2018年11月30日金曜日

解離の本 44


 解離性障害によくみられる自傷
4-1 トラウマ記憶と自傷
解離性障害の患者さんは、トラウマを有していることが少なくありません。しかし、それらの記憶は人生における意味づけや情緒とは切り離された状態で封印されています。ところがなんらかの刺激がきっかけで、フラッシュバックが生じたときに、それが自傷の引き金となることがあります。フラッシュバックはトラウマを体験したときの苦痛の再現であり、自傷はその心の痛みを癒すための対処方法なのです。自傷はいわば心に麻酔をかけるという意味があるのです。
 【症例】大学生のカエデさん。「原因はわからないが、急に何をするにも意欲がなくなってしまいました。

(以下略)

2018年11月29日木曜日

解離の本 43


3-3 自傷の習慣化プロセス-内因性オピオイド

ふり向いて見ると、ライオンは私にとびかかろうとしていた。ライオンは私の肩をつかみ、私もライオンも地面にたおれた。ライオンは、ものすごい唸り声をあげながら、ちょうどテリヤ犬が鼠をゆすぶるように、私をゆすぶった。私はこのような衝撃をうけて、二十日鼠が最初に猫につかまえられた時に感じさせられるかと思われるような麻痺した心持にさせられた。今どんなことが起こっているかはっきりわかっていながら、痛さも恐ろしさも感じない一種夢見るような心持にさせられたのだった。クロロフォルムで局部麻酔をされている患者たちがいうのに似た心持だった。彼らは手術されるのを見ていても、刃物の痛さを感じないのである。

これは、スコットランド出身の医師、宣教師であり、探検家として著名なリヴィングストン (18131873) による探検記の一節です。当時、彼が滞在していた村では、飼っていた牛が何度も野生のライオンに襲われるという事態に陥っていました。呪いをかけられていると信じ込んで、無抵抗でいた村の種族をけしかけて、リヴィングストンはライオン退治に乗り出します。そのときにこのような大ケガを負ったわけですが、彼は一切の痛みを感じませんでした。おそらく、これは脳内の報酬系に多く分泌する脳内麻薬のひとつである、内因性オピオイドの鎮痛作用によるものであったのでしょう。
自傷行為に痛みを伴わないのも、脳内に内因性オピオイド(麻薬関連物質)が放出されるためだと考えられています(松本ほか)。つまり、深刻なストレスや精神的苦痛を抱えた状況下の自傷では、生理面においてはオピオイド分泌が、一方、心理面においては解離の機制が、無感覚や麻痺状態を形成し、苦痛の軽減が図られる場合がある、というわけです。こうしたメカニズムによる自傷は、患者さん本人の精神的苦痛を生み出す問題を根本的には解決しているわけでなく、患者さんの人生の文脈から切り離された形で行為だけを学習し、処理しているにすぎません。そのため、繰り返されることになり、それによって、自傷の鎮痛効果や行為に対する恐怖感が薄れ、エスカレートしていきやすいという問題があります。その点は、薬物依存の患者さんが、薬物に耐性ができ、より刺激を求めて、事態を深刻化させてしまう経過に似ています。自傷がより深刻な事態を招くストッパーになっているとはいえ、その方法に頼り続けるわけにはいきません。安全感の得られる環境の中で、それまで切り離してきた耐え難い苦痛や不安と向き合うことが、どこかでは必要なのではないかと思います。
なお、基礎研究のレベルでは、報酬系の機能を調整する各種の遺伝子が発見されているとのことです。今後、これらの知見に基づいて、自傷をコントロールする薬物が作られることもあるかもしれません。

2018年11月28日水曜日

解離の本 42


さて、この報酬系と自傷行為の関係ですが、岡野は、自傷行為が報酬系を刺激し、自分の身を守るボタン(パニックボタン)として成立する過程を次のように述べています。

非常に大きな心のストレスを抱えている人が、髪をかきむしり、たまたま頭を壁に打ち付ける。すると少しだけ楽になることに気が付くことがあるはずだ。それまでは痛みという苦痛な刺激にしかならなかったはずのそのような行為が、突然自分に癒しの感覚を与えてくれることを知るのだ。試しに腕をカッターで傷つけてみる。確かそんな話をどこかで読んだからだ。すると痛みを感じず、むしろ心地よさが生まれる。「このことだったのか・・・・」こうして普段は絶対押すべきではないボタン、と言うよりはそこに存在していなかったボタンが緊急時用のパニックボタンとして出現する。

報酬系は、本来は脳の奥深くにあり、それは生活で喜びや楽しさを感じられるような行為に伴い刺激され、快感を生みます。そこを人工的に刺激しようとすれば、そこに直接作用するような薬物(酒、たばこ、違法薬物など)を摂取するか、あるいはオールズとミルナーのネズミの実験のように、そこに長い針を刺して電気刺激を与えるしかありません。しかし、極度のストレス下においては、通常は痛みを伴うはずの、壁に頭を打ちつけるような行為が、痛みを引き起こさず、報酬系に直結する刺激となって作用する、という現象が起きることが知られています。この偶発的な出来事から発見されたパニックボタンが、強いストレス状況のもとで繰り返し用いられるようになると、自傷行為が成立することになります。本来、自傷は痛覚を刺激するわけですが、それがむしろ報酬系を刺激する方向に向かうという、一種の脳の配線障害が起きていると考えられるでしょう。



2018年11月27日火曜日

解離の本 41


報酬系の話に入ったが、やはりこのテーマは書いていてコーフンを覚える。加藤さん、良くかけているよ。

3-2 自傷と報酬系
動物の自傷の中で、脳内麻薬物質エンドルフィンについてふれましたが、現代は、多くの心理学的現象を脳科学の視点からも説明する様になってきています。ここでも脳内の「報酬系」という部分の働きから自傷を考えてみましょう。
人間や動物の欲求が満たされたとき、あるいは満たされると予期されるときに興奮し、快感を生み出している神経系の仕組みを脳内報酬系とよびます。この部分が興奮することでドーパミンという化学物質が分泌されますが、これは快感物質とも呼ばれています。人間や動物は基本的にはこの報酬系によるドーパミンの分泌を最大の報酬とし、それを常に追い求めて行動するという性質を持っているのです。
ちなみに、この報酬系は、1954年、オールズとミルナーというふたりの若い研究者によって発見されました。彼らは、ラットの脳に電極を埋め込み、いくつかの実験を行っていましたが、脳の色々な部分を刺激し実験していくと、ある部分の刺激に対して、ラットは強く反応し、レバーを執拗に押すことがわかりました。それは、ときに1時間に7000回にもおよぶハイペースで、空腹であろうと極度の疲労状況であろうと、餌を食べたり休んだりすることなくレバーを押し続けてしまうという様子が観察されたのでした。その様子から、彼らは、この部位への刺激が快につながっているのではないかと考えたのです。まさに、快感中枢、報酬回路が発見された瞬間でした。
この報酬系の発見以前は、人を突き動かしているのは、攻撃性や性的な欲望といった本能的なものであると考えられていました。ただしそれらは無意識レベルにしまわれていて、間接的に行動に表されるものだ、という精神分析的な考えが主流でした。また行動主義を基盤とした心理学の観点からは、学習や行動の発達は罰の回避のみで説明できると考えられていましたそして脳のどの部分を刺激しても不快しか生じないと考えられていたのです。オールズとミルナーの報酬系の発見も偶然の産物でしたが、この発見により人や動物は主として快感(報酬)を求めて行動するという、いわば単純すぎるほど単純な原則の存在が明らかになったのです。

