2012年6月3日日曜日

続・脳科学と心の臨床(11)

薬物療法と脳科学 ― 精神科医は脳を知っているのか?

わが国の臨床心理の方々を取り巻く環境には、諸外国にない特徴がある。それは「心理士は医学について知ってはいけない、かかわってはいけない」ということ、つまり心理士は精神医学にはノータッチでなくてはならないということである。「臨床心理学は精神医学とは異なる一つの学問である」というのは、わが国の心理士が持つべき前提と言える。そこには長い間の心理士と精神科医の確執の歴史があった。そのため心理士が精神医学的な診断を下したり、薬物療法について専門的な知識を持ち、かつそれを来談者に伝えるとなどということには強い抵抗が生まれる。その抵抗は精神科医の側からも、当事者である心理士の側からもあるである。「私は心理士ですから診断は出来ませんが・・・・」という言葉はさまざまな場面で聞かれるし、心理士にとってはそう言うことが日本ではPC(ポリティカリーコレクト、政治的に正しい)なのだ。
この「心理士は医学について知ってはいけない、かかわってはいけない」ということから来る事情は、次のような漠然とした区別である。
精神科医=脳科学を知っている人間、心理士=脳科学を知らない人間

心理士が脳科学に関する無知を決め込むとしたら、それだけの根拠がある。彼らは知ることを止められているからだ。しかしでは精神科医は脳科学を知る人間、といえるのだろうか?建前上は、Yesでなくてはならない。何しろ薬を出すのだから。薬は脳に化学的に作用する。とすれば脳科学を知らずに薬を出せるわけがない。(化学と科学の違いはあるが・・・・。)
ところが実は精神科医は意外に脳科学を知らない。(そういう私も詳しくない。こんな偉そうな本を書いて恥ずかしい話だが。)一つ言い訳をすれば、多くの精神科の薬は、なぜどのように効くのか、ということが詳しくわかってはいない。それにもっと言えば、精神科の疾患がなぜ、どのように生じるのかもわかっていない。たくさんの仮説があるだけである。脳科学的に原因のわかっていない病気に、どのように働くかよくわかっていない薬を出す、ということをしているのだ。これが精神科医が必ずしも脳科学のエキスパートではなくても、曲りなりにも処方箋を書いて生計を立てることができている理由なのだ。
しかし、である。精神科医はどのような薬を使ったが人がどうなるか、については結構詳しい。毎日それをやっているからだ。脳科学的にどうなっているかは詳しく知らないが、結果としてどうなる、ということを知っている。これって結局間接的に脳科学を知っていることにならないか?たとえて言えばこんな感じである。脳はブラックボックスだ。中の構造はよく見えない。何となく輪郭が掴める程度だ。しかしそこにどのような薬物を入れたらどんな反応をするか、ということを経験的に知っている。これはある意味でブラックボックスの性質について知っていることになる。
それでは心理士は、このブラックボックスのことについて何も知らないのだろうか?おそらく。というより人はブラックボックスとしての脳を持った存在であるということを忘れるか、あまり考えないか、である。それを精神科医のように普段から扱うことが少ないからだ。そしてそれは心理士の多くは必要以上に心因論者であるということだ。これには少し説明が必要だろう。

落ち込んでいる人を見かけるとする。心理士は「何か面白くないことでもあったんだろうか?」とまず思うだろう。仕事に失敗したとか、奥さんに逃げられた、とか。ところが精神科医はもう一つ別の見方もする。「うつじゃないだろうか?」それはブラックボックスの中のセロトニンの量に異常があった場合にも落ち込むことを知っているし、それを調節するような抗鬱剤で、落ち込みが良くなるという例をたくさん見てきているからだ。

2012年6月2日土曜日

続・脳科学と心の臨床(9)-1


その後のチビはなんと、”critical but stable”な状態だ。一日二口、三口ほどの食事。立ち上がることもできずに、彼女は根性で生きながらえている。その生命力に驚く。私が時々声をかけると、尻尾の根元の筋肉が動いていることがわかる。「振っているつもり」なのだ。




