2019年1月17日木曜日

忘れていたCPTSD 推敲 1


まだまだ納品は出来ないなあ。

2.CPTSDと精神分析的な治療 
そもそもCPTSDとはどのような病理なのかについて復習しよう。CPTSDPTSDという直接のトラウマによる症状とともに、否定的な自己観念と関係性を維持することの困難さに特徴づけられる自己組織化の障害が見られるということである。すなわちトラウマ的な養育環境のために他者との基本的な信頼関係が築けなかった人々を想定していると言えよう。ただしICDの記載によれば「拷問、奴隷、集団抹殺」といった成人以降にも生じうる、ホロコーストでの体験を髣髴させるような災害やトラウマも含む。これは一度は成立していた愛着上の問題が破壊ないし再燃された状態と見ることが出来るかも知れない。ここで留意するべきなのは、CPTSDにおけるDSOdisturbances in self-organization 自己組織化の障害は自己イメージの問題にとどまらず、対象イメージの深刻な障害が伴っていることである。人を信用できない、自分に対して何らかの脅威となりかねないと感じるという傾向は、その人の社会生活をますます非社交的で狭小なものにする。それは対人交流や親密な関係、職業の選択などに深刻な影響を及ぼすであろう。そのような患者との治療においては、比較的安定な関係性を結ぶことそのものが重要な目標と考えられるだろう。
私はトラウマの犠牲となった患者さんに対して以下の5つの項目を挙げて治療を行うことを推奨している。それらは  治療関係性の安全性と癒しの役割、トラウマ体験に対する中立性、「愛着トラウマ」という視点、 解離の概念の重視、 関係性、逆転移の視点の重視、である。これらはもちろんCPTSDにもそのまま当てはまるが、以下に特にCPTSDを念頭に置きつつこれらの項目について個別に論じたい。
第1点は、治療関係が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には忘れられてしまいかねない項目なので、改めて論じておくことに意味もあるだろう。トラウマを抱えた多くのクライエントは切羽詰った状況で来院する。「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方は取られないことが多い。多くの方が心の痛みを体験し、それを耐えがたく感じて癒しを求めている。そしてそれだけに治療期間の雰囲気、受付の応対、そして療法家の一挙手一投足に大きな影響を受け、場合によっては傷ついてしまう。治療場面が安全で癒しを与える雰囲気を持つことは必要不可欠なのである。
この安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造の遵守という考え方とは別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を守ることは最優先されないこともある。これは治療構造の「剛構造」的な面を優先しない、という意味である。柔構造的(岡野、2008)な治療構造はそのものが安全性を醸すべきものだからだ。
たとえば50分の枠での面接を行うとする。そして何らかの形で治療の終わり近くに、治療を時間通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まり、急に処理しなくてはならない問題の出来、解離性の別人格の出現、などなど。あるいはここで予想して書くこともできないようなこともおきるだろう。そして治療構造を厳守することでそれが傷つき体験につながるとしたら、それを最優先されるべきでない。(もちろんこれは緊急事態ではあるので、次に予定の来談者への謝罪、説明、などすべきことは沢山でてくるであろう。しかしそれはいわば緊急事態に対応したダメージコントロールであり、その必要性も含めて来談者とその意味を共有すべきものとなり得る。)
2点は、治療者は中立性(岡野、2009)を保ちつつ治療を行わなくてはならないということである。ただしCPTSDを有する来談者に対する中立性とは特別な意味を持つ。それは決して来談者に対して行われた加害行為そのものに中立的であることではない。つまり「加害者にも悪気がなかったのかもしれない」「被害者であるあなたにも原因があった」、という態度を取ることではないのである。むしろ「いったい何が起きたのか?」「加害者は何をしようとしていたのか?」「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」、「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と患者が率直に話し合うということである。ただしこのような意味での中立性さえも、患者には非共感的に響く可能性がある。被害に遭った患者の話を聞く立場として、治療者が患者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者が上述の意味での中立性が意味を成す地点まで行き着けないであろう。
ここで言う中立性を、精神分析における受け身性と同じものと考えるべきではない。たとえば患者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無表情で対応した場合,患者は自分の話を聞いて一緒に憤慨してくれない治療者に不信感を抱くかもしれない。患者は場合によっては治療者がその虐待者に味方していると感じるであろう。もしそれにより治療者と患者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は非治療的なものと考えなくてはならない。したがって患者によっては分析的アプローチを保つことに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,重要な場合があるのだ。

