2024年1月31日水曜日

連載エッセイ 12の6

 また最初に戻る

 今回はこのエッセイの最終回であるが、テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載のタイトルは「脳科学と臨床心理」となっているが、それは私が研究者ではなく臨床家として脳科学について語ることを目的としていた。というのも脳の話は人の心を理解する上で非常に役に立つからなのである。つまり私は純粋に脳科学に興味があるというよりは、それが「だから心ってこういう風に動くんだ!」という気付きを与えてくれることがとてもありがたく感じ、だからこそそれを読者に語りたくなるのである。

 しかし毎回脳の話をしながら、それが心理療法やカウンセリングの場面でどの様に応用すべきかについても論じることは容易ではない。あるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまうのである。

 だからこの連載中、「タイトルと違って心理臨床について述べていないではないか!」という批判を常に覚悟していた。編集の方から特にその様なクレイムが来ているという話は聞いてはいないが、当然そのようなお叱りを受けるとしても当然である。そこでこの最後の章は「臨床家にとっての脳科学とは何か?」という話題についてもっぱら論じたい。(ちなみにここでいう臨床家には、患者やクライエントの話を聞く立場の医師や心理士等を指すことにする。)

 ただしこの問題についてのテーマも数限りなくあるため、だいたい3つのトピックに絞って論じることにする。


脳を知ることはクライエントの訴えをより深く知ることの助けとなる

 まず最初に言いたいこと、それは脳を知ることが患者の話を聞く姿勢に大きな影響を与えるという事である。私達は他人がある体験を話す時、それをにわかには信じがたいと思うことが多い。臨床家なら多少覚悟をしているから、話を最初から疑って聞くことは少ないが、それでも「えっ、本当に?」という素の反応を心のどこかでしていることが多い。

 例えばある人が誰もいないはずの部屋の中で人の姿を見たと報告する。おそらくいわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるはずなどないだろう」と考えがちだ。(精神科の患者さんの話を聞くことの多い読者なら、このような話には慣れているだろうが、ここは予備知識のない人が家族から初めてその様な話を聞いたつもりになっていただきたい。もちろん自分にもそのような経験はないとしよう。すると「ほんとに?気のせいじゃない?」と尋ね返したくなるだろう。「あなたの思い込みじゃないの?」と返すかもしれない。「最近少し疲れがたまっているんじゃないの?」もあるだろう。恐らく家族が幻覚だか心霊現象だかを体験したと思いたくないという気持ちも働き、私達は一生懸命その様な話を否認しようとするのだ。部屋の中での人影ならまだしも、「きのうの晩、近くの公園でUFOを見た」などという話を聞いたら、99%以上はこのような反応になるだろう。

 ここで私達の口から出る「気のせいじゃない?」とはどういう意味だろうか? それは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だろう。また「思い込みじゃないの」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。「人騒がせなことを言うな!」という気持ちが透けて見える。

 ここまで極端ではないにしても、私達臨床家は一般に患者さんの訴えに関してそれを疑いの目で見やすい。思い込み、気のせいという風に決めてかかる部分がどこかにある。そう思わざるを得ない例は数多く経験しているし、私自身の同じような傾向も感じる。特にその患者さんに何らかの理由で煩わされていると感じている場合にはその傾向が強くなってしまう。しかしこの「症状は自作自演」という発想は、残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。

 しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して「当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え」(Carter, et al, 2015))、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。ここで彼のいう精神分析的な考えとは恐らく、「幻視はその人が持っている無意識的な願望の表れである」という、上述の自作自演的な考え方であろう。de Morsier 先生はそれに反対し、てんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。そしてそれは現代にも引き継がれ、その理論の信憑性は脳科学的な研究で再認されているという。

Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.


2024年1月30日火曜日

連載エッセイ 12の5

  心は脳からの発信が最初でも、それを自分の主体性から発したものと勘違いするという性質を持っている。私達の能動性の感覚は、それ自体が脳の性質の産物という事が出来る。  意識についてのエッセイという論文で、私は「主観性の錯覚の兆すところ」という項目を設けて以下のように書いた。

前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。それはニューラルネットワークそれ自体が自律性を有している事を意味し、私たちの脳はいわば自動操舵状態なのである。私たちの意識はそれを上から監視している状態と言える。逆に言えば、脳が全く問題なく安全運転を行っている場合は、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。ただし前野氏によれば、監視しているという能動感自体も錯覚であることになる。この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という錯覚ないしは幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それをエピソードとして記憶にとどめ、重大な問題が生じたときに随時想起、参照するためなのだ。脳は意識的な行動をその様な重要案件のために取っておき、それ以外は自動操舵できるようなシステムを有していることが明らかになっている。


治療とは反復と新しい経験の弁証法である


 上述のことを現在の精神分析における一つの考え方と照らし合わせたい。それはI.Hoffman が示す次のような定式である。

「治療とは反復と新しい経験の弁証法である」

 そしてこの治療プロセスについて最も重要な概念としてエナクトメントの理解とその活用についても述べたい。

  治療とは常にそこで起きていることの意味を考えることだが、これは実は以前から言われている「ヒア・アンド・ナウ」のことである。そして新しい体験が生まれ、それが左脳の検討を介して両者に受け入れられること、それにより言語化されることが重要なのである。

 治療とは反復である、という原則はフロイトに端を発する。彼は「想起、反復、徹底操作」という論文の中で患者は「想起する代わりに反復する」という原則を提示した。それは患者が過去に体験したことを思い出す代わりに繰り返し行動化するという事である。この考えは転移という概念に最も如実に表れていると言っていいだろう。すなわちフロイトの理論では反復=行動化=転移であり、それは記憶を想起して言語化することと対置的にあるという考えだ。この考え方は抑圧という概念と表裏一体だ。抑圧されているものが意識化される時には変形を被っている。しかしそこには主として象徴化という働きが起きているから、表に現れる行動や反復に含まれた意味を推察、解釈することができる ・・・・・・・・ とフロイトは考えた。

 さて現代の脳科学に基づく心の理解に従うと、先ほどの「随伴現象説」の意味するところは臨床家はそれを常に加味しなくてはならない。意識化したくないことを(ある意味では意図的に)抑圧するというプロセスそのものがある種の心の能動性を前提としている。しかし実は心は本来受動的でしかない。すると治療状況において起きたこと(エナクトメント)についてそれを素材として常に反省の対象とすることが重要になる。しかもそれは「背後の意味を探る」という事に限定されない。むしろそれが両者にどのようなインパクト与えたか、という未来志向的な考え方に繋がらなくてはならない。

少し具体的な例があったほうがいいであろう。

 患者がセッションに遅刻をして現れる。治療時間として設定された50分のうちすでに10分が経過した時点での開始である。患者は特にそれについて 遅刻を認める短い言葉を発しただけで悪びれる様子もなく、いつもの様にセッションを開始しようとする。それに対して治療者は治療を軽視されたという気持ちになる。

 私たちは能動性という錯覚に浸りきっているから、あらゆる行動に背後にある能動性を読み込む性質がある。すると10分遅れてやってくるという行動にも背後に意図を読み取る傾向にある。

