2022年10月31日月曜日

How do we treat our clients in the relational framework? 1.

 Multiplicity of the therapeutic action

First I would like to state that although I am a fully trained analyst, I do not need to look to traditional psychoanalytic theories to decide what to say and what not to say in the clinical setting. My last supervisor in the United States, Dr. Eric Kulick, clearly stated almost twenty years ago, that there is only one rule in psychoanalysis, which is to be ethical, whatever you do. This statement has been encouraging me and guiding me in my clinical work since that time. However, no matter how this statement sounds clear and simple, it put us in a deep dilemma as analysts: what if for some patients psychoanalysis is not the best choice of treatment?

I consider that this potentially self-damaging attitude as an analyst is still most valuable and most needed in this era of multiplicity, as it means that we are constantly reflecting on ourselves as to whether or not we are using analytic method when needed and not when not needed. As some of my mentors stated, knowing psychoanalysis is to know when not to use it.

One thing which really impresses me recently is that there seems to be a general trend that many psychoanalytic schools have in common these days. The other day, I read a book titled Changing Minds in Therapy written by Margaret Wilkinson, a well-known Jungian psychologist. She is a member of SAP (the Society of Analytical Psychology) of Jung Institute. (There is the Japanese translation of this book by Drs. Takashi Hirose and Norihumi Kishimoto.) What strikes me in this book is that almost any subjects which are frequently discussed in current psychoanalysis, such as trauma, attachment, dissociation etc. are put in the context of recent neuroscience. This trends obviously synchronizes with recent neuro-psychoanalysis and attachment studies informed by various neurobiological research. More and more modern psychoanalysts are interested in (or obliged to take in) views and findings in neuroscience which discloses facts and evidence of their studies.

2022年10月30日日曜日

感情と精神療法 推敲 6

 転移を賦活すること

  さてこれまでの議論では来談者が治療者に興味を持ち、そこで出会いが生じることには多分に偶発性が絡んでいるということになった。しかしそれでは治療者は来談者が偶発的に治療者に興味を持ち、陽性の転移を起こすことを手をこまねいて待っているだけしかすべがないのであろうか。フロイトはそこに治療状況で治療者が匿名的で受け身的である必要性について考えた。しかしそれだけでは不十分であるだけでなく、逆効果にも働く可能性があるということをここで指摘しておきたい。
 そもそも人が他者に興味を持ち、その考えを知りたくなったり、会話をしたくなったりするのはどのような場合なのだろうか? そこには様々なきっかけがあるだろう。その人の書いたり行ったりしたことを知り、共感を覚えるという場合もあるし、その人の話に大きな興味をそそられ、もう少しその考えを知りたいということもあるだろう。あるいはその人の考えや行動に感動し、もう少し深くその人を知りたいと思うこともある。場合によってはその人の言動に違和感を覚え、会って意見を戦わせたいと思うこともあるかもしれない。
 例えばあなたがある先生に魅かれ、その先生について深く何かを学びたいと思うという。その先生にあなたは最初は特に関心を持たないかも知れない。しかしある時その先生に「これを読んで御覧なさい」と何気なく渡された本からその先生の研究分野について興味を覚えるとしたらどうだろう。その先生は貴方が潜在的に興味を持ってはいても意識しなかった部分に気づかされたのである。するとその先生のかかわりはある意味では非常に貴方にとっての意味を持っていたことになるだろう。
 いずれにせよその人との言語的な交流により自分が変わるという予感を持つのだ。そしてそれはその人の考えや行動を知るということによって生まれるとすれば、その人をより深く知るということが大きな前提となる。
 このことを治療関係について考えよう。来談者が治療者にそのような意味での深い興味を持つとしたら、これは理想的な転移関係を意味するといえるであろう。そしてこのような機会は、治療場面において治療者の考えを知ることを深めて起きる可能性があるとしたらどうだろう? 治療者が匿名性に守られることは少なくともそのような機会をより少なくしてしまうことにならないだろうか? 
 もちろんこのことは治療者が自分の考えをとうとうと述べて治療時間がそれで終わってしまっていいということではない。治療者が自分の考えや生き方を来談者に示すとしたら、それが来談者のためになると判断した場合に限らなくてはならない。さもないと治療場面は治療者の自己愛の満足のための機会ということになってしまう。
 私が言いたいのは、治療者についてより深く知ることが、患者の「治療の妨げにならない陽性転移」を深めるとした場合、それは治療者と来談者の間の治療的なダイアローグで生じるべきことであるということだが、そのもっともよい機会は何か。それがメンタライゼーションであるというのが私の考えだ。

2022年10月29日土曜日

感情と精神療法 推敲 5

 治療関係における偶発性の要素

  治療の進展に関わる要素として、ここまで情緒的な関りについて述べたが、ではそれだけに注目するべきであろうか。必ずしもそうではないかもしれない。それは驚きや好奇心や、場合によっては怒りの感情かもしれない。それはある意味では予想不可能な出来事である。村岡倫子先生の唱えた「ターニングポイント」という概念がある。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。しかしそのうちのあるものは治療の進展につながることがある。それが治療の分岐点や転回点 turning point となるわけである。

たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。

この場合治療者は治療に自分の方が遅れたという後ろめたさがあり、そこでの振る舞いは結果としていつもの防衛的な姿勢を緩めることになる。治療者が「スミマセンでした」と来談者にその謝意を伝えることは、来談者にとっては新鮮に映るかもしれない。それが治療者を一人の、他の人と同様に過ちを犯す人間として、ある意味では自分と同じ人間とみなすことを可能にするかもしれない。

この例で治療者が次のように言った場合を考えよう。「あなたは私に完璧さを求めているのですね」。それを治療者は十分な謝罪の後に言うのだ。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけは驚きを伴ったある種の認知的な理解と言えるだろう。

ところで私はこの例にも偶発性が働いていると思うが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。その意味で偶発性がここに絡んでいるのだ。

結局何がターニングポイントになるかは、それがある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発時を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。

