2019年7月19日金曜日

冪乗則と揺らぎ 1


「冪(べき)乗則」の世界と揺らぎ
揺らぎとは実に不思議な現象だが、その背景の一つとしてとても大切な仕掛けがある。それが冪(べき)乗測 power law と呼ばれるものだ。この世は冪乗則が支配しているといってもいいが、それが揺らぎの本質につながっているかどうかはわからない。しかし確実にその一つの原因としてかかわっていると考えるしかない。そこでしばらくはこの不思議な冪乗束の話になる。
揺らぎの基本的な例として、地面の動きを考えよう。極めて繊細な地震計を設置してその動きを観察する。以前は地震と言えば人が体感するものを指していたが、最近は「震度ゼロ」の地震、すなわち地震計にのみ感知され、体感はされない自身も含めている。そして分かったことは結局は微震も含めた地震は常に起きており、私たちが体験したり、災害を引き起こしたりする自身は、そのうちの例外的に大きいものなのだ、ということだ。「揺らぎ」という言葉を用いるならば、大地は常に「揺らいで」いるのであり、地震はそのうちの特に大きな揺らぎだということになる。ではいつ大きな揺らぎが起き、それがどの程度予測可能かということについては、実はよくわかっていないのだ。
 グーテンベルグ・リヒター則

こんな風に書くと地震とは予測不可能ででたらめな動きを示すような「揺らぎ」である、という感じがするだろう。ただし実はこの地震について、驚くべき事実がわかっているのだ。そしてそれがこの「冪乗則」ということと関係している。例えば皆さんにはこんなことが理解できるだろうか?
1.地震の大きさに「典型的なもの」ないし「平均の大きさ」はない。(あえて平均すると限りなくゼロになってしまう)
2.地震の大きさとその頻度は、それらを対数で表すと直線状に並ぶ。
つまり地震の大きさは実はでたらめではなく、極めて整然とした秩序とともに起きているということなのだ。
実はこのうち2の方は、いわゆる「グーテンベルグ・リヒター則 Gutenberg–Richter law」、つまり地震の発生頻度と規模の関係を表す法則として知られている。片対数グラフで表すと直線関係になるという関係があり、この世界では有名な発見であった。
この2の問題の意味を突き詰めると1もおのずと理解される。このグーテンベルグ・リヒター則を厳密に当てはめると、地震の規模が小さくなると、その頻度は膨大になっていく。つまりは「地震」の数で言えば、微震の頻度は膨大になり、逆に巨大な自身は極端に少なくなる。だから平均すると圧倒的に微震の方が数で勝ってしまい、結果として地震の大きさの平均は限りなくゼロに近くなるというわけだ。

2019年7月18日木曜日

デフォルトモードネットワークと揺らぎ 2

 実は私はこの問題をどう理解していいかについて、長いこと思案してきた。科学的な知見は沢山提出され、それぞれが自分たちの研究で得られた所見を明示する。それぞれの研究はエビデンスを提出しているのだ。しかしそれらは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。という事で以下に示すのは私の独自の理解であるとお考えいただきたい。
私が特に注目するのは、いわゆるマインドフルネス瞑想に関する研究である。マインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけるという事を継続的に続ける営みだ
マインドフルネス瞑想でしばしば注意を向けるように促されるのが、自分自身の呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。人はそれをしばらくは行うことが出来るが、しばしばそれは中断される。気持ちはいつの間にかそこからそれて、他愛もない事柄に移っていく。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこからフラフラ離れてしまうという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだ。Nakano et al. 2013)。
(Nakano, T, Kato, M, Morito, Y, Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.)
 もしDMNが何らかの形で私たちの心的機能にとっての意味を持つとしたら(何しろ脳が使うエネルギーの75%を消費しているというのだから)TPN(課題遂行)はいずれはDMNに戻って行くという事になる。するとマインドフル瞑想が鍛えているのはこのDMNからTPNへのスイッチングという事になる。これは実は脳がDMNTPNの間を本来揺らぐものであり、そのゆらぎの在り方をより心身にとってより良いものにするためのトレーニングという事にならないであろうか? 

