2010年5月31日月曜日

(承前)
ところでBPDと医原性iatrogenicity というテーマは、文献的にはどうなっているのか?少なくとも英語の文献ではこのテーマは散見される。たとえばBPDの研究で名高いGunderson は「最近のBPDの治療は、かつての精神分析的な治療の含む問題を回避する方向に進んでいる」としている(Gunderson, J G. Links, PS.: Borderline Personality Disorder : A Clinical Guide. 2nd ed. Amer Psychiatric Pub Inc, 2008.) 。本来精神分析とは距離を置いていたGundersonだから、このような思い切ったことを言えるのであろうが、Fonagy、Bateman 両先生といった、英国の非クライン派の精神分析を代表する(?)人々もまた同様のことを主張している。あたかも精神分析的な考えがBPDという亡霊を作り出したかのようだ。Fonagyたちあの分厚い「メンタライゼーション」のテキストにも書いてある、ということは、かなり根本的な問題が既に日本国外では提起されているということか。(メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害―MBTが拓く精神分析的精神療法の新たな展開. 岩崎学術出版社)しかし、彼らが言っていることを確かめるために、私も少し考えを整理しておきたい。どこまで近いのだろうか?
BPDの医原性というテーマを与えられて(つまり依頼原稿、ということである。別に隠すことでもないか。)私が書けると思って引き受けたのは(っていうか、断ったことはあるのかい?)「ボーダーライン反応」、という現象ないしは概念との関連で、である。この概念は、「結局人間みな人間関係のありようによっては、ボーダーライン的になるものである」、という主張を含んでいるが、この「人間関係のありよう」には「患者治療者関係も含まれるということである。「医師という仕事は少し経験を積むと、診察室の癖が身について、相手を少々見下す姿勢になりやすい」と笠原嘉先生も喝破しておられる(精神科における予診・初診・初期治療 星和書店 2007、P122)が、それは患者に向かう心理士や看護等の治療者一般についても程度の差こそあれいえることである。そしてその場合は患者の側からのすこしの抵抗や挑戦も、治療者の側のプライドの傷つきの感覚や怒りの感情をさそう。そして治療者が二次的に患者の側に加える可能性のある強制や治療を撤退するという脅しは、容易に患者の側に今度は本当の怒りの感情や抵抗の姿勢を生む。それを見て治療者は患者がBPDであることを確信してしまう。このようにして生まれたBPDはまさに医原性のものと言えるだろう。
臨床場面でよく聞く言葉に、操作的 manipulative というものがある。主治医が「あの患者は精神科のナースに私の悪口を言って、私を悪者にしようとしている。操作的な態度だ。」という風に使われる。そして同じ文脈でやはりよく聞くのが、スプリッティング splitting である。同じ例で、「患者は治療チームを自分の敵と味方にスプリットしようとしている」という風に使う。しかしこれらの言葉ほど濫用されるものはない。私はよく学生やバイジーさんに「操作される(スプリットされる)側にも問題がある」と言う。治療者は患者さんに感情的に動かされるような気がしたときに、あの患者は操作しようとしている、だからボーダー的だ、という傾向にある。(実は私も結構言っているような気がする。このような心性は、日本の治療場面であろうとアメリカであろうと変わらない気がする。普遍的なテーマなのだ。
このような概念を多用する治療者には、操作を許しているのは、結局は治療者である自分たち自身である、という視点が欠けている。治療者のほうがどっしりしていれば、「動かされるつもりがない」のであれば、この人はボーダーだろうか、という発想もそれだけ少なくなるだろう。大体小さい子供が「これ買ってくれないと、もうパパと口なんかきかないからね。」(別にママでもいいが・・・)と言ったからといって、「この子はすでに5歳で、ボーダーラインの素質がある」などとは思わないだろう。それは親がそのような子供の操作をあまり問題にする必要がない分だけ、余裕を持って対応できるからである。
(続く)

2010年5月30日日曜日

人格障害を作るのは誰か?-BPDの医原性

ここまで珍しく一月程続いた連載であったが、実はそれなりの事情があった。すこし「自由時間」というか、余裕があったのだ。しかし私はひとつの仕事が入ってしまって、もはやこんな悠長なテーマで、いつ終わることもない議論をできなくなってしまった。そこで一月程、全然関係の無い、「BPD(境界パーソナリティ障害)の医原性について」というテーマで書いてみたい。ちなみにその仕事とは、「●●●の科学」という専門誌10月号(予定)とは全く関係がない。この場を借りて少しずつこの、まるでどこからか降ってきたようなテーマについてまとまって考えるスペースは、この7,8名(すこし増えた)の仮想読者に向かってでしかない。まあ昨日書いた息子の半分冗談の話もコケたようではあるし。いい頃合いかもしれない。
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しかし企画者の意図はなんだろう?いや、こちらの話。どうやら境界例という伝統的な概念は、DSMにおけるBPD概念に変わった時点で、変質した(と見る)人がいるらしい。概念的なことか?難しいことはわからないや。何しろ文献も特に読んでいないし。というより自分の専門のテーマであるという自覚も特にないし。ただしひとつ言えるのは、BPDについて語っているのはもはや専門家だけではないらしいと言うこと。何しろネットを見れば、多くの「当事者」がそれを語っているとともに、それをめぐる多くの流言が飛び交っているということらしい。つまりこうだ。専門家がボーダーということを言い出す。するとその診断をうけた側、そしてそれを取り巻く健常者(いずれも非専門家)の間に様々な議論や、場合によっては中傷合戦が起きているということだろうか?
さてそこに医原性の問題が絡んでくるのは、どのような意味においてか。ここら辺は注文者の意図を汲んで語るわけには行かないが、同様の主張をしてきた覚えはないわけではない。私がBPDについて、密かにオリジナルだと思っているのは、「ボーダーライン反応」という考え方(「ボーラーダイン反応で仕事を失う」こころのりんしょうà la carte vol.25:65-70 星和書店 2006年)であった。そこでの主張は、ボーダーラインというのは、私たちが持っている、対人関係上の一種の反応形式であり、簡単にいえば「状況次第でだれにでも起きる」ということである。今思いついたことだが、これは一種の原始反応にもなぞらえることができるかもしれない。例のF or F or F (fight or flight or freeze, 闘争-逃避-固まり反応)と同じようなものだ。しかしFFFがpredator 天敵への反応だとすると、ボーダーライン反応は対人関係における危機、例えば恥をかかされる体験、人にさられる体験、などである。
この問題に医原性がどうして絡むかといえば、この対人関係における危機は、治療者患者関係の中で簡単に再現されるからである。(続く)

