2018年5月31日木曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 11


臨床家の自己愛問題
私が最近になって特に思うのは、自己開示の問題には臨床家の自己愛が深く関係しているということである。前出書(臨床場面での自己開示と倫理」)でも述べたことだが、私自身はむしろ「多くの臨床家は自己開示をし過ぎる危険がある」と考えているくらいだ。有名なフロイトの研究でも、彼自身は、晩年に治療した43例すべての患者に対して自己開示をしていたというのだ(Lynn, et al, 1998)。分析家の「自己開示はしてはいけない」という主張は、自己開示をしたい分析家のいわば反動形成的なところがあるのではないかとさえ思う。そこには分析家自身が自分の考えに対して過剰に自信や思い入れを持つ傾向も関係しているであろう。
 そこで本章のサブタイトルにつけた「自己開示ってナンボのものだろう?」という問題に立ち戻る。かなりくだけた表現だが、これは「臨床家は、自分の自己開示にいったいどれだけの価値があると思っているのだろう?一度よく考えてみてはどうか?」という提案のつもりである。治療者が自己開示を回避する姿勢は、その見かけ上の価値やインパクトを必要以上に釣り上げることになりはしないか? 
自己開示をめぐる問題を深く掘り下げて考えていくと、この自己愛というもう一つの問題に到達する。自己開示を回避することは治療者にとって自分自身のプライドや権威を保つことを助けるという面がある。要するに「自己開示拒否」には治療者側にとって好都合な要素がたくさんあるわけだ。それがどうしても「それが最終的に患者の利益につながるのか」という議論に優先する傾向にありはしないだろうか。 
 ここで論点を整理しておこう。分析家の自己愛問題は「自己開示をする」という方向にも、「自己開示をしない」方向にも両方働くのだ。これは興味深い事実である。要するに自己愛的であるということは、「自分が披瀝したいことを語り、本当に恥ずかしいことや都合の悪いことについては語らない」ということである。かつてHeinz Kohut は聴衆の前で自分の知識を延々と披露する一方では、個人的なことを聞かれることを好まなかったと言う。自分のことを話したがる治療者でも、クライエントから個人的なことを一方的に尋ねられたり、自分の気持ちを表明することを請われるとそれを侵入的と感じ、ムッとするというのはよくあることだ。そこで私がしばしば治療者の卵たちに伝える以下のメッセージとなる。
「治療者は自分の体験を話すことが役に立つのであればいくらでも披露する用意を持ちつつ、しかし自分の余計な話を極力するべきでない」。

 この私の立場は実は私のもう一つの考えである「ヒア・アンド・ナウを簡単に扱えると思うな」にも通じる。これも一見矛盾した言い方に聞こえるだろう。私がヒア・アンド・ナウの転移解釈を安易に用いるべきではないと思うのは、治療者がそれを扱う用意がしばしば不足しているからだ。繰り返しセッションに遅刻する患者に対して、治療者が「あなたが時間に遅れてくるのは、治療に対する抵抗ですね」と解釈を与えたとしよう。そのような介入は、治療者が本当に冷静な気分でないと逆効果だろう。さもないと患者は治療者から攻撃されたように感じるであろう。
患者が遅刻するという例なら治療者はさほど苛立たないかもしれない。しかし患者の行動を治療者が挑発的なものと感じ、苛立ちを覚えたなら、それだけ彼が適切な「解釈」を行うことへのハードルは高くなり、逆に攻撃や意趣返しとして用いられる可能性は高まる。それよりは治療者が自らの感情をことさら押し隠すことなく、よりgenuine な関わりを持つことがより治療的である可能性が高い。

