2023年3月31日金曜日

精神分析的精神療法の現状と展望 1

 1.はじめに

 精神分析的精神療法 psychoanalytic psychotherapy 以下文中ではPAPと略記する)とは精神分析的な理論や技法を用いつつ行う主として週一回の治療プロセスを指す。同様の意味として力動的dynamic 精神療法、洞察志向的insight oriented 精神療法などの表現が用いられることもある。このPAPの現在の在り方と今後の展望が本稿のテーマであるが、これについて論じることは決して容易ではない。精神療法とは主として週に一度の対面による治療プロセスを指すものと理解されているが、現在では実に様々な種類が提唱されている。その中で特に精神分析的なオリエンテーションを持つものが、このPAPに相当することになる。しかし何を「精神分析的」と捉えるのかについても現在では多様な考え方が提案され、今後もその傾向が続いていくと考えられるのである。

従来の週4回以上、寝椅子を用いた精神分析と並行して、あるいは場合によってはその代替手段としてPAPが提唱され、実践されるようになった経緯は、米国の精神分析における1970年代以降の動きが深く関係している。この問題に深く関与し、また多くの著作を残しているR. Wallerstein (1989) はその発展を1940年代から70年代の、他の支持的精神療法との差を明確にしようとした時代と、それ以降の様々な提唱者の間での共通理解が失われている時代とを分けている。筆者もその理解に従い、以下の4つのテーマに分けて論じたい。

Wallerstein, RS (1989) Psychoanalysis and Psychotherapy. A historical Perspective. Int.J.sychoanal.70: 563-591.

l   表出的支持的療法とPAP

l   精神分析との対比におけるPAP

l   現代的なPAPのあり方 PAPであることの多様化

l   今後の展望 「精神分析的」であることの多様化

 2.表出的-支持的療法としての精神分析的精神療法

 

PAPを考えるうえで表出的ないし支持的精神療法についての議論を振り返っておくことは非常に重要である。なぜならそれはPAPが生まれた背景と、それ自身が背負っていた方向性を明らかにするからである。

1900年代の初頭にS. Freud が提唱した精神分析がその後の精神医学や心理学の世界に極めて大きな影響を及ぼしたことは間違いない。Freud が提唱した週に数回のカウチを用いた自由連想法は広く実践され、しばしば年単位で継続されるものとなった。しかしそれは時間的、経済的な負担の為に多くの議論を呼んだ。そして精神分析の内部でもO. Rank F. Alexanderやのように精神分析の回数を制限し、迅速に行おうという動きが見られた。また精神分析から派生したD.H. Malan, P.E. Sifneos らによる短期療法などが提唱されるということもあった。

その流れの中で、1950年代には支持的精神療法という用語はすでに見られていた。M. Gill (1954) そのほかにより、精神療法をより精神分析的な原則に沿った表出的な療法とそれ以外の療法とを分けるという試みがなされたのである。そしてその背景としては、治療者の受け身性や自由連想を用いた通常の精神分析的なかかわりが必ずしも奏功しない境界パーソナリティ障害などに対する関心が高まっていたという事情もあった。
 ここで表出的、とは患者の持つ葛藤や防衛を分析して解釈し、その無意識内容を明らかにするのに対して、支持療法ではむしろ防衛を強化し、無意識の葛藤を鎮めるという意味がある。この表出的という表現は分かりにくいが、患者に自由連想等で自分自身をできる限り表現することを促す一方で治療者は受け身性を守るという意味で広く用いられ、探索的、洞察志向的、という表現と同義である。そして当初は支持的なアプローチは探索的なそれとはまったく別のもの、精神分析的ではないものであるという理解がなされていた(Gabbard, 2019, P100)。

 

Gill, M (1954) Psychoanalysis and exploratory psychotherapy. J.Amer. Psychoanal. Assn. 2:771-790.

この表出的か支持的かという議論はそこに特別の優劣を決める性質のものではないが、精神分析の世界ではやはり表出的、探索的な手法がより正統派の分析的なアプローチであるという考え方が広く存在した。そしてその考え方は今に至るまで一部の精神分析家の間に根強く残っているということが出来るであろう。

Wallerstein は当時精神分析的な治療を主体としていた米国のメニンガークリニックにおいては、臨床家の間で次のような原則が守られていたとする。

できうる限り表出的であれ、そして必要な分だけ支持的であれ。(p.688Be as expressive as you can be, and as supportive as you have to be.Wallerstein, P688

Robert S. Wallerstein (1986) Forty-two Lives in Treatment: A Study of Psychoanalysis and Psychotherapy. New York: The Guilford Press.

そしてそれを唱える分析家の心には次のような考え方があったという。

「内的な葛藤の解決を導くような、表出的な方法により得られた変化は、支持的方法のみによりもたらされた変化より、より広範に及び、より永続的で、将来の環境の変遷や圧力により強力な耐性を持つ。」

すなわち依然として精神分析の優位性はゆるぎないものであり、精神療法はその代替手段として用いられるものの、その中でもより精神分析的なかかわりを求める表出的精神療法を、支持的精神療法と区別し、純化すべきであるという考え方が支配していたのである。

このような考え方はそもそもFreudの考えの基本にあった。Freud (1919) は純金としての精神分析は直接的な示唆という銅との混ざりものとすることを戒めたのである。ここでFreud が純金にたとえたのは、表出的な方法による内的な葛藤の解決や洞察に至るプロセスを意味し、それを支持的なアプローチにより汚すべきではないという意味に捉えることが出来ようが、米国における実証主義的な気風は、これを大がかりな研究プロジェクトにより明らかにすべきであるという動きを生んだ。

