2019年12月31日火曜日

揺らぎと心の臨床 1

東京は、快晴で気温も上がり、穏やかな年の瀬である。

7章 揺らぎと心の臨床

この最後の章は私が専門とする精神分析や心理療法と揺らぎの関係について論じる。精神分析の世界ではここ230年ほどの間にとても大きな動きが起きている。それがいわゆる「ツーパーソン・サイコロジー」ないしは関係精神分析の流れである。そしてこの流れが、心を揺らぎとして捉えるという見方と見事に合致しているのである。
フロイトが一世紀以上前に創出した精神分析は、心を理解して治療を行う上できわめて大きな影響力を発揮した。1900年代になって次々と生まれた精神療法はいずれもこのフロイトの精神分析をヒントにしたり、それを改良したりしたものだったのである。しかしそれはどうしての一方通行の治療法であった。つまりそれは治療者が患者の話を聞き、そこに表れた病理や問題を理解し、伝える、介入するという形を取っていたのである。その意味で、問題を持った患者という一人の人間を相手にするという意味でワンパースン・サイコロジーと呼ぶべきものだった。そしてそこで起きていることは、たとえ一瞬ではあれ時間を止め、治療者が患者をフリーズさせ、あるいは顕微鏡でのぞいて観察する、というニュアンスを持っていたのである。
しかしこのワンパースン・サイコロジーは、正確さや客観性を担保するための試みと言えたが、それには実は大きな問題があった。体に問題を抱えていたり、脳に問題を抱えている場合には、そのようなアプローチで問題がないわけだが、心を扱う心理療法では、患者と治療者の関わり方そのものが患者にとって大きな影響を与えることが明らかになってきたからだ。
いまや数多くの精神分析家が異口同音に唱えていることがある。それは治療関係はそれを構成する二人(ツーパーソン)相互の力動的な関係性により成り立つ。それを専門的な表現と用いるならば「相互互恵的影響mutual reciprocal influence」 と呼び、ミッチェル、ストロロウ、ベンジャミンなどが皆一致している(Wallin,)。そしてこれはある意味では揺らぎの精神療法、心理療法とも言えるのである。

このツーパーソンサイコロジーと揺らぎの関係を説明するために、前章で例に出したA君とBさんの関係を例に挙げよう。今度はA君は心理士となって臨床を行うことになったとしよう。そう、あのゼミは臨床心理士になるための大学院におけるゼミだったのだ。そしてBさんはそのゼミには登場せず、A君が臨床のトレーニングを始めて最初に出会った患者さんとして登場する。Bさんは普通の感性を持った女性で、今度はA君は初めてのクライエントとしてBさんと対面する。A君はBさんのことを魅力的な女性と感じるだろうが、さすがに自分の立場をわきまえているため、もちろん心理士として適切に対応するべきことは分かっている。


2019年12月30日月曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 まとめ


まとめ

本章では揺らぎの欠乏としての発達障害というテーマで論じた。揺らぎの欠如ないしは減少は、その人の脳の一つの特性と言えるだろう。そしてそれが極端になった場合に発達障害、特に自閉症スペクトラム障害と呼ばれる。しかしそれはある種の障害とは決して言えないような何かでもある。キャベンディッシュにしても岡潔にしても、掛け値なしの天才なのだ。そして彼らの業績は確かに揺らがない脳の持つ鋭い思考力やそれに支えられた遂行の突破力に関係している。ただしそれらの揺らぎのなさは強いこだわりや相手の気持の読めなさといった問題も伴なっていた。
最後にバロン=コーエンの唱えたシステム化脳と共感的脳の関係性について考えてみよう。両者は排他的な関係にあるというのが彼の仮説であった。結局これは揺らぎとの関連で言えば、揺らぎの欠如と、揺らぎの豊富さとの違いと言い換えることが出来るのだ。そしてその意味では互いが互いを抑制しあう関係性にあることは自明ともいえる。システム化脳は意味の揺らぎをできるだけ排することで本領を発揮する。しかもそれが発揮されている間は彼らは他人から見られているかということに無頓着になる。岡先生などは授業中に一つの問題に取りつかれると、授業そっちのけで夜遅くまで黒板の前に立ち尽くして思考に没頭したという。もう教師としての自分の姿を外側から、あるいは生徒の側から見る方向には心は揺らがない状態になってしまったのだ。その意味で彼らの脳は意味の揺らぎと自他の揺らぎの両方の低下を見せていた。
他方では共感のためには心は自他の間の揺らぎを最大限に使うことになる。自分に対する対自的な視点は結局は相手の心を感じ取ることと同様のことである。そしてそれは遡れば母親が赤ちゃんの心をいかに察するかという問題に行き着く。母親にとって子供の感じていることはかなり直接的に伝わってくる。新生児が泣いている姿を見て、デビューしたばかりの母親は一緒に目を潤ませる。その時母親はすでに子供と一緒になっている。自分の子供への声掛けは、子供が聞く母親からの声掛けと重複している。そしておそらくここに男女差は顕著に表れているのだ。
本来人間のオスは外で狩猟をし、獲物を持ち帰ることを生業としていた。その時追い詰めたウサギに共感していたら仕留めることなどできない。相手は完全に感情を持たないモノでなくてはならないのだ。他方では人間のメスは子供を守り、養育し、その生存率を高めなくてはならない。そのためには子供の様々な感覚のセンサーとなり、そこでの異常やニーズを敏感に察知することが必要だった。
しかしすでに述べたとおり、これらの二つの心の能力は、本来それら自身が揺れ動いていてしかるべきものである。ウサギを冷酷に仕留めた父親は、家に帰れば子供を愛するよき父でなくてはならない。もちろん子供が飼っているウサちゃんを丸焼きにしようなどとは考えない。つまり揺らぎ(+)と揺らぎ(-)との間の揺らぎこそが人間に真の価値を与えるのである。発達障害はこれらのことを考えるうえで極めて多くの示唆を私たちに与えてくれるのである。

2019年12月29日日曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 10

ここでまだこのスイッチの意味がつかめない方のためにもう少し考えてみようとしていたら、アマゾンから「ショージ君の日本拝見」(文春文庫 1976年)が届いた。この本にはショージ君(東海林さだお)が岡先生と会見した時の様子が収められているとネットに書かれていたから注文したのだ。ショージ君は本の企画で、いわば編集者に乗せられる形で、高名な岡先生にインタビューをしにアポなしで奈良まで行ったという。その時の話だが、私はこれを読むのは実は非常に楽しみであった。岡潔が日常生活で見せる人間味あふれる姿がショージ君という庶民性の塊のような情緒的な人間
ショージ君の描いた岡先生
(そうでないとギャグをかけるはずがないではないか)とどのように交流するのだろうか。しかしその本に描かれていたのは、結局は私たちが臨床や日常で出会う発達障害系の方々の印象とあまり変わらなかった。すなわちその会見は対話という形ではなく、一方的に自分の考えを話し、同じパターンの動作を繰り返し、それを聞かされているショージ君に起きている様々なこと(膝を崩して失礼にならないのかとモゾモゾしていたことや、トイレに行きたいのに長時間我慢を強いられていることなど)に全く無頓着な様子で自分の主張を続けた岡先生の姿だったのである。
ここには二つのことが見て取れる。一つは岡先生は自分の話に夢中になることで相手が見えなくなっていたらしいということだ。そしてもう一つはそもそも相手が見えない、というより相手の立場に立つことが先生は苦手だったらしい、ということだ。この両者があることで独特の対話(あるいはその欠如)の様子が見られ、それらはやはり相乗効果を及ぼしていたというニュアンスがある。
岡潔がある文章で語っていたのだが、数学はある問題を解決していく道筋が快感であるという。彼は率直に自分が一種の快楽的な体験に従っていることを認める。彼が口癖のように言う、「情緒のもとは頭頂葉だ」という表現は、自分の中に起きていることがある種の生物学的な、脳科学的な原則に従ったものであることを率直に認め、それを語ることに、それこそ快感を覚えているのだということを教えてくれる。然しそればかりではない。彼の視点は例えば自分を外側から見る部分と、自分の話に没入している部分という形での揺らぎをあまり見せないのである。

