2019年1月31日木曜日

解離の心理療法 推敲 2


第1章 解離の患者さんとの出会い方 

1.はじめに

DIDをはじめとする解離性障害を持つ患者さんは、自分自身に起きている症状や体験の数々について、特に疑問に思ったりすることなく過ごしていることがよくあります。症状が子どもの頃からあれば、もうそれは生活の一部になっているでしょうし、それに何か困ったことがあっても他者に打ち明けないままでいることは、解離の患者さんにはよくあることです。こうして解離性障害を持っているという自覚のないまま日常生活を送り、医療機関を受診するまでに長い年月を要することは少なくありません。中には子どもの頃から生活に支障をきたすほどの症状がありながら、それでも何とか人生を送っている場合もあります。
自分の解離体験について人に話さない、という傾向は、「自分が人とはかなり違うらしい」、「他の人には私のようなことはおきていないらしい」という自覚が芽生えた後は、よりいっそう顕著になる可能性があります。「私の中に何人かがいるなんて、とても人に話せませんでした。」「人が自分を異常者扱いするに違いないと思いました。」という患者さんたちからの声はしばしば耳にします。DIDの症状があまり人目につかず、明らかにされないという傾向の一端は、患者さんたちの「人に知られたくない」という気持ちも影響していると考えられるのです。
ここではDIDの一般的な症状を取り上げ、受診に至るまでの様々な経緯のいくつかを具体的に紹介します。

2.日常生活をに見られる症状の数々

患者さんが日常生活において症状と自覚しないまま見過ごしてしまうことの多い現象には、下記のようなものがあります。いずれも比較的急に始まり、また急に終わる傾向にありますが、何日かかけて徐々に起きたり、おさまったりする場合もあります。

朝、目覚めると部屋の様子が変わっている、誰かが出入りしたような跡がある、購入した覚えのない持ち物や日用品が増えている、誰かと食事したらしい店のレシートがみつかり、記憶のないメールやラインのやりとりが履歴に残っていたり、削除された形跡があったりする。

交代人格の出現を伴うDIDでは、ご本人の気づかないうちに別人格が行動するようになると、生活に目に見えた異変が現れます。家族や周囲の人々に指摘を受けて気づくこともあり、何らかのトラブルに発展して初めて明らかになることさえあります。こうした現実的な問題に前後して患者さんの内面にも様々な変化が現れます。身体症状として次のような体験をもつこともあります。

ふとしたきっかけで、頭の中が騒がしくなる。ざわざわとした音が絶え間なく聞こえ、大勢の人々が話し合っている声がする。耳を澄ますと、どうやら自分のことを責めたり怒ったりしているらしい。時には自分の内側から話しかけてくる人の声がはっきりと聞こえる。

突然耳が聞こえなくなり、声が出なくなる。全身が脱力し、体を起こすことができずに寝たきりになる。活字がバーコードのように見えて、文字が読めなくなる。あるいは手は動くのに文字だけ書けなくなる。急に話し方を忘れてしまい、「あー、うー」というような声しか出せなくなる。

目の前の景色が歪み、足元の地面が柔らかくなったように感じ、うまく立っていられなくなる。話している相手の姿が小さく縮んで見えたり、急に大きくなったりする。外の世界から色が抜けたように暗くなったかと思うと、燃え盛っているように真っ赤になる。

これらの症状の改善を求めて内科医のもとを訪れても、結局は精神科の受診を奨められるわけですが、精神科でもその状態が解離症状と判断されずに、統合失調症など他の疾患と誤診されることも未だにあります。視覚や聴覚に関わる異常については、眼科や耳鼻科に回されて何度専門的な検査をしても異常が見られず、原因不明のまま返されてしまうこともありえます。
同じような症状が子どもの頃からあり、長期化している場合には、ご本人がそれを普通のこととして特に違和感なく過ごしていることもあるようです。幼児期から児童期に多くみられるイマジナリー・コンパニオンの存在もその一つといえるでしょう。例えばそれは、こんなふうに起きています。

ひとりでいると、いつの間にか部屋に友だちが遊びに来ている。一緒に絵本を見たり、話をしたりして過ごすうちに気づくといなくなっている。何日かするとまたどこからともなく表れて、しばらく一緒に遊んでくれる。

イマジナリー・コンパニオンは一過性に表れてその後消えてしまうこともありますが、その存在が本人の中で影響力をもつようになり、日常的な関わりが増え行動を共にするようになってくると、その後にDIDの交代人格としての性質を帯びてくる場合もあります。
またこれまで述べてきたような症状とは異なり、トラウマ記憶のフラッシュバックが繰り返し起きることで、異常に気づくこともあります。

何の前触れもなく、過去の出来事の場面が思い浮かび、恐怖に襲われる。動悸がして過呼吸状態となり、意識を失いかける。体のあちこちに痛みが走り、苦しさで身動きできなくなる。

特定の場面が何度も目の前に表れ、あたかもそれが今起きているように感じて度々恐怖に襲われても、患者さん自身は必ずしもそれをトラウマと結びつけては考えていないことも多いのです。一方でかつて自身が体験した出来事との関連にうすうす気づいてはいても、その記憶を想起し、第三者に語るのを恐れている場合もあります。




