2020年6月30日火曜日

解離と他者性 書き直し 2



■■ EPは本来保護的である、という主張
EPは本人を保護しているのだ」という主張しばしば誤謬を含んでいるために注意するべきである。解離性障害の専門家がしばしば唱えるのは以下の主張である。「攻撃的な人格は当人を保護してくれているのだ」という言い方である。Howell 先生の主張を引用してみよう。
「最初のうちはこれは明らかではないが、ほとんどの時、怒っている人格や攻撃者をモデルとした人格は、最も深いレベルでは保護的な役割を果たしている。これらの人格部分は過去に生きており、そこ過去においては危険となるような行為から身を守ってくれているのである。(P.62).
おそらくこれを読んだ当事者の多くが、Howell の主張のとおり、そんなことはない、という印象を持つだろう。なぜなら黒幕さんの多くが主人格に敵対し、その人生を損ねるような振る舞いを繰り返すからだ。そこでHowell はあるそして彼女はある例を出す。ある人はEという怒りの人格を持っていて、自分は全能で主人格のことを生きる価値がないと考える、という。そこでHowell はこういう。「あなたは主人格が家で完璧にふるまえるようにできるでしょうね。彼女はあなたに感謝しなくてはね。」それに対して怒りの人格は言う。「そうよ、でも彼女はその様に扱われるだけのダメ人間だわ」しかしやがて主人格はピンチな場面で黒幕さんに助けられ、そのうち黒幕さんがいなくても怒りを体験できるようになる。
 しかしこれは黒幕さんをおだてて主人格を助けるようにそそのかしたというニュアンスがある。
このロジックが誤解を招く上に危険なのは、同様の理論が実際の虐待者にも当てはまってしまう可能性があるからだ。いわく「虐待者の多くは本当は当人に対して保護的なのだ。深いレベルでは。」そして治療者は実際の虐待的な親に対してこういう。「あなたもこの子の親なら、この子の人生を変える力を持っていますね。」それを言われて、彼(女)自身もつらい過去を背負っている親は多少なりとも自己価値観を高めることができ、本来の親らしい振る舞いをより見せることになる・・・・。しかしこれは虐待的な親の免責になるのだろうか。少なくとも「本当は(深いレベルでは)子供を護っている」という言い方がそのために用いられるべきではないであろう。多くの場合攻撃的な人格は得体のしれない、時にはその正体を隠した顔のない「他者」存在なのに、どうして自分を保護してくれると思いこまされなくてはならないのだろうか。
Howell 先生はもちろん懸命な治療者なので、重要な点を付け加えることを忘れない。「しかし黒幕は全然保護的でない場合もある(Blizard, 1997; Bryant, Kessler, & Shirar, 1996; Rosenfeld, 1971)。」Howell 先生はその様な場合もしっかりあることを認めて、犯罪行為を働いた黒幕さんがいる患者さんに自首することを勧めたと書かれている。
 Howell さんは、「黒幕さんたちは結局は主人格の味方である」という一方的な見解に陥っていないという点は頼もしい。しかしやはり力動的、防衛的な考え方がその基礎にあるようだ。

2020年6月29日月曜日

新無意識 書き直し 7


昨日のモートンの議論だと、抑圧は思い出されているが、解離はそうではない、というニュアンスだったので、ヒルガードの図式とは微妙に食い違う。ヒルガードの図式だと、抑圧は永遠に思い出されず、解離は思い出される、と言っているわけで、これはフロイトの主張に準している。まあ、この種の抽象的な議論に正解はなく、論者が別々のことを言っているわけだが、学問の世界ではよくあることだ。第一「解離内容は思い出すことが出来るか」とひとことで言っても、人格Aにとっては決して思い出されず、人格Bは普通に思い出している、ということがあるのだから、誰(どの人格)にとって思い出せないのかという議論がないとこの種の議論には意味がないことになるのだ。
ここで改めて問うてみよう。フロイトの「無意識は直接は思い出せない」という主張はアリなのか。これは「結局は知りえないのが無意識だ」ということになり、無意識にもう何も残っていない(すべて思い出されてしまった)ということなど証明しようがない以上、終わらない議論なのだ。
さて現代のこの解離と抑圧をめぐる議論は、キールストロームの言うとおりトラウマに関する視点がクローズアップされたからだが、最近のトラウマをめぐる考え方によれば、これは概ねジャネの方に軍配が上がるといっていいだろう。解離を認めなかったフロイトにはあまり勝ち目はなかったのである。しかしこのフロイトの「無意識は直接は思い出せない」という議論までが否定されてしまったわけではない。少しややこしいが、説明しよう。
最近の記憶の研究は、記憶を明白な記憶と明白でない記憶に分けて議論することが多い。前者はいつどこで何があったか、といういわゆるエピソード記憶に相当する。後者はその時の感情や感覚部分だ。記憶とは大体この二つの部分から出来上がっていると考えるのである。そして通常の記憶なら両方はくっ付いて一緒になって動く。昔のあるエピソードは意図的に想起され、その時空間的な特徴(いつ、どこであったのか。など)とその時の感情部分は一緒に思い出される。ところがトラウマ的な出来事の記憶は、エピソード記憶の部分が海馬の抑制によって記憶されていない可能性がある。つまり後者のみが残ることになる。するとどういうことが起きるのか。トラウマ記憶は身体の痛みや断片的な映像という形で蘇ってくるものの、それが何に由来するかがわからないという事になる。いつ、何が起きたのかがわからない。するとこの記憶はフロイトが「無意識は直接は思い出せない」という話に符合することになる。つまりフロイトのいう無意識は、実はトラウマ記憶についてなら妥当であるという事が分かる。フロイトは無意識内容として想定したのは、図に描き込んだように「欲動と葛藤」だったにもかかわらず、である。いったいどうなっていることやら・・・・。
ここで私自身が説明したくなってきた。自分で納得するために説明するのである。結局次のように理解するべきだ。
   トラウマが主人格Aの中で体験され、その記憶が解離された場合。トラウマ記憶のうち明白でない部分は通常は残っているが、明白な部分は解離されているか、ないしはトラウマ時の海馬の抑制によりそれ自身が成立していないという可能性がある。前者の場合はEMDR、催眠、フラッシュバックその他により蘇る可能性がある。つまり「無意識内容は直接到達できない」(フロイト)かどうかはケースバイケースということになる。
   トラウマが別人格Bにより体験された場合。Aは通常それを明白な部分も明白でない部分も含めて想起できない可能性がある。Aさん自身は寝てしまっていたからだ。他方Bの人格状態では両方を想起できることになる。と言うよりは、Bさんにとってはその記憶はちゃんと明白な部分、明白でない部分がつながっていて、その意味ではトラウマ記憶でさえないかも知れないのだ。「無意識内容は直接到達できない」は、Aにとっては当てはまり、Bにとっては当てはまらないことになる。
以上によりこの記憶をめぐる論点は整理されるが、ここでミソなのは、もはや抑圧という概念がどこにも必要とされていない可能性すらあるという事である。