2019年12月28日土曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 9

通常はパターン重視と曖昧さの許容は同時に起こりうる
  
以上の考察から、私たちが日常他人と交流を行う時の曖昧さの許容ということが持つ意味について論じたが、それは曖昧さを排除する傾向と両立しうるのであろうか? もちろんバロン=コーエンが考えたような極端なシステム化的な脳を持った人の場合、曖昧さに対する耐性は少なくなる傾向にあるだろうが、大抵は両方の脳の使い方を私たちは有しているであろう。そしていざとなったら使うことが出来る共感的な脳を使えることが、発達障害傾向のある人の人生をそれだけ豊かにするのだ。
2018年に読売テレビで「天才を育てた女房」というドラマが公開されたが、主人公は世界に誇る日本の天才数学者の岡潔がモデルとなっている。天才ゆえの大変な変わり者であった岡は、今でいうアスペルガー障害の傾向を十分に備えていた。・・・・とここで私は岡潔先生でも人間味あふれる交流を他者としたという例を探して、それをもとにアスペルガー的な思考と人間的で情感あふれる思考の共存を描こうとしたが、あまり出てこないのである。「天才を育てた女房」をダウンロードしてそのようなシーンを探し出すべきだろうか。三高時代一度も歯を磨かなかったとか、夏でも長靴姿で、暑いとそれを冷蔵庫で冷やして履いていた、などの奇行の持ち主でも、奥さんが諦めずについて行ったということはなにがしかの情緒的な交流があったに違いない。それでこんなシーンを無理やり作った。全くの私の創作である。
ただならぬ風貌の岡潔先生
「そんな岡潔であったが、時々しみじみと奥さんに言ったという。『君には僕のことでいろいろ迷惑をかけているね。済まないと思っているよ。』これで奥方(みちさん)はこれまでの苦労が報われた気がしたという。」(ちなみにネットでは作家の藤本義一氏が岡をモデルとして『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記しているという。さっそく取り寄せよう。)
 実際に岡潔はエッセイなどで情緒の重要性について熱く語っているから、もちろん人の気持ちもわかる素晴らしい人物だったに違いない。その上で私が書きたいのは、バロン=コーエンの言うシステム化的脳のモードと、共感脳のモードをスイッチできることが重要であるということだ。これはシステム化脳によるこだわりが強ければ強いほど難しくなり、周りの人を困らせる。長靴に固執する岡先生は、59才で文化勲章を授与するとき、革靴を履かせるのに家族は必死に説得したという。

2019年12月27日金曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 8


ここで残念なことは、A君とBさんは結局心が通じ合えないままで終わってしまうということだ。ただしそれは主としてAさんの側の原因によることになる。Bさんの方はおそらくほかのある程度親しい人とも、曖昧さを含んだコミュニケーションを取ることが許される限りでは、気持ちを通じ合わせることが出来るだろう。そこではお互いに心の深い部分はたがいに触れず、漏らさず、曖昧さを残した交流を行い、互いに必要以上の明確化をしないし迫らないことを暗黙の了解事項にしている。曖昧なメッセージにはそれなりの理由があり、それ以上はお互いに問わないことでバランスが保たれる。(というよりはそもそも人間関係において本音といったものは私たちが考えるほどは存在しないのかもしれない。むしろ本音が明確にどこかにあるとの前提を持つことそのものに問題があるというべきか。しかしこれはこれで別件であり、それなりの説明が必要なので、ここでは触れないでおこう。)
もう少し具体的な話をしよう。Bさんには同性のCさんという友達がいて、親しく交流をしているとする。二人の間のメッセージのやり取りは曖昧さを含むが、それで双方が満足している。その意味ではお互いのメッセージの持つ曖昧さを許容しあっている。親しい、と言っても「親しき仲にも礼儀あり」なのだ。
たとえばBさんが次の見たい映画があり、次の日曜に行きたいと思うとしよう。一人で行くよりは誰か友達と見に行きたいが、少し変わった映画でなかなか一緒に見に行ってくれる人がいない。Cさんもその種の特殊なホラー映画が好きとは聞いていない。Bさんは遠慮がちにCさんに事情を話して誘ってみる。しかしいつもは付き合いのいいCさんがいい顔をせず、その理由も言おうとしない。BさんはおそらくCさんには何か事情があって来れないのであろうが、それ以上は誘うこともなく、また来れない理由を追及しないだろう。Bさんには「Cさんは私を好いてくれている。いつも色々と付き合ってもらっている。でもそのCさんがためらっているのなら特別な理由があるのかもしれない。そしてそれをはっきり明言しないからには、それを聞いて欲しくない理由もあるかもしれない。」
もちろんBさんもCさんが積極的に付き合ってはくれないことにどのような理由があるかを知りたいとは思う。想像もいろいろ膨らむ。「Cさんはその種のホラー映画がよほど苦手で、でもそれを言うことで私を傷つけたくないので言わないのだろうか?」「Cさんに恋人が出来てデートの約束があるのかもしれない。でも私にはそれを言いたくないのだろうか?」あるいは「何か病気を抱えていて休日はなるべく安静にしておきたいのだが、私に心配をかけたくないから言わないのだろうか?」このようにBさんは様々な憶測をするかもしれないが、あえてCさんに来れない理由を問い詰めないところが二人の良好な関係が保たれる一つの理由かもしれないのだ。
実はCさんの方からBさんに何かを頼んだり、私的な事柄を尋ねたりすることがあるが、彼女の方もBさんの気持ちを尊重し、同じように気を使っている。親しい割には意外にも相手の知らない部分がたくさんあるのだ。しかし共通の趣味やテーマについては盛んに議論し、意見を戦わせることもあり、概ね二人の関係は良好に保たれているのだ。
この様に相手がお互いを思いやる関係は、お互いに知らない部分、曖昧な部分を残し、それを明確にしないという部分を含む。結局相手に対するリスペクトとは、相手の心の見知らぬ部分をそっとしておくことを前提としている。そしてもちろん自分に関して触れて欲しくない、あるいは自分自身が触れたくない部分を尊重してもらうこともとても大切になる。
人と人が互いに尊重し合いながら暮らすということが、互いに曖昧さを許容することに関係するという主張は、多くの方にあまりピンとこないかもしれない。深く付き合うこととは、互いの心を洗いざらい相手に伝えること、という間違った観念を持っている人にとっては、私のこの主張は理解に苦しむかもしれない。しかしお互いの私的なことをあらゆるレベルにわたって知ることで、たとえば夫婦の仲はどんどん深まっていくとは限らないことを私たちはよく知っている。パートナーのケータイをたまたま見てしまうことでそれまで保たれていた関係があっという間に崩れるという例は枚挙にいとまがない。

