2023年8月31日木曜日

連載エッセイ 8の3

 ちなみに赤ちゃんを育てる側の母親もまた、右脳を全開にしていることが知られている。母親は恐らく赤ちゃんにいろいろ言葉をかけているであろうが、もちろんそれが通じるとは思っていない。声の抑揚や優しい表情などで赤ちゃんと心を通じさせる。この時に主として機能しているのは母親の右脳である。母親は赤ちゃんの置かれている状況を大づかみで理解し、自らの情緒を用いて赤ちゃんと関わる。そしてここに母親の右脳と赤ちゃんの右脳どうしの一種の交信が起きると言われている。両方が共鳴ないし共振し合っていると言っていい。二つの音叉を並べて片方をハンマーで打ち音を鳴らすと、もう一つもなり出す。母親も自らの右脳を働かせて赤ちゃんの右脳を刺激し、働かせるということが生じているという。

この分野の研究でのショアの見解はとても参考になる。母親が乳児を見守る際には、右脳の様々な機能が動員されるという。右半球は情緒と表情の処理だけでなく、声の抑揚、注意、触覚情報の処理にも関与する。右脳は非意識的 nonconscious 反応や表出や情緒の交流を司る。共感は主として右脳(特に眼窩前頭前野)においてなされる。

この文脈でデュマの母子間の右脳のコミュニケーションの理論は参考になる。


左脳は虚言症か、サイコパスか?

 さて右脳が人間の本質であるとしたら、一歳を過ぎて子供は何を始めるのだろうか? 言葉を覚え、自分の考えを伝えるという営みにワンテンポ遅れて子供が覚えるのは、自らを偽ることだろう。子供は悪戯をして障子を破き、(とにかく上げる例がレトロすぎて恥ずかしいが)それを見つけた母親に見つかる。そして「これやったの誰?」と聞かれた時どうするだろうか? まだ言葉を話さない幼児だったら、おそらく下を向くか、そっぽを向くだろう。これは同じことが起きた時のワンちゃんの反応と同じだ。最近はインターネットで動物ネタが多いのでこの種の動画には事欠かないが、ある賢いワンちゃんは、ご主人様に叱られると下を向くだけでなく、一緒に飼われている小さい方の犬の顔を見る。「お前がやったんだろう?」と言いたげのように、だ。

 さてほぼ右脳の言葉を話す前の幼児も似たような反応をするだろう。しかし言葉を覚えた子なら、言葉を用いることで、そっぽを向くよりもはるかに効率よく窮地を逃れられるという事だ。「僕じゃないよ。」あるいは「◎ちゃんがやったよ」とウソをつくかもしれない。言葉を覚えた子供がかなり早期から発見するのは、本当でないことを言うことが自分にとっていかに(短絡的な意味でではあれ)自分に有利かという事だ。そしておそらく最初はそれにあまり後ろめたさを感じないかも知れない。

 私がこの件についてとても興味を覚えたのは次のような実験だ。

Miller とGazzaniga は2009年の実験で、二人の分離脳患者に二つのストーリーを提示した。一つはある部下が上司を殺害しようとするが、毒と間違えて砂糖を盛ってしまった。(その結果殺害には至らなかった。)もう一つはある部下が上司に砂糖を提供しようとして間違えて毒をわたし、その結果殺害してしまった。これを右脳だけの人と左脳だけの人に聞かせると、何と左脳だけの人は、両者の道徳的な意味を区別することが出来なかったというのだ。


2023年8月30日水曜日

連載エッセイ 8の2

 右脳が先に働きだす-愛着と発達の関連

 右脳の問題の一番興味深いことは何か? それは右脳は人間の基本部分を司っているからだ。極端な言い方をすれば、右脳は「真の自己」、左脳は「偽りの自己」(いずれもDW. Winnicott, RD. Laing などの意味で)なのだ。そしてなぜそう言えるかと言えば、そもそも人間は生まれてしばらくはもっぱら右脳しか機能しているということだ。

 右脳は外部からの情報の全体を捉え、すなわち空間的な大枠を理解し、相手の感情を読み取り、非言語的な情緒的な交流を行うことが出来る。そしてそれは赤ん坊が生れ落ちてからさっそく必要としている事なのだ。赤ん坊は見るものの詳細部分を分かる必要もないし、母親の言葉の意味を理解する必要もない。これらは左脳の役割だが、それを生下時から行う必要がないこともあり、まだ左脳の準備は整っていないのだ。さらには左右脳をつなぐケーブルである脳梁自体が最初の一年は十分に機能していないため、情報交換も十分できない。ということで赤ん坊は右脳のみの片肺飛行と言ってもいい。(ただし身体を動かし、感じるという機能は左脳でも生下時に既に開始している。)

 この右脳優位の状態で赤ん坊は最初の一年でみっちり母親との関りを行う。そして最初の言葉を発する以前から、赤ん坊は人としての心の基礎を築くのである。つまり快不快に応じて身の処し方を決め、相手との言葉以前の意思の疎通を行なうことが出来る。そして考えてみて欲しい。これが人間の心の本質ではないか。世の中で起きている事、自分の身に迫ってくることの全体を大枠においてつかみ、そこで関わってくる相手の心情をつかみ、それに応じて関りを持つこと。それが最も大切なのだ。つまり赤ん坊はすでに右脳のみにより生きるという基本的な営みを行なうことが出来る。すると左脳による言葉による理解や表現はことごとく付け足し、あるいは右脳により行っていることの保障、あるいは後付けや正当化をするために発達していくものなのである。細かいことへの拘り、運動や発話による表現の微調整等は二の次なのだ。ただしこれに人間は非常にこだわり出すことになる。いわゆる発達障害や強迫性障害はことごとく左脳が生み出した問題なのだ。

 生後一年の、概ね右脳だけの言葉を話す前の赤ん坊が、生物としてはすでに完結しているという考えは極端であろうか? そうではない。例えば身近なペットのワンちゃんを考えて欲しい。彼らはもっぱら右脳的な心で生きているというところがある。犬の左脳は言葉を扱えないが、おそらく飼い主からの簡単な支持だったら理解することが出来るだろう。あるいはAが起きたから次はBで、次は恐らくCだ、というような物事のシークエンスを理解するのは左脳かも知れない。しかしワンちゃんの存在意義と言ってもいい、人の心の情緒的な側面をつかみ、関わってくる部分は、ほぼ右脳機能と言っていい。それで人間のパートナーとしてすでに完結しているのである。