2019年1月30日水曜日

解離の心理療法 推敲 1

虹クリニックの皆さん、ありがとう! とてもいい雰囲気でしたよ。

はじめに
本書は解離性障害、特に解離性同一性障害の問題を抱えた方との臨床経験を多く持つ私たちがそこで得られた経験を持ち寄り、本に著したものです。主に読んでいただきたいのは、当事者やその家族の皆さんですが、心理士や精神科医の先生方にも是非手に取っていただきたいと思います。私たちの印象では、解離性障害はまだまだその実態が人々に理解されていません。そしてそれは臨床に携わる人々の間についても言えるようです。それどころか解離性障害について誤った考えを持つ臨床家も少なくないようです。そこでこれから解離性障害の患者さんに出会ったり、すでに実際に出会っており、これからどのように治療を進めていくかに思案なさっている方々にとって、本書が何らかの意味で参考になることを願っています。
もちろん患者さん自身が解離性障害についての本を読むことには異論があり得ます。「患者さんが不必要な知識を身に着けて、解離性障害を装うことになったら困るのではないか?」という懸念は精神科医の間からもしばしば聞こえてきそうです。しかし私達が一貫して持っているのは、誤った知識を持つ弊害こそが一番の問題であるという考えです。解離性障害は非常に多くの誤解を招きやすいというのが、その基本的な性質の一つと言えます。それは歴史的にもそうでしたし、現在の日本社会にも言えます。解離性障害障害の当事者としては、より正しい知識を自らが得る機会が与えられることの価値は少なくないと思います。また解離性障害はそれを精神科医から「宣告」されてしまうことで人生に悲観的になるような障害ではありません。解離性「障害」というふうにある種の病気という呼ばれ方をされていますが、解離とはその人の脳の働きのひとつの特徴であり、基本的には誰でも有している可能性のある機能です。ただそれが極端な形で機能し、生活に支障をきたしているのが、解離性障害と呼ばれるものです。ですからその性質を理解し、それをある意味では逆に制御して用いていることで人生を生きやすくするのが治療のひとつの目的です。そのためにも解離に伴う心の動きは、当人がそれを深く知ることが回復への道筋になっているのです。
以下の本文では、解離性同一性障害のことをDIDと表記することにします。従来は、「多重人格障害」という呼び方がなされてきましたが、それでは誤解されることが多いということで、アメリカの診断基準であるDSMの第4(1994)でこの新たな呼び方(解離性同一性障害dissociative identity disorder)が提案されたという歴史があります。ただこの解離性同一性障害という呼び名が少し長すぎるということで、英語名のイニシャルを取ってDIDと呼ばれることが多いのです。
他の用語としては、本書では主人格や交代人格やスイッチングという言葉を用います。主人格とは便宜的な言い方で、現在一番出ている人格、主としてその人の言動を司っている人という意味です。その意味では主人格がだれかは、時期ごとに違うという可能性があります。ある時期はAさん、また別の時期はBさん、ということもありうるわけです。そして時には二人の人格がほぼ生活を分け合っているようなこともありますから、常に明確な一人の主人格がいる、とは限らないことになります。
また交代人格とは、いくつかの人格状態の呼び方ですが、他に適切な呼び方もあるかもしれません。欧米では「交代人格alter」、「人格部分a part of the personality」、「アイデンティティidentity」 などの言い方がなされています。どれも一長一短があるよび方ですが、本書では交代人格、という呼び方で統一しておきます。ただし交代人格というと、主人格が困った時のピンチヒッター、交代用員というニュアンスが感じられるかもしれません。しかしここではすべての人格がそれぞれ今出ている人格と交代する可能性があるという意味で用いています。ですから主人格もまた交代人格の一人、とも言えるでしょう。
これらとの関連で「現在出ている人格」という言い方をすでにしていますが、それは今現在においてその人の言動の主となっている人格、という意味です。今目の前の人と言葉を交わしている人、と言ってもいいでしょう。そして現在出ていることが最も多い人格を主人格と呼ぶ、というわけです。ただし人と交流をしていない時のDIDの人はしばしば、特に「誰も出ていない」状態であるようです。そのような場合は心の中で様々な人格たちが交流し合っている状態と考えることが出来ます。そして誰かに話しかけられると急いで一人の交代人格が「出る」ということが起きているのでしょう。
スイッチングについては、一人の人格からもう一人の人格に、言わば主人公が交代する現象を指します。ここで主人公、などという曖昧な言葉を使いましたが、これはあくまでも外側にいる人から、誰が今現在話し手となっているか、という意味です。私たちがDIDを持つ患者さんと話をしている時、その人は一定の口調、表情、しぐさを持った、一人の人間という印象を受けます。もしその交代人格が「Aさん」という自覚を持っているとしたら、それがその時の「主人公」というわけです。するとしばらくたって主人公として「Bさん」が登場したなら、私たちはAさんと異なる口調や表情や仕草を体験するでしょう。この時に人格のスイッチングが起きた、と表現します。
このスイッチングという表現には、ある種の急な切り替え、というニュアンスが伴うでしょう。そして確かに人格Aから人格Bへの交代はしばしば急で、時には一瞬で起きることが知られています。そしてこれは解離現象の一つの特徴ともいえます。通常の精神医学の現象で、ある心の状態から別の状態に一瞬で変わる、ということはあまり起きません。よく知られている現象では、たとえば覚醒レベルが急に上がる、あるいは急にパニックやフラッシュバックなどの形での不安が生じる、という現象が比較的急に起きます。皆さんも授業中に眠気をも要している時に急に先生に差され、一瞬で目が覚める、という体験をお持ちでしょう。またパニック発作などでは、ある状況で、あるきっかけで急に不安がやってくるということもあります。しかし憂鬱な気分や被害妄想など、あるいは躁的な気分などは通常なだらかに、徐々に起きてくるものです。ところが解離現象は、あたかも脳で何かのスイッチが切り替わったような生じ方をし、それに自分自身も周囲も驚くということがあるのです。
人間の脳はある種の興奮の高まりやその低下に通常は時間がかかるものです。統合失調症やうつ病の場合には、脳に一種の炎症のような状態が生じているとも考えられています。だから病気の発症は何らかの前兆があり、また回復にも時間がかかります。ところが解離性障害の場合にはある状態から別の状態への切り替わりが一瞬で生じることが多いため、脳の中ですでに並行して起きている状態の間の切り替わりと考えることが出来ます。そこがほかの精神疾患と顕著に異なる部分です。
この「はじめに」はいわば本書のイントロダクションですので、理論的な問題はこれ以上立ち入らないことにしますが、本書は解離性障害の当事者の方や、それを支える人々にとって助けとなるような内容となることを目指して書かれています。そして実際の解離性障害で何が起きているのかをなるべく具体的な例を挙げつつ説明し、場合によってはその理解の助けとなるような脳のメカニズムにも触れたいと思います。

2019年1月29日火曜日

不可知なるもの 13

 抄録)
 フロイトは無意識を探求し、その内容を明らかにし、言語化することの重要性を説いた。しかし現代の精神分析家たちは心の中にあって知りようのないもの、言葉にならないもの、あるいは不在なものへの関心も高めている。ビオンが欲望なく、記憶なく、という言葉を残したように、不可知なるものへのアプローチには、発見され発掘されるべき真実の存在を前提とするのとは異なる姿勢が要求されるようである。しかし不可知に対するアプローチはそれを知りたいという欲望に根ざしたものになりかねない。それはある意味では不可知であるものの価値をスポイルする結果に繋がらないだろうか? 真実の探求を目指したフロイトは、実はその不在にこそ意味を見出そうとしていたことはあまり注目されていない。「無常について」(1916)においてフロイトは「常ならぬtransientもの」に美を見出し、それがやがては消えてしまうからこそ、そして「喪の前触れ foretaste of mourning 」を伴っているからこそ価値があると説いた。美はそれが刹那的でやがて失われるからこそ美しいというのである。そしてフロイトは直接触れていないが、それは人生の価値についても同様の示唆を与えていると説いたのが、米国の分析家ホフマンである。ホフマンは死を背景にすることで生の価値が生まれると主張したのである。
  ところで日本の文化は同様の価値観を公然と持つ極めて異色の文化である可能性がある。そこでは曖昧にすること、隠すことにある種の美や価値を表現してきた。そしてそれは武士道の教え(葉隠)に見られるように、命を惜しまないこと、滅びることに価値を追求するような自虐的な側面を有していた。しかしそれはまた精神分析が追求する一つの価値観へと通綴していることが興味深い。それは対象を内在化し、保持することの価値である。そして時にはそれは対象との別れや死別によりより深化することすらある。同様の文脈で日本の分析家北山は儚さに美を見出し、松木はそれを「不在の在」として言い表している。
 現代の私たちの直面する現実は、何が可知で何が不可知かすら分からないほどに混沌としている。喪失や不在の苦しみは常に身近にあり、いつ襲ってくるか分からない。しかし私たちは喪失や不在が生み出す美や価値を受け取る力をはぐくむことで、それを代償することが出来るのではないか。そして不可知は不可知のままであることで豊かさや創造性の源泉となるのではないか。これからの精神分析は解釈にだけでなく、あえて解釈を行わないことにも意味を見出すことで、その重層性を増すのではないかと考える。

2019年1月28日月曜日

不可知なるもの 12


ここでいきなり話は葉隠に飛ぶ。「武士道といふは死ぬことと見つけたり」。二つの選択肢があれば、四の五の言わず、死の方を選べ、という。人は勿論生きたい。だから必ず理屈をつけて生きる方を選択する。しかし正解はそれを選ばない方になる、というのだ。
これは極端な死生観であるが、これが本質をついていると考えると、こうなるだろう。私たちは自然と生を選択する。左脳はそれを正当化する。生きる、とはすなわち快であろう。花も見せたいし愛でたい。でもそれをしないことを選択する。それは心に留めるということだ。知覚と異なり、表象は本質的に刹那的だ。知覚源がずっとそこにないから持っておくことは出来ない。ある美しい視覚像を思い出しても、それはその視覚像に慣れてしまうことがないのは、それが基本的には一瞬一瞬の体験だからである。表象はその本質が刹那的だからだ。心に置く、ということはある意味でその価値を永遠にする。
ここで急に映画「カサブランカ」を思い出している。リック(ハンフリー・ボガード)はイルザ(イングリット・バーグマン)を欺き、最終的に自分が犠牲になり敵地(カサブランカ)に居残る。その結果としてリックはイルザと別れ、彼女の脳裏にのみ残ることになるが、それは最もカッコいい姿としてなのだ。運命がめぐって二人が一緒に添い遂げたとしたら、お互いに倦怠期を過ごして相手からいかに逃れようと考え始めるかもしれない。お互いにカサブランカの空港で見ていた相手のイメージとは全く異なる現実に晒されることになるのだ。(まあそれも別にいいだろうが。)消える(死ぬ)ことは美を保存するためにはどうしても必要なのである。葉隠も、風姿花伝も、喪の先取りも、言っていることは同じように思える。心にのみ置くべし。知覚して味わい続けることはその対象を損なうことなのだ。でもそれは実は容易ではないことである。人は快を与える物事に浸り、居座る。
 もっと言えば、真実は常に刹那的と言えるかもしれない。ある真実は即座にそれを否定する要素により否定される。だから一瞬しか存在しえないのだ・・・・。