2019年1月16日水曜日

不可知なるもの 3


例えばこんな例を考えよう。「君は自分を偽っているんだよ。」あるいは「自分の本心をさらけ出してごらん」言葉を話し始めたころの私たちの祖先にはおよそ想像もつかない言葉かもしれない。そして言葉を持つ以前の私たちの祖先にはあり得ない思考。しかし私達は心理療法などでこんな言葉を常にはいている。先輩後輩関係、師匠と弟子関係でも聞かれるだろうか。ともかくもこの表現には、どこかに本当の自分があり、それはまだ発見されていないか、あるいはすでに述べたような方法により回避され、無視されている、というニュアンスがある。この「本当の・・・」あるいは「真の・・・」という考え方は、実は不可知の問題とも直接的に絡んでいる。物事に真実の姿を見出すという考え方は言葉を覚え始めた私たちがしばらくして「物心がついたころには」、つまり自意識が芽生えたころには存在していたであろうからだ。
これに近いのがプラトンのイデア、ないしイデア論だろう。ウィキ様をちょっと引用すると、
「ソクラテスが倫理的な徳目について、それが《何であるか》を問い求めたわけであるが、それに示唆を得て、ソクラテスの問いに答えるような《まさに~であるもの》あるいは《~そのもの》の存在(=イデア)を想定し、このイデアのみが知のめざすべき時空を超えた・非物体的な・永遠の実在・真実在であり、このイデア抜きにしては確実な知というのはありえない、とした」思わず眩暈をしそうではないか。
本当の心があるもないも、それがなければそもそも何事も始まらない、という勢いである。少し飛躍するかもしれないが、これは実証主義positivismと同質のものだと考える。実証主義が形而上学を排するとすれば、イデア論も形而上学ということになるだろうが、どちらも「はっきりとした、これしかないもの」を求めるという点では一致しているように思う。不可知なものunknowableに対して、まだ知られていないがそこにあるもの yet to be known、という決め付けをするという点で。後者の場合は、「君にはわからないかもしれないが、私には見えるよ。」ということで、相手に対しての威圧となる。そしてそれは経験者が、あるいは年長者が良く用いる言説でもあるのだ。ところが人間の本心など、そこにあると証明できるものではない。ウィニコットが真の自己 true self についてincommunicado (連絡が絶たれている)と表現したとき、それはそこにあっても知られない、というよりはそもそも知りようのないものというニュアンスがあったわけだ。しかしそれについて私たち人間はそれを知りようのないものとして扱うということが日常生活のレベルではおそらく出来ない。何かを代入しておかなくてはならないのである。
たとえば明日自分の住むところに大震災が起きて、社会の機能が一時的にではあれ停止してしまうかもしれない。明日は不可知なのである。でもそこにとりあえず「いつもの日常」を代入することで私たちは生きている。これはつまり不可知をそれとして扱っていないことになる。あるいは隣人のAさんについて、「彼は○○な人だ」というイメージを持っている。Aさんの本当の姿など分からないが、一応「○○な人」という決め付けによりその人とのコミュニケーションを保つ。そうでないと他人は皆怖くなってしまう。その意味で私たちが不可知をそうでないと扱うという力は実は極めて重要なのだ。それが失われると、私たちはそれこそ精神病状態に陥ってしまいかねない。世の中のすべての人が自分を落とし入れようとしているという世界観である。彼らこそ真の世界の姿を捉えているのかもしれないのだ。

