2026年5月31日日曜日

ストレスとDID 推敲の推敲 1

 はじめに

 本特集は「✖✖✖ ― 基本的知識から臨床実践まで」である。本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害について、ストレス因との関連から論じる。

 解離性障害がDSM₋Ⅲ(1980) に診断名として正式に採用されて以来、ある種のストレスが解離症状を起こすという考え方は一般的に受け入れられているようになってきている。DSM-Ⅲに同時に採用されたPTSD等のトラウマに関連した障害の最大の特徴は、それらとトラウマという環境因との因果関係が強調されたことである。そしてそれは戦争や虐待や性被害等が人間の精神にもたらす影響の重大さが再認識されたという時代の流れと軌を一にしていたのである。
 DSM-5やICD-11では、解離性障害はPTSDを代表とする「心的外傷及びストレス因関連症群」には含まれてはいないものの、深刻なトラウマによるPTSD症状には解離的な要素が多く含まれるという理解が最近ではなされるようになってきている。Lanius らはストレスによる反応として、一部は解離様の症状を示すことを強調し、それがPTSDの中の解離タイプという概念につながったのである。

 この大枠の理解の仕方は正しいとしても、どれほど正確なのだろうか?解離は果たしてPTSD症状のネガなのであろうか?そもそも解離は単なる症状なのだろうか?それ以外の何かが解離には潜んでいるのではないか? それらが本考察の主要なテーマである。

 

解離は防衛機制か?


 最初に問うてみる。解離は防衛機制なのだろうか? Frank Putnam のテキストには以下のように述べられている。「解離が生き延びるための価値 survival value を有するという考え方は、 広く受け入れられている」。Putnam は Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者を引用してそう述べており、これは学界のコンセンサスと言っていいであろう(p9)。

 解離が防衛として働くという考えはある意味では常識的なとらえ方である。最初にトラウマが生じた時に自らをその状況から隔離するという形で解離が起きたと考えられるからだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であったと言える。しかし問題はそれがその後の人生で、それ以外のあまり危機的ではない状況でも繰り返されるようになるということである。

 解離が一種の防衛ないしは防御反応としての意味を持つ場合、それは私たち人間一般に備わっていてしかるべきである。その一つの候補としていわゆるOBE(幽体離脱)という現象を考えてみよう。これはある出来事を切っ掛けとして自分の意識が肉体から抜け出し、第三者の視点で自分自身を眺めているように感じる現象とされ、最近の研究では一般人の10~20%の人が体験するという研究もある(Moix J, et al, 2025)。このOBEが生存のための防御反応か否かという議論がしばしばなされてきた(Blackmore,S (1983))

 このような反応が私たちの一部に備わっているとしたらこれは特筆すべきであろう。ちなみにスイス連邦工科大学の Olaf Blankeによる研究(2005)は、右脳の側頭頭頂接合部 (Temporal-parietal junction、TPJ)を刺激することにより、OBEと少し似ている体験を確実に誘発可能であることを発見したとされる。 


 なお同様の現象は明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。 

 OBEそのものは様々な状況で生じ、それ自身は病理現象とは言えないが、解離性障害を有する人々の体験の基本形として、類似の体験が聞かれる。通常はある種の危機的な状態で当人の意識は失われ、同時にもう一人の自分が立ち現れる。そのもう一人の自分は元の自分を外から俯瞰したり、もとの自分に乗り替わってその体験を持ったりする。その際はもとの自分は意識を失う。このような現象は、自らをその状況から隔離するという形で生じると考えられ、その意味で上記の生き延びる価値を有すると考えられるだろう。その反応は、痛みを回避するための意図的なものでは決してなく、自然に体の反応として生じるのである。
 ともかくも、解離がその人にとって一種の防衛としての機能を担っているということについては、特に異論は生じないであろう。

2026年5月30日土曜日

ストレスとDID 推敲 5 

 この論文での主張をまとめてみる。先ずこの特集の主たるテーマである「解離はトラウマ反応か」という根本的な問題がある。それは一応そう捉えていいであろう。解離は一種の防衛であるというとらえ方は定説だからだ。ではそこでストレス―脆弱説(SDモデル)は成り立つのか。必ずしもそうではない。その検討のために、OBEを考えると、実はそればかりではないことがわかる。OBEの場合は防衛本能そのものと言ってもいいかもしれないが、実際の解離では別の人格が創成されるのだ。そしてそこには危機的な状況でのEP(感情的なパーソナリティ)の出現という側面だけではなく、安全な環境での子供人格の出現ということがある。そしてその意味でSDモデルでは説明できない人格の創成というプロセスがあるのだ。  ではなぜ人格が創成されるのか。それは結局ICを生み出すメカニズムであり、これは恐らくすべての人が持っていると言っていいだろう。そしてそれは夢の生成過程とも関係しているかもしれない。ICの成立(おそらく一般人に生じている)という素地があり、そこに何らかのトリガーが重なることで、DIDという現象が生まれるのである。トリガーによるスイッチングがないと、これは内側にとどまり続ける可能性があるのだ。  ではなぜスイッチングが生じるのか。先ずその現象自体はいわゆる相転移的な現象としてとらえることができるであろう。しかしどうしてそのようなことが人間の心に起きるのであろうか? そのことを最もよく示すのポージスのポリヴェーガル理論(PGT)であろう。それは人間の心身が状況に応じていくつかのモードの間を移り変わるというモデルであるが、それは生存にとって最も必要だからである。そしてPGTの中でおそらく最も優れた点は、社会的な意味を成すVVCを想定したことである。これはトラウマモデルではなかなかで出こない視点としての愛着の部分の重要性、すなわち闘争・逃避だけでなく愛着形成をつかさどる社会脳の活性化を説明しているところである。その中でもポージスのニューロセプションの概念は秀逸である。それが危機的状況での防衛反応としてだけではなく、愛着形成の可能な状況における愛着反応をも説明しているからだ。

  関係精神分析セミナーのご案内

毎年この時期に行っている告知である。 

毎年恒例の、関係精神分析セミナーへのお誘いです。詳しくは以下をお読みください。私は今回は土居健郎先生の「甘え」について再考したいと思います。

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 今年のテーマは「日本における関係精神分析」である。関係精神分析は横井のスティーブン・ミッチェルの著作の翻訳などをはじめとして早くからその導入が試みられた。私たちグループも「関係精神分析入門」「関係精神分析―自己開示と倫理」などの著書を発表してきている。

当日は吾妻は「「世界の精神分析、日本の精神分析」、岡野は「甘え理論の先駆性と今日的な意味」、長川は「精神分析と禅:E.フロムと鈴木大拙が共有したもの」富樫は「関係精神分析と文化的交流」というテーマで発表する。

初学者にとっても、臨床経験豊かな治療者にとっても、精神分析の治療者としての自分を振り返る上で役に立つだろう。当日は、アンケートなども用い、参加者と積極的に対話を進めていきたいと考えている。

 

◆ 日     時:令和8年7月5日(日曜日) 午前10時~午後3時

(進行具合により多少の延長も考えられます)

 ◆ 開催形態:全面的にオンライン(Zoom)で行う

◆ 発   表   者:吾妻壮(上智大学)・岡野憲一郎(本郷の森診療所)・富樫公一(甲南大学)・長川歩美(A&C中之島心理オフィス)

◆ 司   会: 岡野憲一郎、富樫公一、吾妻壮

◆ 受   講   料: 5,000円

◆ 申 込方法

以下の申込みフォームからお申込みいただけます。

2026年5月29日金曜日

ストレスとDID 推敲 4 

 相転移としての人格交代

 上でICの成立がいかに創造的で、しかも私たちの心の理解にとってほとんど解明されていないかについて論じた。しかし解離のもう一つの特徴は、スイッチングという現象にある。それは防衛機制について述べた際に論じたOBEに深く関与しているものの、さらにそれより一段高度でかつ創発性を含んだプロセスである。OBEの場合は一種の偽死反射になぞらえることが出来、動物がショック状態で起こす反応と類似のものとしてとらえた。既に下等生物である危機的な状態で何らかのスイッチが押されるかのようにドラスティックな心身の反応が生じる様子が見られるわけであるが、解離においてはある状況で一つの人格状態からもう一つへと遷移する様子が見られる。