2023年8月29日火曜日

複雑系の脳と心 4

脳と心は臨界状況である

 ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。
  • ようやくここであることを思い出しそうで思い出せない時。
  • あるアイデアが閃きそうな時。
  • 怒りの爆発をギリギリで抑えている時。
  • 解離状態において人格の交代が起きる時。
 これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。何かを思い出そうとしている時、もう少しでいいアイデアが浮かびそうなときなどを思い浮かべていただきたい。私達はよく中空を見上げたり、眼球を上転させるような仕草をする。たいていの場合目は開いたままである。ただしその目は何か具体的なものを捉えてはいない。出来るだけ何もないような中空に目を泳がせたりする。その様な時私たちは明らかに何かを「待って」いる。向こうから何かが下りてこようとしている、そのプロセスの邪魔をしないように、動きを止めるのである。もちろん人によっては散歩をしたり、風呂に入ったりということをしながら、頭をボーっとさせるという手段を取るかもしれない。
 では私たちは何がどうするのを待っているのかと言えば、それは私たちの無意識、ないしは脳からのリスポンスを待っている状態であろう。それはあたかもコンピューターの検索エンジンにキーワードを入れて enter キイを押し、結果を待っている状況に似ている。いずれにせよこのような場面で私達は無意識や脳に対してかなり受け身的な姿勢を取るのである。
「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC)とは?
 さてここで少しわかりにくいタームを導入したい。それはSOCという頭文字である。これは「自己組織化された臨界性 Self-Organized Criticality」の頭文字だが、長ったらしいので簡略化してSOCと呼ぼう。これはどういう意味かといえば、複雑系の中でもあるものは、この臨界の付近に自然と近づいてくるという意味である。
  SOCの定義としては、それは臨界に向かっては離れ、向かっては離れ、時々相転移を起こすシステムであり、広い意味では心、ないしは脳はこのSOCと考えられる。臨界から遠ざかっている時はあまり大きなことは起きない。しかし決断を下さなくてはならない機関であるということは、必然的にいつでもいざとなったら氷結や雪崩を起こすことのできるSOCである。
 ではなぜ脳はSOCなのか。それは端的に動物は生きるという宿命を負っているからだ。動物は安静時でも常に活動し、外界からのエネルギーを必要としている。その為には捕食しなくてはならず、敵から身を守らなくてはならない。つまり行動を起こすわけであるが、それは殆どが臨界状況を含む。例えば猫がネズミを捉える時は、ネズミを捉えるという決断を下す、実際にネズミを捕獲するチャンスを伺う、獲物にこちらの存在を気づかれずに捕獲できるギリギリの距離までおびき寄せる、等はことごとく臨界期なのだ。
 もちろん臨界期を迎えずに生きている猫もいる。例えば一日に一度餌と水を与えられ、あとは昼寝をしている猫であれば、臨界はめったに起きないかも知れない。全てが計画通り、予測通りに生じ、猫は何もハラハラする機会がないかも知れない。しかしそのような環境を提供してくれるご主人様に捨てられたら、野良になり、臨界につぐ臨界の厳しい生存競争を生きていくことになる。
 それに比べて自然界、例えば大地がSOCだと言えるのだろうか?必ずしもそうではないだろう。たとえばアメリカの中央平原に居てもめったに地震を体験しない。何年ごとに起きる大地震にハラハラすることもない。つまり臨界からは程遠いのである。しかし世界全体の地震の頻度が、リヒター・グーテンベルグ則の冪乗則に従う以上、全体としては臨界に近いことになる。つまりプレートは常に動いており、世界のあちこちでひずみが生じては地震である程度それが解消され、ということが連続的に起きているわけである。

2023年8月28日月曜日

連載エッセイ 8の1

  第8回目は右脳問題である。今回このテーマについて扱う伏線は解離について論じた第6,7回目にあった。この流れで右脳について論じない手はない。

ちなみに右脳に関しては素晴らしい導入書がある。Robert Ornstein のThe Right Mind 右の[正しい]心 という、1997年出版の、少し古い本だ。

 私の今回の要点を申し上げよう。右脳こそが私たちの本音であり、true self であると言える。そして左脳はそれを正当化し、論理付け用としているに過ぎない。左脳の機能は驚くべきことに、偽り、糊塗する機能を有するとさえ言えるのである。かなり過激な言い方であるが、そこまで行っても言い過ぎでなないことについて述べたい。

 第6回の分離脳に関する記述をお読みになっていて不思議な感覚にとらわれた方はいらっしゃるだろう。分離脳の患者さんが右脳の心と左脳の心を持つという事情を説明した。左右の脳は相手のことなど構わず、独自に判断を下す。左右の脳に別々の絵を見せ、「見たものを描いてください」というと、右脳は視界の左側からキャッチした形を左手で描く。左側に見せた像は左脳が右手で描く。この場合左右の手は、特に混乱することなく同時に別々の絵を描くのだ。このことが、左右脳が「お互いを構わない」理由である。両方の脳が繋がっている「普通の」私達にはこんなことは出来ない。

 ためしに左右の手に鉛筆を持ち、右手で三角を、左手で四角を同時に描いて欲しい。ふつう私たちの手はどうしても左右で影響を及ぼし合い、どちらも上手くかけないものである。右利きの人が右手であれば問題なく描ける四角形を、ここまで邪魔する右脳はいったい何なのだろうか。

 ところが私たちは日常生活での様々な決断を下す際に、そこまで迷うことなどないのはなぜだろうか?左脳と右脳の機能はかなり異なるにもかかわらず、両者があたかも協調するようにして活動が出来るのはどうしてだろうか?

 分離脳の話に戻るが、このプロセスで右脳は何かを「考えている」のだろうか。恐らくそうである。左右別々の画像を見せると、例えばある女性の患者の右脳だけに性的にきわどい写真を見せると、顔を真っ赤にしてドギマギするが、左脳は「今日はとても緊張しているんです」などと言い訳をするのだ。(Ornstein,p.3)

 この言い訳の仕方はシレっとしている、というよりはそれがもう左脳の本来の姿かもしれない。左脳は言い訳をするということに後ろめたさがない。というよりはそういう倫理的な価値観を有さないのが左脳なのである。もしそうだとしたら驚くべきことだ。
 これに関しては反側無視という現象が知られる。これは右脳の機能を広範囲の脳梗塞などで失い、左脳だけになった状態に見られることだ。すると4割近くの患者さんが、左側のものを無視する。お皿の右半分のものしか食べなくなり、左から声をかけられてもそちらを向かなかったりする。右脳梗塞により左側の身体が動かなくなったことに対して、左脳は動いていますよ、とウソをついたり、これは私の体ではありません、と嘯いたりするのだ。(ちなみに逆に左脳の広範な脳梗塞の場合は、右側の無視という現象は起こらない。)


2023年8月27日日曜日

複雑系の脳と心 3

 ここで一つの表を示したい。これは砂山。地殻、経済、心のそれぞれについて、それが複雑系として、どのような臨界状況を有しているかを示したものである。


複雑系の

種類

基本となる揺らぎ

どのような臨界状況がみられるか?


