2017年3月28日火曜日

精神療法の強度 推敲 ⑨

通常この種のバウンダリーには、私たちは極めて敏感です。あれほど社交的な身体接触の多い欧米人ですら、通常交し合うハグの中に、通常より強い力、不自然で過剰な身体接触が混入すれば、それにすぐに気がつくでしょう。ましてや日本人の場合には、ほんの僅かな身体接触はとても大きな意味を持ちます。その中でも性的な意味を持つものは即座に感じ取られる傾向にあります。
 身体接触の持つ意味は、またきわめて文脈依存的でもあります。ですから治療終結の最後の日に治療者が握手の手を差し伸べても、極めて自然に感じ取られるとしても、通常のセッションの最後に急に治療者が握手の手を伸ばしてきたら、患者さんを混乱に陥れるかもしれません。すると明白な身体接触と、非接触の間には、極めて微妙なバウンダリーが存在することになります。それは身体接触の程度や、それが行われるタイミングという要素を担っています。
同様のことは心理的なバウンダリーについても言えます。明白な言語的な侵入と全くそうでない言葉の交流、あるいは治療者の明白な自己開示を伴った言葉と匿名性を守ったコメントや明確化の間にあるバウンダリー。治療者は言葉を交わしながら、しばしばそれらのバウンダリー上をさまよっています。実はバウンダリー上のさまよいこそが重要なのであり、そこには驚きと安心がない混ぜとなる、ある種の創造的な交流が行われる可能性があるのです。

2017年3月27日月曜日

「訳者まえがき」を書いた

訳者まえがき ― 眺望としてのホフマン
ネットで拾った、最長のGIF動画

共訳者の小林氏と本書の訳出の作業を開始しからもう5年ほどたつ。毎週毎週、それこそ一行ごとの英文と訳文との照合を積み重ねるのは気の遠くなるような作業だったが、今から振り返ればあっという間という気もする。
本書の意味付けについては詳しくは、巻末の小林氏の「改題」に譲るが、ホフマンの文章は数多くの精神分析の論文の中では異色であるように感じる。それは精神分析について語っているようでいて、およそ人間が携わる生きた営みのすべてに言及しているようにも聞こえる。すべての私たちの活動は、ある種の伝統を固守する反復的で儀式的な側面と、それにとらわれない自由で創造的な面、すなわち自発的な面を有する。そして両者は弁証法的な関係を有し、お互いがお互いにその存在の根拠を与え合っている。伝統なしでは、そこを踏み台にして自由さを発揮し、味わうことが出来ない。またそこを踏み外す可能性を秘めているからこそ、伝統や反復の存在意義が与えられる。精神分析が生きた人間同士の営みである以上、そこにもこの二つの要素が常に関係しあっている。
本書で著者が自らの立場を「弁証法的」と表現しているように、この様な儀式的な側面と自発的な側面の動的な相互関係を常に見据えることが彼の分析家としての立場である。そしてその視点から見える精神分析理論は、一つの眺望を与えてくれるのだ。フロイトの教えに従った伝統的な精神分析はどちらかと言えば儀式的な側面に重きを置いたものであり、関係精神分析と呼ばれる現代的な精神分析はどちらかと言えば自発性の方に重きを置いたものと言えるであろう。そしてHoffman は特にどちらに肩入れするというわけでなく、それを弁証法的な観点から眺め、コメントをする。あらゆる分析理論をその眺望の中にコトンと置いて見せるのだ。
翻訳作業を進めながら小林氏と幾度となく思ったのは、「著者Hoffman は同じことを何度も何度も、言葉を変えて繰り返しているだけのではないか?」ということだ。確かに彼の主張は、そのほとんどが結局は、その臨床体験は、あるいはその分析理論は、弁証法的な視点からとらえ直される、ということである。そうである以上、彼の著作が、1998年に出版された本書以外に見当たらないというのもよくわかる気がする。彼は大切なことは本書で言い切ったし、これ以上何を言ってもこれまでの言いかえに過ぎない、という感覚があるのかもしれない。しかし同時に私が思うのは、彼の主張を読むと、いつも新しく新鮮に感じるということだ。以下に私たちの心が弁証法的な思考から遠ざかり、オールオアナッシング的なとらわれに陥りやすいということなのだろうか?
ともあれ本書を一読した読者が彼の眺望を手に入れ、それを自由に使いこなすことを望んでやまない。