2010年5月29日土曜日

我が家の「天才」息子

ということで息子の自慢話である。彼が12歳の頃、従ってもう8年も前のことだ。家族でアメリカで過ごした最後の年である。あのころ私たちは毛虫がアゲハチョウになるのを見守ることが多かった。最初は息子の学校の課題として何年前に始めたのだが、いつの間にか夏の恒例になっていた。庭に自生しているリュウという植物があり、黒いアゲハがその葉にとまったり、周囲を飛んでいるのを見かける。アゲハが去ったあとに、その葉の裏側に極小の、それこそゴミと間違えるような水滴のような卵を見つけるところからそれは始まる。そのリュウの卵のついた葉を、茎ごと虫かごに入れておく。やがてそのゴミのような水滴から、黒い小さな「キャタピー」が動き出す。(caterpillar キャタピラー = 毛虫の英語の愛称。毛虫、と書くとキモいが、キャタピーと呼ぶとなんとなくかわいい。)頭に赤いバンドを巻いたような模様があるのが特徴だ。
キャタピーは最初はゆっくり、そのうち加速度がついたように見る見る大きくなっていく。一匹のキャタピーを養うには十分すぎるように思われたリュウの大きな枝の葉を、10日ほどかけてモリモリ食いつくし、あわやえさ不足とかと危惧するうちに、キャタピーは「もうしっかり食べた」とでもいいたげに葉を食べることに関心を失い、安住の地を探し出す。大体は枝にぶら下がるような場所だ。そこに自分の体を巧みに口から出すネバネバの糸で巻きつけてから動かなくなる。そして大人の小指ほどの大きさに育っていたキャタピーは動かなくなり、やがて乾いて縮んでいく。そこでまるで死んだようになっているのだが、ある日目を離した隙にさなぎに変身する。プヨプヨだったさなぎはまるでロボットの鎧のような固いさなぎに姿を変えるのだ。そして何日かするとやがて蝶が生まれる。
この一連のプロセスは何度繰り返してみても結構面白く、息子もカミさんも一日何度かは虫かごを覗き込んで進行具合を確かめ、それが家族の食事時の話題の一つくらいにはなっていた。
さてキャタピーが動かなくなる前に結局どこを居場所にするかは大体予想がつくのだが、時にはそれが裏切られるのが面白かった。「どうだい、理想的だろう?」と適当な枝を用意しておいても、キャタピーはそれを無視して、離れた枝を選んだり、時々虫かごの内側のプラスチックの壁に居場所を決めたり、かと思うと虫かごの下に何枚か落ちた葉の下に隠れるようにしてさなぎになる。(思えばそれは異なった種のアゲハのキャタピーだった気がする。)
さてここで我が息子が登場する。<大げさ。とにかくここまで書くのにつかれた。>ある日不思議なことが起きた。息子と部屋の隅のカーペットの上に置いていた虫かごをのぞき込んでいると、一匹いたはずののキャタピーが忽然と消えているのがわかった。虫かごには隙間があるから、キャタピーは無理をすれば這い出ることもあるが、普通はありえない。しかしそれもありうると思って虫かごの周囲を見回しても見当たらない。不思議だ不思議だ、と二人で虫かごを見下ろしているうちに、息子の目が、ゆっくりと上を向いたのである。まるでコマ落としをしたシーンのように、ゆっくりとした、しかし迷いのない動き。その視線の先が目的物を見出す前に、すでにその存在をすでに知っていたかのような確信に満ちた目の動きだ。私は息子の狙いがわからないままに、誘われるようにその目の向かう先を追ってみると・・・・何とキャタピーは虫かごを這い出して、壁を伝って天井にまで上り、そこでさなぎになっていたのだ。彼は私たちの真上にいたのである。「一体なんでそんなことが分かるんだ!!」私には全く思いもつかなかった場所にいるキャタピーを見つけ出した彼に「こ、この子はすごい・・・」と感心したのだ。
それ以来私はこの日のことを何度も思い出すことになる。息子は時には「天才の真逆」ではないかと思わせることもしばしばあった。でもこのキャタピーを不思議な勧で見つけ出した時の彼を思い出して、いとも容易に「いや、あんなことができる息子は、やはり天才なのだ」と簡単に思えてしまうのである。しかし息子の方はといえば、おそらくこの時のことを忘れている。彼はこの偉業をすこしも鼻にかけることがない。(というか、そもそも無口で、このころから殆ど意味のある話を親とはしなくなった。)そこがまた天才っぽいのだ。 
親バカとは面白いものである。親が子供を見てすごいと思う素材は何でもいいのだろう。この後息子がどんなに私を失望させても、そして世間から背を向けられても、私は「でも、本当は彼はすごいんですよ。なぜなら・・・・・・」と説得しようとするかもしれない。しかしその後に父親がこの毛虫の話をしても、まったく説得力がないのだろう、というのもなんとなく分かる。だからせめてこんなところに書いている、というわけである。<これははたして自慢話か?>

2010年5月28日金曜日

私の息子のことを書きたくなった。私は自慢話は嫌いであるが、彼のことを「こいつは絶対すごい!自分は全く負けてる!」と思った、ある体験を書いてみたい。だが・・・・あしたにしよう。
(承前)私がベック先生の話に疑問を持つからといって、彼の人間としての成熟を疑う、という類の話ではない。私はもちろんかの高名なベック先生を個人的に知るはずもないし、彼の人間性をあれこれ論じることはできない。ただ彼が非常に成熟した人間であっても、彼が何が起きても泰然自若としているはずはないと考えるのだ。日常的な失望や苛立ち、あるいは満足や高揚感を体験するのはむしろ人間として当然であり、それはまた、その人のPESが正常に機能しているということを意味しているのだ。だからベック先生は車の渋滞のせいで予定していた講演会に穴をあけるという可能性を予測した際に、ただならない苦痛を味わったはずである。その彼を見ていて、すこしも動じていないと報告した弟子は、おそらく師匠の心の動きを読めていなかったか、あるいはベック先生が実にうまく同様を押し隠す事が出来ていたからだろう。(そしてそれはそれとしてひとつの能力として高く評価できることになるだろう。)
そもそもPESは人間の行動がより合理的に行われることを助けるためのものであり、それは最終的に実際に体験される快を最大限にし、苦痛を最小限にするためのものといえる。フロイトの言った現実原則と、この点は少しも変わらない。そしてベック先生は最終的に講演会場に時間に遅れることなく到着し、自分を、そして聴衆を満足させるべく講演を行うことを強く望んでいたはずだ。彼が飛行機の離陸時間に十分間に合うようにタクシーに乗り込んだ時は、その行動が地方での最終的な講演の成功を保証するための一つのステップとしての役目を果たすことを十分予見できたであろう。タクシーが十分な余裕を持って出発ロビーの車寄せに止まることを思い描き、そこに満足を見出していたはずだ。つまりかれのPESは刻々とステップごとにそれを疑似体験し、それを無事クリアーしたことの喜びを先取りしたはずだ。人が理性的に、計画的に、そして自分も周囲もハッピーになれるように行動する、というのはそういうことだ。そしてそれは時にはPESが計算違いを起こしたことのつけを味わい、ボヤき、恨み言をいうということも意味する。理想化していた人の日常を垣間見て、そこに全く普通の人と変わらない日常的な苦悩の存在を知って驚板というのは、よくある話である。
ただベックだったら、ということはある。彼の心の揺れ幅はおそらくあまり大きくない。もちろん講演は成功させたいだろうし、その意欲や情熱はある。でも「たかが講演」であることもわかっている。That’s not the end of the world なのである。そしてそれを私たち凡人はなかなかわからない。講演の成功を望んでいた自分が、現地にさえ時間通りにつけない。それは大きな失望をうむ。しかし時にはそんなこともあるだろうし、その場合にはジタばたしてもしょうがない。そもそも飛行機に首尾よく乗り込んだって、到着地が濃霧や積雪で引き返してこざるをえないことだってあるんだ、という開き直り、つまりはPESが個別的な疑似体験によりえられた快や苦痛をすぐに相対化するような人生観を持っていると、それが再びPESにかけられることで、「大したことじゃないよ」ということになる。そこがPESの成熟度ということなのだ。<全くの独りよがりの話にきこえるだろう。>