2019年1月27日日曜日

不可知なるもの 11

まとまらないままに考察は続く。

 私達は致死性(死すべき運命)との関係で生を十台味わうことが出来ると論じた。それはフロイトが「喪の先取り』として表現したことでもある。そしてそれは日本文化に於ては「もののあわれ」として表現されてきた。この概念については松木邦裕の「在の不在」の概念にも表れている。その不在論の中で松木は在の存在価値は不在の中に現わされると説く(他にも重要なことを言っているが,).これは私が non-action (活動しないこと)という概念を通して示したこととも同類なのである。活動はそれがなされないことにより意味がある(場合がある)。「愛している」が、言葉で表現されないことに意味があるとすれば、それは言語化されることでスポイルされる、あるいは歪曲されるからである。世阿彌が,「秘するが花」と言った時、彼は花が見えそうで見えないことに美を見出した。あるいは長く蕾に隠され、咲く時間が短いことに美の本質があると考えた。それはフロイトが「移行の価値は時間の中の希少さだ transient value is scarcity of time 」と言ったこととも関係しているかも知れない。陰翳による「よく見えなさ」と、一瞬しか見えないために十分に味わいきれないことは関係しているのだろう。儚さには、時間軸と空間軸があるわけである。人の知覚は馴化の運命にある。美しいものは見飽きてしまうために、その美を保つためには一瞬で消えなくてはならない。
 ところで世阿彌が秘すれば花、と言った時、明らかに美を秘するという行動が含むメンタリティを考えている。「恥じらい」と表現すべきだろうか? 恥じらいは、英語にすると shyness と味も素気もなくなるが、慎み深さ modesty となるとポジテイブな意味が加わる。おそらく慎む心そのものに美を見出すところが日本の文化なのだ。そしてこれが non-action という訳である。(どうも日本語には適当なものが見当らない。) そしてこの姿勢は美の価値を保護すると共にそれを提供される側への気づかいも含んでいるのではないかと思う。

2019年1月26日土曜日

不可知なるもの 10


この魂は永遠であるという感覚は不思議である。もちろん自分が消えることは分かっている。それどころか魂などはファンタジーであることもわかっている。それどころか「たった一億年」経ったら人類の何かの原因で滅亡して、地球上にはペンペン草くらいしか生えていないかもしれない。でも今私がここである父親のイメージを持っていたという事実は永遠に消されることがないのも事実である。そうか、そういうことなんだ。
もちろんこの事実は永遠に残るという考えそのものが人間の心の産物であり、不確かなものにすぎないという議論が成り立つ。ただ一つ言えるのは私たちがある種の信念 belief を持つとき、その強度は私たちの命がいずれは失われていくというはかなさの感覚に裏打ちされているのであろう。その強度は儚さの自覚の分だけ増すのだ。
この問題について扱っているのは私の友達であり分析家の富樫公一さんだ。彼はもののあわれや無常について論文を書いているが、そこでは政界の不条理や偶発性をいかに人生に組み込むかということがテーマにしている。これもまた例の存在論的な二重意識という文脈に組み込まれるだろう。
あれ、二重意識についてまだ触れていなかったか? このブロクでも何回か紹介したように、いま現在の生を、死すべき運命に照らして体験するという意味である。私たちの生は、フロイトの言う「喪の味見 foretaste of morning」により価値を与えられる。
ところでこの論文はやはり富樫さんも狙っているように、他者の不可知性にフォーカスを絞ることで治療論としても意味を持つだろう。他者が永遠の可能性を持っていること、その意味で不可知であることと、それを背景にして自分が相手を信じることはやはり弁証法的な関係を有する。他人を知るということは知らないということを知るということ、目の前の他者に出会うことは、その他者が明日にでも別の人になってしまうことを認識することにより可能となること。桜はそれが散るからこそ今の姿は永遠であるということと重ねることが出来るだろう。
そろそろまとめなくてはならない。明日からにしよう。とにかくこのままでは全く論文の進む方向性が見えていない。

2019年1月25日金曜日

不可知なるもの 9


ここら辺のフロイトの真意を知るために、再びフロイトの原文(と言っても英訳だけど)にあたってみた。フロイトの「on transience」は、「ゲーテの国」という本に収められた短いエッセイであるが、の真意は何か。フロイトはこんなことを書いている。すぐ消えるからと言って美が損なわれるという理屈は全然わからないね。だって自然だって人間の美だって、また新たに生まれ変わって新しい美を作り上げるじゃないか!」これでは結局美は永遠なり、ということを言っているように聞こえる。だって心に残った美は永遠ではないか! それはその作品がやがて朽ちていくこととは対照的なのだ。そしてそれが目の前から失われることで、その在を主張するのである。昨日のワンちゃんの例のように。逆に言えば美はそれが目の前から消滅することで初めて、その在を浮かび上がらせるのだ。
私は数年間で両親を亡くしたが、彼らは記憶に鮮明である。でも一番思い出すのは私が子供の頃の親である。一番彼らが彼ららしかったのはやはり若い頃だ。その時してもらったことをはっきり覚えている。たとえばある朝珍しく近くの駅まで車で送ってくれた父親が(普段は二キロ半の道のりを自転車通学である)、私の財布をのぞいて「なんだ、これしか入っていないのか!」と言って百円玉をいくつかポンと入れてくれたのを思い出す。おそらく小学校2年くらいだっただろうか? 私の財布には数十円くらいしか入っていなかったはずである。)その頃の50円玉や100円玉は今よりずっと大きく、ありがたかった。あの瞬間の父親の優しさはかけがえのないものだった。(たった100円で一生分の思い出! すごい費用対効果!)父親はもう灰になってしまったが、私の記憶は永遠だ。いや待てよ。私もやがて死んでしまうから、その記憶は消えてしまうではないか? まあこのブログに残されたとは言えるが、もちろん永遠とは言い難い。でもここで大事なのは、私の「記憶は永遠だ」という気持ちは、死後にも外装しているということだ。実際に、ではなく感覚として。日本人は桜を愛でるが、それは桜が散っていくのを目にして、一生懸命心の中の桜を散らさずに保っておくという作業を強いられることに関係しているのではないか。そう、散ることにより心の中の美は永遠となるのである。

2019年1月24日木曜日

不可知なるもの 8


ここで精神分析家のホフマン(Irwin Z Hoffman)の理論をひこう。ホフマンは死すべき運命の問題は私たちの思考や言語の使用に密接だという。というより抽象思考がすでに死すべき運命を前提としているという。なぜなら抽象思考はその中に無限の概念を含みこんでいるからだ。本当かな?たとえば椅子、という概念はすでに具体的な、あの椅子、この椅子を離れている。固有名詞と一般名詞はそれが決定的に違うのだ。  
それと同じように、とホフマンは言う。私たちの生は無限を背景にしている。私たちの死すべき運命や刹那性は、宇宙の無限の存在と持続との間にコントラストが成立している。そして私たちが自分たちの生を十全に生きるためには、この私たちの生の持つ弁証法的な性質に常に気づいている必要があるのだ。
フロイトは「無常について」(1916)という論文の中で、死生学についての見解を述べているが、とても意味深い。これも不可知論に関係してくる。フロイトは詩人や芸術家の友人が、作品の刹那性がその価値を減じると言ったことに触れている。それはそうであろう。自分の絵が年月と共に劣化し、絵の具が退色したり剥がれたりすることで芸術的な価値が損なわれると考えるのは自然だ。ところがフロイトは、「移ろいやすさの価値は、時間の中の希少性だ transience value is scarcity value in time」と言っているのである。それが永遠に続かないからこそ美しい、とフロイトは言っているのだが、彼はそれを喪の予兆 (味見) "foretaste of mourning"(p.306)という言い方をしている。ホフマンによれば、ここでフロイトが言っているのは、人は死の予感によりその人生に価値を与えるのだということだという。
なるべく身近な例を挙げて考える。ペットの犬がいる。いつも一緒にいるとそれが当たり前になる。一緒にいて楽しいのか、煩わしいのか分からなくなる。そのペットがどこかに45日雲隠れをする。時々家を出てほっつき歩き、また返ってくるということが以前にもあった。今度もそうだろう。しかしそのような不在の時間を通してしか、その犬の自分にとっての存在の意味は分からない。いなくなってから「もっと可愛がっていればよかったのに」などと思う。あるいはまったく逆かもしれない。犬がいなくなってホッとしている自分に驚くかもしれない。ともかくあるもの () との本当の関係 (ありがたみ、と言ってもいいだろう) は、その不在を通してしかわからないことになる。そして犬が戻ってくるときに、あなたは自分とその犬の関係をより深いレベルで分かったことになるだろう。

