2017年4月30日日曜日

神経科学と心理療法 最終稿

頑張って仕上げた。富樫さんを引用させてもらった。頼もしい分析家である。        

  神経科学と心理療法


 近年の神経科学の発展には目覚ましいものがある。PET(陽電子放射断層撮影)やfMRI(磁気共鳴機能画像法)等の脳機能イメージングの技術の発展とともに、得られる実証的なデータは膨大である。それとともに私たちは心の働きと照合されるような脳の活動をリアルタイムで追うことが出来るようになってきている。
 しかし私たちが日常的に行う心理療法は、その脳科学的な進歩に見合うほどの発展を遂げているとは言い難い。臨床家は依然として素朴な因果論や象徴理論に依拠する傾向にある。その意味では脳科学時代の心理療法は、その両者の有効な架け橋が欠如しており、あるいは前者の成果が後者にほとんど反映されていないことが特徴といえよう。
 本稿では現代の脳科学が示す心の在り方から心理療法について考えるが、最近の脳科学的な知見を網羅することは不可能なため、本稿では心の非線形性という文脈に限定して論じよう。

脳科学の進歩が示唆する心の在り方

 最近の脳科学は心についての新しいモデルを提供している。フロイトは精神分析の理論を提示した際に、心についての明確なモデルを打ち出した。ただし当時の脳科学の知見は極めて限定されていた。フロイトは中枢神経系がニューロンという微小な単位により構成されているということのみを手がかりにして、リビドーの概念を元に心のモデルを構成したが、その時代ではそれが限界であったといえる。現在の脳科学が示す心のモデルの代表的なものは、ニューラル・ネットワークモデルに依拠したものであり、そこで繰り返し示されるのが、心の複雑系としての振る舞いであり、精神活動の持つ非線形性である(Rose, Schulman, 2016)。非線形性とは原因と結果の大きさに直線的な対応関係がなく、心に働くいかなる原因も、いかなる種類や大きさの結果をもたらすかは基本的には予測不可能であるという性質をさす。その心の性質は脳の活動が安静時においてすでに見せるいわゆる「通時的な不連続性」(Northoff, 2016)という性質によっても間接的に裏付けられている。
 このような心の捉え方は、従来の伝統的な精神分析理論にはあまりなじまないものである。分析治療においては治療者が患者の連想内容からその無意識内容を見出し、それを解釈として提供する。それは抵抗に遭いつつも徐々に患者に洞察を導く。そこには心がある種の連続性を有しつつ展開し、無意識内容が徐々に意識化されていくプロセスを前提しているために、「漸成的な想定epigenetic assumption」(Rappaport, Gill, 1959, Galatzer-Levy, 1995)とも呼ばれている。
 従来の精神分析理論においては、分析作業とはすでに無意識に存在している欲動やファンタジーを発掘する作業として捉えるという考え方に基づいていた。しかし最近の分析理論においては、無意識内容はむしろ臨床場面において生成されるという、いわゆる構成主義的な考えが提唱されつつある。それらは分析において解釈によりそれまでの「未構成の経験 unformulated experience」(Stern,2003, 2009) や「未思考の知 Unthought known」(Bollas, 1999) が生まれるという考え方に反映されているが、これらは事実上心の非線形的な在り方への注目ともいえる。
 心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナル・メッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の視覚入力により大きな影響を受ける。Bargh (2005) の研究によれば、たとえば「協力」に類する単語と、「敵対」に類する単語をそれぞれ別のグループの被験者にサブリミナルに提示した後に、他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施すると、前者のグループでは協力的な行動が増加し、後者では敵対的な行動が増加するという。あるいは老人に関係した、たとえば白髪とか杖などをサブリミナルに提示すれば、記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりするという。これらの研究の一部には、再現不可能との批判もあるものの、私たちの心の働き方の一側面を捉えていることは確かであろう。私たちの心は実に様々な内的、外的な刺激を受け、その時々で予測されなかった言動をとるものの、それを因果論に従ったものであり主体的に選択したものと錯覚する傾向にあるのであるBargh (2005)。
 非線形的な心のモデルが示す治療方針