精神分析的な無意識の見直し
BLの研究のこれ以上の詳細を解説する事が本書の目的ではない。これはミラーニューロンの発見にも言えることであるが、私たちが心のあり方を考える上で、これらの研究結果はある種当たり前のことへの確証を与えてくれているのであり、そのことの理解こそが重要なのだ。
BL
の実験が示す事柄が見直しを迫るのが、精神分析的な無意識の概念である。無意識はフロイトが100年以上前に提唱した精神分析の根幹に位置する概念である。フロイトは無意識に様々な欲動や願望やファンタジーが存在すると考え、それを精神分析療法により自由連想を通じて表現し、解放することが治療であると考えていた。この無意識の概念は現在でもそれが真っ向から否定されることはなく、精神分析の分野では依然として重要な意味を持つ。ただし分析以外の心理療法、たとえば認知行動療法などでは、無意識を実体化したり、そこを病理の源泉とみなすような傾向は影を潜め、その概念をバイパスし、自動思考、スキーマ、といった「意識外」の心の働きとして言い表すにとどまっている。
BL
の実験が示唆しているのは、いわば心の働きを意識的な活動に先立つブラックボックスにより始まるものとしてとらえているところがある。そのブラックボックスとは結局脳、ということになる。脳が活動を開始した後に意思が現れたり、創造的な活動が生み出される、というわけだ。ではそれはフロイト的な無意識とはどう違うのだろうか?
そもそもフロイトの無意識は意識化することに抵抗のある事柄が抑圧された結果として生まれたものである。だからこそそれは形を変えて、すなわち症状や、過ちや冗談などの形で表現されることを選ぶのである。すなわち無意識と意識とを分かつのは、抑圧という名のバリアーである。無意識内容は、たとえば象徴化、という変形を受けて意識内容に上る。
それに対してBLの示す脳と意識的な活動とにその種のバリアーを必ずしも想定する必要はない。BLの実験において「さあ、ボタンを押そう」という意思が生まれる際、先立つ脳の動きはそれを準備するという役割を追う。モーツァルトが「真夏の夜の夢」が頭から流れ出るままに大急ぎで楽譜に書き写した時、彼は無意識の生み出したものを意識し、追認したに過ぎない。ブラックボックスから意識的な活動に移行する際に特に一律に「変形」は考えないのだ。ただし意識的な活動は脳の活動を「自分の生み出したもの」(行動を行うという決断にしても、楽曲にしても)と思い込んでいる。いわば脳の活動が主であり、意識的な活動は従であり、一種の錯覚に過ぎないという考え方すら成り立つ。
このような心のあり方を一番うまく表しているのが、別の書でも紹介した前野隆司による「受動意識仮説」という理論である。前野氏の代表的な著書(2004)で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。

どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方があり、それは意識を持っているというのが一種の錯覚であると理解することだ。私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、あたかも能動的な体験として感じられているだけであるのである。
 「前野先生の心の理論を一言で言うと、それは『ボトムアップ』のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)」
「そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる『トップダウン』式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。」(以上「」部分は拙書「続・解離性障害」(岩崎学術出版社、2011)より抜粋。



2012年6月1日金曜日

続・脳科学と心の臨床(10)


面接者への教訓

BLの実験を知るようになってから、私はひとつ来談者に安心してもらうような話のテーマを増やすことができた。それは「私たちは死ぬ瞬間を体験しないで澄む」ということだ。これを話すと安心する人は少なくない。

10年以上前にニューヨークで起きた「911」の事件を今でも鮮やかに覚えている人は多いだろう。そして旅客機がビルに突入する映像を見て、それを操っているテロリストや、その乗客にわが身を置いたという体験がゼロの人はいないであろう。旅客機がビルの中腹に突入し、一瞬にして粉々になってビルの中に吸い込まれた。おそらく一秒の何十分の一かのうちに、人々の身体は、旅客機の期待とビルを構成している建材や中の家具、そして中で働いていた人々すべては、超高温で一瞬にして融合したわけだ。この苦しみを体験した人はいただろうか?たとえ一瞬でも?答えは「ノー」である。なぜなら人はそれを体験するまでに約0.5秒かかるから。乗客に、そしてテロリストに最後に体験されたのは、突入の0.5秒前までなのである。

もし私たちの死の恐怖が、その直前の極限に近い苦痛を体験することへの恐れにあるとしたら、それから私たちは実質的に解放されている。たとえ高いビルからまっさかさまに落ちて地面に身体をたたきつけられるとしても、その瞬間を体験するときにはすでに私たちは死んでいるのである。体中の骨が一瞬にして粉々になる際の極限の痛みを体験することは絶対にない。