2010年5月27日木曜日

(承前)
あるいはその人の精神の安定性という問題とも関係しているといえるだろう。あなたが気分の起伏が激しくて、それを自分でもコントロールできない人なら、株価の下落を知って大騒ぎするかもしれない。散々悪態をついて、あるいは愚痴をこぼしてようやく気持ちを落ち着けることになるだろう。しかしあなたがある程度肝が据わっているならば、しっかり株価の下落の可能性を覚悟していて、それを実際に確認したからといって、やたらと失望したりはしないであろう。そしてそれは、このPESの性能、ないしは効率とも関係しているだろう。株価が落ちていることが何らかの形で想像がつくにもかかわらず、それを受け入れることができないとすれば、すなわちPESによって実際の失望を十分に先取りできていないのであれば、あなたは心の準備をすることができずに、現実に突き当たって大騒ぎをすることになるのだ。そしてこのように考えると人間的な成熟、というテーマとこのPESとの関係というテーマもうっすら見えてくるかもしれない。

PESの「性能」と人間的な成熟?さとり?

認知療法の創始者アーロンベックについての逸話を聞いたことがある。ある日地方に講演に行く際に、お弟子さんと空港までタクシーで向かっていたという。その日は道が混雑して、到底飛行機に間に合うように空港に着けないという事態になった。その時お弟子さんは、ベック先生が少しも動揺を見せず、泰然自若としていることに驚いたという。お弟子さんの方は、彼らが時間とおりにつけないことで起きるさまざまな問題を考えると、気が気ではなかったのだが、自分の師匠の肝の据わった態度を見て感銘を受け、さすが認知療法の創始者だ、と思ったというような話だ。(実はある講演のテープを聴いたときに語られたエピソード。詳細は違っているかも。)
私はこの話を聞いて、「それはおかしいな」と思ったのを記憶している。今でもそう思っている。そしてこれは、昨日書いた話、すなわち株価の下落、ないしは上昇を見たときのあなたの反応、ということと関係している。(続く)

2010年5月26日水曜日

ところでこのブログを眼にした人は、不自然な文字や絵の配置に気が付くはずである。もちろん私はこれが不満だが、直しようがないのである。グーグルのブログは、コンテンツの編集が出来るようになっているが、私がまだなれていないのか、微調整が出来ない。かと言ってHTMLをいじって調整をするだけの力はない。ということでこのままやっていくしかない。しかし編集の容易さやアップの速さは「ホームページビルダー」の比ではないので、あまり文句はない。
(続き)
ということでPESの話である。私たちがある種の行動や出来事を想像の中で先取りして味わう様々な疑似体験の、快楽原則的な力価、というべきものを示してくれる装置である。私は一人でこの問題に感動しているのであるが、その一つの根拠を示す。
例えばあなたがある会社の株を1000株持っているとする。株価は今後同推移するかを完全に占うことは出来ない。現在は一株100円でも、一年後には半値になるか、倍になるかわからない。つまり現在払い戻すとしたら10万円の株券も、一年後には5万円の価値かもしれないし、20万円かもしれない。このように将来の価値が確定していない株を所有するということはどのような体験なのだろう? 今売るとしたらちょうど10万円になるのだから、現在において査定する価値としては一万円札10枚を持っているのと似た快感に相当するであろう。しかし例えば一年後にその株を売るということを決めているのであれば、一年先のその1000株の値をどのようにPESは査定するのか? 
もちろんこの答えは正確には不明なのであろう。一年後の価値はわからないからだ。しかしあなたの心の中でのPESはある種の答えを出ているはずなのである。そしてそれはたとえば一年間株価の推移を知らずに、それを売却した際のあなたの心に生じたことから推察することが出来る。もし一年後に売却した株の値がかわらず、ちょうど100万円を手にしたとする。それがあなたに快感を与えるとしたら、あなたのPESは、その値を一株100円より低い値に査定していたことになる。逆にその100万円が苦痛や失望を与えたとしたら、あなたのPESは、それを例えば一株200円として査定していたことになる。いずれにせよ実際にてにしたお金に対するあなたの反応により、PESの査定していた価値がわかる。そしてこれは、人の幸、不幸は、このPESのあり方(性能?)に大きく依存するということになるのだ。

2010年5月25日火曜日

今日書くような内容は、読んでいて退屈かもしれないし、そう思うと論文などの活字にもできない。第一そのような論文を受け取ってくれるところはないだろう。しかし誰も読まない日記に書き綴る根気はない、ということで、このような読者が数人程度のブログに書くことになる。後から削ったり、●字にすることもできるし。ただしこう書いた上で付け加えるのだが、結局「私はいかに行動を起こすか、how we make ourselves tick 」という問題が結構重要なのだ。知的であり、学歴も高い人が身の処し方、決断の仕方でまるで子供のようなレベルの力しか発揮しないことを、私達は政治の世界で見ているではないか。
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(承前)
このように考えると、私たちがPES(快感査定システム)で査定しているのは決して近い将来の肉体的な苦痛や快感にはとどまらないことになる。腹筋を続ける際には、その際の苦痛、あるいはそれに伴うかもしれない快感(筋トレ’s high??)、それをやめてしまうことに伴う快感、やめることによる苦痛、が関係している。一つのことを実行する前には、それを実行する際の体験を先取りすると同時に、しない場合の体験も先取りすると思うのだ。そしてそこでは精神的な快、苦痛の方がよほど大きな影響力を持っているといっていい。最後の50回目の腹筋を行うことで得られる快感は、「やり遂げ感」であり、これは実に大きいだろう。だから50回と決めて、途中、例えば20回くらいで苦しくなってやめる人はたくさんいるだろうが、49回まで行って、最後の一回をやらない人は、完全に疲弊しきった人でなければ、おそらくほとんどいないだろう。それは山登りに行って、頂上まであと一歩、というところで「もう飽きたから登るのヤーメタ」と引き返す人がほとんどいないのと同じだ。それに50回の腹筋を終えないと、その後のビールはお預けだ、と決めている人にとっては、先取りの中にはビールの味まで含まれるからややこしい。
ここでもう一つ重要な要素が加わる。それは自分が近い将来どのような行動をとるかについての結論を出すことそのものによる利得(あるいは出さないことによる苦痛)である。これは50回目の腹筋運動をするかしないか、AがいいかBがいいか、という問題ではなく、どちらか一方に決めるということに伴う快、ないしはそうしないことによる苦痛である。「Aを行うことによる快マイナス苦痛」、「Aを行わないことによる快マイナス苦痛」の両方を比較してちょうど釣り合ってしまった場合、人はより慎重になるだろうが、そのどちらかを選ばないでぐずぐずしていること自体を「決断力のない奴だ」と揶揄される場合には、ともかくも何かを決めなくてはならない。その場合は、AかBかのいずれかに決定する、ということを決めて、あとは頭の中でサイコロを振るということになる。こうなるとかなり高度な思考プロセスということになるし、実際いかに知性的で教養があってもこ子に問題を抱えている人は少なくない。タイミング良く決断を下すこと。それは何を決断するかということと同様の、ないしはそれ以上の価値を持つことは、私たちの社会では決して少なくないのだ。