上述した非線形的な心のモデルは、様々な意味で心理療法のあり方にヒントを与える。このモデルでは心の連続性や内的外的な諸因子との因果関係はあくまでも限定的なものとしてとらえられる。治療関係の在り方は、二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の深層学習のプロセスであると考える。治療者が行う介入は、意図せざる要素を多く含むエナクトメントとしての性質が強く、患者に及ぼされる影響も正確な予想は不可能になる。
 このような心の非線形的なあり方との関連で富樫(2011)は、従来の精神分析理論では、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことが主として転移の反映としてみなす傾向にある点を指摘する。実際には治療関係とは開放系であり、患者を取り巻く様々な関係性や外的要因との動的な相互作用が生じている。
 筆者は個人的にはこのような治療の在り方は関係論学派のI.Z. Hoffman (1998) により提案されている弁証法的構成主義の見方により包摂されているものとみている。この理論は治療関係において生じるものは常に過去の反復の要素(「儀式的 ritual」 な側面)と、新奇な要素(「自発性spontaneity」の側面)との弁証法であるという見方を唱える。このうち後者が心の非線形性により生じる心の予測不可能性に対応する。もし治療場面において生じることをこのように弁証法的に捉えた場合、治療者は患者の無意識を解釈したり将来を予見したりする役割から離れ、患者と共に現実を目撃し体験する立場となる。
 複雑系として臨床状況を捉えることは、そこに何ら確かなことは見いだせず、治療の行方も不可知である、という悲観的な見方を促すわけではない。むしろ治療場面における偶発性や不確かさを患者と共に生きることの意義を見出すような治療者の感性を育てるという意味を有するのだ(富樫、2016)。そしてそこで否応なしに関わってくるのが治療者の主観性という要素である。治療状況が刻一刻と展開する中で両者が様々な主観的な体験を持っていることは確かなことであり、治療関係は二人の主体のかかわりであるという了解から出発することで新しい治療の在り方が考えられるであろう。実際に間主観性理論の立場や関係精神分析では、両者の主観に基づく治療論が提唱されている(Benjamin, 2005, Stolorow et al, 1987)。ただしそこで具体的に考えられる治療的なかかわりのあり方については、紙幅のために別の稿に譲りたい。

参考文献

Bargh, JA (2005) Bypassing the Will: Towards Demystifying the Nonconscious Control of Social Behavior, (in) R. R. Hassin,, J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) The New Unconscious. Oxford Press.
Benjamin, J (2004) Beyond doer and done to: An Intersubjective view of thirdness. Psychoanalytic Quarterly, LXXIII, 5-46.
Bollas C (1999) The mystery of Things. London: Routledge (館直彦・横井公一監訳(2004)精神分析という経験 -事物のミステリー.岩崎学術出版社.)
Galatzer-Levy, RM(1995)Complexifying Freud: Psychotherapists Seek Inspiration in Non-Linear Sciences.: John Horgan. Scientific American. 273, 1995. Pp. 328-330.  Hoffman, I.Z. (1998) Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.
Northoff, G(2016)Neuro-philosophy and the Healthy Mind: Learning from the Unwell Brain W W Norton & Co Inc(高橋洋翻訳 脳はいかに意識をつくるのか白楊社2016年)
Rapaport, D., Gill, M.M. (1959). The Points of View and Assumptions of Metapsychology. Int. J. Psycho-Anal., 40:153-162.
Rose, J, Shulman, G eds. (2016) The non-liner mind-.psychoanalysis of complexity in Psychic Life. Karnac.
Stern, DB (2003) Unformulated Experience: From Dissociation to Imagination in Psychoanalysis. Routledge. (一丸藤太郎、小松貴弘訳(2003)精神分析における未構成の経験―解離から想像力へ.誠信書房)
Stern DB (2009) Partners in Thought: Working with Unformulated Experience, Dissociation, and Enactment Routledge(一丸藤太郎監訳, 小松貴弘訳 (2014) 精神分析における解離とエナクトメント 対人関係精神分析の核心創元社.)
Stolorow, RD, Brandchaft, B, Atwood, GE (1987) Psychoanalytic treatment: An intersubjective approach. The analytic press, Hillsdale, NJ. (丸田俊彦訳 (1995) 間主観的アプローチ―コフートの自己心理学を超えて.岩崎学術出版社.)
富樫公一 (2016)「ポストコフートの自己心理学」精神療法. 42:320-7.
富樫公一(2011)関係精神分析と複雑系の理論 岡野ほか著 関係精神分析入門―治療体験のリアリティを求めて. 岩崎学術出版社、第13章.