Freud S (1919). Lines of advances in psycho-analytic therapy. SE 17:157–68 (小此木啓吾 訳(1983):精神分析療法の道. フロイト著作集9. 人文書院 pp127-135)

その実証研究の代表が、メニンガークリニックにおける精神療法リサーチプログラム(PRP)であった。そこでは精神療法を表出的なものと支持的なものに分けてその治癒機序や効果を判定し、また精神分析と比較するという試みがなされた。しかしその結果として明らかになったのは、純粋な分析からドロップするケースが多く現れ、また表出的なアプローチを前提として行った治療にも実際には数多くの支持的な介入を行っているということであった(Wallerstein, 1986)。

2023年3月30日木曜日

地獄は他者か 推敲 1

 「羞恥から恥辱へ 恥が味方から敵に変わるプロセス」

久しぶりに恥についての論考を書くことになった。このテーマは私が精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、そもそも私の個人的な体験として、「人と対面するのはなぜこれほど心のエネルギーを消費することなのだろう」、「なぜこれほど億劫なのだろう」という思いがある。しかし様々な喜びや充実感を与えてくれるのも人との対面であることも事実である。そして対人場面でこのような複雑な感情体験を起こさせる要素として私たちの羞恥や恥辱の感情が関与しているのは間違いないと考える。それに他人とはそもそも怖い存在、得体のしれない存在であるというのは私の基本的な出発点である。だからサルトルの有名な言葉「地獄は他者だL'enfer, c'est les autres」という言葉をつい引用したくなるのだ。

ちなみにサルトルはこの言葉が誤解されていると言っているらしい。このことを示す英文があるのでネットから借用する。

https://www.vox.com/2014/11/17/7229547/philosophy-quotes-misunderstood-wittgenstein-sartre-descartes)
 Hell is other people;  No, this does not mean other people are the worst and you should hide yourself in a dark, lonely room so that you don't have to put up with them. The line comes from a 1944 existentialist play by French philosopher Jean-Paul Sartre called Huis Clos, or No Exit. In the play, three people are trapped in Hell — which is a single room — and ultimately, while confessing their sins to one another, end up falling into a bizarre love triangle.

The confinement of the characters extends beyond their physical holding room: they are trapped by the judgments of their cellmates. That's why one of the characters says, "Hell is other people" — because of how we are unable to escape the watchful gaze of everyone around us. "By there mere appearance of the Other," says Sartre in Being and Nothingness, "I am put in the position of passing judgment on myself as on an object, for it is as an object that I appear to the Other."

Sartre offered a clarification about his much misunderstood phrase:

"Hell is other people" has always been misunderstood. It has been thought that what I meant by that was that our relations with other people are always poisoned, that they are invariably hellish relations. But what I really mean is something totally different. I mean that if relations with someone else are twisted, vitiated, then that other person can only be hell. Why? Because … when we think about ourselves, when we try to know ourselves … we use the knowledge of us which other people already have. We judge ourselves with the means other people have and have given us for judging ourselves.

サルトルは「出口なし」という戯曲の中で密室に閉じ込められた3人を描き、その一人にこの言葉を言わせるのだ。しかしそれは「他人は怖い」という対人恐怖的な意味で言っているのではないという。私たちは自分たちの他の人の目を通して知ることになる。そしてそれが歪曲された目であれば、他者は地獄に他ならないと言っているという。ということで私のこの引用は私なりのバイアスがかかったものだということはお断りしなくてはならない。

 対人体験の「無限反射」としての構造

 二枚の対面する鏡の間に光が入り込むと、光は片方の鏡で反射し、次に反対側の鏡に向かって移動し、そこでも反射する。この反射は、光が減衰しない限り永遠に続くことになる。これを「無限反射」という。二人の人間が互いに対面し、見つめ合うという体験もちょうどこれと同じ構造を有する。こちらが相手を見る―こちらの視線を浴びた他者を見るーこちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る・・・・・という風に永遠に続いていくのだ。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているんだろう?」という思考が入り混じるという、複雑極まりない体験となるのだ。

