2022年11月30日水曜日

脳科学と心理療法 デフォルトモード 1

 デフォルトモードということ

 いわゆるデフォルトモード(ネットワーク)という概念が大いに関心を集めている。「デフォルト」というと「~の経済がデフォルトに陥る」、債務不履行になるという意味だが、パソコン関連では工場出荷状態、あるいは「初期値」という意味だ。私の中ではそろばんの計算初めの「ご破算で願いましては‥」の「御破算(ゴハサン)状態」なのだが、この比喩は誰もが手っ取り早くスマホの電卓機能を使うような時代になってしまうと意味がないかもしれない。

とにかく脳のデフォルトモードという考え。私にはこれがたまらない魅力だ。というのもデフォルトモードは脳の「素の」状態を表現しているからである。脳は何もしない状態でも活発に活動をしているのだ。「何も考えないように」という指示を受けてfMRIで脳の様子を見てみる。そこには何の活動も見られないのではないか、画像としては何も出てこないのではないか、というのが大方の予想だった。しかし研究者たちはやがて知ることになる。「何もしていない」はずの脳がワサワサと活動をしている!? いったいどういうことだろうか?

ネットワークモデルということの意味についてはすでに述べた。脳は巨大なネットワークである。そしてそこでの興奮のパターンがある種の心のあり方を表している。特定のパターンが心の状態や機能に対応する。例えば言葉を一生懸命話す時は、左前頭葉のブローカ野という運動性言語野が興奮を見せるというように。そして何もしていない状態、デフォルト状態ですでにパターンがあるということは、何もしていない状態で脳はすでに何かをしているということを意味する。

2022年11月29日火曜日

脳科学と心理療法 5

 このファントム理論はかなり錯綜とした理論であるが、日本大学文理学部心理学科横田正夫(よこた まさお)教授がネット上で「自他の逆転」として説明なさっているので、これを参考にしつつ簡単に説明したい。安永先生はイギリスのウォーコップという哲学者の「パターン」という概念を用いつつ、私達の体験は生きる側面と死を回避する側面を常に対として持っているとする。ちなみにこの話は精神分析ではアーウィン・ホッフマンという学者が弁証的構築主義という理論で同様の説明を行っている。

私達の体験は、自主性が発揮されて、これをしたい、あれをしたいという願望に従って行動を起こすという「A面」と、それが常に「これをしたら後でしっぺ返しが来るかもしれないし、後悔することになるかもしれない」「これをしたら法律違反になってしまう」という抑制的な側面(B面)との妥協形成を行っている。そして重要なのは、私たちが普通何かを行う時には、必ずA面が有意であるという感覚が伴うということだ。そうでないと体験の自然さがなくなる。たとえば自分が他人と出会う場合、自分という体験があり、それに突き当たるものが「他者性」をおびる。それがB面であるという。自他の区別はこのような一方向性を持った体験構造を持つが、それが何らかの形で「逆転」した場合、他はいきなり向こうから襲ってきて不意打ちを食らわせることになる。幻聴などはその典型であり、聞こえた段階で圧倒的なその異質性と共にこちらに侵入してくる。A面≧B面というパターンの逆転(すなわちA面≦B)が統合失調症の本質部分であるというのがこの理論の趣旨である。横田先生は以上の事情を次のようにまとめていらっしゃる。「他者は自己でないものとして定義できるが、自己は他者でないものとしては定義できないという関係があり、統合失調症ではこの関係が逆転する。つまり他者によって自己が規定されるような事態が生ずる。」

2022年11月28日月曜日

脳科学と心理療法 4

  私は今でも考えることが好きである。そしてこの現実世界はいったんあるテーマについて考えだすと次から次へと疑問が湧いてくるという性質を持っている。私たちが漫然と生活を送っている限りはこの謎に満ちた現実世界を素通りしていくだけだろう。しかし私が疑問に思っていたような「人はなぜ、どうやって快を求めて行動を起こすのだろう」は、いったん考え出すとたちまち謎に満ちあふれだし、そこに吸い込まれていくような世界を垣間見せてくれる。ただしもちろん人によって何がその尽きせぬ疑問の対象となるのかは異なる。数学者の中でも整数論を研究する人は素数がどのように数の世界の中に分散しているか、そこに何らかの規則性があるのではないかということに興味を持つだろう。物理学者なら、例えば時間の矢はどうして一方向だけなのだろうか、と考えだすとそれこそ「時間を忘れる」かもしれない。また経済学の専門家は、株価の推移が何に支配されているのかに尽きせぬ魅力を感じるかもしれない。そして私の場合は人はなぜ行動を起こすのか、という問題だったのである。これらの問題は、一つの疑問が解決するとさらにその先にわからないことが出てくるという意味では、「フラクタル的」なのである。そしてフラクタル的なこの世界を感じ取ることが出来ると、おそらく私たちはこの世の中に生きていくうえで、およそ暇で暇で退屈でしょうがない、ということが滅多になくなるだろう。知性とはこの現実世界に生きている世界のあらゆるところに潜んでいる謎のうち、少なくともどれかに誘い込んでくれるという力を持つのである。何かについてオタクであることは、その人の知性を保証してくれているのだ。

 結局私が言いたいことは次のことだ。精神科医になってしばらくの期間、私は人の心に魅了されていたが、脳科学的な疑問という形を取ることはまだなかった。というよりは脳科学に魅了されるような基礎知識をそもそも持っていなかった。つまり「ボーっと生きていた」のである。その代わりいくつかの理論は私を魅了することがあった。その一つが安永浩先生の「ファントム理論」であった。当時東京大学医学部附属病院分院の精神科助教授だった先生が1977年に出版した「ファントム空間論」は心の働きを論理的に追求した画期的な本であった。ただしこれも脳科学ではなかった。ただ私にとっては脳科学より魅力的な理論だったのだ。

ここで精神分析理論や快、不快の理論、ファントム空間論とはどうして私にとって脳科学より魅力的だったのかについて、ちょっと比喩的に考えてみようと思った。人間の脳をハードウェア、心をソフトウェアと考えよう。つまりPCでプレイするゲームとの類推で考えるのだ。おそらく私たちはパソコンのハードウェアの仕組みを知るよりは、ソフトウェアの内容、つまりはどのようなゲームなのかについて知りたいと思うのではないだろうか。それはそうだろう。そのマザーボードをいくら眺めても、集積回路をいくら顕微鏡で眺めてもゲームの内容はいつまで経っても見えてこない。それにパソコンのハードの仕組みを知らなくてもゲームを楽しみ、その技を向上させることはできる。そしてこの当時の私にとって、脳科学とはパソコンのハードウェアだったのだ。それよりはそれで動くプログラム、いわば心の本質(というものがあるとして)を知りたいではないか。それが精神分析理論やファントム理論だったのだ。

2022年11月27日日曜日

脳科学と心理療法 3

 とここまで書いたところで時数をカウントすると2200字だ。ということはこれを5回書くとちょうどひと月分ということになるわけである。ということでこの初回はプロローグという形でもう少しダラダラ書き進めよう。

 私は今この連載の初回の部分で、私がいつから脳科学に興味を持ったかについて、私が精神科医になった時に遡って振り返っているのであるが、その兆候は見いだせない。だいたい私は心の本体が脳にあるなどという議論は最初から頭になかったと言っていい。あるのは精神分析だったのであるが、それは精神分析理論が心の本質を垣間見させてくれると期待していたからである。というよりは精神分析とはフロイトが始めたものであるということ以外は何も知らずに、ただ「精神を分析する」という名前だけに魅かれたのである。もし実際の精神分析が心を解明してくれないのであれば、自分が新しい精神分析理論を発見すればいいのだ、などと思っていたのだ。考えて見れば、私は精神分析のことも、そして自分の身の程も全く何もわかっていなかったのだ。

ただいまから考えると私は精神科医としての駆け出しのころから、ある一つの点に関して、明らかに「脳科学的」であったということが出来る。これに関しては私は脳の中のある部分を常に考えていたのだ。いや、「脳のこの部分」と特定できるわけではなかったし、きっと脳科学者なら答えを知っているだろうと思っていた。それは脳科学者に任せればいいことだ。私はただその部分の機能の仕方に魅了されていたのである。それを私は「快感中枢」と名付けた。そして次のようなことを考えていた。

「確かに私の脳の中にはある部分がある。そしてそれはとても重要な、でも謎めいた働きをするのだ。それは私にある行動を選ばせ、別の行動を回避させる。そしてそこにはかなりはっきりとした基準がある。それはその行動が心地よいかどうか、なのだ。」私は自分の行動を振り返る。私が行うのは、たいてい心地よいことだ。また私が避けるのは、だいたい不快なことだ。それも「たいてい」とか「だいたい」というよりはもっと、明確なのかもしれない。私の行動はそれ以外には規定されないほどにこの法則に従っている。

もちろん私たちの行動には不快を及ぼすものもある。例えば朝はまだ眠くて布団にこもっていたいが、それでもわが身を叱咤して布団から起き上がる。これって不快なことを選んではいないか?しかし少し考えればそうではないことに気が付く。私は朝布団にこもったきりになることで将来何が起きるかを予測する。私が担当している外来をすっぽかしたら大変な騒ぎになり、私は大変な迷惑をかけ、後悔し、またわが身を恥じることになるだろう。私は想像の世界の中で先取りしたその様な不快体験を、頭も実際に味わっているかのように一瞬体験し、それよりは布団を抜け出すことの方がはるかにましだと判断して着替えをして支度を整える。ホラ、明らかに私は快を求め、不快を避けている。臨床を通して馴染み深くなっていた強迫症状についても全く同じことだ。手を30分は洗わないときれいになった気がしない。もちろん30分手を冷水に晒すことは苦痛だ。ところがそれをやめてその場を去ることによる不安を想像すると、手を洗い続けることの方がよほど「不快の回避」なのだ。そしてそのような行動は大抵の場合合目的的なのである。