2017年4月29日土曜日

父の思い出 2

(承前)
 その数年前の話を少し書いてみたい。
 ある日お彼岸を過ぎた日曜日に妻と一緒に父親を訪ねた。場所はアクアラインを渡って遠くないため、渋滞に見舞われなければ一時間足らずでいくことが出来る。(運悪く渋滞に巻きこまれると…4時間、ということがかつてあった。)部屋を訪れると、父はいつにもましてぼんやりしているようであった。父は私と妻に座るところを作ってくれるということもなく、ベットの横に父親と並んで座る、というスペースもなく、なんとなく所在げなく時間が流れた。 
 すると妻がテレビ台の下をゴソゴソ探して碁盤を見つけたのである。どうやらホームの各部屋に備え付けられていたらしい十三面板であり、碁石の袋の封も切っていない代物だった。十三面とは、正式な碁盤(19×19の碁盤の目)よりかなり小ぶりの盤である。対局時間も通常の碁盤よりかなり短く決着がつく。しかし老化が進んでいる父親は、あれだけ囲碁好きなのに自分の部屋のテレビ台の奥に手つかずの碁盤が眠っていることを知らなかったらしい。そこで取り出して、安物の碁石を紙の箱に入れて碁笥代わりにし、ベッドの上に置くと、父はすでに対局してくれるらしい。それまで恍惚状態だったのが、少し意識が覚醒したらしいのだが、さっそく黒石を持って星目の一つに置こうとするので、さすがに私が遮った。後で述べるが、父は相当の碁打ちである。往年はアマ五段くらいまでは打った人だ。通常は下手が黒石を持ち、先手を打つ。アマ五級程度のヘボ碁の私が白を持つことなどあり得ない。そこで私が黒石を隅の星に打つと、父は別の星に打つ。急にスイッチが入ったかのように、背筋を伸ばして、父は碁を私と始めたのだ。ただし父は手が震えるし、石をきちんと線の交差部分に乗せないから見づらくてしょうがない。そこで私が手を伸ばして父の置いた石をちゃんと置きなおすと、父はそれを私が手を打ったのと勘違いし、自分の白石を置こうとする。私があわてて制止する。こうして怪しい感じで二人の碁は進んでいった。

2017年4月28日金曜日

父の思い出 1

  先日4月20日は父親の命日だが、久しぶりに墓参りをしていろいろ思い出すことがあった。父親は数年前のこの日の早朝に突然亡くなったが、もう90歳近くでかなり老衰が進んでいた。(この時は故人の強い遺志で完全密葬にしたので、実はどなたにも公表しなかった。)
 亡くなる2,3年前は、かなり認知能力が低下し、ときどきホームを訪れても、かろうじて私が自分の息子であることは認知できるようであるが、一緒についてくる妻についてはよくわかっていないようだった。一度私の息子(父にとっては孫である)と部屋を訪れたときには、息子の顔をまじまじと見て、「カミさんかい?」と尋ね、私は愕然としてしまった。老衰とはこういうものかと少しショックであった。その後も年に3,4回は訪れていたが、父親も見当違いな受け答えしかせずに、また狭いホームの部屋には椅子もなく、なんとなく所在無げに過ごして早々に帰ってきてしまうということが続いていた。
  実は私には一つ長年かなえたい希望があった。父親と囲碁の対局をしたかったのである。しかし目に見えて衰えていく父を見ているとそんなことを言い出せないでいたのである。そこで30年以上も囲碁の相手をしてもらうことが出来ないでいたのだ。もう当の昔に今日の日付すら分からなくなっている父親に囲碁を打てる力は残っているとは考えられなかったし、それを確かめるのも悪いような気がしていた。
 なぜ父親の死と囲碁の話が出てくるかというと、それが父親の死とかなり深く関係していたからだ。少なくとも私の中では。 (つづく)