2019年7月17日水曜日

デフォルトモードネットワークと揺らぎ 1

デフォルトモード・ネットワークがつかめない人のために
 
 揺らぎとの関連でどうしても論じなくてはならないのが、いわゆるデフォルトモード・ネットワークの話だ。脳がいわばアイドリング状態、つまりボーっとしている時にも、実はしっかり活動していることが知られているが、その時に活発な活動を示すのが、脳の広範囲にわたる神経ネットワークであり、それがデフォルトモード・ネットワークと呼ばれるのだ。しかし脳トレや瞑想との関連で様々にこのデフォルトモード・ネットワークが論じられる割には、その正体がつかめない。私も脳科学者ではないので非専門家と言わざるを得ないが、おそらく脳の基本的なあり方を論じる際にどうしても深い意味を持っているとしか考えられないだけで、その正体はまだなぞが多い。
デフォルトモードネットワークdefault mode network はデフォルト状態で活動をしているネットワーク、という意味である(以下は省略してDMNと略記しよう)。話は脳波を発見したハンス・ベルガーに遡る。彼は人間の頭皮に電極を付けると、きわめて微小な電気活動が検出できることを発見した。そして1929年の論文で、「脳波を見る限りは、脳は何も活動を行っていない時にも忙しく活動しているのではないか」という示唆を行った。何しろ脳波を見る限り細かいギザギザが常に記録されているからだ。もしこれがフラットになってしまったら、それは脳が死んだことを意味するくらいである。しかし世の医学者たちは、たとえば癲癇の際に華々しい波形を示すことに注目したり、睡眠により顕著に変わっていく脳波の変化に注目する一方では、それ以外の時にも絶えずみられる細かい波のことは注意に止めなかった。ここで皆さんは雑音ないしはノイズについての議論を思い出すだろう。ノイズはそれが揺らぎとして抽出されるまでは、ごみ扱いされるという運命にあり、それは脳波でも同じだったのだ。
脳の雑音という以上の注意を向けられなかったDMNが注目を浴びるようになったのは、もちろんCTMRIといった脳の活動を可視化する技術が用いられるようになったことと深いつながりがある。
そして実は何ら活動せずにぼんやりしている状態の脳で、かなり活発な活動が行われているという事が分かってきた。ここに示したのはDMNの際に活動している脳の部位を赤く示したものだが、これらは前頭葉内側部と後部帯状回と呼ばれる部位だ。これらの部位は脳が何もせずにアイドリング状態にある時に光るのであるが、何か注意を集中させている時には、これらとは別の部位が光るという事が分かり、脳の活動には大雑把にいって3つのパターンがあるのではないか、という事が分かってきた。それらはDMN以外にも、課題遂行ネットワーク(TPN)、そしてDMNTPNの間をつなぐスイッチのような主要ネットワーク(SN)がありそうだ、という事が分かり、一気にこの議論は熱を帯びてくるようになった。
ところでネットなどでDMNについて調べていくと、人は奇妙な体験をすることになる。それはDMNが脳にとって果たしていい働きをしているか、悪い働きをしているかという事がよくわからなくなってくるという事である。DMNは何も役に立っていないようでいて、脳の使うエネルギーの75%を使っているという事が言われ、脳がスムーズに活動を行う上で常に準備状態にしておくという重要な役割を果たすことを初期の発見者であるワシントン大学のマーカス・レイクルMarcus E.Raichle 博士が論じている。(Marcus E.Raichle, ME (2010) The Brains Dark Energy. SCIENTIFIC AMERICAN. (養老孟司, 加藤雅子, 笠井清登訳「脳を観る認知神経科学が明かす心の謎」の中で(日経サイエンス社、1997
 DMNの特徴である、ぼんやりさせて心を浮遊させる、というと、まるで瞑想のように思えるが、実は瞑想はこのDMNとは逆の活動なのだ、という記述にも出あう。最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMNに向かわせないことが心身の健康に役に立つ、という風に書いてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされている。これはいったいどういう事だろうか?

