2017年12月12日火曜日

パラノイア 4

人の心を読みすぎる病理としてのパラノイア

私たちはしばしば他者の気持ちを予想し、あるはそれに同一化して、それに応じて自分の振る舞いを決めることがある。人の心を読むという私たちに本来的に備わっている性質がパラノイアにも深く関係しているのだろう。しかしここで問題がある。人の心を読むという傾向と、その正確さが一致していなかったらどうだろう?
この問題は解離傾向とAS傾向の違いという文脈で私も論じたことがある。解離傾向の強い人の中には、他者の感情や考えが直接入ってくるほどの強い影響力を持つ。涙を流している人を前にして、自分も涙を浮かべるというところがある。他方AS傾向のある人については、読めないものを読む、読みすぎるということがある。その結果としてAS傾向を持つということとパラノイア傾向は非常に近いということになる。こう言うと極端すぎるだろうか?他人の心の理解には二つの経路がある。情緒的な経路と認知的な経路と。前者は内側前頭前野、後者は背外側前頭前野ということだったかな。ASは前者に乏しく、後者一本でがんばっているというところがある。そして高知能ASとは、後者がずば抜けていることになるが、するとほとんど普通の社会生活が送れてしまう可能性もある。しかし基本は知的な推論で人のことを読んでいることになる。するとそこにはあたりはずれが付きまとう。ここでひとつの問題が生じる。どうしてASにおいては、それが被害妄想という形をとりやすいのであろうか?
漱石はアスペルガーではないだろうが、彼の人生においてさまざまな被害妄想的な言動があったことが知られる。(そのために彼はある病跡学者によって統合失調症と考えられていた。私は信じないが。)彼の例を取ろう。ネットで拾っただけでも次のようなエピソードがある。

l        妻子と火鉢に当たっているとき、ふちに小銭が置いてあるのをみて、発作的に三歳の長女を殴る 
l        自分が片思いしている美女の母親が尼さんに自分をスパイさせていると妄想 
l        向かいの下宿やの二階に住んでいる学生のことを、自分を監視している探偵だと思い込む 
l        朝食事の前に書斎の窓の敷居に乗って「探偵君、今日のお出かけは何時だ よ」と大声で怒鳴っていた 
たとえば火鉢のふちに置いた硬貨を見て悪意をそこに見出す。そのときたとえば「この五円玉は誰かが私の幸せを思っておいたのだ。ありがたいなあ。」とは絶対にならないのである。いや、絶対とはいえないが。必ず誰かからの悪意をそこに想定する。
いや、しかしこんな例もあったそうだ。
l        若い頃一度見かけた女の魂が、ある女優の中に生まれ変わったと信じて彼女を愛した 
これはパラノイアとはいえないだろう。むしろ恋愛妄想の方向に近いか。確かにいえることは、パラノイアは、ある危険の兆候をいち早く察知し、手を打つことでそれを未然に防ぐという意味を持つ。それはそれでその個体の生存率を高めていたはずである。

漱石の例を出すことでASの問題から離れたが、私がいつも提唱している仮説はこうである。ASにおいては、人の善意を身代わり体験することが非常に難しい。すると人の行動は基本的には自分に対する加害行為か、あるいは自分には無関係のものか、ということになる。つまり他人に感謝するということが少ない分、被害的な傾向が強くなるということだ。理屈としてはこうなるだろう。隣人とは基本的にwin win でバランスが取れている。感謝することもあれば、腹が立つこともある。「こんなこともする人だけど、こんないいところもあるよな。」でバランスをとっていくものだ。しかし後者の要素がかけてしまった場合、かなり被害的な対人関係、ないしは世界観の色彩が強いことになるだろう。