2020年6月28日日曜日

解離と他者性 書き直し 1

 解離性の人格の形成は、おそらく心を理解するうえで一番その機序が不明なものとされている。その端緒さえつかめていないようだ。そもそも解離性の病理ないしは現象については、まだ手付かずに近いものもある。一つの例を挙げるならば、いわゆる文化結合症候群に属する「ラター」である。これは突然人(多くは男性、しかし中年以降の女性も報告されている)が誰かに憑りつかれたように凶行に走るという病態だが、ICD-11でもDSM-5でもこれらを解離性障害として扱うことに二の足を踏んでいるようである。下手な説明や分類が出来ないからだ。トラウマなどにより別人格が作られるというプロセスは、精神分析的な概念、たとえば取り入れや投影といった概念により説明されることが多い。ところがこれらの概念はいずれもメタファーとしてのそれである。例えば取り入れ、という概念を考えよう。理想化している人の動作をいつの間にか取り入れているという場合、それは誰にとっても追体験できるようなものであるが、実際にその理想化対象が心の中に入り込んだというわけではない。あるいは母親像の投影、などという時も、頭の中の母親のイメージがテレパシーのように相手の心の中に飛び込んでいく、ということなどだれも想定してはいない。すべては「あたかも~である」という話の延長線上にある。
 ところが解離においては実際にそれが起きるかのようである。それをこれらの理論によりかなり牽強付会に意味づけているというニュアンスがある。これが憑依現象となると、まさに文字通りの、「実際の取入れ」が生じるようで、一種の超常現象のニュアンスがある。
 この問題は心理的な問題と脳科学的な問題を提起する。前者に関しては、この交代人格は自分自身、ないしは自分の一部と言えるのだろうか、という問題が生じる。メタファーとしての取入れならそれは自分の一部となる。しかし「実際の取入れ」なら、これはむしろよそ者、全き他者という事になる。Janet が用いた 「寄生者 
parasite」 という強い表現は、この他者性を表しているのだ(Howell, P43)。ところが精神療法家はこれを他者として扱えきれていないところがあり、それは力動精神医学の持つ問題からくるというのが私の主張である。
 もう一つは脳科学的な問題だ。いったいなぜ、どうして「実際の取入れ」などという事が可能だろうか?ここにミラーニューロンの関与が考えられる。これはまさに文字通りの取入れが脳のレベルで生じているという現象を表しているのだ。皆さんはどうして私たちが母国語を普通に話すということができるかを考えたことがあるだろうか? 模倣でない、それ以上の何かが子供の脳のミラーニューロンシステムに起きて、子供は母国語を話すようになる。訛りもそっくりそのままに。それは言葉を話す周囲の人(の脳の機能)が子供の脳に実際に入り込む(より正しくは「コピーされる」と言うべきか)からである。解離についても同様のことが生じると考えられるのだ。しかしそれはあくまでも正常なプロセスとしてではなく、ある種の異常なプロセスとして、である。

2020年6月27日土曜日

新無意識 書き直し 6


それに比べると、キールストローム Kihlstrom 先生の方が分かりやすい。こんな解説だ。
「ジャネは『抑圧は解離の一種だ!』と言い、フロイトは、『抑圧こそ重要であり、解離は抑圧と異なっていて、取るに足らないのだ。』と言った。しかし二人に共通していたのは、非意識的 nonconscious なプロセスが重要であるという事だった。」「フロイトにとっては抑圧は防衛の結果生じるが、ジャネによれば、ある種の脆弱さにより、ちょうど鎖を引っ張ると弱いところが切れるように解離が起きるという。つまりジャネの考え方は全然力動的ではない、とフロイトは主張した。」などと説明した。キールストロームは解離と抑圧の関係にとてもこだわった人であり、この二つの違いを論じることは、それほど簡単ではない、という事を種々の研究を行って示した。一説には抑圧は後催眠健忘と同類である、という説もあったが、それもその限りではない、などの説を提出している。
彼の議論は難しくてなかなかまとめられないが、簡単に言えば、トラウマによる健忘という考え方の重要さと、そこにかかわる解離の機制を説明したことにある。
他方ヒルガードは実に分かりやすい説明の方法を用いている。いわゆる水平分裂と垂直分裂だ。同様の分類は、例えばスプリッティングと抑圧の違い、コフートのいう自己愛の理論における二つの分裂の違いなどに表されているが、


ここで特に注目してほしいのは、解離によってもフロイト的な無意識内容は明らかにされないという事だ。というのもフロイトは如何も、抑圧された内容は間接的にしか知ることが出来ないと主張していたフシがある(Kihlstrom)。これは看過できない点である。

2020年6月26日金曜日

新無意識 書き直し 5


昨日示した図を改良したくなってこんなのを描いた。(1時間かかった。)





この抑圧と解離という事について最近の論文を引用しよう。
Morton, J. (2004) Differentiating dissociation and repression. Behavioral and Brain Sciences. Volume 27Issue 5 pp. 670-671. まさにこのテーマにばっちりの論文。そこでは以下のように書いてある。
解離:自伝的記憶を想起 retrieveすることが取り出せない(a memory record or set of autobiographical memory records cannot be retrieved.
抑圧:自伝的記憶を想起 retrieve することが出来、それが現在の思考プロセスに入るが、それを意識化することが出来ない。(repression is where there is retrieval of a record but, because of the current task specification, the contents of the record, though entering into current processing, are not allowed into consciousness. 
そっけなく書いてあるが、結局は抑圧はすでにある意味では思い出せているが意識化されない内容であり、解離はそもそも思い出せない内容だ、と言っている。果たしてこれは違いをうまく説明しているのであろうか。図でも抑圧の場合は心の図式に入り込んでいるから、思い出せる、というわけだ。ところが解離の場合はその外側に位置しているから思い出せない、と一見理屈に合いそうである。

