それは私もショックである。「朝ズバ」のみのもんた風の反応をすると、「とんでもないこと」、「前代未聞のこと、あってはならないこと」、「検察のおごり高ぶりの表れ」という感じである。しかし失敗学的にはこの大阪地検で起きたことは、非常にありがちなことだ。むしろこのことが明るみに出て社会的な制裁を浴びることの中に健全な面が含まれるということが出来るし、その点も同様に注目すべきだろう。じゃないと人間の不正を行ない、人を欺こうとするマイナスな側面ばかりに注目していることになるではないか。大阪地検で行われていたようなことが、まったく一般の国民に知られることなく行われている国はたくさんあるだろう。現にこの日本だって、検察庁はこれまでこの種のことを繰り返し、決して露見されることがなかったと考えてはいけない理由など何もないのだ。
ある閉鎖的な組織で、一定の役割を与えられた平均的な人間が、自分たちの都合のいいように仕事を進める上で不正を働いても、チェックを受けることがないとしよう。そこで一部の人間が、場合によっては大部分の人間が不正を行うようになる。その典型が、その組織のトップに居る人間であるが、そのトップに飼い慣らされている部下にも同様のことが生じるのは当然である。
もちろん最初は違う。人は慎重にことを運び、不正を嫌うだろう。ところがだんだん気が大きくなってくる。不正を行っているということに対する後ろめたさが麻痺してくる。これは普通の人間に起きるプロセスなのだ。政治家が政治献金か賄賂か見分けがつかないものを受け取るのも同じである。私達の一部が確定申告の際に、100%正直になれないのも同じ。そして不正を働く人の大部分をしめる「普通の人」には、私もあなたも含まれる。
あ~あ、言っちゃったねぇ。これじゃまるで大阪地検を擁護しているように聞こえなくもないじゃないか。著名人がこんなことを書いたら、ブログはすぐ炎上するかも。幸い読者は推定18人くらい、ということで全くその心配はないが。
ちなみに平均的な人、という風に言ったが、大阪地検で不正を働いた人々は司法試験を通過したエリートのはずだ。彼らは知的には非常に優れているはずだし、その意味では普通ではない。しかし道徳的にはかなり普通だろう。人の正直さをチェックするような試験などない。短時間で行う面接試験などでもまったくアテにならない。その普通の人が不正を働くようになる一つの決め手は自己愛のフリーランである。
自己愛のフリーランとは、このブログでは今年の6月11日に初登場し、それから何度か書いてきた考えである。自分の行動を上からチェックしてくれる人がいなくなると、私たちの自己愛はどんどん肥大していく性質を持つ、ということだ。簡単に言えば、人は組織の中で偉くなっていくと、どんどん周りが見えなくなって好き勝手をするようになる。ここで好き勝手とは、基本的には家で一人でリラックスして自由気ままに過ごしている時のふるまいをさす。何も特別な行動ではないのだ。
そして自己愛のフリーランは、実は組織についてもおきる。(またまたいきなり新説である。)つまりある組織が他からノーチェックな場合、その組織が好き勝手なふるまいをし出すということである。ただしその場合組織の中の個々人の自己愛がフリーランしているということではない。組織の内部は結構上下関係が厳しく、礼儀を守らなければならないかもしれない。しかしその組織が他の組織からチェックを受けない場合には、その組織全体が好き勝手な振る舞いを行うということである。検察庁などはその例だろう。
ここで読者はなぜチェックを受けない際に不正を働くようになるという普通の人間が備えた性質が、「失敗学」と関係しているか疑問に思うかも知れない。しかし失敗学が考える失敗には、いわゆるヒューマンエラー、つまり人間であるがゆえに起きる勘違いや思い違いによるものだけでなく、いわゆる魔が差すという事態、すなわち「道徳的な過ち」をも含むものと考えるべきだろう。そしてそれを防ぐ方法も、ヒューマンエラーを予防する方法と同じである。それは二重、三重のチェック機構であり、いわゆる内部告発の促進である。人は単なるミステイクをおかすのみならず、魔が差すものであるということを前提とし、受け入れることで、やっと私たちはそれに対する対抗手段を得ることである。とすれば検察庁の不正を防ぐには・・・・・・ 100パーセント可視化しかないではないか!!
2010年9月22日水曜日
2010年9月13日月曜日
恥と自己愛 その11. 「わかったふうなことを言わない」ことの難しさ
イチローが10年連続200本安打まで、あと19試合で14本のところまで来ているという。そろそろ本気で期待していいのだろう。何しろこれほど純粋に喜べ、自己価値感が高まることはない。「イチローは天才である。そして彼は日本人男性である。ちなみに私も日本人男性だから、私もエラい」というかなり無理な論理だが、完全な誤りというわけでもない。それに一応タダである。(それに比べると巨人は困ったものだ。夏になってから「巨人なんて知らないモン」モードに入るのに苦労したじゃないか!イチローはそういう裏切り方をここ10年しないでいてくれるのである。)
アメリカにいるときも、日本に帰ってからも、精神科医が気に食わない、という患者の話を散々聞いた。以前にあったことのある精神科医について患者から尋ねると、いい話などほとんど出てこなかった。私の同僚のメキシコ人の精神科医は、ちょっとシャイで言葉が少ないところがあった。かなり知的で持って回った話し方はするが、根はいいやつであった。しかし患者の目からは「気取っていて、何を言っているかわからない。患者を馬鹿にしているような雰囲気があった」となる。もちろん私も自分自身について「偉そうにしている」とある患者が言っているという話を聞いた。(ただし言葉の不自由な東洋人の精神科医が、「偉そうにする」のは結構難しいはずだったのだが。)米国では少なくとも私が勤めていたクリニックは生活保護 disability の給付を受けている人が多く、医師はたいてい彼らに比べて高学歴で裕福である。するとよほどのことがない限り、「あの医者は自分たちを下に見ている」となる可能性がある。デフォールトがこうなのだ。何もしないと、普通なら偉そうにして人を見下している、と思われるのであるから、それがいやならよほど腰を低くしていないとそれを代償できない。それもかなりエネルギーを発揮して、無理をしてへりくだる必要があり、そうなるともう「そういうものなのだ」とあきらめることになる。
ただ私が常に考えているのは、患者に対してなるべく「わかった風なことを言わない」ことにしようということだ。外見から判断されることはどうしようもない。オヤジは見た目で既に人を威圧したり、怖がらせたりするものだ。しかし話し方まで「偉そうに」はしたくないものだと思う。ところが気がつくと「偉そうに」「わかった風な口のきき方」をしている自分に気がつくのだ。
それに50歳を超えると、何もしていなくても「落ち着いている」「ベテランだ」「安心できる」などといわれることが多くなる。若い頃は何をしても、何を言っても信用されない気がしていたのに、年をとると逆に見た目でなんとなく信用してもらえる。「自己愛のフリーラン」がおきる条件はほぼ整っているのであるのだ。
ここでまた小沢さんを思い出す。彼はたしか68歳。貫禄があり、コワモテだ。彼がギロリと睨むと泣く子も黙る。でもそれに頼るのはよろしくない。というか私には納得できない。あの顔で頭のてっぺんから甲高い声を出したりでもしたら、効果は半減するだろう。
