2019年5月31日金曜日

ベンジャミンと女性論 ⑦


・・・という感じでこの論文は進んでいくのだが、私がこれまで何度も試みたように、どうもわかったようでわからないところがある。短い論文だが結局不全感が残る。1968年にウィニコットはこのもとになる発表をニューヨークで行ったが、聴衆の反応が今ひとつであったという。要するに聞いていてよくわからなかったのだ。そのことも手伝ってか、ウィニコットはその後に奥さんと共に風邪をひいてしまい入院することになる。それが彼の死期を早めてしまったのだ。
だからと言ってはナンだが、この論文が理論的にわからりにくいことは確かなのであるらしい。特に対象が生き残ることと仕返しをしないことが等価におかれているあたりはやはり分かりにくい。たとえそこにどんなに深い洞察が込められていようと、伝わらなければしょうがないではないか。そこでここからは私の意見である。
まずある対象が自分の想像の外にある他者であるという事はどのようにわかるのか。すでにどこかで書いているように、モノはすでに赤ん坊の周りにあふれている。最初は原投影(安永)が起きるのかもしれない。でも赤ん坊はすべてにそれを起こすわけではない。自分の周りのぬいぐるみが全部生きているように感じても、壁も、電灯も、ガラガラも皆生きているとは思わないだろう。たとえば哺乳瓶は自分に滋養を与えてくれるもの、優しい母親のような存在だと思っても、自分が落として転がっている哺乳瓶は、いくら呼んでも応えてくれない。母親は事態を察して魔術的に哺乳瓶をこちらに戻してくれるかもしれないが、それが常に起きるわけではないことを赤ん坊はやがて察していく。そのようにして母親に脱錯覚が起きるとしたら、周囲のモノに対するそれはとうに起き始めているだろう。赤ん坊は身の回りの多くのモノにかつては原投影を起こしたかもしれないが、それらの多くはすでに生きてはいない、死んだモノになってしまっているだろう。そして実は母親も時には自分にとっては死んだような存在になり、つまりはモノのようになってしまうことを赤ん坊は知る。自分とは無関係で注意を向けない母親はすでに背景に退いているし、赤ん坊も満腹で満ち足りたときには別のものに関心を寄せているかもしれない。
さてそれとは別に、「他者」の存在もまた赤ん坊が早くから体験していることだろう。それはおそらく人見知りの起きる8ヶ月くらいには生じる。しかしそれ以前に遭遇しているはずだ。生後45ヶ月の赤ん坊だって、自分に向かってほえてくる犬を怖れるだろう。自分に危害を加えてくる生き物、場合によっては人はかなり早期からそれと認知し、それを回避するという能力が備わっていない限り、あっという間に「ジャングルの掟」の犠牲になってしまう。生まれたての動物だって天敵から身を守る能力はすでに持っているはずだ。人見知りとは、これまで母親と同じような姿かたちをした他の人間に対しても警戒する必要があることを学習するにつれて、般化が行き過ぎた結果えであろう。つまり「母親と異なる人についてはとりあえず怖れるべし」という学習の結果なのである。とすると、赤ん坊が母親を別の主体として理解することは、何も母親がまったく別の表れ方をするということではなく、母親は自分に危害を加えたり自分に無頓着であったりするような姿を示しうるという理解ということが出来ないだろうか。
ということで私が想像する他者の出現は、ウィニコットが考えたそれとは随分違ってくる。これまでかなりウィニコットの主体の出現にまつわる議論をそのまま信じていたが、改めて考えてみると、これも一つの理論に過ぎないということか。唯一ついえるのは、おそらく精神分析とは、他者が自分の想像の域を超えた姿を見せることがどういうことなのかを、治療者という他者との間で体験していくことなのであろう、ということだ。つまり内的世界のみに留まる理論には限界があるということである。

2019年5月30日木曜日

ベンジャミンと女性論 ⑥

ということでベンジャミンの話を早く終わらせなくてはならないが、そのために寄り道をして、ウィニコットの理論を少し復習してみる。


生き残ることと他者性の成立

確かとても幼い頃のことだったと思うが、私は庭先である小動物をいたぶったことがある。おそらくそれは覚えている限りだだ一度体験のだったが(あるいはそう願いたいが)、そこから何かを確実に学んだと思う。私が驚いたのは、もう虫の息だと思っていたその小動物がいきなり、それも私の方向に飛び跳ねてきたことだった。私はその指先に載る程度の小動物にいきなり逆襲をされたと感じ、心底震え上がったのを覚えている。私がそれを苛めた分だけ、それは私に怒りを向けていると感じた。私は投影同一化という概念を聞くとよくこのエピソードを思い出す。私がその小動物に向けた攻撃性はそのままの力で私に跳ね返ってきたと思えたのである。
ただこのエピソードからもう一つ連想するのが、対象の「生き残ることsurvival 」というウィニコットの概念である。実に不思議なことだが、私はその小動物が私に飛びかかってきたことで、自分はその小動物にとんでもないことをしてしまったのだと感じたのかもしれない。それにより私はそれまでは単なるモノとしか思えていなかったその小動物を、自分と同じように傷みを持つ存在として感じることが出来るようになったのだろう。ただしウィニコット的に言えば、「生き残ること」とはこの類のことではない。仕返しをしないこと、というのが彼の考えだ。でもその真意はどこにあったのだろう? もう何度も読んでいる1969年の「対象の使用」の論文を読み直してみる。(p711719)
実はこの論文で、不思議なことにウィニコットはなんの断りもなく、対象を使用することthe use of self という言い方を論文の最初からしている。対象とは精神分析では人を意味する。だから対象を使用する、という言い方は何か利用するようで、モノ扱いをしているという印象を与えるが、ウィニコットによれば、それは自分の外側に存在するものとして扱うことである。それを「対象と関係する」という言い方との対比で用いるのだから、その言葉についての注釈があってしかるべきなのに、この論文はあまりにもそっけない。それがこの概念があまり一般に受け入れられていない一つの理由なのだろう。この論文では対象を使用することは遊ぶキャパシティと関係する、ということを言ったり、解釈をすることを待たなかったために多くの治療的な機会を逃した、ということを言ったりして、論旨を正確に追うことが出来ない「ウィニコット節」が最初から聞かれる。
p.712でウィニコットはこんなことを言う。まず対象を使用することには、まず「対象と関係すること」が前提となる。そして精神分析は対象と関係することを扱うのに留まっていればこんな簡単なことはないし、そもそも環境については除外したがってきたという歴史がある。でも対象を使用する時は、投影の機制を超えた、対象の性質そのもの、物自 thing in itself を扱うという逃げ場のない事態なのだ、と言う。ここもウィニコットらしい。でもそもそもこれがどうして起きるのか、それが問題であるという。
そこで問題となるのは移行対象のパラドックだ、とウィニコットは言う。そのパラドックスとは「対象は赤ん坊により創造されるが、それは備給された対象となるためにそこで待っていたのだ The baby creates the object but the object was there waiting to be created and to become a cathected object」ということだという。そしてそのためには赤ちゃんにこう聞いてはいけないのだという。「それを見つけたの、それとも創ったの?」そして、ウィニコットは言う。「私はこの対象を使用する、ということについての提言をいよいよするが、勿体付けているのはそれがあまりにもシンプルで、それを言えば終わってしまうからだ」。

