2026年6月21日日曜日

甘え理論の先駆性 3

  結局甘えとは何かということについては、私はかつて以下のようにまとめている。「相手に対して持つ欲求を、こちらから求めることなく、相手から先に、積極的に満たして欲しいという願望」。

これに尽きるであろう。ではこのような「甘え」はなぜ生じるのか? これも当たり前すぎるような疑問である。こちらから要求して満たしてもらってもあまりうれしくない。それは無条件の愛ではなく(岡野,1999,Okano,2024)「条件付き conditional 」な愛だからである。問題はこれは日本人だけが思うことだろうか?ということだが、ここら辺は土居も一刀両

断なのである。

(ちなみに以下は土居先生の還暦の頃の写真である。私が最初に面会をした頃の先生は、このように若く精悍であった。)

 

土居は次のような表現をしている。まず日本人は主格分離を何とかして否定しようとする甘えの方向に常に働く。ところが欧米人は主格分離を建前とするので甘えを否定し、基本的本能的欲求としての甘えの概念に到達出来なかったのだ。(土居、精神分析研究 Vol.14, No3,1968 P120)

わかり易く言うと、日本人は甘え合う文化であり、それを是とする。ところが西欧文化ではこれを否定する。つまり自分と他者は分離しており、甘えのような両者の融合を目指すようなことは建前上否定する。ところが本心は甘えの願望を持っている。それを彼らは抑圧しているのだ、というわけである。


2026年6月20日土曜日

甘え理論の先駆性 2

 土居先生のアメリカでの原体験については、「甘えの構造」にしっかり書かれている。そこを引用するならば以下の通りだ。

  • 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」(同、p.16)

  • 「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)


これはかなりアメリカ人に喧嘩を売っているような表現と言える。このようなところを読む限り土居先生はかなり文化的なバイアスがかかった物言いをしていたことがわかる。ある意味では反米的で、渡米したころからかなり挑戦的であったことがわかる。しかしそれでいてとても英語が堪能で、早くから海外に出ることを考えていらっしゃった人でもある。
 アメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。ある時メニンガークリニックに久しぶりに訪れた土居先生は、聴衆に向かって、「久しぶりにアメリカに来てみたら、太り過ぎの人がとても多くなってびっくりしました」と言ったという。すると聴衆の何人かは、席を立って帰ってしまったという逸話を聞いた。そういうところがあるのである。「甘えの構造」はさっそく英訳されて海外でも読まれるようになったが、これらの引用部分など、米国人が皆どんな思いで読んでいるのかとひやひやするところがある。


2026年6月19日金曜日

甘え理論の先駆性 1

  土居健郎先生の甘え理論はどのくらい先駆的であったか、というテーマで論じる。私はたまたま昨年11月に、ある学会の「甘え」に関するシンポジウムに招待され、甘え理論を再考する機会を持った。その結果以下の疑問が生まれた。

 一つには世界的に知られている甘え理論の何が画期的だったのか?(本当に画期的だったのか?)ということである。甘えは日本の精神分析にとって一つの記念碑と言ったニュアンスがある。それだけこの理論は世界中で一定の認知度と評価を得ている。でも我が国の精神分析で甘え理論を発展させた業績というのはあまり知られていないのも確かである。また世界レベルでもあまり盛んな議論を巻き起こしているとは言い難い。それはなぜだろうか?私たちはこの貴重な遺産を正しく評価しているのであろうか?それが一番問うべき問題である。

ただしこういう私も去年のシンポジウムがなかったらこの問題に着手する事はなかったのを思えば、私自身が甘え理論に特別関心を寄せていなかったのも確かである。それはなぜなのか?これは私自身への問いということにもなる。

もう一つの疑問は土居先生は甘え理論を「実践」していたか?

実はこれは非常に悩ましい問題だ。土居先生は御自分の二回の教育分析に関して、それが波乱に満ちて、中断の形をとったことを自ら明かしている。しかしそのことから自分が得たことはとても大きかったとも語る。それが甘え理論とどのように関わるのか?その理論は自らの苦しい教育分析によって得られたものと関連しているのか。

 しかし実に意地悪な見方をするならば、教育分析に「失敗」した彼にそれを語ることは出来るのか、となる。先生自身が自らの失敗体験(?)を開示していることに、私たち後身は何を学ぶことができるのか?


2026年6月18日木曜日

土居先生と精神分析 7

  少ししつこいようだが、今までの私自身の理解を確かめるために書き記しておく。

「この人はいつも自分のそばにいて、私のことをわかってくれて、こちらが望む前にいつでも手を差し伸べてくれる」という幻想は、初期の養育者との関係の中で生まれるという仮説が、エクスタインの「基本的な一致 unity 」であり土居の「素直な甘え」である。その後に現実を体験してそれが現実の世界ではかなわないと知ることで脱錯覚が起きるわけだ。そしてその代わりに心の中で「誰かがどこかで自分のことを本当にわかってくれる」という気持ちを持てるようになることが「基本的な結合 union 」の成就ということになる。後者に至ることが私たちの目標になるわけだが、これはやはり幻覚的な要素を持つことは確かであろう。
 ところでこの結合はかなり矛盾を含んでいて、そもそもそれは現実の他者との結合ではない。自分の心の中だけで起きているからだ。しかしそれは確かに対象イメージを含んでいるから、一応結合と呼んでいいのだろう。「お前は大丈夫、特別だ」というメッセージはやはり外部性を含まなくてはならない。そしてある程度は外部の実際の関係性により析出され、高められる必要がある。それがいわゆる自己対象の機能であろう。

 とにかく自分のことを百パーセント認めて欲しい、夢であってもいつか叶えて欲しい、たとえあの世であっても…という考えは狂気に近いが、それを自分が持っていて、同時にそれが今の現実の世界ではかなわないことも認めることが「素直な甘え」ということだろう。つまり自分の中に狂気を抱えつつ、それを容認していることが「基本的な結合」なのだが、その祖型を作ってくれたのは、初期の愛着関係であると考えることができる。それはその時期の養育者との脳のシンクロの体験であり、その時にできた脳の回路が原型となっている可能性がある。そしてそれを治療者がブーストするのが「愛着に基づく精神療法」の意義なのではないか。またそのブーストは日常の人間関係でも少しずつ起きている可能性がある。親しい友人や配偶者との関係である種のやさしさに触れると「この人は基本的な結合の『かけら』を与えてくれている」と思えること。あとは自分で幻想を膨らませればいいのである。