2017年12月11日月曜日

愛着と精神分析 5

アラン・ショアの提唱する新しい愛着理論
神分析における愛着理論をその高みにまで進めた人としてアラン・ショアの名を挙げたい。ショアは愛着と分析理論と脳科学的な知見の融合を図る。早期の母子関係は現在は脳科学的な研究の対象ともなっているのだ。早期の母子間では極めて活発な情緒的な交流が行なわれ、両者の情動的な同調が起きる。そしてそこで体験された音や匂いや感情などの記憶が、右脳に極端に偏る形で貯蔵されているという。愛着が生じる生後の2年間は、脳の量が特に大きくなる時期であるが、右の脳の容積は左より優位に大きいという事実もその証左となっている (Matsuzawa, et al. 2001)。このように言語を獲得する以前に発達する右脳は、幼児の思考や情動の基本的なあり方を提供することになり、いわば人の心の基底をなすものという意味で、ショアは人間の右脳が精神分析的な無意識を事実上つかさどっているのだと主張する。
 右脳はそれ以外にも重要な役割を果たす。それは共感を体験することである。その共感の機能を中心的につかさどるのが、右脳の眼窩前頭部である。この部分は倫理的、道徳的な行動にも関連し、他人がどのような感情を持ち、どのように痛みを感じているかについての査定を行う部位であるという。(わかりやすく考えるならば、脳のこの部分が破壊されると、人は反社会的な行動を平気でするようになるということだ。)その意味で眼窩前頭部は超自我的な要素を持っているというのがショアの考えである。
 さらには眼窩前頭部は心に生じていることと現実との照合を行う上でも決定的な役割を持つ。これは自分が今考えていることが、現実にマッチしているのかという能力であるが、これと道徳的な関心という超自我的な要素と実は深く関連している。自分の言動が、今現在周囲の人々や出来事とどうかかわり、それにどのような影響を及ぼすのか。この外界からの入力と内的な空想とのすり合わせという非常に高次な自我、超自我機能を担っているのも眼窩前頭部なのである。
 ここでショアの提唱する無意識=右脳、という意味についてもう一度考えてみよう。一世紀前に精神分析的な心についてのフロイトの理論が注意を促したのは、私たちが意識できない部分、すなわち無意識の役割の大きさである。フロイトは無意識をそこで様々な法則が働くような秩序を備えた構造とみなしたり、欲動の渦巻く一種のカオスと捉えたりした。これはフロイトにとっても無意識はつかみどころがなかったことを示している。夢分析などを考案することで、彼は無意識の心の動きに関する法則を発見したかのように考えたのだろうが、決してそうではなかった。それが証拠に夢分析はフロイト以降決して「進歩」したとはいいがたい。つまりフロイトの時代から一世紀の間、無意識の理論は特に大きな進展を見せなかった一方で、心を扱うそれ以外の領域が急速に進歩した。その代表が脳科学であり発達理論なのである。
 以下「愛着トラウマと発達する右脳」(Schore, 2009)を参考にする。
ショアの愛着理論の中でも注目すべきなのは、「愛着トラウマ」という概念である。愛着関係は、それが障害された場合に乳児の心に深刻な問題を来たす。そしれそれは具体的な生理学的機序を有している。母親に感情の調節をしてもらえないことで乳児の交感神経系が興奮した状態が引き起こされる。そして心臓の鼓動や血圧が高進し、発汗が生じる。しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。すると今度は逆に鼓動は低下し、血圧も低下し、ちょうど擬死のような状態になる。この時特に興奮しているのが迷走神経系の中でも背側迷走神経(Porges, 2001)である。そしてショアはこの状態として解離現象を理解する。そしてこれがメアリー・エインスウォースのいわゆるタイプ D の愛着に対応するのである。
 ストレンジ・シチュエーションにおいては、このタイプDの子供は非常に興味深い反応を見せる。タイプA, B, Cの場合は、子供は親にしがみついたり、怒ったりという、比較的わかりやすいパターンを示す。しかしタイプDでは子供は混乱や失検討を示す。そしてショアによれば、この反応は解離と同義でり、虐待を受けた子供の80パーセントにみられるパターンであるという。つまりこのタイプDのパターンを示す子供の親はしばしば虐待的であり、子供にとっては恐ろしい存在なため、子供は親に安心して接近することが出来ない。逆に親から後ずさりをしたり、他人からも距離を置いて壁に向かっていったり、ということが起きるのだ。
 このように解離性障害を、「幼児期の(性的)トラウマ」によるものとしてみるのではなく、愛着の障害としてみることのメリットは大きい。そして特定の愛着パターンが解離性障害と関係するという所見は、時には理論や予想が先行しやすい解離の議論にかなり確固とした実証的な素地を与えてくれるのだ。
 このタイプ D について一言付け加えるなら、ショアはこれを示す赤ちゃんの行動は、活動と抑制の共存として特徴づけられるとする。つまり愛着対象であるはずの親に向かっていこうという傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。ちょうど「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」と考えると分かりやすいかもしれない。そしてそれが、エネルギーの消費を伴う交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方が同時に賦活されている状態であり、解離症状を特徴付けているという。
 このタイプDに類似の反応を示す子供については、エドワード・トロニック E.Tronick らによる、いわゆる「能面パラダイム still-face procedure」の研究がある(Hesse, E., & Main, M. 2006).)。それによれば、子供に対面する親がいきなり表情を消して能面のようになると、子供はそれに恐れをなし、急に体を支えられなくなったり、目をそらせたり、抑うつ的になったり、といった解離のような反応を起こすというのだ。
 このタイプ D の愛着の概念が興味深いのは、そこで問題になっている解離様の反応は、実は母親の側にもみられるという点だ。母親は時には子供の前で恐怖の表情を示し、あたかも子供を恐れ、解離してしまうような表情を見せることがあるという。そして母親に起きた解離は、子供に恐怖反応を起こさせるアラームとなるというのだ。
 このことからショアが提唱していることは以下の点だ。幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。それはより具体的には、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられる、ということである。ちょうど子供が母親の発する言葉やアクセントを自分の中に取り込むように、脳の発火パターンそのものをコピーする、と考えるとわかりやすいであろう。そしてこれが、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。それは一種刷り込みの現象にも似て、親の右脳の皮質辺縁系の回路が子供のそれに写し込まれるようにして成立するというわけである。