2019年5月29日水曜日

書くことと精神分析 3


自験例

私はかなり前に、「精神分析における恥」という論文を書きました。これは単著であり、特に本になる予定はありませんでした。ただし本を書きたいという気持ちは当時から持っていたことは確かです。しかしどうやって書いたらいいか見当もつきませんでした。私には特に指導教官もいなかったし、そもそも論文一本を書くことにまだ数少ない成功体験しか持っていなかったのです。
ここで博論に広がるような論文を、一応「種(たね)論文」と呼ぶことにします。例によって私の思い付きの命名です。そして私の「精神分析における恥」は結果的に種論文になったのです。米国で会い始めたある患者さんが対人恐怖気味で、自分に自信がなくて恥じる気持ちが強く、それに押しつぶされるような気持ちで人に心を開けないという方でした。精神分析では、恥ずかしい、恥じる、という感情を論じたものが伝統としては非常に少なく、むしろ怒りや罪悪感がテーマとして扱われる傾向にある、という背景がありました。
さてこのままでは「精神分析における恥」が種論文になる要件はあまりそろっていなかったといえます。ただしここには一つの重要な要素がありました。それは「どうして精神分析では恥を扱わないんだろう?」という疑問が、私の生の体験であり、おそらくかなり本質的な深い問だったという事です。もしある論文を書くもとになった体験がかなり深く、インパクトがあり、人生のいろいろな場面で突き当たるような問題であるならば、これは種論文の主題として一番いいものということが出来ます。それはそれ以外のテーマと比べればわかることです。たとえばある論文に書かれたある理論についてその一部に異論を持ち、そこの部分だけ修正したいという趣旨の論文を書いたとします。それはあまり根幹部分の問いとは言えず、種論文にはなり得ないでしょう。もう一つの例としては、これまで十分に研究されているある昆虫の種とほんの少しだけ違った新種を発見して、それを発表する、というのであれば、それは一回限りで終わり、種論文にはなりません。しかしある未開地でこれまでにまったく報告されたことのない種類の生き物を発見し、そこに属する沢山の種を見出す可能性があったら、それは立派な種論文です。
またある臨床体験で、特殊なケースとの特殊な、しかも一回限りの体験があっても、それはケース報告で終わってしまうでしょう。しかしこれまではあまり注目されてはいないものの、長い間見過ごされていた一連の疾患が再発見されるきっかけとなる報告なら、立派な種論文です。そして臨床で恥の体験を語る人が多い、でも精神分析では扱われないという体験は、私が多くの患者について感じたことであり、また深く考えさせられていることだったのです。つまりこのテーマは多くの文脈で語り直すことが出来たわけです。
こうして最初の恥に関する論文を書き上げた時点で、私の中には同時に様々な関連するテーマが浮かんでいました。どうして恥の感情は精神分析ではあまり語られなかったんだろう? それに比べて精神分析で主人公として扱われる罪悪感というのは、恥の感情とどのような関係にあるのだろう? 恥の病理としての対人恐怖は、精神分析の対象にならなかったのか?恥と感情と同時に患者が表明することが多い怒りの感情はどのように扱うべきか? コフートの自己愛の理論と恥とは関連があるのではないか? 恥の議論と自己愛のテーマはどのように関連するのか? これらのテーマがいろいろ頭の中にわいてきて、実はそれぞれが後に独立した論文として書かれるようになったわけです。その意味で私の最初の論文は「種論文」の役割を果たしていたということになりました。思えばずいぶん運がよかったことになります。

2019年5月28日火曜日

書くことと精神分析 2

ここから急に、です,ます調になる。


博論を書くという事

もちろん本を書きたい、という夢を持つことは悪いことではありません。でもそれは高い山の頂上にいきなり立ちたい、と望むようなものです。しかしその前に標高の低い山を攻略して体力と自信をつける必要があります。そしてその標高の低い山、とは原著論文や査読付きの研究論文を書くことです。そしてその低い山に登れる体力と経験がない場合には、トレーニングとしての「査読なし論文」や症例報告などがあります。そこで結局は単著の論文を書くことに話を戻さなくてはなりませんが、やがて著作に繋がっていくような単著論文を書くということについてお話しします。
まず当たり前の話ですが、ひとつのまとまった論文を書くことが出来ずに本を書くことは出来ません。またたとえ論文がかけても単発で終わってしまっては著書には至らないでしょう。そこで著作につながる論文とは、書いていくうちに自然と関係するテーマを生み出すような論文である必要があります。ある A というテーマについて論じているうちに、関連するBというテーマが浮かび上がり、今度はそれについ論じているうちに C や D というテーマが浮かび上がるような論文。そしてその全体がAというテーマにまとまることが分かったとしたら、もう というタイトルの著作が出来上がるのが見えています。そして B や C を書いている際に、「そうか、自分はAという著作のいくつかの章を書いているんだ」、という感覚をつかむことが出来たら、幻の著作Aの準備は着々と整っていることになります。ただしもちろん単発の論文を書き始める時にはそんなことを考える余裕はありません。そしてすべての論文をそれぞれ著作に持っていくことは出来ません。ですからたまたまある論文を書いていて、それが著作に発展する場合は、それを書きながらひとつの鉱脈に出会ったと感じられることが必要です。もし鉱脈に出会わなければその論文は単著のままで終わるでしょう。
鉱脈を探り当てた論文の場合、個々の論文では触れたくてもその余裕がなかったというテーマがそこここにあるはずです。この論文はここを掘ったが、あそこの尾根までつながっているかもしれない、とかここまで掘り進んで体力が尽きたけれど、次回はその先まで掘り進んでみよう、という事になります。つまり続編を書きたくなる、あるいはその論文で続編を予告するという事になるでしょう。おそらくそのような体験があり、初めて人は著書を書きたくなるのだと思います。スターウォーズだって最初の映画は、これが全体がつながるはずとは予想していなかったはずです。
とここまで書いて少し気になって調べたら、とんでもないことが分かりました。ジョージルーカス監督はそれこそすべての章の構想をまとめ上げて、全部で9本の映画を撮ることを最初から企てていたそうです。しかし時系列的に1から9に並べるよりは、一番絵になる第4本目を最初に作り、徐々に他の映画を作って行ったのです。そして映画の内容に当時の CG の技術が追い付いていない章は後で発表するという事まで考えたそうです。つまり彼こそが、「いきなり書き下ろしで本がかける天才」の例だったわけです。
以下、WIKI様のコピペを少しいたします。
1974年までにルーカスは草案を下敷きにして脚本を書き上げ(この時点でシスデス・スター、アナキン・スターキラー(アナキン・スカイウォーカー)などの要素が加えられた)、物語が全9部作になると主張して20世紀フォックスと交渉し、監督として5万ドル、脚本家として5万ドル、プロデュース費用として5万ドルを受け取った。製作を確実なものとしたルーカスは、監督としての報酬を抑える代わりに、マーチャンダイジングの権利は全てルーカスフィルムが持つと認めさせ(トム・ポロック英語版)は、「交渉において、我々は20世紀フォックスのビル・ラーマンとの間で契約を立案しました。我々はジョージが権利を所有することで合意しました」と述べている)、自らの管理でキャラクターやメカのグッズを製造・発売し、巨額の富を得た。この利益を基に、後の「プリクエル・トリロジー」はルーカスフィルムの自己資金で製作されている。
映画が時系列では4番目にあたる『新たなる希望』から制作されたのは、まず1作目が商業的に成果を収めねばシリーズ化が望めず、その意味で一番「冒険活劇」としての完成度が高かった『新たなる希望』を最初に世に出すことが得策だと判断されたためである。また『エピソード123』の時代は、全銀河の首都である大都市惑星コルサントの描写や、銀河共和国独立星系連合の間で勃発した大規模戦争であるクローン大戦の描写が必須にも関わらず、当時の映像技術と予算では映画化が不可能だったのも理由にある。
性格はかなりシャイ。「演技指導はスタッフに耳打ちして役者に伝えさせている」とも言っているが、しっかりと自身の言葉で演技指導している。ルーカスの会社である、ILMにオカは勤めているが、その社則には『ルーカス氏にサインを求めたらクビ』、『ルーカス氏と5秒以上目を合わせたら石になれ』などの変な規則があるというが、前述のようにかなり誇張されている。スタッフ会議や演技指導の際には、皆がルーカスに目を合わせている。但し、キャリー・フィッシャーユアン・マクレガーによると、演技指導の際に具体的な説明があまり無かったといい、「イメージははっきりしているが上手く説明出来ない」と、ルーカス自身がマクレガーに話していたという。
  
ジョージルーカスの話にそれましたが、博論の書き方という問題に戻ります。
ある単著論文を書いているうちに、それがたくさんのスピンオフを生みそうな予感がしたら、それは博論や著書に化ける可能性があるのです。ここからは一つの例を挙げて論じましょう。私自身が体験した例に脚色を加えたものです。