  この現象の特徴は、心に不連続性が生まれ、それ以前とは全く異なる状態が出現するという点である。それはある組織が一つの状態からもう一つの状態にジャンプするとでも表現できるであろう。それは一つの心の一部に起きた変化、というよりはもう一つの心が出現する現象と言えるかもしれない。つまり一つの心の中を探っていても不十分なわけである。先ほどの体外離脱がまさにそれを表している。
 心が実際に二つに分かれるという現象を想像できにくいかもしれないが、物理の世界でそれに近い現象がいわゆる相転移である。私は解離性障害における人格のスイッチングを則相転移として位置づけるつもりはない。ただ現象としては類似しているということを主張したいわけである。もし一つの心が脳に宿り、そこにもう一つの脳を想定できない以上、同じネットワークを作っている要素のまったく異なる結合の仕方(相転移における水分子がそうである)。

 ここで相転移の定義としては以下のようにあらわせるだろう。

「相転移とは、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる物理現象である。氷が水に溶ける、水が蒸発する、磁石の磁性が消えるなどが代表例であり、アボガドロ数程度の多数の原子が絡み合うことで生じるマクロな変化である。」(AIの回答より。)

 相転移というと常にこのような物理現象が引き合いに出されるが、それに限らず、組織の構造の在り方が全面的に、かつ不連続的に生じることだ。 氷と水の間に生じるのは相転移の典型であるが、例えば私がDIDの病理として想定した複数のダイナミックコアのかかわりもそれに相当するのではないか。そこでは同一の神経細胞が異なるネットワークを形成しなおす、という状態を想定したからである。

ポリヴェーガル理論を含んだ解離プロセスの理解

 最後にいわゆるポリヴェーガル理論の見地から解離における様々な現象について論じたい。私見ではこの理論を組み込むことで解離の現象をより整合的に理解することが出来ると考えるからである。
 上述の相転移現象としての解離の特徴はそれが心だけではなく、身体の変化を伴う点である。どうしてそのようなことが起きるのだろう?おそらくそれは自然界の掟と関係している。自分が捕食者の側に立つか、あるいはその餌食の立場なるかは一瞬で決まる。相手に襲いかかる科、そこから退散したり身を隠したりするという真逆の行動と取るかは、一瞬で決めなくてはならない。それまでツノを突き合わせていた二頭のヘラジカのうち敗者の側は、負けを悟った瞬間に退散に転じる。このモードの一瞬でのスイッチングは死活問題なのだ。というより闘争と逃避の一瞬での切り替えが可能な個体がこれまで生き延びて来たというべきであろう。

以下、かなりネット記事を参考にしてまとめたものである。草稿段階なので無断転用お許しあれ。特にヒューマンハピネス株式会社 上谷実礼様のわかりやすい記事「産業保健活動にポリヴェーガル理論を活用しよう」第一回)。ありがとう!!

 そのような突然の変化を説明する上で最も有効なのが、スティーブン・ポージスのポリヴェーガル理論であろう。これが登場する前は、1つの標的臓器を交感神経と副交感神経の両方が支配し、リラックス状態のときは副交感神経が働き、活動したりストレスがかかったりすると交感神経が働くというように、通常は拮抗した作用を示すと考えられてきた。副交感神経の8割は第Ⅹ脳神経である迷走神経が占めているが、この哺乳動物の迷走神経が、進化のプロセスの異なる2系統に分かれており、1つの個体の中で古いものから新しいものへと順次積み上がってきた自律神経系が3つの階層構造を形成すると説明したのがポリヴェーガル理論で医学的に説明できるようになったのである。
 ポリヴェーガル理論では、周囲が安全安心を感じられる状況か、危険を感じる状況か、命の危険を感じる状況かで3系統の自律神経系が切り替わって環境に対応すると説明する。周りが安全安心を感じさせる状態だったり、気の置けない仲間と一緒にいてリラックスしたりしている状態のときは、哺乳類になってから獲得した新しい迷走神経である「腹側迷走神経複合体」が働く。しかし周りからストレスがかかったり、危険を感じたりすると、その状況に対応するために「交感神経系」が働く。交感神経系は「闘うか逃げるか」のための神経といわれる。さらにそのストレス状況が高度になると、進化的に古い「背側迷走神経複合体」に切り替わる。通常、この3つのシステムが周囲の環境と自身の内部の状況によって、腹側迷走から背側迷走の状態を自在に切り替えるのが自律神経系の健全な働き方ということになる。


2026年5月28日木曜日

 学会用の図を作成

 昨日はこの図を作るのに3時間ほどかかった!(学会での発表用)一ピクセルごとの色塗りに結構時間がかかった。




2026年5月27日水曜日

ストレスとDID 推敲 3

 ともかくもイマジナリーコンパニオン(以下、IC)がこれほど多くの人々に見られるということは、このような解離のプロセスは大多数の人間がほとんどデフォルトとして経験していることになりはしないだろうか?このような心の働きは精神分析ではいわゆる内的対象像として記載されるであろう。いわば「瞼の母」的な存在であり、その人のことをイメージで思い浮かべることができる。時にはこちらから語りかけ、向こうから言葉が返ってくるかもしれない。しかし通常はその内的対象がひとりでに動き出し、ある種の自主性や主体性を獲得することは想定されない。その意味でICは内的対象とは異なる。  念のためググってみよう。 「内的対象とは、精神分析学、特に「対象関係論」における中心的概念の一つです。実在する他者(外的対象)ではなく、個人の心の中(無意識や空想)に内在化され、イメージとして存在する重要な人物(両親など)やその一部を指します。」   つまり内的対象とは実在する重要な人物を心の中に写し取ったイメージである。ところがICはある意味で創造された対象であり、それ自身が主体性を有する。縫いぐるみと会話をしたりするときはそれはあくまでもその縫いぐるみのキャラを持っているわけだ。絵本の「こんとあき」で言えば、「こん」は「こん」であり、実在するそれを心に思い浮かべているわけではない。ここは全く違う。  ここでもう一歩想像力を飛躍させる必要がある。こんが動くとき、そしてあることを語りかけてくるとき、その主体はどこにあるのか。それは結局はあきの脳の中にあるとしか想定しようがない。つまりあきの脳の中にこんの主体が宿っているのである!  もちろんこう言うとたちまち反発が来るであろう。「そんなことはないだろう。あきはこんの言いそうなことを想像して言わせているに過ぎない。だからこんの主体性など考える必要はないのだ」。しかしこれはちょうど表象と知覚の区別に似た議論になる。例えばリンゴを思い浮かべる(表象)。そのリンゴを眺めまわしても、何ら驚く部分はないだろう。それはあなたが作り出したからであり、そのリンゴを回してみたら、そこに虫が食っていたのを発見して驚く、ということはあり得ない。(もちろん虫が食っているリンゴを想像した場合は別であるが、そこには驚きは伴わない。)。知覚像の場合には、常に自分の想定を裏切る側面を見せるのが特徴である。それが知覚の他者性である。  このように考えると、実はICは実に驚くべき現象であることがわかる。少なくとも解離性人格の存在に驚くのと似たレベルの驚きが伴っても不思議ではない。(もっと言うと夢を見るという現象も、実は驚くべきことである。そこには様々な他者が予想外の振る舞いを見せるからである。)

2026年5月26日火曜日

ストレスとDID 推敲 2

 解離は脆弱性か、それとも能力か?

 生き延びるための価値を有するものとしての解離について考えると、その発症機序はトラウマ理論でしばしば用いられるストレス脆弱説ではとらえきれないことがわかる。Stress-diathesis model(ストレス―脆弱性モデル、SDモデル)は、ストレス因に当人の脆弱性が関係して発症するというモデルだ。これはその内容に多少なりとも変更は加えられているが、精神疾患の発症を説明する標準的な理論とされている。 

 ちなみに diathesis は素因という意味で、古代ギリシャ語 diáthesis(性質・配置)に由来し、18世紀以降の医学で「病気になりやすい素因」を表す用語として定着した。だからDは「脆弱性」と訳されることが多いのだ。 しかし問題は、解離を起こしやすい性質は脆弱性では片づけられないということだ。上述の「生き延びる価値」や創発性は脆弱性とは別の問題だ。

  筆者は解離の生じる過程を必ずしも脆弱性としてとらえていない。それを説明するためにいくつかの典型的な臨床上の表れについてそれを示したい。しかしその前に一般人も経験する解離の一つの典型的な表れとしてOBE(幽体離脱)を挙げたい。これはある出来事を切っ掛けとして自分の意識が肉体から抜け出し、第三者の視点で自分自身を眺めているように感じる現象とされる。一般人の10~20%の人が体験するという研究もある。このような反応が私たちの一部に備わっているとしたらこれは特筆すべきであろう。ちなみにスイス連邦工科大学のOlaf Blankeによる研究は、右脳の側頭頭頂接合部Temporal-parietal junction、TPJ)を刺激することにより、OBEと少し似ている体験を確実に誘発可能であることを発見したと「ネイチャー」で発表している。
Irwin, H J (1985). Flight of mind: Psychological study of the out-of-body experience. Metuchen, N J: Scarecrow.

