2021年4月30日金曜日

離隔 2

 久しぶりに「離隔」に手が回った。ところでDSM-5の big book にはさらに詳しく書いてある。これも抑えなくては。それが以下の通り。(ちなみにDSMではdetachment を「離脱」と訳している。今後どうなるのだろう。

離脱 (対外向)

社会情動的体験を回避することであり,(日常的な友人との交流から親密な関係にわたる)対人的相互関係からの引きこもりと,制限された感情体験および表出,とりわけ快感を感じる能力が限定されていることの双方が含まれている。

引きこもり 他者と一緒にいるよりも1人でいることを好むこと:社会的状況で寡黙であること:社会的接触および活動を回避すること:社会的接触を自分から持とうとしないこと。

親密さの回避 親密な関係または恋愛関係,対人的な愛着,および親密な性的関係を回避すること。

快感消失 anhedonia 日常の体験を楽しめず、それに参加せず、またはそれに対しての気力がないこと;物事に喜びを感じ興味をもつ能力がないこと。

抑うつ性 落ち込んでいる,惨めであるおよび/または絶望的であるという感情:そのような気分から回復することの困難さ 将来に対する悲観:常に感じられる pervasive 羞恥心と罪責感,またはそのいずれか、低い自尊心、自殺念慮および自殺行動。

制限された感情  情動を引き起こす状況にほとんど反応しないこと;情動体験および表出が収縮していること;普通は人を引きつける状況に対する無関心さ,および,よそよそしさ。

疑い深さ 対人的な悪意または危害の徴候を予期すること,および,過敏であること: 他者の誠実性および忠実性を疑うこと:他者にいじめられている、利用されている、および/または迫害されているという感情。

なんかお近づきになりたくない人、という感じがする。


 

2021年4月29日木曜日

解離性健忘 書き直し 4

4500字 → 6000字に向けて肉付けしていく。 

診断に必須の特徴:

重要な自伝的記憶、特に最近の外傷的ないしはストレスを伴う出来事の健忘(それらを思い出す能力の喪失)がみられ、それは通常の物忘れや疲労などによる集中困難などでは説明できない。記憶の喪失は、個人生活、家族生活、社会生活、学業、職業あるいは他の重要な機能領域において生じ、時には深刻な機能障害をもたらす。同様の健忘はその他の状態、すなわち中枢神経系に作用する物質(アルコールやその他の薬物)の使用、神経系の器質的な疾患(側頭葉てんかん、脳腫瘍、脳炎、頭部外傷など)でも生じうるが、それらは除外される。

解離性遁走の有無:

解離性健忘では、空間的な移動を伴う解離性遁走(自分自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日~数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪すること)を伴う場合がある。

 診断的特徴

解離性健忘においては解離の機制の関与が前提であり、記憶内容が心のどこかに隔離され保存されていることになる。すなわち健忘の対象となる出来事の最中に別の人格状態になり、そこで記憶されたことを、もとの人格状態に戻った際に想起できないという形をとる。ただし通常の人格状態で記憶されたことを、後に別の人格状態になった際に想起できないということもあり、その場合は解離性同一性障害との鑑別が重要となる。これらの記憶内容は、催眠その他により一部が想起可能となる可能性がある。しかし当人がその出来事の際に解離性のトランス状態や昏迷状態にあり、記銘力そのものが低下している場合には、その出来事の想起はそれだけ損なわれることになる。

一般的に情緒が強く動かされる体験はより強く記銘される傾向にあるが、トラウマやストレスにより強く偏桃核が刺激された際には記銘の際に重要な役割を果たす海馬が強く抑制されることで、自伝的記憶部分については記銘自体が損なわれることにもなりうる。するとその出来事のうち情緒的な部分のみが心に刻印され、自伝的な部分を欠いた、いわゆるトラウマ記憶の生成が起きる。するとその記憶はそれに関するエピソードとしては想起できないものの、感覚的、情緒的部分のみが断片化して突然フラッシュバックや悪夢等の形でよみがえることが知られている。

 解離性健忘に関連するストレスとしては、様々なものが考えられる。例えば幼児虐待,夫婦間トラブル, 職場でのパワーハラスメント、性的トラブル,法律的問題,経済的破綻などである。健忘とこれらのストレス因との関連について、本人の認識が十分でない場合もあり、また健忘の事実が気づかれない場合もある。解離性健忘は限局性健忘、選択的健忘、全般性健忘、系統的健忘に分類される。

2021年4月28日水曜日

母子関係の2タイプ 7

統合と「日本型」の提示

もし精神分析と愛着理論に共通項があるとしたら、それは母親からの子供への関心、という事になる。この際西洋か日本かという議論にとらわれることなく、この問題を扱うべきではないか。そのためにまずは二つのプロトタイプを示す。

1. 甘えに基づいた甘やかしタイプ(母親の子供への強い情緒的な関心emotional attention により代表される)“(Amaé-based) Indulging type” characterized by mother’s consistent emotional attention to the child.

2. 西欧タイプ (母親の子供への「それほど強くないnot so strong」情緒的な関心により代表される)“Western type”, characterized by mother’s “not so strong” emotional attention to the child.