2022年10月28日金曜日

感情と精神療法 推敲 4

 治療において必須となる転移感情

  治療場面における情緒的なかかわりのネガティブな側面について最初に述べた形になったが、改めてその治療促進的な要素について考えよう。精神分析的な用語を用いるならば、それは基本的には陽性の転移であろう。患者の感情が動かず、自らについての言及も少ないだけでなく、治療者にも積極的な関心を抱かない場合には、その治療にはあまり進展は望めないであろう。患者が治療者に対して人間的な興味を持ち、あるいは治療者との情緒的な関係を重要と感じるようになると、そこに新たな力動が生まれる。ここら辺の事情は、すでにフロイトが100年以上前に述べていることだ。

比喩を用いればわかりやすいかも知れない。職場でのさして興味のない仕事に追われるという場合を思い浮かべよう。その人の上司が変わり、その人のもとで仕事をすることになる。その上司は自分にとっての理想の人に思え、やがてその人と話すことで勇気や希望が生まれるようになる。その上司に認められる自分、振り返ってもらえるような自分であろうと思うようになる。仕事はその上司のために行うという意味合いが生まれ、会社に使われ興味のない仕事を続けるという気持ちが薄れ、毎日の業務にやりがいを覚えるようになる。行動や身だしなみを整えるようになる。その人からの一言、例えば「あなたの○○なところは素敵ですね。」などと言われると、天にも昇る気持ちになり、その○○な部分をさらに伸ばして、もっとその人に評価してもらいたいと思う。

 このような出会いは様々な文脈で起きることもあり、相手は理想的な異性であったり、部活動の先輩であったりするかもしれない。そしてそのような人とのかかわりが常に理想的な結果を生むとも限らない。それは一時的なものであり、やがてその人に対する失望が待っているかもしれない。しかし注目すべきなのは、関わっている相手に対する理想化や一種の「ほれ込み」がその人の行動や人生における姿勢に極めて大きな変化を及ぼすということである。成長につながるとは限らない。その相手が想像とは実際はかけ離れている場合には、けっこうややこしいことが起きてしまいかねない。しかしここで注目すべきことは、人が誰かを好ましく思い、その相手の幸せや不幸に自分のそれを同期化させるような対象が、その人の普段は変わることのない思考、行動パターンに変化をもたらすための重要な機会を与えるということである。

ただしここで問題なのは、治療関係においてそのような理想化やほれ込みがどの程度の頻度で生じ、それをどの程度治療者の側がコントロールできるかなのである。すでにふれたように、フロイトはそれが「転移」現象として、分析的な治療関係に入れば、当然のごとく生じると考えた。しかしそこには実際には様々な要素が考えらえ、その一つは出会いにおける偶発性なのだ。

2022年10月27日木曜日

感情と精神療法 推敲 3

 転移感情は自然発生的なものだろうか?

フロイトの話から本稿のテーマに移っていこう。治療において感情はどのような意味や役割を持っているのか。フロイトはこの件について明白な見解を持っていたようである。患者は精神分析的な枠組みの中では治療者にある種の要請の感情、すなわち転移感情を有する。しかもこれは印象だが、患者は全員、デフォルトで持っているかのような書き方である。もちろん治療を求める際には、治療者への理想化はあるかもしれない。でもフロイトはそれをあたかも恋愛感情のような形で患者の中にすでにあると思っているところがある。そもそも患者は治療者に関心を持っていないことだってあるのではないか、と尋ねたくなる。しかしフロイトはこう言いそうである。「もちろん意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」そうして付け加えるだろう。「治療者が自分の姿を現さず、患者の愛の希求を満たさないことでその感情は高まっていくのです。」

フロイトは私たちが想像する以上に自己愛的で、彼のもとを訪れる患者は皆彼を理想化し、その助けを求めている(たとえ無意識であっても)と信じていたのかもしれない。その極端さは差し引かなくてはならないとしても、これはある大切なメッセージを込めている。それは治療の原動力はある種の患者が治療者に魅かれる事である。ここで「惹かれること」という表現をしたのは、そこには好感や愛着などの要請の感情を持つこと以外にも、興味をそそられること、その世界を取り入れたいと思う事など、いわば好奇心と呼ぶべきものについても含むからだ。

ただしこう述べたうえで、患者と治療者の情緒的な交流がそのまま治療の進展につながるとは限らないことを先に述べておきたい。ある種の情緒的な交流が治療の進展や行き詰まりを生むことは確かなことである。

現在のSNSの社会では、利用者が特定の医師や治療者に対するかなり率直なコメントを残し、それを不特定多数の利用者が目にすることが出来る。様々なバイアスはあるものの、多くの患者が治療者からの尊大な、あるいは上から目線の態度に憤慨し、傷ついているということである。時には同じ治療者がある利用者からは感謝の気持ちを表現され、別の患者からは傷つけられたという体験を有しているということである。もちろん患者から医師への気持ちが信頼や経緯などの陽性なものであれば治療は促進されることになる。しかし逆の場合はトラウマ的な関りにもなり得る。情動を伴う治療関係は、このようにハイリスク、ハイリターンなのだ。

この件に関して「加速的な変化」AEDP を提唱しているダイアナ・フォーシャが、ダーバンルーの情緒に満ちたセッションから学ぶと同時に感じたことが書かれている部分が興味深い(フォーシャ「人をはぐくむ愛着と感情の力」福村出版)。

一つ言えるのは、治療の促進につながる患者からの情緒的な関り、ないしは「治療的な陽性転移」は、促されない、ある種の自然発生的な形で生じた場合にこそ意味があるのであろう。それはしかし治療者の側からの誘いかけが不必要であるとは限らない。それが有効な場合もあるから複雑である。