Irwin, H J (1981). Some psychological dimensions of the out-of-body experience. Parapsychology Review, 12(4), 1-6

 OBEそのものは様々な状況で生じ、それ自身は病理現象とは言えないが、解離性障害を有する人々の体験の基本形として、類似の体験が聞かれる。通常はある種の危機的な状態で当人の意識は失われ、同時にもう一人の自分が立ち現れる。そのもう一人の自分は元の自分を外から俯瞰したり、もとの自分に乗り替わってその体験を持ったりする。その際はもとの自分は意識を失う。このような現象は、自らをその状況から隔離するという形で生じると考えられ、その意味で上記の生き延びる価値を有すると考えられるだろう。その反応は、痛みを回避するための意図的なものでは決してなく、自然に体の反応として生じるのである。

 なお同様の現象は明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。
 さてこのようなOBE様の反応は、上述のストレス―脆弱性モデルに当てはまるのであろうか。必ずしもそうは言えないであろう。なぜなら解離においてはそこでしばしば現れるのは、別人格ないしは交代人格と言われるものであり、非常に多くの場合は、もう人格としてある程度完成されたものとして表れるのが通常だからである。

 それはあたかもその人の中にあらかじめその体験の受け皿となるような人格が準備されていたかのような印象を受ける。臨床上ほとんどのケースで見られるのは、本人を救う形で出現した人格に話を聞くと、かなり早くから基本人格を内側から眺め、必要に応じてそれを救出するかのような形で外に現れ、それ以降は基本人格になり替わってその人生の一部を営むという様子である。すなわちDIDにおいては、すでに人格が用意されているということが生じているようであるが、そうなると脆弱性とはとても呼べないようなある種の心の仕組みがそこに備わっていることになる。

 心にあらかじめ別のアイデンティが形成されるということなどはたして起きるのであろうか。そのヒントとなるのが、いわゆるイマジナリーコンパニオンの体験であろう。ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告している。

Pearson D, Rouse H, Doswell S, Ainsworth C, Dawson O, Simms K, Edwards L, Faulconbridge J. Prevalence of imaginary companions in a normal child population. Child Care Health Dev. 2001 Jan;27(1):13-22.  

2026年5月25日月曜日

ストレスとDID 推敲 1 

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は「〇〇 ― 基本的知識から臨床実践まで」である。本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害について、ストレス因との関連から論じる。

 解離性障害がDSM₋Ⅲに診断名として正式に採用されて以来、ある種のストレスが解離症状という反応を起こす、という考え方は一般的に受け入れられているとみていい。DSM-Ⅲに同時に採用されたPTSD等のトラウマに関連した障害の最大の特徴は、トラウマという環境因により発症するという因果関係が強調されたことである。そしてそれは戦争や虐待や性被害等が人間の精神にもたらす影響の重大さが再認識されるという時代の流れと軌を一にしていたのである。そこで一つの焦点となったのが、トラウマにより一方ではPTSDのような症状が生まれ、他方では解離性障害を来すという違いがどこに由来するのかという問題であった。

 ちなみに最近の流れは、PTSDと解離は表裏一体となったものであるという理解がなされている。ストレスを体験した時に、一部の人は交感神経優位の、頻脈や血圧の上昇などの典型的なPTSDの症状を示すが、他の一部はむしろ、副交感神経優位の、徐脈や血圧の低下や覚醒度の低下などの症状を示す。これらは別々の現象というよりはストレスに対する反応の二つの極端な表れとして統一して論じられるようになったのである。

 その大枠の理解の仕方はいいとしても、それは正確なのだろうか?解離は果たしてPTSDのネガなのであろうか?そもそも解離は単なる症状なのだろうか?それ以外の何かが解離には潜んでいるのではないか? それらが本考察の主要なテーマである。

 

解離は症状か防衛機制か?


 ここで改めて問うてみる。「解離は症状か防衛機制か?」Frank Putnam のテキストには以下のようにある。「解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられている」。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい(p9)。

 解離が防衛として働くという考えはある意味では常識的なとらえ方である。最初にトラウマが生じた時に自らをその状況から隔離するという形で解離が起きたと考えられるからだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で、それ以外のあまり危機的ではない状況でも繰り返されるようになるということである。

 解離がその人を救う、という例については枚挙のいとまがない。少なくとも交代人格のかなり多くが、主人格を補助し、いざとなった時に救いの手を差し伸べるという例はよく聞かれる。

      (以下略)

2026年5月24日日曜日

ストレスとDID 18

 解離の病理を説明する差異感受性モデル

 解離現象について、それを症状としてよりは能力として理解する際には、ストレス―脆弱性モデルとは異なるモデルがより当てはまるものと考えるられる。それがいとも簡単に子供の人格が現れること これも一種のプラスティシティではないか?それがDSモデル(differential susceptibility / biological sensitivity to context) である。Belsky & Pluess らの2009年の論文によると以下のようになる。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。 Boyceという学者 も、差異感受性は気質・生理システム・脳回路・遺伝・エピジェネティクスなど複数レベルの生物学的調整に根ざすと整理している。私が関心を寄せているA.Schore 右脳精神療法の考え方と統合するならば、以下のようになるという。「早期愛着は右脳情動調整系を形成する。しかしその形成のされ方は、子どもの遺伝的・生物学的感受性によって大きく異なる。」  話をDIDに戻すと、DIDは単にトラウマの結果ではなく、トラウマと解離的に心を組織化する能力との相互作用の結果として理解できる。あえてキャッチフレーズ的に言えば「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」となる。

Boyce WT.(2016) Differential Susceptibility of the Developing Brain to Contextual Adversity and Stress. Neuropsychopharmacology. 41(1):142-62. 

Belsky, J., & Pluess, M. (2009). Beyond diathesis stress: Differential susceptibility to environmental influences. Psychological Bulletin, 135(6), 885–908. 


 結局トラウマ的な刺激に対してDSはある種の感受性の高さを想定する。そしてこれが非常に高いと解離が起きる。しかしBelskyの理論のいいところは、この感受性はいい方向にも働くと言っているところだ。そしてこれが解離は能力でもある、という視点にもつながる。それはどういうことか?

解離とは環境ストレスに対する並外れた反応と考えることができる。それは心に一種の相転移のような反応を起こすということだ。  Belsky らのDS(differential susceptibility)モデルの定義をもう一度繰り返す。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。これに基づく理論は従来の考え方である「トラウマにより解離が生じる」である。私の28年前の「解離原性のストレス」という発想もそれに基づいたものだ。背景にあるのは、「ある種のストレスを体験すると人はみな解離する」という考えだ。つまりは環境因の種類を重視した考え方だ。  しかし実際は「一部の生まれつき解離しやすい人たちがいて、彼らは様々なストレスに解離的な反応を起こしやすい」という方がより正しい。しかし実はこれも正確ではない。「ストレスには様々な種類があり、解離を起こしやすいものと起こしにくいものが確かにあり、また人にも解離を起こしやすい人とそうでない人がいる」の方が最も正確であろう。すると「環境×その人の感受性」の組み合わせが解離を起こすということだ。  解離をある種の環境刺激への過剰とも言える反応として理解すると比較的すっきりと説明できる。子供の人格はこちらを愛着の対象と察知して遊びに出てくる。それは数少ないそのようなチャンスを見極めた、しかしそれ自体は意図的というより生理的な反応である。それはポージス的には腹側背側迷走神経の協働による愛着反応といえる。そしてそれは脅威を察知した時のフリージングとは対極的で、おそらくトラウマの要素を微塵も含んでいない。それもまた一種の相転移的な現象と言える。

2026年5月23日土曜日

ストレスとDID 17  

 ポリヴェーガル理論から見た解離症状

 さて相転移は心だけではなく、身体の変化を伴うであろう。人格のスイッチングにより様々な生理的な変化も伴うことを私たちは知っているからだ。そしてそのような突然の変化を説明する上で最も有効なのが、スティーブン・ポージスのポリヴェーガル理論であろう。この理論の画期的な導きの書である「ポリヴェーガル理論」(津田真人)を読むと、こうある。「危機ないし脅威の環境では、皮質レヴェルは作動することなく、あるいはその前に、偏桃体(A)~中脳水道周囲灰白質 (PAG) などの防衛システムが即座に作動する」。このシステム(APAGとしよう) は、安全だとこのAPAGが側頭葉により抑制されているために、皮質と結びついた向社会的行動が生じやすいという。「ニューロセプション」が危機を察した時に発動するこのAPAGは一種のスイッチの役割を話し、それが相転移(人格のスイッチング)にも関与しているのではないか。ただしここで不思議なことは、子供人格の出現は、APAGの発動とは程遠い状況で起きるということだ。これはポージスの考えを借りるならば、向社会的な反応の結果と見なせるのであろうか?