2020年6月25日木曜日

新無意識 書き直し 4


抑圧と解離の文脈での無意識

そもそも無意識的幻想とは・・・・

ところで日常的に解離性障害を扱うという私の立場上、解離理論の文脈で無意識をとらえなおさなくてはならないのは当然だ。現在無意識を問い直すとしたら、それは解離の問題を私たちは臨床の中で避けることができなくなったからである。
まず精神分析の世界で何が起きているかと言えば、無意識的なファンタジーが治療対象として扱われることがますます少なくなり、より現実的な問題に重きが置かれるようになってきたということだろう。無意識に潜む何かを問題にするというパラダイムが昔ほどは考えられなくなったということだろうか。ギャバードさんがそのテキスト「力動精神的心理療法」(p6)で書いていることだが、「 無意識」を中味が存在する空間的なたとえとみなす考え方は,近年の議論ではどんどん流行らないものとなっている。
私は精神分析家なので、「患者の無意識的幻想」をしっかり探求しているだろうか、などと心配になる。無意識的幻想は、分析家がそのトレーニングの途中で刷り込まれた考え方で、武道でいえば一種の「型」のようなものだ。しかし分析を続けているうちにそれまであらわになっていなかったものがそうなるという体験はそんなに多くないと考えるようになっている。むしろそれとは別の体験の方が多いのではないだろうか。精神分析や精神療法での変化としては以下のようなものが圧倒的に多い。
l  それまで受け入れられなかったことが受け入れられるようになる。たとえば「母親に対して自分の考えを言えるようになった」など。
l  ある種の外傷的な出来事の想起や、それを取り扱えるようになったことにより、部分的に精神の健康を取り戻した、など。
あるいは現代の精神分析は転移中心の考え方になっているので、どのような転移逆転移関係が生じ、それが解消されていったかが主たるテーマになり、「無意識的云々」ということはあまり出てこないということもあろう。
結局はある種の無意識的なファンタジー、欲動を宿す無意識という考え方があまり妥当ではなかった、ということになろう。そもそもこのモデルはフロイトが幼児性欲を前提として作り上げたモデルであるために出来上がったわけだが、最近のモデルはもっとトラウマモデルに近くなっている。つまり人の精神的な問題の背後にはある種の愛着の問題やトラウマの問題が隠されている場合が非常に多く、むしろそれを想定した治療の方が間違いがないということである。つまり想定はこうだ。
「患者さんは幼少時に、あるいは思春期以降にトラウマを体験し、それが十分に扱われなかったり、新たに想起されたりするということが生じることが多い。」
もちろんそうではないケースもたくさんあるが、治療によりこれまで明らかでなかった「無意識内容」があらわになる、というプロセスは、実はこのようなケースが圧倒的に多い。いわば幼少時の性的外傷の記憶が想起されるというプロセスであるが、実はこれはフロイトがヒステリー研究の段階で扱っていたストーリーと同じものであることは重要である。ということはフロイトはこの境地にすでに精神分析を編み出す10年以上前に至っていたのか、ということになる。ある意味ではフロイトはそこから大きな迂回をしたわけで、精神分析の歴史で起きた迂回ともいうことが出来るのだ。そしてそれが現在の精神分析の世界の中で一つの大きな問題となっている。
そこで現代的な想定と、フロイトの発見は同じだったのだろうか。これは少し違っていたのだ。その点を説明する。
フロイトの考えをもう少し正確に書くとこうだった。
「幼児期のトラウマは心に深刻な影響を及ぼし、それによる欲動の高まりが影響が無意識にとどまり、それが後に治療により扱われる」。
そしてそれが無意識にとどまった理由は、それが幼児の性的願望と結びついており、それが罪悪感を生み、抑圧されていたからだ。」
ところが現在の臨床家は考える。「幼児期のトラウマは心に深刻な影響を及ぼし、その内容は解離されてしまい、それが後に治療により扱われる」。
違いを強調しよう。
l  フロイト トラウマ → それによる欲動の高まりが無意識にとどまる。
l  解離理論 トラウマ → その内容は解離されてしまう。 
ここで私が何を言いたいかと言うと、欲動、という迂回路を考えると、そこに無意識の要素がかかわってくるし、そうでないと、解離という概念が入り込んできて、これと無意識との関連があやふやになってしまう。そしてそこのところは精神分析理論では定説がないのである!!すなわち無意識を論じるのであれば、解離を含めたこの論点の整理が前提となるという事だ。
この図式の違いはこれまでにも何度かまとめたことがあるので、それをここに改めて示した。



2020年6月24日水曜日

新無意識 書き直し 3


2.統合情報理論

私にとってはこの問題について、何人か導き手になる注目すべき先達がいて、その一人がジュリオ・トノーニ Giulio Tononiというイタリア出身の脳科学者である。以下に彼の理論を少し紹介しよう。彼は数年前に京都大学にも招かれて講演を行ない、評判となったが、彼の唱える説というのは非常に興味深い。彼は心は巨大なネットワークの産物だと考え、それをΦ(ファイ)と呼んでいる。そしてそこに貯めることの出来る情報の多さが、意識のレベルを決めると考える。その単位もまたΦなのだ。すなわちあるネットワークがあった時にそこにどれほど情報を貯めることができるかということが、意識がどの程度複雑で込み入ったものになるかを決定するということだ。情報が貯められて、それを伝達することができるような処があったら、それは意識を成立させるのだというわけである。そして勿論、これは人間の脳でもAIでも同じだと考えられる。
 

20-2

 彼の著書の中の図(図20-2)を紹介しよう(Massimini,M., Tononi, G, 2013)。仮に8つの結び目があるとして、そこに適当に連絡路を張り巡らせて、3種類のネットワークを作ってみる。そして一番左のネットワークのどこかに刺激を与えると、隣の結び目に伝わり、全体には伝わらず、そこで終わってしまう。これは私が追加する説明だが、そこでおきたことを音にすると「チン」という感じで一瞬で終わってしまうわけだ。それがネットワークのごく一部だけが鳴るので高い音であろう。また右端の、一見複雑そうな情報網も1個を刺激するといきなり全体に情報が行き渡ってしまって、情報量としてはあまりない。しかし音は大きく、低くなるだろうから「ゴン」という感じだろうか。大きな鐘を叩いた音だ。これは同じΦ (情報量)となる。
 ところが、8つの結び目から作ったネットワークで一番情報量が多いものをコンピューターで計算して作ることが出来るという。それが真ん中に示したネットワークだ。このΦはなんと74もあるという。つまり一箇所を刺激すると情報があちこちをめぐり、しばらく鳴り続ける。ジャラララーンとかいうメロディーが聞こえてきそうだ。するとこのΦが大きいネットワークの方が、それだけ複雑な意識をためることが出来るネットワークということになる。

2020年6月23日火曜日

新無意識 書き直し 2


1.ニューラルネットワークモデル

前世紀、つまり1900年代の半ばから、脳の仕組みをコンピューターモデルを用いて解明しようという動きがあり、いろいろなモデルが提出されたという経緯がある。それがニューラルネットワーク理論の始まりだ。そしてその中で1957年にローゼンブラットという人が提唱したパーセプトロンの概念が有名だ。その当時からコンピューターは単純な処理ならそれを高速で行い、その能力は人間のそれを遥かにしのくことはよく知られていた。しかしアナログな仕事、例えば手書きの文字入力を認識したり、物体を認識したりという仕事はコンピューターにとって非常に苦手であり、それが人間の能力との決定的な違いだったのである。そのためにローゼンブラットはパーセプトロンという概念を作り上げた。