どうしてこのような二つのタイプが異なる文化の間で生まれたかはわからない。しかしこれらがどの様に子供の情緒的な成長に絡むかを考えることは価値があるだろう。
まずタイプ1では、娘は過剰ともいえる情緒的な関心の中で育ち、どちらかと言えば「もうたくさん」な状態でそこから逃げ出す形で家を出るかもしれない。父親は娘を救い出すことがないであろう。なぜなら彼は通常は他のことで手いっぱいだからである。うまく行ったケースでは、娘は母親から十分、あるいは余計にもらったと感じて、自分の人生を歩むであろう。 一言で言えば、娘は母親の愛情について「もう沢山」となるのである。しかし私はこのタイプのケアの問題点や危険性についても述べておきたい。私の女性患者の多くは母親に対して極度の怒りを向けているのだ。彼女たちは自分たちが母親に価値観や願望を一方的に押し付けてきたと感じる。それを解決するのは和解によるという事はむしろまれで、関係性を絶ってしまうことが必要である場合もある。
 タイプ2に関しては、アメリカでしばしば体験したが、母親のケアがそれほど強くないとしてもそれのみで問題とはもちろん言えない。母親は母親としての役割を有し、女性として、社会人として、妻としての生活を送ることに何ら問題はないだろう。しかししばしば娘は情緒的なネグレクトの状態に置かれる可能性がより強いように思われる。何か人生に不幸が生じても、実家に帰るという事をあまり考えないのは、両親はすでに子育て後の人生を歩み始めていていて、子育ての延長をしようとは思わないからである。遠方の州でいる場所がなくなって返ってきた子供に対して、貴方のための寝室が余っていないから引き取れないと言われたという。病院の空きベッドがないからお断り、というわけでもあるまいし、と思ったことを覚えている。

ケアの先取り、おもてなしとは何か?

ここから先はもう少し自由に考えてみよう。もしここに掲げた弐つのプロトタイプが子育ての際に二者択一的になることなく働くとしたらどうだろう。それは実は多くの母親が無意識的に行っていることであるだろう。母親は子供に注意を向ける。子供のことをわがことのように思い、そのニーズを先取りして察知し、それを与えようとするだろう。しかしまた母親は社会人としての関心と責任を持ち、母親としての役割以外のものにもその注意を向ける。その度合いは恐らく程よく娘に体験されるに違いない。母親は子供が小さい時は正常な母親の没頭maternal preoccupation (Winnicott)の時期に遭ってもそのうちその関心は限定されたものになる。そしてそれは子供の脱錯覚disillusionment に同期するのである。

さてこの問題を「日本型」の問題として提示するとしたら、やはりRothbaum の敏感さsensitivity との関連で、optimal sensitivity 最適な敏感さという概念としてまとめることが出来るのではないか。そういうつもりで彼の最近(と言っても2006年)の論文のアブストラクトを読んでみる。

Rothbaum,F., Nagaoka, R, Ponte, IC(2006)Caregiver Sensitivity in Cultural Context: Japanese and U.S. Teachers' Beliefs About Anticipating and Responding to Children's Needs. Journal of Research in Childhood Education. 21;23-40.

Abstract

Western investigators assume that caregiver sensitivity takes similar forms and has similar outcomes in all cultures. However, cultural research suggests that sensitivity in the West has more to do with responsiveness to children's explicit expression of need, and that sensitivity in non-Western communities has more to do with anticipation of children's needs and receptivity to subtle and nonverbal cues. To date, no studies have directly assessed these differences. The present study examines interviews of 20 preschool teachers, 9 from the United States and 11 from Japan. Teachers were presented with scenarios and asked whether it is better to anticipate or respond to children's needs. Findings support the hypothesis that U.S. teachers prefer to respond to explicit expressions of need and that Japanese teachers prefer to anticipate children's needs. U.S. teachers also emphasize that children should learn to depend on themselves, that children are responsible for clarifying their own needs, and that children's self-expression should be encouraged. By contrast, Japanese teachers emphasize that children should learn to depend on their teachers, that teachers are responsible for clarifying children's needs, and that teachers must make assumptions about children's needs. These findings have implications for helping Japanese children and their parents adapt to the U.S. preschool setting.

要するに西洋では子供の明示的なニーズの要求に対する敏感さであるのに対し、日本では子供のニーズの非言語的で微妙な表現を予期anticipate することの敏感さであるという違いがある。この違いをつかむための実証的なデータは今のところない。そこで学童前の先生を米国9人、二本11人を集めて実験を行った。すると米国の先生は明示的なニーズにこたえるのに対し、日本の先生は、子供のニーズを予期する方を選んだ。そしてアメリカの子は自らに依存し、自分たちのニーズを明らかにすることを教えられる一方では、日本の子供は先生に依存することを教わる一方で、先生は子供のニーズを明らかにし、それを予期する必要があるという違いが明らかになったという。

2021年4月27日火曜日

どの様に伝えるか? 解離性障害 4 

 2.心理教育で何を伝えるか?

 より適確な情報に導く

 

解離性障害に関する知識や臨床経験には、臨床家の間でも大きなばらつきが見られる。特に解離性障害が一般に注目され始めた1970年代以前に基礎的な精神医学のトレーニングを終えた臨床家の中には、解離性障害という診断を下したり、その病態を念頭に症例を理解したりすること自体に抵抗を示す場合が多い。いや、抵抗を示すというよりはその習慣がない、という方が近いかもしれない。なぜなら精神医学の教科書の中で、解離ヒステリー、転換ヒステリーという項目は圧倒的に少ないページ数しか与えられていなかったからである。そして幻聴などの症状を第一に統合失調症に関連させて理解するという教育が根付いていたわけだから、それ以外の診断は発想として持てないという場合も少なくない。

