2023年4月1日土曜日

精神分析的精神療法の現状と展望 2

 3.表出的-支持的スペクトラムという考え方

 

このPRPによる研究結果は、それまで無条件に受け入れられていた精神分析的な治療理論の優位性を問い直す契機として当時の米国の精神分析家たちに大きく立ちはだかったことになる。そしてそれはいくつかの貴重な教訓をもたらしたのである。

一つには自由連想と解釈を中心とした純粋な精神分析は理念上でしか存在せず、実際の臨床場面ではそのスペクトラム上の様々な介入がなされているということである。そしてそこに表出的であることがより良い治療手段であり、支持的な介入は劣るという考え方の根拠がないということであった。すなわち「できうる限り表出的であれ、そして必要とされるだけ支持的であれp.688)」を信じる根拠はないということである。この点に関してWallerstein は「支持的療法による構造的な変化が、表出的療法により得られたそれに比べて永続性がないという証拠はない」と述べている。Wallerstein は次のように述べる。「すべての治療は常に表出的でありかつ支持的である。彼はまた次のようにも述べる。「問題はいつどのように表出的で、いつどのように支持的なのか、ということなのだ。Wallerstein1986, p.689」」

 この研究からわかることは、おそらく通常の治療者はこの連続体の中で治療状況に合わせて縦横に行き来しているであろうということである。Gabbard 自身はそのスペクトラムとして、次のようなものを示している。


G.O. ギャバード著、奥寺ほか監訳 (2019) 精神力動的精神医学 第5 岩崎学術出版社(G.O. Gabbard (2014) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. Amer Psychiatric Pub Inc.

 Gabbard (2014) はこのような考え方に立ったPATについて、それを「表出的—支持的精神療法」として提示する。それはWallerstein の言葉にあるように、治療者の介入はその治療状況に応じてこのスペクトラムの上を行き来するという考えに立つ。ただし治療関係や治療状況により表出的な介入に力点が置かれるものと、支持的な傾向の強いものに分けられるとも述べる。そしてそこには従来の精神分析において目標とされた洞察の獲得とは独立して治療者患者関係そのものが治癒的であるという考え方が反映されているとする。そして治療目標自身も治療者のよって立つ理論により大きく異なるとする。つまりそれは洞察を得る事でもあるし、患者の持つオーセンティシティの成立、あるいは関係性の改善などさまざまである。

Gabbard の表出的—支持的精神療法においては、治療の設定そのものも治療関係や治療の文脈によりさまざまに決定されるとする。例えば治療の頻度や持続期間もケースバイケースであるが、6か月以上に及ぶものを長期PATとするという。

ただし治療頻度に関してはGabbard は従来の精神分析的な考え方を踏襲する傾向にある。そして治療において表出的であるほど、セッションの頻度は高くなる傾向があるという。その中でも最大限に表出的な療法としての精神分析が位置付けられ、そこでは週に34回のセッションがカウチを用いて施される。そして主として表出的な精神療法は週に1から3回のセッションでカウチを用いることなく行われる。それとは逆に主として支持的な精神療法は週に一度以上の頻度で行われることはほとんどなく、ときにはひと月に一度の場合もあり得る。また臨床経験から明らかなのは、頻度と転移とは関係していることが多く、表出的な治療では転移に焦点づけることが多いため、週に一度以上の頻度が望ましいとしている。

2023年3月31日金曜日

精神分析的精神療法の現状と展望 1

 1.はじめに

 精神分析的精神療法 psychoanalytic psychotherapy 以下文中ではPAPと略記する)とは精神分析的な理論や技法を用いつつ行う主として週一回の治療プロセスを指す。同様の意味として力動的dynamic 精神療法、洞察志向的insight oriented 精神療法などの表現が用いられることもある。このPAPの現在の在り方と今後の展望が本稿のテーマであるが、これについて論じることは決して容易ではない。精神療法とは主として週に一度の対面による治療プロセスを指すものと理解されているが、現在では実に様々な種類が提唱されている。その中で特に精神分析的なオリエンテーションを持つものが、このPAPに相当することになる。しかし何を「精神分析的」と捉えるのかについても現在では多様な考え方が提案され、今後もその傾向が続いていくと考えられるのである。

