2013年11月30日土曜日

小此木先生の思い出(8)

今日は徳島に出張できている。
そのフロントにパソコンがあるのだ。
このブログは、私の自己満足だが、人を傷つけることを意図してはいない。そのような誤解は最も悲しいことだ。そう感じる方は、どうぞご覧にならないでいただきたい。

小此木先生が当時どのような苦労をされていたのかも、興味深かった。患者の中には先生の病状を知り、あるいは敏感に察知し、非常に心配するものも現れたという。ある統合失調症の患者さんは、ご様子が悪くなった小此木先生の外来で、「あなたは小此木先生ではない!」と言い張り、これには先生も参ってしまったという。そして治療者が自分の病状をどこまで伝えるか、というテーマは、自己開示について考える際に非常に重要なテーマであるとおっしゃった。(以下略)


2013年11月29日金曜日

小此木先生の思い出(7)


 先生はそこでお茶を出して私に薦めてくれ、それからご自身の闘病生活について教えていただいた。


以下略

2013年11月28日木曜日

小此木先生の思い出(6)

人間がそれまで持っていた世界観は、ある種の「現実」につき当たることで変わる。その意味では「現実」とはあるインパクトを持って外部から自分の世界に入ってくる刺激と言える。逆に言えば、インパクトを持って入ってこないものは、それを現実の世界で体験していても「現実」を構成しない。

 以下略

2013年11月27日水曜日

小此木先生の思い出(5)


昨日も少し書いたが、私の話は、人間が変わることとはどういうことか、に関するものだった。治癒機序、とは結局そういうことだ。そして従来の精神分析が、それは例えば「転移解釈」であると主張したのに対して、「『現実』との遭遇である」と主張したのである。ここでこのカッコつきの「現実」とは何か、というのは悩ましいが、簡単に言えば主観的に体験された現実ということである。現実といえば自分の外にあり、容易には到達しえないものである。カントの「もの自体」、というような。ラカンの「現実界 le Réel だってそんな感じだと私は理解している。

 分析的な解釈、それも特に転移解釈、つまり治療者と患者の間で起きていることの背後にある無意識の理解を伝えることにより患者は変わっていく、というのは精神分析の王道と言っていい考え方だ。それに比べて患者を変えるのは「現実」だ、というのは、何か分析とは全然関係ないことをいきなり言いだしたという印象を与えるだろう。でも精神分析理論をいったん離れて、「人が変わるってどういうことだろう?」ということを体験的に考えなおして、それを分析的な理論との関係に戻って論じ直すというのが私のスタイルである。

以下略


2013年11月26日火曜日

小此木先生の思い出(4)

そう、小此木先生のコメントの話だった。

以下略


2013年11月25日月曜日

小此木先生の思い出(3)

さてここまで書いたことは、単なる回想である。

以下略


2013年11月24日日曜日

小此木先生の思い出(2)

小此木先生が私の人生に与えた影響の中で一番大きかったのは、精神分析のトレーニングを海外で受けることを機づけて頂いた事だと私はずっと思っていた。

以下略

2013年11月23日土曜日

小此木先生の思い出(1)

エナクトメントの話はもう疲れたので、小此木先生の思い出についてしばらく語る。なぜ突然そうなるのかって?昨日も言ったが、例の「オトナの事情」である。同じような大人の事情を与えられた何人かの人々は、やはり私と似たような世代か、ひとつ上の世代である。小此木先生が亡くなられて10年たち、もう一度この精神分析界が生んだ巨人を回顧しようという企画が来年早々あるのだ。

以下略

2013年11月22日金曜日

エナクトメントと解離(16)(最終回)

さてこの論文ももうおしまいに近づいている。複数の読者(いらっしゃるらしい)から、「全然わからない」という反応をもらい続けている。もう限界だろう。
 これまで16日かけて読んだこのスターンの論文は、非常に散文的な、よくぞこれで学会誌に掲載されると思うようなものであるが、私にとっては、結局得ることは非常に大きかった。ほとんど同語反復的な最終部分に、ジョンレノンの言葉が出てくる。「人生は、その計画を立てている最中に生じてくるもののことを言う。
Life is what happens while you are making plans.事柄がまず最初に自分の身に起きる。反省は常に後から付いて回る。そしてその意味を理解する。それが人生というものだ。
 もちろんこの論文を良く理解したわけではないが、漠然とながら伝わってくるのは、以下のようなことだろうか。私たちはある種の行動を起こした時に生じる心のざわめきをきっかけに、その行動を振り返り、そこにもう一つの心の可能性を知る。それが治療においても生じ、現実の世界においても生じるということだ。その行動をエナクトメントと呼び、もう一つの心を解離された心と呼ぶわけだ。そしてその解離された心とは、何か既にあってそこに眠っているものではなく、まだ象徴化されていない、すなわち言葉にすらなっていないようなものというわけだ。
解離についての議論の一環としてこのテーマを追って来たが、もちろん「解離性障害」における「解離」との違いは明らかである。解離性障害における「解離」とは、ある意味では象徴化されているものである。ただしそれはその主体Aにおいてではない。別の主体、主体Bにおいて、なのだ。それが主体Aに持ち込まれてそこで葛藤として成立することが精神分析の目標であるとしたら、「解離性障害」の治療目的にとっては、それはいわゆる「統合」の達成であり、遠い遠い目標ということになる。スターンたちの論じる解離は、だから緩やかな解離、そこで健忘障壁が起きるほどの深刻なものではなく、むしろ緩やかな解離と言うべきであろうか。
明日から、少し違った内容になる。オトナは大変だ。

2013年11月21日木曜日

エナクトメントと解離(15)

専心さを乗り越えるということは、言うは易く行うは難し、である。私たちはいつでも、新しい思考が新しい体験を生むことを望んでいる。そのような考えを私もこの論文で伝えているつもりである。しかし患者が拱手し坐しているだけでは、思考そのものは彼の中に物事への新しい知覚をあたえてはくれない。臨床的な自由さを獲得するのに、一定の解決方法はない。そしてそのことはそれほど悪いことではないのだ。もし私たちが古典的な精神分析のように、治療で何をどのような手順で行うべきかを分かっていて、非文脈的な理論やテクニックに従って治療を行うのであれば、精神分析とは正しいやり方で行うもの以上のものではなかったはずである。エナクトメントは怒りや恥や様々な感情を生むわけだが、それは私たちの持っている自由さへのキャパシティは意志の力でのみ形成されるのではないということを教えてくれる。体験というのはそれだけで複雑で複合的でり、それは訪れたときに生き抜いていくという形でしか対処しないのだ。そして私たちの内省の力や能力だけが、その例外なのである。
 内省において私たち自身のかかわりを見えにくくしているのは、無意識や関係性の力動だけではない。私たちはそこに存在の偶発性 contingency や、ラカンのいう「現実 le réel」等の、私たちが秩序や規則性を見出したいという意志を台無しにするような事柄を計算に入れなくてはならなくなる。それによって何が起きるだろうか?治療は事故や病気や家計の問題で中断するだろうか?あるいは治療者も患者も、分析の作業が終わる前に死んでしまうかも知れない。患者を治療室から招き出す時に、そのドアノブが外れてしまい、患者がそれにより私もひとりの人間であることを突然知る、などということは誰にも予想できないのである。同士でドアノブなんだろう、しかもなぜ今なんだろう。(訳注:ドアノブをめぐる症例の話がこの論文のどこかに出ていたのかと思ったが、検索をしても出てこない。)どうして例えばこれが、私がトイレに行きたくて部屋を出るときに起きなかったのか?こちらの方がよほど私の「人間らしさ」を表現しているだろうに。