2022年10月26日水曜日

感情と精神療法 推敲 2

  フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や快楽に関連するものであったことは疑いない。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生成する過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、多くのわれわれの目にはあまり実感がわかないが、彼自身はそれを身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに一気に恋心を抱いた。それは結婚して家庭を支えるための収入を得るために、研究者としての自分を捨てて臨床に転向する大きな動因の一つとなったのである。彼はマルタとの4年ほどの婚約機関の間、禁欲を保ったとされる。そしてそれは900通を超える熱烈なラブレターを書き送るエネルギーとなった。ところが結婚したのちのマルタへの熱烈な感情表現の記録はほぼ皆無といっていい。その情熱は恐らくフロイトが想像していたよりははるかに消えてしまったのである。そしてフロイトは、ある意味では当然すぎる現実に出会ったのだ。それは「恋愛対象への情熱は、その現実の姿を知ることで消える」ということだ。あるいは「性欲の対象は、思いを成就することで色褪せる」でもいい。私がなぜこのことを強調するかと言えば、フロイトが後に精神分析における禁欲規則を唱えた際、にこのことが一番頭にあったと考えらえるからである。彼はわかりやすく言えば次のようなことを言っている。

「患者の情熱を治療者が受け止めるとしたら、つまりそれにこたえて恋愛関係に入ってしまったら、転移は消えてしまう。すると治療を進めるべき力そのものが消えてしまう。だから治療者は禁欲的でなくてはならない。」

もちろん私は少し誇張して書いている感じもしないでもないが、少なくともフロイトは治療者が患者の情熱にこたえることの倫理的な問題について強調しているという印象を受けないのだ。それよりも「関係を持ったら情熱はもうオシマイでしょ」という割り切り方は、フロイトが婚約から結婚に至る過程で彼が身をもって体験したことであると私に想像させるのである。

2022年10月25日火曜日

感情と精神療法 推敲 1

 フロイトにとっての感情

「感情と精神療法」はかなり大きなテーマである。精神科領域においても自然科学一般と同様、目に見えたり測定可能なものがその対象として注目されることから始まった。他方では情動の問題はつかみがたいもの、扱い難いものとして敬遠されてきたのである。その意味で一世以上前のフロイトが情動の持つ意味に注目したのは画期的な事であった。フロイトは精神分析を形成する前にブロイアーと共に、患者が大きな情動表現をしたのちに症状が治まるという、いわゆる「除反応」の現象に深く印象付けられた。表現されていない感情が蓄積されることが症状を生むという理解がフロイトのおおもとの発想だったのである。この様に感情の蓄積やその表現は病理に結びついていると考えたフロイトにとっては、患者が治療者に向ける平等、すなわち転移感情も治癒を妨害するものと考えたのである。

 ここからはフロイトについて長年考え続けてきた筆者の持つ仮説部分を含むが、フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。フロイトのポートレートを見ると、どれもしかつめらしい顔を見せ、笑顔はほとんど見られない。しかしそれはフロイトの防衛的な部分の表れであり、彼ほどの情熱家はいなかったと言えるほど人や物事への思い入れを持った。婚約時代のマルタへのラブレターに負けないくらい情熱的な手紙をフリースなどに書き送っている。「私にとってあなたほど偉大な存在など考えられません」的な熱烈な手紙を送っていたのだ。その意味で彼はまさに「ツンデレ」だったのだ。

2022年10月24日月曜日

感情と精神療法 7

昨日書いた件についてもう少し言葉を加えたい。

人が他者に興味を持ち、その考えを知りたくなったり、会話をしたくなるような場合を考えよう。そこには様々なきっかけがあるだろう。その人の書いたり行ったりしたことを知り、共感を覚えるという場合もあるし、その人の話に大きな興味をそそられ、もう少しその考えを知りたいということもあるだろう。あるいはその人の考えや行動に感動し、もう少し深くその人を知りたいと思うこともある。場合によってはその人の言動に違和感を覚え、会って意見を戦わせたいと思うこともあるかもしれない。

いずれにせよその人との言語的な交流により自分が変わるという予感を持つのだ。そしてそれはその人の考えや行動を知るということによって生まれるとすれば、その人をより深く知るということが大きな前提となる。

このことを治療関係について考えよう。来談者が治療者にそのような意味での深い興味を持つとしたら、これは理想的な転移関係を意味するといえるであろう。そしてこのような機会は、治療場面において治療者の考えを知ることを深めて起きる可能性があるとしたらどうだろう? 治療者が匿名性に守られることは少なくともそのような機会をより少なくしてしまうことにならないだろうか? 

もちろんこのことは治療者が自分の考えをとうとうと述べて治療時間がそれで終わってしまっていいということではない。治療者が自分の考えや生き方を来談者に示すとしたら、それが来談者のためになると判断した場合に限らなくてはならない。さもないと治療場面は治療者の自己愛の満足のための機会ということになってしまう。

私が言いたいのは、治療者についてより深く知ることが、患者の「治療の妨げにならない陽性転移」を深めるとした場合、それは治療者と来談者の間の治療的なダイアローグで生じるべきことであるということだが、そのもっともよい機会は何か。それがメンタライゼーションであるというのが私の考えだ。

2022年10月23日日曜日

感情と精神療法 6

 転移を賦活すること

転移の自然発生説に従えば、フロイトが考えたように治療者が受け身的かつ匿名的でありさえすれば、転移は自ずと生じることになる。フロイト的な治療原則に従うことはそれを促進するという意味を持つ。しかし残念ながら治療者の受け身性は転移の発生を促進するばかりではない。むしろ抑制する場合が多いという印象を受ける。

しかし受け身性が促す転移はあまり好ましくない治療の展開を生むこともある。患者は受け身的で情緒剝奪的な両親像のイメージを治療者に投影するのである。患者は治療者のことを、過去に満足な養育環境を提供してくれなかった両親と同類の人間と感じ、そう見なす。彼は半ば必然的に怒りの感情を治療者に向けることになるだろう。多くの分析的な治療者はこれを治療の「進展」と考えるであろう。「ようやく転移が生じたな」そしてそこに表された患者の怒りや羨望を治療的に扱おうと考えるはずである。

