2026年5月2日土曜日

甘えの相互性 8

  ではこのような相互性が失われた状態とはどのような状態なのだろうか。これは土居の言う屈折した甘え、すなわち甘えさせる対象が明確でなく、そのために「子供じみて、意図的で、要求がましい」甘えである。ここでは甘える側は「甘えてあげる」などと悠長なことは言っていられない。何しろその相手が不在かもしれないし、甘えられたくないかもしれない。「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」どころか、「甘えさせてもらう」⇔「甘えさせてやる」という情けない関係かもしれない。あるいは甘える側に相手が「甘えさせる」ことを不快に感じることに気づかずに「甘える」場合もあろう。  屈折した甘えが生じるのにはもう一つの可能性がある。もう一つは相手の「甘えられたい」願望が信じられず、自然に「甘え」られない場合である。その結果としてすねる、ひがむ、妬む等の感情が生まれるというのが土居の説である。   

甘えの前駆期

 では甘えの相互性が芽生えるのはいつなのか。なるべく現代的な知見を取り入れつつ考えてみたい。
 まず生下時の乳児を考えよう。の心に対象像は存在せず、甘えは母親→乳児の方向でしか存在しない。否、この状態を甘えと呼ぶことは出来ないであろう。むしろ依存関係と呼ぶべきであろうか。土居はこの状態にして次のように記載している。  「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長で、母子未分化の状態にある。.... 次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し、.... 母親に密着することを求めることが甘えである。」(土居,1971,p.81)  すなわち土居も生下時に甘えは存在しないと考えているようである。そして乳児が母親と別々の存在であることを知覚して後、ようやく甘えが始まる。そこで甘えが生じる間際の時期を「甘えの前駆期」と呼ぶことにしよう。これは私がそのような概念を提唱しているというわけでは決してなく、土居やそのほかの識者がそのようなものを想定しているらしいのでそれに呼び名を与えているに過ぎない。  するとこの前駆期はいつまで続くのか? 言葉を変えればいつ甘えが兆すのだろうか。もちろんここで正確な時期を確定する必要はなく、また個人差は大きいだろう。しかしここでは一応生後三か月あたりを考えたい。なぜ3か月という数字が出るかと言えば、第一に乳児の最初の微笑みの出現の時期だからである。実際には生後6~8週に最初のsocial smile が出現するというが、まあ大雑把にこう捉えよう。そして何よりも土居の記憶している幼児体験が根拠となる。(生後3か月の頃、母親にオッパイをもらえなかったという体験である。)  ちなみにこの最初の微笑みは単に生物学的なものと捉えることもできるかもしれない。乳児の視力が上がり、母親の顔を最初にそう捉える際に自然と浮かび上がるかもしれない。しかしおそらく母親の側としては、この微笑みを乳児からの情緒的な接近と捉えるかもしれない。少なくとも母親の側からの「甘えさせ」の感情は確実に高まるであろう。そして「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」という相互性が徐々に形成されていくであろう。するとこの成立が不十分である場合に、土居の言うconvoluted amae 屈折した甘え の方に向かう可能性がある。そこには二つの要素が考えられる。それを以下の表に示そう。一つはこの相互性の成立そのものを阻む要素であり、もう一つはいったんそれが成立しても、それを持続することを阻む要素である。


2026年5月1日金曜日

AIと精神分析 11

 この路線で考えると、実は人間が共感を相手に発揮しにくい理由はいくらでもあることを改めて考えさせられる。要するに人間が「時間ー内ー存在」であり、「身体ー内ー存在」であることが、そして人間が自己愛の生き物であることが決定的なのである。そして共感性を発揮できないということは、人間が共感能力を持たないからということでは決していない。共感能力を持っているからこそ通常の意味で共感的になれないということさえ起きうるのだ。

 このことは簡単な思考実験から明らかである。もし私が目のまえの人Aさんの苦しみを理解しているとしよう。それは私の共感能力の賜物と言えるだろう(取り立てて私の共感能力が高いとは思ってはいないが。)ところが実は私はAさんのことを少し恨んでいるとする。そこには様々な事情が絡んでいるが、結果として私はAさんが喜びを感じることを快く思わない。すると私がAさんにある共感的な言葉を投げかけた場合に、Aさんがそれにより幾分心地よさを味わうことが十分予想されるのであれば、私はその言葉をあえてかけないということは十分あり得るのだ。さらに別の言葉をかけることでAさんが余計追い打ちをかけられた気分になるとしたら、その言葉を逆にかけてしまうかもしれない。  この簡単な思考実験(というほど大げさなものではないか)をもってしても、人間は受肉しているという理由で、その共感の力で逆に相手を苦しめる要素をいくらでも孕んでいることになるのだ。

 「シャーデンフロイデ」という言葉がある。ドイツ語の Schadenfreude に由来するが、他者の不幸や失敗を見聞きした際に生じる、喜びや安堵の感情を表す言葉である。日本語でもよく「人の不幸は蜜の味」という。また最近では「他人の不幸で今日も飯がうまい」の略で、「メシウマ」というネットスラングがあるそうだ。これも似たような意味だ。

 なぜ他人の不幸が時には私たちにとっての喜びの元となるのかは難しい問題であり、私はそれについて詳述するつもりはない。ただ言えるのは、人間は身体や感情を持った(「受肉した」)存在であり、逆転移や羨望、自己愛、シャーデンフロイデから逃れることが非常に難しいからではないか?ということだ。ここで自己愛の問題が深い意味を持つ。人は常に自己効力感を味わい、また他者から認められることを欲している。そうでないと人がなぜあれほどSNSでの発信に夢中になり、「いいね」ボタンを渇望するかが説明できないではないか。そしてこのことは他者との対話をするという一つをとっても常に影響を及ぼしてくる。相手が高飛車だったり、上から目線ではないか?お高くとまっていないか、生意気ではないか、などの非常に表面的だが極めて本質的な印象が、その他者との会話の仕方を大きく左右するのである。

 結局相手の話を率直に聞き、その肯定できる部分は肯定したうえで異論を唱えるというあたりまえのことを私たちはどの程度できているであろうか、と問いたくなる。政治家同士の討論を聞いていると、特に野党の人たちの質問を聞いてむなしくなるのは、相手の発言の肯定的な聞き方が一切なく、常に揚げ足取りに忙しいということである。あるいは臨床に携わる私たちが、ケース発表のコメントをしたりする場合にも、発表者の治療的な関りのポジティブな面は一切述べずに、ダメ出しをすることが多い。このことをそれこそ「他意のない」AIとのかかわりで改めて知ることが出来るのである。

 つまりもっとも誠実に話を聞いてくれるのは、感情を伴わない共感を行うAIではないかということではないか?ああ、こんなことを言ったらまた多くの人が「とんでもない!」と思うだろうなあ。