2013年11月20日水曜日

エナクトメントと解離(16)

 ところがエナクトメントでは、それとは対照的に、体験はそれに影響を与えることができずに絶望的になることもあれば、ほかの人に押し付けられたという感覚を与えるようなものである。時にはそうとは気が付かずに起きてしまうのだ。それらの種類の体験のなかでも、特に強制されたという感覚は、エナクトメントではしばしば体験されることである。私たちは奴隷により、そのように生きることを強制されて made いると感じ、どうすることもできない。(訳注:この made は、解離や統合失調症に見られる作為体験 made experience のニュアンスを有する。)解離の場合には、自分の生を自分が十分に棲まわっているという感覚、ウィニコットが述べた真の自己の「本物である感覚」を持つことができないのだ。
私はこの論文を、「目はどうやって自分自身を見るか」という謎かけにより始めた。後に私はそれをより回答がしやすい形に変えた。そしてわかったのは、逆転移を知ることは不可能であるのは、私たちを専心さsinglemindedness という観点から見たときだけである。私たちの心が一つの状態しか取りえない時、自分自身を観察することは、心を捻じ曲げて不可能などこかから眺めるようなところがある。これが「ブートストラッピング(靴紐)問題」だ。(訳注:bootstrap =自分自身で自分のことをやり遂げること)。葛藤を持てるようになると、私たちは心を膠着状態にしてしまっている一つの固執した考えにたいして、もう一つの選択肢を設けることが出来ることになる。私たちは複数の意識状態を作ることが出来るのだ。専心状態から脱するということはいくつもの内的な状態を持つ事が出来、一つの心がもう一つの心を、形而上学的な歪曲を経ることなく眺めることが出来るようになる。逆転移への気付きという、それ自体が不可能な問題は、葛藤を体験することにより先進さを超克することで解決するのだ。
ここらへんも全部繰り返し。新しい内容はない。でも本当なんだろうか、ここに書かれていること。例えば愛と憎しみという古典的な葛藤。愛する気持ちと憎らしい気持ちの両方を持っているのが葛藤。愛してだけいると思って、相手を苦しめることをエナクトしてしまっているのが、解離状態。でも後者は、「憎しみを抑圧した状態」とどう違うのか。「抑圧の場合には、失策行為や症状として現れるはずだ」というのが答えだろうが、相手を傷つけるようなことを「誤って」言ってしまったという行為は、果たしてエナクトメントとどう違うのか? この問いに対する明白な答えはおそらくないのであろう。



2013年11月19日火曜日

エナクトメントと解離(15)

続ける。
このことは両方向から説明できる。新たに達成された葛藤におけるもうひとつの見方の選択肢が、フォーミュレイトされていないものをフォーミュレイトさせる、とも言えるし、フォーミュレイトされていないもののフォーミュレイションは、それ自身が葛藤を構成する新たな視点の創造である、とも言える。内的な葛藤の創造は、主体性の感覚の創造でもある。葛藤関係にあるもうひとつの選択肢を欠いた願望は、強迫行為以外の何ものでもなく、強迫は自分自身の人生を選択しているという感覚を否定する。エナクトメントを脱構築することは、精神的な意味での奴隷となることの回避である。奴隷化を行う動機はしばしば他者を支配することだが、それは本人を縛ることには変わりない。全くの二次元的なエナクトメントの世界では、支配層が力を維持するかもしれないが、彼らも被支配層と同じくらいに縛られているのだ。
この意味で、私が描いているエナクトメント、つまり解離に基づいたエナクトメントは、ベンジャミンが言うところの反転可能(やる側―やられる側 doer-done to)な相補性 とおなじことである。
ふーん、ベンジャミンもそういうこと言ってるんだ。しかしそれにしてもベンジャミンの使う言葉は相変わらず過激だ。奴隷とか、支配、被支配など。でも精神分析においてもこの支配、非支配の問題は常に存在していたのだ。そして治療者の側のエナクトメントを考えるという動きは、それ自体が治療者と患者のあいだの格差を根本から問い直す流れとも言える。これが米国で起きていることは、ある意味では当然のことかもしれない。
あれ、ここからまた難しくなるぞ。

.患者も治療者もお互いを認識すること以上に自分自身を創造的に体験することはできない。うまくいった精神分析の結果は、自分の人生は自分自身のものであり、ほかならぬ自分自身が生きているのだという、確固たる、思考のない unthinking 確信を得ることである。 しばしば自分の人生は自分の心の想像したものだという感覚(味気ない用語を用いるならば、能動の感覚 sense of agency ということだが)は、葛藤に近づくことにより得られる。それは私たちが直面している問題に関する立場を選択する必要に迫られると、私たちは自分の手が土を耕しているという感覚を得るからである。

2013年11月18日月曜日

エナクトメントと解離(14)

金、土、日と京都で精神分析学会だった。その間のブロブは書き溜めた分を吐き出した。京都の街はいいなあ。なんといっても碁盤の目で分かりやすい。アメリカの街みたいだ。幸い三日とも天気に恵まれた。昨日の夜、また日常に戻った。

スターンをまたもうちょっと訳す。少しわかってきたぞ。
激しい心の痛みの最中も、葛藤が不在の場合がある。そしてその不在こそが痛みの原因であり、葛藤を作り出すことにより軽減するかもしれないのだ。言い換えるならば、反復強迫は必ずしも意識的な目的と無意識的な目的の間の葛藤のエナクトメントではなく、本来体験するべき葛藤が不在であることが問題かも知れないのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが解離した自己状態の場合は、葛藤を体験できるようになることが目標なのだ。(中略)意識的な葛藤は必要である。なぜならほかの誰かとの間に起きていることから十分に距離をとることで反省し、何が起きているかを「見る」ようになるためには、私たちはもう一つの視点を必要とするのだ。私たちはもうひとつの解釈(というよりはもうひとつの体験というべきか)を必要とし、その解釈は必然的に既にある解釈との間に葛藤をおこすのだ。解離について言えば、あるひとつの心の状態を見るためには、そのバックグラウンドを体験する必要があるというわけである。
なにか同じことを何度も言い直しているような論文だが、もともとわかりにくい内容なので助かるには助かる。「反復強迫は葛藤の不在によるものかも知れない」か。これも挑発的な言い方だ。反復強迫は無意識的な葛藤が問題だ、と古典的な分析家は考えるだろうから。そしてスターンによれば、この反復強迫とは、エナクトメントと言い換えられるというわけだ。そしてそれが繰り返される限りは葛藤が体験されていないというわけである。待てよ、エナクトメントであるという把握ができていない限り、それはエナクトメントとも言えないというわけか。ただの繰り返し。「宿題が終わったの?」がエナクトメントであると把握されることで、初めてそれが行動を変更する力を持つ、mutative であるということか。
 でもここで私は再び思うのである。葛藤の不在(スターン)ということと、葛藤が無意識的である(フロイト)ということは、そんなに違うことなのだろうか?同じ現象の別の見方ということはないのか?スターンはそんなに新しいことを言っているのだろうか?