従来の週4回以上、寝椅子を用いた精神分析と並行して、あるいは場合によってはその代替手段としてPAPが提唱され、実践されるようになった経緯は、米国の精神分析における1970年代以降の動きが深く関係している。この問題に深く関与し、また多くの著作を残しているR. Wallerstein (1989) はその発展を1940年代から70年代の、他の支持的精神療法との差を明確にしようとした時代と、それ以降の様々な提唱者の間での共通理解が失われている時代とを分けている。筆者もその理解に従い、以下の4つのテーマに分けて論じたい。

Wallerstein, RS (1989) Psychoanalysis and Psychotherapy. A historical Perspective. Int.J.sychoanal.70: 563-591.

l   表出的支持的療法とPAP

l   精神分析との対比におけるPAP

l   現代的なPAPのあり方 PAPであることの多様化

l   今後の展望 「精神分析的」であることの多様化

 2.表出的-支持的療法としての精神分析的精神療法

 

PAPを考えるうえで表出的ないし支持的精神療法についての議論を振り返っておくことは非常に重要である。なぜならそれはPAPが生まれた背景と、それ自身が背負っていた方向性を明らかにするからである。

1900年代の初頭にS. Freud が提唱した精神分析がその後の精神医学や心理学の世界に極めて大きな影響を及ぼしたことは間違いない。Freud が提唱した週に数回のカウチを用いた自由連想法は広く実践され、しばしば年単位で継続されるものとなった。しかしそれは時間的、経済的な負担の為に多くの議論を呼んだ。そして精神分析の内部でもO. Rank F. Alexanderやのように精神分析の回数を制限し、迅速に行おうという動きが見られた。また精神分析から派生したD.H. Malan, P.E. Sifneos らによる短期療法などが提唱されるということもあった。

その流れの中で、1950年代には支持的精神療法という用語はすでに見られていた。M. Gill (1954) そのほかにより、精神療法をより精神分析的な原則に沿った表出的な療法とそれ以外の療法とを分けるという試みがなされたのである。そしてその背景としては、治療者の受け身性や自由連想を用いた通常の精神分析的なかかわりが必ずしも奏功しない境界パーソナリティ障害などに対する関心が高まっていたという事情もあった。
 ここで表出的、とは患者の持つ葛藤や防衛を分析して解釈し、その無意識内容を明らかにするのに対して、支持療法ではむしろ防衛を強化し、無意識の葛藤を鎮めるという意味がある。この表出的という表現は分かりにくいが、患者に自由連想等で自分自身をできる限り表現することを促す一方で治療者は受け身性を守るという意味で広く用いられ、探索的、洞察志向的、という表現と同義である。そして当初は支持的なアプローチは探索的なそれとはまったく別のもの、精神分析的ではないものであるという理解がなされていた(Gabbard, 2019, P100)。

 

Gill, M (1954) Psychoanalysis and exploratory psychotherapy. J.Amer. Psychoanal. Assn. 2:771-790.

この表出的か支持的かという議論はそこに特別の優劣を決める性質のものではないが、精神分析の世界ではやはり表出的、探索的な手法がより正統派の分析的なアプローチであるという考え方が広く存在した。そしてその考え方は今に至るまで一部の精神分析家の間に根強く残っているということが出来るであろう。

Wallerstein は当時精神分析的な治療を主体としていた米国のメニンガークリニックにおいては、臨床家の間で次のような原則が守られていたとする。

できうる限り表出的であれ、そして必要な分だけ支持的であれ。(p.688Be as expressive as you can be, and as supportive as you have to be.Wallerstein, P688

Robert S. Wallerstein (1986) Forty-two Lives in Treatment: A Study of Psychoanalysis and Psychotherapy. New York: The Guilford Press.

