2012年10月31日水曜日

パーソナリティ障害・自傷・同一性障害


「キーワード」を二つばかり引き受けた(何のことだ?)。2800字以内。はじめは、「パーソナリティ障害・自傷・同一性障害」しかしドウイツセイショウガイってなんだろう?死語ではないのか、などとボヤきつつ、書き始める。

 パーソナリティ障害とはその人の認知的、情緒的、ないしは行動上の特徴が、対人関係上の障害を引き起こす状態をさす。DSMではそれをクラスターA,B,Cに分ける。それらはクラスター(風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ)として妄想性パーソナリティ障害 スキゾイドパーソナリティ障害  統合失調型パーソナリティ障害 の3つ、クラスター(感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込む事が多い)として反社会性パーソナリティ障害境界性パーソナリティ障害演技性パーソナリティ障害自己愛性パーソナリティ障害4つ、クラスターC(不安や恐怖心が強い性質を持つ。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある)としては回避性パーソナリティ障害依存性パーソナリティ障害強迫性パーソナリティ障害である。
これらの中で最も臨床上問題となるものとして境界型パーソナリティ障害をあげることが出来る。その特徴としては、きわめて低く、また不安定な同一性(アイデンティティ)の感覚、慢性的な空虚さ、激しい怒り、繰り返される自傷行為や自殺帰途などが上げられる。なお以下のDSM-IVにまとめられた症状はその症状面についてのエッセンスを捉えたものと言える。
現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとする死に物狂いの努力(注:5.の自殺行為または自傷行為は含めないこと )2.理想化と脱価値化との両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定で激しい対人関係様式 3.同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像や自己観 4.自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質濫用、無謀な運転、むちゃ食い) 5.自殺の行為、そぶり、脅し、または自傷行為のくり返し 6.顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は2 - 3時間持続し、2 - 3日以上持続することはまれな強い気分変調、いらいら、または不安)7.慢性的な空虚感 8.不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかをくり返す)9.一過性のストレス関連性の妄想様観念、または重篤な解離性症状 (つづく)


2012年10月30日火曜日

昨日の続き

さて本書の内容にも少し触れたい。


本書『関係精神分析入門』は、米国で一つの大きな流れを形成しているRelational Psychoanalysis (関係精神分析)という流れを日本に導入しようとする試みである。ただしこの流れは既に関西の分析家達にはある意味では先取りされている。というのも関係精神分析は従来の対人関係学派に端を発しているが、その中心人物であったハリー・スタック・サリバンやエーリヒ・フロム、フリーダ・フロムライヒマン、カレン・ホーナイ達については、すでに既に神戸の中井久夫先生や広島の鑪幹八郎先生により紹介されているからである。そして対人関係学派の拠点であったニューヨークのホワイト研究所で訓練を受けた鑪先生の後に続いてホワイト研究所に留学した先生方が中心となり、京都には日本の精神分析学会とは別個に、京都精神分析・心理療法研究所という機関が設立されている。そこでは当然対人関係学派の流れの先にある関係精神分析にもなじみが深いことになる。他方では東京と福岡を中心とした日本精神分析学会は、むしろそのようなアメリカの精神分析の流れを吸収する流れは薄く、むしろイギリスの対象関係論の流れが強い。日本精神分析学会に属しているが、その中で関係精神分析の流れを取り入れたいというのが私自身の立場なのである。ただし私の立場は、サリバンへの興味から入ったというのではなく、関係精神分析の論客であるアーウィン・ホフマンの理論に対する私淑から始まったという事情がある。そして京都の流れを日本精神分析学会でも取り入れることができたら、という希望が、この本の出版へとつながった。

今回このような個人的な願望を果たすためのお手伝いをいただくことになった●崎●術出版社の長●川●氏には、いつもながら感謝したい。

これじゃまだ短いなあ。

2012年10月29日月曜日

おかげさまで…


 おかげさまで、このブログを使って、ほぼ一冊分の素材をまとめることができた。数か月続いたが、第一回の遂行(おっと、推敲)が終わったレベルまで持っていくことができた。
相変わらず読者からのフィードバックは受けていないが、それは読んでもらうことをあまり期待していないという理由からである。読んでいますよ、と声をかけられることもほとんどなくなった。自業自得である。あくまでも書くモティベーションを優先したブログなので、「これを載せてもつまらないだろうなあ。もう一度書いているし。」などと思いだしたら、キリがないからだ。しかし内容自体は、読む根気さえあれば、ある程度のレベルにはあることを認めてもらえるともおもっている。ということで、このブログの濫用は続く。
 
 
某出版社の「学●通●」という小冊子があり、そこで出版をした人間がエッセイを書く機会を与えられるという企画がある。そこへの投稿をここで準備させていただく。

『関係精神分析入門』 ― 仲間と一緒に本を著す喜び

『関係精神分析入門』という著書は、著者名として私の名前が一番先に出てはいるが、横井公一、富樫公一、吾妻壮という、この分野では錚々たるメンバーとの共著である。実は書いているページ数は私が一番少ない。しかし出版に際して音頭を取ったのは確かに私である。

この本はわが国にはまだ定着しているとはいえない関係精神分析が根を下ろすようにと日頃努力をしている私たちグループの論文を集めたものである。この四氏は、福井敏先生と私が関係精神分析を日本に導入しようと最初に計画した今から数年前に、選んだ、一番この世界で活躍しそうな方々である。彼らと年に一度、精神分析学会の教育研修セミナーで、関係精神分析についてのシリーズを行っているうちに、あっという間に貴重な草稿が集まった。これを散逸させることなく、一書に出来ないかという発想を得たのが、2011年の初めであったが、それからは早かった。私の声掛けに応じた彼らは、それまでに出来上がっていた草稿に手を入れ、新たに必要となった章を書き上げ、またたく間に一冊の本の分量になる原稿を集めることが出来たのである。

この「●術●信」で出版にまつわる裏話を少しだけ書くことを許されるのなら、私は本を「作る」のが仕事であり、趣味である。執着と言ってもいい。実はこれだけ筆の早い優秀な執筆陣をまとめて編集をするのは本当に楽しい。自分がすべて書くわけではないので、あっという間にできる。(当たり前である。)これを企画することがなければ連続性のもとに読むことのできない論文が、まとめて提示できる。そして(望むべくは)経済的な効果もある。
しかしそうはいっても実は出版社の側で販売していただき、場合によっては返品を処理していただくという労をとっていただいているから、私は楽な仕事だけをできているのだ、ということは自覚しているつもりである。だから自分はいかにラッキーな立場かをいつも言い聞かせてはいる。

さて本書の内容にも少し触れたい。(続く)

2012年10月28日日曜日

第15章 報酬系と日常生活―心理士へのアドバイス(最終章)



報酬系について知ることは、人の観察の仕方や、人への臨床的なかかわりに一定の指針を与えてくれるであろう。それは人は結局快楽的な体験に導かれる、というシニカルなまでに現実的な見方を迫る。しかしそれは人が自己中心的な生き方のみを求めるということを意味してはいない。利他的な行為であっても、それは結局快感原則に従うという点は、前章で強調した通りである。人は利他的な行為と快感原則に従った行為を、互いに正反対のものとして区別しようとするが、両者は十分に共存し、それが人の行動に厚みや奥行きを与える上に、人間存在を互恵的なものにする。

そこで・・・

アドバイス その1. 報酬系の理解に基づく人間関係の基礎としての「Win-win の原則」
 Win-win (ウィンウィン)とは「相手も得をし、自分も得をする」という意味の英語表現だが、最近は日本でも時折聞くようになっている。私がこの原則について考えるようになったきっかけについて話したい。私事であるが、私は数年前から大学院の教師としても働いている。それまではもっぱら医師のみの立場で働いていたので、教師としてどのようにふるまうべきかについては最初は全くわからなかった。そこで教師の立場に慣れるのには時間が少しかかったが、そこでわかったことは、学生にも患者にも同じような心構えで対面すればいい、ということだった。それは一言で言えば彼らは同様に「お客様customers」だということだ。これは誤解を招くいい方かもしれないが、つまりは彼らがあってこそ私がある、という関係を理解し、それを前提とすることだ。彼らがこなければ(治療に来る、教室に授業を受けに来る、という意味で)、あるいは彼らが満足しなければ私も仕事のやりがいがない。仕事が苦痛になるだろう。ということは彼らと私がWin-win になる状況を探すことが最前提になる。逆に言えば、それを考えてさえいれば、あまり仕事上で迷うことはないのである。もちろんこちらがそのつもりでもうまく行かないことが時々あるのは当然であるが。
 このwin-win の原則は、しかし案外忘れられがちなのである。一番多いパターンは、自分がやっていることが当たり前である、と思い込むことであろう。患者は来て当たり前。生徒は授業に出て来て当たり前、と思ってしまう。他方では相手側にとっては受診や受講をして直接win するものが十分ではなく、ただ単位をとるため、薬をもらうため、という状況だと、治療者患者関係、あるいは先生と生徒の関係は決して実りの多いものとはならない。しかしそのことに気付かずに不然感ばかりが体験されるというパターンが多いのだ。

 このwin-win の原則は意外に有用である。少なくとも人間関係でどうもしっくりこない時、実は自分の思っているwin-win と相手のそれが食い違っている場合、ないしは自分のwin が相手のwinよりいつの間にか大きくなりすぎて、事実上 win-lose の関係になっている場合であることが多い。問題はそうなっているという状況に気づかない場合に生じる。だからその場合はそうなっている理由を一つ一つ検討すればいいことになる。
 この方針は患者がいたずらに自分を責めることにならないという点が長所と言える。つまり人間関係がうまく行かないとしても、「私が悪い」からではなく、win-win 状況の把握が間違っている、計算違いをしている、ということになる。これは過剰に自責の念に駆られなくてもいい、ということでもあるが、同時に人間関係において独りよがりも許されないということになる。
さてこのような原則はことごとく患者の人生にも当てはまる。患者の話を聞いていると、その人生上の様々な問題、特に対人関係について問題を抱えている方が多い。そこで患者の対人関係を考える上で、どこかにwin-winの原則に従っていない部分があるのではないかという観点から患者と一緒に検討を進めていく。非常に多くの場合、患者は自分がwin しすぎである一方、相手がwinしているものがあるのかについて、その見当すらしていないことが多い。あるいは相手にwin させすぎて自分自身がちっともその関係から得るものがなかったりする。
 Win-win 状況を作るということは、実はある程度の対人観察能力を必要としている。自分とのかかわりで、相手は何を求め、何を得ているのか。満足をしているのか、それとも不満に思っているのか。患者がこれを探ることを援助するのは、心理士のもっとも重要な仕事の一つとなる。

