に「その他」の項目を設ける理由は、最近の画像診断の発展により、私たちがこれまで知ることのなかった形での、トラウマの「脳への刻印」が注目されるようになってきているからである。端的に言えば、過去のトラウマの体験により、脳の特定の部位が減少したり、逆に増大したりするという現象が数多く報告されるようになっている。
海馬の容積の減少はうつ病や統合失調症やアルコール中毒にも多くみられるが、とりわけPTSDにおける所見として注目を浴び、トラウマやストレスによるコルチゾールの影響なども考えられた。ただし最近の双子研究は、トラウマを受けずに発症しなかった双子の片割れにおいても海馬の容積が小さいことが見いだされ(Kremen, WS, Koenen, KC. et al2012)、海馬の容積の小ささはPTSD結果と同時に遺伝的な体質とも相関があると考えられている(Kremen, WS, Koenen, KC. et al2012)。
それに加えて最近では扁桃核の容積の減少も報告されている (Rajendra A. Morey, R. Gold, AL.et al. 2012 )。扁桃核の容積に関しては、幼少時のトラウマとの関係が種々に指摘されてきた。最近でも人生の上での短期間のストレスがその容積の減少と関係しているという研究が見られる(Sublette MEGalfalvy HC, et al. (2016)
 さらにトラウマとの関連で注目されているのは、虐待を受けた子供に見られる前頭前野や側頭葉の容積が低下しているという所見である(Gold, AL, Sheridan, MA., et al, 2016)。最近のメタアナリシスでは、腹側前頭前野、上側頭回、扁桃体、等の体積の減少が指摘されている。さらには虐待を受けた子供で、一次視覚野の容積の減少が見られると報告され、ある研究ではこれはワーキングメモリーに関わるためであるとする(Tomoda ANavalta CP et al 2009))
一般に記憶を短期間保持する場合に、視覚的な情報に依存する場合が多く、一次視覚野の体積の現象はこの機能を低下させるためと考えられている。
さらに興味深い事実としては、虐待がどの年齢に起きたかにより、脳のどの部分が委縮するかという「感受期」が知られているという。それによれば記憶に関わる海馬は3から5歳、脳梁(左右半球をつないでいる部分)は910歳、前頭前野は1415歳であるという。ここで考えられるのは、幼少時のトラウマは海馬の機能不全を介して解離の病理を生む可能性があるということだ。また興味深いのは、虐待により脳は萎縮するばかりでなく増大も見られるという。特に暴言を聞き続けた子供は、聴覚野の一部が増大し、それはそこで正常に行われなくてはならなかった神経線維の刈り込み(剪定 pruning)が損なわれているためであると説明されている。
 ところで先述の通り、神経細胞は一度出来たら再生することはないと考えてきた。胎生期に最大の数に分裂した神経細胞は、基本的にはそれから消失されていく一方であると考えている。1990年代に神経幹細胞と新生神経細胞が成人の脳にも存在することが示され、成人で神経が新生される可能性も示されたが、その詳細はわかっていない。するとトラウマによりその容積が減少するのは、トラウマが神経細胞死を招いたとしたら説明されようが、また治療により回復するという現象は、この神経細胞の数からは説明できないことになる。おそらくこの問題についてはほとんど理解が進んではいないが、最近のグリア細胞に関する知見はひとつの可能性を示しているであろう。グリア細胞とは、神経細胞の50倍もの数が存在し、神経細胞を取り巻き、栄養を送り、支えている、別名神経膠細胞と呼ばれている細胞だ。このグリアが実は脳において以外にも大きな働きをしているということが研究により次々と明らかになってきている。
おそらくこのグリア細胞の数のかなり急速な増減が、脳実質の減少ないし増大という「脳の刻印」に関係していることが推察されるが、今のところこれは私の推察の域を出ない。

6. 終わりに
本稿ではトラウマの身体への刻印という表現を用いてきたが、より正確には、やはりトラウマは脳に刻印されるのである。そしてそれが身体症状につながるのだ。しかしその機序は極めて複雑であり、その大まかなアウトラインが本稿で示した1~4の機序によるものである。そしてそれらのどれもが、解離の病理との関連性を有しているのである。逆に言えば解離の病理の理解はトラウマの身体()への刻印をより包括的に理解することにつながるのだ。