臨床家が自分の自己愛をチェックする

ここで臨床家が深い自己愛に陥っているかどうかをチェックする方法を考えた。こんなことを患者から問われたことを想像するのである。
「先生も人間としての悩みをお持ちですか?」 
もちろん突然これを実際にクライエントから尋ねられたら治療者は驚くだろうし、侵入されたように感じるだろう。「あなたのこの質問のその背後にあるものは何か?」と考えたくもなるし、そのような返し方をしてしまいかねない。だから想像上のクライエントから真剣に、あるいは恐る恐る尋ねられた場合を想定するのだ。自分が患者を援助する立場にある、というだけでなく無意識的に自分は患者より優れている、上の立場にいる、という気持ちを持ちやすい治療者なら、この状況を頭に描いただけでもその質問に反発を感じるだろう。「この患者は自分の問題を扱われることを回避して、私を同じようなレベルに引き摺り下ろそうとしているのではないか?」「この患者は明らかに治療に対する抵抗を示している。」 でも患者は目の前の治療者が自分とは異なる超人的な人間であり、自分のような人間的な悩みは持っていないというファンタジーと一生懸命戦っていて、ふとこのような疑問が出ただけかもしれないであろう。そう、この種の自己開示にどれだけ抵抗を示すかが、その治療者がいかに自己愛的なスタンスをもっているかの明確な指標となるのである。他方で「ああ、私自身も、昔自分の治療者にも同じようなことを感じたなあ」と自分のトレーニング時代の体験を思い出せる治療者はおそらく自己開示を本当の意味で臨床的に用いることが出来る立場に一歩近いのであろう。

 (文献は省略)

2018年5月30日水曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 10



5章「匿名性の原則」を問い直す 


「匿名性の原則」。精神分析的な治療を行っている人たちにとってはなじみ深い言葉かもしれない。いや、精神分析に限ったことではない。「心理療法」や「カウンセリング」という名のもとに心理士が構造を決めて行うセッションにおいても、治療者が自分のことについての話を控えることは一つの常識であり、お作法となっているという印象を持つ。あたかも治療構造という考えのなかに、治療者の個人的な情報とそれ以外のものとの境界を守ることも含まれているという印象を持つ。「匿名性の原則」などと言う大仰な言葉を使わなくても、心理療法を行うものとして、専門家がわきまえておくべき常識、マナーという形で教え継がれているのだ。おそらく心理療法家の卵たちは、その理由については明確に考える機会を持つことなく、「~すべきもの」や「~してはならないもの」として教え込まれることの一つとしてこの原則を頭に入れていく。それが証拠に、臨床心理の大学院に入りたての、まだ面接経験のない院生に尋ねても、治療者として個人的なことについて語ることは、無条件で奨められないこと、控えるべきことという考えが入り込んでいることが多い。
私は心理療法家がとりあえずは自分を語らない、という姿勢にはおそらく害よりは益が多い気がする。というのもこの種のマナーが特に教えられないようなあらゆるサービス業(といっても心理療法をサービス業、と呼ぶつもりはないことはことわっておかなくてはならないが)で、サービスを提供する側が自分の問題を持ち込んでしまうことによる不利益が蔓延していると感じるからである。医学領域においても、治療者側が気さくでフレンドリーであることは望ましいのであろうが、治療者が自分のパーソナルな部分が時には患者側が望まない形で治療関係に侵入してしまう瞬間に、注意を払っていない場合が少なくないとの印象を抱く。
私は精神分析の「匿名性の原則」に対して批判的な立場から論考を発表したことがあるが(新しい精神分析、1,2)、それはこの原則が過剰に守られることの弊害についての考察であった。私が論じた「自己開示」の概念は、その意味では「匿名性の原則」の逆、対極にあるもの、という意味では決してなかったつもりである。「自己開示」は出来るだけすべし、という主張を、私は一度もしていないつもりである。「自己開示」は治療的な意味合いがある場合がある、というのがその骨子であるにすぎない。その意味では「匿名性の原則」は柔軟に、必要に応じて遵守すべし、という主張と同じである。しかしそれにもかかわらず、「自己開示」について論じると、「先生は『自己開示派』ですね」と色付けされてしまい、何でも自己開示をすればいい、という程度に扱われてしまいかねない。私はたとえば Hoffman が主張するような、「治療者はなるべく患者からは見えにくい存在であることで治療者としての力を出せることが多い」という主張には全く同感という気がする。なんでも自己開示、という立場とははるかな隔たりがある。
そこで本章では、この匿名性の原則と自己開示について、最近の考えも含めて書いてみたい。

自己開示ってナンボのものだろう?