2023年3月29日水曜日

心身相関 推敲 2

 MUSの歴史的な変遷

私は始めにMUSは太古の昔からあると言いました。そこでその根拠に触れたいと思います。当然ながら昔は医学は進歩していませんでした。でももちろん人の身体的苦しみは人間がこの地上に存在した時からありました。そしてそれを聞く立場にある人ももちろんいました。なぜなら人はお互いにお互いの身体的訴えをある時は人に話し、ある時はそれを他人から聞いていたわけです。なぜなら少なくとも苦痛を人(もちろんそれを話すことが安全であるような人)に聞いてもらえることで少しそれが軽減されることを経験的に知っているからです。
 ここでの苦痛の訴えは、おそらく心の苦しみなにか、体の苦しみなのかに関して境界はあまり考えられなかったのではないかと思います。私達が今日はしんどいとかキツイ、具合が悪い、という時「え、それは身体が、ですか、それとも心が、ですか?」と問うことはあまりないでしょう。それにそもそも腰の痛みを訴える人は気持ちも沈んでやる気が起きない、という方向に傾くでしょうし、また気持ちが沈むときは身体を動かすのもきついものです。ともあれこれらの訴えをお互いに話しているうちに、どこかに「本当の訴え」と「本当でない訴え」が見分けられていたのではないかと思うのです。その意味を説明しましょう。
 私たちが自分の苦しみとして体験するのは、身体の変調が予期不安を呼び、時には変調が実際に起きているのか、それが起きることを不安に感じているだけなのか、という区別がつきにくくなるという現象です。私は昔中学校で「疑似赤痢」が流行った時、自分が感染しているのではないかととても不安になったことがあります。そして自分の症状に注意を向けているうちに、本当に自分がお腹が痛いのか、痛いような気がするのか、痛くなったらどうしようと心配しているのか、という区別がつかなくなったことを鮮明に記憶しています。いわゆる「心気的」な状態になっていたのですが、心身相関の複雑さをよく物語っている現象だと思います。ちなみにちなみに心気症とは、自己の身体の微細な不調にこだわり、あるいは恐れ、それが重大な疾患ではないかと恐れることを意味します。
 この心気的な部分は、いわばその人の想像力により水増しされた部分と表現することが出来るでしょう。そしてそれは人間である限り必然的に起きてくる部分ではないかと思います。人間である私達は高い表象能力を身に着けています。そして様々な感覚と同様、痛覚も「想像」することが出来ます。例えば歯痛を体験した人であれば、今歯が痛いと一瞬ではあれ想像することが出来ます。喉が渇いていなくても、カラカラな時を思い出してその感覚に一瞬浸ることが出来ます。そして痛みを人に訴えて理解され、不安を軽減してもらうことを望むとき、この実際の苦しみと、さらなる苦しみへの不安とはあまり区別されることなく表現されることがあります。
 この両者の違いはしかし、その苦しみを聞く立場の人には当人よりは敏感に、時には過剰に感じられることがあります。なぜなら人の痛みを聞かされる側は、多かれ少なかれ負担を感じるからです。おそらく聞く側は共感疲労の可能性から、あるいはそれに対するケアをする必要性から、なるべくその苦痛が小さいことを望みます。そこで実際の痛みと想像により膨らんだ痛み(つまり心気的な部分)を差し引いて考えようとします。それを私が本当の訴えと本当でない訴えとして表現したものです。より正確に言えば、人の訴えには本当の部分と水増しした部分がしばしば一緒になり、後者の存在は訴える当人もある程度、そしてそれを聞く他者はより敏感に、ないしはより厳しく判定する傾向にあるのです。
 ところでどこまでが本当で、どこまでが本当でない訴えかを知るうえで、おそらく私たちはある種のパターンを認識していたのだと思います。これはすでに述べたことですが、おそらくそのパターンを記述することが医学の始まりではなかったかと思います。
 生ものを食べた後に腹痛がした場合、その訴えはよく経験されるもの、「本物」であり、それを食あたりと認識するように。あるいは炎天下を歩き続けていて倒れ、喉の渇きや頭痛、立ち眩みなどを訴えた場合に体が水分を失った状態(脱水)として認識されるように。するとそれらに当てはまらないものについては、心気的な部分が多かったり、それが殆どを占めたりするということも経験されていくことになります。この様に考えると医学の進歩と、より想像により膨らんだ部分、ヒステリー、あるいは後にMUSの一部と考えられるようになった部分とは共存していたということになります。
 そしてこのMUSの存在が現在でも重要なのは、人が想像により増幅させる痛みの存在は普遍的だからなのでしょう。

2023年3月28日火曜日

地獄は他者か 8

 これまでの考えを復習してみよう。人は自分が他者に劣っていると思うことに激しい心の痛みを感じる。とはいえ自分が比較する対象が誰でもいいというわけではない。例えば将棋のアマ初段者は藤井聡太さんとの勝負(ハンデのない指導将棋など)に負けても恥に感じることは全くないだろう。それは相手との力の差は歴然としていて、最初から争うつもりはないからだ。でも同じ将棋仲間である初段の相手との試合に負ければ屈辱を感じるかもしれない。更に格下の初心者に万が一負けるとなれば怒り心頭になるだろう。
それはどうしてだろう?なぜ自分が所属していると思える集団の、自分と似たレベルの人たちに対してこれほどライバル心を燃やし、それらの人たちに自分が劣ることにこれほど傷つくのだろうか?
  こう考えていくうちに、実はこれは生物の宿命ではないかと考えるに至った。これまでに私の中になかった、ちょっと新しい発想である。生物は生存競争で自分と同等のレベルの相手との戦いで負けそうになることで激しい攻撃性を発揮するようにできているのではないか。(というよりは、そのような個体が淘汰に残ったのではないか?)同じメスをめぐるライバル同士の雄を考えるとよくわかるであろう。動物は相手がはるかに強い場合には戦いを挑むことそのものが危険である。またはるかに弱い場合にはそれを捕食することには何ら問題はないだろう。
噂のコブダイの雄姿