Kremen, WS, Koenen, KC. et al,(2012) Twin Studies of Posttraumatic Stress Disorder: Differentiating Vulnerability Factors from Sequelae. Neuropharmacology. 62: 647–653.Rajendra A. Morey, R. Gold, AL.et al. (2012) Amygdala volume changes with posttraumatic stress disorder in a large case-controlled veteran group. Arch Gen Psychiatry. 69:pp. 1169–1178.
Sublette MEGalfalvy HC, et al. (2016) Relationship of recent stress to amygdala volume in depressed and healthy adults. J Affect Disord. 203:136-142Gold, AL, Sheridan, MA., Peverill, M. et al, (2016) Childhood abuse and reduced cortical thickness in brain regions involved in emotional processing Child Psychol Psychiatry.57: 1154–1164.Tomoda ANavalta CP et al (2009) Childhood sexual abuse is associated with reduced gray matter volume in visual cortex of young women. Biol Psychiatry.  66:642-648.Fields, RD (2009) The Other Brain. The Scientific and Medical Breakthroughs that will heal our brains and revolutionize our health.Simon & Schuster Paperbacks. New York, London.  R・ダグラス・フィールズ (), 小松 佳代子 (翻訳2018)「もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役『グリア細胞』」 ブルーバックス 新書 




2018年9月14日金曜日

刻印 推敲 4


3.自律神経系を介する症状 ― ポリベイガル・セオリー

トラウマは自律神経系を介して運動、感覚器官以外の様々な身体症状にかかっている可能性がある。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、あるいは胃、腸管、肝臓、腎臓、膀胱、肺、瞳孔、心臓などの臓器、そして一部の感覚器官を支配している。自律神経系は通常は交感神経系と副交感(迷走)神経系の間で微妙なバランスが保たれており、人はその支配する器官を随意的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどにより自律神経のバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れる。
一例を挙げよう。職場のストレスを抱える人が、出勤の途中でめまいが起き、心臓がドキドキしたかと思うと汗が出てきて嘔気がする、などの症状を呈する様になる。症状の表れている器官は部位は特定できているため、彼は内科や眼科、耳鼻科などを受診するであろうが、それらの器官に異常は見られず、対症療法的な薬物が処方されたうえで経過観察ということになるだろう。しかしそれでも症状が改善しない場合は、彼は精神科や心療内科の受診を勧められることになる。これらの症状がどこまで職場のストレスなどの日常的な出来事に起因するかは明らかでないことも多いであろう。そしてこれらの症状は1のトラウマによるフラッシュバックの背景としても頻繁に見られる。ただし抑うつ症状その他の種々の精神疾患や心身症に伴うことも非常に多い。
この様に自律神経症状はトラウマにとって特異的とは言えないが、両者の関連性についての近年の研究に大きく貢献したのがメリーランド大学のポージス Stephen Porges 1994年に提唱したポリベイガル polyvagal 理論(重複迷走神経説、多重迷走神経説、などとも呼ばれる)である。ポージスは特に従来光を当てられてこなかった腹側迷走神経の役割を解明したことで知られる。系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経 unmyelinated visceral vagus で、これは消化そのほかを司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまう。これが背側迷走神経の機能である。そして第二の段階は交感神経系である。さらに第三の段階は、有髄迷走神経 myelinated vagus で、腹側迷走神経に相当し、これは哺乳類になって発達したものである。これは環境との関係を保ったり絶ったりするために、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類の迷走神経は、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり副腎皮質、視床下部下垂体副腎系、オキシトシンとバソプレッシンの分泌、免疫系などと共に進化してきた。
これらの段階のうち、特に解離症状と関連が深いのが第一の段階である。つまり強烈なトラウマ状況におかれると、緊急事態の際の背側迷走神経による不動状態 immobilization が生じる。これは本来哺乳類に備わった防衛であり、それにより酸素の消費を温存すべく、生体が体の機能をシャットダウンしてしまう機制なのだ、また人間においては解離性の昏迷状態にも相当するであろう。
Porges, W. S (2011) The Polyvagal Theory. W.W. Norton & Company New York USA

