2026年5月23日土曜日

ストレスとDID 17  

 ポリヴェーガル理論から見た解離症状

 さて相転移は心だけではなく、身体の変化を伴うであろう。人格のスイッチングにより様々な生理的な変化も伴うことを私たちは知っているからだ。そしてそのような突然の変化を説明する上で最も有効なのが、スティーブン・ポージスのポリヴェーガル理論であろう。この理論の画期的な導きの書である「ポリヴェーガル理論」(津田真人)を読むと、こうある。「危機ないし脅威の環境では、皮質レヴェルは作動することなく、あるいはその前に、偏桃体(A)~中脳水道周囲灰白質 (PAG) などの防衛システムが即座に作動する」。このシステム(APAGとしよう) は、安全だとこのAPAGが側頭葉により抑制されているために、皮質と結びついた向社会的行動が生じやすいという。「ニューロセプション」が危機を察した時に発動するこのAPAGは一種のスイッチの役割を話し、それが相転移(人格のスイッチング)にも関与しているのではないか。ただしここで不思議なことは、子供人格の出現は、APAGの発動とは程遠い状況で起きるということだ。これはポージスの考えを借りるならば、向社会的な反応の結果と見なせるのであろうか?


(中略)

 この問題がどうこれまでの議論と接続するかというと、解離はトラウマに対する反応という以上の何かであることを表している可能性があるからである。そう、これは解離能の議論につながる可能性があるのだ。

2026年5月22日金曜日

ストレスとDID 16  

 解離現象と相転移との類似

 ここに表れる解離の性質は、それが心に不連続性を生み、それ以前とは全く異なる状態が出現するという点である。それはある組織が一つの状態からもう一つの状態にジャンプするとでも表現できるであろう。それは一つの心に起きた変化、というよりはもう一つの心が出現する現象と言えるかもしれない。つまり一つの心の中を探っていても不十分なわけである。先ほどの体外離脱がまさにそれを表している。

 しかし心が実際に二つに分かれるという現象を想像できにくいとすれば、それに近い現象がいわゆる相転移である。私は解離性障害における人格のスイッチングを即相転移として位置づけるつもりはない。ただ現象としては類似しているということを主張したいわけである。もし一つの心が脳に宿り、そこにもう一つの脳を想定できない以上、同じネットワークを作っている要素のまったく異なる結合の仕方(相転移における水分子がそうであるように)である。

 ここで相転移の定義としては以下のようにあらわせるだろう。

「相転移とは、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる物理現象である。氷が水に溶ける、水が蒸発する、磁石の磁性が消えるなどが代表例であり、アボガドロ数程度の多数の原子が絡み合うことで生じるマクロな変化である。」(AIの回答より。)

 相転移というと常にこのような物理現象が引き合いに出されるが、それに限らず、組織の構造の在り方が全面的に、かつ不連続的に生じることだ。 氷と水の間に生じるのは相転移の典型であるが、例えば私がDIDの病理として想定した複数のダイナミックコアのかかわりもそれに相当するのではないか。そこでは同一の神経細胞が異なるネットワークを形成しなおす、という状態を想定したからである。


2026年5月21日木曜日

ストレスとDID 15 

 脆弱性とは異なる「解離能」

 以上のように考えると、実は解離性障害の発症機序はストレス脆弱説ではとらえきれない問題があることがわかる。Stress-diathesis model(ストレス―脆弱性モデル、SDモデル)は、ストレス因に当人の脆弱性が関係して発症するというモデルだ。ちなみに diathesis は素因という意味で、古代ギリシャ語 diáthesis(性質・配置)に由来し、18世紀以降の医学で「病気になりやすい素因」を表す用語として定着した。だから diathesis は「脆弱性」と訳されることが多いのだ。 しかし問題は、解離を起こしやすい性質は脆弱性では片づけられないということだ。上述の「生き延びる価値」や創発性は脆弱性とは別の問題なのである。

 解離反応の一つの典型例として、私はいつもOBE(幽体離脱)を挙げる。これは一般人にも体験されることが多く例としてそれだけわかり易いからだ。、10~20%の人が体験するという研究もある。
Irwin, H J (1985). Flight of mind: Psychological study of the out-of-body experience. Metuchen, N J: Scarecrow.

Irwin, H J (1981). Some psychological dimensions of the out-of-body experience. Parapsychology Review, 12(4), 1-6.

自分が襲われそうになった時に、ふと意識がその体を離れ、それを見下ろしている自分が出現する。それはまったく意図したものではなく、自然に体の反応として生じるのである。そしてそれは明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。
 同様の反応は様々にみられる。動物の子供は首を掴むことでいきなり力が抜け弛緩した状態になる。動物の子供が首(後頭部から肩の皮膚)をくわえられると、急に動かなくなり弛緩する現象は、科学的に「輸送反応(Transport Response)」と呼ばれているという。親が敵から逃げる時や巣を移動する際、子供が暴れると移動の邪魔になったり、敵に見つかりやすくなったりする。そのため、首をくわえられたら動かずにいることで、親は子供をスムーズかつ安全に運ぶことができるという。
 そしてこの反応は、心拍数を低下させ、泣き声を止め、体を丸めて運ばれやすい姿勢にする効果があるという。このように考えると、ライオンが捕食の際に首に噛みつくのは、そこに頸動脈があるからだけでなく、この輸送反応により獲物を大人しくさせるという目的があるのかもしれない。
 ここであるケースが語っていたことを思い出す。「外に出ている人格に引っ込んでもらう時、私は奥の手を使います。その人格の首のあたりを掴むんです。するとその人格はおとなしくなり、私が取って代わります。」

さらに端的なのはいわゆるイマジナリーコンパニオンの体験であろう。ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告している。

Pearson D, Rouse H, Doswell S, Ainsworth C, Dawson O, Simms K, Edwards L, Faulconbridge J. Prevalence of imaginary companions in a normal child population. Child Care Health Dev. 2001 Jan;27(1):13-22.  


2026年5月20日水曜日

ストレスとDID 14

 解離は「ストレス―脆弱性モデル」で捉えるべきなのか?

 解離性障害は、深刻なストレスや危機的状況で生じるというのが現在の精神医学ではコンセンサスとなっているが、では具体的にどのようなストレスが解離に関与しているのであろうか。臨床家達がこの問題に関心を持った時期に米国にいた私は、Dissociogenic stress (解離を引き起こすようなストレス)というテーマの論文を書いた(Okano, 1997,1998)。

 

Okano, K (1997) A notion of "dissociogenic stress" Dissociation. Volume 10, No. 2, p. 130-134.

Okano, K (1998)  Dissociogenic stress: A transcultural concept. Psychiatry and Clinical Neurosciences. 52:576-581.


