2024年7月15日月曜日

守秘義務について 1

クリストファー・ボラス、デイヴィッド・サンデルソン著、筒井亮太、細澤仁訳 心の秘密が脅かされるとき 創元社 2024年」という著書の言わば書評のようなものを用意する必要があり、これを読んでいる。最初はとっつきにくかったが、だんだん見えて来たのは以下の内容である。  まず英国の精神分析家クリストファー・ボラスについてはいいだろう。「対象の影」などの著作で知られるが、筋金入りのフロイディアンという印象がある。そして彼が一貫して述べているのは、精神分析家は徹底して守秘義務を守るべきであり、「犯罪となりうる事態を前にしても沈黙を維持する」(p.56)とまで言う。  私がボラスの論述に感じるのは、精神分析こそが他のどの様な関りにも見られないような特徴を持っていて、分析家―患者の関係は特権的で、特別なもの、聖域に置かれたものであり、あらゆる外的な侵入に制限されることのないものであることというニュアンスである。(これはかなり自己愛的だ。)  そこで追及されることはあくまでも「心的現実」であり、それが実際の現実にどの程度照合されるかということはもとより重要ではないという考え方だ。ボラスは「被分析者の『心的現実』は他の一切に優先される」(p.56)) という。 これはフロイトが性的外傷説から誘惑説に移った時のスタンスをどうしても彷彿させる。すなわち性的外傷が実際に起きたかどうかよりも、それがどの様な心の現実を生んだのかが問題とされる。そこでは患者は絶対的な秘匿性が保証されていなければ、心の奥底にある罪深さや恥の感覚を呼び起こすような空想について話せないであろうというわけです。もし患者が誰かに対する殺害空想を持っていたとしても、それを話すことで通報されてしまうことがわかっていたら、そのようなことは話せないであろうというわけだ。  ボラスの姿勢は決して新しいものではなく、往年の分析家たちが主張してきたことである。そこには精神分析と精神医学の対立、精神分析が医学化されることへの抵抗などといった問題が最近忘れられようとしていることへの懸念が表明されているのだ。  しかし私はいくつかの素朴な疑問を抱く。そしてそれは何よりも私が「精神分析家」らしくないからであろうが。まず自傷他害の恐れがない限り後悔されないという条件によりそれほど脆く崩れるのだろうか、という疑問がある。私達の多くは自傷他害の恐れがないであろうし、だから精神分析家に何を言っても通報されることはないと思うだろう。しかしそれなら何でも自由に話せるかといえば、決してそんなことはない。私達が心を開かないのは、それが外部に漏れるからではない。目の前の他者(分析家)に自分のプライベートな部分が知られることへの抵抗なのである。そしてそれは私のプライベートな部分が自傷他害と関係しているからでは決してないのだ。


2024年7月14日日曜日

PDの臨床教育 推敲の推敲1

  本稿のテーマはあくまでも「パーソナリティ症(以下PD)の教育の仕方」であり、画面設定をし、具体的に書くというご要望にお応えするものである。つまりPDとは何か、というテキスト的な解説でははなく、どのような注意や配慮のもとに、PDとは何かを若手医師に教育すればいいのか、ということである。

 私達は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの具体的な内容よりは、まずそのテーマの本質やそれが置かれた歴史的な背景について説明することを心がける。つまり各論よりはまず総論を示すということであるが、さらにそれを学ぶ若手の精神科医におさえて欲しいエッセンスについて書くのが本稿の趣旨ということになる。どこまでそれに沿った内容を書くことが出来るかはわからないが、以下にそれを展開することにする。

 私としては最初はあまり基礎知識がない初学者に対して語るつもりで書いてみることにする。しかしそれは私がこのテーマのエキスパートというわけではないにしても、多少なりとの先達としての私の立場からは、「最初から解説してもらえたら、このわかりにくいPDというカテゴリーに対してもう少し早くから親しみを持つことが出来たであろうという」と思える内容を書き綴ることになる。 


PDのエッセンスとは何か
 まずPDとは精神医学では微妙な立ち位置にある。すぐに投薬や入院治療の適応となるような、明白な症状を伴う精神疾患ではない。それはその人の生き方(考え方、感じ方、人との関係の持ち方)のある種の偏りが、その人の生き方を難しくしたり、周囲の人を困らせたりする傾向である。要するにその人の「性格」の問題というわけだが、これは患者やその家族からも聞かれる言葉でもある。