そしてそれを唱える分析家の心には次のような考え方があったという。

「内的な葛藤の解決を導くような、表出的な方法により得られた変化は、支持的方法のみによりもたらされた変化より、より広範に及び、より永続的で、将来の環境の変遷や圧力により強力な耐性を持つ。」

すなわち依然として精神分析の優位性はゆるぎないものであり、精神療法はその代替手段として用いられるものの、その中でもより精神分析的なかかわりを求める表出的精神療法を、支持的精神療法と区別し、純化すべきであるという考え方が支配していたのである。

このような考え方はそもそもFreudの考えの基本にあった。Freud (1919) は純金としての精神分析は直接的な示唆という銅との混ざりものとすることを戒めたのである。ここでFreud が純金にたとえたのは、表出的な方法による内的な葛藤の解決や洞察に至るプロセスを意味し、それを支持的なアプローチにより汚すべきではないという意味に捉えることが出来ようが、米国における実証主義的な気風は、これを大がかりな研究プロジェクトにより明らかにすべきであるという動きを生んだ。

Freud S (1919). Lines of advances in psycho-analytic therapy. SE 17:157–68 (小此木啓吾 訳(1983):精神分析療法の道. フロイト著作集9. 人文書院 pp127-135)

その実証研究の代表が、メニンガークリニックにおける精神療法リサーチプログラム(PRP)であった。そこでは精神療法を表出的なものと支持的なものに分けてその治癒機序や効果を判定し、また精神分析と比較するという試みがなされた。しかしその結果として明らかになったのは、純粋な分析からドロップするケースが多く現れ、また表出的なアプローチを前提として行った治療にも実際には数多くの支持的な介入を行っているということであった(Wallerstein, 1986)。

2023年3月30日木曜日

地獄は他者か 推敲 1

 「羞恥から恥辱へ 恥が味方から敵に変わるプロセス」

久しぶりに恥についての論考を書くことになった。このテーマは私が精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、そもそも私の個人的な体験として、「人と対面するのはなぜこれほど心のエネルギーを消費することなのだろう」、「なぜこれほど億劫なのだろう」という思いがある。しかし様々な喜びや充実感を与えてくれるのも人との対面であることも事実である。そして対人場面でこのような複雑な感情体験を起こさせる要素として私たちの羞恥や恥辱の感情が関与しているのは間違いないと考える。それに他人とはそもそも怖い存在、得体のしれない存在であるというのは私の基本的な出発点である。だからサルトルの有名な言葉「地獄は他者だL'enfer, c'est les autres」という言葉をつい引用したくなるのだ。

ちなみにサルトルはこの言葉が誤解されていると言っているらしい。このことを示す英文があるのでネットから借用する。

https://www.vox.com/2014/11/17/7229547/philosophy-quotes-misunderstood-wittgenstein-sartre-descartes)
 Hell is other people;  No, this does not mean other people are the worst and you should hide yourself in a dark, lonely room so that you don't have to put up with them. The line comes from a 1944 existentialist play by French philosopher Jean-Paul Sartre called Huis Clos, or No Exit. In the play, three people are trapped in Hell — which is a single room — and ultimately, while confessing their sins to one another, end up falling into a bizarre love triangle.

The confinement of the characters extends beyond their physical holding room: they are trapped by the judgments of their cellmates. That's why one of the characters says, "Hell is other people" — because of how we are unable to escape the watchful gaze of everyone around us. "By there mere appearance of the Other," says Sartre in Being and Nothingness, "I am put in the position of passing judgment on myself as on an object, for it is as an object that I appear to the Other."

Sartre offered a clarification about his much misunderstood phrase:

"Hell is other people" has always been misunderstood. It has been thought that what I meant by that was that our relations with other people are always poisoned, that they are invariably hellish relations. But what I really mean is something totally different. I mean that if relations with someone else are twisted, vitiated, then that other person can only be hell. Why? Because … when we think about ourselves, when we try to know ourselves … we use the knowledge of us which other people already have. We judge ourselves with the means other people have and have given us for judging ourselves.

サルトルは「出口なし」という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人を描き、その一人にこの言葉を言わせるのだ。しかしそれは「他人は怖い」という対人恐怖的な意味で言っているのではないという。私たちは自分たちの他の人の目を通して知ることになる。そしてそれが歪曲された目であれば、他者は地獄に他ならないと言っているという。ということで私のこの引用は私なりのバイアスがかかったものだということはお断りしなくてはならない。