私の場合はアメリカにいるときは、何しろ言葉が威厳を保つことを邪魔にしていたので、もっともらしさを演出できなかった。人と言語的に交流することそのものがストレスであり、緊張の連続であった。でも日本に帰ってからはそれが急になくなり、人と話すことが昔に比べたら苦痛でなくなってきている。それにもともと姿勢が悪く、人の話を聞きながらいつの間にか足を組んだり、頬づえをついたりする。ひどく横柄であるが、見方によっては余裕たっぷりでリラックスしきっているように見えるらしい。すると多少自信がなくても、患者さんの話に「うーん、確かにそういうことはあるかもしれないですね。」などというと「年配の精神科医が、同意してくれた」ように聞こえるらしい。「それはね、たぶん~ということなんだろ思いますよ。」などというと、これがまたもっともらしく物事を説明しているように聞こえてしまうようなのだ。
見た目その他の余計な要素に頼ることなく、人とコミュニケーションを行ない、メッセージを伝えたいと思う。あのタケシなどのスタンスにもそのような意志を感じる。
アメリカにいるときも、日本に帰ってからも、精神科医が気に食わない、という患者の話を散々聞いた。以前にあったことのある精神科医について患者から尋ねると、いい話などほとんど出てこなかった。私の同僚のメキシコ人の精神科医は、ちょっとシャイで言葉が少ないところがあった。かなり知的で持って回った話し方はするが、根はいいやつであった。しかし患者の目からは「気取っていて、何を言っているかわからない。患者を馬鹿にしているような雰囲気があった」となる。もちろん私も自分自身について「偉そうにしている」とある患者が言っているという話を聞いた。(ただし言葉の不自由な東洋人の精神科医が、「偉そうにする」のは結構難しいはずだったのだが。)米国では少なくとも私が勤めていたクリニックは生活保護 disability の給付を受けている人が多く、医師はたいてい彼らに比べて高学歴で裕福である。するとよほどのことがない限り、「あの医者は自分たちを下に見ている」となる可能性がある。デフォールトがこうなのだ。何もしないと、普通なら偉そうにして人を見下している、と思われるのであるから、それがいやならよほど腰を低くしていないとそれを代償できない。それもかなりエネルギーを発揮して、無理をしてへりくだる必要があり、そうなるともう「そういうものなのだ」とあきらめることになる。
ただ私が常に考えているのは、患者に対してなるべく「わかった風なことを言わない」ことにしようということだ。外見から判断されることはどうしようもない。オヤジは見た目で既に人を威圧したり、怖がらせたりするものだ。しかし話し方まで「偉そうに」はしたくないものだと思う。ところが気がつくと「偉そうに」「わかった風な口のきき方」をしている自分に気がつくのだ。
それに50歳を超えると、何もしていなくても「落ち着いている」「ベテランだ」「安心できる」などといわれることが多くなる。若い頃は何をしても、何を言っても信用されない気がしていたのに、年をとると逆に見た目でなんとなく信用してもらえる。「自己愛のフリーラン」がおきる条件はほぼ整っているのであるのだ。
ここでまた小沢さんを思い出す。彼はたしか68歳。貫禄があり、コワモテだ。彼がギロリと睨むと泣く子も黙る。でもそれに頼るのはよろしくない。というか私には納得できない。あの顔で頭のてっぺんから甲高い声を出したりでもしたら、効果は半減するだろう。
私の場合はアメリカにいるときは、何しろ言葉が威厳を保つことを邪魔にしていたので、もっともらしさを演出できなかった。人と言語的に交流することそのものがストレスであり、緊張の連続であった。でも日本に帰ってからはそれが急になくなり、人と話すことが昔に比べたら苦痛でなくなってきている。それにもともと姿勢が悪く、人の話を聞きながらいつの間にか足を組んだり、頬づえをついたりする。ひどく横柄であるが、見方によっては余裕たっぷりでリラックスしきっているように見えるらしい。すると多少自信がなくても、患者さんの話に「うーん、確かにそういうことはあるかもしれないですね。」などというと「年配の精神科医が、同意してくれた」ように聞こえるらしい。「それはね、たぶん~ということなんだろ思いますよ。」などというと、これがまたもっともらしく物事を説明しているように聞こえてしまうようなのだ。
見た目その他の余計な要素に頼ることなく、人とコミュニケーションを行ない、メッセージを伝えたいと思う。あのタケシなどのスタンスにもそのような意志を感じる。
2010年9月10日金曜日
恥と自己愛 その10 言いたいことが言える関係?
私が教員になってもう4年目であるが、わりと面白い体験を持っている。それは学生は本当に言いたいことが言える相手となることが多い、ということだ。ちょっと聞くと変な話かもしれないが、私にも意外な発見だ。
まあ家族はここでは除外しよう。結構いいたいことは言えている。しかし家族は言いたいことが言えてもしょうがない場合が多い。「ふーん、まあね。それで?」となる。神さんだとかえって機嫌を損ねて、日常生活がままならなくなることもある。その意味で神さんは神ではないにせよ、上司扱いかもしれない。最近どこかで入賞した川柳でこんなのがあった。「カミサンを 上司と思えば 割りきれる」 うまいうまい。だから言いたいことも言えない場合が多い。また子供に対しては、たしかに言いたいことは言える。問題はしばしば聞いてもらえないことだ。
私たちが日常生活で接するのは、社会的な文脈の中で出会った人たちばかりである。同い年だったり、職場での位が同等でも、そこには遠慮や気遣いが必要となる。すこし率直にモノを言うと、それで関係が崩れてしまうこともありうる。部下に対しても似たようなことが起きる。率直に考えを伝えることで自分の為に働いてもらえないこともあるからだ。
その点学生は違う。彼らは原則的に受身であり、教員である私たちから指導を受けることをいわば仕事としている。するとこんなことが言える。
「君たちね。ゼミ担当の私からメールがあったら、少なくとも一日以内に返事をちょうだいね。」「病院での実習に、この服装はちょっと不味いよ。」「君、『老婆心』て、こんな時は使わないんじゃない?」
服装とか言葉の使い方とかの指摘は、社会人としてのプライドが育ってきた人にはなかなか言い難いものだ。ある分析の偉い先生は、vignette (ビニェット、エピソードのこと)を「ビグネット」と間違って発音していたが、誰も恐れ多くて注意出来ないでいた。その後何年も同じ言い間違えをしていた。そんなことも起きてしまう。
私は学生、特にゼミ生を相手にしていると、自分の考えを率直に伝え、相手に恥をかかせてしまうのではないかという懸念に押しつぶされることなく誤りを指摘できる関係を持てて、実に貴重な体験を持つことができている。本当に言いたいことを言える率直な人間関係は師弟関係だったのか?・・・。しかしもちろんこれは私の方が勝手に持つ幻想であるに過ぎない。教官と学生の関係はこんなに美しくはない。たいてい学生の方は、言いたいことの何分の位置も私にはいっていないのである。しかもこの「師弟関係」は、パワハラ、モラハラがいくらでも起きうるような関係だ。つまり教員の方の自己愛のフリーランが起きうる関係なのである。