2018年11月26日月曜日

解離の本 40


ホロウィッツは、ロサンゼルス動物園からの依頼で動物の病気を診るようになりました。そして動物の診療を重ねるにつれ、動物と人間の病気には共通性があり、獣医学からの知見が人間の症状理解に非常に役立つことに気付きました。そのことは自傷行為についても当てはまり、自傷する動物を観察することによって、よりシンプルにその行動の起源を探ることができるのではないか、と考えたのです。
動物の自傷行為の定義としての「自分の肉体を傷つけてダメージを与えるための、意図的な行動。当人を愛してくれる周囲の人々の混乱と苦悩」は、まさに人間の自傷行為に共通するものだと、とホロウィッツらは言います。そして、このような強迫的に自分を傷つける行動を「過剰グルーミング」という視点から説明しました。グルーミング、というと、サルが相互に毛繕いをする姿などが浮かびますが、そうした社会的グルーミング以外に、自分自身に対して行うセルフグルーミングも存在します。たとえば、自分の体をなでたり、爪を噛んだり、かさぶたを取ったり、といった程度のことは、多くの人が癖のように無意識に行っていることでしょう。こうした行為には、脳内麻薬物質エンドルフィンが放出されるため「解放-安堵」の作用、鎮静効果があることが判明しています。みなさんの多くが経験的にも実感できるところだと思います。このグルーミングは、通常は穏やかに生活の中に折り込まれているものですが、一部の人間や動物においては、強力な自己鎮静効果を必要とする一群があり、極端な形のグルーミングを求めた結果、自分を傷つける行為につながった、というのが、自傷を「過剰グルーミング」ととらえる考え方です。
また、ホロウィッツらは動物の自傷への対処として、より侵襲性の少ない自傷を認める、という方法を提案しています。たとえば、心不全の手術を施されたゴリラでは、縫合跡をいじって深刻な結果をもたらさないよう、強いグルーミング欲求を利用し、爪に派手な色のマニュキュアを塗ったり、実際の手術には関係がなかった「おとり」となる縫い目を作ったりして、関心をそらすそうです。同様の発想から、人が自傷衝動に駆られたときには、アイスクリームの大型容器の中に指を突っ込む、氷のかけらを握る、手首にはめたゴムバンドをはじく、カッティングしたい場所にカッターの変わりに赤いマーカーで線を引く、といった方法を勧めるセラピストもいます。とはいえ、これは、短期的な解決法であり、人間はもとより、動物の自傷においても獣医師らは社会的関係の改善が必要であることを説いている、ということも重要な要素として付け加えておかなければなりません。
ここでは、獣医師と医師の両者がともに動物の病気について学ぶ「汎動物学(Zoobiquity」の視点から自傷を考えてみました。動物の場合、行動からの観察は可能ですが、どのような主観の意識内容があるのかを知ることはできません。そのため、動物の自傷から得られる知見が、どこまで人間のそれに援用できるかという点については慎重さも必要だといえるでしょう。

2018年11月25日日曜日

解離の本 39


720日で止まっていた「解離の本」をようやく再開できる。執筆がそれどころではなかったのだ。でも少し落ち着いた。

 3 なぜ自傷をするのか 
3-1 動物も自分を傷つける
人はどうして自分を傷つけるのか。深い謎に包まれた問いです。現在の精神医学はそれに十分な答えを出していません。ただし一ついえるのは、自分の体を傷つけるという行為には、その人の持つ心の痛みが関連していることが多いということです。そしてそこには私たちがまだ良く知らない生物学的な仕組みが隠されているようです。それが証拠に自傷は人間にだけ認められる行為ではありません。UCLAの心臓専門医、バーバラ・ナッターソン・ホロウィッツらは動物の自傷として以下のような例を挙げています。

それまで、健康でなんの問題もなかった鳥が、あるときを境に、自分の毛を1本1本引き抜くようになりました。その行為により、皮膚が露出し、出血をきたしても、それはやむことはありませんでした。
 あるイヌは、これといった肉体的原因や外部刺激がないにもかかわらず、自分の体をなめたり、かじったりし続けて、皮膚に潰瘍を作ってしまいました(一般に「肢端舐性皮膚炎」等と呼ばれています)。潰瘍は人間の目には明らかに痛々しく見えましたが、イヌはトランス状態に入っているようなトロンとした目で必死に体を舐め続けました。(どこからの引用だろう???)


