2024年5月21日火曜日

解離への対応に関する覚書 1

 医療者とのコミュニケーションについて。うまく伝わらない場合はどうしたらいいのか。

やはりご自分の体験を何らかの文章にしてまとめることは必要でしょう。クライエントさんは医師の前で思いつくままに語るのではなく。初診の時点で文章にしていらっしゃるといいと思います。少なくとも医師にとってそれは非常に役に立ちます。しかし「はい、これを読んでください」ではいけません。医師の方はただでさえ限られた時間でそれを解読し、場合によっては書き写すのは負担です。それをもとにご自分の言葉で大事なところから順番にお話をしてください。起きたことをバラバラに伝えるのではなく。それが一番相手にも伝わるのです。医師といえども人間です。人に話す時、どのような順番で話せば一番伝わるのかをお考え下さい。

覚えていないことが多いが、それをどう伝えたらいいか。
 だからこそ整理して伝えるのです。そして覚えていないのはどの様な部分なのかについても、つまりそれについて説明するつもりでいらしてください。つまり何が分からないか、というマイナス情報を示すということになります。例えば小学校の高学年の頃が一番記憶に残っていません、とか今でも時々数時間の単位で記憶がなくなります、とか。知らないうちにどこかに行っていたなど。これらはとても重要な情報です。

・解離の治療は最近は進んでいるのでしょうか?薬物療法は意味があるのでしょうか。

基本的には臨床診断、つまり聞き取りが一番大事です。ただDESなどはスクリーニングとして役に立つということがあります。薬については、ベンゾジアゼピンやお酒で悪化することだけは覚えておいてください。抗うつ剤はもちろん役に立ちます。解離の方がなかなか良くならないのは、その方が置かれている人生のストレスか、あるいは合併症だと考えています。そちらの治療が大事であるとお考え下さい。

2024年5月20日月曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 5

 CPTSDとBPDの関連性 -その再考

   以上Herman により提唱された「BPD寄り」のCPTSDの概念について述べたが、ここで再び問おう。ICD-11によるCPTSDとBPDとの関連性については、結局どの様に捉えたらいいのであろうか。
 ICD-11が発表された後に、CPTSDがPTSDとBPDの合併症と区別されるべきかという問題がさかんに論じられるようになった。そして「自己組織化の障害」はCPTSDとBPDに共通しているというのが概ねの見解であるようである(Ford & Couerois, 2021)。しかしCPTSDのパーソナリティ傾向とBPDのそれはやはり異なるものとしてとらえるべきだという見解もある。
  Cloitre (2014) は、「自己組織化の障害」はCPTSDとBPDに見られるとしているが、その上でBPDの場合にはそれ以外にも、以下の4つが特徴的であった点を強調する。それらはすなわち見捨てられまいとする尋常ならざる努力、理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係、著しくかつ持続する不安定な自己イメージや感覚、衝動性、である。
 そしてこれらはCPTSDでは低かったという事である(Cloitre, et al. 2014)。また自殺企図や自傷行為はBPDでは50%だったが、CPTSDやPTSDでは15%前後だったという。すなわちCPTSDとBPDとの関連性はそれほど高くないということになる。
 改めてCPTSDに描かれた、「自己組織化の異常」として表されるパーソナリティ傾向を考えると、それはBPDに比べて「地味」であり、他罰的ではなくむしろ自罰的であると言えよう。その意味では上記のCloitre の結論は納得出来るものだ。長期、特に幼少時にトラウマに晒された人々が悲観的で抑うつ的、自罰的なパーソナリティ傾向を有することは臨床場面でも見て取れることであり、それはBPDの典型像とは異なる。そして「自己組織化の異常」はそれを比較的うまく表現しているように思う。
  ちなみにBPDの特徴と捉えるための概念として、私は最近提唱されているいわゆる「hyperbolic temperament」説に注目している。ボストンのZanarini グループが1900年代末に提唱した説であり、ボーダーラインの病理のエッセンスとして、いわゆる Hyperbolic temperament による心の痛みが特徴であると説いた(Hopewood, et al. 2012)。これを字義通り「誇張気質」と訳すと誤訳扱いされかねないので「HT」と表記しておくことにする。このHTとは次のように記されている。「容易に立腹し、結果として生じる持続的な憤りを鎮めるために、自分の心の痛みがいかに深刻かを他者にわかってもらうことを執拗に求める。」(Zanarini & Frankenburg, 2007, p. 520).
 これはDSMのBPDの第一定義、すなわち「他者から見捨てられることを回避するための死に物狂いの努力」(DSM-5)とほぼ同義であるように思う。ただしHTは「気質temperament」、すなわち生まれつき、遺伝子(というよりはゲノム)により大きく規定されている、と主張している点が特徴だ。
 以上のことから本章の一応の結論を述べよう。HermanのCPTSDの概念の提案は確かに偉業であった。慢性のトラウマを体験した人々の精神障害についてのプロトタイプとして掲げられたCPTSD概念には大きな意義があり、ICD-11への掲載により、この問題に対する啓発という目的は達成されたのだ。
 ただしHermanのCPTSDの概念にBPDが含みこまれていたことは、BPDの病理を把握することの難しさをかえって際立たせたという側面を持っていたかもしれない。そしてこれらの考察が示唆するのは、CPTSDに見られるトラウマ由来のパーソナリティ傾向は、ボーダーラインパターンのみではとらえられず、あらたにPDに追加されるべきものではないかということである。

2024年5月19日日曜日

CPTSDと解離 6

 DESについて。この28項目からなる尺度(ここでは省略)は、解離の三つの構成要素について問うているとされる。それらは没頭、離人、健忘である。

健忘については、以下の項目。 3, 4, 5, 6, 8, 9, 10, 24, 25, 26
没頭については 1, 2, 14, 15 ,16, 17, 18, 20, 21, 22, 23
離人については 7, 11, 12, 13, 19, 27, 28 

このうち赤字で示した項目は合計8項目で有り、taxon すなわち病的なものということになる。それを以下に示す。

没入
22 場所が変わるとまったく別の行動をするので、自分が二人いるように感じてしまう。
健忘
3 気がつくと別の場所にいて、どうしてそこまで行ったのか自分でも分らない。 
5 自分の持ち物の中に新しい品物がある。しかし自分では買った憶えがない。 
8 友達や家族の見分けがつけられない時がある。
離人
7 自分の近くに立っていたり、自分が何かするのを眺めたりして、まるで他人を見るように自分を外から見ている
12 周囲の人間、事物、出来事が現実でないように感じる。 
13 自分の体が自分のものではないと感じる時がある。
27 何かするように命令したり、自分の行為を批判する声が、頭の中から聞こえる。