2013年11月17日日曜日

エナクトメントと解離(13)

もうちょっと翻訳を続けよう。といってもスピードを高めるために、一部は意訳になる。
結局私がそれまでナイーブに(無知に)快感を持っていたことは、もうそのままでは快感ではなくなり、一種の症状だな、患者との間で生じた一種のエナクトメントだな、という感覚が伴うようになる。それと同時に私の患者の成功体験も違って見えるようになった。最初はそれは純粋な進歩のように見えた。しかしそのうちそれは偽りの進歩であるように思えるようになったのだ。そして患者に「載せられた」という感じが伴うようになったのだ。そして最終的には患者の進歩の体験はより臨床的に生産性をともなったものとして新たな文脈を与えられたのである。
「目が自分をどのように見るのか」、というテーマについて考えることは、私たちを精神分析の草創期に連れ戻す。グリーンバーグとミッチェルが古典的な精神分析のキー概念として葛藤をあげた時、それは既にフロイトが考えたそれとは違うものを考えなくてはならないとも言っていた。つまりそれはフロイトが考えたような欲動と防衛の間の葛藤でもなく、イドと自我と超自我の間の葛藤でもなく、意識と無意識の間の葛藤でもない。本当に考えなくてはならないのは、意識に浮かべることのできるような、パーソナルでソーシャルな意味を持つべきものなのだ。私たちが自分たちの間でともに体験できる、目的と利得と願望を備えた葛藤なのだ、と。そしてもう一つ重要なことがある。それは人間がいつもいつも葛藤を抱えてばかりいるわけではないということ。時には極めて深刻な情動体験を持っている時に、そこに葛藤が介在していないこともあるのだ、と。

うーん、ここらへんは少し分かるぞ。スターンは葛藤がないことの病理性を言っているのだが、それは解離という病理である、というわけだ。しかしこれはスターンが、解離という病理についての理解の仕方を新たに提唱しているというのではない。彼の解離が「解離性障害」の解離ではないことは既に十分わかっている。そうではなくて要するに、「抑圧理論」への疑問を呈していることなのだ。あることを心の隅にしまっているという状態を、精神分析では抑圧という形でしか説明できない。しかし抑圧という力動的な概念は、結局はそれが外に出てきたいという力と、自我、超自我からの逆向きの力のせめぎ合い、つまり葛藤をもう最初から前提としている。そのことが問題だと言っている。少なくとも私にはそう読めるのである。

2013年11月16日土曜日

エナクトメントと解離(12)

 関係性の嵐の中で、分析家の自分自身と患者の自由への願望のために、分析家は時には患者の「助け」を見、理解し、受け入れることができる。サールズによれば、この「助け」は感動的であるのみならず、変容的 mutative である。つまりは分析家が患者を治したいという願望を持つことで、分析はは患者が彼を治そう願望を受け入れられるようになる。あるレベルにおいては、言葉にしないながらも、私の患者は私たちの間の微妙な空気の変化に気づいてほしいと思っていたのだ。自分も不安になってしまうようなことなく治療してくれるような治療者を望んでいた彼は、私から少し引いてしまったのだ。しかし彼は転移を通じて、私に自分を治す機会を与えてくれていたとも言える。自分の自己愛を犠牲にし彼の心に達するような良い「親」になる機会を、である。
(中略)ここまで書いた内容からは、葛藤を体験するためには、解離されていた、エナクトされた、つまりフォーミュレイトされていなかった体験をフォーミュレイトとするのが唯一の方法である、という印象を与えたかもしれない。しかしエナクトされたあとの体験は、それまで意識的に体験されていたものを新たな文脈に落とし込むという。(中略)私自身のケースでは、私が患者の改善を喜んでいたという体験は、それが自己愛的であったという気づきにより受け入れがたいものとなった。それが一種の症状のように感じられるようになったのだ。そして時間が経ってみると、私のナルシシズムも後ろめたさも、両方が患者の側のエナクトメントの反応として理解されるようになった。
 
うーん、わかったようなわからないような。もう少しわかりやすい例を考えようか。親が中学3年生の子供に「今日の宿題はやったの?」と尋ねる。いつもの口癖だ。でも尋ねながら、なんとなくいい気持ちがしない。他方の聞かれた子供は苛立ちを覚える。「まだやっていないけれど、ちゃんとやるよ。さっき学校から帰ったばかりじゃない。でもさあ、お母さんは僕がいくつだと思っているの?」と不満を表明する。母親はそれを聞いて、「ほらまだじゃないの!」といいながらも、「中3の息子が宿題をやったかを確認する私って、息子のためを思っているというよりは、自分の不安を和らげたいだけなの?」。こうして「息子の為を思う」部分と「自分の不安をやわらげたいという自己中心的な部分」の両方があるのが普通であることを受け入れるようになる・・・・。この例では無理だろうか?「自分の不安のために子供に宿題を確認する自分」がそれまでは解離されていたとしたら、一応適切な例と言えるだろうか。でも「ああ、またやっちゃった。いつも反省しているけれど、つい息子の顔を見ると口うるさく言ってしまうのよね。」という程度なら、解離しているとは言えないのだろうか?


2013年11月15日金曜日

エナクトメントと解離(11)

もうすこし訳を続ける。
私の症例で言えば、私が解離していた部分をフォーミュレイトできるならば、そこで初めてそのエナクトメントを続けるかどうかを決める機会が訪れる。もしエナクトメントをやめるとなったら、それに代わる行動の手段をイメージした途端に、エナクトメントはその効力を失う。もしエナクトメントを続けることになったら・・・・。それはどん詰まりまで行き着くだろう。そして患者は自分を助けてくれるであろうと期待していた治療者に失望し、再び治療を去ることになるだろう。(中略)
 分析家は体験を積むことで、不快な情動を貴重なものと考えるという術を得る。キャリアーをはじめて最初の頃は、ここで述べている心のざわつきは不快なものだが、そのうち自由の直感intuitions of freedomとなるであろう。自由への願望に根ざした私たちの臨床の作業へと献身する中で、私たちはそれに興味を抱く能力を有するのだ。そしてその自由さは患者だけのものではない。私たちの自由でもあるのだ。そのために私たちは辛い体験にも動機づけられるのである。私たちは経験を積むことで、安全よりも自由を求めていくようになるのだ。あるいは安全を感じることにあまり多くを費やす必要がなくなるために、自分たちの自由への願望にさらに耐えることができるようになると考えてもいい。
自由への願望に耐える・・・・よくわからないながら訳しておく。
分析家はシミントンSymington が言うところの「自由の活動the act of freedom」に向かう。つまり分析家はそれまでの無意識的な拘束から自由になるのだ。これは治療者は患者に満足を与えたり真実を知ったりすることによってではなく、患者といるという体験をより自由に感じるようになることを意味する。私は臨床を初めて最初の頃は、心のザワつきを一種の警告と感じていたが、今ではそれをチャンスopportunity と感じるようになっている。

なにか大げさな話になってきた。解離だとかエナクトメントとかにとどまらず、人間が無意識から解放されるためには・・・みたいな話になってきている。でもここで無意識が出てくるところが精神分析なんだなあ。

2013年11月14日木曜日

エナクトメントと解離(10)