2019年1月23日水曜日

不可知なるもの 7


ところでどうしてここまでに不可知の追求が強調されるのか。一つの考えは、私たち人間が持っている決してあらがうことのできない傾向、すなわち意味の獲得の逆を行く方針だからである。そもそもある事柄の意味は、それが生存にかかわるから重要である。何度も書いたことだが、目の前の生き物が、天敵か、それとも自分が捕食できる「餌」なのか、危険なのか安全なのかといった事柄が意味の原点のはずだ。究極の白か黒か。Good bad か。二極思考は生物の生存にとって不可欠なのだ。パラノイドスキゾイド万歳!すると不可知についての議論はその逆を目指す、本来は不可能な試みなのかもしれない。
ただこの不可知への思考がどうしてもやむを得ない事情がある。生存が意味の追求を要請するのであれば、その逆の死は、無意味への追求を余儀なくされる。それはどういうことか?
死すべき運命 Mortalityと不可知性
死への懸念や恐怖はその不可知性に由来するというのはある意味で理にかなった議論である。それは私たちが死んだ後のことを知りようがないからだ。人は相変わらず意味を追求するが、その結果として私は「無意味の意味」を追求することになる。
最近一つの、非常に小さな「死」を体験した。奥歯の一本が死んだのである。私が望んで殺してもらったので、自死(歯?)である。もう一年前から鈍痛があり、冷たいものの後は一時間くらいそれが続く。私はそれに相当苦痛を覚えた。自歯死は巧妙な手で行われた。まず専門家(歯科医)のもとを訪れ、いかにその奥歯が理不尽に私を苦しめたかを訴え、その命が奪われるべきかを訴えた。歯科医も「やむを得ないでしょうね、やりましょう」と殺歯に同意してくれた。そして歯科医は私が苦しまないように麻酔をしてくれた(それそのものは少し痛かった!)。そしていきなり高音でうなりを発する凶器(ドリル)を取りだし、こともあろうにその問題の歯にいきなり当て、奥にぐいぐい掘り進み、あっという間に中を空っぽにし、何やら糸のようなものを引っこ抜いて息の根を止めたのである。なんという手際のよい殺歯の業だろう? そして私はその仕事が行われている間、じっと奥歯が動かないように押さえつけて逃げられないように幇助した(といってもただ頭を動かさずに口を開けていただけである)。 
ということで何が言いたかったかというと、私の歯が死んだことで、私は痛みから解放されたわけだが、最初は「痛くなくなった歯」として架空の存在を誇示していた歯は、痛みがなくなったということに私が慣れてしまった今では、その存在は完全に消えている。それは最初からなかったのと同じになっている。私の歯は殺された苦しみを味わっていない。もうわずかな根元を残してそこに存在しないのだから。そして人の死も全く同じ運命をたどるはずである。別に私の歯の例をわざわざ出さなくても分かりきっていることである。
しかしそれでも私たちは自分に意識があり、魂があると実感している。だからそれが消えるということが「主観的」にはどのような体験になるかについては、永遠に知りようがないのである。私が死んだ後のことを考えても、「死んだらあなたがいなくなるだけだよ」と言われるだろう。そしてそれは私の無くなった歯と同じ運命をたどるということなのだ。しかし自分という体験を(多分)もともと持っていなかった私の歯と違い、私は私という体験を持っている。だからこそ、それがなくなった体験を知りようがない。あえて想像するとしたら「無」を体験するわけだが、そもそも自分がどうしてこの世にいるのかわからないから、それが存在しなくなった時のことも考えようがないのである。このように考えると、本当に不可知なのは、私は誰なのか、ということになるだろうか。それが不可知の根源であるように思われる。そしてそれは私たちの持つ死すべき運命のために浮き彫りにされるのである。

2019年1月22日火曜日

不可知なるもの 6


これまでの議論から私が思い出すのは、乳幼児における 「amodal perception アモーダル(無様式の)知覚」という概念である。赤ん坊は目隠しをしていろいろな形のおしゃぶりを口に入れると、そのおしゃぶりを口の中の触覚で体験したにもかかわらず、目の前におかれた同じおしゃぶりを視覚的に認識することが出来る。Amodal というよりは cross-modal (様式横断的な)ということだろう。赤ん坊は世界を認識するときは全く白紙の状態と言っていい。参照枠がないからだ。純粋体験ということを突き詰めていくと、赤ん坊の原初の体験以外にないということになる。それこそ記憶なく、欲望なく、という状態に近い。もちろんそんなことを書いているものを読んだことはないが。
考えてもみよう。お乳を吸った赤ちゃんが「お乳だ!」と「わかる」、認識するためにはお乳という体験が先行しなくてはならない。すると最初の授乳の体験は「これからお乳を吸うぞ」という心の準備や先入観なしに起きることになる。そしてそこから体験することは最初は本当の意味で unknown ということになる。それが「純粋体験」であるとするならば、人は言葉を覚えて以降は、そのような体験を決して持てなくなる。自分が吸った母親のお乳が、昨日のそれとはかなり成分が異なったものであっても、「同じオッパイ!」というバイアスのかかった体験の仕方になるのだ。もちろん同じ母親のお乳でも、その成分は毎回微妙に異なるだろう。あるいは自分の知っている母親は、実は毎回少しずつ気分が異なっていて、見た目だって同一ではない。あるいは少なくとも、昨日よりは一日老いた母親ということになる。その意味では現実は常にunknown であるにもかかわらず、私たちはそれを知っていることにしてしまう。こうして unknown なものを知っている known ものとして体験してしまう。本当は現実は、それこそ赤ん坊以外の人にとっては unknowableなのに、それをそうとして私たちは体験できないのである。
回りくどい話だが、急いで注釈。実は本能や遺伝子情報は、赤ん坊の純粋体験をそうではないものにしている可能性がある。それは下等な動物を考えれば明らかである。カンガルーの赤ちゃんが一生懸命母親の乳首を求めて、生まれて初めてたどり着いた時はおそらく「懐かしさ」や「求めていたのはこれだ!」という感覚を呼び起こすのではないか。あたかもすでに知っていたような感覚のはずだ。とっても全くの私の想像であるが。皆さんも見事な円形の巣を作るフグの仲間のことを知っているだろう。初めて作った時、「ちゃんとあれが出来た!」と感動するのではないか。(まったくの空想!)

2019年1月21日月曜日

不可知なるもの 5

ということで少し本題に入る。不可知について述べているのがビオンだ。彼は子供の心のβ要素をα機能によりα要素にする、という理論である。そしてα機能を有する母親が持つべきなのは、赤ん坊へのオープンな受容性であるという。そしてこれを彼はデフォルトモードネットワークと関連付ける。驚くべきことだ。諸外国の分析家は、こうやって脳科学との橋渡しを積極的に行うのである。
それからベルモート先生は不知 unknown不可知unknowableの領域へと話を進める。このことはフロイトの患者の自由連想を聞く態度を思い起こさせる。特に特別のことに注意を向けるな、注意を平等に漂わせよ、という。ビオンはこのフロイトの議論と、彼の言うOへの関心とを結びつける。ビオンは自分自身がOなる変形 transformation “O”           を経ることで、患者に自分自身の不可知に触れることを助けるのだという。何というむちゃくちゃな話だろう。そしてベルモート先生は最後に、西田哲学の言う絶対無や純粋体験にヒントを得たといい、それを西洋哲学や数学の概念である無限と関連付ける。
フロイトもビオンも天才である。そして彼らが向かうのは、おそらく人間の知性の最高度のレベルにおいて目指されるものを指摘しているのだと思うが、それはおそらく私たちが行う思考の中でもっとも困難さを伴うもの、精神分析的に言えば転移、逆転移を極力排除した際に見えてくる景色を表しているのであろう。ここで転移、逆転移という言い方をしたが、つまりこういうことだ。
私たちは物事を理解するときに、必ずといっていいほど、自分がこれまで持っていたバイアス、あるいは色眼鏡にしたがってそれを見て、それが真実だと思い込んでしまう。バイアスだらけの、つまり脳の回路の中で使い古し、最も抵抗が少なく思考されてしまうもの、ヒューリスティック、ということになる。私たちが望むべきなのは、そう、ヒューリスティックの罠をひとつずつ外していくことなのだ。ところがこれは矛盾をはらむ。というのはそれを外しきったところには何も見えていない可能性があるからだ。それが不可知ということの意味なのだろう。