ところが私はこのやり方はフロイトが言う「治療の進展にとって邪魔にならない陽生転移 unobjectionable positive transference, UOPT」の部分を伴うことで、初めてその効果が表れる。つまりは治療者にあらかじめ愛着を形成していなくては意味がないのである。つまり治療者を一人の人間として感じ、興味を持つという部分が欠損しているのだ。これでは結局治療を推進する「風」は吹いてくれないのである。

私が提案するのは、治療者はむしろ普段通りでいることである。ことさら患者から転移を引き出そうとしない。その代わりあらゆる手段を尽くして分かりやすく来談者に話し、いわばmotivational speechのような形で語り掛けるのである。その様にすることで少なくとも治療者は治療者を生きた人間と感じる。治療者に対して一人の人間として興味を持つ可能性がそれだけ高まるであろう。この様な形で生まれる感情はUOPTの情勢を促進する可能性がある。(治療者の人間的な部分が表されることでそこへの愛着形成が進むであろう。


2022年10月22日土曜日

感情と精神療法 5

 治療関係における偶発性の要素

 治療関係における情緒的な要素については、ここまで情緒的な関りについて述べたが、では情緒的なファクターだけを注目するべきであろうか。私は必ずしもそう思わない。たとえばターニングポイントという村岡の概念がある。治療者患者関係の中である種の偶発的な出来事が起き、それが治療の転機となる。それは予想不可能な要素が大きく、あえてそれを仕組んだり計画したりすることはできない。たとえば治療者がある日セッションに遅れて到着し、それを不満に思った来談者との間で情緒的な行き違いが生じる。そしてそこで交わされた言葉が患者の変化を促すという場合を考えよう。そしてその時治療者が言った一言がある種の大きな意味を持って来談者に伝わったとしよう。おそらくそこには情緒的な動きはあったであろうが、そのもとになったのは治療者の言葉が持っていた意味内容であったとしよう。

もう少し具体的に考えよう。それは治療者の「あなたは私に完璧さを求めているのですね」という言葉であったとしよう。来談者は「そうか、私はこの人(治療者)には何もミスを犯さないことを期待していたのか」という気付きは、それ自体は驚きや後悔や後ろめたさなどの情緒部分を含むとしても、そのきっかけはある種の認知的な理解と言えるだろう。私はここに偶発性を見出すが、それは「私はこの人には完璧を望んでいる」という理解が何も大きな洞察や感動を生まないケースもいくらでもあると思うからだ。あるいは同じような理解が意味を持っていたとしても、この時の治療者のかかわりからは生じなかった可能性もある。

結局何がターニングポイントになるかは、それが結果的にある種の変化を与えたかどうかにより、つまり後になって判断する以外にない。つまりここには大きな偶発性が存在するのだ。しかしさらに言えば、この偶発事を見逃さずに治療に役立てるという工夫には、その治療者の技量が問われているのかもしれない。これは発見におけるセレンディピティの問題とよく似ている。

 

2022年10月21日金曜日

神経哲学の教え 12

 脳オルガノイドはほっておくと大脳になる??

 ユウチューブで「脳は作れるのでしょうか?Beyond AI サイエンスカフェ(第6回)」を見た。https://www.youtube.com/watch?v=XoF7gO5bPVg&t=2075s

この動画には東京大学生産技術研究所准教授の池内与志穂先生が登場し、脳オルガノイドのお話をする。ちなみに最近研究者たちが人のIPS細胞を三次元に培養して様々な臓器モドキを作る研究がおこなわれている。それがいわゆる「オルガノイド」であり、例えば腎臓の細胞の塊が腎オルガノイドというわけだ。(~ノイド、というのは~モドキ、ということである。)そして池内先生グループが研究なさっているのが、人のIPS細胞から作成した神経細胞を培養したものが「脳オルガノイド」と呼ばれてさまざまに研究されているというのだ。彼の研究で興味深いのは、二つの脳オルガノイドを離しておいておくと、途中の培養液に軸索を伸ばし、もう片方と結びつくという現象についての話なのだ。脳オルガノイドはごく自然に他の神経細胞との交流を求めるというわけだが、そこで早速問題になるのが、脳オルガノイドをどんどん大きくしていくと、心を持つのかという問題である。もちろんこれは答えの出ない問題であるが、彼がチラッと言って私が注意を止めたのが、脳オルガノイドは他の脳オルガノイドを置いてその結びつきを研究しなくとも、それ自身が大きくなっていって、大脳になる、という話だ。おそらく大脳皮質の6層構造を持った塊ということであろう。この話がどうして面白いかと言えば、これはDMN(デフォルトモードネットワーク)について言っているかもしれないからだ。DMNは基本的には外からの刺激を遮断する形で活動する。おそらく私たちの脳は基本的にはたとの交流がなくとも自己生成を行う可能性があり、脳オルガノイドの「他との交流を持たせずに放っておくと大脳になる」という所見はそれを示唆しているのではないかと考えるのである。


2022年10月20日木曜日

感情と精神療法 4

 転移感情は自然発生的なものだろうか?

 ここで私はもう少し臨床の現実に照らした考えを示したい。治療関係においてある種の情緒的な交流が起きることはしばしばある。それは間違いのないことである。ただし情緒的な交流がそのまま治療の進展につながるとは限らない。ある種の情緒的な交流が治療の進展や行き詰まりを生むことは確かなことである。

 現在のSNSの社会では、利用者が特定の医師や治療者に対するかなり率直なコメントを残し、それを不特定多数の利用者が目にすることが出来る。いわゆる「口コミ」というものだ。それはある意味では深刻なプライバシーの侵害を招きかねないという懸念を私は持つが、少なくともそこから散見されることは、利用者は治療者に助けられ、支持されることでの尊大な、あるいは上から目線の態度に憤慨し、傷ついているということである。時には同じ治療者がある利用者からは感謝の気持ちを表現され、別の患者からは傷つけられたという体験を有しているということである。

この件に関して「加速的な変化」AEDP を提唱しているダイアナ・フォーシャが、ダーバンルーの情緒に満ちたセッションから学ぶと同時に感じたことが書かれている部分が興味深い(フォーシャ「人をはぐくむ愛着と感情の力」福村出版)。