さてここで検討してみよう。これらは本当にtaxon なのだろうか。だいたいそれに該当するように思える。ただし12などは、正常範囲でもある程度は体験されるのではないか、という気はする。またこの8つには採用されていないものの中にも、通常は起き得ないような、つまり taxon っぽいものもある。私の主観であるが。たとえば・・・・

6 見知らぬ人から別の名前で呼ばれたり、以前に会ったことがあると言われる。

25 自分に記憶がないが、何かを実行した形跡がある。  

26 自分に記憶がないが、明らかに自分が書いたメモ、絵、文章などを発見する。

2024年5月18日土曜日

CPTSDと解離 5

先日紹介したこの論文、実はネットで読めることが分かってさっそくダウンロード。

 Hyland P, Shevlin M, Fyvie C, Cloitre M, Karatzias T. The relationship between ICD-11 PTSD, complex PTSD and dissociative experiences. J Trauma Dissociation. 2020 Jan-Feb;21(1):62-72.

その冒頭に書いていてある事に考えさせられた。こう書いてある。traumatic stress researchers have debated whether dissociation is dimensional or a taxon (Brewin,2003) 訳すると、「トラウマの研究者の間で意見が分かれている問題がある。解離はディメンジョナル(次元的)か、タクソンか」。
 最初は意味が分からなかったが、それは私が解離の議論に関してこれまで関心を向けていないことだったからだ。
 この文章はすなわち、すなわち解離とは病的な特性として抽出できるようなものなのか、それとも誰にでもあるものがその度合いが高くなることにより病的になるのか、ということだ。例えば「憂鬱気分」はディメンジョナルだ。なぜなら軽い憂鬱分は誰でも体験するが、深刻になるとうつ病と診断される。その意味では「不安」もディメンジョナルだ。
 タクソンとしては例えば「幻聴」が挙げられるだろう。特殊な病気で生じ、それが見られることは diagnostic (診断的)である。「意識発作を伴うような痙攣発作」もそうだ。つまり「昨日軽い幻聴があったけれど、すぐよくなった」とか「昨日電車の中で軽い痙攣発作が起きたけれど、いつものことだから気にしなかった」ということは普通はない。「悪性腫瘍」もタクソンだ。「大学時代、梅雨の頃になると軽い悪性腫瘍が出来たが、医者に行くまでもなく直ぐによくなった」ということはないだろう。
 さて解離はどうか。軽い(健康な範囲でも起きうる)解離症状と病的な解離症状とに分かれるのか。難しい問題だが、いわゆるDES-Taxon はこの理屈に沿ったものだ。


2024年5月17日金曜日

CPTSDと解離 4

 もう一つ適切な論文を見つけた。これも抄録からまとめてみる。

Fung HW, Chien WT, Lam SKK, Ross CA. The Relationship Between Dissociation and Complex Post-Traumatic Stress Disorder: A Scoping Review. Trauma Violence Abuse. 2023 Dec;24(5):2966-2982. 

二つの大きな学術的データベースであるWeb of Science and Scopus databases及びProQuest を用いて、3つの問いを検討した。1.CPTSDは解離症状と関連しているのか? 2.CPTSDの診断を満たす人の解離症状はどれほど見られるのか? 3.CPTSDにおける解離症状の相関 correlates は何か。26の研究のうち10において、CPTSDの患者はそれ以外に比べて高い解離スコアが得られたと報告している。そして11の研究において、CPTSDと精神表現性/身体表現性解離 psychoform/somatoform dissociation scoresとの間に正の相関が見られたと報告している。CPTSDの患者のうち解離症状がどの程度多いかについては殆ど研究がないが、かなりの割合で(例えば( 28.6-76.9%))顕著な解離症状が見られる可能性がある。CPTSDにおける解離は合併症状(DSM-IVにおける第二軸症状、恥、身体症状)も多い。このテーマに関する更なる研究が必要である。

結局どれも面白くない。数値が出て来るだけである。CPTSDと解離の関係については、自分の頭で考えていくしかない。

2024年5月16日木曜日

CPTSDと解離 3

このテーマに関して二つの論文の抄録を読んでまとめてみた。

Hamer R, Bestel N, Mackelprang JL. Dissociative Symptoms in Complex Posttraumatic Stress Disorder: A Systematic Review. J Trauma Dissociation. 2024 Mar-Apr;25(2):232-247.

ICD-11にCPTSDが掲載された。しかしCPTSDの評価の際にどのように解離が関係しているかについては明らかにはされていない。そもそも解離とCPTSDの関係性自体が不明である。この問題に関する17の論文を検討した。CPTSDの程度を推し量るうえで最も頻繁に用いられているのが、ITQである。また解離症状の程度を評価するのに用いられる尺度は12あり、その中でももっともよく用いられるのが、DSS(Dissociative Symptoms Scale)とDESである。それによるとCPTSDと解離の相関は中等度 moderate ~強度 strongであるが、研究にばらつきも見られる。CPTSDにおける解離の程度を決定する上で最適な尺度を見極めなくてはならない。


Hyland P, Shevlin M, Fyvie C, Cloitre M, Karatzias T. The relationship

between ICD-11 PTSD, complex PTSD and dissociative experiences. J

Trauma Dissociation. 2020 Jan-Feb;21(1):62-72.