最近家人に薦められて、「死に方のコツいう高柳和江著 小学館文庫、2002年)という本を読んだが、なるほど評判になる本だけあり、死ぬことへの恐怖がかなり軽減されるような考え方がたくさん書いてある。そこに私はこのBLの教訓を付け加えたいほどだ。

2012年5月31日木曜日

続・脳科学と心の臨床(9)

マインド・タイム ベンジャミン・リベ(ット)の示したこと

Benjamin Libet は知る人ぞ知る神経科学者である。1970年代に彼の行った実験は極めて画期的なものだった。ちなみに彼の名前を見ると私にはどうしても「リベ」(フランス語読み)と発音したくなる。彼の祖先はフランスから移民したはずだ。しかし正式には「リベット」らしい。(というよりアメリカではそれで通用しているらしい。何しろ彼の実験について書かれた「マインドタイム」(下條 信輔訳、岩波書店、2005年)の訳者の下條先生も「リベット」と書いているのだ。そこで妥協して以下はBLと表記させていただく。
実は私はBLの実験のことをよく理解してはいない。初めて読んで10年以上経っているが、どうしてもわからないことが出て来る。ただしこれだけは確かだということをまとめると次のようになる。
「行動を起こそうと思った瞬間には,脳はすでにその行動に向けての活動を開始している。約0.5秒前に、脳は意図的な行動の準備を始めている」
BLの実験は、極めて精密に作られた時計を前にして、被検者に指を動かす実験をしてもらうというものだった。彼は指を動かそうと思った瞬間を正確に記録できるようにして、その人の脳波を取ってみると、脳波はその「瞬間」の0.5秒前に活動を開始していることに気付いたのである。BLが特に関心を持ったのは、私たちがあることを意識する、気がつく、ということと脳の働きとの時間的な関係だった。どうやら私たちが何かを意識するそれ以前に、脳はそれを扱い始めるらしい。ということは脳を動かしているのは私たちの自由意志ではない?…
BL
は大脳皮質を直接刺激するという実験もしている。手術のために開頭している患者に協力を依頼したのだ。大脳皮質に弱い電流を流してみると、それを0.5秒以上刺激しないと、その人はそれに気がつかなかったという。(しかしどんな麻酔の仕方をしたのだろう?)そしてその大脳皮質に神経を送っている身体の部位、例えば腕を刺激してそれが脳に達して0.5秒以上立たないと、脳はそれを体験しないこともわかった。(つまりその腕の刺激が脳に達してから、ジーンと、少なくとも0.5秒は大脳皮質を刺激してくれるのだろう。そういうことになると私は理解している。)ちなみにこのBLの実験を非常に簡潔にまとめたサイトを見つけた。詳しくはそちらを参照していただきたい。 http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=63&l=23
しかし私自身にとっては、このBLの実験は非常に日常感覚にあう。たとえば私たちは創作活動をする人の多くが、内容が向こうからやってくる、という体験を語ることを知っている。明らかに脳ですでに作られたものがやってくる、と彼らは言うのだ。例えばモーツァルトは、一人でいる時に曲が浮かんでくるということがよくあったが、それをコントロールすることは難しかったという。しかし曲は出てくるときは自然に浮かんできて勝手に自らを構成していくという。そして楽曲がほぼ出来上がった状態でかばんに入っているのを次々と取り出して楽譜に書き写すだけ、というような体験をしたという。 Life Of Mozart (audiobook), by Edward Holmes.) そう、創造的な体験の多くは脳が勝手にそれを行っていて、意識は受け身的にそれを受け取るという感じなのだ。

2012年5月30日水曜日

続・脳科学と心の臨床(5)-1

彼の報酬系は「ハイジャック」されてしまうことがある



報酬系の話は実は精神科関係の疾患にとっても重要である。それは嗜癖の形成である。特定の薬物、特定の行為等で報酬系が強烈に刺激され、強い快感が体験されると、人はそれを追い求めるようになる。問題はその体験をしばらく繰り返すと、人はそれから逃れることがきわめて難しくなるということだ。嗜癖とはそれほど恐ろしい病なのである。