2019年1月20日日曜日

忘れていたCPTSD 推敲 3


今日はペン字体である

5点目の関係性、逆転移の重視については、CPTSDを有する来談者の治療に当たって最も重要な意味を持つ可能性がある。トラウマを体験した人との治療関係においては、それが十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすべきであるということはすでに述べた。トラウマを扱うための治療関係が来談者に新たなストレスを体験させたり、支配-被支配の関係をなぞったりする事になれば、それは治療的な意味を損なうばかりではなく、新たなトラウマを生み出す関係性になりかねない。精神分析的な治療においては、来談者の洞察やこれまで否認や抑圧を受けていた心的内容への探求が重要視されるが、それは安全で癒しを与える環境で十分にトラウマが扱われることを前提としているのである。
トラウマを受けた来談者を前にした治療者は、しばしばそのトラウマの内容に大きな情緒的な影響を受け、それを十分に扱えなかったり、逆にそれらへの来談者の直面化を急いだりする傾向が見られるが、いずれも治療者自身の個人的な情緒的反応が関係していることが多い。ここで治療者の側の逆転移の要素を考えるならば、たとえば治療者の救済願望がやはり大きいと言える。ただしこれはそれが全く生じない場合を考えてみればわかるとおり、むしろ期待の持てる逆転移といえる。そしてそれは常に意識し、目を向け続けなくてはならないものといえる。来談者への気持ちに常に適度なブレーキをかけ続ける治療関係がむしろ望ましいのであろう。そしてこの逆転移が治療に対してネガティブな影響を持つのは、それがくじかれたり裏切られたりした時の治療者の反応如何ということになる。例えば来談者が連絡なしにキャンセルをするということはしばしば起きるだろう。あるいは別の治療者にセカンドオピニオンを求めることもあるかもしれない。それに失望や落胆などにより極端に反応する場合には、その救済願望は自己愛という混ざりものを含み過ぎていることを意味するのであろう。
治療者のサディズムはもう一つの重要な逆転移といえるかもしれない。治療者は治療の過程でしばしば、来談者が昔陥っていたような関係、つまり治療者の前で受け身的であたかも攻撃されることを待っているかのような態度を示すことにもなりかねない。少しきついアドバイスや苦言は、表面上は配慮や善意の衣を着ていても、そこに棘が隠されているかもしれない。あるいはそうであるような疑いを抱かせるだけでも同様の力を持ってしまう。無論治療者の持つサディズムはその人生の中で長い歴史を持ち、その根源をたどることさえ不可能かもしれない。治療者は自らそれに気が付くしかないが、一つ参考に次のようなことを考えてみればいい。
「過去の人間関係の中で、急に弱い立場に立たされたり、試練を経験しなくてはならない人に自分はどのような態度をとってきただろうか。ライバルの失敗に救いの手を差し伸べることに積極的になれただろうか? あるいは小、中学校の時に虐めが周囲で発生した時、第三者としての自分がどのような気持を持っただろうか?」これらは治療者の中に眠っているサディズムの指標として重要になるだろう。
最後に第6点目として付け加えたいのは、治療者は倫理原則を遵守すべしということであるが、これについてはもう改めて述べる必要もないかもしれない。トラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが頻繁に問われる傾向の陰に隠れてしまう可能性がある。トラウマを体験した来談者の場合に特にこの倫理原則が留意されるべきなのは、来談者は自分がまた被害に遭うのではないか、搾取されるのではないかという懸念をきわめて強く持ち、それは治療者にも向けられる可能性が高いからである。治療者の学問的な好奇心に従った質問、症例報告の承諾の際のやり取りなどが治療関係にネガティブに作用することのないよう、最大の配慮が払われなくてはならない。

2019年1月19日土曜日

不可知なるもの 4


 ここで脱線だが、最近私がよく考えるようになっているのは、いわゆるヒューリスティックという概念だ。私も最近まではその重要さが分からなかったが、ようやくその意味が分かるようになった。ダニエル・カーネマンが、「速い思考、遅い思考」という概念を提案して注目を浴びているが、要するに私たちは行動するにあたってゆっくりと合理的な思考をすることが、時間的にも、感情的にも制限されている。理論的に、ではなくヒューリスティックな思考に流されるのが人間の性なのだ。そしてこれは、例えば国と国の間での対立の時なども容易に表れて人々の心を惑わす。どちらが先にどちらの領空を侵犯した、などという時は、その映像が残っていたとしてもお互いが反対の意見を言い合う。これはこの文明が進んだ社会でも全く同じだ。だって証拠として当人の音声が流れていても「私の声に似ているようですが、よくわかりません…」と言い逃れることが出来るのだ(どこかの国の国会での話)。アメリカではスランプさんが、自分に都合の悪い報道に対しては「フェイクニュース!」と切り捨てるし。私たちは自分にとって都合の悪い現実を突きつけられると、そこでロジカルな思考の代わりに、反射的にヒューリスティックな判断に頼ってしまう。そうしてこの世は回っているのである。何が言いたいかといえば、自分が思考や議論の対象にしているものが本当は不可知であり、それをあたかも知っているように扱っているのか、それとも本当に知っているつもりなのか、という議論は、その大部分がほぼ永久に問われないままに時間が経過していく。そういう社会に私たちは生きているのである。そしてそれのこの上ない潤滑油になっているのが、私たちが用いる言語なのである。
しかしこのことを知った時は私はショックを受けた。この年になるまで自覚しなかったなんて。「正しい方が最後には勝つ」という無知な考えはもう捨てているつもりだったが、正しい主張が勝つ保証は全くなく、人のヒューリスティックな思考にアピールする主張が「勝つ」ということは、おそらくどんなに社会が成熟しても望めないとしたら、私たちは何に望みをつなぐことが出来るのだろうか? 学問、特に人文系の学問に未来などあるのだろうか、と真剣に考えてしまう。そして臨床の場では相変わらず次のような言葉が聞かれるだろう。「君は自分を偽っているんだよ。」あるいは「自分の本心をさらけ出してごらん」
「それは甘えでしかないね。」

2019年1月18日金曜日

忘れていたCPTSD 推敲 2


 また治療者が感情表現をすることが治療的であるとばかりは言い切れない。来談者によっては,治療者が一切の感情表明をひかえて受け身的に話を聞いてもらえることを何よりも安全に感じる場合もあるからである。このように個々の来談者の特殊性を十分に理解し,それに柔軟な対応を示す姿勢こそが重要なのであり,そのような態度が真の意味での中立性と言えるだろう。
3点は愛着の問題を重視し、より関係性を重んじた治療を目指すということである。そのような視点は、いわゆる「愛着トラウマ」の概念に込められていると考えていい。CPTSDを呈する来談者は、その愛着関係の形成期にすでに深刻なトラウマが織り込まれる可能性がある。そしてそれはその人の一生にわたって影響を及ぼす可能性がある。
精神分析理論を打ち立てたフロイトは幼少時の親との体験が将来にわたって大きな影響を及ぼす点に注目したが、その点に関しては、フロイトはまさに正しかったといえる。その後フロイトは幼少時に実際に生じた性的なトラウマから、幼児の持つ性的欲動の持つ外傷性へと視点をうつし、それが後に一部から批判されることとなった。ただし愛着トラウマの視点は、その形成時に生じたであろう明白なトラウマを必ずしも前提とするわけではない。愛着トラウマの結果として、人はしばしば「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」という確信を有する。しかしこれはあからさまな虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションでもありうる。そこには親の側の養育態度の不十分さという要素だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況である。愛着トラウマの概念にはこのような広い意味での母子間の感情の行き違いが幼少時に生じた結果として自己概念や関係性に影響を与えているという視点を提供する。治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを治療目的とするという視点から離れ、より安全な治療関係を形成することを第一の目標にすべきであろう。ただし不完全な愛着を形成しなおすという野心に捉われるべきでもないであろう。
4点目は、解離の概念を理解し、解離・転換症状を扱うことを回避せず、治療的にそれとかかわるという姿勢である。最近では精神分析的な治療のケース報告にも解離の症例は散見されるが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られていないのが現状である。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、来談者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢をと同時に、その表面に現れた意味を受け取るという姿勢である。古典的な精神分析が掲げた抑圧モデルでは、来談者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促す。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいであろう。この点が重要なのは、解離の症状はフラッシュバックとしての意味を有し、ある意味では過去に起きたことが再現されているからである。しかもこれは来談者の見る夢についても同様だ。来談者から折檻されている夢を見、その報告を受けた治療者は、それをある種の象徴的な意味合いを持ったものとして解釈するだろうか。ただしこの問題を考えれば直ちに納得する点がある。それはおそらくそのような夢ですらある種の加工やファンタジーを含んだものである可能性がある。その意味では来談者の示す症状や夢に、そのものが表すものと、それが象徴、ないし代弁する内容の両者を見据えるという必要が生じるのだ。