本研究は英国において深刻なトラウマを経験し、トラウマ的なストレスと解離体験に関する尺度を記入してもらった患者106人の患者である。大部分(69.1%)がCPTSDの診断基準を満たした。CPTSDの基準を満たす患者は、PTSDのみないしは診断のつかない患者に比べて、より高い解離傾向を示した。(Cohen's d がそれぞれ 1.04 と1.44)CPTSDの3つの症状クラスターが多変数的に解離と関連していた。それらは「感情調節不能 Affective Dysregulation」 (β = .33)と「今ここでの再体験 Re-experiencing in the here and now」 (β = .24)と「 関係性の障害 Disturbed Relationships」 (β = .22)であった。解離がCPTSDのリスク要因なのか、あるいはその結果なのかを知るためには縦断的な研究が必要になろう。


2024年5月15日水曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 4

 最近になり、PDを論じる上で二つのファクターを加味しなくてはならないという考えが見られるようになった。一つは本章で主として論じる愛着の障害や幼少時のトラウマの問題である。そうしてもう一つはいわゆる発達障害(最近の表記の仕方では「神経発達障害」とPDとの関係である。

 現代の私達の臨床感覚からは、人が思春期までに持つに至った思考や行動パターンは、持って生まれた気質とトラウマや愛着障害、さらには発達障害的な要素のアマルガムであることは、極めて自然なことと考えられるのだ。

 トラウマとCPTSD 

  トラウマ関連障害とPDとの関係性を考える上で格好の材料を提供したのが、ICD-11に新たに加わった複雑性PTSD(以下、CPTSDと表記する)という疾患概念である。これは、「組織的暴力、家庭内殴打や児童虐待など長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる」障害とされる。そして診断基準はPTSD症状に特有の一群の症状に「自己組織化の障害 Disorder of Self Organization」 が組み合わさった形となっている。
 このうち自己組織化の障害は、それが過去のトラウマにより備わった一種のパーソナリティ傾向ないしはパーソナリティ障害の様相を呈しているのである。つまりCPTSDの概念自体にPDの要素が組み込まれているという事になるのだ。 (以下は飛鳥井(2020)の訳を用いて論じる。)

「自己組織化の障害」は以下の3つにより特徴づけられる。それらは

● 感情制御の困難さ:感情反応性の亢進(傷つきやすさなど)、暴力的爆発、無謀な、または自己破壊的な行動、ストレス下での遷延性の解離状態、感情麻痺および喜び又は陽性感情の欠如。
● 否定的な自己概念:自己の卑小感 敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広がった恥や自責の感情を伴う。
● 対人関係の障害:他者に親密感を持つことの困難さ、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ。

 これらの3つの条件を満たした人を思い浮かべた場合、おのずと一つのパーソナリティ像が浮かび上がって来ないだろうか。彼(女)は自分の存在を肯定されていないという考えに由来する自信のなさや、自分の存在や行動が周囲に迷惑をかけているという罪悪感や後ろめたさを持ち、そのために対人関係に入ることに困難さを感じる。実際幼少時に深刻なトラウマを負った多くの患者に、この種の性格傾向を見出すことができるというのが私自身の臨床的な実感である。
 このように繰り返されたトラウマにより「自己組織化の障害」を特徴とするパーソナリティの病理がみられるとすれば、それは従来のPDの概念にどの程度関連性が見られるのかを改めて振り返ってみよう。
 すでに述べたように、おそらくDSMにみられるPDのカテゴリーの中ではBPDが関係する可能性がある。それのみが診断基準(9)として「一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状」という、過去のトラウマに関連した症状を掲げているからである。また否定的な自己感ということに関しては、回避性PD(非難、批判に対する恐怖、親密な関係への躊躇、新しい対人関係に入ることへの抑制、非常にネガティブな自己感など)や依存性PD(ひとり残されることへの不安や無力感)も該当する可能性がある。
 またICD-11に掲げられているディメンショナルモデルが掲げる顕著なパーソナリティ特性としては、掲げられている否定的感情や離隔や非社交性などが関係している可能性があろう。しかしこれらのいずれも過去のトラウマとの関連性に特に言及しているわけではない。


2024年5月14日火曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 3

最初に戻って書き直し、という感じになってきた。トホホ・・・。  

トラウマとパーソナリティ障害との関連について述べるのが本章の目的である。しかし従来のPDの概念は、トラウマとの関連性を強調したものとは言えなかった。この議論が深まりを見せるようになったのは、ICD-11 におけるCPTSDの登場であり、それが本章の主たるテーマとなる。

従来のパーソナリティ障害論の流れ

 いわゆるパーソナリティ障害 personality disorder (以下本章ではPD)に関する議論は、1980
年のDSM-Ⅲの発刊以来、自己愛PD、ボーダーラインPDなどの10の典型的なPDのカテゴリーが列挙される、いわゆる「カテゴリカルモデル」に従ったものであった。
 しかしそれが近年大きく様変わりをしつつあることが大いに話題になっている。それが顕著に表れたのが、2013年に米国で発表されたDSM-5(American Psychiatric Accociation, 2013)である。DSM-5では1980年のDSM-III以来採用されていた多軸診断が廃止されるとともに、それまでの10のPDを列挙したカテゴリカルモデルから、いわゆるディメンショナルモデル(詳しくは両者を取り入れた「ハイブリッドモデル」)に一変するという触れ込みだった。しかし結局発表されたものは、従来のモデルに従った10のPDであった。そしてディメンショナルモデルは「代替案」としてDSM-5の後半に提案される形となったのである。
 ではディメンショナルモデルとはどのようなものかといえば、それは一般人に見られるパーソナリティ傾向の評価法を医療モデルに応用したものである。パーソナリティ傾向からいくつかのパーソナリティ特性を抽出し、それらを次元(ディメンション)とみなす。それらは否定的感情、離隔、対立、脱抑制、制縛という5つのパーソナリティ特性からなる次元であり、各人ごとにそれぞれがどの程度見られるかによる表記の仕方をする。わかりやすく言えばその人のPDは5次元空間上の一点として表されるのだ。
 このディメンショナルモデルが従来のカテゴリカルモデルと大きく異なるのは明らかであろう。これまでは「自己愛性PD」や「反社会性PD」などの、名前から直感的に伝わってくるようなPDの10個のうちのどれに該当するかにより、各人のPDが診断されていた。しかし人ぞれぞれ多種多様なパーソナリティの偏りや特徴を、これらのどれかにあてはめることは決して容易ではない。結局「どれにも属さないPD」という診断しか付けられないことが多かったのである。そこで考案されたのがディメンショナルモデルだったのだ。
 ディメンショナルモデルの利点は、各人のパーソナリティ傾向に沿った診断を下すことができるということだ。しかし実は直感的には実に分かりにくい。例えばいかにも自己愛的なAさんへの診断も、「否定的感情:3点、離隔:2点、対立:4点…」などと表記しなくてはならなくなるからだ。
 しかし本章ではこのディメンショナルかカテゴリカルか、という分類上の相違について述べることが目的ではない。いずれの分類にせよ、「トラウマの影響を加味したPD診断なのか?」に関してはあまり大差ないということのほうが大事なのだ。そしてそれにはそれなりの理由があるのである。
 本来PDの概念は、「思春期以前にその傾向が見られ始め、それ以降にそれが固まるもの」として定義づけられている(DSM-5)。それはいわば人格の形成の時期に自然発生的に定まっていくもの、というニュアンスがあった。そしてそれはカテゴリカルモデルに従った10のPDについても、ディメンショナルモデルを構成する5つの次元についても同様であった。特にディメンショナルモデルの5つの特性は、パーソナリティを構成する因子群(例えばいわゆる「5因子モデル」のそれ)の理論を下敷きにしている。そしてこれらの因子は生下時にすでにある程度定まっているという前提があるのだ。
 ただしのちに述べるように、カテゴリカルモデルの中のボーダーラインPD(以下、」BPD)だけは毛色が異なり、そこに過去のトラウマとの関連性が想定されていたということはここで先に述べておこう。