 そこでの要旨は、人は怒りや恐怖などのネガティブな心的内容を他者に投影したり外在化したりすることが抑制されることによるストレスが解離を生みやすいであろう、ということであった。解離の患者の多くが怒りの感情を表出することが少なく、ストレスに対して受け身的でじっとそれをやり過ごそうとするという印象を持つ。
 その頃よく言われていたのは、ボーダーラインパーソナリティはストレスを外在化し、対象をスプリットしてしまう一方では、解離では自分の方をスプリット(解離)してしまうという両極端の臨床的な表れを示すということである。
 このネガティブな心的内容の外在化の抑制は、例えば虐待者からその事実に関する秘密を強要されるという形だけではなく、被害者が抱く恥や罪の意識にも由来すると考えらえた。それは数多くの解離を有する患者が、家庭外での被害を両親に決してわかってもらえなかったという背景を持っているだけではなく、その事実を親に決して語ろうとしなかったからだ。否、そればかりでもないだろう。彼らにとってはトラウマの記憶は少なくとも主人格には記憶として残らない場合もあるからだ。

 このように考えるとネガティブな気持ちを表出できないのは、解離の結果であるとも考えられる。野生動物でも捕食者に襲われると、生体がそれと戦うという反応ではなく、解離を選ぶ。その結果として敵意や攻撃性などは表現される場を失われるのである。

 私がこの頃の臨床経験で印象深かったのは、患者はしばしば母親の前で「母親仕様の」顔を保つということである。母親が自分にこうあって欲しいというイメージを的確に読み取り、それに合わせるという能力を彼らは持っているようであったが、それは決して彼らが意図的に「演技」をしているわけではなく、それはもっと自然で、あえて言えば身体的な反応なのである。しかしそれは確実に、母親に対するネガティブな感情が除外されたものである。母親からすれば、子供は本当に自分のことをわかってくれていて、価値観も趣味も自分と一致していると感じるであろう。そのような時の母親は優しいであろうし、子供は愛情をかけられていると感じられるであろう。だからその時の顔は、より正確には「優しい母親仕様の」と呼ぶべきかもしれない。

 このような状況では恐らく母親に対するネガティブな感情はそもそも発想として浮かばない可能性がある。もちろん心のどこかで母親を怖ろしく感じたり、憎しみを覚えたりするという体験も当然ながら存在する。しかしそれはこの「優しい母親仕様の」顔には組み込まれない。おそらくそちらは「怖い母親仕様」の顔に自動的に仕分けられるからだ。そしてそこで単にフリーズした、ちょうど擬死反射を起こした状態になるだけではなく、それが人格を形成してしまう。そのことが最も驚くべきことなのだ。

このように考えると「解離能」に含まれるべきなのは、survival value 生き延びるための価値に留まらないことがわかるであろう。それはある意味での創発であり、創造のプロセスなのである。

2026年5月19日火曜日

ストレスとDID 13

  少なくとも交代人格のかなり多くが、主人格を補助し、いざとなった時に救いの手を差し伸べるという例はよく聞かれる。ある患者さんはストレス的なことがあると、小さい子供の人格にポイ、と渡していたので、自分自身はあまり辛さを感じないでいたという。しかしその人格からは「僕のこと忘れないで!」という言葉が時々聞こえてきた。ところが「ああこの人格に世話になっているんだなあ」と思うようになると、その子供の人格の声は聞こえなくなってきたという。

解離は症状か防衛機制か?


 ここで改めて問うてみる。「解離は症状か防衛機制か?」この問題は解離を一つの能力とみなすという立場からはより重要になってくる。

 Putnam のテキストには以下のようにある。「解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられている」。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい(p9)。

 解離が防衛として働くという考えはある意味では常識的なとらえ方である。最初にトラウマが生じた時に自らをその状況から隔離するという形で解離が起きたと考えられるからだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で、それ以外のあまり危機的ではない状況でも繰り返されるようになるということである。

 実はこの問題について考えるようになっているのは、DIDに既遂自殺が多いか否か、という問題意識が背景にある。私の経験では自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で、かなり既遂自殺は少ないという実感がある。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかと思う。それは端的に言って、最初の危機的状況で解離が当人を救ってくれたからだ。自殺の瀬戸際にあるという第二の危機的な状況で解離が「生き延びるための価値」を発揮して、本人を救わないというのは理屈に合わないであろう。

 この生き延びるための価値を、解離の有する能力と捉えるというのは自然な発想であろう。すると以下のようにまとめられる。

能力としての解離(解離能) → 自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離 → 自殺傾向を高める??

という関係があるのではないか。

 これら二つは全然違う方向性である。同じ解離という現象が人を死から遠ざけることもあれば、むしろ近づけることもあるという矛盾した主張のように思われるかもしれない。しかしこのように考えてみてはどうだろう? 解離という現象それ自体は一つの心の働きとして多くの人に程度の差こそあれ存在する。いやなことを考えまいとする、いわゆる抑圧などと同様の心の働きだ(正確にはこのような時に働くのは抑圧、ではなく抑制という心の働きである)。それは適応的にも不適応的にも働くわけであり、少なくとも適応的な意味があることは、進化の過程でそれが残されているということが証左となっているのであろう。そしてストレス関連障害は純粋な解離部分とそれ以外の部分(併存症としての鬱、その他を含む)に分けられるのではないか。そして自殺傾向に関与しているのは後者の「それ以外の部分」と考えられるのである。

 (以下略)


2026年5月18日月曜日

ストレスとDID 12

 相転移としての解離

 ここに表れる解離の性質は、それが心に不連続性を生み、それ以前とは全く異なる状態が出現するという点である。それはある組織が一つの状態からもう一つの状態にジャンプするとでも表現できるであろう。それは一つの心に起きた変化、というよりはもう一つの心が出現する現象と言えるかもしれない。先ほどの体外離脱がまさにそれを表している。
 しかし心が実際に二つに分かれるという現象を想像できにくいとすれば、それに近い現象がいわゆる相転移である。

 ここで手っ取り早く相転移を定義しようとして、ググると必ずAIの回答が出てくる。

「相転移とは、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる物理現象です。氷が水に溶ける、水が蒸発する、磁石の磁性が消えるなどが代表例であり、アボガドロ数程度の多数の原子が絡み合うことで生じるマクロな変化です。」そんなことは分かっている。

 要するに物理現象に限らず、組織の構造の在り方が全面的に、かつ不連続的に生じることだ。 氷と水の間に生じるのは相転移の典型であるが、この中間状態もまた面白い。いわゆるフラクタル現象が見られるのはそのような時だ。水の分子が集合を作り出し、その集合がみるみる増えていき、その際の集合の大きさと数が、スケールフリーになり、冪乗則に従う。私はフラクタルオタクなのですぐこっちのほうに話を持っていきがちだが、とにかくある種の刺激で水から氷になるという変化は、人格AからBにスイッチするという現象ととても似ている。

 実はこのような突然の変化はもちろん身体レベルでの変化を伴う。それを見事に表しているのが、ポージスのポリベイガル理論であろう。「ポリヴェーガル理論」(津田真人)を読むと「危機ないし脅威の環境では、皮質レヴェルは作動することなく、あるいはその前に、偏桃体~中脳水道周囲灰白質 (PAG) などの防衛システムが即座に作動する」とある。このシステムはあまりに長たらしいので「APAG」と呼ぼう。そして安全だとこのAPAGが、側頭葉により抑制されているために、皮質と結びついた向社会的行動が生じやすいという。「ニューロセプション」が危機を察した時に発動するこのAPAGは一種のスイッチの役割を話し、それが相転移(人格のスイッチング)にも関与しているのではないか。ただしここで不思議なことは、子供人格の出現は、APAGの発動とは程遠い状況で起きるということだ。これはポージスの考えを借りるならば、向社会的な反応の結果と見なせるのであろうか?

