2025年7月12日土曜日

週一回 その26

少しずつ続けていくうちに、いつの間にかこの文章もまとまってきた。

総合考察

  最後に現代的な視座から見た「週一回」についての総合的な論述を行う。

 第一章では、我が国の「週一回」に関する「コンセンサス」すなわち「週一回では、治療作用として転移解釈を用いる本来の精神分析的な治療は難しい」に関して、二つの問題点を指摘し、さらに第二章では我が国の「コンセンサス」に見られる治療頻度や治癒機序に関する議論が、海外における現代の文献ではどのように扱われているかについての検討を行った。

 そのうえで改めて第一章で掲げた二つの問題点について検討を加えよう。まず第1点の「週一回」か「週4回以上」という線引きについては、欧米圏での議論の傾向としてはそれが対立軸としての意味を持つような厳密な区分は見られない。そこには精神分析と精神分析的精神療法は基本的に類似のものであり、それらが一つの「精神分析的様式の治療」(Kernberg)としてとらえられる傾向が関係しているからであろう。そしてそのような考え方の背景にあるのは、治療者の介入の表出的―支持的連続体の概念であり、週一回の治療は解釈的なアプローチは相対的にあまり用いられない支持的療法に相当するが、依然として精神分析的様式として認められ、我が国の「コンセンサス」に見られる「週一回」を分析的とみなさないという排他的な姿勢とは異なるのである。


(以下略)


2025年7月11日金曜日

週一回 その25

 この論考の推敲も長いが、少しずつ修正は続いている。ここで紹介するHPの日本語訳もより正確なものにした。

なお精神分析的精神療法の介入の仕方や頻度に関しては、国際精神分析協会や米国精神分析協会のホームページが最近の動向を反映していると見なすべきであろう。  米国精神分析協会APsAのホームページには以下のような記載が見られる。

「精神分析的精神療法の治療方法は精神分析の理論と技法に基づく。主たる相違点は、患者と分析家の会う頻度がより低く、時には週に一度のみであることである。精神分析と同様、セッションの頻度は患者のニーズに応じてカスタマイズすることが可能である。もう一つの相違点は、患者は治療者が視野に入らない形でカウチに横になるのではなく、通常は椅子に座り治療者との対面で行うことである。(令和7年5月20日にHPより転記https://apsa.org/about-psychoanalysis/#toggle-id-2)


<以下略>

2025年7月10日木曜日

週一回 その24

 海外における面接の頻度や治癒機序に関する理論 

 ここまでで論じた我が国における「コンセンサス」(「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」)は海外での精神分析の議論にも同様に見られるのであろうか?それがこの章で論じるべきテーマである。

 まずは我が国の「コンセンサス」の議論の前提となる「ヒアアンドナウの転移解釈」に関する議論の歴史について触れる必要がある。米国においても Strachey により提唱された転移解釈(変容惹起性解釈)の重要性についての議論は、Merton Gill のヒアアンドナウの転移解釈の議論に引き継がれることで「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)と言われる。そしてよく知られる1960年代からのMenninger Clinic における精神療法リサーチプログラム(以下「PRP」)においても「ヒアアンドナウの転移解釈が絶対的に主要な absolutely primary 技法である」 という Strachey および Gill の提言は、一種の「信条 credo」として謡われていたという(Wallerstein p55)。
  しかしこのPRPの研究の結果としてヒアアンドナウの転移解釈の絶対性ということは証明されず、治療はケースによりそれぞれ独自であり、解釈による洞察以外にも様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということが示されたという。そしてPRPの研究結果の一つのエッセンスは「支持的治療は、高度に表出的な治療や探索的な治療と同じくらい長持ちする構造的な変化をもたらした」(Wallerstein, Gabbard)ということだったのである。


(以下略)