「これは彼の持っている病気というよりは、性格ではないでしょうか?」

と問われる時、それは本来その人が持つ性質として、治療するというよりは受け入れるべきものではないか、というニュアンスと、その人自身が責任を取るべきではないか、という両方のニュアンスが伴うのである。つまりは治療ではなく、責任が問われ、適切な処遇を受けるべきものという意味である。そしてそれはPDは多くの人にとって正常範囲で見られる生き方の特徴についてその程度がやや行き過ぎたものとしてとらえるという意味も含まれる。

 さて現代的なPDの基礎となったのは1980年のDSM-Ⅲに掲げられたPDであるが、上に「生き方」として考え方、感じ方、対人関係の三つをあげたが、それはそこに上手く反映されていた。そこではA,B,C群に分かれ、私は米国でのレジデント時代に、「PDはマッド、バッド、サッドだ」と教わった。A群はmad,B群はbad,C群はsadに分かれると教わった。と。A群はスキゾイドPDなどに象徴される思考過程の特異性を伴ったPD、B群はBPDや反社会性などの対人関係に問題を抱えたPD,そしてC群は回避性PDなどの、感情面での問題を抱えたPDということになる。


2024年7月13日土曜日

「トラウマ本」第14章 トラウマと心身相関の問題 加筆部分 4

 転換性障害の診断基準の見直し


ここで改めて転換性障害の診断基準がどの様に移り変わったかをまとめて表に示したい。


 

症状が神経学的に説明出来ない

心理的要因(心因 )の存在

症状形成が作為的でない

疾病利得が存在

DSM-

DSM-IV

問わない

DSM-5 

〇(あえて強調しない)

問わない

問わない

問わない

ICD-11

〇(あえて強調しない)

問わない

問わない

問わない

 この表の一番上に示された、DSM-Ⅲにおいては、「症状が神経学的に説明できないこと」、「心因が存在すること」、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」がすべて満たされることで初めて転換性障害の診断が下ることが示されている。そしてこれは従来のヒステリーの概念を彷彿させるものだった。というのも本章の冒頭で述べたとおり、ヒステリーとは「自作自演で症状を生み出したもの」であり、それが周囲の注意を惹いたり何らかの利得を目的としたものというニュアンスを有していたからである。
  このうち最初の「症状が神経学的に説明できないこと」(DSM-IV)については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことはまず注目に値する。実際にはそれは「症状が認められる神経学(医学)的疾患とは「一致しない」((DSM-5では not consistent”, ICD-11では”incompatible”と表現されている)という表現に変更されている。
  この変更は、転換性障害において神経学的な所見が存在しないということを否定しているわけではない。しかし医学的な診断が存在しないこと(すなわち陰性所見)を過度に強調するのではなく、医学的な診断に見合わないという点であるという。
 例えば足が動かないという訴えをする人に転換性障害の診断を下す場合、足に神経学的な病変がないということにより(つまり所見の不在により)診断することは望ましくない。そうではなく仮に神経学的に診断し得る足の麻痺があっても、それに見合わない過度の思考、感情、行動が伴う場合(つまり所見の存在により)定義されるべきである。そのことをDSM-5やICD-11では「症状が認められる神経学(医学)的疾患とは「一致しない」と表現しているのだ。
 このような変更には、患者が偏見や誤解の対象となることを回避すべきであるという倫理的な配慮も働いている。これについてDSM-5の以下の記載が見られるからだ。

「こうすることで所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.305) 

 ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、「心因が存在すること」、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。
 このうち心因については、DSM-5,ICD-11では診断基準としては問われなくなったことは、上で転換という概念がなくなりつつある理由として示した通りである。それでは「症状形成が作為的でないこと」についてはどうか。
 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなくばそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないというのがこの項目について問わなくなった理由である。
 また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているとのことである。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまたあらぬ誤解を生みやすいことになる。
 さらには従来転換性症状に見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。
 ただし実際には転換症状が解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったことになる。
 いずれにせよこのような倫理的な動きはMUSについての説明で述べた脱ヒステリー化の一環の動きを反映しているといえるだろう。

