2018年6月30日土曜日

SP 論文書き直し 3


1. Theoretical review regarding SPs

The nature and characteristic of SPs have been described and discussed by major authors. In his classical work, Kluft (1984) already mentioned aggressive and destructive parts often observed in DID patients. Frank Putnam, in his classification of different “alter personalities”, mentioned “persecutor personalities” which sabotages the patient’s life and may inflict injury upon the body and can be suicidal. As for its origin, Putnam states that "introjects" of the original abuser(s); others have evolved from original helper personalities into current persecutors”. Putnam also describes that that personality “strikes a contemptuous or condescending attitude toward the therapist and often actively seek undermine treatment”. Ross (1997) also mentions “persecutor personalities” which he describes as “often responsible for suicide attempts, "accident”s, self-destructive and self-defeating behavior, and outwardly directed aggression as well”. “They often present as tough, uncaring, and scornful, but this is usually just a front for an unhappy, lonely, rejected-self-identity”.
Kluft, R. P. (1984). An introduction to Multiple Personality Disorder. 
Psychiatric Annals, 14(1), 19-24.
Putnam, F.W. (1989) Diagnosis and Treatment of Multiple Personality Disorder. The Guilford Press, New York
Ross, C.A.(1997) Dissociative Identity Disorder. Diagnosis, Clinical Features, and
Treatment of Multiple Personality Second Edition. John Wiley and Sons, New York

2018年6月29日金曜日

SP論文 書き直し 2

SP論文とは、「shadowy personality 影のような人格、黒幕人格」という概念について英語でまとめているものであるが、書き直しが必要になった。以下は追加、ないし書き直しの部分。

 ところで shadow ということでユングの「影」を思い起こす。ところがそのユングがまさにDIDについて記載しているという論文がある。そこに影のような人格 shadow-like personalities という記載まであるのだ! 以下がその引用である。一世紀前に彼は同様のことを考えていたことになる。Noll という学者の論文から。

 ”The shadow is violently represented by the frequent presence of ‘persecutor’ alternate personalities. These persecutors torment the afflicted individual, often committing acts of internal violence toward other personalities, violence toward other people (including homicide), or attempting self-mutilating or suicidal actions towards the ‘host’ body. Sometimes -reflecting the strong resurgence of the archetypal strata- these shadow-like personalities actually claim to be demons or the Devil himself. These persecutors compulsively repeat the painful abuses suffered at the hands of adults by the victimized child, forever recreating the initial sadistic situation that splintered the young mind into a multitude of identities”.  

R.Noll. (1989) Multiple Personality, Dissociation, and C.G.Jung’s Complex Theory. Journal of Analytic Psychology 1989, 34, 353-370. 

2018年6月28日木曜日

SP 論文書き直し 1

In the other state she hallucinated and was ‘naughty’—that is to say, she was abusive, used to throw the cushions at people, so far as the contractures at various times allowed, tore buttons off her bedclothes and linen with those of her fingers which she could move, and so on.
Fräulein Anna O, Case Histories from Studies on Hysteria. Josef Breuer (1895, p.24)

   Dissociative identity disorder (DID) is no longer considered a rare condition. In some studies, its prevalence among the general population is estimated to be around 1–3% (Johnson, Cohen, Kasen, & Brook, 2006; Murphy, 1994; Ross, 1991), which gives many psychiatrists and psychotherapists the opportunity to be in contact with patients with this condition in their clinical settings, whether they are aware of it or not.
   While treating patients with DID, clinicians often encounter a type of personality state or “alternative personality” displaying negative emotion such as aggressiveness or self-destructiveness. These personality states are typically difficult to identify or locate in the patient’s mind, but nonetheless, they occupy the patients mind as they feel their existence is overshadowed and threatened by these personality states as they are often unpredictable and largely unknowable.
   Although this type of personality state was described or referred to by multiple authors, I would like to single out this type of personality and tentatively call it “shadowy personalities” (SPs) and discuss in this paper somewhat in detail, and try to delineate the clinical significance of this notion.
  The surname “SP” has been started to be used rather spontaneously in my clinical practice, both by my patients and therapists involved in their treatment. Actually this
is often how the patients describe them—namely, that they are not easy to grasp and often take the form of a shadow or grayish figure.

2018年6月27日水曜日

解離の本 31


妊娠と出産について

DIDを呈して受診する患者さんの多くは十代、二十代の女性であり、パートナーや配偶者を得て妊娠や出産を経験する機会が訪れることも少なくありません。解離の治療が進み、それぞれの人格が安定を取り戻した場合に、妊娠、出産を考える場合も少なくありません。あるいは実際に幼な子を抱えつつ治療を行う場合もあります。その際に一番多く聞かれるのが、「自分はこの子を脅かすのではないか、傷つけるのではないか」という懸念です。彼女たちの懸念は理解できるものです。実際に彼女たちの「黒幕人格」が過去に物を破壊したり、他人を脅かしたりするということが生じた場合は、その懸念は重大なものとなります。
DIDの患者さんを多く扱ってきた経験から言えることは、幸い母親が子供にあからさまな危害を加えたというエピソードを聞いたことがないということです。母親の本能として、自分の幼な子を傷つけないということは深く刷り込まれているようで、実際にそれが生じることには様々な抑止が働くようです。ただし母親が人格交代を起こし、黒幕的な振る舞いをすることを、子供が目撃することは起きえます。特に幼児がやがて物心つくようになり、母親の様々な人格に接するようになると、「お母さんが悪いことをしている」と認識することもあるようです。
 私たちは「子供を持っていいでしょうか?」という問いに対して、お子さんに対して傷つけるのではないかという懸念をDIDの患者さんは一般に過剰にもちすぎる傾向があるようです。」と伝え、彼女たちの反応を見ることにします。また子供を持つ際にパートナーや配偶者の協力は絶対欠かせないため、両者の関係性を見たうえで総合的な判断を伝えることがあります。
          
        (臨床例:略)