ここでややこしいのは、10分遅れてセッションに到着するという行動を起こした患者さん自身によっても、それは自分がそう選択したものであるという方向へのバイアスがかかっている。「私は結局は意図的に遅れたのかもしれない」。電車の遅延などのよほど明確な外的な事情がある場合を除いては、「あなたは治療に来ることに積極的ではなかったのですね」と仮に治療者に指摘されたとした場合に、それを自分自身でなぞることさえありうる。すると今度はそれに対する反動が生じて「どうしてそんな失礼な指摘をするのでしょう!」という反応が起きてもおかしくない。

しかし人間の行動はかなり恣意的で偶発的である。セッションの到着のように、本来は何時に訪れても自由である場合(セッションに対する支払いは遅刻などに関わらず一定であるため)、人は時には遅れてやってくることも、早めに到着することもある。その様な揺らぎは常に存在するのだ。そうではなく絶対に遅れてはいけない予定の場合(例えば治療者にとってのセッション開始の時点での到着の様に)、その揺らぎの要素を失くすべく様々な注意を払うものである。

 ただしこのような書き方をすると次のような反論を受けそうである。「では本当に治療に行きたくないという気持ちがあったので遅刻する、という事はないというわけですか?」もちろんそれは生じうる。ソマティックマーカー仮説を御存じだろう。セッションに行くことを予知した時に、体がそれに抵抗を示す。結果として出かけることへの抑制がかかる、と言う機序は生じていたかもしれない。そしてこれもまた脳が最初に動いていると言えるだろう。その意味ではこのような機序が介在していたとしても、やはり「随伴現象説」に帰着させることができるのである。

 結局随伴現象説は、心の因果関係(と私達が呼んでいるもの)の全否定ではなく、ただそれは決して万能ではないという警告となっているという事だ。


2024年1月29日月曜日

連載エッセイ 12の4

 脳科学が示す非決定論的な心の世界


 精神療法の流派は様々であるが、基本的に決定論的な心の理論をベースにしていると考えて差し支えない。それは基本的にはフロイトの無意識の概念に根差す。無意識が症状を、ジョークを、自由連想を、夢を、転移状況を構成する。という事は例えば症状には意味があるというわけである。しかし第5回目で見た脳科学的な心の在り方の原則を思い出していただきたい。それは意識はあくまでも「随伴現象」であるということだ。つまり脳が先で、意識はそれによって引き起こされるのだ。私達の主体性や自由意志の感覚でさえも。

連載第5回からの以下の引用の内容を思い出していただきたい。

 「随伴現象説 epiphenomenalism」とは、心は脳の随伴現象であるという立場をさす。つまり脳における現象の結果として心が生じると考えるのだ。 (中略) しかしこのように言うと次のような質問を受けるかもしれない。

「心が自由意志を用いて『こうしよう!』と思ったら、脳がそれについてくる、という順番は考えられないのですか?つまり脳が心に随伴するという可能性です。」 

たしかにこのような発想も成り立つかも知れない。これは上記の意味での随伴現象説と全く逆の現象の可能性を考える立場だ。そして一昔前なら私たちはその可能性を否定する根拠を持っていなかった。しかし現代の私たちは、この心→脳という方向性の因果関係は成立しないということを知ってしまっている。それがベンジャミン・リベットによって提起された「自由意志と0.5秒問題」なのである。そしてこの発見により、結局は「心は常に脳の変化の後についてくる」という事実を私たちは受け入れざるを得なくなったのだ。つまり私たちが自由意思に従って何かを行ったとしても、その少なくとも0.5秒前に脳がその準備をしているということが明らかになっているのである。

 さてこの事実を精神療法に応用しようとすると、極めて難しい問題が生じることが分かる。なぜなら脳科学的には「人間に自由意志はない」とわかっていても、私達は自由意志にもとずく決定論的な心の理論に従うことなく治療を行なうことは極めて困難なのだ。例えば私たちが患者に共感の気持ちを伝える時も、それが心からのものであることを前提とするだろう。それが「authenticity 真正さ」の感覚を生む。治療者が「脳の指令を受けたからではなく、主体的、自発的に心からそう感じている」という感覚を互いに共有するのだ。その前提なしには何も治療者―患者の間で共有できないとさえ言えるのではないだろうか。 

 それでもあえて随伴現象説を念頭にして治療を行うとしたら、一つの重要な心構えが要請されることになる。それは患者さんの言動はしばしば偶発的、創造的、という事だ。そしてもちろん治療者である私達にも同じことが言える。この偶発的、という事は新しい、と言い代えてもいいし、「でたらめ」と言ってもいい。不可知的であるとも言える。しかしやはり聞こえがいいのは「偶発的」なのでこれで行こう。英語で言えば serendipitous である。


2024年1月28日日曜日

連載エッセイ 12の13

 精神療法とは、治療者と患者の脳の「相互ディープラーニング」である

 

 脳を知ることは患者の訴えに信憑性を与えてくれること、と言うのが第一の論点であった。しかしこのことは脳科学的な知見を精神療法に直接役立てることにはつながらない。そこで脳科学的な知見が、私達の治療者としての考え方にどのように大きなインパクトを与えるかについて述べたい。

 私が脳科学の話とニューラルネットワークの話を同時並行で始めたのは、私たちの脳科学的な知見がコンピューターサイエンス、特にいわゆる「生成AI」との間に類似関係があることを強調したかったからである。

 そもそもニューラルネットワークモデルの原型は、神経細胞と神経線維の連結を模して造られたものだ。それは入力層と隠れ層、出力層の三層構造をなし、それぞれに10個程度の神経細胞を模した素子を配置するといった構造を持っていた。そしてどのような入力を行い、その出力をどのように調節するかという研究の一方では、隠れ層や素子の数を増やしてその性能を上げていくことが行われた。それはコンピューターの性能の向上とともに加速度的に複雑になり、隠れ層も1000層にもなり、素子も数千を越えるようになった。しかしそれでもニューラルネットワークが脳に比肩するような性能を得るようになることを想像する人は少なかった。なぜならほんの十数年前のコンピューターはとても人との自然な会話など成り立たず、だからアルファ碁が2015年に人間の名人を軽く打ち負かし、ChatGTPが人と変わらぬ文章を構成するようになったことは、多くの人にとって驚きだった。

 しかしそのような進歩を遂げたことで見えてきたのは、ディープラーニングが人間の活動に模した学習方法をとったことがうまくいったという事である。(と少なくとも私は考える。)

 ディープラーニングが高度の知能を獲得したのは、間断のない自己学習をさせ、それこそアルファー碁なら自分自身で高速で毎日何万、何十万(あるいはもっと多いかもしれない)と行った結果、驚異的な進化を遂げたのである。

 ここでディープラーニングの行った自己学習がなぜ人間の活動を模しているかと言えば、人間の中枢神経そのものが巨大なニューラルネットワークであり、出生直後から、あるいは胎児のころから知覚を通して伝えられる様々な刺激のインプットに対して体の動きや言語表現というアウトプットを行い、恐らくはそれが快や不快というインセンティブを媒介して自己学習を行うシステムだからだ。