2024年7月12日金曜日

「トラウマ本」第14章 トラウマと心身相関の問題 加筆部分 3

 この項目、もう何度書き直したことか…

転換性障害


消えゆく「転換性障害」という診断名 

 MUSに属する疾患の筆頭に挙げられるのは、いわゆる転換性障害であろう。ただし実は以下に述べる事情の為に、最近ではFND(functional neurological disorder 機能性神経学的障害)ないしFNSD(functional neurological symptom disorder 機能性神経症状症)と呼ばれることが多い。しかしここではわかりやすく「転換性障害」という表現を使いたい。
 従来から転換性障害と呼ばれていたものは、随意運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。つまり症状からは神経系、ないしは整形外科、眼科、耳鼻科などの疾患を疑わせるが、(脳)神経内科的、ないしはその他の身体科の所見が見られない場合にそのように診断されるのだ。従って通常はこの診断は、他科から精神科に紹介されてきた患者に対して下されることが多い。
 ところでこの転換性障害の「転換性」という言葉はかなり以前から存在していた。DSM-Ⅲ以前にも「転換性ヒステリー」ないしは「ヒステリーの転換型」という用い方がなされていたのである。日本の古い精神医学の教科書にも、大抵はこれらの概念ないしは診断名が記載されていたことを記憶している。
 しかし2013年のDSM-5において、この名称の部分的な変更が行われた。すなわちDSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」(原語ではconversion disorder (functional neurological symptom disorder)となった。つまりカッコつきでFNDという名前が登場したのである。
 さらに付け加えるならば、10年後の2023年に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では、この病名が「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」となった。つまりFNDの方が前面に出る一方では「変換症/転換性障害は( )内に入るという逆転した立場に追いやられたのである。
 こうして転換性障害は正式な名称からもう一歩遠ざかったことになる。この調子では、将来発刊されるであろう診断基準(DSM-6?)では転換性障害の名が消えてFNDだけが残されるのはほぼ間違いないであろう。
 ところでこのFNDの”F”すなわち機能性functional という言葉の意味についても少し説明が必要であろう。機能性とは、器質性organic という表現の対立概念であり、検査所見のない、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。転換性障害と呼ばれてきた疾患も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDごく単純に、「今現在神経学的な症状がたまたま出ているだけである状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。
 またFNDの”N”すなわち神経(学的)症状とは、神経症状との区別が紛らわしいので注意を要する。神経症状、とは神経(内科)学的 neurological な症状をさし、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などをさす。簡単に言えば症状からして神経内科を受診するような症状であり、知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。転換性障害が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であったから、それらは表れ方としては神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。それに比べて後者の神経症症状とは、神経症の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などの神経症 neuross の症状という意味である。
 ところで以上述べたのはDSM-5における転換性障害という名称の扱われ方であるが、この転換性という名称を廃止しようという動きは、2022年の ICD-11の最終案ではもっと明確に見られた。こちらでは転換性障害という名称は完全に消えて「解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder」という名称が採用された。これはDSMにおける機能性functional のかわりに解離性dissociative という形容詞が入れ替わった形となるが、ほぼFNDと同等の名称と言っていいだろう。

 さてこの「転換性」という表現の代わりにFNDが用いられるようになったことは非常に大きな意味を持っていた。その事情を以下に示そう。  DSM-5においてなぜ「転換性」という言葉そのものについて問い直すという動きがあったのかについてJ.Stone の論文を参考に振り返ってみる。  本来転換性という用語はFeudの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion)に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。

 ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したいと思う。」(Freud, 1894)
 しかし問題はこの転換という機序自体がFreudによる仮説に過ぎないのだとStone は主張する。なぜなら心理的な要因 psychological factors が事実上見られない転換性症状も存在するからである。  このようにFreudの転換の概念を見直すことは、以下に述べるとおり、心因ということを考えることについての再考を促すこととなった。そしてそのような理由でDSM-5においては転換性障害の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。  ところでDSM-5やICD-11において新たにFNDとして掲げられたものの下位分類を見ると、それがあまりに網羅的である事に驚く。つまりそれらは視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの ・・・・・・ と細かに列挙されているのである。つまり身体機能に関するあらゆる症状がそこに含まれるのだ。これは概念的には予断を多く含んだ転換性障害の代わりにより客観性や記述性を重んじたFNDが採用された結果として理解することが出来るだろう。