2018年6月26日火曜日

解離の本 30


2-3.中期~後期の課題
次に中期から後期の治療における課題について述べましょう。
 人格の交代が目まぐるしく起きなくなると、患者さんの日常生活は、一見穏やかになります。治療が進んだ際の特徴の一つは、主たる人格が様々な感情を徐々に体験し、ないし表現できるようになることです。それまでは怒りや恐怖、憎しみや嫌悪といったネガティブな感情を持てないでいた主人格が、徐々にそれらの感情を持てるようになります。ただしもちろんそこには個人差が生じ、主人格はあい変わらずそれらの感情を別人格に託すことも少なくありません。ですからその意味ではこの中期-後期の治療過程に進む患者さんのスピードにはかなり個人差があると言えます。
 さてこれまで別人格が引き受けていた不安や葛藤を主人格が直接体験することになると、それまでとは質の異なる抑うつ感や無力感に襲われるようになります。トラウマそのものがもたらす苦しみから解放された分、自分という存在を連続して体感することに違和感や疲れを覚えるようにもなります。この時期にも何かのきっかけで交代人格が現れることはあり、自分が何者であるのかという患者の問いは続きます。それらの違和感に患者さんが慣れてきた頃には、治療は個人の心理療法の様相を帯びるようになり、治療者も一人の人物と継続して関わっていると感じるようになります。
 患者さんは次第に現実を客観的に把握できるようになり、それゆえの悩みも増えていきます。結果として、就職、結婚、子育てなどライフスタイルの新しい局面を迎えることもあります。それらの経験が患者の心のまとまりを促し、全人格的な成長を遂げることも少なくありません。さらに患者さんの変化を受けて家族や周囲との関わりも変化します。悩みの内容も普通の人と同じような日常的な困りごとへと移り進み、健康な人の日常生活に近づいていくのです。個人としての生活が整い、社会的に認められることで、最後まで残っていた交代人格が満足を得て消えていくこともあります。

2018年6月25日月曜日

解離の本 29

2-2.トラウマに向かい合う

過去にトラウマを体験している患者との治療は、時には困難を有します。性被害にあった女性患者に男性恐怖の症状が現れ、暴力を受けた患者が体の痛みを覚えるなど、当時の体験に直接関連する症状の訴えは少なくありません。治療中のセッションでフラッシュバックが起こり、パニックに陥ることもあります。その多くは恐怖感を伴う体験であり、怒り・悲しみ・嫌悪など多様な負の感情が賦活されるのです。加害者が親兄弟や恋人など親密な対象であれば、その傷つき体験は一層複雑なものとなります。相手に対する愛着や思慕の感覚と相反する恐怖や怒りの感情は両価的であり、ひとつの心に収まりきらず、重篤な解離の結果として心理的な解体や断片化が生じます。フェレンツィは近親姦の事例において、出来事の後の加害者の矛盾した振る舞いが患者を一層混乱させ、加害者の罪悪感の取り入れが起きると解説しています。加害者側の強い否認により、出来事の責任が自分自身にあるように患者さんは錯覚しやすくなります。深刻な被害の体験は、こうして他者および自分自身に対する基本的な信頼感を破壊します。
DIDの症状に向き合い、様々な人格との接触を試みることは、事実上その患者さんの持つ過去のトラウマの記憶を扱うことになります。なぜならそれぞれの人格は、独自の過去を背負っていて、あるいは体で表しているからです。遊びを求めて出てくる子供の人格も、甘えたい、遊びたい、でもそれが表現できないという幼少時の体験を担っているといえます。また泣き叫び、恐怖におびえる子供の人格は、まさに幼少時の何らかのトラウマをプレイバックし続けているかのようです。

2018年6月24日日曜日

解離の本 28



主要メンバーとの出会い-患者さんの世界で何が起きているのか

治療が開始され、治療関係が形成されていった段階で、一体患者さんの世界で何が起きているのかを把握する必要があります。どのような主要メンバーがいて、いつどのような状況で人格の交代が起きているのか。どの人格のどのような振る舞いに問題が生じているのか。これは従来言われていたマッピングとは異なり、患者さんの中に存在する主要メンバーの動きを大まかに知るというプロセスです。
たとえばAさんが職場での仕事を担当し、比較的安定していたが、職場での上司とのトラブルからBさんという子供人格が時々出るようになってしまう。更にはAさんは過去に自殺未遂や自傷行為を引き起こす人格Cが存在するが、しばらくは姿を見せずにいる、という状況を考えよう。ここではA,B,Cという主要人格が登場していることになります。もちろんこれ以外にも時々登場する冷静な人格D、更に幼少な人格Eが存在することが明らかになるかもしれないが、今起きている問題にかかわっている人は主として、A,B,Cさんということになります。そこでセラピストとしては、これらの人々とあって話す必要が在ります。
ただしそうは言っても、たとえばCさんと出会うことは簡単にはできないでしょうし、それを急ぐことは場合によっては治療的といえない可能性も在ります。もちろん激しい行動化を繰り返す人格と接触できれば、治療の進展につながりやすくなります。特定の人格が度々自分自身を傷つけ他者への攻撃をやめない場合は、それが主人格の自覚できない情動を排出するための行動化である可能性もあります。行動する人格と感情を表現する人格が別れていることもあれば、状況全体を俯瞰する人格が存在することもあるでしょう。それぞれの人格の特徴と果たす役割を理解し、人格間の関係性を整理するマッピングを行えば、全体像を把握するのに役立ちます。


2018年6月23日土曜日

解離の本 27


2-1.初期から中期の課題

解離性障害の治療が始ある、とはどういうことでしょうか? 実は解離性障害はその診断が、精神科通院歴の早くから下されていることも少なくありません。しかしそこでそれに特化した心理療法が始まらない場合には、治療が始まったとは言えません。解離性障害の治療は、解離症状の存在、特に異なる人格状態の存在を治療者がしっかり把握し、それを前提としたかかわりを持つ治療者と出会い、定期的なセッションを持つことで初めて開始されるということが言えます。このような治療者を「解離をわきまえた治療者」と表現することにしましょう。
「解離をわきまえた」治療者と普通の治療者とはどこが違うのでしょうか? それは患者さんの立場から考えた場合によりわかりやすくなります。治療者が解離をわきまえている場合、中の人格たちは、その治療者の前に姿を現す機会を与えられたという気持ちになります。普段は自分が出るとおかしな目で見られるから、とか演技と思われる、とか、一人の人格として扱ってもらえないという懸念もあり出られなかった人格が、顔をのぞかせてみようという気持ちになります。もちろんそれは強制ではありません。その治療者に義理立てして、挨拶をしに出る必要はありません。いつまでもなかでうとうとしている方を選ぶ人格もいるでしょう。しかしこの先生なら自分のことをわかってくれるかもしれない、という気を起こさせるようなスタンスや物腰が必要とされるのが、「解離をわきまえた」治療者ということになります。その治療者との出会いが、あり、初めて治療初期に入るといえるでしょう。
解離の治療を始めた患者さんにとって必要なことは、自分が意識化し、あるいは覚えている以外の自分の生活はどのようになっているかについて、目を向けることです。それは次のような前提を受け入れることから始まります。それは解離性障害の人格たちは「連帯責任」を取る必要があるということです。解離性障害の患者さんの特徴の一つとして、ほかの人格の振る舞いに対して、しばしば傍観者的になったり、「他人事扱い」することが挙げられます。例えばメールなどでも、別人格に来たと思われるメールはスルーしてしまったり、関心を持たなかったりということがよくあります。しかしそれでは不都合な場合があります。治療初期に患者さんが直面するのは、別人格はたとえ他人でも、周囲も、社会もそうは扱ってくれない、というある意味では厳しく、理不尽な現実です。Aさんにとっては、別人格Bさんの起こした振る舞いについて責任が問われるということは現実に起きます。もちろんBさんの行ったことに対してAさんは全く、あるいはほとんど覚えていないとすれば、その責任を取らされることにはAさんは不満を覚えて当然ですし、確かに理屈に合わないことでしょう。ただし現在の法律では異なる人格の振る舞いに対して、それぞれの人格に責任を負わせるような法体系は出来ていません。そして「連帯責任」を取らされるという現実がある以上は、それに対応するためにも、ほかの人格の振る舞いを知ることは実はとても大事になります。