私が自己開示について精神分析の専門誌に発表した最初の論文は1990年代のものであるが、その頃は日本の学会ではほとんど問題にされないテーマであった。しかしそれから時代が移り、最近では自己開示のテーマが臨床家の間で議論の対象になることが多くなってきた。しかしそれでもこれを正面から扱った本は皆無と言ってよい。実際インターネットで「自己開示」を検索してみれば、そのことが確かめられる。文献としては筆者らによる文献(岡野その他、2016)以外には全くと言っていいほど検索にかかるものはないのだ。

岡野 憲一郎, 吾妻壮, 富樫公一, 横井公一 (2016) 臨床場面での自己開示と倫理―関係精神分析の展開 岩崎学術出版社.


「自己開示」は精神分析家たちにとっては古くて新しい問題だ。フロイトの「匿名性の原則」以来、分析家たちにとって一つの論争の種であり続けている。昨年京都大学に客員教授でいらしたある分析家は、非常にざっくばらんで柔軟な臨床スタイルを披露してくれた。しかし私が何かの話の中で「自己開示が臨床的な意味を持つかどうかは時と場合による」という趣旨のことを言った際に、キラリと目が光った。そして明確に釘をさすようにおっしゃった。「ケン(私のことである)、自己開示はいけませんよ。それは精神分析ではありません。」 精神分析のB先生は私が非常に尊敬している方だが、彼も自己開示は無条件で戒める立場だ。
 私は当惑を禁じえない。どうしてここまで自己開示は精神分析の本流の、しかも私が敬愛している先生方からでさえ否定されることがあるのか。私は別に「治療者は自己開示を進んでいたしましょう」という立場を取っているわけもなく、「適切な場合ならする、不適切な場合はしない」という、私にとっては極めて妥当なことを言っているだけだが、自己開示反対派にとっては、同じことらしい。しかし彼らはそれでも「自己開示はしばしば自然に起きてしまっている」ということについては特に異論はなさそうである。それはそうであろう。治療者のオフィスのデスクにはふつうは所持品が無造作に置かれ、患者はそれらを眼にすることも多いはずだ。治療者が発表した書籍や論文は、少なくとも一部は患者がアクセス可能であろうが、それらには自己開示が満載であるはずだ。治療者の服装にはその好みの傾向が反映されているであろうし、治療者として発した言葉の一つ一つが、彼の個人的な在り方や考えを図らずも開示しているはずである。そしてそれが現代的な精神分析の考え方でもある。
ここで一つ言えることは、伝統的な精神分析の本流にとっては、自己開示は奨められない、認められないであろうことは確かなことだということだ。これほど有名な先生方の見解なのだから間違いがない。しかしおそらく彼らはこともなげにこう言うはずだ。「精神分析的な治療でなければ、自己開示はあり得るでしょう。」
つまりは自己開示を認めるかどうかは、患者にとっての利益か否か、というよりは、それが精神分析的かどうか、という点にかかっているといえる。そして自己開示の真の価値があるしたら、それは「正統派」の精神分析を外れたところにということであろう。