2017年3月26日日曜日

精神療法の強度 推敲 ⑧

「心の動かし方」の3つの留意点
これまでミット打ちの比喩、症例A,Bと紹介してきました。そして私の「心の動かし方」は構造を内包している、という言い方をしました。その心の動かし方について、いくつかの特徴を最後にまとめておきます。
1.バウンダリー上をさまよっているという感覚
一つ目は、私はその内的構造を、いつもギリギリのところで、小さな逸脱を繰り返しながら保っているということです。構造の代わりにバウンダリーという見方をすれば、私はその上をいつもさまよっているのです。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいでしょう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのです。これは先ほどのミット打ちにもいえることです。コーチがいつもそこにあるべきミットをほんの少し外してみます。あるいは攻撃してこないはずのミットがこちらに向かってくるような、少し意外なそぶりを見せます。すると選手は怒ったり不安になったり、「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。おそらくそれはミット打ちにある種の生きた感覚を与えるでしょう。もちろんやりすぎは禁物です。いたずらに選手にわずらわしさを感じさせるのではコーチ失格です。しかし選手を刺激し、覚醒させ、やる気を引きを起こすのは、本のちょっとした遊び心なのです。
あるいは実際のセッションで言えば、(以下略)

2017年3月25日土曜日

2017年3月24日金曜日

精神分析とは何か 番外①

少し付け加えた。

この「とらわれ」、というのは大切な言葉です。しかも「無意識的なとらわれ」というところが大事です。この様に精神分析は私たちの日常心理からは隠された部分、無意識部分に向かっているという点はきわめて特徴的といえるでしょう。ふつうのカウンセリングでは、目に見えるような、意識的なとらわれ、精神分析では無意識的な、目に見えない無意識を扱う、という言い方をすればわかりやすいかもしれません。
比ゆ的に言うならば、ゴルフコースでのバンカーのようなものと言っていいでしょう。グリーンに向かって自由に球を打って言いというわけでなく、いたるところにあるバンカーを避けて、打っていかなくてはなりません。打ち方に制約が出てくるでしょう。しかもそのバンカーが打つところからは見えなかったり、いたるところに出没していたら、もっと球を打ちにくい。
 ゴルフの比喩がわかりにくい人のためには、心を自由に走り回ることの出来る原っぱだと思ってください。そこにところどころぬかるみや落とし穴があったら、自由に走り回れませんね。しかもそのぬかるみや落とし穴が目に見えにくいものだったり、気がついたらいつの間にかそこに落ちていて、そのことにも気がつかないような類だったらどうでしょう。決して自由にそこを走り回ることが出来ません。そしてここで自由にゴルフの球を打ったり、原っぱを駆け巡るということが、自由に発想し、自由に行動するということの比喩になっているというわけです。


そのバンカーや落とし穴を見つけていくのがカウンセリングでしょうが、精神分析の場合は無意識的なとらわれ、というのですからふつうはわかりにくいような、本人にもわかりにくいような落とし穴を見つけていくという作業です。