愛着と右脳
愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、早期の発達過程における右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の働きの同調により深まっていく。親は視線や声のトーン、あるいは体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は、母親の安定したそれらの状態によって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かい、それとともに子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのである。
 逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが一種の右脳の機能不全を解して解離の病理につながっていく。ショアはこのことを、人間が生後の最初の一年でまず右脳から機能を発揮し始めるという事実と関連付ける。愛着がきちんと成立することは、右脳が正常な機能を獲得したということを意味する。子供が成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が備わり始めるのは、4,5歳になってからだが、それ以前に生じたトラウマは、記憶としては残らないまでも、右脳の機能不全という形で刻印を残していく。上記のD型の愛着パターンは、右脳の独特の興奮のパターンに対応し、それがフラッシュバックのような過剰興奮の状態と解離のようなむしろ低下した活動状態のパターンの両方を形成する可能性があるというわけだ。
 通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫 soothing が得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。しかしD型の愛着が形成されるような母子関係において、その慰撫が得られなかった際に生じると考えられるのがこの解離なのだ。それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることが出来るだろう。
 そしてこのように解離は特に右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もあるという。
 ここでさらにショアの説を紹介するならば、右脳は左脳にも増して、大脳辺縁系やそのほかの皮質下の「闘争逃避」反応を生むような領域との連携を持つ。これは生後まずは右脳が働き始めるという事情を考えれば妥当な理解であろう。そして右脳の皮質と皮質下は通常は縦に連携をしているが、この連携が外れてしまうのが解離なのである。ここで大脳皮質というのは知覚などの外的な情報のインプットが生じる部位だ。それに比べて皮質下の辺縁系や自律神経は、体や心の内側からのインプットが生じる場所である。そして皮質はその内側からのインプットを基本的には抑制する働きがある。そのことは、この抑制が外れるとき、例えばお酒を飲んだ時にどうなるかを考えればよりよく理解できるだろう。

2017年12月10日日曜日

パラノイア 3

パラノイド的なナラティブは、一種の天啓として現れる

私の印象では、パラノイアというのは、一気に嵌るものである。何かたくらみが行われているのではないか、という疑念は皆が持つことがあるだろう。しかしパラノイアには、それが一瞬にして結晶化され、「そうだったんだ」という確信に近い考えに至らせる。その意味では直感、洞察、というものに近い。ノーベル経済学賞受賞の、ジョンナッシュの半生は、映画「ビューティフル・マインド」に描かれている。彼は敵国の暗号解読を任せられており、そのために敵国のスパイに狙われているという被害妄想を抱く。そして自分の被害妄想について聞かれた時に、それは天啓のように、ちょうど数学の発見と同じような感じで自分に降りて来たと言ったという。突然現れ、その信憑性が確信されるような着想なのである。(この部分、どこかで読んだのだが、出典が示せない)。この一本の作図線 construction line が引けたとき、人はそれにはまり込んでしまう。一種の結晶化に近い。するとそれを修正することは容易ではなくなる。突然その図式からしか世界が見えなくなる。それまでのその人の振る舞いや言動は、ことごとく偽りで、相手を利用するための意図を持っていたものとして捉えなおされるのである。
 被害妄想的な世界の捉え方として、自分は利用されているという確信がある。たとえばお互いに相手に惹かれて結婚したり、協力関係に入ったはずなのに、「実は相手は私を利用していたのだ」「自分の出世のための道具として使われていたのだ」と確信する。ところが問題は、「相手は自分を利用していたのだ」という命題は、ある意味では論駁が不可能だということである。人間関係は、基本的にはwin-win をベースにして展開する。それはおそらく微妙なバランスを保っている。株の売買と似たような関係だろう。そしてそれは回顧的に見るならば、いとも簡単に「実は私に不利であるにもかかわらず、有利だと思い込まされて結んでいた関係」に見えてしまう傾向にある。親が無力な子を100パーセント面倒を見ることで始まった親子関係でさえそうなのである。ある日子供は思う。「私はことごとく母親の操り人形として育てられたんだ。私がしたいことをさせてもらえたことがあるだろうか? 皆母親が私にさせたいことを、私がしたいように思いこませてやらせていたんだ。私の人生を返してほしい…」これにまともに反論することは、多くの母親にとっては難しいのではないか? 子供は更に言い募るのである。「私が勉強やピアノをしたくないというと、私を折檻したり、暴力をふるったでしょう? それが何より証拠じゃない?」確かに母親は子供の尻を叩いたかもしれない。でもここまで手塩にかけて育てたのに、当たり前のような顔をして、生意気にも口答えさえする子供に対して、育児放棄をしてしまわないために、自分の精神のバランスを保つために行った打擲かもしれない。これは親なりの win-win の保ち方だった可能性がある。(もちろん虐待は絶対にいけない。しかし…)ということで被害妄想的な発想はいったん生まれた以上、当人が理不尽に思っていた自らの人生を新しいナラティブで説明し尽くすのである。これをどうやって止めることなどできるだろうか?