2017年4月27日木曜日

書評:精神分析における関係性理論 ②

4月17日以来書いていなかった書評を書き終えた。イヤー、勉強になったなあ。
(承前)
 「第3章 関係性理論は心理療法の実践をいかに変えるか――古典的自我心理学と比較して」では、関係論的な枠組みにより治療がどのように変わるかについての具体的な論述がある。それは自由連想や解釈についての基本的な考え方の再考を促す。そこで強調されるのが、古典的精神分析においては「辿り着く唯一の真実」の存在が前提とされるということである。関係論においてはその代わりに、患者の中でいまだ構成されていない、いわば「解離された」自己が問題とされる。フィリップ・ブロンバーグらにより近年提唱されているこの概念は現代の関係論における一つの大きなトピックとなっている。  
 「第4章 精神分析における対象概念についての一考察 ――その臨床的可能性」と「第5章精神分析における時間性についての存在論的考察」は、本書の他の章と多少趣が異なる。両者とも精神病理の学術誌に掲載されたもので、対象の概念、および時間の概念に関するより詳細な理論的考察がなされ、哲学出身の著者の真骨頂ともいえる。第4章の骨子を述べるならば、フロイト自身の理論の変遷の中に、対象概念の変遷が見られたが、それを内在化のプロセスに従って(1)外的対象とは別に(2)内的対象を1,2,3の3種類に分けることが提案される。特にその2番目は、自我機能を一部担った内的対象として、特にボーダーライン水準の患者に見られ、トーマス・オグデンが「半ば自律的な心的機関」と呼ぶものに近づくというが、この議論は臨床的にも非常に興味深い。著者はさらにブロンバーグなどの「対象の多重化の概念」に言及され、対象の概念が関係精神分析で一つの焦点となっている点が示される。
 第5章においてはまずハイデガーの時間論が論じられ、続いてその影響下にあるハンス・レーワルドとロバート・ストロローの議論が登場する。ストロローは自らの体験をもとに、心的な外傷が生む非時間性について論じる。そしてさらなる存在論的時間論を展開する論者として再び登場するのがブロンバーグである。彼はキー概念として自己の多重性、「非直線性」を掲げ、そこでは時間性の病理についても「非直線的な多重の自己状態」と唱える。すなわち自己の非直線性は情緒的外傷をこうむることで自己の中の一貫した歴史から外れた体験として生じる。それが解離された体験とつながるのだ。
 「第6章 関係性と中立性―治療者の立つ所という問題をめぐって」では、詳細な臨床例をもとに、伝統的な精神分析における中核概念としての中立性やエナクトメントについての考察がなされる。ある日筆者はいつも持参するノートを忘れてセッションに臨み、患者がそれを指摘する。そして筆者がそれをあいまいに返したことで患者が「嘘をついた」と咎めるというやり取りが描かれる。そこで筆者は過度に謝罪的にならず、かといって自分を正当化したりもせずに「両価的で葛藤にみちた存在として」患者の前に立ち現れる。そして治療の場を葛藤を内的に扱える能力を育てる場として表現する。筆者はこのかかわりを中立性に代え、あるいはそれを超える関わりとして示しているのである。
