2021年9月21日火曜日

それでいいのか、アメリカ人 22

 アメリカはナル社会

昨日「アメリカはナル社会」という事を断りなしに書いたが、そのことを書かなくてはならない。「アメリカはナルシシスト(自己愛者)の社会である」という時、私はアメリカ人は皆傲慢で鼻持ちならないという事を言おうとしているのではない。アメリカ社会では、人は自分が何を強さや特技として持っているのか、どのような主張を持っているのかなどについて表に出して生きているという様な意味だ。
 昨日は「矛の柄」の話が出たが、皆自分の矛の柄の長さを外部に示すのがアメリカでのルールだ。ナル社会とはその様な社会であると私は言っているのである。ナルシシズムは文化を超えてすべての人が持っている。「俺ってイケてる」という気持ちは皆持っているのだが、イケていると思う根拠を皆が周囲に示し、ある意味ではお互いにある程度はそれを納得しているのである。
 この様に書くと、それって自然界と同じではないか、という事になる。たしかに鹿は角の立派さを競い、鳥は囀りの声を競う。カブトムシなら角の大きさや強さを競う。それは弱肉強食の世界では当たり前のことだ。よく「ジャングルの掟」という言い方をするが、ジャングルでは強いものが弱いものを捕食する。あるいは弱いものは自然と死に絶えていく。もちろん単なる力の強さだけではない。うまく擬態を使って天敵から身を護るという技量も「強さ」の一つである。ともかくも、アメリカ社会の単純明快さは、この弱肉強食のルールの明快さに通じているのだ。
 自らの力を表に表すことはジャングルに生きる生命体にとって一つの重要な意味がある。おそらく「矛の柄」の長さを明らかにすることで、無用な争いは避けられるであろう。動物や昆虫は、自分が戦って勝ち目がない天敵からは身を守り、安全な場所に身を隠す。毒々しいキノコには警戒し、それに手を出さないことで生き延びていく。
 さてこのようなナル社会で生まれ、その中で生き抜くこと、叩き上げられることは、比較的単純な規則に従う事を意味する。強いものには屈し、弱きものにはその上に立つ。要するに矛の柄の長さに応じて生きていくことになる。大抵は矛の柄は成長に従って自然と伸びていく。明らかに相手が上ならば、ひれ伏し、迎合する。相手が下なら逆である。段々長くなるに従い、諂う相手は減っていき、支配する人は増えていく。それを徐々に体験していくのだ。すると争いが起きるのは丁度同じくらいの矛の柄の長さを持つ者同士という事になる。「こちらの方が長いから相手は自分を強者として遇するはずだ。しかしそうならずに逆にこちらを従わせようとする。ケシカラン!」 そこで両者は一戦を交えることになる。
 自然界でその戦いが生じる時、動物たちは恐らく「怒って」いるはずだ。自分が備えている中枢神経系の一部が興奮し、覚醒度と注意力が増し、血流が筋肉に充満し戦うのに最適になる条件を「怒り」は生む。もちろんボクシングの試合中の選手のように、戦いが終わったら抱き合う様子からも、彼らは「怒って」はいないだろう。しかし動物の場合はどちらかが白旗を上げることでゴングが鳴らされるまでは、相手を殺すつもりで戦っているのであろうし、そこには「怒り」というトリガーがどうしても必要になる。この様に考えると自己愛憤怒は実は自然界における弱肉強食の争いを見事にカバーしているとは言えないだろうか。
 さてここでアメリカ人の問題だ。私の印象では弱肉強食の掟が徹底しているために、無用な「自己愛憤怒」が起きる余地もそれだけ少ないと感じる。無用なつばぜり合いや意地の張り合いはむしろ日本社会に多いのではないか。日本社会はアメリカのような弱肉強食ではない。ある意味では平和な社会である。
 この間竹田恒泰チャンネルで竹田先生が日本の建国についてお話しになっていたが、2671年前に日本が建国されて以来皇室が125代も続いているという事が世界で他に類を見なく、しかもそもそもの国づくりが戦争ではなく、豪族たちの間の話し合いで行なわれたことが例外的であるという。もちろん日本でも戦国時代のように群雄割拠の時期を経てはいるが、そもそもがお互いに妥協して平和的な解決策を講じる傾向にあるのが日本社会である。
 しかしそれは矛の柄の長さにこだわらない、というかそれをあからさまにしないという傾向とも関連し、雌雄を決しないで共存するという傾向を生む。それがどういうことかと言えば、ちょっとしたつばぜり合いがいたるところで生じるという事でもある。そしてそこでは自分の矛の柄の長さを自覚しない者同士の「自己愛憤怒」のぶつかり合いという事になるのだ。

