2017年9月20日水曜日

日本における対人ストレス 増補

昨日のをちょっと書き足してみた

日本社会は恥の文化と形容されたり、甘えの社会と称されたりする。これだけを見れば、一般的に人々は和を好み、平和主義的であり、争いごとを避ける傾向にあるように映る。著者も昨年の学会では、日本人の対人過敏性と非・表出性 non-expression をその文化の特徴としてあげた(201753日、台湾にて)。そこであまり強調しなかったのは、その日本社会において人は特異なストレスにさらされているということである。
個人的な体験を最初に述べておこう。私は17年間米国で精神科医として暮らし、10年以上前に記憶したが、いくつかの点で非常に驚いたことを覚えている。人々は職場に遅くまで残り、しかも有給休暇を誰もカウントしていなかった。アメリカでは有給休暇は使い切ることが常識だった。ちょうど期限切れが間近に迫ったクーポンを使うようなものである。それは個人の利益を考えればあまりに当たり前のことだった。しかし日本ではそんなことをする人は誰もいない。そんなことをしたら「周囲から白い目で見られる」のである。あるいは時間が来ても帰る人がいない、というよりそんなことをするとやはり変な目で見られる。家族の為に職場を休むことは自己中心的な行為とみなされる傾向にある。
この問題とカスタマーへのサービスとは表裏いったいであると私は思う。日本の企業も、店員も顧客にいかに心地よさを体験してもらうかを求めている。しかしそのために社員が疲弊するということにもつながる。よりよいサービス、よりよい商品を届けるためには、社員、店員の都合は二の次、という考え方がある。それに比べればアメリカの店は非常におおらかだ。店員同士がしゃべっていてカスタマーを放っておく、ということは常に起きていた気がする。もちろんそんな企業ばかりではない。米国の企業もカスタマーに奉仕するという精神が企業の成功を生む。スターバックスなどはそうであった、とある本に書いてあった。(Charles Duhigg (2014The Power of Habit: Why We Do What We Do in Life and BusinessRandom House Trade Paperbacks)でも大部分の企業ではそうならない。それは個人の都合や快適さが尊重されるからだ。日本に住んでいると自己犠牲が当たり前のようになってしまっていて、どうしてそんな毎日が送れるのだろうと疑問に思うことがある。
もう一つの原体験。これは第一の例とは見かけ上は関係がない。(あるいは本当にないかもしれない。)日本の子供は親からの過干渉に苦しむが、一つには黙ってその気持ちを汲み、知らないうちに親の支配におかれる。そしてその挙句に支配の事実を知り、親からの独立や解放を望むが、そこに試練が待っている。親が子供の意を読み取り、子供が親の意を読み取る。そこに繊細さや敏感さはあるのであろうが、同時にストレスフルな関係でもある。日本で非常に話題になることの多い「母親が重い」というテーマ。これは虐待でもネグレクトでもない別の種類の対人ストレスなのだ。米国の場合は親からのストレスを人はどのように逃れるのか? まず母親がそこまで子供に干渉しない。というのも彼女たちは自分たちの人生での楽しみを追及することの方に忙しいのである。また子供の方はパートナーを見つけて家を出てしまうことが多い。
いったいどうしてこのようなことがおきるのだろう?
甘えとの関連はどうだろうか? 日本では甘えあう関係が注目される。しかし甘えあう関係は互いをストレス下におく関係でもあるのだ。甘えの裏側には相互の支配の病理がある。対人関係における敏感さ、そして受身性。これは前年の発表において強調されたことなので、このことをキーワードにして進めてみよう。
ところでこれが依存の問題とどのように違うのか。依存の場合には、するもの、されるものという方向性が成立している。時にはそこには何らかの代償が発生するかもしれない。依存をする側はある種の見返りを相手に支払うかもしれない。ところが甘えの場合は、甘えさせる(甘やかす)側のニーズが考慮される。甘えるー甘えさせるは相互依存関係といえるだろう。しかもそれはノンバーバルなプロセスであり、契約は存在しない。そしてそのことが相互にとっての負担にもなるのだ。例として、ABに甘えるという状況を考えよう。ABに甘える際、Bがそれを受け入れることを前提とする。もしBにその用意がない場合、Bにとってはそれは負担となり、ストレスとなる。なぜならその甘えニーズを満たすことについては暗黙の強制力が働くからである。その強制力はおそらく日本社会における常識や周囲の目が大きな力を発揮するであろう。


