2022年6月25日土曜日

治療者の脆弱性 推敲 1

  治療者の脆弱性というテーマでまず私が心に思い描いたイメージをお伝えしたい。それは脆弱性など持たない、ある優れた治療者のイメージである。私は治療者の持つ特徴として重要なのは十分に敏感であることである。治療者が自分の心の中に起きていることと患者の心の中に起きているであろうこと、あるいは患者が時には暗黙の裡に、または微妙な形で送ってきているシグナルに敏感でないならば、治療者として十分に機能できるかは疑わしいであろう。もちろん受け取った信号にどのように反応するか、あるいはしないかはもう一つの重要な点であろうが。ともかく感じ取ることが出来ること。それが大事なのである。
 しかしここにもう一つの重要な条件があり、それがレジリエンスである。つまりストレスに反応しつつ、しかし自分自身が安定していること、一時的に大きく揺れてもたちなおれることであること。もし敏感な心がそれゆえに大きく揺れて、崩れてしまっては治療者はその役目を果たすことはできないであろう。だからたとえて言うならば理想的な治療者の心とは「しなやかだが折れない枝」のようなものである。

さてこの繊細だがしなやかで折れにくい枝のイメージと脆弱性はどのように関係するのだろうか? それはこのように「しなやかだが折れない枝」のような心は、理想の姿ではあってもおそらく現実には存在しにくいであろうからだ

2022年6月24日金曜日

PD の治療論の書き始め

 ーソナリティ症の治療

 これについても詳しく記述するときりがない。結局BPDの話に多く紙面が割かれることになるのではないか。しかし自己愛性、反社会性などについても記述しておきたい。まずは林先生の記載を参考にする。何しろ完璧な仕事をいくつもの本でなさっているのだ。(以下、「」内はほぼ林先生の書いたもの。)

講座精神疾患の臨床 3 松下正明、神庭重信監修 不安又は恐怖関連症群、強迫症、ストレス関連症群、パーソナリティ症 の第4章「パーソナリティ症及び関連特性群 総説」

「パーソナリティ症の治療についての研究は,現在,世界の多くの国地域で進められている.わが国におけるそれらの治療法の普及はまだ不十分であるけれども,それらの考え方は,わが国のさまざまな治療の場で応用することができる.」

社会心理的治療(心理療法

PDの治療的な試みとしては、様々な分野で試みられている。支持的精神療法(精神療法的管理). 認知療法精神分析的精神療法といった心理社会的治療の主要な方法の多くはPDの治療を試みているが、その他にも家族療法デイケア.集団療法などのさまざまな種類の治療法が試みられている。」

効果が確認された心理社会的治療

そう、このような書き方をすると自然とBPDの議論に持っていくことが出来る。「近年の治療にいての動きの中で目されるのは.境界性パーソナリティ症に対する心理社的治療の効果についての無作為化対照比較試験(randomized controlled trial: RCT)による研究が多く発表されていることである45). RCTで効果が確認された最初の心理療法は1991年に発表された米国のLinehan, Mらの弁証法的行動療法(dialectic behavior therapy. DBT)ある.」そして以下、この二つの治療法及びメンタライゼーションについての解説に繋がる。しかし私としてはやはり反社会性PDについても論じたい。林先生はどうして触れていないのだろうか?

 

2022年6月23日木曜日

PD(パーソナリティ障害)概論 1

また新しい依頼原稿が入った。トホホ 💦💦

はじめに
PDの概念は古い歴史を持つとともに、今なおその内容や分類において姿を変えつつある。1980年代以降盛んに論じられたBPDが最近少なくなっているという臨床家の声が聞かれる一方では、発達障害や、特にわが国での引きこもりとの関連が様々に論じられるようになっている(衣笠、2019)。
衣笠孝幸 (2019)パーソナリティ障害は減少しているのか 精神医学 61 pp138-142)
さらにはその分類についていわゆるディメンショナルモデルとカテゴリカルモデルの二つの対立はDSM-5とICD-11で異なるモデルが提出されていることが、その混乱を示している(林、2019 p144)。私たちは歴史を振り返りつつ現在の議論を知り、それを臨床に役立てる工夫をしなくてはならない。
林直樹(2019)パーソナリティ障害と現代精神科臨床 精神医学 61 pp138-142