人はなぜパラノイアになるのか、が問題ではない。人はどうやってパラノイアにならずに済んでいるのか? そちらの方が不思議なのである。

2017年12月9日土曜日

パラノイア 2

他人を疑い、常に天敵が自分を襲ってくることを警戒するのは、生命体にとって極めて重要なのだ。草食動物を見よ。常にきょろきょろビクビクし、肉食獣が迫りくる兆候に敏感になっている。外敵に対する注意を払うほんの合間だけ、草をはみ、水を飲むことが出来るのだ。もしそうだとしたら、パラノイアはどうして私たちにとって異常な状態と考えられるのだろうか? それは私たち人間は(そしておそらく動物も)敵にどの程度注意を払い、どの程度は警戒を解いて食事をし、睡眠をとるべきかの加減を知っているはずであり、その加減を失って過剰に被害的、防衛的になる様子がパラノイアとして観察出来るからだ。私たちの生命活動の大部分が天敵から身を守ることに費やされるとしたら、それによるストレスは私たちの寿命を極端に短くするかもしれない。テレビで野良猫と飼い猫の寿命の違いについて放映していたが、前者はそのストレスのせいで飼い猫よりはるかに短いという。うん、ネットで調べたらそう書いてあった。飼い猫は10年以上生きるのに、野良だと2~4年だという。そして多くの原因はあるものの、ストレスはその大きな要因であり、それによる免疫力の低下があげられるという。でも警戒心の強い猫がそれだけ殺されずに生き残っていくということにはならないのか? そうでない猫は子孫を残してさっさと死んでしまうということだろうか? 子猫の時に不用心で事故に遭ったり捕食されたりするよりは、とりあえず警戒心旺盛に生き抜き、交尾を2,3回余分にして子孫を残して死ぬ方がまだ生物学的に有利ということだろうか? ということは子孫を残すかどうかはともかく、長生きをしたいのであれば、被害妄想はあまり有利に働かないはずなのだ。個体として生き延びるためにはリラックスすること、あるいは不必要に警戒したり防衛的にならない方がいいのである。ということで人は警戒すべき人には適度な警戒をし、気を許せる相手には防衛を解く、というほどほどの人生を送ることで長く生きながらえていくのだろう。ところがある日突然、時には「どうしてあの人が?」と言われ、また「あの人には昔からそういうところがあった」と言われつつ、人はパラノイアのサイクルに入ってしまうことがある。なぜなのだろう。まだ全然本題に入っていないぞ。よくわからないからだ。そこで思いつくままに書くが、私の中ではパラノイアと恥とは結構近い位置にある。誰かに意図的に恥をかかされた、プライドを傷つけられたという種類のパラノイアはとても多い気がする。実例は一切出さないが、ある言葉が自分への当てこすりだったり、婉曲に自分のことを言っていたと「気がつく」類のパラノイアは、自分もそうだがその疑いをかけられた相手も大変である。それにおそらくそれを言った本人は気が付いていない。ところが誰かに深く恨まれてしまう。時には命を狙われることさえあるかもしれない。恨みを持った人が、場合によっては恨んだ相手を婉曲な形で中傷すると、今度はその人が不当に恨まれた、と思うかもしれない。何もないところから被害妄想が発展してしまうこともあるだろう。