2019年12月26日木曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 7


揺らぎのなさと心のなさ

揺らぎのない思考の何が問題となるもう一つの理由がある。それは情動に深くかかわる問題だ。もしパターン遵守にエネルギーを注いだ場合、対人関係においていろいろな問題を生む可能性がある。本章の冒頭で示したように、意味の多義性を無視したり、それに興味を示さなかったりすることで、彼らは他者との情緒的なコミュニケーションを損なうであろう。この説明のために、再びA君とBさんのやり取りを振り返ってみよう。
Bさんの返事「、今度の日曜日は予定があっていけません」は曖昧さを含んでいた。A君にしたら、その詳細を知ることで曖昧さをなくしてより正確な情報をつかみたかっただろう。「日曜日でなかったらいいのか?」「予定がなかったら行けるのか?」「その予定が中止になったら知らせてくれるのか?」「単なる言い訳に使っているのか?」「あなたが好きではありません、という代わりに、言い訳として言っているのか?」・・・・
しかしBさんの意図は明確な部分と共に曖昧さを残すことそのものにあったと言っていいだろう。明確な部分はA君の申し出を断ったことである。少なくとも次の日曜日に彼女がA君と映画に行く可能性は却下した。しかしその動機については曖昧さを残していた。そしてB君もその曖昧さを含んだメッセージを受け取って欲しかったのである。
一つの仮定として、Bさんの本心は「A君ことはとても好きになれず、一緒に映画に行くなんて、ありえない!」であったとしよう。しかしさすがにそれを直接表現するわけにはいかない。BさんはA君の気分を害したり、恨まれたりすることなく、自分を誘うことを諦めて欲しいのである。つまりそれがBさんがA君のことを嫌いであるから、ということを表立っては伝えたくないのだ。なぜならこれからもゼミでは二人は顔を合わせなくてはならず、気まずい関係にはなりたくないからである。その際Bさんが望んでいることはおそらく次のような事であろう。A君はBさんが自分の誘いには応じないであろうということは了解するが、それはBさんのA君に対する嫌悪感や悪意以外の、何か別の理由なのだ。
おそらくBさんの中には、A君が最終的にどのような説明を行って、この事態と折り合いを付けるかを想像することまでは出来ないだろう。彼女はA君がどのように解釈をしようと、彼から恨まれたり逆ギレされたりすることなく自分と距離を置いてもらえればいいからだ。しかしここでA君がBさんを誘うことを諦めた場合に起きるであろう心の動きをいくつか想像することは出来る。
「きっとBさんは男性そのものに興味がないのだろう。」
Bさんは自分の魅力を理解できないかわいそうな人なのだ。」
「もともと自分は本気でBさんを誘おうと思うほど彼女に惹かれてはいないのだ。」あるいは
「まったくBさんの態度は不可解だが、これ以上誘うのはエネルギーの無駄だ」。
「おそらくBさんは僕のことを好きなのであろうが、同時に僕のことを畏れ多く感じて近づけないのだ。」(この最後の方は書いていて情けなくなるが、それはともかく・・・・)。
もちろんB君の心に生じる考えとしては、他に様々なものがありうるが、いずれにせよこれらの思考を同時に持つことには実はとても大事な意味がある。それは彼が一番恐れる可能性、つまり「Bさんは僕には男性として関心を持っていないのだ。僕には男性としての魅力がないのだ」という考えに直面することを回避させているからだ。もちろんこの恐ろしい可能性はチラチラと見え隠れするが、ちょうど太陽を直視する時のようにあまりにも心のダメージが大きいので、心の目をそらす為にいろいろな言い訳を用意するのである。
さてここでAさんがB君の心に起きて欲しいという思考は、あまり現実的ではない場合がある。B君以外の普通の男性なら、同じような状況で、すでに最初の段階からこのような思考を生み出すことでAさんから撤退するであろう。せいぜいもう一度ダメもとで、恐る恐る誘ってみて、それに対する返事を読んでBさんの自分に対する関心のなさを確信するくらいであろう。ところが私の挙げた例では、B君は曖昧さを軽減するために質問や誘い掛けを繰り返すことになる。その一つの理由はこれらのいくつかの異なる思考を同時に心においておくことが苦手である可能性だ。曖昧さの排除とパターン遵守が信条の人にとってはそれが言えるかもしれない。

2019年12月25日水曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 6


ではどうして発達障害の人はパターンを変えるのがそれほど苦痛なのだろうか? どうしてキャベンディッシュは、毎日決まった時刻にグラハム・コモン地区の家から出て、ドラグマイヤー通りからナイチンゲール通りを数マイル歩くというコースを生涯にわたって変えようとしなかったのだろう? 単純に考えれば、変えることが不快だったからだ。これは一種の固着とでも言うべき現象であり、これまでのやり方と同一のパターンを繰り返すことが一種の快と感じられ、それから外れることは不快や不安を呼び起こすのだ。ここにはおそらく深い生物学的な仕組みが関与していることだろう。下等生物で、ある決められたパターンを繰り返すという場合には、それが遺伝に組み込まれた、ある種の本能としての意味付けを有する。それは一定のパターンを守れば快、外れれば不快というかなり明確な条件付けが生まれつき成立していることにより守られていく。そうでなくては生殖というきわめて手の込んだプロセスを踏むことが出来なくなってしまうのだ。
ミステリーサークルならぬ、アマミホシゾラフグの産卵巣
この写真は2014年に発見されて話題になったフグの一種の作り上げる産卵巣だ。海底に見事に描かれた砂の芸術に、最初の発見者は一種のミステリーサークルのような不思議な印象を得たようだが、やがて新種のフグが一週間かけて作り上げることが判明した。このフグのメスは、オスが作った出来栄えが見事なこのサークルをみると、引き付けられたようにその中心に陣取り、そこで産卵をする。しかしこの見事な産卵巣を作る雄たちは、誰からも手取り足取り教わったわけではないだろう。ある時期と条件が整えば、憑かれたように一心にこれを制作するであろうし、おそらく少しの誤差もゆるがせにしないだろう。少しでも歪んでいたり、対称性が損なわれていたら、メスたちは他のオスのサークルの方に行ってしまうからだ。私たちがある行動を起こす際にも同様の機制が働いているのであろう。
このフグほどではないにしても、ある動作にこだわりを持つというのは実は私たちのほとんどが多かれ少なかれ持っている性質と言える。部屋に入った時に正面にかかっている絵の額縁がわずかに傾いでいることに気が付いたとしよう。何となく落ち着かなかったり、苛立ったりする人の方が多いのではないだろうか。それでも他人の家の部屋なら見て見ぬふりをするだろうが、それが自分のオフィスや自宅の居間であったらさっそく「正しい位置に」直すだろう。同様に机の周りにゴミが散らかっていればすぐに片づけたいと思うのはむしろ普通だ。ところが同居人がそれを気にしなかったり、それにいちいち注意を払うあなたに逆に苛立ちを覚えるとしたら、両者の共同生活はそれだけギスギスしたものになる。そして発達障害の人には、その種のこだわりを通常の何倍も持っている場合が多い。

2019年12月24日火曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 5


揺らぐ心と揺らがない心

以上の考察から、発達障害を揺らぎの減少した、ないしは欠如した心の状態とみなすことには、読者の皆さんはある程度は納得していただけるだろう。ただし私はこの二つの心の在り方に優劣をつけるつもりはない。というよりは両者はともに必要な心性なのだ。ただしこのうち一方が欠如してしまうことの弊害が問題なのだ。
揺らがない心も必要だといったが、本書で揺らぎの意義を強調してきた手前、この主張は意外に感じられるかもしれない。しかしこの点は強調しておかなくてはならない。そもそも私たちが理屈や理論に従って物事を処理するときは、極力揺らぎを排除して思考をする。すでに述べたように、人が白黒の決着をつけ、排他的に決断をすることは、生命維持のために必要なことだったのだ。それはある事柄を遂行する際には特に際立って重要になる。目の前に現れた生き物が、自分の天敵なのか、それとも逆に自分が捕食をするべき獲物なのかはおそらく瞬時に決断をしなくてはならないことである。すぐに逃げないと逆に捕食されてしまうであろうし、またすぐに捕まえないと捕食する機会を失ってしまう。その際はあらゆる具体的な情報を勘案して、即断しなくてはならない。そしてその決断を下すうえで不明であったり得られていない情報があったりすれば、それを即座に追及する必要がある。この時の心の動きは、どちらかと言えばAI(人工頭脳)的と言えるだろう。あいまいさのない、理論的な推論に従った即断即決が特徴である。そしてそれはちょうど先ほどの例でいえば、A君のBさんの返事への対応だったのだ。ではこのような曖昧さのない、揺らぎのない思考の何が問題なのだろうか?それは二点あげられる。
第一点はこのような思考方法は一種の個人的なこだわりへと発展することである。論理的に物事を判断し、それに従って行動をするという方針は、それにまつわる様々な事柄を一義的に決めていくことにつながる。
この説明のために、キャベンディッシュに登場してもらおう。18世紀の英国の天才ヘンリー・キャベンディッシュは化学、物理学の分野で華々しい成果を上げたが、生涯同じ散歩道、同じ服装を通したことが知られる。そして現代的な見地からは、彼にはアスペルガー障害としての兆候を多く備えていた(自閉症の世界 スティーブ・シルバーマン 正高信男。入口真夕子 訳 講談社 ブルーバックス 2017年)
これは彼の行った緻密で正確無比な実験と一体となっていたと考えられる。物事の条件を一定にし、そこで起きることを観察するのは科学の情動だ。チャールズ・ダーウィンは「キャベンディッシュの脳は細かく測定をしては違いを明らかにするエンジンだった」(同P25)と称したというが、彼が自分の思考も同様にコントロールしようとしたことは想像に難くない。そしてそれを生きた人間が行うとしたら、そこに当然のごとく一種の快感が伴っていなくてはならない。そしてそれは自分の生活パターンについても当然のごとく波及するというわけだ。
問題はこのこだわりが、その人個人に留まればいいのだが、社会で生きるうえで出会う様々な人々との齟齬を生み出すということである。生涯独身だったというキャベンディッシュだが、仮に奥さんをめとり、共同生活が始まったとしよう。彼女は決して生涯同じ時間に同じ散歩コースを彼と歩いてはくれないであろうし、違いを計測するための様々な機器によって部屋が埋もれることをよしとはしない。彼を天才とは認めずにとんでもない変人として扱う可能性が高いのだ。