それでも教員であることの一つの楽しみは、気を抜けばパワハラが起きてしまいかねない関係で、あまり気兼ねなく本音を伝えることが出来るような経験を持つことであると思う。
まあ家族はここでは除外しよう。結構いいたいことは言えている。しかし家族は言いたいことが言えてもしょうがない場合が多い。「ふーん、まあね。それで?」となる。神さんだとかえって機嫌を損ねて、日常生活がままならなくなることもある。その意味で神さんは神ではないにせよ、上司扱いかもしれない。最近どこかで入賞した川柳でこんなのがあった。「カミサンを 上司と思えば 割りきれる」 うまいうまい。だから言いたいことも言えない場合が多い。また子供に対しては、たしかに言いたいことは言える。問題はしばしば聞いてもらえないことだ。
私たちが日常生活で接するのは、社会的な文脈の中で出会った人たちばかりである。同い年だったり、職場での位が同等でも、そこには遠慮や気遣いが必要となる。すこし率直にモノを言うと、それで関係が崩れてしまうこともありうる。部下に対しても似たようなことが起きる。率直に考えを伝えることで自分の為に働いてもらえないこともあるからだ。
その点学生は違う。彼らは原則的に受身であり、教員である私たちから指導を受けることをいわば仕事としている。するとこんなことが言える。
「君たちね。ゼミ担当の私からメールがあったら、少なくとも一日以内に返事をちょうだいね。」「病院での実習に、この服装はちょっと不味いよ。」「君、『老婆心』て、こんな時は使わないんじゃない?」
服装とか言葉の使い方とかの指摘は、社会人としてのプライドが育ってきた人にはなかなか言い難いものだ。ある分析の偉い先生は、vignette (ビニェット、エピソードのこと)を「ビグネット」と間違って発音していたが、誰も恐れ多くて注意出来ないでいた。その後何年も同じ言い間違えをしていた。そんなことも起きてしまう。
私は学生、特にゼミ生を相手にしていると、自分の考えを率直に伝え、相手に恥をかかせてしまうのではないかという懸念に押しつぶされることなく誤りを指摘できる関係を持てて、実に貴重な体験を持つことができている。本当に言いたいことを言える率直な人間関係は師弟関係だったのか?・・・。しかしもちろんこれは私の方が勝手に持つ幻想であるに過ぎない。教官と学生の関係はこんなに美しくはない。たいてい学生の方は、言いたいことの何分の位置も私にはいっていないのである。しかもこの「師弟関係」は、パワハラ、モラハラがいくらでも起きうるような関係だ。つまり教員の方の自己愛のフリーランが起きうる関係なのである。
それでも教員であることの一つの楽しみは、気を抜けばパワハラが起きてしまいかねない関係で、あまり気兼ねなく本音を伝えることが出来るような経験を持つことであると思う。
2010年6月15日火曜日
自己愛のフリーランを起こさない人は聖人君主か?
というテーマで書きだすわけだが、やはり高校時代に一時期サッカー部に属していた私としては、ワールドカップに触れないわけにはいかない。ニッポン万歳。でももう勝つことはないだろう。
ところで冒頭のテーマである。もうこの話題の展開はミエミエだったのではないか? 私自身にも胸のうちにそのような理想的なイメージがあることは事実である。
私はかつてあるエッセイ集(気弱な精神科医のアメリカ奮闘記、紀伊国屋書店、2005年)で、「自分たちは自らの存在を蟻のごとく思うべきであろう」と書いた。常に謙虚に、自分を小さな蟻のように感じていることが、自分に対する失望から身を守ることにもなる、というのがその要旨であった。その後私自身はほとんど気にかけてもいなかったその記述について、何人かの読者から問われることになった。「先生がそんなことをお考えなのですか?信じられませんね。」「とてもユニークな発想ですね。」私としては自分を蟻のごとく思うべきだ、と言う発想自体は決して独創的なものではないと思っていたので(もちろんそれを実際に実行できるかどうか、とはまったくの別問題である)そのことが意外だったことを覚えている。
昨日も、フリーランを防いでいるのは日常的な歯止めや警告である、と書いた。それは「~してはいけない」というあからさまな禁止である必要はない。たとえて言うならば、体重のコントロールに難儀をしている人が、毎日体重計に乗るようなものである。少なくとも自分の状態を客観的に示してくれるものがあれば、フリーランの抑制になる。そしてもしそれが存在しないのであれば、フリーランを防ぐのはかなり徹底したメンタルトレーニングと言うことになる。あるいは想像力と言うべきか。先ほどの医者を例に取ると、「うん、最近おれは病院内で肩で風を切る程度がほんのちょっと上がっているぞ。気をつけなければ。」と自覚する医者は少ない。「横柄度計」などというハイテクの機会が開発されて、病院の廊下に設置されて数字が大きく表示される、というのであれば別であるが。それになんといっても医師が肩で風を切るようになることによる実害はおそらくあまりないのであろう。その医師が内視鏡の主義があがり、テレビなどにも出て、全国から患者が集まったとしたら、ちょっとしたオーバーアクションや、最近流行の表現である「上から目線」などは周囲から期待されかねない。すると周囲からちやほやされて幾分舞い上がって横柄になっている自分に対する歯止めは、それに対する自分自身の倫理観や美的な感覚くらいしかなくなってくる。そしてそのような倫理観を持っている人が稀有であり、いわば聖人君主的とまで言いたくなるのは、実際に自己愛のフリーランに陥らない人が極めて少ない、と言う事実による。少ない、と言うのは特に数値化されていないし、そのような統計などあるはずもない。しかし私たちが実際に人を観察しているとわかることなのである。言うまでもないことだが、自己愛のフリーランは、その程度を問わないならば、あらゆる人に起きる可能性があり、その意味では観察対象はその気になれば身の回りにいくらでも存在するのである。
むしろこう考えるべきであろう。自己愛のフリーランを起こさないことはあまりにエネルギーを使うことであり、成人君主的な人間がそのことをそれほど気にするような必然性もないのだ。「彼はちょっとお高くとまっているんじゃない?」と言われることなど、実害さえなければ気にしないというわけである。おそらく成人君主はその知性、教養、人間理解の深さから、独特のオーラを発し、周囲を圧倒するだろう。人は彼を特別扱いする。そのとき彼が自分を蟻扱いすると、むしろ周囲が迷惑なのではないか。周囲が彼に少し立派な椅子を勧め、特別な場所を用意したなら、おそらくその方が収まりがいいからなのだろう。成人君主は独り言を言う。「やれやれ、ではまた蟻ではないフリをするか。」
つまり成人君主だって少し偉ぶる方が皆のためになる場合にはそうするのだ。しかしそれは自己愛のフリーランの結果ではない。ではナルのふりをしている人と、実際のナルとはとこが違うのだろう?それは彼のプライドをくすぐるようなちょっとした刺激をしてみることでわかる。ナルなふりをしている成人君主ならば、彼を知らない若者がボ●老人扱いをしても、自己愛憤怒は起こさずに、今度は●ケ老人を演じることもいとわないのである。
何を書いているのか分からなくなった。ということでこのテーマは今日でおしまいにしよう。
ところで冒頭のテーマである。もうこの話題の展開はミエミエだったのではないか? 私自身にも胸のうちにそのような理想的なイメージがあることは事実である。