一つ言えるのは、治療の促進につながる患者からの情緒的な関り、ないしは「治療的な陽性転移」は、促されない、ある種の自然発生的な形で生じた場合にこそ意味があるのであろう。それはしかし治療者の側からの誘いかけが不必要であるとは限らない。それが有効な場合もあるから複雑である。

例えばあなたがある先生に魅かれ、その先生について深く何かを学びたいと思うという。その先生にあなたは最初は特に関心を持たないかも知れない。しかしある時その先生に「これを読んで御覧なさい」と何気なく渡された本からその先生の研究分野について興味を覚えるとしたらどうだろう。その先生は貴方が潜在的に興味を持ってはいても意識しなかった部分に気づかされたのである。するとその先生のかかわりはある意味では非常に貴方にとっての意味を持っていたことになるだろう。

2022年10月19日水曜日

感情と精神療法 3

 

 ここからは憶測の話だが、フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。フロイトのポートレートを見ると、どれもしかつめらしい顔をしている。しかし彼ほどの情熱家はいない。フリースなどにはデレデレの手紙を書いている。「私にとってあなたほど偉大な存在など考えられません」的な熱烈な恋文調の手紙を送っていたのだ。彼の惚れっぽさは只者ではない。理論にも人にも。フロイトはツンデレだったのだ。

恐らくフロイトが最も興味を持ったのは、性的欲望や快楽であったことは疑いない。彼は4年ほどの婚約機関の間、マルタさんとの性的交渉を控えたのは言うまでもない。そしてその期間に900通を超える熱烈なラブレターを送っている。ところが結婚するとその情熱は恐らくフロイトが想像していたよりははるかに消えてしまったのである。そしてフロイトは、ある意味では当然すぎる現実に出会ったのだ。それは「対象に対する情熱は、その現実の姿を知ることで消える」ということだ。私がなぜこのことを強調するかと言えば、フロイトが禁欲規則を唱えた際にこのことが一番頭にあったと考えらえるからである。彼はわかりやすく言えば次のようなことを言っている。

「患者の情熱を治療者が受け止めるとしたら、つまりそれにこたえて恋愛関係に入ってしまったら、転移は消えてしまう。すると治療を進めるべき力そのものが消えてしまう。だから治療者は禁欲的でなくてはならない。」

もちろん私は少し誇張して書いている感じもしないでもないが、少なくともフロイトは治療者が患者の情熱にこたえることの倫理的な問題について強調しているという印象を受けないのだ。それよりも「関係を持ったら情熱はもうオシマイでしょ」という割り切り方は、フロイトが婚約から結婚に至る過程で彼が身をもって体験したことであると私に想像させるのである。

フロイトのこの件についての考え方の中で特徴的なのは、患者は最初から治療者に転移感情を持っているかのような書き方である。もちろん治療を求める際には、治療者への理想化はあるかもしれない。でもフロイトはそれをあたかも恋愛感情のような形で患者の中にすでにあると思っているところがある。これも極端な言い方かも知れないが、フロイトは人間の感情を性的な感情に結び付け過ぎの傾向があるようである。

2022年10月18日火曜日

神経哲学の教え 11

 DMNにおける機能として重要なのが、未来の予測ということになる。DMNにおけるマインドワンダリングは常に外的な知覚刺激や内受容感覚を体験している。そしてそれはある種の快楽体験や不快体験の到来を予測することを促す。心はそれこそ「フラフラしているわけにはいかない」とさっそく予測を始める。ある動物の鳴き声の様なものがしたら、それはどの方角からやってきて、それはこちらが捕食する側なのか、捕食される側なのか、つまりそちらに向かうか、あるいは遠ざかるべきかの判断を下す。

この予想の機能については、フリストンの「自由エネルギー原理」が提案していることだ。生命体はよりよく予測し得たもの、そしてより多くの快を得、より少ない不快や危機を体験することで生存の可能性を高める。だから予想とはとても大事な機能だ。そこにDMNが関与していないということはないだろう。DMNはいつ何時、どこからか何かのサインが到来するのではないかと待ち構えているところがあるのだろう。アイドリング状態といってもただ意味もなくエンジンを回転させているわけではないのだ。何かの予測をする段階ではタスクポジティブネットワークが働くことになる。

ただし問題は人の心はタスクを継続して行うことが出来ずに、DMNに回帰するという特徴を持っているということだ。その理由は不明だが、私はこんなことを考えた。アフリカのサバンナでガゼルが草を食んでいる。おそらく23秒草を食べてから彼は周囲をきょろきょろ見渡すだろう。外敵が近づいているのではないかと注意するのだ。ガゼルは一つのタスクに集中することの危険を知っているのだろう。それと同じ理由かはわからないが、人も一つのタスクに集中することで周囲への警戒がおろそかになる。だからしばしばマインドワンダリングに戻るのだ。

興味深いことに、このマインドワンダリング自体はかなり長い時間続く可能性があるのだ。のどかな午後にリビングで本から目をそらして空想にふけっているうちに寝入ってしまう…。おそらくDMNはかなり長時間にわたって維持される可能性がある。時々空腹を感じたり、ケータイがなったりして途切れることはあるだろうが。

この長時間のマインドワンダリングが果たす役目は明確ではないが、そこで大切な記憶の再強化と、そうでないネットワークのプルーニングが起きている可能性もあるだろう。そしてそこでは時々新しいネットワークの生成も起きる。その中である種の美的な印象を与える場合には、それは意識に上るというわけだ。