解離性障害がもっぱら「ヒステリー」と呼ばれたのは1980年代までであったが、それに伴う偏見は一部の臨床家の間はいまだに健在であるという驚くべき事実がある。以上の事情から精神科を受診することがかえって誤診を招くという矛盾した事態も生じ得るのである。他方患者やその家族は、精神医学的な常識や専門知識からは距離を置く分だけ、解離性障害を受け入れ、理解する素地は大きい。しかし彼らが情報源とする解離性障害に関する噂や口コミ、ネット関連の情報の質は玉石混交であり、中には明らかな誤謬を含むものもある。

また最近ではインターネット関連の情報量が飛躍的に増大し、個人的に治療を経験した当事者たちも情報提供に貢献しているが、彼らの経験談がそのまま他の当事者たちに当てはまるとは限らない。特に個人的な経験に基づくアドバイスは、「私は治療者AからのBというアプローチや、Cという薬物が有効であった。きっとあなたの場合にもABCが有効であるに違いない」という風に、一例だけの経験を過剰に一般化する傾向がある。その結果として他の患者が受けている治療を否定したり、自分の経験した治療法に強引に誘いこんだりするという危険性も少なからずある。ところが実際には臨床上しばしば議論の対象となる問題、たとえば症状の起因として外傷体験を積極的に取り上げるか否か、DIDの際に交代人格をメタファーとして捉えるか否か、いわゆるマッピングは行うべきか否か、などは、いずれもその時の治療状況に依存し、全か無かという考え方では答の見つからない問題なのである。

解離性障害を扱う治療者は、これらの問題を適切に処理しつつ正確な知識を患者に提供する義務があるが、情報には口頭で伝えるものと同時に、書物を推薦することにより間接的に提供されるものもある。

ちなみにいささか我田引水になるが、筆者の主催する研究会では、解離性障害についての患者さんおよび治療者の理解を深めていただくための書物を刊行している(岡野心理療法研究会)。もともと心理教育的な用途をめざして執筆したものであるから、ここで本書を紹介することもあながち常識はずれとはいえないであろう。

 

診断的な理解を伝える

 

精神医学的な診断名の告知については、その是非も含めて多く論じられるべきである。統合失調症などの例に見られるように、誤解を生む可能性がより少ない呼称が検討され、採用されるようになりつつある。解離性障害においても診断名ないしは症状名を患者自身に伝えることは、治療における極めて重要なステップとなることが多い。その中でもDIDは、従来の「多重人格障害 multiple personality disorder」という診断名に代わって1994 年発刊のDSM-IV 以後用いられるようになり、従来の呼称に伴う問題はある程度改善されたといわれる。しかしそれを告げることが当事者に与えるインパクトは依然として大きいために、治療者はそれに対して慎重でなくてはならない。

筆者の経験では、DIDの典型的な症状と患者のプロフィールが一致していて、他の人格の存在を患者自身が感じ取っている場合は、その診断を告げることによる重大な被害は生じていない。それは例えば統合失調症という診断に伴い本人や家族が体験する失望や無力感とは大きく異なる点である。

その理由の一つには、DIDという診断を知ることで、患者にはこれまで自分が疑問をいだき、悩んでいた問題についてひとつの回答が与えられるということが挙げられるだろう。またDIDという疾患自体が比較的良好な予後をしめすことが多いという事情も関係しているものと思われる。

ただし患者の中には、自分が普段とはまったく異なるアイデンティティを備えることを自覚していない場合もあり、その場合にはその直面化に大きな衝撃を受けることも稀ではない。しかしその場合もむしろ解離性障害に関する適切な心理教育はそれだけ急務であると考えられる。DIDの患者の体験の多くは、一般常識を裏切るものである。彼らの中には他人にそれを話すことで驚かれ、あるいは単に嘘を語っていると誤解されて、傷つく人も多い。そして自分は正体不明の病魔に取り付かれていると誤解することもある。そのような事態を回避するためにも、適切な心理教育は必要不可欠と言える。治療者は患者の体験の多くがDIDに比較的定型的な症状の現れであることを説明するべきであり、その際家族にも同様の理解を求めることは治療の決め手となる場合がある。

 

診断は解離症状を悪化させないか

 

解離性障害、特にDIDの診断の告知に関連して非常に頻繁に持たれる懸念がある。それは解離性障害と診断されることが、患者にとって新たなアイデンティティになり、結局その病理の悪化につながったりするのではないか、というものである。たしかに解離症状をそれと認め、治療対象とみなすことは、その障害をさらに悪化させ、固定化するという考えを持っている臨床家は少なくない。「そもそも解離性障害、ましてはDIDなど存在しない」という立場を取る臨床家に治療を受ける患者たちにとっては、この問題はさらに現実的なものとなる。これらの臨床家の懸念は、具体的には次の一転に集約されるであろう。「多重人格が存在する、ということを治療者が認めた場合、それにともない次々と人格の交代が生じてしまうのではないか?」

この懸念を持つ場合は、交代人格を、本人とは別人として扱う、あるいはDIDの症例に存在する交代人格を数え上げる作業(いわゆる「マッピング」)などは、まさに症状を「悪化」させるものとして捉えられるであろう。

このように解離性障害の診断や治療が悪化につながるという考え方に対する心理教育については、次のような考え方を示すことが望まれる。

 

「そのような懸念は恐らく一部の患者については当てはまりますが、大部分のケースにおいては現実的な障害とはならないと考えていいでしょう。解離症状はそれが生じることが許されることで、表面上は一時的に促進される可能性は確かにあります。解離された部分の多くは、自ら姿を現そうとする圧力を備えています。その場合治療者はそれにブレーキをかける必要も生じるかも知れません。例えば仕事中に子供の人格が出てきては困る場合などです。しかしむしろ抑えられていた解離が治療場面などである程度解放されることで、それ以外ではむしろ出にくくなることも考えられるのです。」