 対人体験の「無限反射」としての構造

 二枚の対面する鏡の間に光が入り込むと、光は片方の鏡で反射し、次に反対側の鏡に向かって移動し、そこでも反射する。この反射は、光が減衰しない限り永遠に続くことになる。これを「無限反射」という。二人の人間が互いに対面し、見つめ合うという体験もちょうどこれと同じ構造を有する。こちらが相手を見る―こちらの視線を浴びた他者を見るーこちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る・・・・・という風に永遠に続いていくのだ。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているんだろう?」という思考が入り混じるという、複雑極まりない体験となるのだ。

2023年3月29日水曜日

心身相関 推敲 2

 MUSの歴史的な変遷

私は始めにMUSは太古の昔からあると言いました。そこでその根拠に触れたいと思います。当然ながら昔は医学は進歩していませんでした。でももちろん人の身体的苦しみは人間がこの地上に存在した時からありました。そしてそれを聞く立場にある人ももちろんいました。なぜなら人はお互いにお互いの身体的訴えをある時は人に話し、ある時はそれを他人から聞いていたわけです。なぜなら少なくとも苦痛を人(もちろんそれを話すことが安全であるような人)に聞いてもらえることで少しそれが軽減されることを経験的に知っているからです。
 ここでの苦痛の訴えは、おそらく心の苦しみなにか、体の苦しみなのかに関して境界はあまり考えられなかったのではないかと思います。私達が今日はしんどいとかキツイ、具合が悪い、という時「え、それは身体が、ですか、それとも心が、ですか?」と問うことはあまりないでしょう。それにそもそも腰の痛みを訴える人は気持ちも沈んでやる気が起きない、という方向に傾くでしょうし、また気持ちが沈むときは身体を動かすのもきついものです。ともあれこれらの訴えをお互いに話しているうちに、どこかに「本当の訴え」と「本当でない訴え」が見分けられていたのではないかと思うのです。その意味を説明しましょう。
 私たちが自分の苦しみとして体験するのは、身体の変調が予期不安を呼び、時には変調が実際に起きているのか、それが起きることを不安に感じているだけなのか、という区別がつきにくくなるという現象です。私は昔中学校で「疑似赤痢」が流行った時、自分が感染しているのではないかととても不安になったことがあります。そして自分の症状に注意を向けているうちに、本当に自分がお腹が痛いのか、痛いような気がするのか、痛くなったらどうしようと心配しているのか、という区別がつかなくなったことを鮮明に記憶しています。いわゆる「心気的」な状態になっていたのですが、心身相関の複雑さをよく物語っている現象だと思います。ちなみにちなみに心気症とは、自己の身体の微細な不調にこだわり、あるいは恐れ、それが重大な疾患ではないかと恐れることを意味します。
 この心気的な部分は、いわばその人の想像力により水増しされた部分と表現することが出来るでしょう。そしてそれは人間である限り必然的に起きてくる部分ではないかと思います。人間である私達は高い表象能力を身に着けています。そして様々な感覚と同様、痛覚も「想像」することが出来ます。例えば歯痛を体験した人であれば、今歯が痛いと一瞬ではあれ想像することが出来ます。喉が渇いていなくても、カラカラな時を思い出してその感覚に一瞬浸ることが出来ます。そして痛みを人に訴えて理解され、不安を軽減してもらうことを望むとき、この実際の苦しみと、さらなる苦しみへの不安とはあまり区別されることなく表現されることがあります。
 この両者の違いはしかし、その苦しみを聞く立場の人には当人よりは敏感に、時には過剰に感じられることがあります。なぜなら人の痛みを聞かされる側は、多かれ少なかれ負担を感じるからです。おそらく聞く側は共感疲労の可能性から、あるいはそれに対するケアをする必要性から、なるべくその苦痛が小さいことを望みます。そこで実際の痛みと想像により膨らんだ痛み(つまり心気的な部分)を差し引いて考えようとします。それを私が本当の訴えと本当でない訴えとして表現したものです。より正確に言えば、人の訴えには本当の部分と水増しした部分がしばしば一緒になり、後者の存在は訴える当人もある程度、そしてそれを聞く他者はより敏感に、ないしはより厳しく判定する傾向にあるのです。
 ところでどこまでが本当で、どこまでが本当でない訴えかを知るうえで、おそらく私たちはある種のパターンを認識していたのだと思います。これはすでに述べたことですが、おそらくそのパターンを記述することが医学の始まりではなかったかと思います。
 生ものを食べた後に腹痛がした場合、その訴えはよく経験されるもの、「本物」であり、それを食あたりと認識するように。あるいは炎天下を歩き続けていて倒れ、喉の渇きや頭痛、立ち眩みなどを訴えた場合に体が水分を失った状態(脱水)として認識されるように。するとそれらに当てはまらないものについては、心気的な部分が多かったり、それが殆どを占めたりするということも経験されていくことになります。この様に考えると医学の進歩と、より想像により膨らんだ部分、ヒステリー、あるいは後にMUSの一部と考えられるようになった部分とは共存していたということになります。
 そしてこのMUSの存在が現在でも重要なのは、人が想像により増幅させる痛みの存在は普遍的だからなのでしょう。

