2010年9月30日木曜日

失敗学その18.  宮里藍に学ぶ

昨日見ていた宮里藍についての番組(NHK)で、こんなシーンがあった。ゴルフの練習ラウンドで、第1打目が非常に短くバンカーに入ってしまった。ついてまわっていたキャスターが「あの失敗のショットをどう感じましたか?」と尋ねると、「いえ、失敗というわけではありません。事実ですから、それにしたがって次を考えるまでです。(うろ覚えなので、細かいところは想像で補っているので念のため。)そこでキャスターは宮里の精神的な充実ぶりを印象づけられる。失敗ではなく事実・・・・。失敗学的には正解だ。

そもそも野球やサッカーや、あらゆるスポーツがそうであるように、ゴルフも蓋然性の競技だ。10m先のホールに、パターで100%入れる技術は求められているわけではない。もしプロが10回打ったら平均3,4回は入れるようなパターなら、それだけの成功率を発揮できる人がプロとして他の選手と互角で活躍できるだろう。そして彼らにとってはミスショットは特に失敗というわけではなく、10回打った際のハズレの番が回ってきただけである。また次に集中すればいい。

これはある意味では「ポジティブ思考で終わったくよくよしてはならない」というような話にも聞こえるかも知れないが、そうではないはずなのだ。むしろサイエンスであるといいたい。ところが人間の心は実はそのような動き方はしない。実際は失敗と感じ、落ち込む。実は宮里だって、淡々と事実と受け止めているかといえばそうではない。絶対一瞬落ち込んでいるはずだ。ホンのちょっとは。

もっとはっきりしているのは、今年の春のサッカーのワールドカップを思い出して欲しい。6月3日、決勝ラウンドのパラグアイ戦。そのPK戦で、駒野が外して敗戦となったが、彼はその瞬間に「事実、事実」と淡々としていたかといえばもちろんそうではない。見ていた人も「なんだ、駒野、駄目じゃん」となっている。彼が一瞬ではあれ、ちょっと下手っぴに見えたはずである。そしておそらくそれにもリアリティがあったのだ。

私はこう考える。

実はパターを外した時、おそらくほんのちょっとの失敗が入っているのだろう。それを打った本人は微妙に感じ取り、調整しなおす。それが次の一打をほんの少し、うまく打たせるのだろう。このような微調整、限りない努力を行うという条件を含めて3割の確率というわけだ。宮里が外したのは、「事実」であり同時に「失敗」でもある。それを「事実」に過ぎないと自分に言いくるめて、しかし失敗の要素を微調整により改善して次のショットに望むことが出来るのが実力、というものの正体かも知れない。

2010年9月29日水曜日

精神分析 その1.私は「精神分析関係の人間」である

クルム伊達。快挙だね。40歳といったら、人はあらゆる意味で体力に自信を失い始める時期ではないだろうか?
私は経歴からは、精神分析関係の世界に属している人間として扱われることが多い。私自身はあまりピンと来ないが、実際にアメリカでトレーニングを受けたり、日本で分析学会に属していたりすると、そう思われても仕方がない。というより私はやはり分析関係の人間なのだ。そうでなければ、私は日本精神分析学会で会計係(かなり不適任)をおおせつかったりはしないだろう。ただ私が精神分析に対して持っている関係は、案外複雑である。どこかで精神分析と戦っているというところがあるのだ。
私にとって精神分析学は、「天文学」のようなものである。学問の進歩に従い、新しい知見を取り入れて発展させたい。でもこの「天文学」、実際の天文学と違って、あつかう宇宙はきわめて混沌としている。それは常に姿を変え、しかも見晴らしが極めて悪い。100年前にフロイトという学者により始まったこの「天文学」は、「地球は静止していて、天体が回っている」と説いた。そこから出発はしたが、その後さまざまな人がいろいろな説を立ててきた。結局は現在の段階でも「たぶん天体も回っている・・・・カモ」くらいまでしかわかっていない。なぜならすでに書いたように、この心という宇宙はやたらと複雑なのだ。
その結果として精神分析の世界では、あくまでフロイトが立てた「天文学」を本来の姿とする人から、頑強に地動説を支持する人まで、たくさんの人が集まっているのだ。そしてそれぞれがお互いの立場を尊重すればいいのだが、フロイトの天動説に従うべきだという意見が結構強かったりしている。この意見が依然として力が強いのは、彼の言った地動説は、なんといってもフロイトというカリスマ「天文学」者が言ったことであり、その主張が明らかに間違いであるということも証明できないからである・・・・・。
私のように「地球が動くこともあるだろうし、天体が動くこともあるだろう」という立場は、この「天文学会」ではあまり人気がない。はっきりしないし、一見何を言っているかわからないのだろう。でも私自身はおおむね満足している。心の宇宙は混沌としていて観察不能、というのがおそらく一番現実の姿に近いからだ。
こんなたとえ話をしても、読む側にすればあまり意味をなさないかもしれないが。

2010年9月28日火曜日

二者関係 その1. 人と関わるということ

 あれほど日本の政府関係者が「絶対謝らないぞ!」と言ったのだから、中国側からさぞかし反応があるのかと思いきや、そうでもないのだろうか?少なくとも私がチェックしているインターネット上のニュースには出てこない。その代わりに見つけた読売新聞(インターネット版)の記事。こんな風に言ってもらったとき「人に理解してもらえた」って感じるんだろうね。以下はその抜粋。
【ワシントン=小川聡】尖閣諸島沖の日本領海内で起きた中国漁船衝突事件をめぐり、日本政府による中国人船長釈放にもかかわらず強硬な主張をやめない中国に対し、米メディアで批判が広がっている。27日付のワシントン・ポスト紙は、「ますます威嚇的な中国に直面するアジア」と題する社説を掲載。事件について、「中国が国家主義的で領土に不満を抱えた独裁国家のままであることを世界に思い出させた」としたうえで、「中国は船長釈放後もさらに(日本に)謝罪を求めている。こうした振る舞いは、国際的なシステムに溶け込もうという気のある、節度ある国のものではない」と批判した。 ニューヨーク・タイムズ紙も同日付の記事で、米政府当局者が「日本は事態が手に負えなくなることを防ぐために重要なことを行った」が、「中国がこれ以上、何を欲しがっているのか、我々にはわからない」と、中国に不信感を示す様子を紹介した。

ところで二者関係というテーマでまだ改めて書いていなかったことに気がついた。ネット社会が人々の行動様式を変えてきていることは確かなのだろうが、非常に印象深いことがある。それは本当の意味での引きこもり状態というのは少ないということだ。私はネット社会が引きこもりを生んだとはまだ思ってはいないが、引きこもりが遷延する理由のひとつにはなっていると考えている。あるいは引きこもりの人たちの人生に何らかの意味を与えることに貢献している、というべきだろうか?

彼らは人とのかかわりを求めているのである。引きこもっていてもブログは持っている、という人も多い。RPGを通じてネット上の友達を持つ人もいる。直接対面するという形をとるか取らないかは別として、何らかの形で人とかかわりを持ちたい、という願望を持たない人のほうが少数派だろう。うつ状態が深刻になり、話す元気がなくなっても、それでも人は気心の知れた人と話したいという願望を残しているものだ。

二年前の秋葉原事件の犯人加藤智弘は、ネットこそが人生のすべてであるような言い方をしていたように記憶している。自分が何かを発信して、何かの反応を得たい。人嫌いでかかわりを持とうとしないひとでさえ、じぶんのメッセージを誰も聞いてくれないから、という理由でそうなっている可能性が大いにある。自分のメッセージに的確に反応をしてくれる人の存在なら、むしろありがたいのである。

精神療法の基本的な意義を考える際も、そのそのレベルにまで降りる必要があると思う。精神療法の世界では、「何が有効なのか what works?」という疑問に対する答えは依然として出ていない。最近はやりの観のある、関係理論relational theory などは、他人の関係、としか言いようがない、すなわち答えは見出せない、ということに関して開き直った答えを提示しているようだ。

この問題について、いかに精神療法の世界は遅れているか、と考えているよりも、いかにこの問題が複雑なのかを示していると考えるべきだ。人類は非常に具体的でデジタルな思考や解答が見出せることについては、すばらしい成果を遂げている。宇宙がどのようにできたのか、物質は何により構成されているか、などの問題についてこれまで想像もできなかったような詳細がわかりつつある。でも「精神療法はどうして有効なのか?(あるいは、本当に有効なのか?)」に結論が出ないということは、この分野がいまだに未開であり、無限の可能性を占めているということを意味する。この点が不可知論とも結びつくことはご理解いただけるだろう。不可知論が面白いのは、その可能性もまた無限だからだ。

2010年9月27日月曜日

愛他性 その1. 二者関係と二国問題とは違う    もうこれでよしにしよう・・・・

中国問題が依然として気になる。鳩山さんは「自分だったら中国側と、腹を割って話せたはずだ。」といったそうだが、ピントがかなりずれている。菅さんは、早速鳩山さんを特命大使として中国に派遣するべきだと思う。そして恩首相と会談してもらう。(断られなければ、であるが。)ただし忠告を忘れてはならない。「『トラストミー』などといいながら、おかしな約束をしてこないように!!」

中国政府の報道を耳にするたびに腹を立てている自分に気づく。国は人とは違う。それなのにどうしてここまで中国政府の姿勢に、あたかも人に対してと同じように感情的になってしまうのだろう。中国政府はまさにストラテジーとして様々なメッセージを送り続けるはずである。それに感情的になるのは中国政府の思うつぼということになる。中国の日本に対するメッセージが内政問題の反映である以上、この怒りは本当は持つ必要のないものなのである。ところがどうしてこんなに腹がたつのだろう・・・最近結構こんなことを考えている。でもいい加減に終わりにしたい。

数日前のこのブログで、私は二国間と二者間ではそのメカニズムに大きな差があるという趣旨のことを書いた。親しい間柄でなら、人と人との間には信頼が生まれ、愛他的な関係を持つことができる。人は確かに自分以外の存在を大切にし、その幸せを願うことができる場合があるのだ。これは喜ばしいことだ。人は完全に利己的にしか生きないとしたら、あまりに夢がないではないか。
でもこの愛他性は、国と国の間では成立しないと考えるべきだ。首相同士が信頼関係に結ばれるとしても無理な相談である。原因は人が愛他性を発揮できる範囲は非常に狭いからだ。愛他性を発揮するためには、相手の心のあり方を生き生きと想像する力を働かせる必要があるが、これは決して容易なことではない。目の前で苦しみでのた打ち回る人を見れば、それがアカの他人であっても苦しみは伝わってくるし、何とかしたいと思うだろう。何しろ目の前で起きることなのだから、あまり想像力は必要としない。知覚として飛び込んでくる。しかし地球の裏側にいる、食糧危機で瀕死の子供の事を聞いても、ピンとこない。彼らのために一日一ドルの寄付すらできないのだ。これは別に私たちが冷酷無情だからというわけではない。人間はそういうものなのだ。
もし一時間ほど懇々とその子供たちの悲惨な状況を説明してもらう機会があれば、そしてそれを聞くだけの忍耐力があるなら、そのうち想像力が働き、その悲惨さが伝わってきて、ついには助けの手を差し伸べたくなるかもしれない。しかしそのような機会は普通は与えられない。
そこで改めて問うてみる。A国の国民が、B国の国民に対してどこまで親身になれるのか。どこまで共感できるのか? ほとんど不可能というしかない。「国」そのものが痛みを持つのではない。苦しむのはその具体的な民衆である。「国」にいかに人格を思い入れても、その国民の顔しか浮かんでこないだろう。国と国とが理解し合い、友好関係を結ぶとしたら、それはA国民の大多数がB国民の大多数の体験に同一化し、その幸せを願うということになるが、そんなことなどあり得るだろうか? A国民の一人ひとりが、B国の特定の国民をそれぞれ思いやる、ということなど起き得ない。ただしなぜか憎しみあうことに関しては、二国間で容易に起きてしまう。それで人類は数限りない戦争を起こしてきたのである。
しかしA国民とB国民が判り合えないからと言って、悲観しないことだろう。人間はそういうものなのだと受け入れるしかない。
ところで私は思うのだが、よその国に馬鹿にされて黙っていることほど、難しいことはないとつくづく感じる。岡田さんや前原さんのように断固とした態度を取る政治家は、こういう時は受けがいい。特に中国により見下され、挑発される今回のような場合はなおさらだ。私も石原都知事が中国政府の態度に関して品のない言葉を吐くたびに、胸のすく思いを持っている。
でも我が国を太平洋戦争に突入させた原因の一つはまさにそれなのである。堂々と権利を主張し、正義を貫くという姿勢が実を結ばないことはいくらでもあるだろう。その時は相手の力に屈し、戦争を回避しなくてはならない。その為の勇気というのも私たちは必要としているのだろう。

