2017年4月30日日曜日

神経科学と心理療法 最終稿

頑張って仕上げた。富樫さんを引用させてもらった。頼もしい分析家である。        

  神経科学と心理療法


 近年の神経科学の発展には目覚ましいものがある。PET(陽電子放射断層撮影)やfMRI(磁気共鳴機能画像法)等の脳機能イメージングの技術の発展とともに、得られる実証的なデータは膨大である。それとともに私たちは心の働きと照合されるような脳の活動をリアルタイムで追うことが出来るようになってきている。
 しかし私たちが日常的に行う心理療法は、その脳科学的な進歩に見合うほどの発展を遂げているとは言い難い。臨床家は依然として素朴な因果論や象徴理論に依拠する傾向にある。その意味では脳科学時代の心理療法は、その両者の有効な架け橋が欠如しており、あるいは前者の成果が後者にほとんど反映されていないことが特徴といえよう。
 本稿では現代の脳科学が示す心の在り方から心理療法について考えるが、最近の脳科学的な知見を網羅することは不可能なため、本稿では心の非線形性という文脈に限定して論じよう。

脳科学の進歩が示唆する心の在り方

 最近の脳科学は心についての新しいモデルを提供している。フロイトは精神分析の理論を提示した際に、心についての明確なモデルを打ち出した。ただし当時の脳科学の知見は極めて限定されていた。フロイトは中枢神経系がニューロンという微小な単位により構成されているということのみを手がかりにして、リビドーの概念を元に心のモデルを構成したが、その時代ではそれが限界であったといえる。現在の脳科学が示す心のモデルの代表的なものは、ニューラル・ネットワークモデルに依拠したものであり、そこで繰り返し示されるのが、心の複雑系としての振る舞いであり、精神活動の持つ非線形性である(Rose, Schulman, 2016)。非線形性とは原因と結果の大きさに直線的な対応関係がなく、心に働くいかなる原因も、いかなる種類や大きさの結果をもたらすかは基本的には予測不可能であるという性質をさす。その心の性質は脳の活動が安静時においてすでに見せるいわゆる「通時的な不連続性」(Northoff, 2016)という性質によっても間接的に裏付けられている。
 このような心の捉え方は、従来の伝統的な精神分析理論にはあまりなじまないものである。分析治療においては治療者が患者の連想内容からその無意識内容を見出し、それを解釈として提供する。それは抵抗に遭いつつも徐々に患者に洞察を導く。そこには心がある種の連続性を有しつつ展開し、無意識内容が徐々に意識化されていくプロセスを前提しているために、「漸成的な想定epigenetic assumption」(Rappaport, Gill, 1959, Galatzer-Levy, 1995)とも呼ばれている。
 従来の精神分析理論においては、分析作業とはすでに無意識に存在している欲動やファンタジーを発掘する作業として捉えるという考え方に基づいていた。しかし最近の分析理論においては、無意識内容はむしろ臨床場面において生成されるという、いわゆる構成主義的な考えが提唱されつつある。それらは分析において解釈によりそれまでの「未構成の経験 unformulated experience」(Stern,2003, 2009) や「未思考の知 Unthought known」(Bollas, 1999) が生まれるという考え方に反映されているが、これらは事実上心の非線形的な在り方への注目ともいえる。
 心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナル・メッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の視覚入力により大きな影響を受ける。Bargh (2005) の研究によれば、たとえば「協力」に類する単語と、「敵対」に類する単語をそれぞれ別のグループの被験者にサブリミナルに提示した後に、他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施すると、前者のグループでは協力的な行動が増加し、後者では敵対的な行動が増加するという。あるいは老人に関係した、たとえば白髪とか杖などをサブリミナルに提示すれば、記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりするという。これらの研究の一部には、再現不可能との批判もあるものの、私たちの心の働き方の一側面を捉えていることは確かであろう。私たちの心は実に様々な内的、外的な刺激を受け、その時々で予測されなかった言動をとるものの、それを因果論に従ったものであり主体的に選択したものと錯覚する傾向にあるのであるBargh (2005)。
 非線形的な心のモデルが示す治療方針

上述した非線形的な心のモデルは、様々な意味で心理療法のあり方にヒントを与える。このモデルでは心の連続性や内的外的な諸因子との因果関係はあくまでも限定的なものとしてとらえられる。治療関係の在り方は、二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の深層学習のプロセスであると考える。治療者が行う介入は、意図せざる要素を多く含むエナクトメントとしての性質が強く、患者に及ぼされる影響も正確な予想は不可能になる。
 このような心の非線形的なあり方との関連で富樫(2011)は、従来の精神分析理論では、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことが主として転移の反映としてみなす傾向にある点を指摘する。実際には治療関係とは開放系であり、患者を取り巻く様々な関係性や外的要因との動的な相互作用が生じている。
 筆者は個人的にはこのような治療の在り方は関係論学派のI.Z. Hoffman (1998) により提案されている弁証法的構成主義の見方により包摂されているものとみている。この理論は治療関係において生じるものは常に過去の反復の要素(「儀式的 ritual」 な側面)と、新奇な要素(「自発性spontaneity」の側面)との弁証法であるという見方を唱える。このうち後者が心の非線形性により生じる心の予測不可能性に対応する。もし治療場面において生じることをこのように弁証法的に捉えた場合、治療者は患者の無意識を解釈したり将来を予見したりする役割から離れ、患者と共に現実を目撃し体験する立場となる。
 複雑系として臨床状況を捉えることは、そこに何ら確かなことは見いだせず、治療の行方も不可知である、という悲観的な見方を促すわけではない。むしろ治療場面における偶発性や不確かさを患者と共に生きることの意義を見出すような治療者の感性を育てるという意味を有するのだ(富樫、2016)。そしてそこで否応なしに関わってくるのが治療者の主観性という要素である。治療状況が刻一刻と展開する中で両者が様々な主観的な体験を持っていることは確かなことであり、治療関係は二人の主体のかかわりであるという了解から出発することで新しい治療の在り方が考えられるであろう。実際に間主観性理論の立場や関係精神分析では、両者の主観に基づく治療論が提唱されている(Benjamin, 2005, Stolorow et al, 1987)。ただしそこで具体的に考えられる治療的なかかわりのあり方については、紙幅のために別の稿に譲りたい。

参考文献

Bargh, JA (2005) Bypassing the Will: Towards Demystifying the Nonconscious Control of Social Behavior, (in) R. R. Hassin,, J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) The New Unconscious. Oxford Press.
Benjamin, J (2004) Beyond doer and done to: An Intersubjective view of thirdness. Psychoanalytic Quarterly, LXXIII, 5-46.
Bollas C (1999) The mystery of Things. London: Routledge (館直彦・横井公一監訳(2004)精神分析という経験 -事物のミステリー.岩崎学術出版社.)
Galatzer-Levy, RM(1995)Complexifying Freud: Psychotherapists Seek Inspiration in Non-Linear Sciences.: John Horgan. Scientific American. 273, 1995. Pp. 328-330.  Hoffman, I.Z. (1998) Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.
Northoff, G(2016)Neuro-philosophy and the Healthy Mind: Learning from the Unwell Brain W W Norton & Co Inc(高橋洋翻訳 脳はいかに意識をつくるのか白楊社2016年)
Rapaport, D., Gill, M.M. (1959). The Points of View and Assumptions of Metapsychology. Int. J. Psycho-Anal., 40:153-162.
Rose, J, Shulman, G eds. (2016) The non-liner mind-.psychoanalysis of complexity in Psychic Life. Karnac.
Stern, DB (2003) Unformulated Experience: From Dissociation to Imagination in Psychoanalysis. Routledge. (一丸藤太郎、小松貴弘訳(2003)精神分析における未構成の経験―解離から想像力へ.誠信書房)
Stern DB (2009) Partners in Thought: Working with Unformulated Experience, Dissociation, and Enactment Routledge(一丸藤太郎監訳, 小松貴弘訳 (2014) 精神分析における解離とエナクトメント 対人関係精神分析の核心創元社.)
Stolorow, RD, Brandchaft, B, Atwood, GE (1987) Psychoanalytic treatment: An intersubjective approach. The analytic press, Hillsdale, NJ. (丸田俊彦訳 (1995) 間主観的アプローチ―コフートの自己心理学を超えて.岩崎学術出版社.)
富樫公一 (2016)「ポストコフートの自己心理学」精神療法. 42:320-7.
富樫公一(2011)関係精神分析と複雑系の理論 岡野ほか著 関係精神分析入門―治療体験のリアリティを求めて. 岩崎学術出版社、第13章.

2017年4月29日土曜日

父の思い出 2

(承前)
 その数年前の話を少し書いてみたい。
 ある日お彼岸を過ぎた日曜日に妻と一緒に父親を訪ねた。場所はアクアラインを渡って遠くないため、渋滞に見舞われなければ一時間足らずでいくことが出来る。(運悪く渋滞に巻きこまれると…4時間、ということがかつてあった。)部屋を訪れると、父はいつにもましてぼんやりしているようであった。父は私と妻に座るところを作ってくれるということもなく、ベットの横に父親と並んで座る、というスペースもなく、なんとなく所在げなく時間が流れた。 
 すると妻がテレビ台の下をゴソゴソ探して碁盤を見つけたのである。どうやらホームの各部屋に備え付けられていたらしい十三面板であり、碁石の袋の封も切っていない代物だった。十三面とは、正式な碁盤(19×19の碁盤の目)よりかなり小ぶりの盤である。対局時間も通常の碁盤よりかなり短く決着がつく。しかし老化が進んでいる父親は、あれだけ囲碁好きなのに自分の部屋のテレビ台の奥に手つかずの碁盤が眠っていることを知らなかったらしい。そこで取り出して、安物の碁石を紙の箱に入れて碁笥代わりにし、ベッドの上に置くと、父はすでに対局してくれるらしい。それまで恍惚状態だったのが、少し意識が覚醒したらしいのだが、さっそく黒石を持って星目の一つに置こうとするので、さすがに私が遮った。後で述べるが、父は相当の碁打ちである。往年はアマ五段くらいまでは打った人だ。通常は下手が黒石を持ち、先手を打つ。アマ五級程度のヘボ碁の私が白を持つことなどあり得ない。そこで私が黒石を隅の星に打つと、父は別の星に打つ。急にスイッチが入ったかのように、背筋を伸ばして、父は碁を私と始めたのだ。ただし父は手が震えるし、石をきちんと線の交差部分に乗せないから見づらくてしょうがない。そこで私が手を伸ばして父の置いた石をちゃんと置きなおすと、父はそれを私が手を打ったのと勘違いし、自分の白石を置こうとする。私があわてて制止する。こうして怪しい感じで二人の碁は進んでいった。

2017年4月28日金曜日

父の思い出 1

  先日4月20日は父親の命日だが、久しぶりに墓参りをしていろいろ思い出すことがあった。父親は数年前のこの日の早朝に突然亡くなったが、もう90歳近くでかなり老衰が進んでいた。(この時は故人の強い遺志で完全密葬にしたので、実はどなたにも公表しなかった。)
 亡くなる2,3年前は、かなり認知能力が低下し、ときどきホームを訪れても、かろうじて私が自分の息子であることは認知できるようであるが、一緒についてくる妻についてはよくわかっていないようだった。一度私の息子(父にとっては孫である)と部屋を訪れたときには、息子の顔をまじまじと見て、「カミさんかい?」と尋ね、私は愕然としてしまった。老衰とはこういうものかと少しショックであった。その後も年に3,4回は訪れていたが、父親も見当違いな受け答えしかせずに、また狭いホームの部屋には椅子もなく、なんとなく所在無げに過ごして早々に帰ってきてしまうということが続いていた。
  実は私には一つ長年かなえたい希望があった。父親と囲碁の対局をしたかったのである。しかし目に見えて衰えていく父を見ているとそんなことを言い出せないでいたのである。そこで30年以上も囲碁の相手をしてもらうことが出来ないでいたのだ。もう当の昔に今日の日付すら分からなくなっている父親に囲碁を打てる力は残っているとは考えられなかったし、それを確かめるのも悪いような気がしていた。
 なぜ父親の死と囲碁の話が出てくるかというと、それが父親の死とかなり深く関係していたからだ。少なくとも私の中では。 (つづく)