2019年12月23日月曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 4


A君に不足している「自他の揺らぎ」

このA君の心の働きが見せる揺らぎの欠如として、上述の意味の揺らぎ以外にももう一つの揺らぎについて考えなくてはならない。それが私が「自他の揺らぎ」と呼ぶものである。つまり自分自身としての、主観的な心と、自分を外から見た客観的な心である。
人の心はだれかと対面した時に、ある複雑な心の動きをする。それは自分自身として物事を体験すると同時に、そのような自分を外側から体験するのである。
私たちが町中に出て人目に晒されているとき、必ずこのような体験を持っているはずだ。私たちはまさか下着姿で外出することはないだろう。必ず人目を気にした身なりをするはずだ。若い女性ならスッピンではコンビニにすら行かないという人が多い。それは私たちが外からどう見られているかを常にモニターしているからだ。
だからと言って私たちは私たちそのものであることをやめない。ある考え事に没頭しながら街を歩いている時などは、私たちはおそらく他者からどう見られるかをあまり考えない瞬間が多くなるだろう。しかし人前では自分をモニターする目を時々織り込む。いわば自分という体験が、それそのものとして持たれる部分と、外からどう見えるかという部分との間を揺れ動くのだ。
私が自他の揺らぎと言ったのはそのような心の動きだが、これは哲学でいう即自と対自という体験とほぼ同義である。
ここのところ、時事用語辞典から引っ張ってみる。
サルトルJean-Paul Sartre 190580)によれば、それ自体として肯定的に存在する事物のあり方が即自存在être en soi)であり、それに対して、この即自存在へと否定的にかかわり、自分自身とは区別された対象として定立する意識的存在が、対自存在être pour soi)として規定される。対自存在は即自存在と否定的にかかわるばかりでなく、自分自身から身を引き離すことになる。このような対自存在の自己否定と脱自の構造において、人間の自由が基礎づけることになるのである。」
うーん、あまりちゃんと説明できていない気がするが、まあいっか。
この即自と対自が「共存」、つまり共時的な並列ではなく、「揺らぎ」であることを示そう。あなたが電車に揺られながら、何年か前に、何か恥ずかしい言動をして穴があったら入りたい体験を思い出す。そして思わず「ウワー」とか「馬鹿だなあ、オレは」と口にしてしまう。そしてハッと気が付くと、周囲の乗客が怪訝そうな顔をしていて、あなたはまた恥ずかしい体験をしてしまう。このような場合はあなたは一瞬即自的な心のあり方をして、しばらく対自側に揺らいでいなかったことになる。さもなければ、「人前で声を上げたり独り言を言ったりするとおかしな人だと思われる」という意識は、声を上げそうになる際に即座に戻ってきて自分自身を抑えることが出来たはずだからだ。
さてそこでA君の場合を考える。この自他の揺らぎは彼の中でどのような意味で欠如していたのだろうか。彼がBさんへの映画の誘いのメールをした後の彼女からの断りのメールをうけて、即座に「ではその次の日曜日はどうですか?」という返事を書いた時のことを考えよう。彼はそれがBさんにどのように受け取られるかについておそらく把握できずにいたはずだ。例えばBさんに「この人は何を焦っているのだろう?」「このように畳みかけるようにメールを返すことを迷惑に感じるのではないか?」という懸念はA君の頭には皆無だったか、あるいはあってもごく僅かであったはずだ。もちろんメールを書くときはうちに一人でいるのだから、人前に身を晒す時の自他の揺らぎは体験されないはずだ。しかし他者に読まれるような文章を書くときは、私たちは結局はそれを外側から、つまり読む人の立場から読みつつ書くはずだ。つまり自他の揺らぎを備えつつ文章を書くはずである。そしてその視点が薄いというのは結局対人場面で普段からこの自他の揺らぎを体験するという習慣を持っていないということを意味する。おそらくA君は人と直接会っていても、メールのやり取りをしても、結局この種の揺らぎを十分体験しないことで他人から疎まれるということが起きていた可能性がある。その意味で、この自他の揺らぎの欠如はより深刻と言わざるを得ないのである。

2019年12月22日日曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 3


誘った相手から「今度の日曜は予定がある」という返事を受け取った時、私たちの多くは、二つの可能性の間に立たされたという感じを持つだろう。まずは相手に断られた、フラれたという可能性であり、これが心に占める割合をおよそ80パーセントくらい、としておこう(いかにもテキトーな数字だ)。そしてそれとは別に、肯定的な可能性、つまり「別の日なら大丈夫よ」という意味が込められている、という可能性に一縷の望みを繋ぐことになる。こちらは20パーセントとしておこう。
これらは相矛盾した可能性なので、心はそのどちらかに揺れるのだ。白でもなく黒でもなく、しかしかなり黒に近い灰色としての体験といえるだろう。しかし実際には自分を拒絶するBさんのイメージを思い浮かべた瞬間には黒を体験して落ち込み、私に微笑みかけているBさんを思い描いた時に白を体験して少しホッとする、ということが起きている。おそらく心は一瞬体験するのは白か黒か、という二者択一的なものと考えるが、心はこの白と黒の間の行ったり来たりの弁証法を延々と繰り返すことになる。大体それを41の割合で行うだろうというのが、80%20%という数値の意味だ。
このような揺らぎを体験しつつ、私たちはその先に起きるであろう事態に向けて心の準備をしていることにもなる。もう一度誘って断られるとおそらく今度は95%5%という割合でBさんとは縁がなかったという現実の重みが増し、それを受け入れていく。これがふつうの私たちの心のあり方だ。そしてBさんからのこのようなメッセージを受けた場合には、それに対する返事をどのような形でするかを、当分は見合わせる、という選択肢をも含めて熟考するだろう。それはそもそもBさんからのメッセージが持つ曖昧さに対するリスペクトとも言える。対人関係でお互いの言葉の行間を読むとはそういうことだ。
それに比べて発達障害的な心性を持つA君はこのような動かし方をしない。「今度の日曜は予定がある」というBさんからのメッセージはまさに字義通りであり、裏に含まれている可能性のある意図は汲み取られない。黒は黒、白は白として理解され、どちらとも取れるメッセージについてはそれを明確にするための質問を畳み掛けるようにする。そしてこの畳み掛け方が、揺らぎの欠乏を反映している。というのも相手からのメッセージを揺らぎを持って体験することは、それに対する自分の返事のメッセージもまた相手に揺らぎを持って体験されることを想定することにつながり、そのための熟慮の時間も当然あってしかるべきだからだ。