すると人間の知能とは、最終的な、あるいは想像出来うる範囲での未来の快不快を先取りして自らの行動を決めさせるために用いられる。何とすごい能力なのだろうか?このような問題について考え続けることは、私にとっては立派な脳科学だったのだ。

2022年11月26日土曜日

脳科学と心理療法 2

 私はそれから日本の精神科の外来や入院病棟で数年ほど研修を積み、精神科医として少しだけ自信をつけてアメリカに渡ったわけだが、少なくともこの数年間、私は脳科学に関心を持つということはなかった。そのまま日本にいたらどうなっていたかを時々想像するが、特に脳に魅かれることはなく、あまり変わらない臨床の日々を送っていた可能性がある。少なくとも最初の頃の私の関心は脳科学とは別のところにあった。それは精神分析だったのだ。

精神分析はひとことで言うならば、脳を介さずに治療者の心が患者の心に迫る手法である。患者の人生や日常生活を送る心を対象とするのだ。そしてこれは実は「赤レンガ」の風潮と特に矛盾はしなかった。反精神医学はその源流の一端をフロイト理論に求めることが出来る。すでに名前の出たレインやガタリ、ドゥルーズといった人々は精神分析を学び、その後独自の立場を切り開いていったのだ。彼らの本にはフロイトはしばしば顔を出し、フロイトを引用したりしている。人の脳を知るのではなく心そのものを知るという発想は精神分析も反精神医学も共通していたのである。

精神分析も反精神医学も、薬を使って精神の病を扱うという、「脳科学的」なアプローチにはどちらかと言えば反対であった。精神科で薬を使うようになったのは1960年代以降だったが、精神分析家たちはそれに反対していたことはよく知られる。「薬で手っ取り早く心の悩みを治す、というのは邪道だ」という姿勢が彼らの間にはあったのだ。フランスからフェリックス・ガタリが「赤レンガ」訪れたことがあったそうだが、その時「君たちはまだ薬なんかを使っているのか」と言ったと言われる。そんな感じだったのだ。

2022年11月25日金曜日

脳科学と心理療法 1

 これから100回くらいのユルーいブログ連載になる。

私には脳科学はうさん臭かった

 「脳科学と心理療法」などというタイトルを付けると、まず「脳科学」というところで読者の一部からは絶対アレルギー反応を起こす人が出てくるだろう。40年前の私もそうであった。

医師になりたての私が研修を行った大学病院の精神科病棟(いわゆる「赤レンガ病棟」)では、何と「反精神医学」の風潮が生きていた。この言葉はもう死語に属しているかもしれない。イギリスのレインとかクーパーの名前を、あるいはフランスのガタリやドゥルーズの名前をお聞きになった方は多いかもしれないが、彼らの議論の流れの中にあるものとお考えいただきたい。これらはいわゆる新左翼系の動きに属し、精神医学や精神医療がもたらす人権問題や非倫理的な処遇に異議を唱えていた。そのような流れが「反精神医学」と呼ばれていたのである。そして「赤レンガ」はその様な運動のリーダー的な役割を担っている精神科医たちにより構成されていたのだ。私は医師になってからの1年を過ごしたわけである。そしてそこでは「生物学的」(もちろん「脳科学的」も含まれる)と形容されるような研究は患者を実験台とするものであり、患者の疎外に繋がるものとして敬遠されたのである。

いわゆる「初期値効果」(デフォルト効果)というものがある。人は最初の選択肢をそのまま受け入れるという傾向だ。そして私の赤レンガ病棟における「初期値」は「反精神医学的な精神科」であった。私が医師になった1980年代は、まだ学園紛争の名残があちこちに残っていた。医師は研究や実験にうつつを抜かさず、むしろ精神医療の持つ旧態依然としたさまざまな問題を追及すべく社会活動に携わるべきだという雰囲気である。それはそれで私もそれこそアレルギーを起こしそうになったのは確かだ。病棟の隅の倉庫にスローガンを書き込んだ立て看などを見ると違和感はあった。しかし「患者さんに対して人間的な扱いをしましょう」というスローガンはすんなり入った。私は患者さんたちとのレクに参加し、集団ミーティングに顔を出し、ケースカンファレンスでも特に患者さんの診断について厳密に論じることはなかった。診断は患者さんにラベリングをすることであり、その苦しみを理解することにはあまり関係ないという雰囲気があった。私は初めてのカンファレンスで患者さんのケースを出した時に、やはり診断名も大事だと思う一方では、やはり気が引けてしまい、見えないような小さい字でDSMによる診断名を書いて出したのを覚えている。(ちなみに当時はワープロもなく、肉筆の原稿をコピーして配る、というのが通常だった。)そうしたのは私の反発心であり、どこかに学問としての精神医学を本格的に学びたい、研究も少しはやってみたいという気持ちはあったのである。

そう、私は結局「赤レンガ」に染まりながらも、次の疑問を持っていたことになる。「生物学的」な理解はその人の人間性を否定することになるのだろうか? そもそも薬物療法を行うということは脳の中の何かに働きかけているのではないか?もちろん赤レンガ病棟でも薬物療法は行われていた。さもなければ精神科は医療経済的にも生き残れないのだ。そしてきちんと薬物療法が出来るためには、自分はやはり脳の勉強をしなくてはならないのではないか。

結局私が「赤レンガ」の風潮で一番好きだったのは、私が抱えていた問題とも絡んでいた。そこでは精神医学の教科書を読むことを特に薦められなかったのだ。

 

また描きなおした

     また描きなおした。



文章に入れて、以下のような感じになる





2022年11月24日木曜日

Dynamic Core and Mirror Neuron System in Dissociative Disorder

 論文中の figure 2. 掲載用に新たに描きなおした。手描き感が満載。



2022年11月23日水曜日

感情と精神療法 最終版 ③

 治療における感情以外の様々な要素

治療の進展に関わる要素として、ここまで情緒的な関りについて述べたが、もちろん治療の進展を左右するのは感情だけではない。治療場面で生じるあらゆる現象が治療の進展に関与する可能性がある。そもそも何が治療効果を及ぼすかは、来談者の訴えやニーズがさまざまに異なるという現実を抜きには語れない。彼らは時には黙って話を聞いて欲しいと望み、または積極的な勇気づけを求め、時にはアドバイスを必要と感じ、また場合によっては治療者を怒りのはけ口にするだろう。これらのニーズをきわめて大雑把に表現すると、来談者はある種の心のあり方の「変化」を必要としていると言えなくもない。これまで気付かずに繰り返してきたある種の思考や行動ないしは感情のパターンが何らかの形で改変されることで、心の苦しさを軽減したいと望んでいるのだ。しかしその「変化」はどのようにして治療状況で生み出されるのだろうか?
 精神分析家の村岡倫子は「ターニングポイント」(村岡、2000)という概念でこのような機会について論じている。それはしばしばある種の偶発的な出来事に端を発し、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものは強いインパクトを来談者に与え、それが治療の進展につながる。そして感情の議論とのつながりで言えば、このような出来事はある種の感情部分をほぼ必然的に伴う。ただしそれは陽性の感情とは限らない。痛みかも知れないし、羞恥心かもしれないし、ある種の罪悪感かも知れない。しかしともかくもある体験がしっかりと記憶に残るためにはそこに感情が伴うことで中脳の扁桃核というが賦活され、刻印が押される必要があるのだ。そしてそれが偶発的に生じる以上、私達がそれをコントロールすることは概ね不可能である。さらにはある偶発事がターニングポイントだったかどうかは、後になって判断する以外にない場合も多い。
 たとえば治療者がある何らかの都合によりにセッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で感情的な行き違いが生じるとしよう。普段は感情の動きや表現の少ない治療者は、その時はいつもの落ち着きを失い来談者に率直に謝罪をしたとしよう。それが来談者に与える印象は実に様々なである可能性がある。ある人にとってはそれが治療者を一人の過ちを犯す人間としてとらえ直すという新鮮な体験になるかもしれない。しかし別の来談者はその謝罪を表面的で芝居じみたものと感じるかもしれない。いずれにせよこの偶発事はそれまで静かだった治療場面という湖面に投げ入れられた石による波紋となるだろう。そしてこれが治療の転機になる場合もあれば、破綻に繋がる場合もあるのだ。治療者はターニングポイントに繋がるような偶発事をいかに見逃さないかということに、その臨床力を発揮することになるのであろう。その意味では偶然事と治療者との関係は、予想外の結果を発見に繋げるセレンディピティに類似しているのだ。