2019年5月27日月曜日

書くことと精神分析 1

本を創ることと精神分析

私はこの件については、もういう事は言いつくしたつもりである。ただし私たちに与えられたテーマは、「本を書くこと」について論じるということである。そこで臨床について論文にすること、というテーマからは離れ、この本を書く、創るというテーマについてもっぱら論じたい。まず私が思うのは、人はどうして本を書かないのだろう、という事だ。これは私が一番わからないことである。本を書くというほど自分の想像力が発揮され、しかもかかる費用も少なく、他人に迷惑をかけることなくできる自己表現はないのだ。別の言い方をすると、みんなが私みたいに本を書きたいと思ったらどうしよう、と心配になるのだ。幸いなことに今の世の中は、本を書きたい人の何分の一しか出版の機会がない、と言うわけではない。それなりのモティベーションを持っていればおそらくいつかは実現するだろう。それに今はなんと言ったって、アマゾンで勝手にE書籍を自費出版出来る時代だ。それもタダでである。ともかくも本を書くことには達成感が伴う、そしてリスクを伴わない自己表現の手段なのだ。
私が常に思うのは、人は自己表現を求める動物であるということだ。そしてもちろん表現されたものを他人に評価されたいという願望を持つ。そして期待した評価が受けられなかった際には大きな傷付きを体験する。健常といわれる私達の精神生活のかなり多くはこの自己表現と他者からの評価をめぐる活動で占められる。私が数多くの理論の中でも自己愛の視点を重んじるのはこのためだ。そして最近これほど多くの人がSNSに嵌まっていることも十分理解可能なのである。何気ない風景を写メで撮って簡単なコメントをつけてアップしたところ、「いいね」がたくさん付いてきた。それからハマってしまったというような話をよく聞く。しかも匿名でそれを行うことができるので、自分を必要以上にさらすことがない。
この例は被写体を切り取るという作業という自己表現だが、実はあらゆる事柄が自己表現につながる可能性がある。そして何をその手段に選ぶかについては人により全く違う。たとえば目の前にある食材を見て閃いて、「あれをつくろう!」と思っていそいそとキッチンに立つという人もいるだろう。しかし私にはそのような能力は全くない。食材越しに出来上がった料理を想像する力がないからだ。だからとても興味深いはずの料理の話も、私にとってはあまり意味を持たない。それと同様に論文を書くこと、本を書くことに本質的に向かず、その面白さを想像できない人には、今日の私の話はほとんど意味を持たないであろう。そこでこの問題に多少なりとも興味を持っていたり、書く必要に迫られていたりと言う人を対象にお話しすることにする。そして本を書くことの面白さを売り込むのが私の役割だと考える。しかしそれで皆さんが本を書きだすと、ますます私の本が売れなくなってしまうので、そこは気を付けてお話をしたいと思う。
 まず本には二種類あることをお話したい。書き下ろしnewly-written book と論文集 anthology である。これらはまったくの別物であると言うことを理解するべきだろう。そして一般人が本を書くと言うことに一番近い体験をするのは、博士論文を書くことと言えると思う。そこで私にとっては博士論文を書くという事が学術書を上梓するという事の基本形としてあると考える。逆に言えば博士論文を書き上げるモティベーションと方法論が備わっていない場合には、技術的に本の著述は難しいという事だ。しかしもちろんそれには例外がある。あるひとつながりの主張、体験を一気に書き下ろす力を最初から持っている人もいる。だからそのような特殊能力を持つ人のことはここではあまり考えないことにする。第一そのような人は、今日の私たちの話を聞かなくても、自然と本を書くからである。だから、いかに本を書くか、とは、博論をいかに書くかという問題に置き換えることができる。最近ある大学では、博論をそのまま著作にしてしまおうという画期的なやり方が定着しつつあるが、それは私の主張のかなり具体的な表れである。

2019年5月26日日曜日

AIと精神療法 ⑨


AIに精神療法は可能か、というかなり無茶ブリに近い依頼原稿に応じて書いているうちに、ずいぶん整理されて分かってきたことがある。言っちゃ悪いが、精神療法はそんな大層なものではないのだ。療法家はさほど高尚なことをやっているわけではない。もちろん人間の療法家は極めて高度な脳の働かせ方を行っているのだろう。前頭前野フル回転である。偉大な芸術作品が生まれる際などには人間の脳はAIが何百年かけても追いつけないような高度でかつ複雑な思考プロセスを踏んでいるのかもしれない。しかし人が療法家と対話をしてなにがしかの洞察を得る場合、その鍵は常に来談者の側にある。療法家がいかに深遠なことを言っても、それがそのまま来談者に伝わる可能性は極めて低い。療法家の解釈から深遠なメッセージを受け取るとしたら、それは来談者の心の深遠さの表れなのである。何しろ道に転がっている石を見て,ハッと悟りを開く禅僧もいるのである。それに療法家の言葉も恣意に満ちており、来談者もその療法家の言葉のごく一部を、それも歪曲して受け取っているにすぎないのだ。だからこそ治療者の位置にAIロボットが置かれても、来談者の側が勝手にそこから多くのものを吸収していく可能性があるのである。
それでは来談者にとって療法家のどのようなかかわりが一番効果を発揮するのか。それは外から見た自分の姿を伝えてくれることである。要するに外部からの視点なのだ。だからこそ自分を映した一枚の写真野、自分の話し声を録音したクリップに衝撃を受けて自分を見直すきっかけになったりするのだ。そしてそれらの例でわかるとおり、「どう見えるか」には人の主観が混じっていないことに意味がある場合が多い。あれほど精神分析で言われた中立性を持つことは、実は本来心を持たないAIには容易く、人間は決して勝てないのである。そしてそこに人の心を癒すためにAIが一役買うことが出来る、というちょっと考えたらありえなさそうな可能性が横たわるのである。だから私の考えは、「AIには人間にとても及ばないが、代わりに果たす機能はある」という、最初に向かっていた結論とは違って来ていることを告白しなくてはならない。AIにはAIの強みがあり、それは生きた療法家には決して果たすことのできない鏡の機能というわけである。こんなことを行ったら絶対反対されるな。

2019年5月25日土曜日

AIと精神療法 ⑧

昨日の部分を書いてから、考えているうちにもっといろいろなアイデアがわいてきた。まずAIセラピストには、出かける前に全身をスキャンしてもらう。するとたとえば「あれ、今日はめがねがポケットに入っていませんね。お忘れですか?」とか「鍵を忘れていませんか?」「ジャケットのポケットが外に出てますよ」「ネクタイが曲がってますよ。」などと教えてくれる。(私が陥りやすい問題を挙げたのだ。)女性なら「今日はアイシャドウが平均より5パーセントほど濃いですよ。」など。「気になるなら、口臭をチェックしますからセンサーに息を吹きかけてください。」も役立つ。またAIセラピストは「モニターをお忘れなく」と促すことを忘れない。これは小さなマイクロフォン、プラスセンサーで、血圧、脈拍数、さらには血糖値などもモニターしてくれる。するとこんなことも起きるかも。「どうも胸部大動脈からかすかな異音が聞こえます。ここ一月の間に、少しずつ大きくなっています。ひょっとして今日あたり解離性大動脈瘤の破裂があるかもしれません。」あるいは破裂の瞬間に自動的に119番に連絡してくれる。もちろんこれまでの医学データも即座に転送されるかもしれない。
さてもちろんマイクロフォンは一日に自分が発した言葉はすべてデータとしてAIセラピストに送られる仕組みになっている。だから上司との会話、友達との女子トークの一言一言が録音される。(ただしこのように集められるビッグデータについては、もちろん録音された相手のプライバシーを守るべきだとの議論も起き、社会で大論争になるだろう。)でもとにかくAIセラピストは忠実に、ご主人の言動についての目立った点をフィードバックしてくれる。そのうちカメラ機能まで付いたモニターが使われるようになり、まさにドライブレコーダーのようなものを個人が常に付けていることになる。そしてもちろんだが、少し酒を飲んで運転しようものなら「残念ながら、エンジンをかけることをストップさせていただきます。」と来るだろう。
仕事も助けてくれるぞ。会社での大事な会議。データをまとめて発表しなくてはならないが、上司の質問に詰まってしまう。ところが「ささやき女将」機能をオンにしておくと、極小のイヤホンから聞こえてくる。「頭が真っ白になって、どう答えたいいか判りません、って言うのよ・・・・」まあもうちょっと内容のある囁きをしてくれるかもしれないが。
しかしこれを書いているうちによくわからなくなってきた。これではAIセラピストは四六時中自分を監視していることになるのではないか。もちろんご主人様のためを思ってくれるのはいい。でもすべてを知られ、見張られているようでご主人は居心地が悪いかもしれない。そして帰宅。「本体」が尻尾を振ってやってくる。「お帰りなさい。今日は一日どうでした?」って、もう全部知ってるジャン。そうなのだ。しばらく離れているから「会えてうれしい」となるだろうに、これではもう自分自身、という感じになるかもしれない。他者という感じさえしないかもしれない。