2024年5月13日月曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 2

 トラウマとCPTSD 

トラウマ関連障害とPDとの関係性を考える上で格好の材料を提供したのが、ICD-11に新たに加わった複雑性PTSD(以下、CPTSDと表記する)という疾患概念である。これは、「組織的暴力、家庭内殴打や児童虐待など長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる」とされる。そして診断基準はPTSD症状に特有の一群の症状に「自己組織化の障害 (Disorder of Self Organization」 が組み合わさった形となっている。
 このうち自己組織化の障害は、それが過去のトラウマにより備わった一種のパーソナリティ傾向ないしはパーソナリティ障害の様相を呈しているのである。つまりCPTSDの概念自体にPDの要素が組み込まれているという事になるのだ。 (以下は飛鳥井(2020)の訳を用いて論じる。)

「自己組織化の障害」は以下の3つにより特徴づけられる。それらは

● 感情制御困難:感情反応性の亢進(傷つきやすさなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および喜び又は陽性感情の欠如。
● 否定的自己概念:自己の卑小感 敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広がった恥や自責の感情を伴う。
● 対人関係障害:他者に親密感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ。

 これらの3つの条件を満たした人を思い浮かべた場合、おのずと一つのパーソナリティ像が浮かび上がってくるだろう。彼(女)は自分の存在を肯定されていないという考えに由来する自信のなさや、自分の存在や行動が周囲に迷惑をかけているという罪悪感や後ろめたさを持ち、そのために対人関係に入ることに困難さを感じる。実際幼少時に深刻なトラウマを負った多くの患者に、この種の性格傾向を見出すことができる。
 このように繰り返されたトラウマにより「自己組織化の障害」を特徴とするパーソナリティの病理がみられるとすれば、それは従来のPDの概念にどの程度反映されているのであろうか?おそらくDSMにみられるPDのカテゴリーの中ではボーダーラインPD(以下BPD)が関係する可能性がある。それのみが診断基準(9)として「一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状」という、過去のトラウマに関連したフラッシュバックによる症状をうかがわせるような記載が見られるのだ。
 またICD-11に掲げられているディメンショナルモデルが掲げる顕著なパーソナリティ特性としては、掲げられている否定的感情や離隔や非社交性などが関係している可能性があろう。しかしこれらのいずれも過去のトラウマとの関連性には言及していない。

Herman とCPTSDの概念

 上に述べたようにPDは一般的にトラウマの概念とは距離を置いていたといえる。ただしBPDはおそらくその概念の成り立ちとの関係でトラウマとの関連性が示唆されていた。その事情を知る上でもJudith Hermanの提唱したCPTSDの概念にさかのぼって論じたい。
  CPTSDの概念は J.Herman (1992)がその著書 ”Trauma and Recovery” (Herman, 1992, 邦訳「心的外傷と回復」)で提出した事に始まる。そしてHerman はそれをBPDの代替案と考えていた(Ford, Couerois, 2021)。
 当時はこのHermanの著書は臨床家にかなり好意的に迎えられた。その当時BPDはトラウマに由来するものではないかという仮説は、当時は多くの識者により提唱されるようになっていた。現在でもBPDとトラウマの関連性については多くの研究がある。BPDにおいては情緒的な虐待とネグレクトは、その他のPDを有する人に比べて3倍多く、健常人に比べて13倍多いとされる(Porter, Palmier‐Claus,et al, 2021)。
 このHerman の提唱したCPTSDについてもう少し掘り下げて解説したい。そこには少しこみいった事情があったのである。端的に言えば、このCPTSDの概念にはHerman によりフェミニスト的なスピンがかかっていたからだ。一般にトラウマ論者はフェミニズムに親和的であるが、それは多くの性被害に遭った女性が治療対象となることを考えれば納得がいく。そして彼女の場合は精神医学の歴史において従来差別の対象とされてきた「ヒステリー」の患者さんたちをこのCPTSDの概念に重ねたのだ。ただ事情を複雑にしたのは、BPDもまた差別されてきた対象としてこのCPTSDに組み込まれていたことである。
 もともとHermanは反戦運動や公民権運動に身を投じていたという。そして精神科医の研修をする中で直面したのは、それまで非常にまれだと報告されていた女性の性被害の犠牲者が、精神科の患者の中に極めて多く見出されるという事実だった。この問題をもっと明るみに出さなければならない、と考えた彼女が「心的外傷と回復」を書くに至ったのである(Webster, 2005)。
 Hermanがこの本でCPTSDとして具体的に想定している一群の患者が従来の「ヒステリー」の患者であったと述べたが、具体的には、解離性同一性障害(従来の多重人格障害、以下DID)、身体化障害(以下、SD)そしてBPDを含むとした。最初の二つは従来ヒステリーの解離型、転換型と呼ばれていたものに相当するため、CPTSDに含めることに特に異論はなかったはずだ。しかしそこにBPDを加えることには、違和感を覚える人がいてもおかしくなかっただろう。
 Hermanの意図をさらに知るためにTrauma and Recovery(原著)を改めてひも解くと、そこに次のような記載がある。
「今となっては古臭いヒステリーという名前のもとにSDとBPDとDIDの三つがまとめられていたのだ。」「それらの患者は通常は女性であるが(…)それらの疾患は信憑性が疑われ、操作的であるとされたり、詐病を疑われたりした。」「これらの診断は差別的な意味を伴い、特にBPDがそうであった。」(1992,p.123)「これらの患者たちは「強烈で不安定な関係の持ち方を示す」。「これらの三つの共通分母は幼少時のトラウマである」(p.125)。つまり当時明らかにされつつあった、BPDの多くに幼少時の虐待が見られるという知見から、HermanはBPDを解離性障害と同様に従来のヒステリーに位置付けたわけである。
  このCPSDの提唱に呼応して、Hermanの盟友であるvan der  Kolk がそれと類似の概念DESNOS(Disorder of Extreme Stress, not otherwise Specified;ほかに分類されない極度のストレス障害)(van der Kolk, 2002,2005)を提唱した。