 治療者に出来る努力 ― 転移を活性化すること

  以上はターニングポイントに結びつくような偶発的な出来事は多くの場合治療者の側がコントロールが及ばないという議論であった。しかしここで治療者が一つできることがあるように思う。それは来談者に治療者という人間を知り、関心を持ってもらうということだ。それにより治療状況をターニングポイントがより生じやすいような場に変えることが出来るかもしれない。フロイトは治療者がより謎めいて神秘的に見えるためには治療者が匿名的で受け身的である必要があると考えた。しかしそれだけでは不十分であるだけでなく、逆効果かも知れないのである。
 改めて考えよう。人が他者に興味を持ち、その考えを知りたくなったり、会話をしたくなったりするのはどのような場合なのだろうか? そこには様々な要素が働くはずだ。その人の書いたり言ったりしたことを知って、共感を覚えるという場合もあるし、その人の話に大きな興味をそそられ、もう少しその考えを知りたいということもあるだろう。私達がこれまでに関わった友人や恋人を思い浮かべよう。私たちは数多くの人々の中かから自分が一番興味を持った人を選んだのだろうか。おそらくそればかりではないだろう。私達はたまたまその人と話す機会を得たり、その人の素顔を知る機会を得ることで、もう少し深くその人を知りたいという興味がわいたはずである。
 例えばあなたが大学であるゼミを受講したものの、さほど大きな関心を憶えず、退屈さを感じていたとする。ところがある日そのゼミ担当の先生に「これを読んで御覧なさい」と何気なく彼の著書を渡されたとする。仕方なく読んでいるうちに、その先生の研究分野には予想もしなかった深みがあり、またその先生に人間味を感じ、そのゼミにも興味を持つようになったとする。この例ではあなたがある人をより深く知ることで、それまでは潜在的にしか興味を持っていなかったその人への興味が生まれたことになる。
 このことを治療関係に当てはめてみよう。来談者が治療者にそのような意味での深い興味を持つとしたら、彼の思考や言動は治療者に聞いてもらい反応を期待するものとなる。治療時間はもはや退屈なものではなくなり、治療者との関係の中で自分を見出す一つの大きな機会になる。その中で「変化」の兆しも生まれるであろう。もちろんこれはいわゆる「転移神経症」の成立にすぎないが、治療場面は小さな波紋を間断なく生み出す場にもなるのである。
 もちろんこのことは治療者が自分の人となりを伝えるために来談者に向かって盛んに自己表現を行うべきであるということを意味していない。しかし治療者が匿名性と受け身性を守ることでこのような機会を逃す可能性もまた注意すべきであろう。
 私が言いたいのは、治療者についてより深く知ることが、患者の「治療の妨げにならない陽性転移」を深めるとした場合、それは治療者と来談者の間の治療的なダイアローグで生じるべきことであるということだ。そのもっともよい機会は何か。その一つの候補としてピーター・フォナギーら(Fonagy, et al.2002)のメンタライゼーションが考えられるというのが現在の私の立場である。
 感情と精神療法というテーマで書いたこの論考は、「治療には感情の要素が伴わなくてはならない」というシンプルな結論には行きつかなかった。しかし回りくどい言い方にはなったが、患者が治療者に向けた感情は治療の進展に決定的な要因となり得ることについて、そして本来は偶発的なその様な要素に対して治療者がどの様な姿勢で臨むべきかについて、そしてそのために治療者が持つべき心構えについて書くことになった。もっと論じたいところであるが、紙数の関係でここまでにしたい。

 文献

Alexander, F., French, T. (1946) Psychoanalytic Therapy. Principles and Application. The Ronald Press, New York.
Balint, M. (1968) The Basic Fault. Tavistock, London. (中井久夫訳. 治療論からみた退行-基底欠損の精神分析. 金剛出版、1978.)
Fonagy, P., Gergely, G., Jurist, E.L., Target, M. (2002). Affect regulation, mentalization and the development of the self. New York; Other Press
森茂起(2018)フェレンツィの時代-精神分析を駆け抜けた生涯.人文書院. 
村岡倫子(2000) 精神療法における心的変化--ターニングポイントに何が起きるか. 精神分析研究. 44 (45), 444-454.

2022年11月22日火曜日

感情と精神療法 最終版 ②

 治療における陽性の感情への注目

フロイトが100年前に至った上述の考えは、私には至極もっともで常識的なものに思える。精神療法においては患者はしばしば様々な感情的な反応を起こし、治療者もかなり巻き込まれる可能性がある。そしてそれは様々な治療上の展開を生み、思わぬ成果につながることもあれば、治療関係の決定的な破綻に至ることもある。その経過の多くは予想不可能で、またある患者との間でうまく行った扱い方がほかのケースでは逆効果だったりする。その意味で強い感情を扱うことは治療的にはハイリスク、ハイリターンであると言えよう。その点来談者が治療者に穏やかな陽性感情や信頼感を抱いていることは、その治療関係がその後も継続し、実り多いものとなるためにはとても大事なことなのである。
 ただし精神分析の歴史では、感情の持つ意味合いを高く評価して臨床に積極的に応用する立場も見られた。その代表としてフェレンチと、フランツ・アレキサンダーを挙げてみる。
 フェレンチはフロイトの弟子であったが、きわめて野心的であり、師匠の提唱した分析療法をより迅速に行う方法を考案した。その中でも「リラクセーション法」は患者の願望を満たし、より退行を生むことを目的としたものであった。フェレンチはさまざまな事情から晩年はフロイトとの決別に至ったが、弟子のマイケル・バリントの「治療論からみた退行」(Balint,1968)という著書によりその業績がまとめられている。それによればフェレンチは患者の願望をとことん満たすことで患者の陽性転移を積極的に賦活したものの、その一部は悪性の退行を招き、悲惨な結果を生むこともあった。フェレンチはエリザベス・サヴァーンという患者の要望を聞き入れ、彼女との相互分析(お互いを分析し合うこと)を行った(森、2018)。しかしそれによりサヴァーンの症状をより悪化させただけでなく、フェレンチ彼自身の悪性貧血による衰弱を早めたとされる。
 もう一つの試みはアレキサンダーによるものだった。アレキサンダーはハンス・ザックスに教育分析を受けたのちにアメリカ合衆国に移り、シカゴ大学で精神分析理論を自分流に改良した。彼も精神分析プロセスを迅速に進める上で様々な試みを行ったが、その中でも「修正感情体験」の概念がよく知られる。彼は幼少時に養育者から受けた不適切な情緒体験が治療者の間であらたに修正された体験となることで、分析治療が迅速に進むと考えた。アレキサンダーはV.ユーゴ―の小説「ああ無常」の主人公ジャン・バルジャンを例に示す。ある教会で燭台を盗んだジャン・バルジャンは、警察の調べを受けるが、その際に司祭が「それは自分が進んで彼に与えたのだ」と答えた。最初は司祭に対して厳しく懲罰的なイメージ(いわば転移に相当する)を持っていたであろうバルジャンは、司祭との間で幼少時とは全く異なる(修正された)感情体験を持ったことになる。これが「修正感情体験」の例であるが、アレキサンダーはまた、患者に対して叱ることのなかった親とは異なり、叱責をして治療を行ったという例も挙げている。 

禁欲原則の持つ弊害とトラウマ理論

 以上のフェレンチやアレキサンダーの試みにおいては、特に陽性の感情を積極的に喚起することが意図されていたが、従来の「伝統的」な精神分析においては、そのような試みが必ずしも好意的に受け止められることはなかった。そしてその背後にはフロイトの掲げた「禁欲規則」に見られたような、患者に満足を与える事を控えたり抑制したりする傾向があり、それと深く結びついていた。
 すでに述べたとおり、フロイト自身は「治療の進展にとって妨げにならない陽性転移」の重要性を説いていたが、治療者が患者と個人的な関係を結ぶことについてはそれを戒め、フェレンチに見られるような患者との境界侵犯についてはその危険性について強く諭した。そしてこのような受け身性や禁欲規則を背景に転移の治療への応用が正統派の精神分析とされた。その結果として治療場面における陽性の転移は多くの場合抑制することとなった。自らについては一切語らず、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾ける治療者に対して、患者はネガティブな感情を持つことも少なくなかった。それは一方では患者が抑圧していた攻撃性を自覚し表現することに繋がった。しかしそれはまた患者が過去に受けた不十分な養育環境を再現してしまう可能性も意味していた。そしてその可能性と問題点を積極的に示してくれているのが最近のトラウマ理論であった。
 現代の精神療法においては、来談者の多くにより語られる幼少時、あるいは思春期における性的、身体的、及び心理的なトラウマについてますます焦点が当たるようになって来ている。最近発表されたICD-112022)に組み込まれた複雑性PTSDの概念やアラン・ショア(Schore,2009)により示された「愛着トラウマ」という概念(すなわち母親との愛着が十分に形成されたかった過程を一種のトラウマとして理解する立場)が注意を喚起しているのは、多くの来談者の成育歴に愛着の欠損が見られる可能性である。その場合治療状況が再トラウマ体験となることがないような、十分な安全性やそれに基づく陽性の感情が醸し出されることの必要性である。この様な考えは精神分析の内部においては従来いわゆる「欠損モデル」としてフェレンチやバリントにより提唱されていたものの、これまで十分な注意が払われてこなかった視点である。そしてこの視点は従来の精神分析が要請していた禁欲、あるいは受け身的な治療者の態度との間に大きな開きがあるのである。フロイトの言った「治療の進展にとっての妨げにならない陽性転移」は治療の進展を保証するのみならず、治療が成立する際の前提とさえ考えられることになるのだ。

2022年11月21日月曜日

感情と精神療法 最終版 ①

 色々いじって、やっと最終版までこぎつけた。

はじめに

「感情と精神療法」はかなり込み入ったテーマである。自然科学と同様、精神医学や心理学においても顕在的で測定可能な所見が主としてその対象とされる一方では、情動の問題はつかみがたいもの、扱い難いものとして敬遠されていた。その中で一世紀以上前に精神分析を創始したS.フロイトが、感情の持つ意味に注目したのは画期的なことであった。
 フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。私たちが目にするフロイトの写真はどれもしかつめらしい顔を見せ、親しげな表情はほとんど見られない。しかし彼ほどの情熱家は稀ではないかと考えられるほど、人や物事への思い入れが深かった。友人であるウィルヘルム・フリースや弟子のシャンドール・フェレンチに対しても情熱的な内容を送ったが、その分決別の仕方も激しいものだった。
 フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や興奮に関連するものであったことは疑いない。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生成する過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、幼少時のフロイトが若き母親に対して身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに出会い一気に恋心を抱き、家庭を作るために研究者の道を捨てて臨床に転じた。彼は4年ほどの婚約の間禁欲を保ったとされが、結婚した後にもマルタに変わらぬ情熱を向け続けたという記録はない。フロイトはこの体験から「性愛的な情熱は思いを遂げるや否や消え去る」という現実的な側面を知ったのであろう。それは彼が後に精神分析的な治療論を唱える際に組み込まれて行ったが、この点については後に立ち返ろう。