ということで少し本題に近づこう。私は投影同一化(PI)という概念がとてもパラノイア的だと思う。PIとは精神分析の用語で、自分の中に、らしくないある感情が湧いた時、それが相手から投げ入れられたものとしてとらえることである。あるいはそのようなメカニズムを言う。土居先生はそれを「勘繰り」と言ったそうだが、そのように少し強引な仮説を設けることで人は何を獲得するのだろうか。それは「わかった」感であり、強力なナラティブの獲得なのである。ナラティブはそれほどに威力がある。それがどれほどにつらくても、恐ろしくても、それが世界で起きていることを説明してくれるのであれば、人はそれを喜んで受け入れるのである。

2017年12月8日金曜日

パラノイア 1

パラノイア
大変なことになった。パラノイアについて話さなくてはならないのに、全く当てもない。それをどうやって2時間の講義にするのか? 私たちは一応大学の教員ということもあり、とっかかりのあるテーマだったら、何かにまとめ上げることは難しくない。問題は自分にとって未知のテーマ、取り立ててそれについて考えたことがないというお題を与えられて、話さなくてはならない場合だ。それがこのパラノイア、ということである。そしてこの場合、このお題を私に頂いた方々も、「パラノイア」というテーマを選ぶ際にフカーイ意図があったというわけではなさそうである。ということでこのブログを借りるしかない。
パラノイア、被害妄想は体験としては極めてよくあるものだ。被害的になるのは人の常である。私の所属している沢山の団体の中で、被害妄想的な考え方が見られないというものなど考えられない。それに国と国の間もそうだ。二国間の関係など、パラノイア的な要素が見られない関係はあり得ないだろう。基本はパラノイア、なのだ。
思考実験だ。ある部族なり集団があるテリトリーを守っている。そこに外部からの侵入があった。それが力による侵入でもない限り、その集団が「ま、いいか。気にしないことにしよう。」となることなどあり得るだろうか? ある地形でかなりシンプルに分かれているテリトリーがあるとしよう。ある小川のこちら側の低地がわれらがA族。向こう側がB族。ところがB族とみられる人間が川を渡ってこちらにやってきて何かを物色している。たちまちA族の主だった人間は対策を考える。私はそのようなときは「まあ、いいんじゃないの?」と言い出して、「とんでもない!」と皆に言い負かされるタイプである。「放っておいたらこちらが侵食されてしまう。早いうちに食い止めておかないと。」これが正しい反応。動物界を見ればこれは絶対に起きる反応だ。なぜなら縄張り意識が強く、被害的な考え方を持つ個体こそが生き残ってきているからである。私のような「ナアナア主義」(こんな言葉あったっけ?)の人間は本来は淘汰されてしまうはずだ。だから現在生き残っている個体は押しなべて、相対的に利己的で被害的になりやすく、また好色なのである。「被害的」であることが、他者からの侵入の可能性を過大評価して自己防衛、他者の排斥に走りやすい傾向であるとしたら、それこそが生命体が生き残るための最も大事な要素の一つと考えていいだろう。

そうか、こんなはじまり方になるのか。

2017年12月7日木曜日

精神療法の倫理 (最終版) 後半

現代精神分析における「倫理的転回」の動き

歴史的に見て、精神分析の流れは心理療法一般の流れを先導する役割を担ってきたという側面があるが、現代的な精神分析理論、特に関係精神分析における倫理の問題の展開についても紹介しておこう。Hoffman,I(7)によれば、技法について論じることは、治療において弁証法的な関係を有する両面の一方にのみ目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動においては「技法的な熟練」という儀式的な側面と「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立している。ここで言う「技法」は、フロイトの提唱した治療技法に相当するが、Hoffman の説に従えば、それは分析家の行う患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎず、分析家の持つもう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、患者と同じ人間である、という側面に常に裏打ちされている。そしてこの二つの側面は、すでに述べた二つの倫理、すなわち慣習的倫理と道徳的倫理に対応すると考えられる。すなわち技法的な側面は、治療者としてなすべきことを行うよう促し、自発的な側面は「特殊な種類の愛情や肯定」を患者に提供する道徳的な配慮に対応する。そして Hoffman によれば、この倫理的な二両面もまた表裏一体の関係を有するということになるのだ。
 