 先ほど「報酬系は中脳被蓋野から側坐核へ至るドーパミン経路である」という説明をしたが、その内容の細部を知る必要はない。ただし被蓋野からのルートの一部は、前頭前野にも及んでいる、ということは覚えておいていただきたい。前頭前野とは大脳皮質で、ここで生じたことは意識にのぼる。この前頭前野への投射は、いわゆる飢餓感や渇望に関係していると言われている。このルートにより快感の体験は、「もっと欲しい!」という渇望、飢餓感として意識されるわけである。そして今度はその前頭前野から側坐核へのグルタミン作動性のループが知られている。嗜癖ではこのループに重要な変化が生じていることがわかっている。そこが太いパイプのようになり、そこを強烈に信号が流れるようになってしまい、もうそれを変えることが出来なくなってしまうのだ。そして前頭前野で「~が欲しい」と思い浮かべることで、激しい渇望がわき上がり、それを止めることが出来なくなってしまうのが、この報酬系がハイジャックされた状態、つまり嗜癖が成立している状態なのだ。


私たちはたばこ(ニコチン)や酒(アルコール)やいわゆる麻薬(大麻、コカイン、アンフェタミン、ヘロイン,モルフィンなど。ただし正式な意味での麻薬 narcotics は阿片から生成されるもの、つまりヘロイン、モルフィン、コデイン系のもの及びその人口合成物質、つまりオピオイドのみをさす。日本語の用い方が不正確なのだ。 )によりその様な状態が生じることを知っている。しかしそれはギャンブルやゲームなどによっても生じうることが知られる。それらへの嗜癖が生じている人の報酬系の興奮をfMRIなどで調べると、興味深いことが生じている。それは彼らにおいては、普通の人にとっては快楽的なことも、報酬系に興奮が起こらないのである。例えばおいしいものを食べても余り喜びを得られない。普通のセックスでは快感は得られない。その時例えば煙草やアルコールや、その他の嗜癖になっているものを付け加えることで、初めて報酬系が通常通りの興奮するように出来ている。つまり嗜癖物質や行為を介さなければ、本来の快感を味わえなくなってしまっているのだ。


私たちは嗜癖を生じた人たちのことを、普通の人たちより享楽的だと感じるかもしれない。彼らは通常の人間よりより大きな快感を得ている、と。しかしそれは実は正しくない。彼らは普通の人が体験できるような満足体験を得らえず、不幸や苦痛を味わっているのである。そして人並みの快楽を得るために薬物や嗜癖になっている行為をするという極めて不幸な事態が生じているのだ。



面接者への教訓2) 


来談者と対面する時、彼がどのくらい人生で不可逆的な変化を被っているかを常に考えることは重要である。それはその来談者が背負っている運命のようなものであり、その部分を心理療法で変更したり修正したりすることは極めて難しいことだ。そこは「定数扱い」すべきなのである。


その不可逆的な変化は、以下の三つの可能性がある。一つはどのような深刻なトラウマを負っているのか。一つは幼児期の愛着対象との関係がどの程度深刻な阻害を受けていたか。これらの二つについては別の章で述べるとして、もう一点重要なのが、彼の報酬系がどの程度「ハイジャック」されてしまっているか、である。この状態は表からは見えにくいが極めて重要である。ある人が一見正常に話をしていても、その人がある種の嗜癖を持っている場合には、もはや正常な思考や行動は期待できない。その人においてはその思考や行動のおよそ全てが、嗜癖物質や行動に伴う快感を得ることを目指している。面接者がアルコール中毒の人にいかに生産的な人生設計を説いても、彼らはそれを聞いているふりをしても心の中では鼻であしらっているだけだろう。彼らの頭の中は、いかに面接者との話を適当に切り上げて、どこかで酒を手に入れるか、ということしかないのだから。


問題は報酬系がある強烈なターゲットを有した状態は、極めて強固で変更不可能だということをいかに理解しておくかである。嗜癖の脳科学を知らないと、そこで来談者を説得しかかったり、意志の力に訴えかけようとするかもしれない。あるいは嗜癖に負けてしまう来談者に対して叱ったり、面接者の言葉を軽んじていると被害的になったりもするだろう。でも面接者に必要なのは、来談者にとっておそらく唯一の救いの道である禁断 abstinence をいかに成し遂げるかを、来談者に冷静に考えることなのだ。また嗜癖に陥りかねない状態にある来談者に対して面接者が出来るおそらく唯一のこと。それは心理教育である。それは嗜癖の恐ろしさ、不可逆性について説くことである。嗜癖を回避するおそらく唯一の完璧な方法は、その嗜癖物質や行動にさらされないことである。君子危うきに近寄らず。


2012年5月29日火曜日

続・脳科学と心の臨床(8)


ミラーニューロンの機能不全としてのアスペルガー障害
決め手はオキシトシン、ヘパラン硫酸?