臨床家フロイトの発見 除反応から転移へ

先達ジョーゼフ・ブロイアーの導きのもとで臨床家となったフロイトは、情動に関してもう一つの興味深い体験を持つこととなった。一部の患者においては、催眠を通して過去のトラウマ体験を回想して情動体験を持った後に、ヒステリー症状が改善するのを目の当たりにしたのだ。いわゆる「カタルシス効果」や「除反応」と呼ばれる現象との出会いである。ただしすべての患者が催眠に誘導され、除反応が生じるわけではない。そのことを悟ったフロイトは、それを催眠を用いることなく緩徐な形で行う方法を考案した。それがいわゆる自由連想法であり、こうして精神分析が成立したのである。
 フロイトは情動の表現が治癒を導く可能性を発見をする一方では、それが治療者である自分自身に向けられた時には非常に当惑したらしい。フロイトの有名な逸話に、ある女性患者が治療中に突然フロイトの首に手を回し、その直接的な情緒表現にフロイトは当惑したというものがある。情熱家フロイトは、女性から向けられた感情表現には大きな戸惑いを体験していたのだ。しかしそれは患者が過去に別の対象に向けられた感情が、「情動の移動」により治療者に方向転換しただけであるという理解にフロイトは至った。それを彼は「転移」と名付けた。こうしてフロイトにとって患者の感情は、学問的に理解して治療の有効な手段として取り扱うべきものとなった。
 ここで私だったらフロイトに訊ねたい。「でもフロイト先生、そもそも患者さんは治療者に強い感情や関心を持っていないことだってあるのではないのですか?」これに対して天国のフロイトは次のように言ってくるはずだ。「治療者が自分の姿を現さないことで、そのような感情は生じる運命にあるのです。でも患者自身にとってはそれは意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」そしてこう付け加えるだろう。「患者の愛の希求に応えないことで、その感情が維持されるのです。」フロイトのいわゆる「禁欲規則」にはそのような意味合いが含まれるのであるが、それは彼の婚約時代の実体験に基づいているのであろうというのが私の見解である。
 フロイトのこの転移の理論は、彼が考案した最大の発見の一つとされる。フロイトは転移感情は陽性でも陰性でも、それがかなり激しい場合には治療の妨げとなるという考えを持っていた。それは抵抗として解釈その他により積極的に解消されるべきものだとしたのだ。そして最終的に残る「治療の進展の妨げにならない陽性転移が治療の決め手になるという言い方をしている。つまり治療者に対して向けられた緩やかな陽性の感情こそが治療の進展の決め手となるということである。

2022年11月20日日曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 6

 以下の部分、全面的に書き換えた。

治療における感情以外の様々な要素

治療の進展に関わる要素として、ここまで情緒的な関りについて述べたが、もちろん治療の進展を左右するのは感情だけではない。治療場面で生じるあらゆる現象が治療の進展に関与する可能性がある。そもそも何が治療効果を及ぼすかは、来談者の訴えやニーズがさまざまに異なるという現実を抜きには語れない。彼らは時には黙って話を聞いて欲しいと望み、または積極的な勇気づけを求め、またはアドバイスを求め、場合によっては治療者を怒りのはけ口にするだろう。これらのニーズをきわめて大雑把に表現すると、来談者はある種の「変化」を求めていると言えなくもない。これまで気付かずに繰り返してきたある種の思考や行動ないしは感情のパターンが何らかの形で改変されることで心の苦しさを軽減したいと望んでいるのだ。しかしその「変化」はどのようにして治療状況で生み出されるのだろうか? それが問題である。
 精神分析家の村岡倫子は「ターニングポイント」という概念でこのような機会について論じている。それはしばしばある種の偶発的な出来事に端を発し、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものはある種のインパクトを来談者に与え、それが治療の進展につながる。そして感情の議論とのつながりで言えば、このような出来事はある種の感情部分をほぼ必然的に伴う。ただしそれは陽性の感情とは限らない。痛みかも知れないし、羞恥心かもしれないし、ある種の罪悪感かも知れない。しかしともかくもある体験がしっかりと記憶に残るためにはそこに感情が伴う必要がある。それにより中脳の扁桃核というが賦活され、刻印が押される必要があるのだ。それが偶発事である以上、私達がそれをコントロールすることは概ね不可能である。さらにはそれにある偶発事が結果的にターニングポイントになったかどうかは、後になって判断する以外にない場合も多い。
 たとえば治療者がある日偶発的な出来事の為にセッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で感情の行き違いが生じる。普段は感情表現の少ない治療者は、その時いつもの落ち着きを失い来談者に謝罪をしたとしよう。それが来談者に与える印象は実に様々なであろう。ある来談者にとってはそれが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間としてとらえ直すという新鮮な体験になるかもしれない。しかし別の来談者はその謝罪を表面的で心のこもっていないものと感じるかもしれない。いずれにせよこの偶発事はそれまで静かであった湖面に投げ入れられた石のような波紋を作るであろう。つまりこれが治療の転機になる場合もあれば、破綻に繋がる場合もあるのだ。ただし治療者はターニングポイントに繋がるような偶発事をいかに見逃さないかということに、その臨床力を発揮することになるのであろう。その意味では偶然の出来事をセレンディピティに繋げる発見者と類似した議論かも知れないのだ。

2022年11月19日土曜日

ブロンバーグ覚書

 近くブロンバーグについての講義をする際のパワポの内容をまとめた。

アラン・ショアによる長文の序文

●トラウマ理論、サリバン、エナクトメント、脳科学 愛着理論

これらの合流を先導した一人 

根っからのサリバ二アンでトラウマ論者

●タイトルの「Tsunami」 とは自分の存在の継続自体が脅威となるようなトラウマ

で「自分でない自分not-me(サリバン)」が形成される

治療過程では「安全だが安全過ぎない」関係性により、早期のトラウマが痛みを感じながら再体験される

●ブロンバーグによる抑圧と解離の区別

抑圧 ← 不安に対する反応

解離 ← トラウマ(サリバンの言う深刻な不安severe anxiety)に対する反応(ただし軽いものは正常範囲でも起きうる。没頭している時など)

●ブロンバーグのコフート的な特徴

患者は分析家から受け入れられるだけでなく、必要とされている事をも求めている。そして、それ(愛)が最早期にかけていたことがトラウマとなったのだ。

●治療的なアプローチとしてはDIDのそれに似る

「私は貴方には後ろに隠れている別の部分があって、その部分は私が今しがた行ったことを嫌っているような気がするのです」

●ブロンバーグの治療概念 治療者と患者の間で起きる解離とエナクトメントを感じ取ることが重要である。そこで問題となるのは「象徴化以前の subsymbolic (ウィルマ・ブッチ)」、「未構成の unformulated (ドネル・スターン)」、「解離しているdissociated (ブロンバーグ)」もの 。そこで重要となるのが「なんとなく sort of 感じるもの」、心のざわつき chafing (D・スターン)

治療は技法に沿っても、それだけにはとどまらない。(ちょうど演奏家が単に楽譜にかかれたものをなぞるのではないように。)

●ブロンバーグにとっての無意識について

無意識には内容があるのか?無意識的空想という概念に疑問を有する。言葉にされたものはすでに対象化され、その意味では無意識でない。無意識は患者と共に生きられる(エナクトされる)ものだ

2022年11月18日金曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 5

 治療者に出来る努力 ― 転移を活性化すること

  これまでの議論で述べたのは、来談者が治療者に興味を持ち、そこでインパクトのある出会いが生じることには多分に偶発性が絡んでいるということである。しかしそれでは治療者は偶発性に期待して手をこまねいて待つだけでいいのだろうか?フロイトはそこに治療者の匿名性や受け身性を強調した。しかしそれだけでは不十分であるばかりか逆効果にも働く可能性についてはすでに述べた。
 そもそも人が他者に興味を持ち、その考えを知りかかわりを持ちたくなるのはどのような場合なのだろうか? それはその人の人間性や考えに触れることだ。私は大学時代のクラスメートU君を思い出す。彼は分厚い眼鏡をかけて小柄で目立たず、いつも静かに仲間の話を聞くだけだった。私には「地味な奴」くらいにしか映らなかった。しかしある他愛のない政治談議になり、意見を求められたときにさっそうと自分の考えを述べて、その姿に強くひかれた。それまで何も特徴のなかったU君は私の中で突然大きな存在となった。彼の何気ない言動や仕草が意味や輝きをもって感じられるようになったのである。
 このことを治療関係について考えよう。来談者が治療者にそのような意味での深い興味を持つとしたら、これは理想的な転移関係を意味するといえるであろう。そしてこのような機会は、治療場面において治療者の世界を知ることで生じやすいとするならば、治療者の匿名性や受け身性はそれに反することになるだろう。
 しかしこのことは、治療者が自分の世界を滔々と患者に示せばいいということではない。私が言いたいのは、治療者の世界をより深く知ることで、患者の側の「治療の妨げにならない陽性転移」を深めるとした場合、それは治療者と来談者の間の治療的なダイアローグにより生じるべきことであるということだ。そしてそのもっともよい機会はメンタライゼーションであるというのが私の考えだ。もちろん治療者が来談者の話に真剣に耳を傾け、共感を示してくれることもその陽性の転移を高めるであろうことは言うまでもない。
 感情と精神療法というテーマで書いたこの論考は、「治療には感情の要素が伴わなくてはならない」というシンプルな結論には行きつかなかった。しかし回りくどい言い方にはなったが、来談者が治療者に向けた感情は治療の進展に決定的な要因となり得ることについて、そして本来は偶発的なその様な要素に対して治療者がどの様な姿勢で臨むべきかについて書くことになった。もっと論じたいところであるが、紙数の関係でここまでにしたい。

2022年11月17日木曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 4

 そして最後に以下の文(前のバージョンからかなり手を加えた)を追加して、一つの論文になる。これで完成なのか?しかし長さが8300字を超えている。約三分の一を削らなくてはならない。トホホ。