2021年9月20日月曜日

それでいいのか、アメリカ人 21

 アメリカ人と日本人、どちらが怒りっぽいのか?

私にとっては怒りとは「自己愛憤怒」である。まずこのことを説明しなくてはならない。人は自己愛の風船というものを持っている。自分はこのくらいできることが自慢である、とかこのように遇されてしかるべきだ、という一種のプライドである。昔「矜持(きょうじ)」という言葉があったが、以下のような意味だという事である。「矜持の由来は、かつて戦の際に兵士が携えていた「矛の柄(ほこのえ)」だという説が有力で、古代中国の武士にとって、矛の柄を持つことは誇りだったという。」なんだかよく分からないが、とにかくそれを持っていることで自己愛が安定する。ほっておくと俺の矛の柄はすごいんだ、と想像の中で肥大していくので、それを風船にたとえたわけだ。
 さてある兵士が自分なりに立派だと思っている矛の柄を馬鹿にされたり、傷を付けられたらどうだろう。人はハラを立てる。それがいわば人間の怒りの基本形で、実は私たちが日常体験している怒りのほとんどがこれに属するというのが私の意見だ。これはもう、これに属さないものを考えることが難しいほどだ。これに属さないものと言えば、例えばいきなり自分のパーソナルスペースに侵入してきたものに対する反射としての怒り、くらいのものだと思う。
 例えば街を歩いていていきなりある暴漢に殴られたら腹が立つだろう。これも自己愛憤怒か、と問われるかもしれない。その通りだ。これは最後に述べた反射の可能性があるが、しっかり自己愛憤怒の要素が入っている。例えば自分は一人前の社会人のつもりでいる男が、誰かに殴られて無様に道に倒れるとしたら、これはかなり自己愛的な傷つきを伴うだろう。これはそうでない場合を考えれば納得がいく。奈良の街を歩いていて、道に迷い出た鹿が警邏中の警官に追いかけられてたまたまあなたの体にぶつかってきたらどうだろう。その部位や衝撃の大きさが暴漢に殴られたのと同じ衝撃でも、貴方の反応は全く違うはずだ。「し、鹿にやられた・・・・・。運が悪かった・・・・。」となるくらいで、暴漢に殴られた時のような怒りは体験されないはずである。「鹿の分際で俺を馬鹿にするのか!」と怒り狂う人も稀にいるかもしれないが、たいていは人は鹿には容易にプライドを傷つけられないからだ。
 読者の方もいくつか怒りの場面を想定して欲しい。結局はこの「プライドを傷つけられた」という自己愛憤怒の問題に息つくことに気が付くはずだ。自己愛憤怒の理論は、アメリカの精神分析家ハインツ・コフートが示したもので、大概の人は彼の自己心理学の理論に出てくる、特殊な形の怒りの理解の仕方だ、と思っている。ところがどっこい、これはすごい理論なのだ。何しろ人の怒りの原型を喝破した理論だからである。
 さてここまでが前提でアメリカ人の怒りについてである。結論から言えば、アメリカ人はこの種の自己愛憤怒は日本人ほどは見られない気がする、というのが結論だ。つまり自分のプライドが傷ついて腹が立つ、という反応をあまり目にすることがないのである。それはなぜかと言えば、彼らはある意味では「鍛えられて」いるからなのである。それはどのような意味でであろうか。
 私は一度「自己愛の人は叩き上げだ」という文章を書いたことがある。ナル人間の社会の住人は、自分の自己愛を発達させる中で、まずはもともとナルな人たちの中に投げ込まれる。子供のころ、最低学年の頃の話だ。年上は、先輩はみな自分より大きな矛の柄を持っているのだ。自分のなんて大したことはない。「なんてちっちゃい矛の柄なんだ」とバカにされても、おそらく怒りはわからない。なぜならそれは何よりも自分の目に明らかだからだ。ナル社会のアメリカでは特に皆が矛の柄を人目に見せている。日本の場合は隠していたり、「私の矛の柄は大したことありません」などとしおらしいことを言うが、アメリカでは最初から矛の柄はドーンと見せるのが了解事項である。
 とするならば自己愛憤怒は自分の矛の柄の立派さをあまり遠慮して示さないながらもそれなりにプライドを持っているような人たちの集団である日本において、より起きやすいということになるのではないか。