2025年7月9日水曜日

週一回 その23

 週一回に関する「コンセンサス」とPOST

 以上に見た藤山氏の提言と高野氏、岡田氏の論文は、いずれも「週一回」においては、Strachey により提唱された精神分析的な治療作用としての転移解釈を行うことの難しさや困難さについて論じていた。そして我が国における最近の「週一回」についての議論もおおむねその考えに賛同し、受け入れる方向に向かっているという印象を受ける。  山崎氏(2024)はこれまでの「週一回」に関する議論を総括したうえで、「『週一回』は『分析的』にするのは難しいという結論が出ているといっていいだろう」(2024,p20)。とし、これが最近の複数の分析家や精神療法家の間のコンセンサスであるという考えを示す。そしてそれにもかかわらずこれまで彼らの多くが「『週一回』は『分析的』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきた」のだという(2024,p19)。  ここで理論的な整理のために、この山崎氏の示す「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」という現在の療法家が下した結論を「コンセンサス」と言い表して論を進めよう。この「コンセンサス」を正確に言い直せば、「週一回では、治療作用として転移解釈を用いる本来の精神分析的な治療は難しい」となろう。  そのうえで山崎氏が提案するのは、精神分析との違いを明確にしたうえで、「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えることである。これは上で見た高野氏や岡田氏の論文にもみられる方向性に近い。山崎氏は便宜的に「週一回」を【精神分析的】心理療法と精神分析的【心理療法】とに分ける(2024,p22)。このうち前者は「週一回」でも分析的にできる、という平行移動仮説水準のレベルに留まったものであり、後者はPOST(精神分析的サポーティブセラピー)に相当すると述べる。つまりは「週一回」を「コンセンサス」をもとに概念化したものが、POSTと考えることが出来るのだ。

(中略)


 我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界


 これまでに見た我が国の「週一回」の議論および「コンセンサス」は、山崎氏その他の検証に示されるように、ある一定の学問的なレベルに至っていると考えられる。そこでの「コンセンサス」、すなわち「週一回では、治療作用として転移解釈を用いる本来の精神分析的な治療は難しい」ことの根拠としては、週4回という治療構造では供給が十分であり、容易に転移の収集が出来るが、「週一回」ではそれが難しいということである。


(以下略)

2025年7月8日火曜日

男性の性加害性 2

 男性の性加害性のスライド、結局こうなった。






 

2025年7月7日月曜日

週一回 その22

「週一回」の地道な見直しが続く。もうこの論文を書きだしてから二月以上たっている気がする。

「週一回精神分析的サイコセラピー」― 現代的な立場からの再考

1.はじめに

 この論考は我が国の精神分析学の世界において過去10年あまり継続的に議論が行われている「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関して、 現代的な精神分析理論の立場から再考を加えることを目的としている。

 このテーマについての議論は精神分析学会で一つの盛り上がりと学問的な進展をもたらしている。その一連流れを俯瞰した場合、そこに様々な議論が存在するものの、全体としてある方向性や考え方が一定の支持を得ているようである。それは精神分析本来の意義や有効性が発揮されるためには、週4回以上のセッションによる精神分析を行うことを前提としたものであるというこであり、週一回という低頻度の精神療法を同様に精神分析的に行うことは非常に難しいという考え方である。それは論理的に一貫し、整合性のある議論と言える。しかし一方では精神分析理論を学び、その影響下にある治療者が行う治療的な関わりの大多数が、週一回ないしはそれ以下の頻度で行われているという現実がある。そしてそれらの低頻度の精神療法において精神分析的な理解やそれに基づく技法の有効性が制限されるとしたら、それは非常に残念なことと言うべきであろう。
 現代の精神分析は近年大きな理論的広がりを見せ、いわゆる治療作用に関しても様々なモデルが提案されている。そして海外の文献を参照しつつ、より広い視点から週一回の精神分析的な精神療法の妥当性について検討を加える価値があろうと考えたことが、筆者が本稿をまとめるに至った主たる動機である。

2.「週一回精神分析的サイコセラピー」をめぐる我が国の議論

「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関しては、それを包括する内容の学術書(高野、山崎編、2024)が近年出版され、またいわゆる精神分析的サポーティブセラピー(岩倉ほか、2023)の議論も深くかかわっている。我が国における若手の精神分析的な臨床家たちが共通のテーマについての議論を重ね、一つの流れを生み出していることは非常に心強い限りである。