2010年9月26日日曜日

治療論 その4.  バイザーからのメッセージは簡単には般化されない

カタい話で申しわけない。バイジーや治療者の機能、ということで最近思っていることを書いてみる。しかしこれは教育にも養育にも関係した話である。
バイザーや親のメッセージの多くは、残念ながら般化される運命にはない。バイザーは口を酸っぱくしてバイジーを指導し、正しく教え導いているつもりになっている一方では、この点が多くの場合に十分理解されない傾向にある。
ここであるバイザーとバイジーの関係を考えよう。時間に厳しいバイザーである。ほんの1、2分だけ遅れでスーパービジョンに現れたバイジーに、「セッションにはどんなことがあっても決して遅れてはなりませんよ。」と叱りつける。そして「遅れる、ということは相手を軽視していることにつながりますからね。」「私の教育分析家は、5年間、ただの一度たりとも時間に遅れることはありませんでしたよ。」「いつも先に治療者が来ている、ということが安全な治療構造を成立させる上での基本ですからね。」と言葉を継ぎ、それが治療的な環境においていかに大切かを解くだろう。
こうしてバイザーはバイジーに時間を守ることの大切さを教え込んだ・・・・はずである。ところがバイジーに時間を守る大切さはまだ伝わらない。「どうしてほんの少し時間に遅れたことをそこまで咎められなくてはならないのだろう?時間を守るよりもっと大切な事だってあるだろう。」 しかし彼はバイザーの手前、その教えが伝わったことにするだろう。でも「このバイザーにとっては、時間厳守は極めて重要であり、バイジーである以上自分もそのつもりにならなくてはならない」ということしか学んでいないのである。つまりこのバイジーとどのように付き合っていくか、しか学んでいないのである。
このバイジーが時間厳守を肝に銘じる様になるためには、おそらくその他の多くの指導者やバイザーや、患者との体験を経る必要があろう。それらの人々からも繰り返し同じメッセージを受け取ることでバイジーは最終的にそのメッセージを般化させ、自分のものとして取り入れることにするかも知れない。しかし他のバイジーからは全く別のメッセージを受けることで、時間厳守よりもっと大切な事を学ぶバイジーもいるだろう。「時間なんかあまり気にしなくてもいいんだ」という逆の教えを受ける可能性もありうるのだ。
ここで大切なのは、時間厳守を教え込んだつもりの最初のバイザーは、実は極めて大きな心的ストレスを及ぼしていることを知るべきだろう。バイジーは真理を伝えられて正しく導かれる代わりに、自分なりの真理の追究を続けるだろう。しかし表向きはバイザーからそれを学んで身につけたものとして振舞うのである。一種のfalse self の形成ということになる。そのような場合はそのバイザーを離れたら、バイジーはその学んだはずのこととは別のことをおこなう可能性が高い。多くのバイジーが、実際の治療ではバイザーに言われたことと逆のことを行うと言われる。
同様のことは、親に叱られて様々なことを学んでいく子供についても言える。親は子供を教え導き、正しい行動を教え込んでいるつもりである。ところが多くの場合、子供にとっての教訓は、「~すべきである」ではなく、「この親の目の前では、~すべきである」でしかない。そしてそれを続けることを強要されることは、子供にとってほとんど外傷的な意味を持つことすらある。

2010年9月25日土曜日

日本人とは その1 

すがすがしい一日、というより午後。今日は御茶ノ水で一日を過ごす。御茶ノ水駅はどうやら懸案のエレベーター工事に取り掛かるらしい。それはそうだろう。目の前に医科歯科と順天が聳え立っているのに、車椅子の人が乗降出来ないなんておかしな話だ。私の中学時代から現在まで、唯一ぜんぜん姿を変えていない御茶ノ水駅も、ほんのちょっと進歩するというわけだ。

中国のことを考えている。昨日の報道では、中国側は日本に「謝罪と賠償」を求めているそうだ。わが耳を疑うようである。他方わが国では拘留期限を待たずに船長を帰国させたことの是非について議論が起きている。今回このブログを書きながらいくつか学んだ気がする。

1.不可知論は、おそらく二国間においても成り立つということ。おそらく日本が中国に対してとるべき措置に、一つの正解はない。正解がない、というのが国の間にも成立していたことに今回まで気がつかなかった。win-win に基づく互恵関係は国の間では成り立たず、むしろ弱肉強食の原則の方がよっぽど当てはまる。船長を帰国させたことが、とんでもない弱腰、日本外交の敗北という野党の意見も、最善の措置であったという民主党の誰かも、どちらの意見が正しいかは、今後の自体の推移しだい、ということになる。第一「船長を帰国させるという日本の処置は正しかった」というアメリカ側のコメントだけでも、もはやどこにも正義を訴えるところはない(つまり結局は正義は存在しない)ことは明らかなのだ。
2.中国の反応は、少なくとも私の予想を超えた大胆さであり、日本人の発想の域をはるかに超えている。「謝罪と賠償」を求めてくるだろう、などと私はぜんぜん予想していなかったのだ。でもこれも弱肉強食の立場に立てば、彼らの発想がわれわれのはるか上を行く、ということなのだ。

3. おそらく日本が今後行わなくてはならないことは、自分たちの立場をメディアを通して発信し続けることだろう。これが日本人がこれまでやらなかったこと、そしてこれからやらなくてはならないことだ。それこそ中国語でも英語でもやればいい。「粛々と処理をする」は、世界にはまったく通用しない。それを言うなら、「粛々と、自分たちの立場を発信し続ける」べきなのだ。そしてこれを日本は決してやってはいない。個人レベルでは、「粛々と処理する」はまだ通用する可能性がある。誰かがじっと見ていてくれて、最後の裁定を下してくれるかもしれない。しかし国家間では、そんな存在はいないのである。

ところでやっと今日のテーマ。
私は今、この日本の弱腰でお人よしの外交の仕方、あるいは外交手腕の欠如、といったことと日本人のメンタリティーは非常に深い関係にあるということを感じている。そして私の好きな日本人の性質は、おそらく中国にいいようにやられっぱなしの姿勢と共通していることなのである。財布を拾ったら交番に届けることを疑わないこと、また自分が財布を落としたら、届けられているであろうことを期待するところ、そしてそれが国内では成立しているということが、日本人をますます外交音痴にしている。
でもこんなおかしな国が世界で一つくらいあってもいいのでは、という気がする。先進国で唯一の核を持たない国、というのはこのように恫喝されても仕方がないという運命を担っているということを受容する必要があるだろう。
日本は稀有な、やられっぱなしでもおとなしくしている国である。そこにはおそらく彼らにしかわからない美学がある。それでいいのかもしれない。弱小国でも文化と技術があればいいのかもしれない。大国中国には向かわなければ、希土類は輸入させてくれるだろうし。

2010年9月24日金曜日

治療論 その3. 治療と言っても自分に行動療法

おめでとう、10年連続200本安打。もう今年はこれでいいよ。巨人はもうこれからは無視。最初に期待させて後半の失速はひどい。ホームランばかりに頼るからだろう。本当の実力とは違う・・・などとグチを言いたくなるが、原監督もつらいだろうな。
自分に行動療法を施したら結構うまくいったということがある。というより行動療法はみな自分や家族に対しては常に試みてはおおかた失敗、ということを続けている。しつけもかなり行き当たりばったりではあるが、子供に同様の試みをしていることになる。そもそも行動療法は、その人が「はまる」ものでなければ、長続きしない。いくら行動療法の効果にエビデンスがあるといわれても、「一週間の行動の日記をつけるなって考えられない」という人はそもそも行動療法家のもとを訪れないだろう。だから行動療法とは、自分で自分に行うことが本当は一番いい、ということになる。行動療法化は、そのコーチ役ということか。
最近の自分自身の例から。私の場合、どうしても書くモティベーションがわかない依頼原稿というのが一番つらい。するとつい先送りをしてしまう。私にとって精神衛生上よくないのは、この先送りから来る漠然とした不安である。「モティベーションがわかない仕事が結構進んでいる」というのは安心感を生む。しかしその仕事はやりたくない。これはジレンマである。そこで・・・・・
ワードの文書に、仕事のリストを作る。一番先送りにしたいことを上にして、やりたくない順番に並べる。そして見出しマップを活用して、左の欄にそのリストが見えるようにしておく。多くの人がこれを使っているかと思う。
  
私の行動療法は、そのリストに従って、仕事をこなしていく。ただしどんなに少なくてもいい、ということにする。
すると仕事Aなら一ページくらいは一気に進む。(その仕事Aとは、例えばこのブログだったりする。)見出しマップで次に出てくるのは仕事B。一番書きたくない依頼論文だ。そこでそれこそ見キーワードを3つくらい思いついて、それで飽きてしまう。それでおしまい。それでいいことにする。(まったく何もしない、というのはナシ、ということに決めておく。)次の仕事Cは翻訳なので、嫌いではないのでちょっと進む。仕事Dは、机の周りの入らない書類をひとつかみゴミ箱に入れる。仕事Eはメールの返事書き、という風に。それぞれはわずかでも、仕事AからEまでとりあえずやった、という爽快感がある。次はまた仕事Aに戻る。鬼門は仕事Bだが、先ほどのキーワードを出したおかげですこしは進む・・・・・。
他愛のない方法だが、私としてはこの方法なしには何も出来ないような状態である。
ただ私がこんなことを書いても、じゃやってみよう、と試す人はごくわずか、それでうまく行ったという人はさらにわずかである。ここら辺が行動療法の難しさか。繰り返すが、行動療法とは、個人がやり方を見つけるのをアシストすること、という風にいえるかもしれない。

2010年9月23日木曜日

不可知性 その12. 外交は不可知性の極致、二者関係はむしろ予則可能である

昨日は日中の問題で未熟なことを書いたような気がする。私は政治音痴なので、二つの国の間で生じうる事柄がそれこそ不可知性をはらんだ予想不能なプロセスを取るということがどうもピンときていない。しかし実際は、事態は非常に混沌としたものである。二国関係は二者関係と同じように、あるいはそれ以上に不可知的で、あす何が起きるかがわからない。つまりこの場合にはこうする、あの場合にはああする、というパターンがそもそも存在しないのであろう。 「粛々と処理する」のも「強硬路線を続ける」も、「柔軟に対応する」も、どれが正しい解決かは時と場合により異なり、唯一のポリシーなどないということか。私はあたかもそれを求めて昨日の文を書いていた気がする。

そんなことを考える記事を読んだ。(JBpress (日本ビジネスプレス) 尖閣問題で日中関係は再び冬の時代に戻るのか 中国が犯した2つの誤算~中国株式会社の研究~その76)  http://clip.livedoor.com/page/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4477

著者はあくまで現実に根をおろしたリアリストである。リアリストにしか書けない内容が随所に見られる。著者の主張によると、内政と外交は表裏一体であり、政治家が外国に向かって発言する内容は、国民にどのような反応を及ぼすかによりほぼ決まってくるという。つまり「日本は船長を無条件で即座に解放せよ」とは、「そのとおりだ!」という国民の声を反映している。その点政治家の発言は極めて計算され尽くしたものでなければならない。つまり中国のメガネをかけた女性報道官に腹を立てても仕方がない、ということか。