砂山

常に降り注ぐ砂粒


いつどこに雪崩現象が起きるかわからない

地殻

プレートの動きや火山活動などにより常に生じる微震。

いつどこで大地震が起きるかは予測が付かない。

経済

常に個人投資家が少額の株を売買している。

いつ大暴落が起きるかは予測が付かない。

常に対人関係で影響を受け、また脳自体が揺らいでいる。

いつ洞察、ターニングポイント、出会い、悟り、トラウマが起きるか予測が付かない。


脳と心は臨界状況である

ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。

  • ようやくここであることを思い出しそうで思い出せない時。

  • あるアイデアが閃きそうな時。

  • 怒りの爆発をギリギリで抑えている時。

  • 解離状態において人格の交代が起きる時。

これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。


2023年8月26日土曜日

複雑系の脳と心 2

 そしてもちろん、ここが肝心なのだが、私達の脳がまさに複雑系なのだ。そして複雑系を私たちが理解し始めたということは、脳の生み出す心についても私たちはようやく理解し始めたに等しいということである。これまで提唱されてきた様々な哲学理論、心理学、精神医学も例外ではない。それは少なくとも「複雑系」仕様ではなかったのだ。  世界を複雑系としてとらえ直す、とはどういうことかについて、心の問題とは直接関係ないが、一つ例を挙げておきたい。私たちが日常的に体験している地震を例に取ろう。地震は忘れたころにやってきて、それがいつ起きるかを予想することは極めて難しい。東海地震などは何度も予測されては肩透かしを食らってきた。しかしこの地震の起き方には、ある驚くべきルールがある事が分かっている。それは地震の大きさ(マグニチュード)と、その頻度の対数の関係を見ると逆比例の関係があるということだ。グーテンベルグ・リヒター則と呼ばれるこの法則は、1941年に発見された。これにより少なくとも地震の起きる頻度についての「予測」はかなり出来るようになっているのだ。

 このグーテンベルグ・リヒター則とはわかりやすく言えば、マグニチュードが1大きくなるとその頻度は十分の一になるということである。だから頻度を対数表示すると両者の関係は直線に表されるというわけだ。そしてこのような関係(いわゆる冪[べき]乗則  power law)が複雑系の性質を最もよく表現する法則なのである。そして驚かなくてはならないのは、このような法則が、20世紀の前半になってようやく発見されたという事実なのだ。
冪乗則は人間の関与する複雑系において生じる様々なものに当てはまる。例えば株価の急落とその頻度、各人の持つ富とその人口における割合、本の売れ行きとそれが生じる頻度・・・・。

臨界状況とは何か

 さて複雑系についてその面白さを語ると本一冊を費やさなくてはならないが、その中での肝の部分を紹介したい。それは臨界という現象である。それをなるべくわかりやすく紹介したい。
 複雑系においてはそこで様々な現象が起きるが、特に相転移という現象が特徴的である。それはそのシステムである事件が起き、それをきっかけにすっかりそれまでと様子が異なってしまうことだ。地震などはそうである。大きな地殻変動はそこに存在していたものを破壊したり根絶やしにしたりする。自然現象を考えると最も分かりやすい地震の例を出したが、火山の爆発などもそうだ。大きさによってはその周囲にあるものを溶岩で押し流し,地形をがらっと変えてしまう。株価の大暴落などもその例だ。相転移という現象としては、まず水が暖められて気化する過程を思い浮かべるだろう。それまである程度秩序だって集まっていた水の分子はバラバラになり、お互いにはるか遠方に飛び去ってしまう。液体という層から気体という層に変換することからその現象が相転移と呼ばれるが、火山も株価の暴落も比喩的な意味での相転移なわけである。

 そして複雑系において見られる相転移が意味するのは、あらゆる複雑系が、相転移の準備状態であるということだ。大地は地震や噴火が起きる前の準備状態。経済は株価の暴落を待つ準備状態。ただし皆さんはこうおっしゃるかもしれない。

「でも私たちは毎日平穏に暮らしていますよ。大きな事件(相転移)は例外的に起きることではないですか?」

 ところが相転移はそのサイズがピンからキリまであり、小さい相転移は日常的に起きている。ただ大きいもの、目立つもの、私達の生活に深刻な影響を与えるものはめったに起きないというだけである。冪乗則を思い出そう。物事の深刻さがワンランク上がることに、その頻度は10分の1など(実際に何分の一になるかは、その現象により異なる)に急速に減っていく。ということは小さい相転移なら私たちは日常的に体験しているということだ。

 たとえば東京に暮らしていると、小さな地震はしょっちゅう起きる。少し揺れたな、と思ってもすぐやんでしまう程度の地震は結構あり、ニュースにすら取り入れられない。しかしたまに、ヒヤッとするような揺れを感じ、テレビをつけると、数分経って地震速報が近隣の件で震度3の地震があったというような報道を聞くことが出来る。

 株の変動なら、日常的に取引をしている人にとってはもっと深刻だろう。株価の大暴落はめったに起きない、などと高をくくってなどとてもいられない。それこそただ一社だけの株を保有している人なら、小さな暴落、急騰はそれこそ分刻みで起きていることを知っているはずだ。
このように考えると臨界状況は常に起きている。ただそれに慣れてしまって、意識しないだけだ。でもこれは人間関係においても起きていて、だから人との実際の面会でヒヤッとする思いを私たちはしょっちゅうしているのだ。


2023年8月25日金曜日

複雑系の脳と心 1

 複雑系としての脳

 心について脳の観点から考える際には、まず話を複雑系というテーマに戻さなくてはならない。というのも脳はそもそも複雑系だからだ。ここで言う複雑系とは、それを構成する部分の間の交流が、部分そのものの性質からは予測できないような新たな性質を生むような系(システム)である。
 ところでこの複雑系という概念と少し似ており、半世紀前に一世を風靡した概念がある。それがいわゆる「構造」である。構造主義という言葉をお聞きになった方は多いだろう。筆者が大学生だった頃は、この「構造」の概念がもてはやされていた。クロード・レヴィ=ストロース、フェルディナンド・ソシュール、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン等の名前が浮かんでくる。日本でも「構造と力」を書いた浅田彰氏等は時代の寵児のような扱いをされた。
 構造の概念自体は非常にダイナミックであるが、そこで生じる動きには一定のルールや法則が想定されていたというのが私の印象である。それに比べて複雑系システムにおいてはそこで起きていることが複雑すぎて、そのルールを知ることが出来ないというニュアンスを持つ。「構造」の場合はその仕組みを探求し、解明しようとするという私たちの意図があったが、複雑系の場合はむしろその様な努力を諦めているようなところがある。例えば「人体」は複雑系だが、そこでの法則を私たちは一律に知ろうとするだろうか?


2023年8月24日木曜日

意識についてのエッセイ 追加分

ずいぶん前に書いた「意識」についてのエッセイ。ゲラが返ってきて、A41ページ分の隙間が出来ましたから付け足して結構です、とのことだった。そこで最終的に以下のようになった。長さが1.5倍になり、得した気分である。途中の赤が今回の追加分。


「意識」についてのエッセイ

                            

はじめに


 今回この「意識」というテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて最初に触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにおいてもすでに存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。

昨年Googleの社員であったブレイク・ルモイン氏が、同社の対話型言語AI「LaMDA」がとうとう心を持つに至ったという報告を行った。

(Google AI 'is sentient,' software engineer claims before being suspended By Brandon Specktor published June 14, 2022)

 この発言がきっかけでGoogle社を解雇されたというルモイン氏の後日談は特に聞かないが、すくなくともしばらく前なら、心を持った存在にしか可能と思えなかったことを、現在の生成AIは行っているように思える。