2018年6月22日金曜日

です、ます、を「だ、である」調に変えた

16章 治療的柔構造の発展形精神療法の「強度」のスペクトラム
はじめに
フロイトは一世紀以上前に、週6回の精神分析を始めた。それ以来週に頻回のセッションは精神分析療法のゆるぎないスタンダードになった。現在でも我が国の精神分析協会は週4回以上(さすがにフロイトのように週6回とまでは行かないが)の高頻度でのセッション以外は正式な精神分析とは認定しない。ただしそれでも週4回はかなりの高頻度である。しかも期間は年単位である。実際にこの頻度を維持するためには、分析家と患者の双方がそれ相応の生活スタイルを作りあげ、それを維持する必要がある。そして当然ながら、それが不可能な場合も多い。精神分析の頻度をもう少し下げられないのか? 治療期間を短くできないのか? 週一回というのは精神分析と呼んではいけないのか? そのような疑問は精神分析の一つの課題として当然持ち上がってくる。
週一度の精神分析、という当時としては大胆な発想を、それも1930年代に持ったのが、我が国の精神分析の草分け的存在であった古沢平作であった。1932年から33年にかけて古沢はウィーンに留学し、フロイトに直接面会をし、フロイトの弟子の Richard Sterba から教育分析を受けた。その後精神分析を持ち帰った古沢は、わが国で週一回の精神分析を始め、それが私たちの一つのスタンダードになったという経緯がある。
(以下略)

2018年6月21日木曜日

短いあとがき


あとがき

精神分析の世界の中で、いろいろな提案をし、論文や著書の形で世に問うという作業を重ねているうちにもう還暦をとうに超えてしまった。我ながらあっという間という気もするし、しかしこれまでの道程を思うと長かったとも思う。もし三十歳若返ることが可能で、また同じことをもう一度繰り返す機会を与えられるとしても、断固拒否したい。私はこれまで辿った道程にほぼほぼ満足しているし、あとどれほど時間が残されているかわからないが、これからも同じ方向を歩んでいきたい。
今後のあるべき精神分析の方向性を考える上で、最近出会った、いわゆる「多次元的アプローチ」の理論はそれを比較的うまく表現してくれていると感じる。ミック・クーパーとジョン・マクレオットによるこの理論(末武康弘、清水幹夫訳「心理臨床への多次元的アプローチ」岩崎学術出版社、2015年)は、様々な精神療法の理論を統合的にとらえ、人間の多様さを認めたうえで、様々な療法の中からベストなものを選択するという立場である。もちろんそこには精神分析療法も含まれるが、認知療法、行動療法、パースンセンタード療法など様々なものを含む。これは患者にベストなものを提供するという私の発想と同じである。まえがきにも書いたが、私の母国語は精神分析であることは間違いない。私はそれを通して多次元的なアプローチの精神を追求したいと思う。
そうはいっても私がこれまで主として依拠していたウィニコット理論や関係性理論から多次元的アプローチに宗旨替えしたというわけではない。有難いことに多次元的アプローチの出現により、私が考えていた精神が言葉になったというわけである。クライエントにとってベストなものを追求するために、母語である精神分析理論を使って、そのあるべき姿をこれから描いていきたいと考えている。
なお本書は例によって (以下略)          
改めて深くお礼を言いたい。


2018年6月20日水曜日

初出一覧を作った


1章 「小此木先生との思い出」(小此木先生没後10周年追悼式典(2014211日 明治記念館)にて発表)
2章 「共感と解釈」について  本当に解釈は必要なのか? (小寺セミナー、2017723) にて発表)
3章 解釈の未来形―共同注視の延長 (東京精神分析協会東京大会(2015612日)にて発表。)
4章 「転移解釈の意味するもの自我心理学の立場から」として「精神分析研究 2008年」のどこかの号に掲載された。
5章 不明
6章 「自己心理学における無意識のとらえ方と治療への応用」 最新精神医学 17 6 2012
7章 「精神医学からみた暴力」 児童心理 69(11), 909-921, 2015-08 金子書房
第8章 「対人恐怖-精神分析による理論と治療」 精神療法 37, 396-404, 2011
第9章 「自然消滅」としての終結 in 松木 邦裕 岡野 憲一郎その他編集(2016)心理療法における終結と中断 (京大心理臨床シリーズ) 創元社
10章 不明
11章 トラウマと精神分析 こころの科学 特集「トラウマ」、20129月号
12章 解離治療における心理教育 (前田正治、金吉晴偏:PTSDの伝え方トラウマ臨床と心理教育 誠信書房、2012年)
13章 転換・解離性障害(精神科治療学神科治療学25巻増刊号「今日の精神科治療ガイドライン」(星和書店、2010)
14章 ボーダーラインパーソナリティ障害を分析的に理解する 
医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害(こころの科学154号 境界性パーソナリティ障 害 岡崎祐士 (編集), 青木省三 (編集), 白波瀬丈一郎 (編集) 2010年 所収)
15章 柴山雅俊、松本雅彦編:解離の病理自己・世界・時代 岩崎学術出版社 2012
16章 治療的柔構造の発展形精神療法の「強度」のスペクトラム in 週一回サイコセラピー序説 創元社 2017年 所収 
17章 死生学としての森田療法(第31回日本森田療法学会 特別講演2)森田療法学会雑誌 第25巻第1号、p.1720(2014)
18章 認知療法との対話 in 現代のエスプリ特集(妙木浩之編)[自我心理学の現在]  
19章 精神療法の倫理 「臨床精神医学」第471月号 (2018)
20章 『臨床心理学』第17巻第4号(20177月)


2018年6月19日火曜日

2018年6月18日月曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 27


21章 精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?
            