2026年6月17日水曜日

土居先生と精神分析 6

北山先生は「錯覚と脱錯覚」のp.120 でこう言っている。

「この乳房を介した錯覚は離乳と共に脱錯覚を被るが、実世界や現実において我々は自分の望むものを作り出すことが出来るかもしれないという「希望」を抱くときの基盤となる。」「そこには現実原則の受容、痛みを抱えるための包容力の発達、自動的で魔術的要素の衰退、さらに大人においては社会に貢献するための創造力の確立などを伴わなければならないが‥‥」なるほどね。  さて後の人生の中で子供は新しい対象に出会う。それはメンターでも恋人でも配偶者でも、そして自分の子供でもいい。その対象を愛するということは、おそらくその幻覚を一時的に共有できた相手であり、多分それだけで存在価値があるのであろう。もし共同生活をつづけたとしても、幻覚を共有したというだけであり、過度の依存も期待もないはずである。  さてそのような段階に至った人は「素直な甘え」の境地にあるという土居の議論ははっきり言ってよくわからない。裏切られても相手を恨んだり、自己愛の境地に逃げ込むことがないというのが「素直な甘え」だとしたら、土居が匂わせている原初的で母子一致の状態を彷彿させるとしても、実はかなり高い自我機能を前提とした、つまり「現実原則に従った」関係性といえるだろう。それと母子一致の状態での甘えの共通点といえば、相手からの裏切り、脱錯覚による痛手や、それへの不安が存在しない、それらの懸念から解放された境地と言える点だけではないだろうか。  間違っているかもしれないが、私はこう思う。治療の終結で現れる素直な甘えは、内的な対象像との間のそれであり、おそらく直接かかわっている相手に対する甘えを含んだ行為とは程遠いものなのだ。あるいは以下に述べる「大人の甘え」であろう。  さもなくば、終結期の純粋な甘えや、バリントの言う受け身的対象愛のレベルは、人は容易に到達しないのではないかと思う。それは自己愛を捨て去った悟り済ました境地ということになるが、バーチャルにしか存在しないのではないか。だいたい人からの裏切りを恐れないということは結局人に一切期待しないということになるが、そんな関係は現実にはあり得ないだろう。完全な世捨て人やAIでもない限り。だから「純粋な甘え」は近似的にしか体験できないと考えるべきであろう。  ただし小此木先生も語っているようないい意味での甘えの関係は、程よく抑制がかかっていて、甘えの相互性が成立していて、色々な意味で「素直な甘え」に近いのであろう。でもこれは言い方を変えたら「大人の甘え」ということだ。これを母子一致の時期の甘えと同じようなものとして語ると逆に混乱のもととなるのではないだろうか。

2026年6月16日火曜日

土居先生と精神分析 5

  そして一定の期間一致 unity の体験を持つことで養育者像はようやく自分とは異なる外の存在として認識され、したがってそのコピーを作って内在化させることができる。つまり子供の心の中での自分と養育者コピーとの結合 unification が起きるわけだ。おそらくこれはかなり生物学的なプロセスであり、脳のあらたな配線が形成されるのであろう。ここで達成されるのは基本的な二者関係であり、reciprocity の成立であり、要するに相手の心に自分を見出し、自分の心に相手を見出すという体験である。これは甘えの文脈では甘えの相互性ということになり、「甘える ⇔ 甘えさせる」が同時に「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」にもなっているという関係だ。  そのような関係に導いてくれた養育者は、おそらく何があっても自分を大事にしてくれる、自分を優先してくれる存在として、つまりかなり粉飾された形で心に定着する。そしてそれに絶対的に肯定されているという感覚を生むのだろう。そこに至るまでに、子供は養育者が自分を犠牲にしているという感覚が伴ったのであろう。自分よりも子供、という感覚を得られた子供は、その養育者を内在化でき、ある意味ではその外的な養育者をもう必ずしも必要としなくなる。つまり一人の存在として自立できるわけだ。自分は一人であっても、実は結合のおかげで一人でないからこそ、常に安心感を与えてくれる。心に隙間風が入ってこないから寒さを感じないのである。その時人から貶められたり、蹴落とされたりということがあっても、それにより深刻に肝を冷やしたり絶望的になることはない。いや、たとえ一時的に落ちたとしてもたかが知れているのだろう。それはもう孤独ではないからである。  もしここに至らずに成長したらどうなるのか。土居の言葉を借りれば、素直な甘えは育たずに、ナルチシズムに退行した状態となる。養育者は自分のことをすべて肯定してくれるべき存在であると信じ、そうでない姿に対して激しい失望と怒りが生まれる。これは unity をまだ夢見ている状態だ。そしてその怒りがすでに年老いている養育者に直接ぶつけられるのが特徴である。ここで注意しなくてはならないのか、そのような養育者は、まだ正式な対象ではないということだ。ただしここでいう対象とは、対象関係が成立している関係性における相手のことを言う。つまり「内的対象」のことだ。対象関係が成立すると、養育者は既に内側にある。目の前の養育者はは仮の姿でしかない。だから別に亡くなっても、あるいはこちらを深刻な形で裏切ってもさほどダメージはない。「おふくろも年だな」とか「自分にとってのおふくろはもういないんだな」という反応だろう。ただし相手を見る目とか、世界観とかは多少揺らぐかもしれないが。要するに外的対象はまだ実在したとしても、仮の姿、あてにならない、何を言い出すか分からず、つかみどころのない存在である。それは何より「他者」だからなのだ。そう、内在化された後の実在の対象は、もう他者なのである。それはある意味では最初からそうであり、それを自分と同じ存在だと錯覚し、それを内在化させてもらったあとの残滓なのだ。  ただしその対象とは、ある一時期特別な関係が生じ、両方が相手に同一化し、脳をシンクロさせる時期があった。それが愛着期である。その後お互いに他者どうしになった養育者と子供は、おそらく錯覚の時期を彷彿させる間柄である可能性がある。幻覚体験といってもいい。それはある時期の体験をフラッシュバックさせてくれるというだけでその存在価値があるのだろう。  対象関係における対象とは、実在しなくなっても、しっかりと自分の中にコピー,というよりは原本がデータとして入っているから大丈夫なのである。(←ここら辺の記述、かなり誤解を受けそうだな。)私自身の母親も確かにその存在を感じる。そしてその内的対象とは、ある意味では幻覚的な関係は残っているというべきであろう。それは希望といってもいい。

2026年6月15日月曜日

土居先生と精神分析 4

 基本的な一致というよりも、基本的結合の体験である

 ところで十分な愛着形成により成就するのは、基本的な一致 unity ではなく、基本的な結合 union であるという土居先生の理論はよくわかる。前者は母子一体という体験。そもそも分離が出来ていない。というよりそれ以前の状態の話だ。それに比べて後者の場合は母子分離が成立しているのが前提となる。なかなか説得力のある理論概念だし、似たようなバージョンは色々提案されている。私の印象ではラカンの考えも想像界から象徴界へといった流れはこの路線だ。しかしこの話、どこまで理にかなっているのであろうか。この機会に少しじっくり考えてみよう。
 先ず一致に関しては、そもそも赤ん坊が自他の分離のないところから出発しているというのは脳科学的にみてその通りだろう。分離とか区別に関して働く左脳は、生下時にはまだ機能していない。右脳優位の体験はそもそも自他未分化の世界だ。そして母子の右脳どうしの同調が始まる。そこでは生理学的、内分泌学的な同期と共に脳波の同期化も起きているというのが Schore らの見解でもある。そして治療者との間でもそれが生じることで、患者は母子一致に似た体験を想起するかもしれない。しかしもちろん母子一致は土居の言うように幻覚的にしか体験されないというわけだが、むしろ私の言い方では「バーチャルに体験される」のではないかという仮説が生まれるのだ。Winnicott の言い方だとそれは幻想ということになり、Freud がそもそもそのようなことを言った。同一化の議論を始めた Freud は同一化を、外的な対象が取り込まれてそれと一体になるプロセスと考えたのだ。そして彼の言う primary identification は幻覚的な欲求充足に結びついたものであろう。
 ちなみにWinnicott のもとの文章をここに採録しておく。