私はこれまで、ある事柄を「理解する」ことは、人間の心にしか出来ない芸当だと考えてきた。私が言う「理解する」とは、その事柄について言い換えたり要約したり、それに関するいろいろな角度からの質問に答えることが出来るということである。要するに頭の中でその内容を自在に「取り廻す」ことが出来ることだ。例えば学生があるテーマについてきちんと理解することなく、ネットで拾える専門的な情報のコピペでレポートを作成したとする。彼はそのテーマについて頭の中で自在に取り廻すことが出来ないから、ちょっと口頭試問をしただけですぐに馬脚を現わしてしまうわけだ。

 ところが現在生成AIがなし得えていることはどうだろうか? あるテーマについて、内容を要約したり、子供に分かるようにかみ砕いて説明したり、それについての試験問題を作成することさえできるのだ。


Ⅰ 知性と心


この様な生成AIは少なくとも知性intelligence を有すると言えるかもしれない。いわゆるチューリングテストには合格すると考えていいのではないか。(まだ時々頓珍漢な答えが出てくるとしても、現在のAIのすさまじい成長速度を考えれば、愛嬌に等しいのではないだろうか。)

 ただしその様な生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、という点だ。たとえば景色を「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということである。そして現時点では、生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解であろう。(少なくとも私はそう考えている。私は折に触れてChat GPTに「あなたには心や主観性があるのですか?」と尋ねるが、「私には心はありません。」というゼロ回答ばかりである。)

そこで最近のクオリア論について少し調べてみると、かなり「脳科学的」であることに改めて驚く。クオリアは物理現象、たとえば神経細胞の興奮の結果として生じるという捉え方が主流となっているようだ。そして私たちが主観的に体験するあらゆる表象は、脳の物理的な状態に随伴して生じているもの(「随伴現象epiphenomenon」)に過ぎない、というのが、いわゆる「物理主義的」な立場である。

もちろんこの立場にはDavid Charmersらによる二元論的な立場からの反論もある。つまりクオリアの問題は物理学には還元できない本質を含んでいるという立場だ。しかしこのクオリア論争を少し調べてみようとすると、あまりに錯綜していて頭がくらくらしそうになる。そこでその代わりに前野隆司氏の理論に沿って考えたい。彼の説はクオリアにまつわる頭の痛くなるような議論を颯爽と回避しつつ、このテーマについての有用な指針を提供してくれるのだ。


Ⅱ 前野隆司の「受動意識仮説」


  前野氏は言う。「意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている、『幻想』または『錯覚』のようなものでしかない」(前野2007, p.20)。そしてその錯覚には主体性や能動性の感覚も含まれると考える。少し長いが引用しよう。

「機能的な『意識』は、『無意識』下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムではなく、すでに『無意識』下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための、追従的なシステムに過ぎない。したがって『自由意志』であるかのように体験される意図や意思決定も、実は『意識』がはじめに行うのではない。」(同書、p.46)

この前野氏の立場は徹底して「物理主義的」であるが、クオリアの存在の生物学的な意義についても強調している。以下に述べるように、それは私たちの生存にとっての意味を持っていると考えられるのだ。


 意識という錯覚の兆すところ


 前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。それはニューラルネットワークそれ自体が自律性を有している事を意味し、私たちの脳はいわば自動操舵状態なのである。私たちの意識はそれを上から監視している状態と言える。逆に言えば、脳が全く問題なく安全運転を行っている場合は、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。ただし前野氏によれば、監視しているという能動感自体も錯覚であることになる。

この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という錯覚ないしは幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それをエピソードとして記憶にとどめ、重大な問題が生じたときに随時想起、参照するためなのだ。脳は意識的な行動をその様な重要案件のために取っておき、それ以外は自動操舵できるようなシステムを有していることが明らかになっている。

意識に関する有名な理論である Karl Friston の「自由エネルギー原理」はそのような文脈で理解できるだろう。Fristonによれば、脳の活動は常に予測誤差の指標である「変分自由エネルギー」を最小化する方に向かう。すなわち脳は外界からの情報をもとに、そこから期待される外界の在り方を推測し、体験を通して明らかになるその誤差を最小化するように自動的に働いているということを、数理モデルにより示し、大きな注目を集めている。


Ⅳ 脳科学的に見た意識と無意識

 

 最後にこのテーマについてもひとこと述べておこう。これまでに述べたように、知性はAIにも宿る。ただ人間(および多くの生命体)の場合、意識という幻想がそこに加わるのだ。 そして意識が幻想であるということは、意識も無意識の一部だと言っていることになる。そうすると、私達が通常行っている意識と無意識の区別には、果たして意味があるのか、という疑問も当然ながらわいてくる。

  正直な話、これまでの話との整合性を保つためには、私達の心はことごとく無意識により成り立ち、意識などあろうがなかろうが、十分に主体性や能動性を発揮する(かの)ようにふるまっているのだ、と言わなくてはならない。言い換えるならば、脳そのものの機能がいわば全体として無意識であり、そこに開けられたのぞき穴からたまたま見える部分を、私たちが意識と読んでいるに過ぎないということになる。前野氏も述べるとおり、意識は「追従的なシステム」でしかない。意識が無意識に影響を及ぼすということは全て錯覚ということになる。

 このような立場からすれば、「意識の働きが無意識に影響を与える」というような言説は意味を持たないことになる。しかし私たちはこのような考え方を普通に受け入れているのだ。例えば Freud は「自我を脅かす願望や衝動を意識から締め出して、それが意識されないままで保持する」ことを抑圧と称したが、それなどは典型である。

 もちろんこのように意識に自発性を持たせるような考え方が無意味というわけではない。むしろ人間の意識から見たらそのように思えるような現象を無意識(脳)が起こす可能性を示しているということなのだ。

  例えばあるAIと人間(Aさんとしよう)に、「この夏の避暑地としては軽井沢と那須高原ではどちらをお薦めですか?」と問うとしよう。AIは様々な条件を考え合わせたうえで「軽井沢の方がベターです。」と答えるとしよう。実際に客観的に見てその答えが妥当だとする。ところがAさんに同じ質問をしても、「那須高原の方ですね。」と答えるのだ。そこでAさんがあえて那須高原と回答した理由を考えると、一つの仮説が浮かび上がる。Aさんにとっては軽井沢という地名が、ある忘却された不快な記憶に触れる可能性があり、そのために無意識に軽井沢を選択することを避けていたのだ。実際にAさんは過去に軽井沢を何度か訪れており、かつて何かがあったのかもしれない。するとこれは Freud のいう抑圧が実際に生じていることを意味しているようにも見える。

  しかし実は問題はそれほど容易ではない。Aさんが通常なら選択していたはずの軽井沢ではなく、那須高原を選んだ理由はその他いくらでも考えられる。彼の脳が軽井沢を思考プロセスに算入させたかった原因を一つに絞ることはたいていは不可能なのだ。AIと違って身体と感情と、過去の膨大なエピソード記憶を備え、持って生まれた性質(素因、器質)を有する人間の脳は、そこにかなり頻繁に生じる勘違いや計算間違えなどが複雑に絡み合うことで、AIよりはるかに異なる意味を形成するのだ。 

 「私たちの意識は幻想で、無意識がすべての出発点だ」という現実が示してくれるのは、次のことだ。「謙虚であれ。心をわかったつもりになってはいけない。」

なにしろ最初にサイコロを振るのは常に無意識=脳だからだ。


Ⅴ さいごに


意識についてのエッセイということでかなり思いつくままに書いた。最近の生成AIの発展に気を取られがちであるが、それは翻って人の心の特殊性について再考する機会になっているかもしれないとも思う。


参考文献


Edelman, G. (1990) Neural Darwinism. Oxford Paperbacks. 