2019年1月15日火曜日

不可知なるもの 2


これまで述べたように、私たちは言葉を用いることで、想像力を増すこと、現在の思考を消し去ってしまうこと、分からないことを分かったことにしてしまうこと、などを達成したと述べたが、最後の二つは人の心の防衛機制に深く関与していると言っていいだろう。現在の思考を消し去ることは、抑制とか抑圧といわれるものだ。またわからないことを分かったことにしてしまうのは、置き換えとか合理化とか否認と関係しているかもしれない。
もう少し考えを進めよう。言葉にはそれ以外も役割もたくさんある。それは言葉が字義どおりの意味以外の様々な含みを持つということだ。例えばAさんがBさんに何かのことで謝罪を求めるとしよう。Bさんは「すみませんでした」、という。そしていったんはAさんはそれに納得したとする。ところがBさんが小声でこう言ったらどうだろう。「これで気が済みましたか?AさんがBさんにさらに「心からの」謝罪を求めることに発展することは必定だろう。この場合「これで気が済みましたか?」には、「私がすみませんでした、と言ったのは、心からではなく、あなたの気がおさまるように言っただけですよ」という含みを持つことになる。もちろんAさんが少し変わった人で、そう受け取らない場合もある。「うん、気がすんだよ。」と受けて、特に引っかからないかもしれない。しかしそれは含みを受け取っていない可能性があるからである。
ここで思い出したエピソードがある。30年前にフランスに留学した時、給費留学生としての手続きのために大変な時間を待たされた挙句、ようやくたどり着いた受付の係員に、「この書類に写真が貼ってありませんね。貼った書類をまた持って来てください」と言われたのだが、最後に、「シ・ブ・ブレ」という言葉を係員が付けてきた。英語で言えば if you like であり、「できましたら・・・・」という丁寧な表現なわけだが、「もしお望みなら、とはどういうことだ! バカにしている!」と私はすっかり腹を立ててしまった。係り員も困っただろう。「もし可能でしたら、写真を貼ったものを持って来てください」と丁寧に言ったら、「もし可能なら」とはどういうことだ! と相手にキレられたのだから。言葉の力が弱いと、誤った「含み」を読み込んでしまうという例だ。
言葉がどうして含みを持つかは、おそらく我々の思考が、様々な別の思考のネットワークの中にあるからだ。ある言葉を聞くと、それに関連したネットワークも賦活される。「落ち葉」と聞くと北風の吹く街の情景が何となく連想される。「気が済んだ?」という言葉は、相手をバカにするような状況、捨て台詞で相手を挑発するような状況が連想され、腹が立つというわけだ。少し違った、含みを読み取ることが難しい表現なら少し違った効果を生むだろう。例えばBさんが、「もうよろしいですか?」とか「もう帰っていいですか?」と言ったらAさんはちょっとむかつくだけでおさまるかもしれないし、Bさんもちょっとだけ気持ちを表現できたかもしれない。
言葉の持つ含みは、言葉の象徴性ということに一般化すればもう少し分かりやすいかもしれない。「彼は王様だ」と言っても、彼が実際に国を治めているわけではない。しかし「王様」という言葉の持つ様々な含みが、それが何を表しているかを伝えるというわけである。
さてこの含みという例からわかるとおり、言葉はそれが情動、感情と連動しているために複雑な機能を追うことになる。これまでの言葉の働きを考えた場合、言葉は感情を押し隠したり、別の感情にすり替えたり、感情を含ませたりする。
さてこれらを前提に「不可知なるもの」について考える。不可知なもの、とは面白い言葉である。分からないものに名前を付けてしまっているからだ。しかしこれも言葉や記号の魔術だろう。これは数字のゼロを思い起こさせる。数字のゼロが発見されたのは5世紀のインドだったとか書かれている。そして数学の歴史は紀元前2500年にさかのぼるため、数学という学問が生まれて2000年以上もゼロの概念はなかったという。でも不可知の方がゼロより高度な概念だろう。0なら、その状態を示すことが出来る。しかし不可知の方は、それが不可知であるかどうかさえ不明だからだ。さらに言えば、未知なだけなのか、知り得ないのかさえも定かではない。宇宙の果ては、と問うた場合にそれはどちらの意味で「不可知」かさえも知らない人が多い(私も知らない)。しかし受験生は今取り組んでいる難しい数学の問題の解は、自分にとっては不可知でも、もう解答例としてどこかに印刷され、保管されていることを知っているのである。
不可知の問題の最大のものは、私たちが通常、何が不可知であり、何がそうでないかをほとんど常に曖昧にしているという点にある。