自分と同じような相手、とは生存競争の中でその様な相手としばしば争うことになるからだ。例えば日本近海に住むコブダイは、自分のテリトリーである岩場に近づいてくるもう一匹のコブダイと死闘を繰り広げる。そこに招き入れる雌を取られてしまわないかと必死なのだ。しかし彼は近くを回遊してくるサメなどに戦いを挑んだりはしないのだ。自分の仲間に対してだけムキになるのである。
  彼らが一番力を発揮しなくてはならないのは、自分と同レベルの相手(あるいは格下から急に同等レベルにまでのし上がってきた存在)であり、そこで攻撃性を発揮できない個体は生き残ることが非常に難しくなる。彼らが一番優劣をつけなくてはならないのはまさに自分と同じような相手なのである。そこで彼らは力の差が同等であると思える限りは攻撃性を発揮する。そして何らかの形で勝負がついた時点で、負けた方は退散するのみである。相手が自分より強いことが明白になった時点で攻撃性は止み、服従することがもっともその生命体の生存の可能性を高めるのだ。
ただし現実の恥の体験について考える場合、はるかに格下の相手からバカにされたり挑戦を受けた時にはさらに強い反応が起きるのだろう。なぜだろう? ライバルでもないのに。きっとそのような時、格下からのチャレンジも、深刻な脅威として感じられるからではないか。人は皆小さい、か弱い自分を持っているので、格下からのチャレンジは、即座にその格下を自分と同等のレベルまで押し上げてしまう。そしてその際やはり重要なのは、それを監視している聴衆の存在なのだ。
  このことをもとに恥の感情の定義を考え直さなくてはならない。これまで私は「恥とは自分の周囲と比べた際の弱さを感じたときに覚える感情である。しかしその際に大事なのはそのことを見ている聴衆の存在なのだ。そしてそれこそが恥の苦痛を大きく規定しているのである。

独裁者の恥
ということでこのテーマを論じる地ならしをしたつもりである。
いま世界では戦争が起きている。ロシアとウクライナの戦闘のことだ。C国はいつ戦争を開始してもおかしくない雰囲気だし、NK国も今戦争が起きていて敵からの脅威にさらされているとでも言わんばかりのことを言う。しかしここでもっと一般化して、A国がB国に戦争を持ち掛けている状況だとしよう。
  ここで意見が分かれるのはA国のリーダーが言うように、「戦争を仕掛けたのは実はBなのだ」と本気で思っているのか、ということである。もしこのような思考を本当に持っているとしたら、一種の狂気に近いもののように感じはしないだろうか?なぜなら明らかに自分たちの軍隊がB国に能動的に攻撃を仕掛けているからだ。もしB国が先に仕掛けてきたということを認識したなら間違いなく、「わがA国はB国からの一方的な攻撃に対して反撃した」と、最初から喧伝するであろうからだ。でもそれはなかったのだ。
しかしA国のリーダーが次のようなメンタリティーを持っているとしたらどうだろう?
「B国め、散々我々をバカにしやがって!」 A国にとっては、昔は連邦国の一部であったB国がよりにもよってA国と敵対している別の陣営に下ることなど、まったくもって許されず、A国の顔に泥を塗る(恥をかかせる)行為だと思わせていたとしたら? ここでこのA国のリーダーの「バカにされた、けしからん!」という感じ方が正当なものかという議論をしているのではない。「恥をかかされた」とは極めて主観的な感情だ。しかし国のリーダーのその感情は、扇動的なプロパガンダにより国民に伝わり、民衆が「恥をかかされた」「コケにされた」という感情を共有するとしたら、他国への攻撃は心情的には正当化されてしまうのである。
   極論かも知れないがこの「恥をかかされた、ケシカラン」という為政者の感情は、戦争を始める際の最も典型的な誘因ではないかと思う。それで思い出すのは1962年のキューバ危機だ。その前にキューバのカストロ将軍は、アメリカを訪問して友好関係を結ぼうと思った。しかし当時のアイゼンハウアー大統領はそれを受けずにゴルフに行ってしまった。そこからカストロのソ連への接近が始まったわけである。様々な政治的な背景があるにしても、カストロ将軍の「コケにしやがって!」という感情はやがてキューバにソ連のミサイルを配備させる動きへと繋がっていった…。

2023年3月27日月曜日

地獄は他者か 7

 ここで恥の感情、特に羞恥感情は人の生産性に貢献するのかという点についても論じたい。後に述べるようにこれは自己愛の問題とも直結している。恥の感情がその人に特有の感覚過敏に由来する場合、自己表現の機会を利用することが出来ないことに苛立ちを覚えることがあるであろう。自分自身の創造性や生産性を人に認められるということは多くの人にとって極めて自然な願望や欲求であり、その人の健康な自己愛に根差していると言えるだろう。そのためには自分の姿を多かれ少なかれ不特定多数の人々の前に晒すことになるが、これには大きな抵抗が生じると、大きなジレンマを生む。
 かつて「恥と自己愛の精神分析1998年.岩崎学術出版社」で私は「自己顕示欲」と「恥に対する敏感さ」を二つの独立変数として扱い、次のような分類を行った。両者が+(高い)の状態を過敏性自己愛性格とした。(ちなみに恥が+、自己顕示が−の場合に対人恐怖、恥が−、自己顕示が+の時に、無関心型自己愛と規定した。)
 この過敏型自己愛は、「恥ずかしがり屋の目立ちたがり屋」ということになり、かなりややこしい性格ということになるが、自らの羞恥心を克服して自己主張をすることが出来るようになったという人はたくさんいる。多くの政治家や芸能人は幼少時や思春期にはむしろシャイで人前に出ることを欲しなかったということを聞く。自己実現の欲求が強い限りは、自分の恥ずかしがり屋な性格は必ずしもマイナスに働かないのであろう。すると私たちが持っている恥の感情は、それによってうまく表現されない自分をもっと別の経路で表現する力を生む原動力になるのではないか。ある人はそれを学問的な研究に向け、別の人は芸術に向けるかもしれない。 
 しかし特別の才能がなくても、接客などの対人接触があまり多くない仕事につき、そこで存分に力を発揮することが出来るだろう。コンピューターの技術者や様々な素材を扱う職人の中には、人と接することは苦手でも高い専門性を身に着け、自分の力を思う存分発揮する人もいるだろう・・・・。
 と書いては見たが、あまり勢いがつかない。恥が原動力になるという主張は今一つ説得力がないのだ。恥は私たちにとって善なるものである、という所に今一つ主張を持って行きにくい。もちろん恥は奥ゆかしさ、媚態、など人の興味をそそり、またそこに美的価値も含まれると思うのだが、なかなかそこまで論じることが出来ない。その代わりやはり恥が持つネガティブな側面を強調することが先になりそうだ。
 私が今非常に興味があるのは、権力者、力を持った人の体験する恥である。私はかなり前から自己愛の傷付きこそ最大の怒りや攻撃性を生むという考えを持つ。今になってみればこれ以上自明なことはないと思うのであるが、案外ハインツ・コフートの自己愛憤怒narcissistic rage の概念をヒントにしたのかもしれない。彼のこの概念を知ることなく自分がこの考えに行きついたのかと自らに問うと、ちょっと自信がなくなってくるのだ。この問題は今回この恥の再考の機会を得たとしても、これ以上進みようがない気がする。