2019年7月16日火曜日

いい加減さ 推敲 4


ビブラートは揺らぎか?
ちなみに揺らぎと快楽についてのテーマを考えるとまず先に私の頭に浮かぶのが、ビブラートのことである。昔ブラスバンドでトランペットを担当した時、一級上の子安先輩が、実にすばらしい音色のトランペットを奏でていた。私は子安先輩のようにきれいな音を出せるにはどうしたらいいかを常に考えていた。すると彼の音は、他のブラスバンドの部員がだれもしなかったことをしていたことに気が付いた。それは彼がビブラートをかけていたという事である。単純な音の連続には決して表すことのできない表情を与えるビブラート。これはいったいなんだろう? まさに音の揺らぎという事なのだが、音が揺らぐことの美しさを体で教わった体験だった。ちなみに私は子安先輩にビブラートがかかっているのはどうしてか、どうやっているのか、といろいろ聞いたことを覚えている。ところが子安先輩は頑なに「自分がそんなことをやっていない!」と否定するのである。しかし彼がよく練習の合間に歌謡曲やムード音楽を吹いている時には、それが美しく揺れているのは確かなのだ。しかし子安先輩は頑なにそれを否定する。私は自分でトランペットのビブラートをかける方法を見つけるしかなかった・・・・。
私はその頃ブラスバンドの中で指導に当たっていた音楽の先生に少しかわいがられていたのを覚えている。練習熱心だし、ちょっとはうまかったのだろう。子安先輩の弟分として見られるようにもなっていた。しかしその私がビブラートの練習をしているのを見て、苦々しい目でしか見られていなかったことも覚えている。確かにクラシックでは、弦楽器をのぞいてビブラートは普通は使わない。ブラスバンドではトランペットなどはパーン、という華やかな金属音を鳴らして貢献するわけで、確かにオーケストラのトランペットの演奏を聞いてもムード音楽で聞かせるようなビブラートのかかった音は聞けない。そのうちビブラートをかけるのは不良のやること、という意識が湧いてきた。子安先輩もそれで頑固に、ブラスパンドの演奏ではビブラートをかけられることを隠していたというところがある。
ちなみに天外伺朗氏は、そのシンセサイザーの研究から、電子楽器の音を、そのスピーカーの前で羽を回すとか、スピーカー自信を首振りさせるなどをすることにより、心地よく聞こえるようにするという事を早くから行っていたという。そこでそれを電子的に生み出そうとしたが、なかなかうまく行かなかったという体験を書いていらっしゃる。(天外伺朗、佐治晴夫 宇宙の揺らぎ・人生のフラクタル(PHPビジネスライブラリー、2000年)
つまりあまり機械的につくられた揺らぎはかえって美しさを損なうという事だろうか。歌唱法に関する書物などを読むと、ビブラートはそれが意識せずに、自然とかけられることに意味があるのだ、だから美しいのだ、という記述にも出あうが、その真偽は私にはわからない。