2017年4月27日木曜日

書評:精神分析における関係性理論 ②

4月17日以来書いていなかった書評を書き終えた。イヤー、勉強になったなあ。
(承前)
 「第3章 関係性理論は心理療法の実践をいかに変えるか――古典的自我心理学と比較して」では、関係論的な枠組みにより治療がどのように変わるかについての具体的な論述がある。それは自由連想や解釈についての基本的な考え方の再考を促す。そこで強調されるのが、古典的精神分析においては「辿り着く唯一の真実」の存在が前提とされるということである。関係論においてはその代わりに、患者の中でいまだ構成されていない、いわば「解離された」自己が問題とされる。フィリップ・ブロンバーグらにより近年提唱されているこの概念は現代の関係論における一つの大きなトピックとなっている。  
 「第4章 精神分析における対象概念についての一考察 ――その臨床的可能性」と「第5章精神分析における時間性についての存在論的考察」は、本書の他の章と多少趣が異なる。両者とも精神病理の学術誌に掲載されたもので、対象の概念、および時間の概念に関するより詳細な理論的考察がなされ、哲学出身の著者の真骨頂ともいえる。第4章の骨子を述べるならば、フロイト自身の理論の変遷の中に、対象概念の変遷が見られたが、それを内在化のプロセスに従って(1)外的対象とは別に(2)内的対象を1,2,3の3種類に分けることが提案される。特にその2番目は、自我機能を一部担った内的対象として、特にボーダーライン水準の患者に見られ、トーマス・オグデンが「半ば自律的な心的機関」と呼ぶものに近づくというが、この議論は臨床的にも非常に興味深い。著者はさらにブロンバーグなどの「対象の多重化の概念」に言及され、対象の概念が関係精神分析で一つの焦点となっている点が示される。
 第5章においてはまずハイデガーの時間論が論じられ、続いてその影響下にあるハンス・レーワルドとロバート・ストロローの議論が登場する。ストロローは自らの体験をもとに、心的な外傷が生む非時間性について論じる。そしてさらなる存在論的時間論を展開する論者として再び登場するのがブロンバーグである。彼はキー概念として自己の多重性、「非直線性」を掲げ、そこでは時間性の病理についても「非直線的な多重の自己状態」と唱える。すなわち自己の非直線性は情緒的外傷をこうむることで自己の中の一貫した歴史から外れた体験として生じる。それが解離された体験とつながるのだ。
 「第6章 関係性と中立性―治療者の立つ所という問題をめぐって」では、詳細な臨床例をもとに、伝統的な精神分析における中核概念としての中立性やエナクトメントについての考察がなされる。ある日筆者はいつも持参するノートを忘れてセッションに臨み、患者がそれを指摘する。そして筆者がそれをあいまいに返したことで患者が「嘘をついた」と咎めるというやり取りが描かれる。そこで筆者は過度に謝罪的にならず、かといって自分を正当化したりもせずに「両価的で葛藤にみちた存在として」患者の前に立ち現れる。そして治療の場を葛藤を内的に扱える能力を育てる場として表現する。筆者はこのかかわりを中立性に代え、あるいはそれを超える関わりとして示しているのである。
 「第7章 行き詰まりと関係性――解釈への抵抗について」でも筆者の症例に基づくきわめて興味深い議論が展開する。本章で考察の対象になるのはエナクトメントであり、最近の関係論的な考えでは治療において何が生じているかを知る上で極めて重要な意味を果たす概念である。筆者はある症例とのかかわりにおいて、「患者が正しい答えをし、治療者は正しい解釈を行う」というエナクトメントを起こしていることに気が付く。そしてその考えを率直に患者に伝えることで治療的な進展が見られたことが報告されている。さらにそもそもエナクトメントが表しているのは、患者と治療者により解離されていた内容であり、その意味ではその内容が意味を持つためにはむしろ必然的に生じてくるという考えが示される。続いて著者はある心の内容が象徴的な理解を逃れている場合、それが具象レベルで外的に表現されるのがエナクトメントであると説明する。それは分析家バスにより「表面の防衛」と呼ばれたものであり、ブロンバーグの解離の議論につながる。ブロンバーグは表象レベルでの変化、すなわち解釈が生じる際にはエナクトメントという現実が必要であり、その際に分析家自身の多重の自己状態の自己開示が意味を持つという。そして解釈は「ブーツのつまみ問題」(説明は略す)をはらんでいるためにそこでの本来役割を果たせないという。
 「第8章 分析家の意図と分析プロセス」では実際の精神分析状況が関係論的な視点からどのように再考されうるかについて論じた章である。そこで基本的に問われるのは、私たちが「理解という誤謬」(レベンソン)にいかに陥りやすいかということを問い、その見地から中立性やブランクスクリーンの概念について、主としてホフマンに依拠しつつ論じる。続いて提示されているケースでは、患者の方が治療者をブランクスクリーンと見立てたという点が特徴的である。すなわちそれは治療者が望ましい治療態度として意図して「処方」したのではなく、患者が治療者をブランクスクリーンとして見立てたというプロセスが取り上げられ、それ自体が臨床素材として扱われる結果となったのである。関係精神分析においてはこのような伝統的な精神分析との逆転現象が生じる。
 「第9章 多元的夢分析の方法に向けて」では、フロイト以来無意識への「王道」と考えられてきた夢分析についての再考が加えられる。ここでは様々な学派から唱えられてきた夢の理論が紹介され、フロイト派において主流であった夢の内容についての分析よりはむしろ、プロセスとしての夢の意味を見出す立場が唱えられる。すなわち夢はそれが語られる文脈からも、特に転移―逆転移のエナクトメントとしても意味を持つのではないかと考えられるようになった。そしてそれは夢を解離された内容として捉えるブロンバーグの理論へ結びつく。この章に盛られている内容は膨大で、読者がそれぞれの立場から読み解いていただくしかないが、そこでは無意識内容が象徴化された形で夢となるというフロイトの定式化は遠い過去になり、夢は「生の知覚データ」(ビオン)、解離された知覚(ブロンバーグ)が意味を付与される現象であるという考え方が紹介されている。夢とはまさに治療状況という文脈において創発されるものであるという構築主義的な視点が意味を持つのである。それに続く臨床例では夢の内容を解釈するというプロセス自体が夢の内容の再現となるという一種の循環が例示され、夢はその全貌が解明されるのではなく、より一層多元的なものとなるという視点が示されている。
 全体としての印象は、その米国での臨床家としての豊富な経験から関係精神分析を概説した、極めて優れた書であるということである。著者は特に関係学派のリーダーの一人ともいえるブロンバーグからの影響が見て取られ、著者が訳したブロンバーグの「関係するこころ」(誠信書房、2014年)の参照も薦められるであろう。
 私が個人的に知る筆者は臨床能力に優れ、しかも英語はネイティブ並みながら極めて温厚な人柄で頼もしい限りである。将来日本の精神分析界を牽引していく存在であることは言うまでもなく、その存在感を示す意味を持った良書と言える。

2017年4月26日水曜日

共感と解釈 ③

 そこで私はもう一つのタイプのモティベーションとして、2.「説明してもらう」が登場する。これはある意味では治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになる。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭に収めたいということだが、要するに物事の因果関係を明らかにするということだろう。因→果の図式ほど頭にすっぽりおさめやすいものはないからだ。そしてそのためにはどうしても言葉が必要になるのだ。
「いま私には何が起きているの?」
「私はどうしたらいいの?」
すべてのせっぱつまった疑問に対する答えは、ある種の因果関係を示すことなのだ。「AだからBが起きたんだよ。」するとそれだけで納得でき、心に収めることが出来る。その中にはたとえば「起きたことは大したことないから、心配することないよ」単なる気のせいだよ。
 浅田真央さんが引退すると言うことで、ちょっと前にメディアでいろいろなシーンが流された。を送り出すときの佐藤コーチ。何かを言っている。よく聞くと「メダルを取ることなんでいいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という言葉が聞こえた。真央ちゃんはそれを真剣に聞き、納得してリンクの中央に向かって滑り出していく。あの言葉は何だろう? 今流行の言葉で言うナラティブである。一つのまとまった意味。それは私たちに安心感を与える。それがないと不安でいられないのだろう。事前は、人生はまさにカオスのふちにある。何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。そのときに一つでもそこに意味を見出すことで安心する。何となく体がだるい。何が自分に起きているのだろう?ふとのどの痛みに気がつく。熱も少しある。「そうか、風邪なんだ」と納得する。「おそらく風邪だろう」はそれより悪性の、場合によっては致命的な何かではなさそうだ、という安心感を与えるのだ。
 しかしそれにしても昔の人たちは大変だったはずだ。たとえば日食が起きて急に空が暗くなったとしても、不吉な出来事の前兆とされたのである。今の私たちだったら意味のないこのナラティブは、おそらく日蝕に関する科学的な説明、つまり何年かに一度起きる天体現象であり、無害であるというナラティブに取って代わることで私たちを安心させてくれたわけである。

2017年4月25日火曜日

トラウマと精神分析 ④

 第3点目は、解離症状を積極的に扱うという姿勢である。これに関しては、最近になって、精神分析の中でも見られる傾向であるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれない。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。
4.関係性、逆転移の重視
 関係性の重視は、患者がPTGを遂げるうえで極めて重要となる。
その際治療者の側の逆転移への省察が決め手となる。

5. 倫理原則の遵守

これについてはもう言わずもがなのことかもしれない。特にトラウマ治療に限らず常に重要なことだが、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが問われる傾向があるので、自戒の念も込めて掲げておこう。

精神分析における倫理基準(米国精神分析協会、2007年、抜粋) では精神分析家の従うべき倫理基準として以下の点を掲げている。
1.分析家としての能力 competence
2.  患者の尊重、非差別
3.平等性とインフォームド・コンセント
4.正直であること truthfulness
5.患者を利用 exploit してはならない
6.学問上の責任
7.患者や治療者としての専門職を守ること

最後に―トラウマを「扱わない」方針もありうる
 最後に蛇足かも知れないが、この点を付け加えておきたい。トラウマ治療には、トラウマを扱わない(忘れるように努力する、忘れるにまかせる)方針もまたありうるということだ。トラウマを扱う(「掘り起こす」)方針は時には患者に負担をかけ、現実適応能力を低下させることもある。もし患者がある人生上のタスク(家庭内で、仕事の上で)を行わなくてはならない局面では、トラウマを扱うことは回避しなくてはならない場合も重要となる。治療者は治療的なヒロイズムに捉われることなく、その時の患者にとってベストの選択をしなくてはならない。そしてそこには、敢えてトラウマを扱わない方針もありうるということである。

2017年4月24日月曜日

トラウマと精神分析 ③

 ということですでに示したこのカンバーグの文章のオリジナルを探したのだが、どうしても見つからないのだ! 私は幻の文章を読んだのだろうか?一番近そうな文章を探して、Otto F. Kernberg:Unconscious Conflict in the light of Contemporary Psychoanalytic Findings Psychoanalytic Quarterly, 2005 という論文を見てみたが、彼の主張は結局はあまり昔と変わっていないのだ。ただし最近のトラウマ理論とか脳科学をしっかり引用している。それでいて結局は原初的な攻撃性の話に向かってしまう。結局彼は懲りてはいないようだ!!・・・仕方がない。カンバーグの引用はやめにして、先に進もう。

関係精神分析の発展とトラウマの重視

 伝統的な精神分析理論はトラウマ理論やトラウマ関連障害の出現により逆風にさらされることとなった。精神医学や心理学の世界で近年のもっとも大きな事件がトラウマ理論の出現であった。1980年のDSM-IIIでPTSDが登場し、社会はそれから20年足らずのうちにトラウマに起因する様々な病理が扱われるようになった。国際トラウマティック・ストレス学会や国際トラウマ解離学会が成立した。現代的な精神分析(関係精神分析)は「関係論的旋回」を遂げたが、その本質は、トラウマ重視の視点であったといえる(岡野)。
 現代的な精神分析における一つの発展形態として、愛着理論を取り上げよう。愛着理論は全世紀半ばのジョン・ボウルビーやルネ・スピッツにさかのぼるが、トラウマ理論と類似の性質を持っていた。それは精神内界よりは子供の置かれた現実的な環境やそこでの養育者とのかかわりを重視し、かつ精神分析の本流からは疎外される傾向にあったことである。乳幼児研究はまた精神分析の分野では珍しく、科学的な実験が行われる分野であり、その結果としてメアリー・エインスウォースの愛着パターンの理論、そしてメアリー・メイン成人愛着理論の研究へと進んだ。そこで提唱されたD型の愛着パターンは、混乱型とも呼ばれ、その背景に虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい。(ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳 (2016) 身体はトラウマを記録する―脳・心・体のつながりと回復のための手法 紀伊国屋書店)
 最近精力的な著作を行うアラン・ショアの「愛着トラウマ」の概念はその研究の代表と言える。ショアは愛着の形成が、きわめて脳科学的な実証性を備えたプロセスであるという点を強調した。ショアの業績により、それまで脳科学に関心を寄せなかった分析家達がいやおうなしに大脳生理学との関連性を知ることを余儀なくされた。しかしそれは実はフロイト自身が目指したことでもあった。

トラウマ仕様の精神分析理論の提唱
 以下にトラウマに対応した精神分析的な視点を提唱しておきたい。それらは


1. トラウマ体験に対する中立性
2. 「愛着トラウマ」という視点
3. 解離の概念の重視
4. 関係性、逆転移の視点の重視
5. 倫理原則の遵守
の5点である。

 第1点は、トラウマに対する中立性を示すことである。ただしこれは決して「あなたにも原因があった、向こうにも言い分がある」、ではなく、何がトラウマを引き起こした可能性があるのか、今後それを防ぐために何が出来るか、について率直に話し合うということである。この中立性を発揮しない限りは、トラウマ治療は最初から全く進展しない可能性があるといっても過言ではない。
 第2点は愛着の問題の重視、それにしたがってより関係性を重視した治療を目指すということである。フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということであった。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在である。私が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということだ。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性があります。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。

関係精神分析入門 ②

4月10日の続きである。

フロイトの何を問題視しているのか?