2022年6月22日水曜日

精神科医にとっての精神分析 推敲 3

 治療者と患者の間で行われるメンタライジングはそれぞれの心に起きることを内省し照合することですが、それはお互いの意識レベルで起きていることの照合にはとどまりません。それだと単なる認知療法になってしまいます。それは必然的に患者のUANを検討することにつながります。それは臨床場面で患者がとったある言動に伴う意図や情動を検討することで、そこで働いているであろう無意識的な連合ネットワークを知ることになるわけです。ただしこれが伝統的な精神分析と異なるのは、UANの背後にある無意識的な動機やそれに関連した過去のトラウマを明らかにすることでそれを説明するという試みでは必ずしもないということです。UANはそこにいわば配線のようにして出来上がっているのであり、それを説明し理解する一つの方法などないのです。

その意味でFonagy 達が強調するのが、not-knowing という問題が重要であると考えます。そしてこれはBionのマイナスKとも関係しています。2019年にFonagyらが、not-knowable stance(分かりえないというスタンス) という呼び方に変えたいと言っていたという話もあります。ここで一つ言えるのはメンタライゼーションはこの不可知性ということを強調することでポストモダン的であるということだ。ポストモダンは一つの正解があたかも実在するといういわゆる実証主義 positivism の立場を取らず、むしろ不可知論であるということです。一見「人の気持ちを分かること」という分かりやすい言葉に置き換えることが出来るメンタライゼーションは、実は人の気持ちがわかるということがいかに多層に及び、幅広い心や脳の機能についての議論を巻き込み、答えを一義的に見出すことが不可能な、その意味でいかに「分かりえない」のかということを、Fonagyたちは伝えようとしているのです。

2022年6月21日火曜日

精神科医にとっての精神分析 推敲 2

 この点を踏まえたうえで、Gabbard 先生は、無意識的な連想ネットワーク unconscious associative networks UAN)という考え方を提出します。これは無意識的に成立している神経の結びつきということですが、それがどの様なものであり、どのように変えていくかということが精神分析の役割であるということです。このUANが意味するのは、人間の頭悩が結局は神経細胞の作るネットワークの産物であり、フロイトもあれから何十年も研究するとしたら同様の結論に至った筈であるということです.フロイトも無意識はある種のブラックボックスであると考えたし、それは私たちが Neural network と呼んでいるものに対して持っている考えとあまりかわらないのです。それにいみじくもユングが行っていた言語連想法はまさに一種のUANであり、フロイトの精神分析はそれに大きな影響を受けているものです。

Gabbard によれば最近の認知科学では、潜在記憶 implicit memory についての研究が盛んであり、これが私たちが気が付かないうちに人の行動に大きな影響を与えていることへの関心がますます高まっています。そこでこの連合ネットワーク association network という考えが注目されているわけですが、それは実は無意識的なファンタジーや衝動、ないしは認知療法で見られるスキーマなどとも関連していることが注目されているのです。


2022年6月20日月曜日

精神科医にとっての精神分析 推敲 1

精神科医にとって精神分析が意味するもの

 精神科医にとっての精神分析というテーマでお話します。ここにいらっしゃる先生方は精神分析についての一般的な知識はお持ちだと思いますが、おそらく精神科医としての日常の業務や、これまで学ばれた精神医学と比べて、精神分析はかなり違う世界の話だとお考えかもしれません。しかし私が40年前に精神科医になった時はきわめて無知でしたので、両者がかなり異なるということがピンときませんでした。というよりは精神科というのは心を扱う世界であり、当然精神分析が試みるような人の心の理解や分析をするものと思っていたのに、精神科医の主たる仕事は薬を出すことだと知って、とても意外で、また失望したことを覚えています。それと同時に薬物療法や生物学的な研究というものに対して非常に強いアレルギーを感じていたことも覚えています。ともかく精神分析にまい進しようと思っていたのですが、当時から精神科医の間では、精神分析の世界に入るのはかなりマイノリティだという感覚がありました。しかし私は漠然と、やがては精神分析と精神医学はどこかで連結可能なのだろうと思っていました。

 ただこうして精神科医としての人生を40年も送ってきた現在では、次のような考えを持っています。精神分析とは、精神医学の一つの領域を深化させたところにあるというよりは、別々の学問ないしは治療手段であり、自分は二足の草鞋を履いてきたということです。ただそのことを後悔しているというわけではありません。それなりに面白かったと考えています。そしてこの精神医学と精神分析は、いずれはどこかで統合可能であろうという考えを捨ててはいません。そのことが今日のお話にもある程度反映されるのではないかと思います。