                   (図20-7

 ここに私自身で絵を描いてみた(図20-7
。まず入力層があって、出力層があって、hidden layer, つまり隠れ層がある。そうするとある信号、例えば図に示した緑色のアイコンが入力された時に、これが「優先席」を表すものだという判断が下せるようになるために、そこに至る経路に重みづけをしていく。つまりその経路を太く、強化することになる。同じような事を様々な刺激に対して学習していく。またたとえば耳がちょっと大きくて、目が二つあって、ひげが生えていたら猫だというふうにパターン認識ができるようになるわけだ。このパーセプトロンの議論は一時はかなり流行したが、その後勢いがなくなっていた。しかし最近になり、ディープラーニングという進化系が登場し、アルファー碁やディープラーニングの活躍でまた脚光を浴びるようになったのである。
 最近のニューラルネットワーク理論の活況は、ディープラーニングの性能が飛躍的に進歩したためである。そこにはいろいろな要素が絡んでいるが、一つにはいわゆるバックプロパゲーション(誤差逆伝播法)という概念の貢献がある。すなわち情報を入力から出力へと一方向で行うだけでなく、出力から入力へという逆方向のフィードバックを行うという考え方である。
さてディープラーニングについては、以下のような解説を引用しよう。
「ディープラーニングはいわばニューラルネットワークの進化系である。ディープラーニング以前の機械学習やニューラルネットの分野では,人手による特徴量の設計が必要だった。しかし,ディープラーニングは大量のデータからその特徴量を自動で抽出し学習するといった機構を持つ.」
「ディープラーニングはニューラルネットの一分野であり,おそらくその厳密な定義はない.一般的にはニューラルネットの層を4層以上に深くしたものを深層学習(ディープラーニングDeepLearning)と呼ぶ風潮らしい.また,特徴量を自動で獲得させよう,つまり文章や画像や音声などのデータをそのまま与えて回帰や分類を行おうとさせるのがディープラーニングの特徴である.」
 ちなみにニューラルネットワークが大脳皮質の構造に対応することになるが、大脳皮質の場合、6つの層があり、それぞれが膨大な数の神経細胞により構成しているため、この隠れ層とは途方もなく分厚い層ということになる。そして脳の場合は下から情報が流れてきて、中間層である隠れ層でさまざまな情報処理が行われ、その一部が上部の出力層へと移る時点で上述の重み付けを行う。ただし脳の場合、大部分の情報は上まで登らずに降りてきてしまうという。つまり私たちの感覚器を伝わって入ってくる知覚入力、感覚入力は大脳皮質に入ってもたいがいは意識に上らずに棄却されてしまう。それは私たちの通常の体験においてはたいていのものが新しい情報ではないからであり、そのためにスルーされてしまうということによる。つまりいつも通りの出来事に関する記憶は、どんどん無意識的に処理されていくわけであるが、これはフロイト的な無意識に関する理解とは異なる新しい考え方と言っていいだろう。
 さて情報処理に係る部位としては、小脳皮質もある。こちらの場合には3層からなり、その構造はおおむね画一的で、実はコンピューターにそっくりだと言われている。我々の脳の中で一番計算をしてもらっているのが小脳であって、そこでは運動の熟達みたいなことに関係していると言われていた。しかし、実はそれ以外の精神的、認知的な事柄についても熟達して慣れて自動化していくというプロセスにおいて小脳は非常に大きな意味をもっているということで最近注目されている。
 脳科学者 Jeff Hawkins2004)の「考える脳、考えるコンピューター」(ランダムハウス講談社、2015年)という本には、ニューラルネットワーク的な大脳皮質の働きが雄弁に説明されている。それによれば、大脳皮質に入ってきた情報は自動的に処理されていき、感覚入力を処理する際に、予測と異なる情報だけが上位に伝わる。例えば通勤途中に、街角の交差点で一台の車が黄色から赤信号に変わるタイミングに差し掛かって急に停止し、歩行者がそれにびっくりする仕草をしたというシーンを見ても、それは見慣れたシーンでしかなく、ほとんど見過ごされて忘れ去られていく。ところが、その車が急ブレーキをかけたにもかかわらず、歩行者に接触して、その歩行者が怒鳴った怪我をさせてしまったとしたら、それは予想外のこと、驚くべきこととして上位に伝わる。この最後に脳のどの部位に至るかというと、記憶を司る場である海馬なのだ。つまり大脳皮質の最上位の情報は海馬に流れていき、そこで記銘されるのだ。今本書の読者に、一年前に自宅から職場までの間に起きたことを思い出してくださいと言っても全く不可能であろう。ところが一年前のある日の通勤中に、横断歩道で誰かが倒れているのに遭遇したのであれば、その日のことはおそらくかなり明瞭に記憶に残っているはずだ。また大脳の最上位には扁桃核も位置していることになる。予想外のことが起きてびっくりしたり怖かったりしたら、それは同時に扁桃核をも興奮させ、その感情部分も記憶に残る。
 すこしニューラルネットワークの説明をするならば、入力層と出力層があり、その間に膨大な層が存在する。ニューラルネットワークでは、入力層に入ったインプットと出力層から出るアウトプットが正解に近いように、中のネットワークの重みづけが変更されて行き、正解に近づけることが出来る。そして大脳皮質もおそらく類似した構造であろうという説明をした。ではこの場合何がインプットであり、何がアウトプットだろうか? たとえば赤ん坊が目の前のもの、たとえば哺乳瓶を捉えようとする。視覚的な情報がインプットだ。そしてアウトプットは自分の手の動き(手の運動を司る筋肉運動)ということになる。もし哺乳瓶に向かって手を伸ばさずに、たとえば右側に行きすぎると、そのアプトプットは誤り、あるいはやや誤りと判断される。そしてそれを繰り返すうちに、哺乳瓶の視覚情報は、確実にそれを捉えることが出来るような手の動きを指示する出力を行うことが出来る。すると赤ん坊はこの運動に熟達するにつれて、もう哺乳瓶を見て手を伸ばすという運動を、「考えずに」出来るようになる。当たり前になり、ルーチン化した運動はもう精神的なエネルギーを用いることはない。そして脳は、まだ新しくて、それに慣れていない体験について、それを記憶し、それに対するエネルギーを注ぐだろう。そしてここに先ほどの海馬、扁桃核が関与してくる。それはある意味では大脳皮質というディープラーニングシステムを使いこなす、さらに上位の中枢の存在を示しているであろう。つまり人間の大脳は、単なるディープラーニングを行うのではなく、それをより効率よく行うような仕組みを備えていることになる。


2020年6月22日月曜日

新無意識 書き直し 1

フロイトと脳科学、無意識

 無意識という問題について考えるうえで、最初はフロイトに立ち戻ろう。
 フロイトは心と脳の関係を真剣に考えだした最初の人間であったが、最初は脳はブラックボックスのようなものだった。(今でもある意味ではそうだが。)人間や動物の脳を取り出しても、肌色をした塊が出てくるだけである。中がどうなっているのかさっぱりわからないし、それを切っても少し色のついた塊の部分がいくつか見られるだけだ。解剖の際に脳を切ってみても、いくつかの部分に分かれる、ということはない。多少切り離されている感があるのは小脳だけだ。それと左右の大脳半球ははっきり二つに分かれて見えるが、脳梁部分でしっかりつながっている。もちろん特別な配線やスイッチなどは見当たらない(当たり前だ!)。そこでフロイトは動物の脳や中枢神経を顕微鏡で調べ始めた。するとただの塊に見えた脳が、どうやら神経細胞という素子の集合であることが分かった。それ以上はよくわからない。
 フロイトはもうこの時点で壮大な仮説を立て始めた。そして φψという2種類の神経細胞があって、φ の場合にはそこで信号の流れがせき止められ、ψ の場合にはここを通過するという理論を立てた。フロイトはそこを流れる信号が電気的なものであるとは考えなかったであろうから、一種の流体のようなものということになった。そうなるとリビドーしかない。そしてそこから心の在り方を一生懸命組み立てようとしたのだが、さすがにこれだけでは全然無理だった。まるでコンピューターの原理を知らずにCPUを分解して、ミクロレベルでの二種類の部品、ダイオードやトランジスタなどを取り出して、その働きを知ることなく、一気にCPUの仕組みを説明するようなものである。
 ところで当時の心の脳の仕組みを説明する学問的な素地はとてつもなく大雑把なものだった。このころフロイトがいたウィーンを中心に発展していたのは、いわゆるヘルムホルツ学派の考えである。その信奉者であったフロイトが依拠していたのはいわゆる水力モデル hydraulic model であり、そこで「流れる」「せき止める」という概念が出てくる。つまり抑圧、あるいは抑制によってリビドーという一種の流体の圧力が鬱積すると不快になり、それが解放されると快につながるという非常にシンプルな理解の仕方をしたのだ。フロイトの脳の在り方を絵にするとこんなふうになると思う。パイプがこのように並んでいる。 