以上精神分析において情動を治療の進展に関わる要素としてどのように捉えるかについてのいくつかの立場を述べた。ここでこの問題についてさらに考える上で重要と考えられる治癒機序に関する議論についても述べておきたい。治癒機序 therapeutic action とは精神分析において何がどのように働くことで患者の心に構造的な変化を促すかという理論である。従来のフロイト流の精神分析においてはそれは言うまでもなく洞察であり、それは患者の無意識内容の解釈によりもたらされると考えられてきた。しかし現代の精神分析においては治癒機序がかなり「多元主義的」になっている。つまり何がどのような変化を及ぼすのかについては個々の患者のニーズによって様々に異なるのである。米国の分析家Glen Gabbard は、結局治療において生じるのは「無意識的な連想ネットワークの改変」と一言で言いきっている。これはわかりやすく言えば、治療における変化とは、私たちが知らず知らずのうちに繰り返しているパターンが何らかの形で改変されることであるという。そしてそれがどの様な形で改変されるかには、さまざまなバリエーションがあるのだ。ある来談者は治療者に黙って話を聞いてもらうだけでも救われるかもしれない。しかし別の来談者は治療者から積極的なアドバイスを望むかもしれない。また別の来談者は厳しくしかって欲しいと思うだろう。
 このように何がその人の無意識的な連想ネットワークを変えるかは予想不可能なことがむしろ普通であろう。ただしそこにおそらくある種の情緒的なインパクトが伴う場合に、それが効果を有する可能性は非常に高いだろう。ただしそれは陽性の感情とは限らない。痛みかも知れないし、羞恥心かもしれない。でもある体験が記憶として残るために扁桃核による情緒的なインプットが伴わないケースはむしろ考えられないであろう。
 精神分析家の村岡倫子は「ターニングポイント」という概念を唱えている。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものは治療の進展につながることがある。それが治療の分岐点や転回点turning point となるわけである。
 たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。
 この場合治療者は治療に自分の方が遅れたという後ろめたさがあり、そこでの振る舞いは結果としていつもの防衛的な姿勢を緩めることになる。治療者が「スミマセンでした」と来談者にその謝意を伝えることは、来談者にとっては新鮮に映るかもしれない。それが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間として、ある意味では自分と同じ人間とみなすことを可能にするかもしれない。
 この例で治療者が次のように言った場合を考えよう。「あなたは私に完璧さを求めているのですね」。それを治療者は十分な謝罪の後に言うのだ。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけは驚きを伴ったある種の認知的な理解と言えるだろう。
 ところで私はこの例にも偶発性が働いていると思うが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。その意味で偶発性がここに絡んでいるのだ。
 結局何がターニングポイントになるかは、それがある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発児を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。

2022年11月16日水曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 3

 禁欲原則の持つ弊害とトラウマ理論

さて以上のフェレンチやアレキサンダーの例は、情動を積極的に喚起するという立場であったが、従来の「伝統的」な精神分析においては、禁欲原則との兼ね合いから、結果的にそれとは逆の結果を招くことも指摘されている。これまでに述べたとおり、フロイトの受け身性や禁欲規則は、それによる陽性の転移の喚起を目指したものであった。しかしそうすることで逆に患者の側からの陽性転移はかなり抑制されてしまう結果となりうることも現代の精神分析家たちは知っている。場合によっては自分のことを隠し、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾けるだけの治療者に対して、患者はネガティブな感情を持つことになりかねない。つまり治療者の受け身性が促す転移はあまり好ましくない治療の展開を生むこともある。患者は治療者のことを、過去に満足な養育環境を提供してくれなかった両親と同類の人間と感じ、そう見なすかもしれない。つまり患者は受け身的で情緒剝奪的な両親像のイメージを治療者に投影するのである。彼は半ば必然的に怒りの感情を治療者に向けることになるだろう。多くの分析的な治療者はこれを治療の「進展」と考えるであろう。「ようやく転移が生じたな」そしてそこに表された患者の怒りや羨望を治療的に扱おうと考えるはずである。ただしこれは重大な誤りである可能性がある。それをもたらしたのが、最近のトラウマ理論である。

最近の精神療法においては、対象となる患者さんたちの多くが体験している幼少時、あるいは思春期における性的、身体的、及び心理的なトラウマについて焦点が当たるようになって来ている。最近の愛着トラウマという概念(すなわち母親との愛着が十分に形成されなかった過程を一種のトラウマとして理解する立場)、あるいは複雑性PTSDの概念が強調するのは、患者さんたちの成育歴に一種の欠損が生じており、治療が再トラウマ体験となることがなく、十分な安全性を提供する必要があるという認識である。まずは治療者と患者の間の信頼関係が成立しないことには治療を進めて行くことが出来ない。まずは十分なラポールが成立することが重要なのである。するとこれは従来の精神分析が要請していた禁欲、あるいは受け身的な治療者の態度との間に大きな齟齬が生じるということになる。フロイトの理論にひきつけて考えるならば、彼の言う「治療の進展にとって邪魔にならない陽性転移unobjectionable positive transference, UOPT」の重要性は改めて強調されなくてはならない。というよりはこのUOPTが成立すること自体が一つの治療目標と見なされなくてはならないことになる。

2022年11月15日火曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 2

治療における情動の持つ多面性

 フロイトが100年前に至った上記の結論は、至極もっともなものだったし、今の世界にも通用するものである。現代の臨床家たちは、精神療法において患者はしばしば様々な情動的な反応を起こすことを体験している。そしてもちろんそれは治療者の側についても言える。あるものは自然発生的に起きるし、場合によっては必然的に起きることもあろう。それが思わぬ治療的な成果を生むこともあれば、決定的な治療関係の破綻に至ることもある。それらの多くは予想不可能な形での展開を見せ、似たような情緒反応についてもある患者との間ではうまくいった扱い方が、ほかのケースでは逆効果に働くこともあろう。その意味で情動を扱うことは治療的にはハイリスク、ハイリターンであるとしか言えないであろう。ただし臨床家の中には情動の持つ治療的な意味合いを過大評価する立場も多かった。私たちは臨床において情動を扱う際にも、この過去の臨床家の体験を大いに参考にすべきであろうし、それが私たちが備える倫理性にもつながるように思える。
 精神分析の流れの中では、精神分析プロセスをより効率よく進め、転移、ないしは情動の生起を促すという立場が見られた。ここではサンドール・フェレンチと、フランツ・アレキサンダーを例にとろう。
 フェレンチはフロイトの第一の弟子であり、実験精神の旺盛な彼は、フロイトの手法をより迅速に行う方法を考案した。彼のいわゆる「積極療法」は患者に対する禁欲をより強く促すことを目指したものであったが、その後に彼が考案した弛緩療法はむしろ患者の願望を満たし、より退行を生むことを目的としたものであった。これはいわば患者の情緒を出来るだけ高めるという試みであったが、様々な問題をはらむものであった。フェレンチの人生そのものがはらむ様々な事情が背景にあり、最終的にフロイトとの決別へと至ったが、このフェレンチの試みから私たちが学ぶことは大きい。それがフェレンチの弟子のマイケル・バリントにより「治療における退行」という著書によりまとめられた。それによればフェレンチは患者の願望をとことん満たすことで患者の陽性転移を積極的に生んだものの、それは多くの場合に悪性の退行を招き、その一部は悲惨な結果を生んだとのことである。これはいわばフェレンチにおける一つの大きな実験とされ、そこで患者の情緒、そしておそらくは治療者の側の情緒を解き放った結果として起きる事態についての冷静な観察結果と言える。古くはブロイアーがアンナ・Oに対して行い、後にはサリバンが統合失調症の患者に行ったような「情熱的な」治療はそれなりに問題を伴っていた。フェレンチ自身も
エリザベス・サバーンとの相互分析を通じて疲弊し、それがサバーンの症状の悪化だけでなく、彼自身の悪性貧血による消耗を悪化させたといえる。

もう一つの試みはフランツ・アレキサンダーによるものだった。アレキサンダーは.フロイトの直系の弟子のハンス・ザックスに教育分析を受けたのちにアメリカ合衆国に移り、シカゴ大学で精神分析理論を自分流に推し進めた。特に精神分析療法の中にそれまで無視されがちであった『温かな共感性・支持性』を強調したのである。アレキサンダーのこの理論は一種のトラウマ理論と言える。患者が過去の親子関係の中で形成した『不適応な感情表現パターン』は治療を通して修正されるべきであるとした。個々の部分、うまくまとめてあるネットの文章から引用。(Keyword Project+Psychology:心理学事典のブログより)

彼は患者の分析家との体験が、親との体験と異なっていることが患者に変化をもたらす決定的な要素であるとし、それが患者が自分の非適応的なパターンに気が付くことができるともした。そしてそれを積極的に引き出すことが精神分析治療をより短期に、迅速に進めるために必要であると考えたのである。彼が出す「ああ無常」のジャン・バルジャンの例はわかりやすいかもしれない。ある教会で燭台を盗んだジャン・バルジャンは、警察の調べに対して司祭が「それは自分が彼にあげたのだ」と答えた。彼が最初は司祭に対して厳しく懲罰的なイメージ(いわば転移)を持っていたとすれば、司祭はそれとは全く異なる対応をしたことになる。これがアレキサンダーの言う「修正感情体験」であり、そこでは情緒的な体験が最も有効と考えられよう。ただしアレキサンダーは患者に対して叱るという対応もここに含めている。治療者との間のある種の情緒的な体験が患者が変化をする際の決め手となると考えたのだ。

2022年11月14日月曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 1

簡単に済ますことが出来ると思っていた原稿なのに、書いても書いても満足がいかない。書いてみて初めて分かっていないことが明らかになっていく、という仕組みだ。でも読む側は退屈なんだろうな。 