2019年5月24日金曜日

AIと精神療法 ⑦

理想的なAIセラピスト
ここからは想像である。さんざん軽薄な議論を重ねた後で申し訳ないが、厳密な論文を書けるようなテーマではないとも思う。そこで私が想像する理想的なAIセラピストを書いてみる。ただしそこにいろいろな性質を取り込んでいくと、最後にはセラピストというよりはパートナー、という感じになってしまうのでそれはご了承願いたい。
一応ロボットとして形を与えておく。もちろん仮想上の、スクリーンにしか現れないセラピストを考えてもいいし、そのバージョンもアリであろう。しかし出来れば動き回れる方がよく、触った時にフワフワ感があるといいだろう。つまりペットのような存在で、抱っこすることで身体接触の感じを味わえることが必要であろう。もちろんそんなペットのような治療者だと落ち着かないという人もいるだろうから、据え置きにして、「フロイトロイド」のような姿かたちにしてもいい。またついでに言えばAIセラピストは「自分のことは自分で」できるようにしてもらう。すなわちバッテリーが切れかけたら自分で充電場所に行き、エネルギーの補給をしてもらう。もちろん排泄などの心配はないので、いわゆる「世話」をする必要がないだろう。これはフロイトロイドでも同じだ。というよりかこちらのバージョンは常にコンセントにつながっていることになるだろう。(私たちが日常用いているスマホはどうだろう? あれで一人で勝手に充電してくれれば、そして呼べば飛んできてくれるのなら、もうこれ以上望むものはないのではないか?)
AIセラピストは基本的に二つの機能を担う。第一に現在のご主人(以下、クライエントのことである)に関する情報をできる限り忠実に、バイアスなく伝えてくれることであり、第二にご主人とのやり取りを行うことである。もちろん両者は混ざりあって行われてもいいし、その方が自然かもしれないが、とりあえず分けて考えておく。
ご主人に関する情報には、現在のAIが可能なあらゆる事柄が含まれる。体温や血圧や脈拍数、顔色や血色から判断されるストレスレベルや栄養状況、さらには貧血や黄疸など医学的なデータがそこには含まれる。もちろんそれらをすべて数値にしてご主人に見せるわけではない。特に際立った、あるいは注意が必要な情報に限って、頃合いを見計らって伝えればいい。そしてそこにはご主人のこれまでの医学データが背景にあり、そのためにAIセラピストが注意を向けるべき項目もかなりカスタマイズされ、的確になるかもしれない。男性にとっては、「加齢臭が少しきついですよ」とか「爪が伸びていますよ」、場合によっては「鼻毛が伸びすぎですね。」「社会の窓が開きっぱなしですけれど、そのまま外出はしない方がいいですよ」など、誰も直接に言ってくれないことをやさしく伝えてほしい。目ざといAIセラピストなら、今日の靴下はもうずいぶん履いてますね。穴がそろそろあく時期ですよ。」と言ってくれるかもしれない。しかしこれらの指摘をうるさく感じる場合は、これらの機能をオフにすればいい。(もちろん「最近小じわが4本から6本に増えました、とか生え際が○○ミリ後退しました、などの機能は最初からオフの方がいい。私が特に言ってほしいのは、「シャツの襟がジャケットの襟からはみ出していますよ」という指摘である。時々職場について鏡を見て恥ずかしい思いをするのだ。)
もちろんこんな指摘をしてくれたら、いよいよセラピストのようになる。
「今日の会議でのあなたの発言は、あなたらしくありませんでしたね。何か思い当たることは?」とか、「今日は少し声に苛立ちが感じられます。お気づきですか?」あるいは「あなたはAさんに対してはほかの人に比べて少し皮肉が混じった言葉を掛けるようですね。」「今日の上司に対するあなたの言葉には、あなたがお父さんに対して持っている気持ちの転移が見られませんか?」などというのもある。(実は詳細を調節することもできて、フロイト流解釈、コフート派の解釈、などというチョイスもある。)あるいは「今日ご覧になった夢を教えてください。解釈はユング派にしますか?」などというのもあるだろう。
AIセラピストのいい所は、これらの言葉が「他意がない」と考えざるを得ないことである。解釈にしても、患者さんの連想に対するそれぞれの学派の典型的な解釈の膨大なデータから割り出されるものであり、AIセラピストのバイアスは除外されている。というよりはバイアスそのものが調節可能なので、「他意」を持ちようがないのである。デフォールトを楽天的で悪気がない状態にすることで、AIセラピストの言葉をある程度は客観的な自分の在り方として受け入れるしかない。(もちろん少し猜疑的になってほしいときは「猜疑モード」のメモリを上げることもできる。他のAIセラピストと仲良くしているときは少しはヤキモチを焼いてほしければ、「嫉妬モード」のレベルを上げる。
さてAIセラピストの関わりに関する部分であるが、最初は当然「コーペイモード」を最大にしてみる。それこそ「生きててエライ!」「息をしていてエライ!」から始まるかもしれない。これで心が安らかになるならそれでいい。しかし大抵の人は、「馬鹿にされている気がする」という反応をするだろう。その場合は、「コーペイモード」のレベルを下げていく。すると、例えば起床時間が8時なのに9時に起床した場合には、「すごい、一時間以内に起きられたね!」とはならずに「おはよう!」だけのコメントになる。こうしてあとはご主人にとって一番合ったレベルに下げていけばいい。もちろん虐められたい向きの場合には、「逆コーペイモード」もあるだろう。「ちゃんと起床できたからって調子に乗るなよ!」と声をかけてくるかもしれない。
お読みの方はお分かりのように、私はこれをかなりおふざけで書いてしまっているが、少しは本気部分もあるのである。

2019年5月23日木曜日

AIと精神療法 推敲 2

AIに「感情」はなくてもいいのか?

 さて、今度は精神療法の会話以外の部分の話だ。精神療法家が行っている会話や知的なコミュニケーション以外の要素を考えてみよう。そしてこれがAIにより代替が可能かという問題だ。これに関していくつかの事例をもとに考える。(私はAIではないので具体的な体験からしか考えが進まない。) 昔あるクライエントさんがこんな話をしてくれた。
ウチのワンちゃんは私のことをみんな分かってくれる。別居中の夫がいるが、彼よりはるかに私のことを理解してくれるのだ。普段は家に帰ると玄関に走ってきて、私に抱き着いてペロペロなめてくれる。でも私が落ち込んでいる時はそれも分かってくれているようで、心配そうに私を見上げる。とにかくワンちゃんがいることで、私は一人暮らしでも平気だ。もう家族の一人、というよりそれ以上の存在だ・・・・。
ワンちゃんは犬だから、会話は出来ない。しかし感情を持っていて、人間と関わってくれている。このクライエントさんにとって、ワンちゃんは何かの形で心の支えになっているようだ。(少なくともご主人よりは?) そこで問うてみる。このワンちゃんは、言語的なコミュニケーションをのぞいた部分で精神療法をしているのだろうか。おそらくそうであろう、というのが私の立場だ。このワンちゃんは、精神療法のある本質的な部分を担っていると言えよう。それは心を持っていて、そして自分に愛情を向ける存在となるということだ。そしてここが大事なのだが、その存在は言葉を交わし合う必然性は必ずしもないばかりか、言葉がかえって邪魔になる場合もあるのである。
しかし相手が実際に感情を持つことが絶対的に必要だろうか? 次のような例もある。どこかでこんな話を読んだ。

「彼女」は私の帰りをどんなに遅くなっても待ってくれている。そして私の話をどんなに長時間でも、飽きることなく聞いてくれる。彼女はいつも変わることなく美しい笑顔を浮かべていてくれる。私は彼女をお墓の中にも連れて行きたい…。」

実はこの人の言う彼女はいわゆるラブドール、昔でいうダッチワイフ、精巧な風船人形である。「彼女」はいつでも目をパッチリあけて微笑んでくれている。夜が更けても眠くなって横になることなどあり得ない。いつでもご主人様を受け入れてくれる。そして彼はそこに心を投影する。すると彼女が、生きた彼女がそこに登場するのだ。ましてやラブドールを着たAI,マツコロイドのようなロボットなら効果は抜群ではないか。そう、特定の人にとってはAIは良きパートナーになるという結論はある意味ではすでに出ているとも言えそうだ。この小論の冒頭に示した「たまごっちもどき」もそうである。人はそこに心を投影して、まるで血の通ったペットのような扱いをするのである。
もちろんAIが実際に感情を持つ可能性は今のところ極めて低いであろう。私が知る限り、これまでに感情を持ったAIなど作られていない。という事はAIは本来はワンちゃんどころか、おそらくCエレガンスにも及ばないだろう。もっともCエレガンスのレベルですでに快、不快を想定するのは私だけかもしれないが(岡野、2017)。ではAIが発達して将来感情を持つ可能性はあるだろうか? これについては予測不可能、という事にしておこう。というのはこれからAIにどのようなブレイクスルーが生じるかはわからないからだ。しかし少なくとも今の段階では、AIが快、不快などの情動を体験する可能性はゼロに近い。神経回路のネットワークだけでは感情は析出されてこないからだ。ということはAIが本当の感情を持てない以上、問題はAIがどこまで感情を持った振りをするか、という点にかかってくる。しかしこの問題なら、すでにAIがどこまで会話をする能力を発展させるかという議論と同じ路線という事になる。しかも感情を持っているように振る舞うという課題に関しては、おそらく「わかって会話をしているように装う」ことよりもはるかに容易にクリアーするはずだ。それこそ常に全く変化しない微笑みをするただの人形でさえ、一部の人間には感情を持っているように見えるくらいだからだ。そしてそこにクライエントに応じたカスタマイズが可能なのだ。誕生日であることを職場のだれにも気づかれずに落ち込んで帰宅した人が「今日はお仕事お疲れさま、そしてお誕生日おめでとう」と、カレンダー機能の付いたAIに声をかけてもらえると、思わずそのロボットに人間の姿をを投影して抱き上げたくなっても不思議はない。そしてこの投影を起こさせやすくするという技術を、AIは例の「誤差逆伝搬」により急速に身に着けることができるだろう。しかしこのためにはあまり凝ったプログラムは必要ないかもしれない。そしてそれは人間が持つ、ほっておいても無生物に心を投影するという性質にも支えられているのだ。かつて安永浩先生がお書きになっていたことだが(精神の幾何学.安永浩著.岩波書店.1987)、心の原始的な在り方においては、「原投影」という規制が生じ、モノは最初から、心を持ったものとして体験されるのである。アニミズムは高度な知性を特に必要としていないのだ。