(中略)

 この問題がどうこれまでの議論と接続するかというと、解離はトラウマに対する反応という以上の何かであることを表している可能性があるからである。そう、これは解離能の議論につながる可能性があるのだ。

2026年5月22日金曜日

ストレスとDID 16  

 解離現象と相転移との類似

 ここに表れる解離の性質は、それが心に不連続性を生み、それ以前とは全く異なる状態が出現するという点である。それはある組織が一つの状態からもう一つの状態にジャンプするとでも表現できるであろう。それは一つの心に起きた変化、というよりはもう一つの心が出現する現象と言えるかもしれない。つまり一つの心の中を探っていても不十分なわけである。先ほどの体外離脱がまさにそれを表している。

 しかし心が実際に二つに分かれるという現象を想像できにくいとすれば、それに近い現象がいわゆる相転移である。私は解離性障害における人格のスイッチングを即相転移として位置づけるつもりはない。ただ現象としては類似しているということを主張したいわけである。もし一つの心が脳に宿り、そこにもう一つの脳を想定できない以上、同じネットワークを作っている要素のまったく異なる結合の仕方(相転移における水分子がそうであるように)である。

 ここで相転移の定義としては以下のようにあらわせるだろう。

「相転移とは、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる物理現象である。氷が水に溶ける、水が蒸発する、磁石の磁性が消えるなどが代表例であり、アボガドロ数程度の多数の原子が絡み合うことで生じるマクロな変化である。」(AIの回答より。)

 相転移というと常にこのような物理現象が引き合いに出されるが、それに限らず、組織の構造の在り方が全面的に、かつ不連続的に生じることだ。 氷と水の間に生じるのは相転移の典型であるが、例えば私がDIDの病理として想定した複数のダイナミックコアのかかわりもそれに相当するのではないか。そこでは同一の神経細胞が異なるネットワークを形成しなおす、という状態を想定したからである。


2026年5月21日木曜日

ストレスとDID 15 

 脆弱性とは異なる「解離能」

 以上のように考えると、実は解離性障害の発症機序はストレス脆弱説ではとらえきれない問題があることがわかる。Stress-diathesis model(ストレス―脆弱性モデル、SDモデル)は、ストレス因に当人の脆弱性が関係して発症するというモデルだ。ちなみに diathesis は素因という意味で、古代ギリシャ語 diáthesis(性質・配置)に由来し、18世紀以降の医学で「病気になりやすい素因」を表す用語として定着した。だから diathesis は「脆弱性」と訳されることが多いのだ。 しかし問題は、解離を起こしやすい性質は脆弱性では片づけられないということだ。上述の「生き延びる価値」や創発性は脆弱性とは別の問題なのである。

 解離反応の一つの典型例として、私はいつもOBE(幽体離脱)を挙げる。これは一般人にも体験されることが多く例としてそれだけわかり易いからだ。、10~20%の人が体験するという研究もある。
Irwin, H J (1985). Flight of mind: Psychological study of the out-of-body experience. Metuchen, N J: Scarecrow.

Irwin, H J (1981). Some psychological dimensions of the out-of-body experience. Parapsychology Review, 12(4), 1-6.

自分が襲われそうになった時に、ふと意識がその体を離れ、それを見下ろしている自分が出現する。それはまったく意図したものではなく、自然に体の反応として生じるのである。そしてそれは明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。
 同様の反応は様々にみられる。動物の子供は首を掴むことでいきなり力が抜け弛緩した状態になる。動物の子供が首(後頭部から肩の皮膚)をくわえられると、急に動かなくなり弛緩する現象は、科学的に「輸送反応(Transport Response)」と呼ばれているという。親が敵から逃げる時や巣を移動する際、子供が暴れると移動の邪魔になったり、敵に見つかりやすくなったりする。そのため、首をくわえられたら動かずにいることで、親は子供をスムーズかつ安全に運ぶことができるという。
 そしてこの反応は、心拍数を低下させ、泣き声を止め、体を丸めて運ばれやすい姿勢にする効果があるという。このように考えると、ライオンが捕食の際に首に噛みつくのは、そこに頸動脈があるからだけでなく、この輸送反応により獲物を大人しくさせるという目的があるのかもしれない。
 ここであるケースが語っていたことを思い出す。「外に出ている人格に引っ込んでもらう時、私は奥の手を使います。その人格の首のあたりを掴むんです。するとその人格はおとなしくなり、私が取って代わります。」

さらに端的なのはいわゆるイマジナリーコンパニオンの体験であろう。ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告している。

Pearson D, Rouse H, Doswell S, Ainsworth C, Dawson O, Simms K, Edwards L, Faulconbridge J. Prevalence of imaginary companions in a normal child population. Child Care Health Dev. 2001 Jan;27(1):13-22.  


2026年5月20日水曜日

ストレスとDID 14

 解離は「ストレス―脆弱性モデル」で捉えるべきなのか?

 解離性障害は、深刻なストレスや危機的状況で生じるというのが現在の精神医学ではコンセンサスとなっているが、では具体的にどのようなストレスが解離に関与しているのであろうか。臨床家達がこの問題に関心を持った時期に米国にいた私は、Dissociogenic stress (解離を引き起こすようなストレス)というテーマの論文を書いた(Okano, 1997,1998)。

 

Okano, K (1997) A notion of "dissociogenic stress" Dissociation. Volume 10, No. 2, p. 130-134.

Okano, K (1998)  Dissociogenic stress: A transcultural concept. Psychiatry and Clinical Neurosciences. 52:576-581.


 そこでの要旨は、人は怒りや恐怖などのネガティブな心的内容を他者に投影したり外在化したりすることが抑制されることによるストレスが解離を生みやすいであろう、ということであった。解離の患者の多くが怒りの感情を表出することが少なく、ストレスに対して受け身的でじっとそれをやり過ごそうとするという印象を持つ。
 その頃よく言われていたのは、ボーダーラインパーソナリティはストレスを外在化し、対象をスプリットしてしまう一方では、解離では自分の方をスプリット(解離)してしまうという両極端の臨床的な表れを示すということである。
 このネガティブな心的内容の外在化の抑制は、例えば虐待者からその事実に関する秘密を強要されるという形だけではなく、被害者が抱く恥や罪の意識にも由来すると考えらえた。それは数多くの解離を有する患者が、家庭外での被害を両親に決してわかってもらえなかったという背景を持っているだけではなく、その事実を親に決して語ろうとしなかったからだ。否、そればかりでもないだろう。彼らにとってはトラウマの記憶は少なくとも主人格には記憶として残らない場合もあるからだ。

 このように考えるとネガティブな気持ちを表出できないのは、解離の結果であるとも考えられる。野生動物でも捕食者に襲われると、生体がそれと戦うという反応ではなく、解離を選ぶ。その結果として敵意や攻撃性などは表現される場を失われるのである。

 私がこの頃の臨床経験で印象深かったのは、患者はしばしば母親の前で「母親仕様の」顔を保つということである。母親が自分にこうあって欲しいというイメージを的確に読み取り、それに合わせるという能力を彼らは持っているようであったが、それは決して彼らが意図的に「演技」をしているわけではなく、それはもっと自然で、あえて言えば身体的な反応なのである。しかしそれは確実に、母親に対するネガティブな感情が除外されたものである。母親からすれば、子供は本当に自分のことをわかってくれていて、価値観も趣味も自分と一致していると感じるであろう。そのような時の母親は優しいであろうし、子供は愛情をかけられていると感じられるであろう。だからその時の顔は、より正確には「優しい母親仕様の」と呼ぶべきかもしれない。

 このような状況では恐らく母親に対するネガティブな感情はそもそも発想として浮かばない可能性がある。もちろん心のどこかで母親を怖ろしく感じたり、憎しみを覚えたりするという体験も当然ながら存在する。しかしそれはこの「優しい母親仕様の」顔には組み込まれない。おそらくそちらは「怖い母親仕様」の顔に自動的に仕分けられるからだ。そしてそこで単にフリーズした、ちょうど擬死反射を起こした状態になるだけではなく、それが人格を形成してしまう。そのことが最も驚くべきことなのだ。

このように考えると「解離能」に含まれるべきなのは、survival value 生き延びるための価値に留まらないことがわかるであろう。それはある意味での創発であり、創造のプロセスなのである。

2026年5月19日火曜日

ストレスとDID 13

  少なくとも交代人格のかなり多くが、主人格を補助し、いざとなった時に救いの手を差し伸べるという例はよく聞かれる。ある患者さんはストレス的なことがあると、小さい子供の人格にポイ、と渡していたので、自分自身はあまり辛さを感じないでいたという。しかしその人格からは「僕のこと忘れないで!」という言葉が時々聞こえてきた。ところが「ああこの人格に世話になっているんだなあ」と思うようになると、その子供の人格の声は聞こえなくなってきたという。

解離は症状か防衛機制か?