2010年5月24日月曜日

よくある疑問

ブログの設定をいじって、シンプルなものにしたら、写真や自己紹介文がどこかに消えてしまったぞ。まあどうでもいいや。
話を続ける。
「すべての行動は、快楽査定システム(PES)を経て行われる、つまりはすべての行動は快楽追求的(苦痛回避的)である」という言い方は、即座にある批判を招く。それは「人間の行動はそれだけではない。何も考えずに反射的にふるまってしまうこともある。」というものだ。また「人間は時には苦痛を招くような行動も選択するではないか。」という批判も多い。私の仮説はかなり前から口にして、結構批判も受けているから、この種の問いには慣れている。そして前者は比較的容易に処理できるが、後者はすこしややこしい。
まず確かに私たちの行動は無反省的 non-reflective に行われることがある。これは「行動」に含めないとするしかない。あえていうならば、一種の反射か。私たちの行動はそれが意図や計算を含む分だけ、大脳皮質の関与を必要とする。例えばコンピューターゲームの、テトリスを考えよう。はじめはブロック図形をどちらの向きに回そうか、どこに収めようか、などとあれこれ考え、大脳皮質を忙しく働かせる。ところが慣れてくると大脳皮質は「青くなって」いく。(つまり光トポグラフィーで見ると、活動が低下している。)つまり行動は、それに慣れてくると、前もってあまりプランせずにその時々の状況に合わせて反射的に行われるようになる。「これをしたらキモチええやろか、得するやろか、」などとPESを働かせなくても済む。無反省的にできるようになったことが、それが思ったような結果を招く限りにおいて、それはPESでいちいち先取り評価を受けなくなる。ただしそうやって一度でも失敗したなら、次回から大脳皮質を働かせて、次なる行動を想像し、PESに諮ってみてOKならそれを再び徐々に自動化させていく。だからこの第一の批判は正しいのだ。PESそれを働かせない行動はちゃんとある(というより離れている行動はおおむねPESをスルーして行われる)ということができる。だから詳しくは「すべての意図的な行動は、PESを経て行われる」と言い直さなければならないのだ。
後者の批判は、それに比べれば少し複雑である。確かに私達は意図的に苦痛を招く行動を行うこともあるようである。たとえばあなたが少し体重を落とすために腹筋を50回やろう、などと決めて、実行する際を考えよう。49回までやり終えて、もうあと一回がとてつもなく苦しくても、私たちはそれをやることがある。そんな時、最後の腹筋運動を行うことを想像してもPESは快楽を少しも予測しないように思えても不思議はない。
そのような時に私たちの脳はどのようなプロセスを経るのか。一つの仮説を示す。あなたは最後の一回の腹筋をやることを想像し、Aという苦痛を予測する。(ここでは不快査定システムもまだあまり区別していないから、このような言い方をしておく。)次に最後の一回をやらないことを想像する。それもまた耐えられない。その量をBとする。そしてすばやくA<BかA>Bかの判断がなされる。最後の一回をあなたが遂行するならば、かならずA<Bが起きているはずなのである。

2010年5月23日日曜日

ブログは本来不可能である(●字付き)

といってもブログはもうやめる、といっているわけではない(まだ)。ブログは自分が誰かを明かして続ける以上、身近な人については、いいこと以外には何もかけない!! 実はこれは私が外国にいて、身近なアメリカ人のことを自由気ままに日本語で書くときにはまったく考えなくてすんだことである。
とくにFちゃんのこと。これを読んだ人はほとんどいないだろうが、もしFちゃんの両親が読んだらどうしようと思うととても心配になる。今のところこのブログは読者は5人くらいだろう(←テキトーな数字)。でもそのうち万が一Eさん(お母さん)が間違って私の名前を検索して<どーいう「間違え」や!>、間違ってこのブログに行き着き、まちがってあのFチャンについての記載を読んだら、そしてそれが自分たちのかわいい●ちゃんであることを知ったら、ショックだろう。ということで●●を思いついた。伏字である。(すでに使っている。)興味を持たない人もぜひ私の5月8日のFちゃんのページに行き、●字により変わり果てた姿を見て欲しい。
例えば今日あったことを書いてみよう。絶対本人がわからないような書き方をすると、こうなる。
「今日●●で●●さんと●った。彼●は、最近とても●●●きたが、しかしとてもそれを●うわけにはいかなかった。そこで私はじっと●●をして●女を●●していた。どうして私が彼●に、「最近体つきが●●としてきましたね。」などと●えるだろうか?」 (ちなみにこの記載はジョークである。)

2010年5月22日土曜日

(承前)
この食行動と食欲の分離というテーマについては、その典型がアノレキシアの患者さんである。彼女たちの中は、もはや食べたいから食べる、というパターンが崩れてしまっている人たちが多い。時間が来たから決まった量を食べる、という感じであり、決しておなかがすいたからそれを満たすだけの適量を、というわけには行かない。それでいて唐突に食欲がよみがえって、パン屋で売り物のパンをつかんで夢中で頬張ってしまい、警察が呼ばれたりする。
彼女たちの例は極端で病的だと思われるかもしれないが、こんな研究もある。アメリカでベトナム帰還兵を対象に(うろ覚え、要出典)、半分は通常の食事の半分にカットして与え、対象群と比較した。するとこのグループは、通常の量の食事を与えられたグループに比較して、実験が終了した後もはるかに多くの食行動異常がみられたという(要出典)<← お前は Wikiか?>。
これは授業でも結構出す例なので恥ずかしいが、それでもこの研究が面白いのは、食べるということについて意識しだすと、食欲というのがわからなくなるということが、一般人でも起きうるということである。
私自身の例。大学時代に70キロ近くなってしまい、短時間に60キロまで落としたが、医師国家試験を控えてナーバスになっていた時期でもあり、この現象が起きた。食べてもおなかがすかない。というよりいの中のものが消化されずにずっと残っているという感覚があった。お腹がすかない、という現象が、こんな具体的な形で起きるのが面白かった。(私の場合は、これは「常に何かを食べていたい」の裏返しとして起きた、ということと関係あるだろうか?)
えーっと、何でこんな話をしていたのかわからなくなった。そうだ。欲望や願望は、認知により変わる、ということだった。何か食べたい、という願望は、実は「食べたいという願望を持ってもいいのだ」「食べたいと願うことは安全なのだ」という認知を前提としているところがある。そしてこれが、先ほどの「快感査定システム」の話につながる。行動に先立ち、私たちはそれを起こした際の快、不快を査定する。これは認知的なプロセスだ。そしてここには、あらゆる認知の偏向やゆがみが反映される。ここで食べるということへのゴーサインが出ないと、私たちは空腹になってものを食べるという自然な行動ができなくなってしまうということだ。