2018年5月29日火曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 9

あるエピソード

 繰り返すが、私は精神分析における転移を軽視しているつもりはない。むしろ非常に大きなパワーがあり、治療者も患者もそれをうまく取り扱えない可能性があるために、慎重にならざるを得ないということを言いたいのである。転移の問題は、治療場面で顔を合わせている当事者同士の関係性の問題と言い換えることが出来るが、それを扱うことには強い緊張や不安が伴うのである。
この転移の持つパワーに関しては、私には一つの原体験というべきものがある。それはもう20年近く前、私が精神分析のトレーニングを開始したごく初期に、私自身の教育分析で起きたことである。ある日私は自分の分析家に、こんなことを話した。「先生と私は似ていると思います。先生はいつも何か手でいじっていて落ち着かないですね。この間は私たちの分析協会での授業をしながら、発泡スチロールのコップにペンでいたずら書きをしているのを見ましたよ。私も退屈になるといつも似たようなことをするんです。」これは私の彼に向けた転移感情の表現といえただろう。先生に親しみを感じていますよ、と言うわけだ。すると私の分析家は急に黙ってしまったのだ。それまで私の話にテンポよく相槌を打っていた分析家が急に無口になってしまったのであるから、私は非常にわかりやすいメッセージを受け取った気持ちになった。私は彼から
「頼むから私の話はしないでくれ・・・・・。」
という呟きを聴いた気がしたのである。思えば彼はシャイな老齢の分析家だった。もちろんそのような言葉は実際には彼の口からは出てこなかった。しかしそれ以降も、私はこの分析家との間で同様のことを何度か体験した。私が彼について何かを言うと、彼はあまり相槌を打たなくなったり黙ってしまったりするのである。
 
ちなみにこれを書いていて、守秘義務のことを一切考えなくてもいいことをありがたいと思う。第一に、彼は私の分析家であり、私のクライエントではなかった。患者に、主治医やセラピストに関する守秘義務はないのである。そして第二にこれは遠いアメリカで、はるか昔に起きたことだ。第三に、私の分析家は当時すでに高齢で、10年ほど前に他界している。
 もちろん普段の日常会話であるならば、話し相手の癖や振る舞いについて話すことは失礼なことだ。しかし精神分析に対する理想化が強かった私は、老練な私の分析家がそんな世俗的な反応をするはずはないと思い込んでいたので、この突然の変化をどう理解したらいいかわからなかった。それから5年にわたる分析の中で、私と分析家との間では様々なことが生じたが、その時の私には理不尽に感じられた彼の反応についての話し合いもかなり重要な部分を占めていた。

2018年5月28日月曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 8


第4章  転移解釈は特別なのか?
はじめに
新時代の精神分析理論について論じる本書の第4章目に、このテーマを選ぶ。転移解釈の意味を問い直すということだ。前章に引き続き、私は本章でも「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」という立場に立っている。
転移の概念は紛れもなく、現代の精神分析においてきわめて重要視されている。精神分析の基本中の基本、として扱われていると言っていいだろう。そして他方では第2,3章で見てきたように、解釈が精神分析にとっての基本であるとしたら、転移の解釈は本家本元として扱われている。様々な解釈的な技法の中で、ひときわ高くその治療効果が期待されてきているのがこの転移解釈である。本章では改めてその意義について問い直したい。
 まず述べておきたいのは、私自身は転移の問題について、かねてからかなり深い思い入れを持っているということである。少しうがった表現をするならば、私は「転移という問題に対する強い転移感情を持っている」と言えるだろう。そしてフロイトが精神分析の理論を構築する過程で転移の概念を論じたことが、それ以後の精神分析理論において、これが治療的な意義として一歩抜きん出た位置づけを与えられたのは確かなことであると思う。
 ただし私は転移の解釈が他の介入に比べて、抜きん出た特権的な価値を有すると考えているわけではない。私自身は米国でトレーニングを受けたという事もあり、はじめは自我心理学に大きな影響を受けていた。そこでは転移の解釈はとても重要視されていた。しかしトレーニングを続けているうちに、見え方はだいぶ変わっていった。後になっていわゆる「関係精神分析 relational psychoanalysis」の枠組みから転移の問題を捉える際には、治療的な介入としては転移解釈を特権的なものとは考えない(あるいは解釈そのものが従来精神分析とは異なる意味を与えられている)事を知り、私自身の考え方と一致することを確認したのである。ただしここで急いで断っておかなくてはならないのは、私自身も、関係精神分析の立場も、これまで転移として扱われてきた現象を重んじていないというわけではないということである。それどころか転移という概念で表される患者から治療者への心の向かい方はきわめて重要な、分析的療法における核心部分を占めているという点は間違いないと考える。ただし転移は大きな意味を持つことを認識する(私、そして関係精神分析)ということ、とそれを解釈する(治療者のその理解を患者に伝える、という従来の精神分析の立場)ということは違うのだ。つまり関係精神分析では、転移が臨床的にあまり意味を成さないから無視するという立場とは異なり、むしろいかに転移がパワフルなものなのか、いかにそれが治療的に用いられ、いかなるときにそれが破壊的なパワーを持ってしまうのかについて判断する治療者の柔軟性が要求されるという点を重視するという立場である。それこそ「転移を解釈すればいい」というわけでは決してなく、それを場合によっては見ないことにしたり、あえて扱わなかったりすることも必要になる。それに治療においては、転移以外の重要な要素もたくさん含まれ、それぞれがそれを扱われることの意義を有しているのである。
 しかしジャック・ラカンの様な神がかり的な天才までが「精神分析の始めにあるのは、転移である。」と言ったりすると、もうそれは間違いのないこと、証明終わり、と言ったニュアンスを帯びるのである。そして日本人は権威にとても弱いのだ。