アドバイス その2. 「自らにとって快感なものを人は信じる」という原則に立つ

人はこれこそ自分が信じるもの、というものを持つことが多い。福原愛さんにとっては、それは卓球だろう。五嶋みどりさんにとってはバイオリンに違いない。故小此木啓吾先生にとってはフロイト流の精神分析だったはずだ。また中には「自分から酒を取ったら何も残らない」、という人もいるかもしれない。
心理療法を行なう上で大切なのは、人はそれぞれ自分の好みや癖や習慣を有するだけでなく、ある種のbelief に支配されているということである。Belief を日本語にすると、つい「信条」とか、「信仰」、という堅苦しい表現になるが、要するに自分にとって「これだ!」と思ったり感じたりできることである。そしてそのbelief に沿う形で広がっていく思考、行動のパターン全体がbelief systemというわけだ。それは自らの報酬系にフィットした一定の考え方、感じ方の複合体であり、それが報酬系を刺激する限りは、人はそこから容易に動こうとはしない。
 そのような人が「どうしてそのようなbelief に固執するのですか?」と尋ねられた場合には、何らかの理屈を口にするかもしれない。しかしもちろんそれは理屈ではなくて口実に過ぎない。上ではアルコール依存の人の例を出したが、その人はアルコールを使用している自分を肯定できるようなbelief system を持っていることになる。その人にどうしてそんなbelief system を持っているのですか、と聞いても意味のある回答は得られないであろうし、仮にどんなに理不尽な回答が得られたとしても、それを論駁することで彼が酒を断つことにはならないだろう。報酬系とはそういうものなのだ。気持ちいいものが正しいもの、「これしかない」ものになってしまう、それほどに私たちは報酬系に支配される運命にあるのである。
しかし私はここで「心理療法家は患者がそれぞれ持っているbelief を変えることはできないから何をしても無駄である」と言おうとしているわけではない。「心理療法家は患者のbelief を受け入れるということからしか治療は始まらない」ということを主張しているのだ。すると次のような反論が来るだろう。「患者のbelief system は病理を含んでいるはずであり、それをそのまま受容することは治療に反するのではないか?」この点については、私はコフート的な回答を用意している。患者は治療者に、そのbelief を受け止めてくれることで理解されていると感じた地点から、そのbelief について同時に感じる問題点についても話すことが出来るのである。
例えば過食嘔吐がある人の気持ちを私はおそらく本当の意味では分からない。自分にその経験は事実上ないからである。でも私の目の前でそれを訴える人の話を聞きながら、そして過食嘔吐に苦しんでいる人と話した経験で補強しながら、それを受け入れようと努めるだろう。受け入れるのは過食嘔吐という問題だけではなく、それをその文脈の中に含むような患者のbelief system ということになる。そしてそれが基本的には快感原則に従うために、それを容易にやめることが出来ないという事実である。「それからどうするのか?」と人は問うかもしれないが、患者にとってはそのbelief system を理解されるという体験自体にすでに意味があったりするのだ。

アドバイス その3.「洞察」は快感原則に従った際に有益となる

前章の②でも述べたとおり、患者の脳の中で生じるネットワーク同士の連結という現象は基本的に報酬系を刺激するが、実はそれは伝統的な精神分析が目指すものに一致する。それがいわゆる「洞察」の獲得である。
そこで洞察を得るということはどういうことかについて改めて考える。それは非常にシンプルに考えた場合には、二つないしはそれ以上の異なる体験が同一だということを理解することである。ここでフロイトの「科学的心理学草稿」のidentification (同一視)という概念に注目したい。フロイトが脳科学に見せられていた時代に書いた本に多く出てくるこの同一視という概念。実はこれが洞察の基礎となった概念であると私は理解している。同一視とは「ああ、これはあれだったのだ」という現象である。「これはどこかで見たことがある」でもいい。「この味覚は、過去のあの時の感覚と同じなのだ」という形をとることもあるだろう。これがまさにネットワーク同士の連結という現象である。
おそらく同一視のもっとも原初的なものは、「この人は昨日の人と同じだ」というものである。その原型は母親像だ。人に慣れ、甘え、その前で自分を出す相手は、いつも同じでなくてはならない。いつも同じような笑顔、同じようなしぐさ。同じような語り口調。これがその対象との安定した愛着を生む。その人と出会うと、脳の多くの部分が一斉につながって「鳴り」出し、その人と一体化する。そして心地よくリラックスした気分になれる。この体験があると、それから先に出会うひとの中にも、母親を見出すことになるだろう。これもまた同一視である。
子供が行う最も高度な同一視とは、母親に起きていることと、自分に起きていることは同じだという同一視である。ミラーニューロンのテーマと同じ話だとご理解いただきたい。共感、ということでもある。精神療法とはいわば、これらの同一視を縦横無尽に行うことと定義して差し支えない。そして同一視の最も重要な局面は、ミラーニューロン機能を先取りして、自分の中に起きていることは、きっと対象(治療者)にも起きているかもしれない、と思えることである。見えない相手に対する配慮、ということが出来るだろうか。
さてネットワークがつながること自体は快感原則に従い、心地よい体験のはずである。しかし・・・・
精神療法はまたつらい体験でもあると考えられている。自分自身についての洞察を得ることは、時には厳しい現実との直面化や、抑圧していた外傷の想起を余儀なくされることになる。これはつながることは快感、という私の主張と一見矛盾するようである。しかしこれは洞察するという現象の両面性を表しているものと考えるべきであろう。あることを理解すること、それ自身に快楽的な部分がある。ただしそれが認めることに苦しさを体験するような事実であったとする。それ自身は苦痛な部分と言えるだろう。
たとえばある患者が友人がどうして自分から敬遠されているかがわからずに苦労をしているとする。治療を進めていくうちに、その患者が友人に対して言った言葉がその友人を傷つけたという理解を得たとしよう。その患者は、一つ腑に落ちたことになり、それ自身には心地よさを感じるかもしれないが、それは同時につらい自責感を生むかもしれないのである。
私は洞察的な治療をつらく感じることのもう一つの理由は、洞察という概念を狭く取り、患者の問題についての洞察ということに限定しすぎているからではないかと思う。それが前提になると、患者の連想が、夢の内容が、失策行為がことごとく患者が気がついていない問題を反映しているという方向になりかねない。洞察イコール「ダメ出し」、という事が起きてしまうのだ。これではつらいだろう。むしろ洞察はあらゆることに向かうべきである。自分と他者との間に起きていること。治療者との間に起きていること。世間をにぎわしているさまざまな出来事。それらの間につながりを見つけていく作業を手助けするのが心理療法家本来の仕事だと考えるべきだろう。
最後に重要なアドバイスを忘れるところだった。治療者は患者が同一視することが出来るように、一定の、変らない自分を常に持っていなくてはならない。自分らしさ、と言うことだ。予想不可能な行動や言動は、少なくとも治療場面では慎まなくてはならない。その上で始めて柔軟さが意味を持つのである。

あれ、これで一まずお終いだ・・・・

2012年10月27日土曜日

第15章 報酬系と日常生活  (3)

⑤ 快楽的でない愛他性は原則的には快楽的である

愛他性は、私たちが持つ貴重な性質だ。ある意味では人としての価値は、どれだけ愛他性を発揮できるかということにかかっていると言っていいだろう。なぜなら愛他的な人はそれだけ他者の幸せに貢献できるのだから。これほどわかりやすい「人としての価値」の見極め方はないだろう。
 愛他性について多くの人が誤解しているのは、愛他性とは自らを犠牲にして他者に貢献する、という捉え方だ。しかしこれは正確ではない。愛他性とは、他人の快、不快が自分の快、不快と同期化するような性質だ。脳科学的には、報酬系が愛他性を発揮すべき相手と同期化しているということだ。もし相手の快が、自分にとって苦痛な体験の上に成り立つとしたら、一見自己犠牲的な行動に出ることはあるが、それはそれにより相手の得る快(したがって自分も体験する快)がそれに勝るのであれば構わないという判断を下しているにすぎない。
 他人の快、不快が、自分の快、不快と同期化すると言ったが、ここを間違ってはいけない。他人の快、不快と自分の不快、快の同期化、ではない。これでは逆である。これだと羨望が強い、あるいは極端な自己愛をもった人間ということになってしまう。でもこういう人も結構いるものである。
 他人の快、不快が自分のそれと同期化するというのは、ある意味では幸せな性格である。楽しみつつ人を幸せに出来るのだから。ただし愛他的な人はそれだけ不幸を体験しやすいともいえる。他人の不幸もまたわがことのように感じられてしまうからである。
 私たちは普通は愛他性を病理としては捉えない。愛他性は自我心理学的には「最も成熟したレベルの防衛機制」ということになる。ある種の適応的な性質として考えているのであるから、愛他的な行為が無意味にその人自身を傷つけたり滅ぼしたりしては元も子もない。愛他的な人が愛他的な行為を続けるためには、その人が元気で生きていなくてはならないのである。となると結局その人が「愛他的な行為を楽しむ」という形でしか愛他性は発揮できないのである。 
 