2026年5月17日日曜日

ストレスとDID 11

  いずれにせよ私は、心は危機的な状況でそのネガティブな心的内容を体験している自分自体を隔離する必要があることから解離が生じやすいと考えたわけである。しかしこれは今から考えると抑圧の機制で説明できないこともないとも考える。そして抑圧の場合は、それが身体症状や抑うつや不安という形を取るということになるだろう。  あらためて考えるならば、なぜ解離が生じるかと言えば、危機的状況で当人が解離という手段を用いたから、としか言いようのない事態が起きているのかもしれない。  解離反応の一つの典型例として、私はいつもOBE(幽体離脱)を思い浮かべる。自分が襲われそうになった時に、ふと意識がその体を離れ、それを見下ろしている自分が出現する。それは通常はまったく意図的ではなく、自然に体の反応として生じるのである。そしてそれは明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。  同様の反応は様々にみられる。動物の子供は首を掴むことでいきなり力が抜け弛緩した状態になる。動物の子供が首(後頭部から肩の皮膚)をくわえられると、急に動かなくなり弛緩する現象は、科学的に「輸送反応(Transport Response)」と呼ばれているという。親が敵から逃げる時や巣を移動する際、子供が暴れると移動の邪魔になったり、敵に見つかりやすくなったりする。そのため、首をくわえられたら動かずにいることで、親は子供をスムーズかつ安全に運ぶことができるという。  そしてこの反応は、心拍数を低下させ、泣き声を止め、体を丸めて運ばれやすい姿勢にする効果があるという。このように考えると、ライオンが捕食の際に首に噛みつくのは、そこに頸動脈があるからだけでなく、この輸送反応により捕食者を大人しくさせるという目的があるのかもしれない。  ここであるケースが語っていたことを思い出す。「外に出ている人格に引っ込んでもらう時、私は奥の手を使います。その人格の首のあたりを掴むんです。するとその人格はおとなしくなり、私が取って代わります。」

2026年5月16日土曜日

ストレスとDID 10 

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は「ストレス、トラウマ、小児期逆境体験(ACE)ハンドブック ― 基本的知識から臨床実践まで」である。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害について、ストレス因との関連から論じる。

 解離性障害がDSM₋Ⅲに診断名として正式に採用されて以来、ある種のストレスが解離症状という反応を起こす、という考え方は一般的に受け入れられているとみていい。DSM-Ⅲに同時に採用されたPTSD等のトラウマに関連した障害の最大の特徴は、トラウマという環境因により発症するという因果関係が強調されたことである。そしてそれは戦争や虐待や性被害等が人間の精神にもたらす影響の重大さが再認識されるという時代の流れと軌を一にしていたのである。そして一つの焦点となったのが、トラウマにより一方ではPTSDのような症状が生まれ、他方では解離性障害を来すという違いがどこに由来するのかという問題であった。

このような問題がいち早く関心を持たれた頃の米国にいた私は、この「どのようなストレスや環境因が解離の病理を引き起こすか」というテーマで、Dissociogenic stress (解離原性のストレス)というテーマの論文を書いたことがある(Okano, 1997,1998)。

 

Okano, K (1997) A notion of "dissociogenic stress" Dissociation. Volume 10, No. 2, p. 130-134.

Okano, K (1998)  Dissociogenic stress: A transcultural conceptPsychiatry and Clinical Neurosciences. 52:576-581.


 そこでの要旨をまとめるならば、ネガティブな心的内容を投影したり外在化したりすることが抑制されるという形でのストレスが解離を生みやすいであろう、という考えであった。そしてそれは外部の対象から直接虐待の事実に関する秘密を強要されるというだけでなく、被害者が抱く恥や罪の意識からそれを表すことが出来ないことなどもその機序として考えた。それは数多くの解離を有する患者が、当の両親により虐待を受けていたり、家庭外での被害を両親に決してわかってもらえなかったという背景を持っているという臨床的な事実から生み出された理論であった。

 私がこの頃印象深かったのは、患者はしばしば母親の前で「母親仕様の」顔を保つということである。母親が自分にこうあって欲しいというイメージを的確に読み取り、それに合わせるという能力を彼らは持っているようであったが、それは決して彼らが意図的に「演技」をしているわけではなく、それはもっと自然で、あえて言えば身体的な反応なのである。しかしそれは確実に、母親に対するネガティブな感情が除外されたものである。母親からすれば、子供は本当に自分のことをわかってくれていて、価値観も趣味も自分と一致していると感じるであろう。そのような時の母親は優しいであろうし、子供は愛情をかけられていると感じられるであろう。だからその時の顔は、「優しい母親仕様の」と呼ぶべきかもしれない。

 しかし子供が母親から受ける影響はポジティブなものばかりではない。母親を怖ろしく感じたり、憎しみを覚えたりするという体験も当然ながら存在する。しかしそれはこの「優しい母親仕様の」顔には組み込まれない。おそらくそちらは「怖い母親仕様」の顔に自動的に仕分けられるからだ。


2026年5月15日金曜日

ストレスとDID 9 

  昨日たまたまポージズ( S.Porges) の neuroception の論文 (2004) を読んでいるうちに、一つひらめいたことがある。彼は人が親愛の情を向ける人と、自らを脅威に陥れる可能性のある人とでは、全く異なる反応をすることを論じている。それを嗅ぎ分けるのが彼の言うニューロセプション(ポージスの造語、無意識的な皮質下のシステムを通して生じるもの、認知レベルで上がってくる知覚 perception と区別することを意図した用語だ)というわけである。確かに野生の動物は人間に対して非常に攻撃的になる一方では、子供の頃から世話をしたり、罠にかかっているのを助けた際などは、全く異なる親愛の情を示すことがある。凶暴な虎が育ててくれた人間に対してはデレデレになるという動画を見ていつも驚いているわけであるが、ポージスはこのような二つの両極端の反応がいかに生じるかについて論じているようだ。  解離においては危機的状況で感情的な人格が現れる場合と、安全な環境で子供の人格が現れる場合という両極端な反応がこれに対応することになるであろう。以前から解離が危機的状況で発動するならば、子供の人格の出現はどのようにとらえるべきかを考えていたが、後者はむしろ適応的な反応と考えることができるのではないか。そして少なくともそこで働いているのはポージスのいう腹側迷走神経系VVCなのである。ここが働くことで、闘争逃避反応も、フリージングも抑制される。つまり交感神経系と背側迷走神経DVCが共にこれにより抑えられる。

Porges SW. (2004). Neuroception: A subconscious system for detecting threat and safety. Zero to Three: Bulletin of the National Center for Clinical Infant Programs 24:5,19-24. 

  ポージスの理論で重要なのは、ストレスでアクセルとブレーキを両方踏むという異常事態を回避する役目をVVCが担っているという点である。このこととDIDにおいてほぼ確実にみられる子供の人格状態とには関連があるのだろうか。あたかも危機的な状況で部分的にVVCが発動して幼児人格を形成するという形を取るのだろうか。あるいは幼少時にわずかに得られた安全な機会に緊急避難的に作られるというニュアンスを持っているのかもしれない。しかし前者に関してはあまり考えられないであろう。なぜなら幼児的な人格は相手に気を許せる状況で出現することが一般的であるからだ。あるケースでは面接者のデスクの上にあったお絵かき用のクレヨンに反応して出現した。あたかも相手との関係性を成立させるための人格状態が発動したという印象を受けるが、これも意識的、意図的な選択ではない。危機的状況での闘争逃避反応と同じくらいに、愛着を求める行動も本能に根差しているというべきだろうか。