2019年7月15日月曜日

精神分析における揺らぎ 2



ひとつの例を挙げよう。ただしまったく架空の症例で、私が今作ったものだ。
Aさん(30歳代男性、としよう)は職場でいつも上司との間での確執を起こしてしまう。どうも直属の上司と言い争いをして、煙たがられ、結局職場にいられなくなるという事を何度か起こしている。Aさんはそれを上司からのパラハラと見なす傾向にあるが、これにはAさんの幼少時からの父親との確執が絡んでいることが想像される。その問題を考えたくてAさんは分析を受けることになったが、Aさんのその問題は分析家との関係の中でも少し形を変えたうえで繰り返されることになる。すなわちAさんは分析家(初老期の男性)に対しても敵愾心を向けるが、それは最初は理想化や迎合の混じった見えにくい形で表現され、それは治療関係の深まりとともにより見えやすい形で表現されるようになって行ったのである。分析家はそこに生じた転移関係についての解釈を加えていった。それによりAさんが無意識レベルで抱えていた父親への怒りが意識化され、それはAさんが分析家に対しても向けていたライバル心や怒りを明らかにすることにつながり、彼が分析家に対しても持ち始めていた敵愾心は形を変えていった・・・・。
ここに示された治療の展開はある意味では比較的典型的なものと言えるだろう。というか、そのように作ったのだ。そして分析家がAさんとの間で生じている転移関係をいかに明確にし、解釈の中でその姿を描き出していくかが治療にとってのかなめとなると考えるのが普通だ。ところが実際のAさんとの治療過程で、分析家はこの転移関係以外の様々なことを体験することになる。それは分析家がごく普通の感性を備え、また理論に捉われない素直な目を治療素材に向けていればおのずと見えてくるかもしれない。それは上に簡単にまとめた治療の進行の仕方とはかなり異なるものだった。
たとえばAさんと上司との間に繰り返されている問題。聞いているうちに分析家はこれまでAさんと関係していた上司達の態度に様々な自己愛的な問題を見るような気がする。それらの上司達もまたかつての彼らの上司との間に確執を抱えながらも、迎合することで上司に取り立てられることの方を望んだ。すると上司たちがAさんに対して行う様々なパワハラまがいの関わりには、彼らが上司達には飲みこんでいた鬱憤のはけ口というニュアンスもあり、Aさんはそれに屈することなく立ち向かっていたという側面もありそうだ。するとこれはAさんの父親との間に抱えていたエディプス的な問題と読めると同時に、Aさんが権威に安易に屈せず、自分の意志を貫いていたという側面も見えてくる。というよりこの両方の間を揺らいでいるという側面がある。
さて治療関係だ。Aさんの分析家への敵愾心は、実は分析家が持っていたAさんに対するライバル心、自分に反抗する息子に対する父親としての怒り、といった側面もどうしてもからんでくる。しかしここまで自分の気持ちを表現する患者をほかに体験したことがないため、分析家はAさんの中にある問題、そのためにこの社会で生きづらさを体験しているようなパーソナリティ傾向や、未処理のエディパルな問題も存在している気がする。つまりAさんと分析家との関係は転移関係とも、逆転移の行動化とも考えられる状況の間を動いているという事がわかる。
これでもかなり治療像は分かりにくくなっているが、この分析家がさらに上級の分析家からのスーパービジョンを受けると、また別の視点が加わってくる。Aさんが上司との間で対立を起こす際にしばしば見えてきたのが、上司とのある種の親密な関係がそれに先立っていたという事である。たいていAさんは上司に取り立てられ、かわいがられる。上司はAさんを部下として重用するが、それが一線を越えるとAさんにはある種の不安が生じるらしい。それからAさんの方から上司を突き放す態度が見られるようになり、それが上司の反発を買うことになる。そこにあるのはむしろAさんが持つ親密さへの畏れ、あるいはその背後にある同性愛的な衝動が関係しているようだ・・・・。
この最後のくだりは人間が他者と持つ関わりはきわめて多種多様で、さまざまな文脈を伴っているということを示そうとしたにすぎないが、分析的な治療とは、そのざまざまな捉え方が出来る治療関係に大胆に作図線を引いて一つの理解に落とし込むという行為に近いことがわかる。実際には混沌として予測不能な出来事をそのものとして把握しようとすると、ますます混乱を招き、それは来談者Aさんが望むところではない。そこで治療者はその中のどれかを選び取り、そこにフォーカスを当てていく。分析は揺らぐことを一時停止する。そしてしばらくは世界を定点観察し、また流動的な流れを一時的に固定して考えることにする。その際はとりあえずはAさんが両親との関係の中で抑圧していた感情を想定し、そこに焦点づけをし、治療方針を立てていく。それが精神分析的な手法である。