 まず関係論が始まったきっかけについての議論なのですが、おそらく一番問題とされたのは、理論と現実の齟齬、ということでしょう。フロイトの理論に従えば治療がうまく行くのであれば、全く問題がないわけです。ところがそうではなかった、というよりはそうではないケースがたくさんあることが分かったのです。
 フロイトの理論の根幹部分は、治療者が受け身であることで、患者の無意識が自然に展開していく、という考え方です。実は私自身まさにそのようなケースを体験しています。私が黙って聞いている一方で、病理が展開していく。このような考え方と真っ向から対立するのが、臨床場面においては何が起きるかわからない、あるいは新しい何かが創造されていく、という考え方です。この二つの考え方は全く対立し、本来は両者が少しずつ存在しているにもかかわらず、どちらかに偏った見方がなされることが多い。
 もちろん非常に治療的なセッションが、治療者の方が黙って話を聞いていくうちに展開していくということもあるでしょう。ただしそこでも何かが両者の中で起きていて、それは何かが醸成されていく、創りだされていくというニュアンスなのです。少なくともフロイトとは違うことが、両者の間の、いわばブラックボックスの中で起きてくる。それを直視しようという考え方が出現しました。対人関係論も、対象関係論も、そのような流れだったと思います。

従来の関係精神分析のたどった(道中略)

 さてこのお話の後半は、新・無意識についてお話しします。



2017年4月23日日曜日

トラウマと精神分析 ②

 精神分析の立場からトラウマ理論に対して一種の失望の気持ちを持っていることはこの様な経緯を考えればある程度仕方のないことなのかもしれない。たとえば精神分析家の藤山氏は、以下のように書く。
「・・・プレ・サイコアナリシスというか精神分析以前、「ヒステリー研究」の頃のフロイトの考えでは、患者はどちらかというと環境の犠牲者なんです。これは例えば最近のハーマンなどの外傷をやっている人たちの理論と非常に近いんですね。つまり人間の心の病気というのは、心的外傷に基づいているものだという、そういうことになってしまいます。・・・」
(藤山直樹 集中講義・精神分析(上)  岩崎学術出版社 2008年)
 精神分析の立場にもある筆者にはこの藤山の記述も分かる気がする。確かにトラウマを強調することは、ある種の単純化や還元主義に向かう傾向は確かにあるであろう。ただし時代の趨勢としてはトラウマの役割を無視できないということは以下のカンバーグの記述にもうかがえるであろう。
「…私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなり易さであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発達にとって有する重要性についての最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ…)」。(Kernberg, O.,1995)
 カンバーグと言えば、1970年代から80年代にかけて境界パーソナリティ障害についての理論を打ち立て、精神医学界にも大きな影響を与えた人物であるが、その病院論としてはクライン派の理論に基づいた患者の持つ羨望や攻撃性が強調された。そのカンバーグの立場の変化はおそらく精神分析の世界におけるトラウマの意義の再認識が起きていることを象徴しているように思える。

2017年4月22日土曜日

共感と解釈 ②

10日ぶりのこのテーマだ。誰も覚えていない(読んでいない?)だろう。

私が以上の論述から何を言いたいのか? おそらく私たちが治療の目標としてしばしば掲げる「自分をもう少し知りたい」は、きわめて条件付きということである。そして「自分をより知ること」を治療の第一の目標として掲げることをやめる時、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻るということだ。

精神療法とは何をするところなのか?
 
ここまで戻ることをお許し願いたい。実は精神療法とは何をするところなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを定義することが出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングという立場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストとクライエントが一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そしてクライエントが再びセラピストが訪れる意欲や動機を持ち続ける限りはそのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的なこと(たとえばセッション中の逢引)、あるいは通常の精神療法で生じること以外のこと(たとえば囲碁や将棋に興じる、マッサージを施す、家庭教師をするなど)が起きていない限りは、それは精神療法として成立するのである。
 そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが維持されるのかを考える。実は私は「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。それ以外を考えよう。私は二つを提案したい。
1 自分の話を聞いてもらい、分かってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して説明をしてもらうこと。
 他にもあるかもしれないが、これら二つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。1.に関しては、人が自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかしそれだけではないだろう。

2017年4月21日金曜日

トラウマと精神分析 ①

トラウマと精神分析

抄録
精神分析という世界の内側にいると、分析的なアプローチへの批判や猜疑心だけではなく、期待も聞こえてくる。トラウマに対する治療に関する精神分析への期待とは、「トラウマを扱うだけでなく、より深層からアプローチし、洞察を求 める」ことになろう。そして精神分析を専門的に用いる治療者にも、多くの場合はそのような自負ないしは覚悟がある。 このような期待は、精神分析の理論が時は非常に複雑かつ難解で、そのトレーニングシステムも複雑かつ重層的であり、 その分深遠に映ることにも起因しているであろう。しかし精神分析の内部に身をおく立場としては、「洞察を求める」というプロセスや手続き自体が決して明快ではなく、 また容易ではないという事実の認識がある。無意識の探求とは、フロイトが想定していたものとは異なり、まさに海図のない航海と形容すべきものである。また「洞察を求める」ことは理想的には「トラウマを扱う」ことの先にあり、両者は 深く結びついているはずなのであるが、実はこの両方のアプローチは微妙に矛盾し、齟齬をきたす可能性がある。その根 底には、伝統的な精神分析の基本方針は、トラウマを扱う基本的な仕様を備えていなかったという事情がある。  本発表ではこのような背景を踏まえて、トラウマ治療における「共通因子」の問題について精神分析の立場から論じた。

はじめに
 筆者は精神分析家としてのこれまでの精神分析学会での活動のほかに、トラウマティック・ストレス学会での活動も行ってきた。そこで両方の学会に属する臨床家の声を聴くことが多いが、一つ印象的なことは、トラウマを治療する人々から精神分析に「期待」には以下のようなものが聞かれることである(岡野、2016)。

  • 精神分析はトラウマに起因する症状よりもより深層にアプローチし、洞察に至るものである。
  • トラウマに関連した症状が扱われた後に本格的に必要となるプロセスである。
  • 患者の持つパーソナリティ傾向に働きかける用意がある。
  • 精神分析のトレーニングを経た治療者が、特権的にその治療を行う事が出来る。
 これらの期待は現在の精神分析に向けられうるのだろうか? その疑問を胸にこの論述を始めたい。

伝統的な精神分析とトラウマ理論


 さて精神分析家としての私としては、多少なりとも自戒の気持ちを持って次の点を明らかにしなくてはならない。それは伝統的な精神分析は残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということである。すなわちトラウマを経験した患者に対して治療を行う論理的な素地を十分に有していてなかったということだ。それを説明するうえで、精神分析の歴史を簡単に振り返る必要がある。
 フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。その年の9月にフリースに向けて送った書簡(マッソン編、2001年)に表された彼の変心は精神分析の成立に大きく寄与していたと言われている。単純なトラウマ理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したことが、フロイトの偉大なところで、それによって事実上精神分析の理論が成立した、と言うことである。この経緯もあり、精神分析理論は少なくともその古典的な立場をとるものにとっては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的な要素、ネガティブなニュワンスを負わざるを得なくなった。
 その後フェレンチによる性的外傷を重視する態度に対しては冷淡であった。これなども驚くべきことである。フロイトが1897年以前に行っていたことをフェレンチは繰り返しただけなのに、彼もまた黙殺、あるいはそれ以上のことをされてしまったのだ(Masson, 1984)。フロイトは同時代人のジャネの解離の概念を軽視した。これも全く同じ理由である。


岡野憲一郎:トラウマの心理療法で共通因子を探る―精神分析の立場から(シンポジウム:トラウマの心理療法)日本トラウマティック・ストレス学会総会第15回大会 (2016年5月20日 仙台国際センター)
J.M.マッソン 編 河田 晃 訳 フロイト フリースへの手紙 1887-1904 誠信書房, 2001年
Masson, JM The Assault on Truth: Freud's Suppression of the Seduction Theory (Farrar, Straus and Giroux、1984

2017年4月20日木曜日

カオスの淵 ①

 どうして意識はカオスの淵になぞらえることが出来るのか?
 ちょっと予備知識を。理論生物学という分野がある。その分野でスチュアート・カウフマンという大御所が、生命の発生と進化には自然淘汰の他に自己組織化が必要であると主張した。そして生命活動とはそもそも完全な秩序と混沌との間にある、カオスの淵と形容すべきところで発展すると説いたのだ。
 もちろんこれだけではわからない。そこでもう少しさかのぼってみる。かの有名なサンタフェ研究所というのがある。アリゾナ州サンタフェ。私も行ったことがあるが、赤土ばかりの場所だ。そこにある複雑系の研究で知られるのがこの研究所であるが、クリス・ラングトンという人がいて、彼が提唱している人工生命論というのがある。コンピュータ上で簡単な規則を与えて自己増殖をさせるのだ。そのセルの動きを追うと、全く変化が止まってしまうものと、激しく動き回るが決して落ち着くことのないカオス状態になる群があり、その中間は複雑に成長・分裂・合体する生命体のような動きをする。これがカオスの淵と呼ばれるようになったというわけである。にそっくりな遷移規則を作り出すものがあった。
 物理現象で、例えば自ら水蒸気に変わるという現象を相転移というが、これもまたカオスの淵と考えられている。
 さてこれと思考との関係である。そこで人間の行動を考えると、全く声を出さないし思考がほとんど動かない状態などがうつ状態でみられる。またそれとは逆に思考が飛んでしまい、支離滅裂になってしまう状態も精神病でみられる。前者は秩序が過剰、後者はカオスと考えると、特に創造性を伴った思考というのはこの中間にあり、まさにカオスの淵ということがある。そしてカオスの淵に特徴なのは予測不可能性なのだ。

2017年4月19日水曜日

書評 精神分析における関係性理論 ③

「第7章 行き詰まりと関係性――解釈への抵抗について」も筆者の症例に基づくきわめて興味深い議論が展開する。本章で考察の対象になるのはエナクトメントであり、それが最近の関係論的な考えにおいては治療において何が生じているかを知る上で極めて重要な意味を果たす。筆者は症例とのかかわりにおいて、症例が正しい答えをし、治療者は正しい解釈を行うというエナクトメントを起こしていることに気が付く。そしてそれをかなり率直に患者に伝えることで治療的な進展が見られたことが報告されている。そしてそもそもエナクトメントが表しているのは、患者と治療者により解離されていた内容であり、その意味ではその内容が意味を持つためにはむしろ必然的に生じてくるという考えが示される。
 ここでおそらくとても大事なのだが私にわからないことが書いてある。ある心の内容があり、それが象徴的な理解を逃れている場合、それが具象レベルで外的に表現されることがあり、それがエナクトメントとなる。つまりエナクトメントは象徴化への防衛であり、それをバスは「表面の防衛」と呼ぶという。これはブロンバーグの解離の議論にも関連する。ブロンバーグは表象レベルでの変化、すなわち解釈が生じる際にはエナクトメントという現実が必要であり、その際に分析家自身の多重の自己状態の自己開示が意味を持つという。それは解釈ではうまく行かず、それは解釈は「ブーツのつまみ問題」をはらんでいるからだという。
 「第8章 分析家の意図と分析プロセス」では実際の精神分析状況が関係論的な視点から以下に再考されうるかについて論じた章である。そこで基本的に問われるのは、私たちが「理解という誤謬」(レベンソン)にいかに陥りやすいかということを問い、その見地から中立性やブランクスクリーンの概念について、主としてホフマンに依拠しつつ論じる。続いて提示されているケースでは、患者の方が治療者をブランクスクリーンと見立てたという点が特徴的である。すなわちそれは治療者が望ましい治療態度として意図して「処方」したのではなく、患者が治療者をブランクスクリーンとして見立てたというプロセスとして重要であり、それ自体が臨床素材として扱われる結果となった点である。関係精神分析においてはこのような伝統的な精神分析との逆転現象が生じる。
「第9章 多元的夢分析の方法に向けて」ではフロイト以来無意識への「王道」と考えられてきた夢分析についての再考が加えられる。ここではフロイト以来様々な学派から、夢の分析への異論が唱えられてきたことが紹介され、フロイト派において主流であった夢の内容についての分析から、プロセスとしての夢の意味を見出す立場が唱えられる。すなわち夢はその内容だけでなく、それが語られる文脈にも、特に転移―逆転移のエナクトメントとしても意味を持つのではないかと考えられるようになった。そしてそれは夢を解離された内容として捉えられるブロンバーグの理論へ結びつく。この章に盛られている内容は膨大で、読者がそれぞれ読み解いていただくしかないが、そこでは無意識内容が象徴化された形で夢となるというフロイトの定式化は遠い過去になり、夢は「生の知覚データ」(ビオン)、解離された近く(ブロンバーグ)が意味を付与される現象であるという考え方が紹介されている。夢とはまさに治療状況という文脈において創発されるものであるという構築主義的な視点が意味を持つのである。それに続く臨床例では夢の内容を解釈するというプロセス自体が夢の内容の再現となるという一種の循環について例示され、夢はその全貌が解明されるのではなく、より一層多元的なものとなるという視点が示されている。
 全体としての印象は、関係精神分析の概説書として、そしてブロンバーグの理論の適切な導入を行っていることである。それは著者がブロンバークによる著書を訳したことからもうかがえることだ。