翻訳は続く。(p224下)
しかし私はエナクトメントが自分の無意識に由来するのだ、というのはシンプルすぎるのは分かっている。事実、私が自分の自己嫌悪に屈した場合は、私はエナクトメントを別の方向に作り変える可能性がある。その場合は私の自己嫌悪は、私の自己愛的な喜びと同じくらいにしつこいものとなっていたはずだ。私がエナクトメントに取り組むためには、二つの葛藤的な体験を持たなくてはならない。患者をがっかりさせてしまった罪悪感と、私がベストを尽くしたという感覚と。そうしていくうちに、分析的な仕事を行うことによる自己愛的な満足を味わえるようになるだろう。患者の家族が持っていた問題に関しては、私が良い親としてふるまい、そうと感じながらも、患者の自由を損なわないようには時間がかかったということだろう。患者の親も私自身もできなかったことは、いかに患者が私たちを心配させても、私たちはベストを尽くし、たとえ good enough になれなくてもそれ以上のことはできないのだという気持ちを持ち続けていることだった。言い換えれば私は自分に対して寛容になり、私の体験の全幅を味わう為には時間が必要だったということである。おそらく私たちはその寛容さを失っては取り戻すということをし続けるのだ。治療中に自分の解離に気づかせてくれたのは、ちょっとした心のざわめき chafing であった。
  さてここで最初の疑問に戻る、とある。なぜ解離の存在が、心のザワつきで見つかるのか。目がそれ自身を見ることができなくても、どうしてそれ自身のヒントが得られるのだろうか。おそらくこれらのヒントの大部分は、私たちの知覚を逃れるのだ。でも精神分析的な作業への献身によりそれが可能になる。胸のザワつきは葛藤の前触れのようなものだ。

ここまで訳した感想。心のざわめき、か。解離している部分は、その存在をざわめきで伝える。でもそれって例えば抑圧しているものが不安を信号とする、というフロイトの説とどこが違うのだろうか?図式としては、分析の専門家でなければ、どちらでもかわまないのではないだろうか?しかしスターンならこう言うだろう。いやいや、解離されている体験は、まだその時点では持たれていないのだ、フォーミュレイトされていないのだ、と。確かに抑圧されたものというのは、既にそこにあって箱に入っている感じだ。しかし実際にはそうではなく、まだ体験されていないのだ、という考え。私はむしろこちらの方に賛成だ。

2013年11月13日水曜日

エナクトメントと解離(9)

私たちのやることが、「向こうから来る」という性質は、でも思考においても言える。考えが、発想が、新しい旋律が、向こうからやってくる。(私には聞いたことのない旋律が湧いてくる才はないが、作曲をする人の場合はこれがあるはずである。)これは脳科学的には誠に正しい観察である。前野隆司先生の言う「受動意識化説」が示す通り、(私も同じことを「マルチネットワークモデル」で書いたが)私たちの意識は実は幻で、仮想的なものであり、脳のネットワークが自律的に産出したものである。そのことをすんなりと受け止めた場合、全てはエナクトメントである、という私の最初の極論に至るということになる。しかしスターンやブロンバーグの議論は、それを解離と結び付けているところが特徴である。それはそれで歓迎なのだが、すると今度は「何でも解離」になって混乱するのではないかと心配するのである。ということで翻訳の続き。(P224から)
フォーミュレートされていない体験という概念はしかし、現実が存在する、ということの否定ではない。むしろ以下の主張をしている。つまり現実は所与ではない。それは体験が偽りのものとしてではなく成立するための限界のセットである a set of limits on what experience can become without being false. より窮屈な限界、たとえばあるエナクトメントの意味をフォームレートする自由でさえも、たくさんの解釈のための十分に広い余裕を残している。とすれば解離は、ある明白な体験により分節化され、フォーミュレイトされるような一定の可能性の範囲を考慮することを無意識的に拒絶することであり、それらを露わにする興味を遮断してしまうことだ。ある瞬間に私たちが構築する自由を有する可能性をどれだけ持つかは、その瞬間に私たちに与えられた対人的な場が何を意味するかによるのだ。←さぞかしわかりにくいだろうが、一生懸命訳しているのだ。しかし訳しながら私自身が意味をつかめていないこれ以上わかりやすく出来ないのである。
ということで先ほどのわかりにくい臨床例がまた登場する。

私の臨床例では、私は自己愛的な喜びを直接的に体験し、患者をがっかりさせるような仕方でエナクトとした。(患者が順調に行っているというのをあまりに簡単に受け入れすぎた)。その間私の患者は、私を喜ばせるという試みをエナクトした。(彼は自分の「進歩」により私を喜ばせているということに気が付かなかった)。そして親―分析家が、物事がちょっとうまく行っているということに簡単に騙されてしまうことにがっかりするということを直接的に体験していた。(つまり私の患者は自分がどのように見えるかに騙されるようなことはなかった。彼の分析家のようには)。私は実際に患者をがっかりさせるという、自分の無意識な参加を知り、罪悪感を感じた時に初めて、その葛藤を体験できたのである。(ただし私は自分のエナクトメントを、それが私の中の葛藤という形で解決できるまでは気付けなかったということが大事である。)

2013年11月12日火曜日

エナクトメントと解離(8)

  例の臨床例を思い出してほしい。私[治療者]の心のうちの一つでは、患者の「進歩」を喜びたかった。そして、もう一つでは、自分の観察する能力を犠牲にして、それにより患者を失望させたことへの罪悪感を感じていた部分である。構築主義の立場からは、後者の自己状態(罪悪感を持った自己状態)は象徴的な形では私の心には存在していなかった。それはあの奇妙な情動的な生気のなさ deadness がセッション中に現れ、「そこに『何か』があるよ」、と気づかされることで、私は自分の感情のざわめきを感じ、罪悪感の状態が生起し、フォーミュレートされ、意識的な内的葛藤が最終的に可能となったのだ。私のそれ以前の専心さ singlemindedness は、私の心の内部にある葛藤の否認ではなかった。それは私の無意識的に固執していた「興味の欠如」であり、それはエナクトメントに参加することで創造され育てられたのである。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。
ここからいよいよ難解になっていく。理解しているか分からない(というよりおそらくしていない)ので逐語的になっていく。
 現在の状況において私たちの最も深い層にある情緒や意図との交流は、各瞬間に体験を刷新する。しかし私たちは私がなすことを直接体験することで新しい体験を構築することに参加することはほとんどない。私たちがどれほど頭では自分たちの創造的な役割を信じていても、私達が実際に行うことはいつも招からざる性質 unbidden quality を帯びているのだ。未来は私たちのもとに来る。それは「見出され」る。それは「訪れる」のだ。次の瞬間はまだフォーミュレートされていない為に、それは様々な形を与えられる。しかしそれはいかなる形をとるというわけではない。それが虚偽や狂気に陥らないようにするためには、様々な制限がそこに加わる。キツイ制限から緩い制限まで。
ここで一息。やはりスターンらの行っている解離は、通常の解離(つまり健忘等が生じる)、ではない。もっと広く、もっと本質的なことだ。日常生活でいつも起きていること。それをスプリッティングや抑圧では説明できないので、この解離という概念を持ち込んでいるのだ。つまりは精神分析理論の根本を問い直しているというニュアンスがある。

2013年11月11日月曜日

エナクトメントと解離(7)

昨日は対象関係論勉強会の一日司会(表参道、こどもの城)。お仲間の北山修先生と藤山直樹先生の講義の司会をしたのだが・・・。さすが日本を代表する精神分析家。テーマはバリント、フェアバーン、ガントリップ。二人共円熟しきった講義であった。