 こちらもまた「BPD寄り」であることは以下の記述から伺える。(van der Kolk, 2002)。
「私たちがBPDだと考えていたケースをよく調べると、その多くがDESNOSなのだ」「患者のトラウマヒストリーを詳細に聞くと、ケースの概念化と治療指針まで変わる。(…)特にBPDのトレードマークである攻撃性、情緒的な操作性、欺きなどは悲しみ、喪失、外傷的な悲嘆などの真正なる感情に見えてくるのだ。」「幼少時のトラウマ体験への適応として理解することで、DESNOSかBPDかの判定に大きな違いが出てくる」とある(p.385)。すなわちBPDと診断されている患者を偏見なく診ることで、それがDESNOSの誤診であると分かることが多い、と主張していることになる。
 しかしとても重要な提言も見られる。「リサーチにより分かったのは、BPDとDESNOSは重複する部分があるものの、明確に異なる状態である」「両者は表面上は似ている。ただ慢性の情緒的な調節不全はDESNOSでは最も顕著だが、BPDではアイデンティティと他者との関りの障害の方がより重大であるというのだ。」ここにvan der Kolk とHermanのそれとの微妙な温度差があるとみていいだろう。
ところで「パーソナリティ障害とCPTSD」というテーマで、もっぱらBPDの関連性について述べたが、実は繰り返される幼少時のトラウマのパーソナリティへの影響としては、それ以外にも論じるべき問題がある。そもそもCPTSDのハーマンの原案には、a.情動調整の困難、b.対人関係能力の障害、c.注意と意識の変化(解離など)、d.悪影響を受けた信念体系、e.身体的苦痛あるいは解体が診断基準として挙げられているが、これらa,b,c,d,e の項目はパーソナリティ障害や傾向に深く関連していることであり、BPDの問題とは別個に論じられなくてはならない。そのことについては識者の間でも意見の一致が見られたようである。
 そのためにDSM-IVに続いて2013年にDSM-5でDDNOSが却下された際も、そこで提出されたPTSDは従来のものよりも「DESNOS寄り」になり、パーソナリティの変化にも言及したものであった。すなわちBPDにおいてみられるような診断基準(アイデンティティの障害、対人関係上の不信感、情動の不安定さ、衝動性、自傷行為など)が追加された。それに対してICD-11 ではCPTSDが所収される運びとなったのである。


2024年5月12日日曜日

「トラウマ本」 トラウマとパーソナリティ障害 加筆訂正部分 1

 従来のパーソナリティ障害論の流れ

 いわゆるパーソナリティ障害 personality disorder (以下本章ではPD)に関する議論は、1980年のDSM-Ⅲの発刊以来、いくつかの典型的なPDのカテゴリーが列挙される、いわゆる「カテゴリカルモデル」と称されるものであった。しかしそれが近年大きく様変わりをしている。
 それが顕著に表れたのが、2013年に米国で発表されたDSM-5(American Psychiatric Accociation, 2013)である。DSM-5では1980年のDSM-III以来採用されていた多軸診断が廃止されるとともに、それまでの10のPDを列挙したカテゴリカルモデルから、いわゆるディメンショナルモデル(詳しくは両者を取り入れた「ハイブリッドモデル」)に一変するという触れ込みだった。しかし結局発表されたものは、従来のモデルに従った10のPDであった。そしてディメンショナルモデルは「代替案」としてDSM-5の後半に提案される形となった。
 ではディメンショナルモデルとはどのようなものかといえば、ひとことで言えば、一般人に見られるパーソナリティ傾向の評価法を医療モデルに応用したものである。パーソナリティ傾向からいくつかのパーソナリティ特性を抽出し、それらを次元(ディメンション)とみなす。それらは否定的感情、離隔、対立、脱抑制、制縛であり、これがどの程度見られるかによる表記の仕方をする。
 このディメンショナルモデルは簡単に説明しようとしても以上のように複雑で分かりにくいものになってしまうが、要するにそれまでのカテゴリーモデルに見られる「自己愛性PD」、「依存性PD」、「反社会性PD」のような直感的な、名前を聞いただけでその内容が伝わるPDに比べると極めて分かりにくいものとなった。
 しかしここで留意したいのは、これらのいずれも、「それがトラウマの影響をどの程度加味したものか」という点に関しては明確ではなかったということである。カテゴリカルモデルに関して、トラウマの影響によるものと呼べるものはのちに述べるボーダーラインPDしかない。

 ICD-11(2022)で採用されたディメンショナルモデルによるPDの分類は、パーソナリティを構成する因子群(例えばいわゆる「5因子モデル」のそれ)に基づく。つまりそこにはパーソナリティは生下時にすでに定まっているという前提がある。それだけに発達上の様々な出来事に関連したトラウマ関連障害や神経発達障害との鑑別についてはやや歯切れの悪い記載が見られる。
 しかしそれはPDの概念というのは本来トラウマとは無関係に発展してきたものだったからである。 PDとは思春期以前にその傾向が見られ始め、それ以降にそれが固まるとして定義づけられている(DSM-5)。それはいわば人格の形成の時期に自然発生的に定まっていくもの、というニュアンスがあった。

 ところが最近愛着の障害や幼少時のトラウマの問題、あるいは神経発達障害について広く論じられるようになるにつれて、それらもまたパーソナリティの形成に大きな影響を与えるという考え方は、すでに私たちの多くにとって馴染み深いものになっている。私達の臨床感覚からは、人が思春期までに持つに至った思考や行動パターンは、持って生まれた気質とトラウマや愛着障害、さらには発達障害的な要素のアマルガムであることは、極めて自然なことに思える。PDをそれらとは別個に、ないしは排他的に扱うことは、あまり臨床的な意味を持たないであろう。