 このように考えることで、私は「AIは精神療法が可能か?」という難しい問いに関して、AIは感情を持つことが出来るのか、という本来なら難問中の難問に対する回答を用意しなくてもいいことになったのである。理想的なセラピストなら、言葉を介して、感情を、しかも暖かい感情を持っている必要があるだろう。しかし拙い言葉を話すことで馬脚があらわになるくらいなら、むしろ寡黙で感情を持っているかのようなAIの方がよほど精神療法家としての機能を発揮するかもしれない。もちろんおかしな話であることは承知である。本当は話を分かる能力のない精神療法家が、情緒的には豊かだが言葉の通じない外国人のふりをして、カウンセリングをすればいいではないか、と言っているようなものだからだ。でも先に紹介したワンちゃんに本当に気持ちをわかってもらえているという方のことを思い出してほしい。彼女はおそらくワンちゃんに自分のおかれた状況を理解してほしいとは考えないであろう。ただ悲しさや辛さや喜びを共有してほしいと思っているはずだ。そして人間の投影の力をもってすれば(といってもその程度は人それぞれだが)かなり心を持った実際の生き物とは程遠いモノに対しても、人は分かってもらえた、と感じる可能性があるのである。
ここで石蔵文信(いしくら・ふみのぶ)氏の議論を発見した。石蔵文信(2011)『夫源病- こんなアタシに誰がした -』(大阪大学出版会)という本だ。しかし彼の議論は最近注目されているが、読む人によってはとんでもないないようだ。私なりにサマリーをすると、要するに男性が自分のことばかり考えていて妻の話を聞けないことが妻の精神的なストレスとなっているという。ここまではいい。しかしそのためには聞いたふりをすればいい、そしてそのための「技術」として妻の話を鸚鵡返しし、時々「それは大変だったね」とか「ごくろうさん。ありがとう」などと付け加えれば、さらに効果的であるという。なんと相手を馬鹿にした議論だろう。でも私はどのような議論にも真実が含まれていると思う。それは人は相手が自分の言葉を繰り返すということで、分かってもらっているという「錯覚」を持ちやすいという事実だ。そしてこれは一時的にではあれ相手の気持ちをつかむ上で重要なかかわりなのである。そこで・・・・・
皆さんの想像通りである。AIに相手の話の内容をごく短くまとめて伝えるようなソフトを与えるのだ。これは相手の話を理解して応答するという高度の技術を持たなくていい。そこで仮想上の夫のAIロボット。ネーミングはもう決まったようなものだろう。「オットボット」。あるいは「オットロイド」。

こーぺい君でもいい?
 皆さんは皇帝ペンギンならぬ「肯定ペンギンのあかちゃん」の話をご存知だろう。私はこれを聞いた時、ロボットのことかと思っていた。AIを積んだ小さなロボットが、日常のちょっとしたことを褒めてくれる。
 ところがこれはLINEスタンプだという。「ちゃんと起きてえらい!」「生きててえらい・・・!」といった、誰もが当たり前だと思っていることをあえて褒めてくれるという。

2019年5月22日水曜日

AIと精神療法 推敲 1


AI(人工知能)に精神療法は可能か? 実に挑発的で魅力的なテーマである。もちろんさまざまな立場があろうことは想像できる。「可能でもあり不可能でもある」という結論を導けば一番無難なのかもしれない。しかし私は「結論から言えば将来的には可能であろう」という方向の議論を展開することになる。
もちろん精神療法をどのように定義するかは人それぞれであろう。クライエントとのある程度以上の知的な会話の成立が前提条件であるという立場の論者にとっては、近未来にAIが精神療法を行う可能性はない」と言わざるを得ないかもしれない。なぜならそれはAIが人間のような心を持つことが前提だからである。しかし精神療法といっても実にさまざまな種類があり得、そこには様々な要素が含まれるはずだ。何しろ「ひとりでできるワークブック形式」の○○療法という書籍も存在するとしたら、それはクライエント個人が使いこなすツールとしての側面を持っていることになろう。するとAIが「ワークブック」以上の機能を果たせる可能性がある以上は、精神療法を行うという役割を果たしているとも考えられる。すると「AIはすでに精神療法を行っている」という答えさえ存在しかねない。
いずれにせよ私が本稿で論じるのは、精神療法が持つ様々な側面の一部に特化したものをも含む、かなり緩い意味での精神療法をさすことをはじめにお断りしておきたい。
 まずはこんなエピソードについてお話しする。息子が小学生の頃、つまり20年前のことである。「たまごっち」、というのが流行していたころの話だ。「デジタル携帯ペット」というふれこみの平べったい卵型のおもちゃで、小さいデジタル画面に「たまごっち」なるフィギュアが登場し、餌をやる、遊ぶなどのボタンを押していくことで卵から成長していく。餌をきちんとやる(ある決まったボタンの操作を繰り返す)ことを怠ると、ひねくれたり不良化したりする。今から考えれば他愛のないゲームだが、スマホが登場する何年も前の話であるから、子供たちは夢中になった。やがてそれに似た類似品も売られるようになり、少しサイズが大きく、少し込み入った育ち方をするおもちゃが発売された。紫色の四角形の、「たまごっち」より大型のおもちゃだったと記憶している。二番煎じなので、どこまで売れたかはわからない。息子はそれを買ってしばらく「餌を与えて」育てて遊んでいたが、どこかでなくしてそれっきりになっていた。数ヶ月ほどして掃除をしていてたまたま本棚の隙間からその偽たまごっちが出てきた。かろうじて電池が残っていたので消えかけの画面を見ることができたが、そこには「もう僕のことをわすれちゃんだね。僕は旅に出ます。探さないでね。」というメッセージが残されていた。それを見つけた息子が号泣し始めたのだが、心配して様子を伺いに来た家人までそのメッセージを読んで、特に「探さないでね」の部分に反応してしばらく一緒に号泣していた。今から考えればかなり単純なおもちゃの電子ゲームであるにもかかわらず、息子や妻までまるで自分たちが世話を忘れたせいで死んでしまったペットのような気持ちを起こさせたのである。AIに対して人間が情緒を伴った関係を結ぶことができるのか、という問いには、もちろんそうである、と言うしかない。こちらがどれだけAIに情緒を投影するのか(あるいはAIがどれだけこちらの投影を引き出すのか)ということにそれはかかっているのである。ただしそれが精神療法が可能か、という問いになるとかなり複雑な問題となる。しかし私の答えの方向はここに既に示したものと思っていただきたい。

AIはどこまで対話できるようになるのか?