2017年9月19日火曜日

日本におけるストレス

日本における対人ストレス ― 甘えの裏側の病理

日本社会は恥の文化と称されたり、甘えが許容される社会と理解されている。一般的に日々とは和を好み、争いごとを避ける傾向にある。私はこのような特徴を対人間の敏感さと受け身性という観点からかつて捉えたことがある。しかしそこであまり強調しなかったのは、その日本社会において人は特異なストレスにさらされているということである。
個人的な体験。帰国して驚いたことは、有給休暇を誰もカウントしていなかったこと。アメリカでは使い切ることが常識だが、日本ではそんなことをする人は誰もいない。あるいは時間が来ても帰る人がいない、というよりそんなことをすると変な目で見られる。一体どうしてだろう? もう一つの原体験。日本の子供は親からの過干渉に苦しむが、一つには黙ってその気持ちを汲み、知らないうちに親の支配におかれた挙句にその事実を知り、親からの独立や解放を望むが、そこに試練が待っている。親が子供の意を読み取り、子供が親の意を読み取る。そこに繊細さや敏感さはあるのであろうが、同時にストレスフルな関係でもある。日本で非常に話題になることの多い「母親が重い」というテーマ。これは虐待でもネグレクトでもない別の種類の対人ストレスなのだ。米国の場合は親からのストレスを人はどのように逃れるのか? まず母親がそこまで子供に干渉しない。というのも彼女たちは自分たちの人生での楽しみを追及することの方に忙しいのである。また子供の方はパートナーを見つけて家を出てしまうことが多い。

甘えとの関連はどうだろうか? 日本では甘えあう関係が注目される。しかし甘えあう関係は互いをストレス下におく関係でもあるのだ。甘えの裏側には相互の支配の病理がある。対人関係における敏感さ、そして受身性。これは前年の発表において強調されたことなので、このことをキーワードにして進めてみよう。

2017年9月18日月曜日

第10章 トラウマと精神分析(2) ①

はじめに
本章ではトラウマと解離との関係についてさらに論じる。特に最近の新しい動向、すなわち母子間の愛着の問題やストレスもまた解離の原因として注目されるようになっているという事情についても述べたい。
 心の傷としてのトラウマの概念への関心は、わが国でもここ20~30年の間に急速に高まってきた。そこにはアメリカの精神医学の診断基準であるDSM1980年度版(1)に登場した心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder, 以下PTSDと表記する)の概念が大きく影響しているであろう。さらには1995年に私たちを襲った阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、そして昨年の東日本大震災が、私たちに心の傷の意味を考えさせる機会を与えたのである。
 解離性障害とトラウマについては、両者の深い関連性は精神医学的にはひとつの「常識」となっている。心に衝撃を受けた際の一過性の深刻な解離症状は、急性ストレス障害 Acute stress disorder (2)として知られ、さまざまな臨床研究がなされている。ショックを受けて一時的にボーッとなったり、今自分がどこにいるのか分からなかったり、まるで映画のワンシーンを見ている様な気がしたり、あるいはこれまでの人生で起きたことがパノラマのように目の前に現れたり、ということはみな解離の一種と考えられるわけだ。しかし繰り返される深刻な解離症状については、その原因ははるか昔の、幼少時にさかのぼることが多い。ここで深刻な解離症状とは、人格交代現象などを伴う、いわゆる多重人格、ないし最近では解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下DID)と呼ばれる状態である(2)
   


2017年9月17日日曜日

第7.5章 対人恐怖の精神分析 ④

対人恐怖における謙虚さや謙譲の美徳という意義について

最後に対人恐怖における謙虚さや謙譲の美徳という側面についても触れておきたい。これまで述べたように、対人恐怖はDSM-III1980年)において社交恐怖という形で欧米の精神医学界において市民権を得る形となった。それ以来社交恐怖についての理解と治療を扱った出版物が英語圏でも非常に多くなっている。そこには一種のブームが生じているといっていいが、それらは一様に恥の感情や社交恐怖をなくすべきもの、克服すべきもの、という論調におおむね終始している。それは最近の米国に見られる「恥ずかしがりを克服しよう」という類のタイトルを冠した数多くの著作を目にしてつくづく感じることだ。
もちろんそのような風潮はある意味ではやむをえないことなのかもしれない。欧米社会において社交嫌いで引っ込み思案であることは、社会生活において極めて不利であることを意味する。それと同様に欧米人に控えめさ、謙虚さの意味を説くことにも限界がある。他方わが国には内沼の業績(内沼、1977)に見られるような、恥の持つ倫理的な側面や、それがいわば「滅びの美学」とでもいうべき謙譲の精神につながるとみる立場が存在する。そして対人恐怖症状を持つ人が同時に、他人を優先し、譲歩する傾向を持つことにも注目すべきであろう。
私は対人恐怖の根幹にある力動は、この人に譲りたいという気持ちと裏腹の自分を主張したい願望との葛藤、内沼(1977)が表現するところの 没我性と我執性の葛藤にあると思う。それは既に述べた図式(図1)における理想自己と恥ずべき自己の葛藤と結局は同義であることに気づかれよう。この没我性と我執性の葛藤という問題を全体として扱ってこそ力動的なアプローチと言える。
対人恐怖症状の深刻さはこの両自己像の隔たりに反映されていると説明したが、その隔たりが継続しているひとつの理由は、当人が特に恥ずべき自己の姿を極端に脱価値化するために直視できないことにある。彼らは手が震えたり言いよどんだり、赤面している自分は、それを見たら誰もが軽蔑したりあまりの悲惨さに言葉を失ったりするような姿であると感じている。それらの人々に欠けているのは、おそらく人前で緊張をしたり、パフォーマンスを前にしてしり込みをしたりするのは普通の人にもある程度はおきることであり、その姿を他人に見せたからといって二度と人前に出られなくなったり社会的な生命が奪われたりするわけではないということである。そしてそればかりではなく人前での緊張や引っ込み思案は、他人に自己主張や発言のチャンスを与えるという積極的な意味も担っているということを彼らが知ることは、両自己像の懸隔を近づける意味を持つと考える。
治療関係において恥ずべき自分に対する肯定的なまなざしを向けることを促進した例として、事例Bを掲げたので参照されたい。