2017年4月18日火曜日

精神分析における関係性理論 ②

 「第3章 関係性理論は心理療法の実践をいかに変えるか――古典的自我心理学と比較して」では、関係論的な枠組みにより治療がどのように変わるかについての具体的な論述がある。それは自由連想や解釈についての基本的な考え方の再考を促す。そこで強調されるのが、古典的精神分析における「辿り着く唯一の真実」の措定である。関係性理論においてはそれを前提とせず、その代りに措定されるのが、患者の中でいまだ構成されていない解離された自己である。ブロンバーグらにより近年提唱されているこの概念は関係性理論における一つの重要な概念と言える。  
「第4章 精神分析における対象概念についての一考察 ――その臨床的可能性」と「第5章精神分析における時間性についての存在論的考察」は本書の他の章と趣が異なる。両者とも精神病理の学術誌に掲載されたもので、対象の概念、および時間の概念に関するより詳細な理論的考察であり、哲学出身の著者の真骨頂ともいえる。第4章の骨子を述べるならば、フロイト自身の理論の変遷の中に、対象概念の変遷が見られたが、それを内在化のプロセスに従って(1)外的対象、(2)内的対象を1,2,3の3種類に分けられる。特にこの(2)-2は自我機能を一部になった内的対象として特にボーダーライン水準の患者に診られ、Ogden が「半ば自律的な心的機関」と呼ぶものに近づくというが、この議論は臨床的にも非常に興味深い。著者はさらにブロンバーグなどの「対象の多重化の概念」に言及され、対象の概念が関係精神分析で一つの焦点となっている点が示される。
  第5章における時間論をハイデガーの時間論を引き合いにして論じる。そこでは主としてレーワルドとストロローが登場する。ストロローは自らの外傷体験をもとに、それが生む肘陥穽について論じる。そしてさらなる存在論的時間論を展開する論者として再び登場するのがブロンバーグである。彼は多重性、「非直線性」(非線形性)を掲げ、その中で時間についても「非直線的な多重の自己状態」と唱える。すなわち自己の非直線性は情緒的外傷をこうむることで自己の中の一貫した歴史から外れた体験として生じる。それが解離された体験として説明されるのだ。
  「第6章 関係性と中立性―治療者の立つ所という問題をめぐって」では、比較的詳細な臨床例をもとに、伝統的な精神分析における中核概念としての中立性やエナクトメントについての考察がなされる。ある日筆者はいつもは用いるノートを忘れてセッションに臨み、いつもは従順だった患者がそれを指摘する。そして筆者がそれをあいまいに返したことで患者がそれを「嘘をついた」と咎めるというやり取りが描かれる。そこで筆者は過度に謝罪的にならず、かといって正当化したりもせずに「両価的で葛藤にみちた存在として」患者の前に立ち現れる。そして治療の場を葛藤を内的に扱える能力を育てる場として表現する。筆者はこのかかわりを中立性に代え、あるいは超える関わりとして示しているのである。

2017年4月17日月曜日

書評:精神分析における関係性理論 ①

書評:吾妻壮「精神分析における関係性理論」 
その源流と展開  吾妻壮著 誠信書房 2016年

本書は比較的ボリュームは少ないが、著者の渾身の力を感じさせるものである。著者は物静かであるがエネルギーを秘めた若手分析家吾妻氏である。はじめに全体の流れを概観しよう。 
「第1章 関係論を理解する」では関係論とは何かについての概説があり、その関係論を狭義なものと広義なものに分け、さらに対象関係論と間主観性理論と対人関係的精神分析の比較を行う。おそらく米国で自我心理学的な環境と対人関係論的環境を、自身のトレーニングを通して身を持って体験した氏だからこそ論じることが出来るのであろう。そして関係論が実は折衷主義ではなく多元論であり、「相入れないものをそのまま受け入れる」という事情が示される。そしてこの緩く、かつ広い流れの成立には、起爆剤としてのグリーンバーグ、ミッチェルの業績があったことが確認される。
「第2章 サリヴァン、対人関係論、対人関係的精神分析」ではサリバン派が米国の精神分析に果たした役割が紹介される。あまりに「反動的」であったサリバン派を精神分析の本流に位置づける上でのグリーバーグ、ミッチェルの業績の意味が改めてうかがえる。本章ではいわゆる自己の多重性及び最近の精神分析の一つのトピックである解離理論に触れられ、その源流がサリバンにあったという事情が示される。

2017年4月16日日曜日

脳科学と精神分析 推敲 ③

 富樫の論文(2011)は我が国においてこの問題について精神分析の観点から論じた本格的なものである。その中で富樫は、従来の分析においては、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことがことごとく転移の反映としてみなす傾向を促す点を指摘する。しかし実際は治療関係とは開放系であり、そこに様々な系とのインターラクションが起き、また治療中に起きた出来事と患者の言動との因果関係は予測不能となる。ただし複雑系として物事を見ることは、何も確かなことはわからなくなるという悲観的な見方を促すのではなく、むしろそこで新しい現実を見る力を養うことを意味する。富樫も非線形性や複雑系理論は、治療者の感性を根本から変えるという点を指摘する。
 富樫公一(2011)関係精神分析と複雑系の理論 岡野ほか著 関係精神分析入門―治療体験のリアリティを求めて 岩崎学術出版社、第13章

 これまで見たように、非線形性の理論は従来の精神分析的な枠組みを描き出すことに最も力を発揮する印象があるが、将来の精神分析的な治療の在り方にはきわめて大きな可能性を開いているように思う。従来の分析的な伝統や枠組みにとらわれる根拠が乏しくなると同時に、治療として役立つ可能性のある介入の幅はそれだけ広がることになる。
 私は個人的には治療関係の在り方は二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の「ディープラーニング」のプロセスであると考えられる。そしてそこでの治療者の言葉はどのように患者に伝わり、受け取られるかは基本的には不可知である。そしてそこには治療者の解釈的な介入をも含む。治療者はある種の解釈的な介入を行った際は、それにより患者の心に何が起きているかについての注意深さや、それについての積極的な問いかけを必要としているであろう。治療者は受け身的に患者の自由連想に任せるだけでは済まなくなっていくのである。
 さらにそこでの治療者の解釈も、その意味合いは大きく異なることになる。治療者は患者の言動の裏にある無意識的な動機について気が付くかもしれない。そしてその気づきの信憑性や妥当性については、おそらくそれを保証するものはきわめて限られていることになる。なぜなら患者の言動の意味もまた不可知的だからである。治療者は自らの解釈がいかに自らの主観に由来するかということを理解しておかなくてはならない。
 治療者の主観性と述べたが、おそらくそこで治療者が自信を持って用いることが出来るのは、患者の連想に対する主観的な反応なのである。それは治療者が自らに正直であるならば、おのずからわかる一次資料なのである。それを必要に応じて用いていくという作業しかないであろう。そこでは実は解釈も主観的な反応に含まれる。患者の言葉にある背後の意図を感じ取る。その真偽はともかくそれは紛れもなく主観的な体験なのである。そしてそれはきわめて注意深く、あくまでも仮説的に検証されなくてはならないのである。

2017年4月15日土曜日

脳科学と精神分析 推敲 ②

非線形的な心のモデルが示す治療方針

 上述した非線形的な心のモデルは様々な意味で治療的なアプローチの再考を促すことになる。非線形的な心のモデルは、心の連続性をあくまでも限定的なものとするため、いわゆるヒアアンドナウ的な考え方もより限定されたものとなる。例えば現時点での患者との治療関係の在り方は前セッションの内容から説明される部分もあれば、その間の患者の現実生活で生じたこの影響も受け、またそれ自体が不連続的な形で生じているという可能性もある。さらには治療場面において治療者が行う介入についても、少なくとも治療者の意図した影響と、実際に患者に及ぼされる影響には連続性がなく、時には全く反応がなかったり、思いがけない反応をおこしたりする。
 さらには伝統的な精神分析にとって根幹部分をなす転移の理解も異なってくる。過去の対象関係が現在の治療者へ投影され、その関係性が繰り返されるという想定もまた、患者の心に連続性を想定した、前出の漸成的な前提に依拠するところが大きい。
 このような捉え方は、フロイトが重層決定として表現したものに近いことになる。しかしフロイトの理論が依然として決定論的な色彩を持っていたとしたら、非線形的な心はそこに偶発性contingency が加わった考え方といえるだろう。つまり治療関係において生じることは沢山の要素によって決定されるだけでなく、そこで新たな偶発的で予想不可能な形での展開を見せる。
 このような心の非線形的なあり方は、現代コフート派によりさまざまに論じられているという。それを包括したうえで富樫(2016)は、治療者が偶発性や不確かさを共に生きることの意義を強調している。
 筆者は個人的にはこのような治療の在り方はHoffman により提案されている弁証法的構成主義の見方により包摂されているものとみている。治療関係において生じるものは常に過去の反復の要素(彼の言う儀式的 ritual なもの)と、新奇な要素(同じく、自発性spontaneityによるもの)との弁証法であるという見方を唱える。もし治療場面において生じることをこのように捉えるとした場合、治療者はそこで生じることを予見したり解釈したりする役割から離れ、患者と共にそれを目撃 witness し、体験する立場となる。そしてそこで否応なしに関わってくるのが治療者の主観性という要素である。
富樫公一「ポストコフートの自己心理学」(精神療法 42:320-7、2016)

2017年4月14日金曜日

脳科学と精神分析 推敲 ①

 近年の神経科学の発展には目覚ましいものがある。PET(陽電子放射断層撮影)やfMRI(磁気共鳴機能画像法)等の脳機能イメージングの技術の発展とともに、脳科学的な研究を通して得られるデータは膨大である。それとともに私たちは心の働きと照合されるような脳の活動をリアルタイムで追うことが出来るようになってきている。他方では囲碁や将棋ソフトの発展に見られるようなディープラーニングによる人工知能の飛躍的な発展も注目に値する。
 しかし私たちの日常臨床は、その脳科学的な進歩に見合うほどの発展を遂げているとはとても言い難い。臨床家は依然として素朴な因果論や象徴理論に依拠する傾向にある。診断も精緻化されているとは言えず、また投映法をはじめとする心理テストの実証性について疑問が向けられることも少なくない。その意味では脳科学時代の心理療法は、その両者の架け橋の相対的な欠如、あるいは前者の成果が後者にほとんど反映されていないことが特徴といえよう。後者の科学性はもっぱらその効果についての「実証性」が求められるようになっているという文脈に留まっている。
 そこで本稿では現代の脳科学が示す心の在り方という点から考えたい。ただし最近の脳科学的な知見を網羅することは不可能なため、本稿では心の非線形性という文脈に限定して論じよう。
脳科学の進歩が示唆する心の在り方