サリバンはこう言っているという。「パーソナリティの中で両親やほかの重要な人々に肯定されていない自己表現については、自己は言わばそれに気がつこうとしない。それらの願望やニーズは、解離されるのだ。」ここでサリバンが言う解離は、schizophrenia 統合失調症のことだというのだが、彼の言う schizophrenia はかなり広い意味を持つ。(誰でも自分が主として用いている概念の含む幅はどうしても広くなるらしい。) そしてそれはおそらく「本当の」解離性障害も含むに違いない。それはともかくこの解離されたものは、サリバンの言葉を借りれば not-me となるが、それは象徴化されずに自我の外にとどまり、時期が来れば侵入してくる。この理論には欲動 drive は存在せず、またこの解離の精神への影響は、通常は目に見えないものであるという。しかしパーソナリティはそれを中心に構造化されていて、それはちょうど絵がキャンバスの周辺の白地に囲まれて構成されるのと同じだという。(p. 218) それは例えば田舎道のようなもので、そこを歩く限り何も疑問を覚えないが、それはそれが余計なところに入っていかず、決められたところだけを通るからだ、という。
フロイトによれば、防衛は無意識的な葛藤から生じる。そしてそれは葛藤の一方だけを意識化する形で行われる。それがフロイト的な葛藤の回避のされ方だ。しかしサリバン的に言えば、葛藤はもう片方を構成しないことで回避されるというのだ。(書いていてよくわからなくなってきている。)
こういう時私がとる手段は、逐語訳である。こんなことが書いてある。(同論文P222下段から。)

 スプリッティングや抑圧では、私たちは心の別の部分では知っているのである。私たちは無意識的に、心の隠れた部分で知っていることを体験することを拒否するのである。他方では構築主義者たちの考えるエナクトメントでは、意味はやはり分かれているが、ひとつの心の二つの部分に、ではない。それらは二人の人間の心の間に分かれているのである。分析家は意味の一部を体験していて、もう一部をエナクトする。患者は分析家がエナクトした部分を体験し、分析家が体験した部分をエナクトする。つまり二つの心は、割れたお皿の二つの部分というわけである。目標はそれを一つの心の中で葛藤として体験することだが、それまでの間は、治療関係の中で、分析家も患者も自分だけが真実を見ていると思っている。
とまあ、ここまではいい。既に出てきた内容だ。問題は次の例が出てくる部分だ。

2013年11月10日日曜日

エナクトメントと解離(6)

ラッカーはこんなことを言っているという。「治療者は常に逆転移神経症にかかっている。もし患者が攻撃性を出している時に、治療者が自分の攻撃性を否認している場合には、その患者に対して共感的にはなれない。」その変わり、患者が幼少時に、怒りを持った患者を拒絶した親に同一化することになる。するとそこで生じるのは、sticky enactment つまり粘着性のエナクトメント、ないしは impass 膠着状態となるのだ。そのような時の治療者は自分の心全体を見て、患者の攻撃的な部分にも共感できなくてはならないとする。
 うん、この例はわかりやすい。スターンの発想もこのラッカーの影響を相当受けているということになる。スターンが付け加えている新しいこととは、このような二つの部分が葛藤を形成していないこと、だから解離しているということだ。もう一つは葛藤の欠如がエナクトメントを生む、という一見パラドキシカルな表現。葛藤を持つことが健康の証である、と。
うーん、でもこうなると彼の解離の概念はスプリッティングの概念と限りなく近づいて来ないか?スプリッティングも、葛藤とは違うと考えるからな。ここら辺の議論はかなりビミョーだな。ここでちょっと復習すると、スプリッティングは意識内、解離は健忘障壁がある、と考えるのが常識である。ということはやはりスターンやブロンバーグの言う解離は、通常の解離よりかなり広いことになるだろう。あるいはこんな考え方もできるぞ。投影性同一視(PI)を起こすような心の部分は解離している、と。つまりブロンバーグ―スターンの解離理論は、PI理論のアメリカ版なのだ。そしてサリバンがその根底にある。何しろ me, not-me の概念を打ち出したのだから。というところで自分たちの出自も明らかにしているのである。ブロンバーグは言っている。「サリバンの理論は、私の考えでは、解離の理論なのだ。」
 しかし私は今のところものすごい誤解をしているかもしれないので、もう少し勉強が必要だ。でも少なくとも、解離という複雑な現象に、精神分析がメスを入れているという期待は、それだけす薄くなってきている。

2013年11月9日土曜日

エナクトメントと解離(5)

 ここでスターンは興味深いことを言っている。もし解離やエナクトメントが good-me bad-me の間であったら、両者のあいだを治療を介して取り持つのはさして難しくないというのだ。問題は、me not-me の間に生じている解離であるという。その際は治療者は「自分自身を非合理的で感情が込められた体験に、しかも時には相当長期間委ねなくてはならない」(p.215)という。そしてこの me not-me の間のエナクトメントを扱う事が治療上最も重要で、また難しいという。 ここで少し解説を加えるならば、スターンたちが言っている解離とは、おそらく相当広い範囲の体験を包括しているのだ。そして good-me bad-me の間の解離とは、どちらかといえばすプリッティングに近いのだろう。そしてme not-me の間の解離が、私たちが「解離性障害」として知っている解離、つまりそこで健忘や「させられ体験」が生じるような解離なのだと考えることができよう。 スターンが次に論じるのが、分析家の側の解離ということである。これは患者の側の解離によって引き起こされるものの、何か異物が患者から治療者にやってくるという、しばしば投影性同一視に見られるような状況ではないよ、とある。(ここら辺はクライン派に対するライバル意識が感じられる。) この議論はおそらく解離を扱う臨床家にとってはピンと来ない部分かもしれないし、私もそうである。少なくとも治療中に自分が解離するという感覚はこれまで持ったことはなかった。しかし先程も述べたように、おそらくスターンが用いている解離の概念がおそらく違うのだろう。より微妙な解離、ということか。
ここでそのことを考えるヒントとなるのが、ハインリッヒ・ラッカーの同調型、補足型の同一化、ないしは逆転移という考え方だ。同調型は患者さんの意識内容に沿った内容で、補足型はそれにたいしてツッコミを入れるものだ。「自分はダメだー」という患者に対して、「そうだね。ダメだ、と感じているんだね」という同一化が同調型だとすると、補足型は「そんなことでどうするねん!」というわけだ。

2013年11月8日金曜日

エナクトメントと解離(4)

 どうやらこの論文の核心部分に来たようだ。スターンは、この図に示したような事柄を、実はフィリップ・ブロンバーグ Phillip Bromberg から教えてもらったのだと書いてある。彼は最近解離という文脈から分析理論を洗いなおしているアメリカの分析家である。
スターンのまとめをもう少し読む。エナクトメントは内的葛藤の表現ではない、という。エナクトメントは葛藤の欠如を表している。エナクトメントが生じたときは、外的な葛藤が強烈になる。そしてエナクトメントが解決するのは、内的な葛藤が成立した時である。それは互いに解離され、二人の人間により担当された二つの心の部分が二人のうちどちらかに内的な葛藤として収まった時に終わるのだという。ウーン・・・・・(沈黙) いきなりそんなことを言われても…・。部分的にはわかるところもある。解離を起こしている部分は葛藤が存在しない。たとえば大人の人格と子供の人格の間にあるのは葛藤ではない。大人の人格は、子供の人格が突然入り込んできそうになるのをこらえる、などのことを体験するが、これは子供の自分を抑えている、ということではないのだ。少し子供の自分は異物、よそ者、としての意味を持つのである。