事例 A
 (略)

事例 B
(略) 
Bさんと話していて強く感じたのは、アメリカという文化のせいか、彼の控えめな性格が誰からも何らポジティブな評価を与えられていないらしいということだった。彼程度の対人緊張は日本人のあいだでは珍しくないし、だからといってすぐにネガティブな評価を与えられるわけではない。「Bさんが日本の社会に生まれたら、そんなに苦労しなかっただろうに」などと口に出すことはなかったものの、私はしばしばそんなことを考えながら彼との対話を続けた。そしてそのような私の考えは間接的にはBさんに伝えられる結果となっていたと考えられる。
私がBさんの内面を聞き続けて思ったのは、おそらくどのような対人恐怖傾向を持った人にも、健全な自己顕示の欲求は当然ある、という当たり前のことだ。Bさんは治療関係が出来始めたころにこんな話をした。彼は小さいころから目立たず、特に運動も勉強も出来ない子供だったという。そして両親から十分な関心を払ってもらえたということが一度もなかった。そんな彼が小学生のころ、盲腸炎を起こして病院に運ばれるということがあったという。痛みに苦しんでふと見ると、ベッドの周りを医師や看護婦が囲んで自分を見下ろしていた。そのとき痛みに耐えながらも言いようのない心地よさを感じたという。自分の存在を皆が見守っているという感じ。でもその感覚を得るために、彼は普通でいることでは十分ではなく、急病になる必要があったのである。


今だったらどうだろうか?私はBさんともう少しざっくばらんに色々なことが話せたと思う。それで彼の社交恐怖がどれほど良くなったかはわからない。しかし彼に必要以上に居心地の悪さを体験させることは控えることが出来たのではないかと思う。

2017年9月16日土曜日

精神分析とトラウマ(エッセイ)→ 第9章 トラウマと精神分析 (1)