以上の Hoffman の視点に反映されるように、精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことには、精神分析における新しい動きが関係している。富樫(12)は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回 ethical turn」という概念を紹介している。この倫理的転回は、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念に対応するものとして提唱された。関係論的転回は、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱う上での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在せず、むしろ治療場面における二者関係そのものに注目すべきであるという、新しい心の理解であった。その意味でこの倫理的転回は「精神分析の行動規範や価値観の転回」として言い表すことが出来るという。もちろんこの倫理的転回が直ちに治療者がいかに振る舞うかという具体的な指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の転換を反映するものであり、それは先に見た規範的な倫理から、より道徳的な倫理を加味した視点への発展的な転換と言い表すことが出来るであろう。このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち「理論に左右され過ぎてはならない」という項目とも一致するのである。


身近に出会う倫理性の問題の例
最後に精神療法を行う際に必要となる倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、三つを挙げて概説しておこう。

.インフォームドコンセント

治療者の側の倫理としてまず問題とされるのが昨今議論になる事の多いインフォームドコンセント(IC)であり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。ICとは患者に治療の選択肢としてどのようなものがあり、どのような効果やリスクが伴うのかを説明した上で、治療の合意を得るプロセスである。そしてその前提となるのが、患者の問題についての見立てを情報として伝え、必要に応じて心理教育を行なうという能力である。これらをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。ちなみにこのICの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。治療の内容についてあらかじめ患者に語ることは余計なバイアスを与え、治療者のブランクスクリーンとしての機能を損なうものと考えられる傾向にあったからである。しかし現代的な精神療法においては、治療者側がより謙虚に自ら行う治療のメリットとともにその限界を把握する姿勢が求められているのである。

.個人情報と症例発表の承諾

学会や症例検討会などで症例の報告及び検討は欠かせないものであるが、実はその際に患者から得るべき承諾の問題は、決して単純ではない。症例報告にはことごとく患者の承諾が必要なのか、それとも個人情報を十分な程度に変更したり一般化したりする場合には、承諾の必要はなくなるのか? これは決して単純に答えを出すことができない実に錯綜した問題である。その根底にある一つの大きな問題は、はたして承諾するか否かを尋ねられた患者の側に、どの程度それを断るという自由な選択肢が与えられているかという問題だ。この問題に関連し、Gabbard (3)は以下のように述べている。
[治療を記録してスーパービジヨン等に用いることについては] このアプローチの主要な欠点は、治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということや、そのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということである。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(p.228
このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。さりとて症例提示を回避することは、精神療法家としてのトレーニングや学術交流のためにありえないために、この問題について深刻に論じること自体が一種のタブーとなりかねないであろう。ちなみに筆者は過去に公開された症例を積極的に再利用することは、この問題を回避する手段の一つとなりうると考えている。

3.境界侵犯

境界侵犯の問題は、精神分析が始まって以来の懸案であった。フロイトの多くの弟子が患者との親密な関係に入る結果となった。分析家たちは治療構造や境界の意識が低く、また逆転移への理解が十分でなく、フロイトの直接の弟子であるCJ.ユングもS.フェレンチもE.ジョーンズも患者との性的な関係を持ち、フロイトがそれをたしなめる必要があった。しかしその後は逆転移に関する理解が進むとともに、あらゆる治療者が境界侵犯に陥る危険を有するものとして、比較的オープンに語られるようになった。
 境界侵犯は現実的な問題でもある。ある米国での報告では、調査の段階で10パーセント以上の治療者が自ら境界の侵犯を犯したことを認めている。この問題について Gabbard (3,4)の示す視点が興味深い。彼は境界侵犯を特に上級の分析家が犯した際の、組織ぐるみの抵抗 institutional resistance が生じることを観察している。彼はまた境界侵犯を犯した治療者の心理テストから、彼らが必ずしも自己愛的で反社会的な所見を示すわけではなく、むしろ寂しさや対人関係上の飢えを表していたという。
以上精神療法における倫理の問題に関して論じた。今後の精神療法においては、この倫理の問題はますます重要性を増すと考える。本稿がこの問題に真剣に取り組む際の参考になれば幸いである。

  
文献)