政治の世界ではさらに複雑な事情がある。それはリーダーの発言が、逆にある種のムードや世論を引き起こしたり、予想もしないような運動を引き起こしたりするということである。中国のリーダーたちが一番気にしているのは、反日運動を煽った際に起こる運動が、容易に反政府運動に転化するということだ。だから彼らはアクセルとブレーキを同時に踏むような芸当を行っていることになる。あるいは半年前の私たちが経験したのは、「沖縄の人は、米軍の基地の存続についてどう思いますか?」という(余計な?)問いかけにより「絶対に容認できません」という世論を形成してしまったということであろう。
それにしてもつくづく思うのは、政治にしても経済にしても、私たちは不可地の渦の中で生きているのだ。その中でどのようにポリシーをもち、それを守っていくのかの見当が付きにくい。

それに比べて私は対人関係ははるかに予想可能であるという気がする。これは極端に聞こえるかも知れないが、決してそうではない。二国間の関係と二者関係は、前者が次元が高い、というかそこに絡む変数の数は計り知れないほどに多い。それに比べて二者関係は不可知性をはらむと同時に予想可能性も存在する。少なくとも私にとってはそうである。それは例の win-win の原則である。この原則に従えば、大概うまくいく。それが最大の予測可能性である。

Win-win 則とはつまり、常に他者の利益と自分の利益が同時に得られる道を模索せよ、ということだ。念のため。この原則が正しく作動するためには、常に他人の利益を優先している、というくらいの自覚でちょうどいい。それは人間はことごとく我田引水の傾向を持つからだ。無私でいよう、と思っていてようやく利己的な面が若干抑えられる、という感じだろうか。
もちろんwin-win は容易ではない。しかしそれに従おうとする(従う、というのは実は無理だ。そのつもりになっているだけで上等だろう)ことで気持ちは平穏になる。それは少なくとも対人関係において自分から荒波に漕ぎ出してはいないという安心感をあたえる。またこの原則は自分のしたいことを犠牲にする必要はないということをしめしてくれているのだ。他人にXの量を与えたら、自分にもXを与えていいのである。
もちろんwin-win が上手くいかないことはいくらでもある。人は思わぬところで誤解を受け、恨みを買い、人を傷つけてしまう。しかしWin-winに従うことは、それらの危険をかなり回避することに役に立つ。
もちろんこの原則を生来身につけているとしか思えない人もいる。そのような人にはこのような原則は必要ないだろう。つい自分のことばかりに目が行く私のような人間には特に肝に銘じておくべき原則ということかも知れない。

2010年9月22日水曜日

失敗学 その17 (恥と自己愛 12)  失敗学的にはよくわかる、大阪地検の前田容疑者の「改ざん問題」

それは私もショックである。「朝ズバ」のみのもんた風の反応をすると、「とんでもないこと」、「前代未聞のこと、あってはならないこと」、「検察のおごり高ぶりの表れ」という感じである。しかし失敗学的にはこの大阪地検で起きたことは、非常にありがちなことだ。むしろこのことが明るみに出て社会的な制裁を浴びることの中に健全な面が含まれるということが出来るし、その点も同様に注目すべきだろう。じゃないと人間の不正を行ない、人を欺こうとするマイナスな側面ばかりに注目していることになるではないか。大阪地検で行われていたようなことが、まったく一般の国民に知られることなく行われている国はたくさんあるだろう。現にこの日本だって、検察庁はこれまでこの種のことを繰り返し、決して露見されることがなかったと考えてはいけない理由など何もないのだ。
ある閉鎖的な組織で、一定の役割を与えられた平均的な人間が、自分たちの都合のいいように仕事を進める上で不正を働いても、チェックを受けることがないとしよう。そこで一部の人間が、場合によっては大部分の人間が不正を行うようになる。その典型が、その組織のトップに居る人間であるが、そのトップに飼い慣らされている部下にも同様のことが生じるのは当然である。
もちろん最初は違う。人は慎重にことを運び、不正を嫌うだろう。ところがだんだん気が大きくなってくる。不正を行っているということに対する後ろめたさが麻痺してくる。これは普通の人間に起きるプロセスなのだ。政治家が政治献金か賄賂か見分けがつかないものを受け取るのも同じである。私達の一部が確定申告の際に、100%正直になれないのも同じ。そして不正を働く人の大部分をしめる「普通の人」には、私もあなたも含まれる。
あ~あ、言っちゃったねぇ。これじゃまるで大阪地検を擁護しているように聞こえなくもないじゃないか。著名人がこんなことを書いたら、ブログはすぐ炎上するかも。幸い読者は推定18人くらい、ということで全くその心配はないが。
ちなみに平均的な人、という風に言ったが、大阪地検で不正を働いた人々は司法試験を通過したエリートのはずだ。彼らは知的には非常に優れているはずだし、その意味では普通ではない。しかし道徳的にはかなり普通だろう。人の正直さをチェックするような試験などない。短時間で行う面接試験などでもまったくアテにならない。その普通の人が不正を働くようになる一つの決め手は自己愛のフリーランである。
自己愛のフリーランとは、このブログでは今年の6月11日に初登場し、それから何度か書いてきた考えである。自分の行動を上からチェックしてくれる人がいなくなると、私たちの自己愛はどんどん肥大していく性質を持つ、ということだ。簡単に言えば、人は組織の中で偉くなっていくと、どんどん周りが見えなくなって好き勝手をするようになる。ここで好き勝手とは、基本的には家で一人でリラックスして自由気ままに過ごしている時のふるまいをさす。何も特別な行動ではないのだ。
そして自己愛のフリーランは、実は組織についてもおきる。(またまたいきなり新説である。)つまりある組織が他からノーチェックな場合、その組織が好き勝手なふるまいをし出すということである。ただしその場合組織の中の個々人の自己愛がフリーランしているということではない。組織の内部は結構上下関係が厳しく、礼儀を守らなければならないかもしれない。しかしその組織が他の組織からチェックを受けない場合には、その組織全体が好き勝手な振る舞いを行うということである。検察庁などはその例だろう。
ここで読者はなぜチェックを受けない際に不正を働くようになるという普通の人間が備えた性質が、「失敗学」と関係しているか疑問に思うかも知れない。しかし失敗学が考える失敗には、いわゆるヒューマンエラー、つまり人間であるがゆえに起きる勘違いや思い違いによるものだけでなく、いわゆる魔が差すという事態、すなわち「道徳的な過ち」をも含むものと考えるべきだろう。そしてそれを防ぐ方法も、ヒューマンエラーを予防する方法と同じである。それは二重、三重のチェック機構であり、いわゆる内部告発の促進である。人は単なるミステイクをおかすのみならず、魔が差すものであるということを前提とし、受け入れることで、やっと私たちはそれに対する対抗手段を得ることである。とすれば検察庁の不正を防ぐには・・・・・・ 100パーセント可視化しかないではないか!!

2010年9月21日火曜日

失敗学 その16. 「正義が勝つ」はぜんぜん正しくない

尖閣諸島の事件の影響で中国との関係が「悪化」しているという。中国政府の対応はあんまりだ。(中国の国民はみな良識があるいい人達ばかりだと思う。)のんびりと「汝怒るなかれ」とは言っていられない状態という気もする。そこで失敗学的に考えれば、案外そうでもない。
中国の振る舞いは日本人からすればまったく理不尽だが、人間社会ではよくある話だ。小学校のクラスにたとえるならば、中国政府はドラえもんに出てくるジャイアンのようなものだろう。ジャイアンは最近急に体が大きくなって発言権も増してきた。休み時間にぶつかってきたくせに、「土下座してあやまれ」と言ってきた。これを断ると無理難題を押し付けてきた。「給食当番に圧力をかけておかずを減らすぞ」、とか「他のクラスメートに働きかけて、シカトしてやるぞ」とかいい出した。おとなしく謝れば許してやる、と言うが、何を謝るのかがわからない。ぶつかってきたのは向こうだし・・・・。こちらは「毅然と」しているうちに収まるかと思ったが、どんどんエスカレートしていく。そこで「モト・ジャイアン」にそれとなく話をしてもらった。モト・ジャイアンはなんだかモト冬木みたいな名前だが、しばらく前まで間では彼もジャイアンだったのだ。ところが最近急に大人びて、真面目になり自己推薦で勝手に級長になっている。いつもは味方をしてくれるはずなのに、なんと「二人とも冷静に話しあって解決すれば?」などと言っている。どうすりゃいいんだ・・・・・。
しかしもともと人生は理不尽なことだらけである。さっきちょうど中国人(大陸出身)の患者さんと会ったので話を聞いてみたら、「中国のこのやり方は、ソ連から学んだのですよ。」と言う。知識人の中にはかなり中国政府が日本に対して無理なことを言っているという感覚を持っている人もいるという。それに反日運動自身もかなり政府がコントロールしているという話だ。
失敗学的に言ったら、とにかく人生は上手くいかなくて普通、アンフェアで当たり前、と覚悟をしておくべきであるということか。日本は早めに船長の拘留を解いて帰国してもらうか、あるいは「謝罪して」中国政府に許してもらうか。それとも前原さんの言うように「粛々と対応」し、中国政府をもっと怒らせて、後は時間が解決するのを長~い間待つか。どちらに進んでも何らかの痛みが伴う。妙案など最初から存在しないのだ。
ここで精神衛生上大切なのは、「どちらが正しいか」を考えないことだろう。いや、考えてもいいが「正しい方が勝つべきだ、勝つはずだ」という考えを持たないことだろう。国の振る舞いに、正しい、正しくない、はない。なぜなら国は人ではないからだ。国と国の間に誠実さとか、ましてや「友愛」などない。人間の共感の射程は、せいぜい目の前で苦しんでいる人か、家族、親しい友人程度だ。ある国が、別の国に共感することはない。(ある国の国民が、別の国の国民に特別共感を覚えやすいということはあるが。人種の近さ、宗教の近さなどが関係するだろう。ただし同じ人種で、同じ宗教を持つ人々同士が血で血を洗う殺戮を繰り返す例もいくらでもある。)
中国政府の言うことは無茶だ、日本の言うことのほうが正しい、といくら思っていても、事実上のリーダーの米国が「日本も中国もどっちもどっちだ。」と言うとしたら、もうどうしようもない。日本人にとっての正義は勝たないというケースのもう一つの例と諦めるべきだろう。

なんだか自分で自分を慰めるために書いているような感じだ。

2010年9月20日月曜日

真面目でいること 1.