2026年5月14日木曜日

ストレスとDID 8 

  さてここに解離は能力でもある、という考えを組み込むとしたらこうなる。「解離は能力であると同時に、場合によっては脆弱性ともなりうる」。この問題に関しては、昨今の発達障害の議論と重なっている部分があることを否めないのでそちらを見ておこう。  この発達障害に関しては、最近問題となっているのが、ASDをその個人の個性、ライフスタイル、DEI、ニューロダイバーシティと見なすか否かという議論である。それを個性とみなす以上、「能力であると同時に場合によっては脆弱性」という考え方が成り立つ。そしていわゆるインクルーシブな考え方は社会モデルとも呼ばれ、社会が勝手にバリアを作っているのであり、本人に罪はないという立場だ。(それに対する医学モデルは、その人に問題、ないしは障害が内在しているというものだ。)  実はこのインクルーシブネスの議論は、それなりに問題含みであるという。ASDにおいて高機能の人には「それは個性ですね」で通じても、低機能の人にはそれでは通じない、ということだという。それは確かにそうかもしれないが、解離についても似た議論が成り立つのだろうか。つまり高機能の解離はそれを活用できるが、低機能だとそれに翻弄されてしまうという考え方である。しかし解離の機能を高いレベルで活用すると言ったことが考えられるだろうか? 私には今ひとつピンとこない。それはなぜなのだろうか?一つの考えとしては、それが一種の生理的な反応として私たちの身に備わっているからであり、それを必ずしも意図的に使えないということが関係しているだろうか。  実は解離を自在にコントロールできている人を想像してみた。しかしピンと来ないのである。たちどころに睡眠に入る能力、とか急に涙を流す能力を持つ人を考えにくいのと同様、ある種の身体的、生理的な反応を含み、それは基本的には意志のコントロール下にないことと関係しているようなのだ。  ここでPorges のポリベイガル理論が参考になるだろうか。あるストレスにおいて背側迷走神経系が刺激されることが解離の最初のきっかけだったのだろう。これを一種のスイッチングとすると、交代現象にはおそらく同様の仕組みが働き、基本的にはそれを当人はコントロールできない。たとえそれを出来ている人でも、予想外の危機的な状況で起きるスイッチングをコントロールできないのではないか。私が臨床的に出会うのは、従来はスイッチングが起きてしまっていた状況を、いかにそれなしで耐えることが出来るようになったか、というタイプの体験なのだ。  やはりこれらの考えを総合すると、相転移の考えに至ってしまう。それは一つの心の中で処理することが出来ずに、それ自体が別のものに代わってしまう現象だ。だから人格Aと人格Bの間にあれほどの不連続性が見られる。そしてこれを能力と見なせる一つの根拠は、人格Bにおいては、人格Aには備わっていない能力や感性が見られることが多いからである。そう、やはりこの部分なのだ。能力と理解すべきなのは。

2026年5月13日水曜日

ストレスとDID 7 

  このところかなり本題からずれた話を続けている。そもそも最初のテーマさえ忘れかけている。それは「解離性同一性障害についてストレス因との関連から論じる」ということだった。ただしこのテーマはいかにもストレス―脆弱性モデルに従ったものであるが、現実に起きていることはこのモデルでは論じにくいという事情がある。これまでの議論からわかるとおり、本稿で進むべき方向は「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」である。  私は基本的にはトラウマ論者である。最初はかなりはっきりと「トラウマ決定論」的な考えを持っていた。それは言語的、身体的暴力に苦しみ、発症した数多くの人々が長年非常に軽視されてきたという歴史があるからだ。しかし現在は「トラウマが精神障害を来す」という言い方には慎重になるべきであると考えるようになっている。なぜなら「トラウマ」と呼ぶ時点でそれが「本来障害を招くべきストレス」という含意があるからだ。しかし誰にとってもPTSDを生むような出来事というものは恐らく存在しない。(その代わりに不安や抑うつや身体的な症状を生む可能性は高いだろうが。)そうである以上それはある種の環境の刺激、ないしは環境因としてしか呼べないものと考えざるを得ない。  そしてその上で私が29年前に考案した「解離原性のストレス」について改めて考えると、多少なりとも修正を加えなくてはならない。この概念はストレスにはいくつかの種類があり、その中には解離を起こしやすいものとそうでないものがあるという考え方だ。しかし解離を起こしやすい人とそうでない人というファクターも見逃せない。そうでない人はいかに解離を起こしそうなストレスでもそれ以外の反応を起こしてしまう(あるいは反応をそもそも起こさない)その意味ではまさにストレス―脆弱性モデルにそのまま当てはまるべきものという気もする。これを言い直せば、ストレスの中でも解離を起こしやすいもの×ストレスに対する反応が解離という形を取りやすい人により解離性障害が起きる、ということになる。  さてこれがBelsky のDSモデルに従えばどうなるのか。彼のモデルの最大の売りは、「感受性=リスク」ではなく「感受性=可塑性 plasticity」と定式化したことである。つまりは解離反応はストレスにより自分を大きく変容させることであり、それ自身が弱さの表現ではないということだ。解離そのものではなく、それをコントロールできないことに弱さ、脆弱性がある、というべきであろうか。しかしコントロールできない≒弱さ、と決めつけることも出来ない。少なくとも危機的状況で自分が変容することは、十分適応的だからだ。獲物に狙われた袋ネズミが仮死状態のようになるのは、「弱さ」ではないだろう。それは生物学的には適応的に働いていたのだ。そしてこれは一種のブレーカーのような形で心身の機能をシャットダウンすることで急場をしのぐことができる。しかしこのブレーカーがそれほど大きな危機的状況でないにもかかわらず働いてしまうとしたら、そこに問題が生じてしまうわけである。

2026年5月12日火曜日

ストレスとDID 6

  ただしこのDSモデルををASD等にあてはめてもうまくいかない。彼らは過敏だが、よくない体験に対して被害的になる一方では、良い体験をそのまま受け入れてはくれない。これはDSがすべてには当てはまらない一つの例と言える。つまりDSは一般論ではないのだ。ちなみにASDで起きていることは、「社会的共感」など特定領域では構造的制約(processing limitation)があるという。つまりこれは 可塑性ではなく「特異的な処理特性」ということになるが、これこそ障害としてとらえるべきことであろうと私は考える。Belsky だったらASDは「differential susceptibility」ではなく“vulnerability”または“neurodevelopmental constraint” つまり「より悪くなる」ことはあっても「より良くなる」方向には広がらないということだ。つまりBesky はvulnerability という言葉をなくしたいのではなく、そう表現せざるを得ないものもあるが、ことごとくそのようにとらえる必要はないということか。

 ちなみにASDの話の続きで。これは性格の一部(つまりそれはいい方向にも悪い方向にも向かうもの)というよりはハンディキャップということになろう。(逆に言えば、一般的に性格と言われているものはこのDSに従うような、ある特定の分野でのその人の持つ可塑性(ないしはその低さ)ということだろうか。)例えば穏やかな人(感情的な可塑性の低い人)はいいことにも悪いことにもあまり反応しないから、一緒にいて安心だが物足りない、という風に。いずれにせよ性格ならバタフライ型の分布を示すが、そうでない場合はどちらかにのみ大きく広がるという分布の仕方。

 さてこれと解離とを結びつけよう。解離の場合は環境の突然の変化に対して、自らを変える、自らをなくして相手に同一化する、自らをシャットダウンするというような反応であろう。これは受容的な環境で相手に同一化するという重要な反応を起こすが、侵害的な場合には自らをシャットダウンしたり、相転移を起こしたりするといった極端な反応が起きる。その一つはPorges のいう腹側迷走神経系の反応ということになるが、これ自体がかなり相転移的な反応と言えるだろう。同一化とはある意味では相転移的と言えるが、これで解離のすべてを説明できるとは限らないが。ただここで一つの重要な発想の転換はDS:同一相内での振幅の違いのに対して、相転移モデル:相そのものが変わるということ。この視点を入れると、ASDの話も整理できる:ASDは「別の相の構造」だからDSの“両方向性”が成立しないという考えかたが成り立つのだ。

2026年5月11日月曜日

ストレスとDID 5 

 今、Belsky らの提唱している differential susceptibility(差異感受性モデル、以下、DS)(Belsky, J., & Pluess, M. (2009). Beyond diathesis stress: Differential susceptibility to environmental influences. Psychological Bulletin, 135(6), 885–908.