最近の脳科学は心についての新しいモデルを提供している。フロイトは精神分析の理論を提示した際に、そこに心についての明確なモデルを打ち出し、それはいわゆる局所論モデルから始り、構造論モデルとして結実した。ただし当時の脳科学の知見は極めて限定されていた。フロイトは中枢神経系がニューロンという微小な単位により構成されているということのみを手がかりにして、リビドーの概念を元に心のモデルを構成したが、それはその時代では精一杯だったといえる。現在の脳科学が示す心のモデルは、ニューラルネットワークモデルに依拠したものであり、そこで繰り返し示されるのが、精神活動の持つ非線形性である(Rose, Schulman,2016)。非線形性とは原因と結果の大きさに対応性がなく、心に働くどのような原因がどの様な種類や大きさの結果をもたらすかは基本的には予測不可能な性質を有する。そのような心の性質は脳の活動が安静時においてすでに見せる「通時的な不連続性」(ノルトフ、2016)という性質によっても裏付けられる。
 このような心の捉え方は、従来の伝統的な精神分析理論には全くなじまないものであった。分析家は分析治療において患者の連想内容から患者の無意識内容を見出し、それを解釈として提供する。それは患者の抵抗に逢いつつも徐々に洞察を導く。そこには心がある種の連続性を有し、無意識内容が徐々に意識化されていくプロセスを治療者が受身性を保ちつつ促進するという見方がなされる。それは心の深層が徐々に明らかにされるという意味で「漸成的な想定epigenetic assumption」(Rappaport, Gill, 1959, Galatzer-Levy、1995)とも呼ばれている。
 近年の精神分析理論においては、精神分析的な営みを無意識にすでに存在している欲動やファンタジーを発掘する作業として捉えるという考え方にかわり、それが臨床場面において生成されるという、いわゆる構成主義的な考えが提唱されつつある。それらは分析において解釈によりそれまでの「未構成の経験 unformulated experience」(Stern,1983,1989)や「未思考の知 Unthought known」(Bollas, 1999) が生まれるという考え方に反映されているが、これらは事実上心の非線形的な在り方への注目ともいえる。
 心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナルメッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の視覚入力により大きな影響を受ける。しかもその影響を受けた自分の決断を自らの意志として把握するという性質を示す。その際、直前性priority, 一貫性consistency, 他の可能性が不在であることexclusivityという三条件(Wegner, 2002)が整えば、私たちはそれを自分が意図的に行った(すなわちそこに意思と結果の間の因果関係が成り立ち、その意味で線形成を想定する傾向にある。言い換えれば私たちの心は実に様々な事柄により、内的、外敵に刺激を受け、その時々で予測されなかった行動をとるものの、それを因果論に従ったものと錯覚する傾向にあるのだ。ところが私たちの言動のあり方はむしろ不連続的な言動そのものにより既定され、それを説明するようなナラティブが生み出される可能性があるのだ。そのような心のあり方は、むしろゲーム理論により唱えられたものに近いかもしれない。すなわち「私たちの言語的振る舞いが先にあり、それが精神的経験や内的感覚をもたらすのである(Wittgenstein, 1965)」。
James Rose, Graham Shulman eds. (2016) The non-liner mind-.psychoanalysis of complexity in Psychic Life. Karnac.
Georg Northoff(2016)Neuro-philosophy and the Healthy Mind: Learning from the Unwell Brain W W Norton & Co Inc(ゲオルク・ノルトフ (著), 高橋 洋 (翻訳) 脳はいかに意識をつくるのか白楊社2016年)
Stern, DB Unformulated Experience: From Dissociation to Imagination in Psychoanalysis. New Jersey,: American Press. 一丸藤太郎、小松貴弘(訳)(2003)精神分析における未構成の経験―解離から想像力へ.誠信書房。
Bollas C (1999) the mystery of Things. London: Routledge 館直彦・横井公一(監訳)(2004)精神分析という経験 -事物のミステリー.岩崎学術出版社.
Robert M. Galatzer-Levy(1995)Complexifying Freud: Psychotherapists Seek Inspiration in Non-Linear Sciences.: John Horgan.Scientific American. 273, 1995. Pp. 328-330.
Rapaport & Gill (1959) write, 'All psychological phenomena originate in innate givens, which mature according to an epigenetic ground plan. This assumption underlies, for example, all the propositions concerning libido development …' (p.159). RAPAPORT, D. 1959 The Structure of Psychoanalytic Theory New York: Int. Univ. Press.
Wegner,DM (2002)the Illusion of Conscious Will.Cambridge,MA MIT press
Daniel M Wegner  who is the controller of controlled process? In R. R. Hassin,, J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) (2005) The New Unconscious Oxford.
Wittgenstein, L/ (1965) The Blue and the Brown Book. New York: Harper Torch Books.

2017年4月13日木曜日

ナルシシズムの観点から見たフロイトの人生

 精神分析の祖としてのフロイトの人生をたどると、彼が確立した分析理論とは大きく異なる文脈が見えてくる。それは精神分析の理論を確立し、発展させていくプロセスで同時に進行していた、フロイトの自己愛やその傷つきである。それは精神分析理論そのものの中には組み込まれることはなく、むしろことさらに切り離されていた観すらある。ここであらためて問われるべきなのは、「精神分析の祖は自己愛的な人間だったのか?」ということだ。人間フロイトを動かしていたもっとも大きなものは具体的な他者から肯定され認められることであり、その意味で彼の人生は「自己対象」を追い求めていた人生であった。フロイトはまさに「コフート的」な世界に生きていたようである。彼の研究や創作を支えた人々はブロイアー、婚約時代のマルタ、フリース、フェレンチ、ユング、そして娘のアンナであった。彼らは人生の一時期、フロイトの良き聞き役であった。フロイトは彼らに話を聞いてもらい、わかってもらっていると感じる限り、良好な関係を保った。そして彼らがそのような役割を果たせなくなった時は、フロイトは彼らから精神的に遠ざかっていった。もしフロイトがコフート的な治療者を一生持ち続けたら、フロイトの交友関係はもっと安定したものになっていた可能性があるだろうと思う。でもそうなっていたら、二十数巻の全集を生むようなあれほどの多産さを示したかどうかはわからない。
 フロイトの人生を考える上で一つの仮説として考えられるのは、彼の人生の後半になり、その自己愛の質が変って行ったのではないか、ということである。結論から言えば、フロイトの自己愛的な欲求は、彼が業績を積み、地位を確立していくにしたがって、私の考える自己愛の第一のタイプから第二のタイプに変わっていったと考えられるのだ。第一のタイプは,話を聞いてもらえるだけでとりあえず満足するような,つまりコフートのいうミラーリングを体験することで満たされるような種類のものである。ここで他者から受け入れて欲しいものは,自分の存在そのもの、と言うことができよう。そして第二のタイプでは,人は自分の存在そのものというよりは、自分を定義するような何か、自分が持っている何かについて見てもらい認めてもらうのだ。つまりこの場合,「わかって欲しい」ものは,自分の持っているもの、自分に属しているもの、と言うことができまる。自分が持っているものイコールファルス、と考えるならば、前者はプリエディパルな内容が扱われ、後者はエディパルな色彩を持つと言えるだろう。
 この第一から第二のタイプの自己愛への推移は、フロイトのフリースとの関係とユングとの関係の違いに顕著に表れているといえるであろう。フリースはおそらくフロイトが第一のタイプの自己愛を満たすための相談相手であったのに対して、ユングはフロイトの第二のタイプの自己愛に関わっていたのだ。
 フロイトの第二のタイプの自己愛の肥大は、精神分析理論の進展の在り方に大きく関与した。1900年代にユングとの関係にのめり込むようになり、さかんに手紙を交わすようになったフロイトは、自分の方が20歳も年上であることもあり、相手に対して自分の説を全面的に受け入れる事を期待し要求するような、絶対的な師弟関係を求めるようになる。そしてフロイトは自分の説に関してはかなり頑なで、融通が利かなくなっていった。これはむしろ自分がこれまで積み上げた理論や精神分析の組織が、自分を取り囲む自己愛的な衣服や鎧のようになり、それを防衛することにエネルギーを注ぐようになったことを意味していたのだ。
 ここでナルシシズムの問題が学問の発展を阻むということは実際に生じるのだろうか? おそらくそうであろう。もちろん学問の基本は真実の発見であり、それが研究者の意欲を掻き立て、その成果を公表し、さらなる研究を継続することになる。しかし研究者としての成功が当人のナルシシズムを肥大させていく。フロイトは自分の中に、そして幾人かの患者の中に、父親に対する激しい憎しみと去勢の脅しがあることを発見した。あるいはコフートが「自己対象」の概念に行きついた際には、ある鉱脈をつかんだという感覚があったのであろう。そこには真実の追求への情熱が大きな役割を果たしたことになる。しかし問題はそれが一般化されるプロセスで「自己愛的な過ち」が混入する可能性である。その理論を過剰評価し、それで物事をことごとく説明しようとする。今「偉大なる失敗──天才科学者たちはどう間違えたか」(マリオ リヴィオ著、 千葉敏生訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2017年)という本を読みかけているが、彼らの偉大なる失敗の一部はそこら辺からきているようだ。そしてもちろんそれを発見者のナルシシズムのせいだけにすることはできない。彼らの周りに集まり、学派を形成した弟子たちの手で誤りが継承されることはいくらでもあるからだ。

2017年4月12日水曜日

脳科学と精神分析 ⑥

 心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナルメッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の入力により大きな影響を受ける。しかもその影響を受けた自分の決断を自らの意志として把握するという性質を示す。言い換えれば私たちの心は実に様々な事柄により、内的、外敵に刺激を受け、その時々で行動をとるものの、それを漸成的なものとして錯覚するという性質を有するのだ。

非線形的な心のモデルが示す治療方針

 上述した非線形的な心のモデルは様々な意味で治療的なアプローチの再考を促すことになる。非線形的な心のモデルは、例えば現時点での患者との治療関係の在り方が前セッションの内容から説明されるという考え方への信憑性があまりなくなる。前セッションと時点と現セッションとの間の連続性を保証できないからである。さらには患者への解釈等のかかわりが患者に与える影響も同様に考えることが出来る。少なくとも治療者の意図した影響と、実際に患者に及ぼされる影響には連続性がなく、時には全く反応がなかったり、思いがけない反応をおこしたりする。
勿論心のモデルの変化は、幼少時の養育者とのかかわりが現在の彼の対象関係を形作り…という図式そのものの信憑性を低下させる。転移そのものの生じ方の理解も変化する。線型的なモデルは心のシナリオは潜在的に存在していて、それはたとえば無意識的な欲望やファンタジーが明らかにされるという形で展開していく。それが先ほど述べた漸成的な前提であり、精神分析的な解釈はそれを発掘するという形をとる。しかし非線形的なモデルはそれとは異なる。
  Rappaport Gillは、この漸成的なモデルに対置するものとして学習理論を挙げているが、それは意味がないことはない。現代的な分析理論では、それを構成主義的に考える。すなわちそれは真実が無意識に埋もれていて、それが発掘されるという考えだった。

2017年4月11日火曜日

共感と解釈 ①

共感と解釈
人は果たして自分のことを知りたいのか?
Hoffmannが次のように述べている。
「最初に私が顕在的な問題について、真摯で幅広い関心を示したならば、潜在的な意味についての共同の探索はしばしばその後にやって来るであろう。しかしそれだけでなく、学習されたものはそれが何であっても、常に生々しく生き残るのである。解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。」
そう、解釈はやさしく伝えられないと人はそれを飲み込めないという。しかしそうだとしたらどうして解釈の重要性がここまで論じられるのだろうか? それに対して一つの答えは次のようなものである。「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」
それはそうかもしれない。が果たして常にそれはその通りなのだろうか?
一つ考えてみよう。人は自分のことを知りたいと思っても、自分の心の姿を知る勇気がどれほどあるだろうか?私はそこに二つの要素を考える。一つは、人は自分の知らないことを知るということの新しさに引かれるということはあるだろう。ということは人は少しその存在を知っていて、あるいは始終指摘されていることについては、新しさがないことからもう知りたくないと思うのだ。そうではなくて、自分が思いもよらないことを伝えられて、驚きたいということがある。しかしいったんそれについて知ると、今度は猛烈な反発が起きてくる。というのはそれはこれまで慣れ親しんだ志向への挑戦を意味し、それに当然のことながらエス抵抗が出て来るからだ。

二つ目は、自分の何が問題になっているかについて、教えてほしいと真剣に考えている場合である。「ふつうに話しているつもりでも人に誤解される、どうしてなのだろう? それを知ることで少しでもコミュニケーション能力を高めたい」という人は、率直な意見や助言を聞きたいだろう。その場合その助言により自分が変わることで、物事がうまく進むという体験を持ったとしたら、それだけ達成感も大きいであろう。この場合もしその助言がそれによって自分を変えることが出来るような性質のものでなかったとしたらどうだろうか?例えばある男性患者が、彼が人づきあいがうまく行かない一つの理由は、人の心を汲み取れるような繊細にかけている、と指摘されたとしよう。そしてそれをどのように改善したらいいかと問うた場合に、「残念ながらそれはあなたには欠けた能力であり、それを獲得することは難しいでしょう」と言われたとする。もちろん彼はその自分にかけた能力を補うためにはどのような工夫をしたらいいかと考えるかもしれない。しかし「自分はダメなんだ」と思うことでもうカウンセリングに通うモティベーションをなくしてしまうかもしれない。