2017年3月23日木曜日

精神療法の強度 推敲 ⑥

スペクトラムの中での柔構造 ―ある心の動かし方
繰り返しになりますが、私は精神科医ないしは精神療法家として、かなりケースバイケースで治療を行っています。つまり上述のスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがあります。これはある意味では由々しきことかもしれません。「精神療法には構造が一番大事なのだ」。これを小此木啓吾先生は口を酸っぱくしておっしゃっていました。でも私はこれをいつも守っているつもりなのです。というのも私は結局はどの強度であっても、ある一定の「心の動かし方」をしていると思うからです。そして私はそれを精神分析的と考えています。ここで私は「分析的」という言葉を、内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うという意味で用いています。それが私の「心の動かし方」の本質です。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれません。
 ある「心の動かし方」はそれ自体が一種の構造を提供しているという側面があると述べました。その心の動かし方にはすでにある種の構造が内蔵されています。ですから時間の長さ、セッションの間隔などは比較的自由に、それも患者さんの都合を取り入れつつ変えることができます。それでも構造は提供されるのです。ただし実はその構造が厳密に守られることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに、治療の醍醐味があるのです。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えました。
かつて私は治療的柔構造のことを、一種のボクシングのリングのようなものだと表現しました(岡野、2008)。カッチリ決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造は、相撲の土俵のようなものです。足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはありません。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態です。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してきます。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になります。そのロープの緊張の度合いを、治療者と患者が共有することに意味があります。
岡野(2008)治療的柔構造-心理療法の諸理論と実践との架け橋.岩崎学術出版社

 このようにボクシングのロープ自体は多少伸び縮みするわけですが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言えます。その中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合もまた、かなり構造化されたものです。そして、本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張でした。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられます。同じボクシングの比喩ですが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習です。
ボクシングの選手が「ミットで受けてほしい」、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受けます。ひとしきり終わると、「有難うございました。いいトレーニングになりました。ではまた」と選手は帰っていきます。ここにも大まかな構造はあるでしょう。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるはずです。一時間みっちり必要かもしれないし、試合前に5分でいつもの感覚を取り戻すだけかもしれない。しかしここにもたとえば月、水、金の5時ごろから30分ほど、などの大体の構造はあるはずです。さもないと二人とも予定が合せられないからです。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待するでしょう。場所はあまり定まっていないかもしれません。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっていることになります。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるでしょう。選手はコーチのミットの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのでしょうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれません。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションという意味合いを持っています。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことです。コーチがいきなりミットを突き出してきて選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くために、あるいは自分のボクシングの能力を誇示するためにミット打ちを引き受けるわけではないからです。コーチはいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなミットの出し方をするはずです。その目的は常に、選手の力を向上させるためです。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるでしょう。こうして考えれば考えるほど精神療法と似てきますね。
 そしてこのミット打ちを考えると分かる通り、そこに構造があるとすれば、それはコーチのミットの出し方、選手のパンチの受け方に内在化されているのです。そこにはいつも一定のスタンスと包容力を持ったコーチの姿があるのです。

ここである臨床例について話したいと思います。

2017年3月22日水曜日

精神療法の強度 推敲 ⑤

ちなみにこのスペクトラムの概念について一言付け加えるとしたら、それは精神療法やカウンセリングにはほかにもさまざまなスペクトラムが存在するということです。上に示したのは、セッションの頻度に基づいたものですが、他にも一回のセッションの長さの問題があります。これもは、5分、10分といった短いものから、スタンダードとしての50分、その先にはダブルセッションといって90分、100分のセッションまであります。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもあります。これもご存知の方はいらっしゃると思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間のファクターがあります。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいます。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターもあります。医師が心理面接の開始五分前に、例えば心理面接の始まる三時の十分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ三時までには心理士さんにバトンタッチできるだろう、という算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても十分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。そして心理士さんは三時十分に始まったセッションを三時半で切り上げるわけにはいかなくなります。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。
それ以外にもたとえば料金の問題があります。一回三万円のセッション(これが実際に存在することを仲間の臨床家から聞いたことがあります)から、保険を使った通院精神療法までがあります。原則無料の学生相談室での面接ということもあるでしょう。あるいは治療者がどの程度自己開示を厳密に控えるか、ということにもスペクトラムがあり得ます。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついて患者を迎え入れますが、その事情を一切語らなかったと言います。しかし別の治療者なら少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくてごめんなさい」と言うかもしれません。
さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそれぞれのスペクトラムを持っていると言えるでしょう。

この様に治療におけるスペクトラムは多次元的ですが、大体どこかに収まっていることで、あるいは予測可能な揺らぎの範囲内にあることで、治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るでしょう。