精神分析はかつては米国を中心にその効果を期待され、広く臨床現場に応用されていたが、現在は全世界的に退潮傾向にあるといえる。無意識の探究のために週に頻回の、それも何年にもわたる精神分析プロセスを経ることを敬遠する傾向は強い。しかしわが国においては、精神分析における治療理念はいまだに期待を寄せられ、また理想化の対象になる場合もある。筆者は精神分析学会とともに日本トラウマティック・ストレス学会にも属しているが、トラウマを治療する人々からも精神分析に対する「期待」が寄せられるのを感じている。それは以下のように言い表すことが出来るだろう。それは精神分析はその他の心理療法に比べてもより深層にアプローチし、洞察を促すものであり、トラウマに関連した症状が扱われた後に本格的に必要となるプロセスである、という考え方だ。
伝統的な精神分析とトラウマ理論
ここで精神分析家としての筆者は、多少なりとも自戒の気持ちを持って次の点を明らかにしなくてはならない。それはフロイトが創始した伝統的な精神分析は、残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということである。すなわちトラウマを経験した患者に対して治療を行う論理的な素地を十分に有していてなかったということだ。それを説明するうえで、精神分析の歴史を簡単に振り返る必要がある。
フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。その年の9月にフリースに向けて送った書簡(Masson ,ed,1985)に表された彼の変心は精神分析の成立に大きく寄与していたと言われている。単純なトラウマ理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したことが、フロイトの偉大なところで、それによって事実上精神分析の理論が成立した、ということである。この経緯もあり、伝統的な精神分析理論においては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的なニュワンスを伴わざるを得なくなった。
その後のフロイトは、1932年のフェレンチによる性的外傷を重視する論文に対しては極めて冷淡であった。フェレンチの論文の内容はフロイトが1897年以前に行っていた主張を繰り返した形だけであるにもかかわらず、フロイトが彼の論文を黙殺したことは驚くべきことである。彼はまた同様に同時代人のジャネのトラウマ理論や解離の概念を軽視した。このようにして精神分析理論トラウマには、フロイトの時代に一定の溝が作られてしまったのである。
ただし時代の趨勢としてはトラウマの役割を無視できないということは以下のカンバーグの記述にもうかがえるであろう。
「…問題は強烈な攻撃的な情動状態への、生来のなり易さであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で嫌悪すべき情動や組織化された攻撃性を引き起こすような、トラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害、特にボーダーラインや反社会性パーソナリティ障害の発達に重要な影響を与えるという最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのであり、遺伝的な傾向とトラウマを融合するような共通経路が意味するのは、情動の活性化が神経内分秘的なコントロールを受ける上で、遺伝的な傾向が表現されるということだ。…」。(Kernberg,O.,1995P326
カンバーグと言えば、1970年代から80年代にかけて境界パーソナリティ障害についての理論を打ち立て、精神医学界にも大きな影響を与えた人物のひとりであるが、その病因としてはクライン派の理論に基づいた患者の持つ羨望や攻撃性が強調された。そのカンバーグの立場のトラウマ重視の立場への移行はおそらく、精神分析の世界におけるトラウマの意義の再認識が起きていることを象徴しているように思える。
関係精神分析の発展とトラウマの重視
伝統的な精神分析理論は、トラウマ理論やトラウマ関連障害の出現により逆風にさらされることとなった。精神医学や心理学の世界で近年のもっとも大きな事件がトラウマ理論の出現であったといえよう。1980年のDSM-IIIでPTSDが改めて登場し、社会はそれから20年足らずのうちにトラウマに起因する様々な病理が扱われるようになった。国際トラウマティック・ストレス学会や国際トラウマ解離学会が成立した。現代的な精神分析(関係精神分析)は「関係論的旋回」を遂げたが、その本質は、トラウマ重視の視点であったといえる。
現代的な精神分析における一つの発展形態として、愛着理論を取り上げよう。愛着理論は全世紀半ばのジョン・ボウルビーやルネ・スピッツにさかのぼるが、トラウマ理論と類似の性質を持っていた。それは精神内界よりは子供の置かれた現実的な環境やそこでの養育者とのかかわりを重視し、かつ精神分析の本流からは疎外される傾向にあったことである。乳幼児研究はまた精神分析の分野では珍しく、科学的な実験が行われる分野であり、その結果としてメアリー・エインスウォースの愛着パターンの理論、そしてメアリー・メイン成人愛着理論の研究へと進んだ。そこで提唱されたD型の愛着パターンは、混乱型とも呼ばれ、その背景に虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい。
 最近精力的な著作を行うアラン・ショアの「愛着トラウマ」(Schore, 2009) の概念はその研究の代表と言える。ショアは愛着の形成が、きわめて脳科学的な実証性を備えたプロセスであるという点を強調した。ショアの業績により、それまで脳科学に関心を寄せなかった分析家達がいやおうなしに大脳生理学との関連性を知ることを余儀なくされた。しかしそれは実はフロイト自身が目指したことでもあった。
トラウマ仕様の精神分析理論の提唱
以下にトラウマに対応した精神分析的な視点を5項目にわたって提唱しておきたい。
1点は、トラウマに対する中立性(岡野、2009)を示すことである。ただしこれは決して「あなたにも原因があった、向こうにも言い分がある」、ではなく、何がトラウマを引き起こした可能性があるのか、今後それを防ぐために何が出来るか、について率直に話し合うということである。この中立性を発揮しない限りは、トラウマ治療は最初から全く進展しない可能性があるといっても過言ではない。
2点は愛着の問題の重視、それにしたがってより関係性を重視した治療を目指すということである。その視点が上述の「愛着トラウマ」に込められている。フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということであった。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在である。臨床家が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということだ。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性がある。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。
3点目は、解離症状を積極的に扱うという姿勢である。これに関しては、最近になって、精神分析の中でも見られる傾向であるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれない。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。
 4点目は関係性、逆転移の重視である。これは患者がPTG(外傷後成長)(Tedeshi, RG 2004)を遂げるうえで極めて重要となる。その際治療者の側の逆転移への省察が決め手となる。
5点目は 倫理原則の遵守である。これについてはもう言わずもがなのことかもしれない。特にトラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが問われる傾向があるので、自戒の意味も込めて掲げておこう。
精神分析における倫理基準(American Psychoanalytic Association. 2007, 抜粋) では精神分析家の従うべき倫理基準として以下の点を掲げている。
1分析家としての能力 competence, 2患者の尊重、非差別, 3平等性とインフォームド・コンセント, 4正直であること truthfulness, 5患者を利用 exploit してはならない, 6学問上の責任, 7患者や治療者としての専門職を守ること, である。
最後にトラウマを「扱わない」方針もありうる
最後に蛇足かも知れないが、この点を付け加えておきたい。トラウマ治療には、トラウマを扱わない(忘れるように努力する、忘れるにまかせる)方針もまたありうるということだ。トラウマを扱う(「掘り起こす」)方針は時には患者に負担をかけ、現実適応能力を低下させることもある。もし患者がある人生上のタスク(家庭内で、仕事の上で)を行わなくてはならない局面では、トラウマを扱うことは回避しなくてはならない場合も重要となる。治療者は治療的なヒロイズムに捉われることなく、その時の患者にとってベストの選択をしなくてはならない。そしてそこには、敢えてトラウマを扱わない方針もありうるということである。具体的には黒幕的な交代人格を扱わない、あるいは少し無理にでも「お引取りいただく」ということに相当する。DID治療の原則としての「寝た子は起こさない」(岡野)がこれに該当する。
この方針の妥当性については、ある意味では答えが出ている。ほとんどのDIDの患者について、非常に多くの交代人格が、実質的に扱われないままに眠っているからである。