2023年3月28日火曜日

地獄は他者か 8

 これまでの考えを復習してみよう。人は自分が他者に劣っていると思うことに激しい心の痛みを感じる。とはいえ自分が比較する対象が誰でもいいというわけではない。例えば将棋のアマ初段者は藤井聡太さんとの勝負(ハンデのない指導将棋など)に負けても恥に感じることは全くないだろう。それは相手との力の差は歴然としていて、最初から争うつもりはないからだ。でも同じ将棋仲間である初段の相手との試合に負ければ屈辱を感じるかもしれない。更に格下の初心者に万が一負けるとなれば怒り心頭になるだろう。
それはどうしてだろう?なぜ自分が所属していると思える集団の、自分と似たレベルの人たちに対してこれほどライバル心を燃やし、それらの人たちに自分が劣ることにこれほど傷つくのだろうか?
  こう考えていくうちに、実はこれは生物の宿命ではないかと考えるに至った。これまでに私の中になかった、ちょっと新しい発想である。生物は生存競争で自分と同等のレベルの相手との戦いで負けそうになることで激しい攻撃性を発揮するようにできているのではないか。(というよりは、そのような個体が淘汰に残ったのではないか?)同じメスをめぐるライバル同士の雄を考えるとよくわかるであろう。動物は相手がはるかに強い場合には戦いを挑むことそのものが危険である。またはるかに弱い場合にはそれを捕食することには何ら問題はないだろう。
噂のコブダイの雄姿



自分と同じような相手、とは生存競争の中でその様な相手としばしば争うことになるからだ。例えば日本近海に住むコブダイは、自分のテリトリーである岩場に近づいてくるもう一匹のコブダイと死闘を繰り広げる。そこに招き入れる雌を取られてしまわないかと必死なのだ。しかし彼は近くを回遊してくるサメなどに戦いを挑んだりはしないのだ。自分の仲間に対してだけムキになるのである。
  彼らが一番力を発揮しなくてはならないのは、自分と同レベルの相手(あるいは格下から急に同等レベルにまでのし上がってきた存在)であり、そこで攻撃性を発揮できない個体は生き残ることが非常に難しくなる。彼らが一番優劣をつけなくてはならないのはまさに自分と同じような相手なのである。そこで彼らは力の差が同等であると思える限りは攻撃性を発揮する。そして何らかの形で勝負がついた時点で、負けた方は退散するのみである。相手が自分より強いことが明白になった時点で攻撃性は止み、服従することがもっともその生命体の生存の可能性を高めるのだ。
ただし現実の恥の体験について考える場合、はるかに格下の相手からバカにされたり挑戦を受けた時にはさらに強い反応が起きるのだろう。なぜだろう? ライバルでもないのに。きっとそのような時、格下からのチャレンジも、深刻な脅威として感じられるからではないか。人は皆小さい、か弱い自分を持っているので、格下からのチャレンジは、即座にその格下を自分と同等のレベルまで押し上げてしまう。そしてその際やはり重要なのは、それを監視している聴衆の存在なのだ。
  このことをもとに恥の感情の定義を考え直さなくてはならない。これまで私は「恥とは自分の周囲と比べた際の弱さを感じたときに覚える感情である。しかしその際に大事なのはそのことを見ている聴衆の存在なのだ。そしてそれこそが恥の苦痛を大きく規定しているのである。