その様なことを考えている精神分析家の一人に米国のグレン・ギャバード先生がいます。私が抄録の中で引用している彼の文章があります。彼は精神力動的精神医学の定義として次のように書いています。

「無意識的葛藤や精神内界の構造の欠損と歪曲、対象関係を含み、これらの要素を神経科学の現代の知見と統合する」(精神力動的精神医学、2014

2022年6月19日日曜日

精神科医にとっての精神分析 9

 このような精神分析の治療目標として Gabbard  先生が提唱するのが以下の通りです。
 「治療機序の主要な様式は、患者が分析家の心の中に自分自身を感じ取ると同時に、自分とは異なる分析家の主体性を感じ取る能力を獲得することである。」(Gabbard, 2003), Rethinking therapeutic action, p825. そしてFonagy 達の言葉を引用します。
[精神分析のプロセスは]メンタライジングにより、ないしは反省的な機能により心的現実を拡張していくことである。」(Fonagy, Target 1996)。UANやフロイトの言う「反復」を扱っていく上で、例えば自由連想や解釈などよりも、なぜこのメンタライジングのプロセスが強調されるのでしょうか?
APA (American Psychological Association) の辞書ではそれを次のように定義しています。
「自分と他者の心的状態を知ることで自分と他者の意図や情動を理解すること。」「リフレクティブ機能reflective functioning と同義」とされています。
 ところでこれは具体的にはどういうことでしょうか?実はこれは乳幼児の発達プロセスと同様のことを言っているわけです。発達早期に赤ん坊は母親との交流の中で、母親の中に自分を見つけるという作業をします。しかしその作業は同時に、母親が自分の投影の産物に留まらないという事実を発見します。母親は独自の主体性を持った他者であるということに気が付くわけです。それと同様のことが治療でも起きるわけです。患者は治療者の目に自分がどの様に移っているかを見ることになります。しかしそれだけではなく患者は治療者が独自の主体性を持った他者であるということを理解します。これは転移逆転移関係のことを言っていると同時にそれを愛着のプロセスにも重ね合わせることが可能なように言い換えたものです。言い換えればこの母子関係においてやり残した部分、あるいはそれが破綻しつつある部分を治療者と患者の関係性の中でやり直すというニュアンスがあります。そして最近精神分析でもとても重要なコンセプトが用いられるようになりました。それがメンタライゼーションです。これはピーターフォナギーとアンソニーベイトマンにより練り上げられた概念であり、要するに相手の心の中で、あるいは自分の心の中で起きていることを理解し、可能な限り言語化していくというプロセスです。
 治療者と患者の間で行われるメンタライジングはそれぞれの心に起きることを内省し照合することですが、それは必然的に患者のUANを検討することにつながります。それは臨床場面で患者がとったある言動に伴う意図や情動を検討することで、そこで働いているであろう無意識的な連合ネットワークを知ることになるわけです。ただしこれが伝統的な精神分析と異なるのは、UANの背後にある無意識的な動機やそれに関連した過去のトラウマを明らかにすることでそれを説明するという試みでは必ずしもないということです。UANはそこにいわば配線のようにして出来上がっているのであり、それを説明し理解する一つの方法などないのです。
 その意味で Fonagy 達が強調するのが、not-knowing という問題が重要であると考えます。そしてこれは Bion のマイナスKとも関係しています。2019年に Fonagy らが、not-knowable stance(分かりえないというスタンス) という呼び方に変えたいと言っていたという話もあります。ここで一つ言えるのはメンタライゼーションはこの不可知性ということを強調することでポストモダン的であるということだ。ポストモダンは一つの正解があたかも実在するといういわゆる実証主義 positivism の立場を取らず、むしろ不可知論であるということです。一見「人の気持ちを分かること」という分かりやすい言葉に置き換えることが出来るメンタライゼーションは、実は人の気持ちがわかるということがいかに多層に及び、幅広い心や脳の機能についての議論を巻き込み、答えを一義的に見出すことが不可能な、その意味でいかに「分かりえない」のかということを、Fonagy たちは伝えようとしているのです。