Masson, J.M. (1985) (Ed.) The complete letters of Sigmund Freud to Wilhelm Fliess, 1887-1904. Cambridge: Harvard University Press. フロイト フリースへの手紙 1887-1904.J.M.マッソン編 河田晃訳 誠信書房 2001年)
Kernberg, O (1995) An Interview with Otto Kernberg. Psychoanalytic Dialogues, 5:325-363 
Schore, A. (2009) Attachment trauma and the developing right brain: origins of pathological dissociation In Dell, Paul F. (Ed); O'Neil, John A. (Ed), (2009). Dissociation and the dissociative disorders: DSM-V and beyond., Routledge/Taylor & Francis Group, pp.107~140. 
新外傷性精神障害 岩崎学術出版社、2009
Tedeshi, R.G., & Calhoun, L.G. (2004). Posttraumatic Growth: Conceptual Foundation and Empirical Evidence. Philadelphia, PA: Lawrence Erlbaum Associates.
岡野憲一郎 編著(2016)臨床場面での自己開示と倫理.岩崎学術出版社 
Dewald, PA, Clark, RW (Eds) (2007) Ethics Case Book: Of the American Psychoanalytic Association 2nd Edition..



2017年9月15日金曜日

第7.5章 対人恐怖の精神分析 ③

Andrew Morrisonの恥の理論

コフート理論の影響下で対人恐怖に類する病理を自己愛との関連で論じられるという方針を明快な形で示した論者としてAndrew Morrisonがあげられる。彼が1989年に著した「ShameThe underside of Narcissism 恥-自己愛の裏の面」は精神分析における恥の理論に大きな影響を与えた。その主張は次のように非常に明快である。「恥とは自己愛の傷つきである。Kohutははっきりとは言っていないが、彼の理論は恥の理論である(「恥の言語で綴られている。」Morrisonは恥の体験はコフート的な意味での自己の病理として捉えられるとした。
ここでMorrison に倣い、コフートの自己愛の理論から対人恐怖心性について考えてみよう。
Kohutの中心概念 (Kohut, 1971) は、平易な言葉では次のように説明されよう。人は敬愛している他者から認められ、敬意を表されるという体験を、「あたかも人が生存のためには空中の酸素を必要とするように」(コフート自身の表現)必要としている。それが自己対象selfobjectの持つ「理想的な両親像であるということ idealized parental imago」と、「ミラリング mirroring」の機能である。精神的な意味で生き続けるためには、それらの自己対象機能を果たすことの出来る他者を必要としている。幼少時は主として親がその役割を果たすであろう。そして成長してからも、友人や先輩や同僚や配偶者との間で、同様の関係を持つ。しかし親により自己対象機能を果たされなかった場合に子供は健全な自己の感覚を養われずに、コフートの言う意味での「自己愛的な病理」を持つようになるとした。Morrison によればそれは恥体験および恥の病理として言い換えられることになる。そしてそのような患者との治療関係においては自己対象転移が見られ、それに基づき治療が進展していくことになる。
Morrisonの説に従えば、ここからKohut理論に沿った治療論が展開されるわけであるが、これを対人恐怖に対する精神分析的なアプローチとして用いることには一つの問題がある。それは対人恐怖ないしは米国における社交恐怖という病態が、Kohut-Morrison流の恥の病理と微妙にずれるということである。これはMorrisonが恥の体験イコール自己愛の傷つきという単純化を行っていることから来る問題ともいえる。対人恐怖者は、自己愛の病理のみにより説明できるかといえば、必ずしもそうではないであろう。単純に考えれば、自己愛的ではない人も、対人恐怖的ではありうる。
ただしMorrisonの治療論を読むと、その対象を対人恐怖や恥を感じやすい人々に限定して論じるのではなく、自己愛の病理一般を恥という視点から見直すというニュアンスを持っており、これはこれで非常に内容が深いという印象を受ける。彼は恥の防衛として生じるさまざまな病理、特に他人に対する憤りや軽蔑といった問題も自己愛が満たされないことから来る怒り(「自己愛憤怒」)という視点から扱っている。これはパーソナリティ障害に広く見られる問題を扱う手段としては非常に有効であろう。ただしそこに現れる患者像は、対人恐怖というよりはDSM的な自己愛パーソナリティ、すなわち自己中心的であり、他人を自分の自己愛の満足のために利用するといったタイプにより当てはまるという印象を受ける。