独裁者の恥
ということでこのテーマを論じる地ならしをしたつもりである。
いま世界では戦争が起きている。ロシアとウクライナの戦闘のことだ。C国はいつ戦争を開始してもおかしくない雰囲気だし、NK国も今戦争が起きていて敵からの脅威にさらされているとでも言わんばかりのことを言う。しかしここでもっと一般化して、A国がB国に戦争を持ち掛けている状況だとしよう。
  ここで意見が分かれるのはA国のリーダーが言うように、「戦争を仕掛けたのは実はBなのだ」と本気で思っているのか、ということである。もしこのような思考を本当に持っているとしたら、一種の狂気に近いもののように感じはしないだろうか?なぜなら明らかに自分たちの軍隊がB国に能動的に攻撃を仕掛けているからだ。もしB国が先に仕掛けてきたということを認識したなら間違いなく、「わがA国はB国からの一方的な攻撃に対して反撃した」と、最初から喧伝するであろうからだ。でもそれはなかったのだ。
しかしA国のリーダーが次のようなメンタリティーを持っているとしたらどうだろう?
「B国め、散々我々をバカにしやがって!」 A国にとっては、昔は連邦国の一部であったB国がよりにもよってA国と敵対している別の陣営に下ることなど、まったくもって許されず、A国の顔に泥を塗る(恥をかかせる)行為だと思わせていたとしたら? ここでこのA国のリーダーの「バカにされた、けしからん!」という感じ方が正当なものかという議論をしているのではない。「恥をかかされた」とは極めて主観的な感情だ。しかし国のリーダーのその感情は、扇動的なプロパガンダにより国民に伝わり、民衆が「恥をかかされた」「コケにされた」という感情を共有するとしたら、他国への攻撃は心情的には正当化されてしまうのである。
   極論かも知れないがこの「恥をかかされた、ケシカラン」という為政者の感情は、戦争を始める際の最も典型的な誘因ではないかと思う。それで思い出すのは1962年のキューバ危機だ。その前にキューバのカストロ将軍は、アメリカを訪問して友好関係を結ぼうと思った。しかし当時のアイゼンハウアー大統領はそれを受けずにゴルフに行ってしまった。そこからカストロのソ連への接近が始まったわけである。様々な政治的な背景があるにしても、カストロ将軍の「コケにしやがって!」という感情はやがてキューバにソ連のミサイルを配備させる動きへと繋がっていった…。

2023年3月27日月曜日

地獄は他者か 7

 ここで恥の感情、特に羞恥感情は人の生産性に貢献するのかという点についても論じたい。後に述べるようにこれは自己愛の問題とも直結している。恥の感情がその人に特有の感覚過敏に由来する場合、自己表現の機会を利用することが出来ないことに苛立ちを覚えることがあるであろう。自分自身の創造性や生産性を人に認められるということは多くの人にとって極めて自然な願望や欲求であり、その人の健康な自己愛に根差していると言えるだろう。そのためには自分の姿を多かれ少なかれ不特定多数の人々の前に晒すことになるが、これには大きな抵抗が生じると、大きなジレンマを生む。
 かつて「恥と自己愛の精神分析1998年.岩崎学術出版社」で私は「自己顕示欲」と「恥に対する敏感さ」を二つの独立変数として扱い、次のような分類を行った。両者が+(高い)の状態を過敏性自己愛性格とした。(ちなみに恥が+、自己顕示が−の場合に対人恐怖、恥が−、自己顕示が+の時に、無関心型自己愛と規定した。)
 この過敏型自己愛は、「恥ずかしがり屋の目立ちたがり屋」ということになり、かなりややこしい性格ということになるが、自らの羞恥心を克服して自己主張をすることが出来るようになったという人はたくさんいる。多くの政治家や芸能人は幼少時や思春期にはむしろシャイで人前に出ることを欲しなかったということを聞く。自己実現の欲求が強い限りは、自分の恥ずかしがり屋な性格は必ずしもマイナスに働かないのであろう。すると私たちが持っている恥の感情は、それによってうまく表現されない自分をもっと別の経路で表現する力を生む原動力になるのではないか。ある人はそれを学問的な研究に向け、別の人は芸術に向けるかもしれない。 
 しかし特別の才能がなくても、接客などの対人接触があまり多くない仕事につき、そこで存分に力を発揮することが出来るだろう。コンピューターの技術者や様々な素材を扱う職人の中には、人と接することは苦手でも高い専門性を身に着け、自分の力を思う存分発揮する人もいるだろう・・・・。
 と書いては見たが、あまり勢いがつかない。恥が原動力になるという主張は今一つ説得力がないのだ。恥は私たちにとって善なるものである、という所に今一つ主張を持って行きにくい。もちろん恥は奥ゆかしさ、媚態、など人の興味をそそり、またそこに美的価値も含まれると思うのだが、なかなかそこまで論じることが出来ない。その代わりやはり恥が持つネガティブな側面を強調することが先になりそうだ。
 私が今非常に興味があるのは、権力者、力を持った人の体験する恥である。私はかなり前から自己愛の傷付きこそ最大の怒りや攻撃性を生むという考えを持つ。今になってみればこれ以上自明なことはないと思うのであるが、案外ハインツ・コフートの自己愛憤怒narcissistic rage の概念をヒントにしたのかもしれない。彼のこの概念を知ることなく自分がこの考えに行きついたのかと自らに問うと、ちょっと自信がなくなってくるのだ。この問題は今回この恥の再考の機会を得たとしても、これ以上進みようがない気がする。