2018年5月27日日曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 7

5.共同注視の延長としての解釈

ここからは、「心の暗点化を扱う」のが解釈であるという考えをもう少し膨らませて、共同注視としての分析的治療という考えについて述べたい。
解釈的な技法は分析家と患者が共同で患者の連想について扱う営みであり、心理的な意味での共同注視 joint attention, joint gaze と考えることが出来るのではないだろうか? ちなみにここで言う共同注視とは、一人の人が視線を向けた先のものに、もう一人も視線を向けることであるが、手っ取り早く言えば、二人が一緒に一つのものを見て注意を払っている状態のことである。
まず患者が自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語る。それはたとえるならば、分析家と患者の前に広がる架空のスクリーンに映し出されるようなものだ。患者がその語りによりスクリーン上に心を描き、治療者はそれを見る。たとえば「公園の桜が満開で圧倒されました」と患者が伝えれば、分析家もそれを想像して二人の前のスクリーンにその景色が浮かぶだろう。しかし二人は同じものを見ているつもりかもしれないが、もちろんそうとは限らない。「そもそもどこの公園の桜かわからないと想像のしようがない」という分析家もいるかもしれないし、そもそも桜の景色に圧倒された体験がない分析家には、そのような景色を想像すること自体が難しいかもしれない。結局患者の連想内容から映し出される像は、分析家にはぼやけていたり虫食い状だったり、歪んだでいたりモザイク加工を施されたものとして見える可能性がある。また患者の側の説明不足、あるいは分析家自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化によるものである可能性もあろう。分析家は患者にその景色についてさらに注意深く質問や明確化を重ねていくことで、少しずつ両者の見ているものが重なっていくことを実感するだろう。分析家がそこに見えているものを描き出し、語ることで、分析家はそれが自分の描き出しているものと少なくとも部分的には重なっていると認識し、そのことで患者は共感され、わかってもらったという気持ちを抱くことだろう。それはおそらく分析家と患者の関係の中で極めて基礎的な部分を形成するのだ。
ちなみに共同注視という概念は、精神分析の分野では言うまでもなく、北山修の共視論により導入されているが(北山編、2005)joint attention そのものを分析プロセスになぞらえて論じる文献は海外ではあまり多くないという印象を持つ。(PePWEBで調べても、Joint attention は主として乳幼児研究に関するものであり、joint gaze に関しては一本の論文しか見つけられない。)しかしフロイトが患者のが自由連想について、車窓から広がる景色を描写するという行為になぞらえたことからもわかるとおり、そもそも自由連想という概念には、患者が自分の心に浮かんでくることを眺めているというニュアンスがある。共同注視は、その語りを聞いている分析家も車窓を一緒に眺めているというイメージを持つことはむしろ自然な発想とも言えそうだ。
北山修編 (2005) 共視論 ― 母子像の心理学.講談社. 
また共同注視という発想は、関係精神分析的な立場の臨床家にとっては距離があるといわれるかもしれない。そこには治療場面で起きていることを客観視し、対象化しようという意図が感じられる一方では、両者の流動的な交流というイメージとは異なるという印象を与える可能性もある。しかし共同注視する対象としては、今交わされている言葉の内容も、そこで生じている感情の交流そのものも含まれるのであり、非常に動的で関係論的だと私は考えている。