2021年9月19日日曜日

それでいいのか、アメリカ人 20

 このまま書いていっていいのか。

さて私のブログは常に試行錯誤である。というよりは下書きである。今20回ほど続いているのは「これでいいのかアメリカ人」(仮題)という本の下書きである。ただしこの本はまだバーチャルである。書けるかどうかをここで試しているわけだ。私の計算から言うと、新書でそれなりのボリュームのある量を書くためには、10万字、原稿用紙で250枚程度は必要だ。ここで毎回書いている文章を1700字くらいだとすると、60回分で一応完成という事になる。まだ20回だから、本で書く量の三分の一を書いたことになる。ここで問題がある。

一つにはこんな内容で本にしていいのか? という疑問だ。私はほとんど一筆書きのように、一回を30分くらいで書いて見直しをしていない。ごく軽い内容になっている。でも誰でも思いつきそうな、特別興味深い話を書いているという実感はない。すると果たしてこれを読む人がいるのか、という疑問が自分自身にも生じる。

「死について」というテーマなら全く違ったと思う。私はなるべく濃い内容のものをゆっくり時間をかけて書こうとするだろう。その様な本を出すことには大きな意味を感じる。しかし「これでいいのか、アメリカ人」は私がどうしても書きたい内容ではない。ただしありがたくもその様なオファーを戴いているから試し書きをしているのである。でもそれを仕上げるにはそれなりのエネルギーが必要だし、時間もとられる。その時間を使って他のことをやりたいという気もする。

という事であとは編集者に見てもらうことになる。「こんな感じでいいんじゃないですか?」かも知れないし「これじゃちょっとモノになりませんね。」それによってこの「これでいいのかアメリカ人」が継続されるのかどうかが決まるのだ。

私が書いていて思うのは、週刊誌の連載物だ。売れっ子作家の連載物のエッセイなどは何百回も続いているものが多い。明らかにネタは尽きていて、それでも無理やり絞り出しているのが読んでいてわかる。内容が薄いし、その分読みやすい。売れっ子作家だと何本も連載を抱えていたりして、それこそ一本に費やす時間はわずかだろうし、そのために資料を集めたり、取材に出かけたりという事はないだろう。私の30分と同じである。もちろん技量の差は歴然であろうが、なぜもっと時間を掛けないかと言えば、私の場合はそれ以上に時間をかけてもその内容が特別重くなるようなテーマではないからである。という事で、事情によってはこの連載はパタッと止まるかもしれない。そうなったらそのような事情が背景にあることになる。

