2018年12月11日火曜日

2018年12月10日月曜日

解離の本 50


ここで少し脳科学的な話になりますが、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しています。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味します。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのです。実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持っていませんが、解離の人の脳には、いくつかのいわば」「空の」ネットワークが用意されているようです。そこにいろいろな心が住むことになるわけですが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになります。
もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではありません。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違います。でも先ほど述べたように、まねをしている、というレベルではありません。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使いましたが、ある意味ではまねをする、というのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれません(注釈)。そしてそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということです。
すると不思議なことがおきます。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになります。この図に示したように、攻撃者の方は IWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージは IWA2 として入り込みます。


(注釈)私が言うこの同一化は、乳幼児が母国語を自然と身に着ける際に生じるプロセスときわめて類似したものと考えることが出来ます。第二外国語を学んだ人ならだれでも体験するはずですが、意図的に、学習として、語学として学んだ外国語は決して本当の意味で見にはつきません。いつまでも真似をしている、その言葉を話せるふりをしている、という一種の作為の感覚が付きまといます。ところが意識的な学習のプロセスを経ずに身につく母国語(あるいはきわめて幼少時に習得する外国語)は、それを母語区語として話す人との同一化というプロセスなしには考えられないことです。なぜならそこにはその言葉のアクセントが「完全に」習得されるからです。それは周囲の人が話す母語の模写ではなく、再びコンピューターの比喩を再び用いるならば、ソフトの取り込みのレベルです。そしておそらくここには最近きわめて論じられることの多いミラーニューロンが介在していると考えられます。

2018年12月9日日曜日

解離の本 49


この攻撃者との同一化というプロセスが、具体的に脳の中でどのような現象が生じることで成立するかは全くと言っていいほど分かっていません。唯一ついえるのは、私たちの脳はあたかもコンピューターにソフトをインストールするのに似たような、自分の外側に存在する人の心をまるでコピーするかのようにして自分の心に宿してしまうという現象が起きるらしいということです。それが、たとえば誰かになり切った様にして振舞う、という意味での同一化と明らかに異なる点です。こちらの場合はあくまでも主体は保たれていて、その主体の想像の世界で誰かの役を演じているわけです。しかし解離における攻撃者との同一化では、その誰かが文字通り乗り移って振舞う、ということがおきます。
皆さんは憑依という現象を御存知でしょう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象です。日本では古くから狐に憑くという現象が知られてきました。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられますが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるでしょう。
現在では憑依現象は解離性同一性障害の一タイプとして分類されていますが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴です。攻撃者との同一化を図を用いながら具体的に考えて見ましょう。この図では攻撃者は赤いイガイガの図で描かれています。攻撃者の心の中には被害者(青で示してある)のイメージがあります。

2018年12月8日土曜日

自己愛の治療 推敲の推敲 ④


結構重要な追記をした。英国学派からも恥の議論を論じようという動きが起きているという話だ。これまで英国学派はコフートなど精神分析として「カウントしない」、という姿勢のほうが強かったのである。

最近のSteiner の業績 (Steiner, 2011) もそのような動きの一部として理解することができよう。Steiner がその流れを汲むクライン派においてはフロイト以来の自己愛的構造の議論の系譜が受け継がれてきた。そこにおいて彼の立場は「不安と苦痛から自分を守るため、私たちはみな防衛を必要としている」というところにあった。しかしSteiner はこの著書で、防衛組織という待避所から出るときに直面する体験として、「embarrassment, shame and humiliation」をあげて論じる。そして「恥とそれに関連する感情について、精神分析は最近になるまであまり注目せず、クライン派の分析家はそれを無視する傾向がある」(邦訳書P4)とまで論じている。そしてこの感情が注目されたひとつの契機としての Kohut 理論やその後の恥に関する著者達(Morrison, Nathanson, Wurmser,etc) についても言及している。

Steiner, J (2011) Seeing and Being Seen: Emerging from a Psychic Retreat. Routledge. 
衣笠隆幸監訳、浅田義孝訳 見ることと見られること. 「こころの退避」から「恥」の精神分析へ 岩崎学術出版社. 2013


2018年12月7日金曜日

解離の本 48


4-3 黒幕人格の存在による自傷
患者さんの交代人格の中には、攻撃性の高い、いわゆる「黒幕人格」が認められる場合があります。この「黒幕人格」については、簡単に言えば「怒りや攻撃性を持ち、その姿はあまり認識されることがないものの、重大な状況で一時的に現れる人格状態」のことを指します。解離性同一性障害では、この「黒幕人格」が主人格をはじめとする自己の内部を攻撃する形で、自傷に至る場合があります。

【症例】

ヒカル(仮名) さん(20代、女性)

省略

ヒカルさんは、過去の記憶の多くが曖昧で、治療はなかなか進展しませんでしたが、次第に支配的な親のもとで自分の主張を通すことなく成長してきたこと、そうした対人関係のありようが、家族外の他者との間でも繰り返されてきたことがわかってきました。〈自己表現を許されず、不満や怒りを心に留め続けてきた結果、それが「怖い人格」となって、耳元や頭の中で命令するのであろう〉と説明すると、ヒカルさんは「それでなんとなく納得できた気がする」と言いました。
 「黒幕人格」には、一般に攻撃性が高く、破壊的、という特徴があります。その背後には、理不尽な出来事に無抵抗で、怒りも悲しみもなかったことにしている主人格への怒りなどがあるのかもしれません。人生の文脈から切り離された、耐え難い苦痛の記憶を、この「黒幕人格」が一手に引き受けさせられているとすれば、「黒幕人格」の怒りも理解できます。にもかかわらず、厄介な存在とされ、切り捨てられそうになれば、激しい怒りにもなるでしょう。
また、この「黒幕人格」成立に、仮説として、「攻撃者との同一化」というプロセスとして説明される場合があります。「攻撃者との同一化」とは、もともとは精神分析の概念ですが、児童虐待などで起こる現象を表すときにも用いられる用語です。攻撃者から与えられる恐怖の体験に対し、限界を超え、対処不能なとき、被害者は無力感や絶望感に陥ります。そして、攻撃者の意図や行動を読み取って、それを自分の中に取り入れ、同一化することによって、攻撃者を外部にいる怖いものでなくする、というわけです。