 このように考えれば、人の活動は環境とのかかわり(そしておそらく精神内界とのかかわりも含め)はことごとく自己学習であることがわかる。そしてもちろん対人交流は相互ディープラーニングという事になる。



2024年1月27日土曜日

連載エッセイ 12の11

 4.脳の表面では神経ダーウィニズム(G.Edelman)が支配する


 ● 治療とは治療者患者間の「相互ディープラーニング」である

この章ではAIにより形成される心を【心】と表現することにした回であった。そして心は以下の法則に従って動くとした。

1.脳の基本的なあり方は揺らぎである。

2.ネットワークの結晶が一つの具体的な体験を構成する。

3.分かる、とはネットワーク間の新たな結びつきの形成である。

4.脳の表面ではダーウィニズムが支配する


 このことは臨床上の一つの重要な認識を導く。それは一回ごとの治療者‐患者のあいだに起きていることは一回限りであるという事だ。それはたとえ同様の出来事が繰り返されるように見えても、それ以前の出来事と同一ではない。

 ただし前回の出来事と全く違うわけでもない。そしてここ に Hoffman の言う弁証法的な考え方が重要となる。曰く治療における出来事は、従来の繰り返し(≒転移)という側面と新たな新規な側面とを必ず併せ持つという事だ。(体験とは反復と新規性の弁証法である。)

この新しい側面というのは非常に重要であり、3の新たな結びつきという点とも通じる。それはその体験が本当の意味で患者にインパクトを与えるために必要な点である。例えば父親に対する怒りを持つ患者が治療者に対していわゆる父親転移を起こすとしよう。そして治療者に対して怒りを表現したとする。そして治療者はそれは父親に対する怒りの転移であるという解釈を行う。

いかにも精神分析的なシナリオであるが、これは父親に対する怒りに満ちた記憶や感情というネットワークと、治療者に対する記憶や感情というネットワークに対する結びつきが水面下で、ないしは間接的には出来上がっており、それが意識化されるという事でさらに強固な複合的ネットワークとして成立する現象である。そしてそれ自体が様々な影響を脳のその他のネットワークに及ぼすという現象だ。

 このようにして治療者のネットワークと患者のネットワークは相互が影響を与え合い、一種の「相互ディープラーニング」を行っているということが出来るであろう。脳がニューラルネットワークをその本質部分として有している場合、対人関係において生じるのはそのような現象として考えざるを得ないのである。


2024年1月26日金曜日

連載エッセイ 12の10

 第3回 ニューラルネットワークとディープラーニング

ここに書かれたことのかなりの部分は、心理士へのメッセージとも言える。

一部を抜粋しよう。

近未来の【心】を夢想する 

将来私たち一人が一つずつ、カスタマイズされたAIを有することになるだろう。それは実際に人の形をしているかもしれないし、パソコンやタブレットの中に現れる二次元のイメージかもしれない。しかしそれなりの姿かたちや性質を持ち、それを私たちは普通の心と錯覚するだろう。

例えば精神分析家ならフロイト先生のAIを持ちたいと思うかもしれない。私はそれを「フロイトロイド」と命名し、ロボットのような姿をにさせたい。フロイトロイドは私にとっての治療者でもあり、スーパーバイザーでもある。それはフロイトの著作集、伝記、フロイト関連のあらゆる情報を網羅したデータベースを備えている。そして臨床的な質問に答えるだろう。

「フロイト先生、私はこんなケースを担当することになりました。どのように診断し、理解したらいいでしょう?」と言ってそのケースのプロフィールについて説明し、ついでにいくつかの夢もインプットして答えを待つ。あるいはもっと直接的な質問をしてもいいかもしれない。「フロイト先生、私は××のような問題に悩んでいます。どうしたらいいでしょう?」

フロイトロイド先生のいいところはたとえ夜中に突然話しかけても、何時間連続して働いてもらっても、決して疲れないことだ。彼には【心】はあっても心はないことを前提としているからだ。もし万が一心を持ってしまっても大丈夫である。背中に「心オフ」ボタンも装備しているからだ。もっともフロイトロイド先生自身は、こちらが問いかけない限りは受け身的で中立的で、やたらとこちらに「自由連想」を求めるという癖が備わっているのだが。

というわけで私はこの空想上のフロイトロイド先生にかなり満足をしている。フロイトロイド先生は衰え知らずで、老化知らずである。でも読者の中には「でも感情を持たず、本当の心を持たないフロイトロイド先生の話を信頼して聞くことが出来ますか?」

それに対する私の答えはこうだ。

「でももう一つのボタンを用意しているのです。それはフロイトロイド先生があたかも本当の心を持ち、感情や良心が備わっているような受け答えをするというボタンです。それをオンにします。」


こんな話を書いたのだが、昨日見たユウチューブの動画はGPT-5というのを紹介していた。それによると、GPT-5はカスタマイズ性と個人化の面で大きな進歩を遂げると予想されているという。つまりユーザーの好みや個人的な情報が蓄積され、まさにその人のためにカスタマイズされたマシンとなる。これってフロイトロイドの機能にかなり近くなってはいないだろうか?

 そこで私は自らにこう言わなくてはならない。「私達はしっかりしなくてはいけない。さもないとフロイトロイドに負けてしまうかもしれないから。」

 もちろん心があるかのようにふるまうAIロボットに私たちの座を奪われることなどありえないと思うかもしれない。しかし本当にそうだろうか?

いつかどこかでかいたことだが、私はチャットGPTとのやり取りでホッとしたことがある。私が彼の回答の一つにクレイムを付けた時、彼はこう返事をしてきたのだ。「申し訳ありません。確かにそのデータを計算に入れていませんでした…」。私はこの素直さ、潔さに、たとえ心が伴っていなくても癒される思いがした。人間はプライドがあり、簡単に間違えを受け入れたり謝罪したり出来ないからだ。



2024年1月25日木曜日

脳科学から見た子供の心の臨床 (1)

小児精神神経学会での講演、論文で提出せよ、とのことである。トホホ。

 はじめに

 近年愛着期において母子間で起きている現象を脳科学的に捉えることが可能になっている。特に子供の右脳の機能及び母子間の右脳どうしの関わりについての知見は、その後の精神発達及びその問題について大きな示唆を与えてくれる。本発表では、脳科学的な見地からの愛着理論は、精神分析的な愛着理論、特にウィニコットの理論の先駆性を見ることができること、そしてその臨床への応用が可能であるという点について論じたい。

 まず前提として述べておきたいのは、近年の愛着理論への注目は、トラウマ理論の発展・深化と深く結びついていたということである。1970年代に始まったPTSDに関連したトラウマ理論は、トラウマをいわば「記憶の病理」と捉えていたが、その際はトラウマに関する記憶は海馬の成熟を前提としていたことになる。ところが近年問題になっているのは、言葉や記憶が生まれる以前の愛着の時期に生じたトラウマである。その時期のトラウマは深刻であるにもかかわらず、最近までトラウマの文脈では語られなかったのである。愛着障害の二種(反応性愛着障害、脱抑制型対人交流障害)がトラウマ関連障害に含まれるようになったのは、2013年に発刊されたDSM-5以降であることを思い出したい。