2023年3月26日日曜日

連載エッセイ 2-2

 

いよいよ「ニューラルネットワークモデル」

 

さて以上を前振りとして今回のテーマである「ニューラルネットワークモデル」について論じたい。

これまでに私は、心というのは、脳の微細なネットワークと関係しているらしいということを示した。脳とはその構成単位である神経細胞(ニューロン)が微細な電気信号を出し、それが集まって電気の信号となり、それがそのネットワークの間を縦横無尽に行きかっているらしい。でもそれだけでは心=脳細胞の間の電気信号のやり取り、ということ以上は何もわからないことになる。問題はネットワークがどうやって心を生成するかである。そのことを理解するために必要なのが「ニューラルネットワークモデル」の理解なのだ。

 ここで「ニューラルネットワークモデル」を検索してみた方は、少し不思議な思いをするはずだ。日本IBMのサイトからその定義を借用しよう。(https://www.ibm.com/docs/ja/spss-modeler/18.4.0?topic=networks-neural-model)。「ニューラル・ネットワークは、人間の脳が情報を処理する方法を単純化したモデルです。 ニューラル・ネットワーク・ノードは、連係する多数の単純な処理単位をシミュレートします。処理ユニットは、ニューロンを抽象化したものと表現できます。」

これを読んで「あれ、これって脳の話なの?それともコンピューターの話なの?」と混乱するかもしれない。正しくは、このモデルは脳で起きていることを大胆に単純化してシミュレートしたモデルなのだ。「ニューラル」とはニューロン(神経細胞)の、という意味だが実際にここで論じているのはノード(結び目)であり、実際の生身の脳の神経細胞のことではない。だから「ニューラルネットワークモデル」は脳の実際の神経細胞とそれらを連絡する神経線維を表しているのではなく、それを極めて単純化して図式化したものをそう呼んでいるから紛らわしいのだ。

とにかくこの紛らわしい「ニューラルネットワークモデル」からスタートするのだが、ここで前提とすべきことを挙げておきたい。脳の本質的なあり方は、それが神経細胞からなるネットワークにより構成されているということだ。すなわちそれは神経細胞(それも膨大な数、一つの脳の中に一千億個とも言われる)とそれらの間を微弱な電気信号の連絡により結び付けている神経線維からなる巨大な編み目構造ということになる。しかし神経ネットワークがどのような構造になっていてどのようなルールのもとに形成されているかはあまりに複雑でわからない。でもとりあえずはそれが脳の基本的な構成要素であるという理解を「ニューラルネットワーク仮説」と呼んでおこう。おそらく現代の脳科学者の中でこの仮説に基づかない人はいないのではないかと思えるくらいに、これは基本的な了解事項なのだ。

ただし例外としては、例えばロジャー・ペンローズやスチュワート・ハメロフと言った論客が、ニューロン内のマイクロチューブルと呼ばれる微細構造に生じる量子力学的効果を意識の根源を見なしているという。こうなるとニューロン一つ一つが意識を有することになりかねないが、もちろんこの説を否定するだけの論拠を誰も持ち合わせてはいないのだ。