「まだ一度も授乳を経験したことのない赤ん坊を想像してみよう。空腹感が生まれ赤ん坊は何かを思おうとしているところである。赤ん坊はニードから満足の源を想像する用意がある。だがしかし,そこで何が期待できるかを赤ん坊に示すための体験がまだない。もしこの瞬間に母親が赤ん坊が何かを期待しかけているところへ彼女の乳房を置いてやるなら,そしてその子に十分な時間が与えられ、匂いの感覚とともに,口や手であちこち触りつくせるなら,赤ん坊はちょうどそこに見つけられたものを‘創造’したのである。ついに赤ん坊は,現実の乳房がまさしくニードと貪欲さそして原初的な愛の最初の衝動から創り出されたものであるという錯覚を得る」(Winnicott, 1964,p.90)(錯覚と脱錯覚、北山 P120  Winnicott, DW ( 1964) The Child, the Family, and the Outside World. Penguin Books.


2026年6月14日日曜日

解離と自殺傾向について 5

 Foote ら(2008) 精神科外来における解離と自殺傾向

Dissociative Disorders and Suicidality in Psychiatric Outpatients

Foote, Smolin, Y. et al.;The Journal of Nervous and Mental Disease 196(1):p 29-36, January 2008. 

この論文について調べてみた。

 複数回の自殺企図歴を持つ患者に焦点を当てて分析したところ、解離性障害、境界性パーソナリティ障害、PTSD、アルコール乱用/依存のいずれもが、複数回自殺企図群と有意に関連していた。

しかし、これらの診断をすべてロジスティック回帰分析に投入すると、解離性障害診断と複数回自殺企図との関連のみが極めて強く残った(オッズ比 15.09、95%信頼区間 2.67–85.32、p = 0.002)。

解離性障害は、複数回の自殺企図歴を予測する最も強力な要因であった。

ただし既遂自殺については何も語っていない!!


2026年6月13日土曜日

解離と自殺傾向について 4

 北海道での学会の準備。

一応野呂浩史先生の研究のレビューのスライドを作った。彼のこれらのまとめから私の発表を出発させる。

  • 解離の機制により、感情調節の困難さが隠蔽ないしは断片化される傾向がある。

  •  解離によって身体的痛みへの感受性が低下し、致死性の高い自殺企図を実行する心理的障壁が下がる可能性がある。

  • 交代人格間での絶望感の共有不足や、激しい感情の変動が衝動的な行動を誘発する可能性がある。

  •  幼少期の虐待等のトラウマ体験が解離と気分変調の両者を惹起し、慢性的自殺念慮の根底にある「自己破壊衝動」を形成する可能性がある。

  •  意識の狭窄や健忘を伴う解離状態において、気分の急激な変化が衝動的な行動へと結びつく可能性がある。

  •  過去の逆境体験が、解離という回避的防衛と気分変調の双方を形成するプロセスが見られる。

2026年6月12日金曜日

土居先生と精神分析 3

  昨日の続きである。ほぼ土居先生の文章の引用とみていただいて差し支えない。

 今上にのべた「自分を見出す」分化の問題について更に説明を加えたいと思う。というのは基本的な結合の中で誕生する自分が、それまでの自分とどう異なるかを考察する必要があるからである。それまでの自分は、基本的な一致の幻覚的体験の故に起きた「不都合な分離と個人化」の結果である。したがってそこに自我意識は存するかもしれないが、それは本当の意味で自分になりきっていない自分である。このことをもっと具体的にいえば、患者は自分が他とは別の個人であることを頭では理解していても、心ではそのことに割りきれない気持を抱いている。それは場合によっては絶望的な孤独の体験であり、自己分裂を来たす自己嫌悪であり、「自分がない」という自覚であり、極端な自己中心主義であり、また誇大的な自我意識であることもある。これらは総括してナルチシズム的自我意識と呼ぶことができるであろう。これに反して、ナルチシズムの核が破れ、治療者と素直な甘えによって結ばれる体験の中で生まれる自分は、苦しさや不安や誇張を伴なっていない。それは相手と結ばれていることを知っているが、同時に相手と別の存在であることを知っており、孤独に悩まず、さりとて自己満足に浸るわけでもない。これこそバリントのいう「新しい出発」の主体となるものであり、エクスタインのいう「基本的分化」の本体なのである。

 以上のべてきたことは、私がかつて発表した「自分と甘えの精神病理」と題する論文の中で記述した現象と関係があることなので、この点について若干説明を加えたいと思う。この現象というのは、多くの日本人の神経症患者が治療の過程の中で、「今まで自分がなかった」という意識に目ざめることである。私はこの意識の誕生について、それは、患者が治療関係の中で今更に廿えたい心を自覚し、しかもそれが満足され得ないということを体験することによって起きるものである、と論じた。このことを上述してきたことに照らして再検討すると、次のごとくいうことができる。すなわちこの際患者の自覚する甘えたい心は、治療の終結期に出てくるような純粋な受身的対象愛ではない。いいかえればナルチシズム的な甘えであり、したがって内的葛藤を伴なっており、対象に向かうというよりも、むしろ失われた基本的一致の幻覚的体験を再現せんとする試みである。その故にこの状態においては真の分化はまだ起きていない。それであればこそ「まだ本当に一人立ちできるかどうか」などとつぶやきながら、治療関係の継続を欲する気持ちに一時おいやられるのだ。

 この心理をエクスタインは死の場合にたとえて、死に際してほとんど総ての人が自分の人生はこれで完結したとは感じないのと、似ているとのべている。ところでこの際治療者は、患者の側の終結に対する若干の抵抗にもかかわらず、あえて終結を告げることができる。勿論この抵抗はそれほど力強いものではない。患者は抵抗を威じながらも、半ば自らも終結の時期が来たことを感じている。第一、治療者との間に信頼と素直な甘えに基づく対象関係がすでに出来上がっている。そこに目覚めた患者の新しい自分に治療者は呼びかけるのである。すなわち治療者は、患者が治療者との別離に堪え得ることを信じ、この治療者の信頼に患者もまた信頼を以て応える。かくて治療関係は終結しても、治療者と患者との間の人間関係はむしろこれによって新しい段階に入るといわねばならない。それはもはや治療者患者の関係ではなく、自由な人間同士の関係なのである。このように治療の終結はそれ自体極めて重大な意義を持っているが、従来この点について考慮の払われ方が少なかったようである。


2026年6月11日木曜日

土居先生と精神分析 2

 土居先生の1961年の著作「精神療法と精神分析」から彼の治療論を追ってみる。主として第9章「治療の終結」(p195~)にそのエッセンスが詰まっているので、以下に抜粋しながら要約する。