2023年3月26日日曜日

連載エッセイ 2-2

 

いよいよ「ニューラルネットワークモデル」

 

さて以上を前振りとして今回のテーマである「ニューラルネットワークモデル」について論じたい。

これまでに私は、心というのは、脳の微細なネットワークと関係しているらしいということを示した。脳とはその構成単位である神経細胞(ニューロン)が微細な電気信号を出し、それが集まって電気の信号となり、それがそのネットワークの間を縦横無尽に行きかっているらしい。でもそれだけでは心=脳細胞の間の電気信号のやり取り、ということ以上は何もわからないことになる。問題はネットワークがどうやって心を生成するかである。そのことを理解するために必要なのが「ニューラルネットワークモデル」の理解なのだ。

 ここで「ニューラルネットワークモデル」を検索してみた方は、少し不思議な思いをするはずだ。日本IBMのサイトからその定義を借用しよう。(https://www.ibm.com/docs/ja/spss-modeler/18.4.0?topic=networks-neural-model)。「ニューラル・ネットワークは、人間の脳が情報を処理する方法を単純化したモデルです。 ニューラル・ネットワーク・ノードは、連係する多数の単純な処理単位をシミュレートします。処理ユニットは、ニューロンを抽象化したものと表現できます。」

これを読んで「あれ、これって脳の話なの?それともコンピューターの話なの?」と混乱するかもしれない。正しくは、このモデルは脳で起きていることを大胆に単純化してシミュレートしたモデルなのだ。「ニューラル」とはニューロン(神経細胞)の、という意味だが実際にここで論じているのはノード(結び目)であり、実際の生身の脳の神経細胞のことではない。だから「ニューラルネットワークモデル」は脳の実際の神経細胞とそれらを連絡する神経線維を表しているのではなく、それを極めて単純化して図式化したものをそう呼んでいるから紛らわしいのだ。

とにかくこの紛らわしい「ニューラルネットワークモデル」からスタートするのだが、ここで前提とすべきことを挙げておきたい。脳の本質的なあり方は、それが神経細胞からなるネットワークにより構成されているということだ。すなわちそれは神経細胞(それも膨大な数、一つの脳の中に一千億個とも言われる)とそれらの間を微弱な電気信号の連絡により結び付けている神経線維からなる巨大な編み目構造ということになる。しかし神経ネットワークがどのような構造になっていてどのようなルールのもとに形成されているかはあまりに複雑でわからない。でもとりあえずはそれが脳の基本的な構成要素であるという理解を「ニューラルネットワーク仮説」と呼んでおこう。おそらく現代の脳科学者の中でこの仮説に基づかない人はいないのではないかと思えるくらいに、これは基本的な了解事項なのだ。

ただし例外としては、例えばロジャー・ペンローズやスチュワート・ハメロフと言った論客が、ニューロン内のマイクロチューブルと呼ばれる微細構造に生じる量子力学的効果を意識の根源を見なしているという。こうなるとニューロン一つ一つが意識を有することになりかねないが、もちろんこの説を否定するだけの論拠を誰も持ち合わせてはいないのだ。

2023年3月25日土曜日

連載エッセイ 2ー1

 今回から脳科学の話に入るが、そもそも脳科学は私たちに何か重要な情報を与えてくれるのだろうかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。それについては間違いなく「イエス」である。人の心や行動が変調をきたした場合、それが心の病ではなく、脳の病であったということが分かることで、その人に何が起きていたのかを理解することがある。それは間違いない。はるか昔、まだヒステリー(今でいう解離性障害)性の痙攣と癲癇との区別がついていない時代があった。両方とも患者さんが全身を震わせ、しばしば意識をなくすという点は同じである。ところが1929年にドイツのハンス・ベルガーにより脳波が発見された。神経細胞が微弱な電気を発していて、その波が一緒になって大波を形成して、いわば脳の中で脳波の嵐が起きることで生じる癲癇という病気が発見された。すると全身を痙攣させる人の一部は、脳波異常を伴う人とそうでない人に分かれた。脳波の嵐が起きている人は後に抗癲癇薬を飲むことで改善することが分かったのである。

この脳波の発見から、精神医学者たちは脳の中に複雑な電気信号が行きかっていることを知った。それは脳神経細胞の一群が集団で同じリズムを生み出すことを示していた。その周波数によりα波やβ波と呼ばれているが、それはここの神経細胞がバラバラに電気信号を出しているだけでは説明が付かなかった。もちろん脳の内部を画像により知る技術(CTMRIなど)が開発されるはるか昔の時代である。でも脳の働きがある種の電気信号の行きかうことと関係しているということはわかっていた。(この点は重要なので覚えておいていただいたい。今日のテーマである「ニューラルネットワーク」とも深く関係していることだ。)