2022年10月17日月曜日

神経哲学の教え 10

 DMNと創造性

 1986年のドキュメンタリーで、手塚治虫は新たな発想の生まれる過程について語っていた。それは一度頭を真っ白にして、何も考えないようにして、そこから発想を得るということだ。そのために時々テレビをつけっぱなしにすることもある。しかしそれはその内容に集中するという意味ではない。彼は絵コンテにペンを入れるのに集中している。そこはタスクポジティブなネットワークに依存する。しかし同時に音楽を聴いたりテレビをつけていたりするのだ。これは恐らくデフォルトモードを活動させるためにという気がする。なぜなら彼はそこから発想を得ているからである。手塚治虫を追いかけたドキュメンタリーでは3日間で3時間しか寝ずに漫画を描き続ける。その彼にとっては両方のモードを別々に活性化させるだけの時間的な余裕がないのではないか。両方の力を借りなければならず、その解決方法が、彼にとっての「ながら」だったわけである。」ニコラ・テスラの場合もそうだが、彼はある種の発想を得るためにあえて心を空にしようとしていた。つまりDMNを作ろうとしていた。これは一律に言えることだ。皆は何かを考えるとき目を瞑ったり、宙を見たりする。これは明らかにデフォルトモードに入っているのだ。(それと解離において別人格に変わる時も全く同じ仕草をする。)そこで彼らが言っていたのは、幾つかの結びつきである。それらは極端なものかもしれないが、ある種の試験的な脳波の照合を行っている可能性があるだろう。

手塚は「アドルフに告ぐ」の発想としてヒトラーとゾルゲという、両方とも関心のある、しかし全く異なるものを結び付けたという。おそらくDMNはせいぜいこの結びつける、という程度のことしかできないし、かなり行き当たりばったりだ。言い換えればDMNにおける一次過程はかなり偶発的な、非象徴的なレベルのものなのだ。  

 

2022年10月16日日曜日

交代人格を無視? 5

 解離症状は封じるべきか?

 「交代人格を無視する」という立場にとってはある強固な支えとなる理屈がある。それは「○○(症状名)はそれを放置しておくとどんどん癖になり悪化する」という考えである。古くはマスターベーションがそうであった。「放っておくとますます性欲が増し、性的に放縦になってしまう。だから禁止しなくてはならない。」(この種の対応を親から受けたことがある人は、きっと読者の中にもいらっしゃるだろう。)あるいはリストカット。禁止しないと癖になってしまうと考える。過食も嘔吐も、ある種の強迫行為も、親や保護者は見つけたら「芽のうちに摘んで」おこうとする。

どうやらこれは解離についても言えるらしい。放っておくと癖になるから、見て見ぬふりをする。解離を認めてしまうと歯止めが効かなくなってしまう。これはかなり説得力のあるナラティブで、明らかに嗜癖を形成するような症状や行動ならば、概ねこの考えのとおりである。シンナーを吸って陶酔している若者には、急いで止めさせるにこしたことがない。しかし解離の場合は事情が違う。

交代人格と出会わないという立場の治療者から繰り返し聞くメッセージがある。「私は解離の存在を否定するつもりはありませんし、私の患者さんにも解離を起こす人が何人もいます。ただ私は交代人格をそれとして認めることで、それを促進したくないだけです。」その主張に対する反論は、私が「解離否認症候群」と呼ぶ人たちよりもより一層注意深いものとなる。なぜならトラウマ関連の症状には、確かにある症状の発現が呼び水のように働くこともあるからだ。

ある患者さんは、昔のトラウマについて治療者に聞かれてから、フラッシュバックが頻発するようになった。一週間でそれを収めてまた来院するが、そこでも同じことが繰り返され、結局は治療を中断することになった。これは実際に起きる話である。この場合はそのフラッシュバックが治療状況において誘発された場合にはそれを抑制するような対応、すなわちトラウマ記憶に「あえて触れない」ということも必要になる。これに関して私はよく原子力発電の比喩を用いる。治療者は連続的な核分裂が起きかねない際に制御棒の出し入れを適切に行う必要がある。トラウマ記憶を全く扱わないことには核分裂反応が起きずに電力という名の治療の進展が起きない。しかし一気にトラウマ記憶が起こりすぎるような介入も問題である。そのための制御を臨床的に行うのが治療者の使命なのだ。

 解離においてもトラウマの記憶を探る過程で乱暴な交代人格が出現した場合に、それを臨床家が扱える用意がなければ、むしろ今後その人格とは「出会わない」ための工夫も必要になってくるだろう。

解離の臨床でより頻繁に問題となるのは、子供の人格である。治療関係が安定し、やがて子供の人格さんが面接室に現れるようになる。治療者はそれを歓迎して一緒に遊び、それからはその子供の人格が治療場面にたびたび出現するようになる。そのうち面接時間が子供の人格とのプレイセラピーで終わってしまうようになる。そして当初治療を求めてやってきた主人格から「私の治療に全然なっていません!」と不満を言われることがある。それでも「交代人格は無視しない」という原則を守り続けると、誰のための治療かわからなくなる、という主張はそれなりに正しいことになる。

これらの例からわかることは、交代人格はその出現を許容し、あるいは促すことには治療的な意味があると同時に現実生活における適応度を損なう場合もある、という現実である。結局「『どの交代人格とどのような時に、いかにして出会うか』という問題についての臨床的な判断を常に適切に行わなくてはならない」、というより一般化され、相対的な原則がその背後にあることが分かる。そしてこの原則の意味をケースごとに考えていくことから解離の臨床が始めるのである。ただ一つ言えるのは、「交代人格は無視する」という理屈はそれ自体が極めて奥深い解離の臨床をあまりに単純化したものであるということだ。

 

2022年10月15日土曜日

高機能のサイコパスとは何か? 抄録

             高機能のサイコパスとは何か?