心の問題を考える人々はさまざまな仮説を設ける。私がミラーニューロンに絡ませて書いている事柄もそうだ。言語の習得に関しても、それがミラーニューロンと密接に絡んでいるという確たる証拠が示されていない以上、仮説的推論というわけである。
さてミラーニューロンの話がここで終わらないのは、現在さまざまな分野で関心を呼んでいるアスペルガー障害との関係でも、いろいろ仮説が考えられているからだ。アスペルガー障害については、それは精神科的な問題として理解するべきではあるが、世の中にはアスペルガー傾向を持つ人はゴマンといえる。中には男性のかなりの部分はこの問題を抱えている、という極端なことを言う精神科医もいる(あっ、私のことだった)。言うまでもなく、アスペルガー障害とは、発達障害のひとつとして考えられ、人の心が理解できない、空気が読めないということが主たる問題と考えられ、その意味でミラーニューロンの機能不全が起きているのではないかといわれている。そして事実それを示すようなエビデンスもある程度は出されているようだから、根拠のないことではない。
たとえば今年の427日に毎日新聞電子版に出ていた記事である。
 「金沢大の研究グループが26日、自閉症の症状改善に効果があるとされる脳内ホルモン「オキシトシン」が、自閉症の人に多い考え方や感じ方をする人に対し、効果があることを脳内の反応で確認したと発表した。同大附属病院の廣澤徹助教(脳情報病態学)は、「自閉症の人のうち、どんな性格の人に効果があるかが分かった。自閉症に起因する精神疾患などの治療にも役立てたい」と話している。オキシトシンは出産時に大量に分泌され、子宮収縮などに作用し、陣痛促進剤などに使われる。近年、他者を認識したり、愛着を感じるなどの心の働きに関連するとの研究報告も出ている。 研究グループは、20〜46歳のいずれも男性の被験者20人に「喜び」「怒り」「無表情」「あいまいな表情」の4種の表情をした37人の顔写真を提示。全員にオキシトシンを鼻の中へ吹きかけ、投与の前後で写真の人物の表情を見た時の脳の反応を、脳神経の活動を示す、脳内の磁場の変動を計る脳磁計で調べた。(以下略)
朝日新聞315日電子版には、こんなニュースも出ていた。
「自閉症、カギの物質発見 米研究所、マウスで症状再現自の主な三つの症状「社会性の低下」「コミュニケーションの欠如」「強いこだわり」をすべて発症するマウスを、米サンフォード・バーナム医学研究所が作った。カギは神経の伝達にかかわる物質「ヘパラン硫酸」。自閉症に関係する物質や遺伝子は複数見つかっているが、すべての症状を併せ持つようなマウスができたのは珍しい。自閉症の原因解明につながると期待される。ヘパラン硫酸は、情報伝達をする脳の器官の発達を促す物質。研究所の入江史敏研究員らが遺伝子を操作して、この物質を作れなくしたマウスは、脳の構造は正常だが、仲間には無関心で、知らないマウスを見ると何もせずに逃げ出した。複数の穴があるのに、一つだけに執着していた。ヘパラン硫酸は、自閉症の原因と考えられている複数の分子とくっついて、その働きを制御していると考えられている。そのため、これがないと複数の症状が出るらしい。」

これらの研究が興味深いのは次の点である。自閉症やアスペルガー障害とは、脳の構造上の問題ではないという可能性がある。わかりやすい最近の言葉で言えば、配線 wiring の問題ではないという可能性がある。つまりこういうことだ。統合失調症の場合には、胎生時に脳の細胞の配列が生じる時点ですでに以上があったのではないか、思春期に脳細胞のシナプスの間の剪定が過剰に起きてしまったのではないか、などの仮説がある。つまり配線の異常が起きているのではないか、ということだ。当然発達障害系についても、同じような仮説が成り立つ。というより発達障害の場合にはこの配線異常はより明確に起きている可能性があると考えていい。なぜなら発達障害はごく幼少時からその異常が見られるし、基本的にはその障害は一生ついて回ると考えられるからだ。それに比べて統合失調症は、ある時期まではかなり正常に近い精神機能を維持する点で、配線には問題なく、むしろそこを流れる電流の問題ではないかと考える方がより理屈に合うわけだ。(ここでいきなり電流、という表現が出たが、これは配線異常との対比で考えている。いわゆる神経伝達物質などは、この電流系の問題ということになる。たとえばセロトニン系の配線に電流があまり流れないとうつになる、というわけだ。←本当はこれよりはるかに複雑だが、一応単純化した言い方をしておく。)
ところが発達障害の代表であるアスペルガー障害の症状が、ある物質の投与により回復するとしたら、これはやはり配線以上ではなく、電流以上、ということにもなるだろう。これは少し予想外のことなのだ。