2019年12月21日土曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 2


どのような例でもいいが、一つの事例として出そう。
ある発達障害の若い男子大学生A君が、ゼミで見かけた女子学生Bさんに興味を持った。A君はさっそくBさんを「次の日曜日に映画を見に行きませんか?」とメールで誘ってみた。BさんはあまりA君に興味を持てなかったため、「ごめんなさい、今度の日曜日は予定があっていけません」と返事をした。するとA君からさっそく「ではその次の日曜日はどうですか?」とメールが来た。Bさんは少し圧倒された気持ちになり、またその日も都合がつかない、という同じ言い訳も通用しない気がして、もう少しA君とのデートには興味がないことを伝えるために、「ごめんなさい、私は休みの日は外出せずに家にいる方がいいのです。」と返事をした。すると今度はA君は「それなら最初から言ってくれればいいのに。どこか室内で過ごせる場所はどうでしょう?」と誘ってきたという。
この時点でBさんはさすがに心配になり、同じゼミの友達に相談したが、A君は何となく遠ざけられていることが分かり、ゼミでしばしば出会うA君と今後どのような関係を持ったらいいかが分からなくなったという。
このエピソードは半分は実話だが、同様のケースはたくさんあるだろう。A君はアスペルガー傾向を持ち、Bさんの返事を字義通りに受け取り、その行間に込められた気持ちを読もうとしない(あるいは読むことができない)。ここに揺らぎの欠如の問題がどのように関係しているだろうか?
一つ重要なことは、通常は私たちは言葉を様々な用途で用い、それは一つのことを伝達すると同時に、別のことも伝えるということだ。そしてそれは実はきわめて込み入ったプロセスでもある。Bさんの「今度の日曜日は予定がある」は、それ自身はほかのいくつかメッセージを可能性として含みうる。それらは「実際に次の日曜日には別の予定が入っているから映画には行けない」をはじめとして、「あなたとのデートはお断りです。」かもしれない。「別の日曜日なら都合がつく」かも知れない。「今度の月曜日(火曜日、水曜日・・・・)なら予定はないわよ」かも知れない。「それでもあきらめずに誘うつもり?」でもありうるし、「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの。もう一度誘われれば考えるわ。」もありうる。「本当は行きたいけれど、貴方にこれ以上惹かれてしまうのが怖いの」かも知れない。「親に男性からの誘いは断れ、と言われているの。ごめんなさい。」でもありうる。
これらの可能性はいずれもあり得ない話ではないし、それこそデートの誘いを断られたほうは好意的な解釈をしたがるだろう。あるストーカー体質の人は繰り返し断られたデートの誘いに対して怒りを爆発させたという。「どうして君は僕への気持ちに正直になれないんだ!」
このように考えると私たちは結局は言葉が持つ意味の揺らぎの中で生きていることが分かるだろう。「今度の日曜は予定がある」は字義通りではない意味を持ちうる。と言ってもすでに状況はかなり厳しいが。それでも「別の日曜日なら都合がつく」である可能性もゼロではない。「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの・・・・・。」という可能性も少しは残っているかもしれない。

2019年12月20日金曜日

揺らぎ欠乏と発達障害 1

私が身を置く世界、つまり精神医学の世界では、「発達障害」という概念や診断名は、いまや大流行りである。過去にこれほど人々の注目を浴びた精神障害はあっただろうか? 1970年代からは境界パーソナリティ障害などが非常に注目を集めた。その時代に新たにこの診断が下された患者さんもたくさんいたころだろう。それから時代は下り、発達障害の時代となった。この診断が特徴的なのは、これに該当する人々が莫大な数に上るということである。発達障害、特にいわゆる自閉症スペクトラム障害などは、高機能、高知能の人々に多く見られるとされる。そして自閉症が極端な男性型脳であるという、以下に述べるバロン・コーエンの仮説にみられるように、男性一般に少なからずみられる傾向であるという考え方も示されている。そうであれば発達障害の傾向を有する人は、人類の少なくとも半分ということになり、症例数が多い、というどころの話ではなくなる。
サイモン・バロン‐コーエン氏
このように発達障害の議論は人間が本質的に持つ思考パターンや傾向の一端を示しているとも考えられ、その意味では多くの臨床家の関心を呼ぶことは十分に理解されるのである。本章で私がこの発達障害の問題を取り上げるのは、この章の表題にも掲げたこと、すなわち心の揺らぎのある種の欠如と発達障害傾向の関係性を示すことであるが、そのために先ほど述べたバロン=コーエンの議論を少し参照したい。ちなみに彼の議論は私が発達障害やアスペルガー問題を考えるうえで大きな刺激を与えてくれたという経緯がある。 
バロン=コーエンは人の脳の機能を大胆に二つに分類する。それは彼が言う「システム化機能」と「共感機能」である。「システム化機能」とは物事を整理し、順序だて、枠にはめ込む機能である。また「共感機能」とは他人の気持ちに共感し、思いやりの感情を持つという機能だ。これらは両極端な機能というよりは別々のものであり、人はこの二つを同時に併せ持つと考えてもいい。例えば前者は日常生活や仕事で具体的な業務を能率よくこなすうえでとても大切であろう。また後者は社会生活の中で、あるいは家族や友人との関係で、他者とのかかわりを持つうえで必要不可欠な能力と言える。
 さて彼の議論の中で注目するべきなのは、人はどうやらこれらの能力の持ち方に偏りがある、という点を指摘したことだ。つまり「システム化機能」と「共感脳」とは拮抗していて、どちらかが得意な場合は他方は苦手、という関係があるというのである。つまり両方の能力には負の相関があるというわけだが、これは実は不思議なことと言えるだろう。普通人間の能力は競合しないことの方が多い。サッカーが得意な人は野球も得意だろう。サッカーが得意な人ほど野球が苦手、という傾向は普通は考えられない。運動神経がいい人は、大体どちらもうまくなるし、後はどちらにより多くの時間を割いて練習をしたかということによる得手不得手の違いが生じるだけだ。ところがシステム化と共感は、あたかも脳がそれを使う領域を争っているかのような、あるいは一方を働かせることが他方を抑制するかのような関係を有していることになるのだ。