 ここで改めて問うてみる。「解離は症状か防衛機制か?」この問題は解離を一つの能力とみなすという立場からはより重要になってくる。

 Putnam のテキストには以下のようにある。「解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられている」。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい(p9)。

 解離が防衛として働くという考えはある意味では常識的なとらえ方である。最初にトラウマが生じた時に自らをその状況から隔離するという形で解離が起きたと考えられるからだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で、それ以外のあまり危機的ではない状況でも繰り返されるようになるということである。

 実はこの問題について考えるようになっているのは、DIDに既遂自殺が多いか否か、という問題意識が背景にある。私の経験では自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で、かなり既遂自殺は少ないという実感がある。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかと思う。それは端的に言って、最初の危機的状況で解離が当人を救ってくれたからだ。自殺の瀬戸際にあるという第二の危機的な状況で解離が「生き延びるための価値」を発揮して、本人を救わないというのは理屈に合わないであろう。

 この生き延びるための価値を、解離の有する能力と捉えるというのは自然な発想であろう。すると以下のようにまとめられる。

能力としての解離(解離能) → 自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離 → 自殺傾向を高める??

という関係があるのではないか。

 これら二つは全然違う方向性である。同じ解離という現象が人を死から遠ざけることもあれば、むしろ近づけることもあるという矛盾した主張のように思われるかもしれない。しかしこのように考えてみてはどうだろう? 解離という現象それ自体は一つの心の働きとして多くの人に程度の差こそあれ存在する。いやなことを考えまいとする、いわゆる抑圧などと同様の心の働きだ(正確にはこのような時に働くのは抑圧、ではなく抑制という心の働きである)。それは適応的にも不適応的にも働くわけであり、少なくとも適応的な意味があることは、進化の過程でそれが残されているということが証左となっているのであろう。そしてストレス関連障害は純粋な解離部分とそれ以外の部分(併存症としての鬱、その他を含む)に分けられるのではないか。そして自殺傾向に関与しているのは後者の「それ以外の部分」と考えられるのである。

 (以下略)


2026年5月18日月曜日

ストレスとDID 12

 相転移としての解離

 ここに表れる解離の性質は、それが心に不連続性を生み、それ以前とは全く異なる状態が出現するという点である。それはある組織が一つの状態からもう一つの状態にジャンプするとでも表現できるであろう。それは一つの心に起きた変化、というよりはもう一つの心が出現する現象と言えるかもしれない。先ほどの体外離脱がまさにそれを表している。
 しかし心が実際に二つに分かれるという現象を想像できにくいとすれば、それに近い現象がいわゆる相転移である。

 ここで手っ取り早く相転移を定義しようとして、ググると必ずAIの回答が出てくる。

「相転移とは、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる物理現象です。氷が水に溶ける、水が蒸発する、磁石の磁性が消えるなどが代表例であり、アボガドロ数程度の多数の原子が絡み合うことで生じるマクロな変化です。」そんなことは分かっている。

 要するに物理現象に限らず、組織の構造の在り方が全面的に、かつ不連続的に生じることだ。 氷と水の間に生じるのは相転移の典型であるが、この中間状態もまた面白い。いわゆるフラクタル現象が見られるのはそのような時だ。水の分子が集合を作り出し、その集合がみるみる増えていき、その際の集合の大きさと数が、スケールフリーになり、冪乗則に従う。私はフラクタルオタクなのですぐこっちのほうに話を持っていきがちだが、とにかくある種の刺激で水から氷になるという変化は、人格AからBにスイッチするという現象ととても似ている。

 実はこのような突然の変化はもちろん身体レベルでの変化を伴う。それを見事に表しているのが、ポージスのポリベイガル理論であろう。「ポリヴェーガル理論」(津田真人)を読むと「危機ないし脅威の環境では、皮質レヴェルは作動することなく、あるいはその前に、偏桃体~中脳水道周囲灰白質 (PAG) などの防衛システムが即座に作動する」とある。このシステムはあまりに長たらしいので「APAG」と呼ぼう。そして安全だとこのAPAGが、側頭葉により抑制されているために、皮質と結びついた向社会的行動が生じやすいという。「ニューロセプション」が危機を察した時に発動するこのAPAGは一種のスイッチの役割を話し、それが相転移(人格のスイッチング)にも関与しているのではないか。ただしここで不思議なことは、子供人格の出現は、APAGの発動とは程遠い状況で起きるということだ。これはポージスの考えを借りるならば、向社会的な反応の結果と見なせるのであろうか?

2026年5月17日日曜日

ストレスとDID 11

  いずれにせよ私は、心は危機的な状況でそのネガティブな心的内容を体験している自分自体を隔離する必要があることから解離が生じやすいと考えたわけである。しかしこれは今から考えると抑圧の機制で説明できないこともないとも考える。そして抑圧の場合は、それが身体症状や抑うつや不安という形を取るということになるだろう。  あらためて考えるならば、なぜ解離が生じるかと言えば、危機的状況で当人が解離という手段を用いたから、としか言いようのない事態が起きているのかもしれない。  解離反応の一つの典型例として、私はいつもOBE(幽体離脱)を思い浮かべる。自分が襲われそうになった時に、ふと意識がその体を離れ、それを見下ろしている自分が出現する。それは通常はまったく意図的ではなく、自然に体の反応として生じるのである。そしてそれは明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。  同様の反応は様々にみられる。動物の子供は首を掴むことでいきなり力が抜け弛緩した状態になる。動物の子供が首(後頭部から肩の皮膚)をくわえられると、急に動かなくなり弛緩する現象は、科学的に「輸送反応(Transport Response)」と呼ばれているという。親が敵から逃げる時や巣を移動する際、子供が暴れると移動の邪魔になったり、敵に見つかりやすくなったりする。そのため、首をくわえられたら動かずにいることで、親は子供をスムーズかつ安全に運ぶことができるという。  そしてこの反応は、心拍数を低下させ、泣き声を止め、体を丸めて運ばれやすい姿勢にする効果があるという。このように考えると、ライオンが捕食の際に首に噛みつくのは、そこに頸動脈があるからだけでなく、この輸送反応により捕食者を大人しくさせるという目的があるのかもしれない。  ここであるケースが語っていたことを思い出す。「外に出ている人格に引っ込んでもらう時、私は奥の手を使います。その人格の首のあたりを掴むんです。するとその人格はおとなしくなり、私が取って代わります。」

2026年5月16日土曜日

ストレスとDID 10 

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は「ストレス、トラウマ、小児期逆境体験(ACE)ハンドブック ― 基本的知識から臨床実践まで」である。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害について、ストレス因との関連から論じる。

 解離性障害がDSM₋Ⅲに診断名として正式に採用されて以来、ある種のストレスが解離症状という反応を起こす、という考え方は一般的に受け入れられているとみていい。DSM-Ⅲに同時に採用されたPTSD等のトラウマに関連した障害の最大の特徴は、トラウマという環境因により発症するという因果関係が強調されたことである。そしてそれは戦争や虐待や性被害等が人間の精神にもたらす影響の重大さが再認識されるという時代の流れと軌を一にしていたのである。そして一つの焦点となったのが、トラウマにより一方ではPTSDのような症状が生まれ、他方では解離性障害を来すという違いがどこに由来するのかという問題であった。

このような問題がいち早く関心を持たれた頃の米国にいた私は、この「どのようなストレスや環境因が解離の病理を引き起こすか」というテーマで、Dissociogenic stress (解離原性のストレス)というテーマの論文を書いたことがある(Okano, 1997,1998)。

 

Okano, K (1997) A notion of "dissociogenic stress" Dissociation. Volume 10, No. 2, p. 130-134.

Okano, K (1998)  Dissociogenic stress: A transcultural conceptPsychiatry and Clinical Neurosciences. 52:576-581.