2018年11月24日土曜日

自己愛の病理と治療 推敲 1


手を入れた割にはあまり変わっていないな。

 自己愛についての論文や著述を発表していると、臨床に携わっているかたがたから、しばしばたずねられる質問がある。
「自己愛の患者さんは治療動機が定まらずにすぐドロップアウトをしてしまうのですが、どのように扱ったらいいのでしょうか?」
私はそのような時、「ドロップアウトをしてしまうのが患者さんの自己愛的な部分なのでしょうね。」と応答することが多いが、実はこの答えは決して十分とはいえない。「彼らがドロップアウトしないためにはどうしたらいいのか?」あるいは「彼らがドロップアウトをしないように治療者が配慮することは果たして治療的なのか?」という問いは永遠に続くであろう。そしてそのことについて考える前提として、その治療者がどの種類の自己愛の病理を持った患者さんを扱っているかによって異なってくる。本特集の「関係精神分析と自己愛」でも述べたが、Kernberg 的な、DSMの自己愛パーソナリティ障害における病理と、Kohut的な自己愛の病理とでは、治療的なニーズも、その臨床的な扱われ方も大きく異なるからである。そこで本稿ではわかりやすく前者をタイプ1(の自己愛の病理)、後者をタイプ2と表現させていただき、議論を進めよう。
まずタイプ1については、その定義の上からも、自分の問題を内省する用意はあまりないと考えていいだろう。自分に過剰な自信を持ち、人を自分の自己愛的な満足のために操作し、常に称賛を求めるといったタイプの人は、内面を見つめるための心理療法を求める必要性をほとんど感じないであろう。ただしもちろん彼らの人生は常に順風満帆というわけにはいかないであろう。時には思わぬ躓きから人生の歯車が狂い、自己愛的な振る舞いは一時的に陰をひそめるだろう。自己愛的な問題を抱えた多くの政治家、事業主、芸能人、大学教授といった人々が、スキャンダルを暴露され、不正を摘発され、罪を犯し、あるいは病を得て表舞台から姿を消すは決して少なくない。彼らを待っているのは失意であり、抑うつであろう。彼らの多くはその状態から這い上がり、ある人は元の地位を獲得し、あるいは人生の進路を修正していくだろう。ただしその中には心理療法家のもとを訪れ、自らの心のうちを話したくなる人もいるかもしれない。
こうして療法家のもとを訪れたタイプ1の来談者にはおよそ二種類あるだろう。彼らの一部は傷ついた自己愛を癒してもらい、勇気付けられることによりまた人生を歩み始めることができるであろう。彼らが自分自身を変えるというよりは、彼らがいかに不運で、誤解を受け、人に陥れられてしまったか、つまり彼らがいかに外的な原因により翻弄されて足を踏み外してしまったかがテーマになるかもしれない。彼らは心理療法により、あるいはその他の様々な要因により問題が解決するにつれてかつての自信を取り戻して再びもとの人生を歩み始めるであろうし、それは心理療法をもはや必要としなくなるということを意味するのであろう。
タイプ1の来談者のもう一つのタイプは、自らを省み、失敗の原因を自分自身に求めることで人生を立て直していくかもしれない。その中でおそらくある種の洞察を得ていくだろう。それはおそらく「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、この様な気持ちをさせていた」「相手の気持ちを思いやることが大切だ」という形をとるであろう。そしてそれを獲得することは、心理療法的なかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、相手の気持ちになり、また自分が称賛を得ることを第一に考えることをやめ、人を評価し、人に力を与えることを重視するかもしれない。これらを「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察と仮に呼ぼう。
さてここで考えてみよう。タイプ1の人々は「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察を本当に得られるのだろうか? あるいは一歩進んで、それは「洞察」なのだろうか? 言い直せば、タイプ1の来談者の中に、果たしてこの後者の種類の来談者はどれほど存在するのだろうか? 
「そもそも相手の気持ちを思いやれない」という場合には二つの可能性がある。一つはその体験を自らが持っていないために想像力が働かない場合。もう一つはそもそも相手の立場を思いやれる想像力が欠如している場合である。もちろんタイプ1の場合には自分の自己愛的な満足、すなわち称賛や注目を浴びることへの強い願望があるために、思いやる力が十分に発揮できないという事情があろう。そしておそらく治療的な介入や自己省察により変化できる余地があるのは、前者の方だけだろう。なぜなら後者はその人の生来持っている感受性や共感性の問題が大きく関与しているであろうからだ。
ある高名な医師が述懐しているのを読んだことがある。
「自分は老境になるまで入院を必要とするような身体疾患にかかったことがなかった。しかし80台の後半になってようやくそれを体験することで、初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。それから患者に会う時の姿勢も変わったように思うのだ。」
かなり専制君主的な振る舞いで知られていたこの医師は、いわば弱い立場にある人たちに身を置くことで、初めて上記の意味での洞察を深めることが出来たのであろうし、そこに変化の余地があったということになろう。ただしもちろんこの医師が感じていたであろう自分自身の変化が、どの程度周囲に伝わっていたかは別問題であろうが。
さてもともと想像力に欠けたタイプ1が現れた場合はどうだろう。彼はおそらく自己愛の傷つきによる抑うつ状態を体験し、心身共に脆弱な状態で治療者のもとに来る。治療者は本人の持つ嘆きや恨みや後悔を聞き、それを受容し、勇気づけるかもしれない。そうして患者の自己愛的な傷付きは少しずつ癒えていくかもしれない。ただそこには上述の意味での反省はほとんど伴わないことになる。たとえば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた患者のことを考える。「自分が相手の立場に立つことがなかったから、こんなことになった」という思考は、起きたとしても偶然そうなっただけ、相手の曲解として片づけられる可能性がある。自分に落ち度があったからこのような目にあったという反省は、それ自体が痛みを伴うために退けられるであろう。
こうしてタイプ1的な来談者は傷が癒えれば治療を去っていく可能性が十分あるし、その際は治療的なかかわりに対する感謝や恩義の念はあまり伴わないことになるだろう。患者は気分が直ってまた仕事が軌道に乗ったら突然ドロップアウトして、それを何とも思わないかもしれない。もちろん治療者はそれを受け入れなくてはならない。

2018年11月23日金曜日

自己愛の病理と治療 2

次にタイプ2の自己愛の病理について考えてみよう。このタイプのクライエントは自尊心が低く、おそらく養育環境において自らの自己愛を支え、育ててもらう機会を与えられず、そのために自分に自信が持てず、安定した確かな自己イメージを持てないでいる人々が自己愛の障害を有することになる。タイプ1の患者さんとは異なり、人間関係を営むうえで生じてくる様々な問題について、過剰に自分の問題であると感じる傾向にあり、責任を感じる傾向にあろう。おそらく自らを省みることについては過剰なほどにそれを感じている可能性があるだろう。Kohut が考えたように、治療者が彼にとっての自己対象機能を果たす役割を通して、患者が自らにとっての自己対象機能を獲得していくうえで、治療者の役割は極めて大きいということになる。そしてその意味では治療関係は本人の精神的な健全さを保つためにも大きな役割を果たし、患者は治療関係を維持することに力を注ぐことになるだろう。その意味でタイプ2の患者さんがドロップアウトをする傾向は、タイプ1の患者さんに比べて極めて低いものと考えられる。
この様に考えた場合、二つのタイプによって患者の治療関係の用い方は全く異なることになる。しかしおそらく読者の皆さんの中には、次のようにお考えだろう。「同じ自己愛の病理と言っても、どうしてこれほど異なるのであろうか」「まったく別の病理を論じているのではないだろうか?
この疑問はもっともであろう。すでに述べたように、タイプ1とタイプ2の臨床像は大きく異なり、正反対との印象さえ与えるだろう。そこでキーワードとして恥を用いてみよう。私は自己愛の問題を恥の観点から論じていたが、恥と自己愛とは表裏一体の関係にある。恥という概念を通して両者はつながっていると見ることが出来るのだ。するとタイプ1は、みずからを軽んじられて恥をかかされることにきわめて敏感になる。プライドが高く人にも丁重に扱われるべきだと思っているタイプ1の人は、低く見られた、軽んじられたと感じると一瞬恥を味わった後にそれを怒りに転化して相手にぶつけるだろう。それに比べてタイプ2の場合には、もともと恥ずべき存在として自分を見ているところがある。そして対人場面でその低いプライドがさらに低められることがあった場合には、さらに恥じ入り、相手を怒るどころかさらに引きこもってしまうであろう。
本来人は常に高いプライドを保っていることは出来ないものである。どんなに強がっているタイプ1にも、弱かった時の自分がどこかに眠っている。それを刺激されかかったときは全力でそれを跳ね返すために、恥を実際に感じるには至らない。たとえ感じてもそれは一瞬ということになる。逆にタイプ2はそれが常態化している。いずれにせよ恥の体験がその人の人生の主たるテーマである点で、たとえば相手から見捨てられないかという懸念が中心になっているBPD, いかに心の中のトラウマ記憶と格闘しているかという外傷性の障害とはその性質を根本的に異にするのである。
 前者はその恥を体験させられるような可能性を全力で避けるために治療的な介入はその本質部分に迫ることが出来ない。それがむしろ後者に浸りつつ助けを模索するダイプ2の患者と性質を異にするのである。