甘えと受け身的対象愛との違い

 物心が付き始めた幼児は、受け身的対象愛(POL)が満足されないことによる葛藤をすでに持っているので、それを意識的に満足させようとして甘える。(すなわち子供の甘えは葛藤の存在を意味する。)

愛情不足がはなはだしいと、自分に甘えるナルチシズム(自己愛)が発生する。それが憤怒や憎悪や自己卑下に転嫁する。これが強いと去勢不安とペニス羨望を越えられない。

治療により患者の葛藤が順次に解決されて行けば、最後にバリントの言う受け身的対象愛が純粋な形で出てくる。それまでは拘ったり拗ねたり僻んだり、捻くれたりしたが、最後にナルチシズムの核が破れて、不安の伴わない素直な甘えが出現する。バリントもまさにこれを言っている。

「私は、治療の終結期に患者が幼児的本能的願望を表現し、その願望が外界によって滴足されることを要求し始めることを見出した。それらの願望が患者によってはっきりと容認されるのは、多くの困難が克服されて後のことである。私はこの現象を「新しい出発」と呼んだ。そしてこれが、十分深層にまで達したあらゆる分析において終結直前に起き、これが治癒過程の一つの本質的な機制となっていることを見出した。」(バリント)

 まさにバリントが言う通りであり、退行を経過してこの状態に至ったのではあるが、それはナルチシズムへの退行ではない。治療者は今患者が自分(治療者)に甘えることを許しているであろう。しかしこれは子供によく見る甘えとは異なる。その意味では治療者は患者を一度たりとも甘えさせたことはなかったのである。これはいわば醇化(じゅんか、まじりけのない純粋な状態にすること )された甘えである。フロイドの用語では、快楽原則にではなく、現実原則にしたがう甘えである。通常の甘えでは、いわば甘えることに甘えている(すなわちナルチシズム)という二重構造が認められるが、この場合にはそれが存しない。したがって患者は現在治療者との関係において甘えが満足されているとしても、それが永続するものでなく一時の賜であることを承知しており、それが取り上げられる日が来ても悲しみに打ち負かされることはない。悲しんでもそれに堪えて、ナルチシズムに逃げ込むことはないのである。

 同じことをエクスタインも言っている。彼は「治療により成就するのは、単に基本的な一致ばかりでなく、基本的な分化でもある。感情的疾患における問題は、基本的な一致の経験が完全に欠如していることでは決してなく、むしろ不都合な分離であり個人化ではないか、と私は考えているのである。」(エクスタイン)と言っている。
 ここでエクスタインが「基本的な一致の体験」と呼ぶものは、乳児が原始的な不安を知覚する以前に、母子一体と感ずる末分化の精神状態をさしている。これはもちろん直接に確かめ得られるものではなく、想定されたものである。これは葛藤以前の浄福の状態であり、その後の精神葛藤において個体が本能的に求めるものはこの状態を回復することである、と考えられている。この意味において通常の甘えは基本的な一致の体験の再現を目標としていると考えられ、ナルチシズムはその状態を現実に回復できないための自我の苦悩である、ということもできる。
 しかしここで問題となることは、この「基本的な一致の体験」自体が現実的な体験であるか、あるいは幻覚的な体験であるか、という点である。私は、これは本来的には幻覚的な体験である、といわねばならないのではないかと思う。その理由は極めて簡単である。すなわち母子はかつて真の意味で一体であることはないからである。私はここで、一致 (unity) という概念を結合(union) から区別して使っている。乳児が受身的対象愛によって母親に結ばれ、そこに不安の蔭を宿さない状態がかつてあるとすれば、それは基本的結合の体験と呼ぶべきである、と考えるのである。

  さてエクスタインのいうごとく、われわれに基本的な一致の経験が完全に欠如していることはない、というのでは不十分なのではなかろうか。むしろ、われわれは基本的な一致の幻覚的体験から常に出発しているので、不都合な分離や個人化が起きるのである、というべきではなかろうか。いいかえれば、われわれには基本的な結合の体験が欠如しているか、あるいはそれがあっても極めて微弱なのである。それゆえに「われわれが成就することを求めるのは、単に基本的な一致ばかりでなく、基本的な分化でもある。」というのでは不正確で、「われわれが成就することを求めるのは基本的な結合である。」といわねばならない。結合は分化を含む。分化のない所に結合はないからである。
 私は以上エクスタインの言葉を批判しているが、それは概念上のことであって、彼のいわんとする所は結局私の論旨と等しいと信ずる。すなわちバリントのいう「新しい出発」の状態は、基本的な一致というよりも、基本的結合の体験である。なぜならばこの状態において患者は治療者と愛情によって結ばれているが、しかし両者は決して渾然と一体になっているのではないからである。むしろこの状態において初めて患者は自分を見出し、真の意味で分化が起きるということができる。それ故に患者はこの際同時に信頼しかつ批判する能力を回復することができるのである。

2026年6月10日水曜日

解離と自殺傾向について 3 

 DIDを含む解離性障害では自殺企図・自傷の頻度はかなり高い、という点はかなり一貫している。一方で、既遂自殺率についてはデータがずっと乏しく、未遂ほどははっきりしていない、というのが現状である。いちばんよく引用される数字の一つは、ISSTDの成人DID治療ガイドラインにあるもので、解離性障害患者の67%が反復的な自殺企図歴を、42%が自傷歴を報告したとされている。これは Foote らや Ross & Norton らの研究を引いてまとめた数字だ。 古典的には Ross & Norton の1989年のMPD(現在のDIDに近い概念)研究で、患者の72%が自殺企図歴を持っていたと報告されている。かなり古い研究ではあるけれど、「DIDでは未遂が非常に多い」という印象の出発点になっている。さらに、より最近の外来フォロー研究では、12か月の観察期間中にDID群の23.5%が少なくとも1回の自殺企図をしたのに対し、DIDでない群では0%だったという報告もある。これはかなり強い差である。 また、一般精神科外来を対象にした Foote らの研究では、解離性障害の存在が「複数回の自殺企図」の最も強い予測因子だったと要約されている。つまり、解離は単なる合併症ではなく、自殺リスク評価の中心に置くべき変数として出てきている。 一方で、既遂自殺率については、僕が確認できた範囲ではDIDに限定した大規模で安定したデータは見当たらなかった。近いところでは、慢性複雑性解離性障害の研究で、completed suicide は relatively low で、1.0~2.1%程度とする記載がある。つまり「未遂は非常に多いが、既遂はそれに比べると低い」という方向の記述は存在する。

2026年6月9日火曜日

土居先生と精神分析 1

 土居健郎先生は甘え理論をどこまで「実践」していたか?

この問題は実に悩ましい。そして土居先生と精神分析理論の関係性そのものに迫る問題である。土居先生は御自分の二回の教育分析に関して、それが波乱に満ちて、中断の形をとったことを自ら明かしている。しかしそのことから自分が得たことはとても大きかったとも語る。それが甘え理論とどのように関わるのか?その理論は自らの苦しい教育分析によって得られたものと関連しているのか。

 しかし実に意地悪な見方をするならば、教育分析に「失敗」した彼にそれを語ることは出来るのか、となる。先生自身が自らの失敗体験(?)を開示していることに、私たち後身は何を学ぶことができるのか?