Friston, K. (2010)The free-energy principle: a unified brain theory?Nat. Rev.Neurosci, Vol.11, pp.127-138.

前野隆司 (2007) 錯覚する脳 ―「おいしい」も「痛い」も幻想だった.  筑摩書房.

2023年8月23日水曜日

男性性とトラウマ 文字起こし 4

 さてこれまでの論述から言えることは、男性の性愛性は多くの加害性を有するとともに悲劇的な色彩を持っているということである。一つの悲劇は、サイコパス性や小児性愛の多くは生得的なものと考えられ、それらの性質を備えた人は自らそれを選んだというわけではなく、生まれながらにして加害性を背負っていることである。もう一つはひょっとしたら侵入的、暴力的、サディスティックな性質は男性の性的ファンタジーや性行動にとって本質の一部ではないかということである。実は男性の性愛的なファンタジーが攻撃的な性質を有するということは、巷で言われているほどにはエビデンスはないという研究も見たことはあるが、ここでは詳しい話は割愛しよう。(実はこの発表の前にチャットGPT4に、男性のファンタジーがより暴力的だというエビデンスはあるのかと尋ねたところ、そのような答えだった。)
 しかしもう一つの、おそらく最大の悲劇性は、男性が性的な存在であることそのものが、すでに加害性を帯びている可能性があることである。私の患者さんで街に出ると男性がいるだけで、その男性から視線を浴びるだけでパニックが起きたり、場合によっては過去の性被害のフラッシュバックが起きるという方もいる。これは男性は女性に視線を向けることにも後ろめたさを感じる必要があるということなのだろうか?
男性は不感症」という議論と嗜癖モデル
 ここでこのテーマに関する学術的な論考を探し、森岡正博(2004)の「感じない男」ちくま新書)に行きついた。彼の理論は以下のいくつかの要点にまとめられる。

· 男性にとっての性的興奮の高まりは、その行為が終わることで一挙に消えてしまい、その快感の程度は極めて低い。
· それに比べて女性ははるかに強くまた継続的な快感を体験し、それに対して男性は羨望の念を持つ。
· それが女性に対する攻撃性として表れることがある。

 さて私はこの森岡氏の議論に一部賛成で、一部は意見が異なる。それを含めて、男性の性愛性と嗜癖モデルということでここで提示したい。
 まず一つ言えることは、男性は不感症とまでは言えないかもしれないが、その性的な欲求は、それが楽しさや心地よさには必ずしもつながらず、ただエクスタシーを求めて突き進むというところがあるということだ。男性の性的満足の機序は、嗜癖モデルにも似て、 いわゆるincentive sensitization model (ISM)に従った理解をすることが出来る。すなわち性的な刺激を受けると抑えが効かないような衝動が生まれる。
 男性が性的満足を追求する時、目の前の対象と共に心地よさを追求するということからはどうしても逸脱する。男性はその瞬間は別の人を想像している。これは女性をモノ扱いすること objectification に繋がる。
  ここで参考までに、この incentive sensitization model(ISM) について一言説明したい。
嗜癖行動においては、最近liking と wanting は違う、という議論をしばしば耳にする(Berridge, 2011)。そして嗜癖が生じると、人は liking (心地よく感じること)よりも wanting (渇望すること)に突き動かされる。つまり心地よくもないことに駆り立てられることになる。すると何らかの刺激 cue は wanting を著しく増大させるが liking には変化を及ぼさない、という奇妙なことが起きるのだ。男性においては性的な衝動が刺激により生じると、強烈な渇望が生まれ、それを途中で止めることが非常に難しい。
Berridge, K. C., & Robinson, T. E. (2011). Drug addiction as incentive sensitization Addiction and responsibility, 21-54. The MIT Press.

2023年8月22日火曜日

男性性とトラウマ 文字起こし 3

サイコパス性について

 サイコパスと見なされる人々は圧倒的に男性に多いことを前提として話す。だからこそこの論述で取り上げるべき問題なのである。

 まずサイコパスの定義としては、良心の欠如、他者に対して冷淡で共感性がない、慢性的な虚言、罪悪感が皆無、自分の行動に対する責任を取らない、自尊心が過大である、口が達者で、表面上は魅力的である、などの特徴を有する(R.ヘアのチェックリストより)。

このサイコパス性については、それがかなり生物学的に、あるいは遺伝的にさだめられているということが言われている。たとえば脳科学的には扁桃体や眼窩前頭皮質等に異常が見られることが多い。

 また遺伝率(※)は40~70%程度とされる。これはかなり高い値だと考えるべきである。

※ 全表現型分散に対して遺伝分散が占める割合で定義される。量的遺伝学において平均への回帰の程度を示す量であり、小さいほど回帰が大きい。

 そしてサイコパスは従来は治療は不可能とされてきた。今でも多くの臨床家は同じような意見を持っている。不治の病、と言ったところだが、もちろん本人たちはこれを「病」とは認識していない。

小児性愛について

 もう一つが小児性愛、ペドフィリアである。これは後期思春期以降(16歳)で、思春期以前の子供(13歳以前)に対してのみ性的な興味を持つことと定義される。いわゆるパラフィリアの一つの形態とされる。そしてこれも圧倒的に男性に多い。(パラフィリア自体が圧倒的に男性に多い。パラフィリアの他の形である覗きや露出を好んで行う女性、ということは普通はイメージできないだろう。)

 小児性愛は原因は不明であるが、神経学的異常と心理的な病理が複雑に関係していると考えられている。たとえば遺伝負因は明らかでないが、低知能、低身長、高い左利き率、幼少時の頭部外傷(失神を伴う)が関係していると報告されている。

 小児性愛の遺伝率は14%といわれるが、ここがサイコパスと大きく異なるところである。つまり遺伝負因を背負って生まれたということはパラフィリアに関してはない。もちろん幼少時から小児性愛の傾向があったということもあり得ない。(幼稚園児の頃からおなじ幼稚園児の異性に興味を持つことは、決して異常とは言えないからだ!)しかし思春期を過ぎて気が付く。「自分は思春期前の対象にしか性的な興味を持てない ・・・・」)そしてそれはその語一生続くのである。その意味では小児性愛も運命であり、通常は生涯にわたる障害である。つまり治療は通常は不可能と考えられているところがサイコパスと同様である。


2023年8月21日月曜日

男性性とトラウマ 文字起こし 2

 男性がなぜ男性の加害性について語らないのか?