私はかつてあるエッセイ集(気弱な精神科医のアメリカ奮闘記、紀伊国屋書店、2005年)で、「自分たちは自らの存在を蟻のごとく思うべきであろう」と書いた。常に謙虚に、自分を小さな蟻のように感じていることが、自分に対する失望から身を守ることにもなる、というのがその要旨であった。その後私自身はほとんど気にかけてもいなかったその記述について、何人かの読者から問われることになった。「先生がそんなことをお考えなのですか?信じられませんね。」「とてもユニークな発想ですね。」私としては自分を蟻のごとく思うべきだ、と言う発想自体は決して独創的なものではないと思っていたので(もちろんそれを実際に実行できるかどうか、とはまったくの別問題である)そのことが意外だったことを覚えている。
昨日も、フリーランを防いでいるのは日常的な歯止めや警告である、と書いた。それは「~してはいけない」というあからさまな禁止である必要はない。たとえて言うならば、体重のコントロールに難儀をしている人が、毎日体重計に乗るようなものである。少なくとも自分の状態を客観的に示してくれるものがあれば、フリーランの抑制になる。そしてもしそれが存在しないのであれば、フリーランを防ぐのはかなり徹底したメンタルトレーニングと言うことになる。あるいは想像力と言うべきか。先ほどの医者を例に取ると、「うん、最近おれは病院内で肩で風を切る程度がほんのちょっと上がっているぞ。気をつけなければ。」と自覚する医者は少ない。「横柄度計」などというハイテクの機会が開発されて、病院の廊下に設置されて数字が大きく表示される、というのであれば別であるが。それになんといっても医師が肩で風を切るようになることによる実害はおそらくあまりないのであろう。その医師が内視鏡の主義があがり、テレビなどにも出て、全国から患者が集まったとしたら、ちょっとしたオーバーアクションや、最近流行の表現である「上から目線」などは周囲から期待されかねない。すると周囲からちやほやされて幾分舞い上がって横柄になっている自分に対する歯止めは、それに対する自分自身の倫理観や美的な感覚くらいしかなくなってくる。そしてそのような倫理観を持っている人が稀有であり、いわば聖人君主的とまで言いたくなるのは、実際に自己愛のフリーランに陥らない人が極めて少ない、と言う事実による。少ない、と言うのは特に数値化されていないし、そのような統計などあるはずもない。しかし私たちが実際に人を観察しているとわかることなのである。言うまでもないことだが、自己愛のフリーランは、その程度を問わないならば、あらゆる人に起きる可能性があり、その意味では観察対象はその気になれば身の回りにいくらでも存在するのである。
むしろこう考えるべきであろう。自己愛のフリーランを起こさないことはあまりにエネルギーを使うことであり、成人君主的な人間がそのことをそれほど気にするような必然性もないのだ。「彼はちょっとお高くとまっているんじゃない?」と言われることなど、実害さえなければ気にしないというわけである。おそらく成人君主はその知性、教養、人間理解の深さから、独特のオーラを発し、周囲を圧倒するだろう。人は彼を特別扱いする。そのとき彼が自分を蟻扱いすると、むしろ周囲が迷惑なのではないか。周囲が彼に少し立派な椅子を勧め、特別な場所を用意したなら、おそらくその方が収まりがいいからなのだろう。成人君主は独り言を言う。「やれやれ、ではまた蟻ではないフリをするか。」
つまり成人君主だって少し偉ぶる方が皆のためになる場合にはそうするのだ。しかしそれは自己愛のフリーランの結果ではない。ではナルのふりをしている人と、実際のナルとはとこが違うのだろう?それは彼のプライドをくすぐるようなちょっとした刺激をしてみることでわかる。ナルなふりをしている成人君主ならば、彼を知らない若者がボ●老人扱いをしても、自己愛憤怒は起こさずに、今度は●ケ老人を演じることもいとわないのである。
何を書いているのか分からなくなった。ということでこのテーマは今日でおしまいにしよう。
2010年6月14日月曜日
自己愛のフリーランをどうするのか?
もうそろそろ自己愛のテーマはおしまいにしようと思う。もうあまり新しい展開はないことが書いていてわかった。これまでの内容をもとに原稿にするしかないが、今回少し広げておきたいのが、「自己愛のフリーラン」の問題である。書いていて思ったが、自己愛のフリーランは、人をますます恥知らずにしていく過程である。それが自己愛と恥の密接なはずの関係との対比で面白いと思ったからだ。
聖路加などで医者を見ていると、つくづく面白い。今日も隣の耳鼻科の前を通ると、私の目の前をいきなり男が出てきて横切って行った。白衣の前を開けたままで体をそびやかし、両腕を振り、病院内で上着のボタンをすべてはずし、肩で風を切って歩くようなその姿は、医者以外にはありえない。といってもまだレジデントのレベルではおとなしいが、シニアになるに従ってその姿は「偉そうに」なる。確かにその男は聴診器を下げていたから間違いないだろう。病院で一人偉そうにしている医師たち。どうしてこんなに分かりやすいのだろうか。
ここで何が「偉そうな」ふるまいの特徴かを考えてみる。それはおそらくプライベートな生活で取るであろう態度や姿勢に近づいた状態と考えることができる。社会の中で自分より「格が上」の人たちに交じり、服装などもきちんとし、小さくなって目立たずにいる状態から始まって、次第に地位を得て、そのような気遣いを失っていくプロセスを考えてみよう。自分が地位を得て病院での主人公になっていくこととは、そこで服装なども気にせずに我が物顔でリラックスして過ごすことである。肩で風を切っているかのような耳鼻科医は、むしろ自宅で一人でリラックスして気兼ねなく歩き回っているのと同じなのだ。自宅では「肩で風を切って」も跳ね飛ばすことを心配するような他人ははいない。白衣を着てもまた脱ぐ手間を考えたら、ボタンだって外すだろう。誰でも自宅でのくつろいだ振舞いを公的な場で見せたら、ものすごく「横柄」になるのだ。すると自己愛のフリーランとは、主観的には「徐々にくつろいだ振舞いをする」という体験であり、そこにさして後ろめたさや罪悪感を引き起こすような代物ではないかもしれない。彼らにとっては少しずつ気楽にふるまうようになるというプロセスに過ぎないのだ。
この変化を私が「フリーラン」と呼ぶのは、フリーランとは要するに自分自身に快適な形で少しずつ自らの態度や振る舞いや行動がずれていく現象だからだ。フリーランの例としては睡眠リズムがある。被験者に一切時間のキューを与えずにいると、どんどん就寝時間が遅くなっていくのだ。そしてそこには「~時までに寝なくてはならない」という規制が少ないか、または存在しないという条件がある。自己愛のフリーランを「リラックスして我が物顔でふるまうようになるプロセス」と表現したが、こちらの方も同様である。それを注意したりたしなめたりするような人がいないことが原因なのだ。白衣の前をはずしても誰もとがめない(あるいは他の医者もそうしているから、それがむしろ普通なのだ!?)というレベルのことからフリーランが始まる。そう、歯止めが効かないところで人はどんどん楽をするようになる、というのがフリーランであり、自己愛のフリーランも同様である。とするとこれは誰にでも起きることなのだろうか?どんな謙虚な人間も力を得れば横柄になり、自己愛的になっていくのだろうか?