臨床家フロイトの発見 除反応から転移へ

先達のジョーゼフ・ブロイアーの導きのもとで臨床家となったフロイトは、情動に関してもう一つの興味深い体験を持ったことになる。一部の患者においては、催眠を通して過去のトラウマ体験を回想して情動体験を持った後にヒステリー症状が改善するのを目の当たりにした。いわゆるカタルシス効果や「除反応」と呼ばれる現象との出会いである。ただしすべての患者が催眠に誘導され、除反応を行うわけではないことを悟ったフロイトは、それを催眠を用いることなく緩徐な形で行う方法を考案した。それがいわゆる自由連想法であり、これにより精神分析が成立したのである。フロイトは情動の表現が治癒に導くという発見をする一方では、それが治療者自身に向けられた場合に扱うすべを知らなかった。フロイトの有名な逸話に、ある患者が治療中に突然フロイトの首に手を回し、その直接的な情緒表現に当惑したというものがある(ジョーンズ「フロイト伝」第一巻p250)。情熱家フロイトは、他者からの情緒的な表現には大きな葛藤を体験していたのだ。しかしそれは患者が過去に別の対象に持った感情が、「情動の移動 transport of affection」によりたまたま治療者に向かっただけであると理解した。つまりこれは治療における人工的な産物であると理解し、それを「転移」と名付けた。こうしてフロイトにとって患者の情緒は、それを学問的に理解し、治療の有効な手段として取り扱うべきものとなった。
 私だったら「でもフロイト先生、そもそも患者さんは治療者に強い感情や関心を持っていないことだってあるのではないのですか?」と尋ねたくなる。しかし天国のフロイトは次のように言ってくるはずだ。「もちろんその感情は患者自身にとっては意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」「治療者が自分の姿を現さず、患者の愛の希求を満たさないことでその感情は高まっていくのです。」。恋愛における情熱は、それが成就しないことで維持されていく、したがって治療者はそれに決して答えてはならない、というというフロイトの「禁欲規則」は、彼の婚約時代の実体験に基づいているのであろうというのが私の持説である。
 フロイトのこの転移理論は、様々な議論を経つつもフロイトが考案した非常に重要な概念ととらえられている。そして彼が論じたいくつかの点は今でもかなり妥当なものと考えられる。フロイトは転移感情がかなり激しい場合に、それが治療の妨げとなるという視点を持っていた。彼は治療者に対する陽性の感情の表われを陽性転移、陰性の感情の表われを陰性転移とする分類を行った。そして前者の中でも特に強烈な性愛転移や、激しい敵意などを含む陰性転移を治療の妨げや抵抗となるものとして、それが解釈その他により積極的に扱われて解消されるべきものだとした。そして最終的に「治療の進展にとって邪魔にならない陽性転移 unobjectionable positive transference, UOPTが治療の決め手になるという言い方をしている。つまり治療者に対して向けられた緩やかな陽性の感情こそが治療の進展の決め手となるということである。

2022年11月13日日曜日

感情と精神療法 書き直し 10

 情緒体験の重視

精神分析ではフロイト以来、いかに転移を扱うかについての長い論争が行われて今に至っているということが出来る。フロイトは転移について「患者が抑圧された素材を過去に属するものとして思い出す代わりに現在の体験として反復することを余儀なくされる」(サンドラーp38、フロイトの引用として)と言っている。ジョゼフ・サンドラーはこれは、転移は過去の再現であり、患者が(本人が意識していようとしまいと)分析者との関係において表す「不適切な」思考、態度、空想、情緒を含む。とする。(サンドラー、p54)。つまりここにあげられているのが情緒、感情に留まらないというのがみそだ。

もちろん治療者は過去の対象と同様の対応をすることなく「中立性」を保つことになり、そこで患者はその違いを体験し、またそれを治療者から「解釈」の形で指摘されることになる。そしてここで問題になるのが、それを認知的に理解するか、情緒的に理解するかということである。もちろん情緒が大きな意味を持つと考える治療者もいた。その顕著な例がフランツ・アレキサンダーだった。彼は患者の分析家との体験が、親との体験と異なっていることが患者に変化をもたらす決定的な要素であるとし、それが患者が自分の非適応的なパターンに気が付くことができるともした。彼が出す「ああ無常」のジャン・バルジャンの例はわかりやすいかもしれない。ある教会で燭台を盗んだジャン・バルジャンは、警察の調べに対して司祭が「それは自分が彼にあげたのだ」と答えた。彼が最初は司祭に対して厳しく懲罰的なイメージ(いわば転移)を持っていたとすれば、司祭はそれとは全く異なる対応をしたことになる。これがアレキサンダーの言う「修正感情体験」であり、そこでは情緒的な体験が最も有効と考えられよう。ただしアレキサンダーは患者に対して叱るという対応もここに含めている。治療者との間のある種の情緒的な体験が患者が変化をする際の決め手となると考えたのだ。

この転移を扱う際の情緒的な関りについては、精神分析では「禁欲規則」という原則が存在することにより複雑になる。情緒を扱うことが、患者を満足させることに結びつくことへの警戒の念が抱かれるような文化が精神分析にはあるのだ。私は個人的にはこの問題から生じるジレンマを一番体現していたのがコフートだと考える。コフート理論においては治療者に対する自己対象転移が生じるとされる。自己対象転移とは簡単に言えば共感を与えてくれるような対象イメージを治療者に向けることである。その時しばしば問題となるのが、「治療者は患者に共感を与えればいいのか?」という問題だ。これについてコフートは生前「『治療者は共感すればいいんだ』というのが自己心理学について持たれる一番の誤解なんだ」、と主張していた。「共感をして欲しいという患者さんのニーズを解釈することが大事なのだ」という、いわば公式見解を述べていたが、実際には彼はしばしば共感を実際に与えたことによる治療効果について論じている。心の中では治療者が共感的であることが治療関係においてはとても重要だと考えていたわけだ。しかしそれは転移の解釈が主として持つ精神と齟齬をきたすことになる。分かりやすく言えばこうだろうか。転移の解釈で重要視されるのはやはり認知的、洞察的な側面であり、そこに患者の欲求を充足するような要素はやはり分析的でないという論じ方をされていたのである。

 

 

2022年11月12日土曜日

感情と精神療法 書き直し 9

 転移理論の問題―転移感情は自然発生的なものだろうか?

フロイトの考案した方法はしかしいくつかの問題を持っていた。一つは転移が生じるそれは陽性の転移感情はそれほどうまくは醸成してくれないことである。フロイトの理論に従うならば、転移感情は精神分析の枠組みではデフォルトとして生じると言っているようである。治療において感情はどのような意味や役割を持っているのかについて、フロイト自身は明白な見解を持っていたようである。患者は精神分析的な枠組みの中では治療者にある種の陽性の感情、すなわち転移感情を有するのだ、ということである。しかもこれは印象だが、患者は全員、デフォルトでそのような傾向を持っているかのような書き方である。ちょうどアンナOがブロイアーに示したように、そしてある患者がフロイトの首に手を回してに愛情表現を示して動揺させたように、である。私だったら「でもフロイト先生、そもそも患者さんは治療者に強い感情や関心を持っていないことだってあるのではないのですか?」と尋ねたくなる。しかしフロイトは絶対次のように言ってくるはずだ。「もちろんその感情は患者自身にとっては意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」そうして付け加えるだろう。「治療者が自分の姿を現さず、患者の愛の希求を満たさないことでその感情は高まっていくのです。」

しかし治療者が受け身性や禁欲原則を守ることで、逆に患者の側からの陽性転移はかなり抑制されてしまう結果となりうるということも現代の精神分析家たちは知っている。場合によっては自分のことを隠し、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾けるだけの治療者に対して、患者はネガティブな感情を持つことになりかねない。つまり治療者の受け身性が促す転移はあまり好ましくない治療の展開を生むこともある。患者は受け身的で情緒剝奪的な両親像のイメージを治療者に投影するのである。患者は治療者のことを、過去に満足な養育環境を提供してくれなかった両親と同類の人間と感じ、そう見なす。彼は半ば必然的に怒りの感情を治療者に向けることになるだろう。多くの分析的な治療者はこれを治療の「進展」と考えるであろう。「ようやく転移が生じたな」そしてそこに表された患者の怒りや羨望を治療的に扱おうと考えるはずである。

フロイトが最終的に行きついた理解は十分納得のいくものであった。それは極端な陰性感情も、また性愛性を含む陽性感情も治療の妨げになるということだ。おそらくフロイトはそのような事情を理解し、最終的に次のような考えを示している。

フロイトは最終的に「治療の進展にとって邪魔にならない陽性転移 unobjectionable positive transference, UOPT」が治療の決め手になるという言い方をしている。つまり治療者に対して向けられた緩やかな陽性の感情こそが治療の進展の決め手となるということである。

2022年11月11日金曜日

感情と精神療法 書き直し 8

 フロイトと情動体験

「感情と精神療法」はかなり込み入ったテーマである。自然科学と同様、精神医学や心理学においても顕在的で測定可能な所見がその対象とされる一方では、情動の問題はつかみがたいもの、扱い難いものとして敬遠されていた。その中で一世紀以上前に精神分析を創始したフロイトが、情動の持つ意味に注目したのは画期的な事であった。

 フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。私たちが目にするフロイトの写真はどれもしかつめらしい顔を見せ、親し気な笑顔はほとんど見られない。しかし彼ほどの情熱家はいなかったと言えるほどに人や物事への思い入れが深かった。婚約時代のマルタだけでなく、友人であるフリースに対してもラブレターに負けないくらい情熱的な内容を送ったが、その分決別の仕方も激しいものだった。

 フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や興奮に関連するものであった。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生成する過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、多くのわれわれにとってはあまり実感がわかないが、彼自身はそれを若き母親に対して身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに一気に恋心を抱き、結婚して家庭を支えるために研究者の道を捨てて臨床に転じた。彼はマルタとの4年ほどの婚約期間に禁欲を保ったとされが、結婚した後にマルタに向けた熱烈な感情表現の記録は皆無といっていい。その情熱は思いを遂げるや否や消え去り、フロイトは性愛感情の極めて現実的な側面を知ることとなった。それはフロイトが後に精神分析における禁欲規則を唱えた際に念頭に置かれたのであろうが、この点については後に立ち返ろう。

臨床家フロイトの発見

ブロイアーの導きのもとで臨床家となったフロイトは、情動に関してもう一つの興味深い体験を持ったことになる。患者は催眠を通して過去のトラウマ体験を回想して情動体験を持った後にヒステリー症状が改善するのを目の当たりにした。いわゆるカタルシス効果や「除反応」と呼ばれるこの現象にフロイトは強く惹かれた。そしてフロイトは患者に対して過去のトラウマの想起を促すための働きかけを行うようになった。ただしすべての患者が催眠に誘導され、除反応を行うわけではない。そして最終的にはこのプロセスを緩徐な形で行う自由連想法が考案されたことになる。