2019年1月14日月曜日

忘れていたCPTSD 6


4点目の関係性、逆転移の重視については、患者がその治療の後にどの程度の精神的な成長を遂げることができるかという、いわゆる外傷後成長(post-traumatic growth, PTG)(Tedeshi, RG, 2004)を予想する上でも重要となる。トラウマを体験した人との治療関係においては、それが十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすべきであるということはすでに述べた。トラウマを扱うための治療関係が患者に新たなストレスを体験させたり、支配-被支配の関係をなぞったりする事になれば、それは治療的な意味を損なうばかりではなく、新たなトラウマを生み出す関係性になりかねない。精神分析的な治療においては、患者の洞察やこれまで否認や抑圧を受けていた心的内容への探求が重要視されるが、それは安全で癒しを与える環境で十分にトラウマが扱われた上でこそ意味がある。外傷後成長は癒しの上にしか生じないのである。
もし治療者が患者が洞察を得ることを目指すことにばかり心を傾けることで、患者のトラウマ体験に対する共感やその他の支持的なかかわりをおろそかにすることは許されない。その意味では治療関係を重要視することは、そのまま治療者の逆転移の点検というテーマに直結するといっていいだろう。トラウマを受けた患者を前にした治療者は、しばしばそのトラウマの内容に大きな情緒的な影響を受け、それを十分に扱えなかったり、逆にそれらへの患者の直面化を急いだりする傾向が見られるが、いずれも治療者自身の個人的な情緒的反応が関係していることが多い。
ここで治療者の側の逆転移の要素を考えるならば、たとえば治療者の救済願望がやはり大きいと言える。ただしこれはそれが全くない場合を考えてみればわかるとおり、むしろ望ましい逆転移といえる。ただしそれは常に意識し、目を向け続けなくてはならないものといえる。来談者へのエネルギーを見つめつつ、常にブレーキをかけ続ける治療関係というわけであるが、おそらくこの逆転移がネガティブな影響を持つのは、それがくじかれたり裏切られたりした時の治療者の行動に何が現れるかということであろう。例えば来談者が連絡なしにキャンセルをするということはしばしば起きるだろう。あるいは別の治療者にセカンドオピニオンを求めることもあるかもしれない。それに極端に反応することはそれまで維持できていた治療関係を容易に損なうことにつながるであろう。
治療者のサディズムはもう一つの重要な逆転移といえるかもしれない。治療者は治療の過程でしばしば、来談者が昔陥っていたような関係、つまり治療者の前で受け身的であたかも攻撃されることを待っているかのような態度を示すことにもなりかねない。少しきついアドバイスや苦言は、表面上は配慮や善意の衣を着ていても、そこに棘が隠されているかもしれない。あるいはそうであるような疑いを抱かせるだけでも同様の力を持ってしまう。無論治療者の持つサディズムはその人生の中で長い歴史を持ち、その根源をたどることさえ不可能かもしれない。治療者はそれに気が付くしかないが、一つ参考に次のようなことを考えてみればいい。過去の人間関係の中で、急に弱い立場に立たされたり、試練を経験しなくてはならない人に自分はどのような態度をとってきただろうか。ライバルの失敗に救いの手を差し伸べることに積極的になれただろうか? あるいは小、中学校の時に虐めが周囲で発生した時、第三者としての自分がどのような気持を持っただろうか?これらは治療者の中に眠っているサディズムの指標として重要になるだろう。
5点目の倫理原則の遵守については、もう改めて述べる必要もないかもしれない。トラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが頻繁に問われる傾向がある。

