ショウの本はこれから洗脳、サブリミナルメッセージの問題へと進むが、なぜかあまり詳細に触れてはいない。初めに洗脳についてであるが、著者はどうも洗脳 brain washing という言葉を回避したがっており、むしろ感化 influence という言葉を選んでいる。そしてそれは何も催眠のような特殊な方法を必要としているわけではないという。それは日常的に起きているものである。私たちはよく、「自分は洗脳などされていない」と思いがちである。しかし私たちはこの国に生まれて、ごく普通に生きているだけで、すでにたくさんの考えを植え付けられ、信じ込んでいるものだ。例えば私は無宗教だが、●●教の信者に彼らの信じていることを話してもらえば、彼らのことを一種の洗脳状態が起きていると見なすかもしれない。しかし●●教の側から見れば、私の方が明らかに無宗教という形での洗脳の犠牲者になっているように思えるだろう。いや、宗教などを持ち出すこともないかもしれない。例えば私たちが属する学派などはその例かも知れない。私は××(どちらかと言えば)学派に属するわけであるが、▽▽学派に属している先生の気持ちはわからない。ところが向こうはこちらのことを同じように考えているであろう。一つ確かなことは、私たちはある環境である考え方を取り入れ、それをかなり頑強に守るという傾向がある。それは何となく信じている感じでも、それをいったん変えようとするとかなりの抵抗を自分の中で感じる。つまりこれは一種の信じ込み、洗脳のレベルと考えてもいいのであろう。私は時々人はなぜこれほどまで自分の考えを変えないのかと不思議に思うことがある。もちろん私自身も含めてだ。ある時AM真理教の元信者がインタビューに応じるのを見たことがある。彼は今でもM教祖様との間柄について問われると、陶然とした表情になり、いかにM様に救われたか、いかに自分を分かってもらえたかと話す。つまり洗脳状況ではある思想、思考は報酬系としっかり結びついているのだ。一種の嗜癖と考えてもいいだろう。ある思考は、それに関連した人間関係、知識体系を巻き込んでいて、全体がその人の快感につながっている。だからそこから逃れられないのだ。ではなぜその宗教や人に信心し、ほれ込むのか。それは恐らく非常に偶発的なものだ。たまたまその人との関係に嵌まり込み、そこで快感を体験すると、そこから抜け出すことが出来なくなっていく。それは人が恋愛対象を見つけるプロセスとかなり類似しているのだ。