 このような動きに大きな貢献をしたのが、「愛着トラウマ」という概念を提唱したアラン・ショアであるが、実はこの問題の先鞭をつけたのは、ウィニコット以外にも前世紀の前半に登場したルネ・スピッツやジョン・ボウルビイである。そして精神分析の造詣も深いショアの業績は、これらの分析理論と脳科学を直接結びつける事となったのである。

 

愛着理論の先駆者としてのウィニコット


 ここで精神分析家であるウィニコットがなぜ愛着理論の先駆けとなっていたのか、と不思議に思う向きもあろう。そもそも精神分析の祖であるフロイトは愛着の問題にはあまり言及せず、エディプス期以降の人間の心を欲動論的に論じた。そしてエディプス期以前の前エディプス期や愛着段階についての考察は後の分析家たちに委ねられたのである。しかしウィニコットは分析家ではあっても、フロイトとは全く対照的な志向性を持った臨床家であった。彼の関心の対象は明確に、人生の最早期に向けられていたのである。それは以下のような彼の主張にも表れている。

「満足な早期の体験を持てたことが転移により発見されるような患者[神経症の患者]と、最早期の体験があまりに欠損していたり歪曲されていいた患者[精神病、ボーダーラインの患者]を区別しなくてはならない。分析家は後者には、環境におけるいくつかの必須なものを人生で最初に提供するような人間とならなくてはならない。」([]内は岡野の注釈。)

 Winnicott, Hate in the Countertransference,international Journal of Psycho-Analysis, 1949;30:69-74.

つまりフロイトが治療の対象とした神経症圏の患者と異なり、ウィニコットは早期の愛着関係における母子関係においてトラウマを体験した患者たちに関心を向けていたのである。

 このフロイトとウィニコットの人間の心に関する関心の違いはどこから来るのかはわからない。私の考えでは、神経症においてはその成因には極めて複雑な神経学的なプロセスが絡んでいる可能性があるのに対し、愛着期のトラウマと精神病理との関係は比較的観察しやすいという事情が関連しているからではないかと思う。そしてそこで大切なのは臨床的な観察眼であり、そして思えばウィニコットのこの時の慧眼は現在の脳科学的な研究をはるかに先取りする域に達していたということが出来るであろう。

 そこでウィニコットが考えていた最早期のトラウマとはどのようなものであったかを考えよう。注目すべきは彼が、乳児の絶対的依存の段階において「母親の防護障壁としての役割が侵害されること」をトラウマと定義づけたということである。それはのちに弟子のカーン M.Khan(1963) が累積外傷 Cumulative Trauma として概念化したものであった。そのカーンが言ったように、その防護壁とは、結局母親の世話であるという。ではウィニコットはその段階で何をトラウマと考えたのであろうか。彼はそれを「母親の鏡の役割」と表現した。を強調し、それが損なわれることがトラウマであると考えた。

 以下にウィニコットの「「遊ぶことと現実」に「母親の鏡としての役割」(Winnicott, 1971)における論述を追ってみよう。彼によると、乳児は促進的な環境により、抱えること holding 、次に取り扱うこと handling、そして対象を提供することobject-presenting を提供されることを通じて発達していく。その中でも最初期の抱えること holding により支えられている絶対的な依存においては、母親は補助的な自我機能を提供し、そこでは赤ん坊は me と not-me は区別されない。その区別は me の確立なしにはできないのだ。 

Winnicott, DW.(1971)Mirror-role of Mother and Family in Child Development. in Playing and Reality.

「(乳児が自分を見出す)鏡の前駆体は母親の顔である。・・・しかしラカンの「鏡像段階」は母親の顔との関係を考慮していなかった。」(p.111)

「最初は乳児は母親に抱えられて全能感を体験するが、対象はまだ自分から分かれていない。」

この論文が当時ラカンにより書かれた鏡像段階に関する論文を意識して書かれたものであるという点は興味深い。(そしてラカンの関心の方向性との違いもまた面白い。)そこでウィニコットはちょっと謎めいたことを言っている。それは母親は乳児を映し出す、という事だ。

「乳児は母親の顔に何を見出すのか?それは乳児自身なのである。母親が乳児を見つめている時、母親がどの様に見えるかは、彼女がそこに何を見ているかに関係するのだ。」(p.112)

ウィニコットは続けて言う。

「私の症例では、母親は自分の気分を、さらには自分の硬直した防衛をその顔に反映させる。」「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ないのだ。」(p.112)

 この概念は分かりづらいが、それは彼が言葉や記憶以前の世界を描いているからであったと考えられる。そして母親が子供を、ではなく自分をそこに映している、という言い方である。これはちょうど精神分析において治療者が患者からの転移を解釈するのではなく、自分の個人的な感情を反映させて逆転移のアクティングアウトを示してしまうような場合になぞらえれば理解しやすいであろう。

 このウィニコットの提起したこの「母親の鏡の役割」の重要性は、愛着理論における情動調律やメンタライゼーション理論に継承された。例えば発達論者は養育者によるミラーリング(乳児の情緒をまねること)は子供の自己発達において鍵となる(Fonagy, ら p.81.)。(Meltzoff, Schneider-Rosen, Mitchell,Kohut, Winnicott)

ところでこのウィニコットの考えは、その後分析家ピーター・フォナギーなどに引き継がれている。今回の学会のメインテーマは「愛着とメンタライゼーション」となっているが、フォナギーこそが精神分析と脳科学を融合した人物(のひとり)だったわけである。そして彼はウィニコットが言った情動のミラーリングの障害を、より詳細なプロセスで論じている。彼は母親の情動のミラーリングの障害を分類した。

(1)子供の陰性情動に圧倒された母親がそれを消化せずにそのまま表情に表す場合・・・乳児はそれを母親から切り離して自分のものとすることが出来ず、他者に属するものとみなす。こうして情動の調節は行われずにトラウマが生じる。 

(2)母親が乳児の情動を(例えば陽性情動を攻撃性と)読み違えると、乳児はそれを取り入れて「偽りの自己イメージ」(よそ者的自己) を作り上げる。

この(1)がウィニコットの述べた「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ない」という体験に相当すると考えられる。


2024年1月24日水曜日

連載エッセイ 12の9

 2.ニューラルネットワークとは?