フロイトは情動の表現が治癒に導くという発見をする一方では、それが治療者自身に向けられた場合にそれをどのように扱うべきかのすべを知らなかった。フロイトの有名な逸話に、ある患者が突然フロイトの首に手を回し、フロイトはその愛情表現に驚かされたというものがある(ジョーンズ「フロイト伝」第一巻p250)。しかしそれは患者が過去に別の対象に持った感情が、「情動の移動 transport of affection」によりたまたま治療者に向かっただけであると理解した。これが彼が後に転移と呼ぶ現象である。こうしてフロイトは患者の示す情動を学問的に理解し、治療の有効な手段として取り扱うという方向転換をしたことになる。

2022年11月10日木曜日

感情と精神療法 書き直し 7

 治療者に出来る努力 ― 転移を活性化すること

  これまでの議論で述べたのは、来談者が治療者に興味を持ち、そこで出会いが生じることには多分に偶発性が絡んでいるということである。しかしそれでは治療者は来談者が偶発的に治療者に興味を持ち、陽性の転移を起こすことを手をこまねいて待っているしかすべがないのであろうか。フロイトはそこに治療状況で治療者が匿名的で受け身的である必要性について考えた。しかしそれだけでは不十分であるだけでなく、逆効果にも働く可能性があるということをここで改めて指摘しておきたい。
  そもそも人が他者に興味を持ち、その考えを知りたくなったり、会話をしたくなったりするのはどのような場合なのだろうか? そこには様々なきっかけがあるだろう。その人の書いたり言ったりしたことを知り、共感を覚えるという場合もあるし、その人の話に大きな興味をそそられ、もう少しその考えを知りたいということもあるだろう。自分がこれまでに関わった友人や恋人について考えよう。私たちは数多くの人々の中かから自分に一番合った人としてそれらの人々を選んだのであろうか? 恐らくそうではないであろう。私達はたまたま話す機会を得たり、その人の話を聞いたりしてその人を知ることで、もう少し深くその人を知りたいという興味がわいたはずである。
 例えばあなたが大学であるゼミを受講したものの、さほど大きな関心を持たなかったとする。ところがある日そのゼミ担当の先生に「これを読んで御覧なさい」と何気なく彼の著書を渡されたとする。仕方なく読んでいるうちに、その先生の研究分野には予想もしなかった深みがあり、またその先生に人間味を感じ、そのゼミにも興味を持つようになるかもしれない。この例ではあなたがある人をより深く知ることで、それまでは潜在的にしか興味を持っていなかったその人への興味が生まれたことになる。
 このことを治療関係について考えよう。来談者が治療者にそのような意味での深い興味を持つとしたら、これは理想的な転移関係を意味するといえるであろう。そしてこのような機会は、治療場面において治療者の考えを知ることを深めて起きる可能性があるとしたらどうだろう? 治療者が匿名性に守られることは少なくともそのような機会をより少なくしてしまうことにならないだろうか? 
 もちろんこのことは治療者が自分の考えをとうとうと述べて治療時間がそれで終わってしまっていいということではない。治療者が自分の考えや生き方を来談者に示すとしたら、それが来談者のためになると判断した場合に限らなくてはならない。さもないと治療場面は治療者の自己愛の満足のための機会ということになってしまう。
 私が言いたいのは、治療者についてより深く知ることが、患者の「治療の妨げにならない陽性転移」を深めるとした場合、それは治療者と来談者の間の治療的なダイアローグで生じるべきことであるということだが、そのもっともよい機会は何か。それがメンタライゼーションであるというのが私の考えだ。
 感情と精神療法というテーマで書いたこの論考は、「治療には感情の要素が伴わなくてはならない」というシンプルな結論には行きつかなかった。しかし回りくどい言い方にはなったが、患者が治療者に向けた感情は治療の進展に決定的な要因となり得ることについて、そして本来は偶発的なその様な要素に対して治療者がどの様な姿勢で臨むべきかについて書くことになった。もっと論じたいところであるが、紙数の関係でここまでにしたい。

2022年11月9日水曜日

感情と精神療法 書き直し 6

 治療関係における変化と偶発性

治療の進展に関わる要素として、ここまで情緒的な関りについて述べたが、現代的な精神分析理論においてはそれがどの程度妥当なのであろうか?この問題を考えるうえで重要なのは、現代においては治癒機序を考えるうえでの多元主義がますます明らかになっているということである。治癒機序 therapeutic action とは精神分析において何がどのように働くことで患者の心に構造的な変化を促すかという理論である。従来のフロイト流の精神分析においてはそれは言うまでもなく洞察であり、それは患者の無意識内容の解釈によりもたらされると考えられてきた。しかし何がどのような変化を及ぼすのかについては患者のニーズにより様々な場合が考えられる。Gabbard は結局治療において生じるのは「無意識的な連想ネットワークの改変」と一言で言いきっているこれはトートロジカルとさえ感じられる提言であるが、わかりやすく言えば、治療における変化とは、私たちが知らず知らずのうちに繰り返しているパターンが改変されることであるという。例えば自分について評価されると、途端にダメな自分、生きる価値のない自分、だれに好かれることもない自分、というイメージが浮かんできて、一生懸命その評価を否定しようとする人のことを考えよう。なぜだかわからないが、自然とそうなってしまう。あるいは人とかかわろうとすると気おくれがして抑制がかかってしまうという例でもいい。それがどのようなプロセスを経て変わっていくだろうか? おそらくそこにはあらゆる可能性がある。「君は実は自分の優れているところを認めることで人から羨望を向けられることを恐れているのではないか?」という指摘で雷を打たれたように「そうだったのか」となるかもしれない。あるいは治療者から何か具体的な事柄を例に出して、自分の能力を評価されるという体験がその人を変えるかもしれない。このように何がその人の無意識的な連想ネットワークを変えるかは予想不可能なことがむしろ普通であろう。ただしそこにおそらくある種の情緒的なインパクトが伴う可能性は非常に高い。それは陽性の感情とは限らない。痛みかも知れないし、羞恥心かもしれない。ある種の罪悪感や後ろめたさかもしれない。ある体験が記憶として残るために扁桃核による情緒的なインプットが伴わないケースはむしろ考えられないであろう。たとえコペルニクスが「そうか、天ではなくて地球の方が動いているのだ」という洞察がそれ自身はいかに認知的な洞察でも、それが感動を伴っていたことは疑いない。それは驚きや好奇心や、場合によっては怒りの感情かもしれない。それはある意味では予想不可能な出来事であるもある。

村岡倫子先生の唱えた「ターニングポイント」という概念がある。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものは治療の進展につながることがある。それが治療の分岐点や転回点turning point となるわけである。

たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。

この場合治療者は治療に自分の方が遅れたという後ろめたさがあり、そこでの振る舞いは結果としていつもの防衛的な姿勢を緩めることになる。治療者が「スミマセンでした」と来談者にその謝意を伝えることは、来談者にとっては新鮮に映るかもしれない。それが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間として、ある意味では自分と同じ人間とみなすことを可能にするかもしれない。

この例で治療者が次のように言った場合を考えよう。「あなたは私に完璧さを求めているのですね」。それを治療者は十分な謝罪の後に言うのだ。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけは驚きを伴ったある種の認知的な理解と言えるだろう。

ところで私はこの例にも偶発性が働いていると思うが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。その意味で偶発性がここに絡んでいるのだ。

結局何がターニングポイントになるかは、それがある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発時を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。

2022年11月8日火曜日

感情と精神療法 書き直し 5

 ただし私はこのような考えにも今一つ満足できない。フロイトはこう言っているようである。「UOPTがあれば患者は苦しい治療にも通ってくるであろう。そしてその中で洞察、すなわち症状や自由連想に現れる無意識内容についての解釈を受け入れることで治癒に至る。」つまりは治癒機序とはあくまでも知的な洞察である、と。そして治癒機序そのものに深く情動が絡むことを指摘する人も出てきた。フロイト以降の様々な精神療法が考案される中で、そこに感情の持つ意味を重視する立場は非常に多く見られる。精神分析の世界ではフランツ・アレキサンダーの修正感情体験 corrective emotional experienceが提唱され、多くの賛否を生んだという歴史がある。
 アレキサンダーは.フロイトの直系の弟子のハンス・ザックスに教育分析を受けたのちにアメリカ合衆国に移り、シカゴ大学で精神分析理論を自分流に推し進めた。特に精神分析療法の中にそれまで無視されがちであった『温かな共感性・支持性』を強調したのである。アレキサンダーのこの理論は一種のトラウマ理論と言える。患者が過去の親子関係の中で形成した『不適応な感情表現パターン』は治療を通して修正されるべきであるとした。個々の部分、うまくまとめてあるネットの文章から引用。(心理学事典のブログより)
「精神分析療法では、自分の内面にある感情や記憶を吐き出すことでカタルシス効果(感情浄化作用)が期待できる『除反応(談話療法)』や、分析家の考案する『解釈』によってクライアントの内的活動を適応的に変容させようとする『徹底操作』と一緒に『感情修正体験』が用いられることがある。自分の心の中にある感情や考え、記憶などを自由連想法によって解放することで『除反応』が起こるが、精神分析家が行う『徹底操作』ではクライアントの状態や症状に合わせて適切な『解釈』を投与することで自己洞察(自己理解の気づき)を促進させようとする。(アレキサンダーの感情修正体験では、過去の重要な人物(両親・家族)に向けられていた感情や思いを分析家に向け変えるという『転移』の現象が起こりやすいが、分析家が温かな共感的理解をすることで愛情・優しさといった『陽性転移』起こることになる。そして、陽性転移が『自己洞察・自我の強化』による現実認識に結びつくことで、不適応な人間関係や感情生活のパターンが修正されていき日常生活における困難(問題)も改善されるのである。)
 アレキサンダーの修正情動体験は精神分析の内部からは十分考えられていたとは言えないが、それがこの療法が操作的で特定の感情を誘導するようなニュアンスがあっただけではない。感情に焦点を置くこと自体が知的な洞察を希求していた精神分析の方針に反していたからである。患者の情動に働きかけるアプローチはむしろ「示唆」に向かう支持的なアプローチであるという考えが大勢を占めたのであろう。

2022年11月7日月曜日

感情と精神療法 書き直し 4

 転移理論の問題―転移感情は自然発生的なものだろうか?