とまあ、ここら辺まではいいのだが、例えば昨日の「解離の対人化」等になるとさっぱりわからない。例のエナクトメントは「患者により解離された部分は治療者に体験される。そして患者の中で明白に体験されたものは、治療者の中で解離される。つまり両者はお互いに部分的にしか体験されていない。」というくだりだ。少し臨床例を考えて検討してみたが、私にはよほど理解が浅いらしく、あまりピンと来ない。たとえば患者が、治療者に対する依存心を解離しているとする。たとえば子供人格の形で、である。するとエナクトメントの場面では、子供人格が出現するということになる。その時は大人としての側面は解離している、ということだろうか。そして治療者はその時世話役(大人)としての役割をとらされる、ということだろうか?うーん、よくわからない。ブロンバークやスターンの真意がまだつかめない。そのままもう少し読み進めてみる。
 関係精神分析にジョーディー・デイビスという気鋭の精神科医がいて、外傷関連の議論を従来から扱っているが、彼女の説は、患者の中で解離している体験はエナクトメントして出現し、それを唯一扱うことができるのは、転移―逆転移関係の分析であるという。そう、ここら辺の議論は私は仄聞していただけで実際に調べてはいなかったのだ。そしてそれは、フォナギーたちの研究との共通点がある。例のメンタライゼーションの議論でおなじみの、イギリスの分析家ピーター・フォナギー先生だが、彼もエナクトメント、スプリッティング、解離といった議論を縦横無尽に用いて議論しているという。
 スターンによれば、ここで援用されるのが、サリバンの議論である good-me, bad-me, not-me などであるという。いよっ、さすがサリバン派。

2013年11月7日木曜日

エナクトメントと解離(3)

 昨日こんな夢を見た・・・。ダメだ、アイデアが出てこない。

スターンはこんなことを書いているという。「解離状態に導いた状況を、患者は治療状況で再現することになる。それがエナクトメントだが、その中で患者は自分がトラウマを受けた状況を繰り返すのだ。それは患者の、トラウマ状況を少しでも別の形で体験しなおそうとする試みだが、その中で患者はほかの人を加害者の立場に立たせ、自分に再外傷体験を負わせている。そのエナクトメントの相補的なバージョンにより、状況をコントロールしようという試みの中で、実は患者は他人にトラウマを負わせる結果ともなる。」(2003)
私にはほとんど呪文の言葉のようにしか聞こえないが、ひとつの考えとして受け止めておこうか。ここには分析家に特有の理屈のこねまわしや知性化(ヒャー、言っちゃった。まあスターン本人は日本語を読めるわけはないし、いいか。)を疑ってしまうのだ。
少し考えてみようか。スターンはここでのエナクトメントを、あたかもトラウマのフラッシュバックないしは解離体験として扱っているというところがある。そのように考えるとこの文章がある程度納得がいくだろう。でもそうでないエナクトメントともいくらでもあるのではないか。トラウマには直接かかわらないような。解離とも言えないような。エナクトメント=解離とするとちょっと無理があるのかな、とも思う。あくまでもエナクトメントの一部に解離が含まれる、ぐらいのほうがいいのではないだろうか。
そしてこんなことが書いてある。もし私が内部の観察者を解離したなら、私の仕事は誇大的になってしまうだろう、と。そうか、観察している自分はいつも意識されているから重要で、それが視野から消えると解離という理屈だろう。
スターンはこんなことも言っている。「エナクトメントは、解離の対人化 iinterpersonalizationである。その人が葛藤を抱えていられないから、それを人とのあいだで体験するという形になるのだ。患者により解離された部分は治療者に体験される。そして患者の中で明白に体験されたものは、治療者の中で解離される。つまり両者はお互いに部分的にしか体験されていない。」えーほんとかな。半信半疑。

図にしてみよう。


2013年11月6日水曜日

エナクトメントと解離(2)

さてスターンの論文の興味深いところは、ここからである。そもそもエナクトメントとは、事後的にそうとわかる物であり、そこで「あの時は~だった」という形で底に表現されていた自分の無意識的な葛藤を振り返るというプロセスを意味するが、それはそもそも自己の解離を意味しているのだ、というのだ。そう、エナクトメントはそもそも Dissociation and the Multiple Self(p.209) の問題だというのである。たとえばAという行動ないしは言動を行っている時、そこに葛藤を感じていないとする。それを後になって「あれ、Bもありだな。なぜBを選ばなかったのだろう?」と思ったとしたら、Aはエナクトメントであった可能性がある。しかしAの最中に葛藤を感じていなかったわけであるから、ABからは、心の中で別れていた、「解離していた」というわけだ。そして「解離されたものは心のどこかにしまわれてしまったわけではない。それはエナクトされるのだ。」(p211)ということで、ここでめでたくエナクトメントと解離が(私の頭の中以外で)つながったわけである。めでたし、めでたし。
これはあたり前の議論のようでいて、実は精神分析の文脈ではかなり悩ましい問題でもある。精神分析では、この種のABという関係が考えられていなかった。心は繋がっている。たとえ意識と無意識でも。だから患者さんの、「先ほどAといった時、Bということを全然考えていませんでした。」という言い分は、少なくともそのままでは治療者にはすんなり受け取られない。必ずこうなる。「Bということへの抵抗があったのですね。その抵抗について考えましょう。」およそ精神分析のトレーニングを積んだ人なら、あるいは精神分析理論を学んでそれを臨床的な考えの中核に据えるような治療者なら、患者さんの話を聞いた際のこのような疑いを頭から拭い去ることはできない。しかしおそらくそのような治療者も日常生活では、同様の体験を持ち、「Bへの抵抗」を深刻に考えることは案外少ないものである。それはそうだ。もし「Bへの抵抗」が存在しているならば、本来一人で積極的には考えたくないものだから。(治療者もいないのに。)またもし「Bへの抵抗」が存在していなければ、つまりABが解離しているのであれば、「Bへの抵抗」という発想自体がわかないであろうから。
ただし精神分析に解離を持ち込んでいるスターンの筆致は、かなり分析的ではある。「私は自分自身で直接体験することが耐えられないような自分の状態を『演じて』、元の解離する以前の状態に無意識的な影響を及ぼす。」つまりここで無意識的な影響ということで、心は一つという「神話」(と私、岡野はここで敢えてよばせていただく)を保っているのだ。


2013年11月5日火曜日

エナクトメントと解離(1)

 これからしばらく Donnel B. Stern, Ph.D.という分析家の論文 The Eye Sees Itself: Dissociation, Enactment, and the Achievement of Conflict ((2004). Contemporary Psychoanalysis, 40:197-237)という論文を読む。エナクトメントと解離の接点に関する重要な論文である。まあ大体こちらの方向に行くのはわかっていたわけだ。そしてたまたまフリーペーパーをネットで見つけることが出来た。それがこのドネル・スターンの論文である。それにしてもラッキーだったな。
 スターン(あの、ダニエル・スターンと間違えないように。どちらもD.Stern だから紛らわしいが。)は、関係性理論のホープの一人である。彼によれば、精神分析の目的は、洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatednessに代わってきたという。ここら辺いいね。さてスターンはどうやって解離やエナクトメントと近づけて行くのだろうか。
読んで行くとこんなことが書いてある。最近の精神分析の流れの一つは、やはり逆転移の扱いや理解の仕方の再考ということである。わかりやすく言えば、治療者はどうやって自分のことをわかるの、ということだそうだ。それをこの本は、「眼は自分を見えるか」という副題にもしている。この問題についての意識を触発したのが、レベンソンの“Fallacy of Understanding“という本であるという。不勉強にして知らなかった。しかも1972年の本であるという。
 さて最近の逆転移についての考え方は、二者心理学的である。それは転移―逆転移という関係の中で起きてくる一種のパターンとして理解しなくてはならない。問題は治療者がある患者と特定の関係性のパターンに陥りやすいという傾向があるということだ。これはその患者さんが「~という問題を持っている」というわけではないことに注意。それを言ってしまうと一者心理学に陥ってしまう。(ところでこれを読んだ読者←だからいないって。は不思議に思うかもしれない。パターンに陥りやすいって、結局その患者さんに独特のものであるとするならば、結果的にその患者さんの固有の病理ということにならないのか? 二者心理学といっても、主張していることは一者心理学とあまり変わらないのではないのか? これは残念ながら当たり、である。あとは心がけの問題だ。)