 ― その心理療法的アプローチの可能性

「高機能のサイコパス」とは暴力的な傾向や反社会性を表面上は持たず、社会で成功を収めている人々である。彼らはヘア・チェックリストの4因子中3因子(情緒的な浅薄さ、冷たさ、信頼性の欠如)のみを満たすことになる。高機能のサイコパスの存在が投げかけてくる課題は、彼らが特殊な才能を有する人々なのか、そして彼らに心理療法は有効かということである。

サイコパスに関する議論を盛り立てたのがRobert Hareである。また本発表のテーマに関して大きな影響を与えてくれたのが、Kevin Dutton の「サイコパス・秘められた能力」とJames Fallon の「サイコパス・インサイド」という著述である。特に後者はサイコパスの「当事者」でもある学者が記述したものとして稀有の存在である。

ところでここでDSM-5による反社会性パーソナリティ(ASPD)とサイコパスの関係を知っておくことは重要である。結局ASPDとサイコパスは似て非なるものであり、サイコパスは空虚で情緒が欠如している。いわばASPDから情動をマイナスしたのがサイコパスだ、というのが Dutton の主張である。サイコパスの脳科学的な所見としては、眼窩前頭皮質(~前頭前皮質腹内側部、前帯状皮質)や扁桃核の活動低下が見られることが特徴であるとされる。そのせいか Lilienfeld が示すとおり、サイコパスの主たる特徴は罪を犯すことというよりは、恐れを知らず不安レベルが低いことであるとされる。ただし彼らの脳の機能は低下しているだけでなく、ある種の特殊な能力を有するとも考えられる。

Fallon は、自分は脳画像上はサイコパスと同じ特徴を持という。そして自己を「口達者であり、刺激を求め、退屈しやすい。また共感能力が欠如している」とする一方では、反社会性、衝動性、破壊性、虚言癖などは見られなく、高い知性を備えて、極めて生産的であるとしている。そしてこれが重要なのだが、彼はサイコパスのほとんどが幼児期に虐待を受け、片親や両親を失っているが、自分はそうではなく、十分な愛情を与えられて育ったというのだ。ではサイコパス性を備えた彼が、なぜ慈善活動をしたり、博愛性を発揮したりしているのだろうか。それについてFallonは、自分は科学者として、内面は変わらず行動面ではよりよい行いをし、共感的なふるまいをすることが出来ることを証明したかったとする。つまり彼は自分の自己愛の満足の為に博愛的にふるまっているだけだというのだ。

上述のFallon の言葉に基づき、以下の諸点を結論としてあげたい。高機能のサイコパスとは、サイコパスのうち高知能で、かつ第4因子(反社会性)を有しない、一つのサブタイプとして理解し得る。そして彼らの予後ないしは社会性の維持のためには、性倒錯としてのサディズムを有しないことが必須の条件となるであろう。

多くの人において、特定の状況で特定の人を対象にしてサイコパスのスイッチが入る(外れる)可能性はあるであろう。例えばいわゆる「戦士の遺伝子」を持つ人間、有能な格闘家などはこのスイッチオン、オフを見事に使い分ける人たちの例に挙げられる。そして通常の人間は戦場などにおいて「解離」によってしかサイコパスのスイッチを入れることが出来ないのであろう。 

治療に関しては、残念ながら、彼らに共感的になることを期待することは無理だろう。治療は彼らの好社会性が自己愛的な満足と結びつけることで部分的には可能ではないか。それは彼らが人を助けるための行動を行うことで、自己愛的な満足と引き換えに、自分たちのサイコパス性をある程度克服するという可能性を意味するのである。

2022年10月14日金曜日

神経哲学の教え 9

 DMNで起きていることは非象徴的な一次過程?

 神経科学において主流な考え方はシェリントンに代表される、外界からの刺激に反応する反射的な器官としての脳である。(Nortoff, 41)しかしこの考えが否定されるのが、この研究の成果だ。安静時能活動の存在は、心が外的な刺激を受けなくても固有に存在しているということだ。しかし一人で勝手に存在しているというわけではない。そこがミソである。それはある種の準備状態readiness を作っている。しかもその準備状態としてはさまざまなものを起動しておかなくてはならない。そこで脳の活動を総動員しておく、というのが一つの仮説である。あるいは脳はDMNで記憶を固定しているという考えも成り立つ。つまりそこでは必要なものをよりしっかり固定し、必要でないものは押し流してしまうという、ちょうどレム睡眠で行っているような作業を既に起こしているのではないか。

例の「ルビンの壺」の絵の実験で、面白いものがあるという。あの絵を見せられた人の誰が、最初に「壺だ」と言い、誰が「顔だ」というかは、それを見せる前にその人の脳を調べればわかるという。脳に人の顔を認識する紡錘状回という所があるが、そこの血流が上がっている人は「顔だ」となるらしい。これはどういうことか。

恐らく脳は揺らいでいてどこがどれだけ興奮しているかは区別がつかない。そしてそこでどのような発想が生まれるかもあらかじめ決められていない。地殻の変動による地震と同じように「冪乗則」に従うと考えるしかない。するとそこで起きてくることは、まさにフロイトの言う一次過程に似てくるのではないか。つまりそれ自身ではあまり意味をなさない、暗号の様なものだ。そのわからなさ、意味の通じなさは、私達が見る夢に表される。しかもしれは「非象徴的」だ。フロイトの考えたようなより深層の意味を持っているというわけでもない。

 

2022年10月13日木曜日

神経哲学の教え 8

 脳は一つの心である the brain has its own mind、というのは変な言い方だがその通りである。脳は心なのだ。そして脳である限りは脳波やMRIで検出できる。その結果として最も華々しい成果を私は知っている。それは昏睡状態に陥った人と、実は周囲のことが分かっている人とをどのように見分けるかという問題である。ケンブリッジ大学の神経科学者の成果が挙げられる。https://wired.jp/2016/02/26/brain-signatures/

昏睡状態にある人の脳波を取り、ネットワークの連結の強さを調べると、高い連結性を示す脳波を示す人は、より浅い昏睡状態であることが分かる。これは安静時活動という概念の有効性を示す決定的な意味を持っているのではないだろうか。心の大きさや深さが可視化されるのである。


2022年10月12日水曜日

Multiplicity of therapeutic actions 6.

 12. the conclusion of Gabbards paper (p.837)

ere, I quote some of his statements.

There is no single path to, or target of, therapeutic change.

Any time we are tempted to propose a single formula for change, we should take this as a clue that we are trying to reduce our anxiety about uncertainty by reducing something very complex to something very simple.