2024年5月11日土曜日

CPTSDと解離 2

 

さてこのHyland らの論文に戻ろう。このICD-11の掲げたCPTSDの一つの問題は、以前のCPTSDの概念は、そこに解離症状を中核的なものとして含んでいたということである。Herman のオリジナルのCPTSDと如何に違うかは次のことを思い出せばよい。Hermanは彼女の「心的外傷と回復」の中でCPTSDを昔のヒステリーの現代版だと考えている。そしてそれは端的に解離性同一性障害(DID)、身体化障害(SD)そしてBPDを含むとした。
 分かりやすく示そう。
Herman のCPTSD=幼少時の虐待に基づくヒステリー=DID+SD+BPD 
つまりHermanにとっては、解離は最初からCPTSDに組み込まれていたのだ。

ところがICD-11により定義されたCPTSDはどうだろう?CPTSDの6つの症状群を復習するならば、「今、ここでの再体験intrusion」、「トラウマを思い起こさせることの回避avoidance」、「現在の恐れsense of threat」という三つと、「感情制御困難」「否定的自己概念」「対人関係障害」 の三つである。そして前者がPTSD部分、後者がCPTSDに特有の自己組織の異常を表す。(例の公式を思い出そう。PTSD=Re+Av+Th  DSO=AD+NSC+DR)そしてそしてこの中に解離は入ってこない。

すると当然起きるべき疑問は、解離を伴わないCPTSDなど現実にあるのだろうか。ということである。

ちなみにあるメタ分析では、小児期の虐待やネグレクトを受けた子供の最も共通した症状は解離症状であるという研究がある。Dalenberg and Carlson (2012)の論文がとてもインパクトがあったという。この論文はトラウマとPTSDの仲介役mediator として解離症状が最も関係しているというものだった。そしてここが重要なのだが、DSMとICDに、PTSDに解離タイプを位置づけるようにと言う提案があり、DSM-5はそれを飲む形となったのだ。(ちなみにICD-11のPTSDには解離タイプは記載されていないが、そのかわりPTSDには不快気分、解離症状、身体的訴え、自殺念慮や行動、社会からの引きこもり、アルコール依存等々が伴うことが多い、というただし書きがある。)その結果として、PTSDの5分の一に解離タイプが見られるということである。


2024年5月10日金曜日

CPTSDと解離 1

 CPTSDと解離の関係性について、しばらく論じる。ちなみに以下の論文(ネットで誰でも入手可能)を下敷きにして考える。

Hyland P, Hamer R, Fox R, Vallières F, Karatzias T, Shevlin M, Cloitre M. Is Dissociation a Fundamental Component of ICD-11 Complex Posttraumatic Stress Disorder? J Trauma Dissociation. 2024 Jan-Feb;25(1):45-61. 

CPTSDの概念と解離との関連性については、英文の論文はかなり多く発表されているのだ。その理由の一つは、もともとCPTSDといえば解離を扱うもの、という了解があったからだ。ところがICD-11のCPTSDには表立って解離のことがうたわれていない。どうしてなのだろうか、という疑問が多くの識者から寄せられているらしいのだ。どうやらICD-11で謳われているCPTSDにおいては、そこでは解離は主たる症状としては掲載されていないのだ。

 そこで最も端的に問われなくてはならないのが、CPTSDは解離とは独立して存在するのか、ということである。別の言い方をするなら、幼少時のトラウマは解離を前提としているのか、ということだ。これはかなり興味深い議論である。

  ちなみに私の基本的な考えは、解離が構成概念 psychological construct であるということだ。つまり直接観察できない。たとえば「おもいやり」という構成概念を考えよう。これは直接図ることが出来ず、それを表すような行動により観察できる。解離はそれ自身が実に様々な現れ方をするが、それ自体の度合いを計測することが出来ない。たとえばPTSDであれば、再体験(FB)、感覚過敏、鈍麻ないしは回避症状を主症状とする。どれも解離の表れと見なすことが出来、その意味では構成概念ではなくそれが表現されたものである。遺伝学で言うと、表現型 phenotype のようなものだ。だからそもそも違う種類のものを一緒に出来ない。PTSD思考の臨床家や研究者は具体的で表に表され、計測できるようなものを診断基準として掲げたいから、構成概念である解離という概念はあまり使いたくないのだろう。


2024年5月9日木曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 推敲 5 

  他方の社会認知モデルは、DIDは医原性のものだと主張する。この説によれば、DIDはトラウマに起因するのではなく、文化的な役割の再演 cultural role enactment ないしは社会が作り出した構成概念 social constructions であるとする。つまり治療者の示唆、メディアの影響、社会からの期待などにより人格が人為的に作り出されるとする。

 このモデルの代表的な論客である Spanos は以下の様に述べている。
「過去20年の間に、北米では多重人格は極めて知られた話になり、自らの欲求不満を表現する正当な手段、及び他者を操作して注目を浴びるための方便となっている。」(Spanos, 1994)。Spanos NP (1994) Multiple identity enactments and multiple personality disorder: a sociocognitive perspective. Psychol.Bull.116,143-165.

同様の主張は臨床家を対象として書かれている著書などにも見られる。エモリー大学准教授の Scott Lillienfeld (2007)らは社会認知説を擁護しつつ以下の様に述べる。「解離性同一性障害は、すべての診断の中で、議論の余地が最も多く残されている診断である」(邦訳、p.88)。「[DIDの]標準的な治療業務では多くの場合、交代人格が現れるように促し、あたかも個々の交代人格にアイデンティティがあるかのように扱っている」( 同,p.100)。
 この立場はDIDの報告が近年急激に増えたこと、交代人格の数は、心理療法が進むにつれて増加する傾向がある、などを傍証とする。またDIDの患者が治療を受ける以前に症状を示すことは極めてまれである、などをその論拠にしている(同,p.114)。

Lillienfeld,SO, Lohr,JM ed.(2003)Science and Pseudoscience in Clinical Psychology. Guilford Press.(リリエンフェルド,SO.,リンSJ., ローJM. 編 (2007)巌島行雄、横田正夫、齋藤雅英訳 臨床心理学における科学と疑似科学 北大路書房.)