 

実際DIDにおいては、ある交代人格の解放及び出現が次々と別の部分の解放の連鎖を生むということがある。その最初のきっかけは、話を聞いてくれる恋人の存在、治療者との関係の深まり、あるいは再外傷体験などである。これは、そもそも解離している部分は自己表現を許されなかったために、存続してきたという事情を思えば、治療的な進展を意味すると考えるべきであろう。そしてそれは患者が抑圧的な環境から逃れ、保護的な環境で生活出来るようになれば、いずれ起きてくるであろうプロセスなのである。

ただしもちろん一時的な解離症状の頻発は、その時の生活状況にとっては不都合である場合も少なくない。毎日仕事を持っている患者にとっては、そのために仕事に集中できずに自宅療養を必要とすることもあり、またパートナーとの間で頻繁に「発作」を起こしてその介護の限界にまで追い詰めることもある。そこでこのプロセスが安全にかつ適応的に生じるためには、そこに治療的な介入が必要となるのであるわけである。

再び私の火山の比喩を用いたい。未治療の解離性の患者は、地下にかなりのマグマを溜めた火山のような状態といえる。それは放置されたり、ストレスに状況におかれたりした場合にはいずれ噴火する可能性が高い。そこでマグマのエネルギーの一部を何らかの形で逃がす試みを行なうことで、その後火山活動は鎮まるかもしれない。しかしそのような操作がさらに大きな噴火を誘発してしまう場合は、その操作は結果的に不適切であったということにもなりかねないだろう。このように解離を誘発する際には、治療的、非治療的な両側面を注意深く考慮しなくてはならない。

 

何が原因なのか?

 

身体疾患や精神疾患の際に、患者や家族はしばしばその「原因」を問う。それは解離性障害についても同様である。その際両親、特に母親は自分達の育て方に問題があったのではないかという懸念持つことが非常に多い。また様々な外傷的な出来事、例えば学校でのいじめ、怪我や外科的手術の体験、親族の死去その他についても解離の原因として問われる可能性がある。さらには解離性障害の病因として欧米の識者によりしばしば指摘されている身体的、性的外傷が幼児期にあったのか否かについて問われることもある。

心理教育の立場からは、「何が原因なのか」という問いかけに対しては、以下のような一般的なものが適当と考える。

 

「一般的に言えば、遺伝負因や様々な種類のストレス体験が、精神疾患にかかるリスクを押し上げています。それは解離性障害についても同じです。特にDIDなどの場合は、性的身体的虐待を含めた幼少時のストレス体験が発症に深く関係しているようです。さらには生まれつき解離傾向の強い人についても同様のことが言えるでしょう。それに比べて子育ての仕方は、それが外傷的なストレスとしての要素を特に含まない限りは、解離性障害も含めた本人の精神疾患には、影響を与えるとしても間接的で偶発的な形でしかないと考えられます。」

もちろん親の子育ての仕方は子供にさまざまな影響を与える。たとえば親の職業や趣味、親が信じている宗教や考え方などが子供に受け継がれる可能性は高いであろう。しかし子供は親のある部分に同一化して受け継いでも、別の部分には同一化せず、むしろまったく別の方向性を選択する可能性がある。だから子育ての仕方がどのような精神病理を形成するかという問題に関しては、上述のような考え方がおおむね当てはまるのである。このようにして「子育ての仕方」に自信が持てず、厳しく自己反省をする傾向のある親御さんにはひとまず安心していただくことも必要であろう。

しかしそうは言っても子供の人格状態にある患者の側から、親の養育の不適切さについての激しい糾弾が収まらない場合もある。親としては、その主張が妥当だと思う限りは、謝罪ないし説明をし、患者の出方を待つことも必要かもしれない。ただし糾弾と謝罪が延々と続く先にはあまり希望は見出せないであろう。

 

いつ、どのようにして治っていくのか?統合とはどのようなことなのか?

 

これは解離性障害、特にDID に関する最大の問題であり、家族や本人が一番知りたいことのひとつであろう。しかしこれは同時に非常に難しい問題でもあるということを認識すべきであろう。

これまでの臨床経験の蓄積から私たちがおおむね理解しているのは、次のような点である。まずは解離現象は精神病症状と異なり、その人の現実検討や社会適応能力を長期にわたって著しく損なうというケースは多くはない。筆者の自験例のフォローアップによれば、一部の患者は1,2年の経過で人格の交代現象はほぼ消失すること、またかなりの割合の患者において人格の交代の頻度が顕著に低下する傾向にあること、そして残りの患者の殆どにおいて、治療の初期段階を除いては症状の悪化を見せていない。すなわちDIDの長期的な予後として言えるのは、DIDのかなりの部分があまり問題が長引くことなく解消していくという傾向にあるということである。

ただし以上は比較的安定した人間関係や生活環境を保て、またうつ病などの併存症を持たない場合、という条件がある。逆に加害的な他者とのストレスフルな同居が長引いたり、慢性のPTSD症状が継続してフラッシュバックが日常的に頻繁に生じているような場合では、解離症状も遷延する傾向にある。

 

最後に

 