 1950年に内科から精神科への転向した土居は、米国留学のガリオア奨学金を獲得し、それを喜んでくれた古沢先生の推薦でメニンガーに2年間留学する。そこで土居はルドルフ・エクスタインの講義を受ける。その間古沢からの申し出で「通信分析」を帰国するまで一年おこなう。

1952年に帰国、その後は古沢からSV(監督分析)を受けたが、1954年より「暗礁に乗り上げ」「患者の治療上の技術に関しての意見の相違が起き」「もっと全面的な相違に発展した」という。

「先生は分析としての立場から私のこのような態度を分析的に理解し、同時に私をどこまでも容認しようとなされましたが、私にはそれがまた我慢できない事でありました。私はついに先生を離れて再び米国に留学し、かの地で始めから教育分析を受けてみようと決心するに至った。」分析家ライダー(サンフランシスコ)との教育分析:「私の体験したことはあまりにも身近なことであるために、いまだこれを十分に整理することが出来ませんし、またこれを整理されないまま生の形で皆さまにお話しすることは、私にとってあまりにも苦痛の多いことでございます。従って詳細は控えますが、ただ結果だけを述べますと、私は予定のコースを完了することなく1956年に帰国したのであります。これには種々の外的事情も関係していますがこういく分析の観点から言えば、これを打ち切ることが唯一の解決であるという行き詰まりに逢着したためであります。実際このことは私の精神に深大な効果を及ぼしました。私はそこから逃げようとしていた現実にいやおうなしに直面することを強いられましたし、そのためにいまだかつてなかった不安を経験しました。」(精神分析研究、1958) 

それについてその後語ろうとしないが、「分析しても終わらない」という考えを重視していたという言及もある。

真相はいったいどうだったのか?

 

2026年6月8日月曜日

解離と自殺傾向について 2

 そこで実際に「DID患者の既遂自殺率」を正面から扱った研究を調べたが、これはほとんど見当たらない。これは単に研究が不足しているというだけでなく、別の可能性もあると思う。たとえば自殺願望を担う人格状態と生存を担う人格状態と養育的な人格状態が内部で拮抗しているため、「未遂は非常に多いが最後の一線で止まる」という現象が起きている可能性がある。実はこれは、解離研究よりもむしろDIDの臨床記述の中に散発的に現れる観察である。

「DID患者の既遂自殺率は本当に低いのか? 」「人格状態間の葛藤は自殺を阻止するのか?」
「Ross、Putnam、Brandらはこの問題をどう論じているか?」というテーマでAIに調査をしてもらった。ちなみにこれはまだほとんど未開拓のテーマである。DID/解離性障害の自殺「未遂」と「既遂」を分け、Ross・Putnam・Brandらの臨床研究や治療研究で何が言えるかを、できるだけ一次文献に近い形で確認してもらった結論としては、DIDの既遂自殺率が「低い」と断定する根拠はない。ただし、未遂率の高さに比べて、既遂についての系統的データは驚くほど少ないということである。

1. 既遂自殺の数値

Rossらの236例研究では、MPD/DID患者の 72% が自殺未遂、2.1% が既遂自殺 と報告されている。これは「既遂が少ない」というより、「未遂率が非常に高い割には既遂データが限られている」と読むべきだと思う。
Putnamらの100例研究では、治療者調査で 既遂自殺1% が示されたが、これは過小評価かもしれないと後続文献で注意されている。
Kluftは1995年に DID患者6例の既遂自殺 を臨床観察として報告している。これはまさに既遂を扱った稀な論文で、DIDにおいて既遂が起こりうることを示す重要文献。

2. Brand / TOP DD研究から言えること

BrandらのTOP DD研究は、DIDを含む解離性障害患者280名と治療者292名、19か国規模の前向き自然istic研究で、現在でも最大級。30か月の治療経過で、解離、PTSD、抑うつ、自傷、自殺未遂、入院などが減少したと報告されている。 ただしこれは既遂自殺率の研究ではない。

ただし重要なのは、30か月研究の本文に「最終サンプルのうち1名が30か月間に自殺した」とある点。つまりTOP DDでも既遂はゼロではないが、主要アウトカムとして十分に分析できる件数ではない。

3. 「人格状態間の葛藤が自殺を阻止するか?」

ここは、直接の統計研究はほぼ見当たらない。しかし臨床的には十分ありうる仮説だと思う。

Brandらのレビューでは、DID治療では安全確保・安定化・治療同盟が第一段階に置かれ、解離した自己状態を認識し、それらと作業することが重要とされている。 またTOP DDでは、治療者が自己状態と頻繁に作業しており、その治療中に症状改善が見られたとされる。

だから、証明済みとは言えないが、自殺を望む部分がいても、別の部分が生存・保護・治療継続を担うことで、行動が中断されることがある。

2026年6月7日日曜日

ストレスとDID 推敲の推敲の推敲 3

ようやく文献のリストアップにまでこぎつけた。もう一息。 


参考文献

Blackmore, S : Are Out-of-Body Experiences Evidence for Survival?Anabiosis – The Journal for Near-Death Studies, 3, 137-155 1893.

Blanke O, Mohr C, Michel CM, et al. : Linking out-of-body experience and self processing to mental own-body imagery at the temporoparietal junction. J Neurosci. 19;25(3):550-7. 2005.

Huolman, M, Peltonen, M. : Dissociative features related to imaginary companions in the assessment of childhood adversity and dissociation: A pilot study, European Journal of Trauma & Dissociation,Volume 6, Issue 4. 2022. 

Lanius, RA.  et al. : Emotion Modulation in PTSD: Clinical and Neurobiological Evidence for a Dissociative Subtype American Journal of Psychiatry. 167: 640-647, 2010.  

McLewin, LA, Muller, RT Childhood trauma, imaginary companions, and the development of pathological dissociation. Aggression and Violent Behavior 1(5):531-545, 2006.
Moix J, Nieto I, De la Rua AY. :  Out-of-body experiences: interpretations through the eyes of those who live them. Front Psychol. pr 10;16:1566679. 2025.

Okano, K.: The Role of Dynamic Core and Mirror Neuron System in Dissociative Disorder. Medical Research Archives, 10(12); December issue, Vol.10 Issue 12.,2022.

Pearson D, Rouse H, Doswell S, Ainsworth C, Dawson O, Simms K, Edwards L, Faulconbridge J. : Prevalence of imaginary companions in a normal child population. Child Care Health. 27(1):13-22, 2001.
Porges SW. : Neuroception: A subconscious system for detecting threat and safety. Zero to Three: Bulletin of the National Center for Clinical Infant Programs 24:5,19-24. 2004.

Putnam, F. W..  Diagnosis and Treatment of Multiple Personality Disorder. New York: Guilford Press. 1989.