2018年12月6日木曜日

解離の本 47

性的逸脱行動も自傷行為としてみなされる場合があります。かつてレイプ被害に遭い、加害者に抵抗することができずに蹂躙されたことで深い傷つき体験をしたイズミさんは、その体験を乗り越えようとし、自ら能動的に相手を性的に誘い、そこで主導権を握ろうと試みたそうです。彼女は性的な逸脱を重ねることで、最初に受けた苦痛を薄めようとしていたのかもしれない、とも話しました。性被害を持った女性でその後風俗で働く方たちの中には、そのような意図が隠されている場合も少なくありません。
多くの自傷行為は一人で完結するものですが、性的逸脱行動には他者が関与します。そしてその行動が繰り返される背景には強い孤独感がある場合があります。ただしそのような関係性の多くは一時的、刹那的であり、失望や見棄てられ体験へとつながります。その意味では性的逸脱行動を繰り返す人生は、その生き方そのものが自傷的であるともいえます。彼女たちのなかには、性的なものを介在させないと人とつながることができないという不安もあるかもしれません。自分は既に穢れているから、もっと穢れるところに落ちていると安心だという思いなど、トラウマに由来した複雑な思いが他にもいろいろとあるでしょう。
こうした思いを乗り越えるには、性的なものを介在させない穏やかな関係が重要です。それは異性との間でももちろん構いませんが、関係の性愛化という反復強迫から逃れるのはとても難しいことです。それゆえ、できれば、例えば異性愛の方は同性との間で、深くはなくとも、穏やかな関係を持てることが望ましいように思います。恋愛感情を含まない穏やかな関係をひとつでも持つと、患者さんが落ち着いてこられるのを感じます。江戸時代の長屋の井戸端会議ではないですが、文句を言ったり、たいして重要でもない話をしたりしながら、知らぬうちにエネルギーを回復し、それぞれの生活に戻っていく。そんな場のイメージです。

2018年12月5日水曜日

自己愛の治療 推敲の推敲 ③


自己愛の理論のこれからの方向性


自己愛の理論の発展と並行して、現代の精神分析での一つのテーマとなっているのが恥の問題である。これまで私が論じてきたとおり、恥の問題はフロイト自身の著作も含めてそれ以来の長い沈黙を経て、197080年代より米国の精神分析で盛んに論じられるようになった。しかし恥は、コフート理論との融合の試み(Morrison)は見られたものの、特に自己愛との関連性が積極的に議論されているわけではない。特にタイプ1の自己愛の場合には、誇大的な自己イメージや周囲からの注目を求める強い志向性が特徴づけられる点で、自らを弱く劣った存在とみなすといった恥の文脈とは正反対の性格傾向とみなすことができる。しかしこの種の自己愛傾向の防衛的な側面について考えた場合には、それと恥との関連は明瞭に見て取れる。タイプ1の自己愛を特徴とする人が何よりも恐れ、死に物狂いで回避するのは、恥をかかされプライドを傷つけられることである。その意味で自己愛の追求と恥の回避は表裏一体の関係にある。
 ただしタイプ1の自己愛者がプライドを傷つけられた時の典型的な反応は怒りであり、コフートのいう自己愛憤怒なのである。彼らの恥の体験はほんの一瞬、あるいは無意識レベルで体験されるや否や、自分に恥をかかせた相手への激しい攻撃という形で表される。それはタイプ2の自己愛と対象的である。タイプ2の場合は、恥はむしろ定常的に体験されているのであり、それに甘んじ、恥じ入ることはあっても、それを怒りとともにはねのけるだけのエネルギーを彼らは持っていない。
 このように恥をどのように防衛するかという点に関して、タイプ1と2の自己愛者は相反的な反応を示すという関係性を持つことになる。いわば恥の概念が両者にとっての蝶番という意味があるのだ。
最近の精神分析において恥を積極的に論じるというこの傾向は、現代の精神分析の一つの特徴ということができる。恥のテーマはフロイトを含めて精神分析においてふたをされてきたのであり、特に治療者の体験する恥を論じることは一種のタブーであったのだ。そしてそれを論じるということを通して、臨床家はより等身大になり、患者の地平に降りてきたということができるであろう。
精神分析で恥の問題が最近語られるもう一つの根拠は、精神分析プロセスや、精神分析候補生の育成のプロセスがある種の権力の構造を背景にしているからであろう。精神分析の世界は候補生としてトレーニングに参加し、スーパービジョンや教育分析を受けてトレーニングの課程を修了し、さらに訓練分析家となるという一種の権力のピラミッド構造を有する。分析家は自らが訓練分析を受けることで自らの無意識を知る域に達し、それを認定された存在というニュアンスを持つ。その意味で分析家は権威であり、その分析家の施す解釈はある種の権威の衣をまとっている。その分析家が自らも患者と同じ人間であり、同じような過ちを犯す存在であることを明らかにすることには、それが治療的な意味をどのように持つかという問題とは別の、いわば分析家の自己愛の問題を巻き込み、それをさらすことをもいとわないという姿勢の表れともいえるだろう。