岡野の対人恐怖理論の図式

私が対人恐怖に対する精神分析的な考察を行った際に導入したのが、二つの自己イメージの葛藤という図式である(図1、岡野、1997)。それをここで紹介したい。これは冒頭で記述した対人恐怖の心性を力動的に説明しようとした試みであり、また先に述べた自己愛の病理の理論を基盤としたものとも異なったものであった。
人は自分を理想化したイメージと、恥ずべき自分というイメージの二つを分け持つことが多い。そしてそれぞれは別個に体験される傾向にある。冒頭のスピーチの例では、スムーズにスピーチをしている自分のイメージが理想自己に相当するが、いったん言いよどみ、冷や汗をかき、「ああ自分は駄目だ!」という思いと共に、今度は「恥ずべき自己」のイメージに支配されるようになる。いわば自己イメージの「転落」が生じるわけだが、それが著しい恥の感情をうみ、それが対人恐怖の病理の中核部分を形成すると考えるのである。
この両「自己像」のあいだの分極に関して重要なのは、この分極の上下の幅がその人の恥の病理の深刻さにつながるということだ。なぜなら恥多き人ほど、「自分は人前で自由に心置きなく自分を表現したい」と夢見ることが多く、それは現実とかなりかけ離れたものとなる傾向にあるからだ。また恥多き人ほど「自分はなんて駄目なんだ!」と思う時の落ち込み幅も尋常ではない。彼らはほんのちょっとした失態で「こんな駄目な人間は生きている資格がない」、とまで思ってしまうのだ。だからこそ対人恐怖傾向のある人においては、「理想自己」はより高く位置し、恥ずべき自分はとことん低く位置する傾向にあり、両者の懸隔は大きくなる。
逆に対人恐怖的な傾向が少ない人の場合は、両者の距離はあまり開いておらず、時には両者は融合して中心付近により現実的な自己として存在している可能性がある。パフォーマンスを職業として選択し、すでに場馴れしている人にとっては、両者の分極する程度はより限定されたものとなるだろう。たとえばプロのレポーターであれば「自分の技量はこんなところだろう」というレベルを想定していて、日常の業務ではそれを大きく超えていることに驚くことも、それが極端に裏切られることも多くはないはずだ。彼らは自分に対する期待値も過度に大きくはなく、したがってそれだけ失望も少ないということになる。プロのパフォーマーなら自分の姿のビデオ再生を見ても、自分がイメージしていた姿と極端に異なるものを見ることはない。つまり「理想自己」から「恥ずべき自己」への転落はおきにくいのだ。ところが対人恐怖傾向のある人間は、自分のパフォーマンスの姿を写真で見ることすら強烈な恥の感情が沸き起こるものである。それは自分がこうあって欲しい、こうであればよかったというイメージが肥大し、そのために現実とのギャップに大きく失望するという悪循環が成立してしまっているからだ。
「対人恐怖」の治療状況における転移関係について

ところで図1を見る限りでは、二つの自己像の反転現象はあたかも自分という内的世界で生じているというイメージを与えるかもしれない。しかしたとえば一人自室で文章を音読していても、よほど臨場感を伴わない限り、対人恐怖症状としての声の震えは生じない。ところがそこで目の前にたった一人が存在しているだけで動揺し、声の震えやどもりを引き起こされることがある。その意味では両「自己」の分極や反転現象は対象との関係により大きく依存することになる。
このことは対人恐怖症状について扱う治療環境を考える上でも重要である。通常は転移関係は治療関係の深まりとともに発展し、そこに患者の病理も反映され、それが治療的に扱われるわけであるが、対人恐怖症状についてはそれが必ずしも当てはまらない。むしろ治療者がまだ見知らぬ、あるいは出会ったばかりの時期にもっとも華々しくなり、それから徐々に軽減していく傾向にある。しかし対人恐怖の力動的な治療に必要とされる患者治療者関係は、あからさまな対人恐怖症状が患者の側に誘発されないような安全な環境が保障されていることが前提となる。その様な環境で初めて、治療関係によりさまざまに動く患者の心境に焦点を当てた治療が行なわれる。それは基本的には支持的で、古典的な分析状況とはかなり異なるものとなるはずだ。
私がかねてから治療実践に生かしているのは、そのような安全な環境を提供した上での、認知療法的な枠組みの導入である。分析的な枠組みと認知行動療法的な枠組みの共存は伝統的な分析的療法の立場からはなじみにくいかもしれないが、今後はさらに試みられるべきものであろう。精神分析的な枠組みは、認知行動療法的なプロセスにおいて生じたさまざまな心の動きについて語る場も提供できるという点で、後者の効果をより高めるというのが私の考えである。そのような例として次章では症例Aを提示したい。