この絵はルイス・タルディという人の作品だが、おそらくフロイトの打ち立てた心の理論はどちらかというとこれに近かったのではないかと思うが、こんなことを言ったらフロイトは怒るかもしれない。

2020年6月21日日曜日

新無意識 6


ここで一つお断りしなくてはならないのであるが、新無意識とは、決して「新しい無意識」ではない。私たちの脳が進化を遂げて、リニューアルした無意識を獲得した、という話ではない。新無意識とは、私たち人類が生まれたときから持っている無意識(あるいはフロイトがそう概念化したもの)を新しく理解し直したものであり、ある意味では「より正確に理解された無意識」である。
そこで無意識を、私たちが意識されない部分、すなわち「非意識 non conscious」ないし「意識下subconscious」としてとらえた場合、現代的な考え方では、それはおそらく私たちの脳の大部分を占めることになってしまう。というのも私たちは意識化できる部分を行っていくうちにそれが自動化し、無意識の部分に移って行ってしまうということを繰り返していることが理解されるようになったからだ。そして現在の脳科学では、私たちの行動の非常に多くが無意識に支配されているという研究が示されている。フロイトの提示していたことはある意味ではその通り、あるいはそれ以上だったのだ。
しかしここで注意が必要だ。グレン・ギャバード先生がそのテキスト「長期力動精神的精神療法」(p6)で書いていることだが、「 無意識」を中味が存在する空間的なたとえとみなす考え方は,近年の議論ではどんどん流行らないものとなっている。今日神経科学に通じた精神力動的治療者は,「 無意識」 というよりむしろ無意識的な精神機能とか無意識的表象といった物言いを好むという。つまり無意識的な欲動に支配される、といった大げさなものではなく、私たちは知らず知らずのうちにある言動を起こしているが、そのことに気が付いていない、という程度のことを無意識的な心の働きとして想定しているというのだ。
ギャバードさんの挙げている例に、こういうものがある。白人の被検者に黒人と白人をインタビューさせると、明らかに黒人に対しては言いよどんだり距離を開けたりという態度を示すにもかかわらず、「自分は人種的なバイアスを持っていません」と言うのだそうだ。人がAと言いながら、あるいはそう思い込みながら、実は別の気持ちBを持っている。このことは例えば否認とか自己欺瞞とか呼ばれる現象で、現在でも経済心理学などの分野で人の行動を分析することで、それにまつわる様々な現象があらたに明らかになってきている。この種の人間の性癖は普遍的なものと言えるが、これをフロイトの描いた無意識理論と同じにできるとは言えない。ギャバードさんの挙げたような例は、「あなたはAというけれど、行動はBを表していますよ」と本人に問いかえれば、「そうかなあ。」と思い当たるところがあるような反応を見せたり、「なせそんなデタラメを言うんだ」「フェイクニュース!!」などの反応を示しつつも、その指摘は当たらずとも遠くはなかったということを認めるだろう。ところがフロイトのいう無意識内容は、それを本人に伝えてもにわかには信じがたいような内容であることが多い。(実際フロイトに言わせれば、無意識内容は、間接的にしか知りようがない、という事になる!!!)
結局は、現代的な無意識理論はその種の理論を完全には否定しないものの、あまり「流行らなく」(ギャバード)なっているというわけだ。

2020年6月20日土曜日

新無意識 5


昨日の最後の部分から繰り返す。

つまりフロイトはこう考えた。「幼児期のトラウマは心に深刻な影響を及ぼし、それによる欲動の高まりの影響が無意識にとどまり、それが後に治療により扱われる」。そしてそれが無意識にとどまった理由は、それが幼児の性的願望と結びついており、それが罪悪感を生み、抑圧されていたからだ。」
ところが現在の臨床家は考える。「幼児期のトラウマは心に深刻な影響を及ぼし、その内容は解離されてしまい、それが後に治療により扱われる」。
精神分析 トラウマ → それによる欲動の高まりが無意識にとどまる。
解離理論  トラウマ  その内容は解離されてしまう。
ここで私が何を言いたいかと言うと、欲動、という迂回路を考えると、そこに無意識の要素がかかわってくるし、そうでないと、解離という概念が入り込んできて、これと無意識との関連があやふやになってしまう。そしてそこのところは精神分析理論では定説がないのである!!すなわち無意識を論じるのであれば、解離を含めたこの論点の整理が前提となるという事だ。

新・無意識
 さてこの解離の議論を持ち出す前に、もう一つの前提として、脳科学的な進展に伴う無意識概念の再考について述べなくてはならない。ここで私は新・無意識というタームを用いるが、これは脳科学的な意味での無意識ということだ。そして同時にAIやニューラルネットワークの議論が絡んでこざるを得ない。そもそもニューラルネットワークモデルは、人間の神経ネットワークを模した形で作られている。つまりはここにきて生物学とコンピューターサイエンスは融合したのである!!!

実は「新無意識 New Unconscious」という名前を冠した著書が在ることは以前から紹介している。(Hassin (Eds.) The New Unconscious. Oxford Press.2006) これを紐解けばわかるとおり、たくさんの論者が、最新の脳科学に依拠した様々な議論を寄せているのだが、実はこれを読んでみても、ニューアンコンシャスとは何ぞや、ということは残念ながらどこにも明言されていない。各章を担当する著者が、新しい脳科学的な知見が精神分析的な概念に与える影響を寄せ書きしているという感じであり、全体の統一はあまり取れていないのである。