2019年7月14日日曜日

関係論セミナー (関係精神分析とフェミニズム)の告知

臨床家を対象にしたものですが、ぜひご参加ください。
日時は2019728日(日曜日)午前10時~午後3
(進行具合により多少の延長も考えられます)
◆と こ ろ::TKP市ヶ谷カンファレンスセンター
申し込み方法は文末にあります。


関係性精神療法セミナー

   関係精神分析と女性論者たち

このセミナー・シリーズは、2011年に第1回が開かれ、今年で第9回目を迎える。関係精神分析(関係論、関係性理論、関係性精神療法)は、対象関係論、サリバン派、コフート派、間主観性理論、自我心理学、フェミニズム精神分析などを包括的に含み、現代のアメリカ精神分析の新しい流れを総括するものである。これまで本セミナーでは、エナクトメント、動機づけシステム、共感と解釈、転移など、精神分析の根幹に関わるテーマを取り上げ、基本に立ち戻りつつ、関係論的な視点からの再検討を試みてきた。当セミナーや日本精神分析学会の教育研修セミナーにおける企画を通して、その理解は徐々に広がりつつある。
今年は、「関係精神分析と女性論者たち」と題して開催する。関係精神分析は、ミッチェルらによる精神分析再検証の流れに、フェミニズム精神分析の考えが合流してその源流を作ったという歴史もあって、女性論者たちの考えを抜きに論じることはできない。しかし、私たちのこれまでのさまざまな議論でも、女性論者という切り口から行ったものは多くはない。今年私たちがとり上げる論者は、ジェシカ・ベンジャミン、ドナ・オレンジ、ジェーン・ギャロップらである。関係精神分析における二つのintersubjectivity(間主観性)の理解や、 フェミニズム精神分析の感性の理解を深め、関係精神分析とは一体何なのかについて、初学者にも分かり易く、また最新の知見も交えて解説する。さらに、参加者と積極的に対話を行いたい。
参考文献:Jessica Benjamin 2017)『Beyond Doer and Done to』(Routledge
ジェシカ・ベンジャミン(2018)『他者の影』(みすず書房)
Donna Orange1995)『Emotional Understanding 』(Guilford
Donna Orange2011)『The Suffering Stranger』(Routledge 2011
ジェーン・ギャロップ(2000)『娘の誘惑―フェミニズムと精神分析』(勁草書房)
吾妻 壮 著(2018)『精神分析的アプローチの理解と実践』(岩崎学術出版社)
富樫 公一 著(2018)『精神分析が生まれるところ』(岩崎学術出版社)
岡野憲一郎著(2018)『精神分析新時代』(岩崎学術出版社)
◆日 時:2019728日(日曜日) 午前10時~午後3
(進行具合により多少の延長も考えられます)
◆と こ ろ::TKP市ヶ谷カンファレンスセンター
162-0844 東京都新宿区市谷八幡町 8 番地
◆ 発 表 者:吾妻壮(神戸女学院大学)・富樫公一(甲南大学)・岡野憲一郎(京都大学)
◆ 司 会:岡野憲一郎、富樫公一
◆ 受 講 料: 6,000
◆ 定 員: 60
◆申込方法:参加申込書にご記入の上、郵送または FAXE メールでお申し込みください。
受講の可否をはがき及び申込書に記載の E メールにてご連絡いたしますので、振込み先を ご確認の上、受講料をお振込みください。
◆申 込 先:〒160-0004 東京都新宿区四谷 34 SC ビル 6
小寺記念精神分析研究財団セミナー事務局 FAX 03-3350-9749
E-mailkodera.kt@nifty.com
◆申込期限:722日(月)
主催:小寺記念精神分析研究財団 