 この章の内容は、文系出身でもっぱら臨床をなさっている心理士さん達にはかなりとっつきにくかったかもしれない。たとえばA国について知りたかったのに、いきなりA国の細かい地図を広げられて「要するにA国とはこれに尽きます!」と言われた感じではないだろうか? もちろんその地図の詳細にズームインしていくと、そこの町や村の様子が見えてきて、もっと拡大すると人の動いている姿が映されるかもしれない。いわゆる「地図オタ」の方なら細かな地図を眺めて様々な空想を膨らませ、何時間でも眺めているかもしれない。それは実は脳科学を少しばかりかじった私自身にとっても同じなのだ。  私が注目して欲しいのは文中に示したケンブリッジ大学の神経科学者であるスリバス・チェヌの研究に現れる図である。

グラフ が含まれている画像

自動的に生成された説明

この図は視覚的にある事実を訴えている。意識がボーっとしている時、脳の形成するニューラルネットワークはその一部がポヨポヨと活動しているに過ぎない。何かうわ言のようなことをつぶやいているだけかもしれないし、ほとんど眠っただけかもしれない。人は昏睡状態でも脳派活動は見られるため、ある種のネットワークの活動は起きているはずである。しかし心が十分に機能しているとは、この真ん中の図のように、それが全体的に活性化され、しかもそれがてんかん発作で見られるであろうように過剰な活動であってはならない。私達が患者さんの心に目差すのは最終的にはこのようなグローバルで全体に行き届いた活動である。このような活動はいわゆるデフォルトモードネットワークに近いが、そこではある思考がその他の思考や記憶の間に比較的容易に連絡を取ることができる。それはネットワーク全体が「温まって」いるからである。

精神分析でいう自由連想は、恐らくこのようなネットワークの広がりの中で心を遊ばせることであろうと考える。そこで「~をしてはならない」「∼は恥ずかしいから言えない」というような制限がなるべく加えられないような状態である。そしてもっと言えば、患者のネットワークと治療者のネットワークは繋がっていてしかるべきなのである。それを思い起こさせるような図もここにもう一度示したい。


2024年1月23日火曜日

連載エッセイ 12の8

一回ごとに書いてみよう。 

1.私には脳科学はうさん臭かった

 この最初の回では、私は最初は脳科学を軽視していたと述べた。その私を変えてくれたのは、脳科学を特別視しないという米国の精神医学の風潮であった。どこかにも書いたが、彼らは一般人でも chemical imbalance という言い方を日常的に使う。例えばある人が「最近インフルに罹って抗ウイルス剤のタミフルを飲んでいたら、気持ちが落ち込んできたんだ」と友人に話して、「どうしたの?タミフルと落ち込みと関係があるの?」と聞かれたら、「よく分からないけれど、何か薬でケミカルインバランスが起きたらしいんだ。」「フーン・・・・」という会話があるとする。

 ここでいうケミカルインバランスのニュアンスは、「脳での化学物質の異常な働き」という感じであり、要するに心理的な問題ではない、という事を言っている。こころの不調で思い当たる原因がない場合に、私達は「なんとなく」とか「気のせいで」と考えるが、彼らは脳の物質レベルでの異常を考えるのだ。これはある意味では私たちのかなり先を行っていることになる。精神の障害をその人のせいにせず、物質的な基盤に原因を求めるというのは、きわめて「脳科学的」なのだ。

 そのせいもあってか、米国で出会った精神医療に携わる人たちは、驚くほどに薬物や脳に対する知識欲が高かった。心理士も看護師もソーシャルワーカーも、かなり詳しい知識を有していて、それを前提にして医師に質問を投げかけてくる。思春期病棟に勤めていたところ、ある若い患者さんの衝動をコントロールする目的で、リスパダールを0.5㎎処方してみたら、すぐに担当の心理士から「あの子にメジャートランキライザーを使うなんて、どういうことなの?」と質問が飛んできた。私はそれらの質問に納得のいくような答えを用意しておかなくてはならないのだ。日本に居たらとても考えられないことだ。

 精神科医として働くためには脳についての質問に答える用意をする必要のある、つまり「説明責任 accountability」 を常に求められる米国に比べ、日本はまるでぬるま湯、という気がする。アメリカでは薬のプロパーさんが日替わりで新薬の説明にクリニックにやって来ていた。ランチを提供してくれるので、私達は毎日のように昼になると地下のホールに出向いたものだ。このことは結構大きな影響を与えてくれた気がする。


2024年1月22日月曜日

連載エッセイ 12の7

 今回はこの連載エッセイの最終回である。テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載のタイトルは「脳科学と臨床心理」となっているが、それは私自身が臨床家であり、脳の話は人の心を考えてそれを臨床に応用する上で非常に役に立つと思っているからだ。純粋に脳科学に興味があるというよりは、それが「だから心ってこういう風に動くんだ!」という気付きを与えてくれるからこそそれを読者に語りたくなるのである。  しかし脳の話をしながら、カウンセリングの場面でどの様にそれを応用すべきかについての話題に移ることは実際は容易ではない。というよりはあるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまう。だからこの連載中、「タイトルと違って心理臨床について述べていないではないか!」という批判を常に覚悟していた。編集の方から特にその様なクレイムが来ているという話は聞いてはいないが、当然そのようなお叱りを受けるとしても当然である。そこでこの最後の章は「臨床家にとっての脳科学とは?」という話題についてもっぱら論じたい。(ちなみにここでいう臨床家には、患者やクライエントの話を聞く立場の医師や心理士等を指すことにする。)  ところで繰り返すが、私は脳科学の専門家ではない。精神科医、精神分析家という立場の臨床家である。そして私は自分が勉強する脳科学について臨床家に伝える通訳のような立場だと思っている。それだけ臨床家として脳科学的な知識を得てよかったと思うことが多いからなのだ。  では脳科学的な知識の何がありがたいのか。それはその様な知識は大抵「昔から、患者さんのいう事は正しかったのだ」という事を納得させてくれるからである。  私達は他人がある体験を話す時、それをにわかには信じがたいと思うことが多い。臨床家なら多少覚悟をしているから、話を最初から疑って聞くことは少ないが、それでも「えっ、本当に?」という素の反応を心のどこかでしていることが多い。  例えばある人が誰もいないはずの家の中で人の姿を見たと報告する。おそらくいわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるはずなどないだろう」と考えがちだ。患者さんの話ならその話をそのまま受け取る傾向があるだろうが、もし家族の一人にそのように報告されたら「ほんとに?気のせいじゃない?」と尋ね返したくなるだろう。「あなたの思い込みじゃないの?」と返すかもしれない。恐らく家族が幻覚を体験したと思いたくないという力も働くだろう。そして臨床を経験していない一般の人ならなおさらそのような傾向があるであろう。  ここで「気のせい」というのは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だ。そしてこの「思い込み」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。「人騒がせなことを言うな!」という感じだ。  私達は一般に患者さんの訴えに関してそれを思い込み、気のせいという風に決めつける傾向があるのだ。そしてそれは私たちの中の、その話を真剣に受け止めることへの抵抗が隠されているだろう。幻聴は何か深刻な病気を思わせる。それが家族の誰かにより経験されていることを信じたくないだろう。それにそのような在りそうもない話を聞くことで自分の心がざわつくという事もあるかもしれない。「面倒くさいことを言わないでくれ」というわけだ。  この症状は自作自演、という発想は、残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。(いかんいかん、またフロイト批判になってしまいそうだ。)  しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。ここで彼のいう精神分析的な考えとは恐らく、「幻視はその人が持っている無意識的な願望の表れである」という、上述の自作自演的な考え方であろう。de Morsier 先生はそれに反対し、てんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。そしてそれは現代にも引き継がれ、その理論の信憑性は脳科学的な研究で再認されているという。(Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.)