2018年11月22日木曜日

自己愛の病理と治療 1


 自己愛についての論文や著述を発表していると、しばしばたずねられる質問がある。
「自己愛の患者さんは治療動機が定まらずにすぐドロップアウトをしてしまうのですが、どのように扱ったらいいのでしょうか?」
この件についての私の見解は、どの種類の自己愛の病理を扱っているかによって異なってくる。本特集の「関係精神分析と自己愛」でも述べたが、Kernberg 的な、DSMの自己愛パーソナリティ障害における病理と、Kohut 的な自己愛の病理とでは、治療的なニーズも、その臨床的な扱われ方も大きく異なるからである。ここでわかりやすく前者をタイプ1(の自己愛の病理)、後者をタイプ2と表現させていただこう。
まずタイプ1については、その定義の上からも、自分の問題を自分で考える用意はないと考えていいだろう。自分に過剰な自信を持ち、人を自分の自己愛的な満足のために操作し、常に称賛を求めるといったタイプの人は、内面を見つめるための心理療法を求める動機を持つことはほとんどないと言っていいかもしれない。ただしもちろん彼らの人生は常に順風満帆というわけにはいかないであろう。時には思わぬ躓きから人生の歯車が狂い、自己愛的な振る舞いは一時的に陰をひそめ、抑うつ的になるかもしれない。その際は心理療法を自ら必要と感じて療法家のもとを訪れる可能性がある。自己愛的な問題を抱えた多くの政治家、事業主、芸能人、大学教授といった人々が、スキャンダルを暴露され、不正を摘発され、犯罪を犯し、あるいは病を得て姿を見せなくなることを私たちは知っている。彼らを待っているのは失意であり、抑うつであろう。ただその多くはその状態から這い上がり、ある人は元の地位を獲得し、あるいは人生の進路を変えていく。
もちろんここで彼らが失意の体験をすることが彼らが変わる前提になる書き方をしていることは問題かもしれない。彼らは自己愛的な振る舞いをし、社会で成功を収める中で、徐々に考えを変えていく可能性もある。ただしその場合も以下に述べる議論にある程度当てはまるために、ここではそのような場合は特に論じないでおこう。
ここで失意の彼らが自らの生き方や考え方を変えるとしたら、彼らはどのように変わることによってであろうか? おそらく「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、この様な気持ちをさせていた」「相手の気持ちを思いやることが大切だ」と気が付くのだろう。そしてそれは心理療法的なかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、相手の気持ちになり、また自分が称賛を得ることを第一に考えることをやめ、人を評価し、人に力を与えることを重視するかもしれない。これらを「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察と仮に呼ぼう。
そしてここで考えてみよう。タイプ1の人々は「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察をどうやって得られるのだろうか? あるいは一歩進んで、それは「洞察」なのだろうか?
「そもそも相手の気持ちを思いやれない」という場合には二つの可能性がある。一つはその体験を自らが持っていないために想像力が働かない場合。もう一つはそもそも相手の立場を思いやれる想像力が欠如している場合。もちろんタイプ1の場合には自分の自己愛的な満足、すなわち称賛や注目を浴びることへの強い願望があるために、思いやる力が十分に発揮できないという事情があろう。そしておそらく治療的な介入や自己省察により変化できる余地があるのは、前者の方だけだろう。なぜなら後者はその人の生来持っている感受性や共感性の問題が大きく関与しているであろうからだ。
ある高名な医師が述懐しているのを読んだことがある。
「自分は老境になるまで入院を必要とするまでの身体疾患にかかったことがなかった。しかしそれを体験することで初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。それから患者に会う時の姿勢が変わったように思う。」
おそらくこの様な殊勝な医師の場合、そこには彼がいわば弱者の立場に身を置くことでそのような理解を深めることが出来たのであろうし、そこに治療者の役割は補助的ということになるかもしれない。
さてもともと想像力に欠けたタイプ1が現れた場合はどうだろう。彼はおそらく自己愛の傷つきによる抑うつ状態を体験し、心身共に脆弱な状態で治療者のもとに来る。治療者は本人の持つ嘆きや恨みや後悔を聞き、それを受容し、勇気づけるかもしれない。そうして患者の自己愛的な傷付きは少しずつ癒えていくかもしれない。ただそこには上述の意味での反省はほとんど伴わないことになる。たとえば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた患者のことを考える。「自分が相手の立場に立つことがなかったから、こんなことになった」という思考は、起きたとしても偶然そうなっただけ、相手の曲解として片づけられる可能性がある。自分に落ち度があったからこのような目にあったという反省は、それ自体が痛みを伴うために退けられるであろう。
こうしてタイプ1的な来談者は傷が癒えれば治療を去っていく可能性が十分あるし、その際は治療的なかかわりに対する感謝や恩義の念はあまり伴わないことになるだろう。患者は気分が直ってまた仕事が軌道に乗ったら突然ドロップアウトして、それを何とも思わないかもしれない。もちろん治療者はそれを受け入れなくてはならない。

2018年11月21日水曜日

ある対談の続き 5

S先生:私はこれまでは、患者さんのマインドフルネス的な部分に訴え、本人にとって切り離されたものが舞い降りることに気づいてもらうということを、重視してきました。人格がせっかくこの場があるのに居場所がないと感じるのは、患者さんがいろんな自分を出せないからだと考えるわけです。そこでいろいろな自分を表現して、出していくと、それが自然に、この場所を通じて、まとめあげられるだろうなと思います。それも、ぎゅっぎゅっと結ぶんではなくて、緩やかに、というわけです。この統合というテーマはそれだけ難しく、こういう言い方をして逃げ切るんですけれどね。ここで君が自分を出せば出すほど、この場所という限定なんだけれども、ここに場所を作ることが出来るし、出さないと場所がなくなるんだよ、と。つまり、母親との関係が場所になるというのは、母親にいろいろな自分を出せる経験をすればするほどそうなるのだ、というのを最近ある患者さんから教えてもらいました。
 O先生:S先生のおっしゃる「解離の舞台」というのは、つまり治療者の心にあるということですね。
S先生:そうなんです。病気の症候の舞台もあるんだけれど、大事なのは、その症候の舞台ではなくて、本人、役者とその舞台の上の人と、その舞台があるわけですけど、観客っていうか、外部を持って来ないと、物語はリアルにならないかなと思うんです。だから、あんまり舞台の中に入ちゃうと、どこかが違うと思います。だから今日の症例検討については、僕は、多少舞台の中に入り込んでいて、いるんじゃないかなって思いました。そこから離れた他者というものは、あるいは外部というのは、どこにあるんだろうなと。もちろん、患者さんの世界の中に外部を探そうと思えば、当然出てくるだろうとは思うんですけれども、そういう外部というのをやっぱり開いていかないといけないと思います。そこへまた吸い込まれちゃうんじゃもちろんいけないのですが、スクリーンがかかった外部というのを見るというのも大事であろうと思います。さっきのみんなで見るというのも、そういうのもあるかなと思うんですけれども、スクリーンに映っているものはどこから来たのかということとも関係するわけです。
それともうひとつ、O先生にちょっとお聞きしたいことがあります。どうして精神分析の人たちは、他人格に会わないのでしょうか? なぜ、ヒステリーという言葉をずっと使って、解離っていうのをいやがるのか。不思議ですね。なぜ会おうとしないのか。そこのところをちょっとお聞きしたいと思います。
O先生:全くその通りです。困ったものです。精神分析の場合には、たとえば、子どもの人格が出てきたら、「それは、あなたが抑圧していたものを今、表しているんでしょ、あなたが」というふうになってしまいます。分析家たちは「あなたはひとり、唯一の存在です」という前提に立っています。ブロイアーとフロイトが「ヒステリー研究」を書いたときに、ブロイアーは、いや、ふたつの心があってもいいじゃないかというふうに考えたときに、フロイトは絶対それはだめだと考えて、そのことは考えないようにして理論を作り上げて、今の精神分析があります。フロイトはリビドー論だったから、心の中で見たくないものはぎゅっと力をこめて無意識に押しやる、そこでもってもう一つの意識が生まれる。でもそれは、ひとつの心の中の下の部分、無意識だという図式をずっと変えなかったので、今まで来ています。
S先生:解離の人たちの人格に対して会わないと言ってしまうと、本当に解離の人たちは、人格はどこへ、どうやって表現していけばいいのかわからなくなります。必ず主人格を通してください、では苦しいじゃないですか。
O先生:そうなんです。だから治療者にあった人格、治療者用人格でずっと来続ける。(フロア笑い)いや、私は分析の人間なので、分析を否定してはいないです。でも、そういうことみたいですね。
S先生: そうだと思います。そういう人格しか来ない。
O先生:はい。
SM先生:先程養育の話をしましたけど、まなざされることによって存在する私、というのがいると思うのです。そのときに、相手との近さだとかと遠さというのがあるんだと思うです。すなわち、たとえば、ある治療者はものすごく再養育的なっていうか、お姉さんのような働きかけの中で、人格同士がすごくエンパワーメントされて協力し始める、というふうなものがあるのだと思います。そして、先ほどSM先生の治療の話を初めて肉声で聞いたのですが、わあ、この先生、私よりもヒーラーみたいだと思ったんです(笑い)。なんというか、そこに何かがあって、立ち上ってくるもの、入ってくるもの、それこそ場があり、というふうなその中で先生がどーんと構えておられて、何かその人の中で動いていくものがあるような、エネルギーの流れがある、という印象を受けました。まなざされることによって存在する私はいろいろなポジションを取るんです。すごく近くになり、ダイレクティブになるときもあるんですが、そういう時に心がけるのは、患者さんが自分で自分をまなざせるようになるのを助けるということです。それが愛だと思うんです。愛、愛情というのは、誰かのことを好きになるという愛ではなくて、私たちが生かされていること自体、生まれて、ここにこうやって生まれていること自体が愛であり、いろいろな体験することも含めて、この世界で生きているということだけでなんだという目で見ることができるようになったときに、自分を愛おしい目で見ることが出来るようになり、そうすることで結局、発達を促しているのだと思います。これは私にとってはすべて生物学的なプロセスだと思います。トラウマ記憶は精神生理学的な爆弾みたいなものだし、それをいかに、外すかということばっかりやってきたわけで、それもトラウマとか愛着とかの、問題についても同じような原理を用いてずっとやってきた立場からすると、生物学的なメタ認知的な回路を作るということを私は心がけているのだと思います。その場における近さ、遠さ、その中で見るということ、それが治療者の個性によってさまざまな形でありうるという風に感じました。