ところでこう書いている私も医者であり、「医者は権威を持っている」というような表現はもちろん抵抗がある。自己愛のフリーランを批判するかのようなことを書いている私も、やはりそれを起こしている。例えば私は診察中などの姿勢がとても悪い。英語で言うslouching をしてしまう。すごく悪い癖だと思うが、直せない。衣服がだらしないのは、実は「地」であり、フリーランとはあまり関係ない。独身の頃はもっとひどかった。若いころはスーツやジャケットを着込んで患者と会うのは権威的だと思っていたから、アイロンのあたっていないシャツにジャンパーを着込んで病棟に出ていたりした。(これは別の意味でのフリーラン、だらしなさのフリーランか?)
聖路加などで医者を見ていると、つくづく面白い。今日も隣の耳鼻科の前を通ると、私の目の前をいきなり男が出てきて横切って行った。白衣の前を開けたままで体をそびやかし、両腕を振り、病院内で上着のボタンをすべてはずし、肩で風を切って歩くようなその姿は、医者以外にはありえない。といってもまだレジデントのレベルではおとなしいが、シニアになるに従ってその姿は「偉そうに」なる。確かにその男は聴診器を下げていたから間違いないだろう。病院で一人偉そうにしている医師たち。どうしてこんなに分かりやすいのだろうか。
ここで何が「偉そうな」ふるまいの特徴かを考えてみる。それはおそらくプライベートな生活で取るであろう態度や姿勢に近づいた状態と考えることができる。社会の中で自分より「格が上」の人たちに交じり、服装などもきちんとし、小さくなって目立たずにいる状態から始まって、次第に地位を得て、そのような気遣いを失っていくプロセスを考えてみよう。自分が地位を得て病院での主人公になっていくこととは、そこで服装なども気にせずに我が物顔でリラックスして過ごすことである。肩で風を切っているかのような耳鼻科医は、むしろ自宅で一人でリラックスして気兼ねなく歩き回っているのと同じなのだ。自宅では「肩で風を切って」も跳ね飛ばすことを心配するような他人ははいない。白衣を着てもまた脱ぐ手間を考えたら、ボタンだって外すだろう。誰でも自宅でのくつろいだ振舞いを公的な場で見せたら、ものすごく「横柄」になるのだ。すると自己愛のフリーランとは、主観的には「徐々にくつろいだ振舞いをする」という体験であり、そこにさして後ろめたさや罪悪感を引き起こすような代物ではないかもしれない。彼らにとっては少しずつ気楽にふるまうようになるというプロセスに過ぎないのだ。
この変化を私が「フリーラン」と呼ぶのは、フリーランとは要するに自分自身に快適な形で少しずつ自らの態度や振る舞いや行動がずれていく現象だからだ。フリーランの例としては睡眠リズムがある。被験者に一切時間のキューを与えずにいると、どんどん就寝時間が遅くなっていくのだ。そしてそこには「~時までに寝なくてはならない」という規制が少ないか、または存在しないという条件がある。自己愛のフリーランを「リラックスして我が物顔でふるまうようになるプロセス」と表現したが、こちらの方も同様である。それを注意したりたしなめたりするような人がいないことが原因なのだ。白衣の前をはずしても誰もとがめない(あるいは他の医者もそうしているから、それがむしろ普通なのだ!?)というレベルのことからフリーランが始まる。そう、歯止めが効かないところで人はどんどん楽をするようになる、というのがフリーランであり、自己愛のフリーランも同様である。とするとこれは誰にでも起きることなのだろうか?どんな謙虚な人間も力を得れば横柄になり、自己愛的になっていくのだろうか?
ところでこう書いている私も医者であり、「医者は権威を持っている」というような表現はもちろん抵抗がある。自己愛のフリーランを批判するかのようなことを書いている私も、やはりそれを起こしている。例えば私は診察中などの姿勢がとても悪い。英語で言うslouching をしてしまう。すごく悪い癖だと思うが、直せない。衣服がだらしないのは、実は「地」であり、フリーランとはあまり関係ない。独身の頃はもっとひどかった。若いころはスーツやジャケットを着込んで患者と会うのは権威的だと思っていたから、アイロンのあたっていないシャツにジャンパーを着込んで病棟に出ていたりした。(これは別の意味でのフリーラン、だらしなさのフリーランか?)
2010年6月13日日曜日
何を恥に思うのか?