第7.5章 対人恐怖の精神分析 ②

このようなパフォーマンス状況の典型例として人前でのスピーチを考える。誰でも自分が言いたいことを饒舌に話したいものである。自分が表現すべき内容を、弁舌軽やかに話せているときは気持ちがいいものだ。しかし途中で言葉がつかえたりどもったりして、内心の動揺も一緒に表現され始めたらどうだろう。しかも一度口ごもった言葉は、もうすでに目の前の人の耳に届いていて、決して取り戻すことが出来ないのである。人前で話すことが苦手で、それに恐れを抱いたり、そのような機会を回避したいと願ったりしている人達は多いが、彼らはこのような悪夢のような瞬間を味わった結果として、それに対する恐怖症反応を起こしているのである。
以上は症状として見た対人恐怖に関する議論であるが、対人恐怖にはこれにとどまらない部分が関与していることが多い。それは本来他人の目にさらされると萎縮しやすく緊張しやすい、という性格的な素地があり、他人に対する恥や負い目を持ち、人との接触に際して相手を過剰に意識してしまうというパーソナリティ構造である。それが基礎にあり、そこから顕著な対人緊張症状(赤面、声の震え、どもりなど)を生じて対人恐怖の全体像を形作っていることが多い。このことを私は対人恐怖の持つ二重性として捉えている。ここでの二重性とは、対人恐怖が症状を有する症状神経症という側面と、一種のパーソナリティ上の特徴および障害という側面を併せ持つということである。
対人恐怖に伴う性格的な基盤については、森田正馬(1960)が「ヒポコンドリー性基調」と呼んで論じている。またDSMの疾病分類に従うならば、多くの社交恐怖の患者が、回避性人格傾向、ないしは回避性パーソナリティ障害を有するという事情と同様である。

精神分析の文脈から見た恥の病理
従来精神分析においては、社交恐怖を扱う試みは少なかったが、皆無ではなかった。比較的近いところでは舞台恐怖 stage fright (いわゆる「あがり症」)についてのGabbard の論文(Gabbard, 1979)において、同テーマにおける精神分析的な論考の展望を行っている。そこには Bergler (1949)Ferenczi (1950)Fenichel (1954) らの論文が挙げられている。
Bergler は「舞台恐怖」を voyeuristic terror(覗き見恐怖)を原因とするものと考えた。すなわち幼少時に原光景を覗き見たことへの罪悪感への防衛として、覗きを行った主体を聴衆へと転化した結果、それに対する恐れが生じているとする。Ferenczi (1950) は、舞台恐怖にある人は極度の自己注視の状態にあり、一種の自己陶酔状態にあるとした。Fenichel は「舞台恐怖」は無意識的な露出願望、およびそれが引き起こす去勢不安が原因になって生じるものとして説明した。彼によれば対人恐怖的な心性の背後にあるのは、抑圧された露出的衝動であり、患者はそのような衝動を持つことについて懲罰されることの方を選ぶ。その場合聴衆は超自我ないし去勢者として機能し,そこに聴衆を前にした恐怖感が生まれる,と説明する。
これらの説によれば、対人恐怖症的な症状は幼児期のリビドー論的な葛藤の再現ないしはそれに対する防衛として理解されることになるが、臨床的な実用性は乏しいように思われる。ただしFenichel のいう露出願望というのは、患者の持つ自己愛的な側面、自分をよく見せようという願望を捉えているという意味では、私が先にパフォーマンス状況に関する説明の際に触れた、「他者への表現を積極的に行う部分」と同じ文脈にあると言えなくもない。
このような古典的な解釈に比べて、Gabbard の提案は対象関係論的であり、私たちの常識的な理解の範疇にあるといえる。彼は上がり症が一種の分離個体化にまつわる不安に由来すると説明する。ステージに立つということは、「ここからはすべて自分でやらなくてはならない。誰も助けてくれない」という再接近期の不安の再燃につながり、それがあがり症の本質として説明されている。ただその説明だけでは一面的で物足りなく、より心の中の力動に一歩踏み込んでいない嫌いがある。
ちなみにこのGabbardの論文は当時の時代背景を反映したものであった。それまで対人恐怖的な議論は欧米では少なかったが、その流れを変えたのが1980年のDSM-IIIであり、そこに収められた社交恐怖social phobia という新たな概念であった。この社交恐怖は「ひとつないしは複数のパフォーマンス状況に対する顕著で持続した恐れ。そこで人は見慣れない人の目に晒されたり、他人からの批判の目に晒されたりする。人は恥ずべきhumiliatingだったり恥ずかしかったりするembarrassingような振る舞いをすることを恐れる。」とされている(American Psychiatric Association, 2000)。ここに見られる社交恐怖ないしは社交不安障害は細かい点においては異なるものの、多くの点で対人恐怖と類似し、いわば対人恐怖の米国版といった観があった(岡野、1997)。