本書の最後の章は、精神分析を学ぶ側の姿勢についての議論である。この章は2017年に精神分析学会で発表したのもの原稿をもとにしており、「です、ます」調で書かれたものなので、その形を保ったままでここに再録したい。
本日は、私自身が精神分析をどのように学んだか、というテーマでお話をしますが、このテーマを与えられた時にまず心に浮かんだのが、「学びほぐし」という言葉です。これは英語の unlearn の日本語訳ということになっていますが、「脱学習」、というよく使われる訳語とは別に、評論家の鶴見俊輔先生(2015年、93歳で没)がこれを「学びほぐし」という絶妙な日本語にしたという経緯があります。そしてこれが本日のテーマにぴったりという気がします。そこで「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマでお話ししたいと思います。

学びの最終段階は、必ず一人である
先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは三人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、先に講義した先生はすでに帰られていて、三人の講師が最後にそろって一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからのメールにどのように対処するかについて、講師Aの言うことと、講師Bの言うことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Bとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。私は私の講義で、「患者さんとの連絡用にメールを用いることがあるが、患者さんからのメールに返信するかどうかは、その緊急性に応じて決める」というような言い方をしたと思います(ちなみにここでは実際の例に多少変更を加えています)。そしてそれに対してA先生はかなり違った方針をお話したのでしょう。ただし私はA先生のお話を聞いていないので、私の想像の範囲を超えません。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、私にさほど後ろめたさはありませんでした。それよりもむしろ、Cさんの不満は、精神療法を学ぶ上で、非常に重要な点を私たちに考えさせてくれたと思います。それがこの unlearning というテーマです。CさんはたとえA先生の方針を最初に聞いて学習したとしても、あるいは私の話を聞いて学習したとしても、結局はどちらの内容に頼ることなく、自分ひとりでこの問題について判断しなくてはならないということです。Cさんは私からメールについて学んだとしても、あるいはA先生から学んだとしても、それを学びほぐさなくてはなりません。つまり自分一人で問い直し、自分一人で答えを出すという作業をしなくてはならないわけです。そしておそらくCさんはまだそのことを知らなかったのであろうということです。
もちろんCさんは他のことについてはたくさん学習をなさっていることと思いますし、その一部は学びほぐしていらっしゃるのでしょう。でもこの患者さんとのメールのやり取り、あるいは電話のやり取り、さらにはセッション外での患者さんとのコミュニケーションのあり方については、彼が一度学んだ後、学びほぐす類の問題であることをまだ自覚していないのだと思いました。

     (以下、とっても長くなるので省略)

2018年6月17日日曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 26

19章 精神分析と倫理

初出:精神療法の倫理 「臨床精神医学」第471月号(2018)

はじめに
精神分析療法における倫理の問題は極めて重要である。それは臨床家としての私達の活動の隅々にまで関係してくる。本章ではこの倫理の問題について論じたい。
まず倫理について考える素材として、簡単な事例を挙げることから始めたい。

ある夏の暑い日、汗だくになった30歳代の男性の患者が、心理療法のセッションに訪れた。彼は面談室に入るなり、近くのコンビニで買った二本のミネラルウォーターのペットボトルを袋から取り出して、・・・(以下省略)

このような反応は、特に駆け出しの治療者にはありがちであろう。そこで次のように問うてみよう。この治療者の行動は倫理的だったのだろうか? 
 もちろんこの問いに正解はないし、この治療者の行動の是非を論じることが本稿の目的でもない。ここで指摘しておきたいのは、この治療者の行動に関連した倫理性を問う際には、大きく分けて二つの考え方があり、その一方を治療者である私たちは忘れがちだということである。それらの二つとは、
    「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」という考えまたは原則に従った行動だったか?
     患者の気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
である。そして筆者が長年スーパービジョンを行った体験から感じるのは、このうちに関連した懸念が治療者の意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「治療者として正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく訓練途上にある治療者の頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告する際に、「それは治療者としてすべきではありませんね」と言われることを恐れているかもしれない。それはすなわち上のへの懸念を促すことになり、それに従った場合は、事例の治療者のように「面談室での飲食は禁止」という治療構造は守られるだろう。しかしそれは同時にを検討する機会を奪うことになりかねない。そしてその結果としてミネラルウォーターを拒まれた患者は、その好意を無視されていたたまれない気持ちになってしまう可能性も生じるのである。
(以下省略)

2018年6月16日土曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 25


第17章      分析家として認知療法と対話する
初出:認知療法との対話 現代のエスプリ特集(妙木浩之編)[自我心理学の現在]に所収  
本章では、精神分析から見た認知療法について論じる。はたして両者は全く異なるものなのか? 歩み寄りは可能なのか? このテーマは私がかつて「治療的柔構造」(岩崎学術出版社、2008年)という著書でいくつかの章にわたって問うた問題であるが、ここでその後10年を経た私の考えをまとめたい。

 「面談」はすべてを含みこんでいる

私は精神分析家であり、認知療法を専門とはしていないが、分析的な精神療法の過程で、あるいは精神科における「面談」の中で、患者と認知療法的な関わりを持っていると感じることがある。特に患者の日常的な心の動きを一コマ一コマ患者とともに追うことはそのようなプロセスであると認識している。
そこでまず、あまり問われていないが重要な問題について論じたい。精神科医が行う「面談」とはいったいなんだろうか? 医者が患者とあいさつを交わし「最近どうですか?」などと問う。患者はその時頭に浮かんだことや、あらかじめ用意しきてきたテーマについて話す。場合によってはそれが5分だったり、10分だったりする。これほど毎回行われる「面談」の行い方の教科書などあまり聞かないが、それはなぜだろうか?
この種の面談はもちろん精神科医の専売特許ではない。たとえば心理士との面接でも、特に構造を定めていないセッションでは、近況報告程度で終わってしまう場合も少なくないだろう。これも一種の「面談」の部類に属するといえる。
 「面談」の特徴は、基本的には無構造なことだろう。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談のような段階でこれが現れるかもしれない。しかしこれは単なる雑談とも違う。二人の人間が再会する最初のプロセスという意味では非常に重要である。相手の表情を見、感情を読みあう。そして精神的、身体的な状況を言葉で表現ないし把握しようと試みる・・・。ここには認知的なプロセスも、それ以外の様々な交流も生じている可能性がある。「面談」を精神医学や精神分析の教科書に著せないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。
私は数多くの「~療法」の素地は、基本的には「面談」の中に見つけられるものと考える。人間はそんな特別な療法などいくつも発見できないものだ。だから私は認知療法にしても精神分析にしても、互いにまったく独立した独特な治療法だとは考えない。

2018年6月15日金曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 24


第17章   死と精神分析 
初出:死生学としての森田療法(第31回日本森田療法学会 特別講演2)森田療法学会雑誌 第25巻第1号、p.1720 (2014)
 1.はじめに  受容ということ
 本章では「死と精神分析」というテーマを扱う。途中で森田療法やその創始者森田正馬についてしばしば言及しているが、それはもとになった論文が森田療法学会での発表原稿だからである。そのことをまずお断りしておきたい。
さて本章での私の主張を一言で表現するならば、精神分析や精神療法においては、どのような種類のものであっても、そこに治療者側の確固たる死生観が織り込まれているべきであろう、ということである。
まず最初に示したいのは、フロイトの次のような言葉である。