2024年7月11日木曜日

「トラウマ本」第14章 トラウマと心身相関の問題 加筆部分 2

 依然として存在するMUSへの偏見

 ところでかつてヒステリーに向けられ、MUSにもある程度は向けられている偏見、すなわちその訴えは「気のせい」であって、一種の自作自演であり、その訴えは周囲の注意を惹くために誇張されているものと考えられる傾向は一体何に由来するのだろうか? それは人間が基本的に「心気的な存在」であるために生じる問題であろうと考えている。「心気的」とはつまり、自分が病気ではないかと心配すればするほど、症状が自覚されるような気がしてくるという性質を持っている。
 ICDという国際診断基準は、その第10版(2013年)から “worried well” というカテゴリーを設けている。これは「病気の心配をする健常人」 「健康なのに気に病む人」、あるいは「病気心配症」とでも訳すべきものだが、それは私達自身の持つ心気的な傾向に関連した懸念や不安を表しているものであろう。
 その意味ではMUSに対する偏見は、私達自身に向けられたものとも言えるのである。つまり自覚される症状は実は気のせいではないか、自分が作り出したものではないかという考え方を私達は自分自身にも他者に対しても向ける傾向があり、その結果としてかつてのヒステリーやMUSに対する偏見が生まれると考えるのである。
 私達の持つ心気的な傾向についてもう少し説明しよう。例えば今日お昼に仕出し弁当を食べたある人が午後になり腹痛を訴え、病院に運ばれたとする。まだ原因は判明していていないが、食中毒の可能性もあるという。するとその人と一緒に同じ仕出し弁当を食べた人たちは、「自分達も食中毒にかかっているかもしれない」と不安になるだろう。すると何か吐き気がし、胃がムカムカするような気がしてくる、という感覚はそれらの人々のうち何人かにごく自然に生じてくるはずである。これは「心気的」な傾向を反映する例と考えられるのである。
 ちなみにこの例で、実際には食中毒が発生したわけではなかった場合を考えよう。そのことを知らされた時点で、それまで胃のムカムカを覚えていた人の大半は、それがおさまり、「あれは気のせいだった」と考えるであろう。しかし一部の人たちは、既に実際の吐き気や嘔吐などの消化器症状を呈する可能性がある。するとそのような人達の症状は「医学的に説明できない」ことになり、このMUSの範疇に属することになるのだ。
 

2024年7月10日水曜日

「トラウマ本」第14章 トラウマと心身相関の問題 加筆訂正部分 1

 推敲のつもりで読み直したら、グダグダだった・・・・・。ほぼ書き直しだ。

「MUS」はヒステリーの現代版か?

 本章ではトラウマと現代的な心身相関問題というテーマで論じる。
 まずは「MUS」という概念の話から始めよう。これは「 医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の頭文字であるが、本章の以下の論述でもこのMUSという表現を用いたい。
 このMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。というよりその言葉の定義からして、そこに属するべき疾患群は、それこそ医学が生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側からはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。
 こう述べただけではMUSの意味するところがピンとこないかも知れないが、昔のヒステリーと同類だと考えると、すぐにピンとくる方が多いであろう。MUSを「ヒステリーの現代版」と見なすことで、それがトラウマの問題とどのような意味で関連しているかについても何となくお分かりいただけると思う。
 そこでMUSについて論じる前に、改めて「ヒステリーとは何か?」を簡単に振り返ってみる。それは古代エジプト時代から存在し、20世紀の後半までは半ば医学的な概念として生きていた疾患であった。
 ここで「半ば医学的な概念」と表現をしたが、それはヒステリーは「患者が自作自演で症状を生み出したもの」、というニュアンスを有していたからである。つまりその症状は本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方が支配的であった。言い換えればそれは病気であってそうでないようなもの、という中途半端な理解のされ方をしていたのである。そしてその意味ではヒステリーと呼ばれる患者たちは常に差別や偏見を向けられる傾向にあったのだ。
 幸いDSM-Ⅲ(1980)以降はヒステリーという名前が診断基準から消え、その多くの部分が転換性障害や解離性障害ないしは身体化障害という疾患概念に掬い上げられた。そして患者が差別や偏見を向けられる度合いは多少なりとも軽減したのである。
  医学は時代とともに進歩し、検査の技術も発展を遂げてきている。そしてそれまでは医学的な所見の見いだせなかった疾患の中にも、医学的な説明が出来るようになったものもある。たとえばてんかんはそのドラマティックな表れからヒステリーと分類されていたが、脳波異常が見出されるようになりヒステリーやMUSの分類から抜け出していったものである。
 しかしそれでも医学的な検査に根拠づけられない身体症状を示す人々が このMUSの中に残されることになったのである。そしてかつてヒステリーに対して向けられていた偏見も、実は現在のMUSにもある程度は向けられる傾向にあるのである。