これはすごく重要な問題だ。私は通勤の途中に乗客の観察をするクセがあるが、あからさまに化粧をしている人(当然女性である)の姿は確かに見ていて恥ずかしい。しかしもっと恥ずかしいと思うのは、座席をひとり半分ほど占めていながら、譲る気配を見せない男性(こちらはほとんど男性!)である! 私のような気の小さい人間は、すこしも体を動かさずに、半人分しかあいていない空席を広げてくれない二人の男性の間に割って入るのには勇気がいる。そんな時私は「この世でいちばん醜いのは、自分のことばかりを考えて他人に対する顧慮を見せない人の姿である」と感じる。
と言っても人はもともと利己主義的なものである。人の気持ちを顧慮するためには、ほんの少しだけ心の労力を必要とすることが多い。自然なままでいると、つい利己主義の方に流れていくのが私たち人間であるという自覚がある。だからこそ自分の中の醜さを見せつけているような他人をみて不快になるのかも知れない。
でもこれと自己愛の問題とどう関係があるのか?彼らは「恥ずかしい」姿を、電車の中で意図的に人目にさらしているのであるから、そしてそもそも自分たちの姿を恥ずかしいとは思っていないのであろうから、「自己愛を傷つけられて恥の感情を持つ」という図式自体が成立していない。というよりも、彼らは恥を知らない、恥知らず、という意味でいわゆる「ナル」(これも正式には「自己愛的」)といえるのであろう。
このように「恥知らず」としての「自己愛」と、恥を敏感に感じる自己愛とは矛盾することになる。自己愛を無関心(恥知らず)型と敏感型、ないしは厚皮型と薄皮型にわけるというGabbard のアイデアはここに関係している。しかし実は恥知らずの自己愛そして彼らの自己愛は、私たちの想像の埒外の、ほんの僅かな他人とのやりとりにより損なわれ、怒りの暴発をうむのである。無関心型のナルシシストは、実は自分の取り巻きの反応に極めて敏感で、すこしの反発にも、そこに自分に対する忠誠心の欠如を感じ、あるいは自分に対する悪意や殺意を感じとってしあう。独裁者に典型的に見られるこのパラノイアは、やはり「自己愛のフリーラン」の一つの表れと言えるだろう。
と言っても人はもともと利己主義的なものである。人の気持ちを顧慮するためには、ほんの少しだけ心の労力を必要とすることが多い。自然なままでいると、つい利己主義の方に流れていくのが私たち人間であるという自覚がある。だからこそ自分の中の醜さを見せつけているような他人をみて不快になるのかも知れない。
でもこれと自己愛の問題とどう関係があるのか?彼らは「恥ずかしい」姿を、電車の中で意図的に人目にさらしているのであるから、そしてそもそも自分たちの姿を恥ずかしいとは思っていないのであろうから、「自己愛を傷つけられて恥の感情を持つ」という図式自体が成立していない。というよりも、彼らは恥を知らない、恥知らず、という意味でいわゆる「ナル」(これも正式には「自己愛的」)といえるのであろう。
このように「恥知らず」としての「自己愛」と、恥を敏感に感じる自己愛とは矛盾することになる。自己愛を無関心(恥知らず)型と敏感型、ないしは厚皮型と薄皮型にわけるというGabbard のアイデアはここに関係している。しかし実は恥知らずの自己愛そして彼らの自己愛は、私たちの想像の埒外の、ほんの僅かな他人とのやりとりにより損なわれ、怒りの暴発をうむのである。無関心型のナルシシストは、実は自分の取り巻きの反応に極めて敏感で、すこしの反発にも、そこに自分に対する忠誠心の欠如を感じ、あるいは自分に対する悪意や殺意を感じとってしあう。独裁者に典型的に見られるこのパラノイアは、やはり「自己愛のフリーラン」の一つの表れと言えるだろう。
2010年6月12日土曜日
「イラ菅と自己愛の問題」
応用問題として、昨日インターネット上で拾ったニュースを取り上げる。
「イラ菅」早くも炸裂 我慢の糸切れる (産経ニュース)2010.6.11 19:35 菅直人首相は11日、首相官邸でのぶら下がり取材で、記者団の質問に不快感をあらわにし、早くも短気な性格から「イラ菅」と呼ばれてきた本領を発揮した。記者団から、今国会の会期を延長しない方針をめぐり、野党側から「逃げている」と批判されていることを問われると首相の表情は一変。「何の批判ですか?」「なぜ批判が出ているのですか?」と4回にわたり、記者団を“追及”した。さらに、所信表明演説に具体性がなかったと指摘されると「全部聞いてました? もっと大変なことを申し上げたつもりなんですけど」と怒気を強めた。国民新党の亀井静香代表が金融・郵政改革担当相を辞任したことで鬱憤がたまっていたためか、首相就任からわずか4日目にして我慢の糸が切れたようだ。
さてこの怒りは何なのだろうか?「野党側から『逃げている』と批判されていることを問われると首相の表情は一変・・・」とある。彼は実際に国会で野党から、「逃げている」と非難されて顔色を変えるだろうか? たぶん否である。おそらく「お前たち記者くんだりに、何でそんなことをいわれなくちゃならないんだよ!」記者はうまく、「~と言われていますが・・・」と逃げているが、管首相にとっては、貴社から直接いちゃもんをつけられているのも同じなのだ。自分より下と思っている記者から、ききたくないことを言われることで、首相のプライドは著しく傷ついたのだ。昨日の「人はそれぞれ対人関係の中で『自分は~だ』というイメージを持っている」というのはこういうことである。「自分は野党の党首からこれを言われても仕方がないが、記者から言われて恥をかかされ手おとなしくしているような人間ではない。」というイメージを記者が傷つけたのだ。
ただし記者はただの記者ではない。ペンを通して、あるいはテレビでの映像を通して国民に訴えることの出来る「権力者」でもあるのだ。そして記者たちはそのことを知っている。こうして実は記者たちもまた深刻な自己愛のフリーランを起こしかねない人種であることも確かなのであろう。
「イラ菅」早くも炸裂 我慢の糸切れる (産経ニュース)2010.6.11 19:35 菅直人首相は11日、首相官邸でのぶら下がり取材で、記者団の質問に不快感をあらわにし、早くも短気な性格から「イラ菅」と呼ばれてきた本領を発揮した。記者団から、今国会の会期を延長しない方針をめぐり、野党側から「逃げている」と批判されていることを問われると首相の表情は一変。「何の批判ですか?」「なぜ批判が出ているのですか?」と4回にわたり、記者団を“追及”した。さらに、所信表明演説に具体性がなかったと指摘されると「全部聞いてました? もっと大変なことを申し上げたつもりなんですけど」と怒気を強めた。国民新党の亀井静香代表が金融・郵政改革担当相を辞任したことで鬱憤がたまっていたためか、首相就任からわずか4日目にして我慢の糸が切れたようだ。
さてこの怒りは何なのだろうか?「野党側から『逃げている』と批判されていることを問われると首相の表情は一変・・・」とある。彼は実際に国会で野党から、「逃げている」と非難されて顔色を変えるだろうか? たぶん否である。おそらく「お前たち記者くんだりに、何でそんなことをいわれなくちゃならないんだよ!」記者はうまく、「~と言われていますが・・・」と逃げているが、管首相にとっては、貴社から直接いちゃもんをつけられているのも同じなのだ。自分より下と思っている記者から、ききたくないことを言われることで、首相のプライドは著しく傷ついたのだ。昨日の「人はそれぞれ対人関係の中で『自分は~だ』というイメージを持っている」というのはこういうことである。「自分は野党の党首からこれを言われても仕方がないが、記者から言われて恥をかかされ手おとなしくしているような人間ではない。」というイメージを記者が傷つけたのだ。
ただし記者はただの記者ではない。ペンを通して、あるいはテレビでの映像を通して国民に訴えることの出来る「権力者」でもあるのだ。そして記者たちはそのことを知っている。こうして実は記者たちもまた深刻な自己愛のフリーランを起こしかねない人種であることも確かなのであろう。
2010年6月11日金曜日
「突発的な怒りの精神病理」というのも書いていたぞ
これまで自己愛の関連でいくつか書いている。一番最近のものが,「突発的な怒りの精神病理」(こころの科学148 p70-79, 2009.)も同様のテーマを扱った論文だ。このような特集を企画している人は,過去の同様の特集の執筆者を見ているのだろうが, 過去の私の3論文、つまり「怒りについて考える―精神分析の立場から」(児童心理 9月号,1181-1185,2006)「怒りが発散されるとき、暴発するとき」(「児童心理」No.866 pp. 17-23 2007年)
「恥の倫理から見た自己愛問題」 精神療法 33:36-40,2007.の内容を見てのことだろう。そしてこの「突発的な怒りの精神病理」もそれらを踏襲している。だんだん新しいアイデアはなくなって,この論文では,失敗学が出てくる。つまり怒りの暴発とは,基本的には「抑圧―発散モデル」と「自己愛モデル」に従うが,個々の怒りのエピソードにおいては,何がどう働くかは,予測不可能だ,ということをいっている。