私が楽観主義者であるということは、ありえないことです。(しかし私は悲観主義者でもありません。)悲観主義者と違うところは、悪とか、馬鹿げたこととか、無意味なこととかに対しても心の準備が出来ているという点です。なぜなら、私はこれらのものを最初から、この世の構成要素の中に数えいれているからです。断念の術さえ心得れば、人生も結構楽しいものです。(下線は岡野による)』(フロイト:ルー・アンドレアス・サロメ宛書簡、1919年7月30日付)
このフロイトの手紙の最後の部分は、私が常々感じていることでもある。それはあきらめ、断念ということの重要さである。私は人間としても臨床家としても老齢期にあるが、この問題は年齢とともに重要さを増していると感じる。これは森田療法的にいえば、「とらわれ」の概念に深く関係しているといえる。
この諦め、諦念のテーマは、日常の臨床家としての体験にも深く関係している。日常臨床の中で私たちが受け入れなくてはならないのは、患者が望むとおりには、なかなかよくなっていかないということだろう。勿論時には明らかな改善を見せる人もいる。しかしたいがいの場合その改善には限界があり、多くの患者は残存する症状とともに生きていかざるを得ない。このことをどこかで受け入れない限り、患者はその苦しみを一生背負っていかなくてはならない。また臨床家としても、患者がこちらの望みどおりに治ってくれるとは限らないということをどこかで受け入れる必要があるのだ。

2018年6月14日木曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 23


「心の動かし方」の3つの留意点
さてミット打ちの比喩、症例A,Bと紹介してきました。そして私のいう「心の動かし方」は構造を内包している、という話をした。その心の動かし方について、いくつかの特徴を最後にまとめておこう。
1.バウンダリー上をさまよっているという感覚
一つは私はその内的構造を、いつもギリギリのところで、小さな逸脱を繰り返しながら保っているということだ。バウンダリーという見方をすれば、私はその上をいつもさまよっているのである。境界の塀の上を、どちらかに落ちそうになりながら、バランスを取って歩いている、と言ってもいいだろう。そしてそれがスリルの感覚や遊びの感覚や新奇さを生んでいると思うのだ。これは先ほどのミット打ちにもいえることだ。コーチがいつもそこにあるべきミットをヒュッとはずしてくる。あるいは攻撃してこないはずのミットが選手にアッパーカットを打つような素振りを見せる。すると選手は怒ったり不安になったり、「コーチ、冗談は止めてくださいよ」と笑ったりする。もちろんやりすぎは禁物ですが、おそらく適度なそれはミット打ちにある種の生きた感覚を与えるであろう。
あるいは実際のセッションで言えば、私はGさんに「まあ、どうぞどうぞ、お茶でも」と言って、ペットボトルのお茶を紙コップに入れて振舞う。こんなことは普通は精神科の外来では起きないので、Gさんは私が冗談でやっているのか本気なのかわからない。私が時々言うジョークにもその種の得体の知れなさがある。Bさんはそれに笑うことが出来て、「これは掛け合い漫才ですか?」といったりする。私とBさんはそんな関係を続けているわけですが、この種のバウンダリーのゆるさは、仕方なく起きてくると言うよりも、実は常に起きてしかるべきものであり、治療が死んでいないことの証だというのが私の考えである。
通常私たちは、この種のバウンダリーには極めて敏感である。欧米人なら、通常交し合うハグの中に、通常より強い力、長い時間、不自然な身体接触の生じている場所にはすぐに気がつくだろう。あるいはほんの僅かな身体接触はとてつもない意味を持ち、性的な意味を持つものは即座に感じ取られる。そしてそれはまたそれが生じる文脈に大きくかかわってくる。あるセッションの終わりに、治療者が始めて握手を求めてきたら、特別な意味が与えられるだろうが、終結の日なら、極めて自然にそれが交わされるという風に。言葉を交わしながら、私は同じようなバウンダリーをさまよっている。実はそのことが重要なのであり、そこに驚きと安心がない混ぜになるからなのだ。そう、バウンダリーは、それがどのようなものであっても常にその上をさまようものなのである。週一回、50分、と言うのはそのほんの一例に過ぎないのだ。

2「決めつけない態度」もやはり治療構造の一部である
もう一つは決め付けない態度 non-judgemental attituede ということである。Fさんの場合も、Gさんの場合も、かなり世間から虐げられ、誤解を受け、辛い思いをしてきたということが伺える。人からこんなことを指摘されるのではないか、こういうところを疎ましがられているのではないか、ということが感じられるのだ。たとえばFさんの場合は、曲がりなりにも国家の資格は持っているにもかかわらず、職を得ていない。Gさんの場合も、自称元治療者という経歴を持っていますが、今はフラフラしている毎日である。彼らは少なくとも私が厳しいことや、彼らが曲がりなりにも持っているプライドを傷つけるようなことは言わないことを知っている。働いたらどうかとは決して言わないし、お説教じみたことは私の発想にはない。私は彼らを「直そう」とは特に思わないし、彼らが生活保護をこれから続けなくてはいけない事情をよくわかっている。彼らの中に深刻な孤独感と対象希求があるのをわかっているつもりだ。彼にとっての私は、おそらく変わった精神科医で、必要に応じて投薬をし、診断書を書くという以外は、白衣を着たただの友達という感じだろう。もちろん私は白衣は着たことはないし、持ってもいないが、私が医師であるということは彼にとっては意味があることは確かで、そのことを私も知っているつもりである。
私にとって決めつけないというのは構造の一つである。それはスパーリングで言えば、そこに遊びはあっても、基本的にはミットが選手の痛めている右わき腹や狙われやすいアッパーカットを打ち込むということはない。その安心感があるからこそ、そのそぶりはスリルにつながるのだろう。
3.やはり自尊感情セルフエスティームか?
私は心の動かし方のルールとして、やはり患者のプライドとかセルフエスティーム、自尊心を守るということを考えてしまう。Henry Pinskerという人の支持療法のテキストに書いてあったが、支持療法の第一の目的は患者の自尊心の維持だということである。私もその通りだと思うのは、彼らの自尊心を守ってあげることなしには、彼らは自分を見つけるということに心が向かわないからである。だから私がFさんやGさんとやっていることが、ただ彼らに支持的にふるまっているわけではないということをわかっていただきたいと思う。彼らはある意味ではだれから見ても目につく特徴を持っている人たちである。私はついいたずら心から彼らの特徴を指摘したくなることもある。ところがある意味では私との面接外では、彼らはそれらについて過剰に指摘され、傷ついている可能性がある。それに触れないことは、私の発揮できるニュートラリティ、中立性とも考える。
以上本章では、精神療法の強度のスペクトラム、内在化された構造としての「心の動かし方」というテーマで論じた。