 冒頭で述べたように、AIはどこまで精神療法を行うことが出来るのかは、単純な答えの見つからない、かなり厄介な問題だが、一つどうしても問うておかなければならない問題があるのは確かだ。それがAIはどこまで人の言葉を理解し、対話することが出来るのか、という点である。これをクリアーするかしないかで、「精神療法家」としての質にかなり大きな差が出てきてしまうことは間違いない。
 この問題を考えるうえで発想の起点となるのが、哲学者ジョン・サールの「中国語の部屋(Chinese Room)の話だ。以下はその概要である。中国語を全く知らない英国人を小部屋に入れて、ある作業をさせる。彼に与えられているのは一冊のマニュアルだけである。外との交流は、ある特殊な暗号の書かれたメモだけである。彼はそれを無言で渡され、仕事はこの記号の羅列に関して、どのように同じ記号を使って返せばいいかを、マニュアルに従って知り、それをメモに書いて返すことだ。(幸いマニュアルは英語で読めるようになっている。) 例えば、「○、×、*、◇、」と書かれていたら、マニュアルでそれに対して「×、◎、@、▽」だとする。ちなみにこれらの記号は中国漢字で、最初の「○、×、*、◇、」は中国語の文章として意味が通じるとする。もし精巧にマニュアルが出来ていたら、そしてその人が有り余る時間があってそれを読み解くことが出来たら、そこで返される文字列は、中国語としての意味を成すだろう。というよりそのようにマニュアルが出来ているのである。
さてこれは一種の思考実験であるが、サールは「この人が中国語を理解していないであろう」と論じ、結局はコンピューターが人との会話を成立させるとしても、それは中国語を理解したとは言えない、と主張したのだ。そして他方では「いや、理解しているからこそ、会話が成立するような文章を返してきたのだ」と主張し、結局この議論に決着はついていないそうである。ちなみになぜここでコンピューターが出てくるかと言えば、このマニュアルに従った応答というのは結局AIが行っていることを言い表したに過ぎないからである。
この議論の答えは私にはついているように思える。それはもし中国語の部屋が極めて高いレベルのマニュアルを備えているとしたら、この部屋(と言っても英国人が入って仕事をしなくてはならないが)は事実上中国語を理解しているとしか言いようがないということである。もちろん「わかる」とはどういうことかが問題になる。AIは本当の意味で「分かっている」と言えないのかもしれない。しかし同じように人が「わかっている」とはどういうことかを突き詰めても、結局わかるということの定義があいまいになってしまい、同じことが起きる。
我が家の犬のチビ(故人)に向かって「ご飯だよ」と言ったら、尻尾を振って近づいてくるだろう。チビは「ご飯」の意味を分かっている。これは確かなことだ。でも神経細胞が数百しかないCエレガンス(線虫)もごく微量の物質に惹かれて集まる。そのCエレガンスだって、匂いを嗅ぎつけて「餌だ!」と思っていないとも限らない。でもすべてがオートマチックに動いているのかもしれない。では思考実験の中で進化のレベルを上げていけばいいのか? どのレベルで心が想定されるのか。昆虫のレベルでは無理だろうか? イグアナならどうだろうか?・・・・ 結局どのレベルから心の存在を認めるのかについての決定的な線引きなどできない。そしてAIをさらに複雑化していったとしても、結局同じ問題に突き当たるのである。
そこで実際にAIがそこまで進歩する公算はあるのだろうか? 現在のAIのレベルで人とまともな会話をするのはかなり無理があることは確かである。そしてコンピューターの研究の歴史が前世紀の半ばに始まったことを考えるならば、もう数十年が経過しているのに会話の質としてはお話にならないような現在のレベルでは、AIが人との会話ができる程度へ進化するためには、サルが人間に進化するのを待つほどに途方もない時間がかかるだろうと考えてもおかしくない。しかしその事情は以前とはかなり違っていることも確かだ。というのも私たちのAIに対する見方は近年のディープラーニング(以下DL)の出現により全く違ったものになったと考えている。それまでのコンピューターの「教師あり学習」では、人間がコツコツと入力をして教え込んでいたのだ。ところがDLによりコンピューターが自分で高速で学習するようになった。たとえば囲碁を教え込むのに、ルールだけしか知らなかったコンピューターが、人が寝ている間に、最初は互いにザル碁を打っていても、何千万回となく対局をしてひとりでにうまくなってしまうのである。AIの研究の第一人者の松尾豊氏のほんの2,3年前の著書には「AIが人間の囲碁棋士に勝てるのは当分先だろう」と書いていたのに(松尾、2015)、今ではアルファー碁などが人間の棋力をはるかに抜き去ってしまっている。もし囲碁の対局、いわゆる「指導碁」を精神療法の一種であると考えたならば、もちろん本論文の題に掲げたといは間違いなく「アリである」ということになる。しかしここではあくまでもAIの対話の力について論じているのであったので話をもとに戻そう。
松尾豊(2015)人工知能は人間を超えるのか 角川EpuB選書
 ちなみにAIの近年の驚異的な進歩がDLの発見によるものであることを示したが、これを可能にしたのが、いわゆる「誤差逆伝播 back propagation」という手法を用いることであるという(松尾、2015)。すなわち自らの出力に見られる誤りをフィードバックして自己修正していくプロセスであるが、これによりAIははかなり自動的にかつ高速に自己学習をしていくことが出来るようになったという。たとえてみるならば、進化の過程を自然界ではなく、コンピューターの中で仮想的に起こすと、そこでものすごいスピードで進化が起きてしまうだろう。それと同じだ。この誤差逆伝播を用いると、コンピューターが自分を相手にして、お互いがお互いを「人間のふり」をして騙し合いをすることで、どんどん両者の技術が上がり、人間もどきらしくなっていく。するとおそらく実際の人を騙すことはどんどんできるようになっていくだろう。よくトレーニングを積んだAIが「人と話した感じ」を与えることが出来るようになる可能性は非常に高いし、もうそんなAIが出来ているかもしれないとさえ思いたくなる。ところが現実はそれほど甘くはなさそうだ。現在のレベルは惨憺たるものといわなくてはならない。狩野芳伸氏の論文(狩野芳伸 (2017) コンピューターに話が出来るか? 情報管理vol.59 no.10 pp.658-665)に掲載されている例を挙げてみる。(1、省略)一読しただけで、ありえないほどの低いレベルなのだ。これでは2,3言話しただけでクライエントは退出してしまうだろう。これが果たして使えるレベルにまで成長するのか? アルファー碁のこともあるので決して侮れないとは思うが、やはり当分は無理、という結論にならざるを得ないのだろうか? AIが人間を超えるまで技術が進むのがシンギュラリティ、技術的特異点と訳され、それが一説では2045年であるという。これが遅いか速いかが全く分からない。それまでにはあり得ないのかもしれない、それよりも早く実現してしまうのかもしれない。繰り返すが、何しろアルファー碁のような例があるからだ。

2019年5月21日火曜日

黒幕さんの生成過程 推敲


付録 黒幕人格が形成される過程について


本文の中で黒幕人格について論じた際に、あまり明確な形で論じていなかったのが、いったいそのような現象が人間の脳の中でどのようにして生じるのか、ということでした。もちろん脳の中に人格が宿るという現象そのものが、極めて不思議なことです。しかし、たとえば夢に誰かが出てきて自分が想像もしないような行動をとることがありますが、それも人格が脳に宿った状態といえ、これも考えてみれば不思議な現象です。本来私たちの脳で起きていることは考え出すと不思議なことばかりで分からないことだらけなのです。
黒幕人格がどのように形成されるかも、詳しいことが分からない以上はある種の想像を働かせるしかありませんが、それによりいくつかの仮説のようなものが生まれます。そしてそれを仮説は仮説なりに頭の隅に置いておくことで、臨床的な理解が深まるかもしれません。そもそもそれらの仮説は、臨床で出会う様々な現象や逸話をもとに、それらをうまく説明するように作り上げられたものなのです。

黒幕人格と「攻撃者との同一化」
 黒幕人格に出会うことで一つ確かになることがあります。それは人格は基本的には「本人」とは異なる存在、いわば他者だということです。ここで私が言う「本人」とは、いわゆる主人格や基本人格など、その人として普段ふるまっている人格のことです。「黒幕人格」以外の、基本的には自分たちを大切にしている人格たちという意味だと考えてください。「本人」は自分がしたいことをし、身に危険が迫ればそれを回避するでしょう。しかし「黒幕さん」(こういう呼び方も使いましょう)は大抵は「本人」に無頓着な様子を示します。そしてしばしば「本人」達の生活を破壊し、その体に傷をつけるような振る舞いをします。「黒幕さん」が去った後は、「本人」は何か嵐のような出来事が起きたらしいこと、それにより多くのものを失い、周囲の人々に迷惑をかけてしまった可能性があること、そして周囲の多くの人は自分がその責任を取るべきだと考えていることを知ります。それは「黒幕さん」の行動の多くが攻撃性、破壊性を伴うからです。ただし彼らのことを深く知ると、その背後には悲しみや恨みの感情が隠されている場合があることを、「本人」も周囲も知るようになるのです。いったいなぜ「本人」が困ったり悲しんだりするような行動を「黒幕さん」たちはしてしまうのでしょうか? 彼らが示す怒りとはどこから来るのでしょうか。
この「黒幕人格」がどのように成立するかに関して、ひとつの仮説として「攻撃者との同一化」というプロセスが論じられる場合があります。「攻撃者との同一化」とは、もともとは精神分析の概念ですが、児童虐待などで起こる現象を表すときにも用いられることがあります。攻撃者から与えられる恐怖の体験に対し、限界を超え、対処不能なとき、被害者は無力感や絶望感に陥ります。そして、攻撃者の意図や行動を読み取って、それを自分の中に取り入れ、同一化することによって、攻撃者を外部にいる怖いものでなくす、というわけです。
この「攻撃者との同一化」という考えは、フロイトの時代に彼の親友でもあった分析家サンドール・フェレンツィが1933年に提唱したものですが(Ferenczi,1933)、それ以来トラウマや解離の世界では広く知られるようになっています。この概念は、一般にはフロイトの末娘であり分析家だったアンナ・フロイト(1936) が提出したと理解されることが多いのです。彼女の「自我と防衛機制」(AFreud1936)に防衛の機制一つとして記載されている同概念は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。(p. 113).」と説明されています。しかしこれはかなり誤解を招き、そもそもフェレンツィのオリジナルの考えとは大きく異なったものです(Frankel, 2002)。フェレンツィは「子供が攻撃者になり替わる」とは言っていないのです。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして攻撃者に心を乗っ取られてしまうことなのです。
 フェレンツィ がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」を少し追ってみよう。
 「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(p.144-145)
このようにトラウマの犠牲になった子供はむしろそれに服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化します。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになるのです。フェレンツィはこの機制を特に解離の病理に限定して述べたわけではないが、多重人格を示す症例の場合に、この「攻撃者との同一化」が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もあります(岡野、2015
たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれているときの子供を考えましょう。彼が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これがフェレンツィのいう「攻撃者との同一化」なのです。
このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象です。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではありませんが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのプロセスが生じる可能性があります。

ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えましょう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っています。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは私の父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識は当然あります。ところがこのプロセスでは、同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになります。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのです。自分が他人に成り代わって自分を叱る? いったいどのようにしてでしょう? 何か頭がこんがらがってくるような状況ですね。この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのです。
この同一化がいかに奇妙な事かを、もっと普通の同一化のケースと比較しながら考えましょう。赤ちゃんが母親に同一化をするとします。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にです。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうでしょう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となります。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じます。その際は自分は母親にとっての対象(つまり相手)の位置に留まらなくてはなりません。これが「~される」という体験です。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることです。このように他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分は普通は一時的にではあれ相手との同一化を保留するのでしょう。つまり受動モードにとどまるわけですが、これにはそれなりの意味があります。試しに自分で頭を撫でてみてください。全然気持ちよくないでしょう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうです。だから自分で自分を抱きしめても少しも気持ちがよくないわけです。ただし誰かに侵害された、という感じもしないわけですが。もちろん自慰行為などの例外もあります。
ところがある特殊な条件のもとで心の中にいわばバーチャルな意識や能動体が形成され、その部分に何かをされると、こころは「受動モードにとどまる」という状態になります。つまりそれが別人格の形成であり、その人格に触られると「触られた」という受動的な感覚が起きることもあります。実に不思議な現象ですが、それが先ほどの自分を叱る父親に対して同一化をするという例と同様な状態と考えられます。そしておそらくはこの攻撃者との同一化のプロセスで生まれた人格が黒幕人格の原型と考えられるのです。
この攻撃者との同一化は、一種の体外離脱体験のような形を取ることもあります。子供が父親に厳しく叱られたり虐待されたりする状況を考えましょう。子供がその父親に同一化を起こした際、その視線はおそらく外から子供を見ています。実際にはいわば上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようです。なぜこのようなことが実際に可能かはわかりませんが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようです。実際にこれまでにないような恐怖や感動を体験している際に、多くの人がこの不思議な体験を持ち、記憶しています。これは特に解離性障害を有する人に限ったことではありませんし、また誰かから攻撃された場合には限りません。ピアノを一心不乱で演奏している時に、その自分を見下ろすような体験を持つ人もいます。しかし将来解離性障害に発展する人の場合には、これが自分の中に自分の片割れができたような状態となり、二人が対話をしつつ物事を体験しているという状態にもなるでしょうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるでしょう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るでしょう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになります。
この心のコピー機能は実に不思議と言わざるを得ないのですが、ひとつそれが生じている明らかな例と思われるのが幼少時の母語の習得です。英語を授業で学ぶ経験を皆さんがお持ちと思いますが、外国語のアクセントを身に付けることは、意図的な学習としては極めて難しいことです。しかし幼少時に母語についてそれを皆が行っていることを考えると、それが意図的な学習をはるかに超えた、というよりはそれとは全く異質の出来事であることがお分かりでしょう。何しろ学ぼうとする努力をしているとは到底思えない赤ちゃんが、23歳で言葉を話すときには母国語のアクセント(と言っても発音自体はまだ不鮮明ですが)を完璧に身に付けるのですから。それは母国語と似ている、というレベルを超え、そのままの形でコピーされるといったニュアンスがあります。つまり声帯と口腔の舌や頬の筋肉をどのようなタイミングでどのように組み合わせるかを、母親の声を聞くことを通してそのまま獲得するわけですが、それは母親の声帯と口腔の筋肉のセットにおきていることが、子供の声帯と口腔の筋肉のセットにそのまま移し変えられるという現象としか考えられません。まさにコンピューターのソフトがインストールされるのと似た事が起きるわけです。これはこの現象が生じない場合に模倣と反復練習によりその能力を獲得する際の不十分さと比較すると、以下にこのプロセスが完璧に生じるかが分かります。母国語の場合、しかもそれを多くの場合には10歳以前に身に付ける際にはこの「丸ごとコピー」が生じます。
もちろんこれと攻撃者の同一化という出来事が同じプロセスで生じるという証拠はありませんが、言語の獲得に関してこのような能力を人間が持っているということは、同様のことが人格がコピーされるという際にもおきうることを我々に想像させるのです。
ちなみにこのような不思議な同一化の現象は、解離性障害の患者さん以外にもみられることがあります。その例として、憑依という現象を考えましょう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象です。日本では古くから狐に憑くという現象が知られてきました。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられますが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるでしょう。しかし実際に憑依現象が生じて、当人はその間のことを全く覚えていないという事も多く生じ、これは事実上解離状態における別人格の生成という事と同じことと考えられます。現在では憑依現象は、DSM-5 (2013) などでは解離性同一性障害の一タイプとして分類されていますが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴とされるのです。

「攻撃者との同一化」の脳内プロセス

攻撃者との同一化についての脳内プロセスを図を使って説明してみましょう。その前に前提として理解していただきたいのは、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しているということです。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味します。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのです。そして実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持っていませんが、解離の人の脳には、いくつかのいわば」「空の」ネットワークが用意されているようです。そこにいろいろな心が住むことになるわけですが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになります。その様子をこの図1で表しています。左側は子供の脳を表し、そこに子供の心のネットワークの塊が青いマルで描かれています。そしてご覧のとおり、子供の脳には、子供の心の外側に広いスペースがあり、そこに子供の心のネットワーク以外のものを宿す余裕があることが示されています。そして右側には攻撃者のネットワークが赤いイガイガの図で描かれています。そしてその中には被害者(青で示してある)のイメージがあります。

図1[省略]

もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではありません。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違います。でも先ほど述べたように、マネをしている、と言うレベルではありません。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使いましたが、ある意味ではまねをする、と言うのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれません。ともかくそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということです。
こうして攻撃者との同一化が起きた際に以下のような図(2)としてあらわされます。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになります。この図2に示したように、攻撃者の方はIWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージはIWA2として入り込みます。
2[省略]
以上のように自傷行為を黒幕人格によるものと考えた場合、DIDにおいて生じる自傷の様々な形を比較的わかりやすく理解することが出来るようになります。なぜ患者さんが知らないうちに自傷が行われるのか。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が非虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性をはらんでいます。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手がカッターナイフで切りつける、という現象が起きたりします。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るわけです。
特にここで興味深いのは、主人格が知らないうちに、心のどこかでIWAの1と2が継続的に関係を持っているという可能性です。この絵で両者の間に矢印が描かれていますが、これは主人格を介したものではありません。ここは空想のレベルにとどまるのですが、両者の人格のかかわり、特にいじめや虐待については、現在進行形で行われているという可能性があるならば、この攻撃者との同一化のプロセスによりトラウマは決して過去のものとはならないという可能性を示しているのだろうと考えます。
ただしこの内的なプロセスとしての虐待は、この黒幕人格がいわば休眠状態に入った時にそこで進行が止まるという可能性があります。その意味では以下に黒幕さんを扱うかというテーマは極めて臨床上大きな意味を持つと考えられるでしょう。
   
以上黒幕人格が脳で出来上がるプロセスについて、少し詳しく解説をしてみました。

Freud, A. (1936) The Ego and the Mechanisms of Defense, International Universities Press.(アンナ・フロイト著作集 2, 岩崎学術出版社、1998) 
Frankel , J (2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressor: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.
Ferenczi, S. (1933/1949). Confusion of tongues between the adult and the child. International Journal of Psychoanalysis, 30, 225-230.
 (フェレンツィ「おとなと子供の間の言葉の混乱」(「精神分析への最後の貢献フェレンツィ後期著作集 森茂起ほか訳 岩崎学術出版社、2007年 に所収」。


2019年5月20日月曜日

黒幕さんの生成過程 ④


以上のように自傷行為を黒幕人格によるものと考えた場合、DIDにおいて生じる自傷の様々な形を比較的わかりやすく理解することが出来るようになります。なぜ患者さんが知らないうちに自傷が行われるのか。それは主人格である人格Aが知らないうちに、非虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が被虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性をはらんでいます。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手が傷つける、という現象が起きたりします。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るわけです。

特にここで興味深いのは、主人格が知らないうちに、心のどこかでIWAの1と2が継続的に関係を持っているという可能性です。この絵で両者の間に矢印が描かれていますが、これは主人格を介したものではありません。ここは空想のレベルにとどまるのですが、両者の人格のかかわり、特にいじめや虐待については、現在進行形で行われているという可能性があるならば、この攻撃者との同一化のプロセスによりトラウマは決して過去のものとはならないという可能性を示しているのだろうと考えます。
ただしこの内的なプロセスとしての虐待は、この黒幕人格がいわば休眠状態に入った時にそこで進行が止まるという可能性があります。その意味ではいかに黒幕さんを扱うかというテーマは極めて臨床上大きな意味を持つと考えられるでしょう。