やがて画像機器が進化し、CTスキャンやMRIは脳の内部を可視化させていった。そして様々なテクノロジーによりその内部が示されるようになった。そのうちの一つをご覧いただこう。(図省略)これは拡散テンソル画像というものだが、脳の中にはきめ細かな線維が走っていて、大脳の表面の膨大な数の神経細胞(図ではその部分は描かれていない)との間にネットワークを形成している。そこの電気信号が脳波計により拾われていたのだ。

私個人にとって脳科学の成果の偉大さが深く刻まれた例を挙げて、それからニューラルネットワークの話に行こう。(岡野:精神分析新時代.岩崎学術出版社2018年を一部引用する。)


ある植物状態になっている人の脳の一部に電気刺激を与え、脳の他の部分にそれがどのように伝わったかを調べることが出来るという。おそらく脳波計とコンピューターをつないで得られるのであろう。すると昏睡状態から脱出し始めた最初の日(一番左の図)は、1箇所を刺激すると、脳の中央付近の一部が興奮してすぐ止んでしまう。ところが昏睡状態から回復し初めて11日後に刺激を与えると、割と広範囲に、短時間だが電気刺激が到達したということである。それが真ん中の図である。そしてそれから日が経ち意識がいよいよクリアーになってくると、一番左の図のように、刺激が脳のかなり広範囲に割って行きわたる。脳の全体が「鳴っている」状態となったというのだ。

 この研究の画期的なところは、例えばロックト・イン・シンドローム(閉じ込め症候群)にある状態の人への理解が深まったことである。この症状群では脳幹の一部が損傷して、それこそ目しか動かせない状態で、「この人は意識がないのではないか?」と思われる場合にも、実際には意識がはっきりしていて周囲の声は全部聞こえて理解されているということがあるという。しかしこれまではそれをなかなか証明できなかった。しかしこのような状態の人の脳に電気刺激をして画像上どの程度脳が「鳴る」かを見ることで、実際にはその人が一見昏睡状態で全く反応が見られなくても、意識の存在を知ることが出来るという。

Massimini,M., Tononi, G (2013) Nulla di più grande. Dalla veglia al sonno, dal coma al sogno: il segreto della coscienza e la sua misura. Baldini-Castoldi Editore, 2013 (マルチェッロ・マッスイミーニ、ジュリオ・トノーニ著、花本知子訳 意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論 コトモモ社、2015)

同様の研究は、ケンブリッジ大学の神経科学者であるスリバス・チェヌも発表している。https://wired.jp/2014/10/20/neural-signature-consciousness/?site=pc)一般に用いられる脳波計を用いて、が開発したこのシステムは、一般的に使用される脳波(EEG)信号を、数学の一分野であるグラフ理論を使って解析するものだ。彼は同期化された神経活動のパターンを示す装置を考案した。そして意識があるというのは、これが脳全体に広がるということを示した。下の図では、一番右の図は、意識がある人が示すカラフルなモヒカンのようなパターンである。そして左と真ん中は昏睡状態にあった二人の患者であり、一番右は決して昏睡から回復しなかったが、真ん中の患者は回復したという。

 


2023年3月24日金曜日

共感の脳科学 推敲 5

 いわゆるマインドフルネス瞑想との関連で

共感の脳科学というテーマについてこれまで述べた文脈に従うならば、マインドフルネスのテーマは深くかかわってくると言えるだろう。現在心理学の様々な分野で脳科学的な研究がおこなわれているが、いわゆるマインドフル瞑想に関する脳科学研究も共感のそれと重なってくるのだ。

マインドフルネスとは「いま、ここ」で起きていることに注意を向ける心理的なプロセスとされ、瞑想により高めることが出来るとされている。その由来は仏教の中道の具体的な内容として示されているという。2000年代に米国で東洋思想への興味が高まったことが背景にあり、メンタルヘルスの分野で実践されることが多くなっている。その中でも特筆すべきは、この瞑想によりある脳の変化が起きるということが種々の研究により示されるようになってきているということだ。

以前ネットでTom Irland という人の記事を読んで以下のようなまとめをしたことがある。マインドフルネス瞑想で以下のことが起きるらしい。

扁桃核の委縮、前頭前野の厚みの増加、扁桃核と周囲の機能的結合性の低下、注意と集中の部位の結合性の増加。つまりマインドフルネス瞑想により激しい感情に捉われることが少なく、また感情により思考能力が低下するということが少なくなったという。
 少なくとも扁桃核が抑えられているということにより、情動的共感による疲労や苦痛から治療者を守ってくれることを意味することになる。

 Bremer, B., Wu, Q., Mora Álvarez, M.G. et al. Mindfulness meditation increases default mode, salience, and central executive network connectivity. Sci Rep 12, 13219 (2022)

Bremer らの論文には面白い結果が記載されている。ひと月マインドフルネス瞑想をすると、いわゆるデフォルト、サリエント、課題遂行という三つのネットワークの相互の結びつきが非常に強くなるということだ。