2021年9月18日土曜日

それでいいのか、アメリカ人 19

 ガイジンのいないアメリカ

 米国で暮らしていて常識とは異なることがよく体験される。1987年私はニューヨークのマンハッタンを生まれて初めて訪れた。「ここがニューヨークか!」私はパリに初めて降り立った時ほどではないが、感動を覚えた。私は完全なお上りさんだが決してそうは見せないようにと気を引き締めて街を歩いてみた。自分が身につけているものがいつ掠め取られないかに注意をしながら、周囲に警戒の目を向けながら歩いていたのだ。すると変なことが起きた。私に道を聞いてくる通行人がいたのである。「え?ガイコク人に道を尋ねるってどんな神経をしているんだろう?」もちろん向こうに私が英語のよく分からない外国人であるという事が分かるわけはない。日本にいる時のように、「この人はガイジンだから道を聞いてもわからないだろう」などという事を人は考えないのだ。そのうち私は徐々に理解するようになった。この国にガイコク人なんていないんだ。ある意味ではみんな外国人感覚なんだ…・・。
 この時私はパリで一年間かなりつらい時を過ごした後だった。異邦人とはどのように扱われ、どのような目を向けられるかをかなり直接的に味合わされた。パリ人にとって、アジア人を含めた有色人種は差別の対象になる。何人、という事よりは有色人種であるという事だけで、である。日本人の留学生の仲間には、「このベトナム人!」とつばを吐きかけられたと悔しそうに語った人もいたが、これは日本人なのにベトナム人と間違えられた、という様な問題ではない。日本人もベトナム人もどちらも有色人種で、差別の対象なのである。
 私がこのことを知ったのは、パリからニューヨークのラガーディア空港に降り立った時に、不思議な空気を感じた時である。「あれ、彼らは自分を普通に見てくれているんだ。」 私はパリでの一年を経験して、アメリカでも同じような体験をするのではないかと心配していたので、一安心した。この国にはしばらくいてもさほどシンドイ思いをしなくて済みそうだ…・・」
 そう、一言で言えばアメリカ人は皆ある意味でよそ者であり、ガイジンであり、だから人をガイジンと見なす、という習慣がそもそもない。白人だって1620年にイギリスからメイフラワーで訪れたガイジンの生き残りである。この感覚を知った時私はアメリカの長期滞在の心の準備が出来たのである。
 ところで外国人は英語で foreigner だが、アメリカで暮らしていて、誰が foreigner か、自分はforeigner か否か、という議論があまり成立しない。この章の題を「外人のいないアメリカ」としたが、まさにその通りなのである。よほどアメリカの片田舎の人の流れが滞っている町でもない限り、出会う人は皆姿かたちが違う。髪の色も皮膚の色も、体格も違う。日本なら出会う人は大抵日本人である。するとこんな特徴がある、あんな特徴がある、関西弁を話す人だな、等と細かい点に基づきさらに識別する。そして日本人というカテゴリーに属さない人は、かなり乱暴に「外人」として括る。ところがアメリカ人は皆異なるから、細かい識別はむしろしなくなる。みなバラバラなのだ。すると例えば人種、年齢と言った括りをする。するとガイジンかどうか、という識別はあまり意味を持たなくなるのだ。
 アメリカを訪れる日本人はこのことを知っておくと損はないであろう。アメリカではそれぞれが異なることが前提であり、もう少し言うとそれぞれが異なってよく、外見で差別はしなく、お互いに平等に遇するという決まりを共有しているという事が前提となる。あとは基本的には英語でコミュニケーションをするという事か。そしてもう一つは表現されないものは存在しないものとして扱われるという事だろうか。逆に言えばこれらの共通認識を持っていれば、アメリカに行ったらアメリカ人になるのである。逆にこれらの認識がなく、アメリカにいる人は何て呼ばれるのだろうか? エトランゼ、stranger 変わった人、という事になるのだろう。そしてアメリカと相当異なる文化的な背景を背負った日本人は、アメリカの世界に入ってまずはストレンジャーとして存在するのではないか。ちょうどニューヨークの街で道を聞かれて当惑した私の状態なのである。