このスターンの論文を読んで行くと、彼は二者間の「相互の調整mutual regulation」は無意識的に起きているとしてもエナクトメントではない、と書いてある。それは具体的には共感的な理解や抱えることや肯定などであり、それは思い出すのが辛かったり、自分の無意識がそこに反映されるたぐいのものではなく、それはエナクトメントに含めなくてもいいのだ、というわけだ。なるほど「なんでもエナクトメント」は極端というわけか。これもわかる気がする。確かに他意のない、またストレスの伴わない他者との交流にエナクトメントの議論を持ち込むことの意味はないだろう。

2013年11月4日月曜日

エナクトメントについて考える(12)

日本シリーズ、残念ながら巨人が優勝を逃した。どうせならマー君が最終日に投げたらよかったのに。
わたしの「夢」シリーズ、まったく不評なので、終了する。というよりなんだか本当に逮捕されるような気がしてきたからだ。日ごろからうけない冗談を言っているのだろう、と反省する。

 
もうちょっとスターンの考えを追おう。彼はエナクトメントは二つの主体の間のかかわりであるという。まあ、それはそうだ。関係論者だったらそういうだろう。そして患者はそのような解離状態を分析家に引き起こすとすれば、それは分析家のほうにもまた脆弱さ vulnerability があるからであるという。そしてエナクトメントが起きるのは、二人の人生の産物であると言い、これを「解離の対人化interpersonalization of dissociation」 とよぶ。以下はスターンの原文から。
「患者により解離された状態は、顕著な形で分析家により体験され、患者が顕著な形で体験したことは、分析家の中では解離される。(中略) このように葛藤の想像と、エナクトメントのネゴシエーションは患者の成長のみならず、治療者の成長をも必要とする。」このあとこの論文では「二つの心は互いに鏡像にあり、ちょうど二つに割れたお皿の両側のようなものだ。」と補足的に説明しているのだが・・・・・。よくわからない!!大体このようなきれいな説明のしかたはたいてい間違っているのだ、なーんてね。
ところで間主観性の立場からは、エナクトメントは患者-治療者関係の正常な部分であるという。そしてエナクトメントは必ず、「エナクトメント後」にしかわからないという。そしていよいよ一番左の極にレベンソン。曰く。「エナクトメントはいつもどこでも起きている。不可避的なものなのだ。」「エナクトメントは話されていることの、行動部分 behavioral component である」。これ、個人的には好きだな。
 かくしてこうして極右、中間、極左の立場が示された。極右は「エナクトメントは失敗である。」中間は、「エナクトメントは患者、治療者にとって無意識の葛藤の刺激であり、現実化である。」そして極左はレベンソンの立場である。
必要はないのはわかっているが、図にしてみた。

                        

まあ、改めて描くまでもないか。
なお本論文の最後には結論めいたことが書いてあるが、特に新しい内容はない。ひとつにはエナクトメントが一方では失敗として認識され、他方では不可避的なものとして認識される場合、これを一つの共通概念として用いることができるのか、という悲観的な見方である。しかしそれでも精神分析に長らく欠けていた、行動action についての議論を深めるためにこの概念は有用であろうということだ。そして何よりも、精神分析の幅広い学派が、この概念に対する関心を示していることは、今後ともエナクトメントの議論が引き続きこの世界で行われることの有用性を示しているという。
最後に元に戻って。つまりこの論文を読む前の状態である。最初の私のエナクトメントの定義はどうだっか?12日前に戻ろう。
「エナクトメント[行動に表れること]は精神分析状況において治療者ないし患者の意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す。エナクトメントの概念は現代における精神分析の中で最も重要な概念のひとつと言っていい。精神分析的な関係性においては、患者と治療者との間で、さまざまな非言語的なかかわりが生じ、エナクトされる。時には治療者の言語的な介入にも無意識的な内容が含まれ、エナクトメントとして扱われうる。このエナクトメントを治療関係において検討することで、それまで無意識レベルにとどまっていた内容が明らかにされ、治療が進展することが多い。エナクトメントは従来アクティングアウトとして理解されてきた行動を含むが、より微妙で非明示的なものをも含み、それを臨床的に有意義であり創造性を含むものとして概念化されたという経緯がある。」
やった!すでに一回分! ナンの話だ。
しかしこの考えは、例のスペクトラムによれば、最左翼的、ということか。すでに偏っていたということになる。この論文で、エナクトメントを失敗と見なす立場もある(クライン派など)のは新たに学んだことだ。しかしそのうえで言えば、エナクトメントの議論って、一昔前の逆転移と同じじゃないの、というのが正直な感想だ。だって逆転移だって、失敗としての理解と新たな表現、不可避的なものという二つの理解の仕方があったのだから。時代が変わって、議論の場がエナクトメントに移ってきたわけだ。では逆転移について言えば、それは不可避的なもの、というのが大体のコンセンサスとして出来上がっているのだ。エナクトメントはアクトが加わるから問題になる。その意味ではエナクトメントは、逆転移とアクティングアウトの中間的な意味を持つであろう。アクティングアウトの場合には、それを「普通にあることだよ」とは言えない雰囲気を皆共有しているからだ。

2013年11月3日日曜日

エナクトメントについて考える(11)

続けて昨夜こんな夢を見た。
全国紙の3面を開くとこんな記事が載っていた。「自称大学教授、逮捕される」とある。東京都○○区在住の自称大学教授が、魚類愛護法違反で逮捕された。調べによれば容疑者は犠牲魚の死体を業者から買い取り、自宅で鋭利な刃物を使って切り裂き、あろうことかそのその焼死体を食肉した上に、遺体の一部をポリ容器内に遺棄したとされる。調べによれば犠牲者となった魚類は、学名Cololabis saira (「通称さんま」)2歳である。容疑者は「魚食行為に間違いありません。」と容疑を認めている。なお共犯者は容疑者の妻K子で、実は毎年秋に同様の犯行を繰り返した疑いがある。証言をもとに近所のごみ収集所を捜索した結果残された魚の白骨化した遺体の一部も見つかり、DNA鑑定の結果別の犠牲魚であることが分かった。調べによれば同家の愛犬「チビ」も教唆の上その遺体の解体および食肉、ならびに遺棄に関与したものと見られている。容疑者が魚を調達したとされる「スーパー●●」は魚類の虐待及び死体の販売に広く関わっていたものと見られ、全国で一斉に家宅捜索が行われる予定である。なお容疑者は調べに対して一言「脂がのっていて美味しかった・・・」と呟いていたという。警察ではさらに余罪を追求している。