それにもしある種の愛他的な行為がその人の身体の損傷とか痛みをともなうとしたら、それさえも快楽的に感じられないことになり、それを行うモティベーションは継続できないだろう。するとこれは病的なマゾヒズムということになってしまう。
 ちなみに私たちはリストカット等の例で、自傷行為が快楽的な要素を持ちうることを知っているが、通常はそのような行為に「それにより他者を救う、癒す」という視点は入ってこない。もうその行為に浸ってしまい、他人どころではなくなってしまうのだ。
 さて私は愛他性は快楽的だ、という言い方をしているが、子どもを持つ親ならば、これはより身近に経験されるだろう。きょうだいの間でもそれはいくらでも起きるだろうし、恋愛対象に対してもそうだ。もちろん愛他感情だけがそれらの関係を支配するわけではない、ということは言うまでもない。しかし愛他感情はいろいろな関係性の中に時々チラ、チラ、と現れて、そこに癒しをもたらしてくれる。ある人はこんな体験を話した。
「ぶらぶら買い物をしていて、どこかの店に立ち寄り、何かの商品を目にしたとき、嬉しくなりました。その瞬間、それを買って帰り、夫にプレゼントして喜ぶ顔を想像しているからです。」
 これを読んで、「なーんだ、自分も楽しんでるじゃない。どこが愛他性なの?」という人は愛他性を誤解している、ということは最初に述べた。プレゼントを実際買うかは別として、互いにある程度はこのような体験をしていることが、その関係に癒しと潤いをもたらしている。贈り物をすることを好む人は、儀礼を重んじる事の他にもシンプルな愛他性の表現を行っていることが多い。受け取るという行為にも愛他性が含まれることだってあるだろう。徒然草に兼好法師が述べているではないか。「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには・・・・・」

⑥ 反復は基本的には快楽である 
 この⑥は性質②「過去の体験の反復と新奇さの微妙なバランス」の一部を取り出して強  調したものだ。繰り返されてきた刺激は多くの場合、それだけでも快感の源泉になる。特に今現在も繰り返されている、という点がポイントである。住み慣れた家の使い慣れたベッドと枕の感触。それがことさら不快感を生む原因が生じたというのでなければ、あるいは新しい刺激に興味をそそられない限りは、基本的には快感につながる。ただし決まったパターンを何らかの形で変更しなくてはならないような外的な必要が生じ、不本意ながら用いた代替物に慣れてしまうと、「どうしてあんなものを毎日続けていたのだろう?」と感じるということがある。こうして贔屓にする持ち物、道具、習慣などは徐々にシフトしていくものだ。
 私の場合は例えばかつて、ワープロで文章を作成する際のフォントといえば、HG丸ゴシックMPRO を常に用いていた。論文を書くにも、スライドを作るにも、それを使う。それが快感だった。でもある時別の人の用いるフォーマットに文章を合わせる必要が生じ、仕方なくHG正楷書体-PROを使っていたら、今度はこれにはまってしまっている。ゴシックMPROを使っていたときの快感は、まさにそれを使っていたから得られていた、ということが出来るのだろう。
 ②でも述べたとおり、同じことを続けたいというこのプレッシャーは、外的な理由や、新奇なもの、というもう一つの種類の快感によりピリオドが打たれ、移り変わっていくものである。そしてもちろん慣れによる不快感、すなわち「飽き」という現象もかかわってくる。どうして反復による快が、そのうち逓減したり、不快に移行したりするのかについては、よくわからない。反復することの危険性を知らせるための安全装置だろうか?確かに同じものばかり食べていると健康を害しやすいということもあるだろう。この二つの要素があるからこそ、人は同じことを一生繰り返さないで済む。
あのイチローが例の黒いバットを使わなくなるとしたら、余程のことがあるだろうが、ありえないわけではない。極度の打撃不振に陥り、偶然握った白バットでヒットが生まれると、きっとヒットが続く限りは使ってみよう、ということになるかもしれない。そうするともうクロバットには見向きもしなくなることもあるだろう。
反復の快楽。これがあるから人はこうも変わらないのだ。



 私の患者さんに非常に、手先の器用な男性Aさんがいた。某有名時計会社で、長年修理技師をしていたAさんは、引退したのちも年金暮らしをしながら仕事をもらい、持ち込まれた時計のうち、在職中の技師が治すことのできない難物をただで自宅で修理し、若い技術者を驚かせながら時間を過ごした。しかし不幸なことに時計のデジタル化とともに仕事がなくなり、彼の楽しい日々は去り、その後は空虚な日々を過ごすことになり、うつ病を発症してしまった。
 Aさんの不幸なところは、時計を直すという、彼にとっては非常に楽しい作業が、その注文がなくなるという外的な条件に翻弄され、目の前から消えてしまったことである。もしその作業が誰に左右されることもないものであり、それに熱中できるのであれば、さらにはそれにより生計を立てることができるなら、これほど幸せなことはないであろう。その意味で創作にかかわることのできる人生は、人間が人生を持続的に燃焼させ、最も快楽的に送ることのできる人生といえる。
 もちろん創作にかかわり続けることで人生を終えることはできない場合が多い。創作したものはたいがいは売り物にならない。また創作を続けるためには材料に金がかかるかもしれない。(指輪職人、などという例を考えればいいだろうか?)創作したものを置く場所がないということもある(捨てられた割りばしを飲食店からもらってきて束ねて固め、それを削って創作をするおじさんをテレビで見たことがある。「作品」はもちろん飛ぶように売れる、ということはなく、もらってくれる人の数も限られているだろう。「作品」に埋漏れていく御主人の部屋を眺めていた奥さんの複雑な表情が忘れられない。)
 さらには創作するためには体が動かなくてはならない(石像作りを創作する人は、材料費はあまりかからないだろうが、ハンマーを振れなくなったおしまいだろう)。ユーミンのように出せばヒットするようなCDを気長に作り続けるような人生は、だから最高といえるのだ。
 実はひそかな私の趣味は「本づくり」だが、これは実はすごい追い風が吹いている。書いたものが原稿用紙の束として置き場所を求める時代は過ぎた。電子化すればよい。鉛筆やペンを握る力がなくなっても、キーが打てれば大丈夫だ。そうして書いた駄作を出版してくれるような出版社を探す努力も、これからはあまり要らないかもしれない。ただの自費出版である「E出版」がある。実に恐ろしいことだ。半身不随になっても、寝たきりになっても、パソコン(スマートフォン?)さえあればこの趣味を続けることができる。
ところでネットを散歩していたら、この上なく幸せな人を見つけた。創作の材料は何と鉛筆。カッターナイフや縫い針が材料。作品が場所をとることは決してない。それは鉛筆の先の大きさにすぎないからだ。そしてその作品の素晴らしいこと。

やっぱりいつ見てもすごいや
ブラジル出身の米国在住のダルトン・ゲッティDalton Ghettiさんのことをご存じだろうか?本業は大工であるという彼はこの作業を、一説では裸眼で行うというのだ。私が一番感心したのは、上の「のこ切り」。私は彼はこの世で一番幸せな人の一人ではないかと思う。題材は無限。材料はタダ。使う体力はごく少ない。しかも作品が占めるスペースもごくわずか。あとは気力と忍耐力、そして創造性だけで人生を楽しむことができる。これほど幸せな人はいるだろうか。

 行動の完結そのものに快感がある
 もし私が食事を開始したら、よほど途中で満腹になったり、何かの理由で急に食欲を失ったりしない限りはそれを終わらすことに専念するだろう。また映画館に入り、始めた映画鑑賞を、残り5分を残して中断して出てきてしまう人も珍しい。何らかの文脈で自分の名前を書き始めて、途中でやめるということなどあるだろうか? 皿に盛られた食品を全て食べないと必要なカロリーを摂取できないから、映画の最後のシーンに秘密を解く鍵が隠されているから、書きかけの署名は用をなさないから、という理由以上に、私たちはものを完結させたいという欲求から、それらを最後までやり通す。完結それ自体が快楽的だからだ。だから私たちはあまり面白くない仕事でも、やり始めたら最期まで続けるのである。やり始めるまでは散々迷っても、いったん始めたとしたら、それを完結したいという欲求が突然増すとしか言いようがない。
 ゲシュタルト心理学は、このような人間の性質に注目した学問であるといえよう。全体としてまとまったものがドイツ語でいうゲシュタルト(Gestalt)だが、それを試行するという人間の脳の性質に注目した心理学がこのゲシュタルト心理学である。
 さてこれと深く関係しているのが、解離理論における「離散行動モデル」であると私は考える。人はどうして異なる自己状態を有する傾向にあるのか?どうしてスイッチングを起こすのか。それは行動がひとつの完結を見ることで次に移るような間隙が生まれるからであろう。

2012年10月26日金曜日

第15章 報酬系と日常生活 (2)



報酬系が刺激される条件

最後に日常生活で活躍する私たちの報酬系の性質について、いくつか述べる。
       過去の体験の反復と新奇さの微妙なバランス
私たちは繰り返し体験することにより自分の脳になじんできて、しかしまだ新鮮さが残っているようなものに一番快感を味わう傾向にある。これについて早速例をあげよう。
 私たちはよほど音楽的な才能に恵まれていない限りは、初めて聞く楽曲に心を動かされることは少ない。たいてい何度か聞いて、サビの部分のメロディーを覚え始めるあたりから、その曲が気になるようになる。楽曲はおそらく2030回くらい聞いたころが旬になる。一番感動する時期だ。涙を流すこともある。このころは、曲が半ば頭に再生可能で、しかし細かい部分はまだ不確定な状態だ。つまり十分に慣れてはいずに、その曲の新奇さが残っている状態だ。そのうち聞き飽き始める。かなり聞き飽きそうになったら、半年くらい「寝かせておく」とまた感動がよみがえってくる。しかし再び聞いても、飽きるのも早くなってくる。ということで私は好きな曲はなるべく聞かないようにしているのが得策だ。

 ちなみに数年前に北山修氏のラジオ番組に呼んでいただいた時に、私は次のような話をした。
  曲を好きになることと、恋愛とは似ている。少しずつ親しみが増し、でも慣れ切っていないような相手が一番「好きな」相手なのだ。曲の場合はその状態でとめておくことができる。しばらく聞かないでおいて、たとえば一年に一度だけ聞く、という風にして堪能するのである。ところが恋愛の場合はそうもいかない。飽きないように何年も「寝かせておく」わけにはいかない。相手もこちらもどんどん「古く」なってしまうからだ・・・・。