2018年6月13日水曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 22


第10章        解離の病理としてのBPD

初出:柴山雅俊、松本雅彦編:解離の病理自己・世界・時代 岩崎学術出版社 2012

前章で論じた通り、境界性パーソナリティ障害(borderline personality disorder, 以下、BPD)という概念は精神分析に由来するものであった。そして最近それとの関連がしばしば論じられているのが、解離性障害、特に解離性同一性障害(dissociative identity disorder, 以下、DID)である。こちらの解離の方は、精神分析の本流からは長い間距離が置かれていたが、近年ようやく分析的な解離理論が語られるようになってきているという事情がある。このBPDDIDも、いずれもが精神疾患として認められ、精神分析の場面に患者として登場する可能性が大きい以上、この両者の関係を整理しておくことは大切である。ただしこの両者の関係は複雑であり、また学会での定説も確立していない。しかしそれを前提の上で言えば、BPDDIDは、その病態としては、ある意味では正反対なものとして捉えるべきであるというのが私の立場である。
 ちなみに欧米の文献は、最近では両者の深い関連性を強調する傾向にある。もともとは両者は基本的に別物と考えられ、特別比較されることはなかった。しかし近年はDIDBPDは同類であるという主張、あるいはBPDと解離性障害は全体としてトラウマ関連障害としてまとめあげられるべきであるという意見、そしてBPDに特有の機制とされるスプリッティングは解離の一種であるという主張が見られるのである。さらにはDID72%BPDの診断を満たすという疫学的なデータも報告されている(Sar, et al 2006)。私自身の臨床からも、解離性障害とBPDが混同されやすい傾向は感じており、また両者の病理が混在しているようなケースに出会い戸惑うこともまれではない。そのためこのテーマは本書で章を設けて論じる価値があるものと考える。
1.従来の文献から
解離性障害、特にDIDBPDとの比較について、私自身はかつて何度か論じたことがある。そこでは対照表を作るまでしてDIDBPDの違いを強調してある。
 そもそもBPDと解離症状との深い関連性については、米国の精神医学の世界ではいわば公認されている。DSM-5(American Psychiatric Association,2013)のBPDの診断基準の第9項目には「一過性のストレス関連性の被害念慮または重篤な解離症状」(傍点強調は岡野)が掲げられているからである。ただしこの項目を満たすことはBPDの診断の必要条件ではない。つまり解離症状を伴わないBPDも当然あることになる。
 この解離症状をDIDBPDの第一の接点とした場合、それ以外にも両者には二つの接点が考えられる。それらはスプリッティングの機制、そしてリストカット等の自傷行為である。結論から言えば、以上の三つの特徴はBPDDIDの両者に共通して見られることが多いが、スプリッティングにより分裂排除された心的内容が、投影や外在化により外に排出されるか否かにより、両者の臨床的な現れ方は全く異なる形をとると考えられるのだ。
精神病様症状と解離 
 BPDの症例においてしばしば、神経症レベルより重篤な病態を思わせる症状が見られることは、従来から論じられて来た。米国でBPDの概念が提唱されるようになった194050年代は、精神疾患に対する精神分析の応用が様々に試みられたが、一見神経症圏にある患者が、カウチの上で退行を起こして関係被害念慮や異なる自我状態の出現や、離人、非現実体験等の所見を見せることがしばしば報告されるようになった。後の見地からはそれらは解離性の症状として理解が可能であるが、当時はそれらは「精神病様症状 psychotic-like symptoms」として扱われた。つまり統合失調症に見られるような症状に類似するという意味である。これは当時主流であった精神医学が、解離の概念をその語彙としては事実上持たなかったためである。実際Adolf SternRobert KnightOtto Kernberg などの BPD に関する主要文献は、「解離」や「(性的)外傷」についての記述はほぼ皆無であった (Stone, 1986)。この事情を理解するためには、BPD の概念が生まれた背景を理解しなくてはならない。BPD の概念は前世紀の前半に精神分析的な土壌で生まれたが、そこでは自我の機能レベルを神経症水準と精神病水準に大別する伝統があった。そもそも BPD の「境界borderline」も、その患者が両者の境界線上に存在するという理解を反映していたのである。そしてその概念が形成されるうえで、解離の概念が入り込む隙は事実上なかったのだ。 
 やがて1970年代になり、精神科領域における外傷理論が盛んになったが、それとともに従来の BPD の「精神病様症状」も解離性の症状として捉え直されるようになった。それはBPDそのものを外傷性の障害として捉える動きとも連動していた。なぜならすでに解離性症状は疫学的に外傷との関連が論じられつつあったからである。BPD の中核的な症状の中に解離症状を見出すことは、BPD を PTSD などの外傷関連疾患と同列に扱うことが出来るという可能性を同時に示唆していたのだ。そしてそこで抽出されることになった解離症状の多くは、かつて精神病様症状として理解されたものと、事実上同じものだったのである。先ほど述べた DSM-IVの BPD の第9項目はそのような背景で生まれたことになる。ただしその中の「一過性の被害念慮」については、解離性障害における訴えとしては典型的とはいえず、むしろ後述のスプリッティングの機制と関連しているものと考えられる。以上を多少なりとも図式化するならば、以下のようになろう。

   従来記載されてきた BPD の精神病様症状
    
           ⇒  解離性症状+被害念慮
 
(本章は以下省略)