2018年11月20日火曜日

三つの卵の絵

今日は三つの卵の絵を描いて終わった。


2018年11月19日月曜日

ある対談の続き 4


N先生少し確認ですが、多元化というのは、具体的にはいわゆる健忘障壁とかがない、という意味でしょうか。つまりそれぞれの人格が独立していて、しかし情報交換が意識されているということでよろしいでしょうか。
 S先生:多元化もいろいろな意味があるとは思うんですけれども、要するに固定された視点ではなくて、いろいろなところに意識や視点を変えられる自由さみたいなものを意味します。あるいは行動においても、そういうのもひとつの現代の必要な能力かなというふうに思ったりするものですから、そんな言葉を使いました。
 M先生:あともうひとつ申し上げたいのは、へその緒を切った直後というのは赤ちゃんの自我状態が最初は6つしかない、ということです。その後にもう本当に急速に様々な状態っていうのが出てきて、そこに適切な親の関わりがあって、きちっと私というものができあがっていく。そのときにまなざしがなかったりした人は、例えば、30歳だったら30年分の不足があって、50歳だったら50年の不足があって、そういう人たちの、そのでこぼこについての生物学的なレベルでの限界ということをわかった上で、そこにいいものも絶対にあると信じるべきだと思います。それは適応のプロセスで生じたのでしょう。今日話し切れなかったことですが、適応としての私の姿というものをその人自身が認められるというところまで、導いてあげることができれば、それほどひどいことは起きないのではないかと思います。たとえば患者さんに心理教育を丁寧にすることで、みんなが協力し始めることもあるでしょう。私はトラウマを体験した子供の人格は寝かしてあげればいいと思うんです。なぜならばその子しかDVを体験していわけで、その子はいつも怯えているという運命にあるのです。だからもう本当によく頑張ったから眠っていいって言ってあげていいと思うんですね。もし、その他の子たちも見ていたら、その他の子たちに、エゴステイトワークをしてあげた方がいいのだろうと思います。そのときに何が起きてたのかという自我状態を生物学的な見地から見てあげることによって、その人格状態をどうして差し上げるのが一番よいのか、と考えるべきだと思います。よく頑張ったじゃない、休んでもいいよ、と言ってあげる。また起きてくるかもしれないけれど、そのときに一番気持ちよく寝かせてあげるっていうことが重要です。私のケースの中で、寂しいって言ったから、じゃあ、遠隔テレビを持っていったらと、とっさに言ったら、「わかった、そうする」と言って寝た子がいます。そうしたら、他の子たちも、「その子が寝るんだったら私も寝よう」と、寝たり、ということもあったんですね。
 S先生そうですね。納得させて、まぁ表現してもらうというか。もう、何か役割を終えると、自分の気持ちとか伝え終わると、もう、それで、一種の弛緩状態になって、確かに、眠りにいくというのは理想のような感じはしますね。
 O先生その場合、ひとつの指標というのが、交代人格のエネルギーなんです。彼()が出ているときに、もう眠くなって、もういい、みたいになっていくんですよね。そうすると、これがひとつのサインかなというふうに思います。そのような時は自然に、「あぁ、眠たいんだね、じゃあ、寝ていいよ」 というふうな感じで。でも、眠たくなる前には、何かを達成したいと思っている可能性もあります。何かに満足したい。そしてどうしたら満足できるか、ということは、人格によって違うと思います。自分がかつて見たこと、聞いたことを話したいのかもしれないし、自分が買ってもらえなかったリカちゃん人形を買って、遊んでもらってから眠る、ということかもしれません。人生で何を思い残しているのかを、それぞれの人格に聞いていくことが必要なんだろうなっていうふうに思いました。

2018年11月18日日曜日

ある対談の続き 3


私の知っているある有能な臨床家は、まだ複数のEPを持っているし、その方はISHもしくはオルファによって導かれていた時期があるということです。本当に少しですけれども、こうしなさい、こうしなさい、という声が聞こるとのことです。それはその方の、おそらく7歳以前の大きなトラウマと関係しているんだと思うんですね。アリソン的な何かだと思うんですけれども。でもその方がDIDだったかというと、そうじゃないと思うし、別に障害レベルではないし、そういう人って結構いたっておかしくないという意味において、私は人間が統合したものだという考え方が、あまりありません。中井久夫先生が言ったみたいに、人間は超多重人格なんだ、人格の間を行き来できればいいだけであって、例えば自分の中の人格を「人差し指ちゃん」とか言っているとだんだんそこが独立して来るというようなことがあるので、そういう意味では直接話しかけないとか、なるべく自分からは名前をつけないとかというのは、意識していますけれども、私は分けないけれども無理やり一緒にもしないという立場をとっています。それは臨床体験からなのです。