 最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患で、ある共通したことが起きるという。それは大脳皮質と視床との間のやり取りの異常な昂進であり、あたかも実際の視覚体験により生じる大脳皮質と視床とのやり取りと同じことがなぜか生じているという。だから実際に、本当に何かを見ている、という感覚が生まれるというわけである。これは少なくとも「気のせい」のレベルの問題ではない。

  フロイトは分析家である私にとってのヒーローだがからあまり悪く言いたくないが、心理療法の先駆けとなったフロイトの精神分析は、「患者の訴えを真に受けない」という姿勢の先駆けになったという所がある。それはそうだろう、患者の表面的な言葉には、しかし脳科学的な知見は、患者の訴えには十分根拠があったという事ばかりを教えてくれている気がする。

 最近の研究では、本連載の後半に私が扱った精神障害、例えば解離性障害、嗜癖、トラウマ関連障害等に関する脳科学の知見が教えてくれることは決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさず、それは本人の意志が弱いのではないか、甘えているのではないか、という気持ちを起こさせるが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その訴えの深刻さをより理解できるようになるということである。

「体に悪いと思っているお酒をどうしても止められないんです」(依存症)

「違う場面で違う人と会っていると、別々の人格が出てしまう」(解離性障害)

「誰もそこにいないのは分かっているのに、人の姿がありありと見えてしまうのです。」(解離、精神病、薬物などによる幻視体験)


2024年1月21日日曜日

連載エッセイ 12の6

 ニューラルネットワークの個人差と誰にでも眠る「プチサバン」の可能性

 この連載では発達障害についてあまり取り上げなかったが、自閉症スペクトラム障害(以下ASD)と言われる状態は脳科学的に見ても非常に興味深い。特に彼らの一部が見せる「サバン傾向」は、脳科学の深遠さを伝えてくれる。「誰でもサバンになれるポテンシャルを持っている」というとしたらそれは極端であるが、「問題はそれに抑制がかかっていることかも知れない」という発想は素敵だ。私たちはさまざまな能力を、独創的な発想を、創造性を、恥ずかしさや後ろめたさや不安のためにがんじがらめに縛りつけて発揮されないようにしている可能性がある。その縛りはしばしば患者本人にも気がつかないし、その周囲の人々にも気がつかない。心理療法家はその抑制を少しだけ取り除くことに貢献できるかもしれない。それによりサバンは無理でもその患者の持っている感性や才能が花開く可能性がある。心理療法をそのようなポジティブなものとして捉えることができるかもしれない。

ここではサバン傾向をASDとの関連で述べているが、サバン傾向自体はASDでなくても発揮される可能性がある。ためしにネットでサバン症候群の定義をググると、次のような感じで出てくる。
 サヴァン症候群とは、自閉スペクトラム症などの発達障害や知的障害があり、かつある分野において突出した能力を持っている状態を指す。自分のほかの能力に比べ突出して高い能力を持つ「有能サヴァン」と、世間全体の中で見ても突出した能力を持つ「天才サヴァン」の2タイプがある。(「Litaliko発達ナビ」から。)

この言葉自体はその様にして生まれたのであるが、では藤井聡太さんや大谷翔平さんはどうだろうか?彼らは「天才」であるがASDには見えない。恐らくASDの中に天才が生まれる可能性が高いというだけで、ASDがサバンの必要条件というわけではないのだ。

そう、無限とも言えるニューラルネットワークが備える機能のある部分がたまたま他の人に比べて優れている、という可能性はいくらでもあるのではないか。藤井さんがたまたま将棋のないどこかの第3世界で生まれ、小さい頃から過酷な労働を強いられていたら、彼の将棋の才能は見いだされなかったであろう。でも彼が将棋を選ばずに囲碁を選んだら、この世界で天才と言われるようになっていたかもしれない。(あるいはまったく向いていなかったこともありうる。)あなたが自分には何の取り柄もないと思っていても、例えばひよこのオスとメスを一瞬で見極める能力が高かったりするかもしれない。たまたまそれに出会っていなかっただけかもしれないのだ。するとクライエントに眠るサバン(別にプチサバンでもいいではないか)を見出す役割は親や学校の教師だけでなく、セラピストも担っているとは言えないであろうか。

もちろんこれは「イディオ」にも言える。(イディオとは白痴、という意味を指し、差別的なので用いられないが、特に劣っている部分という意味でここでは使おう。サバン症候群は昔はイディオ―サバンと呼ばれていた。つまり自閉症の人の一部が能力が低い部分と高い能力を混在させていた状態をこう呼んでいたのである。) 私たちは個々の人間が特に低い能力を備えている可能性についても知っておかなくてはならない。「プチイディオ」もすべての人に眠っている可能性があるのだ(こちらの方はむしろ見つかりやすいかも知れない。)


2024年1月20日土曜日

連載エッセイ 12の5

 ニューラルネットワークとしての心の在り方を理解する

私がこの連載の最初の数回で論じたニューラルネットワークの話との関連でのアドバイスである。私自身は脳をニューラルネットワークとして理解することで、精神分析的な人間観に不足していると感じられた部分がだいたいは腑に落ちたという体験を持った。もちろん人の心は複雑すぎてわからないが、どういう意味で分からないかが少しわかったのだ。それは一番わかりやすい概念を用いれば、複雑系だからである。
 例えば宇宙や生命現象についてある程度の知識を持っている人は、それが複雑系であり、それゆえのわからなさであるという事が大体つかめているだろう。そして心も同じなのだ。そして脳をニューラルネットワークとしてとらえるという事は、それを複雑系としてとらえることと同じである。(と、少なくとも私は理解している。)だから心を理論的に説明しようとする試み自体が間違いなのである。
 このことは患者を前にした心理士にとっても同じことだ。患者の心は基本的には複雑系であり、極めて局所的に、極めて短時間でない限りは因果律に従わない。  分析的な心理士は患者の連想を通して様々なことを耳にするが、精神分析的な理解ではそれらがどのような無意識を表現しているかに常に注意を払うことを教える。特にその教えに強いインパクトを与えたなら、それによりかなり無理をしてまで心を分かろうとするのだ。  なぜ心理士はそこまで心を分かろうとするのだろうか。おそらくわからないことに後ろめたさを感じるのだ。するとたとえば私たちは患者の夢に意味があると信じたい。しかしそれはそうである場合もそうでない場合もあり、両者を区別する決め手は実はないのである。たとえばある作曲家の心に浮かんだメロディーを考える。その旋律が細部にわたって何かを象徴していると考えるだろうか、あるいはそれは重要なことだろうか?その作曲家の小児期を反映しているだろうか。確かにそれは子どものころ聞いたメロディーの断片を借りているかもしれない。しかしではほかの部分はどのように構成されているのか、となるとたちまちわからなくなってしまう。だから作曲家の書いた曲から彼の無意識を伺い知ろうという事を普通考えないのだ。だったらどうして夢の内容ならそれが出来ると考えるのだろうか。