 そこでの要旨をまとめるならば、ネガティブな心的内容を投影したり外在化したりすることが抑制されるという形でのストレスが解離を生みやすいであろう、という考えであった。そしてそれは外部の対象から直接虐待の事実に関する秘密を強要されるというだけでなく、被害者が抱く恥や罪の意識からそれを表すことが出来ないことなどもその機序として考えた。それは数多くの解離を有する患者が、当の両親により虐待を受けていたり、家庭外での被害を両親に決してわかってもらえなかったという背景を持っているという臨床的な事実から生み出された理論であった。

 私がこの頃印象深かったのは、患者はしばしば母親の前で「母親仕様の」顔を保つということである。母親が自分にこうあって欲しいというイメージを的確に読み取り、それに合わせるという能力を彼らは持っているようであったが、それは決して彼らが意図的に「演技」をしているわけではなく、それはもっと自然で、あえて言えば身体的な反応なのである。しかしそれは確実に、母親に対するネガティブな感情が除外されたものである。母親からすれば、子供は本当に自分のことをわかってくれていて、価値観も趣味も自分と一致していると感じるであろう。そのような時の母親は優しいであろうし、子供は愛情をかけられていると感じられるであろう。だからその時の顔は、「優しい母親仕様の」と呼ぶべきかもしれない。

 しかし子供が母親から受ける影響はポジティブなものばかりではない。母親を怖ろしく感じたり、憎しみを覚えたりするという体験も当然ながら存在する。しかしそれはこの「優しい母親仕様の」顔には組み込まれない。おそらくそちらは「怖い母親仕様」の顔に自動的に仕分けられるからだ。


2026年5月15日金曜日

ストレスとDID 9 

  昨日たまたまポージズ( S.Porges) の neuroception の論文 (2004) を読んでいるうちに、一つひらめいたことがある。彼は人が親愛の情を向ける人と、自らを脅威に陥れる可能性のある人とでは、全く異なる反応をすることを論じている。それを嗅ぎ分けるのが彼の言うニューロセプション(ポージスの造語、無意識的な皮質下のシステムを通して生じるもの、認知レベルで上がってくる知覚 perception と区別することを意図した用語だ)というわけである。確かに野生の動物は人間に対して非常に攻撃的になる一方では、子供の頃から世話をしたり、罠にかかっているのを助けた際などは、全く異なる親愛の情を示すことがある。凶暴な虎が育ててくれた人間に対してはデレデレになるという動画を見ていつも驚いているわけであるが、ポージスはこのような二つの両極端の反応がいかに生じるかについて論じているようだ。  解離においては危機的状況で感情的な人格が現れる場合と、安全な環境で子供の人格が現れる場合という両極端な反応がこれに対応することになるであろう。以前から解離が危機的状況で発動するならば、子供の人格の出現はどのようにとらえるべきかを考えていたが、後者はむしろ適応的な反応と考えることができるのではないか。そして少なくともそこで働いているのはポージスのいう腹側迷走神経系VVCなのである。ここが働くことで、闘争逃避反応も、フリージングも抑制される。つまり交感神経系と背側迷走神経DVCが共にこれにより抑えられる。

Porges SW. (2004). Neuroception: A subconscious system for detecting threat and safety. Zero to Three: Bulletin of the National Center for Clinical Infant Programs 24:5,19-24. 

  ポージスの理論で重要なのは、ストレスでアクセルとブレーキを両方踏むという異常事態を回避する役目をVVCが担っているという点である。このこととDIDにおいてほぼ確実にみられる子供の人格状態とには関連があるのだろうか。あたかも危機的な状況で部分的にVVCが発動して幼児人格を形成するという形を取るのだろうか。あるいは幼少時にわずかに得られた安全な機会に緊急避難的に作られるというニュアンスを持っているのかもしれない。しかし前者に関してはあまり考えられないであろう。なぜなら幼児的な人格は相手に気を許せる状況で出現することが一般的であるからだ。あるケースでは面接者のデスクの上にあったお絵かき用のクレヨンに反応して出現した。あたかも相手との関係性を成立させるための人格状態が発動したという印象を受けるが、これも意識的、意図的な選択ではない。危機的状況での闘争逃避反応と同じくらいに、愛着を求める行動も本能に根差しているというべきだろうか。

2026年5月14日木曜日

ストレスとDID 8 

  さてここに解離は能力でもある、という考えを組み込むとしたらこうなる。「解離は能力であると同時に、場合によっては脆弱性ともなりうる」。この問題に関しては、昨今の発達障害の議論と重なっている部分があることを否めないのでそちらを見ておこう。  この発達障害に関しては、最近問題となっているのが、ASDをその個人の個性、ライフスタイル、DEI、ニューロダイバーシティと見なすか否かという議論である。それを個性とみなす以上、「能力であると同時に場合によっては脆弱性」という考え方が成り立つ。そしていわゆるインクルーシブな考え方は社会モデルとも呼ばれ、社会が勝手にバリアを作っているのであり、本人に罪はないという立場だ。(それに対する医学モデルは、その人に問題、ないしは障害が内在しているというものだ。)  実はこのインクルーシブネスの議論は、それなりに問題含みであるという。ASDにおいて高機能の人には「それは個性ですね」で通じても、低機能の人にはそれでは通じない、ということだという。それは確かにそうかもしれないが、解離についても似た議論が成り立つのだろうか。つまり高機能の解離はそれを活用できるが、低機能だとそれに翻弄されてしまうという考え方である。しかし解離の機能を高いレベルで活用すると言ったことが考えられるだろうか? 私には今ひとつピンとこない。それはなぜなのだろうか?一つの考えとしては、それが一種の生理的な反応として私たちの身に備わっているからであり、それを必ずしも意図的に使えないということが関係しているだろうか。  実は解離を自在にコントロールできている人を想像してみた。しかしピンと来ないのである。たちどころに睡眠に入る能力、とか急に涙を流す能力を持つ人を考えにくいのと同様、ある種の身体的、生理的な反応を含み、それは基本的には意志のコントロール下にないことと関係しているようなのだ。  ここでPorges のポリベイガル理論が参考になるだろうか。あるストレスにおいて背側迷走神経系が刺激されることが解離の最初のきっかけだったのだろう。これを一種のスイッチングとすると、交代現象にはおそらく同様の仕組みが働き、基本的にはそれを当人はコントロールできない。たとえそれを出来ている人でも、予想外の危機的な状況で起きるスイッチングをコントロールできないのではないか。私が臨床的に出会うのは、従来はスイッチングが起きてしまっていた状況を、いかにそれなしで耐えることが出来るようになったか、というタイプの体験なのだ。  やはりこれらの考えを総合すると、相転移の考えに至ってしまう。それは一つの心の中で処理することが出来ずに、それ自体が別のものに代わってしまう現象だ。だから人格Aと人格Bの間にあれほどの不連続性が見られる。そしてこれを能力と見なせる一つの根拠は、人格Bにおいては、人格Aには備わっていない能力や感性が見られることが多いからである。そう、やはりこの部分なのだ。能力と理解すべきなのは。

2026年5月13日水曜日

ストレスとDID 7 

  このところかなり本題からずれた話を続けている。そもそも最初のテーマさえ忘れかけている。それは「解離性同一性障害についてストレス因との関連から論じる」ということだった。ただしこのテーマはいかにもストレス―脆弱性モデルに従ったものであるが、現実に起きていることはこのモデルでは論じにくいという事情がある。これまでの議論からわかるとおり、本稿で進むべき方向は「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」である。  私は基本的にはトラウマ論者である。最初はかなりはっきりと「トラウマ決定論」的な考えを持っていた。それは言語的、身体的暴力に苦しみ、発症した数多くの人々が長年非常に軽視されてきたという歴史があるからだ。しかし現在は「トラウマが精神障害を来す」という言い方には慎重になるべきであると考えるようになっている。なぜなら「トラウマ」と呼ぶ時点でそれが「本来障害を招くべきストレス」という含意があるからだ。しかし誰にとってもPTSDを生むような出来事というものは恐らく存在しない。(その代わりに不安や抑うつや身体的な症状を生む可能性は高いだろうが。)そうである以上それはある種の環境の刺激、ないしは環境因としてしか呼べないものと考えざるを得ない。  そしてその上で私が29年前に考案した「解離原性のストレス」について改めて考えると、多少なりとも修正を加えなくてはならない。この概念はストレスにはいくつかの種類があり、その中には解離を起こしやすいものとそうでないものがあるという考え方だ。しかし解離を起こしやすい人とそうでない人というファクターも見逃せない。そうでない人はいかに解離を起こしそうなストレスでもそれ以外の反応を起こしてしまう(あるいは反応をそもそも起こさない)その意味ではまさにストレス―脆弱性モデルにそのまま当てはまるべきものという気もする。これを言い直せば、ストレスの中でも解離を起こしやすいもの×ストレスに対する反応が解離という形を取りやすい人により解離性障害が起きる、ということになる。  さてこれがBelsky のDSモデルに従えばどうなるのか。彼のモデルの最大の売りは、「感受性=リスク」ではなく「感受性=可塑性 plasticity」と定式化したことである。つまりは解離反応はストレスにより自分を大きく変容させることであり、それ自身が弱さの表現ではないということだ。解離そのものではなく、それをコントロールできないことに弱さ、脆弱性がある、というべきであろうか。しかしコントロールできない≒弱さ、と決めつけることも出来ない。少なくとも危機的状況で自分が変容することは、十分適応的だからだ。獲物に狙われた袋ネズミが仮死状態のようになるのは、「弱さ」ではないだろう。それは生物学的には適応的に働いていたのだ。そしてこれは一種のブレーカーのような形で心身の機能をシャットダウンすることで急場をしのぐことができる。しかしこのブレーカーがそれほど大きな危機的状況でないにもかかわらず働いてしまうとしたら、そこに問題が生じてしまうわけである。