S先生:少しだけコメントいたします。私は解離を空間的変容と時間的変容、つまり、離隔と区画化という形に分けて考えているのですが、現代社会においては、離隔というか、離人症が非常に蔓延していて、これはどうしようもなく我々の特徴の時代でもあるんだろうなと思うんです。だから統合ということで離隔という離人症的なものを無理やり一緒にしてしまうのではないにしても、ころっころっころっと変わり過ぎるよりは、多少の統合は必要だと思うんですね。それぞれの体験の記憶がなくなってしまうと、責任の主体はどこにあるのか、ということになるわけです。要するに、離隔、離人の問題を多元化という方向に持っていくべきではないかと思っています。他方では統合にもどこに意味、どれだけの意味を持たせるかということも問題にはなると思いますが。フロアからとか、シンポジストの方々とか、いろいろこれからお話できればと思っていますけれども、皆さん、フロアから何かございますでしょうか。どうぞご自由にお願いします。どうでしょう。


2018年11月17日土曜日

ある対談の続き 2


N先生:はい。それでは私もちょっと意見を言わせていただきます。私自身は普通の精神科医で、普通の診療の中で解離の方とお会いしています。ですから、10分診療の中で何ができるか、というのが私のテーマのようになっていて、意地になって10分でやっているというところがあります。その中でお会いしていていますが、なぜか関西では、解離の治療をするのは東京しかない、解離の専門家は東京にしかいないという噂が流れていて、それで関西でちょっとでも解離を扱うとなったら、そこに患者さんがいらっしゃるということがあって、私もそれなりの患者さんにお会いしています。そんな一精神科医の印象としてお話すると、統合ということ自体、今、お話もO先生、S先生からありましたけれども、あまり治療の中で使っていて、いい印象がないのです。患者さんのみなさんは、それを恐れるようなところがあり、「統合したら治るんですよね」という人はなんかそれをネットか何かの情報で仕入れてきた、なにかこう現実的でない、理論的なものとして捉えていて、本当にご本人がよくなる、救いになる手段としての「統合」という言葉を使うことがあまりない印象が私自身はあります。そういう事情もあって、私もあえて「統合」を使わない、治療の中ではあまり持ち出さないという風にしています。患者さんの中では、統合した、つまり「AとBが統合しました」という形で報告してくれる人がいるんですけれども、後になって「またDが出てきました」とか言ったりするんで、それが治療的に、統合が本当に前進しているという印象をあまり持ったことがないんですね。別の人格、特に感情的な人格であったり、いわゆる黒幕人格というような、非常に怒りを抱えた人格と接点が持てて、これは統合とちょっと違うかもしれないのですが、そういう人格と他の人格とが交流できたりするようになってくるということを通して、ちょっと治療が前進したと私自身はイメージしているんですけれども。そういうことが上手くいって、なんか黒幕さんがだんだん穏やかになってきて、結構、会話ができて、なぜ、この人がこんなことで悩んでいるのかなという会話ができて、あ、これもしかしたら、統合ではないんだけれども、ひとつの安定の仕方で、前進かなと思った矢先、次の時来たらまた別の黒幕さんが現れる、ということが起きます。やっぱり、ご本人の本当に大事なところがそれで解決されたわけではなかったということだろうと思うんですよね。そういうことを考えると、もし統合してもご本人の本当に大事なところでそこで何かひとつ越えているという経験になっていなければ、また別の人格が現れちゃうということにもなるのかなとも思って、ま、統合だけを取り出すということについては、私自身も、ちょっと臨床の中ではあまりピンときていないというのが正直なところです。

2018年11月16日金曜日

ある対談の続き 1


以前に書いたものの修正版である

S先生:では対談を始めたいと思います。みなさん、活発にご意見を言っていただいて、どこへ向かうかわからないけれども、また戻ってくるような感じで、行ったり来たりしながら、活発に討論をお願いします。実はこのテーマはA先生が提案してくださったものですので、そのあたりのお気持ちをお話いただきたいと思います。

O先生:はい。これまでは「現代における解離の治療とは?」とかいう漠然としたテーマばっかりなので、好きなことをみんなが話しっぱなしで終わっていたのですが、今回ちょっとチャレンジングなテーマを選んでみました。それは「統合ってどうなんだろう?」というテーマです。ただしこれは私だけが思っていることかもしれません。「専門家は皆、解離性障害の最終目標は人格の統合ということを言うけれど、そんなに簡単なものではないはずだ」と私はいつも思ってきました。そこで他の専門家の方々はどう思っていらっしゃるのだろう、ということを確かめたかったのです。ですからオレはちょっと危ないテーマであり、専門家の先生方にバッシングされるかもしれないという危惧もあるのです。
私は精神分析学会に属しているんだけれども、たとえば精神分析学会の大会で解離をおおっぴらに扱うことはどちらかといえばタブーなわけです。治療者が別人格に話しかけるようなことは、普通はあり得ないことです。それは、やはり精神分析では心はひとつであるという大前提に立つからです。心とは一つしか存在しないというのはそもそもの前提なのです。それがいくつもあるんだとすると、心をどうやって理解していいかが分からなくなってしまうわけです。Dissociation、解離と反対の概念はassociation、つまり統合なわけです。解離とは本来は一つだったものが2つに、3つに分かれた状態だという認識が私たちの多くの中にあります。ただ私の個人的な体験だと、まず1人の人格がいて、その人格が耐えられなくなったときに、突然、忽然ともう一つの人格が表れるという感じがするのです。眠っていた人格が覚醒するといった感じです。だから我々の脳というのは、そういうものが覚醒するような素地を持っていて、皆さんの中の何人かは、そういうものが内部にいるものを感じ取っていて、でも DIDの場合には、ある時突然、生まれる、覚醒するというニュアンスが在ります。そうすると、それは分かれるというよりは新たに加わるというイメージがあるのです。その場合は回復のプロセスとは、新たに加わった人格が再び眠りにつく、冬眠状態に入るというプロセスがあってしかるべきだと思うのです。ここらへんのところをシンポジストの先生方はどうなのか という点に関心があります。
そしてもうひとつ言えば、“統合”という言い方に対して、クライエントさんはほとんどみんな怯えて、「自分は消されるんだ」というような他の人格の声が聞こえてきて、アポイントメントを取ったけれども、治療者のところに行かないということが起きがちです。すると私たちがまず、心理教育的なアプローチとして必要なのは「みなさん、統合といっても、あなた方の一部が消える、というような話ではありません。」ということを伝えることなんです。初診のときは最初に主人格と話しているときにも、他の人格が聞いている場合があるので、こうして最初から、“皆さんに対して”という言い方が必要になります。ただし同時に伝えるべきなのは、「皆さんの中で疲れたら、寝ていい、そういうことなんですよ」とも伝えるわけです。ということで、それが私のテーマとしてはどうか?と考えたひとつの動機ですけれども、こんなところでいかがでしょうか。

S先生:はい、私の今日の発表は、場所と主体ということで一点に集約される焦点としての自我というのよりも、丸く円を書くという方向に親和性を持つ自我を描いたつもりです。つまりいろいろな人格が共存していく場所、従来の場所ではない場所を創り出していくという、そういう動きを重視しているわけです。「消されてしまう」というのは、やっぱり人格があってのことなので、人格にある程度、表出させないといけないのです。その表出の仕方は人格が直接降臨してしゃべる、というのでもいいし、それ以外でもいいのです。ただ最後にはたぶん人格の形のままで寝ていくというのはあるだろうなと思うんですよね。だから、その意味での別れというのは必ずくるだろうし、それはもう自然に生じるプロセスに任せていくという姿勢をとりたいので、あえて、治療者側が強く、あたかもイリュージョンのような世界を作って、統合していくというのは、ちょっとどうかなという感じはします。