 さてまずは男性性の問題についてあまり男性が語らないのはなぜかという問題から問いたい。それは男性自身が持つ恥や罪悪感のせいだろうか? そうかもしれない。そもそも男性の性愛性は恥に満ちていると感じる。それは何故か。(ここで男性の持つ性愛性、という言い方をするが、本当は「男性の性性 male sexuality」とでも表現すべき問題である。しかし分かりにくくヤヤこしいので、ここではあまり呼び方にはこだわらないことにしよう。)

 ともかくも男性は特に罪を犯さなくても、自らの性愛性を暴露されることで社会的信用を失うケースがなんと多いことか? 最近とある県知事が女性との不倫の実態を、露骨なラインの文章と共に暴露された。またある芸人は多目的トイレを用いて女性と性交渉をしたことが報じられて、芸人としての人生を中断したままになっている。

 さてパラフィリア(小児性愛、窃視症、露出症、フェティシズムなど)が極端に男性に偏る事と関連しているのか?(パラフィリアのみが精神障害と結びつけられるのはなぜだろうか?) パラフィリアは昔倒錯 perversion と言われていたものだが、その差別的なニュアンスの為にパラフィリアという表現が1980年のDSM-Ⅲから用いられている。英語で「He is a pervert!」というと、「あいつは変態(パーバート)だ!」というとかなり否定的なニュアンスの、差別的な意味合いが込められているからだ。
 そのパラフィリアの問題っていうのは深刻な問題だと私が思うのは、これは最近あれほど叫ばれている性の多様性にカウントされないということである。つまりこの種の性癖はそれを持っているっていうことが決して自慢にはならない、むしろ旨性の多様性の中に要するにの中に入ってこないなぜ入ってこない。それはそれで問題ないんじゃないかということも出来るだろう。パラフィリアには例えば露出癖がある。もちろん「露出癖を持つ人たちも差別をしないでほしい」という運動は起きないでしょう。しかし例えばフェティシズムも含まれるが、無生命のものに恋する人たちが差別的な扱いを受けることに反対することはない。

男性の性愛性は本来的に加害的であったり劣っていたりするのか?

 こうして私たちは次の言葉にごく自然に行きあたるのである。それは「劣情」である。

 男性の性愛感情は結局「劣情」なのだろうか?そもそも劣情とは 「卑しい心情。また、性的な欲望や好奇心を卑しんでいう語」(精選版 日本国語大辞典)と定義されている。

 しかし心情に貴賤はあるのだろうか。おそらくあるとしたら自分や他人に対して恩恵をもたらすものが正しい、尊い心情であり、逆に他人を害し、自分にとっても利益にならないのが劣った感情ということになるのだろう。そして男性の性愛性は、多くの場合それが野放図に発揮された場合に、女性に対して加害的であり、また自らにとっても強烈な恥の体験をもたらすものであり、その意味でまさに「劣情」と呼んでしかるべきものであろう。

 デジタル大辞泉によれば、劣情としてはっきりと性的な願望を含める。劣情とは「いやしい心情。また、性的な欲望や好奇心をいやしんでいう語。—を催す」。同辞書ではムラムラとは「

劣情などが激しく起こるさまなどを意味する表現。」とされる。

 男性が持つ加害性について、次に二つの代表的なものをあげよう。それらはサイコパス性と小児性愛である。


2023年8月20日日曜日

男性性とトラウマ 文字起こし 1

 先週この発表を行ったが、色々な意見が飛び交った感じである。

男性のトラウマ性

  本稿では男性性が持つトラウマ性について論じたい。社会において男性がいかに他者に対してトラウマを与えているかということについて、同じ男性目線から何が言えるのかについて考えてみたい。
 まず問題意識としては、過去および現在の独裁者や小児性愛者や凶悪犯罪者およびサイコパスのほとんどが男性であるのはなぜか、という疑問がある。これほど明確な性差が見られる社会現象が他にあるだろうか。そしてそれについて男性自身による釈明は十分に行われているだろうか。これは大いに疑問だろう。
  実はこの問題について、私は特に深刻な問題を体験している。それは男性による性被害にあった女性の患者に対して、そこで何が起きていたかについて一緒に考える際、男性の性のあり方についてどのように説明したらいいかについて常に悩むのである。説明の仕方によっては患者の心の傷を深めることさえあるのではないかと考える。

  ある大学生の女性は、属している部活の飲み会に参加し、そこで尊敬している男性部員と少し長く話す機会を持った。彼女はその先輩に対して尊敬の念を以前から抱いていたので、少し個人的なことも話し、それを聞いてもらってうれしく思ったという。そして二次会に誘われた時も喜んで参加した。ところが・・・・以下略。


2023年8月19日土曜日

現代的な心身医学 文字起こし 5

  筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群
(ME/CFS, Myalgic encephalomyelitis /chronic fatigue syndrome) 

 休息により消失しない疲労や倦怠感を主たる特徴とします。私達は少し疲れても休息すればエネルギーを回復します。ところがそれが起きないわけです。以前は心因性の疾患や詐病を疑われたのですが、1990年以降、様々な医学的所見が指摘されるようになりました。
 ちなみに筋痛性脳脊髄炎 (ME)という呼び方は欧州とカナダで、慢性疲労症候群(CFS)はアメリカとオーストラリアで用いられることが多いそうです。
 最近では生物学的なマーカーがいろいろ発表されています。PET,MRI,などの脳画像研究により、白質、灰白質の異常が見出だされ、心因では説明できない認知機能の異常が指摘されるようになったのです。またエネルギー代謝系やミトコンドリア機能の障害を示すエビデンスが見出されるようになってきています。これはちょっと何かにエネルギーを使うと疲労困憊してしまう、というこの病気の特徴をうまく説明しているでしょう。また「自律神経受容体に対する自己抗体に関連した脳内構造ネットワーク異常」(NCNP、2020年の研究)が報告されてもいます。


線維筋痛症 fibromyalgia, FM
 こちらは広範囲にわたる筋骨格系の痛みを主たる特徴とする疾患です。私の記憶では、昔は線維筋痛症はCFSと一緒に論じられていた感がありますが、現在は独立して論じられているのです。しかしFMとME/CFSとの異同があまり明確でなく、両者は結局は中枢神経系の過敏性ということで共通しているらしいという印象をどうしても受けてしまいます。
 両者は痛みや疲労以外にも光、臭い、味、触覚、音、薬物への敏感さも含み、また片頭痛、IBSなどの関連も指摘されています。
 ただしFMは、リューマチ・膠原病科により扱われるのに比べて、 ME/CFSの方は神経内科などが扱う傾向にあります。その意味でFMとME/CFSは「異なる科で別物として扱われる例」の一つと言えるのかも知れません。

心因性非癲癇性痙攣 (PNES psychogenic non-epileptic seizure)
 PNESは神経疾患の中で長年十分注意を払われずにいましたが、その多くが真正癲癇と誤診されてきたことが最近になり改めて認識されるようになったという経緯があります。癲癇重積発作として専門家に送られてきたケースの25%は実はPNESであったというデータもあります。従来癲癇は、臨床所見だけで(脳波検査をせずに)診断が下される傾向にあったことが誤診の理由の一つであるといわれます。(EEG-Videoという機器を備えていない医療機関が圧倒的に多いという現状があります)。また脳波についての専門的な知識の少ない医師が脳波を見ると、ちょっとした異常も癲癇と診断してしまうという問題もあったようです。
 また一つ気になるのはPNESは神経内科で診断されたのちは精神科にリファーされる傾向にあることです。これは後に述べるように、やはり両方の科で見るべき疾患ではないかと思います。
 ちなみに興味深いことに、神経内科ではPNESと解離との関連はほとんど論じられない。PNESもまた、「異なる科で別物として扱われる例」と言えるでしょう。

2023年8月18日金曜日

現代的な心身医学 文字起こし 4

ソフトを使った文字起こしをした、前半部分であるが、ソフトの出来の悪さに驚いた。Vrewというソフトだが、まったく声を聞き取ってくれていない。殆ど意味のない文字が出て来るだけ。ソフトによって出来が違うのだろうか?