 「第7章 行き詰まりと関係性――解釈への抵抗について」でも筆者の症例に基づくきわめて興味深い議論が展開する。本章で考察の対象になるのはエナクトメントであり、最近の関係論的な考えでは治療において何が生じているかを知る上で極めて重要な意味を果たす概念である。筆者はある症例とのかかわりにおいて、「患者が正しい答えをし、治療者は正しい解釈を行う」というエナクトメントを起こしていることに気が付く。そしてその考えを率直に患者に伝えることで治療的な進展が見られたことが報告されている。さらにそもそもエナクトメントが表しているのは、患者と治療者により解離されていた内容であり、その意味ではその内容が意味を持つためにはむしろ必然的に生じてくるという考えが示される。続いて著者はある心の内容が象徴的な理解を逃れている場合、それが具象レベルで外的に表現されるのがエナクトメントであると説明する。それは分析家バスにより「表面の防衛」と呼ばれたものであり、ブロンバーグの解離の議論につながる。ブロンバーグは表象レベルでの変化、すなわち解釈が生じる際にはエナクトメントという現実が必要であり、その際に分析家自身の多重の自己状態の自己開示が意味を持つという。そして解釈は「ブーツのつまみ問題」(説明は略す)をはらんでいるためにそこでの本来役割を果たせないという。
 「第8章 分析家の意図と分析プロセス」では実際の精神分析状況が関係論的な視点からどのように再考されうるかについて論じた章である。そこで基本的に問われるのは、私たちが「理解という誤謬」(レベンソン)にいかに陥りやすいかということを問い、その見地から中立性やブランクスクリーンの概念について、主としてホフマンに依拠しつつ論じる。続いて提示されているケースでは、患者の方が治療者をブランクスクリーンと見立てたという点が特徴的である。すなわちそれは治療者が望ましい治療態度として意図して「処方」したのではなく、患者が治療者をブランクスクリーンとして見立てたというプロセスが取り上げられ、それ自体が臨床素材として扱われる結果となったのである。関係精神分析においてはこのような伝統的な精神分析との逆転現象が生じる。
 「第9章 多元的夢分析の方法に向けて」では、フロイト以来無意識への「王道」と考えられてきた夢分析についての再考が加えられる。ここでは様々な学派から唱えられてきた夢の理論が紹介され、フロイト派において主流であった夢の内容についての分析よりはむしろ、プロセスとしての夢の意味を見出す立場が唱えられる。すなわち夢はそれが語られる文脈からも、特に転移―逆転移のエナクトメントとしても意味を持つのではないかと考えられるようになった。そしてそれは夢を解離された内容として捉えるブロンバーグの理論へ結びつく。この章に盛られている内容は膨大で、読者がそれぞれの立場から読み解いていただくしかないが、そこでは無意識内容が象徴化された形で夢となるというフロイトの定式化は遠い過去になり、夢は「生の知覚データ」(ビオン)、解離された知覚(ブロンバーグ)が意味を付与される現象であるという考え方が紹介されている。夢とはまさに治療状況という文脈において創発されるものであるという構築主義的な視点が意味を持つのである。それに続く臨床例では夢の内容を解釈するというプロセス自体が夢の内容の再現となるという一種の循環が例示され、夢はその全貌が解明されるのではなく、より一層多元的なものとなるという視点が示されている。
 全体としての印象は、その米国での臨床家としての豊富な経験から関係精神分析を概説した、極めて優れた書であるということである。著者は特に関係学派のリーダーの一人ともいえるブロンバーグからの影響が見て取られ、著者が訳したブロンバーグの「関係するこころ」(誠信書房、2014年)の参照も薦められるであろう。
 私が個人的に知る筆者は臨床能力に優れ、しかも英語はネイティブ並みながら極めて温厚な人柄で頼もしい限りである。将来日本の精神分析界を牽引していく存在であることは言うまでもなく、その存在感を示す意味を持った良書と言える。