2018年11月15日木曜日

サイコパス推敲 ④


文献を入れた。これだけでも大変。

最近の反社会性PD(以下ASPD)は、いわゆるサイコパスと呼ばれる人々に関する一連の研究により新たな側面が明らかにされている。ASPDとサイコパスの異同についてはさまざまな議論があるが、一部の識者は、DSMにおけるASPDの定義には、冷酷さや残酷さが上げられていないとし、「ASPDに情緒反応の乏しさを加味したものがサイコパシーであると論じる(Dutton, 2013)という立場があり、本稿では筆者はその見解に準ずる。
最近のサイコパスに関する研究には、彼らの有する特殊な能力に向けられたものがある。たとえば彼らは被告席で反省の気持ちを巧みに表現し、そのために周囲は混乱し眩惑される傾向がある。ある研究(Porter, et al., 2011)では、一般人とサイコパスに、ある感情を演技で表現するように指示し、その表情の一コマ一コマを調べた結果、通常の演技では時々垣間見られる微細な()の感情 micro-expression の混入が見られるのに対し、サイコパスにはそれが少なかったという。つまりサイコパスは偽りの感情を演技以上の迫真性を伴い表現できる能力があるのだ。ちなみに別の研究によれば、サイコパスの人たちはほかの嘘の感情を見抜く力にもたけており、それが彼らが独特の嗅覚で将来の犠牲者に接近する能力を説明するという(Dutton, 2016)
実際にサイコパスは人の気持ちを読む力が正常人よりも高いという可能性も指摘されている。ある研究ではサイコパスが苦しみを示している他人を見た際、情動を司る扁桃核はあまり興奮しないが、他者の情緒を認識する背外側前頭前野の活動が増していたとされる。すなわち他人の痛みを感じる力は損なわれていても、知る力はよりすぐれていることがサイコパスを特徴付けているという。
サイコパスに関する研究はまた、彼らの情動性の欠如という点に向けられている。ある研究では脳の鈎状束という前頭前野(意識、道徳心その他の座)と扁桃核を結ぶ経路となる神経繊維の束が、サイコパスにおいては十分に発達していないという(Craig, et al. 2009) 。これはサイコパスにおいて道徳的な判断が感情的な反応に支えられていないという事実を表しているという。
またサイコパスと正常人に対してある課題を遂行させて学習効果を見ると、サイコパスは課題を間違えた場合に電気ショックを与えられても、それによる学習効果が正常人に比べて低かったという。この懲罰に対する恐れや不安の低下が、彼らの犯罪の常習性や再犯率の高さに関連していると考えられるのだ。しかし彼らが課題を正しくこなすことで金銭を与えられると、これには俄然反応するようになったという(Scerbo, et al, 1990) 。また彼らに覚せい剤を与えたところ、サイコパスは、正常人の4倍のドーパミンを分泌したという(Buckholz, et al, 2010)。すなわち報酬に対する強い希求と処罰への鈍感さが、彼らを特徴づけていることになる。
サイコパスの持つこの傾向は、サイコパスにとって極めて適応的に働いているという点が注目されている。大平ら(2010) の実験によれば、「最後通牒ゲーム」で彼らは最終的により多い利益をあげる傾向が見られたが、その一つの理由は、ゲームで相手からの裏切り行為に腹を立てることがより少ないせいであるという。そしてこの種の「クールさ」のために、彼らは諜報部員や二重スパイや、株の売買を行うトレーダーとしての才能を発揮するという。
これらの研究は「低機能のサイコパス」と「高機能のサイコパス」の二種類を考えることの有用性を示唆する。前者は衝動性が高く、みずからへの報酬を先延ばし出来ないタイプで、殺人やその他の凶悪犯罪を犯し、その一部は投獄される運命にある。ところが高機能のサイコパス、いわゆる機能的なサイコパスfunctional psychopath (Shiv, 2005) はむしろ人をうまく利用し、最終的には自分の利益につながるように自分の行動を制御できる。そしておそらく社会で成功を収めた多くの企業主や政治家がこれに該当しているという。この説を唱えたRobert Hareの研究がかなりセンセーションを起こしたことも知られている。Scott Lilienfeld (2012) は、これまでのアメリカ大統領の自伝作者に対して自分たちの描いた元大統領たちがどのくらいの反社会性を備えているかについて尋ねてみた。するとかなりの大統領経験者に反社会性が見られるということになった。いわゆるサイコパス・パーソナリティ・インベントリー(PPI)の二つの次元、つまり「恐れを知らない支配欲」や「衝動的な反社会性」について、JFケネディー、ビル・クリントンに特に高い値が見られたという。
また最近では聖人とサイコパスの関係性も指摘される。熟練した外科医や禅の高僧などは課題に集中することで情緒的な揺れを排するところが共通しているという(Dutton, 2013)
この様に考えると、サイコパスは一種の脳機能の低下に由来するのか、新たな機能を獲得しているのかが難しい問題になってくる。そのような面も含めてサイコパスに関する研究はこれからも積極的に進められるであろう。そしてそれはASPDという診断の在り方に少なからず影響を与える可能性がある。特に高機能のサイコパスないしはASPDには自己愛の病理、NPDとの異同も問題とされるであろう。

 文献)
Porter, S, Brinke, L et al (2011) Would I Lie to You? “Leakage” in Deceptive Facial Expressions Relates to Psychopathy and Emotional Intelligence. Personality and Individual Differences. 51, no.2 (2011) 133-7.
Craig MCCatani MDeeley QLatham RDaly EKanaan RPicchioni MMcGuire PKFahy TMurphy DG.(2009) Altered connections on the road to psychopathy. Mol Psychiatry. 14:946-53.
Osumi, T and Ohira, H (2010) the Positive Side of Psychopathy: Emotional Detachment in Psychopathy and Relational Decision-Making in the Ultimatum Game. Personality and Invididual Differences 49, no.5:451-6.
Scerbo,A, Raine, A, O’Brien, M, Chan, C-J, et al. Reward Dominance and Passive Avoidance Learning in Adolescent Psychopaths, Journal of Abnormal Child Psychology 18,no.4, (1990) 451-63.
Buckholz, JW, Treadway, MT, et al. Mesolimbic Dopamine Reward System Hypersensitivity in Individuals with Psychopathic Traits. Nature Neuroscience 13, no.4 (2010) 419-21.
Hare, R (1993) Without Conscience: The Disturbing World of the Psychopaths Among Us. New York, NY: Guilford Press.
小林宏明翻訳『診断名サイコパス』早川書房
Lilienfeld, SO.,Waldman, ID.,Landfield, K,Watts, AL.,Rubenzer, S,F, Thomas R.(2012) Fearless dominance and the U.S. presidency: Implications of psychopathic personality traits for successful and unsuccessful political leadership. Journal of Personality and Social Psychology, Vol 103(3), Sep 2012, 489-505
Dutton, K (2013) Wisdom of Psychopaths. Arrow. 小林 由香利 (翻訳) サイコパス 秘められた能力 . NHK 出版.
Shiv, B, Loewenstein, G, Bechara, A. et al, the Dark Side of Emotion in Decision-making: When Individuals with Decreased Emotional Reactions Make More Advantages Decision. Cognitive Brain Research, 23, no 4 (2005) 85-92.