 とにかく慣れと新奇さのバランス、である。言い方を変えれば、全く自分の血肉化して、新鮮さのないものは、私たちを惹き付けることはない。完全に知ってしまえばおしまい、ということだ。これは人に当てはまるだろうか?性的な意味ではそうかもしれない。しかし人間として、という意味であれば異なる。人は毎日姿を変え、新鮮でいられることができるからである。

② ネットトワーク間の連結が報酬系を刺激する
私たちは、わかった!という体験を大概は心地よく感じる。よほど不幸なことが「わかった」という状況ではない限りである。そしてわかる、という体験とは、ある思考や感覚記憶ともう一つの思考や感覚記憶が繋がった状態なのだ。映画や推理小説でも、話が展開していくうちに、前に出てきた伏線となるシーンが思い出され、「ああ、あそこがこう繋がっているんだ。」と感じることがある。たいがいはこれは快感を生む。このことは、「わかりかけてわからない」という体験に対して私たちが持つ不快感や不全感が間接的に示していることだ。私たちはみな「わかりたい病」にかかっていると言えるが、実はわかる、ということは生命の維持にとって大切なことでもある。
 では思考や記憶どうしが「繋がる」という体験とは、脳科学的にはどういうことか? それはわかりやすく言えば、脳波の活動が「同期化」することである。心理学の実験で、二つの異なる棒A,Bをスクリーン上で動かすと、視覚野で、ABに相当する別々の部分が興奮するということが確かめられる。そしてそれらの相は、バラバラなはずだ。何しろ別々の体験だからである。ところが二つの棒は実は連動していて、その細い連結部分Cが覆いで隠されていたために、それらは別々のものとして認識されていたとしよう。そこでその覆いを取り去ると、被検者は、A,Bは一つの全体の別々の部分であるとみなすようになる。するとA,Bに相当する視覚野の二つの部分は、相変わらず興奮し、その細い連動部分Cに相当する部分も興奮を見せるのだが、以前と違うところはA,Bに相当する部分は同期化している。つまりサインカーブの相が一致していることになる。相が一致している体験は、一つの繋がった体験なのだ。
 生物の脳はおそらくこのとき大部分は快感を覚える。それは彼らの自己保存本能に合致するからだ。全体をわかること、一部の動きから全体を知ること、それは敵から身を守るために必要なことだからだ。サバンナの草むらで、ライオンが身体の大部分を隠している。頭と尾の一部だけが別々に見えているとしよう。それを見ただけでライオンの全体を把握する能力のあるシマウマは生存の可能性が高くなるだろう。だからその種の能力は、快感原則的に保証されている必要がある。人間が物事を「わかる」能力も同様だ。では一番大きな「つながり」を脳が実現したらどうだろうか? ABCDEFも・・・・・みながひとつであるという体験。それは一種の悟りの境地に近く、宇宙といったいとなった状態といっていい。それは狂気のきびすを接していて、同時に・・・・カイカンでもあ
る。それが特殊な薬物で得られるとしたら、ちょっと手放せなくなるだろう。実際薬物によるエクスタシーがある種の忘我の境地や悟りに近い心境に導くのは、偽りの手順で生じた脳波の同期化に関係していると考えられるのだ。

 痛みや苦痛刺激が快楽に変換されることもあるから、ややこしい。性的マゾヒズムもそうであるし、精神的なマゾヒズムもそれに当てはまる。(マゾヒズムを、性的sexual、精神的 moral に分けたのはフロイトだったが、これはわかりやすい分類だ。) 
 私にはまったくわからない世界だが、鞭にうたれて気持ちがよくなってしまう人がいる。その場合痛み刺激は「入力」としての意味しか持たず、あるいは痛みとしてと同時に快感中枢も刺激することで気持ち良くなる。なぜかは誰も分かっていないが、「誰に鞭打たれているか」という認知が関与しているということは、前頭葉からのインプットが大きな役割を果たしている。鞭打ってくれるのが、若いお姉さんだからいいのであり、ふと見たら、髭面のお腹の出たおじさんが自分に鞭打っているとしたら、気持ちイイどころが腹がたつだろう。このように快感は精神的な影響がそのまま即物的な快楽につながる。その場合快感はほとんど性的な性質を帯びる。
 精神的なマゾヒズムの場合、さらに複雑な性質を持つ。精神的な意味での苦労(鞭打ちみたいな即物的な痛み刺激ではなく)が快につながるからだ。ただしこれも性的なマゾヒズムと似ていて、「ある現象」が起きていることになる。それは、痛み刺激が、快感中枢にも同時に信号を送るという現象が起きるということだ。


この④は「第15章 報酬系と日常生活」で述べたことと事実上同じであるが、ここで改めて強調したい。なぜならこのこの性質は人間の持つ性(さが)とに関連しているからだ。それは自分たちが持っていることに決して感謝することが出来ず、持っていないことの不幸ばかり文句を言うということである。私たちはABCを持っていても、それを持つことに感謝するのではなく、DEFをもっていないことを悔やみ、自分が不幸である根拠とする。それはABCを持つことの快感はもう既に体験し終えているからだ。私たちが自分の持てるものを感謝する能力があれば、どれだけ幸せになれることだろう。私はただ富雄先生の「寡黙なる巨人」という書のことを忘れられない。かつて脳梗塞に襲われた彼は、「ものを飲み込む事ができる」人がとてつもなく幸運であると感じられる境遇になってしまった。(さっそうと世界を飛び回っていた彼は、68歳のその日から、ひとりで歩くことも出来ないだけでなく、一匙の水にも「溺れて」しまうようになったのだ。)それも人生なのである。人の幸せはまったくの相対的なものである事がわかる。人は失った瞬間から、それを持っている人を羨み、持っていた時の自分に戻ることを熱望する。
この④を少し変化させたものとして、人から与え続けられる恩恵は時とともに快楽的要素のほとんどを失う」というものを付け加えたい。これが典型的な形で見られるのは、やはりなんといっても親子の関係だろう。親は成人した子に、自立するまでは生活費を援助するのが普通だ。子はそれを当然のものとし、特に恩に感じることもない(ように見うけられる)ことがしばしばである。不幸なのは、恩を与えている側がそれを自分の当然なすべきことと割り切っているうちはいいが、時には「どうして感謝されるべきことをしていて、当たり前と思われるのだろう? 電話一つよこさないとはケシカラン!」となる場合だ。しかし④が人間の報酬系に備わった性質である限り、これは致し方ないことなのだ。子どもをけしからんと怒っている親だって、実は自分の親に対して多かれすくなかれ似たような忘恩行為をしているものである。(実は私のことだ。)
 もちろんこの性質は親子関係に限らない。配偶者の一方が他方に与える恩恵も、国家が国民に与える恩恵も同じである。ただ親子関係が一番例としてわかりやすいのだ。
この④の恐ろしい点は、恩恵を与える側は、感謝されないだけでなく、その恩恵を与えることを中止した際には明白な怒りや恨みを向けられるということである。
このような現象が起きる原因はすでに述べたとおりだ。自分がすでに得たものは快楽ではない。快楽とは、自分の持っているものの、時間微分値がプラスの場合である。得たときにしか心地よくない。
 さて恩恵を与えていた側が恨みを買うといった不幸が生じないためには、彼が感謝を一切期待しないという覚悟をするしかない。あるいはその恩恵を与える行為を一切止めてしまうことだ。マア、当たり前といわれればそれまでだが。
 大体援助を継続している側は、たいてい一度は援助を止めてしまいたいと考えるものだ。しかしそれはなかなか出来ないことである。それはそうすることへの後ろめたさ、あるいは恩恵を受ける側からの恨みの大きさへの恐れからである。それほど援助される側の「当たり前感」は大きいのだ。ただしそれを思い切って行ったとしても、それは本人が思ったほどには、極悪非道のことには思えない。そう、援助する側が勝手にうらまれることを恐れているに過ぎない。
 ただし親子の関係には、もう一つ深層があると思う。それは出生をめぐる親の後ろめたさ、あるいは負債の感覚だ。生まれたばかりの子どもを胸に抱いた親は、その子が独り立ちするまで面倒を見ることは当然だと思うだろう。それは一方的に(まさにそうである)断りもなく(これもその通り)この世に送り出した親としては当然のことと思うだろう。
親は身勝手な行為の結果として子を世に送る。その時点で子供にまったく罪はない。すると子に降りかかるすべての不幸は、親の責任ということになる。これは考え出すと実に恐ろしいことだ。そうやって人類は生命を受け継いできたのだ、実は自分自身も親の勝手な行為の結果だ、ということを忘れても、この感覚を持ち続ける親は多いように思う。特に日本の親についてそれはいえるのだ。

2012年10月25日木曜日

第15章 報酬系と日常生活 (1)