1)      American Psychological Association : Ethical principles of psychologists and code of conduct. American Psychologist  57 : 1060–1073, 2002 
2)      Dewald, PA, Clark,RW (ed) : Ethics Case Book of the American Psychoanalytic Association, American Psychoanalytic Association, New York, 2001
3)      Gabbard, GO : The Early History of Boundary Violations In Psychoanalysis. Journal of the American Psychoanalytic Association 43 : 1115-1136, 1995
4)      Gabbard, GO : Speaking the Unspeakable: Institutional Reactions to Boundary Violations by Training Analysts. Journal of the American Psychoanalytic Association  49(2) : 659-673, 2001
5)      Gabbard, GO : Long-term Psychodynamic Psychotherapy: A Basic Text (Core Competencies in Psychotherapy) American Psychiatric Association Publishing, 2 Revised Edition, Arlington, 2010 (狩野力八郎監訳, 池田暁史 : 精神力動的精神療法基本テキスト. 岩崎学術出版社, 東京, 2012)
6)      Greenson, R : The Technique and Practice of Psychoanalysis. International Universities Press, Madison, 1967
7)  Hoffman, IZ : Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London, 1998
8)      Kelly, D., Stich, S., et al : Harm, Affect, and the Moral/Conventional Distinction. Mind & Language  22(2) : 117131, 2007
9)      Lynn DJVaillant GE : Anonymity, neutrality, and confidentiality in the actual methods of Sigmund Freud: a review of 43 cases, 1907-1939. American Journal of  Psychiatry 155(2) : 163-71, 1998
10)   岡野憲一郎 : 精神分析のスキルとは(2) 現代的な精神分析の立場からみた治療技法 精神科 21(3):296-301,2012 
11)  岡野憲一郎 : 11 精神分析技法という観点から倫理問題を考える. 岡野編臨床場面での自己開示と倫理関係精神分析の展開. 岩崎学術出版社, 東京, pp142-155, 2016
12)  富樫公一 (2016) 精神分析の倫理的転回 -間主観性理論の発展. 岡野編臨床場面での自己開示と倫理関係精神分析の展開. 岩崎学術出版社, 東京, pp156-173
13)  Turiel, E : Distinct conceptual and developmental domains: social convention and morality. Nebraska Symposium of Motivation, 25 : 77-116, 1977
14)   Wallerstein, R : Forty-Two Lives in Treatment. The Guilford Press, New York, 1986

2017年12月6日水曜日

精神療法の倫理 (最終版) 前半

9割がた書き上げてほっといたら、なんと締め切りを過ぎていた! 急いで体裁を整えた。

精神療法の倫理 
Ethical problems in psychotherapy
                 
 
抄録
精神療法における倫理の問題は最近ますます重要視されるようになってきている。かつて精神分析においては、技法を正しく用いることが事実上倫理の問題を含みこんでいたが、近年になり理論が多様化し、またさまざまな種類の精神療法が提唱される中で、それらの共通項としての倫理的な姿勢の重要さが指摘されている。筆者は倫理的な二つの側面、すなわち「慣習的倫理」と道徳的倫理」という概念を紹介し、後者を中心とした臨床概念が関係精神分析における倫理的転回に集約される点について論じる。そして倫理的な問題が際立つインフォームドコンセント、個人情報と事例提示の承諾、および境界侵犯という療法家にとって身近な三つのテーマについても検討した。

索引用語)
慣習的倫理 conventional ethics、道徳的倫理 moral ethics、インフォームドコンセント informed consent


はじめに
精神療法における倫理の問題は極めて重要である。それは臨床家としての私達の活動の隅々にまで関係してくる。まず簡単な事例を挙げることから始めたい。

[省略]

この治療者の行動は倫理的だったのだろうか? 
 もちろんこの問いに正解はないし、この治療者の行動の是非を論じることが本稿の目的でもない。ここで指摘しておきたいのは、この治療者の行動に関連した倫理性を問う際には、大きく分けて二つの考え方があり、その一方を治療者である私たちは忘れがちだということである。それらの二つとは、
  「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」という考えまたは原則に従った行動だったか?
   クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
である。そして筆者が長年スーパービジョンを行った体験から感じるのは、このうち①に関連した懸念が治療者の意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「治療者として正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく訓練途上にある治療者の頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告する際に、「それは治療者としてすべきではありませんね」と言われることを恐れているのかもしれない。それはすなわち上の①への懸念を促すことになり、それに従った場合は、事例の治療者のように「面談室での飲食は禁止」という治療構造は守られるだろう。しかしそれは同時に②を検討する機会を奪うことになりかねない。そしてその結果としてミネラルウォーターを拒まれたクライエントは、その好意を無視されていたたまれない気持ちになってしまう可能性も生じるのである。
 ところでこのような問題を考える際に、倫理に関するある理論が助けとなろう。それは
1970年代より提唱されている、慣習的倫理か、道徳的倫理か、という分類である。その提唱者の代表であ Turiel, E13は、「慣習的なきまり conventional rules」と「道徳的なきまり moral rulesとの区別を挙げ、次のように説明する。「前者は地域や文化に依存し、守られなくても具体的な被害者は出ないが、後者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出る。」(9)
 この分類は前出の①,②におおむね相当すると言えるだろう。そして治療者が①、②のどちらを優先させるかで、その振る舞いはまったく異なったものとなる可能性がある。もちろんこれら①、②の間に優劣の関係はない。これらは倫理の異なる側面であり、どちらが優先されるべきかは状況に依存する。①を犯すことは、たとえば治療者として守るべき治療構造を揺るがすことになるかもしれない。しかし②を犯した場合には、目の前の患者の気分を損ね、治療関係に大きな影響を及ぼすかもしれない。治療者として常にこの二種類の倫理の存在を念頭に置くことはその治療関係を維持するうえでも極めて重要となるのだ。そしてその上で言えば、現在の精神療法の世界では、従来の慣習的な倫理を重んじる立場から、道徳的な倫理を重要視するという方向性が見られるのだ。この慣習的論理から道徳的な論理への移行は、特に精神分析的な文脈において顕著にみられたという事情を以下に示したい。
精神分析における倫理の問題