2010年5月20日木曜日

(承前)
私が興味深く思うのは、私にとっては夜食は、一種の権利のようなものになっているということだ。たとえば自分は夕食後に、200キロカロリー相当のスナックを食べる権利があるとする。カロリーメート2本分というわけだ。そしてこれは、それだけの量を「食べたい」というのと少しばかり違う。権利を行使する、そうしないともったいない、という感じだ。満腹でも食べるのだから、食欲を満たすのとは明らかに違う。
だからたまに旅行に出て、ホテルで食事をした後に、どこにも夜食を買いに出られないとなると、すごく損をした気がしたりする。それに200キロカロリーのうち、100キロカロリーしか権利を行使していないと、どうしてもあと100キロカロリー分のものが食べたくなる。そして200キロカロリーに到達したという認知とともに、その後は食べなくても我慢が出来るのである。
さてリセット期間になると、この200キロカロリーが、100キロカロリーに変更になるわけだ。これははじめはつらいが、それは実際のカロリー摂取が減少したことによる生理的な反応というのとはおよそ違う。どうせその日のカロリー量など、カミさんがその日に作ってくれた夕食の量によってバラバラなのだ。摂取できるカロリーが減ってしまったということが辛いのだ。しかしそのうち自分は100キロカロリーの権利しか行使できないのだ、という考えに慣れてしまえば、今度は新たな認知パターンが出来上がる。そして100キロカロリーを消費した時点で我慢が出来るようになる。いったいこれは何だ? 食欲が認知に依存し、空腹の満足という本来の生理的なプロセスとはかけはなれている。いわば食行動と食欲の分離とが起きているということで、そこが食行動異常的なのだ。
私は酒を飲まないせいもあってか、甘いものが好きである。常に何か口に入れていないときがすまないということも少なくない。すると非常に稀に体調を崩したりして、何も食べてくないときは非常に不思議な気がする。
私の場合は体が欲するのに従って食べる、という自然なパターンはかなり崩れていることになる。幸い正常範囲内の体重であるが、食べるという体験は食行動異常のそれといっていい。常に食べたい。かといって過食嘔吐は経験ない。だから食べたい、というより、口さみしい、という感じだ。<意地汚い、という表現のが近いんじゃない?>結局常に食べたいのを我慢しているということになる。
私が困るのは、お腹がいっぱいになっても「別腹」が存在することだ。満腹でも、甘いものが欲しくなる。それに任せて食べたいままに食べていると、次第に太ってくる。(だからその自覚がなかった小学生の頃は肥満児だった。)<たしか浪人中も70キロに近かったぞ。>いつも「このぐらいはいいだろう」と自分に甘いから、日頃から食べる量を制限していても、じわじわとそれが増えていき、それにつれて体重が増え、何年かかけて65キロを超えていく。すると大変だ、ということになり、気持ちのリセットを図り、数ヶ月間かけて体重を減らして60キロ付近に持ってくる、ということをこれまで10年単位で何回も繰り返している。
さてその数ヶ月の「リセット期間」は、最初は辛いがすぐに慣れてしまう。そしてそのプロセス自体が、快感中枢の問題を考える上で興味深い。それで私のつまらない食行動について書いているというわけだ。

2010年5月18日火曜日

快感中枢と生命

ところでこれまでに、私は快感中枢と、快感査定システムの区別をつけて論じてきた。両者を分けてきたのは、両者が脳内でおそらく異なる存在だからである。片方は実際に快感をあじわうという体験に関係し、もう片方は、ある体験が快感を味あわせてくれるであろうことを知らせてくれる機関である。前者はおそらくノルアドレナリンという神経伝達物質により支配され、後者はよく知られるようにドーパミン経路である。
もう少し専門的な話になるが、快感中枢の位置は知られている。それはMFBと呼ばれる部位、中脳の側坐核と被蓋野を結ぶ一帯であり、後者は不明であるが、快感査定システムはむしろ連合野が関わっているだろう。それは次のような理由による。
似たような例としてあげられる運動野と、運動前野。運動野が興奮すると実際に体が動き出す。運動前野はその運動をしていることを想像するときに興奮する。運動前野は運動野のすこし手前にあり、大脳皮質の他の部位との連絡を持つ、連合野といわれる部位に位置する。両者は異なるのだ。
それにしても不思議な快感中枢。生命活動の源は快感による。それが導き手となり、生命活動が維持され、生殖活動が繰り返される。カマキリのオスは交尾のあとにメスに食べられる。<わかったふうに書くが、そんな話を聞いただけである。>おそらくカマキリのオスはメスに頭をかじられながら、強烈なエクスタシーを味わっているだろう。私たちはよく、下等動物に心はあるのだろうか、などという議論をする。しかし心が存在するためには、その内実が必要であり、それを保証するのは神経ネットワークの大きさである。神経細胞が数千というプラナリアの脳のネットワーク<ここら辺もうろ覚えでだろう?>を考えても、そこに存在しうるのは、遥かに希薄な自己意識、とも言えないような心なのだろう。しかしそれでも強烈な快楽を体験する能力は否定出来ないのだ。場合によっては単細胞のゾウリムシでさえ、極小のピペットに体をいじられて身をよじらせるときは明らかに不快であろうし、開放されたら快感なのであろう。もちろんそれを確かめようがないのであろうが。
快感について考えることは、生命を突き動かすのものは何か、what makes the living creatures tick を考えることでもあるのである。

2010年5月17日月曜日

対人関係におけるバランスシート <合いの手入り>

もともと無計画なブログだったので、もうきつくなってきた。そこで続ける工夫をしてみた。合いの手(突っ込み)を入れるのである。こうすると、少し楽に書けることがわかった。
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このバランスシートの関係で興味深いのは、私たちはしばしば、人との間でこの種のバランスシートを構成し、それを几帳面にもきちんと脳内で維持するということである。<まだ続けるのね。もう三日以上は経っているみたいだけれど。>
皆さんはこんな体験をしたことはないだろうか? 誰か(Bさんとしよう)とちょっとした仲たがいをして、その人に恨みを持ったとする。そして鋭い言葉の交わしあいの挙句、ある言葉を投げかけられ、それを許せないと感じ、口をきかない関係になったというわけだ。するとBさんとの間のバランスシートには、負債の欄に、ある値が書き込まれることになる。すると次にBさんと顔を合わせた時、あなたは実に明確で興味深い反応をする。その口論の前までは、笑顔を会えば笑顔をかわしていたBさんを見ても、顔がこわばり、あたかも他人のような冷たい視線を投げかけることしかできない。Bさんに対して笑顔で声をかけるという行動に耐えられなくなっているのだ。そのような際、私たちは決して頭の中で計算をしてそうしているわけではない。体が(脳が)自然とそう反応しているのだ。<ここら辺、夫婦げんかの時のことを思い出して書いているんやないか?>
そこに関係しているのが、「快感査定システム」というべき部分である。これから行う行動を査定して、それが不快であるならその行動を起こせない。そしてその査定はほぼ瞬間的に、非意識的に行われる。<また大げさな表現やな。まあ許したるわ。>
そこでいつものようにBさんに気軽に声を掛けることは「それは苦痛である、やってはいけない」という結論が自動的に算定され、したがって行動に移せないのだ。
ところがバランスシート状の数値は、実に瞬間的に書き変わる可能性がある。たとえばBさんが例えば「ゴメンね。私のほうが間違っていた。」という簡単だが明確な謝罪のの言葉を投げかえるだけで、そのような冷たい態度は一気に氷解する場合もある。すなわち他人との貸借対照表に書き込まれた数字は、謝罪という行動により瞬間的にも解消する類のものである。(しかしこういったからといって、謝罪が心のこもっていないものであってはならない。謝罪が心のこもった本物であるかどうかを、私たちは実に注意深く見ている。そして謝罪が本物であるということは、そうする人間が苦痛を味わっているということに他ならないのである。すなわち謝罪をすることとは、謝罪者のバランスシートにある種の負債を作ることに他ならない。)
<それで足利事件の菅谷さんのことを思い出した。裁判官が心底謝っていると感じた瞬間に、許すという気になったのは、その謝罪の態度や重みにより、バランスシートが、一時的にではあれプラマイゼロの状態にまで戻ったということだね。あれも瞬間的な現象だったと言えるわけだ。それはそうと、あれほど気をつけろと言ったのに、変換ミスが一つあるぞ。>