2017年4月10日月曜日

どのように精神分析を・・・ ②

もっと長いGIFアニメを発見した。
(セルオートマトンの変遷)

もう一つの例。これはこのとんでもない原則を自己愛から説明する要理はもう少しわかりやすいような気がします。精神分析理論は、基本的には分析家の知的な好奇心の満足、「わかった」という感覚と分かちがたく結びついているのです。分析家が患者を助けたいと願っており、それが彼を分析的な治療に向かわせる最も大きな理由だったとしましょう。それはそれで素晴らしいことだと思います。ただし人間の活動は純粋に愛他的なものはおそらくほとんど考えられず、ウィンウィンがせいぜいですから、自分の様々な満足が、患者の利益と連動しているということが彼が分析治療を行うことを選ぶ最大のモティベーションとなっているとしましょう。それはこの上なく望ましいことです。たいていの人間はその域にまで達していません。自分のことを優先して考え、せいぜい相手の害にならないことを願うというのが精いっぱいではないでしょうか? そしてそのような治療者の行った治療が患者の改善につながらなかったとしたら、彼はどうするでしょうか? 彼は失望をするでしょうが、おそらくその体験から学ぼうとし、それを理屈付け、分かったという感覚だけは持ちたいでしょう。もうしそうでなければ、それまでの彼の努力は何だったでしょうか? こうして彼はその治療の失敗をあまり強調せず、改善した部分を膨らませて論文を書くかもしれません。倫理的にはとんでもないことでしょうが、しばしば起こってしまうことでしょう。 
このことは理科系の研究者のことを考えればよりわかりやすいでしょう。ある仮説を立てて、それを検証すべく研究を行う。研究には莫大な労力とお金が要ります。そしてその研究に思うような成果が伴わなければ、それに費やした時間とお金は水泡に帰してしまいます。それを回避する数少ない方法がデータの改竄であり、超一流の頭脳を備えた人間でも時にはこの誘惑に負けてしまうのです。
しかし臨床においてはそれを回避すべく様々な道が用意されています。それはその事態を理論づけ、理解する(したつもりになる)ことです。

私はこのようなことを知るにしたがって、どうして精神分析の理論と実際がこんなに違うのかが少しわかるようになってきました。                                     

2017年4月9日日曜日

関係精神分析入門 ①

関係精神分析
 今日はこのお話をしますが、皆さんが大部分はサイコロジストであるということが気になります。
私はこれから関係精神分析についてお話をし、ある意味ではお誘いをするわけですが、皆さんがそもそも精神分析の世界をあまりご存知ないとすると、私の話が少しも理解していただけない可能性があるからです。そこでひとつ前提となる話からします。
皆さんは、関係精神分析といえば、いくつかある学派の一つだとお感じになるかもしれません。つまりフロイト派、クライン派、コフート派、といういくつかの学派のうちの一つに過ぎないとお考えでしょう。しかし精神分析の中で関係精神分析の話をすると、たいてい警戒の念を持たれます。というのも関係精神分析は従来の精神分析の既成概念の枠を破り、ある意味では旧態を打破しようとするかなりラディカルな動きを意味するからです。他の学派はたいていはフロイトの教えを含み、そこから理論を発展させているところがあります。いわば精神分析という教会の内部に留まっています。皆キリスト教を信じています。キリストのことを誰も悪く言ったりしません。ところが関係精神分析は、キリストを批判するようなところがあります。あるいはキリスト以外にも神はいるよ、というかもしれませんし、神はどこにもいないと言い出すかもしれません。ならばどうして教会の中に、あるいは精神分析の世界にいるのか、と問われたら、いや、これが新しいキリスト教だ、あるいは宗教だというかもしれません。キリストを信じない、あるいは神を信じないキリスト教徒はそれ自体が矛盾した存在です。ですから宗教を比喩として用いた場合の関係精神分析は矛盾に満ちていて、教会の中に存続させておくことそのものが混乱を引き起こすことになると思います。ただしここからが宗教と精神分析とが異なるところです。
フロイトは自分の理論が精神分析であり、それ以外は精神分析ではない、とは言ってはいません。そうではなくて、人の心に働きかけ、その悩みを解消していくための手段と考えたわけです。そして関係精神分析は、フロイト以来の伝統には限界があり、新しいものの見方が必要であり、それが患者のためになる、という主張を行っているわけです。

私はこの関係精神分析のお話を二つの方向から行いたいと思います。一つは理論の変遷であり、もう一つは最近の脳科学的な心の理解です。幸い関係精神分析が示す心の在り方と、脳科学的な知見が示す心の在り方は、同じ方向を向いています。ですから両者は融合のプロセスにありますし、それを一つのテーマとして話すことが出来るわけです。

2017年4月8日土曜日

精神分析とは何をするのか 推敲

精神分析とはいったい何をするのか?

  このセミナーのテーマは、「精神分析とは一体何か」ということですが、最初に申し上げたいのは、フルタイムの精神分析家はほとんどいないということです。つまりみずから精神分析オフィスを開いていて、そこに患者さんがやってきて、一日何ケースも分析を行って、それを主たる収入とする人たちが沢山いるというわけではない、ということです。かつては精神分析大国であったアメリカでも、精神分析だけで食べていける人は著名な僅かな分析家だけだったでしょうし、日本ではほとんど聞いたことがありません。どんなに有名な分析の先生でも、たいていは大学の先生をしたり、分析以外の精神療法をしたり、精神科の外来診療を行っていて、そこでの収入があってはじめて生活が出来ています。
 ただし私たち分析家たちの中には、そのように分析一本で生活していくことを理想としている人たちは沢山います。精神分析家たちはおおむね非常に高い理想を持ち、忍耐強い人たちです。彼ら自身が週4回以上、おそらく3年以上の分析を受け続け、また同様の構造で患者さんたちを何ケースか分析することで、ようやく分析家の資格を取るのです。そのような私たちが分析の道を追及し、それのみにより生計を立てる姿を理想とするのは理解していただけるでしょう。ちょうどフロイトがそのような生活をしていたのですから。
  そのフロイトの話です。フロイトは1800年代の半ばに生まれました。大体どのくらい昔の人かといえば、例えばこうやって話をしている私は60歳ですが、私はフロイトが生まれた時からちょうど100年後が誕生日です。ですからフロイトが今生きていたら160歳というわけで、その意味ではずいぶん昔の人です。そしてその人が作り上げた理論がいまだに大きな力を持っているのは実に不思議なことです。
  フロイトが提唱した精神分析理論をうんと短く言えば、次のようなことです。「人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出される。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤を表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうる。」これは私たち分析家から見たらまさにそれ以外に言いようのない、精神分析の定義ですが、一般の方には分かりにくいかもしれません。
 フロイトは心の中にある考えが押し込められている(抑圧される)と、それが心の、あるいは身体上の症状を引き起こすと思っていました。それは比較的単純な図式といえます。するとたとえば、ある5歳の少年は、馬に対する恐怖症を持ち始めます。しかしよく話を聞いていくと、馬は大きなペニスの象徴だったり、去勢(ペニスを切られるという)の脅しだったり、それを持つお父さんに対する恐怖心が形を変えたことだということが分かります。そしてそれを明らかにすることで、症状が軽快したということです。これが有名なフロイトの「ハンス少年」の例です。
   あるいはフロイトの別の例では、若い男性が様々な強迫症状を来たし、これをしたら父親に何かが類ことが起きるのではないか、あれをしたら …… と誰かを害することを心配をし続けますが、実はその背後にはそれらの人々への死の願望があることがわかったということが書かれています。これはいわゆる「ネズミ男」のケースです。
  このように考えると、フロイトの精神分析は、心の一種の謎解きに似たというところがあったと言えるでしょう。患者さんがある症状を持っています。あるいはこんな夢を見たり、あんな癖やいい間違いをします。その理由は一見分かりません、何も意味を持たないようです。ところが無意識を解き明かすと、その正体が分かり、それにより症状は消える、というロジックです。
 ところが精神分析を提唱したフロイトはそれから大きな壁にぶつかります。多くの症状において、それはこのような謎解きよっては解決せず、心が持つ抵抗にあい、より時間をかけて、丹念に無意識を探索していく必要があると気がついたのです。
 さてそれから一世紀がたち、現代の私たち分析家が考えることは、これとは少し異なっています。このようなフロイトの無意識的な願望という言い方は分かりにくいので、少し言い方を変えて説明します。たとえば私たちの所属する精神分析協会はホームページを用意しましたが、そこに「精神分析とは何か」の説明文を掲げています。ちょっと読んでみましょう。すごくいいことが書いてあります。ちなみに書いた方は、今日一緒に発表していただいている、現精神分析協会会長の北山修先生です。

精神分析とは何か?」(日本精神分析協会HPより)
「精神分析は20世紀のはじめにウィーンでジークムント・フロイトによって始められました。それは人間のこころが意識的なこころと無意識的なこころの両方から成り立っているという考えを基礎にしています。私たちは誰でも、ある種の無意識的なとらわれのなかで生きています。そのとらわれが大きすぎると、苦しくなり、ゆとりを失い、ときにはこころの病になります。」
 この「とらわれ」、というのは大切な言葉です。しかも「無意識的なとらわれ」というところが大事です。この様に精神分析は私たちの日常心理からは隠された部分、無意識部分に向かっているという点はきわめて特徴的といえるでしょう。ふつうのカウンセリングでは、目に見えるような、意識的なとらわれ、精神分析では無意識的な、目に見えない無意識を扱う、という言い方をすればわかりやすいかもしれません。
 比ゆ的に言うならば、とらわれとは、ゴルフコースでのバンカーのようなものと思っていいでしょう。グリーンに向かって自由に球を打っていいというわけでなく、いたるところにあるバンカーを避けて打っていかなくてはなりません。そうなると打ち方に大きな制約が出てくるでしょう。打ち方もぎこちなかったり無理な姿勢を取らなくてはならなかったりします。しかも打つ場所からはそのバンカーが見えなかったり、それがいたるところに出没するような特殊なものだとしたら、もっと球を打ちにくくなるだろう。それが「無意識なとらわれ」なわけです。
 ゴルフの比喩がわかりにくい人のためには心を、自由に走り回ることの出来る原っぱだと思っていただくといいだろう。そこにところどころぬかるみや落とし穴があったら、自由に走り回れませんね。しかもそのぬかるみや落とし穴が目に見えにくいものであったり、気がついたらいつの間にかそこに落ちていて、そのことにさえも気がつかないような類のものだったらどうでしょう。決して自由にそこを走り回ることが出来ません。これが「無意識のとらわれ」に相当します。そしてここで自由にゴルフの球を打ったり、原っぱを駆け巡ったりということが、自由に発想し、自由に行動するということの比喩になっているというわけです。
 カウンセリングや精神療法では、比較的目に見えやすいバンカーや落とし穴を見つけていくのですが、精神分析の場合は無意識的なとらわれ、というのですからふつうはわかりにくいような、本人にもわかりにくいような落とし穴を見つけていくという作業です。
 ここでこのとらわれについて、いくつかの例をあげましょう。私がはるか昔に米国で会っていた方です。Aさん(中年男性、教師)は、<略>。
 この過去の記憶の回復という現象は、おそらく分析を考えるうえで一番わかりやすく、また分析の一つの在り方を端的に示しています。それは自分を発見するということと、自分自身を「自分は自分でいいんだ」と、受け入れるという両方を刺していることになります。
 さて無意識的なとらわれのもう一つの例は少し複雑です。Bさん(中年男性、営業職)ある人は<略>。
 とらわれの中にはどこから来て、なぜその人の心に定着するようになったかわからないものが多いのです。ただしこれとは逆のものもあります。ある一見些細な出来事からある一つの観念が芽生えるということがあります。心理療法をしていて不思議に思うのは、時には自分では言ったことすら忘れていることが、相手の心に残り、時にはトラウマになり、時には励ましになるという現象です。これは後の精神分析に対する批判にもつながるのですが、心というのはどうしてもフロイトが考えたようなロジカルで機械的な動きとは異なるのです。
 さてHPの精神分析の紹介の続きです。
「精神分析は特別なやりかたで、分析を受ける方と精神分析家とが交流する実践です。分析を受ける方がしだいに自分自身を無意識的な部分も含めてこころの底から理解し、とらわれから自由になり、生き生きとしたこころのゆとりを回復させることをめざしています(協会HPより)。
 この部分は、では具体的にどのようにして治療を進めるかということを書いてあります。私たちが行うのは、非常に近い距離から言葉を交わし合うことです。