精神分析における揺らぎ 1

精神分析における「揺らぎスト」、アーウィン・ホフマン

精神分析学は、心を知る上で最もパワフルな理論であることは間違いないだろう。現在の精神分析は、20世紀のはじめにフロイトにより作り出されたものとはずいぶん異なっては来ているが、それでも非常に強力な理論体系であることは間違いない。なぜならそれはいわば古典的な分析理論を絶えず更新する形で発展しているからである。つまりそれ自体が常に新しいものに変貌しつつあるということだ。
精神分析とは、たとえば天文学という学問分野に似ている。天文学はおそらく自然科学としてはもっとも古い学問であり、それこそ古代エジプトにはすでに天文学にまつわる遺産がいくつも見出される。古代人は星空を見上げ、その星たちのならびに意味を見出し、また星の運行を基にして暦を作り、未来を予言しようとした。それ以来星の動きに関する理論は常に発展をし続けてきている。もちろん当時の天文の知識と現在のそれとは雲泥の差があるだろうが、それでも天文学自体は決して廃れることはない。
精神分析も一点を除いて同じである。それはある時代にフロイトにより定義付けられたかたちで成立したという点だ。そしてそのフロイトが打ち立てた内容と現代的なそれとの間には大きな開きがあるかもしれないが、そもそも精神分析学を「精神を分析する」学問と考えた場合は、天文学と同じように発展し続けるものなのだ。
さて精神分析の歴史の中で、様々な理論が提出され、精神を理解するうえでの有力な手がかりと考えられてきた理論は、残念ながらある病理を的確に表現するものではあっても、それを個別の治療関係に応用することには難しさが伴うという問題があった。そしてそれは実は精神分析学が天文学と異なっていたことと関係している。
天文学は、非常に素直かつ単純に、星の動きを解明することに向けられるといっていいだろう。おそらくそこに偉大な創始者とその表したテキストなどは存在しなかった。たとえば「地球の周りを集会する天体について研究すること」などと定義されていたら、地動説を唱える人たちは学会から追い出されていただろう。しかしその発展の方向にその種の制限はなかった。(もちろん宗教的な意味での制限はいたるところにあり、偉大な天文学者、たとえば地動説を唱えたコペルニクスなどが罪人として扱われたという歴史はよく知られる。)ところが精神分析学は偉大な創始者フロイトがいて、そのテキストが存在していたため、精神分析学の進む方向は最初からある程度の制限を受けていた。もし精神分析学が天文学と同じように、「人の心を理解する」くらいのゆるい定義のされ方をされていたら問題ではなかったが、フロイトは精神分析学を、人の無意識を探求することにより精神を理解する学問と定義づけた。そしてそこで無意識の存在を否定したり、それと関係ない議論を行う理論は、精神分析とは言えずに、排斥されることになったのだ。これはちょうど、天文学が「地球の周りを回っている星の学問」と定義されたようなものである。すると実は地球自身が運動しているという前提の学問は天文学から排斥されることになってしまい、その健全な発展は期待できなかったことになる。天文学会は天動説に従った理論ばかりが提出されることになり、およそ現実とはかけ離れた議論が続くことになっていたはずだ。そして精神分析学においても、そこで主流の理論は、人間の心の無意識の探求という方向性にそぐわないものを排斥する形で展開してきたことになる。
何か非常に難しい議論を始めたという印象を与えるかもしれないが、要するに従来の精神分析理論に、揺らぎの議論が入る余地はほとんどなかったということを言いたいのである。