私は本稿の執筆にあたって解離性障害についての様々な議論に関して出来るだけ平等な立場から論じるつもりでいた。この社会認知説をここに紹介するのもその目的があったからだ。しかし少し読んだだけでも、その誤謬性は私の想像をはるかに超えたものであると改めて実感する。
 彼らの主張をひとことでまとめれば、それは「治療者が交代人格を生み出している」という主張である。しかし現実には患者自身が知らないところで別人格が出現し、それを周囲から指摘されるというパターンである。そして多くの患者は異なる人格の存在を否認したり隠そうとしたりする。彼らは「おかしな人」と思われたくないからだ。そしてそのことは個々のケースに虚心坦懐に触れればわかることである。なぜならそれが「臨床的な現実」だからだ。社会認知説の主張の内容は、その論者達が実際のケースに触れていないという事実を明かしているに過ぎない。
 もちろん治療者に強く暗示を受けて人格が生み出される可能性は否定できない。占い師に「霊が見える」と言われてから本当に霊が乗り移ったかの状態になった症例も経験がある。問題はそれが全体のどの程度を占めるのか、ということだ。
 さらには「人格は人為的に作り出されたもの」という彼らの強い主張に影響されて実際に存在する交代人格が更に否認される可能性も無視できないだろう。
 ちなみにこの社会認知説に対する臨床家からの反論については、例えば以下のものが信頼がおける。

Gleaves DH.(2006) The sociocognitive model of dissociative identity disorder: a reexamination of the evidence. Psychol Bull. 1996 Jul;120(1):42-59.
Most recent research on the dissociative disorders does not support (and in fact disconfirms) the sociocognitive model, and many inferences drawn from previous research appear unwarranted. No reason exists to doubt the connection between DID and childhood trauma. Treatment recommendations that follow from the sociocognitive model may be harmful because they involve ignoring the posttraumatic symptomatology of persons with DID.
Lynn, S. J., Maxwell, R., Merckelbach, H., Lilienfeld, S. O., van Heugten-van der Kloet, D., & Miskovic, V. (2019). Dissociation and its disorders: Competing models, future directions, and a way forward. Clinical Psychology Review, 73, Article 101755.

ただしそれでも驚くべきことは、現在においてもこの二つのモデルが対立しているとされているということだ。このことは他の精神科疾患との違いを考えれば顕著である。(たとえば「統合失調症や双極性障害は医原性である」という説が現在においても専門家による議論の対象となるなどのことが想像できるだろうか。)


2024年5月8日水曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 推敲 4 (ほとんど変わらず)

 ある「臨床的な現実」

解離性障害について多くの誤解が生じているという私の主張は、ある「臨床的な現実」に基づいている。それは解離性同一性障害の方が示す複数の人格(いわゆる交代人格)はそれぞれが別個の人格として体験されるということだ。それは体験レベルで自然と生じてくる感覚に基づくのであり、それは自然と生じる事であり、それぞれに対する守秘義務を守りつつ関わっていくという配慮の必要を感じるのだ。
 もちろんそれぞれの人格が同じ肉体を共有していることからくる違和感は、最初はかなり強いものである。しかしそれにもまして各主体が個別なものとして体験されることで、その違和感は縮小していく類のものなのだ。慣れ親しんだ友人の一卵性双生児が現れた場合、最初は戸惑うものの、すぐに別人として出会うという体験と類似しているであろう。
 多くの臨床家はDIDの主人格と出会ってしばらくしてから、不意に交代人格に遭遇する。そして普通の感覚を持つ臨床家であれば、交代人格は個別の人格として感じ取られるであろう。この私が「臨床的な現実」と呼ぶ体験は、以下に述べる解離の社会認知モデルの主張とは順番が異なるのである。

人間は予想していない事態に直面した時、それをこれまでの自らの経験から説明しようとする。いつものAさんとは違う様子で現れたBさんに対して、「今日はAさんは一体どうしたのだろう?」とまずは考えるだろう。「今日は気分が優れないからだろうか?」とか「気のせいかもしれない」などと考えて自分を納得させようとするだろう。時には「Aさんは演技をしているのだろうか?」と疑うこともありそうだ。
 しかしAさんが解離性同一性障害を有し、別人格のBさんが登場した場合、そのBさんはAさんと全く異なるプロフィールを有していることが多い。(というより、似た雰囲気の人格の場合、恐らく治療者は気がつかないことの方が多いのだ。)
 そしてAさんの体(と言うよりは脳)に二人(あるいはそれ以上)の異なる主観が宿っていることを認めざるを得ないことになる。それは理論的な帰結というよりはむしろ目の前の出来事に対する直観的、ヒューリスティックな理解なのである。それは紛れもない一つの現実なのであるが、厄介なことに、そのような事態を説明するような精神医学的、心理学的な理論を私達は殆ど持ち合わせていないのである。
 恐らく生まれて初めてある人の別人格に遭遇するという体験を持った場合、その人はかなりの違和感と信じられなさを体験するであろう。というのも私たちは常識としてその様なことが起きることを想定していないからだ。しかしそれが現実である以上、それを受け入れるところから出発するしかない。かの有名なシャルコーの言葉を引くまでもないであろう。

理論は結構だが、現実は消えてはなくならない。

La théorie, c’est bon, mais, ça n'empêche pas d'exister.


2024年5月7日火曜日

「トラウマ本」 感情とトラウマ 加筆訂正部分 3

 陽性感情のタブー視と禁欲原則

フロイトが100年前に至った強い陽性感情へのタブー視は、私にはある意味では十分理解可能なものの様に思える。精神療法においては患者はしばしば様々な感情的な反応を起こし、治療者もかなり巻き込まれる可能性がある。そしてそれはダイナミックな治療上の展開を生み、思わぬ成果につながることもあるものの、場合によっては治療関係の決定的な破綻に至ることもある。特に恋愛性の転移は治療者を容易に巻き込み、治療関係そのものの破綻や性的なトラウマを生むことさえある。

しかし問題は、そのような懸念を一つの要因として、精神分析では患者の陽性感情を引き起こすようなかかわりは一種のタブーとされて来たということである。フロイト自身は治療者が患者と個人的な関係を結ぶことについてそれを戒めた。それ自身は倫理的な観点から極めて重要な事であった。
 しかしそのような戒めはいわゆる禁欲規則、すなわち患者の願望を充足することを戒めるという規則とある意味では地続きとなり、その原則を遵守することが「正統派」の精神分析とされた。