この挿絵(Richard Appignanesi, Oscar Zarate (2003) Freud for Beginners. Pantheon.より引用)から分かるとおり、実際に治療者と患者の顔の距離は数十センチといったところです。治療者は患者さんの頭の上のかなり近い距離から話しかけることになります。そのようなプロセスで患者さんの心がほぐれ、いろいろ話せるようになると、患者さんはかなり心の奥まで開示することになるでしょう。私たちの脳はふだんは、強い抑制を行っています。大脳皮質は、「これを言ってはダメ!」、「あれをしたら恥をかくぞ。」などの声で私たちをがんじがらめにしています。それが少し和らぐことで、そのとらわれについて話せない部分が少しずつ明らかになってきます。とらわれとは、本来は人に簡単には言えないことばかりです。それだからとらわれとして心の中に定着しているというところがあります。
 「分析を受ける方は寝椅子もしくはベッドのようなものに横たわり、自分のこころに浮かんできたことを思いつくままに話していくように、と指示されます。分析家は分析を受ける方から見えないところにいて、いっしょに時をすごし、分析を受ける方のこころのありかたを思いめぐらし、ときにはそこで考えたことを分析を受ける方に伝えます。一回が45分ないし50分のこうした時間が週4回か5回定期的にもたれるのが、フロイト以来の精神分析のやりかたです。」 (HPより)
 さて、ここの部分が一番精神分析で悩ましい部分ですね。週に4回、ないし5回。現代人は忙しいですから、いろいろなスケジュールに追いかけられています。すると簡単に一日一時間の時間を空けることが出来ません。移動時間を考えると、午前中いっぱい、あるいは午後の数時間を分析を受けることに費やすことになる可能性があります。これはお金と時間に余裕がないと出来にくいことかもしれません。ただし私の考えでは、スカイプがおそらく精神分析で革命を起こすと考えています。ちなみに遠くの患者さんにどのようにして分析を施すかは難しい問題ですが、いわゆる遠隔分析とかシャトル分析とか、オンライン分析とか言われています。さていかがHPによる精神分析の最後の部分です。
 「このような時間を積み重ねるうちに、分析を受ける方のこころの世界、無意識の世界がその方のお話の内容や分析家との関係性の中に現れてきます。訓練された分析家はそうした世界に触れ、それを体験し、理解していきます。そうした分析家の力を借りながら、分析を受ける方も、自分の無意識の世界を十分にこころから体験し、やがて人生について本質的な、気持ちのこもった気づきを手にするのです。」
 「お気づきのように、多くの他の心理療法やカウンセリングよりも、精神分析はとても密で深い交流を基本にしています。そのなかで分析を受ける方が動かすこころや気持ちはとても大きなものです。分析がうまくいく場合、そのようなことを基礎にして、分析を受ける方はそれまでのその方のありかたを超えていくことが可能になるのです。」(HPより)
 この部分には特に解説の必要はないでしょう。

人の心についての打ち明け話、そして精神分析

 私はここで一つ、皆さんにぶっちゃけでお話したいことがあります。それは人間は自分の心について話すのが、すごく苦手だということです。そしてそれは実は分析家も同様なのです。皆さんは分析家といえば心のエキスパートとお考えかもしれません。人に心の内を話すことを促し、それを聞くことを専門としている人間が、それでも自分の心を話すことが苦手、口下手、というのは一見おかしな話かもしれませんが、実際にそうなのです。というよりは人間である、というのはそういうことなのです。
 そこで、心を話すとはどういうことなのかを少し一緒に考えてみたいのです。人は歴史的に見て、心を話すことを避けてきました。心とは、言わば自分の内部です。それを見せるのは誰だって抵抗があるわけです。みなさんも服を脱いで自分の肌を人前にさらすのは嫌でしょうし、体から出てきたものはいかなるものも、人目にさらすのは絶対にいやなはずです。だから心の内部を外に出して話すのもすごく抵抗があって当然です。でもどうして私たちが言葉を話すかといえば、意思を伝達するために有用だからです。そして意思を伝達することと心をさらすことは全く違うことです。
 人が最初に何を話したかはわかりませんが、おそらく、「これとそれを交換しよう」、とか「何か食べ物はないか」、とか「ここから先には入るな」、とかでしょう。絶対に最初の言葉が「私はあなたを愛している」とか「私はあなたが嫌いだ」ではないはずです。これらの言葉は発せられる代わりに、すぐに行動に移されていたはずです。ですから人が心を話すということと、言葉を話すということは全然違うということがわかるでしょう。むしろ言葉は、心を話さない代わりに、あるいはそれを隠すためにあったりするのです。(ただしこう言ったからといって、私たちが心を話すこともたくさんあります。心を話すことは、evocative (情緒喚起的)で、感情をくすぐり、あるいは気持ちを解放することもあります。「ああ寒い!」 「痛い!」 「いい加減にしてよ!」 「愛しているよ!」こうやって私たちは気持ちを解放したり、感情を吐露して人を動かそうとしたり、楽しんだりします。もちろんそのような目的での心の吐露はあります。特定の人とのおしゃべりは気持ちを楽にします。ただしそれらを別にすれば、私たちは概して感情の言語化を抑制する方向に行きがちです。ふつうのお喋りですら、それにより何事かを押し隠す方に用いられたりするのです。
 そしてこのように考えると、フロイトが精神分析を考え出すまで、人が精神の病について、言葉を交わすことで治療をしていこう、という発想を持たなかったことも大して驚きではないでしょう。繰り返しますが、心を話すことは、恥ずかしいことで、自分の弱みをさらすことでもあります。ですから私たちはそれを通常はしません。でも時々それが必要なことがあるし役に立つことがある。そしてその場合に心理療法や精神分析が役に立つのです。一つの例を挙げましょう。
 C(老境の男性)は妻が最近咳き込むことが多くなっていることに気が付く。朝食の時に「キミはちゃんと医者に行った方がいいんじゃない?」と声をかける。
 Cさんが職場に出かける際に玄関まで見送った妻は「あなたは自分に何かの病気が罹ると嫌だから、私にちゃんと医者に行け、と言ってるんでしょう?」という。Cさんは腑に落ちなかったが何も答えず、そのまま職場に向かう。
 さてこれは実際私とカミさんとの間に起きたことですが、面白いことに、私はこういうことを観察し、あれこれ考えるのです。そして「ふーん、カミさんとの間にもいろいろなことが言語化されていないなあ」と感心するのです。うちはカミさんも心理士なので、結構いろいろなことを話します。しかしわかってきたのは、私たちはあることは口にしない、ということをかなりかたくなに守っています。そしてそれはお互いの盟約のようなもので、それは関係を維持するために必要なこと、というわけです。たとえば、まあここの例は省きましょう。もちろん彼女との間で私が何も言えなくて窮屈な思いをしているということではありません。彼女にはいろいろ、口にしてはいけない、指摘してはいけないということがたくさんありますが、同時に私のかなりの部分を許容してくれています。
 さて会話はこれで済んでしまうのかもしれません。夫婦の間でいろいろな会話が起き、心の底を吐露しあう、ということは普通はあまり起きないのです。ただその代わり、私たちはそれを職場の同僚などに話すのです。気のおけない、そして一緒にいて安心感を覚える、そしてそれを話してもおかしな人と思わないような、こちらの弱みを見せてもいいような人を選ぶのです。たとえばCさんは職場の上司を選んだことにします。しかし私にはそのような上司はいませんから、創作に入っていきます。

 夫は職場で比較的面倒見のいい上司に、昼食時にその話をする。
C「妻にそう言われた時、どうしてそんな風にとるのだろう?と思いましたよ。」
上司「それで奥さんに何か言い返したの?」
C「いや別に何も言い返しませんでしたが…。」
上司(半ばからかうように)「日ごろのキミの行いがよくないんじゃないの … 。」
C「……。」
上司「まあ、冗談だが、あまり信用されていないようだね。でもそんなに深く考えることもないよ。俺なんて、うちではほとんど会話がないよ。それに比べれば羨ましいもんだ。」
Cさんはおそらく上司にそう言ってもらえて、なんとなく気が楽になるとともに、少し見えてくる部分もありました。カミさんにあまり信用されていないらしいということはその通りだと思いましたが、それを気にするというのもあまり必要がない、ということが分かりました。
 Cさんはおそらく上司にそう言ってもらえて、なんとなく気が楽になるとともに、少し見えてくる部分もありました。カミさんにあまり信用されていないらしいということはその通りだと思いましたが、それを気にするというのもあまり必要がない、ということが分かりました。そして仕事を追えて帰宅する頃には、朝起きたことはほとんど忘れかけているはずです。
 ところがそこで話は終わりません。実はCさんは分析を受けていたのです。
(ここからは、25年ほど前に分析を受けていたときを想像して書き継ぎます)。それからCさんは分析家のもとに向かう。その頃は妻とのエピソードのことを忘れかけていたが、自由連想の中で記憶がよみがえってくる。
C「朝、こんなことがあったのです。(と、出来事を簡単に説明する。)」
分析家 「それであなたはどんなことを考えますか?」
C「まず、どうして私はこの会話を妻とこれ以上したくないんだろう、と考えます。」
分析家 「・・・・・・」
C「彼女とはいろいろ話しますが、この種のことはお互いにあまり立ち入らないんです。私は彼女の体が心配だったことは確かです。だから結核か何かを移されるのではないか、ということはあまり頭にありませんでした。癒そう思うこともあったのですが、今はもっと重大な問題が彼女の体に起きているのではないかと思ってしまいます。」
分析家「重大な問題、とは?」
C 「たとえば肺癌とか。何しろ咳が2か月は続いていますからね。そんなことになったらどうしたらいいんだろう、と思います。」
分析家 「奥さんの『どうせあなたは…』という言葉の意味をどうお取りになったんですか?」
C 「これもどこまで私が勘ぐっているのかわかりませんが、……おそらく妻は私が彼女のことをいらない、と思っているんだろうと思います。」
分析家 「もう少し話してください。」
「つまり……。妻は時々私が自由になりたい、という気持ちを持っていることを知っていると思うんです。彼女は私が何より自分が大事な人間だと思っていると思います。私はそれを完全に否定する自信はないんです……。



これ以上は書けませんし、書く必要もないでしょう。実際に私は今分析を受けているわけではありませんから、そこで起きるであろう事は正確に想像することは不可能ですし、それだから実際に分析を受ける意味があるのでしょう。それにこれ以上私は自己開示をする必要はないのです。ただ私は皆さんに、精神分析でのコミュニケーションが、いかに通常の、日常的なコミュニケーションと異なっているかを示したかったのです。精神分析は普段は口にしないこと、考えないことにまで考えを及ぼすよう促します。その結果として心は普段の心の流れとは違った、より深いレベルに導かれます。そのような体験はおそらく皆さんの心のあり方を根本から変える可能性があるのです。それは時にはシンドくもあり、また目から鱗な体験をもたらしてもくれるのです……。






今日のお話で皆さんが、精神分析とはどのようなものかについて、少しでもお分かりいただければ幸いです。


2017年4月7日金曜日

脳科学と精神分析 ⑤

さてダーウィン的な心の動きがここにどのように関係しているのだろう?
  質問を投げかけられたクライエントの心には様々な答えの候補が浮かぶであろう。「とても自由に話せる雰囲気です」(いちおう、ここでは肯定的な、リップサービス的な答えをしておこう。)以外にも「ちょっと堅苦しい感じもします。(先生が真面目そうだから、冗談もいえない感じだし…)「まだ始まったばかりでわかりません」(実際こんなことを真正面から聞かれても本音を言えるわけないし。それとも先生は私を試しているのだろうか?
 実際にはクライエントの側には、どんな感じかと聞かれても一つの答えは浮かばない。つまりいろいろな印象を持っていてどれ一つとして決められないからだ。しかし候補としては上の三つくらいが浮かんできたとしよう。あとは「…」の間にダーウィン的なふるいがかけられる。そして「自由に話せる雰囲気です」が出てくる。では、これが本心なのだろうか? 多分? ただし重要なのは結果的にこの一つの答えが出てきて、意識はその瞬間に、それを正当化するためのロジックを組み立てる一方では、他の二つを候補圏外にしてしまうという心の動きが起きる、ということなのである。
 では治療者のスタンスはどうだろうか? 「自由連想」だから沈黙を守るのだろうか? 私の見解としては、いかに psychologically minded な患者でも、決して、そのあと「えー、ちょっと待ってくださいね。他にもいくつかの答えの候補があります。もう一つは、例えばちょっと堅苦しい気がする、というもので、もう一つはまだ始まったばかりでわかりません。」とはならない。ここで治療者の決定的なフォローが必要になりはしないだろうか? 「それは一つのお応えだとして、他にどのような考えが浮かびますか?」そう言ってもらえて、初めて患者は「心の実況中継」を始められるようになるのだろう。