 真面目でいることについて考える。私はとにかく真面目である。(自分が真面目であるというのはかなりウサン臭いが。)原因はいくつかはっきりしたものがある。一つには精神科の臨床をやっているからだ。だれだって不まじめな精神科医を主治医として持ちたくないだろう。(それに比べて、例えば「私の整形外科の先生は、不まじめだけれど、腕だけは確かだ」は、何かワイルドな感じでアリという気がする。)26歳で医師になり、患者を持った時から徐々に変わっていった。徐々に、というのはそれまで不用意でぶしつけなことも平気で言っていたのが、患者さんがそれに反応してときには非常に傷つくという体験を徐々に重ねていったからだ。 患者さんがほかの精神科医の不用意な言動に反応をするのを見るのも結構ためになった。研修医の時、同期の駆け出しの精神科医が、病棟で担当していた若い女性の患者さんと立ち話をしていて、患者さんが急に怒り出した。
こんな会話だったらしい。朝その患者さんに検査結果を伝えに行き、その日の午後その患者さんとの面談の予定があったことに気がついた。そしてその精神科医がこういったという。「ええい面倒くさい、今面談もしちゃおうか?」これに対してその女性の患者さんが、憤然とした。「面倒くさいって、どういうことなの、先生!」
わたしがこの30年近く前のことをよく覚えているのは、「自分でも口をついて出るかもしれないな。気をつけなくては」と思ったからだと思う。面倒くさい、というのは別にその患者さんとの面談について言ったわけではなかったのだろう。でもその言葉の選択が不用意なのだ。
少しは失言癖が治りかけて米国に渡ったが、今度は英語でたくさん同様のことが待っていた。さらに31歳での結婚もこれまた大きな影響があった。多くの失言を学んだ。ようやく自分の言葉に気を配れるようになってから、あまり経っていない気がするが、今度は3年前から大学院で学生に臨床の指導をするようになった。こんな姿を学生が見たらどう思うだろう?と考えると余計真面目になってしまった。
実は若い頃からその徴候はあっただろう。自分はこれからますます真面目になるしかないだろう。だったら今のうちにちょっと不真面目に好きにやってみよう、というのがあった。
若い頃の真面目さは、明らかに母親の影響である。酒タバコはやってはいけない、というのは常識。「イシャカベンゴシニナリナサイ」(ほとんどひとつの単語)もよく聞いた。父親は酒を好んだが、ポツリと言った。「酒を呑むようになったら、夜勉強する、ということはまずできなくなるね・・・・」これも入っている。なぜなら多分一度しか父親は言わなかったからだ。ここに私の臆病さ、新奇恐怖(対人恐怖の一つの要件。新しいことが怖い、物怖じする)が加わって真面目になった。しかし他方では、人を笑わすのは、小学校の低学年あたりからかなり好きであった。特に人前で緊張するようになった思春期以降までは、クラスでコメディアンと言われた。それが思春期で影を潜め、一気に根暗な人間に変わったのである。
さて私はこんなに真面目になり、不便を感じているのだろうか。そういうところも確かにあるが、しばらくはこのままやっていってもいい、という気もする。真面目は真面目なりにふざける余裕はある。それに私は心理療法家であることには、ある種のまじめさが不可欠であることも実感するようになっている。私が心理療法を行う人間である限りは押さえなくてはならないことが実はいくつかあるように思えるのだ。(続く)

2010年9月18日土曜日

快楽の条件 6. 楽しくない愛他性はない

この天気を待っていた。いいねえ。暑くもなく寒くもなく。毎日毎日こんな天気だったらなぁ。
快楽については、このブログでは動因の心理学と題して、最初の頃から扱っている。「快楽原則」とか言うと、やたらと小難しい議論に聞こえるかもしれないが、きわめて日常的な体験をもとに議論しているつもりだ。そのためにいくつかの原則を「快楽の条件」としてあげているのであるが、今日は愛他性に関する誤解について述べておく。
愛他性は、私たちが持つ貴重な属性だ。ある意味では人としての価値は、どれだけ愛他性を発揮できるかということになる。だって、愛他的な人はそれだけ他者の幸せに貢献できるのだから。これほどわかりやすい「人としての価値」の見極め方はないだろう。
ところが多くの人が誤解しているのは、愛他性とは自らを犠牲にして他者に貢献する、という捉え方だ。しかしこれは違う。愛他性とは、他人の快、不快が自分のそれと同期化するような性質だ。ここで間違ってはいけない。他人の快、不快と自分の不快、快が、ではない。これじゃ逆だ。これだと羨望が強い、あるいは極端な自己愛をもった人間ということになってしまう。でもこういう人も結構いるんだなぁ。
他人の快、不快が自分のそれと同期化するというのは、本当に幸せな性格である。楽しみつつ人を幸せに出来るのだから。表題にあるように、楽しくない愛他性はあってはならないのだ。
私たちは普通は愛他性を病理としては捉えない。愛他性は自我心理学的には「最も成熟したレベルの防衛機制」ということになる。ある種の適応的な性質として考えているのであるから、愛他的な行為が無意味にその人自身を傷つけたり滅ぼしたりしては元も子もない。愛他的な人が愛他的な行為を続けるためには、その人が元気で生きていなくてはならないのである。となると結局その人が「愛他的な行為を楽しむ」という形でしか愛他性は発揮できないのである。それにもしある種の愛他的な行為がその人の身体の損傷とか痛みをともなうとしたら、それさえも快楽的に感じられないと、そのモティベーションは継続できないだろう。するとこれは病的なマゾヒズムということになってしまう。
私たちはリストカット等の例で、自傷行為が快楽的な要素を持ちうることを知っているが、通常はそのような行為に「それにより他者を救う、癒す」という視点は入ってこない。もうその行為に浸ってしまい、他人どころではなくなってしまうのだ。
さて、愛他性は楽しい、という命題についてである。これは愛他性とは愛他的な行為をすることが、そのまま同時に自分にも快楽的になるということだ。子どもを持つ親だとこれはより身近に経験されるだろうが、きょうだいの間でもそれはいくらでも起きるだろうし、恋愛対象に対してもそうだ。もちろん愛他感情だけがそれらの関係を支配するわけではない、ということは言うまでもないが。愛他感情はいろいろな関係性に時々チラ、チラ、と現れて、癒しをもたらしてくれる。
「ぶらぶら買い物をしていて、どこかの店に立ち寄り、何かの商品を目にしたとき、嬉しくなった。その瞬間、それを買って帰り、夫にプレゼントして喜ぶ顔を想像している。その楽しさは、その商品を自分が使うために探していたときのそれと、質的に変わらないのだ。」これを読んで、「なーんだ、自分も楽しんでるじゃない。どこが愛他性なの?」という人もいるだろう。でもこんなのよりましだ。

「私は妻を愛する。だから買い物をしていて偶然彼女の好きな『●●チョコレート』を目にした時、特に喜びは感じなかったが、そのかわりにある思考が湧いた。「このチョコレートは確か彼女が好きなチョコレートだ。ということはこれを買って帰ると彼女が喜ぶ。彼女が喜ぶということは、私がなすべきことだ。なぜなら私は愛他的だからだ。そこで私はそれを買って帰ることにした。」

これじゃまるで義務でプレゼントをしてるみたいじゃないか!! こんなの全然愛他的という感じがしないだろう。
私にだってこれは経験がある。先日ずいぶん久しぶりにデパートのおもちゃ売り場に足を踏み入れた。そこでふとむなしさを覚えたのは、以前だったら体験していたこと、つまり「これを買って帰ったら息子は喜ぶかもしれない」と思うことが今では意味をまったく失っているということに気がついたからである。何しろ息子はとっくに成人してしまっているのだ。
贈り物を好む人は、儀礼を重んじる事の他にもシンプルな愛他性の表現であることが多い。
徒然草に兼好法師が述べている。「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師・・・・・」

2010年9月17日金曜日

怒らないこと その10. 叱責は違う ただし怒りと似た回路が働いている

汝怒るなかれ、のテーマを続けている。「怒る」のと似て非なるのが「叱る」である。
怒るのが苦手な私は叱るのも苦手である。叱るのは明らかに上から目線であるし、よほど自分の主張に確信がない限りは出来ない。私はそれだけ自分に自信がないのであろうが、、人が人を叱っている姿を見ると、これはアリだな、と思う。例のヒメチョウゲンボウも、実はまだ未熟な雛をドツきながら、「叱って」いる、という方が近い気がする。時には叱責が人を変えるし、それが愛情表現だったりする。でも叱ることは時には「怒る」と紙一重だったり、区別ができなかったりする場合があるのだ。
先週日曜の龍馬伝の中に、龍馬が、芸子のお元を叱責するシーンがあった。薩長連合について江戸幕府の関係者に密告するお元に、その行為をやめさせようとして、龍馬が「俺はお前さんのことを思って言っているんだよ!」(土佐弁でどういう言い方だったか忘れた)と一括するシーンだ。
一応龍馬伝の龍馬の生き方は肯定してかかることにしている私も、相手に「お前のためだ」と叱りつけるのは胡散臭いと感じた。しかしそれでも説得力はあった。相手にしっかりメッセージを伝えたい時、人の声は大きくなり、目は見開き、あたかも叱りつける様になる。でもそれは相手に対する熱意ではあっても怒りとは違う。いやまったく違うというわけではない。どこか怒りと回路が共通している(精神科医のくせにこの曖昧な言い方はなさけないが。)叱責も相手のある面を否定し、変化をすることを強要する。「余計なお世話」かも知れないし、叱る側の独断やエゴイズムの表れかもしれない。でもエゴイズムを差し引いても残る部分があるとき、叱責は人を救い導く。
でも叱責と怒りは生理的にも似ているためにそれを区別しない人が、叱責の形をとって怒りを表明する。それが問題なのだ。お前のため、と言いながら人を傷つけている。いつの間にか自分の快感になってしまう。だた親は、師匠は叱責が怒りに踏み込んでしまうことををあまり気にしないんだろう。叱責≧怒りならOKとするのだ。しかしこれが逆になると、つまり怒り≫叱責となると、そしてそれについて本人が気がつかないと・・・・・それが虐待になるのだ。

2010年9月16日木曜日

自己開示 その2.  だって人の弱音や泣き言ってウザいでしょ

朝の通勤時はひどい雨. 一日の始まりとしては最悪.

精神分析では、治療者が自分の情報を患者側に伝える(漏らす)ことに非常にナーバスである。それはフロイトの唱えた「匿名性の原則」に反するからである。フロイトがこの原則を作ったのにはそれなりの根拠があったわけだが、それが誤解された場合は、それこそ治療者は白紙でいなければならないことになってしまう。それでは治療者としての力が半減してしまいかねないというのが私の立場だ。
でも私は基本的には「慎重派」である。治療者は自分に関することは、ほとんど何でも話せる用意をしておいて、そして口をつぐむのが理想だと思う。しかも治療に不必要だったり、不適切だったりすることに付いては語るべきでない、というのが私の立場だ。
なぜ自己開示に関して、治療者がなぜ慎重にならなくてはならないか。それは「品性」や「奥ゆかしさ」と関係する、と言ったのが 9月4日のブログであった。なんとなく気恥ずかしい内容だが、概ねはまちがっていないだろう。それとまったく関係がないというわけではないが、自己開示の最大の問題は、それがしばしば他人に不快感を与えるということであろうと思う。精神分析では、治療者が自分のことを語るのは、「匿名性の原則」に反し、患者が治療者に対していだくファンタジーや転移の可能性を制限する、と考えた。しかし私はこれはどうも「上から目線」の主張であると感じる。そもそも患者は治療者のことを常に、限りなく知りたがるという前提を設けているところがあるからだ。私は自己開示を戒めることの本質的な意義はもっとシンプルだと思う。それはそれが多くの場合ウザくて、はた迷惑だからだ。
およそあらゆる文化を超えて言えるのは、自分の体から出たものに関しては、不浄のものとして人目に触れさせないことである。特に消化管系から出たものはそれだけで周囲を汚染して迷惑を掛けるものとみなされる。人間が自分に関することについて垂れ流すことは、嘆きに関しても自慢に関しても、他人を汚染する可能性がある。それもそのはず自分から出てくる言葉や行動は、言わば排泄物のようなものだからだ。
自分に関しての語りは、どんな日常些細なことについても自慢が入り、他人への当て擦りや揶揄が込められる。人は基本的には吐息と一緒に毒ガスを振りまいていると言っていい。治療者はそのことを常に意識していなくてはならない。
自分に関しての語りは、どんな日常些細なことについても自慢が入り、他人への当て擦りや揶揄が込められる。人は基本的には吐息と一緒に毒ガスを振りまいていると言っていい。治療者はそのことを常に意識していなくてはならない。
では人はどうして他人の話に耳を傾け、自伝を読み、そのパフォーマンスをお金を出してまで観に来るのか。それは私たちが同時に他人に興味を持ち、刺激をうけることを望むという面を持つからである。つまり毒ガスを心地良く感じる聴衆が存在して初めて成り立つことだ。それ自体が実は非常に偶発的なことなのである。だから自分が好みの俳優の出ているドラマを他人に薦めても、たいていは迷惑がられるのだ。
それともうひとつ、表現者は自分の行う表現に人を感動し、心地良さを与えるような形式美を与えることが出来るからだ。
ところでこのブログ・・・・。かなりはた迷惑なことはわかっている。
(なんとなく中途半端なので・・・・続く)

2010年9月15日水曜日

怒らないこと その9.それでも人はなぜ怒るか?