について理解しようとしている。これが従来のストレス―脆弱性モデル(SD)にとって代わるものである以上、これを十分わかっておかなくてはならない。このDSの重要な点は、人がある環境による刺激に感受性が強いということは、必ずしも悪いことではなく、その欠如は、よりよい方向に働くという考えだ。

対比的に示そう(AI自身の言葉を借りて)。

ストレス―脆弱性モデル(SD)→ 感受性が高い人は「悪い環境でより悪くなる」

DSモデル(Jay Belsky)→ 感受性が高い人は「悪い環境でより悪くなる 、良い環境でより良くなる」

そこで重要になってくるのが、脆弱性 vulnerability  の代わりに可塑性 plasticity という言葉を用いることの重要性だろう。そしてDSについて論じる上で一番有名なのは、5-HTTLPR(セロトニントランスポーター遺伝子多型)で、短い型(short allele)の人は、ストレス下 → 抑うつ・不安が増えやすいが、良い養育環境 → むしろ平均以上に適応が良くなるという結果がみられる。つまりSSの人ほど感受性(可塑性)が高いという例。  これ以外の例も知られる。よく出される例として、ドーパミン関連遺伝子(DRD4など)、行動抑制気質(inhibited temperament)、高反応性乳児(high-reactive infants)等があり、高反応性の赤ちゃんは不安定な養育 → 強い不安・問題行動だが、安定した養育 → むしろ非常に社会的・適応的になるという。  ちなみに私の好きな比喩は Thomas Boyce という人の言っている「dandelion theory(蘭とタンポポ)」モデルで、蘭(敏感)は悪環境で枯れるが、良環境で最も美しく咲くのに対して、タンポポ(鈍感)はどこでもそこそこ生きるというもの。(私が昔論じた過敏型自己愛の概念に似ている。)  ドーパミン関連遺伝子については、7リピートの人は高感受性でnovelty seeking などが見られ、悪く働くと不良になり、よく働くと高い探索性や柔軟性、社会適応の良さなどに表われるという。日本人は2とか4リピートの低感受性なのであまり面白くない性格ともいえる。つまり極端に悪化する人も少ないが、伸びる人も少ないという。  ちなみにチャット君はこのセロトニントランスポーターやD4受容体の話は、実は一時騒がれたほど再現されていないという。つまりそこにはきわめて多くの遺伝子が関係していてあまりクリアーカットには説明できないらしい。

2026年5月10日日曜日

ストレスとDID 4 

  Belsky らのDS(differential susceptibility)モデルの定義をもう一度繰り返す。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。これに基づく理論は従来の考え方である「トラウマにより解離が生じる」と若干異なる。私の28年前の「解離原性のストレス」という発想もそれに基づいたものだ。背景にあるのは、「ある種のストレスを体験すると人はみな解離する」という考えだ。つまりは環境因の種類を重視した考え方だ。  しかし実際は「一部の生まれつき解離しやすい人たちがいて、彼らは様々なストレスに解離的な反応を起こしやすい」という方が正しい。しかし実はこれも正確ではない。「ストレスには様々な種類があり、解離を起こしやすいものと起こしにくいものが確かにあり、また人にも解離を起こしやすい人とそうでない人がいる」の方がより正確であろう。すると「環境×その人の感受性」の組み合わせが解離を起こすということだ。  しかしここにもう一つ込み入った事情が存在する。それは解離そのものが病理とは言い切れないということだ。いわゆるストレス―脆弱性モデルとは、特定のストレスが特定の脆弱性を持った人により体験されることである種の病理を生む、というモデルだ。これが不安とかうつ状態とかなら病理と言えるであろうが、解離はそれとは少なくとも異なる。それが Putnam のテキストにも出てきた、解離が survival value を持つという考え方である。つまりはそれ自体はプラスにもマイナスにも働きやすい、それ自身としてはニュートラルな現象なのである。  さてその事情をどのように説明すべきかということで私が至ったのが「解離=相転移モデル」とでもいうべきものである。その一つのヒントとなったのが、Belsky の感受性の考え方である。彼は脆弱性ではなく感受性ととらえた。脆弱性なら弱く、つぶれるだけである。しかし感受性は心がある種の反応を強く起こすという考え方だ。弱く、潰れやすいというだけではないから、それはある意味では適応的にも働くと Belsky は考える。すると解離傾向を持つ人がそれを最も極端な形で表したものが、それまでの心の在り方を別のものにスイッチするという反応であり、それがDIDにおいて生じることなのだ。  このように考えるとなぜ病理学者が解離の説明に苦しみ、時には誤った理解の方向に進むのかがわかりやすくなる。もともと人の心の病理に相転移の考え方はなかった。つまりは病理をきたす心それ自体は、それ以前の心と同一のものだ。そして解離によりそれまでの心と異なる心の状態に切り替わった後も、人はそれを最初の心に起き続けていると考える。その結果として解離を起こしている人を「嘘つき」と見なしたりするのである。

2026年5月9日土曜日

ストレスとDID 3

  ここで今愛読しているロバート・プロミン著「心は遺伝する」が関係してくる。Plomin や行動遺伝学の知見は、ごく当たり前のことではあるが、十分認識されてこなかった事実、すなわち「同じ環境が子供に同じ結果を生むわけではない」ことを示している。つまり子供の側の素因がかつてないほどに多いいことが知られるようになってきているのだ。  単純な例を考えよう。ある「虐待的な母親」が存在する。そして双子の男児(二卵性)を養育している。そしてそのうち兄が愛着トラウマによりCPTSDと呼べる症状を示したとする。その場合弟がCPTSDを発症する率はどのくらいだろうか?  トラウマモデルに従った考えの人はかなり躊躇なく、「高い確率で弟もCPTSDを発症するだろう。なぜなら同じ虐待的な母親に育ったのだから。そんなの当たり前でしょ?」と言うだろう。「だから弟も児相に隔離しないと」となるかもしれない。しかし話はそれほど簡単ではない。弟がCPTSDになる確率は、確実に50%以下だろう。それはなぜか。  あの遺伝率が高いと言われている統合失調症でさえ一致率は50%ほどだ。つまりは一卵性双生児の場合に、兄が統合失調症の場合の弟の発症率は50%ほどになるということになる。ましてや(遺伝子を半分共有している)二卵性ならこれよりずっと低く20%ほどだという。(ちなみにさらに遺伝が深く関与していると考えられるASDでは一卵性の一致率は70~90%とされ、かなり高い確率で兄がASDの場合は弟もASDを発症する。)  するとCPTSDが弟にも発症する確率はどのように高く見積もっても20%以下だろう。(ただしこれは臨床的な直観であり、科学的な根拠はない。実はCPTSDは2022年にICD-11に記載されたばかりなので、まだ研究は進んでいないらしい。)つまりどういうことかと言えば、ある子供がCPTSDを発症するくらいに虐待的な母親のもとに育っても、別の兄弟がCPTSDを発症する確率は決して高くない事になる。  この件についてAIにいろいろ尋ねるうちに、ここで使える橋渡し概念がDSモデル( differential susceptibility / biological sensitivity to context) だということが分かった。Belsky & Pluess という人たちの2009年の論文によると以下のようになる。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。 Boyceという学者 も、差異感受性は気質・生理システム・脳回路・遺伝・エピジェネティクスなど複数レベルの生物学的調整に根ざすと整理している。私が関心を寄せているA.Schore 右脳精神療法の考え方と統合するならば、以下のようになるという。「早期愛着は右脳情動調整系を形成する。しかしその形成のされ方は、子どもの遺伝的・生物学的感受性によって大きく異なる。」  話をDIDに戻すと、DIDは単にトラウマの結果ではなく、トラウマと解離的に心を組織化する能力との相互作用の結果として理解できる。  そしてAIは次のようなキャッチフレーズを提案してくれた。 「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」

Boyce WT.(2016) Differential Susceptibility of the Developing Brain to Contextual Adversity and Stress. Neuropsychopharmacology. 41(1):142-62. 