解離性障害に関する心理教育として留意すべき点について、いくつかの項目に分けて述べた。もちろん心理教育として患者ないしは家族に伝えるべき事柄はここで述べたことには限らない。ケース毎に、適宜必要に応じて情報を提供する重要であろう。解離のケースはその経過の上で様々なコースをたどるために、きめ細かい柔軟な対応が不可欠であることは言うまでもない。時には約束事や契約以外の対応も必要となり、それも含めた治療構造という見方が必要であろう。またそれに応じて治療者が外部のスーパービジョンを必要とすることにもなろう。

 

 

文献)

American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 4th ed. Text Revision. Washington, DC, APA, 2000. 高橋 三郎 (翻訳), 染矢 俊幸 (翻訳), 大野 (翻訳) DSMIVTR 精神疾患の診断・統計マニュアル』 医学書院、2003年。

Mohmad, AH., Gadour, MO., Omer, FY., et al.: Pseudoepilepsy among adult Sudanese epileptic patients. Scientific Research and Essays Vol. 5(17), pp. 2603–2607, 2010

岡野憲一郎心理療法研究会:「わかりやすい解離性障害入門」星和書店 2010年。

Weiss, BL: Many Lives, Many Masters: The True Story of a Prominent Psychiatrist, His Young Patient, and the Past-Life Therapy That Changed Both Their Lives. Fireside, 1988. (ブライアン・L. ワイス (),, 山川 紘矢 (翻訳), 山川 亜希子 (翻訳) 前世療法米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘. PHP文庫、PHP研究所 1996.)

World Health Organization: ICD-10 Classification of Mental and behavioral disorders: clinical Descriptions and Diagnostic Guidelines. WHO, Geneva, 1992 道雄、中根允文、小見山実 (監訳) ICD10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン、医学書院、1993年。

 

2021年4月26日月曜日

どのように伝えるか? 解離性障害 3

 ところで、このテーマで同様のことを昔書いていることを思い出した。以前「精神分析新時代」(2018)という本に所収したこの文章、実はこのテーマにぴったりだった。もちろんコピペするわけにはいかないが、要約して掲載してみよう。

  

前田正治、金吉晴偏:PTSDの伝え方 ― トラウマ臨床と心理教育 誠信書房、2012年 に所収


解離治療における心理教育

 

. なぜ心理教育が重要なのか ― 診断および治療方針を惑わす要素

 

解離性障害が含みうる症状が幅広いために、それを全体として把握することが難しいという事情は、医療の専門家にとっても同様である。実際に神経内科や一般内科において明確な診断に至らないことがきっかけとなり、最終的に解離性の病理が同定されるケースも多い。

解離性障害を専門に扱うべき精神科の領域においてさえも、この障害は十分に認識されてこなかった。現在私たちが解離性障害として理解している病態が古くから存在していたことは疑いない。しかしそれらがヒステリーの名と共に認知されていた時代は著しい偏見や誤解の対象とされてきた。

20世紀になり、統合失調症が大きく脚光を浴びるようになると、解離性障害はその存在自体が過小評価されたり、精神病の一種と混同されたりするようになった。昨今の「解離ブーム」により解離性障害に新たに光が当てられ始めているが、その診断はしばしば不正確に下され、統合失調症などの精神病と誤診されることも少なくない。

なお我が国は国際トラウマ解離学会の日本支部が機能し始めたが、その啓蒙、教育活動の範囲はまだ限られている。

 

神経学的な疾患を示唆する身体症状をともなうこと

 

解離性の症状の中でも転換症状は、しばしば精神科医と神経内科医の両方にとって混乱のもととなっている。その一つの典型例は癲癇である。脳波検査で異常波を示す患者も転換症状としての発作、すなわち偽性癲癇を来たすこともまれではない。また偽性癲癇の患者の50%は真正の癲癇を伴うという報告もある(Mohmad, et al. 2010)。

 

幻聴などの精神病様の現われ方をすること

 

解離性障害のもう一つの問題は、それがしばしば精神病様の症状を伴うために、診断を下す立場の精神科医の目を狂わす可能性が高いということである。DIDのケースでは、時にはかなり声高に他の人格との会話を行う場合がある。その際は傍目には統合失調症にしばしば見られる独語ないしは幻聴との応答と見受けられることが多い。そしてそのような様子を観察した精神科医が、その声の由来が幼少時にまでさかのぼるかどうかにまで質問を及ぼさずに、早計な診断を下してしまうことはまれではない。患者の病歴で精神科への緊急入院の措置がとられたり、医師の診察後に大量の薬物が処方されていたりする際は、そのような誤診がなされた可能性は濃厚となる。

結局DIDの場合には、それが統合失調症と混同されることを積極的に回避するのは多くの場合患者自身なのである。患者の一部は、最初は幻聴を誰でも体験している自然な現象であると思い込み、それを他人に話すことに抵抗を覚えない。しかし次第に多くの人がそれに違和感を持っているらしいことに気づき、また統合失調症であるとの誤解を招きやすいことも知り、それらの幻聴の存在を隠すようになる一方では、解離性障害の治療経験を持つ治療者を、著作やネット情報を頼りにして自ら探し出すという場合も少なくない。


詐病のような振る舞いをすること

 

解離性障害のもう一つの特徴は、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。そしてそのために詐病扱いをされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。ある患者は診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から主人格に戻った。その変化が瞬間的に見られたために、それを観察していた看護師から、患者がそれまでは幼児人格を装っていたのではないかと疑われた。一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人には様々な人格を見せる一方で、それ以外の場面では瞬時にそれらの人格の姿を消してしまうという様子はしばしば観察され、それが上記のような誤解を生むものと考えられる。

 