怒りの問題も奥が深い。最近少し考えが進んだ気がする。私はいいオトナが怒ることといったら、ほとんどが何らかの形でプライドを傷つけられたことによる、いわゆる「自己愛憤怒」であるということを述べた。子供なら転んで膝をすりむけば泣くだろう。でもオトナはそんなことでなくわけはない、体にうけた傷など全然たいしたことはない。もっとつらいこと、それは自分のプライドにつく傷である。その時人は涙を流すし、その苦痛を怒りに置き換えるわけだ。
これは怒りを恥と自己愛の文脈から理解する方針だが、それ以外にも怒りを説明出来るように思える。最近私が繰り返している「強い存在には怒ってもいいのだ」という主張も、実は自己愛だけでは説明がつかないのでは、と考えるようになった。強い存在(こちらにハラスメントをしおおせる存在)は、ビクともしないと思えるからこそ、手ひどく批判をしたり攻撃したりできるわけだ。つまり後ろめたさを感じることがないからこそ怒りを表現できるというのであれば、人は攻撃性を本能の一部として持っているということになり、それではフロイトに戻ってしまう。これでは困る。
私は自分でも怒らない方だと思っているが、朝、夕の通勤時には、腹を立ててぶつぶつ言いながら歩いている。駅の通路の真ん中で通行人の流れを邪魔していることも忘れてケータイの画面を見つめながら歩いているおじさんを見ると、「バッカモーン!ケータイなんかしまって前を見てあるけ!!」などとつぶやいている。(もちろん相手には聞こえない程度に抑えている。)通行人は私とは何の個人的な関わりもないから、言わば「モノ」のような存在である。だからこうやって怒れる。やはり人は理由を見つけては怒りたいのか?
私はこの種の怒りを、攻撃性そのものよりは、いわゆるエフェクタンス動機づけ (effectance motivation, White, 1959)と結び付けたい.人は自分の意思や行動が世界に変化を与えるという
体験を無条件に求めるところがある。それがもっとも手っ取り早く得られるのが、人を傷つけ、苦痛を与えるという行為であろう。でもそれ自身が最終的な目的ではない。効果器動機付けが攻撃という形で生じるのは、相手がとてつもなく兄弟で、傷つくとは思えない時、相手がモノのように見えている時、ゲームなどのフィクションの世界の中で発揮される時である。でもこれは同様に人に幸せをもたらしたり、破壊する代わりに想像したり、傷つける代わりに癒したりすることでもこの効果器動機づけは働くのである。
もちろんサディスティックな人間の場合は話が別だ。その場合には怒りと攻撃により相手を傷つける行為は、それ自身が快楽的になってしまう。そうなると怒ること、相手を攻撃することは、もうその人の人生そのものになるだろう。
結局何を言いたいか。怒ることには、それがeffectance motivationの満足につながり、それ自体に快楽的な要素があるために、私たちはなかなかそれから逃れることが出来ない。快楽を伴う行動は、それを行う人をいくらでも自己正当化に向かわせる。こうして「汝怒る事なかれ」は非現実的で非人間的なスローガンと思われてしまうのだ。

2010年9月14日火曜日

怒らないこと その8. 怒らないで人を導くことは出来るのか?(続き)

この話、大事なところで終わっていた。「汝怒るなかれ」は教師として、親として機能する際にも妥当なのか。そんなテーマである。
皆さんは考えるだろう。「大体親が全然怒らない子育てなんてあるだろうか? 昔からいたカミナリ親父は、まったく無駄なことをしていたのだろうか?」
弟子を叱責する師匠、先生の逆鱗に触れるのを恐れて自粛する生徒。どれも当たり前の姿という気がする。怒りにもそれなりの意味がある。ある私の知り合いはこんなことを言っていた。「私が思春期にグレなかったただひとつの理由は、父親の機嫌を損ねてぶん殴られるのが怖かったからよ。」
動物界を見てもそうだ。この間(9月12日)NHKの「ダーウィンが来た」で、ヒメチョウゲンボウ(ハヤブサの仲間)という鳥の子育ての様子を紹介していたが、これがすごいのだ。ひな鳥が生まれて母親は一心に雛鳥に餌の虫を運び続ける。一月ほどで雛鳥は巣を飛び立つのだが、ある雛などは羽を広げて飛び立とうとした瞬間、母鳥が飛んできて、ものすごい勢いでドつくのである。「アンタ、何やってんのよ!!」という感じか。ところが母鳥は、まだ巣立つのがほんの少し早い雛には、飛び立つことを止めているというのだ。まさに母鳥の剣幕で雛は天敵の餌食にならずにすむのである。
そこで再び問う。「怒らないで人を導くことは出来るのか?」

ただこれについて私はこんな答えを用意する。「もともと『汝怒るなかれ』、は無理な相談なんですよ。人は怒りがどれほど非生産的であっても、人は怒りに駆られることをやめることはない。人間は怒って普通なのです。それをどの程度コントロールできるかということです。『汝怒るなかれ』は努力目標、スローガンのようなものです。」
「怒らない」は基本的には大脳皮質の抑制系がうまく働いているから可能なのだ。どんなに穏やかで思慮深く、怒りとは程遠い人でも、事故やくも膜下出血などで前頭葉に損傷があった場合は、やたらと苛立ったり衝動的に振舞ったりするものである。つまり「怒らない」は人間の心が高いレベルで獲得する能力であり、本来の人間にとっては怒りは日常生活の一部なのである。
だからといって、怒らない人、穏やかな人は一生懸命ムリして怒りを抑えているだけだとは言っていない。そのかわり普通なら怒りが生じるような状況を、認知機能を働かせて回避出来ているのだ。人はある感情を抱くときも、「もともと自分はこんな気持になるいわれはないのだ」と考えなおすことで、その感情から解放されることがある。これは「我慢」ではない。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というが、前頭葉の認知機能は、「俺の怒りは、枯れ尾花を見てそれを幽霊のように感じて怖がっていたのと似ていたんだ」と理解して、怒りがおさまってしまうようなものだ。
私が何を言いたいのかといえば、怒りは私たちが日常生活を送る上で、次々と起こってもおかしくなく、放っておきてもどんどんおきてくるものであり、それが思考や認知の操作により回避できるのであれば、それに越したことはないということだ。怒りは存在しない方がいい。(唯一の例外は、シャイな人間が怒りにより自分を勇気づけ、励ますという場合であるが、このことについては既に何回か、このブログで述べている。)
ではなぜ怒りは回避したほうがいいのか?
それはやはり怒りは進入的で外傷的だからだ。刃物のようなものである。先ほどのヒメチョウゲンボウの雛だって、せっかく飛び立とうと思っていたのに、オカンにドつかれて、「なにしよるんやー。もうこわくてとべなくなってしもたやないか。」(なぜか大阪弁)と萎縮してしまいPTSDになって飛べなくなってしまう雛がいないとも限らない。
それに動物界では、おそらく親の子育てで生じる怒りは、感情が混じっているようでかなり本能に根ざした、ビジネスライクな行動なのかもしれない。先程の母ヒメチョウゲンボウだって、雛をドついていても表情は優しかった(嘘である。)

2010年9月13日月曜日

恥と自己愛 その11.  「わかったふうなことを言わない」ことの難しさ

イチローが10年連続200本安打まで、あと19試合で14本のところまで来ているという。そろそろ本気で期待していいのだろう。何しろこれほど純粋に喜べ、自己価値感が高まることはない。「イチローは天才である。そして彼は日本人男性である。ちなみに私も日本人男性だから、私もエラい」というかなり無理な論理だが、完全な誤りというわけでもない。それに一応タダである。(それに比べると巨人は困ったものだ。夏になってから「巨人なんて知らないモン」モードに入るのに苦労したじゃないか!イチローはそういう裏切り方をここ10年しないでいてくれるのである。)
アメリカにいるときも、日本に帰ってからも、精神科医が気に食わない、という患者の話を散々聞いた。以前にあったことのある精神科医について患者から尋ねると、いい話などほとんど出てこなかった。私の同僚のメキシコ人の精神科医は、ちょっとシャイで言葉が少ないところがあった。かなり知的で持って回った話し方はするが、根はいいやつであった。しかし患者の目からは「気取っていて、何を言っているかわからない。患者を馬鹿にしているような雰囲気があった」となる。もちろん私も自分自身について「偉そうにしている」とある患者が言っているという話を聞いた。(ただし言葉の不自由な東洋人の精神科医が、「偉そうにする」のは結構難しいはずだったのだが。)米国では少なくとも私が勤めていたクリニックは生活保護 disability の給付を受けている人が多く、医師はたいてい彼らに比べて高学歴で裕福である。するとよほどのことがない限り、「あの医者は自分たちを下に見ている」となる可能性がある。デフォールトがこうなのだ。何もしないと、普通なら偉そうにして人を見下している、と思われるのであるから、それがいやならよほど腰を低くしていないとそれを代償できない。それもかなりエネルギーを発揮して、無理をしてへりくだる必要があり、そうなるともう「そういうものなのだ」とあきらめることになる。

ただ私が常に考えているのは、患者に対してなるべく「わかった風なことを言わない」ことにしようということだ。外見から判断されることはどうしようもない。オヤジは見た目で既に人を威圧したり、怖がらせたりするものだ。しかし話し方まで「偉そうに」はしたくないものだと思う。ところが気がつくと「偉そうに」「わかった風な口のきき方」をしている自分に気がつくのだ。

それに50歳を超えると、何もしていなくても「落ち着いている」「ベテランだ」「安心できる」などといわれることが多くなる。若い頃は何をしても、何を言っても信用されない気がしていたのに、年をとると逆に見た目でなんとなく信用してもらえる。「自己愛のフリーラン」がおきる条件はほぼ整っているのであるのだ。

ここでまた小沢さんを思い出す。彼はたしか68歳。貫禄があり、コワモテだ。彼がギロリと睨むと泣く子も黙る。でもそれに頼るのはよろしくない。というか私には納得できない。あの顔で頭のてっぺんから甲高い声を出したりでもしたら、効果は半減するだろう。

私の場合はアメリカにいるときは、何しろ言葉が威厳を保つことを邪魔にしていたので、もっともらしさを演出できなかった。人と言語的に交流することそのものがストレスであり、緊張の連続であった。でも日本に帰ってからはそれが急になくなり、人と話すことが昔に比べたら苦痛でなくなってきている。それにもともと姿勢が悪く、人の話を聞きながらいつの間にか足を組んだり、頬づえをついたりする。ひどく横柄であるが、見方によっては余裕たっぷりでリラックスしきっているように見えるらしい。すると多少自信がなくても、患者さんの話に「うーん、確かにそういうことはあるかもしれないですね。」などというと「年配の精神科医が、同意してくれた」ように聞こえるらしい。「それはね、たぶん~ということなんだろ思いますよ。」などというと、これがまたもっともらしく物事を説明しているように聞こえてしまうようなのだ。

見た目その他の余計な要素に頼ることなく、人とコミュニケーションを行ない、メッセージを伝えたいと思う。あのタケシなどのスタンスにもそのような意志を感じる。

2010年9月12日日曜日

快楽の条件 5. 自分が持っているものは、もはや快楽的ではない

名古屋への出張(日帰り)。予想していたとはいえ、やたらと暑かった。
アマゾンの電子書籍「キンドル」を使い始めた。早速試しに本(キンドル版)を一冊買ってダウンロード。帰りの新幹線の中で使ってみる。絶対に読書に入っていけないと思っていたが、なんとアンダーラインが引く機能がある事がわかって、線を引きながら読む感覚がすこし味わえた。

快楽原則の5として、私が挙げたいのが、人間の持つ性(さが)とも言える性質である。それは自分たちが持っていることに決して感謝することが出来ず、持っていないことの不幸をもっぱらかこつということだ。私たちはA、B、Cを持っていても、それを持つことに感謝するのではなく、D、E、Fをもっていないことを悔やみ、自分が不幸である根拠とする。それはA、B、Cを持つことの快感はもう既に体験し終えているからだ。私たちが自分の持てるものを感謝する能力があれば、どれだけ幸せになれることだろう。私は「寡黙なる巨人」(多田富雄)のことが頭を離れないということを以前に書いたと思うが、脳梗塞に襲われた彼は、「ものを飲み込む事ができる」人がとてつもなく幸運であると感じられる境遇になってしまった。(さっそうと世界を飛び回っていた彼は、68歳のその日から、ひとりで歩くことも出来ないだけでなく、一匙の水にも「溺れて」しまうようになったのだ。)それも人生なのである。人の幸せはまったくの相対的なものである事がわかる。人は失った瞬間から、それを持っている人を羨み、持っていた時の自分に戻ることを熱望する。

2010年9月11日土曜日

怒らないこと その7. 怒らないで人を導くことは出来るのか?