2019年12月19日木曜日

揺らぎと失敗学 推敲 6


失敗を生み出す記憶の揺らぎ

失敗に結び付く心の揺らぎに関しては、私達が日常的に体験しているのが、記憶の揺らぎである。これが失敗の大きな部分を担っているのだ。ちなみに私は以前から、自分自身の記憶の揺らぎには苦労をしてきた。最も難しいのは人の名前だ。誰かの名前を思い出そうとして、ある程度頑張っても出てこないと、これ以上いくら努力をしても最後まで思い出せないという実感が湧くことがある。つまり思い出そうとする努力がかえってその対象を追いやっているという感覚だ。ちょうど漢字の書き順が分からなくなると、考えれば考えるほど正解から遠ざかるのと似ている。そうなるとその人の名前がどこかに書かれたものを探し出すしか手段はなくなる。これが私の場合ごく身近にあっている人についても起きることがあるのだ。そしてこれは抽象名詞の場合と大きく異なる。抽象名詞なら、思い出そうとしたらそのうち出てくるだろうという予感がすることが多いし、大抵はそうなる。英単語なども結構こうやって出てくる。ちなみにこれは私が思春期以降持つ傾向なので、加齢の影響とはあまり関係がなさそうに感じる。
興味深いのは、ある時に思い出せていた人の名前が、ほんの数分後には急に思い出せないという事がおきるということである。あるいは逆のことも起きる。テレビに出てきたある男優の名前が思い出せない。しばらく頑張るが無駄だと思い諦めてしまう。ところが12時間してふと名前が出てくる。その時はあまり努力をせず、別のことを考えている最中だったりする。このように明らかに想起には揺らぎが存在するようだ。と言ってももちろんしっかり記憶しているものではなく、うろ覚えのものに対してこれは当てはまることが多い。
このような現象を考えるに、そもそも記憶の揺らぎを生み出すのは、シナプス結合の持つ揺らぎの性質であるということが推察される。記憶に直接関係するシナプス結合は、通常はとても流動的で揺らぎにみちているのだろう。
神経細胞の大雑把な構造は皆さんご存知だろう。樹状突起の膨大な数のシナプス結合から情報を受けた神経細胞は、それを様々な電気信号に変えて軸索を通して別の神経細胞へと送る。と簡単に言うが、実はこれがとても複雑らしい。これまで考えられてきた常識が次々に打ち砕かれて、神経細胞一個の振る舞いそのものが実に複雑であることがわかっているという。たとえばこれまでは樹状突起のいくつかのシナプスの、プラス、ないしはマイナスの信号が合算されて、その神経細胞が発火するかしないか(「全か無か」)という形で次の神経細胞に情報を伝達すると考えられた。そして各神経細胞で何を伝達物質にするか、つまりシナプス結合ではどの物質を用いるような神経細胞かというのは、細胞ごとに決まっていると考えられていた。たとえばドーパミン系の神経細胞、ノルアドレナリン系の神経細胞、セロトニン系の神経細胞はそれぞれ独立して存在しているとも考えられていた。ところがひとつの神経細胞にこれらのうち異なるいくつかの伝達物質を用いるシナプスが混在することがわかったという。また樹状突起に存在するシナプスは、いくつか、どころか何千、ひょっとすると何万も存在するという。そしてその神経細胞が発生させる信号は、「時々発火する」、なんてもんじゃない。波になって絶えず送られていく。そしてその周波数も、振幅も様々に変化しうるし、その波自体がただの正弦波ではなく、正弦波の上により小さな波が乗っかって複雑な情報を形成する、という一種のフーリエ級数的な信号なのだ。
するとあることを記憶するときに成立するシナプス結合、というのは「切れた、あるいはつながった」という単純なものではとても表現できない複雑な性質のものということになる。それはおそらくいくつものシナプス結合の集合であり、記憶Aが定着するためにはその集合の数が大きくなり、またそのつながり具合もしっかりした状態と言えるが、うろ覚えの状態ではその記憶に関するシナプスの数は揺れ動き、あまり思い出さなければ少なくなっていき、また別の事象 を記憶する方に動員されてしまったり、またそのシナプス結合は似たような事象A‘が想起された場合にはそれに引きずられて想起されやすくなったり、かえってそれと混同する運命になったり、またさらに別の事象 が想起されることで逆に想起されにくくなったりするのだ。

2019年12月18日水曜日

揺らぎと失敗学 推敲 5


考えてもみよう。テレビ番組は朝早くから放送をしていて、よくみな寝坊しないものだ。「○○アナ、今月は3回目の遅刻」なんてことがどうして起きないのかと不思議になる。それどころか毎日どこかで誰かの講演会や演奏会が開かれ、遅刻することで大変な迷惑がかかる。運転手が遅刻して始発電車が出なかったというレベルの話は全国ネットのニュースになってしまう。みな遅刻という不名誉な「失敗」をどの様に回避しているのだろうか。 
そこでこの遅刻という失敗について考えてみよう。もちろんテレビ局などでは二重、三重の防止策をしているのだろう。マネージャーが朝当人が目が覚めているのを確認する、とか。でもそのマネージャーが目が覚めなかった場合の策を講じているところなどないのではないか。
もう少し詳しく見てみよう。朝7時に起床する予定のある女子アナさんがいたとする。そして彼女や、それ以外のテレビ関係者が起床時間に起きれずに寝坊する確率をPと単純化しよう。その女子アナさんが7時に起床できず、彼女に確認のモーニングコールを715分に入れるはずのマネージャーも寝坊してしまう、やや重大なインシデントが起きる確率Pはという事になる。そして念には念を入れてマネージャーにサブマネージャーがついていて、730分に確認のモーニングコールをする約束になっていたと仮定し、その人まで寝坊して730分というぎりぎりの時間になっても女子アナさんが寝坊している確率はPとなる。すると結構ハインリッヒ、いや事実上の冪乗則がここに成立することになるだろう。女子アナの7時の時点での寝坊というよくあるインシデントの起きる確率と、マネージャーさんまで寝坊して715分まで寝坊しているという少し深刻なインシデントが起きる確率と、730になっても女子アナさんが起きていずに、番組に穴をあけるギリギリの、かなり深刻なインシデントが起きる確率は、PPPという事になるのだ。
この女子アナさんの遅刻という失敗は、何人かのチェックをすり抜けて生じたことになり、ある意味では失敗の典型と言える。しかし同様のチェックのすり抜けは個人の中でも生じる。それはたとえば車の運転を考えればわかる。例えば車が信号に差し掛かり、左折しようとしている状況を考えよう。横断歩道の信号が青になり、歩行者が固まりになってわたっていく。そのうち青信号が点滅をし始める。車は歩行者が渡り終わるタイミングを見計らって、車を進めようとする。しかしそんな時でも足早に信号を渡り始める歩行者が目に入る。一番事故が起きやすいタイミングだが、実はとてもよくある光景だ。今風の言い方を用いれば、かなり「アルアル」というわけだ。
もちろんこのような場合99.99パーセントは事故は起きない。運転手の側もこの瞬間がいかに事故を起こしやすいかをよくわかっている。ただしごくまれにこの歩行者が運転手の目に留まらずに車を進めてしまうと、人身事故が起きてしまうわけだ。
ここで青信号が点滅し始めたのもかかわらず、右側方から歩行者がわたり始める場合、これを歩行者の「不規則行動A」と呼んでおく。そして99.9パーセント運転手はこれに気が付いて事故を回避する。しかし一番事故が起きやすい状況は次のようなものだ。不規則行動Aが生じた瞬間、左側方からも歩行者が同様に点滅青信号でわたり始める場合だ(不規則行動Bとしよう)。つまり右からの歩行者に気を取られていて左からの歩行者に対してノーマークになり、事故につながってしまうというパターンである。このBだって「アルアル」であるが、運転者はいわば同時に起きた二つの「不規則行動」に対する対応能力は非常に低くなるからだ。
ここをさらに詳しく見ていく。例えば運転手は、全方向に注意を向けるためにその意識を100%ほど使っているとする。そのうち右方向に33パーセント、左方向に33%、後方に33%としよう。それだけあれば一つの不規則行動には余裕で対応できるだろう。そしてもし実際に起きた不規則行動Aに注意を向けることは、おそらくその意識の33%どころか90%を使ってしまうだろう。すると残り10%で不規則行動Bに対応できる可能性はかなり低くなる。そしてもしそれでも二つの不規則行動A,Bに対応できても、三番目の不規則行動に対してはおそらく全注意力の1%ほどしか使えず、ほとんど対応できないだろう。それは例えば車の後方から近付いてきて車を回り込んで横断歩道を渡ろうとする自転車で、これをCとしよう。もし不規則行動A,B,Cが起きる確率を単純化して一律にPとするなら、それらの二つが同時に起きた場合、すなわちpの確率で、事故にかなり高い確率でつながる事象があり、それが三重に重なった場合、つまりpの確率でほぼ確実に事故が起きるということだ。
私は家人の車の運転を助手席で見ていてこのことを思いついた時には、まさに「目からうろこ」という気がしたのを覚えている。なぜならこのことは「事故は絶対になくならない」ということの確証を得られたと思ったからだ。そしてある意味ではあたかも日常のごく自然な一場面を作り上げるようにして、重大事故を人工的に作り上げることもできるということだ。普通の運転者も、もしこれらのアルアルが偶然三つ重なれば、ほぼ確実に人身事故を起こすだろう。これはハインリッヒ則を説明する一つのわかりやすいモデルではないか。
さて以上の考察はやはり広い意味での意識の揺らぎと関係していると見ていい。私たちの集中力は、それ自体がかなり揺らいでいる。何事かに集中した後はしばらくはボーっととする。いわゆるデフォルトモードに戻るのだ。さらにはあることに注意することは、別のことへの注意をおろそかにする。横断歩道で右方に注意を向けることは、左方への注意をおろそかにする。左、右方向への注意は、今度は後方からの注意をほぼゼロにしてしまうだろう。これが私たちの意識の在り方である。そして意識がこのような揺らぎの性質を持つ以上、失敗はほぼ必然に、いつかどこかで生じることになるのだ。