精神的な不快の本質

私たちが体験する精神的な苦痛の本質的な部分は何か? それはすでに獲得したものの喪失のプロセスで体験されるものである。いいかえれば、これまでに味わった快楽の代償なのだ。もちろんそれ以外にも様々な不快や苦痛がある。身体的な痛みや病苦。空腹。これらの身体を基盤にした苦痛はここでは除外して考えよう。すると精神的な不快のかなりの部分は、私たちが実際に、あるいは空想上で喜びを持って獲得したものから派生しているのだ。
 人はいったん獲得したものには、あっけないほどにすぐに慣れてしまい、それが当たり前になってしまう。すると今度はそれを失うことが苦痛になる。もし獲得したものに当たり前にならない、ということが可能だとしたら、それを失うときの苦痛もごく少なくてすむ。要するに「これは何かの幻なのだ」とか「ダメもとなんだ」と自らにつぶやき続ければいいのだが、しかしそれが現実に起きることはまずない。それは通常は快を勝手に味わってしまう脳をコントロールできないからである。
  ただし物事の獲得に伴う快感は、一瞬のうちに生じるわけではない。おそらく脳が各瞬間に味わう快には上限がある。針が振り切れてしまうのだろう。(同様に苦痛にも限度がある。たいていは針が振り切れて以降は、意識が薄れていくものである。)そこで快の大部分を味わうためには、数時間~数日という時間が必要になる。ということは、喜びを感じた瞬間というのは、その獲得の事実に十分慣れてはいず、したがって失うものも多くはない。ノーベル賞を獲得したと告げられた科学者が、その一分後に誤報だと知らされても、おそらくそこにさほどの苦痛や落胆はあまりないだろう。それは快のホンの一部しか味わっていないからだ。しかし一昼夜過ぎてようやくうれしさに慣れてきたときに誤報だとわかる と …… 悲劇以外の何物でもない。こうして「ダメもと」の瞬間はたちまちすぎてしまい、獲得したことがすぐに当たり前になる。その瞬間から失うことへの不安や苦痛が始まる可能性がある。
 この章を準備しているのは2012年の夏であるが、先日のロンドンオリンピックのメダル獲得選手の祝賀パレードで、水泳の北島康介選手は少しさびしそうだった。最後には銀メダルも取れたのに、それを首に下げてもしょげているのだ。それは彼が過去の二大会で金メダルを4つも獲得しているからである。すると今回も、という自分自身の欲が出る。周囲も期待する。「メダルは取って当たり前」、になる。すると胸に銀メダルを下げることが出来ても、彼には苦痛を伴う喪失体験になってしまうのだ。そして同様のことは他のメダリストたちも多かれ少なかれ体験するのである。
 人生の上での「金メダル」を取ること、成功すること、それは嬉しいことだが、災いの元であるといっても過言ではない。将来の不幸をほぼ約束しているからだ。読者は思うかもしれない。「ダメもと」の感覚を維持する秘策はないのか?獲得したものを偶然の賜物、と思い続けていれば、それがなくなっても痛みを感じないのではないか? もちろんそうである。でもそれはある意味では人生を楽しまない、ということになってしまう。それは普通の人間には起きないことなのだ。楽しまないと決めても、脳はすでに楽しんでしまう…。ということでまた報酬系の話に繋がっていく。

報酬系と快、不快
 

 報酬系の働き方を思い出してみよう。レースに勝ち、金メダルを獲得したという時点で、ドーパミン作動性ニューロンのバースト信号はいやがおうでも生じる。トーン信号も上昇するはずだ。するとおそらくそれらの積分値が、将来失うものとして用意されることになる。まさに快を得た分不快を体験する。果たしてこれは避けられない運命なのだろうか? それを何とか防ぐことはできないのだろうか。
 もう少しドーパミンニューロンの動きを探ってみる。ここで縦軸に示すのは、そのトーン信号のつよさである。するとある種の獲得を体験し、喜びを感じた時のドーパミンニューロンのトーンは、こんな風に描ける。一時的に上昇し、また下降するわけだ。
 しかし話はこれでは終わらない。その先を時間軸上で追ってみると、普通はこんなことが起きている可能性が高い。
 



つまりこの曲線は、長い目で見たら、下のほうにも落ち込んでいる二双性なのである。ここでマイナスの部分に落ち込むのはなぜか。別に金メダルの一部がすり減って行くわけではない。しかし時間が経つにつれて、自分も金メダル当時の記録が出せなかったり、自分の記録が他の選手に更新されていったりするからだ。こうして金メダル選手としてのプライドが、少しずつ揺らいでいく。それに最初のころのドーパミン信号の上昇には、おそらく金メダルをもらったという事実だけでなく、それにより世間に騒がれ、周囲からちやほやされることの喜びも入っているだろう。しかしそのうち世間は新しいヒーローをもてはやすようになり、試合に出ても金メダリストとしてのプライドを保つような記録を出すことが出来ないということで少しずつこの喜びが目減りしていく。またいったんもらったメダルは誰かに奪われることはないが、将棋や囲碁などのタイトルは、次の年に奪われることで、今度は上向きの山の高さと同じ深さの谷(苦痛)を経験することになるのだ。この後半部分へのマイナス部分を伴わないドーパミンの上昇は普通あまり考えられないのだ。
 ここで体験される回ないし不快は、それぞれ上向きないし下向きのカーブの積分値(面積)で表すことが出来る。そして獲得による快が喪失による不快にすべて変わった場合には、両方の面積は等しいことになる。


 
ドーパミンの二双性のカーブは想像上の獲得でも起きうる

さてここから少し複雑な話になるが、この種の二双性のカーブは、実は想像上の獲得に関しても生じるのだ。上に出したのは金メダルの例だが、メダルだったら直接て渡されておしまいである。しかし私たちが日常生活で体験する獲得とは、その予定、ないしはその可能性という形で与えられる場合が多い。私たちは「~を獲得できそうである」という場合、それを想像の中で先取りするものだ。そしてそれが第一の上向きのカーブとなって体験される。それが後に実際に獲得できれば満足であるし、期待に反して獲得できなければ、その期待の分だけの苦痛を味わう。
 おそらく私たちが精神生活を営む上で一番いいのは、期待した分だけ獲得できるという生活である。たとえば狩猟生活を営んでいるなら、「今日の借りではうさぎを二羽くらいなら獲得できるだろう」と予想する。それでちょうど一家を支えることが出来る。実際に狩に出てウサギを二羽獲得できればそれでいい。満足して一日を終えることできるだろう。その時ドーパミンのカーブは基本的には一双性ということになる。後の失望によるマイナス部分がないからだ。しかしもし予想に反して一羽だけだったり、全く何も獲物がなかったら…。その分の失望や空腹による苦痛が待っている。下向きの二双目が待っているのだ。しかし仮に四羽採れたらそれでいいというわけでもないだろう。今度は次の日から、「明日も三羽、いや四羽取れるのではないか」という期待が高まり、それは大抵失望に終わるだろう。そしてその場合もカーブは二双性になり、これも苦痛なのだ。
 実は金メダルの例でも類似のことは起きていたのだ。オリンピックに出場する時点で、金メダルの可能性を予測し、期待する。今回は内村航平選手が体操の具体的な種目ごとに、金メダルを獲得できる予想をテレビカメラの前で語っていた。彼は最終的に取れるであろう金メダルの数を明言はしなかったが、仮に三つ取れるつもりでいた場合には、一つだけだったり、無冠で終わった場合には、二双性のカーブの後半部分はそれだけ大きくなり、苦痛もそれだけ大きくなるのだ。

 ドーパミンのカーブが二双性にならないことが精神の安定にとって大切であるとしたが、実はこれは私たちが日常生活で常に行なっていることである。報酬系の興奮とは、いわば私たちが一日を生きていく上で獲得するご褒美のようなものだ。報酬系が程良く刺激されることは、一日の生活が比較的心地よく送れることを意味する。私たちが仕事場や学校で時間を過ごす時、そこでの業務(勉強)や同僚(友達)との交流などを通じて、ある程度の楽しさを味わっているのがふつうである。いわばそれをあてにして日常を送っているようなところがある。もちろんあてにした分の報酬が得られる保証はなく、その多寡に応じてその日の気分が変わったりすることも多い。また一方で快の量が予想されれば、他方では苦痛分も予想される。これは日常生活を送る上で必然的に伴う苦痛であり、それを覚悟しつつ私たちは毎日を送っているわけだ。
 一日の快の総計と不快の総計は、大体の予想は可能でも様々な条件によりその量が左右されるが、自分自身でコントロールすることのできる快もある。その典型は、ゲームやパチンコ、酒、食事等、遊興や飲食に関わることである。これに関しては私たちはあまり譲りたいと思わないものだ。否、頑強に固執するものである。(自分の生活習慣を考えるとよくわかる。)
  それについて考えていくと、私たちの脳は、おそらく非常に精巧な計算を行なっていることに気がつく。それは一種の貸借対照表のようなものを作り上げていることになるのだ。それは例えば次のように働く。「今日は仕事を終えたらうちに帰ってビールを飲もう。確か冷蔵庫には缶ビールを二本冷やしているはずだ。」缶ビール二本、という量がとりあえずあなたを満足させる量であるなら、それを思い浮かべた時点で、ある種の満足が得られる。あなたが安心して帰宅できるのは、もうそのビール2本がすでに手中にあると思えているからだ。そしてそれはビールのことを考えていないときにも、常に脳の中に刻まれている。すると冷蔵庫を開けたときに、ビールが一本しか見当たらないときの失望もまた約束されているのである。
 脳の中の貸借対照表においては、これを「貸し」に記入してあるだろう。その記入はかなり正確で、例えばそのビールの銘柄まで、冷えている温度さえも記入されているだろう。そしてあなたはそのビールを飲むということを忘れて寝てしまうという可能性はかなり小さい。気になったテレビの番組を見るのを忘れても、友人からのメールに返事をするのを怠ったとしても、缶ビール二本は消費される。それにより貸しが返されることで、最終的にバランスシートはプラスマイナスゼロになり、あなたはゆっくり床につくことができるだろう。(もちろんパチンコで遊ぶこと、気になっていた番組を見ることが、日中から何度も頭を掠め、それを想像上で実現することで喜びを得るほどに重要であったら、もちろんそれらについても、対照表に大書きされ、その遂行に特別注意が払われることになるだろう。)
同じことは「借り」についても言える。例えば友人にメールの返信をすることが苦痛で、かつ必ず行なわなくてはならないことであるとしたら、その労働を行なうことについてはもうあきらめて、ビールに手を伸ばす前に済ますかもしれないし、のどの渇きを癒してからの一仕事として取っておくかもしれない。こちらはその「借り」を返すことでとりあえずは心のバランスを元に戻すことができるのだ。これについてもバランスシートは正確である。もしこの苦痛な仕事を忘れていたとしても、「何か一仕事が残っていたはずだ・・・」という感覚を持つということでその「借り」記載をあなたに教えてくれる。それを行なうことなく一日を終えることにどこか後ろめたさを覚えるのは、いわばこの対照表からのアラームなのである。

 

2012年10月24日水曜日

第14章 報酬系という宿命 その2 (3)