2020年6月19日金曜日

新無意識 4


そもそも無意識的幻想とは・・・・

ところで日常的に解離性障害を扱うという私の立場上、解離理論の文脈で無意識をとらえなおさなくてはならないのは当然だ。
まず精神分析の世界で何が起きているかと言えば、無意識的なファンタジーが治療対象として扱われることがますます少なくなり、より現実的な問題に重きが置かれるようになってきたということだろう。無意識に潜む何かを問題にするというパラダイムが昔ほどは考えられなくなったということだろうか。この私も、私は精神分析家だが、「患者の無意識的幻想」をしっかり探求しているだろうか、などと心配になる。でも分析を続けているうちにそれまであらわになっていなかったものがそうなるという体験はそんなに多くないと考えるようになっている。むしろそれとは別の体験の方が多いのではないだろうか。精神分析や精神療法での変化としては以下のようなものが圧倒的に多い。
● それまで受け入れられなかったことが受け入れられるようになる。たとえば「母親からの電話に出たくない、と言えるようになった」など。
● ある種の外傷的な出来事の想起や、それを取り扱えるようになったこと、など。
あるいは現代の精神分析は転移中心の考え方になっているので、どのような転移逆転移関係が生じ、それが解消されていったかが主たるテーマになり、「無意識的云々」ということはあまり出てこないということもあろう。
結局はある種の無意識的なファンタジー、欲動を宿す無意識という考え方があまり妥当ではなかったからか。そもそもこのモデルはフロイトが幼児性欲を前提として作り上げたモデルであるために出来上がったわけだが、最近のモデルはもっとトラウマモデルに近くなっている。つまり人の精神的な問題の背後にはある種の愛着の問題やトラウマの問題が隠されている場合が非常に多く、むしろそれを想定した治療の方が間違いがないということである。つまり想定はこうだ。
患者さんは幼少時に、あるいは思春期以降にトラウマを体験し、それが十分に扱われなかったり、新たに想起されたりするということが生じることが多い。もちろんそうではないケースもたくさんあるが、治療によりこれまで明らかでなかったことがあらわになる、というプロセスは、実はこのようなケースが圧倒的に多い。いわば幼少時の性的外傷の記憶が想起されるというプロセスであるが、実はこれはフロイトがヒステリー研究の段階で扱っていたストーリーと同じものであることは重要である。ということはフロイトはこの境地にすでに10年以上前に至っていたのか、ということになるが、フロイトはそこから大きな迂回をして、それは精神分析の歴史で起きた迂回ともいうことが出来るのだ。そしてそれが現在の精神分析の世界の中で一つの大きな問題となっている。
つまりこういうことだ。フロイトは考えた。「幼児期の外傷が無意識にとどまり、影響を及ぼし、それが後に治療により扱われるわけだが、それが無意識にとどまった理由は、それが幼児の性的願望と結びついており、それが罪悪感を生み、抑圧されていたからだ。」
ところが現在の臨床家は考える。「幼児期のトラウマは解離されてしまい、それが後に影響を及ぼす。」
つまりフロイトの「性的外傷が幼児の性的願望を刺激し、それが罪悪感のために抑圧される」というところがフロイトが作り上げた迂回路だったわけだ。

2020年6月18日木曜日

新無意識 3


フロイトと脳科学、無意識

 ここでフロイトに戻る。彼は中枢神経の単位としての神経細胞を発見したが、その意味ではフロイトは根っからの脳科学者であった。脳科学者としてのフロイト、といわれても読者の方はぴんと来ないかもしれないが、彼は純粋な理科系の研究者から出発していたのだ。ニューロン(神経細胞)という単位を発見した彼は、さっそく壮大な仮説を立て始めた。そして φψという2種類の神経細胞があって、φの場合にはそこで信号の流れがせき止められ、ψの場合にはここを通過するという理論を立てた。この2種類の神経細胞があるという仮定をもとに、そこから心の在り方を一生懸命組み立てようとしたのだが、さすがにこれだけでは全然無理だった。まるでコンピューターの原理を知らずにCPUを分解して、ミクロレベルでの二種類の部品を取り出して、そこからCPUの仕組みを説明するようなものである。当時の心の脳の仕組みを説明する学問的な素地はとてつもなく荒っぽいものだった。このころフロイトがいたウィーンを中心に発展していたのは、いわゆるヘルムホルツ学派の考えである。その信奉者であったフロイトが依拠していたのはいわゆる水力モデル hydraulic modelであり、そこで「流れる」「せき止める」という概念が出てくる。つまり抑圧、あるいは抑制によってリビドーという一種の流体の圧力が鬱積すると不快になり、それが解放されると快につながるという非常にシンプルな理解の仕方をしている。フロイトの脳の在り方を絵にするとこんなふうになると思う。パイプがこのように並んでいる。この絵はルイス・タルディという人の作品だが、おそらくフロイトの打ち立てた心の理論はどちらかというとこれに近かったのではないかと思うが、こんなことを言ったらフロイトは怒るかもしれない。

Lewis Tardy “Introspection”(2001)の図(省略)

 ともかくも脳の研究が可能になる前は、脳の組織を顕微鏡で見ても細かすぎて一見アモルファスで何も細部の構図が見えなかった。しかし、まだ解明されていないものの、ある種の規則性を持った構造やメカニズムが存在し、そこで心が生じていると考えられていた。おそらくその複雑さの程度が分からなかったからこそ、ある種の単純で決定論的な動きを想定することもできたのだ。ところが一見均一に見える脳の実質を顕微鏡で拡大してみると、すでにそこにぎっしりと脳細胞や神経繊維が詰まっていることが分かったのである。そして脳全体に1千億個という膨大な神経細胞が存在していて、その一つひとつの細胞から別の神経細胞にどれほどのつながりがあるかというと、10とか100どころか、100010000のオーダーであることが分かったのである。この数は大変なものだ。1千億の結び目があって、それぞれが10000の他の神経細胞と連絡を取っていることになる。この複雑さをおそらく私たちは想像することすらできないのである。脳とはそういう宇宙みたいな存在だということがわかってきた。
さて脳のどこの部位とどこの部位が実際に結びついているのか、ということについては、まさに研究が始まったところという印象を持つが、最近ではその問題を扱うconnectivity (脳内結合関係)という学問分野が成立し、学会も存在する。その研究成果の画像を紹介しよう。これは脳を2000ぐらいの部位に分けて、どの部位とどの部位がつながっているのかということをコンピューターで図示したものである。他の部位とつながっている数が多い部位は、より大きなドットが描かれている。これを見る限りは後頭葉や角回あたりに大きなドットが集中していることがわかる。
 私がここで主張したいのは、脳というのは巨大な編み目構造、ネットワークからなる情報処理装置であるということだ。とんでもない膨大なネットワークから成立する脳。そこから心はどういうふうに生まれてくるのか、皆さん不思議に思わないだろうか。私にとってはこの問題について、何人か導き手になる注目すべき先達がいて、その一人がGiulio Tononiというイタリア出身の脳科学者である。以下に彼の理論を少し紹介しよう。彼は数年前に京都大学にも招かれて講演を行ない、評判となったが、彼の唱える説というのは非常に興味深い。彼は心は巨大なネットワークの産物だと考え、それをΦ(ファイ)と呼んでいる。そしてそこに貯めることの出来る情報の多さが、意識のレベルを決めると考える。その単位もまたΦなのだ。すなわちあるネットワークがあった時にそこにどれほど情報を貯めることができるかということが、意識がどの程度複雑で込み入ったものになるかを決定するということだ。[kn1] 情報が貯められて、それを伝達することができるような処があったら、それは意識を成立させるのだというわけである。そして勿論、これは人間の脳でもAIでも同じだと考えられる。

 [kn1]ここは「ものになるかを決定する」ということでしょうか?