2010年5月16日日曜日

昨日、5月15日のことだ。民主党の小沢さんは、地検からの3回目の事情聴取で政治資金の虚偽記載に関する関与を改めて否定したあと、書面で「率直に事実経過を説明しました。これからも誠実に対応してまいる所存です。」とコメントをして、逃げるように車に乗り込んでしまったという。心証は・・・・・ 残念ながら真っ黒である。このような行動は「後ろめたさ行動」などと言えるのだが、この行動面からの明らかな特徴について、どうして心の専門家はコメントを求められないのだろうか?
政治家がウソをついているときの行動はかなり特徴的である。それについての直接の言及を避け、秘書かだれかを通じて形ばかりの釈明をし、それ以後は取材を極力避ける。もし小沢さんが本当にシロなら、無実の罪を着せられたことへの怒りを表明し、自らの潔白をそれこそ週刊誌へ寄稿するなりして晴らそうとするはずだろう。
動因の心理学からこのパターン化された行動を説明するならば、それは嘘を並べて自己正当化するという行為を、自然な感情を交えて行うことは不可能だと感じるからだ。いったんそれをやりだしたら、限りなく嘘をつき続けなくてはならないという状況に身を置くことになることが予測されるから、ノーコメントにしてしまう。もちろん巧妙に言い逃れるだけの方便があるのならそれを選ぶのかもしれないが、それもないのであれば、ああするしかない。
しかし小沢さんの振る舞いに関して、心理学者や精神科医が意見を求められることは皆無ではないか?私なら「動因心理学的には、そのふるまいから、小沢さんの説明は虚偽に満ちていることはかなり高い確率で言えることです。」などとコメントするだろうが、もちろんそんな事を一介の精神科医に聞く人はいない。

2010年5月15日土曜日

(承前)
 ここで私たちは、もう一つのタームを設けなくてはならなくなる。先程IPA(生得的に快感を生む行動)という概念を紹介したが、その快感を「検出する」ような脳内の器官である。それを仮にPES pleasure evaluating system (快感評価システム)と名づける。また同様に不快を評価するような器官としてDES Displeasure Evaluating System も考えることになる。現在の脳科学は、両者が別々の器官であることを教えているので、この両者は区別しておく必要がある。このDESに関しては、実はPain Evaluating System 苦痛評価システムという名称の方が妥当であろうが、それだと両方ともPESになってしまって具合が悪い。
 さて当面は快感について、すなわちPESについて述べるが、その議論のかなりの部分は、DESについても同様に当てはまるであろうことを了解していただいて、議論を進めよう。
ここで重要なのは、PESは、快感中枢そのものではない、ということだ。快感中枢(FBMなど)は快感を体験する場所、PESは快感を「検出」する場所である。それが快感中枢により兼務されている可能性はあるが、そうとは限らない。
 実際のところこのPESが脳のどこに存在するのかは不明である。でも確かに存在し、それが私たちの行動を生んでいる。ある行動を起こすことをイメージする。PESがある種の値を示すことにより、その行動にゴーサインが出される。このプロセス自体はおそらくあらゆる生物にある程度共通しているのであろう。行動の大半が本能により導かれる生物でさえ、あるいはそのような生物であるからこそ、そのPESにより導かれる行動がより大きな位置をしめる。本能に基づいた行動においては、それが快感を予測するような行動のパターンがある程度出来上がっていて、そこに試行錯誤や行動を創出するプロセスが必要とされていないのである。

2010年5月14日金曜日

脳内バランスシート(貸借対照表)?

このように考えていくと、私たちの脳は、おそらく非常に精巧な計算を行なっていることに気がつく。それは一種の貸借対照表のようなものを作り上げていることになるのだ。それは例えば次のように働く。「今日は仕事を終えたらうちに帰ってビールを飲もう。確か冷蔵庫には缶ビールを二本冷やしているはずだ。」缶ビール二本、という量がとりあえずあなたを満足させる量であるなら、それを思い浮かべた時点で、ある種の満足が得られる。あなたが安心して帰宅できるのは、もうそのビール2本がすでに手中にあると思えているからだ。そしてそれはビールのことを考えていないときにも、常に脳の中に刻まれている。すると冷蔵庫を開けたときに、ビールが一本しか見当たらないときの失望もまた保障されているのである。
脳の中の貸借対照表においては、これを「貸し」に記入してあるだろう。その記入はかなり正確で、例えばそのビールの銘柄まで、冷えている温度さえも記入されているだろう。そしてあなたはそのビールを飲むということを忘れて寝てしまうという可能性はかなり小さい。気になったテレビの番組を見るのを忘れても、友人からのメールに返事をするのを怠ったとしても、缶ビール二本は消費される。それにより貸しが返されることで、最終的にバランスシートはプラスマイナスゼロになり、あなたはゆっくり床につくことができるだろう。(もちろんメールを出すこと、気になっていた番組を見ることが、日中から何度も頭を掠め、それを想像上で実現することで喜びを得るほどに重要であったら、もちろんそれらについても、対照表に大書きされ、その遂行に特別注意が払われることになるだろう。)
同じことは「借り」についても言える。例えば友人にメールの返信をすることが苦痛で、かつ必ず行なわなくてはならないことであるとしたら、その労働を行なうことについてはもうあきらめて、ビールに手を伸ばす前に済ますかもしれないし、のどの渇きを癒してからの一仕事として取っておくかもしれない。こちらはその「借り」を返すことでとりあえずは心のバランスを元に戻すことができるのだ。これについてもバランスシートは正確である。もしこの苦痛な仕事を忘れていたとしても、「何か一仕事が残っていたはずだ・・・」という感覚を持つということでその「借り」記載をあなたに教えてくれる。それを行なうことなく一日を終えることにどこか後ろめたさを覚えるのは、いわばこの対照表からのアラームなのである。

2010年5月13日木曜日

なぜ「動因の心理学」が快感中枢に関係あるのか?