2019年12月17日火曜日

揺らぎと失敗学 推敲 4

失敗を生み出す「注意の揺らぎ」

ここで事故や失敗が生じる原因を揺らぎという観点から概括したい。私はこれを二種類の揺らぎの複合産物と捉える。一つはそれこそ自然界の揺らぎ、私たちが第一部で見たような揺らぎである。万物は揺らぎ、大気は揺らぎ、大地は揺らぐ。それがさまざまな気象現象を生み、地震を招く。そして人の心も揺らぐ。事故は双方の影響を受けて生じる。
例えば福島原発事故を考えると、一方では予想を超えた津波という現象が生じ、それは私たちの予想を超えた出来事、自然界の「大揺れ」と言えた。しかし原発の事故を防ぐための最大限の努力をするうえで、地下の電力設備の停止を回避するための十分な方策を施していなかったという意味では、これは一種の人災であったとも言える。
これらの事故のうち特に私たち人間の心の揺らぎが大きな位置を占めた場合に、私たちはそれを失敗と呼ぶのであろう。そうでない場合はそれらは事故として処理される。それは私たち人間に起きた生理現象や疾病についてもいえる。飛行機のパイロットが突然心臓発作を起こして倒れ、飛行機が操縦不能になったとしたら、これは医学的な事象であり、失敗ではない。ただしそのような事態が生じることを踏まえて副操縦士を配備しなかったことが問われる際もある。その場合には失敗とも言えるだろう。
では失敗、心のレベルでの揺らぎの本質は何かと考えた場合、それは結局私たちの注意力の揺らぎではないかと思える。私たちの注意力は常に一定とは限らない。それは常に揺らぎ、その揺らぎには大きなものも小さなものもある。そしてその注意力が大きく低下した際に失敗が生じると見るべきだろう。そしてその注意力は、覚醒時に求められるだけではない。しばしば眠っている時にも常に問われる。
最近こんな例があった。あるテレビ局のアナウンサーが寝坊して、番組が彼女なしで開始されたという。あるネットの記事を参照する。
2019.3.4 11:25
遅刻で番組欠席のTBS古谷有美アナが謝罪…国分太一「きょうは起きれたんですね」
 
TBSの古谷有美アナウンサー(30)が4日、TBS系「白熱ライブ ビビット」(月~金曜前8・0)に生出演。2日のTBSラジオ「土曜朝6時 木梨の会。」(土曜前6~8)の生放送を寝坊したために欠席したことについて謝罪した。MCの国分太一(44)に「きょうは起きれたんですね」と早速いじられ、古谷アナは深く息をついた。そして「先週の土曜日、ラジオの番組を寝坊するという、人としてあるまじき過ちを犯してしまいまして、大変皆様にご迷惑をおかけしました」と神妙な面持ちで謝罪。「詳しいことは土曜日のラジオにて、しっかりお話させていただきたいと思います。本当に申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げた。 
 これをここに転記していて、私自身緊張してきた。とても他人事には思えない。だって、遅刻ってよくあるではないか。

2019年12月16日月曜日

揺らぎと失敗学 推考 3


結局ハインリッヒ則とべき乗側は同じか?

ということで失敗、ないしは事故ということを少し掘り下げて考えるならば、この問題はこの世を支配している冪乗側の議論と結局何ら変わらないことが分かる。少なくともそれが私の現代風のハインリッヒの法則の理解だ。そこで例のピラミッドの図を、べき乗則を考慮したうえで書き換えるとどうなるのだろうか? それを第一部、第三章で見たロングテールの図式から導き出そう。あれをピラミッド型に描き代えるとどうなるのか。そこでやってみた。まず以前に示したロングテールの図。

これを二枚用意し、片方を反転させてつなぎ合わせると以下のようになる。
これがその図であるが、これは数日前に出てきたロングテールの図を実はハインリッヒが描こうとしていたのはこれではなかったか。
ここで少し気になるので「ハインリッヒの法則」と「冪乗則」という二つのキーワードでネットで検索してみる。両方のつながりは結構示唆されているが、「ハインリッヒの法則は結局は『なんちゃって冪乗則』である」と言い切っている文章には出あわなかった。
ところでハインリッヒは実際にどう考えていたのかを少し振り返ってみる。前掲図に示されているとおり、彼はすべての事故がたとえば330回起きると仮定する。そしてそのうち300回では人は外傷を負わないとする。そして29回は軽症の外傷を負い、1回は重症の外傷を負うとする。そして重症の外傷は、この330回のうちいつ生じるかわからないとし、また教訓 moral として、「とにかく事故を防ぐべし。さらば事故や外傷はおのずと回避される」とする。
このハインリッヒの記載から伺えるのは、労災には理由があり、それは事故であり、それが存在する限りは外傷は生じるべくして生じるという考え方である。このスタンスは冪乗則と似ているようで異なっていると考えるべきだろう。それは大事故には理由、ないしは基本的に原因があるとする考え方だ。ただしその原因とは原因ともいえないようなインシデントであり、そのどれが外傷を伴った労災に発展するかはわからないとも言っているようである。するとこの議論は堂々巡りのようにもうかがえる。
結局私たちは次の二種類の立場を扱っているのだ。
1.   あらゆるインシデント(正常とはいえない出来事)が、重大事故に繋がる可能性を有している。(ハインリッヒの立場)
2.   あらゆる揺らぎが、激震に繋がる可能性を有している。(冪乗則の立場)

こうやって書いてみると、やはり事実上同じことを言っているのではないか?と思えてくる。 1.については「ではインシデントを完全に防ぐことは出来るのか?」と聞きたくなるが、実はハインリッヒ自体が、そんなことは無理だといっている。(今度ゆっくり原典に当たってみよう。だからその意味では 2.に近いことにある。また 2.については、では揺らぎがないところには激震もおきないのか、ということになるが、そもそもプレートの境目から遠く離れた、プレートの中央付近なら、地震は基本的に起きないだろう。
参考のためにここに図を示した。世界地図に地震の頻度を赤い点で描き入れたものである。
この図からは北アメリカの中央付近にはほとんど地震が起きないことになる。私が17年間暮らしたカンザス州のトピーカという小さな町は、この北米大陸の中央平原の真ん中にある。私はそこで地面の強い揺れを感じたことが、17年間の間一度もなかった。これはちょうど稼動していない工場ではインシデントが起こりようがないということになぞらえることが出来よう。人は 1.の場合は重大事故の「原因」は明確であり、それはインシデントであり、それだけ注意して仕事をすればいい、というだろう。確かにそうかもしれない。でもそれと同じことを 2.では言いにくい。地震がまったく起きないところにいかない限り、地震の多発地帯では頻発する地面のゆれは、いくら努力しても止められるものではない。でもたとえば工場での生産を100パーセントロボットに任せるという奥の手を使ったら、インシデントをゼロに近くできるかもしれないし、将来どのようなテクノロジーが開発され、地殻の微少のゆがみを正すべく規則正しい振動を地面に与える、などの技術が出来るかもしれない。つまりは 1 と 2 はあまり変わらないということを言いたいのだ。ということで私なりの結論としては、ハインリッヒの法則は、冪乗則として洗練されてはいないものの、似たような発想によるものであり、彼の考えたピラミッドは結局はロングテールの左右張り合わせのことだ、ということになる。ハインリッヒのピラミッドはそれがあまりに単純化されていたのである。