2026年6月6日土曜日

ストレスとDID 推敲の推敲の推敲 2

 相転移としての人格交代


 上でICの成立がいかに創造的であるかを論じたが、DIDに見られる解離症状のもう一つの、おそらくは最大の特徴は、人格状態間の遷移、スイッチングという現象にある。その際には一つの心の状態からまったく別の心の状態に瞬時に移行する様子が見られる。それが一般人の多くにも生じている例としてすでにOBEという現象について論じたが、DIDにおける人格のスイッチングはそれより一段高度でかつ創発性を含んだプロセスである。 

  この種の心の状態の急激な遷移は、癲癇発作のような神経学的な現象としては見られるものの、精神医学的にはあまり類を見ない。双極性障害における躁転や急性の幻覚妄想状態がある程度類似する状態として思い至る程度である。しかし解離性の人格交代には躁転や急性の精神病の発症には見られないような極端な非連続性が見られる。そこにはそれまでの意識の連続性やそれに伴う記憶,知覚様式、運動機能、生理反応などの変換が見られるのである。

 精神におけるこのような急激な遷移は、自然現象にたとえるならばいわゆる相転移に類似していると言えるだろう。相転移は物理現象としてよく知られ、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる現象である。氷の溶解や水の蒸発、磁石の磁性の転換などが代表例として挙げられる。
 私は解離性障害における人格のスイッチングをそのまま相転移として概念化する用意はないが、あくまでも現象としては類似しているということを強調したい。物理的な相転移においては水の相転移のように構成する分子そのものは変わらず、それらの結合の仕方が大きく変わるが、解離性の人格交代においても神経細胞そのものは変わらないが、それらの形成するネットワークが変わるという事態を想定せざるを得ない。私はDIDの病理として各人格がダイナミックコア(大脳皮質や視床を構成する一群の神経細胞の塊、G.エデルマンの概念 )を占有し、それ自体がスイッチングを起こすというモデルを考えた(Okano, 2022) が、同じ趣旨に従ったものである。


ポリヴェーガル理論を含んだ解離プロセスの理解

 最後にいわゆるポリヴェーガル理論の見地から解離の防衛機制と創造性の問題について論じたい。私見ではこの理論を組み込むことでこれまで述べた解離の諸現象をより整合的に理解することが出来ると考える。
 上述の相転移現象としての解離の特徴はそれが心だけではなく、身体レベルでの変化を伴う点である。そしてそのような機能の獲得は私たちの住む自然界における掟と関係している。自分が捕食者の側に立つか、あるいはその餌食の立場なるかは一瞬で決まる。相手に襲いかかるか、そこから退散したり身を隠したりするかのモードチェンジを瞬時に行えるかは野生の世界においては死活問題なのだ。というより闘争と逃避の一瞬での切り替えが可能な個体がこれまで生き延びて来たというべきであろう。そしてそのスイッチングのメカニズムを巧みに説明するのが、近年S.ポージスにより提唱されたポリヴェーガル理論である。
 従来の自律神経系の理解においては、各臓器は交感神経と副交感神経の両方により支配され、ストレス時や活動時に前者が働き、リラックス状態のときは副交感神経が働くというように、両者が通常は拮抗した作用を発揮すると考えられてきた。しかし進化のプロセス哺乳動物の迷走神経が異なる2系統(腹側迷走神経複合体、VVCと背側迷走神経複合体、DVC)に分かれているという発見が、ポリヴェーガル理論の核心部分である。
 ポリヴェーガル理論では、周囲が安全や安心を感じられる状況か、それとも命の危険を感じる状況かにより交感神経系(SNS)とVVC, DVCの3系統の自律神経系が切り替わって環境に対応すると説明する。安全な環境では哺乳類になってから獲得したVVCが働く。しかし周りからストレスがかかると、「戦うか逃げるか」に関わるSNSが働くが、そのストレス状況が高度になると、進化的に古いDVCに切り替わるとした。
 ポリヴェーガル理論の中で最も優れた点のひとつは、SNSからDVCに切り替わる際の偽死反射のような現象だけでなく、愛着形成に働くVVCの向社会的な意義を見出したことである。ポージスはリスク管理と行動のスイッチの二つをつかさどるニューロセプションという概念を用いる。(これは無意識的な皮質下のシステムを通して生じるもの、認知レベルで上がってくる知覚 perception と区別することを意図したボージスの造語である。)危機ないし脅威の環境では、皮質レヴェルは作動することなく、偏桃体ー中脳水道周囲灰白質 (PAG) などの防衛システムが即座に作動する」という。そして安全な場合はこの扁桃体ーPAGが、側頭葉により抑制されているために、皮質と結びついた向社会的行動が生じやすいという。
このうち前者は、OBEの場合は一種の偽死反射を説明する。下等生物で危機的な状態で何らかのスイッチが押されるかのようにドラスティックな心身の反応が生じる様子を説明する。しかし解離における人格状態の遷移はそれにとどまらず、もう一つの、その場を救出するような交代人格の出現が見られるのだ。しかしそれだけでなく、安全な状況では子供の人格が登場するという現象についても述べたが、それがこの後者の扁桃体ーPAGの抑制によるVVCの活動亢進として説明できる可能性を示しているのだ。


2026年6月5日金曜日

ストレスとDID 推敲の推敲の推敲 1

どうもうまく書けていない部分があり、何度も書き直している。文章を書くとは本当に厄介な作業だ。


 解離は脆弱性か、それとも能力か?

 解離をトラウマに対する防衛機制や防御反応としてとらえる場合、その発症機序はトラウマ理論でしばしば用いられるモデルにどれほど適合するのだろうか?いわゆる Stress-diathesis model(ストレス―脆弱性モデル、SDモデル)は、ストレス因に当人の脆弱性が関係して発症するというモデルだ。このモデルはその内容に多少なりとも変更は加えられているが、精神疾患の発症を説明する標準的な理論とされている。 

  しかし解離はこのモデルでは十分説明ができない可能性がある。上述の「生き延びる価値」の例として挙げたOBEは、当人が仮死状態のようになってその場をしのぐ機制として理解される。これはその個体の闘争能力が一瞬にして奪い去られるという意味では脆弱性としてとらえられなくもない。ところがDIDの臨床場面でしばしば見られるのは、危機的な状況で別の人格(交代人格)が登場し、その状況に対応するという様子である。そしてその交代人格はあらかじめ存在していて、かねてから主たる人格を内側から観察していたという事情が、その交代人格から語られるのである。
 さらには人格のスイッチングは危機的状況とは逆の、安全性が保たれた治療関係においても生じる。その場合には治療者の受容的な態度や治療室内のぬいぐるみやクレヨンなどに反応して、子供の人格が「遊びに」出現するという様子が見られるのだ。

 以上のような交代人格の形成のされ方は、脆弱性と理解することは難しく、むしろ創造的なプロセスと見なすことが出来よう。Putnamの言う「解離の生き延びるための価値」は、危機的状況においてのみ発揮されるのではなく、その個人の適応を永続的に促進するという意味を持ち、その意味では解離はある種の能力や創造性と考えることができるのではないだろうか。なおこれらの二種類の人格の出現の仕方については、のちにポリヴェーガル理論との関連で再び論じる。