2017年4月26日水曜日

共感と解釈 ③

 そこで私はもう一つのタイプのモティベーションとして、2.「説明してもらう」が登場する。これはある意味では治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになる。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭に収めたいということだが、要するに物事の因果関係を明らかにするということだろう。因→果の図式ほど頭にすっぽりおさめやすいものはないからだ。そしてそのためにはどうしても言葉が必要になるのだ。
「いま私には何が起きているの?」
「私はどうしたらいいの?」
すべてのせっぱつまった疑問に対する答えは、ある種の因果関係を示すことなのだ。「AだからBが起きたんだよ。」するとそれだけで納得でき、心に収めることが出来る。その中にはたとえば「起きたことは大したことないから、心配することないよ」単なる気のせいだよ。
 浅田真央さんが引退すると言うことで、ちょっと前にメディアでいろいろなシーンが流された。を送り出すときの佐藤コーチ。何かを言っている。よく聞くと「メダルを取ることなんでいいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という言葉が聞こえた。真央ちゃんはそれを真剣に聞き、納得してリンクの中央に向かって滑り出していく。あの言葉は何だろう? 今流行の言葉で言うナラティブである。一つのまとまった意味。それは私たちに安心感を与える。それがないと不安でいられないのだろう。事前は、人生はまさにカオスのふちにある。何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。そのときに一つでもそこに意味を見出すことで安心する。何となく体がだるい。何が自分に起きているのだろう?ふとのどの痛みに気がつく。熱も少しある。「そうか、風邪なんだ」と納得する。「おそらく風邪だろう」はそれより悪性の、場合によっては致命的な何かではなさそうだ、という安心感を与えるのだ。
 しかしそれにしても昔の人たちは大変だったはずだ。たとえば日食が起きて急に空が暗くなったとしても、不吉な出来事の前兆とされたのである。今の私たちだったら意味のないこのナラティブは、おそらく日蝕に関する科学的な説明、つまり何年かに一度起きる天体現象であり、無害であるというナラティブに取って代わることで私たちを安心させてくれたわけである。

2017年4月25日火曜日

トラウマと精神分析 ④

 第3点目は、解離症状を積極的に扱うという姿勢である。これに関しては、最近になって、精神分析の中でも見られる傾向であるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれない。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。
4.関係性、逆転移の重視
 関係性の重視は、患者がPTGを遂げるうえで極めて重要となる。
その際治療者の側の逆転移への省察が決め手となる。

5. 倫理原則の遵守

これについてはもう言わずもがなのことかもしれない。特にトラウマ治療に限らず常に重要なことだが、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが問われる傾向があるので、自戒の念も込めて掲げておこう。

精神分析における倫理基準(米国精神分析協会、2007年、抜粋) では精神分析家の従うべき倫理基準として以下の点を掲げている。
1.分析家としての能力 competence
2.  患者の尊重、非差別
3.平等性とインフォームド・コンセント
4.正直であること truthfulness
5.患者を利用 exploit してはならない
6.学問上の責任
7.患者や治療者としての専門職を守ること

最後に―トラウマを「扱わない」方針もありうる
 最後に蛇足かも知れないが、この点を付け加えておきたい。トラウマ治療には、トラウマを扱わない(忘れるように努力する、忘れるにまかせる)方針もまたありうるということだ。トラウマを扱う(「掘り起こす」)方針は時には患者に負担をかけ、現実適応能力を低下させることもある。もし患者がある人生上のタスク(家庭内で、仕事の上で)を行わなくてはならない局面では、トラウマを扱うことは回避しなくてはならない場合も重要となる。治療者は治療的なヒロイズムに捉われることなく、その時の患者にとってベストの選択をしなくてはならない。そしてそこには、敢えてトラウマを扱わない方針もありうるということである。

2017年4月24日月曜日

トラウマと精神分析 ③

 ということですでに示したこのカンバーグの文章のオリジナルを探したのだが、どうしても見つからないのだ! 私は幻の文章を読んだのだろうか?一番近そうな文章を探して、Otto F. Kernberg:Unconscious Conflict in the light of Contemporary Psychoanalytic Findings Psychoanalytic Quarterly, 2005 という論文を見てみたが、彼の主張は結局はあまり昔と変わっていないのだ。ただし最近のトラウマ理論とか脳科学をしっかり引用している。それでいて結局は原初的な攻撃性の話に向かってしまう。結局彼は懲りてはいないようだ!!・・・仕方がない。カンバーグの引用はやめにして、先に進もう。