「汝怒るなかれ」の原則を守ったとしたら、人は自分の誤りを正してもらう機会もなく、道を誤り続けるのではないか?」「自分の子を叱りつけることも出来ないで、親の役割をはたすことなど出来るのであろうか?」うーん、分かる、もっともらしい。「汝怒るなかれ」は人工的で、いかにも人間の本性に逆らい、無理をしているという感じが伴う。
私はこれについてはなんとなく答えを持っている。たとえばバイジーのAさんがかなり不味い過ちを起こしてしまったとする。例えば寝坊して、学生相談室であっている患者さんとの面接を、スッポカしてしまったとする。学生自体に悪気はなかっとはいえ、面接者としての覚悟が不十分であり、患者さんはすっかり怒ってしまい、もう治療にはきたくない、とまで言っている。多くのバイザーは、Aさんに対してかなり厳しい叱責をしたり、怒りをあわらにしたりするはずだ。

私はこれは怒るようなところだな、と思えば思うほど怒らないと思うが、大いに困惑し、それをAさんに伝えるだろうと思う。実際最近あるバイジーーさんがかなりよろしくないことをしてしまった時、私の反応といえば、「いやー・・・・・・・・。これは困った。どうしようか。何かあなたには考えはあるの?そうか・・・・・。あなたがそんなことをするのを予想できなかった私にも問題があったよね。」ここらへんでバイジーさんは、ただならぬ気配を察して、まだ十分に理由がつかめながらも謝罪を求め始めるだろう。

実はこのようなとき、心のどこかで私はAさんにムカついている。そしてそれが外に出ないようにかなり警戒している。その全体をAさんは察知している。それで十分なのだ。「汝怒るなかれ」の「怒り」は、外にact out されたそれ、というニュアンスがある。

汝怒るなかれ、とか言いながら、昔今とは別の病院に務めていたときに、そこのある女性の患者Bさんにすごく腹がたったことを思い出した。本人に直接はぶつけていないが、実は「なんてことを!アイツ!」とつぶやいてその患者さんを責めた。

そのBさんのしたことは、正確には言えないので、脚色をしてみると、こうなる。診察を終えたあと、気がつかないうちに、Bさんは自分のカルテを持ち出してしまったのだ。そしていまどのページを読んでいるところだ、ということを電話してきたのである。

ただその時のことを思い出すと、私は自分の当惑や失望についてはいくらでもBさんに伝えたが、彼女への怒りの部分は何の意味もなさないと考えていたのだ。なぜなら、Bさんは患者さんだし、そのような衝動的な行動を説明するに足るような傾向をかなり以前からしめしていたのである。ある意味ではBさんはそのような行動や、その他諸々の事情で仕事を続けられず、友達も持てずに私のところに来たのであり、言わば私はBさんのそんなところの改善の手助けをする役回りだったのだ。これは考えて見れば、骨折を扱う整形外科医が、その治療の途中で再び骨にヒビを入らしてしまい、それに怒るようなものである。ヘンでしょ?当惑や失望はあってもおかしくないが、怒るような問題ではそもそもない。とすればそれでも生じてきてしまったBさんへの怒りは、もう身から出た錆として自分で処理するしかないと感じられたのである。ここらへん、「失敗学」とも関連。

それに・・・・・治療者の怒りは患者の側にとってはあまりに破壊的なものになりかねない。大体精神科医やカウンセラーに怒られた体験を思い出し、「あの時先生に怒られていなかったら今の私はありません」というような話を私たちはどれほど聞くだろうか?ゼロとは言わないが、実際にはそれで医者や治療者嫌いになったり、それを一種のトラウマ体験としてしまったケースのほうが圧倒的に多いだろう。

2010年9月10日金曜日

恥と自己愛 その10     言いたいことが言える関係?

私が教員になってもう4年目であるが、わりと面白い体験を持っている。それは学生は本当に言いたいことが言える相手となることが多い、ということだ。ちょっと聞くと変な話かもしれないが、私にも意外な発見だ。
まあ家族はここでは除外しよう。結構いいたいことは言えている。しかし家族は言いたいことが言えてもしょうがない場合が多い。「ふーん、まあね。それで?」となる。神さんだとかえって機嫌を損ねて、日常生活がままならなくなることもある。その意味で神さんは神ではないにせよ、上司扱いかもしれない。最近どこかで入賞した川柳でこんなのがあった。「カミサンを 上司と思えば 割りきれる」 うまいうまい。だから言いたいことも言えない場合が多い。また子供に対しては、たしかに言いたいことは言える。問題はしばしば聞いてもらえないことだ。
私たちが日常生活で接するのは、社会的な文脈の中で出会った人たちばかりである。同い年だったり、職場での位が同等でも、そこには遠慮や気遣いが必要となる。すこし率直にモノを言うと、それで関係が崩れてしまうこともありうる。部下に対しても似たようなことが起きる。率直に考えを伝えることで自分の為に働いてもらえないこともあるからだ。
その点学生は違う。彼らは原則的に受身であり、教員である私たちから指導を受けることをいわば仕事としている。するとこんなことが言える。
「君たちね。ゼミ担当の私からメールがあったら、少なくとも一日以内に返事をちょうだいね。」「病院での実習に、この服装はちょっと不味いよ。」「君、『老婆心』て、こんな時は使わないんじゃない?」
服装とか言葉の使い方とかの指摘は、社会人としてのプライドが育ってきた人にはなかなか言い難いものだ。ある分析の偉い先生は、vignette (ビニェット、エピソードのこと)を「ビグネット」と間違って発音していたが、誰も恐れ多くて注意出来ないでいた。その後何年も同じ言い間違えをしていた。そんなことも起きてしまう。
私は学生、特にゼミ生を相手にしていると、自分の考えを率直に伝え、相手に恥をかかせてしまうのではないかという懸念に押しつぶされることなく誤りを指摘できる関係を持てて、実に貴重な体験を持つことができている。本当に言いたいことを言える率直な人間関係は師弟関係だったのか?・・・。しかしもちろんこれは私の方が勝手に持つ幻想であるに過ぎない。教官と学生の関係はこんなに美しくはない。たいてい学生の方は、言いたいことの何分の位置も私にはいっていないのである。しかもこの「師弟関係」は、パワハラ、モラハラがいくらでも起きうるような関係だ。つまり教員の方の自己愛のフリーランが起きうる関係なのである。

それでも教員であることの一つの楽しみは、気を抜けばパワハラが起きてしまいかねない関係で、あまり気兼ねなく本音を伝えることが出来るような経験を持つことであると思う。

2010年9月9日木曜日

不可知性 その13. 陰陽師と不可知性

昨日、NHK で奈良時代の占い師である陰陽師についてやっていた。貴族の日常生活に、戦乱時の戦略の選択に、彼らの存在は欠く事ができなかったという。これは不可知性との関係で興味深い。私たちの祖先が自然界の不可知性とどのように戦っていたのか、ということを教えてくれる。
私たちは日々平穏に毎日が過ぎることを願う。ところがおおむね穏やかで何事もない日々は、時々とんでもない最悪により揺り動かされる。そして再び平穏が訪れる。
おそらく古代人の毎日というのは、いつも怯えながら、災厄が降りかかることへの心の準備も忙しく、生活をしていたのであろう。自分の身体とは、自然とは予想不可能なもの、という感覚は私たちよりはるかに大きかったに違いない。たとえば昨日の関東の豪雨。24時間前に予想することなど、古代人には絶対に不可能だったはずだ。ところが今の私たちは、あれほど予想を超えた動きをする台風9号も、レーダーである程度追うことが出来、その振る舞いも予測できていたのだ。
では私たちの世界の不可知性が低下したのかといえば、案外そうでもない。台風だって、その動きが読めれば読めるほど、不可知な部分が細かくなっていくだけだ。気象庁に「木曜の朝には太平洋側に抜けるって雨は止むって予報していたのに、外れたじゃないか。おかげで傘を持たずに家をでたからずぶ濡れになったぞ。」と苦情が舞い込み、「すみません。台風の動きというのは、予想外ですので」という言い訳が聞かれるだろう。より正確になれば、それに従って生活も合わせようとし、結局わずかな不可知性も、同じように大きなものに感じられてしまうだろう。そのうち「おい、予報では雷は4時14分に落ちることになっていたじゃないか。2分早く落ちたからコンピューターのスイッチを切っていなくて、黒焦げになったぞ。弁償ししろ。」「すみません、何しろ雷の予想はなかなかつかめず、常に予想外のことが・・・・・。」
陰陽師の役割は、自然が不可知であればあるほど、重要になる。予想可能なものの観察をして、そこに見える予想外の動きを捉え、例えば都に起きる災いを予想する。最低限予想可能なところまで降りて、そこからすこしでも不価値な自然をコントロールしようとする。一番ブレないのは天体だ。すると「彗星の尾が西に傾いたから不吉だ」ということになる。
これをやるのは、現代に生きる私たちも同じだ。ただ私たちは予測可能な自然を自分の中につくる。陰陽師たちが見ていた天体を、私たちは自分の中に作り上げようとする。そしてそれをコントロールすることで、本来は予測不可能な周囲の世界をコントロールする。験担ぎとはそれだ。いつもと同じ手順で準備体操をする。勝った時と同じ方の足からグラウンドに出る。毎日昼にはカレーを食べる・・・・。結局イチローさんの話になってしまった。

2010年9月8日水曜日

親子の関係 1. 「もうそういうのやめようよ」

私と神さんは今子離れの練習をしている。つい先日こんなことがあった。夏休みを過ごしていた息子が関西の下宿に戻った。私と神さんはこれに全然慣れていない。20年間うちにいた息子が、一時的にではなく、休みのような例外をのぞいては、ずっと家に居なくなる、ということの実感が湧いていないのだ。
息子が下宿につく頃にはさっそく神さんは息子を子供扱い(まあ、実質的にまだ子供なわけだが)するようなことを言い出す。「昨日は炎天下を長い時間並んで席をとってサッカー観戦をしたのだから、今朝も相当疲れた顔をしていたわ。下宿に帰ることに熱でも出しているかも知れないわね。あの子は小さい頃からそうだったんだから。」そしてそれとなく様子を伺うメールを打つ。これを息子は当然無視。もう神さんは過剰に不安になっている。「きっと熱を出して寝込んでいるのよ。」そして嫌がられるのを覚悟で、夜遅くケータイを鳴らすがこれまた無視される。留守電を入れておくが返事なし。
私にも神さんにも、彼がことさら私たちの「安否の気遣い」を無視しているというのはどこかで分かっている。それでも心配なのだ。
翌日神さんは「もう絶対に熱を出して起きられないのよ。今日から実習に行くと言っていたのに。」それから何度かメールを出し、とうとうその日の夕方には私自身がケータイに電話をし、出ないので留守電を入れたがこれも返事なし。
息子は母親の頭の中で何が起きているのか分かっていて、とにかく放っておいて欲しいのだろう。なにか余計な心配をされていること自体が煩わしいのだろう。それを分かっていながら、神さんはこんなことを言う。「あの子がここまで私を心配させることはなかったわ。やっぱり何かが起きたのよ。」
翌日になり神さんは、「これから新幹線で下宿に様子を見にいくわ。きっと電話に出るどころじゃないのよ。」といい、息子の身に何かがあったことをもう疑っていないようである。そしてそれを止める立場にある私も「うん、そのほうがいいかも知れないね。そう決めたら早いほうがいいよ。」などと言っている。実は私も心配しているのだ。神さんはもう返事はないだろうと思いながら「これからそちらに行くからね・・・・」と電話を入れる。するとそれを聞いた息子はたちまち電話に出る。さすがに下塾にまで押しかけてこられるのはたまらない。そして冒頭のセリフとなる。「あのね、こういうのやめようって言ったじゃない。」こりゃ名ゼリフだ、いやどこかで聞いたことがあるな、と思った。
実は同じことがこの春に起きたのだ。息子が初めて下塾に行くという時、「無事についたのか」と急に神さんはワケもなく心配になり、安否を気遣うメールや電話をしたのだ。返事を面倒臭がった息子は、ますます不安に駆られた神さんに、とうとう「子供扱いをしているような電話にはもう応じないからね」という意思表示をしていたのだ。
もちろん息子の方も、ひとこと「無事」であることをメールででも送ってくれば済むのだ。しかし私としてはこれには苦笑するしかない。私自身がまったく同じことを、ある意味ではもう30年以上も自分の親としているのだから。私もまたものの見事に心配する親を無視し、連絡を長く取らずに世界の各地をうろつき、「こうやって親を鍛えなきゃ」などとうそぶいてきた。