2019年1月17日木曜日

忘れていたCPTSD 推敲 1


まだまだ納品は出来ないなあ。

2.CPTSDと精神分析的な治療 
そもそもCPTSDとはどのような病理なのかについて復習しよう。CPTSDPTSDという直接のトラウマによる症状とともに、否定的な自己観念と関係性を維持することの困難さに特徴づけられる自己組織化の障害が見られるということである。すなわちトラウマ的な養育環境のために他者との基本的な信頼関係が築けなかった人々を想定していると言えよう。ただしICDの記載によれば「拷問、奴隷、集団抹殺」といった成人以降にも生じうる、ホロコーストでの体験を髣髴させるような災害やトラウマも含む。これは一度は成立していた愛着上の問題が破壊ないし再燃された状態と見ることが出来るかも知れない。ここで留意するべきなのは、CPTSDにおけるDSOdisturbances in self-organization 自己組織化の障害は自己イメージの問題にとどまらず、対象イメージの深刻な障害が伴っていることである。人を信用できない、自分に対して何らかの脅威となりかねないと感じるという傾向は、その人の社会生活をますます非社交的で狭小なものにする。それは対人交流や親密な関係、職業の選択などに深刻な影響を及ぼすであろう。そのような患者との治療においては、比較的安定な関係性を結ぶことそのものが重要な目標と考えられるだろう。
私はトラウマの犠牲となった患者さんに対して以下の5つの項目を挙げて治療を行うことを推奨している。それらは  治療関係性の安全性と癒しの役割、トラウマ体験に対する中立性、「愛着トラウマ」という視点、 解離の概念の重視、 関係性、逆転移の視点の重視、である。これらはもちろんCPTSDにもそのまま当てはまるが、以下に特にCPTSDを念頭に置きつつこれらの項目について個別に論じたい。
第1点は、治療関係が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には忘れられてしまいかねない項目なので、改めて論じておくことに意味もあるだろう。トラウマを抱えた多くのクライエントは切羽詰った状況で来院する。「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方は取られないことが多い。多くの方が心の痛みを体験し、それを耐えがたく感じて癒しを求めている。そしてそれだけに治療期間の雰囲気、受付の応対、そして療法家の一挙手一投足に大きな影響を受け、場合によっては傷ついてしまう。治療場面が安全で癒しを与える雰囲気を持つことは必要不可欠なのである。
この安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造の遵守という考え方とは別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を守ることは最優先されないこともある。これは治療構造の「剛構造」的な面を優先しない、という意味である。柔構造的(岡野、2008)な治療構造はそのものが安全性を醸すべきものだからだ。
たとえば50分の枠での面接を行うとする。そして何らかの形で治療の終わり近くに、治療を時間通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まり、急に処理しなくてはならない問題の出来、解離性の別人格の出現、などなど。あるいはここで予想して書くこともできないようなこともおきるだろう。そして治療構造を厳守することでそれが傷つき体験につながるとしたら、それを最優先されるべきでない。(もちろんこれは緊急事態ではあるので、次に予定の来談者への謝罪、説明、などすべきことは沢山でてくるであろう。しかしそれはいわば緊急事態に対応したダメージコントロールであり、その必要性も含めて来談者とその意味を共有すべきものとなり得る。)
2点は、治療者は中立性(岡野、2009)を保ちつつ治療を行わなくてはならないということである。ただしCPTSDを有する来談者に対する中立性とは特別な意味を持つ。それは決して来談者に対して行われた加害行為そのものに中立的であることではない。つまり「加害者にも悪気がなかったのかもしれない」「被害者であるあなたにも原因があった」、という態度を取ることではないのである。むしろ「いったい何が起きたのか?」「加害者は何をしようとしていたのか?」「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか?」、「今後それを防ぐために何が出来るか?」について治療者と患者が率直に話し合うということである。ただしこのような意味での中立性さえも、患者には非共感的に響く可能性がある。被害に遭った患者の話を聞く立場として、治療者が患者に肩入れをして話を聞くことはむしろ当然のことと言わなくてはならない。それなしでは治療関係そのものが成立せず、治療者が上述の意味での中立性が意味を成す地点まで行き着けないであろう。
ここで言う中立性を、精神分析における受け身性と同じものと考えるべきではない。たとえば患者が過去の虐待者に対して怒りを表明しているという場合を考えよう。もしそれに対して治療者が中立性を守るつもりで終始無表情で対応した場合,患者は自分の話を聞いて一緒に憤慨してくれない治療者に不信感を抱くかもしれない。患者は場合によっては治療者がその虐待者に味方していると感じるであろう。もしそれにより治療者と患者の間の基本的な信頼関係に重大な支障をきたすとしたら,そのような対応は非治療的なものと考えなくてはならない。したがって患者によっては分析的アプローチを保つことに固執せず,治療者が必要において態度表明や感情表現をすることが,重要な場合があるのだ。

2019年1月16日水曜日

不可知なるもの 3


例えばこんな例を考えよう。「君は自分を偽っているんだよ。」あるいは「自分の本心をさらけ出してごらん」言葉を話し始めたころの私たちの祖先にはおよそ想像もつかない言葉かもしれない。そして言葉を持つ以前の私たちの祖先にはあり得ない思考。しかし私達は心理療法などでこんな言葉を常にはいている。先輩後輩関係、師匠と弟子関係でも聞かれるだろうか。ともかくもこの表現には、どこかに本当の自分があり、それはまだ発見されていないか、あるいはすでに述べたような方法により回避され、無視されている、というニュアンスがある。この「本当の・・・」あるいは「真の・・・」という考え方は、実は不可知の問題とも直接的に絡んでいる。物事に真実の姿を見出すという考え方は言葉を覚え始めた私たちがしばらくして「物心がついたころには」、つまり自意識が芽生えたころには存在していたであろうからだ。
これに近いのがプラトンのイデア、ないしイデア論だろう。ウィキ様をちょっと引用すると、
「ソクラテスが倫理的な徳目について、それが《何であるか》を問い求めたわけであるが、それに示唆を得て、ソクラテスの問いに答えるような《まさに~であるもの》あるいは《~そのもの》の存在(=イデア)を想定し、このイデアのみが知のめざすべき時空を超えた・非物体的な・永遠の実在・真実在であり、このイデア抜きにしては確実な知というのはありえない、とした」思わず眩暈をしそうではないか。
本当の心があるもないも、それがなければそもそも何事も始まらない、という勢いである。少し飛躍するかもしれないが、これは実証主義positivismと同質のものだと考える。実証主義が形而上学を排するとすれば、イデア論も形而上学ということになるだろうが、どちらも「はっきりとした、これしかないもの」を求めるという点では一致しているように思う。不可知なものunknowableに対して、まだ知られていないがそこにあるもの yet to be known、という決め付けをするという点で。後者の場合は、「君にはわからないかもしれないが、私には見えるよ。」ということで、相手に対しての威圧となる。そしてそれは経験者が、あるいは年長者が良く用いる言説でもあるのだ。ところが人間の本心など、そこにあると証明できるものではない。ウィニコットが真の自己 true self についてincommunicado (連絡が絶たれている)と表現したとき、それはそこにあっても知られない、というよりはそもそも知りようのないものというニュアンスがあったわけだ。しかしそれについて私たち人間はそれを知りようのないものとして扱うということが日常生活のレベルではおそらく出来ない。何かを代入しておかなくてはならないのである。
たとえば明日自分の住むところに大震災が起きて、社会の機能が一時的にではあれ停止してしまうかもしれない。明日は不可知なのである。でもそこにとりあえず「いつもの日常」を代入することで私たちは生きている。これはつまり不可知をそれとして扱っていないことになる。あるいは隣人のAさんについて、「彼は○○な人だ」というイメージを持っている。Aさんの本当の姿など分からないが、一応「○○な人」という決め付けによりその人とのコミュニケーションを保つ。そうでないと他人は皆怖くなってしまう。その意味で私たちが不可知をそうでないと扱うという力は実は極めて重要なのだ。それが失われると、私たちはそれこそ精神病状態に陥ってしまいかねない。世の中のすべての人が自分を落とし入れようとしているという世界観である。彼らこそ真の世界の姿を捉えているのかもしれないのだ。