2018年9月13日木曜日

刻印 推敲 3


更には従来転換性障害と同様に用いられていた「心因性psychogenic 」という表現も、DSM-5ICD11では用いられていないことも注目すべきであろう。「心因性」とうたうからには、その症状がある程度理解可能な精神的な原因があることを想定していることになるが、その表現さえ用いないことで、私たちはこれらの「機能性神経症状」について何らかの原因を求めることを保留したものと考えられるだろう。
しかしそれを前提とした上で、この機能性神経症状において何が起きているのかをもう一歩進んで考えるとしたら何が言えるだろうか? ここで話を単純化するために、機能性の運動障害の中でも失声症について考えてみる。人の脳は「声を出せ」という命令を、声帯や横隔膜その他の随意筋に向かう運動神経に対して伝えることによって発声が生じる。そしてその命令を出す部位は運動野のすぐ隣に位置する運動前野である。(ただし更に詳しくは、両者の間に、運動をまとめる「高次運動野」が介在することになる。)ところがここには、脳のほかの部位からも指令が伝わる可能性がある。例えば何かに驚いて思わず叫びそうになった時に、周囲の人への影響を考えてそれを抑えるという場合を考えよう。その場合は一度声帯その他の筋肉に「動かせ」と命令を送りかけた運動前野には「やはり声を出すな」という抑制がかかることになる。そして結果的に声が出なくても本人には特に違和感はないはずだ。自分の意思で声を出すのを抑えた、という実感を持つからだ。しかし心の別の部分から「声を出すな」という運動抑制の命令が運動前野に送られ、そしてその当人が、その命令が出たことを意識していない場合はどうだろう? 
機能性の神経症状症では、この不思議な事態が生じていると考えざるを得ない。ただし上述の例での運動抑制が運動前野よりさらに脳の「上位」の部位、たとえば帯状回運動野などの運動連合野において生じているのか、あるいは「下位」の高次運動野に生じているのかは正確には不明であるが。そして無論この「心の別の部分」が何をさすのかは、基本的には不明である。すると問題を突き詰めれば機能性の神経症状とは、当人の意識に上らない形での、原因不明の運動機能や感覚機能の抑制(ないしは逆に賦活の場合もありうる)が生じる事態ということができる。
ちなみに「心の別の部分」について、精神分析的には前意識、ないし無意識などと説明されるであろう。転換症状という言葉を作った100年前のフロイトならこう考えた。「心の中で抑圧している部分、すなわち無意識がそうさせているのだ。」そしてその意図が無意識になっているということは、その理由を当人が意識化することを拒絶しているからだ。たとえば「足が動かないという理由で仕事を休みたい」という無意識的な願望かあれば、そのような症状が成立すると考え、この抑圧によるエネルギーが症状へと転換されたという意味から「転換症状」という概念が生まれたのだ。(後に述べるように解離の理論は、脳の解離された、別の場所からの命令が生じる、と考えることになる。)

2018年9月12日水曜日

他者性の問題 16

Edelman’s Unitary nature of consciousness

  Nobel Prize Laureate Gerald Edelman stresses the singleness, unitary nature of conscious experience. “One extraordinary phenomenal feature of conscious experience is that normally it is all of a piece- it is unitary” . “It is integrated, but at the same time, highly differenciated.” (p.61)

If it is true, and I believe it is, splitting of consciousness, by definition, cannot occur, as consciousness is unitary and not indivisible.

え、これだけ?

2018年9月11日火曜日

刻印 推敲 2


さて問題はこの逃走-逃避反応においてその情動のレベルが極度に高かった場合には、それに強く反応した扁桃核は記憶を司る海馬を強く抑制することにより、その陳述的な記憶を阻害するということである。そのようにして形成された記憶がいわゆるトラウマ記憶である。そしてこの反応パターンが脳にまさに刻印された形となり、将来そのトラウマ状況を想起させるような刺激により、この最初のトラウマの際の脳の興奮パターンが再現されることになる。そして人は最初のトラウマ状況において体験したのと同様の恐怖や不安や、同様の身体感覚を体験することになる。それがフラッシュバックと呼ばれる現象である。

2.転換症状としての身体症状

トラウマの身体への刻印とその表現の第二のタイプは、いわゆる転換症状と呼ばれる身体症状である。ただし「1.フラッシュバック」に比較してその詳細な機序についてはほとんど明確になってはいないと言わざるを得ない。転換症状は臨床上は極めて多彩に表現される可能性がある。それを一言で表現するならば、「機能的な神経学的症状」となる。通常は個別の随意筋や感覚器官による運動機能や感覚機能は、そこに器質因がうかがわれる際には神経学 neurology, すなわち神経内科や脳神経外科の扱う対象になる。例えば声が出ないという症状があるとしたら、声帯そのものの耳鼻咽喉科的な所見がないのであれば、声帯に向かう運動神経(反回神経など)に何らかの器質的な原因を探ることになる。たとえば神経が途中で切断されたり腫瘍や脊椎の一部などにより圧迫されていたりする場合だ。しかしそれらの病変が見つからないにもかかわらず症状がみられる場合、それは「機能的」な神経学的症状として記載する以外にない。この「機能的な」障害とは苦し紛れな、しかしそれ以外に表現しようのない状態像なのである。つまりそれは「声帯には目に見える病変はないが、それでもなぜか声が出ない状態」という表現であり、原因不明であることを言外に含んでいる。そしてそれが従来の転換性障害が最新の診断基準であるDSM-52013)およびICD-102018)における診断名「機能性神経症状障害 functional neurological symptom disorder となっている。従来はこれを転換症状と呼び、フロイトが無意識の葛藤が身体に転換されたものとしてこう呼んだが、DSM-5ではより記述的な表現が併記して用いられている。更には ICD-11 においては、転換症状という用語そのものが消え、解離性神経症状障害Dissociative neurological symptom disorder という記述となっている。これはいわゆる転換症状という概念そのものの信憑性を問い直す形となっている。