創造の過程としてのイマジナリーコンパニオン
 

 上述の心にあらかじめ交代人格が形成されているという現象は、いかにして生じるのであろうか。そのヒントとなるのが、いわゆるイマジナリーコンパニオン (イマジナリーフレンド、以下 IC)であろう。IC は周囲の人にはその存在が感じられないものの、本人にとっては実在していると体験される「空想上の友だち」である。人間や動物、ぬいぐるみ、あるいは架空の生き物の姿をしており、当人は一緒に遊んだり会話をしたりする。ICは健常な子供に広く見られ、ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告されている(Pearson, 2001)。

 ICの存在自身はその子供の病理を反映するものではなく、基本的にはその子を助け、恐怖を和らげたり補助自我的な役割を演じる(Putnam, 1989)。その数は通常は二人以内で、ともにいて居心地の良い存在である。ただしICはDIDのように交代人格となって当人に代わって表に現れることはなく、ただDIDに見られる人格間のスイッチングの素地を作っていると考えられるのである。
 ちなみにDIDにおいても幼少時にICが報告されることが多いが、それは通常よりより高い頻度で見られ(McLewin, LA, Muller, RT (2006)健康な発達に見られるICに比べてネガティブな要素を有し、その数も多く、本人の体をコントロールしたり行動を強制するといった性質が報告されている((Huolman, M, Peltonen, M, 2022))。ともかくもICがこれほど多くの人々に見られるということは、このような解離のプロセスは大多数の人間にほとんどデフォルトとして備わっている能力と考えることは出来ないであろうか。
 このICが形成されること自体が心の驚くべき創造性を表していると筆者は考えられるが、それは実はよくあることであり、特に驚くに当たらないと思われるかもしれない。実際ある人のイメージを心に抱くことが出来、時にはこちらから語りかけ、向こうからも何らかのメッセージが伝わってくるように感じられる。そのような心の働きは精神分析ではいわゆる内的対象像として記載されるであろう。つまり内的対象とは実在する重要な人物を心の中に写し取ったイメージである。
 ところがICはある意味で新たに創造された対象であり、しかも当人が作り上げたという実感は伴わない。それはいつの間にか形成され、ひとりでに動き出して自主性や主体性を獲得しているのである。そしてここでもう一歩想像力を飛躍させる必要がある。ICが動き、語りかけてくるとき、その主体はどこにあるのか。それは結局はその子供の脳のどこかに存在するとしか想定しようがないころになろう。つまり一般人におけるICの存在は、私たちが複数の主体を脳内に持ちうることを明らかにしているのである。 


2026年6月4日木曜日

解離と自殺傾向について 1

  ちょっとした事情で(実は7月の北海道での学会発表)解離性障害と鬱症状及び自殺の危険について調べている。チャット君に選んでもらった7本の論文のまとめを読むと、ほぼ一貫しているのは、「解離と自殺未遂の関連は極めて強い」ということである。しかし私の発想は少し違った。解離は自殺が既遂に至る事への抑制因子ではないか?  なにしろこれまで書いてきた論文で、解離が生き延びるための価値 survival value を有するという考え方は、 広く受け入れられている、と書いてきたからだ。(Putnam, 1989) 一つの思考実験として、DIDを有する人が自殺に瀕している場合を考えてみよう。統計的なデータがないために思考実験に留まるしかないのだが、私の経験では自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で、かなり既遂自殺は少ないという実感がある。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかと思う。それは端的に言って、最初の危機的状況で解離が当人を救ってくれたからだ。自殺の瀬戸際にあるという第二の危機的な状況で解離が「生き延びるための価値」を発揮して、本人を救わないというのは理屈に合わないであろう。


2026年6月3日水曜日

ストレスとDID 推敲の推敲 4  

 相転移としての人格交代

 上でICの成立がいかに創造的で、しかも私たちの心の理解にとってほとんど解明されていないかについて論じた。しかし解離のもう一つの、そしておそらく最大の特徴は、人格状態間のスイッチングという現象にある。それは防衛機制について上で述べたOBEに深く関与しているが、さらにそれより一段高度でかつ創発性を含んだプロセスである。

 OBEの場合は一種の偽死反射になぞらえることが出来、動物がショック状態で起こす反応と類似のものとしてとらえた。既に下等生物である危機的な状態で何らかのスイッチが押されるかのようにドラスティックな心身の反応が生じる様子が見られるわけであるが、その場合心身の機能がシャットダウンするというニュアンスがある。それは以下に述べる迷走神経系の過活動状態として理解できる。しかし解離における人格状態の遷移はそれにとどまらず、もう一つの、時にはより活動的な人格状態の出現を伴うことが特徴である。

  この種の心の状態の急激な遷移についてはあまり類を見ない。癲癇発作のような神経学的な現象としては見られるものの、精神疾患では例えば躁転や急性の幻覚妄想状態がそれにある程度類似するくらいである。そして解離性の人格交代には躁転や急性の精神病の発症には見られないような極端な非連続性が見られる。そこにはそれまでの意識の連続性やそれに伴う記憶,知覚様式、運動機能、生理反応などが変換するのである。

 精神におけるこのような急激な遷移は自然現象にたとえるならば、いわゆる相転移に類似していると言えるだろう。相転移は物理現象としてよく知られ、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる現象である。氷の溶解や水の蒸発、磁石の磁性の転換などが代表例として挙げられる。
 私は解離性障害における人格のスイッチングをそのまま相転移として位置づけるつもりはないが、あくまでも現象としては類似しているということを強調したい。物理的な相転移においては水の相転移のように構成する分子間の結合の仕方が大きく変わるが、解離性の人格交代においても同様の事態を想定せざるを得ない。私はDIDの病理として各人格がダイナミックコアを占有し、それ自体がスイッチングを起こすというモデルを考えたが、同じ趣旨に従ったものである。