2020年6月17日水曜日

新無意識 2


 ここで歴史的なことにも少しだけ触れよう。200年前は脳の中というのは、亡くなった人を解剖して見るということでしかわからなかった。ポール・ブローカというフランスの医者が、失語症の人の死後脳を集めて剖検した結果、前頭葉の後ろのほうに欠損があった。そこでその部位をブローカ野と名付けることとなった。ここが梗塞、あるいは事故などで破壊された時に失語が起きる。だからここに運動性の言語中枢が局在しているということがやっとわかったのである。実は1800年までこういうことすらわからなかったのだ。そして過去200年、特に過去数十年で実に多くの知見を我々は得たのだ。 
気脳写像
 本書の読者の中には、「気脳写」という言葉をご存じの方はおそらく非常に少ないと思うが、私が精神科医になった1982年に、精神科のテキストを見ると、気脳写像というのが掲載されていた。脊髄から空気を入れると脳脊髄液の中を上がって行き、側脳室に空気が入っていき、それがレントゲンに映る。この一部が押しつぶされたり形がゆがんでいたりしたらそこに何かの病変があるのだろう、ということがぼんやり分かるというわけである。その技術がいつまで用いられていたかはわからないが、私が精神科医になった1982年にはまだ精神科の教科書にそれが載っていた。それほどまでに苦労して脳を可視化しようとしたわけである。また同じ精神科のテキストに載っている初期のCT画像はとてもぼんやりしている。出血している部分がようやく分かる、といった程度だ。ところが最近はMRIで非常に鮮明に見え、しかもfMRI(機能的MRI)などになると、まるで動画を見るように、脳で起きていることを刻一刻示すことができるようになっている。この間のテクノロジーの進歩は、そこまですさまじいのである。ただし、どことどこがどのようにつながっていて、どういう機能分化をしているかということになるとほとんどわからないのである。 
  この事情をもう少し具体的に示そう。ここに示したfMRIの画像(図20-1)は、被検者が幸せに感じている時と悲しい時は脳のどの部位が興奮しているかを示している(Vergano, 2013)。異なる感情状態のときは、興奮の場所が全然違うだろうということは理解できるが、感情をつかさどる辺縁系以外にも、脳のいたるところに点々と興奮している部位というのは一体何を意味するのだろうか。つまり、脳の中ではある一部がある機能を担っているのではなく、ある一つの感情、行動を成立させるために、脳にはいろんな部分の情報網やインプットがあるのだということを示しているのである。脳の機能がいかに複雑で込み入っているかということを示す一つの例と言えるだろう。
 脳の可視化が進んだ結果として、こんなことが分かり、それが臨床的に役に立ったといういくつかの例を挙げよう。例えば患者さんの訴える幻聴がある。幻聴というのは一種の幻であって、「気のせい」だと考える人さえいる。つまり聞こえていると信じ込んでいるから聞こえるのであり、本当は聞こえていない、という考え方である。ところが幻聴のある患者さんがまさに幻聴を訴えている時に、 後頭葉の一次聴覚野の活動が検出されているということが研究ではわかっている。一次聴覚野には普通耳から入った信号が入ってくるのだから、そこに興奮が見られるということは、本当に声として体験されていたのだ、ということが分かったことになる。
 あるいはプラセボ効果やノセボ効果についてである。プラセボ、すなわち偽の薬を飲んでも痛みが軽くなるとはどういうことなのか? では実際に何が軽減したり低下したりするのか。例えば乳糖の錠剤、つまり薬効のない薬の粒を飲んでもらって痛みが軽減した被験者がいるとする。その患者さんはプラセボ効果を示しており、この患者さんは気のせいで痛みが軽減しているだけだろうと思う人がいてもおかしくない。ところがfMRIで見ると皮質の様々な部位であたかも実際に鎮痛剤を飲んでいた時と同じような変化が起きていることがわかったのである。さらに私が個人的に興味深いと思うのは、被検者に安いワインを飲ませて、これは高いワインですと伝えると、美味しさを感じた際に興奮する部位である眼窩前頭皮質の活動がやはり同様に増すという類の実験である。つまり本当に美味しいワインとして、脳が体験しているということになるのだ。
プラセボの話に戻るならば、それが実際に痛みを鎮める効果を持つときは、本物の鎮痛剤と同じ効果を持つということになる。決して「気のせい」ではないのだ。プラセボが痛み止めとして効く場合には、決して「気のせい」ではないということが、脳の活動の可視化によってはじめてわかるというわけである。ちなみにこのプラセボ効果は、脳内麻薬物質の拮抗薬であるナロキソンで低下することが分かっているという。これなどもますます「気のせい」ではなかった証拠ということになるだろう。
 脳の可視化によって我々がひとつ教えられたことがある。それは患者さんの話をもうちょっと素直に聞かなくてはいけないということである。プラセボの問題に限らず、その他の様々な身体症状についても、内科や専門診療科で何も異常な検査所見が見つからないと、その後は「症状は精神的な問題で引き起こされます。うちでは治療の仕様がありません。精神科に行ってください。」となることが少なからずある。その「精神的な問題」からは、あたかもそこにないもの、気のせいで生じているものというニュアンスが伝わるだろう。しかし今やこれらには明らかに脳科学的な基盤が与えられている。患者さんの心のせいではないのだ。脳の可視化によってわかってきていることは、患者さんの言っていることは大概は本当だったのだということである。 
 最後がお説教口調になったのは、自分でも少し嫌だ。脳が可視化されることで、それまでのブラックボックス的な心、特にその深奥の無意識が垣間見られるようになって、その実態はといえば巨大ネットワークであり、そこでは心の現象の対応物 correlate が見いだされるという経験が積み上げられてきた、ということを言いたいのだが。コンピューターの心臓部といえばCPUだが、そこにあるのは巨大な回路でしかない、というのと似ている。でもその巨大な回路の中で様々なことが実際に起き(電子の貯留、放出、など)、それがディスプレイ上の画像の変化に対応しているというところは、神経ネットワークの集積としての脳と同じである。