 この倫理原則の問題はトラウマ治療に特に問題とされることではないが、それでもトラウマを体験した患者の場合には特に留意すべきことと言える。自分がまた被害に遭うのではないか、搾取されるのではないかという懸念はきわめて強く、それは治療者にも向けられる可能性が高い。治療者の学問的な好奇心に従った質問、症例報告の承諾の際のやり取りなどが治療関係にネガティブに作用することのないよう、最大の配慮が払われなくてはならない。

2019年1月13日日曜日

不可知なるもの 1


不可知なるもの
Unknowable, mortality and psychoanalysis

「不可知なるもの、死すべき運命、そして精神分析
  -フロイトは私たちによく死ぬことを教えてくれたか?」

しかしどうしてよりによって、どうしてこんなテーマについて考えなくてはならないのだろうか? まあ、深い事情があるのである。去年はルーディ・ベルモート先生との出会いもあったし。
しかしそれにしても世の中は不思議なことばかりである。一番よくわからないのが、人はどうして真実を語らないのか。あるいは正しく言い直すのなら、「人はどうして真実を語らないで平気でいられるのか?」世の中は、人が真実を語らないことで回っていっているようである。スランプさんなど、「フェイク・ニュース」と決め付けることで、都合の悪い報道を一刀両断である。某隣国との応酬もよくわからない。ビデオまで作成してしまうのである・・・・。

私は最近確かなこととして思うのだが、言葉(まあ、記号、表象、なんと呼んでもいいのだが)は明らかに物事を表すと同時に、偽るものとしても出来上がったのだ。いや、もちろん最初はある事柄を指し示すものとして生まれたはずである。しかし途端にそれは物事を偽る、あるいは押し隠すという機能を帯びてしまった。言葉の発生はおそらく同時多発的におきたのであろうが、人間はある時期、ある時点で言葉を話し始めたときからこの問題に直面したはずだ。最初は簡単な名詞だったろうか? 太陽、山、川、食べもの、あたりか。いやそれよりも「大変だ!」「逃げろ!」のほうが先だったかもしれない。次は「了解した」「いやだ!」「ごめんなさい」あたりではないか?「俺は怒ったぞ!」「愛してる」などはずっと後になってからであろう。というのも情動を表す言葉より以前に、行動がそれを表していただろうからである。「予定調和」、とか「形容矛盾」なんてずっとずっとずーっと後だ。
そして言葉の出現とともに飛躍的に伸びたのが、想像力だろう。なぜなら誰かが「明日、狩り」ということで、今現在起きていることや考えていることを離れて、明日に狩を行うということを思い浮かべるようになるのであるから。あるいは空が曇ってきたときに誰かが「嵐!」と叫ぶことで、これから来るかもしれない嵐や、すでに過去に体験した大嵐のイメージが突然よみがえることになるからだ。
このように言葉はハイスピードで人の思考内容をどこかに誘ってしまう。そのときに一部の人は理不尽さを体験したに違いない。「あれ、今思っていたことはどこかに行ってしまった・・・。」言葉は今の体験をただ消し去るだけではない。別のものを強引に置き換えることで、今の体験をどこか遠くにおいやってしまう力を持つ。そこには私たちの持つ記憶のメカニズムが深く関連している。作業記憶は小さいテーブルのようなものだ。そこはとても狭く、同時に沢山のものを置けない。その小ささといったら、数字7つくらいで埋まってしまう。「ある7桁の数字を一分間覚えて置くように」、と言われただけでそれまでそこにあったものが押しのけられ、7個の数字で一杯になってしまう。それまであったことは強制消去である。もう跡形もなくなってしまうのだ。
この言葉の魔術のもう一つのすごいところは、わからないことをわかったつもりにしてしまうことだ。人は、というより動物は今ここで起きている出来事がわからないことに強烈な不安を感じる。たとえばアフリカのサバンナで、あるインパラが何か得体の知れないかすかなにおいや音を感じたとしよう。その正体がわからないことに不安を掻き立てられたその個体は、おそらく迫り来る天敵をいち早く察知することで、そうでない個体よりは生き延びるだろう。だから生存競争を生き延びてきた私たちがわからないことに不安を覚え、それを説明することに躍起となるのはむしろ当然のことなのだ。するとたとえば夜に小屋の外から聞きなれない音がしたとき、「何の音か?」「猪?」(干支にちなんで・・・)と聞き耳を立てた際に、同居人の「風の音だろう」という説明はある種の安堵感を与えるだろう。もちろんその同居人が頼りにならなければ安堵を覚えることはできないだろが、頼れる誰かの一言なら、不安も和らぎ、再び眠りに付くことができる。本当は風の音ではないかもしれないという思いが半分は残っていたとしても、「風の音、ということにしておこう」と思えることで音の原因を「わかった」ことにするのである。この力はすごい。