 しかしベンジャミンの主張としては、こんなことも書いてあるぞ。エナクトメントとは過去のトラウマ状況の繰り返しであり、その中で分析家は自分が自分の役割を取ることでトラウマを起こしてしまったことを認めなくてはならない、だって(P.94)。最初から加害者扱いかい?。昨日出てきたmoral third とはその時に出現するのだという。それにより完全なるコンテイニングが成立する、と書いてある。ベンジャミン。あいからわず鼻息が荒いなあ。
さて例のスペクトラムの話は続いている。この概念の創始者ともいえるシオドール・ジェイコブスは次に来るという。彼は、クライン派とポストモダンのアメリカ精神分析の中間地点であり、一者心理学と二者心理学の間を揺れるという。うん、彼らしい妥当な選択だ。(何か最近口調が変わっていないか?) 一者心理学的には、エナクトメントには分析家の未解決の問題が反映されるが、二者心理学的には相手からのプレッシャーにより生じるエナクトメントもある。チューシッド(Chused動詞の過去形みたいな名前の人だ)先生も似たような意見であるという。マクラフリンという人はもう一歩二者関係に踏み込んで、こんなことを言う。「分析状況で起きるエナクトメントは、分析家と患者がお互いが退行し合い、相手からの刺激で自分の内的な問題を表現する形になっているのだ。」フンフン。でもそれは葛藤が刺激された時にだけ起きるのだよ、というところがクライン派の極にも近く、結局中間ということだ。
 同様にこの中間地点に来るのが、ビヨン派(聞き慣れないが、当然そんなのもあるのだ)の影響である、という。そこでカッソーラ Cassorla という人の理論が出てくるが、難しいからとばしちゃおう。案外いい加減だな。
 さてクライン派とは正反対の極に来るのが、関係学派ということだ。そのうちの一人スターンは言う。「エナクトメントとは、解離した状態だ。それは象徴化されていない体験であり、力動的な意味で無意識の部分なのだ。エナクトメントは異なる主体との間で生じる」 うーん。これで解離理論と精神分析は繋がることになる。私の中では、関係性理論、エナクトメント、解離理論、解離性障害は、だからひとつながりの問題なのだ。)だからこの論述はありがたい。いちいち不必要にフィールドを変える必要もなくなるのである。

2013年11月2日土曜日

エナクトメントについて考える(10)

設定、治療構造との関連
エナクトメントは設定を設ける際にも問題となるという。そして治療構造を厳しくしたり、ゆるくしたりすることで様々なエナクトメントを起こさせるという。そしてそのエナクトメントは、相互の誤解により生じるものであり、相互理解により乗り越えられなければならないという。ここら辺のこと、あまりピンとこずに読んでいる。これが自我心理学的なコンセンサスになっているとも書いてあるが、まあ、ここはとばそう。
エナクトメントの異なる概念化の統合
ここは大事だな。しかし精神分析界でエナクトメントの概念の統合の兆しはまだないという。だからこのような論文が書かれるというわけか。何しろエナクトメントはどこにでもある、遍在するという立場から、治療者と患者の間の誤解により、特別な状況で生じる、という見方まで様々だからだ。左翼と右翼みたいな。そこで異なるエナクトメントを比べる際に一つの試金石となるのが、エナクトメントについての次のような定義を受け入れるか、であるという。「エナクトメントは、精神分析的に理想であったりありうべきであったりするテクニックからの逸脱である」というものだ。しかしこれは何を「理想的な分析の在り方」と見るかでずいぶん見解が異なってくる。当然理想的な分析過程を考える英国学派の視点がここには反映されるだろう。そしてもう一つの試金石は、「エナクトメントは失敗か、不可避的か」という議論であるという。

論文ではここで分かりやすく次のようなスペクトラムを考える。一方の極には英国のクライン派のジョン・スタイナーの見方がくる。すなわち「治療者は行動、活動action に移行する傾向やそこに向けてのプレッシャーを理解することだ。」という見方である。「思考から行動へのバウンダリーを超えてしまったことを意味する。」まあ一つの理想だな。英国学派にはこの手の理想論が多い。エナクトメントは、分析家の、分析的な手法への抵抗でもある、と書いてあるぞ。まるで私のことだ。
この見方に近いのが、なんとアメリカのアーノルド・ゴールドバークであるという。あのコフートの一番弟子「アーニー」である。彼は、分析家と患者の間の誤解がエナクトメントを生むのであり、それが生じた場合は、通常の対人関係とは異なり、それを話し合うことが出来るというのだ。なるほどね。失敗ではあってもそれをフォローしましょうというわけだ。わかりやすい話だ。
さてここでベンジャミンの考えが述べられている。彼女はトラウマや解離に結び付けるのだ。過去の外傷体験は普通は解離されていて、関係性の中のエナクトメントにより表現されるという。うん、ぐっと面白くなってきた。

2013年11月1日金曜日

エナクトメントについて考える(9)

昨日はまたまたこんな夢も見た。新聞紙の3面に割と大きな記事。
「●●区に在住の自称精神科医が逮捕される。自称大学教授でもある容疑者は、先日郵便迷惑条例違反で逮捕された。調べによれば容疑者は不特定多数の「知人」に50枚以上の同じ文面のはがきを送りつけたとされる。葉書には送付日時を偽り、次年の「一月一日」と書き込まれ、「賀正」などの儀礼的で意味のない文章を羅列した内容が印刷されていたという。警察の調べに対して「間違いありません。」と容疑を認めている。しかし「慣例になっているので、今年も大丈夫だと思った」とも強弁し、「慣例だったら何でも許されるのか?」との問いかけに無言でうつむくだけだったという。家宅捜索をしたところ、夏にも同じような手口で「暑中見舞い」などと書かれた儀礼的で意味のない葉書を不特定多数の「知人」に送りつけていたことが判明し、書き損じの葉書が押収された。警察ではさらに余罪を追及している。」 
    ← 全然面白くないから削除すべき?


有用か、それとも有害かという議論
エナクトメントはコンテインメントの失敗ということであるならば、有害であるという。それはそうだ。しかしさらに重要なのは、エナクトメントの後に何をするか、ということであるという。つまりそれに関連した転移・逆転移関係を解釈することにより、あらたな洞察を得ることが出来るのだ。ここら辺は同意する。
 エナクトメントが失敗であるということは、それはできるだけ避けるべきものということになるが、リカバー出来、また有用でありうるという見方は、治療者をそれだけ自由にすることになる。とくに関係論者のレベンソンのように、エナクトメントが治療場面に於て、「遍在している ubiquious」と考えるならば、なおさらである。私自身はといえば、もちろんエナクトメントは遍在的であるというのは妥当であると思う。ただそれを言いすぎると「何でもエナクトメント」となり面白くない。だからエナクトメントの中でも特に問題すべきものについてフォーカスを当てるべきであるという立場である。
エナクトメントの生じるメカニズム

「クライン派と現在的なアメリカの分析家によれば、エナクトメントは、患者により発したプレッシャーにより分析家が引き込まれて行うものと理解されている。」(p94)と書かれている。当たり前のことかも知れないが、私には少し腑に落ちない。結局は患者の責任、という雰囲気を感じ取るせいなのだろうか。患者の無意識のファンタジーが分析家にPI(投影性同一化)され、治療者がそれに応じてアクトインする、という、どこかで見たことのあるような図式だ。しかしこうも書いてある。「レベンソンのように、エナクトメントが遍在的である、という見方は、この図式の妥当性を減ずる。」うん、そういうことが書いていあるこの論文は信用できる。レベンソンはさすがだな。そう、エナクトメントの醍醐味は、そして危険なところは、それが治療者の持つ、患者のPIを受ける以前の問題を反映する可能性であり、それに治療者がどのように対処すべきかという問題なのだ。