2019年1月15日火曜日

不可知なるもの 2


これまで述べたように、私たちは言葉を用いることで、想像力を増すこと、現在の思考を消し去ってしまうこと、分からないことを分かったことにしてしまうこと、などを達成したと述べたが、最後の二つは人の心の防衛機制に深く関与していると言っていいだろう。現在の思考を消し去ることは、抑制とか抑圧といわれるものだ。またわからないことを分かったことにしてしまうのは、置き換えとか合理化とか否認と関係しているかもしれない。
もう少し考えを進めよう。言葉にはそれ以外も役割もたくさんある。それは言葉が字義どおりの意味以外の様々な含みを持つということだ。例えばAさんがBさんに何かのことで謝罪を求めるとしよう。Bさんは「すみませんでした」、という。そしていったんはAさんはそれに納得したとする。ところがBさんが小声でこう言ったらどうだろう。「これで気が済みましたか?AさんがBさんにさらに「心からの」謝罪を求めることに発展することは必定だろう。この場合「これで気が済みましたか?」には、「私がすみませんでした、と言ったのは、心からではなく、あなたの気がおさまるように言っただけですよ」という含みを持つことになる。もちろんAさんが少し変わった人で、そう受け取らない場合もある。「うん、気がすんだよ。」と受けて、特に引っかからないかもしれない。しかしそれは含みを受け取っていない可能性があるからである。
ここで思い出したエピソードがある。30年前にフランスに留学した時、給費留学生としての手続きのために大変な時間を待たされた挙句、ようやくたどり着いた受付の係員に、「この書類に写真が貼ってありませんね。貼った書類をまた持って来てください」と言われたのだが、最後に、「シ・ブ・ブレ」という言葉を係員が付けてきた。英語で言えば if you like であり、「できましたら・・・・」という丁寧な表現なわけだが、「もしお望みなら、とはどういうことだ! バカにしている!」と私はすっかり腹を立ててしまった。係り員も困っただろう。「もし可能でしたら、写真を貼ったものを持って来てください」と丁寧に言ったら、「もし可能なら」とはどういうことだ! と相手にキレられたのだから。言葉の力が弱いと、誤った「含み」を読み込んでしまうという例だ。
言葉がどうして含みを持つかは、おそらく我々の思考が、様々な別の思考のネットワークの中にあるからだ。ある言葉を聞くと、それに関連したネットワークも賦活される。「落ち葉」と聞くと北風の吹く街の情景が何となく連想される。「気が済んだ?」という言葉は、相手をバカにするような状況、捨て台詞で相手を挑発するような状況が連想され、腹が立つというわけだ。少し違った、含みを読み取ることが難しい表現なら少し違った効果を生むだろう。例えばBさんが、「もうよろしいですか?」とか「もう帰っていいですか?」と言ったらAさんはちょっとむかつくだけでおさまるかもしれないし、Bさんもちょっとだけ気持ちを表現できたかもしれない。
言葉の持つ含みは、言葉の象徴性ということに一般化すればもう少し分かりやすいかもしれない。「彼は王様だ」と言っても、彼が実際に国を治めているわけではない。しかし「王様」という言葉の持つ様々な含みが、それが何を表しているかを伝えるというわけである。
さてこの含みという例からわかるとおり、言葉はそれが情動、感情と連動しているために複雑な機能を追うことになる。これまでの言葉の働きを考えた場合、言葉は感情を押し隠したり、別の感情にすり替えたり、感情を含ませたりする。
さてこれらを前提に「不可知なるもの」について考える。不可知なもの、とは面白い言葉である。分からないものに名前を付けてしまっているからだ。しかしこれも言葉や記号の魔術だろう。これは数字のゼロを思い起こさせる。数字のゼロが発見されたのは5世紀のインドだったとか書かれている。そして数学の歴史は紀元前2500年にさかのぼるため、数学という学問が生まれて2000年以上もゼロの概念はなかったという。でも不可知の方がゼロより高度な概念だろう。0なら、その状態を示すことが出来る。しかし不可知の方は、それが不可知であるかどうかさえ不明だからだ。さらに言えば、未知なだけなのか、知り得ないのかさえも定かではない。宇宙の果ては、と問うた場合にそれはどちらの意味で「不可知」かさえも知らない人が多い(私も知らない)。しかし受験生は今取り組んでいる難しい数学の問題の解は、自分にとっては不可知でも、もう解答例としてどこかに印刷され、保管されていることを知っているのである。
不可知の問題の最大のものは、私たちが通常、何が不可知であり、何がそうでないかをほとんど常に曖昧にしているという点にある。


2019年1月14日月曜日

忘れていたCPTSD 6


4点目の関係性、逆転移の重視については、患者がその治療の後にどの程度の精神的な成長を遂げることができるかという、いわゆる外傷後成長(post-traumatic growth, PTG)(Tedeshi, RG, 2004)を予想する上でも重要となる。トラウマを体験した人との治療関係においては、それが十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすべきであるということはすでに述べた。トラウマを扱うための治療関係が患者に新たなストレスを体験させたり、支配-被支配の関係をなぞったりする事になれば、それは治療的な意味を損なうばかりではなく、新たなトラウマを生み出す関係性になりかねない。精神分析的な治療においては、患者の洞察やこれまで否認や抑圧を受けていた心的内容への探求が重要視されるが、それは安全で癒しを与える環境で十分にトラウマが扱われた上でこそ意味がある。外傷後成長は癒しの上にしか生じないのである。
もし治療者が患者が洞察を得ることを目指すことにばかり心を傾けることで、患者のトラウマ体験に対する共感やその他の支持的なかかわりをおろそかにすることは許されない。その意味では治療関係を重要視することは、そのまま治療者の逆転移の点検というテーマに直結するといっていいだろう。トラウマを受けた患者を前にした治療者は、しばしばそのトラウマの内容に大きな情緒的な影響を受け、それを十分に扱えなかったり、逆にそれらへの患者の直面化を急いだりする傾向が見られるが、いずれも治療者自身の個人的な情緒的反応が関係していることが多い。
ここで治療者の側の逆転移の要素を考えるならば、たとえば治療者の救済願望がやはり大きいと言える。ただしこれはそれが全くない場合を考えてみればわかるとおり、むしろ望ましい逆転移といえる。ただしそれは常に意識し、目を向け続けなくてはならないものといえる。来談者へのエネルギーを見つめつつ、常にブレーキをかけ続ける治療関係というわけであるが、おそらくこの逆転移がネガティブな影響を持つのは、それがくじかれたり裏切られたりした時の治療者の行動に何が現れるかということであろう。例えば来談者が連絡なしにキャンセルをするということはしばしば起きるだろう。あるいは別の治療者にセカンドオピニオンを求めることもあるかもしれない。それに極端に反応することはそれまで維持できていた治療関係を容易に損なうことにつながるであろう。
治療者のサディズムはもう一つの重要な逆転移といえるかもしれない。治療者は治療の過程でしばしば、来談者が昔陥っていたような関係、つまり治療者の前で受け身的であたかも攻撃されることを待っているかのような態度を示すことにもなりかねない。少しきついアドバイスや苦言は、表面上は配慮や善意の衣を着ていても、そこに棘が隠されているかもしれない。あるいはそうであるような疑いを抱かせるだけでも同様の力を持ってしまう。無論治療者の持つサディズムはその人生の中で長い歴史を持ち、その根源をたどることさえ不可能かもしれない。治療者はそれに気が付くしかないが、一つ参考に次のようなことを考えてみればいい。過去の人間関係の中で、急に弱い立場に立たされたり、試練を経験しなくてはならない人に自分はどのような態度をとってきただろうか。ライバルの失敗に救いの手を差し伸べることに積極的になれただろうか? あるいは小、中学校の時に虐めが周囲で発生した時、第三者としての自分がどのような気持を持っただろうか?これらは治療者の中に眠っているサディズムの指標として重要になるだろう。
5点目の倫理原則の遵守については、もう改めて述べる必要もないかもしれない。トラウマ治療に限らず、精神療法一般において倫理原則の遵守は最も大切なものだが(岡野、2016)、ともすると治療技法として掲げられたプロトコールにいかに従うかが頻繁に問われる傾向がある。