2019年7月13日土曜日

フロイトと揺らぎ 2


  フロイトが1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイがある。フロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。その中にフロイトと美しい田舎町を散歩をしているある友人の詩人(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメ)が出てくる。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「この美しい景色もやがて消えていてしまうのがつらい」。それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」またこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそなおのこと美しいのだ。」フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。
フロイトのすごいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。そして彼はそれを「Transience (儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。この移行とは一つの安定した状態からもう一つの状態に移るプロセスだ。私はこのエッセイが基本的にフロイトが「揺らぎ」について書いた文章だと思うのは、おそらくフロイトの心の中では、この移行はしょっちゅう起きていることとして理解しているからだ。常に移行が生じている状態、それが「揺らぎ」なのである。
フロイトはこのエッセイの中で、一つ問題発言をしている。それは「失われるものを嘆く人は、ちゃんと心の中で供養を済ませていないからだ」という様な主張だ。この言葉の意味は決して容易ではないが、より正確にはフロイトはこれをリルケに対して「それはあなたの喪の作業に対する抵抗のせいだ revolt against mourning」という言い方をしている。喪の作業とは、あるものを失った時に、それを十分に受け入れ、外で失ったものを心の中のイメージにして(内在化して)ずっととっておくという意味だ。その作業をきちんとすれば問題ないよ、と言うのがフロイトの立場である。
もう少しわかりやすく言おう。「桜の花を愛でるのは嬉しい。でもやがて散ってしまうことを知っている。しかしそれを嘆くのはなんと愚かな事だ。散ってしまう事への覚悟を持ち、心の中に桜の花をおけばよいではないか。」そして同時にフロイトの嘆息まじりのつぶやきは聞こえないだろうか? 「それに …。いつもそこにいると思うと逆に愛でることが出来ないではないか。」
まさにしかり、である。一年中桜が満開であるとしよう。人はおそらく目が慣れてしまって桜の木を見ようともしなくなるだろう。桜はそこにあっても、それは常にそこに立っている建物や街路樹と同じようにすぐに背景化してしまう。時々出てくるからこそ新鮮さが保たれる。美にはそこに新鮮さ、斬新さ、驚きが不可欠なのである。そしてそれはおそらく人間、あるいは動物の感覚器が持っている宿命と関わっている。
感覚器と言えば、皆さんはこんな実験をご存知だろうか。眼球を完全に固定して、あるものを眺めてみる。するとその輪郭はすぐに消えてしまうのだ。そこで眼球は常に「固視微動」という運動を行っている。つまり目は何かを凝視している際に、実は細かく揺らいでいて、それで初めて輪郭を捉え続けることが出来るのだ。もし仮に私たちの目の網膜にある映像を投影して一切それを動かさずにいると、目は早ければ数秒でその輪郭をすぐに失ってしまう。この固視微動はこれまた「1/f揺らぎ」であり,振幅の回転角は約 0.25度であるという。(NTT技術ジャーナル 2004.10 P60~ 61)。
触覚を司る手のひらを、この目の網膜と同様に考えてみよう。そして紙の上に打たれた点字を触ってみる。その意味を分からないとしても、その字をなぞることで、幾つかの点の配置を知るだろう。しかしその指を点字の上から一切動かさないでいると、たちまち何を触っているのか分からなくなる。つまり字の輪郭を触って知るときも、実際にはその点の上をなぞる指が動いていることで感覚を受け続けることが出来る。(もちろん一瞬触ってすぐに分かったのであれば、それでも構わないであろうが。)
あるいはふわふわの触り心地のいいタオルの感触を確かめる時を考えてもいい。ふわふわの感覚は、絶えず手のひらを動かすことで得られるのであり、タオルの上の手を静止させてしまえば、もうフワフワの感覚はもう得られない。つまり網膜の視神経細胞と全く同じなのだ。
このことからわかることは、私たちの得る感覚とは、それが目の前で固定されてしまえば、つまり揺らぎを失ってしまえばもう感覚情報として取り入れることが出来なくなる。ただし現実の物事は自在にゆらゆら揺れてはくれないであろうから、私たちは視覚や触覚などを得る、眼球や指などの感覚器の方に揺らぎを与えることで、ようやく感覚情報を取り込むことが出来る。
桜の話をしていて突然人間の感覚の話に移ってしまったが、もう私の意図は伝わっているだろう。桜はずっとそこにあれば私たちはそれが見えなくなってしまう運命にある。桜を愛でようにも、その桜が見えなくなってしまってはどうしようもないではないか。私たちは何かを感じる時、この様な感覚器の揺らぎを利用してその意味をより充実した形で味わうことが出来る。そして目の前で咲いている桜についても同様のことを行うことで初めてその存在を味わうことが出来る。「明日はもう散ってしまうかもしれない」と思うことは、心の中でそれを散らしてみることである。すると現に目の前に存在しているものが新たな新鮮さを持って感じ取られるのである。