次の章も少し書きなおした。
スペクトラムという考え
そこで私は精神療法の強度のスペクトラムという考えを提示したいと思う。要するに精神療法には、密度の濃いものから、薄いものまで様々なものがあ、るが、どれも精神療法には違いないという考え方である。私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの気持ちも代弁しているつもりである。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり「3ヶ月に一度15分」が来る。大部分の精神療法はこの両極の間のどこかに属することになる。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼ぼう。一番左端はフロイトの週650分の強度10の精神分析である。通常の450分は、強度8くらいだろうか。週一回は強度4くらいになるだろう。右端には、私の患者Aさんのケースが来るだろうから、これを強度0.5としよう。(フロイトは、なぜ週6回会うのかと問われて「だって日曜日はさすがに教会に行く日だから会えないだろう」と答えたと言われる。つまりフロイトにしてみれば週7回が本来の在り方だったのかもしれない。それを強度10とするならば、週4回は強度8くらいにしておかなくてはならない。)
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということだ。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりする。患者の側のニーズもあるだろう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものだ。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいる。その場合二週に一度になるのは、その人のせいとは言えないであろうし、二週に一度なら意味がないから来なくていいです、というのも高飛車だと思う。
私は週4回のケースを持っているし、週5回の分析を受けたこともあるので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいだろう。そうでなければ「週4回のセッションを実際に受けたり、行ったりしないで、何が言えるのだ!」と言われてしまうだろう。私はもともとバリバリの精神分析志向の人間であったし、分析のトレーニング中に特別発注の、当時2000ドルしたカウチも所有しているくらいなのである。
このスペクトラムの特徴をいくつか挙げておこう。おそらくその強度に関しては、一般的な意味では時間的な頻度が低下するにつれて弱まって行く。ただしそれはあくまでもなだらかな弱まり方である。つまり、私はたとえば週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、その間に越えられないような敷居があるとは思えない。前者を行うか後者を行うかで、私のメンタリティーに本質的な違いはないし、後者であったもそこには決まった設定、治療構造のようなものが保たれていると考えている。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思う。そうではなくて、左から右に移行するにしたがって、強度が低まり、それだけ治療は、ほかの条件が同じならその効果は一般的に薄れていくだろう。やっていて物足りないと思うし、いわゆる「深いかかわり」は起きる頻度も少なくなっていくだろう。それはそうだ。何しろ四輪駆動が軽になるわけだから。しかし繰り返すが、軽でも行ける旅はあるのである。
このスペクトラムのもう一つの特徴としては、これがあくまでも治療構造上の、いわば形式上の「強度」についてのものであり、実際には週四回でも実質的には弱い治療もあれば、二週に一度でも非常に強い治療もありうるということだ。週5回でも6回でも、非常に退屈で代わり映えのないセッションの連続でありえる。藤山直樹先生はその退屈さに耐えることが大事だとおっしゃると思うが、それは少しぜいたくな話かな、とも思う。頻回に会う関係は、しかしその親密さを必ずしも保証しない。一部夫婦の関係を見ればわかるであろう。毎日数時間顔を合わせることで、逆にコミュニケーションそのものが死んでしまうこともあるわけだ。逆に二週に一度30分でも強烈で、リカバリーに二週間かかるということはありうるだろう。そのセッションで探索的、あるいは一種の暴露療法的なことが行われた時にはありうることだ。治療者のアクが強い場合もそうかもしれない。
あるいは極端な話、一度きりの出会い、このスペクトラムで言えば0.01くらいの強度に位置するはずの体験が、一生を左右したりする。そのようなことが生じるからこそ精神療法の体験は醍醐味があるわけで、週一度50分以外は分析ではない、という議論は極端なのだ。私の知っているラカン派の治療を受けている人は、20分くらいのセッションが終わってから「あとで戻ってきてください。もう一セッションやりましょう」などと言われそうだ。一日2度、一回二十分という構造など、このスペクトラムのどこにも書き入れる事が出来ない。それでもある社会では治療として成立しているということが、このスペクトラム的な考えを持たざるを得ない根拠となる。
このスペクトラムのもう一つの特徴についてついでに申せば、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということだ。そもそも治療構造のあらゆる要素について、スペクトラムが考えられる。これまでに話した頻度の問題はその一例に過ぎないし、他にはセッション一回当たりの時間の問題もある。これも、はてはダブルセッションの90分から、5分~3分まで広がっていると考えられるだろう。さらには開始時間の正確さということのスペクトラムもある。これもご存知の方はいらっしゃると思うが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがある。到着時間がいつも早い人もいれば、遅い人もいる。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがある。たとえば医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる3時ちょうどの5分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立つ。そのあとの予定の混み具合を考えておくと、今あいた時間を有効に使いたいと思うからだ。もちろんギリギリ3時までには心理士さんにバトンタッチできるという算段だ。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類が持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなる。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいかない。3時~3時半の予定のセッションが310分に始まった場合、それを3時半で切り上げるわけにはいかなくなる。こうして構造を守る上では起きてはならないはずの開始時間のずれが、治療者の側の都合で実際には起きてしまうことがある。そして治療構造のこの不確定さ(治療枠の「緩さ」)れもまたスペクトラムの一つの軸となりえる。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッションか午後のセッションか、など数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれる。
それ以外にもたとえば料金の問題がある。一回2万円のセッションから、保険を使った通院精神療法まで。あるいは一回1000円のコントロールケース(精神分析のトレーニング中のケース)だってあり得るだろう。治療者がどの程度自己開示を厳密に控えるか、だってスペクトラムがあり得る。ある治療者は事故でけがをして松葉づえをついて患者を迎い入れましたが、その理由を一切語らない事があります。しかし他方では少し風邪気味なだけで、「風邪をひいて少し声がおかしくて聞きづらいかもしれません」という治療者だっているかもしれない。この様に治療におけるスペクトラムは多次元的だが、大体どこかに収まっていてそれが一定であることで、治療構造が守られているという実感を、治療者も患者も持つことが出来るだろう。

スペクトラムの中での柔構造
ある心の動かし方
さて私は精神科医として、そして精神分析家として、結局かなりケースバイケースで治療を行っている。そして強度のスペクトラムの中で、強度8から0.5まで揺れ動いているところがある。これはある意味では由々しきことかもしれない。「精神療法には構造が一番大事なのだ」。これを私は小此木先生から口を酸っぱくして言われていた。でも私はこれをいつも守っているつもりなのだ。ある意味では内在化されていると言ってもいいかもしれない。というのも私は結局はどの強度であっても、一定の心の動かし方をしていると思うからだ。そして私はそれを精神分析的と考えている。ここでの私の「分析的」、と言うのは内在化された治療構造を守りつつ、逆転移に注意を払いつつ、患者のベネフィットを最も大切なものとして扱うということにつきる。それが私の「心の動かし方」の本質である。その心の動かし方それ自体が構造であるという感覚があるので、外的な構造についてはそれほど気にならないのかもしれない。
 「ある心の動かし方」はそれ自体がある種の構造を提供しているという側面があるという話をした。その心の動かし方にはある種の構造がビルトインされている。だから時間の長さ、セッションの間隔は比較的自由に、それも患者さんの都合により変えることができる。それでも構造は提供されるのだ。ただし実はその構造を厳密に守ることではなく、それがときに破られ、また修復されるというところに治療の醍醐味があるのだ。そのニュアンスをお伝えするために一つの比喩を考えた。
私は先ほど治療的柔構造のことをボクシングのリングのようなものだと表現した。がっちり決まった、例えば何曜日の何時から50分、という構造を考えると、それは相撲の土俵のようなものだ。その中で様々な押し合いが生じても、一方の足がちょっとでも土俵の外に出るだけであっという間に勝負がつく。その俵が伸び縮みすることはない。ところがボクシングのリングは伸び縮みをする。治療時間が終わったあとも30秒長く続くセッションは、ロープがすこし引っ張られた状態である。そして時間が過ぎるにしたがってロープはより強く反発してくる。すると「大変、こんなに時間が過ぎてしまいました!」ということで結局セッションは終了になる。
 このようにロープ自体は多少伸び縮みするわけだが、リング自体はやはりしっかりとした構造と言える。そしてその中で決まった3分間、15ラウンドの試合を行うというボクシングの試合は、かなり構造化されたものである。そして、本来治療とはむしろこのボクシングのリングのようなもの、柔構造的なものだ、というのが私の主張であった。
 しかし「心の動かし方自体が柔構造的だ」という場合は、ここで新たな比喩が考えられる。同じボクシングの比喩であるが、コーチにミットでパンチを受けてもらう、ミット受け、ないしミット打ちという練習である。