2021年9月17日金曜日

それでいいのか、アメリカ人 18

 英語はタメの世界 ②

 英語について書いていくと、必然的に日本語の話にもなる。私はつくづく両方の世界を知っていてよかったと思う。さもないと自分の体験を相対的にみることが出来ないからだ。アメリカ人の単純さ、英語の単純さを考えることは同時に日本語のややこしさ、複雑さを知ることになる。
 2004年に帰国した時に、やはり私はどこかおかしかったのだろうと思う。その頃初診であった患者さんは今でもいらしているが、その頃の私は言葉が少しヘンだったという。そんなはずはない。家族とは日本語で話していたのだから。でも傍目にはやはりそうだったらしい。そしてそれが証拠に、その頃は日本人同士のお互いの呼び方も私には違和感ばかりであった。
 その頃私が音頭を取って作った研究グループが今でも続いているが、私はそこでお互いに「~さん」と呼ぶことを提案した。ため口で語り合えるような関係がいいだろうと思ったからだ。これは特に問題なく受け入れられた・・・・かのように見えたが、eメールの交換の時点で途端にうまくいかなくなった。会で会う時は通常「さん」付けでお互いに呼び合っている間柄なのに、メールを交換するときはやはり「~様」、ないしは「~さま」、となってしまう。最初は私も言い出した手前、「~さん」と返していたが、やはり私も違和感を覚えだした。私は研究会では一番年上だからメンバーに「~さん」と呼ぶことにさほど抵抗がなくても、メンバーにとっては年上の私は「~先生」となる。すると一人だけ私が彼らに「~さん」とメールで呼びかけるのは、とてもゴーマンな感じがするではないか。現在私がメールで「~さん」と呼びかけるのは親しいバイジーさんや大学での学生さんである。
 このように考えると、米国で皆がファースネームで呼び合い、メールを出し合うのは驚くべきことのように思える。よくぞそのような習慣が成立したものだ。しかもファーストネームで呼ばないと、よそよそしく、ある意味で失礼というニュアンスすらあるようだ。「みんなそうしているのに、なぜあなただけそうしないんだ?」となってしまう。このファーストネームで呼び合うという習慣こそが、欧米社会での偉大なるequalizer という気がする。

しかしそんなアメリカで、ラストネームによる呼び方に決まっているような関係性がある。それは博士号を取得した人に対する呼び方であり(これも何回か書いたことだが)心理士のリズは博士号が授与された次の日から「ドクター・サマービル」などと呼ばれるようになる。(ちなみに同じドクター持ちだと、その間ではファーストネームで呼び合うことになる。)
 私が特に面白いと感じたのは、精神科の州立病院の小児病棟に配属されていたの体験であり、そこではスタッフはみなミスター、ミズ付きで呼ばれていた。しかしそれだけではない。子供たちもみなミスター、ミス付きだった!! 私がいた州立病院だけの習慣かも知れないが、お互いに敬意をこめて、患者とスタッフはみな、ラストネームで呼び合っていたのである。
 しかしそれにしても・・・・・。少なくとも日本ではよほど親しい仲でもなければ、ファーストネームで呼び合うことなどあり得ないことを考えると、とんでもない文化差を感じる。私が両国の文化差を一番痛切に感じるときである。ただしこれは文化差、というよりは言語の差だろうか?私は日本滞在が長く、日本語が流ちょうな人と会話をすることがあるが、例えば米国育ちのA先生とは、日本語で話す時は「A先生」と呼ぶが、英語になると、「ビル」などと呼ぶことになる。いったいどうなっているんだろう?