この時期に同時に見られたのは、対人恐怖様の心性について、自己愛パーソナリティ障害の一型として記載しようとする動きであった。Broucekはその恥についての精神分析的な考察のモノグラフ(Broucek1991)の中で,自己愛人格障害をこのような趣旨に従って二つに分けている。それらは「自己中心型self-centered」と「解離型 dissociative」と呼ばれている。このうち「自己中心型」の方は誇大的で傍若無人な性格で、従来からの自己愛パーソナリティが相当するのに対し,「解離型」では,むしろ引きこもりがちで恥の感覚が強く,対人恐怖的な人ということになる。これらの理論の背景になったのは、1970年代より米国の精神分析会において大きな潜在的な力を持つことになったコフート理論であり、そこで事実上取り上げられることになった恥の感情およびその病理であると考えられる。

2017年9月14日木曜日

第 7.5 章 対人恐怖の精神分析  ①


そもそも対人恐怖とは

わが国において従来頻繁に論じられてきた対人恐怖(現在では社交不安障害という呼び名がそれに相当するだろう)は、精神分析的にはどのように扱われているのかというのが本章の中心テーマである。対人恐怖と精神分析というテーマについて考えるならば、わが国における精神分析の草創期の、森田の姿勢を思い出す。リビドー的な理解を試みる分析学派の論着に対して、森田生馬は果敢に論戦を挑んだと祝える。それから約一世紀たつが、果たして精神分析は対人恐怖を扱う理論的な素地や治療方針を提供するに至ったのだろうか?
 まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。
私個人は、対人恐怖とは「自己と他者と時間とをめぐる闘いの病」と表現することが出来る。対人恐怖は 自分と他者との間に生じる相克であるが、そこに時間の要素が決定的に関与しているということだ。
一般に自己表現には無時間的なものと時間的なものがある。無時間的とは、すでに表現されるべき内容は完成されていて、後は聴衆に対して公開されるだけのものである。表現者の表現は事実上終わっていて、その内容自体は基本的には変更されない。絵画や小説などを考えればいいであろう。両者とも作品はすでに出来上がっている。それが公開される瞬間に、作者は完全にどこかに消え去っていてもよく、それがいつ、どのように公開され、どのような聴衆の反応を得ているかについてまったく知らないでもすむのである。それに比べて時間的な表現とは、今、刻一刻と表現されるという体験を経ている。そしてこの後者こそが対人恐怖的な不安を招きやすい自己表現である。それは以下のような事情による。
私たちは社会生活を営む際、自分自身の中で他者への表現を積極的に行う部分と、なるべく隠蔽しておく部分とをおおむね分け持っているものだ。社会生活とは前者を表現しつつ、後者を内側に秘めて他人とのかかわりを持つことである。このうち無時間的な表現は、上述の通り、それが人目にさらされる際に作者は葛藤を体験する必要はない。しかしそれが時間的なものであり、時間軸上でリアルタイムで展開していくような「パフォーマンス状況」(岡野、1997)では事情が大きく異なる。もしパフォーマンスが順調に繰り広げられるのであればさしあたり問題はない。人は自己表現に心地よさを感じ、それがますます自然でスムーズなパフォーマンスの継続を促す。しかし時には何らかの切っかけで、表現すべき自己は一向に表されず、逆に隠すべき部分が漏れ出してしまうという現象が起きうる。そこで時間をとめることが出来ればいいのであるが、大抵はそうはいかない。対人恐怖とは時間との闘いであるというのは、そのような意味においてである。


対人恐怖の症状に苦しむ人は、通常はある逆説的なかの切っかけでではしているという。いるという。現象に陥っている。それは自分の中の表現されてしかるべき部分と同時に、隠蔽すべき分も漏れ出してしまうという現象である。