2020年6月16日火曜日

新無意識 1


新しい心の概念としての「新無意識」

ところで非線形的な心の在り方は、私たちの心の持つごく基本的な性質であり、それ自体が心の構造を私たちに指し示すものではない。100年以上前に神経系統が、細胞という単位(ニューロン)で構成されていることを発見したフロイトは、さっそくさまざまな仮説を設けたが、後の彼の心の理論、たとえば意識、無意識、あるいは超自我、自我、エスといった心の図式へとつながったわけではなかった。後者は彼が独自に考え出した心の構造の仮説であった。それと同じように、心の在り方が非線形である、という基本的な性質から心の構造を具体的に構築することは出来ない。しかしその心の在り方はおそらくフロイトが考えたものとはかなり異なるものになるのである。幸いそのような心を「新無意識 new unconscious」という概念を用いて説明する試みがある。そこでこの概念について説明したい。
まあ、ここまではこれでいいか。
すでに本章で触れたことだが、精神分析に限らず、心理療法一般では、療法家はいろいろなことに因果論を持ち出す傾向にある。「あなたのこの症状にはこういう意味がある」、「あなたの過去はあなたの今のこういう行動に反映している」のような意味づけをするということがすごく多いのだ。漠然とした因果論や、根拠が不十分な象徴的な意味づけは、精神科医でも心理士でもある程度は避けられないであろう。この因果論に基づいた思考には長い伝統があり、脳科学の知見とはなかなか融合しないという事情がある。精神医学においては薬を使うために脳科学的なことは十分わかっていなくてはいけないのであるが、医師はなかなか勉強する余裕がないという事情がある。他方では臨床の場面での患者さんの振る舞い、言動というのはいわば生ものであり、常に予測不可能である。そこでそのような患者さんを扱うために、とりあえずは因果論、理由づけに頼ってしまうわけだ。
まあ、これも今でも賛成する。たった2年前に書いたことだからね。
  ちなみに「新無意識」は私の造語ではない。れっきとした著書が出版されている。(Bargh (Eds.) The New Unconscious.  Oxford Press.) これを紐解けばわかるとおり、たくさんの論者が、最新の脳科学に依拠した様々な議論を持ち出しているが、結局「新無意識」そのものについて書いている人はいない。そこで私なりにその新無意識の輪郭だけでも示すことを試みたい。
 最近の脳科学の進歩は目覚しいものがあるが、何と言っても1980年代以降、脳の活動が可視化されるようになったということが大きい。機能的MRIPETなどの機器のおかげである。とにかく患者さんの心にリアルタイムに進行していることが脳のレベルでわかるようになってきている。最近、ディープラーニングがまたまた注目を浴びるようになってきている。なにしろコンピューターが絶対に人間を追い越すことはないと思われていた囲碁の世界で、AlphaGoというプログラムが世界のトッププロに勝ってしまった。それを通して、ではディープラーニングというのは一体なんなんだろうということが我々の関心を引くようになったわけである。ディープラーニングをするAlphaGo は、囲碁のルールは教わっていない。囲碁の何たるか、これが囲碁だ、ということを理解する、いわばフレーム問題をバイパスしているわけだ。ただこう打たれたらこう打つ、こういう手に関してはこれがベターだという情報を星の数ほどインプットしている。そうすると囲碁の正しい手が打てるようになる。そこに教科書的な意味での学習はない。
実はこの学習方法は、人間のそれと同じであると言ってよい。人間も実は学校以外では学習はしていない。なぜなら赤ちゃんは学校に通うはるか以前にたくさんの情報からこういうアウトプットがあり得るということを一つ一つ学んでいくわけだからである。すなわち我々の脳はディープラーニングをするものなんだというふうに考えるとわかりやすい。そしてそのような心の在り方は、フロイト流の考えとはかなり異なることが分かってきている。
ここもこのままでよろしい。

2020年6月15日月曜日

解離と他者性 4

ユングの業績は、解離と夢との間の関連性を示したことである。Donald Kalsched によれば he(Jung) discovered that dissociated parts of personal experience have a universal tendency to image themselves in dreams and other fantasy material as coherent animate presences that he called complexes つまり解離された体験は、夢の中やその他のファンタジーの素材の中に、彼がコンプレックスと呼ぶところの一貫した動的な存在 coherent animate presences としてイメージされるという普遍的な傾向を有する。ここで彼が、DⅠDの交代人格が夢にも登場する、と言っているわけではない。但しDIDにおいては,しはしば患者は別の人格状態で起き上がり、夢を見る代わりにその人生の部分を生きるという体験を持つ.夢と解離の類似性を考えることは、実は別人格の存在を私達のはばすべてが、実は毎日体験していることを教えてくれる。夢の中で私達はある他者に出会うが、その他者は主体性を有し、あなたに語りかけ,また予想外の行動を示す。それは交代人格の振る舞いと同一である。彼はこんなことも言っている個人のコンプレックスは無意識の中で自己化 personify する。そして私たちの夢の中での「小さい子 little boy」になるのだ、と。そうか、ユングのいうコンプレクスはまさに別人格といってもいい存在であり、フロイトの言うそれとは全く別物であるということだ。以前もこのブログに書いた覚えがあるが、コングは私たちは夢の中で他者に出会う、ということを言っていた。

2020年6月14日日曜日

ICD 11における解離性障害の分類 6


次は6B12 離人感・現実感喪失症 Depersonalization-Derealization Disorder


「離人感・現実感喪失症は、非個人化、非現実化、またはその両方の永続的または反復的な経験を特徴とする。」何じゃこりゃ! ここであるネットで拾った翻訳を使っているが、ここの部分は書き換えが必要だ。非個人化、って何のことだろう。英語の本文は、”Persistent or recurrent experiences of either or both depersonalization or derealization.” だから、このまま訳せばいいのである。
「離人depersonalization や現実感喪失 derealization のどちらも、あるいは一方が継続的、ないしは反復的に体験されることを特徴とする。」が正解である。
以下の部分もほぼ全面的に訳しなおした。
「離人症は、自己を奇妙な、あるいは非現実的であると感じたり、自分の思考、感情、感覚、身体、または行動から切り離されたりdetached fromそれらの外部観察者であるかのように感じることを特徴とする。離人症はまた、情緒的ないしは身体的に麻痺したように感じたり、自分を遠くから眺めたり「劇の中にある」と感じたり、知覚的な変容(例えば時間の感覚の歪曲)の形をとったりする。
原文は、Depersonalization is characterized by experiencing the self as strange or unreal, or feeling detached from, or as though one were an outside observer of, one’s thoughts, feelings, sensations, body, or actions. Depersonalization may take the form of emotional and/or physical numbing, a sense of watching oneself from a distance or ‘being in a play’, or perceptual alterations (e.g., a distorted sense of time).
現実感喪失症は、他人や事物や世界が奇妙で非現実的である(例えば夢を見ているようだったり、遠くに感じたり、霧がかかったような、生命のない、色のない、あるいは視覚的に歪曲されたものと感じる)と体験されたり、周囲から自分が切り離されていると感じたりすることを特徴とする。
原文は、Derealization is characterized by experiencing other persons, objects, or the world as strange or unreal (e.g., dreamlike, distant, foggy, lifeless, colorless, or visually distorted) or feeling detached from one’s surroundings.

6B13トランス症 Trance Disorder
まず出来合いの翻訳。
「トランス障害は、個体の意識状態の顕著な変化または個体の慣習的な感情の喪失を伴うトランス状態を特徴とし、個体が直近の周囲の意識を狭めること、または異常に狭く選択的に環境の刺激、運動、姿勢、およびスピーチを自分のコントロールの外にある小さなレパートリーの繰り返しに制限することが含まれる。」うーん、今一つだなあ。「個体」というのは特にひどい。まあ ”individual” こう訳しているのだろうが。そこで原文を見ると以下の通り。
Trance disorder is characterized by trance states in which there is a marked alteration in the individual’s state of consciousness or a loss of the individual’s customary sense of personal identity in which the individual experiences a narrowing of awareness of immediate surroundings or unusually narrow and selective focusing on environmental stimuli and restriction of movements, postures, and speech to repetition of a small repertoire that is experienced as being outside of one’s control.
やっぱりね。individual が「個体」はないよね。この原文も、6行で一つ文章になっていて、英語でも悪文である。そこで二つに分けつつ訳すのが「翻訳道」の正しいやり方だ。そこで訳しなおす。
「トランス障害は、個人の意識状態の顕著な変化または個人のアイデンティティの通常の感覚の喪失を特徴とする。この状態では個人は直近の環境への気づきの範囲が狭まり、環境からの刺激の選択的な焦点化が生じ、自分でコントロールが出来ないような制限された運動、姿勢、および言動が体験される。」
すごく偉そうなことを言って訳してみたが、読んでみると全然たいしたことがない。まあいいか。