ちなみにこの論文はごく最近のもの(2022年)だが、そこでマインドフルネス瞑想に関係した脳の変化を比較的コンパクトにまとめてくれている。そこには次のようなことが書かれていた。
ACC
(前帯状回)、PFC(前頭前皮質)の活動が高まり、それらが扁桃核を抑制する効果が見られること。
PCC
(後部帯状回)の活動亢進はマインドワンダリングやself awareness などのデフォルトモードに関わる機能の促進を意味すること。しかし全体としてみれば、デフォルトモードは抑制されていること。デフォルトモードの活動は抑うつとかくよくよ考える事などのうつ病の症状に関連していることから、デフォルトモードを抑えるという働きは抗鬱効果と考えることが出来るという。

次に Yang, Pinazo らの論文を読む。
Yang CC, Barrós-Loscertales A, Pinazo D, Ventura-Campos N, Borchardt V, Bustamante JC, Rodríguez-Pujadas A, Fuentes-Claramonte P, Balaguer R, Ávila C, Walter M.2016 State and Training Effects of Mindfulness Meditation on Brain Networks Reflect Neuronal Mechanisms of Its Antidepressant Effect. Neural Plast. 2016, article ID 9504642.

一般人を対象に要するに何もしない時と、瞑想をしている時の脳の活動を調べ、特にそれぞれのネットワークの結合がどれだけ強くなっているかを調べたのだ。そのエッセンスは次の通りだ。

During meditation, the internal consistency in the precuneus and the temporoparietal junction increased, while the internal consistency of frontal brain regions decreased. A follow-up analysis of regional connectivity of the dorsal anterior cingulate cortex further revealed reduced connectivity with anterior insula during meditation. 

 瞑想の間は、側頭頭頂接合部と楔前部precuneus の内部一貫性が増す一方では、前頭葉の内部一貫性は低下したという。フォローアップでは、瞑想中は背側前帯状回と島前部の結合の低下が見られた。
 はっきり言って何のことだかわからない。ただ幾つかの引用可能な個所があった。マインドフルネスの神経科学的なメカニズムはほとんどわかっていない poorly understood (P2) その上でまとめるならば、次のような結論が得られよう。
 マインドフルネス瞑想の効果やその脳内基盤に関してはまだその研究成果は積み上げられているプロセスであるが、それはそれぞれのネットワーク間の結びつけを強め、脳という神経ネットワーク全体を活用することを促すプロセスであると言えよう。そしてそのトレーニングは脳の活動の変化を実質的に変えるだけでなく、それ等をつかさどる各部の容積の変化を伴っているということが言えるのだ。そしてそれはセンチメンタルな共感から偉大な共感に向かうという方向性でも一致しているのである。 

私の共感論 推敲 4

 表出的か支持的かに関わらず共感は必然である

ここで一つ私が考えている共感論に関して提案をしたい。表出的-支持的という二分法は、現在ではそれ自体の持つ意義が意味が改めて問われていることは以上に示した。しかし表出的な介入をするにしても、支持的な介入をするにしても、いずれにせよ治療者が患者の心の理解をすることに最善を尽くすことは当然ではないかということである。極端なことを言えば、解釈的な介入のみをするという方針の分析家も、患者の言葉に頷きさえしない分析家も、それでも心の中で共感をしているということは最低限必要ではないか。なぜなら解釈をするとしても、まず患者の心の中が分かっていなければ何も出来ないであろうからである。

 臨床例:(削除)

この様なケースについて実に様々な可能性が考えられるだろう。

  (中略)

私はこのプロセスは精神療法ではむしろ普通のこと、あるいは必然のことと考えて「中立性と現実」を書いたのである。治療関係において、「共同の現実」はやがて破綻する運命にある。そしてそこからバージョンアップし、さらに精度を増した改訂版「共同の現実」もまた、やがて破綻する運命にある。そして治療者と患者はやはり互いに分かり合えない部分を有する(ただし分かり合えた部分も治療開始前に比べればはるかに広がった)他者同志として終結するのだ。ただしそれは治療の失敗ではない。「程よい」終結なのだ。その時点では、「これくらいわかってもらえればいいか。これ以上は期待しない方がいいし、あとは自分独自の世界なのだ」とあきらめ、同時に「自分だってそれほど他人のことをわかっていないではないか。」という認識をも持って終わるのである。

(中略)

ただこの関係で治療者に大事なのは、できるだけ相手をわかろうと力を尽くすことなのである。

 ところがもう一つ重要な問題がここに絡んでくる。それは治療者が何を感じ取っているかということで、そこには体感的なものも含まれる。いわゆるfelt sense である。


2023年3月23日木曜日

地獄は他者か 6

 ここまでは私は羞恥と恥辱を次のように分けて論じた。

羞恥: 自分を見られることへの抵抗感、不快感。ただし自己価値の低下はない。

恥辱: 自分を見られることへの抵抗感、不快感。そこには自己価値の低下が伴う。

これはかなり前に内沼先生の理論(内沼幸雄:「対人恐怖の人間学」から学んで、それを受けて主張していることで、もう私の中ではデフォルトだが、これって本当だろうか?