実際私たちの自己愛が,いつどのような形で傷つきを体験するかは,最終的には予測不可能なところがある。私たちは「自分は~だ」というイメージを持っている。しかもしれが対人関係の中で微妙に構造化されている。だから同じことを同じ調子で,しかし自分よりすこし年下の人から言われるだけで,瞬間的な恥→怒り,という反応が起きる。そしてその際何がその人の逆鱗に触れるかは,簡単に予想がつかないことがある。
このことから一つ展開できるとすれば,自己愛の問題と年齢、ないしは発達段階の関係である。私はかねてから,自己愛パーソナリティだけは,発達の後半になって現れる,と主張している。これが例えばBPDだと,若い頃はその兆候がなくて,人生の後期にそれが明らかになる,ということはまずありえない。しかし自己愛の問題は,それこそその人が人生の成功を収め,社会的な地位を得て,その後に生じることがある。ある組織の長になり,そこから暴走するということがある。
この現象を私は「自己愛のフリーラン」と呼んでいる。曰く:「自己愛は,通常はその人に与えられた地位,名誉,財産の許す限りにおいておかれたその際は,上記の「自分は~だ」という定義がどんどん肥大して良く可能性があるのだ。<このテーマを今回は広げようか。>
「恥の倫理から見た自己愛問題」 精神療法 33:36-40,2007.の内容を見てのことだろう。そしてこの「突発的な怒りの精神病理」もそれらを踏襲している。だんだん新しいアイデアはなくなって,この論文では,失敗学が出てくる。つまり怒りの暴発とは,基本的には「抑圧―発散モデル」と「自己愛モデル」に従うが,個々の怒りのエピソードにおいては,何がどう働くかは,予測不可能だ,ということをいっている。
実際私たちの自己愛が,いつどのような形で傷つきを体験するかは,最終的には予測不可能なところがある。私たちは「自分は~だ」というイメージを持っている。しかもしれが対人関係の中で微妙に構造化されている。だから同じことを同じ調子で,しかし自分よりすこし年下の人から言われるだけで,瞬間的な恥→怒り,という反応が起きる。そしてその際何がその人の逆鱗に触れるかは,簡単に予想がつかないことがある。
このことから一つ展開できるとすれば,自己愛の問題と年齢、ないしは発達段階の関係である。私はかねてから,自己愛パーソナリティだけは,発達の後半になって現れる,と主張している。これが例えばBPDだと,若い頃はその兆候がなくて,人生の後期にそれが明らかになる,ということはまずありえない。しかし自己愛の問題は,それこそその人が人生の成功を収め,社会的な地位を得て,その後に生じることがある。ある組織の長になり,そこから暴走するということがある。
この現象を私は「自己愛のフリーラン」と呼んでいる。曰く:「自己愛は,通常はその人に与えられた地位,名誉,財産の許す限りにおいておかれたその際は,上記の「自分は~だ」という定義がどんどん肥大して良く可能性があるのだ。<このテーマを今回は広げようか。>
2010年6月10日木曜日
やはり恥の話は面白い
こうやって見ると、結構同じ事を繰り返し言っている。そこで私がこの問題に着目したきっかけを少し紹介しよう。
992年くらいだっただろうか? その頃「精神分析は罪悪感について扱うことが多いが、恥についてはどこにも出てこないぞ」という発見があった。ちょうどその時アメリカの留学先に、かの小此木啓吾先生がいらしていた。私は何かの話の弾みで「私はこれから恥と精神分析をテーマにします」と申し上げた。しかし先生から何ら反応は聞かれなかった。もしかしたら先生に聞こえないぐらいの小声で言ったからかもしれない。でもこの時が、後に「精神分析界の恥と言えば岡野だ」と呼ばれるようになった私の研究の端緒であったのだ。<ジョークである。>
このように言ったからといって、私のオリジナリティというわけではない。Andrew Morrison のShame-Underside of Narcissism. という本がすでに出されていて、恥を精神分析の理論の中で再発見しようと書かれてあった。私はそれを読んで多いに同調したのであるが、もともと昔から恥の病理と言われる対人恐怖に興味を持っていたからである。またまだ英語で出たばかりのMorrisonの本の内容を把握している日本人は少なかった。アメリカでの話題を日本に伝える、ということも日本では「オリジナリティ」と呼ぶわけである。<← いちおう皮肉のつもりである。>
しかし私自身の名誉のためにもう一言付け加えるならば、私達の日常心理の中で恥によって動かされることは、罪悪感その他による場合よりはるかに多い、ということをこのころは自覚し始めていた。これだけは、まさに私自身の炯眼である<←誰も言ってくれないので。>
992年くらいだっただろうか? その頃「精神分析は罪悪感について扱うことが多いが、恥についてはどこにも出てこないぞ」という発見があった。ちょうどその時アメリカの留学先に、かの小此木啓吾先生がいらしていた。私は何かの話の弾みで「私はこれから恥と精神分析をテーマにします」と申し上げた。しかし先生から何ら反応は聞かれなかった。もしかしたら先生に聞こえないぐらいの小声で言ったからかもしれない。でもこの時が、後に「精神分析界の恥と言えば岡野だ」と呼ばれるようになった私の研究の端緒であったのだ。<ジョークである。>
このように言ったからといって、私のオリジナリティというわけではない。Andrew Morrison のShame-Underside of Narcissism. という本がすでに出されていて、恥を精神分析の理論の中で再発見しようと書かれてあった。私はそれを読んで多いに同調したのであるが、もともと昔から恥の病理と言われる対人恐怖に興味を持っていたからである。またまだ英語で出たばかりのMorrisonの本の内容を把握している日本人は少なかった。アメリカでの話題を日本に伝える、ということも日本では「オリジナリティ」と呼ぶわけである。<← いちおう皮肉のつもりである。>
しかし私自身の名誉のためにもう一言付け加えるならば、私達の日常心理の中で恥によって動かされることは、罪悪感その他による場合よりはるかに多い、ということをこのころは自覚し始めていた。これだけは、まさに私自身の炯眼である<←誰も言ってくれないので。>
2010年6月9日水曜日
自己愛の傷つきと怒り
もう一歩、自己愛について話を進める。かつて私は「怒りが発散されるとき、暴発するとき」(「児童心理」No.866 pp. 17-23 2007年)というテーマで自己愛の問題を論じたことがある。怒りは「抑圧―発散モデル」に従って理解されることが多いが、実は「自己愛モデル」の方が説明手段として有効な場合が多い、という趣旨だ。怒りとはすなわちプライドの傷つきへの反応として生じることが多い。プライドの傷つきを恥の感情と同等のものとするならば、これもまた恥と自己愛の議論の妥当性をかなり具体的な形で示していることになる。(この議論のソースは、コフートの自己愛憤怒 narcissistic rage にあることは言うまでもない。)
この議論は家庭、学校、職場などに見られる怒りや暴力の問題、ないしは社会における犯罪に関係した暴力をいかに捉え、いかに扱うかという問題に確かな視点を与えてくれると思う。怒りを理解し、その暴発を最小限にするひとつの方策は、人間が体験する恥の体験に注目し、それを雪ぐことである。もちろん怒りが表現される可能性のある状況に立ち入り、そこで密かにプライドの傷つきを体験している人を見つけることなど不可能である。しかし怒りを顕にしている人を前に、「この人は傷ついているのだ」と捉えることは、その怒りに対してただ単に怒りで応えるよりもはるかにソフィスティケートされたものといえるだろう。実はこの視点は、治療にも直結しているのである。
この議論は家庭、学校、職場などに見られる怒りや暴力の問題、ないしは社会における犯罪に関係した暴力をいかに捉え、いかに扱うかという問題に確かな視点を与えてくれると思う。怒りを理解し、その暴発を最小限にするひとつの方策は、人間が体験する恥の体験に注目し、それを雪ぐことである。もちろん怒りが表現される可能性のある状況に立ち入り、そこで密かにプライドの傷つきを体験している人を見つけることなど不可能である。しかし怒りを顕にしている人を前に、「この人は傷ついているのだ」と捉えることは、その怒りに対してただ単に怒りで応えるよりもはるかにソフィスティケートされたものといえるだろう。実はこの視点は、治療にも直結しているのである。
2010年6月8日火曜日
今度は恥の話か
「恥と自己愛」、ということで注文が舞い込んだ。もうだめだ。夏の間に4本書く事になってしまった。自転車操業とはこのことである。もはや快楽とかPES(快楽査定システム)どころではない。といって「恥と自己愛」に新しい問題意識はない。ということで、このブログは、なくてはならないものになってしまった。ここに書くことでしか、考えを先に進ませることができないのである。
それにしてもどうして注文を断れないのだろうか? 書くということは基本的に私にとっては無害なことである。注文に応じてかくということがなければ、おそらく私は本を読まない。快楽について、PESについてボーっと考えているだけで時間が過ぎてしまう。そしてこのテーマは本当に、論文や本の形が見えてこない。そのことを自分でよくわかっているからだろうか?