2017年4月6日木曜日

脳科学と精神分析 ④

新・無意識の理解に基づく治療論
新・無意識という概念はいわば試みとして提唱され始めた段階であり、それに基づいた治療論が特別に存在するわけではない。
  エナクトメント(?)としての治療者、患者の言動
しかしこれまで提唱されている新・無意識の性質から、かなり直接的に導かれ得る治療上の心得がある。一つは心の動きの非線形性についてである。言葉や行動を通して示される人間の言動は、不連続的であり、予測不可能性が非常に高い。そのように考えると患者、治療者の言動はそれが無意識的な心の動きに支配され、その象徴としての意味を有するというよりは、むしろエナクトメントと言うニュアンスが付きまとう。ただしこのエナクトメントという言葉にもすでに、先に述べた後成的前提 epigenetic assumption が入り込んでいる。エナクトメントは自らも気が付いていなかった意味を表していた、と考えるからである。しかし言葉はむしろ、それがダーウィン的な選択を受けながらも最初に出てしまい、自己はそれを後付するというニュアンスがある以上、言葉の裏や無意識的な動機を探るという図式が危うくなることになる。すると必然的に言葉の表層を字義通りに扱うという手段に訴えざるを得なくなるだろう。もちろんそれは言葉をその人の真意として捉えましょう、という意味でではないし、その言葉の(意識レベルでの)真意を捉えましょう、ということでもない。それはどこかに本質を前提とするいわゆる実証主義的 positivistic な考えに陥ってしまう。言葉の真意を探ることと、言葉の無意識的な動機を探ることは、結局同様の誤謬に陥っているということになる。
少しわかりやすい例を挙げよう。
治療者:この治療が始まってひと月たちますが、どんな感じですか?
患者: … ええ、とても自由に話せる雰囲気だと思います。
治療者:そうですか。それはよかったです。
とても短いやり取りだが、ここで無意識レベルを考えるとしたら、例えば「患者は私に対してそのように言うことで無意識的に迎合的になっているのではないか?」「すぐに言葉が出なかったところを見ると、実は無意識レベルでは不満もあるのではないか?
意識レベルで考えるとしたら、字義通りに取るとしたら、「ああ、それはよかった。患者はここに居心地の良さを感じているようだ。」となるだろうが、意識レベルの真意を探るとしたら、「本当は居心地の悪さを感じているのではないか?
ここで「無意識レベルでは・・・・」も「意識レベルでは本当は・・・・」もあまり変わらないことに気が付くであろう。実は分析家が「無意識レベルで・・・・」という時も、実は前意識レベルで、という程度で言っていることが圧倒的に多い。さもなければ治療関係は雲をつかむような、ある意味では被害妄想的な関係に陥ることになる。なぜならば、「とても自由に話せる、とおっしゃいましたが、今日は治療に5分遅れてきましたね。それはあなたが無意識的に私との治療に苦痛を感じて避けようとしていることを意味しているのでしょう」ということになってしまう。もちろんこれとて間違っているという証明もできないわけだが。




2017年4月5日水曜日

どのように精神分析を・・・ ①

とんでもない原則

私はそれからとんでもない原則に直面することになりました。それはあらゆる理論は、それを提唱する人の自己愛を満たすような形でしか成立し得ないということです。それは精神分析理論についてもいえます。これは本当にとんでもない話なのですが、これを知ることで私もようやく物事に納得が行ったと思えるようになりました。私は精神分析的な原則の一部は必ずしも実情に合わなくても、維持されることに疑問を覚えていましたが、そこにはある非常に重要な力が働いていることを理解しました。それは精神分析という学問を守り、繁栄させるということです。そしてその力が働く限り、おそらく患者のための治療論ということは成立しないということです。私はこれにより精神分析理論そのものを価値下げするつもりはありません。それよりもそのようなことが生じることを知ることに興味があります。
フロイトのことを考えて見ましょう。フロイトはあれほど革新的な理論を打ち出しましたが、同時に彼は非常に野心的で、自分の理論により説得力を持たせるためには患者の病歴を少し「編集」するところがありました。でもそのことはフロイトの功績自身を否定することにはなりませんでした。
もちろん学問に身をささげる人は、そこにあるある種の真実を追究することに喜びを覚えていることは確かです。しかしそれは同時に本人の自己愛とのせめぎ合いになります。
一つの例を挙げてみましょう。ブランクスクリーンとしての分析家という考え方です。分析家は自ら分析を受け、自分自身を見つめることで、より客観的な見かたができるようになり、それだけ患者に対しても逆転移を持たずに中立性を保つことが出来るという考え方です。そしてその中立性には匿名性が伴い、治療者は自らを示すことなく、いわば黒子に徹して患者の病理を浮き彫りにするというものです。
しかしこの理論には裏の面があります。それはこの理論に従う限り、治療者はその問題を明らかにする必要がありません。ブランクスクリーンの理論は、治療者の側のバイアスを問う立場からはどんどん外れることになります。

2017年4月4日火曜日

脳科学と精神分析 ③

新・無意識の性質
最近フロイトの無意識に代わって、脳科学の知見を取り入れたNew Unconscious 新・無意識の概念が提唱されている(Ran R. Hassin, James S. Uleman, and John A. Bargh (eds) 2006The New Unconscious. Oxford Press.) この性質についていくつか挙げてみよう。まずフロイトの無意識には欲動が詰まっていて、それが人を衝き動かすと考えられた。ところが「新・無意識」のどこを見渡してもリビドーも欲動もない。そもそもそのようなエネルギー源に相当するものがないのである。しかし正常な人の脳は、安静時に適度の活動量が見られる。活動だけはすでに宿命として与えられているのだ。おそらくそこに本能や報酬系が関与することで人は心を動かしているということになるであろう。この新・無意識をフロイトの構造論と照合するならば、新・無意識は、フロイトの自我、超自我、エスのほとんどを包含してしまうことになるだろう。他方では「意識」はワーキングメモリー程度でしかない。
ただしこの狭い意識の存在を過小評価しているわけではない。意識が存在しない心は人格を有していることにはならず、そもそも心ともいえないだろう。そもそも意識が析出するためには膨大な情報ネットワークの存在、Tononi の言うφの存在が前提となる。(Giulio Tononi, Integrated information theory of consciousness 2005)「新・無意識」の実体は巨大なニューラルネットワークであり、そこでは予測誤差を基にた強化学習(ディープラーニング、深層学習)が常に自動的に行われる。
「新・無意識」の実体は巨大なニューラルネットワークであり、そこでは予測誤差を基にした強化学習(ディープラーニング、深層学習)が常に自動的に行われる。
意識の次の内容は新・無意識でダーウィニズムに従って創り出され、それが主体性、自立性の感覚を伴って意識野に押し出される。(新無意識が意識内容を決める「サイコロを振って」いる。従って言動、ファンタジー、夢などは、その背後に明確な動因が存在しない場合が多い。(細かい複数の動因はたくさん存在し、それらが重層決定(フロイト)する)

一貫性、プライオリティ、排他性を満たした言動、ファンタジー、夢が「生き残」る場合が多い。

2017年4月3日月曜日

脳科学と精神分析 ②

  近年提唱されている非線形的な心の在り方は、それまでの精神分析的な考え方と大きく異なる。従来の精神分析的な考え方は、後成的前提 epigenetic assumption に従ったものであり、( Galatzer-Levy, RM (2004) Chaotic possibilities: Toward a new model of development International Journal of Psycho-Analysis, 85(2):419-441.) ある内的なプログラムが既にあって、それに従って予測可能な形で病理が発現していく。フェレンチが「結局すべて数字で決められているんだよね」、ということを考えていたのもこれだったし、フロイトがコンプレックスについて考えたこともこれに類するといえるだろう。ところが正常な発達や精神生活を特徴づけるのは不連続性なのである(Emde, Spicer, 2000そしてそこで決定的な影響を与えるのは養育を含めた外的な出来事なのである。
 この問題と先ほどの非線形性との関連がお分かりであろうか?心はほっておいても、内的な運動のみでもすでに非線形的である。

2017年4月2日日曜日

脳科学と精神分析 ①

しばらくは、脳科学と精神分析の準備である。

非線形性、微分不可能性
私たちの心が非線形的 non-linear であるとはどういうことか? これはごく単純に言えば、原因と結果が直線的でないということだ。(そうだったのか! 私は非線形ということを不連続性と混同していたようである。非線形とは直線でない、ということだった。)
まあ、非線形ということについて考えよう。線形とは「直線的」ということだ。非線形とは要するに原因と結果が直線的な関係にないということだ。対数曲線などを考えればわかるとおり、最初はなだらかな伸びでもそのうちとんでもない数値になっていく。y = 2x を考えよう。xが1,2,3くらいならまだいい。しかし10くらいになるとあっという間にグラフ用紙を突破してしまう。カタストロフは、変化はこうして起きる。歩いていて足を少しひねった程度なら、しばらく休んだり、そこを庇ってゆっくり歩くようにしていれば、自然と治るだろう。ところが構わず歩き続けるとちょっとした負荷が積み重なってあっという間に疲労骨折になる、などがその例だ。トラウマだってそうだ。少しの小言なら我慢できるが、それを言い募られると限界に達して爆発してしまうとか。
非線形的、というのは不連続性を招きやすいということになる。むしろ連続でない、不連続、離散的である、という言い方が物事の説明には便利だろう。あるいは不連続とは、「微分不可能」というべきか。
 数学でlim (xx0) f(x) = f(x0) というのがあった。上手くかけないが。ある点に限りなく近づくと、その点に限りなく近づく。それが微分可能ということである。ある人の行動を見ていると、その直前の行動との間に連続性がある。各瞬間に方向性が定まっているということだ。ところが微分できない、とは、一瞬前のことが一瞬先のことを予想しえないということだ。これは二つのレベルについていえることである。 一つは現実において生じることが不連続だからだ。楽しみにしていた遠足の朝、起きたらザーザーぶりだった。もちろん雨雲はじわじわ押し寄せてきて、雨も最初はぽつぽつ降り出すが、その間寝ていた子供にとっては、不連続な体験だ。そしてもう一つ、思考や行動の生じ方が不連続である。思考の生じ方はダーウィン的である。つまりその時大脳皮質で大きな場所を占めたものが選択される。今晩カレーを食べようか、ハヤシを食べようかと迷う。例えばいま私にそのどちらを決める気もない。第一そんなボリュームが多くてカロリーの高いもの、年寄の人間には食べる気にもならない。しかし本当にそれ以外のチョイスがない場合、「なか卯」に出かけて食券を買うときには私はどちらかに決めなくてはならない。でないと食券売り機の前で延々と佇んでいることになる。そこで私の頭ではサイコロが振られるだろう。どうしてサイコロとダーウィン的な自然選択かって? サイコロが転がるうちに、最初はそれぞれの面が上になる可能性を持っていても、最後の瞬間に急激にある面の可能性が大きくなるではないか? そして最終的にその面を上にして静止する。それと同じである。しかもそこで決定的なのは、心がそれを主体的に選んだ、という感覚を持つという性質である。サブリミナル効果を主体が自分のものとする条件を思い出そう。サブリミナル効果により人の行動は大きく影響を受けるが、それが「一貫性、プライオリティ、排他性」の条件を満たす限り、人はそれを自分が主体的に選択したと錯覚する(John A. Bargh などの研究)。
 あとは私たちがそれを主体的な判断と決めることに時間はかからない。私はハヤシを選んだのである。(ところでなか卯でカレーやハヤシはやってたかなあ?

2017年4月1日土曜日

トラウマと精神分析 ②

さて精神分析の立場に立つ私としては、少し自省の気持ちを表すことから始めなくてはならない。それは残念ながら、伝統的な精神分析は残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということである。簡単に振り返ろう。
フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。その年の9月にフリースに向けて送った書簡に表された彼の変心は精神分析の成立に大きく寄与していたと言われている。故・小此木先生もそうおっしゃっていた。単純なトラウマ理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したことが、フロイトの偉大なところで、それによって事実上精神分析の理論が成立した、と言うことである。この経緯もあり、精神分析理論は少なくともその古典的な立場をとるものにとっては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的な要素、ネガティブなニュワンスを負わざるを得なくなった。解離についても同様である。分析はトラウマや解離については、暗点化 scotomize するようになった。つまりあからさまな無視、というのではないが、そこにあっても関心を寄せず、あるいは言及せず、結果として黙殺されたのである。結局黙殺って、一番残確で、しかも私たちが毎日やっていることだよね。自己欺瞞の問題とも深く関係していそうだ。
その後フェレンチによる性的外傷を重視する態度に対しては冷淡であった。これなども驚くべきことである。フロイトが1897年以前に行っていたことをフェレンチは繰り返しただけなのに、彼もまた黙殺、あるいはそれ以上のことをされてしまったのだ。フロイトは同時代人のジャネの解離の概念を軽視した。これも全く同じ理由である。