2019年1月12日土曜日

忘れていたCPTSD  5


第一点の前に挿入である。

0点は、治療場面が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には抜け落ちてしまいそうな項目なので、改めて論じておくことに意味もあるだろう。多くのクライエントは切羽詰った状況で来院する。「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方は取られないことが多い。多くの方が心の痛みを体験し、その癒しを求めている。そしてそれだけに受付の、あるいは療法家の一挙手一投足に影響を受け、傷つく。私は普段愛想がないほうで、多くの人に失礼な態度を取っているだろうと思う。(自覚あり。)しかし臨床をしている時は身が引き締まる思いである。それはクライエントが抱えている「そっと、大事に接して欲しい」というニーズがよく感じ取れるからだ。(それでも失礼なことを思いがけず言ってしまい、相手に憤慨されたことは何度かある。)
この安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造という考え方とは別個で、別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を守ることは最優先されないこともある。もちろん治療者が治療構造を剛構造的に考えていれば、という話である。たとえば50分の枠での面接を行うとしよう。何らかの形で治療の終わり近くに、治療を時間通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まり、急に処理しなくてはならない問題の出来、別人格の出現、などなど。あるいはここで予想して書くこともできないようなこともおきるだろう。そして治療構造を厳守することでそれが傷つき体験につながるとしたら、最優先されるべきでない。(もちろんこれは緊急事態ではあるので、次に予定の来談者への謝罪、説明、などすべきことは沢山でてくるであろうが。)
ここで必要なことは何かを一言で言うならば、トラウマを経験している来談者の身に成り代わり、そこで必要なものを提供するということである。場合によっては●●も××も提供する必要が生じる事だってあるだろう。(ここは伏字にしておこう。)


2019年1月11日金曜日

忘れていたCPTSD 4  


3点目は、解離の概念を理解し、解離・転換症状を扱うことを回避せず、治療的にそれとかかわるという姿勢である。最近では精神分析的な治療のケース報告にも解離の症例は散見されるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られていないのが現状である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢をと同時に、その表面に現れた意味を受け取るという姿勢である。古典的な精神分析が掲げた抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。この点が重要なのは、解離の症状はフラッシュバックとしての意味を有し、ある意味では過去に起きたことが再現されているからである。しかもこれは患者の見る夢についても同様だ。患者から折檻されている夢を見、その報告を受けた治療者は、それをある種の象徴的な意味合いを持ったものとして解釈するだろうか。ただしこの問題を考えれば直ちに納得する点がある。それはおそらくそのような夢ですらある種の加工やファンタジーを含んだものである可能性がある。その意味では患者の示す症状や夢に、そのものが表すものと、それが象徴、ないし代弁する内容の両者を見据えるという必要が生じるのだ。