 今日は現代的な心身問題というテーマでお話します。私は仕事柄、トラウマを負った患者さんや解離症状を持つ方々と臨床の場で出会うことが多いのですが、彼らの非常に多くが身体の症状をお持ちで、トラウマを負った方の心身問題は特に深刻であるということを痛感しております。ですから今回いただいたテーマはまさに渡りに船だったわけです。
MUSという概念
 まず今回はMUSという概念の話から始まります。これはmedically unexplained disorder の頭文字です。こちらにいらっしゃるのは心療内科の先生ばかりだと思いますが、恐らくよくご存じでしょう。
 このMUSというのは非常に悩ましい問題です。MUSはかねてから医学における大きなテーマでした。現在でもそれらは概ね「心因性の不可解な症状」とされる傾向にあります。昔のヒステリーという風に言われた時代がこれだったという風に考えることができると思います。ではヒステリーとは何かといえば、言わば患者さんが自作自演で症状を生み出して、その症状はといえば本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方ですよね。そしてこのヒステリーに対する偏見を持った考え方は、ちょうどMUSにも当てはまります。そうなると症状に関する患者さんの証言そのものをまともに扱ってくれないことになります。要するにその症状っていうのは気のせいであって、気を確かに持ちさえすれば、その症状は消えてなくなる という風に考えられる傾向だったんです。 
  MUSは、人間が基本的に「心気的な存在」であるために常に存在する宿命にあるといえます。例えばあの今日お昼食べたものにばい菌が入っていて、食中毒になったかも知れない、一緒に食事をした人は何か食中毒になってるとなると、何か気持ち悪い気がして吐き気がしてくるということは普通におきます。そうするとそれを思っているうちにどんどんそういうような吐き気の症状が明らかになってくるということは多かれ少なかれ起きます。痛みもそうですね。人間はある症状が自分に起きているのではないかと思ってそれを心配するといつの間にかその症状が現実にあるかに思われて来るような存在であり、それを少し大げさに、私達は「心気的な存在」という風にここで言っています。
 さてもう一つ、MUSに属するものの一部は、「異なる科で別物として扱われる」傾向にあるということが言えます。これについてはあとで幾つかの例をお出しします。
 ともかくもMUSの概念は多分に曖昧さを含み、それをいかに整備するかは、現代的なテーマでもあるということです。

MUSの概念はどのように再構成されていくか?
 MUSに分類される疾患の一部は、その医学的な所見が新たに見いだされたことで外されていったという歴史があります。その例としてはME/CFS, FM, イップスなどが挙げられます。またそれとは逆に、それまで身体疾患と思われていたものがMUSに再分類されることもあります。その例としていわゆるPNES などが挙げられるでしょう。
  MUSに分類される疾患は将来医学的な所見が見出される可能性もあり、身体疾患と精神疾患の両者を併せ持つものとして扱われるべきであると考えられます。すなわち精神科のみに属するものではなく、そのためには「心因性」という概念の見直しが必要であるということです。

MUSとして分類されるべきもの
  • ME/CFS (筋痛性脳脊髄炎)
  • FM(線維筋痛症)
  • Yips または局所性ジストニア
(ちなみにこのイップスっていうのをこの図に加えることについては非常に悩みました。恐らくイップスがMUSに分類されるという先生は現在はまだほとんど一人もいないんではないかと思うんですけども私はそれは確かに可能性はあると考えています。)
PNES(心因性非癲癇性痙攣) これは昔偽性転換などと呼ばれていたものです。
FND (機能性神経学的症状症), CD (転換性障害)

2023年8月17日木曜日

甘えと純粋な愛 1

 昔「甘えと純粋な愛」という英文を書いて、アメリカの分析学会で1997年6月(大昔!)に発表したことがある。26年も前のことだが、論文としては未発表だ。その日本語訳は星和書店から出版された「日本語臨床3-『甘え』について考える」(星和書店)で発表したが、この度元の英文を見直す必要が生じた。随分前のことだが、少しこの作業をしてみる。

今日は Abstact の部分。今から読み直しても特に主張は変わっていない。

Passivity in amae relationship and the fantasy of "genuine love"

                                                                                                                            

Abstract

Amae, a notion that Takeo Doi introduced to the psychiatric terminology almost fifty years ago, represents a relationship in which two persons relate to each other in a way characterized by overt passivity in their expression of love and dependency needs to each other. The parties in the amae relationship share assumptions and logic that create a fantasy that they have achieved "genuine love." The "genuineness" of love is (felt to be) measured by how spontaneously each one shows love to the other without the love being requested or demanded. This fantasy of genuine love has its origin in the early mother-child relationship, in which the mother gives the child unconditional love and care. The amae mentality, commonly held among the Japanese into adulthood, may impose on the individual a masochistic devotion and subjugation to others and to the society. Although the amae mentality is considered most prevalent in Japanese society, it may exist in Western cultures as well.

2023年8月16日水曜日

現代的な心身医学 文字起こし3

 さて、この様な動きは何を意味しているのでしょうか。それは医学的な所見の見いだせない症状について、心因や疾病利得の存在を疑う根拠が十分でないことが再認識されてきたということを如実に表しています。そしてこのことはMUSに対する考え方そのものを見直す必要性を意味しているのではないか?
 最後に現代における心身問題について、総括を致します。MUSをいかに扱うかは、時代を超えた問題であるという最初の私のお話がある程度伝わったでしょうか。
 まずMUSはいまだに現代社会におけるヒステリーの意味を担っているということです。そしてMUSに含まれる疾患は医学研究と共に入れ替わっていくという性質を持つという事実を示しました。
 次にDSM-5、ICD-11 において心因や転換性という概念が消えていく傾向にあり、それは「MUSイコール心因性、心の病」という誤解を解き、「脱ヒステリー化」を推進するものと思われる。
 その結果として、今後MUSを示す患者は、心の病として精神科に回されるのではなく、症状の存在を認め、それに応じた治療(対症療法)を施されるべきではないか。これは欧米の文献を見ると一目瞭然です。MUSに属するような疾患を身体の専門科と精神科とが同時に扱うべきであるという議論が非常に多く聞かれます。ただ私は我が国においてはそれ等を扱う科はすでにあると思います。いうまでもなくそれは心療内科です。更に示したのは、欧米において最近見られるのは、MUSは今後身体科と精神科が歩調を合わせて治療が行われる傾向です。(従来は身体科と精神科の「押し付け合い」が多くみられていたのですが、その様な傾向に対する反省が起きているのです。
 ところで・・・・最後に余談ですが、MUSという名称は再考されるべきであろうか? という疑問を皆さまは御持ちではないでしょうか。すると代案としては、“Functional disorder? “ (機能性障害?機能症?) でしょうか。しかしこれはいかにも英語でも日本語としておかしいですね。「機能症」という短い語の中に、今日お話したような複雑な事情が混められるようにはとても思えませうん。
あるいは 「身体表現性障害 somatoform disorder」というのはどうでしょうか。しかしこれはDSM-IVにおいて用いられていた言葉であり、そこに回帰することは得策でしょうか。というよりも「身体表現性」の「表現」という言葉自体が、心因性を前提としているということで、そのスティグマ性から外されたという歴史があります。
結局はICD-11に掲げられている「身体的苦痛症」「身体的体験症」くらいにおちついてしまうわけです。