ここで動因を考えることが、どうして快感中枢の話に結びつくのかについて述べたい。私が20代の医学生のころから、人間の動因について考え始めたのは、非常に単純な発想からであった。哲学書を読んで、などということでは全然なかった。(というより読書はほとんどできていなかった。)日常生活で、「自分はなぜ~をしたいのだろう」、「なぜ~をするんだろう?」ということばかりを考えていたからだ。おそらく心で思っても実行するまでに逡巡することがあまりに多かったからだろう。「気弱な」性格のせいということになるし、衝動的な傾向があまりなかったから、ということにもなる。何かをする前に、「オレって何でこれをしようとしているんだろう?」と考えてばかりいたのだ。
そこで次のような図式が非常に自然なものに思えた。ある事柄について、それをやっている自分を創造する。そしてそれを「是」と判断する。しかる後に実行する・・・・・。心の中でシミュレーションをするのだ。およそ意図的な行動を起こす際に、このプロセスが起きないことはないだろう。そして「是」と判断するのは、一種の快感なのだ。ただし本当の快感ではない。快感の予感であり、しかし単に知的な判断ではない。それは一体どのようなプロセスだろう?
例えば知人宅に呼ばれると、コーヒーにしますか、紅茶にしますか、と聞かれる。味のわからない自分にとっては、どうでもいいことなのだが、それでは話にならないので、私がどちらの味も愛でることができて、どちらの味わいにも愛着とこだわりがあるとする。私はコーヒーを想像の中で口に含んでみて、次に紅茶を味わい、しかる後にどちらかを選ぶ。今日はコーヒーで行きたいな、と。でもそれは脳の中で一体どのようなプロセスが生じることを意味するのだろう?
コーヒーを飲んで快感を味わうというプロセス自体は、非常によくわかる。様々な物質が未来を刺激して、脳に信号を送る。その一部はそれを快感として判断するような脳の部分を興奮させるのだろう。だからそれを「おいしい」と感じる。しかしかつてコーヒーを飲んだという記憶をもとに、「それを飲みたいかどうか」を判断するというプロセスは、はるかに複雑で、わかりにくいように思われる。コーヒーは実際には味わわれていないのに、その時に味わうであろう快感の大きさを、紅茶を飲んだときのそれと比べる。しかしあくまでも、それは実際の快感ではないのである。
私は哲学も心理学も何も知らなかったが、この問題について考えるだけで時間が過ぎてしまうのを感じた。それを考える過程で、心というものに分け入っているというちょっとした興奮も味わったのである。
これに関連した現象でもうひとつ興味深いものがあることはすぐに思いついた。「期待」と「失望」の問題だ。コーヒーを頼んで、これから出てくるであろうものを期待している時に、ホストにこういわれたとする。「ごめんなさい。ちょうどコーヒー豆をきらしていることを忘れていました・・・・・」 私はそこで失望する。しかしこのプロセスは一体なんだろう? 言葉にすれば実に簡単だ。私は期待を裏切られて失望をした。しかし実際にはもともと何も起きていなかったはずなのだ。肝心のコーヒーは一切登場していない。純粋に精神的なプロセスということになる。それで人はここまで期待したり、失望したりする ・・・・・・。
ここで興味深いことは、コーヒーがもうすぐ来る、という事実認定は、やはりそれ自身が快感である、ということなのであろう。もちろん実際にコーヒーを味わっているときの快感とは明らかに違う。でもこの想像による体験もある種の快感であるには違いない。コーヒーを味わっている自分は、きっと少しだけうっとりした顔をしているに違いない。コーヒーが出てこない、とわかるときの失望は、それに比べて明らかに不快であろう。しかしこちらの不快は、それと比較すべき現実の不快感はない。コーヒーの味とちょうど逆の体験をして不快になる、という物質(「逆コーヒー」???)など考えられないからだ。うーん、よくわからない。不思議だ、と、私はこんなことばかりを考えている青年であった。
ちなみに後に精神科医になり、神経伝達物質について学んでいく際に、非常に興味深い話を聞いて、私はますます混乱してしまう。コーヒーを飲める、とわかったときには、脳のある部分でドーパミンが放出される。ではドーパミンは快感物質なのだろうか? でも実際にコーヒーを飲んでいるときには、ドーパミンが出るというわけではない。快感自身は他の伝達物質に関係しているらしい。快感イコールドーパミン、という図式はあまりに単純だが、肝心のドーパミンは、実は私が一番不思議に思い、興味を持っていた期待と失望という、純粋に精神的なプロセスにかかわっていたのである。

2010年5月11日火曜日

IPAに伴う自己正当化

(承前)
IPAについて考える際、非常に重要なことがある。それが特にその人の日常体験における核の部分を占めるものである場合は、それはその人に「これでいいんだ」「これ以外にない」という感覚を生む。これはそれを追い求める自分を自然なものと感じ、それに疑問を抱かないという態度につながる。これは「自己正当化」という感じに近いが少し異なる部分もある。
たとえばある子供にとっては「自分が人よりいいものを持っている」と認識することが主要なIPAであるとしよう。その子供は物心ついてそれが周囲の親や友達との間でどのような意味を持つかを理解するまでは、そのことに全く疑問をいただかない。そのままでは他の子供が自分よりきれいな服や高価なおもちゃを持っている時には、それを汚したり、壊したりすることでIPAを満足させることもためらわないかもしれない。その行動が抑制されるとすれば、その子がほかの子供の不幸な顔を見た時にそれを苦痛に感じるという体験を持ったり(それが結構大きな「IUPD」(後述)となっていたり)、そのような行動の後に、相手の子から手痛いしっぺ返しを食らって「学習」したたという場合だろう。その場合は、「他人よりもいいものを持つ」というIPAは必要に応じてどこまでも潜行していくしかない。それがその子供のもっとも主要なIPAであるならば、そしてその子が十分な状況判断や思慮深さを持っているならば、どのような迂回路をたどっても、最終的にIPAが満たされることを目指すであろうし、そのこと自体にためらいや迷いはない。そのために詭弁を弄したり、嘘をついたり、ということも迷わずするのだ。なぜなら生物として最終的に快感を味わうことはそれほど自然なことはないし、およそ人間以外の動物は(そして実は人間も)IPAが満足される限り、おそらくその目的以外の「思考」を、そして反省を用いる必要すらないからである。
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さてこんな感じで書いていると、私はまさに30年足らず前の、土居先生に原稿を提出して歯牙にもかけてもらえなかったころの考えとほとんど変わっていないことに気が付く。人は快を得るために行動する。快楽主義。このことをおずおずと話すたびに、私は周囲から様々な反論を向けられたのを思い出す。あれから精神分析理論を学んで、精神科の臨床を続け、いろいろ本も読んだが、それでもこの考えを変えることができないとすれば、こう考えることがまさに私の主要なIPAを形成しているということになるだろうか?

2010年5月10日月曜日

(承前)
ところでこのIPAという発想は職業柄、非常に情緒不安定で、少しのことにも油を注いだ火のごとくメラメラと反応したり、他人のちょっとした言動や態度にいきなりキレて物を投げつける、暴言を吐く、といったケースを見ているからであろう。いわゆるEUP(情緒不安定性パーソナリティ)の範疇に属する人たちにそれは特徴的であるが、特に診断に該当しない人たちの中にもたくさん見られる。それらの人たちの多くは、それを生れながらに抱えているが、幼少時からすでにその情緒不安定さがみられる場合と、それが思春期を過ぎたあたりから顕著になる場合があるようである。私はかねがねこの後者のタイプを不思議に思っていたが、その「片鱗」は注意深く観察しているならば、幼少時にも見られるであろう、というのが私の考えである。
ただし非常に多くの場合、親は子供の情緒不安定な様子をかなり割り引いているか、あるいは思春期以降のあまりの変貌ぶりを印象付けられていて、それ以前のちょっとした気がかりなサインを忘れてしまっているという可能性がある。「うちの子はおとなしい、ごく普通でしたよ。」親とは特に自分の血を分けた子供については、幼少時にみられる問題を過大視しすぎる場合もあれば、見事に見て見ぬふりをする場合もある。「自分の遺伝子を受けついているからこんなことが起きるのだろうか?」などと考える場合にはなおさらなのだ。F ちゃんにしても、彼女の両親は彼女の気がかりな行動にほとんど注意を向けていないようであった。もう今ではすっかり成長しているはずのF ちゃんがもし「情緒不安定性…」であり、彼女の幼少時の様子をご両親が聞かれたとしたら、彼らはきっとこんな感じで答えるはずなのだ。「うちの子は時々やんちゃはしても、それ以外はごく普通でしたよ。」