 伝統的な分析家の治療スタイルは、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾ける一方では、質問に答えたり自分について語ったりすることを避けるというものである。そのような治療者に対して、患者はむしろ冷たく非人間的な対応をされているような、ネガティブな感情を持つことも少なくなかった。そしてそれは患者の側のネガティブな感情や攻撃性の表出を促進し、それが治療を推し進めていくということが一般的であった。

ただし精神分析の歴史では、感情の持つ意味合いを高く評価して臨床に積極的に応用する立場も見られた。その代表としてフェレンチと、フランツ・アレキサンダーが挙げられるだろう。

フェレンチはフロイトの弟子であったが、きわめて野心的であり、師匠であるフロイトの提唱した分析療法をより迅速に行う方法を考案した。その中でも彼の提唱した「リラクセーション法」は患者の願望を満たし、より退行を生むことを目的としたものであった。
 フェレンチはさまざまな事情から晩年はフロイトとの決別に至ったが、弟子のマイケル・バリントの「治療論からみた退行」(Balint,1968)という著書によりその業績がまとめられている。それによればフェレンチは患者の願望をとことん満たすことで患者の陽性転移を積極的に賦活したものの、その一部は悪性の退行を招き、悲惨な結果を生むこともあった。フェレンチはエリザベス・サヴァーンという患者の要望を聞き入れ、彼女との相互分析(お互いを分析し合うこと)を行った(森、2018)。しかしそれによりサヴァーンの症状をより悪化させただけでなく、フェレンチ自身の悪性貧血による衰弱を早めたとされる。

もう一つの試みはフランツ・アレキサンダーによるものだった。アレキサンダーはハンス・ザックスに教育分析を受けたのちにアメリカ合衆国にわたり、シカゴ大学で精神分析理論を自分流に改良した。彼も精神分析プロセスを迅速に進める上で様々な試みを行ったが、その中でも「修正感情体験」の概念がよく知られる。
 アレキサンダーは幼少時に養育者から受けた不適切な情緒体験が治療者の間であらたに修正された体験となることで、分析治療が迅速に進むと考えた。彼はV.ユーゴ―の小説「ああ無常」の主人公ジャン・バルジャンを例に示す。ある教会で燭台を盗んだジャン・バルジャンは、警察の調べを受けるが、その際に司祭が「それは自分が進んで彼に与えたのだ」と答えた。最初は司祭に対して厳しく懲罰的な父親イメージ(いわば転移に相当する)を持っていたであろうバルジャンは、司祭との間で幼少時とは全く異なる(修正された)感情体験を持ったことになる。これが「修正感情体験」の例であるが、アレキサンダーはまた、患者に対して叱ることのなかった親とは異なり、叱責をして治療を行ったという例も挙げている。


陽性感情と新しいトラウマ理論


以上のフェレンチやアレキサンダーの試みにおいては、特に陽性の感情を積極的に喚起することが意図されていたが、それは明らかに従来の「正統派」の精神分析に反したものであった。そしてフェレンチはフロイト自身に、そしてアレキサンダーも当時の米国の精神分析会から強い批判を浴びることとなった。しかし現代ではそのような考えに対する再考の動きもみられる。上に述べた禁欲原則に従った治療者の姿勢は、患者が過去に受けた不十分な養育環境を再現してしまう可能性も意味している。その可能性と問題点を積極的に示してくれているのが最近のトラウマ理論である。

現代の精神療法においては、来談者の多くにより語られる幼少時、あるいは思春期における性的、身体的、及び心理的なトラウマについてますます焦点が当たるようになって来ている。最近発表されたICD-11(2022)に組み込まれた複雑性PTSDの概念やアラン・ショア(Schore,2009)により示された「愛着トラウマ」という概念(すなわち母親との愛着が十分に形成されなかった過程を一種のトラウマとして理解する立場)が注意を喚起しているのは、多くの来談者の成育歴に愛着の欠損が見られる可能性である。
 その場合治療状況が再トラウマ体験となることがないような、十分な安全性やそれに基づく陽性の感情が醸し出されることの必要性が改めて強調される。この様な考えは精神分析の内部においては従来いわゆる「欠損モデル」として前出のフェレンチやバリントにより提唱されていたものの、これまで十分な注意が払われてこなかった視点である。そしてこの視点は従来の精神分析が要請していた禁欲、あるいは受け身的な治療者の態度との間に大きな開きがあるのである。フロイトの言った「治療の進展の妨げにならない陽性転移」は治療の進展を保証するのみならず、治療が成立する際の前提とさえ考えられることになるのだ。


まとめ

以上のようにフロイトが考案した感情とトラウマについての関係性は、除反応の発見の様にその後のトラウマと感情表現について重要な示唆を与えてくれたものがあった。しかしフロイト理論の量的な側面に基づくトラウマ理論、すなわち高まった情動そのものがトラウマ的であるという考えは、かなりミスリーディングであったと言えるだろう。その結果として陽性感情そのものが生起される状況をタブー視するという禁欲主義的な姿勢は、精神分析の中で場合によっては再トラウマ体験を助長しかねない性質を持っていたのである。それはフェレンチやアレキサンダーなどのフロイトの後継者たちにより修正が試みられたものの、精神分析の主流たり得なかったという側面があった。

その様な問題を払拭する形で発展してきているのが、愛着の問題を基盤にした新しいトラウマ理論であった。そこでは愛着期における養育の欠如が生み出すトラウマ、すなわち愛着トラウマが強調されることになった。これはフロイトの量的な側面に従ったトラウマではなく、養育欠如により自分自身で情動をコントロールできないことのトラウマという理解が示された。そしてトラウマ治療は養育環境を再現する方向を強調し、そこでは安全な環境により温かさや信頼感などが穏やかな形で提供されることの重要さを重視するようになっている。
 その立場からトラウマと情動について考えると、ネガティブな情動をやみくもに除反応と共に扱うことが危険を伴う一方では、ウィニコットが唱えたような抱える環境、養育環境に類似した治療関係の中でトラウマが扱われるべきであるという考えが導かれた。

しかし改めて考えると、それはフロイトがいわゆる抵抗とならない穏やかな情動による関係が治療の成功を導く重要な要素としてあげていた点と実はかなり近いことが分かる。フロイトの理論は多くのミスリーディングな側面と同時に、極めて常識的な考えを提供していたとも言えるのであろう。