ある意味では親との関係が近すぎるから、ことさら連絡を取りたくないし、心配する親をますます無視し続ける。その意味で親離れしていないといわば、その通りなのだ。それにしても息子は既に私の上を言っていると思う。私が彼の年の頃にまったく同じことが起きたときに、私は激怒したものだ。「まったくどうしてそういうふうに、子供扱いをするの!」(実はまだ子供だったのだが。)
それに比べて関西の下宿でケータイに出た彼は、カミさんに対して余裕で苦笑していたというのである。あるいはそれも無理もないかも知れない。「こういうのやめて」とたしなめられた神さんは、ワケも分からず「よかった、よかった、無事で・・・・」と繰り返すだけだったからだ。

2010年9月7日火曜日

パリ留学 その3.

私がフランス語を学んでいた(ついでに医学部にも行っていた)20代は、いろいろな人と会い、観察していた。中には印象深い人たちもいた。そのうちの一人を最近テレビで見かけた。最近といっても3年くらい前だろうか。
あるテレビ番組にアラン・ドロンが出演した。とさらっと書いたが、すごいことである。私の世代では彼は、大大大スターである。もっともフランス本国では、ジャン・ポール・ベルモントなどに比べるとそれほどでもないらしいが。あのアラン・ドロンが、あの「太陽といっぱい」で、これでもかとハンサム振りを披瀝した彼が、今はすっかり老人となって、スマスマに出たのである。アラン・ドロンも、ついでに「あの頃あった人」に入れてしまおう。「太陽がいっぱい」はなんども見てフランス語の勉強をさせていただいた。

ビストロスマップに出演したアラン・ドロンは中居君に「ブイヤベス」(bouillabaisse 南フランスのマルセイユの郷土料理)を注文して、フリートークを開始したのであるが、もちろん日本語が話せないから、通訳つきであった。その通訳がフランス女性っぽい。えっ、アランドロンの通訳をする日本語を話すフランス人って、彼女しかいない・・・・。その通訳を演じている女性の顔を確認する前に私にはそれが誰だかわかった。カトリーヌ、彼女しかいない。そしてそれはやはりカトリーヌだった。

カトリーヌは当然オバハンになっていたが、日本語は一段とうまくなっていた。何しろパリ大学日本語学科を首席で卒業し、そのまま日本に留学に来て私が出会った頃はもう日本語ペラペラだったのだから。

ここからカトリーヌの話には行かず、アラン・ドロンである。彼はスマップの面々が作ったブイヤベースを食べて何度も言った。「美味しいよ、でもこれはブイヤベスじゃないよ。」私はそのとき違和感を持ち、「いいじゃん、美味しければ」と思ったのだが、あれから少し考えが変わってきた。これがフランス文化なんだな。建物も何百年も前からの歴史ある建物が当然のように立っている町。人々は歴史を重んじ、長い間引き継がれてきたものに価値をおいて、それを継承する。ブイヤベスもそうなのだ。ブイヤベスを食べるとき、「ブイヤベスとはこうあるべきもの」も一緒に味わうようなところがある。「美味しいね、でもこれはブイヤベスじゃないよ」というアランドロンは、やはりカッコよかったし頑固だった。強烈な自己主張を、ごく当たり前のように持っている。

この高いプライドと強い自己主張、まるで論文を書いていくような、あるいはブロックを組み合わせていくようなフランス語。人を射ぬくようなまなざし。気弱な私にはまったく異質なフランス社会に過ごした30歳からの一年は、やはり大きな意味を持っていたのだろう。でもあそこに一年以上はいられなかったのにもそれなりの理由があったのである。フランスですっかり失った自身をアメリカで取り戻すことが私には必要だったのだ。(続き・・・・そうにないな。)

2010年9月6日月曜日

夫婦はいろいろな生活形態を取る

今日もまた暑・・・・。とうとう告白する。… 冬が待ち遠しい。

昨日報道された、「私は今日生まれた」と言っていたと言われる女性。凶器を持ったまま歩いていたというが、精神科的には非常に気になるケースである・・・・。
昨日菅さんと立会演説会を開いた小沢さんの映像を見た。あれほどエネルギッシュに聴衆に訴えている彼を見たのは初めてだ。今小沢さんは非常に活き活きとしている。のりに乗っている・・・・ように見える。先日、私は「小沢さんは滑舌が悪い」、などと書いてしまったが、訂正しなくてはならない。まったく心臓の持病が嘘のようだ。そして、こう言っては何だが、このエネルギーが、日常的には様々な政治的裏工作や、権謀術数を振るうことに使われているのだと思う。そして菅さんによって今表舞台に出て自己表現することに、そのエネルギーが使われているのだ。(という仮説にしたがっている。)
小沢さんは、実際の敵の存在により燃え上がる、というタイプなのだろう。昔だったらさぞ立派な武将だったろう。口下手で、でもいざとなったらとことん戦うという感じの。でも、たとえばオバマさんと対峙して、きちんと話ができるのは小沢さんくらいしかいないのかもしれないとも思う。日本がアメリカに原爆を落とされたという大変な過去だけは決して忘れない、というその意味でのプライドを保った日本の政治家は、果たしているのだろうか?

やっと本題。婚姻関係の取る様々な形式について。大げさな割には中身はたいしたことはなかったりして。同じ夫婦といっても、その生活形態は、驚くべきほどさまざまであるということを書きたいのだが、なんだか当たり前の気がしてきた。まあ続けよう。おそらく夫婦の関係性は千差万別で、それこそ「共通点としては夫婦という関係を継続しているということだけ」とさえ言えるほどなのだ。

臨床で患者さんの話を聞き、周囲の様々な人たちの例を聞くにつけ、非常に印象深いことがある。少なくとも日本では、夫婦の共同生活は実に様々な形をとって落ち着いているということである。アメリカなら、とうに離婚になって不思議ではないカップルが、日本にはたくさんいる。大概は男性の側が勝手な行動をしていて、女性のほうが我慢している、というか適応している。でもまれに奥さんのほうが相当変わっていたりする。その際の男性の側の寛容さ(鈍感さ?)も驚くべきものがある。

ともかくも夫婦というのはまったく異なる二人の人間の関係性であり、その二人が夫婦というせまい枠組みに納まる際に、お互いが何とか居心地のよいポーズや位置関係をとるわけだが、そのポーズがケースごとにまったく違った体勢が見られるだろうということだ。あるケースでは旦那さんが大の字になっていて、奥さんが住みに縮こまっているとか、その逆とか。何しろ最近では、(夫婦、ではなく親子で、であるが)片方が120歳以上で、しかも白骨化している場合もあるのだ。

比較的よくあるケースで私にとって意外なのは、夫婦が長く別居をし、しかも離婚をしないというケースである。子供がいないというケースなら珍しくないかもしれないが、ご主人が独居、しかもその居場所さえ知らないというケースもまれならずある。はるか昔に体験したから少し書けるが、こういうケースがあった。

ある当時中年の男性の患者さんに、主治医として、月に一度ほど会っていた。ある日、その奥さんから電話があった。「夫がどうしているか教えていただけますか?」というのだ。どうやら家に長いこと帰っていなく、ただ私のところに定期的にかかっているということは知っているので、散々躊躇した末に連絡をしてきたという。

事情を聞いてみると、夫はずいぶん前から会社の近くにあるというアパートを借りて、週末時々姿を見せるだけになっているという。最初は仕事で帰りが遅くなり、そこで泊まってまた出勤するということが多く、そのために借りたアパートだが、最近ウィークデイに帰ることはなく、また徐々に週末に帰る時間も短くなってきているという。しかしそれでも生活費はしっかり入れているという。驚くのは、夫と顔を週に一度は合わせているというのだ。そこで「どうしてご主人に直接聞かないのですか」、というと「聞くと怒るから」一切聞けないというのである。さらに驚いたのは、その会社に近いアパート、というのが実は自宅からも会社からもはるかに遠い、というのである。

傍目から見れば理不尽な話でも、夫婦の間では一方が強く主張すると、まるでそれが法律のように二人を支配するようになる。「あることに触れると、相手が怒る」というのはそれだけで、その「あること」をタブーに仕立て上げることになるのだ。するとそれを破ったほうは、一方的に悪いことになる。結局このケースでは奥さんは、月に一度しか会わない主治医の私に、「夫の様子」を尋ねに電話をして来たわけだ。もちろん私がすんなり「様子」を伝えられる立場にはなかったことはお分かりだろう。
結局人間は長く暮らしていくうちに、それぞれが持続可能なライフスタイルを確立し、その中で婚姻を続けるということだ。今のケースでは夫は家族を持ち、生活費を入れ、そしてひとりで生活することをもっとも快適と考えている。そして家族はそれに耐えている。それでとりあえず安定はしているが、奥さんは相当の苦しみを味わいつつも、とりあえずは安定を保っているわけだ。
私自身も自分の睡眠パターンでは、家族に迷惑をかけている。私の場合は夜の睡眠が3回くらいに分かれるという状態が独身のころから続いている。一回に睡眠のサイクルをひとつ、ないし二つで目が覚め、すると起きて活動しないではいられない。(ご存知のとおり、睡眠の一サイクルとは、70分から90分の間に、深睡眠まで下りていき、夢を見ておわる。)するとたとえば原稿を書き始めて30分もしないうちに眠気が襲ってくる。そのままベッドに倒れこんでまた1,2時間眠る(実はこのときが結構気持ちいい)ということをくりかえす。こうなると同居する人間はたまったものではない。神さん(変換ミスではない)は就寝時間を守り、きっちりまとまった睡眠をとらないと次の日一日を棒に振ってしまうタイプ、しかも昼寝を少しでもしたら頭痛がしてくるというので、私とは真逆である。(私は昼寝は、状況が許せばいつでもOKである。)こうなると寝室を分けるということは夫婦が暮らす上で必要条件になる。
もちろん神さんも最初は私の変則的な睡眠パターンに不満があったらしいが、今では私に何度も夜中に音をたてられるよりは、安眠のほうを選んでいるというわけである。