2019年12月15日日曜日

揺らぎと失敗学 推敲 2


ハインリッヒの法則について考えると、ひょっとしたらこれは冪乗則についての洞察の一歩手前の状態ではないかと思えるのだ。失敗は、いかにも冪乗則に従いそうな感じではないだろうか? 地震も株の高騰や暴落も戦争もみな、冪乗則に従う。失敗だってその典型例だと考えられてもおかしくない。
ハインリッヒの法則とは何かを読むと、大事故にはそれなりのきっかけがあるということを言っている。工場などにおける大きな事故は、それを起こしかねない30の小さな事故から発展する、と主張しているのだ。しかし地震はいかにも起きそうな30カ所の中から選ばれて起きるだろうか?おそらくそうではない。30どころか無数の地震発生地の中から、何らきっかけもなくドーンと起きるのだ。地震とは異なり、工場における失敗はその兆候を知ることが出来、もう少し予測不可能ということになるのだろうか。しかしこの29300という数字の根拠は何なのだろう?
 例を考えてみる。201712月に新幹線の台車が破断寸前まで行ったという事件。しかし実際の破断が起きたわけではなく、その寸前でとまったという意味では、これは新幹線史上の大事故とまではいえなかったはずだ。そしてその人身事故は1964年の新幹線開業以来、4回起きていることになる(1995年、2011年、2015年、2018年)。ということはその30倍の120回ほどの危うく大事故につながりかねない事故があり、今回の破断寸前事故はその一つということになる。
この事故には予兆や原因があったという。(https://toyokeizai.net/articles/-/211007?page=2しっかりとした品質管理や点検をしていれば防げたはずだ。ハインリッヒ説によれば問題があそこまで進む予備軍がほかにも10くらい起きているということになる。
しかしこの検証をしようとするとたちまち判らなくなる。1995年の事故は東海道新幹線三島駅で乗降口の扉に指を挟まれた高校生が発車した列車に引きずられてホームから転落、死亡したという事件。2011年は九州新幹線で新水俣-出水間で中学2年の女子生徒がはねられて亡くなったという事件。2015年の事件は新横浜-小田原間を走っていた東海道新幹線の先頭車両で男が焼身自殺を図り、男と巻き込まれた乗客の女性が死亡したものだ。そして2018年には、同区間を走行中、男が刃物で乗客に切り付け、3人が死傷する事件が起きた。それぞれ異なる経緯で起きた事件で関連性はあまり見当たらない。ハインリッヒ的には、たとえば焼身自殺をもう少しで犯しそうな人がこれまで10人いたり、刃物で乗客を切りつけそうになった事件が10件あったということだろうか?そうかもしれないしそうでないかもしれない。刃物を隠し持って今にも切りかかろうとしたが我慢して目的地で降りたた人の数など調べようがないからだ。また同様に台車の破断寸前事故をとっても、調べてみたらほんの少しの破断が全国の車両で9件見つかりました、という報告は聞かない。つまり事故は突然、どこからもなく生じ、予想がつかないという方がより現実を反映している。
あるいは殺人事件を例にとろう。これも一応「事件」には変わりない。多くの殺人には何らかの予兆があるだろう。ABに殺意を抱く。そしてある日凶行に及ぶ。これは確かに大「事件」だ。しかしAを以前から知っている人は大抵言うのだ。「Aさんはごく普通の人でしたよ。ちゃんと挨拶もするし。」逆に「普段から何をする人かわからず物騒でした。」というケースは、筋金入りのサイコパスを除いてはむしろ少ないのだ。Aは殺人者予備軍、つまりいつ爆発するかわからない30人、というのとは違うプロフィールを持っていることがあまりに多い。彼はむしろノーマークなのだ。ちょうど大地震が起きた時と場所が大抵ノーマークであったのと同じように。

2019年12月14日土曜日

揺らぎと失敗学 推考 1


5章 失敗と揺らぎの問題

失敗。
私たちが生きていくうえで決して避けて通れないもの。
失敗をすることで初めて私たちは何かを学んでいくということは確かであろう。しかし失敗は私たちの心を深くえぐり、苦しめるのだ。
私たちが生きて社会で機能を果たすうえで必然的に生じる失敗とはいったい何だろう? これもまた揺らぎの問題と深く関係していると考えられるのである。
かなり昔のことであるが、ある機会にこの失敗というテーマについて発表する機会があり、それから深く考えるようになった。やがて私は畑村洋太郎先生の「失敗学」なる学問があることを知り、さらに興味を持つようになった。そしていわゆる「ハインリッヒの法則」なるものを知り、それに惹かれていったのだが、それが本書で論じている揺らぎや冪乗則に関係することなど思いもしなかった。ただ確かにこの法則は冪乗側と似ている。いわば同じ匂いがするのだ。そこで念のためにこのハインリッヒの法則をここにお示ししよう。まずはハインリッヒが示した原図である(省略)。

ハインリッヒの法則とは!?

この図は歴史的な意義があるが、少し解説も英語で見にくい。そこでこれを見やすく書き直した図を、ある方のサイト(アナザー茂:【統計学】失敗を未然に回避するヒヤリ・ハットの法則! 魔法の比率「1293002014820 17:00)から借用する。
ハインリッヒの法則は、ハーバート・ウィリアム・ハインリッヒという保険会社の調査部の方が、なんと一世紀近くも前の1928年の論文で唱えた法則である。実際にそれが発表された著書には彼自身の手書きのピラミッドの図がある。
「ハインリッヒは5,000件以上に及ぶ労働災害を調べ、1件の重大事故の背景には、29件の軽い『事故・災害』が起きており、さらに事故には至らなかったものの、一歩間違えば大惨事になっていた『ヒヤリ・ハット』する事例が300件潜んでいるという法則性を示したものである。ハインリッヒの法則は、その内容から別名『ヒヤリ・ハットの法則』とも呼ばれ、『129300』という確率はその後の災害防止の指標として広く知られるところとなった。」
例えば、ある工場で1件の重大事故が発生した場合を考えよう。おそらくその工場では、そこまでには至らなかった事故が、過去に29件発生していたはずだ。そしてそこにまでは繋がらなかったより軽微な事情は300件起きていたはずである。
私がなぜこのハインリッヒ則にひかれたかはわからないが、おそらく本当に偶発的としか思えない事件の背後にある種の法則があることを知らされたからである。そして皆さんお分かりの通り、この件はまさに冪乗則を思わせるのである。しかし1920年当時に冪状則の概念は一般にはあまり知られていなかったはずだ。そしてハインリッヒはそれを直感的に認識したというわけだ。
私は病院勤務の経験が長いが、病院とはまさに失敗や災害、有害事象が起きやすい環境である。私自身も特に米国でのレジデントの最中に、何度も肝を冷やす体験をした。「あの時もしあんなことが起きていたら、今の自分はこうしていることは出来なかった」ということは何度もある。あまり書けないが。もちろんそれは実際には起きなかったし、だからこそ私も無事トレーニングを終えることができたわけだが、他方ではなぜこんなことがいきなり起きたんだ!ということもある。患者や顧客かかわる事象などはその典型例かもしれない。「万が一のことがあるかもしれない」と頭に浮かぶ人はたくさんいる。しかしそれらの人に事故はほとんど起きない。そして実際の深刻な事象は予想外のところから起きてくることが多い。
このように書くと私は本当はハインリッヒの法則に当てはまらないことばかり体験している可能性がある。30例の中からの一件というのがなかなか起きず、それ以外の、全くノーマークのところから起きてくることが多い。300どころか何千のうちからいきなりポンと起きてくるという感じなのだ。あのピラミッドは本当なのだろうか? ちょっと批判的に考えていきたい。