 さてこのように書くと私はフロイトの無意識を軽視していると言われるのだろうか。むしろそうではない。私自身は無意識とはニューラルネットワークだと言い切ってもいいと思っている。 シンプルな言い方をするなら、ニューラルネットワークの自律的な活動の一部の、意識化された部分を除くすべてが無意識ととらえるのである。ただしこれは意識されない部分としての無意識であり、フロイトの用いた意味とは少し異なるが。

フロイトの「無意識」(こちらは「」付にしよう)は、フロイトのいわゆる「構造論的な無意識」ということになり、それがネットワーク内に存在するかどうかも不明になる。それはそこに意識化したり直面したりすることに抵抗を覚えるような心の内容を抑圧しておく場所、という意味であるが、そのような場所がネットワーク上に存在するかと言えば、かなり難しい問題となる。抑圧を根拠づける理論もネットワーク的には今もって不明と言わざるを得ない。それよりは私は解離の概念を用いて説明することが多くなっているが、ここではそれに触れないことにしよう。  とにかく私が心理士に対して伝えたい教訓は以下のとおりである。無意識は広大でそこで様々な自律的な活動が生じているような場である。それを説明したり、推測したりするには、無意識はあまりに深淵であることが多い。ニューラルネットワーク的には、抑圧の機制をうまく説明できない以上、患者の症状や連想についてその解釈の作業にエネルギーを注ぐよりは、それらをそのまま受け止め、それについての連想を促し、それに共感することを旨とするべきであろう。それがいかなる洞察を導くとしても、それが最初のステップになるのである。


2024年1月19日金曜日

連載エッセイ 12の4

 以前「脳から見える心」(岩崎学術出版社、2013年)で各章ごとに最後に「臨床心理士へのアドバイス」という項目を設けた。これを参照して、いくつかの項目を書き直してみよう。

心理療法は右脳どうしの交流である

 脳科学的な見地から心理士に対するアドバイスはいくらでもあるが、一番の重要なものとして上げたいのがこの項目である。心理療法の基本にあるのは、両者の右脳同士の交流であるという事だ。もちろん心理療法は基本的には言葉のかわし合いにより進行するが、それは情緒的な交流の基盤の上で初めて意味を持つのである。
 皆さんはAIによる音声をお聞きになったことがあるだろう。言葉の内容は聞き取れるが、単調で機械的で感情のこもっていない印象を受けるはずだ。この発声自体は左脳の産物だが、感情的な抑揚を付加するのは右脳の機能である。(といっても最近の生成AIなら最初からあたかも感情がこもったような音声を作り出すことができるかもしれないが。)つまり言語的な交流を通して伝えあう感情自体は右脳同志のやり取りなのである。

言うまでもなくこの議論は愛着理論に発している。この連載でも何か所かで触れたことだ。母子関係は最初は言葉のない、あるいは自他の区別のない段階から右脳どうしの交流で始まる。その時点では乳児の左脳はまだ本格的な活動を開始していないからだ。ここでの愛着を通して、右脳がその機能を獲得すると、他者の気持ちを読み取り、自分の気持ちを表現し、いわゆる holding mind in mind 「心に心を取り合う(手に手を取る、という表現のもじりである)」状態が生まれる。そしてこの関係は、成長していっても何らかの意味ある対人交流においては必ず生じるのである。
 私がなじみの深い「関係精神分析」の分野では、発達理論が治療に組み込まれることはもはや常識といっていい。関係精神分析は、治療者と患者という二人の対等な(しかし役割の異なる)人間同士の情緒的な交流に重点を置く精神分析の流れであるが、そこでの関係性とは、当然母子間の関係性から連続しているものとみなされる。つまり母子間の間で成立していたはずの安定した二者関係の障害が様々な病理を生むと考えるのである。


2024年1月18日木曜日

家族療法 エッセイ 3

 ではなぜ母親が子供に固執し、子供はそれを疎ましく思うのだろうか。思うに親は(自分の父親としての体験から察するに)子どもはどんなに大きくなっても、それは「仮の姿」だと思うのである。では本当の姿は、というといたいけなか弱い、おそらく3,4歳のころの姿である。それがたまたま成長しただけなのだ。これを転移という言葉で表すなら、親は子供に3歳のころの気持ちを常に持ち続ける。それがいくらたっても消えないのだ。それに比べて子供の親に対する転移はかなり異なる。ある意味で子供にとって親はどうでもいい存在だ。ふつうしみじみ感謝の気持ちが湧くという事はあまりない。感謝は自分と無関係な他者がわざわざ自分の為に愛情とエネルギーを注いでくれるという意外さ、畏れ多さに由来する。最初から自分の世話をすべてしてくれる存在として認識していた親に感謝の念はわくはずがない。親のしてくれたことは当たり前のことなのだ。

 そして実は親に深い恨みを持つ可能性がある。それはこの3歳ころの経験に深くつながっている。子どもは自分は自分だという感覚を持ち始める。おもちゃ売り場ではどうしても欲しいというおもちゃをつかんで離さない。気に入った長靴なら晴れの日でも履いて出たい。美味しくないブロッコリは口にいれるのもおぞましいから吐き出す。なにが悪いものか!ところが親は自分をひょいとつかみ上げて玩具売り場から無理やりに引き離す。お気に入りの長靴は力づくで脱がされる。ブロッコリは無理やり口を開けて放り込んでくる。その上「将来のあなたのためよ!」というメッセージが聞こえる。

このように書くと私自身腹が立ってくる。これほど自分の人権を無視し、物事を強要してきた存在を恨まずにいられるだろうか?


2024年1月17日水曜日

連載エッセイ 12の3

 私は臨床心理を実践する際に一番重要なこと、そして難しいことは他者の体験を聞き、理解するという事であると思う。患者の話を聞いて共感すればいい、と簡単に言うかもしれないが、人の体験を分かるという事は決して、決して容易ではない。私達は常に相手の気持ちを分かったつもりになるが、実はそうではなく、また相手もこちらに分かってもらったつもりになるが、実はこちらもわかっていない。分かってもらったはずなのにそうではないとわかると、裏切られたという気持ちになり、失望や怒りに繋がる。分かりあえていたはずの者どうしは、これ以上ないくらいに憎しみ合うこともある。

ある方が「最近家のお父さん(50代後半)がイライラしてちょっとしたことですぐ怒鳴るんです。何か仕事や家庭に不満があるのではないかと思うんですが、『そんなことない!!』とまた怒鳴るんです。」と訴えた。「もう昔の彼とは違うんです。一体どうしたんでしょう。目つきが違うんです。もう彼を信じられません。」

旦那さんは一体どうなったのだろう? トキソプラズマ症にかかっているのだろうか? 念の為に頭のCTを取ったところ異常が見つかり、結局「前頭側頭型認知症」(ピック病)という比較的珍しい種類の認知症だという事が分かったという。脳が旦那さんの心や人柄を変えていたことになる。