2019年5月19日日曜日

黒幕さんの生成過程 ③

同様の現象として、皆さんは憑依という現象を御存知でしょう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象です。日本では古くから狐に憑くという現象が知られてきました。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられますが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるでしょう。
現在では憑依現象は解離性同一性障害の一タイプとして分類されていますが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴です。
この図では攻撃者は赤いイガイガの図で描かれています。攻撃者の心の中には被害者(青で示してある)のイメージがあります。(図は省略)

ここで再び脳科学的な話になりますが、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しています。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味します。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのです。実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持っていませんが、解離の人の脳には、いくつかのいわば「空の」ネットワークが用意されているようです。そこにいろいろな心が住むことになるわけですが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになります。
もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではありません。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違います。でも先ほど述べたように、マネをしている、というレベルではありません。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使いましたが、ある意味ではまねをする、というのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれません。そしてそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということです。
すると不思議なことがおきます。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになります。この図に示したように、攻撃者の方はIWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージはIWA2として入り込みます。(図は省略。)

2019年5月18日土曜日

ベンジャミンと女性論 ⑤


そこで同一化の一つの在り方として、ミラリング機能を考えよう。このミラリングとは、コフートの概念とは違い、もう一つ別のミラー、つまりミラーニューロンにより作動する仕組みである。動物レベルでも存在するこの機能により、例えば親魚は卵の酸素不足を自分のことのように感じる力があるので、岩肌に産み付けられた卵たちにヒレでパタパタ新鮮な海水を送るのだ。またペンギンは、卵を自分の体のように感じるから、踏んづけたりしないのだろう。これって絶対あると思う。ペンギンが自分の手足を氷の角にぶつけて血だらけにならないのは、手足に神経が通っているからだ。自分の身体図式は手足の先まで伸びているから、自分を傷つけることはしない。それが卵の表面にまで伸びているはずだ。だから不用意に蹴飛ばして割ったりはしないのだ。それを証明するために実験室でペンギンを実験材料にしてみよう。脳波計を付けられたペンギンの目の前で、検者がそのペンギンが産み落とした卵を見せ、その表面をこつこつと叩くとしよう。するときっとそれを見ているペンギンの体性感覚野から発せられる信号が観察されるはずだ。あたかも自分の頭でもコツコツやられたように。これが動物の親と子の間に起き、当然人間の母親も赤ちゃんに対して同じ体験をする。このことを赤ちゃんも次第に母親に対してできるようになる。赤ちゃんにもミラーニューロンが備わっているからだ。すると赤ちゃんにとって母親は単なる対象ではなく、自分の一部であり、そして対象、という二重性を帯びるようになるはずだ。そしてここで赤ちゃんは二つの体験を持つことになる。単なる対象としての母親と、時には自分になってしまう対象としての母親。赤ちゃんは人と交わるのはこの不思議な二重性を帯びた対象と関わることだと知るわけだが、それはどのような形で成立するのか?
母親が微笑みかけ、赤ちゃんがそれに応えるというやり取りを考える。赤ん坊は母親が微笑むとき同時に、あるいは多少の時間差で起きること、つまりおっぱいや温もりを与えられたり、心地よく抱かれることから得られる快感により、赤ちゃんはその顔に自然に生まれるであろう微笑みをもって母親を見つける。まだおそらくは母親に対してミラーニューロンを作動させてはいないかもしれない。赤ちゃんはこれからそれを発達させるのだろう。だからたまたま振り上げた手が母親の顔に当たっても母親に酷いことをしたとは思わないだろう。しかし一瞬母親の顔が痛みで曇り、同じようなことが繰り返されるにつれて、それが赤ん坊のミラーニューロンを的確に刺激するようになり、母親の不快を自分の不快として体験し、それを通して赤ん坊は母親を同一化の対象としていく。こうして二重性が成立していくのだろう。ここでの赤ん坊の同一化は、しかしある種の制限を加えられていることがわかる。確かにミラーニューロンのおかげで母の快不快と自分の快不快は同期化して体験されるであろうが、それは必ずしも正確な形で母親の体験の現実を反映しているわけではないだろう。例えば子供は空腹な時に母親も空腹だと想像するかもしれないが、それは赤ん坊の方の読み過ぎである可能性がある。しかし赤ん坊はともかくもたとえ不正確でも母親を自分で予測可能な存在と仮定することで安心感を体験する可能性がある。こうして相手とのやり取りは、過剰な、それもかなり自己中心的な同一化によって成立するとは言えないだろうか。
ここで重要なのは、言葉で関わるということは必ず相手を分節化することなしには生じないということだ。「おはよう」と声をかける時でさえ、私たちは相手がこちらを無視したりしないことを前提として、ある意味では相手を安全な対象と決めつけて行う。それは一種のPSモードなのである。それは相手を対象化することなのだ。人とかかわる時には必ずこれが起きることになる。



2019年5月17日金曜日

黒幕さんの形成過程 ②


この同一化のプロセスは、実はきわめて不思議な現象だという事がわかるでしょう。一方では私たちは「自分は自分だ」という感覚を持っています。私の名前がAなら、私はAであり、目の前にいるのは父親であり、自分とは違う人間だという認識は当然あるはずです。ところが同時に私Aは父親に成り代わって彼の体験をしていることになります。そしてその父親が叱っている相手は、私自身なのです。何か頭がこんがらがってくるような、この通常ならあり得ない同一化が生じるのが解離です。
この同一化がいかに奇妙な事かを考えるためにもっと普通の同一化のケースを考えましょう。赤ちゃんが母親に同一化をするとします。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も何となく痛みを感じる、という具合にです。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうでしょう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となります。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が生じます。その際は自分は対象の位置に留まらなくてはなりません。つまり「~される」という体験です。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、「じっとしている」ことで、つまり受動的に体験されることです。おそらく他者がある能動性を発揮して自分に何かを行う時、自分が一時的に同一化を保留するのでしょう。そして受動モードにとどまることにはそれなりの意味があります。試しに自分で自分の頭を撫でてみてください。全然気持ちよくないでしょう。その際には小脳その他の経路を通して「自分が自分を触った時に得られるであろう感覚を差し引く」という操作が行われているそうです。だから自分で自分を抱きしめても少しも感激しないわけです。ただし侵害された、という感じもしないわけですが。もちろん自慰行為などの例外もあります。
ところがある特殊な事情では、このような心の働きが機能しなくなり、心はいわばバーチャルな意識や能動体 をつくることになります。それが別人格であり、その人格に触られると「触られた」という受動的な感覚が起きることもあります。実に不思議な現象ですが、それが先ほどの自分を叱る父親に対して同一化をするという例と同様なことになります。そしてそれが私の中の父親の人格の振る舞いになります。
その父親の視点からはおそらく私が外から見えています。実際にはいわば体外離脱体験のような、上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようです。なぜこのようなことが実際に可能かはわかりませんが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようです。いわば自分の中に自分の片割れができたような状態で、二人が相談しながら物事を体験しているという状態にもなるでしょうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるでしょう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るでしょう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになります。

2019年5月16日木曜日

AIと精神療法 ⑥


ここで石蔵文信氏の議論を発見した。(石蔵文信(2011)『夫源病- こんなアタシに誰がした -』(大阪大学出版会))
いわゆる「夫源病」の発案者だ。彼の議論は最近注目されているが、読む人によってはとんでもないと感じられる内容だ。私なりにサマリーをすると、要するに男性が自分のことばかり考えていて妻の話を聞けないことが妻の精神的なストレスとなっているという。ここまではいい。しかしそのためには聞いたフリをすればいい、そしてそのための「技術」として妻の話を鸚鵡返しし、時々「それは大変だったね」とか「ごくろうさん。ありがとう」などと付け加えれば、さらに効果的であるという。なんと相手を馬鹿にした議論だろう。でも私はどのような議論にも真実が含まれていると思う。それは人は相手が自分の言葉を繰り返すということで、分かってもらっているという「錯覚」を持ちやすいという事実だ。そしてこれは一時的にではあれ相手の気持ちをつかむ上で重要なかかわりなのである。そこで・・・・・
 皆さんの想像通りである。AIに相手の話の内容をごく短くまとめて伝えるようなソフトを与えるのだ。これは相手の話を理解して応答するという高度の技術を持たなくていい。そこで仮想上の夫のAIロボット。ネーミングはもう決まったようなものだろう。「オットボット」。あるいは「オットロイド」。

こーぺい君でもいい?

 皆さんは皇帝ペンギンならぬ「肯定ペンギンのあかちゃん」の話をご存知だろう。私はこれを聞いた時、ロボットのことかと思っていた。AIを積んだ小さなロボットが、日常のちょっとしたことを褒めて(肯定して)くれる。
ところがこれはLINEスタンプだという。「ちゃんと起きてえらい!」「生きててえらい・・・!」といった、誰もが当たり前だと思っていることをあえて褒めてくれるという。もうこれでもいいか。