フロイトの考案した方法はしかし一つの問題を持っていた。それは陽性の転移感情はそれほどうまくは醸成してくれないことである。フロイトの理論に従うならば、転移感情は精神分析の枠組みではデフォルトとして生じると言っているようである。治療において感情はどのような意味や役割を持っているのかについて、フロイト自身は明白な見解を持っていたようである。患者は精神分析的な枠組みの中では治療者にある種の陽性の感情、すなわち転移感情を有するのだ、ということである。しかもこれは印象だが、患者は全員、デフォルトでそのような傾向を持っているかのような書き方である。ちょうどアンナOがブロイアーに示したように、そしてある患者がフロイトの首に手を回してに愛情表現を示して動揺させたように、である。私だったら「でもフロイト先生、そもそも患者さんは治療者に強い感情や関心を持っていないことだってあるのではないのですか?」と尋ねたくなる。しかしフロイトは絶対次のように言ってくるはずだ。「もちろんその感情は患者自身にとっては意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」そうして付け加えるだろう。「治療者が自分の姿を現さず、患者の愛の希求を満たさないことでその感情は高まっていくのです。」

しかし治療者が受け身性や禁欲原則を守ることで、逆に患者の側からの陽性転移はかなり抑制されてしまう結果となりうるということも現代の精神分析家たちは知っている。場合によっては自分のことを隠し、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾けるだけの治療者に対して、患者はネガティブな感情を持つことになりかねない。つまり治療者の受け身性が促す転移はあまり好ましくない治療の展開を生むこともある。患者は受け身的で情緒剝奪的な両親像のイメージを治療者に投影するのである。患者は治療者のことを、過去に満足な養育環境を提供してくれなかった両親と同類の人間と感じ、そう見なす。彼は半ば必然的に怒りの感情を治療者に向けることになるだろう。多くの分析的な治療者はこれを治療の「進展」と考えるであろう。「ようやく転移が生じたな」そしてそこに表された患者の怒りや羨望を治療的に扱おうと考えるはずである。

フロイトが最終的に行きついた理解は十分納得のいくものであった。それは極端な陰性感情も、また性愛性を含む陽性感情も治療の妨げになるということだ。おそらくフロイトはそのような事情を理解し、最終的に次のような考えを示している。

フロイトは最終的に「治療の進展にとって邪魔にならない陽生転移 unobjectionable positive transference, UOPT」が治療の決め手になるという言い方をしている。つまり治療者に対して向けられた緩やかな陽性の感情こそが治療の進展の決め手となるということである。

2022年11月6日日曜日

感情と精神療法 書き直し 3

 情動を扱う方法としての転移

フロイトは情動の表現が治癒に導くという大発見を治療的な手法に応用することを考えた。しかしそれは最初はある種の犠牲を伴うものであった。
 フロイトの有名な逸話に、ある患者が突然フロイトの首に手を回し、フロイトはその愛情表現に驚かされたというものがある。ジョーンズ「フロイト伝」第一巻p250によればフロイトはアンナOについての治療の発表を渋るブロイアーに次のように伝えたという。「ブロイアー先生、アンナOとのことは気にしなくても大丈夫ですよ。私だってある患者さんが情動の移動 transport of affection により私の首に抱き着いてきたことがあります。でもこれはある種のヒステリーによる、不都合な出来事 untoward occurrences で、「転移」というべきものなのです。」
 フロイトは次のようにも語っている。「ある女性患者が私にキスをしたいという願望がわき、恐れおののいた。しかしかつてある男性に無理やりキスされたことに由来する願望を想起し、それと関係していることを知り、その女性は落ち着いた」。
 このことが分かってから、同じようなことが起きても、私はそれを「誤った結合」の結果であると理解するようになった。同様のことが生じた際にブロイアーはアンナOの治療を放棄してしまったとされるが、それはこの転移が実はいわば幻の感情だとあつかうことで治療の助けになると考えるようになったわけである。フロイトがこの種の強い情動について、最初はそれを治療を妨げるものと考えていたことはよく知られる。これが彼が「転移抵抗」と呼んだものである。ただ彼はそのうちにこの種の感情を治療を展開する上で有効なものと捉えるようになった。
 フロイトにすれば治療において患者が情動表現をすることについては願ってもないことだったが、問題はそれが治療者自身に向けられた場合にそれをどのように扱うべきかのすべを知らなかったことである。しかし彼はそれを見事に知性化することで、治療メソッドに仕立て上げたのである。この厄介な出来事は、しかしそれを学問的に理解し、取り扱うことで治療の有効な手段となるという方向転換をしたことになる。

2022年11月5日土曜日

感情と精神療法 書き直し 2

 臨床家フロイトの発見
ブロイアーの導きのもとで臨床家となったフロイトが極めて興味深く体験したことがある。患者は催眠を通して過去のトラウマ体験を回想して情動体験を持った後にヒステリー症状が改善することがある。いわゆるカタルシス効果や「除反応」と呼ばれるこの現象にフロイトとブロイアーはいたく興味を持った。表現されていない感情が蓄積されることが症状を生み、それが表現され、発散されることで症状が軽快するという理解がフロイトのおおもとの発想だったのである。フロイトは患者に対して過去のトラウマの想起を促すための働きかけを行うようになった。ただしすべての患者にそれがうまく行くわけではなく、またすべての患者が催眠にかかるというわけでもない。そして最終的にはこの手法を緩徐な形で行う自由連想法が考案されたことになる。また催眠がこの種の情動体験により導かれる症状の軽減は、臨床が過度のケースとも体験し得ることではないが、時々それにかなり近い現象が臨床上見られることもある。そしてある種の感情の体験が治療にとって必須であるという考え方が生まれた。

精神分析における自由連想法はしかし情動体験を導くという結果を導くとは限らなかった。しかしその代わりに精神分析においては転移を扱うということによりとってかわられたのである。

2022年11月4日金曜日

感情と精神療法 書き直し 1

 「感情と精神療法」、プリントアウトして読んでみたら、全くダメだったことが分かった。読めたもんではない。かなりの書き直しが必要だ。

フロイトと情動体験

「感情と精神療法」はかなり大きなテーマである。精神科領域においても自然科学一般と同様、目に見えたり測定可能なものがその対象として注目されることから始まった。他方では情動の問題はつかみがたいもの、扱い難いものとして敬遠されてきたのである。その意味で一世以上前のフロイトが情動の持つ意味に注目したのは画期的な事であった。
 フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。フロイトのポートレートを見ると、どれもしかつめらしい顔を見せ、笑顔はほとんど見られない。しかしそれはフロイトの防衛的な部分の表れであり、彼ほどの情熱家はいなかったと言えるほど人や物事への思い入れを持った。婚約時代のマルタへのラブレターに負けないくらい情熱的な手紙をフリースなどに書き送っている。「私にとってあなたほど偉大な存在など考えられません」的な熱烈な手紙を送っていたのだ。その意味で彼はまさに「ツンデレ」だったのだ。
 フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や快楽に関連するものであったことは疑いない。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生成する過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、多くのわれわれの目にはあまり実感がわかないが、彼自身はそれを身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに一気に恋心を抱いた。それは結婚して家庭を支えるための収入を得るために、研究者としての自分を捨てて臨床に転向する大きな動因の一つとなったのである。彼はマルタとの4年ほどの婚約機関の間、禁欲を保ったとされる。そしてそれは900通を超える熱烈なラブレターを書き送るエネルギーとなった。ところが結婚したのちのマルタへの熱烈な感情表現の記録はほぼ皆無といっていい。その情熱は恐らくフロイトが想像していたよりははるかに消えてしまったのである。そしてフロイトは、ある意味では当然すぎる現実に出会ったのだ。それは「恋愛対象への情熱は、その現実の姿を知ることで消える」ということだ。あるいは「性欲の対象は、思いを成就することで色褪せる」でもいい。私がなぜこのことを強調するかと言えば、フロイトが後に精神分析における禁欲規則を唱えた際、にこのことが一番頭にあったと考えらえるからである。彼はわかりやすく言えば次のようなことを言っている。
 このように感情はフロイトにとって二つの側面を持っていたことが分かる。一つはそれが人を突き動かし、対象を希求させる側面であり、もう一つはそれが持つ破壊的な側面である

2022年11月3日木曜日

How do we treat our clients in the relational framework? 4.

 Slide 11.  Is radical structural change sine qua non for a therapeutic action to take place?

In fact, modification of the UAN does not imply the total change of the network, but just its partial change as shown in the diagram below.









Slide 12. the conclusion of Gabbards paper (p.837)

ere, I quote some of his statements.

There is no single path to, or target of, therapeutic change.

Any time we are tempted to propose a single formula for change, we should take this as a clue that we are trying to reduce our anxiety about uncertainty by reducing something very complex to something very simple.

Various goals of treatment and techniques useful for facilitating therapeutic change might not be free of elements that are conflicting or at cross purposes.

 Gabbard then said (p.826) ;  Fonagy and Target (1996) characterize this process as expanding psychic reality by mentalizing, or developing reflective function. A principal mode of therapeutic action involves the patients increasing ability to perceive himself in the analysts mind while simultaneously developing a greater sense of the separate subjectivity of the analyst. (Fonagy P, Target M (1996). Playing with reality, I: Theory of mind and the normal development of psychic reality. Int J Psychoanal 77: 21733.)

I basically agree with Gabbard and consider mentalization based treatment as a basic method that we can use in order to prowl forward in our analytic treatment.