2021年9月16日木曜日

それでいいのか、アメリカ人 17

 英語はタメ語の世界

  アメリカ人は年齢を問題にしない。これは本当に拍子抜けするくらいである。もちろん何かのついでに、「ところであなたいくつ?」となることはある。人はみな違う背景を持ち、違う外見をし、違う主張をする。もちろん歳は違うだろうがそれを知りたいなら、どうして相手の出身地や宗教や趣味を知ろうとしないか、ということにもなる。でもそんなことを一つ一つ明らかにしていかないとその人と付き合えないということもないだろう。
 このように考えると日本人の間柄で相手の年齢を真っ先に知ろうとする理由は明らかだ。それはどのように話しかけたらいいかを知る必要があるからだ。要するに敬語か、タメ語か、という話である。相手が年上なら敬語調の話し方になる。年上を相手に「あー、そうなの?」とはならない。どんなに親しくても「あー、そうなんすね?」とぎりぎり敬語を使う。
 つい最近のことだが物騒な事件が起きた(20218)。ある男性が知人の男性に振り返りざま硫酸をかけたというトンデモない事件だ。ネットでは「硫酸男」というだけですぐ出てくるが、大学生のころ、サークル活動で一学年下だった相手から敬語ではなくタメ語で話されたことがトラブルの発端であったという。もちろんこの事件では、「相手からバカにされていた」という恨みはほかの原因も絡んでいたのかもしれないが、いまさらながら日本での先輩後輩の区別の重要さを考えさせられる。
 さて英語の世界での話である。英語はタメ語の世界だ。初対面の人と話し始めるとき、敬語を用いることも謙譲語を用いることも考える必要がない。そもそもそのような違いはないし、私はI, あなたはyou 以外の何物でもない。相手の出身地を訊くのに、”Where are you from?” 以外の言い方などあろうか? ところが日本語では「どちらのご出身ですか?」などから始めるであろうし、相手が年上ならこの「~ですか?」は半永久的に続く。(もちろん「~っすか?」となっても結局続いていくところが聞いていて面白い。)
 このように考えるとアメリカ人の単純さは、敬語や謙譲語や丁寧語を考えなくていいという要素が極めて大きいということに思い知らされる。少なくとも言葉のレベルでは障害物がパッと取り払われて、平等になってしまうのだ。英語は素晴らしいequalizer (平衡装置)ということになる。留学などで英語の世界に入って体験する妙な気楽さは確実にここからきていると思う。
 これを書いていて思い出すのは、私の先輩にあたるある精神科医A先生のことだ。私と留学の時期が重なっていたのだが、一家そろってのアメリカ生活で、二人の小学校低学年の双子ちゃんの兄弟も現地校に入った。すると英語で四苦八苦をしている両親をしり目に、3か月ほどすると二人は家でも英語でペラペラと話すようになる。子供の語学力はすごいものだ。するとある日息子の一人がA先生に向かって「ヘイ、ユー !」と話しかけてきて、先生は激怒したという。「何を言い出すかと思った」と先生はおっしゃっていたが、教育熱心で、親への態度にことさら敏感だった彼の当惑を思うと少しおかしくなってしまう。
 タメ語であり、年齢にこだわらない英語の性質は、例えばbrother ,sister という言い方にも表れる。要するに、兄、弟、姉、妹があいまいなのだ。そしてこれは同様の区別をしない欧米語一般に言えることにもなろう。もちろんolder brother とか younger sister などといって区別することも多いが、いちいち面倒くさい。そのうちにこの兄、弟という表現なしにbrother, sister と呼ぶという習慣は、結局兄弟でさえ、タメ、平等ということを意味することに気が付く。「お兄ちゃんでしょ。弟に譲りなさい」的な言い方は、ないわけではないが、日本語ほどではない。歳は違ってもやはり同様に自己主張するし、同様の責任を負うという雰囲気が英語にはある。
 というわけで英語の世界にしばらくいると、相手の年齢はかなりあいまいでわかりにくくなってくる。相手が年上だから言うことを聞いておこう、逆らわないでおこう、などという考えが削がれていく。そしてどれだけ自分を持っているのか、どのような性格で何を大事にしている人か、というところに直接向かっていく。これってすごくないだろうか?アメリカは実力社会であるが、そこでは「歳など全く関係なし」という了解は重要なのだ。そして当然ながら「性別も全く関係なし」ということと同じだ。そう、タメ語の世界における英語は、差別防止のための装置としても働いているというわけである。
 それでいいのだ、アメリカ人!