ポリヴェーガル理論を含んだ解離プロセスの理解

 最後にいわゆるポリヴェーガル理論の見地から解離における様々な現象について論じたい。私見ではこの理論を組み込むことで解離の現象をより整合的に理解することが出来ると考えるからである。
 上述の相転移現象としての解離の特徴はそれが心だけではなく、身体の変化を伴う点である。どうしてそのようなことが起きるのだろうか? それはおそらく自然界の掟と関係している。自分が捕食者の側に立つか、あるいはその餌食の立場なるかは一瞬で決まる。相手に襲いかかるか、そこから退散したり身を隠したりするという真逆の行動と取るかは、一瞬で決めなくてはならず、この瞬間的なモードチェンジは野生の世界においては死活問題なのだ。というより闘争と逃避の一瞬での切り替えが可能な個体がこれまで生き延びて来たというべきであろう。そしてそのスイッチングを巧みに説明するのが、このポリヴェーガル理論である。
 従来は各臓器は交感神経と副交感神経の両方が支配し、リラックス状態のときは副交感神経が働き、活動したりストレスがかかったりすると交感神経が働くというように、通常は拮抗した作用を示すと考えられてきた。しかし哺乳動物の迷走神経が、進化のプロセスの異なる2系統に分かれているという発見が、ポリヴェーガル理論の核心部分である。
 ポリヴェーガル理論では、周囲が安全安心を感じられる状況か、危険を感じる状況か、命の危険を感じる状況かで3系統の自律神経系が切り替わって環境に対応すると説明する。周りが安全安心を感じる状態のときは、哺乳類になってから獲得した「腹側迷走神経複合体」が働く。しかし周りからストレスがかかると、「戦うか逃げるか」に関わる「交感神経系」が働く。交感神経系は「闘うか逃げるか」のための神経といわれる。さらにそのストレス状況が高度になると、進化的に古い「背側迷走神経複合体」に切り替わり、いわゆる偽死反射のような現象が起きる。
 ポリヴェーガル理論の中でおそらく最も優れた点は、社会的な意味を成す腹側迷走神経複合体を想定したことである。これはトラウマモデルではなかなかで出こない視点としての愛着の部分の重要性、すなわち闘争・逃避だけでなく愛着形成をつかさどる社会脳の活性化を説明している。その中でもポージスのニューロセプションの概念は秀逸である。それが危機的状況での防衛反応としてだけではなく、愛着形成の可能な状況における愛着反応をも説明しているからだ。

最後に

<略>



2026年6月2日火曜日

ストレスとDID 推敲の推敲 3 

 創造の過程としてのイマジナリーコンパニオン

  心にあらかじめ別のアイデンティが形成されるという現象ははたして起きるのであろうか。そのヒントとなるのが、いわゆるイマジナリーコンパニオン (以下、 IC)の体験であろう。IC はイマジナリーフレンドとも呼ばれ、周囲の人には感じられないものの、本人にとっては実在していると感じられる「空想上の友だち」である。人間や動物、ぬいぐるみ、あるいは架空の生き物の姿をしており、当人は一緒に遊んだり会話をしたりする。ICは健常な子供に広く見られ、ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告されている。

Pearson D, Rouse H, Doswell S, Ainsworth C, Dawson O, Simms K, Edwards L, Faulconbridge J. Prevalence of imaginary companions in a normal child population. Child Care Health Dev. 2001 Jan;27(1):13-22.  

Huolman, M, Peltonen, M (2022) Dissociative features related to imaginary companions in the assessment of childhood adversity and dissociation: A pilot study, European Journal of Trauma & Dissociation,Volume 6, Issue 4.

 ICの存在自身はその子供の病理を反映するものではなく、基本的にはその子を助け、恐怖を和らげたり補助自我的な役割を演じる(Putnam, 1989)。その数は通常は二人以内で、ともにいて居心地の良い存在である。ただしDIDにおいてはその幼少時には通常よりより高い頻度で現れ(McLewin, LA, Muller, RT (2006)健康な発達に見られるICに比べてネガティブな要素を有し、その数も多く、本人の体をコントロールしたり行動を強制するといった性質が報告されている((Huolman, M, Peltonen, M (2022))。ともかくもICがこれほど多くの人々に見られるということは、このような解離のプロセスは大多数の人間にほとんどデフォルトとして備わっている能力と考えることは出来ないであろうか。

 このICの存在は解離という心の働きの驚くべき創造性を表していると考えられるが、それは一般人にはあまりピンと来ないかもしれない。心に誰かのイメージを抱くことは極めて自然で一般的なことと考えるのが普通かもしれない。そのような心の働きは精神分析ではいわゆる内的対象像として記載されるであろう。それはいわば「瞼の母」的な存在であり、その人のことをイメージで思い浮かべることが出来、時にはこちらから語りかけ、向こうからも何らかのメッセージが伝わってくるように感じるかもしれない。

 つまり内的対象とは実在する重要な人物を心の中に写し取ったイメージである。ところがICはある意味で創造された対象であり、ひとりでに動き出してある種の自主性や主体性を獲得しているのである。ICとしての縫いぐるみと会話をしたりするときは、それはあくまでもその縫いぐるみのキャラを持っているわけだ。絵本の「こんとあき」で言えば、「こん」は「こん」であり、実在するそれを心に思い浮かべているわけではない。

 ここでもう一歩想像力を飛躍させる必要がある。「こん」が動き、あることを語りかけてくるとき、その主体はどこにあるのか。それは結局は「あき」の脳の中にあるとしか想定しようがない。つまり「あき」の脳の中に「こん」の主体が宿っているのである!

もちろんこう言うとたちまち反発が来るであろう。「そんなことはないだろう。あきはこんの言いそうなことを想像して言わせているに過ぎない。だからこんの主体性など考える必要はないのだ」。しかし両者は明確に異なり、それはちょうど表象と知覚の区別に似た議論になる。例えばリンゴを思い浮かべる(表象)。そのリンゴを眺めまわしても、何ら驚く部分はないだろう。それはあなたが作り出したからであり、そのリンゴを回してみたら、そこに虫が食っていたのを発見して驚く、ということはあり得ない。しかし知覚像の場合には、自分の想定を裏切る側面を見せるのが特徴であり、それが知覚の他者性である。

 このように考えると、実はICは実に驚くべき現象であることがわかる。少なくとも解離性人格の存在に驚くのと似たレベルの驚きが伴っても不思議ではない。(もっと言うと夢を見るという現象も、実は驚くべきことである。そこには様々な他者が予想外の振る舞いを見せるからである。)


2026年6月1日月曜日

ストレスとDID 推敲の推敲 2  

解離は脆弱性か、それとも能力か?

 解離をトラウマに対する反応として、いわば防衛機制や防御反応としてとらえる場合、その発症機序はトラウマ理論でしばしば用いられるモデルにどれほど適合するのだろうか?いわゆる Stress-diathesis model(ストレス―脆弱性モデル、SDモデル)は、ストレス因に当人の脆弱性が関係して発症するというモデルだ。このモデルはその内容に多少なりとも変更は加えられているが、精神疾患の発症を説明する標準的な理論とされている。 

  しかし解離はこのモデルでは十分説明ができない可能性がある。上述の「生き延びる価値」の例として挙げたOBEは、言わば仮死状態になってその場をしのぐ仕組みである。これはその個体の闘争能力を一瞬にして奪い去るという意味では脆弱性としてとらえられなくもない。
 しかしすでに述べたように、実際の臨床場面で見られるのは、あたかもそのような状況に備えて、受け皿となるような人格がその人の中に準備されていたかのような印象を受けるケースである。臨床上しばしば見られるのは、本人を救う形で出現した人格に話を聞くと、かなり早くから基本人格を内側から眺め、必要に応じてそれを救出するかのような形で外に現れ、それ以降は基本人格になり替わってその人生の一部を営むという様子である。
 さらには人格交代の中には、危機的状況とは逆の、安全性が保たれた治療関係において生じるものがある。それが子供の人格の出現であり、治療者の様子を内側から伺い、場合によっては治療室内のぬいぐるみやクレヨンなどに反応して「遊びに」出てくるという様子が見られる。このような交代人格の表れは、それを当人の脆弱性と理解することは難しく、また上述のストレス―脆弱性モデルに当てはまるとは言えないであろう。