病気の説明を治療者側もうまく出来ないこと

 

臨床家は心理教育を行う際に、精神医学的な疾患概念について、たとえ話や比喩を用いることが多い。例えばうつ病であれば「ストレスによる心の疲れ」とか「過労による体調不良」、「精神的な疲労」などの表現が、漠然とうつ病の姿を描き出す。統合失調症やその他の精神病状態の場合は、「非現実的な思考や知覚を強く信じ込み、独自の世界にとらわれてしまった状態」などと表現できるだろう。マスコミなどで「~(著名人の名前)は時々不可解なふるまいがあったが、とうとうコワれてしまった」などという表現を見かけるが、これも一般大衆から見て直感的にその状態をつかむことの助けとなる。また神経症一般については、「気の病」「神経質」「心身症」などの表現がなされ、多くの人が自分の日常心性をそれに重ねることが多い。

ところが解離性障害の場合、それに該当するものがあまり考えられない。しばしば用いられる「知覚や思考や行動やアイデンティティの統合が失われた状態」(ICD, DSM American Psychiatric Association, 1992)の定義)という説明も、一見わかるようで今ひとつ説得力に欠けるようにも思える。それに加えてDIDのように複数の人格が一人の中に存在するという現象は、それ自体が常識を超えていて荒唐無稽に聞こえてしまう恐れがある。そのことが解離性障害を理解し、説明教育を行う上での大きな問題となりうる。

  

民間療法とのかかわりから生まれる誤解

 

解離性障害は一般の精神科で診断や治療の対象となる以外にも、民間機関における「治療」やヒーリングの対象となることが多い。とくにDIDの場合、異なる人格の存在が一種の憑依現象や悪霊の仕業とみなされ、家族が除霊、浄霊ないし呪術的な施術へとつなげる傾向にもある。時にはそれらの機関を訪れることが精神科への受診に優先されることも少なくない。このことは一見時代錯誤的に思えるかもしれないが、現代医学が進んだ私達の社会には、今なお数多くの宗教やその信者達が存在する。そして彼らが宗教的な救済や癒しを求めるプロセスで、それらと連動して存在するスピリチュアルな「治療」に踏み込むことは決してまれではない。

もちろん霊的な治療が無効であると決め付けることはできない。解離性障害の治療とは異なるが、イタコの口寄せの、病死遺族に対する治療効果に関する精神医学的な学術発表もある(2010814日、 読売新聞)。しかし時には営利目的の民間療法が宗教的、ないしは科学的な体裁をまとったヒーリングの手段として患者を待ち受けている場合も少なくないのである。

他方で催眠療法はそれなりの歴史を持ち、解離性障害を治療の対象のひとつとしているが、その手法の中には上述の霊的な療法と紛らわしいものも少なくない。特にいわゆる退行催眠や前世療法 (Weiss,1988) については、それが霊的なヒーリングと混同されるべきではないという警告は、催眠療法家の一部からも聞かれるのである。

2021年4月25日日曜日

解離性健忘 書き直し 3

 以下が4500字のもと原稿。これを6000字まで膨らませて完成となる。どこかにコピペ部分が残っているかもしれない。

解離性健忘

診断に必須の特徴:

重要な自伝的記憶、特に最近の外傷的ないしはストレスを伴う出来事の健忘(それらを思い出す能力の喪失)がみられ、それは通常の物忘れでは説明できない。記憶の喪失は、個人生活、家族生活、社会生活、学業、職業あるいは他の重要な機能領域において、有意な機能障害をもたらす。同様の健忘はその他の状態、すなわち中枢神経系に作用する物質(アルコールやその他の薬物)による作用、神経系の器質的な疾患(側頭葉てんかん、脳腫瘍、脳炎、頭部外傷など)でも生じうるが、それらは除外する。

解離性遁走の有無:

解離性健忘では、解離性遁走(自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日ないしは数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪すること)を伴う場合がある。

 診断的特徴

解離性健忘においては解離の機制の関与が前提であり、記憶内容が心のどこかに隔離され保存されていることになる。ただし出来事の最中に解離性のトランス状態や昏迷状態にあり、記銘自体が不十分に行われる場合には、その出来事の想起はそれだけ損なわれる。また記銘の際に海馬が強く抑制されることで、自伝的記憶部分については記銘自体が損なわれることにもなりうる。するとその出来事のうち情緒的な部分のみが心に刻印され、自伝的な部分を欠いたいわゆるトラウマ記憶の生成が起きる。解離性健忘に関連するストレスとしては、様々なものが考えられる。例えば幼児虐待,夫婦間トラブル, 職場でのパワーハラスメント、性的トラブル,法律的問題,経済的破綻などである。健忘とこれらのストレス因との関連について、本人の認識が十分でない場合もあり、また健忘の事実が気づかれない場合もある。解離性健忘は限局性健忘、選択的健忘、全般性健忘、系統的健忘に分類される。

分類

限局性健忘は,限定された期間に生じた出来事が思い出せないという、解離性健忘では最も一般的な形態である。通常は一つの外傷的な出来事が健忘の対象となるが、児童虐待や激しい戦闘体験、長期間の監禁のような場合にはそれが数力月または数年間の健忘を起こすことがある。

選択的健忘.においては,ある限定された期間の特定の状況や文脈で起きた事柄を想起できない。例えば職場でトラウマ的なかかわりを受けた上司のみを思い出せないとか、学校のクラブ活動でトラウマ体験があった場合、その頃の生活全般は想起できても、そのクラブ活動にかかわった顧問や仲間、あるいはその活動そのものを思い出せないということが生じる。