Belsky, J., & Pluess, M. (2009). Beyond diathesis stress: Differential susceptibility to environmental influences. Psychological Bulletin, 135(6), 885–908. 


 結局トラウマ的な刺激に対してDSはある種の感受性の高さを想定する。そしてこれが非常に高いと解離が起きる。しかしBelskyの理論のいいところは、この感受性はいい方向にも働くと言っているところだ。そしてこれが解離は能力でもある、という視点にもつながる。それはどういうことか?

解離とは環境ストレスに対する並外れた反応と考えることができる。それは心に一種の相転移のような反応を起こすということだ。


2026年5月8日金曜日

ストレスとDID 2

 能力としての解離→自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離→自殺傾向を高める


これら二つは全然違う方向性である。同じ解離という現象が人を死から遠ざけることもあれば、むしろ近づけることもあるという矛盾した主張のように思われるかもしれない。しかしこのように考えてみてはどうだろう? 解離という現象それ自体は一つの心の働きとして多くの人に程度の差こそあれ存在する。いやなことを考えまいとする、いわゆる抑圧などと同様の心の働きだ(正確には抑制という心の働きである)。それは適応的にも不適応的にも働くわけであり、進化の過程でそれが残されているということが証左となっているのであろう。そしてストレス関連障害は純粋な解離部分とそれ以外の部分(併存症としての鬱、その他を含む)に分けられるのではないか。そして自殺傾向に関与しているのは後者の「それ以外の部分」と考えられるのである。

 もう少しこの事情を説明するならば、気分障害を伴わない比較的純粋な多重人格状態にある人を考えると、その人はかなり正常に近い社会生活を営んでいる可能性がある。否、DIDを有する人の少なくとも一部は、解離が周囲の人には(時には自分自身にとっても)気づかれていない可能性があり、医療の対象となることもなく、特に自殺傾向が高いとは言えないのではないか。(ただし自傷の場合にはまた異なる事情がそこにあるかもしれない。)

 この問題、考えるうちに極めて深刻な問題をはらんでいることに気づかされる。たとえば「うつ病の人に自殺念慮を抱く人が多い」というのと「解離性障害の人に自殺念慮を抱く人が多い」というのでは、両者はかなり意味が異なる事になる。前者においては、自殺念慮はまさに鬱症状の一つとして含まれると言っていい。しかし後者の場合、本来は解離と自殺念慮は結び付いていない。関連があるのは、解離の引き金となった可能性のある過去のトラウマに由来するPTSDや悲壮感、抑うつなのである。言葉を変えるならば、前者は因果関係 cauation を、後者は相関関係 correlation を意味していることになる。


現代の遺伝行動学とトラウマ理論

 ところで解離性障害は、人間が過去のトラウマによりどのような形で解離の病理を生むかについての様々な知見を与えてくれたが、今このような考え方に対する一種のアンチテーゼのようなものも唱えられている。それもかなり強力な理論だ。それは簡単に言えば「トラウマにより解離の病理を発症する人には、それなりの素因があるということである」となる。さらにわかり易く言えば、外見上はかなり類似したトラウマを受けても、人によりその反応はかなりばらつきがあるということである。つまりはトラウマへの感受性の個人差が存在するということだ。


2026年5月7日木曜日

ストレスとDID 1

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は〇〇というものである。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害についてそれを特にストレス因との関連から論じる。(多重人格という、かなり古めかしさを感じさせる用語をこのまま使うか、あるいはストレスと「ストレス因」の使い方を区別するかなど、いろいろ考えなくてはならないことが多いがとりあえずこのままの形で始めよう。ちなみに本稿は例によって「大人の事情」である。要するに依頼原稿だ。先日まで「バウンダリー」の原稿に苦しみぬいた(←大げさ)が、ようやくその軛から解放されたのもつかの間であった。ただしこちらのテーマは、何度も書いているだけに扱いやすい。しかしそれは新しいことはもうあまり出てこないということでもある。

 はるか昔、1998年にアメリカにいたころに書いた英語の論文に dissociogenic stress に関するものがある。Dissociogenic stress とは「解離原性のストレス」、つまり解離を生むようなストレス、という意味だが、私が使ったきり誰にも使ってもらえていない(いまだにこの論文が引用されたのは、私自身による一回だけ!)だから試しにこの言葉でググるといまだにAIからの答えで  「岡野(1998)らによって提唱された概念」と出てきて、少しだけ誇らしい気分だ。   

 まあそんなことはどうでもいい。ここで問いたいのは、比較的単純な問題である。「解離はどのようなストレスに対する防衛機制だろうか?」最近私は解離を一つの能力とみなす傾向にあり、その意味ではまさに防衛機制ということになるが、他方ではれっきとした症状でもある。果たして解離は私たちにとって良いものなのか、悪いものなのか。

 解離が防衛として働くというのは、それが最初にトラウマが生じた時に、それにより自らをその体験から隔離するという出来事から推察されることだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で繰り返されるようになるということである。

 この問題について考えるようになっているのは、DIDに既遂自殺が多いか否か、という問題意識である。実はこのテーマは7月の「うつ病学会」での発表内容であるが、私の経験ではかなり既遂自殺は少ないという実感があり、それは自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で言えることである。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかということである。

 ここで例によりPutnam のテキストを参照。大御所がまず何を言っているかを知ることは大事だ。すると彼の原書の9ページに以下のように書いてある。つまり解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられているという。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい。であるならば、いざ自殺の危機に瀕している場合にも、これが再び「生き延びるための価値」を発揮することは当然想定されるのではないか。

ここで従来の考え方の転換が必要であろう。

能力としての解離 → 自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離 → 自殺傾向を高める

という関係があるのではないか。


2026年5月6日水曜日

甘えの相互性 10

 甘えの有するネガティブな側面

 本章の最後の部分は、甘えの有する文化的な側面、特にそのネガティブな側面である。先ず臨床的な事実から述べたい。私が臨床で関わる人の中に、日本を出て海外での生活を送ることに解放感を味わう日本人が少なからず存在するということがある。

ある20代の女性はこう言った。「イギリスに行ってみたら、他者がそもそもこちらのことを気にしていないから、こちらが彼らのことを気にしないでもよいということがわかった。」