2024年7月9日火曜日

PDの臨床教育 推敲 14

 さて特性論で付け加えておかなくてはならないのが、ICDでは以上の5つに加えて「ボーダーラインパターン」なるものが加わるのだ。つまりボーダー的であることを一種の特性のようにして扱っているのだ。それが証拠に他の特性と同様6D11.  … というコード名を冠している。名誉特性? ビック5ならぬビッグ6?これは理屈に合いにくい。なにしろBPDはカテゴリカルの典型ではないか、とも考えられるからだ。ただし確かに10のカテゴリーの中で一番研究され、また診断されることも多いのがこのボーダーラインだったわけで、これはぜひとも入れたいという気持ちもわかる。BPDはいわばPDの「顔」だったわけであり、これがなくなるのはあまりに物足りない・・・・・。

 さてICD-11の公開テキストでは特記事項として次のように述べている。「ボーダーラインパターンはこれまで述べた特性、特に陰性情動、非社会性dissociality 脱抑制などとかなりの重複がある。しかしこの特定項目は、特定の精神療法的な治療に反応する患者を同定することに助けとなろう。」

ただしこのボーダーラインパターンはBPD というカテゴリカルな診断の遺物とみなされかねないこと、またこの診断はトラウマにより⽣じることが多いためにパーソナリティ特性に並べて論じることは適切でないことなどの意⾒もあり、最終的にICD-11 にこれが加わったことは異なる識者間の妥協の産物であるという⾒解もある。ちなみにICD-11 で掲げられたボーダーラインパーソナリティの特徴は、DSM-5 におけるBPD の診断基準におおむね準じている。ここにICDとDSMの事実上の連動関係は明らかなように思える。改めて記するまでもないが、それらとは以下の通りである。

「ボーダーラインパターンが特定されるのは、パーソナリティの障害が対⼈関係、⾃⼰像、感情の全般にわたる不安定なパターンや顕著な衝動性により特徴づけられる場合であり、それらは以下の多くにより⽰される。現実に、または想像の中で⾒捨てられることを避けようとするなりふりかまわぬ努⼒・対⼈関係の不安定で激しいパターン・顕著で永続的に不安定な⾃⼰像や⾃⼰感により表されるアイデンティティの障害・⾮常にネガティブな感情の際に、⾃⼰破壊的となる可能性のある⾏動につながるような唐突な⾏動を⾒せる傾向・繰り返される⾃傷のエピソード・顕著な気分反応性による感情の不安定性・慢性的

な空虚感・不適切で激しい怒り,または怒りの制御の困難・情動が⾼まった際の⼀過性のス

トレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状。

しかしICD-11ではこれに加えて、常に存在するわけではないが、と断り以下のものをあげている。


自分を悪く、罪深く、おぞましくdisgusting 卑劣なconptemptible 存在と感じる。

A view of the self as inadequate, bad, guilty, disgusting, and contemptible.

自分が他の人と極めて異なり隔絶された人間のように感じ、苦痛を伴う疎外感と孤独を感じる。An experience of the self as profoundly different and isolated from other people; a painful sense of alienation and pervasive loneliness.

また拒絶に極めて敏感であり、対人関係で一貫した適切な信頼関係を結ぶことが出来ず、しばしば対人間の兆候を誤読する。Proneness to rejection hypersensitivity; problems in establishing and maintaining consistent and appropriate levels of trust in interpersonal relationships; frequent misinterpretation of social signals.