2023年8月15日火曜日

現代的な心身医学 文字起こし 2

 これは先ほどの図を少し改変したものです。つまりMUSを含む円の中から出て行ったものとして、MS/CFSやFMが挙げられます。その理由はすでに述べたとおりです。にその外側から入ってきたものとしてPNESが挙げられています。なぜ外側かというと、これまではれっきとした神経内科的疾患、つまりMUSではないものとして扱われてきたものが、実は心因性ではないかと言われるようになったからです。

いわゆる転換性障害 CD
 さて次はいわゆる転換性障害についてです。これらはちなみにDSM-5とICD-11 では名称変更が行われ、それぞれ DSM-5: 機能性神経学的症状症 (FND)、 ICD-11: 解離性神経学的症状症
Dissociative neurological symptom disorder と呼ばれています。ややこしいですね。この障害の特徴は、「運動、感覚、認知機能の正常な統合が不随意的に断絶することに伴う症状により特徴づけられる。臨床所見は、既知の神経系の疾患または他の医学的状態と合致しない。」と表されます。 
これは以下に分類されます。と言っても網羅的なので退屈に感じられるかもしれません。視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、眩暈を伴うもの、その他の特定の感覚障害を伴うもの、非癲癇性痙攣を伴うもの、発話症状を伴うもの、麻痺または筋力低下を伴うもの、歩行障害の症状を伴うもの、運動障害の症状を伴うもの、認知症状を伴うもの、その他の特異的な症状を伴うもの、特定できない症状を伴うもの、など。
 ところで診断の際、ストレス因や心理的要因、疾病利得の有無などは特に問わない、とあります。この一文は極めて重要です。なぜならばこの一項目で、いわゆる転換性障害は心因性の疾患ではないということが示されているわけです。そしてもちろん「転換性障害」でもありません。私が「いわゆる」といちいち断り書きを着けているのはその様な理由です。
 この発表で強調しているもう一点は、この転換性障害という概念もDSMとICDから締め出されているということを示したいからです。ではなぜ転換性障害 (変換症)の呼称が消える傾向にあるのか? Stone (2010)の論文を参考にしましょう。彼は言います。
まずフロイトの唱えた転換 Konversion(心的葛藤が身体症状に転換される)の概念は仮説の一つに過ぎない。というのもフロイトは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使ったからです。しかし実はそれ自体が証明されてるわけではなく、転換性障害に心理的な要因 psychological factors は存在しない場合もあるということです。そして2013年 DSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」となったのです。そして2022年 ICD-11では「解離性神経学的症状症」となりました。さらには昨年(2022年)発売された DSM-5-TRでは「機能性神経症状症(変換症/転換性障害)」となったのです。つまり「機能性神経症状症がかっこから出て、「変換症」の方がカッコに入ったのです。つぎのDSM-6(あるいはDSM-5-TR2とかになるのでしょうか?)ではこれも使われなくなるのはほぼ間違いないことでしょう。 
 
参考までにフロイトの実際の記述を示します。
「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している(5) 興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興 奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。
Jon Stone (2010)Issues for DSM-5:Conversion Disorder  Am J Psychiatry 167:626-627.

2023年8月14日月曜日

現代的な心身医学 文字起こし 1

7月に心身医学会で行った講演の文字起こしをしようと思ったら、何と一時間の録音のうち最初の半分しか入っていなかった・・・・ということで後半の部分をスライドを見ながら文字起こしする。どんなことを話したか忘れないようにこうするのである。録音はPNES(心因性非癲癇性痙攣)の部分で途切れている。そこで次のイップスについてから始める。スライドで言うとちょうど真ん中のあたりである。

Yips (局所性ジストニア)
 さて次はイップスですが、これは「今まで問題なくできていた動作が突然もしくは徐々にできなくなるもの」であると定義されるものです。私はこれを今日のお話に含めるべきかかなり迷いましたが、結局入れることにしました。というのもこのイップスも様々な分野で別々なものとして扱われるものの典型と考えることが出来るからです。
イップスについては、ゴルフ、野球などのスポーツに関するもの、器楽演奏などの音楽に関するものが知られています。それまで半ば自動化されていた体の動きが損なわれ、本来の動作の軌道が再現出来なくなってしまう症状を示す。熟練したプロでも発症してしまうのが特徴で、それはスポーツ選手でも器楽演奏でもいえることです。ただしもちろん初心者にこの症状が起きないという保証はありません。ただしスポーツ選手にしても音楽家にしても、一旦これにかかると職業生命を失いかねないほどの重大な影響を及ぼすため、非常に関心を寄せられています。さてこのイップスは現在では様々な神経学的研究がなされ、focal dystonia として神経内科で扱われるようになってきているのです。
 ところでこのイップスもまた心因性のものと「誤解」されてきたという歴史があります。そしてそれが現在進行形で起きているのです。
 
 


 例えばこれは日本イップス協会という組織のホームページから引用したものですが、次のようにあります。
「イップス(イップス症状)は心の葛藤(意識、無意識)により、筋肉や神経細胞、脳細胞にまで影響を及ぼす心理的症状です。スポーツ(野球、ゴルフ、卓球、テニス、サッカー、ダーツ、楽器等)の集中すべき場面で、プレッシャーにより極度に緊張を生じ、無意識に筋肉の硬化を起こし、思い通りのパフォーマンスを発揮できない症状をいいます。」(日本イップス協会HPより。)
この心理的症状という表現が実は非常に誤解を呼ぶものです。ここには「無意識」などという表現も出てきて、いかにこの状態が心の病かということを強調しています。
ところが同じイップスの専門科には、それとは逆の立場を主張する先生もいらっしゃいます。

平孝臣先生はその著書で、イップスは心因性ではない、と以下のように明確に述べていらっしゃいます。

イップスやふるえは長年「心の問題」とされてきましたが、現在では脳内の運動機能をつかさどる神経回路の機能的異常から起きるもので、脳の手術で劇的に改善することがわかってきました。」平孝臣(2021)そのふるえ・イップス 心因性ではありません.法研 2021年

 私はイップスの専門家(一人はイップス協会の会長、もう一人は医学者)の意見がここまで違うことに非常に興味を覚えます。そしてやはりイップスはMUSのお仲間入りにすべきだと思います。というのもその振る舞いはまさに、MS/CFSやGMと一緒なのです。