 このことが私を驚かせたのは、その女性がどちらかと言えば人目が気になり、周囲が自分のことをどう思っているかについて様々に空想を膨らます人だからである。仕事を辞めて引きこもりがちの生活を送る彼女は、平日の昼間に外出することで、周囲の住人に「あの人は平日に何をぶらぶらしているんだろう?」と疑いの目で見られることを恐れていたという。しかしある機会に英国に数週間過ごす機会があり、始めは言葉のハンディもあり、ホテルから一歩も出られなくなるのではないかと思ったという。しかし英国についてそこの空気が、いい意味でも悪い意味でも他人に関心を持たないことがすぐにわかったという。
 この件について私はかつて、日本での甘えをベースにした人間関係を、「互いのニーズを読みあう社会 society of mutual mind-reading」と表現した(Okano, 2019) 。まさにその意味で日本社会と欧米社会は、ネガとポジの関係なのである。日本社会ではお互いに心を読み合う、忖度し合う、ということが習慣になってしまっている。
 ここで土居の言葉を思い出そう。「分離の事実を止揚し、もっぱら情緒的に自他一致の状態を醸し出すという甘えの心理は、まさしく非論理的と言わねばならない。」(土居,1971,p.82)「このように甘えの世界を批判的否定的にみれば、非論理的・閉鎖的・私的ということになるが、肯定的にみれば、無差別平等を尊び、極めて寛容であるとさえ言えるであろう。」(同p.84) 
 このことを土居自身もよくわかっていたようである。甘えを重視する養育において母親が子供の甘えのニーズを読み取ろうとする傾向は、それが高じた場合には常に「母親からの干渉」を引き起こす可能性がある。この件について、屈折した甘えについての指標を作り研究を行った楠見孝らは、過剰に甘えさせること、すなわち「甘やかし」は、土居が論じた「屈折した甘え」をもたらす(楠見ら、2024)とする。(文献省略)

 


2026年5月5日火曜日

AIと精神分析 13

 サリバンの Syntaxic 統語論的な応答とAI

 AIの共感的な応答、という問題に戻ろう。AIの共感は情緒的ではないが、「構造的、安定的」であるという話をしたが、この文脈で私の頭に浮かぶのが、parataxic distortion という考えである。これはアメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンが提唱した概念であり、日本語では「パラタクシックな歪み」と訳されている。それが意味するところは過去の人間関係(主に幼少期の経験)によって条件付けられた歪んだ認識により、現在対峙している相手を現実とは異なる姿として認識してしまう対人関係のゆがみのことだという。
 サリバンはこのパラタキシックな歪みを神経症的な症状と見なしたわけであるが、それとの対比で syntaxic 統語論的な応答という概念を挙げる。それは語の配列順序や、文法的な関係性という意味で整然とした文章であり、それがパラタクシックな歪みを排した、より健康的で成熟した人同士のコミュニケーションであるとする。

 私がここで言いたいのは次のことだ。AIとの対話を通して感じるその率直さ、オープンさは、その歪みのない、統語論的なメッセージの在り方を意味しているのではないか。要するに議論として真っ当であり、深読みや裏読み、あるいは言外の示唆というものがないことを意味する。
 逆に言えば人間どうしの会話ではこの性質が欠如しているために、共感があるべき姿で発揮されないのである。とすれば共感とは情緒的なものである以前に理論的で合理的なものである必要があると言えるだろう。私のAIの言葉を思い出そう。
共感は「感情的に巻き込まれること」ではなく、「相手の情緒を認識し、応答すること」である。AIは確かに「情緒を“感じる”こと」はできない。 だが、ユーザーの感情状態(怒り・悲しみ・羞恥など)を言語・構造から抽出し、それに応じて調整された言葉で返すことが出来るし、過剰反応も不適切な無視もせず、安定した応答ができる。」

 このように考えると私たちは「情緒を伴わない共感」「技法としての共感」「機能的な共感」も検討するべきではないか?そして共感的な治療者に必要なのは漠然とした愛他性や人間性に裏付けされた「共感力」の発揮よりは、関係構築のためのマナーある肯定的な話し方であり、その訓練ではないか?



2026年5月4日月曜日

甘えの相互性 9

 甘えの相互性の成立を阻む要素

 一つは乳児からの微笑みに代表される愛情表現や愛情希求が存在しない場合が考えられないであろうか?これは具体的には乳児の側に神経発達障害的な問題が存在する場合が考えられる。自閉症の子を持つ親の体験としては、いくら努力をしても子供が親からの接触や情緒表現の受け取りを忌避するという悩みが聞かれることがある。
 無論この相互性の成立を阻む因子としては、母親側のそれを考えることもできる。母親の慢性的な精神疾患や身体疾患、ないしは物理的な不在はそもそも乳児が微笑みを向けるべき対象の情緒的、物理的な不在を意味するのである。

甘えの相互性の維持を阻む要素

 以上述べた甘えの相互性の不成立は客観的にみても観察しやすく、その影響も乳児の情緒発達や身体的な発育の遅延や発達上のランドマークの未達成などの形で顕在化されやすいであろう。それに比べてより見えにくく、またそのためにその影響が比較的長く続くのが、この甘えの相互性の維持を阻む要素が存在する場合である。
 その一つとして私があげるのが母親の側の甘えの願望が子供の甘えの願望を凌駕する場合である。言うまでもなく乳児の段階では自らの生理的情緒的欲求が満たされるかは母親次第である。ある意味では乳児は受け身的である一方で、母親は乳児の生殺与奪の権を握っている。乳児は母親から与えられるものを全面的に吸収して成長していくことになる。  この時期には母親はその母性本能に従い乳児のケアを行い、自分の存在の子にとっての重要さを感じ取り、それが生きがいとなる場合もあるだろう。しかし子供が徐々に成長し、自らの自立性を獲得し、母親と自分とが異なる存在であることを自覚していくにつれ、母親はそれに不全感や不安を感じるかもしれない。子供が必ずしも自分の全面的なコントロール下になく、時には自分に反抗し、また自分以外の存在に対しても精神的依存を発揮することが母親の自己愛的な傷付きを生む場合にはこの問題はより顕著になるだろう。
 母娘の関係の複雑さを生む一つの大きな契機は、娘が自らを女性と見なし、女性として自立する段階で母親の羨望を刺激するというプロセスである。そこに母親の側の過干渉やコントロール過剰の傾向が事態をより悪化させるのである。


2026年5月3日日曜日

AIと精神分析 12

  私たちが「時間―内―存在」であることにも言及したが、これに関して私自身の体験を述べよう。と言っても臨床家にとってはごくごく日常的な体験だ。

 (中略)


 このエピソードは確かに私の共感能力の限界を意味しているのかもしれない。彼の話を熱心に聴きとる一方では、彼の身になって言葉を投げかけるということが不十分だったのは確かであろう。なぜこのようなことが起きたのだろうか?