2018年11月14日水曜日

サイコパス推敲 ③


ここまで縮めた!! サイコパスに関する最近の知見のエッセンスということになる。

最近の反社会性PD(以下ASPD)は、いわゆるサイコパスと呼ばれる人々に関する一連の研究により新たな側面が明らかにされてきている。ASPDとサイコパスの異同についてはさまざまな議論があるが、一部の識者は、DSMにおけるASPDの定義には、冷酷さや残酷さが挙げられていないとし、「ASPDに情緒反応の乏しさを加味したものがサイコパシーであると論じる(Kevin Dutton)立場があり、私はその見解に準ずる。
最近のサイコパスに関する研究には、彼らの有する特殊な能力に向けられたものがある。たとえば彼らは被告席で反省の気持ちを巧みに表現し、そのために周囲は混乱し眩惑される傾向がある。ある研究(Stephen Porter による)では、一般人とサイコパスに、ある感情を演技で表現するように指示し、その表情の一コマ一コマを調べた結果、通常の演技では時々垣間見られる微細な素(す)の感情 micro-expression の混入が見られるのに対し、サイコパスにはそれが少なかったという。つまりサイコパスは偽りの感情を演技以上の迫真性を伴い表現できる能力があるのだ。ちなみに別の研究によれば、サイコパスの人たちはほかの人の嘘の感情を見抜く力にもたけており、それが彼らが独特の嗅覚で将来の犠牲者に接近する能力を説明するという。
実際にサイコパスは人の気持ちを読む力が正常人よりも高いことも指摘されている。ある研究ではサイコパスが苦しみを示している他人を見た際、情動を司る扁桃核はあまり興奮しないが、その代わり他者の情緒を認識する背外側前頭前野の活動が増していたとされる。すなわち他人の痛みを感じる力は損なわれていても、知る力はよりすぐれていることがサイコパスを特徴付けているという。
サイコパスに関する研究はまた、彼らの情動性の欠如という点に向けられている。ある研究では脳の鈎状束という前頭前野(意識、道徳心その他の座)と扁桃核を結ぶ経路となる神経繊維の束が、サイコパスにおいては十分に発達していないという。これはサイコパスにおいて道徳的な判断が感情的な反応に支えられていないという事実を表しているという。またサイコパスと正常人に対してある課題を遂行させて学習効果を見ると、サイコパスは課題を間違えた場合に電気ショックを与えられても、それによる学習効果が正常人に比べて低かったという。この懲罰に対する恐れや不安の低下が、彼らの犯罪の常習性や再犯率の高さに関連していると考えられるのだ。しかし彼らが課題を正しくこなすことで金銭を与えられると、これには俄然反応するようになったという。また彼らに覚せい剤を与えたところ、サイコパスの脳では、正常人の4倍のドーパミンを分泌したという。すなわち報酬に対する強い希求と処罰への鈍感さが、彼らを特徴づけていることになる。
サイコパスの持つこの傾向は、サイコパスにとって極めて適応的に働いているという点が注目されている。大平らの実験によれば、「最後通牒ゲーム」で彼らは最終的により多い利益をあげる傾向が見られたが、その一つの理由は、ゲームで相手からの裏切り行為に腹を立てることがより少ないせいであるという。そしてこの種の「クールさ」のために、彼らは諜報部員や二重スパイや、株の売買を行うトレーダーとしての才能を発揮するという。
これらの研究は「低機能のサイコパス」と「高機能のサイコパス」の二種類を考えることの有用性を示唆する。前者は衝動性が高く、みずからへの報酬を先延ばし出来ないタイプで、殺人やその他の凶悪犯罪を犯し、その一部は投獄される運命にある。ところが高機能のサイコパス、いわゆる機能的なサイコパス functional psychopath はむしろ人をうまく利用し、最終的には自分の利益につながるように自分の行動を制御できる。そしておそらく社会で成功を収めた多くの企業主や政治家がこれに該当しているという。この説を唱えた Robert Hare の研究がかなりセンセーションを起こしたことも知られている。Scott Lilienfeld は、これまでのアメリカ大統領の自伝作者に対して自分たちの描いた元大統領たちがどのくらいの反社会性を備えているかについて尋ねてみた。するとかなりの大統領経験者に反社会性が見られるということになった。いわゆるサイコパス・パーソナリティ・インベントリー(PPI)の二つの次元、つまり「恐れを知らない支配欲」や「衝動的な反社会性」について、JFケネディー、ビル・クリントンに特に高い値が見られたという。
また最近では聖人とサイコパスの関係性も指摘される。熟練した外科医や禅の高僧などは課題に集中することで情緒的な揺れを排するところが共通しているという。
この様に考えると、サイコパスは一種の脳機能の低下に由来するのか、新たな機能を獲得しているのかが難しい問題になってくる。そのような面も含めてサイコパスに関する研究はこれからも積極的に進められるであろう。そしてそれはASPDという診断の在り方に少なからず影響を与える可能性がある。特に高機能のサイコパスないしはASPDには自己愛の病理、NPDとの異同も問題とされるであろう。

2018年11月13日火曜日

不可知性について 6


Neuroscience and “unknowable”
Recent neuro-scientific findings supporting Bion’s view is abundant. We naturally believe in the existence of “I” or our consciousness and free will. Since Francis Crick, who discovered the double-helix model of DNA and they turned to the quest for the mind proposed his “astonishing hypothesis” that ‘a person’s mental activities are entirely due to the behavior of nerve cells, glial cells, and the atoms, ions, and molecules that make them up and influence them’, we could not avoid coming closer to acknowledging that his hypothesis was right. As Mat Ridley (2016) says “the notion that there is a unitary piece of selfness somewhere deep within the grey porridge inside the skull is plainly just a powerful illusion.” And this illusion is produced by the activity of our neural network. There is no substance, but the activity and the relationship within the networks which constitute our mind and the sense of subjectivity. The mind is unknowable as it is merely the connection of billions of neurons. It is humbling and sobering to realize that our will and our sense of self are just a creation out of nothing. However, science tells that we need to start from there. I consider that Immanuel Kant was right in saying that thing-in-itself (Ding an sich) is unknowable, as the idea of something, with its description as well as its perception are our brain’s creation and there is not essence in the thing in itself, but the “appearance”, as Kant said. Yet Freud was not wide off the mark as he suggested that unconscious dominates our mind, as our consciousness is produced by what is not conscious (in Freud’s idea, it was unconscious, and in our modern term, “neural network”, or “New Unconscious” (Hassin,R et al., 2004)).
From neuro-scientific model, in the process of knowing there is not any substance added or produced in our brain. It is a new connection which is created in our neural network. When we learn that “A is B” as our new knowledge, there is a new connection between a network representing A and that of B. What is unknowable is a state of unconnected networks A and B, (and C,D,E….) existing indifferently to each other but waiting for a connection to be made among them. The new connections can be made in great majority of time, in the state of “default mode,” where attentions are vaguely hovering on these free floating networks. There are limitless networks in our brain each representing any images, notions, memories, melodies etc., waiting for some connection to be made to each other. In a sense our creative attention should always be on these unknowns, as any known is already established, perhaps closed to new connection to occur. 
Matt Ridley (2016) TheEvolution of Everything –how new ideas emerge. Harper Perennial. Hassin,RR, Uleman, JS, Bargh, JA (2004) The New Unconscious - Social Cognition and Social neuroscience. Oxford University Press.