2010年9月4日土曜日

自己開示について 1. 自己開示と品性

今日もまた・・・・。
小沢さんワッチング:「普天間の問題をもう一度」とか、「消費税はしばらく上げずに無駄を省く努力を」とか。もし菅さんとの差別化を図るために言っているのであれば、本当にとんでもないことだよね。おそらく政治家にとっての言葉は本当はどうでもいい代物なんだろう。いくらでもレトリックを用いて言い逃れることが出来るから。それにしても小沢さんの「(普天間についての)アイデアがあるとは一言も言っていませんよ。」という開き直りにはびっくりする。
こんなブログを書いていてさえ、何をどこまで書くかは大事な問題であり、かなり配慮しているつもりである。もちろん自分に関わっている人は、カミさん(ブログを読まない)と犬のチビ(字が読めない)以外にはかなり気を使い、迷惑はかけないようにしているわけだが、自分についてもこれでもどこまで書くかには注意している。
といって「これ以上知られたらまずいから」ということではない。私は普段品行方正であるから、知られたまずいことはあまりないのだ。むしろ自分をどこまで出すかは品性の問題だからだ。(この私が言うのもナンだけれど。)「気弱」な人間は、自分の事を周囲に知られるのは、なんとなく汚染する、迷惑をかけるという気持ちが先に走る。小沢さんでさえ、怒っていない時は、人前に顔をさらすとき、そんな気持ちが頭を掠めるだろう。引っ込み思案の心理だろう。
私は基本的には人は他人の情報を疎ましいものだと思う。自分のパーソナルスペースに入ってくるものはたいてい煩わしいものだ。満員電車に乗ると、アカの他人とだた接近しているだけで、あれほど不快ではないか。アルコール臭い息を吹きかけられなどしたら、最悪だ。そして他人に関する情報もそうである。もちろん特定の他人について知りたくなることもある。しかしそれは関心を持っている人、自分にとってのアイドル、ないしは自分に馴染んでいる人についてである。
それにもかかわらず人は自分の情報を他人に伝えることにあまり頓着しないことが多い。それにより周囲が煩わしく思っていることにも注意を払わないことが多い。となれば自分が自分をいかに表現せず、自分だけでとどめておくかは、むしろ対人スキルやエチケットの部類に属することになる。あるいは熟練や品性が要求されるような、一種の芸のようなものかも知れない。
さて治療者の自己開示の問題。やはりこの延長上にある。患者が「私は●●県出身です」、といい、患者が偶然同郷だと知った治療者が「そうですか、実は私もなんです」と思わず言ったとしても、また出かかった言葉を呑み込んだとしても、そこには非常に多くのファクターが関係している。「治療者は自らを示すなかれ」といういわゆる精神分析の匿名性の原則は、それをあまりに単純化した原則でしかない。

2010年9月3日金曜日

仙台は暑かった

今日はこれから心理臨床学会に日帰りで出かけるので、ブログを書く時間は本来ないのだが・・・・。執筆の仕事が多く、ブログを書く暇はないのではないか、といわれるが、これは「余暇」なので、しっかり遊びの時間はとっています、ということだ。・・・・・・・。あるいは論文を書こうとして、なんとなくダラダラとネットを見てしまう、というのとも似ている。

ということで東京に戻ったのはもう夜10時近くになっていた。杜の都はものすごく暑かった。出来れば秋の気配漂う東北大学の雰囲気を味わいたかったのだが。でも人の心を救うための方法、つまり心理療法を学ぼうとする人々はどうしてこんなに多いんだろう。心理療法士が決して際立った高給取りではなく、また職場も決して売り手市場とは言えない以上、ここに働いているのは決して経済原則ではない。心理療法という仕事への憧れ、あるいは理想化もそこにはあるのだろうか。
小沢さんワッチング。今日のNHKで見た小沢さんは幾分リラックスし、いつもの硬い緊張をはらんだ雰囲気が影を潜めていた。やはり彼が聴衆の前で放つ独特のオーラのようなものは、彼自身の対人緊張から来ているのか。そして今は怒りに後押しされた臨戦態勢にあるので、そこから解き放たれているもかも知れない。
先日の小沢、菅対談について考えているが、共同記者会見での報道陣の果たした役割も面白い。質問者は、まるで治療者の直面化の機能を果たしているようだからだ。もちろん小沢さんを表立って挑発はできない。怒り出すとこわいし。質問者はその裏の裏の意図は別として、質問そのものはさらっと、感情を交えずに行う。すると小沢さんは、怒るに怒れない。そうやってたとえば、普天間基地の問題も「具体的な策はない」という言質を引き出した。小沢さんにしてみれば、「言わされた」感じで不快だった出あろうが、しょうがない。質問者はあくまでも小沢さんの先日以前の言葉を引用して、明確化したからに過ぎない。
治療者も同じように明確化を行うのだが、記者と違うところは、記者はニュースに膨らますことのできるような言質を相手から引き出すことを狙っているところだ。その意味では質問をされる側は、わなにかからないように注意することになる。質問者の側はあくまでも利己的な意図で(というよりは会社の利益のために)それを行うのだ。でも治療者はそうではない。政治家が言質をとられることで「はめられて、言わされた」と思うのであれば、治療者はその種の被害者意識を患者の側に持たれたら負けである。患者と治療者が共同作業をしている以上、患者の観察自我と治療者がともに協力して、患者の病的自我の言質をとる、という方が近いだろう。ただし観察自我と病的自我がそんなにはっきり別れているはずがない。直面化により自らが目をつぶっていたことを認めることに苦痛を伴わないわけがない。
ふと、私の小沢さんに対する見方は、ぜんぜん違っているのか、戸も思う。かなり読み込んでいるからだ対人恐怖傾向を持つもの同士の性とってもいい。
さてテーマは「禁欲原則」であった。確かに小沢さんは「壊し屋」なのだろう。結局は自分がその成立に関与した政党を割ってしまう。小沢さんが「懲りない」こととも関係している。ヨラさんが、小沢さんの持って生まれた佐賀だ、というようなことを一定敵が着いたのだが、まさにそういうところがある。そして、彼が分析を受けてもそれは換わらないだろう。ある点を越えたら、絶対に聞く耳を持たないからだ。

2010年9月2日木曜日

怒らないこと 7. むしろ「怒ること?」

今日も・・以下同文。
あすは仙台まで日帰り出張。

いつもの小沢さんワッチングも兼ねた、怒りの問題。

小沢さん、戦っていますね。何か吹っ切れた様子。困ったものです。
まったく私の勝手な解釈かもしれないが、対人恐怖的な足枷が取れて、ある意味では素(す)の小沢さんが出ている感じだ。素の自分とは、子供のような自分。物心がついて、思春期になり、強烈に人を意識するようになって以来、少なくとも社交場面では失われがちになった、闊達な自分、童心、ということである。ここら辺は「対人恐怖者の言語」に馴染みのない方にはわかりにくいかもしれないが、すでに何度か書いたとおり、対人恐怖傾向のある人が、怖さを乗り切れるのは、相手に対して怒っているときなわけだ。小沢さんは好敵手である菅さんに挑発され、ねじを巻いてもらっているわけである。(昨日も共同記者会見で、菅さんに言われていた。「あなたが国会でずっと最後までやっているのを想像できない」、とかなんとか。でもあれは、「私はもう20年前にそれをやりました」、という小沢さんの余裕綽々の応酬にあっていたが。)

なぜ小沢さんが対人恐怖傾向の持ち主なのか。この間テレビで、しばらく前に瀬戸内寂聴さんと対談したときの様子が放映されていた。小沢さんが年上の人に向かって話していた様子は、彼が強者として振舞う相手には絶対に見せない顔だった。「私はもともと口下手で、人前に出るのは苦手なんで・・・・」という時の彼は、本当に気弱で引っ込み思案という印象を与えていた。
多くの対人恐怖研究者ときっと意見が異なると思うが、私は対人緊張になりやすい人の一部は、実際に口下手、言葉がスムーズに出てこない、顔がこわばる、あるいは身体に何らかの特徴があるなどの問題があると思う。

小沢さんも決して滑舌はよくないし、大事な話となると、まるで原稿を読んでいるような味気ないスピーチになる。(滑舌の悪さではひけを取らない私には、それはよくわかる。)話の内容は、理論的、というよりは紋切り型、スローガン的。何しろ小沢さんが一番生き生きとするのは、恫喝しているときなのだ。マスコミ関係から鋭い質問をされることは、小沢さんを怒らせる。何しろマスコミの記者たちを見下しているから、そんな人にうるさく言われるのは耐えられないからだ。そういう時彼はキレて表情が変わるが、すると対人緊張の重い扉はぱっと開いてしまう。後は「あんた方マスコミがそうやって書くからでしょう?」などという、耳を疑うようなセリフが出てくるのである。自分に向けられた批判を誰か別の人の責任にすり替える素早さは、天才的と言っていい。(その時多少滑舌が悪くて言いよどんでもいいのである。情緒的なインパクトが強すぎて、相手はそれだけで圧倒されているのだから。)
よくそれまで人前で少しも怖気づくことがなかった人が、何らかの問題をきっかけにして、すっかり人前に出るのが怖くなってしまう。それはたとえば声のかすれ、チック、顔面痙攣、などなど。治療によりそれらの問題が解消すると、もとの開放的な人付き合いを開始するというパターンを臨床上よく目にするのだ。

私が一番面白いと感じる、「恥ずかしがりの目立ちたがり屋」は、両方の傾向が矛盾するだけに、その人の行動を極端なものに走らせ、周囲を巻き込むということが起きる。憎めないのだが、困った存在でもある。

2010年9月1日水曜日

怒らないこと その6    怒りが人を動かし、歴史を作る

最近小沢さんワッチングをしていると飽きない。

私は基本的には内向的であるが、思考の材料は常に外側の世界に実際に生きている人たちにある。人間観察は非常に面白い。人が何に突き動かされているかを見る。既存の理論はいったん頭からはずす。(というより、あまり勉強していないから知らないのが実情。)ただし身近な人はそれだけ細かく観察することが出来るが、書くことは出来ない。ところが著名人はいくらでも批判して、料理してかまわないので気が楽である。材料はマスコミがいくらでも提供してくれるし、守秘義務については私に責任はない。それに著名人は「強者」であることが多く、そのために私も心置きなく批判ができるのである。

その中でも現在は小沢一郎さんが実に面白い。色々な要素を備え、また私が関心を持つ「恥ずかしがり屋のナルシシスト」のプロフィールにしっかり合致している。

これまで「汝怒るなかれ」、などと書いてきたが、はっきり言って怒りほどその人を突き動かし、夢中にさせるものはない。あの引っ込み思案で何を考えているのか分からなかった小沢さんが、人前で堂々と論戦を交えようとしているではないか。菅さんの言葉(「しばらくおとなしくしていただきたい。」)が小沢さんに火をつけたのである。
昨日も書いたが、怒りは対人恐怖傾向を帳消しにする。私にも体験があるが、米国でも相手に馬鹿にされた、挑発された、と感じたときは、なれない英語を操りながら、いつもの気弱な性質はどこへやら、いくらでも相手に挑戦的になれたのを思い出す。その意味で理不尽な人に囲まれ、馬鹿にされる、という体験はむしろ対人恐怖的な殻から抜け出る上で大切であったりするのだ。
ただしその怒りは、基本的にはtoxic (毒のある)で傍迷惑な怒りである。それは他人を害し、貶めることでしか治まらない。その人個人には勇気を与えてくれるが、社会の人々のためになるとはとても思えない。小沢さんはその怒りの刃で噛み付き、破壊することでしか止まることはないのである。
しかしそれを見ているものは、興味津々である。「恥と自己愛の精神分析」の一つのテーマは、「引っ込み思案の目立ちたがり屋ほど複雑で、また面白い存在はいない」というのであった。それはまたとんでもない人騒がせな人たちでもある。小沢さんは、いくつの党を壊してきたのだろうか?
1993年に自民党を離れた小沢氏は、新生党、新進党、自由党などさまざまな政党を結党しては消滅させてきた。小沢氏の党運営をめぐって党内対立が激化する中で行われた97年の新進党党首選では、後に公明党代表となった神崎武法氏や岡田現外相らが推した鹿野道彦氏(現民主党衆院議員)を破ったものの、直後に同党を解党し、政界を驚かせた。(以上はネットの記事からの無断引用。)

 ここに怒りというものの持つパラドックスも明らかになっている。怒りは精神を蝕み、他人のみならず自分を不幸にすることが多い。しかし怒りはまた本人が自分の殻を抜け出し、自分の思いを表現するための媒体でもある。怒りの表現は他者の憎悪を掻き立てる。丁度菅さんの「小沢、すっこんでろ」がとてつもないエネルギーを小沢さんに与えたように。それは望むと望まざるとに関わらず、私たちの精神生活の一部に複雑さと彩を与えるのである。