感染症の知見やCTスキャンによる脳の画像が得られない頃は、悪魔に魅入られたとでも思われただろう。そこには明確な「狂人」「悪者」というレッテルが張られていたことだろう。

 「狂人」という事で思い出した。最近別の例でこの問題を私自身が考えさせられたことがある、菊池真理子さんの漫画「酔うと化け物になる父がつらい」は秀逸だが、彼女は父親が酒に酔うと豹変して普段の善良なその姿を変えてしまい「化け物」になる様子を克明に描いているからだ。彼女は酒を止められない父親の意志の弱さを呪う。そのために母親を自死に追い込んでしまったのだ。なんてひどい人だ、と私も考えた。

 しかしふと考えると、彼女の父親は典型的なアルコール中毒の症状を呈している。彼女に必要なのは、「化け物」になった父親やその元凶となった酒を怨むことではなかった。医療機関につなげることだったのである。(もちろん普通は仕事に出て有能な会社員である場合には、それが実は容易ではないこともわかっているつもりだが。)それは明確な脳の病変に基づくもので、もはや父親自身の意志の力ではどうすることも出来なかったのだ。


2024年1月16日火曜日

連載エッセイ 12の2

 なんだかこの章を書き始めて面白くなってきた。脳科学の臨床的な意義はまさにこれだという気がする。要するに「気のせい」あるいは「プラセボ効果」といった人間の心の一番怪しい(不可解な)部分に光を当ててくれるのである。私達は心というのは本来的に自由で、何ものにも制限されていないという幻想を持つ傾向がある。するとその心が脳というハードウェアによって実はがんじがらめにされているという事を知ることはショックでもあり、新鮮でもあるのだ。

 いくつかの例を挙げてみよう。

 私が何度か紹介した有名なフィネアス・ゲージの例。善良で他人思いの鉄道工夫であった彼は、事故で前頭葉の半分を失ってしまった。すると左目の失明以外は知的な障害は全く見られなかったにもかかわらず、ゲージは下品で衝動的な性格に代わった。もはや彼という人柄は消えてしまったのである。

 最近あるインタビューを受けたが、それはあるシュールレアリズムの画家についてのものであった。(今は詳しくは書けない事情がある。)彼の絵は奇抜で多くの人々に刺激を与えたが、文献を読むと彼にはある脳神経系の病気があり、その症状と深い関係があるという研究が分かっている。彼の藝術や創作は,彼の脳の異常信号の産物だというわけである。

 トキソプラズマという原虫。哺乳類に広く感染が見られる。人間にもペットの猫などを介してがかかることもある。最近分かったことであるが、時々暴力的になる障害「間欠性感情暴発症」を持つ人の22%にこの感染が見られるという。健常人の9%に比べて有意な差が見られる。脳にこの虫が巣くっていることで人は暴力的になってしまう場合があるのだ。

脳の組織中に見られるトキソプラズマ https://www.uchicagomedicine.org/forefront/biological-sciences-articles/systems-analysis-points-to-links-between-toxoplasma-infection-and-common-brain-diseases


2024年1月15日月曜日

連載エッセイ 12 臨床家にとっての脳科学 1

  今回は最終回である。テーマとしては、「心理士(師)にとっての脳科学」とした。この連載中、「そもそも脳科学と心理臨床というタイトルを付けながら、心理臨床について述べていないではないか!」という批判を覚悟していた。編集の方から特にその様な話を聞いてはいないが、当然そのように思われても仕方ない。しかし脳の話をしながら、カウンセリングの場面でどの様にそれを応用すべきかについての話題に移ることは実際は容易ではない。というよりはあるテーマで脳の話をしているうちに枚数がすぐ尽きてしまう。という事でこの最後の章はこの「臨床家にとっての脳科学」という話題についてもっぱら論じたい。

 今更思うのだが、私は自分が脳科学の話をするという事が何か不思議な気がする。私は脳科学の専門家ではない。でも脳科学的な知識を得ることによる感動を書いているうちに専門家という事にいつの間にかなってしまう。ましてや「脳科学と心理臨床」などと言うタイトルでエッセイを書くに至っては、自分は脳科学の専門家であるという風に自認していると取られても仕方ない。私がこのエッセイを書いたのは、私が脳科学の専門家だからではなく、臨床家として脳科学的な知識を得てよかったと思うことが多いからなのだ。そのことはここでお断りしたい(もう遅いか?)

 では脳科学的な知識の何がありがたいのか。それはその様な知識は大抵「患者さんのいう事は正しかった」という事を納得させてくれるからである。

 例えば患者さんが誰もいないはずなのに人の姿を見たという。いわゆる幻視という体験だが、通常私たちは「そこにいないはずの人の姿をみるなんて、気のせいじゃないか?」と考えがちだ。「気のせい」というのは本当は起きていないことを起きたと思い込んでしまうこと、という事だ。そしてこの「思い込み」という表現には、自分がそれを思い浮かべただけ、つまり自作自演というニュアンスがある。人騒がせなことを言うな、という感じた。私達は一般に患者の訴えに関してそれを思い込み、気のせいという風に決めつける傾向があるのだ。そしてそれは残念ながら精神分析的な考えにおいても見られた。なぜならフロイトは症状は無意識的な願望と結びついていると考えたからである。

 しかしおよそ100年も前に Georges de Morsier という先生は幻視に関して当時一般的だった精神分析的な考えに異を唱え、幻視は神経学的な症状、すなわち脳において生じている異常と考えたという。つまりてんかんや認知症や統合失調症などに見られる幻視には共通の神経学的な基盤があると考えたのだ。それは現在の脳科学的な研究で再認されているという。(Carter, R, Ffytche DH.On visual hallucinations and cortical networks: a trans-diagnostic review. J Neurol. 2015; 262(7): 1780–1790.)

 最近の研究では幻視を呈する様々な精神疾患で、ある共通したことが起きるという。それは大脳皮質と視床との間のやり取りの異常な昂進であり、あたかも実際の視覚体験により生じる大脳皮質と視床とのやり取りと同じことがなぜか生じているという。だから実際に何かを見ている、という感覚が生まれるというわけである。これは少なくとも「気のせい」のレベルの問題ではない。

 フロイトは分析家である私にとってのヒーローだがからあまり悪く言いたくないが、心理療法の先駆けとなったフロイトの精神分析は、「患者の訴えを真に受けない」という姿勢の先駆けになったという所がある。しかし脳科学的な知見は、患者の訴えには十分根拠があったという事ばかりを教えてくれている気がする。

 本連載の後半に私が扱った精神障害、例えば解離性障害、嗜癖、トラウマ関連障害等に関する脳科学の知見が教えてくれることは決まって次のことだ。つまり患者が描写する彼らの体験は一見意味をなさないが、脳における機能の異常がどの様な形で関与しているかを知ることで、その意味をより理解できるようになるということである。

「どうして悪いと思っている薬物の使用を止められないのか?」(依存症)

「どうしてその場で異なる人の様な振る舞いをするのか?」(解離性障害)

「どうして実際にそこにないものがあるもののように見えてしまうのか?」(幻視体験)