精神分析における倫理の問題については別の論考(12)で考察を加えているが、そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
 フロイトが精神分析の治療技法としてまとめたものとしては、匿名性、禁欲原則、中立性などの治療原則として論じられることが多い。またそれ以降の精神分析的な理論の発展の中で、転移解釈の重要性も指摘されるようになった。精神分析の草創期には、「いかに倫理的であるか?」ということと、「いかに治療原則を遵守し、転移解釈に力を注ぐか?」ということの間に本質的な区別はなかったといえる。なぜなら正しい技法を用いることこそが患者の利益(症状の改善ないしは自己洞察)につながると考えられたからだ。すなわちそこで主として問題となっていたのは、上述の Turiel の分類で言えば、「慣習的な倫理」であった。他方では当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密な関係に陥るという、反道徳的な問題が後を絶たなかったが、フロイトはそれに懸念を表明してはいたものの、弟子たちを厳しく戒めることはなかった。
 やがて米国では1960、70年代を経て、そのような倫理観に変化が生まれた。精神分析の効果に関する研究への失望
(14)や、境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な治療原則を厳格に遵守するという立場よりも、実際の臨床場面で治療者がいかに支持的な介入を交え、柔軟に接するかに治療者の関心が移行したからである。さらにフロイト自身は実際には自らが唱えた基本原則からかなり外れた臨床を行っていたという報告(9)も、そのような変化の追い風になった。また「オショロフ VS チェストナットロッジ」の訴訟(薬物療法を行わずに精神分析を行ったことで回復が遅れたために、患者本人が病院に対して起こした訴訟)を通じて、精神分析においてもそれを開始する前に、その方針や利点やそれによる問題点などを明確に示して了解を取ることが必要とされるようになったのである。筆者はそのような流れについて、分析的な「基本原則」から臨床上の「経験則」へと変遷したとして論じた(10)。たとえばGreenson、R の「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(6)というような分析療法を進める上での教えがこの「経験則」のよい例であろう。最近の米国精神分析協会による倫理綱領(2)もそのような流れを反映したものと言える。そこには「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施すべし」と書いてはいない。むしろ以下の倫理項目(抜粋)はそれにある意味では逆行しているとの印象すら受ける。
・ 理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。(Competence 2)
・ 分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(Competence 3)
・ 患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。(Mutuality and Informed Conasent 5)

これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んで分析家の治療のあり方を具体的に示しているわけではない。むしろ分析家は治療原則に厳密にとらわれることなく、それを柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち匿名性や中立性の原則などは、「必要に応じて適用される」という形に修正され、相対化されざるを得ないのである。
 ただし禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち
「治療者側は自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」は、まさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」の方は関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。 
 ちなみに精神療法における倫理を考える上では、精神分析協会だけでなく米国心理学会の動きにも注目すべきであろう。米国においては精神分析に先駆けて1950年代には 倫理原則 ethics code を作成する動きが生じていた。これは第二次大戦で心理士が臨床に多く携わった結果として生じたことである。そこで生じた倫理上の多くのジレンマが、この倫理原則を作成する動因となった。現在では9回改訂されているが、
その最新版1は、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば「導入と応用範囲」には、 (1)専門家としての判断を許容する。(2) 起きうるべき不正、不平等を制限する(3)広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒するとある。すなわちここでも大きな流れとしては、細かな技法にとらわれず、より道徳的な倫理を重視するという立場がうたわれているのである。


(文献は省略)