「恥と自己愛」ということですこし言いたいことがある。先日某学会の委員会があり、私はそこで素朴に感じたことを口にしてみた。すると多くの委員達に笑われ、実に恥ずかしい思いをしたのであるが、後でメンバーたちからは、私が口にしたことは結構良かったという反応をいただいた。結局皆頭では考えても、気恥ずかしいから口にしない、ということを私は口にしたようである。
私たちはちょっと間が悪い、格好がつかない、人から変に思われる、ということに極めて敏感である。私たちの社会生活のほとんどは、自分がそのような事態に陥るのを避ける耐えにエネルギーを費やしている。「恥」はまさに私たち人間の社会生活を支配しているのだ。それなのになぜあまり論じられないのか?それはその恥の感覚について論じることそのものが恥の感覚を生むからだ。
一方自己愛についてはどうか?自己愛は少なくとも精神分析のテーマとしては非常にしばしば論じられる。人は自己愛について語ることには「恥」の感覚が伴わないのか?
例えて言えばこんなことだろうか?皮膚のたるんだ裸を見られるのは恥ずかしい。シミだらけな顔や、荒れ野のような頭皮を見られるのは恥だ。でもそれを隠し、自分をより良く見せる方法について話すのは悪くない。ファッションについて、服装について、ヘアスタイルについて、つまり人は恥を避け、自己愛を満たすテーマについて語るのが好きだ。
そうか。私の「恥と自己愛の精神分析」が売れない理由がわかったぞ。しかし実はこの本ほど「もう手に入らないのか?」と問われる本もない。今回出版してから10年以上たって岩崎学術に100冊ほど限定で刷っていただいた。(このブロクで宣伝させていただいている。)恥の問題は皆心のどこかで捉え、決して自分からは論じない類のテーマなのだ。みな笑われるのが嫌だから・・・。
今回とある心理関係の刊行物で「自己愛」を扱うらしい。企画者は私に恥と自己愛というテーマで振ってくれた。ありがたい事である。私がほそぼそとこのテーマを論じ、ゼミ生の●●くんと××くんはなんとこのテーマを追ってくれている。(先生は嬉しいよ。)私もせいぜい「精神科関係の恥といえば岡野である」と紛らわしい言い方をされないように気をつけながら、このテーマについて考えたい。(例によって一週間くらいか?)
それにしてもどうして注文を断れないのだろうか? 書くということは基本的に私にとっては無害なことである。注文に応じてかくということがなければ、おそらく私は本を読まない。快楽について、PESについてボーっと考えているだけで時間が過ぎてしまう。そしてこのテーマは本当に、論文や本の形が見えてこない。そのことを自分でよくわかっているからだろうか?
「恥と自己愛」ということですこし言いたいことがある。先日某学会の委員会があり、私はそこで素朴に感じたことを口にしてみた。すると多くの委員達に笑われ、実に恥ずかしい思いをしたのであるが、後でメンバーたちからは、私が口にしたことは結構良かったという反応をいただいた。結局皆頭では考えても、気恥ずかしいから口にしない、ということを私は口にしたようである。
私たちはちょっと間が悪い、格好がつかない、人から変に思われる、ということに極めて敏感である。私たちの社会生活のほとんどは、自分がそのような事態に陥るのを避ける耐えにエネルギーを費やしている。「恥」はまさに私たち人間の社会生活を支配しているのだ。それなのになぜあまり論じられないのか?それはその恥の感覚について論じることそのものが恥の感覚を生むからだ。
一方自己愛についてはどうか?自己愛は少なくとも精神分析のテーマとしては非常にしばしば論じられる。人は自己愛について語ることには「恥」の感覚が伴わないのか?
例えて言えばこんなことだろうか?皮膚のたるんだ裸を見られるのは恥ずかしい。シミだらけな顔や、荒れ野のような頭皮を見られるのは恥だ。でもそれを隠し、自分をより良く見せる方法について話すのは悪くない。ファッションについて、服装について、ヘアスタイルについて、つまり人は恥を避け、自己愛を満たすテーマについて語るのが好きだ。
そうか。私の「恥と自己愛の精神分析」が売れない理由がわかったぞ。しかし実はこの本ほど「もう手に入らないのか?」と問われる本もない。今回出版してから10年以上たって岩崎学術に100冊ほど限定で刷っていただいた。(このブロクで宣伝させていただいている。)恥の問題は皆心のどこかで捉え、決して自分からは論じない類のテーマなのだ。みな笑われるのが嫌だから・・・。
今回とある心理関係の刊行物で「自己愛」を扱うらしい。企画者は私に恥と自己愛というテーマで振ってくれた。ありがたい事である。私がほそぼそとこのテーマを論じ、ゼミ生の●●くんと××くんはなんとこのテーマを追ってくれている。(先生は嬉しいよ。)私もせいぜい「精神科関係の恥といえば岡野である」と紛らわしい言い方をされないように気をつけながら、このテーマについて考えたい。(例によって一週間くらいか?)
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