Various goals of treatment and techniques useful for facilitating therapeutic change might not be free of elements that are conflicting or at cross purposes.

 Gabbard then said (p.826) ;  Fonagy and Target (1996) characterize this process as expanding psychic reality by mentalizing, or developing reflective function. A principal mode of therapeutic action involves the patients increasing ability to perceive himself in the analysts mind while simultaneously developing a greater sense of the separate subjectivity of the analyst. (Fonagy P, Target M (1996). Playing with reality, I: Theory of mind and the normal development of psychic reality. Int J Psychoanal 77: 21733.)

I basically agree with Gabbard and consider mentalization based treatment as a basic method that we can use in order to prowl forward in our analytic treatment.









 

I basically agree with Gabbard and consider mentalization based treatment as a basic method that we can use in order to prowl forward in our analytic treatment.

 

2022年10月11日火曜日

Multiplicity of therapeutic actions 5.

10.  What is the change of the Unconscious Association Networks (UAN)?

Some examples. Thinking of myself immediately leads to negative images and thoughts. ② Having images of myself enjoying something, such as going to an amusement park in the next WE triggers internal voices saying You are not worth it ! Doesnt this UAN sound like CBTs notion of the automatic thoughts?

11.  Is radical structural change sine qua non for a therapeutic action to take place?

In fact, modification of the UAN does not imply the total change of the network, but just its partial change as shown in the diagram below.





2022年10月10日月曜日

Multiplicity of therapeutic actions 4.

   4.  Is it really psychoanalytic to discuss various therapeutic action some of which are not conventionally psychoanalytic.

→ it might be OK so long as we use psychoanalytic terms as our mother tongue. We might consider that interpretation has less potential than what Freud considered. Or, unconscious has a different connotation from what Freud considered. These statements are still psychoanalytic so long as we still use these terminologies as key words with their fruitful implications.

2.                  5.Therapeutic goal from a perspective of neuroscience.
It is the modification of unconscious associative networks which induces the change in problematic defence system, emotional response and dysfunctional relational patters. There is another goal, which is to alter conscious patterns of thought, feeling, motivation and affect regulation (Gabbard, Westen, p.827).

3.                 6. We should acknowledge that is was Freuds 1914 paper Remembrance, Repetition and Working through which first gave the idea of this unconscious associative networks, as he clearly stated that it is our unconsciously mobilized action which is to be looked into and find out its hidden motivations.

 

2022年10月9日日曜日

Multiplicity of the therapeutic action 3.

 Insight is now toppled off its prior pedestal (Sandler and Dreher, 1996) but its status among the spectrum of interpretive and non-interpretive mechanism is unknown.

1.              The opposing axis of insight oriented vs. supportive approach, or interpretation vs relationship is no longer meaningful as they might always work synergistically. As Wallerstein said, based on the study at Menninger (Psychotherapy Research Project) that indicated that supportive and insight oriented therapeutic elements are always mingled together in real clinical situations.

2.                  Does it mean that any intervention among the spectrum, from interpretation-observation- confrontation- clarification- invitation for description- show of empathic validation- psychoeducation- advice and appreciation/praise are all possibly (and potentially equally) therapeutic?    

3.                  Thus it is getting harder and harder for us to figure out what is psychoanalytic, as even elements that Freud obviously considered as non-analytic, such as suggestion and advice-giving can be re-considered as potentially valuable. Where is the role of Oedipus Complex and death instinct? However, some say that the most valuable legacy that Freud left with us is the importance of unconscious process.  

2022年10月8日土曜日

神経哲学の教え 7

 愛着およびトラウマにおいて右脳が持つ意味( Schoreによる)

愛着について考える場合も、トラウマの場合も、そこで右脳が占めている重要な意味について理解すべきであるとする。まず人間の発達段階において、特に生後の最初の一年でまず機能を発揮し始めるのは右脳であり、左脳はまだ機能していない。たとえば生後二か月になり、後頭葉の皮質のシナプス形成が始まると、その情報は主として右脳に流れ、右脳が興奮を示す (Tzourio-Mazoyer, 2002) 。 子供が成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が生成され始めるのは、4,5歳になってからだ。しかしそれ以前に生じたトラウマは、何も記憶ができない状態でも、すでに生理学的な存在として、その脳は様々なストレスに対する対応のパターンを形成していく。そしてそれは右脳を主座として生じる。そこで誤ったパターンが形成された場合は、その後の人生で大きな影響をこうむることになる。

またPTSDの典型的なフラッシュバックの際などの過覚醒状態を考えると、心臓の脈拍の高まりとともに、右後部帯状回、右尾状核、右後頭葉、右頭頂葉の興奮がみられるという(Lanius et al, 2004) 。そして解離状態の場合、ないしはPTSDの患者が典型的な状態から解離的な状態に反転した場合、たとえばトラウマ状況を描いた文章を聞くことで逆に脈拍数が下がったりする場合には、右の上、中側頭回の興奮のパターンが見られたり、あるいは右の島および前頭葉の興奮が見られるという(Lanius, 2005)。いずれにせよ過覚醒にしても解離状態にしても、そこで異常所見を示すのは右脳の各部ということになる。

通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫 soothing が得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。しかしD型の愛着が形成されるような母子関係においては、その慰撫が得られず、その結果生じると考えられるのがこの解離なのだ。それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることが出来るだろう。そしてこのように解離は特に右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もある。
幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいくが、それは母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられることだ。ところで愛着や解離の理論において、特にショアが強調するのが、右脳の機能の優位性である。そもそも愛着とは、母親と子供の右脳の同調により深まっていく。親は視線や声のトーンを通して、そして体の接触を通して子どもと様々な情報を交換している。子供の感情や自律神経の状態は、安定した母親のそれによって調節されていくのだ。この時期は子供の中枢神経や自律神経が急速に育ち、成熟に向かっていく。それらの成熟とともに、子供は自分自身で感情や自律神経を調整するすべを学ぶ。究極的にはそれが当人の持つレジリエンスとなっていくのである。
 逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。