2012年5月28日月曜日

続・脳科学と心の臨床(7)


いや「『想像』するわけではない」、というのは言いすぎかもしれない(と、さりげなく昨日書いた文を修正。)人の痛みをわかるという上で、想像は重要な要素であろう。しかしそれ以上のもの、あるいはその想像を生み出す生物学的な基盤となるものがミラーニューロンという形で私たちの脳に備わっているのだ。
想像以上の機能を果たすミラーニューロン、ということについて説明するときに私がいつも持ち出すのが、言語の習得のプロセスである。たとえば英語のRLの発音の区別がつかない日本人は多いが、それは私たちが思春期以降に外国語として英語を習得する場合が圧倒的に多いからだ。語学として勉強する英語の発音は、教室で先生の出した音をまねることから始めなくてはならない。これはミラーニューロンをほとんど介さない習得の仕方だ。中学1年生を前に初めての英語の授業でRの音を出す練習をするとなると、生徒はその音がどのように出ているのかを頭の中でいろいろ想像する必要がある。それでも足りないと、英語の教師はそれこそ口の中で舌の先をどこに持って行くかという解説を具体的にする必要が生じる。これはこの時期にはすでにミラーニューロンが活用できない時期になっているからであると考える。
 しかし幼少時に習得する外国語は全く異なったプロセスを経る。生活の中で聞いたRLは模倣しようという意図を介さずに舌先から出てくるだろう。ミラーニューロンの働きを考えることなくこのようなプロセスを考えることなど出来ないのである。
面接者への教訓
ミラーニューロンについて知ることは、共感ということを考える際に一つのヒントを与えてくれる。表題に「他人の気持ちは分かって当たり前」と書いたが、これはもちろん少し奇をてらった書き方だ。いつも私はバイジーさんたちに「人の気持ちなどわからない、わかったつもりになってはいけない」と言っている。だからこんなことを言うと「ではどっちが本当なんだ!」と言われそうだが、どちらも本当なのである。
ミラーニューロンが働くのは、私たちが他人の意図を読み取ったと思えた時である。(言い忘れたが、ミラーニューロンはたとえはサルが他のサルや人の行動の意図を把握したときに興奮する。パントマイムにはサルのミラーニューロンは反応しないことが知られているのだ。)その時はそれを実感と共に感じ取ることが出来る。しかしそこには読み違えが生じるかも知れない。映画のシーンを見て涙ぐんでいる人を見て、自分もジーンと来たとしよう。でもその人は映画が退屈でちょうどアクビを噛み殺したせいで涙を浮かべていたのかもしれない。そうするとこれはミラーニューロンの誤作動と言うことにもなる。それに人の行動はさまざまな動因や目的を含むことが多いため、いくらミラーニューロンを備えていても、他人の心の中をすっかり写し取ることなど出来ようもない。すると思考の方向性としては、こうなる。「他人の気持ちはわかって当たり前なのに、どうして私たちはここまで人を誤解するのだろうか?」すると「人の気持ちなどわかったつもりになってはいけない」という主張とあまり変らなくなる。
ミラーニューロンの話に乗せて私が主張したいのはこういうことだ。ミラーニューロンは、目の前の他人の意図やおかれた文脈を理解し、実感することを助けてくれる。その意味では来談者の話を聞きながら面接者がもらい泣きをしたり、一緒になって腹を立てたりすることは自然に起きていい。精神分析ではそれを「逆転移」と読んだり、「自分自身を客観的に見られていないからだ。ブンセキが足りない」、と言われたりするかもしれないが、そんなことはない。要はそれを行動化せずに用いることだ。私は常々考えている面接者の備えるべき「探索子」や「受信装置」のようなものがミラーニューロンに相当するのではないかと思う。人の気持ちになった時に振れる怒りや悲しみの針。それを用いることはある意味で的確に治療を進行させてくれるだろう。例えそれが「誤作動」であっても。来談者が悲しい話をしていてこちらのミラーニューロンがその悲しみを捉え、ふと見ると来談者は少しも悲しそうに見えなかったとしたら、そのギャップもまた何か重要なものを示していることになる。