2026年5月12日火曜日

ストレスとDID 6

  ただしこのDSモデルををASD等にあてはめてもうまくいかない。彼らは過敏だが、よくない体験に対して被害的になる一方では、良い体験をそのまま受け入れてはくれない。これはDSがすべてには当てはまらない一つの例と言える。つまりDSは一般論ではないのだ。ちなみにASDで起きていることは、「社会的共感」など特定領域では構造的制約(processing limitation)があるという。つまりこれは 可塑性ではなく「特異的な処理特性」ということになるが、これこそ障害としてとらえるべきことであろうと私は考える。Belsky だったらASDは「differential susceptibility」ではなく“vulnerability”または“neurodevelopmental constraint” つまり「より悪くなる」ことはあっても「より良くなる」方向には広がらないということだ。つまりBesky はvulnerability という言葉をなくしたいのではなく、そう表現せざるを得ないものもあるが、ことごとくそのようにとらえる必要はないということか。

 ちなみにASDの話の続きで。これは性格の一部(つまりそれはいい方向にも悪い方向にも向かうもの)というよりはハンディキャップということになろう。(逆に言えば、一般的に性格と言われているものはこのDSに従うような、ある特定の分野でのその人の持つ可塑性(ないしはその低さ)ということだろうか。)例えば穏やかな人(感情的な可塑性の低い人)はいいことにも悪いことにもあまり反応しないから、一緒にいて安心だが物足りない、という風に。いずれにせよ性格ならバタフライ型の分布を示すが、そうでない場合はどちらかにのみ大きく広がるという分布の仕方。

 さてこれと解離とを結びつけよう。解離の場合は環境の突然の変化に対して、自らを変える、自らをなくして相手に同一化する、自らをシャットダウンするというような反応であろう。これは受容的な環境で相手に同一化するという重要な反応を起こすが、侵害的な場合には自らをシャットダウンしたり、相転移を起こしたりするといった極端な反応が起きる。その一つはPorges のいう腹側迷走神経系の反応ということになるが、これ自体がかなり相転移的な反応と言えるだろう。同一化とはある意味では相転移的と言えるが、これで解離のすべてを説明できるとは限らないが。ただここで一つの重要な発想の転換はDS:同一相内での振幅の違いのに対して、相転移モデル:相そのものが変わるということ。この視点を入れると、ASDの話も整理できる:ASDは「別の相の構造」だからDSの“両方向性”が成立しないという考えかたが成り立つのだ。

2026年5月11日月曜日

ストレスとDID 5 

 今、Belsky らの提唱している differential susceptibility(差異感受性モデル、以下、DS)(Belsky, J., & Pluess, M. (2009). Beyond diathesis stress: Differential susceptibility to environmental influences. Psychological Bulletin, 135(6), 885–908.

について理解しようとしている。これが従来のストレス―脆弱性モデル(SD)にとって代わるものである以上、これを十分わかっておかなくてはならない。このDSの重要な点は、人がある環境による刺激に感受性が強いということは、必ずしも悪いことではなく、その欠如は、よりよい方向に働くという考えだ。

対比的に示そう(AI自身の言葉を借りて)。

ストレス―脆弱性モデル(SD)→ 感受性が高い人は「悪い環境でより悪くなる」

DSモデル(Jay Belsky)→ 感受性が高い人は「悪い環境でより悪くなる 、良い環境でより良くなる」

そこで重要になってくるのが、脆弱性 vulnerability  の代わりに可塑性 plasticity という言葉を用いることの重要性だろう。そしてDSについて論じる上で一番有名なのは、5-HTTLPR(セロトニントランスポーター遺伝子多型)で、短い型(short allele)の人は、ストレス下 → 抑うつ・不安が増えやすいが、良い養育環境 → むしろ平均以上に適応が良くなるという結果がみられる。つまりSSの人ほど感受性(可塑性)が高いという例。  これ以外の例も知られる。よく出される例として、ドーパミン関連遺伝子(DRD4など)、行動抑制気質(inhibited temperament)、高反応性乳児(high-reactive infants)等があり、高反応性の赤ちゃんは不安定な養育 → 強い不安・問題行動だが、安定した養育 → むしろ非常に社会的・適応的になるという。  ちなみに私の好きな比喩は Thomas Boyce という人の言っている「dandelion theory(蘭とタンポポ)」モデルで、蘭(敏感)は悪環境で枯れるが、良環境で最も美しく咲くのに対して、タンポポ(鈍感)はどこでもそこそこ生きるというもの。(私が昔論じた過敏型自己愛の概念に似ている。)  ドーパミン関連遺伝子については、7リピートの人は高感受性でnovelty seeking などが見られ、悪く働くと不良になり、よく働くと高い探索性や柔軟性、社会適応の良さなどに表われるという。日本人は2とか4リピートの低感受性なのであまり面白くない性格ともいえる。つまり極端に悪化する人も少ないが、伸びる人も少ないという。  ちなみにチャット君はこのセロトニントランスポーターやD4受容体の話は、実は一時騒がれたほど再現されていないという。つまりそこにはきわめて多くの遺伝子が関係していてあまりクリアーカットには説明できないらしい。

2026年5月10日日曜日

ストレスとDID 4 

  Belsky らのDS(differential susceptibility)モデルの定義をもう一度繰り返す。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。これに基づく理論は従来の考え方である「トラウマにより解離が生じる」と若干異なる。私の28年前の「解離原性のストレス」という発想もそれに基づいたものだ。背景にあるのは、「ある種のストレスを体験すると人はみな解離する」という考えだ。つまりは環境因の種類を重視した考え方だ。  しかし実際は「一部の生まれつき解離しやすい人たちがいて、彼らは様々なストレスに解離的な反応を起こしやすい」という方が正しい。しかし実はこれも正確ではない。「ストレスには様々な種類があり、解離を起こしやすいものと起こしにくいものが確かにあり、また人にも解離を起こしやすい人とそうでない人がいる」の方がより正確であろう。すると「環境×その人の感受性」の組み合わせが解離を起こすということだ。  しかしここにもう一つ込み入った事情が存在する。それは解離そのものが病理とは言い切れないということだ。いわゆるストレス―脆弱性モデルとは、特定のストレスが特定の脆弱性を持った人により体験されることである種の病理を生む、というモデルだ。これが不安とかうつ状態とかなら病理と言えるであろうが、解離はそれとは少なくとも異なる。それが Putnam のテキストにも出てきた、解離が survival value を持つという考え方である。つまりはそれ自体はプラスにもマイナスにも働きやすい、それ自身としてはニュートラルな現象なのである。  さてその事情をどのように説明すべきかということで私が至ったのが「解離=相転移モデル」とでもいうべきものである。その一つのヒントとなったのが、Belsky の感受性の考え方である。彼は脆弱性ではなく感受性ととらえた。脆弱性なら弱く、つぶれるだけである。しかし感受性は心がある種の反応を強く起こすという考え方だ。弱く、潰れやすいというだけではないから、それはある意味では適応的にも働くと Belsky は考える。すると解離傾向を持つ人がそれを最も極端な形で表したものが、それまでの心の在り方を別のものにスイッチするという反応であり、それがDIDにおいて生じることなのだ。  このように考えるとなぜ病理学者が解離の説明に苦しみ、時には誤った理解の方向に進むのかがわかりやすくなる。もともと人の心の病理に相転移の考え方はなかった。つまりは病理をきたす心それ自体は、それ以前の心と同一のものだ。そして解離によりそれまでの心と異なる心の状態に切り替わった後も、人はそれを最初の心に起き続けていると考える。その結果として解離を起こしている人を「嘘つき」と見なしたりするのである。