(以下省略)

2025年7月6日日曜日

男性の性加害性 1

 「信頼していた男性がなぜ豹変して加害的になるのか?」「一見普通の男性の起こす性加害行為」

このようなタイトルにしたのは、この点が臨床上もっとも重要だからである。というのも臨床で出会う性被害の犠牲者たちが最も頻繁に口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性が、なぜ性加害を及ぼすのかがわからない、ということである。つまり「一見普通の男性の起こす性加害行為」である。そしてそれを説明する上での一つの概念が「自己強化ループ」というモデルである。しかしその前に少し概念的な整理が必要である。 そもそも男性が侵す様々な性加害ないしは性犯罪の問題は社会で様々な形で問題とされてきている。そして性依存 sexual addiction の概念もその一つといえる。そしてこの概念はとても重要なツールになるものの、同時に非常に混乱を招く概念でもある。 性依存症という言葉が意味するのは、性行動がある種の嗜癖となって様々な問題を引き起こすということである。この性依存は例えば薬物依存やギャンブル依存などと同様にある種の病的な状態とみなされ、本人は嗜癖となっているその性行動を抑制するのが難しく、それが性加害を含む様々な問題につながるという考えである。 ただしこの性依存症という概念が議論の対象となっているのは、それが性加害行為を行う男性を免責する可能性があるからである。依存している薬物に手を出さずにはいられず、それが一種の病気であり、精神障害の一つであると考えることは、性加害者に法的な責任を問うことをむずかしくすると考える人も少なくないだろう。ただしここで重要なのは、再犯を繰り返すいわゆる性犯罪者の中で性依存症の人の占める割合はごく一部であるということだ。 まず基本に立ち返ろう。単に性欲が強いというだけで性依存症ということにはならず、それが自分や他者に苦痛を引き起こすことにより初めてそう呼ばれるものになる。しかし性的欲求は人間に自然に備わったものであり、それの依存症は科学的に確認されないという指摘もある。 Prause, Nicole; Janssen, Erick; Georgiadis, Janniko; Finn, Peter; Pfaus, James (1 December 2017). “Data do not support sex as addictive”. Lancet Psychiatry 4 (12): 899.

 B. R. Sahithya; Rithvik S. Kashyap (2022/05/16). “Sexual Addiction Disorder— A Review With Recent Updates”. Journal of Psychosexual Health 4 (2).^ Grubbs, Joshua B.; Hoagland, K. Camille; Lee, Brinna N.; Grant, Jennifer T.; Davison, Paul; Reid, Rory C.; Kraus, Shane W. (2020). “Sexual addiction 25 years on: A systematic and methodological review of empirical literature and an agenda for future research”. Clinical Psychology Review (Elsevier BV) 82: 101925.

しかしおいしいものを食べたい、ほしいものを求めたいという願望も自然なものであるが、その欲求をコントロールできず、その結果として自分や他者に苦痛や迷惑を与える行動を私たちは知っている(過食症、買い物依存、その他)。人間が本来自然に持つ願望が度を超えて抑制が効かなくなる病態を私たちは経験しているのであり、性的願望にも同様の依存状態が存在することを認めることは自然であろう。 そこでまず性依存という概念について調べる。すると例えば次のような記載を見かける。「国際的な診断基準であるICD-11では、これらの症状は性嗜好障害や強迫的性行動症として分類されます。」つまり性依存=性嗜好障害+強迫的性行動症 というわけだが、性嗜好障害とはいわゆるパラフィリア、分かりやすく言うと「変態」と呼ばれる類のもの、すなわち盗撮、痴漢、露出、覗き、下着の窃盗、児童への性的関心、また強迫的性行動症とは例のポルノ依存のような状態を言う。すなわち性依存には私たちが最も関心を持つ問題、すなわち「一見普通の男性が起こす性加害」をこれらは掬い上げていないのだ。