快の錬金術は前頭葉のなせる業である

先ほどの散歩の例で、それをもっぱら義務感から続けるという場合を考えた。あなたは「面倒くさいなあ」とか「本当はこんなことは必要ではないんじゃないか?」とか思いつつ、「でもこのままだとまた三日坊主になってしまうかもしれない。」と考え直していやいやスニーカーを履くという場合である。この種の義務感のみに従った行動というのはかなりの苦痛を伴うわけだが、少なくとも散歩を始めたひと月前はそうではなかった。「よし、これからは毎日一万歩歩くぞ」と新しいスニーカーを買いに走り、張り切って始めたのである。それはあるテレビ番組を見た翌日のことであった。その番組では生活習慣病について特集し、それを見ながらあなたはつくづく自分の炭水化物中心の食生活や運動不足が問題であると思い知らされた。そして番組でゲストの医師が言っていたように、「このままで行くと徐々にメタボリック症候群がひどくなり、やがて糖尿病や高血圧になり・・・・」と考えると不安と恐怖でいっぱいとなり、さっそく仕事から帰って30分の散歩を思い立ったのだ。
最初の23日は、あなたはその散歩に意欲的だった。「自分は健康にいいことを始めたのだ」、「メタボリック症候群に陥る危険を確実に回避しているのだ」と思うことが出来たからだ。しかしその意気込みは徐々に薄れていった。そしてひと月たった今は、散歩の時間が近づくと「メンドーだなあ」とため息をついているのである。しかしそれでも散歩を続けるのは、散歩から戻った時にある種の達成感が感じられること、そして「三日坊主にならずに済んだ」という安堵感があるからだ。これまでの議論から前者は快感であり、後者は不快の回避ということになることはおわかりだろう。
さてここでのテーマは、この散歩というルーチンを、より快楽的なものにするにはどうしたらいいか、ということだ。そこには想像力が関与している、と予告しておいた。それはどういうことか? 
 たとえばあなたがあれほどインパクトを受けたテレビの健康番組をいつも思い出し、あるいは録画をしたものを再生し、いかに今の食生活では自分の健康が損なわれていて、今すぐにでも生活習慣を変えなくてはならないのかをありありと感じ続けることが出来たらどうだろうか? あなたは自分の生活の不健康さを思うたびに、メタボリック症候群の恐ろしさを感じ、不安を新たにするだろう。すると毎日の散歩は、それに対する具体的な対策としての意味を、そのたびごとに感じさせるのではないか?
この種の想像力の使い方はそれなりに有効だろう。しかしそれにも限界があるし問題もある。日常の雑務に追われて番組のことを思い出すだけの精神的な余裕はないかもしれない。ビデオを何回も見る暇もないだろう。想像力を発揮する為には精神的なエネルギーを要するものなのだ。
 しかし人にはもう少し別の想像力の働かせ方もある。というかおそらく非常に多くの方は、以下の二番目の形での想像力を用いているはずである。それは「散歩をサボると三日坊主になる」という不快の回避部分を、一種の達成感に書き換えるための想像力だ。散歩を続けることの出来る自分をほめてあげる。大きな達成だと思い込む。こうして「不快の回避」の項目の値は減って、より純粋な快の部分が増えていく。これが「快の錬金術」と私が呼ぶものである。そうすることで散歩は「より楽しく」なる。努力の名人などと呼ばれる人たちは、大抵こういう錬金術を行っている。そしてその種の高度な想像力を発揮するのは、人間に特に発達した前頭前野である。
ところでこの種の錬金術は、私たち誰でもある程度はできる能力を持っている。それは私たちがある程度の喪失体験にはあきらめ、慣れることが出来るからだ。そうするとその喪失が埋められることを獲得として感じ取る。たとえばあなたが10万円入りの財布をなくしてしまったとしよう。どこかに落としたつもりになって、もう絶対出てこないと思っていたその財布が一週間後にソファーのクッションの隙間から出てきた時は、「やったー、10万円ゲット!」となるのである。散歩のルーチンについても、片手間にやるのではなく、自分の仕事と様なものとして受け入れることにより、苦痛度は減り、達成感へと変換するであろう。
ちなみにこのような変換を行えるためには、ある程度の精神の健全さが必要である。すくなくともうつや強迫を伴っていないということは大切だ。人間はある程度の心のエネルギーがあれば、「しなければならない」ことを、「しないと不安なこと」 → 「すると安心できること」 → 「すると喜びを感じられること」へと変えることはさほど困難ではない。特に「しなきゃいけない」ことがそれほど苦痛なことではなく、「めんどくさい」程度のことなら、いったんそれに集中すると案外スムーズにできたりする。するとその行動自体の快を増すこともできる。面倒くさい散歩も、歩き出したら案外楽しい、ということもあるだろう。そして歩き終わった後は「今日もルーチンをこなしていい気持だ」となる。しかしこの種の芸当が一切できなくなるのがうつ病なのだ。うつになると、普段面倒に感じていたことなどは、およそ実行不可能になる。初めても少しも楽しくない。集中力により乗り切る、という力も残されていないのだ。
強迫は強迫でこれまた厄介である。ある行動(強迫行為)をしないことの不安が、理由もなく、病的に襲ってくる。散歩の途中に目に入る電信柱を数えないと不安になり、それで疲弊してしまったりする。強迫は、まさに自分の生活にかかわる行動のことごとくが「しなきゃならない行動」になってしまう。その「しなきゃならない」リストには、自らの強迫が生み出したさまざまな行動の詳細が付け加わるからだ。
「不快の回避」の「快の獲得」への転換には、個人の工夫や創造性も発揮される。散歩をした後はカレンダーに大きな丸を付ける、でもいい。新しいシューズを買って、歩きながらその履き心地を楽しむ、でもいい。またそんなお金もなかったら、家族に自慢する、でもいい。(でも家族の誰もほめてくれないとあまり意味ないが。)仕方がなかったら自分をほめてあげる、でもいい。
このような能力を発揮しているのは、主として前頭葉である。特に後背側前頭前野(dorsolateral prefrontal cortex)は、将来にわたる行動のシミュレーションに携わる部位である。この部分は自分がある事柄をどのように実行していくかのタイムテーブルを作成することに貢献する。努力の天才のありかは、ここら辺にあるのだ。

快の錬金術の補足-快を新生する力
ところで「やらなきゃいけないこと」を「やって達成感!」に変えることは、快を生むことだ、と言ったが、これには補足が必要だ。なぜなら両方とも最初から快のリストに初めから乗っていたのではないか?ということはその総計は変わらないのに、快が新たに生まれる、とは詭弁ではないか、とも考えられるからだ。人は他人ないしは環境から何かを与えられることなく、自分から快を新生することなどできるのだろうか? ここのところを改めて考えてみたい。
つまりこうだ。最初はいやいやながら散歩を始める。その時は目の前に快がなかなか見えない。「メタボになるのが嫌だから、と昨日決めたから」とか「三日坊主になるのは嫌だから」という消極的な理由ばかりである。しかしこれも一応快のリストに載っている。不快のリストには山ほどある。かったるい。疲れる。足のウオノメが痛い。巻爪もズキズキする(新登場!)これだけの逆風で、よくも散歩が続けられるものである。しかしこんな感じで日常生活を送っている人は多い。仕事などもこんな感じかもしれない。
この散歩が少しでの快の要素を含んでいるとしたら、「ああ、今日はもう散歩をしなくてもいい」「今日のノルマは終わった。これから23時間は散歩から解放される」(よほど嫌いらしい)という安堵感なのである。でもそのうち人はこの散歩を楽しむようになることもあるのだ。ああ、今日も散歩がしたい。もちろんごく一部の人がこうなるのだが、ある程度の楽しみを感じられるようになる人は結構いるものである。これは大変なことなのか? それともアタリマエのことなのか?
そこに絡んでくるのが先ほど述べた忘却の力である。人は生きていくうえで多くの傷つきや、恥ずべき体験を持つ。それは大きな苦痛を伴う。しかしそれは通常は徐々に忘却されていく。不快はその一部が消失していくのだ。同様のことは快についても同じである。獲得した喜びは徐々に忘却される。そのうち当たり前のようになる。このような忘却の力はもろ刃の剣といえる。私たちを過去の辛い思い出によるストレスから守ってくれると同時に、不幸にもすると言えるだろう。つまり失ったものを再獲得する楽しみに変える力が与えられていると同時に、過去に自分を幸せな気分にしてくれたものが、あっという間に色あせてしまう、ということも起きてしまう。
散歩の例で言えば、健康診断の結果が思わしくなく、日課としての散歩が必要となったということ自身は不快体験であるが、それに慣れるに従い、今度は健康な体を取り返すことへの希望や喜びが大きくなる。
ここで先ほど問題になっている快の新生に戻ってみた場合、これは新生というよりは、実はかなりの部分が「忘却分」として説明できるのではないか、というのが私の主張である。私たちの人生の楽しみは、実はかなり過去に失ったものの痛みを忘却した分からなる。そしてもちろん同じことは苦痛についても言える。

2012年10月23日火曜日

第14章 報酬系という宿命 その2 (2)

「快感原則」と「不快原則」の間を埋める反射的、常同的、本能的な活動

以上、人や犬の行動を「快感原則」と「不快原則」の両方に支配されたものとして描いた。しかし心がこれらの二原則に支配されるのは、高等な生物に特徴的であるという事情もご理解いただけるだろう。なぜなら両原則とも実際には体験されていない快感や不快を査定ないし検出するために、それ相当の想像力を必要とするからである。下等動物ではこうは行かない。
   1章(報酬系という宿命 その1)で私はヒメマスのことを紹介した。ヒメマスの親は、産卵の後、一生懸命砂や小石を卵の受けにかけてその卵をカモフラージュするという。一見複雑な行動を見せるわけだが、それが自然に起きてしまうとしか考えられない。つまり親ヒメマスがひれをパタパタやっている時、一生懸命想像力を働かせ、「わが子が元気に孵ってくれますように。そのためには真心を込めて水を送ろう・・・」「ウーン、ここでやめちゃうと、自分は親ヒメマスとして失格だったと後でオチこむだろうな。・・・・あと3時間ぐらいは続けよう」などと考えることなどは絶対にありえないのだ。彼らは自動的に、無意識的に、常同的にひれのパタパタを行なう。それはすでに一つの回路として脳の中にプログラムされている本能の一部というわけだ。そして下等動物では、この種の本能に基づく行為がそのかなりの部分を占めているのであろう。生物がある程度下等になるまでは、この本能的な行動が占める割合が増えるようだ。たとえばミツバチの作る社会やそこでのハチたちの仕事の文化の仕方はどうだろう?おそらくそこにはは引きこもりバチもサイコパスバチもいないだろう。人間よりはるかに優秀という気さえする。
 反対に生物が高等になるにつれて、この本脳による行動の間に出来た隙間を、自由意思による行動が埋めることになる。そしてそこでの主観的な体験に伴う快や不快が快楽原則や不快原則の天秤にかけられるようになるのだ。もちろん本能に従った行動それ自身がおそらく緩やかな快を伴っていることも想像できる。ひれをパタパタしているヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。本能に従った行動それ自身が緩やかな快を伴うのは、それはその本能的な行動が中止されないための仕組みと考えられる。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うためにそれ自身が大きな不快となりうるため、当然強烈な快に裏打ちされていなくてはならない。メスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。