2021年9月15日水曜日

それでいいのか、アメリカ人 16

 アメリカ人の鈍感力 2

 アメリカ人の単純さと鈍感力の続きの話である。アメリカ人とのコミュニケーションで拍子抜けすることがある。それは一つは前回にも書いた、贈り物の話が関係している。アメリカ人にモノを送るとき、その受け取り方に躊躇が感じられない。それは例えば誉め言葉にしてもいえる。「それって素敵だね」に対して「サンキュー」というシンプルさと同じである。言われて「アレッ?」と拍子抜ける単純さがある。
 もちろんその単純さには約束事、というニュアンスもある。贈り物をされたら、まずはサンキュー。というよりはこちらに多少なりとも引け目が生じるような場合は、とりあえず「有難う」といってしまうというところがある。しかしいったんそれが約束事として決められると、もうそれ以上考えないということにより結局は本当に「単純」な頭の働かせ方しかしなくなることがあるだろう。
 贈り物をする、ということは実は複雑な作業だ。それは例えばあいさつの葉書一枚にしてもいえることだ。なぜなら少なくとも日本人の常識としては、それに対する返事、返礼をする必要性が付いて回るからだ。贈り物をするということは、その人がその商品をどこかでお金を出して購入していることを意味する。それは金銭、時間、あるいは手間といった相手の負担を伴っているのだ。すると貰う側は、それを感じ取る敏感さがあるとしたら、それに対して申し訳ない、後ろめたいといった感情が湧くのはある意味では当然なはずだ。そして贈り物をした側は、それに対するある種の慰労を求めているだろう。そしてそれはもらった側としては、単純な言葉での慰労では済まないかもしれない。だから「スミマセン(済みません)」となる。すると今度は送った側は「いやいや、ほんのツマラナイものです。お口汚しかもしれませんが…」などとなり、一種の謝罪の応酬が始まる。日本人の贈り物はこのような「合わせ鏡」の構造を基本としているのだ。すると「サンキュー」で終わらせられることは拍子抜けして、極端な場合はいらだちさえ覚えるかもしれないのだ。
 さて私はこのアメリカ人の、というよりは英語の持つ単純さは嫌いではない。というのは合わせ鏡は面倒くさいからだ。それに「差し上げます」「サンキュー」にはこの上ない単純さと同時に、贈り物の原点が込められていると思うからだ。私たちがお歳暮やお中元のような儀礼的な形ではなく、人にモノをプレゼントするとき、一番期待するのは相手の喜ぶ顔である。カミさんなどの話では、デパートでいろいろな商品を見て歩くと「あ、これ○○さんにあげたいな」と思うことがしばしばあるという。品物を見ると、たとえ自分自身の好みではなくとも、誰かの顔が浮かぶという。これは素敵なことではないか。純粋な愛他性というよりは自己満足の混ざったものではあるが、人の心の純粋さを示しているような気がする。そしてそれを購入して贈るとき、おそらくそれに対する返礼をされることは全く期待していない。というよりは相手が「あ、これに対するお礼をいつかしなきゃ」という一種の義務感を感じるとしたら、それはむしろ残念なことだろう。そしてその贈り物の行為が成功裏に完結するのは、贈られた人にとってドンピシャの商品であり、「こんなのが欲しかったの!」という一言なのだ。もちろんその人がその感謝の気持ちを持ち続けて、同じような行為を相手に自然に返したくなるとしたら、それはおそらく一つの理想だろうが。とすると、ホラ、やはり「サンキュー」というアメリカ人の反応は正解なのだ。しかしやたらといわれると「何だかなぁ」、と思うが。
 ということで私は贈り物に伴う「サンキュー」という反応を肯定する。しかしただし一つ厄介なことがあり、それは贈り物はその場で開封するという習慣が伴うからだ。贈り物をもらうと、人はその包み紙をあけ、中のものを見て「サンキュー」となる。それはそうだ。何をもらったかを確認しないで「サンキュー」というわけにはいかないからだ。そして「サンキュー」には「素敵ねI like it!」という言葉がふつう続くので、余計中身の確認は必要となるのだ。しかしこれも面倒くさい。あげた方としては「うちでゆっくり開けてね」と思ってしまう。本当に「ツマラナイもの」と思われたとしたら、それを目の当たりにしたくないではないか。それに贈り物って、包まれているときの方が数倍魅力的ではないか。ところがこの開けるという単刀直入な行為はそれを無にしてしまうような気がする。その意味での単純さは、やはりいただけない。