 この倫理原則の問題はトラウマ治療に特に問題とされることではないが、それでもトラウマを体験した患者の場合には特に留意すべきことと言える。自分がまた被害に遭うのではないか、搾取されるのではないかという懸念はきわめて強く、それは治療者にも向けられる可能性が高い。治療者の学問的な好奇心に従った質問、症例報告の承諾の際のやり取りなどが治療関係にネガティブに作用することのないよう、最大の配慮が払われなくてはならない。

2019年1月13日日曜日

不可知なるもの 1


不可知なるもの
Unknowable, mortality and psychoanalysis

「不可知なるもの、死すべき運命、そして精神分析
  -フロイトは私たちによく死ぬことを教えてくれたか?」

しかしどうしてよりによって、どうしてこんなテーマについて考えなくてはならないのだろうか? まあ、深い事情があるのである。去年はルーディ・ベルモート先生との出会いもあったし。
しかしそれにしても世の中は不思議なことばかりである。一番よくわからないのが、人はどうして真実を語らないのか。あるいは正しく言い直すのなら、「人はどうして真実を語らないで平気でいられるのか?」世の中は、人が真実を語らないことで回っていっているようである。スランプさんなど、「フェイク・ニュース」と決め付けることで、都合の悪い報道を一刀両断である。某隣国との応酬もよくわからない。ビデオまで作成してしまうのである・・・・。

私は最近確かなこととして思うのだが、言葉(まあ、記号、表象、なんと呼んでもいいのだが)は明らかに物事を表すと同時に、偽るものとしても出来上がったのだ。いや、もちろん最初はある事柄を指し示すものとして生まれたはずである。しかし途端にそれは物事を偽る、あるいは押し隠すという機能を帯びてしまった。言葉の発生はおそらく同時多発的におきたのであろうが、人間はある時期、ある時点で言葉を話し始めたときからこの問題に直面したはずだ。最初は簡単な名詞だったろうか? 太陽、山、川、食べもの、あたりか。いやそれよりも「大変だ!」「逃げろ!」のほうが先だったかもしれない。次は「了解した」「いやだ!」「ごめんなさい」あたりではないか?「俺は怒ったぞ!」「愛してる」などはずっと後になってからであろう。というのも情動を表す言葉より以前に、行動がそれを表していただろうからである。「予定調和」、とか「形容矛盾」なんてずっとずっとずーっと後だ。
そして言葉の出現とともに飛躍的に伸びたのが、想像力だろう。なぜなら誰かが「明日、狩り」ということで、今現在起きていることや考えていることを離れて、明日に狩を行うということを思い浮かべるようになるのであるから。あるいは空が曇ってきたときに誰かが「嵐!」と叫ぶことで、これから来るかもしれない嵐や、すでに過去に体験した大嵐のイメージが突然よみがえることになるからだ。
このように言葉はハイスピードで人の思考内容をどこかに誘ってしまう。そのときに一部の人は理不尽さを体験したに違いない。「あれ、今思っていたことはどこかに行ってしまった・・・。」言葉は今の体験をただ消し去るだけではない。別のものを強引に置き換えることで、今の体験をどこか遠くにおいやってしまう力を持つ。そこには私たちの持つ記憶のメカニズムが深く関連している。作業記憶は小さいテーブルのようなものだ。そこはとても狭く、同時に沢山のものを置けない。その小ささといったら、数字7つくらいで埋まってしまう。「ある7桁の数字を一分間覚えて置くように」、と言われただけでそれまでそこにあったものが押しのけられ、7個の数字で一杯になってしまう。それまであったことは強制消去である。もう跡形もなくなってしまうのだ。
この言葉の魔術のもう一つのすごいところは、わからないことをわかったつもりにしてしまうことだ。人は、というより動物は今ここで起きている出来事がわからないことに強烈な不安を感じる。たとえばアフリカのサバンナで、あるインパラが何か得体の知れないかすかなにおいや音を感じたとしよう。その正体がわからないことに不安を掻き立てられたその個体は、おそらく迫り来る天敵をいち早く察知することで、そうでない個体よりは生き延びるだろう。だから生存競争を生き延びてきた私たちがわからないことに不安を覚え、それを説明することに躍起となるのはむしろ当然のことなのだ。するとたとえば夜に小屋の外から聞きなれない音がしたとき、「何の音か?」「猪?」(干支にちなんで・・・)と聞き耳を立てた際に、同居人の「風の音だろう」という説明はある種の安堵感を与えるだろう。もちろんその同居人が頼りにならなければ安堵を覚えることはできないだろが、頼れる誰かの一言なら、不安も和らぎ、再び眠りに付くことができる。本当は風の音ではないかもしれないという思いが半分は残っていたとしても、「風の音、ということにしておこう」と思えることで音の原因を「わかった」ことにするのである。この力はすごい。



2019年1月12日土曜日

忘れていたCPTSD  5


第一点の前に挿入である。

0点は、治療場面が十分な安全性を持ち、また癒しの役割を果たすことだ。これは改めて言うまでもないことであるが、トラウマの治療を一種の技法と考えた場合には抜け落ちてしまいそうな項目なので、改めて論じておくことに意味もあるだろう。多くのクライエントは切羽詰った状況で来院する。「少し経済的、時間的な余裕ができたので、自分の人生を改めて振り返ってみたい」という来院の仕方は取られないことが多い。多くの方が心の痛みを体験し、その癒しを求めている。そしてそれだけに受付の、あるいは療法家の一挙手一投足に影響を受け、傷つく。私は普段愛想がないほうで、多くの人に失礼な態度を取っているだろうと思う。(自覚あり。)しかし臨床をしている時は身が引き締まる思いである。それはクライエントが抱えている「そっと、大事に接して欲しい」というニーズがよく感じ取れるからだ。(それでも失礼なことを思いがけず言ってしまい、相手に憤慨されたことは何度かある。)
この安全性や癒しの役割ということは、おそらく治療構造という考え方とは別個で、別の性質ものであると考える。安全性が保たれ、治療場面が傷つきの体験とならないためには、治療構造を守ることは最優先されないこともある。もちろん治療者が治療構造を剛構造的に考えていれば、という話である。たとえば50分の枠での面接を行うとしよう。何らかの形で治療の終わり近くに、治療を時間通りに終了できない事情が生じたとしよう。来談者の情動の高まり、急に処理しなくてはならない問題の出来、別人格の出現、などなど。あるいはここで予想して書くこともできないようなこともおきるだろう。そして治療構造を厳守することでそれが傷つき体験につながるとしたら、最優先されるべきでない。(もちろんこれは緊急事態ではあるので、次に予定の来談者への謝罪、説明、などすべきことは沢山でてくるであろうが。)
ここで必要なことは何かを一言で言うならば、トラウマを経験している来談者の身に成り代わり、そこで必要なものを提供するということである。場合によっては●●も××も提供する必要が生じる事だってあるだろう。(ここは伏字にしておこう。)