2026年5月9日土曜日

ストレスとDID 3

  ここで今愛読しているロバート・プロミン著「心は遺伝する」が関係してくる。Plomin や行動遺伝学の知見は、ごく当たり前のことではあるが、十分認識されてこなかった事実、すなわち「同じ環境が子供に同じ結果を生むわけではない」ことを示している。つまり子供の側の素因がかつてないほどに多いいことが知られるようになってきているのだ。  単純な例を考えよう。ある「虐待的な母親」が存在する。そして双子の男児(二卵性)を養育している。そしてそのうち兄が愛着トラウマによりCPTSDと呼べる症状を示したとする。その場合弟がCPTSDを発症する率はどのくらいだろうか?  トラウマモデルに従った考えの人はかなり躊躇なく、「高い確率で弟もCPTSDを発症するだろう。なぜなら同じ虐待的な母親に育ったのだから。そんなの当たり前でしょ?」と言うだろう。「だから弟も児相に隔離しないと」となるかもしれない。しかし話はそれほど簡単ではない。弟がCPTSDになる確率は、確実に50%以下だろう。それはなぜか。  あの遺伝率が高いと言われている統合失調症でさえ一致率は50%ほどだ。つまりは一卵性双生児の場合に、兄が統合失調症の場合の弟の発症率は50%ほどになるということになる。ましてや(遺伝子を半分共有している)二卵性ならこれよりずっと低く20%ほどだという。(ちなみにさらに遺伝が深く関与していると考えられるASDでは一卵性の一致率は70~90%とされ、かなり高い確率で兄がASDの場合は弟もASDを発症する。)  するとCPTSDが弟にも発症する確率はどのように高く見積もっても20%以下だろう。(ただしこれは臨床的な直観であり、科学的な根拠はない。実はCPTSDは2022年にICD-11に記載されたばかりなので、まだ研究は進んでいないらしい。)つまりどういうことかと言えば、ある子供がCPTSDを発症するくらいに虐待的な母親のもとに育っても、別の兄弟がCPTSDを発症する確率は決して高くない事になる。  この件についてAIにいろいろ尋ねるうちに、ここで使える橋渡し概念がDSモデル( differential susceptibility / biological sensitivity to context) だということが分かった。Belsky & Pluess という人たちの2009年の論文によると以下のようになる。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。 Boyceという学者 も、差異感受性は気質・生理システム・脳回路・遺伝・エピジェネティクスなど複数レベルの生物学的調整に根ざすと整理している。私が関心を寄せているA.Schore 右脳精神療法の考え方と統合するならば、以下のようになるという。「早期愛着は右脳情動調整系を形成する。しかしその形成のされ方は、子どもの遺伝的・生物学的感受性によって大きく異なる。」  話をDIDに戻すと、DIDは単にトラウマの結果ではなく、トラウマと解離的に心を組織化する能力との相互作用の結果として理解できる。  そしてAIは次のようなキャッチフレーズを提案してくれた。 「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」

Boyce WT.(2016) Differential Susceptibility of the Developing Brain to Contextual Adversity and Stress. Neuropsychopharmacology. 41(1):142-62. 

Belsky, J., & Pluess, M. (2009). Beyond diathesis stress: Differential susceptibility to environmental influences. Psychological Bulletin, 135(6), 885–908. 


 結局トラウマ的な刺激に対してDSはある種の感受性の高さを想定する。そしてこれが非常に高いと解離が起きる。しかしBelskyの理論のいいところは、この感受性はいい方向にも働くと言っているところだ。そしてこれが解離は能力でもある、という視点にもつながる。それはどういうことか?

解離とは環境ストレスに対する並外れた反応と考えることができる。それは心に一種の相転移のような反応を起こすということだ。


2026年5月8日金曜日

ストレスとDID 2

 能力としての解離→自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離→自殺傾向を高める


これら二つは全然違う方向性である。同じ解離という現象が人を死から遠ざけることもあれば、むしろ近づけることもあるという矛盾した主張のように思われるかもしれない。しかしこのように考えてみてはどうだろう? 解離という現象それ自体は一つの心の働きとして多くの人に程度の差こそあれ存在する。いやなことを考えまいとする、いわゆる抑圧などと同様の心の働きだ(正確には抑制という心の働きである)。それは適応的にも不適応的にも働くわけであり、進化の過程でそれが残されているということが証左となっているのであろう。そしてストレス関連障害は純粋な解離部分とそれ以外の部分(併存症としての鬱、その他を含む)に分けられるのではないか。そして自殺傾向に関与しているのは後者の「それ以外の部分」と考えられるのである。

 もう少しこの事情を説明するならば、気分障害を伴わない比較的純粋な多重人格状態にある人を考えると、その人はかなり正常に近い社会生活を営んでいる可能性がある。否、DIDを有する人の少なくとも一部は、解離が周囲の人には(時には自分自身にとっても)気づかれていない可能性があり、医療の対象となることもなく、特に自殺傾向が高いとは言えないのではないか。(ただし自傷の場合にはまた異なる事情がそこにあるかもしれない。)

 この問題、考えるうちに極めて深刻な問題をはらんでいることに気づかされる。たとえば「うつ病の人に自殺念慮を抱く人が多い」というのと「解離性障害の人に自殺念慮を抱く人が多い」というのでは、両者はかなり意味が異なる事になる。前者においては、自殺念慮はまさに鬱症状の一つとして含まれると言っていい。しかし後者の場合、本来は解離と自殺念慮は結び付いていない。関連があるのは、解離の引き金となった可能性のある過去のトラウマに由来するPTSDや悲壮感、抑うつなのである。言葉を変えるならば、前者は因果関係 cauation を、後者は相関関係 correlation を意味していることになる。


現代の遺伝行動学とトラウマ理論

 ところで解離性障害は、人間が過去のトラウマによりどのような形で解離の病理を生むかについての様々な知見を与えてくれたが、今このような考え方に対する一種のアンチテーゼのようなものも唱えられている。それもかなり強力な理論だ。それは簡単に言えば「トラウマにより解離の病理を発症する人には、それなりの素因があるということである」となる。さらにわかり易く言えば、外見上はかなり類似したトラウマを受けても、人によりその反応はかなりばらつきがあるということである。つまりはトラウマへの感受性の個人差が存在するということだ。


2026年5月7日木曜日

ストレスとDID 1

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は〇〇というものである。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害についてそれを特にストレス因との関連から論じる。(多重人格という、かなり古めかしさを感じさせる用語をこのまま使うか、あるいはストレスと「ストレス因」の使い方を区別するかなど、いろいろ考えなくてはならないことが多いがとりあえずこのままの形で始めよう。ちなみに本稿は例によって「大人の事情」である。要するに依頼原稿だ。先日まで「バウンダリー」の原稿に苦しみぬいた(←大げさ)が、ようやくその軛から解放されたのもつかの間であった。ただしこちらのテーマは、何度も書いているだけに扱いやすい。しかしそれは新しいことはもうあまり出てこないということでもある。

 はるか昔、1998年にアメリカにいたころに書いた英語の論文に dissociogenic stress に関するものがある。Dissociogenic stress とは「解離原性のストレス」、つまり解離を生むようなストレス、という意味だが、私が使ったきり誰にも使ってもらえていない(いまだにこの論文が引用されたのは、私自身による一回だけ!)だから試しにこの言葉でググるといまだにAIからの答えで  「岡野(1998)らによって提唱された概念」と出てきて、少しだけ誇らしい気分だ。   

 まあそんなことはどうでもいい。ここで問いたいのは、比較的単純な問題である。「解離はどのようなストレスに対する防衛機制だろうか?」最近私は解離を一つの能力とみなす傾向にあり、その意味ではまさに防衛機制ということになるが、他方ではれっきとした症状でもある。果たして解離は私たちにとって良いものなのか、悪いものなのか。

 解離が防衛として働くというのは、それが最初にトラウマが生じた時に、それにより自らをその体験から隔離するという出来事から推察されることだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で繰り返されるようになるということである。

 この問題について考えるようになっているのは、DIDに既遂自殺が多いか否か、という問題意識である。実はこのテーマは7月の「うつ病学会」での発表内容であるが、私の経験ではかなり既遂自殺は少ないという実感があり、それは自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で言えることである。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかということである。

 ここで例によりPutnam のテキストを参照。大御所がまず何を言っているかを知ることは大事だ。すると彼の原書の9ページに以下のように書いてある。つまり解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられているという。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい。であるならば、いざ自殺の危機に瀕している場合にも、これが再び「生き延びるための価値」を発揮することは当然想定されるのではないか。

ここで従来の考え方の転換が必要であろう。

能力としての解離 → 自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離 → 自殺傾向を高める

という関係があるのではないか。