ボクシングの選手はミットで受けてほしい、とコーチのもとにやってくる。コーチはミットを差し出して選手のパンチを受ける。ひとしきり終わると、「有難うございました。ではまた」と選手は帰っていく。ここにも大まかな構造はあるのだ。どのくらいの頻度でミット受けをしてもらうかは、選手ごとに異なるであろう。一時間みっちり必要かもしれないし、5分でいつもの感覚を取り戻すかもしれない。しかしここにもだいたい構造はあるだろう。それこそ月、水、金の5時ごろから30分ほど、とか。さもないと二人とも予定が合せられないからだ。あるいは一方が他方の時間があくのを待ち続けるという非常に効率の悪い事態が生じる。
 さてミット受けが始まると、選手はコーチがいつもと同じようなミットの出し方をして、いつもと同じような強さで受けてくれることを期待する。場所はあまり定まっていないかもしれない。その時空いているリングを使うかもしれないし、ジムが混んでいるときはその片隅かも知れない。夏は室内が暑いから外の駐車場に出て、風を浴びながらひとしきりやるかもしれない。その時選手とコーチはお互いに何かを感じあっている。コーチは今選手がどんなコンディションかを、受けるパンチの一つ一つで感じ取ることができるだろう。選手はコーチのグラブの絶妙な出し方に誘われて自在にパンチを繰り出せるようになるのであろうが、時にはコーチは自分にどのようなパンチを出して欲しいかが読み取れたりするかもしれない。その意味ではミット打ちは選手とコーチのコミュニケーションと意味合いを持っている。
 このミット打ちの比喩が面白いのは、選手とコーチの間の一方向性があり、それが精神療法の一方向性とかなり似ていると言うことだ。コーチがいきなりグラブを突き出してきて選手にパンチを繰り出すようなことはない。コーチは自分がボクシングの腕を磨くためにミット打ちを引き受けるわけではないからだ。だからいつも選手のパンチを受ける役回りです。いつも安定していて、選手の力を引き出すようなグラブの出し方をするはずだ。その目的は常に、選手の力を向上させるためである。あるいは試合前に緊張している選手の気持ちをほぐすため、という意味だってあるだろう。なんだか考えれば考えるほど精神療法と似てきて面白い。


2018年6月12日火曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 21


13 解離の分析的治療(2)
1.       転換・解離性障害  
(精神科治療学神科治療学25巻増刊号「今日の精神科治療ガイドライン」(星和書店、2010)
                    

I. はじめに
転換・解離性障害は、従来ヒステリーと呼ばれていた病態が、現代的な解離の概念とともに装いを新たにしたものである。疾患概念としては、現在のICD-10におけるF44解離性(転換性)障害がこれに相当することになる。ヒステリーは従来は「解離ヒステリー」と「転換ヒステリー」という二つのカテゴリーからなる精神疾患の一つとして記載されてきた。そして1980年のDSM-American Psychiatric Association,1980)以降、ヒステリーは解離性障害のもとに再分類され、上述の国際分類ICD-10 (World Health Organization, 2005)もそれに従ったという経緯がある。解離の概念をいかに定義し、理解するかは立場によって微妙に異なるが、基本的には「意識、記憶、同一性、知覚、運動などを統合する通常の機能が失われた状態」(DSMICDにおける定義)とされる。そしてそのうち知覚や運動に解離の機制が限定された際には、通常は転換症状と呼ばれる。ICD-10には、それらは解離性運動障害、解離性けいれん、解離性知覚麻痺[無感覚] および知覚 [感覚] 脱失等として記載されている。
またICD-10には、それ以外の解離性の障害として解離性健忘、解離性遁走、解離性昏迷、トランスおよび憑依障害が記載され、それに続いて「その他の解離性[転換性]障害」が挙げられているが、この「その他の・・・」が極めて多くの解離性障害を含み、同障害の分類がかなり錯綜している事情を物語っている。
さらには解離性障害を転換性障害と同一のカテゴリーに分類するか否かについての従来のDSとの齟齬が問題とされている。すなわちICDにおいては、「F44解離性(転換性)障害」という記載が示すとおり、両者は同じ項目に分類されているが、DSMでは、解離性障害は、独立したカテゴリーに分類されている一方で、転換性障害は「身体表現性障害」という別のカテゴリーの一角を占めることになる。解離の専門家からは、むしろICDの立場を支持する声が多いが(岡野、1995)、Web上で確認する限り、ここに述べた事情は、20135月に刊行されたDSM-5にもそのまま踏襲されている。

2018年6月11日月曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 20

第10章      ボーダーラインパーソナリティ障害を分析的に理解する 
初出:医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害(こころの科学154号 境界性パーソナリティ障 害 岡崎祐士 (編集), 青木省三 (編集), 白波瀬丈一郎 (編集) 2010年 所収)
はじめに
ボーダーラインパーソナリティ障害(以下、「BPD」と略記する)という概念は、そもそも精神分析の世界で確立された概念である。現代の精神医学において精神分析的な用語は徐々に姿を消しつつあるが、BPDだけはしっかり確率された概念であり、それが揺らぐ気配はない。しかし一般精神医学で扱われるようになり、そこには様々な問題が生じている。その事情を十分に理解するためには、いったん精神分析の土台を離れる必要があるだろう。
本章では特にBPDの「医原性」というテーマについて論じる。これは疾患概念としてのBPDが、医師ないしは治療者により二次的、人工的に作り上げられてしまう可能性があるという事情を指す。ただしここでいう「作り上げられる」には、以下に述べるように実際の病理が作られてしまうという意味と同時に、もともとあった病理がさらに悪化したり、実際はBPDとはいえないものが、そのように誤診ないし誤認されてしまったりするという場合も含むことにする。
BPDの臨床を考える上で、この医原性の問題は現代の精神医学における非常に重要なテーマである。しかしこの問題はまた、BPD という概念が精神分析の枠組みを超えて一般に知られるようになった際に、すでに持ち始めていたネガティブなイメージや、差別的なニュアンスとも関係していた。歴史的には、類似の例として「ヒステリー」の概念があげられるだろう。ヒステリーの歴史ははるかに古く、「本当の病気ではないもの」、「演技」、「詐病」、あるいは「女性特有の障害」として、やや侮蔑的な意味で用いられたという経緯があり、治療者側のそのような偏見が、ヒステリーという診断の下され方に大きく影響していた可能性がある。そして現代においては BPD が同様の役割を背負わされているというニュアンスがあるのだ(Herman,1990)。
Herman, J.L. (1990) : Trauma and Recovery. Basic Books. New York. 中井久夫訳

(以下省略)