全般性健忘は自分の生活史に関する記憶の完全な欠落である。いわゆる全生活史健忘、あるいは解離性遁走と呼ばれる病態を包括する。通常その発症は突然であり、健忘の期間にも個人差はあるが通常は数時間から数日、時には数か月も及ぶことがある。我に返った時には自分についての個人史的な情報、時には名前さえも想起できないことがあり、当人は通常は困惑感を持つ。それ以降に回復する記憶にも個人差があり、時には発症の期間も含めた過去の記憶を回復しないままでその後の人生を送ることもある。その際はその期間に社会で起きたことも含めて想起できない。事例によっては発症時までの記憶を回復するが、発症(遁走)期間のことまで想起することはまれである。発症期間中は意識混濁のためにそもそも記銘されていない可能性すらある。ちなみに健忘の対象はエピソード記憶に限られ、スキルについては残存していることが多い。

解離性健忘をもつ人はしばしば,自分の記憶の問題に気づかない(または部分的にしか気づかない).多くの人,特に限局性健忘をもつ人は,記憶欠損の重大さを過小評価し,それを認めるよう促されると不安になることがある.系統的健忘の人は,ある特定領域の情報についての記憶(例:その人の家族や、特定の人物や、小児期の性的虐待に関するすべての記憶)を失う。持続性健忘では、新しい出来事が起こるたびに、それを忘れてしまう。

 有病率

「米国の地域研究での成人を対象とした小規模研究において,解離性健忘の12カ月有病率は18%(男性10%,女性2.6%)であつた。」← これはDSMに記載された有病率として引用させていただこう。というのも日本での統計はまだまだ不十分だからだ。

症状の発展と経過

全般性健忘はわが国では従来全生活史健忘とも呼ばれていた。その中でも臨床的に注意が喚起されるのが、従来解離性遁走と呼ばれていた全生活史健忘である。その発症は通常は急激であるため社会生活上の混乱を招くことが多い。典型的な例では仕事でのストレスを抱えていた青年~中年男性が通勤途中で行方が分からなくなり、しばらく遠隔地を放浪したり野宿をしたりして過ごす。数日~数ケ月後に警察に保護されたり自ら我に帰ったりして帰宅することになるが、その際自分に関する全情報を失っていることすらある。帰宅後も家族や親を認識できず、社会適応上の困難をきたすものの、記憶の喪失以外には精神症状はなく、徐々に社会適応を回復していく。過去に獲得した技能(パソコン、自転車、将棋など)や語彙などは保たれていることも多く、それが適応の回復に役立つことが少なくない。なお遁走していた時期の記憶が回復することは例外的と言える。症例はそれ以前に解離性の症状を特に持たなかったことも多く、別人格の存在も見られないことが多い。(ただしDIDにおいて特定の人格が一時期独立して生活を営んでいた場合も、その病態がこの全生活史健忘に類似することがある。)
 解離性遁走に見られる一見目的のない放浪がともなわない全生活史健忘もある。また短期間に見られる解離性健忘は臨床的に掬い上げられていない可能性もある。また一時的にストレス状況、例えば戦闘体験や監禁状態に置かれた際に生じた健忘は比較的短期間で回復することも少なくない。

疫学その他

「解離性健忘に先立って何らかのトラウマやストレス体験が生じていることが多い。戦闘、小児期の虐待、抑留などの単回の、ないしは複数回のトラウマが関与している可能性がある。解離傾向などの遺伝的な負因も関与している可能性がある。なお高度に抑圧的な社会では文化結合症候群などに結びついた解離性健忘に明確なトラウマが関与していない場合がある。」

鑑別診断

正常の健忘:軽度の想起困難や幼児期早期の出来事の想起の健忘は正常時に起きうる。しかしそれらの健忘の対象が重大な人生の出来事や、高い心的ストレスやトラウマに関することではない。

PTSD,ASD:これらにおいてはトラウマ的な出来事の記憶が断片的となったり健忘されたりする場合がある。その際フラッシュバックや鈍麻反応などの診断基準を満たす場合には、解離性健忘の診断はそれに付加される形となる。急性ストレス反応の症状もとストレス因となった出来事に対する一時的な健忘を含むことがある。これらの健忘は時間がたてば部分的に回復することもある。

 解離性同一性症(DID: DIDにおいても、部分的DIDにおいても、それを体験した人格がその後に背景に退くことにより、解離性健忘に類似した臨床像を呈することがあるただしその場合はその記憶を保持している明確な交代人格が存在することで解離性同一性症の診断が優先される。

 神経認知障害群: いわゆる認知症に伴う健忘の場合は、健忘はその他の神経学的な所見、すなわち認知,言語,感情,注意,および行動の障害の一部として生じる。埋め込まれている。解離性健忘では,記憶障害は本来自伝的情報についてであり,知的および認知的機能は特に障害されないことが特徴である。

 物質関連障害群: アルコールまたは他の物質・医薬品による度重なる中毒という状況において,“ブラックアウト"のエピソード,すなわちその人が記憶を失う期間があるかもしれない。

頭部外傷後の健忘: 頭部外傷により健忘が生じることがある。その特徴としては,意識消失,失見当識,および錯乱,等が見られることである。さらに重度の場合には,神経学的徴候(:神経画像検査における異常所見,新たな発作の発症または既存の発作性疾患の著しい悪化や視野狭窄,無嗅覚症)が含まれる。