   この事情は私たち人間にとっても変わらない。例えば人は決まった通勤路を歩いている時には、その行為について意識化していないことが多いが、おそらくはある種の快を伴っているのであろう。それは風邪などをひいて体調を崩しているときにはすぐに不快に転じるので、少し歩いては見ても、タクシーを止めたり、道に座り込んでしまいたくなったりするだろう。

「快感原則」と「不快原則」の綱引きの関係

「快感原則」と「不快原則」の関係性についてもう少し説明を続けよう。私たちが日常的に行う行為の大部分は、この両者が同時に関係しているといえる。私たちの行動のほとんどが、快楽的な要素と不快な要素を持つ。だから常に快感原則と不快原則の綱引きが起きている。第13章で論じた小脳の話を持ち込むのならば、最初はこの両原則に支配されて行われていた行動は、慣れるにしたがって一部は自動化され、反射的、常同的になり、小脳や大脳辺縁系を介して処理されるようになっていく。つまり快感原則に基づいた行動、不快原則に基づいた行動、常同的本能的な活動の要素は、通常は共存して行動を形成していることになる。
   健康のために自宅の周りを散歩する、という例を考えよう。散歩で小一時間汗を流すのは気持ちいいが、同時にめんどうくさい、という部分も伴うだろう。空模様が怪しかったり、ムシ暑かったり、逆に肌をさす風が冷たい日などは特に「私は何のためにこんなことをやっているんだろう?」と思うこともあるだろう。しかしあなたがその散歩の途中で「やーめた」と道に座り込んだりせずにそれを継続する場合、それは散歩が現実原則に則っている(つまり「快感原則」>「不快原則」となっている)からだということになる。
 この例における快にはどのようなものがあるのか? それをリストアップしてみよう。歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるだろう。それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。つまり快は、即時的な部分と、遅延している部分により成り立っている。ただし「今日のルーチンの35パーセントは達成できた」などと考えることができる人の場合には、歩いている間にもそのパーセンテージが上がるのであるから、遅延部分は即時的な部分と事実上あまり変わらなくなるだろう。
 では不快はどうだろうか? 天候がすぐれない時や体調が悪い時などは、歩いている各瞬間が苦痛となるであろう。こちらの方はほとんど即時的なものくらいしか思いつかない。遅延した不快体験というのはこの場合あまり考えられないからだ。「この散歩を終えたら、将来何か悪いことが起きる」などということは考えにくいし。
 さてこの散歩がルーチン化していったならば、それは半ば無意識化され、自動的なものになる。仕事から帰るといつの間にか散歩用のスポーツ着になり、歩き出している、などのことが生じる。その時はいちいちそれが快か不快かを問うことなく、その行動が自然と起きてしまう。ただしその行動がマイルドな形で快を与えることが、その継続にとっては重要であるということはすでにみたとおりだ。

 散歩の例は、快が即時的なものと将来の先取り分という複雑な構造を持ち、不快の方は即時的なものだけだったが、逆の例を考えることも容易である。たとえば喫煙。こちらは快はもっぱら即時的だ。「こうやって煙草を毎日吸っているのは辛いが、将来きっといいことがある」なんてことはあり得ない。ただしおいしそうなタバコのカートンを手に入れて家に帰ってから吸おうと家路を急ぐ時の快は、遅延部分といえるだろう。
 今度は不快の方のリストだが、これは複雑だ。即時的なものとして「まずい、煙い」などといいながら吸い続けるということもあるのだろうか? 私は吸ったことがないのでわからない。しかし「これ喫っていると、どんどん肺が真っ黒になっているんだろうな」とか「肺がんや膀胱がんに確実になりやすくなるだろうな。オソロシイ」などの考えは起きるだろう。これは将来の苦痛を先取りしたものといえなくもない。


「快感原則」と「不快原則」と「不快の回避」との関係

ところでこの快感原則や不快原則との綱引きの関係についての議論を読んでいる読者は一つ気が付くことがあるかもしれない。それは知る人ぞ知るウォーコップ・安永の提言である「すべての行動は、快の追求と、不快の回避の混淆状態である」との違いだ。この提言は英国の不思議な学者ウォーコップが示した人間観を日本の精神医学者安永浩博士が集約したものだが、それと「快楽原則」と「不快原則」との関係はどうなっているのか。この問題についても触れておきたい。
   本章でウォーコップ・安永の理論に含みこむ余裕はないが、彼らの理論を一言で言えば人間の行動は必ず、それをしたい部分と、しなくてはいけないのでやっている、という部分がまじりあっているということだ。彼らは前者を「生きる行動」と「死・回避行動」と名付けている。この観察は私たちの日常生活に照らせばかなり妥当である。というよりそうでないという場合を見つけることが難しい。先ほどの散歩の例で言えば、歩いていることそのものの快感と、それをいわば義務感に駆られてやっているという部分がある。義務感に駆られているというのは、それを「しない」ことが後ろめたさや罪悪感を生むからである。死・回避行動とはそれを少し極端な形で言い表したものなのだ。
   このことを先ほどの快感原則と不快原則の議論に引き付ければどうか?「死・回避」の部分は、実は不快原則とは似て非なるものだということがわかる。「死・回避行動」の場合、それは散歩を継続するという方向に働くが、不快原則の場合はそれは散歩をやめる方向に綱を引くことになる。前者は、「散歩は苦痛な部分があるが続けよ」であるのに対し、後者は「散歩は苦痛だからやめよ」と当人に働きかけるだろうからだ。すると両者はまったく別のものなのか?
   ここで一つ種明かしをすると、実はこれまで「快感原則」、つまり気持ちいいことはやる、としていたところに、「不快の回避」というファクターも含めていたのである。不快の回避はしばしば安堵感を生むので、それも快感としてカウントしてしまおう、ということだったのだ。確かに両者は区別しにくいところもある。しかし厳密に言えば、不安の回避と快感を一緒にするわけには行かない。
   たとえば散歩の例を思い出そう。そこで快感のリストに挙げられるものとして次のように述べた。 歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるだろう。それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。ホラ、快のリストに実は「不快の回避」が含まれていたではないか。「今日もルーチンをこなした」というのは、一種の義務を自分に課して、それを遂行したということを意味する。それは散歩をしないことにより生ずるさまざまな健康上の問題を考えることの苦痛や不安を回避するという意味を持っていたのだ。
 考えてみればこのお預けの行動を分析する際に、最初から不快の回避をしっかり数え入れておくべきであった。というのも私たちの行動のかなりの部分は、この不快の回避としての要素を非常に多く持っているのだ。いやいやながらする勉強、不承不承に通う職場などを考えればそれは明らかであろう。それに何しろまったく快の要素がなく、「不快の回避」だけの行動というのもいくらでもあるからだ。たとえば犬がムチをもって追いかけてくる人から必死になって逃げているという場合などはそうだろう。

  ところで「すべての行為は快の追及と不快の回避の二つの要素からなる」という提言には、誤ってはいないものの、ちょっとしたトリックがある。これは一種のトートロジーなのだ。少し説明しよう。
 ある行為を行うということは、「その行為を行わないという行為を行わないこと」でもある。先ほどの犬のお預けの例では、お預けをする、とは「えさに突進するという行為を行わないこと」でもある。するとある行為の快のリストには、その行為をしないことによる不快を回避すること、という項目は必然的に含まれることになる。アタリマエだ。それが「不快の回避」の正体であったのだ。では私はどうしてこれを快の追求と同じものとして扱ってきたのか?それはしばしば不快の回避が快の追求に変質するからである。そしてそこに再び登場するのが私たちの想像力なのだ。私たちの想像力が、不快の回避から新たな快を生むことが出来る。それをちょっと奇をてらった言い方ではあるが「快の錬金術」と称して、次の章で論じよう。

2012年10月22日月曜日

第14章 報酬系という宿命 その2 (1)


快感原則について
  報酬系については、この「続・脳科学と心の臨床」の最初の章(第1章 報酬系という宿命)である程度論じたが、その続きは先延ばしにしておいた。なぜなら報酬系というテーマは非常に重要ではあるものの、読者にとっては必ずしも十分な関心を持たれていない可能性がからだ。そこで残りの議論はいわば付録のような位置づけをしたかったのである。
  まず第1章で論じた内容を簡単におさらいしたい。そこでは人は究極的に快感中枢の刺激を求めている、というテーマについて論じた。人は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。それは私たちにとって一種の宿命なのだ。では何が人の快感中枢を刺激するかということが、実はきわめて込み入っているのである。私たちが何を美味しいと感じ、どんな曲に心を動かされ、どのような絵画を美しいと感じるか、は人により千差万別で、その選択は偶発的で、そこに具体的な理由らしきものが見つからない場合が大半なのだ。
  人は自らの報酬系を刺激するものを求めて動く、つまり快感を求めて行動するという仮説に立った原則を「快感原則」と呼ぼう。これは精神分析のフロイトが論じた快感原則pleasure principleとだいたい一致している。すでにみたように、報酬系を興奮させるものは、食べ物やセックスや薬物などの体験だけではない。愛着や自己達成などの精神的な満足体験も同様である。だから人が快感原則に従うと言っても、人間がそれだけ刹那的で享楽的であるということを意味するわけではない。
 ただしこの快感原則ということを考えた場合、いくつかの疑問がすぐに湧く。人は快感のみに生きているわけではない。かなり快感を我慢し、先延ばしし、あるいは苦痛にも耐えているではないか。そもそも快感を遅延(先延ばし)できるという能力は非常に重要である。もしそれが出来ないとしたら、人は即座に快感を味わうことにのみ走り、計画的に物事を行うことが一切出来なくなるあろう。この問題を快感原則だけから説明できるのだろうか?
 この問題に関して、第1章では、次のような論じ方をした。決め手は想像力である、と。人はまだ得ていない快楽を今得ていることを想像することで、現在の苦痛を切り抜ける。たとえば砂漠の向こうにオアシスがあることがわかっている場合は、水でのどを潤している自分を想像することが、そのために炎天下を何時間も歩く動因となる。このような過程を支えているのが、ドーパミン系のニューロンの興奮の仕組みである。ドーパミンニューロンの興奮には二つのパターンがあることはすでに示した。一つはトーン信号、もう一つはバースト信号である。バースト信号は、短時間で一気に見られ、実際に水を目の前にしたときも、砂漠の先にオアシスがあることを知った時も、あるいは水を飲むことを想像しても生じる。このようにバースト信号による報酬系の示す反応は、実際の快だけではなく、快の予想に関して反応する仕組みであると考えられているのである。リアルな想像によりバースト信号が生じさせ、いわば快感の味見をさせてもらえるということが、「これを実際に獲得したい」という気持ちにさせるのだ。