関係精神分析の発展とトラウマの重視

 伝統的な精神分析理論はトラウマ理論やトラウマ関連障害の出現により逆風にさらされることとなった。精神医学や心理学の世界で近年のもっとも大きな事件がトラウマ理論の出現であった。1980年のDSM-IIIでPTSDが登場し、社会はそれから20年足らずのうちにトラウマに起因する様々な病理が扱われるようになった。国際トラウマティック・ストレス学会や国際トラウマ解離学会が成立した。現代的な精神分析(関係精神分析)は「関係論的旋回」を遂げたが、その本質は、トラウマ重視の視点であったといえる(岡野)。
 現代的な精神分析における一つの発展形態として、愛着理論を取り上げよう。愛着理論は全世紀半ばのジョン・ボウルビーやルネ・スピッツにさかのぼるが、トラウマ理論と類似の性質を持っていた。それは精神内界よりは子供の置かれた現実的な環境やそこでの養育者とのかかわりを重視し、かつ精神分析の本流からは疎外される傾向にあったことである。乳幼児研究はまた精神分析の分野では珍しく、科学的な実験が行われる分野であり、その結果としてメアリー・エインスウォースの愛着パターンの理論、そしてメアリー・メイン成人愛着理論の研究へと進んだ。そこで提唱されたD型の愛着パターンは、混乱型とも呼ばれ、その背景に虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい。(ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳 (2016) 身体はトラウマを記録する―脳・心・体のつながりと回復のための手法 紀伊国屋書店)
 最近精力的な著作を行うアラン・ショアの「愛着トラウマ」の概念はその研究の代表と言える。ショアは愛着の形成が、きわめて脳科学的な実証性を備えたプロセスであるという点を強調した。ショアの業績により、それまで脳科学に関心を寄せなかった分析家達がいやおうなしに大脳生理学との関連性を知ることを余儀なくされた。しかしそれは実はフロイト自身が目指したことでもあった。

トラウマ仕様の精神分析理論の提唱
 以下にトラウマに対応した精神分析的な視点を提唱しておきたい。それらは


1. トラウマ体験に対する中立性
2. 「愛着トラウマ」という視点
3. 解離の概念の重視
4. 関係性、逆転移の視点の重視
5. 倫理原則の遵守
の5点である。

 第1点は、トラウマに対する中立性を示すことである。ただしこれは決して「あなたにも原因があった、向こうにも言い分がある」、ではなく、何がトラウマを引き起こした可能性があるのか、今後それを防ぐために何が出来るか、について率直に話し合うということである。この中立性を発揮しない限りは、トラウマ治療は最初から全く進展しない可能性があるといっても過言ではない。
 第2点は愛着の問題の重視、それにしたがってより関係性を重視した治療を目指すということである。フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということであった。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在である。私が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということだ。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性があります。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。

関係精神分析入門 ②

4月10日の続きである。

フロイトの何を問題視しているのか?


 まず関係論が始まったきっかけについての議論なのですが、おそらく一番問題とされたのは、理論と現実の齟齬、ということでしょう。フロイトの理論に従えば治療がうまく行くのであれば、全く問題がないわけです。ところがそうではなかった、というよりはそうではないケースがたくさんあることが分かったのです。
 フロイトの理論の根幹部分は、治療者が受け身であることで、患者の無意識が自然に展開していく、という考え方です。実は私自身まさにそのようなケースを体験しています。私が黙って聞いている一方で、病理が展開していく。このような考え方と真っ向から対立するのが、臨床場面においては何が起きるかわからない、あるいは新しい何かが創造されていく、という考え方です。この二つの考え方は全く対立し、本来は両者が少しずつ存在しているにもかかわらず、どちらかに偏った見方がなされることが多い。
 もちろん非常に治療的なセッションが、治療者の方が黙って話を聞いていくうちに展開していくということもあるでしょう。ただしそこでも何かが両者の中で起きていて、それは何かが醸成されていく、創りだされていくというニュアンスなのです。少なくともフロイトとは違うことが、両者の間の、いわばブラックボックスの中で起きてくる。それを直視しようという考え方が出現しました。対人関係論も、対象関係論も、そのような流れだったと思います。

従来の関係精神分析のたどった(道中略)

 さてこのお話の後半は、新・無意識についてお話しします。