 多少言い訳がましくはなるが、ここには時間的な制限という大きな要素が含まれているように思う。先ほども言ったが、人間として生きることには時間ファクターが付きまとう。つまり限られた時間の中で様々なことを行う必要に迫られ、またそこで予想外のことが起きることで優先順位に混乱が生じ、なすべきことが出来ずに終わってしまうという危険性は常に存在するのだ。私のインテーク面接の場合は、私自身は情報量の消化に手いっぱいで、共感的な態度を示す必要性に思い至る余裕がなくなっていた。もちろん患者からの情報をまとめ上げ、整理して理解して伝えるというのは私の大事なタスクであった。でもそれに気を取られてもう一つのタスクである、患者とのラポール形成のために必要なことに思いが及ばなかったのである。
 もちろんそこで十分な時間を取り、例えばインテークの時間を90分にして、最初の60分の後小休止でも置いて、残りの30分弱で患者の人生を一緒に振り返り、ゆっくりと今後の方針を考えるという設定にしたら、もう少し患者の苦難に満ちた人生に対する共感的な言葉が出せたかもしれない。おそらく日本の精神医療の事情を考えると、医療経済的に言ってもそのような余裕はない。街中の精神科では、一日に数件の新患が来るという現状ではインテークにはせいぜい30分程度しかかけられないのが現実であろう。
 さてAIとの関連でなぜこの問題が取り上げられるかと言えば、AIにおいてはこのような時間的な制約はおそらく無縁だからだ。もちろんAIの応答が不十分ということはいくらでもある。同じようなインテークを行ったAIの応答に、私と同様に共感的な言葉が不足している場合もあるだろう。しかしそれは私の場合の言い訳のように、時間が足りなかったからではない。その種のプロンプトを加えたらより共感的な応答が返ってくるであろう事を考えると、それはその時の演算が不十分だったからとしか言えない。

2026年5月2日土曜日

甘えの相互性 8

  ではこのような相互性が失われた状態とはどのような状態なのだろうか。これは土居の言う屈折した甘え、すなわち甘えさせる対象が明確でなく、そのために「子供じみて、意図的で、要求がましい」甘えである。ここでは甘える側は「甘えてあげる」などと悠長なことは言っていられない。何しろその相手が不在かもしれないし、甘えられたくないかもしれない。「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」どころか、「甘えさせてもらう」⇔「甘えさせてやる」という情けない関係かもしれない。あるいは甘える側に相手が「甘えさせる」ことを不快に感じることに気づかずに「甘える」場合もあろう。  屈折した甘えが生じるのにはもう一つの可能性がある。もう一つは相手の「甘えられたい」願望が信じられず、自然に「甘え」られない場合である。その結果としてすねる、ひがむ、妬む等の感情が生まれるというのが土居の説である。   

甘えの前駆期

 では甘えの相互性が芽生えるのはいつなのか。なるべく現代的な知見を取り入れつつ考えてみたい。
 まず生下時の乳児を考えよう。の心に対象像は存在せず、甘えは母親→乳児の方向でしか存在しない。否、この状態を甘えと呼ぶことは出来ないであろう。むしろ依存関係と呼ぶべきであろうか。土居はこの状態にして次のように記載している。  「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長で、母子未分化の状態にある。.... 次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し、.... 母親に密着することを求めることが甘えである。」(土居,1971,p.81)  すなわち土居も生下時に甘えは存在しないと考えているようである。そして乳児が母親と別々の存在であることを知覚して後、ようやく甘えが始まる。そこで甘えが生じる間際の時期を「甘えの前駆期」と呼ぶことにしよう。これは私がそのような概念を提唱しているというわけでは決してなく、土居やそのほかの識者がそのようなものを想定しているらしいのでそれに呼び名を与えているに過ぎない。  するとこの前駆期はいつまで続くのか? 言葉を変えればいつ甘えが兆すのだろうか。もちろんここで正確な時期を確定する必要はなく、また個人差は大きいだろう。しかしここでは一応生後三か月あたりを考えたい。なぜ3か月という数字が出るかと言えば、第一に乳児の最初の微笑みの出現の時期だからである。実際には生後6~8週に最初のsocial smile が出現するというが、まあ大雑把にこう捉えよう。そして何よりも土居の記憶している幼児体験が根拠となる。(生後3か月の頃、母親にオッパイをもらえなかったという体験である。)  ちなみにこの最初の微笑みは単に生物学的なものと捉えることもできるかもしれない。乳児の視力が上がり、母親の顔を最初にそう捉える際に自然と浮かび上がるかもしれない。しかしおそらく母親の側としては、この微笑みを乳児からの情緒的な接近と捉えるかもしれない。少なくとも母親の側からの「甘えさせ」の感情は確実に高まるであろう。そして「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」という相互性が徐々に形成されていくであろう。するとこの成立が不十分である場合に、土居の言うconvoluted amae 屈折した甘え の方に向かう可能性がある。そこには二つの要素が考えられる。それを以下の表に示そう。一つはこの相互性の成立そのものを阻む要素であり、もう一つはいったんそれが成立しても、それを持続することを阻む要素である。


2026年5月1日金曜日

AIと精神分析 11

 この路線で考えると、実は人間が共感を相手に発揮しにくい理由はいくらでもあることを改めて考えさせられる。要するに人間が「時間ー内ー存在」であり、「身体ー内ー存在」であることが、そして人間が自己愛の生き物であることが決定的なのである。そして共感性を発揮できないということは、人間が共感能力を持たないからということでは決していない。共感能力を持っているからこそ通常の意味で共感的になれないということさえ起きうるのだ。

 このことは簡単な思考実験から明らかである。もし私が目のまえの人Aさんの苦しみを理解しているとしよう。それは私の共感能力の賜物と言えるだろう(取り立てて私の共感能力が高いとは思ってはいないが。)ところが実は私はAさんのことを少し恨んでいるとする。そこには様々な事情が絡んでいるが、結果として私はAさんが喜びを感じることを快く思わない。すると私がAさんにある共感的な言葉を投げかけた場合に、Aさんがそれにより幾分心地よさを味わうことが十分予想されるのであれば、私はその言葉をあえてかけないということは十分あり得るのだ。さらに別の言葉をかけることでAさんが余計追い打ちをかけられた気分になるとしたら、その言葉を逆にかけてしまうかもしれない。  この簡単な思考実験(というほど大げさなものではないか)をもってしても、人間は受肉しているという理由で、その共感の力で逆に相手を苦しめる要素をいくらでも孕んでいることになるのだ。

 「シャーデンフロイデ」という言葉がある。ドイツ語の Schadenfreude に由来するが、他者の不幸や失敗を見聞きした際に生じる、喜びや安堵の感情を表す言葉である。日本語でもよく「人の不幸は蜜の味」という。また最近では「他人の不幸で今日も飯がうまい」の略で、「メシウマ」というネットスラングがあるそうだ。これも似たような意味だ。

 なぜ他人の不幸が時には私たちにとっての喜びの元となるのかは難しい問題であり、私はそれについて詳述するつもりはない。ただ言えるのは、人間は身体や感情を持った(「受肉した」)存在であり、逆転移や羨望、自己愛、シャーデンフロイデから逃れることが非常に難しいからではないか?ということだ。ここで自己愛の問題が深い意味を持つ。人は常に自己効力感を味わい、また他者から認められることを欲している。そうでないと人がなぜあれほどSNSでの発信に夢中になり、「いいね」ボタンを渇望するかが説明できないではないか。そしてこのことは他者との対話をするという一つをとっても常に影響を及ぼしてくる。相手が高飛車だったり、上から目線ではないか?お高くとまっていないか、生意気ではないか、などの非常に表面的だが極めて本質的な印象が、その他者との会話の仕方を大きく左右するのである。

 結局相手の話を率直に聞き、その肯定できる部分は肯定したうえで異論を唱えるというあたりまえのことを私たちはどの程度できているであろうか、と問いたくなる。政治家同士の討論を聞いていると、特に野党の人たちの質問を聞いてむなしくなるのは、相手の発言の肯定的な聞き方が一切なく、常に揚げ足取りに忙しいということである。あるいは臨床に携わる私たちが、ケース発表のコメントをしたりする場合にも、発表者の治療的な関りのポジティブな面は一切述べずに、ダメ出しをすることが多い。このことをそれこそ「他意のない」AIとのかかわりで改めて知ることが出来るのである。

 つまりもっとも誠実に話を聞いてくれるのは、感情を伴わない共感を行うAIではないかということではないか?ああ、こんなことを言ったらまた多くの人が「とんでもない!」と思うだろうなあ。