「不快原則」も必要になる
  このように快を先取りする際の想像力の重要性について触れたが、それでは苦痛に耐える際の私たちの行動はどのように説明されるべきであろうか?実はこちらの方は多少なりとも厄介である。結論から言えば私たちは快感原則だけではなく、不快原則と呼ぶべきものも想定しなくてはならなくなるのだ。このことを以下の例から説明しよう。
   ユーチューブに掲載されたある映像で、犬の「お預け」のシーンを見たが、これが非常に印象深かった。20匹ほどの犬が、自分たちの前にある複数の餌の入ったボールを前にして、ムチを持った飼い主の合図を待っている。ある犬はすでによだれをダラダラ流している。大抵の犬は居ても立っても居られない、とジタバタしながら、でも決してボールに口を近づけようとはしない。もしそんなことをしたら、飼い主のムチが飛んでくることをよく知っているからだ。(もちろんそのように調教してあるのである。)そして犬たちは、飼い主の合図により一斉に餌のボールに突進する。これを一匹の犬ではなく、それを20匹以上の犬が行うから壮観である。人間ではなく、動物が見せる快の遅延である。
 ここで犬たちの快感中枢で起きていることを見てみよう。目の前に餌のボールを出された時点で、快感を評価する想像力が働き、ドーパミン作動性のニューロンのバースト信号が生じる。「やった、これから餌だ!」という感激である。これはすでに見たとおりだ。しかしこのバーストはすぐ止む。感激そのものはいつまでも続かないからだ。
 ところでこの状況で犬が査定を繰り返すのは、餌を実際に食べているときの快感ばかりではない。そんなことをしたら飼い主にムチ打たれることを犬たちは良く知っている。それを想像した「イタい、コワい!」感もあるだろう。この不快の方をも査定しているのだ。両者を比べて後者の方が凌駕しているから犬は「お預け」を選択するのだろう。もし逆の関係なら・・・・ムチが身体に食い込む苦痛に耐えながらも餌に食らいつくことになるのだ。ということは犬の脳内には、そして人間の脳内には、将来の不快を評価するだけの想像力も存在することになる。犬は許可なしに餌に食いついた際の快感も、ムチで打たれた際の苦痛も、かなり正確に予測することが出来る。それにより自らの行動を律していることになる。とすると先ほど述べた快感原則の意味は少し変わってくることになろう。私たちはすでに「人は自らの報酬系を刺激するものを求めて動く、つまり快感を求めて行動する」という原則を快感原則と呼んだのであった。しかし実際にはいかに報酬系を刺激するとしてもそれに向かわない行動もある。その行動が同時に伴う不快や苦痛を想像し、それが快感を上回った場合である。先ほどの犬の例では、鞭打たれた場合に感じるであろうと苦痛が、餌に食いつくときに体験するであろう快感を上回った場合である。するとここで私たちはもう一つの原則を考えざるを得なくなる。それが「不快原則」ということになる。やはりこの二つを考えなくては理屈に合わなくなるのである。
 この様に快感も不快も、それを実際に体験する前に、想像力によってその大きさを査定する必要があるが、そのためにはそれなりの知能レベルが備わっていなければならないことになる。だからたとえば爬虫類のイグアナに「お預け」はむりだろう。餌に食らいついたときの快感も、鞭打たれる苦しみも、その脳幹レベルのみの脳ではありありと想像できなくてはならないのだ。しかし実はイグアナは知覚にキャベツを見つけてそこまで這って行くくらいの苦労は厭わないだろう。(イグアナは草食だそうである。)それはイグアナなりに想像力を働かせた満足体験の遅延ではないか? たぶんそうではないだろう。餌とみなされるものが目に入った時に、そこに接近するという行動自体がもう脳にプログラムされている。それを第1章では、本能的、ないしは反射的な行動として理解したのであった。

快感原則+不快原則=現実原則
 最後にもう一度まとめてみよう。人(犬)は常に、次の瞬間にある行動を選択した場合の快と、不快を別々に想像して査定し、比べている。そしてその絶対値の大きい方を選択しているのだ。目の前の餌に突進するという行動は、それによる快と、不快を比べた上で、例えば不快の方が大きい、という判断のもとに抑制される。査定の結果が逆だったら餌に突進することになる。もちろん査定が間違っていることはある。するとその時点で行動は方向転換することになる。そしてこのような仕組みを支えているのが、快感原則と不快原則なのだ。そして場合によっては後者が優勢に働いている場合もある。実際に快を遅延しているというよりは、常に不快を回避し続けているような行動もある。先ほどの犬の例も、近い将来の報酬を見つめて我慢しているというよりは、各瞬間に鞭を打たれることを回避しながら、刹那的に生きているにすぎないのであろう。だから餌を前にした犬たちは、今にも突進しそうな衝動と戦っているために、あのように居ても立ってもいられない様子を示すのだ。
  人が快感原則と不快原則の両方に支配され、どちらか優勢な方に従うという原則を何と呼ぶべきだろうか? もうこれは「現実原則」としか言いようがない。そしてこれもフロイトが使った概念である。ちなみにイグアナは快の遅延が出来ず、お預けも無理だろうという話だったが、ちょっと誤魔化しがあった。イグアナだってお預けは出来るであろう。目の前のキャベツの向こうに、天敵のカラスの姿が見えたら、それが去ってしまわない限り、「お預け」にならざるを得ないだろう。それがイグアナの日常における「現実」だ。おそらくこの種の現実原則に非常に適応しているから、これらの生物は生き残っているのである。

2012年10月21日日曜日

第13章 小脳はどこに行った?(2)

小脳は単なるコンピューターか?

ところで小脳についてその心との関連を知ろうと論文を読んでも、すぐわからなくなり、眠くなる。たいてい理科系バリバリのコンピューターが得意そうな先生が書いているから、すぐ機械論的な記述や情報処理、ないしは学習理論の話になってしまう。それだけに全体像が見えにくく、心との関連もつかみにくい。
 しかし小脳は脳の高次の機能にもつながっているということがわかりつつある。そもそも小脳が大脳の容積の増大に従ってしっかり大きくなっている、つまり進化しているということがそれを示唆している。そして小脳の出力を探ると、運動野や運動前野(運動の計画、指令を出すところ)だけでなく、頭頂野、前頭前野にも至っていることがわかる。ということはかなり高次の脳機能にも影響を与えていることになるではないか。ということで一気に結論に行けば、フレッド・レヴィンという先生の「心の地図―精神分析学と神経科学の交差点」という本の話になる。
フレッド・M. レヴィン (), 竹友安彦 (監修), Fred M. Levin (原著), 西川隆 (翻訳), 水田一郎 (翻訳) 心の地図―精神分析学と神経科学の交差点」ミネルヴァ書房、2000年。)
  彼は小脳の働きについての大胆な仮説を出しているが、それを一言で言えば、中枢神経系を統合し、その協調を行っているのは、小脳ではないか、ということだ。これまで心の座とは大脳の前頭前野、そこへの感覚入力を統合しているのは頭頂連合野、一方無意識を形成しているのは右脳、など、結局は大脳半球ばかりを問題にしていたのだ。まさに心にとっては「小脳はどこに行った?」状態だったのである。しかしレヴィン先生はそうではない、という。(ちなみに彼は数年前に来日し、日本の精神分析協会で講演を行ったこともある。私もその場にいたが、彼にとっても日本は、伊藤正男先生つながりでなじみが深いとのことだった。)
  精神分析家でもあるレヴィン先生は、脳科学の心への応用を常に考えている。その彼が言うには、小脳が脳全体の活動の統合や協調をになっているという考えは、伊藤先生の師匠であるエクルズEccles が持っていたという。体の運動のバランスだけではなく、心の働きにも、協調や統合が必要であり、そこには小脳の「計算能力」が深く関与しているというのだ。繰り返すが、小脳は巨大なデータ処理システム、と言ってもいいのだ。
   レヴィン先生の説で特に興味深いのは、小脳が、左右の脳半球のバランスを取っているという説だ。この事はクラインとアルミタージという学者たちの1979年の説に由来する。彼らによれば、右と左の大脳半球の活動は「反比例」であるという。つまり両方が同時に、というよりは一時的にどちらかに偏る、ということを常に行っている、つまり大脳は一種のシーソーのような活動であるというのだ。すると「今、この情報を処理するためには、どちらの脳が必要か」を判断してコメントする役割を担う部分が必要となる。それが小脳であるという。
   ここで示された大脳の活動は面白い。カヌーをこぐような形なのだ。つまりオールの右をかいて、左をかいて、を交互にしているような感じ。それが両手にオールを持って漕ぐ手漕ぎボート異なるところだ。少なくとも脳の活動はカヌータイプであり、そこでどちらをかくかのバランスを取っているのが、小脳であるという。