てんかん: てんかんの人は,発作中,または発作後に引き続く健忘に伴う形で、無目的の放浪などの複雑な行動を示すことがある。解離性とん走の場合はより目標指向的で,数日間~数か月間続くことがある。

解離性健忘の治療

トラウマの治療一般に関しては、Hermannのトラウマからの回復の3段階という概念が参考になる。それらは①安全や安定の確立,②外傷記憶の想起とその消化,③ 再結合とリハビリテーションである。解離性健忘の治療もおおむねこの路線に沿うことができる。
1段階 :安全や安定の確立 解離状態にみられる不安や恐怖を和らげ, 安心感や安定感をもたらすことが中心となる段階.まずは生活環境を安全なものとする. ケースによってはこのような「居場所」の確保が発症とともに治療において も重要な要素となっている.
2段階 :外傷記憶の想起とその消化  自らの外傷記憶に向き合い,それにまつわる不安や恐怖を和らげ,それを克服するこが中心となる段階。第1段階がある程度達成されれば,次に過去の出来事を消化する作業が必要になる.症候的にも安定しないような状態や治療者 との信頼関係がみられないような状況では,この段階に着手することは困難である。それがある程度克服できた段階で徐々に過去の出来事について周辺領域から話題にすることもよいであろう。ただし解離性健忘の場合、この想起が不可能な場合が多く、治療者や家族はそれを強いるべきではない。しかし過去の生活歴が当人の目に触れないようことさら周囲が気を遣うことも治療の妨げとなる可能性がある。あくまでも本人の想起したいという意欲に沿う形で周囲が協力するのがいいであろう。

個人年表づくり

当人の社会復帰に応じて、当人の過去の生活歴の中で知っておいたほうが適応上好ましい出来事は、知識として獲得したほうがいい場合がある。本人の通った学校やそこでできた友達、当時はやっていた事柄、社会状況などについては、当人が抵抗を示さない限りにおいてはリストアップし、年表を作ることも助けとなる。またその過程で自然と想起される事柄もあるであろう。ただしその際に不可抗力的に過去のトラウマ的な出来事が想起された際はそれに応じた治療的な介入も必要となろう。

3段階:再結合とリハビリテーション 日常生活における不安や恐怖を克服し,常生活に積極的に関与する段階.この段階はこれまで不安や恐怖によって避けていた常生活の範囲を次第に広げ,様々なストレに対して うまく対処することができるようになる.全生活史健忘の場合、当人の社会的な能力は保たれていることが多く、特に過去に獲得して失われていないスキルや能力を活用して社会復帰につなげる努力はむしろ重要であろう。

2021年4月24日土曜日

どのように伝えるか? 解離性障害 2

  さて以上を前提にして書いていくわけであるが、臨床家が解離性障害について伝えようとしても、そもそも多くの臨床家がそれをする用意がないという現実がある。最近杉山登志郎先生の本を読んでいたら、次のような文章が出てきた。「一般の精神科診療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?)が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない。」(p.105)「発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療」

これは私が常日頃その可能性を考えては頭から消し去ろうとしている内容である。杉山先生は「ラジカルな良識派」であり、正しい、妥当と思えることなら歯に衣着せぬ言い方をなさる。だから、彼のいうことはおそらくかなりの信ぴょう性がある。すると問題は彼らはなぜ「解離性同一性障害(以下、DIDと表記)には取り合わない」のだろうか、ということだ。好意的な解釈をするならば、「DIDについてはそれについてむやみに症状を訊いたり説明したりすることが必ずしも治療的にならないから」であろう。しかし悲観的な解釈をするならば「一般の精神科医はDIDないしは解離性障害一般について理解も関心もない」ということになりはしないだろうか?とすると彼らは「患者に解離性障害についてわかりやすく説明する」レベルにはどれほど遠いことになるのだろう? そして彼らは患者の話を聞いて理解し、場合によっては説明してもらうという学習プロセスを経なくてはならないであろう。

そこで私の書く以下の内容は、少なくとも解離性障害についての一定の理解を持ち、少なくとも「取り合わない」という態度ではなく、その理解をときには患者から学びながら深めていくことに従事している臨床家に向けての文章であるという但し書きが必要である。

さてこの最後の表現は少しも誇張でないのは、解離症状は多くの私たちにとって実感の伴わない、場合によってはつかみどころのない症状であり、臨床家の多くは文献や患者自身の話から頭の中で再構成することでしか深めようがないということなのだ。

1.個々の交代人格は個別的な主観性を持っている

おそらく患者の個人的な体験として最も切実で、また多くの臨床家にとって理解に苦しむのがこの点であろう。DIDの方の多くの人格さんは、「私」という感覚を持ち、ほかの人格のことを他者として認識している。多くの臨床家はここで理解を放棄するか「ついていけなく」なる。「取り合わない」予備軍となるのだ。臨床家はこの主観性について心から共感をすることは難しいであろうが、それでも患者に説明することができる。「個々の人格さんは自分は自分という感覚を持っているのが普通です。ほかの人格さんもまた「自分は自分」と思っているのが普通なので、それぞれの利害がぶつかることもあるようです。」と説明できるだろう。ただこの基本的な理解に立ち、多くの患者さんがこの原則に必ずしも合わない体験をすることを理解しなくてはならない。例えば「自分は自分」と思っているその「自分」は誰だかがあいまいになることが多い。それぞれの人格はコンピューターのOSに例えられようが、それらが混線状態になることがある。

もう一つはいわゆる主人格が、自分以外に「自分は自分」と思っている人格の存在にいつまでも気が付かないことがある。