この問題についてあれこれ考えているうちに幾つか気が付いたことがある。変な例だが思いついたので挙げてみよう。病院で血液査をするとき、採血された試験管が私の名前や番号を書かれて試験管立てに置かれる。当然それは人目に触れることになる。何かモヤモヤした気分だ。自分はその血に恥じているわけではない。私の血がエビなどの甲殻類の様に青銅色だとしたらすごく目立って本当に恥ずかしいがそんなこともない。「え、岡野さん、いやだ、エビだったんかい!」ってことはないのだ。でも自分の血液が人目にさらされることはどちらかと言えば嫌だ。よく考えれば私は特に恥じ入ることではなくても人目に晒されるのが億劫になることがある。その感覚自体がうっとうしいのだ。これは知覚過敏が関係しているのだろうか?
 この現象についてさらに個人的な体験を書くと、私はある時イヤホンで音楽を聴きながら買い物をするとどうしてこんなに楽になるのだろうと思ったことがある。私にとって店に入ることはあまり好きではなく、店員にすっと寄って来られるとそれだけで帰りたくなるが、音楽を聴いているとそれがかなり軽くなる。実はサングラスをしても同じことだしおそらくマスクをしていることでずいぶん人目に触れることの苦痛は軽減しているはずだ。私はこのことを数多くの患者さんに伝えて「一度やってみては」と提案しているが、この現象に関する仮説はこうだ。
 イヤホンをしていると、まず自分の足音が聞こえない。それ以外にも自分という存在が立てている何らかの音が軽減されて、全体として自分自身が発している情報が減る。サングラスをしていると、自分の視線が相手に対して与えている程度はかなり軽減される。なぜなら向こうには私の視線は恐らくあまり見えていないから。以前書いたとおり、対人体験は鏡面反射現象のようなものだ。実はきわめて錯綜した体験が起きていて、その一部を私たちはフィルタリングして体験しているだけに過ぎない。自分の足音が自分で聞こえるということは、当然それを聞いている他者の反応をモニターしていることになる。これはすでに対人体験における情報量としてのしかかってくる。それに、音楽を聴くということは心のかなりの部分が聴覚情報でおおわれることになる。その分他者のことを考えなくてもいいのだ。

この様に考えると対人過敏であることは、自分に関する評価の高い低いにかかわらずうっとうしいということになるだろう。対人体験がストレスとなる理由はこれではないだろうか?

「地獄は他者か 4」で私は「共感的羞恥」について書いた。そしてこの問題がどうやらHSPと関係しているらしいとも書いた。HSPの人にとっては、「他人が自分をどう思っているか」についても敏感だということだろうか?でもそれは共感の能力と関係はないのだろうか?HSPの提唱者であるエレーン・アーロンさんによれば、DOESのうちEは「感情反応が強く、共感力が高い」ということになっている。そしてそこで挙げられている項目は、

1.人が怒られていると自分の事のように感じてしまう。

2.悲しい映画は登場人物に感情移入してしまい、号泣する

3.相手のちょっとしたしぐさで、機嫌や思っていることが分かる

4.言葉を話せない幼児や動物の気持ちを察することが出来る。

 このうち2は例の共感的羞恥の事だろう。問題は3だ。これが「人に見られることがうざい」ということだろうか? しかし「相手のちょっとしたしぐさで機嫌や思っていることが分かる」は、その人が勘違いしている可能性だってあるのだ。それに他者がその人をちらっと見て「あ、人がいる」という単にそれだけの反応しか見せなかったとしても、当人は「見られた、まずい」となっているとしたら、これは「相手の気持ちがわかる」という能力よりは、その人の特性ということになる。

ということで今回羞恥と恥辱の違いを再検討していて発見したのは、恥の問題にはこの「感覚過敏」というテーマは恐らく避けて通れない問題だということである。

2023年3月22日水曜日

共感の脳科学 推敲 4

 心理療法家にふさわしい脳

これまでの議論を踏まえて心理療法を行う人にとってどのような脳のコンディションがより助けになるかについて論じてみたい。ポールブルームはその「反共感論」の中で興味深いエピソードをあげている(p170)。
ポール・ブルーム、高橋洋訳 2018 反共感論 ― 社会はいかに判断を誤るか. 紀伊国屋書店。

 仏僧にして神経科学者のマチウ・リカールという人は、二種類の異なる瞑想を行うことが出来る。ある瞑想状態において、他者の痛みについて考えると快と高揚を感じたという。次に共感を覚える迷走状態になり同じように他者の痛みについて考えると、、ただちに耐えがたい苦痛に見舞われ、燃え尽きたごとく消耗したという。この話からブルームは類似してはいても異なる二つの感情を提示する。それらは「偉大な思いやりgreat compassion」とセンチメンタルな思いやりsentimental compassion (=共感)である。(日本語訳書では、前者は思いやり、後者は共感と表現されているが訳語の適切さについてはここでは置いておこう。)そして患者の辛い体験を聞くと、後者は疲弊させるが、前者は暖かくポジティブな状態でその人を助けたいと願うというのだ。この様なcompassion 思いやりの異なる種類については、仏教においてしばしば論じられている(Fung Kei Cheng)。そしてセンチメンタルな思いやりは援助者の生産性を損ない、その精神衛生を損なう。それに比べて偉大な思いやりはその様なセンチメンタルな思いやりから解放され、他者を援助する際のストレスも軽減されるという(Fung Kei Cheng)。

 そしてそれをつかさどる脳の部位として、ブルームが示すのが、前者は島皮質、ACC、後者は内側眼窩前頭皮質、腹側線条体であるとする。 すなわち前者は概ね情動的共感に、そして後者は情動的ToMに類似すると言えよう。

この仏教研究から示される示唆は、私達が行う心理療法について考える上でも大きな示唆に富んでいると言えるだろう。実際に私たちは多くのトラウマを負った患者について扱う上でそれを日常業務にする上で疲弊することで確実に治療者としての力を損なうことになりかねない。偉大な外科医を考えればわかるとおり、痛みを体験する患者に対する援助の一番の決め手は、その状況やそこから生じる苦痛を客観的に理解し、その痛みを取り除くべく最大の努力をすることにエネルギーを費やすことのできる治療者であると言える。