2010年5月9日日曜日

(承前)私がこのFちゃんの事を思い出すのは,これがおそらくFちゃんに一生ついてまわるだろうという憐憫の気持ちである。彼女が破壊的な動作に快感を覚えてしまうという傾向はおそらくこのまま残っていくのだ。もちろんそうならない可能性もある。彼女は友達に優しくすることにも快感を覚えるようになるかもしれない。あるいは破壊的な行動に快感を覚えなくなる可能性もある。ただいわゆるビッグ5と呼ばれる性格傾向の安定性についても様々な研究がそれを伝えている。
ここでIPAという言葉を導入しておこう。Inborn Pleasurable Act つまり「生来の快感的な行動」という意味であるが,これでFちゃんのような破壊的,簡単に言えば「意地悪」な行動がそれに相当する。それが快感を呼び起こすために,いつの間にかそれを繰り返す。実は一番それが現れるのは物心付く前の幼少時なのである。人はそのうち様々な知恵をつけ,防衛機制を用いてそれを隠していく。あるいは昇華しようとするかもしれない。でもIPAはかなりしつこく残っていく。なぜならそれは脳の一種の wiring (配線)に関係しているからである。
IPA はその人の行動の「動因」を考える上で便利な概念である。「動因の心理学」にとっての鍵概念と言ってよい。それは「性格」や「人格」に結びついているが,それとは異なる。おそらくそれを構成するような要素となるだろう。IPA はそれ自体は目に見えにくい。それはその人の様々な行動の背景にあり,それらの行動は複雑に絡み合いながら,最後にはその人のIPA としての意味を持つ。
民主党の剛腕 Oさんのことを考えてみる。彼の IPA の一つは確実に「他人を力で支配する」であろうし,彼がどのような政治的な発言をし,綺麗事を並べても,いかに自分の行動を正当化しようとしてもそれを満たすところに行き着く。もちろん彼には別のIPA も存在するだろう。聞けば犬を溺愛しているという。かなりナイーブな形での政治的な理想を持っているとも聞く。それはあまりに強い「他人を力で支配する」IPA を少しでも和らげるためには助けとなるだろうし,彼の人格に厚みや広がりを与えているのである。しかし幼稚園時代の彼が目の前にいたら,おそらくかなり「F ちゃん的」だったはずなのである。 

2010年5月8日土曜日

「動因の心理学」へのヒント:F ちゃんのこと

この週末もいい天気らしい。雨が多かった今年の春は、特にありがたい。

人は何に動機づけられるのか。この点について考える時に思い出すのが,私がかつて会ったFちゃんという女の子のことである。もう2●●以上前のことだ。比較的●●関係にあった●●●に授かったFちゃんのことを,私たち(すなわち私と●●さん)はほとんど●●れてから●●になるまで毎日のように●●●たことになる。なぜなら●●●とは●●●が頻繁にあり,また●●●●●●Fちゃん●●●●●●より何歳か年下●●生まれた●●たちの●●●がどのような●●レベルを辿るかを知る上でも非常に興味を持たざるを得なかったからである。
Fちゃんは●●●お子さんだった。かなり●●●で,●●の●●が●●かった。それは●●と呼べるものが認められるようになった●●●●の時期からずっとであった。そうしてもう一つ●●だったのは,彼女が時々見せる●●●笑顔であった。それは彼女が特に●●の●●を●●たり,●●げたりした●●に見せるものだった。一緒に遊んでいる●●の●●が●●ていた●●を●●に見えないように●●●●●●しては,その●●●●●のを見て●●●とする。●●についても同じである。
もちろんFちゃんには●●や●●や,●人に●●を向けることもあったようである。子供らしい笑顔を●●マに見せて,幸せな気分にさせることもあった。●●それ以外にもFちゃんは●から●を●ったり,●を●●●ることに●●を●えているようであることも確かだった。そしてそれは,ある意味ではFちゃんが●●れてから彼女に●●や●●パターンが見られるようになったときには、すでに●●●ていた。
心理関係の仕事についていた私とカミさんはその過程を食い入るように見ていたところがある。そして同時に●●●がFちゃんの●●●●部分が持つであろう●●●にあまり気付いていないようであることに●●●●れた。

2010年5月7日金曜日

首相になることは,裸になること

鳩山さんの言動がいちいち報道されてその迷走ぶりが物議をかもしているが、去年は麻生さんが(別の種類のことで問題視されていたとはいえ)同じような状況にあった。一人の人間としていろいろ迷い,悩むのは自然であるが,一国の首相ともなると,「自然」ではすまなくなる。常に高度の判断が要求されるし,言動のブレも一定以上になると問題視される。首相になるとは(少なくとも日本の場合は)その人が裸にされて,判断能力,決断能力の有無が明白になるということだろう。私はこれほど人の行動を知るのにいい素材はないと思っている。
ついでに言えば,アメリカの大統領選に至る道程は,公開での討論の積み重ねで,そこで理論的なブレや矛盾はすぐに相手につかれて負けてしまう。大統領にまで上り詰める人間は、言葉を使って自分の意見をまとめ,それをあらゆる方向からのチャレンジに対して防衛することに長けた人間ということになる。鳩山さんとオバマさんのこれまでの短い会見では,そのような駆け引きのプロ中のプロと,およそそのような訓練を経ずに一国のリーダーになった人(鳩山さん)との会見であり,大人と赤ん坊との違いに似たような,鳩山さん側の「お話にならなさ」を感じる。
日本で首相になることは,言わば裸にされて恥をかかされる体験になっているわけだが,よくしたもので会見に負けた人間が全く無価値かといえばそうではない。国と国の駆け引きは,その国の経済力,軍事力,生産性,文化的な価値の総合としての国同士の力の関係で決まる。鳩山さんがオバマさんに圧倒されて,とんでもない約束をしても国会で批准されないだけであるし,そんなことはオバマさんも知っているだろう。それよりもこの種の国のリーダーはある意味では無害で,他の国を挑発したり,怒りを買ったりはしないということは重要である。歴史的な大きな衝突が小さな小競り合いを通じてたがいのプライドを傷付け合う形で発展してきたのを見ると,鳩山さんの「友愛精神」はその比較的平和な国際社会では意外と価値があると考えるべきではないか?もっともそれを見込んで彼が「友愛」や「命を守ること」を唱え続けてきたとも思えないが。

2010年5月5日水曜日

三日坊主にならないように

連休も今日でおしまいである。
身辺の雑事をこなしているうちに、今時間があったら考えたいテーマが思いつくようになった。ちょうど机の上を整理しているうちに書類が片付いていき、机の面が見えてくるような感じである。むかし(もう30年近く前のことである)土居健郎先生にはじめて私の文章を見ていただいた時の内容が、人の行動の動因に関するものであった。結局今でもこのテーマに戻るのだが、一つこれを視点にして書いてみようと思う。そうしたら少しは続くかもしれない。またあまり読んでほしくないことは、英語で書くことにしよう。

2010年5月1日土曜日

まだ使い始めたばかりだが、このブログのいいところは、投稿や更新がきわめて簡単だということだろう。メールを書くのと同じ手間でメッセージを載せることが出来るのだ。それを思えばHPを更新する際の手順は気が遠くなるほどである。
ということで今日は連休の第一日目。気持ちよい快晴である。どうせ誰も読んでいないはずなので、しばらくは気軽に、そして頻繁に投稿しようと思う。またそのうち三日坊主になる可能性があるが。