 ちなみに同様の発想に関して、私は平成26年の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがある。分析家と患者が構成するのは共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれを検討していくうちに、両者の間にいやおうなしに生まれる差異が見出され、それを含みこむことで、つねに上書き overwrite、更新 revise されていく、という趣旨である。
岡野憲一郎 (2014)精神分析学会 シンポジウム 演題
共同注視というパラダイムにおいても、分析家と患者が同じものを注視しているという感覚を一時的に持つとしても、やがてそれぞれが見ているものの違いに気が付き、その内容はそれを含みこんで更新されていくことになるだろう。それは同じものを共同注視しているつもりになっていた患者と分析家が、見えているものを詳しく伝えていくうちに現れる齟齬なのである。いわば同床異夢であったことに両者が気が付くことである。また分析家がそこに彼自身の視点を注ぎ込むことで、藤山(2007)の巧みな表現を借りるならば、治療者がそこに「ヒュッと置くこと」により明らかになることかもしれない。
藤山直樹 (2008) 集中講義・精神分析(上).岩崎学術出版社
たとえば先ほどの事例では、「Aさんの母親は、Aさんが常に家にいて自分をサポートしてくれることに安心感を覚えている。」ということまでは、治療者とAさんの間で共同注視できることになる。そこでAさんは治療者から理解されていると感じた。しかしそこから治療者が「Aさんが自分の人生のことを考えていない、あるいはそれよりも母親の人生を当然のように優先させていることに少し違和感を覚えますよ」(「すなわちその点についてAさんは盲点化を起こしているのではないか?」)と伝えることによって、治療者とAさんとの間で見えているものの食い違いが明らかになり、そのような治療者の見方をAさんの側からは共同注視できないという事実が浮かび上がってくるのだ。しかしやがてAさんと治療者との会話を通して、やがて治療者の側には「Aさんのそのような気持ちもわからないではない」という形で、Aさんの側からも「そのような治療者の見方もあり得るかもしれない」という形で歩み寄りが生じることで、二人は再び上書きされた形での共同注視および立体視が出来るようになるのである。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という作業に必ずしも限定せずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考える。北山は その共視論(前出)において、母子関係が第3項としての対象を共同で眺めることを通じて心が生成される様を描いている。分析家と患者が共同で何かを注視するという構図はまさに精神分析を母子関係との関係でとらえた際に役に立つであろう。
以上私の本章における主張を最後にまとめるならば、解釈とは患者の心の視野において盲点化されていることへの働きかけであり、それは精神分析という営みを一種の精神的な意味での共同注視の延長である、という考え方を生むということである。そこでの分析家の役目は、無意識内容の解釈というよりは、その共同注視の内容に対するコメント、という程度のものといえるかもしれない。

ところで本章をここまでお読みになった方は、前章(解釈中心主義を問い直す)の内容との類似性にお気づきになっているだろう。ここでいう共同注視、およびそこでの患者の暗点化された部分にコメントを行う治療者の活動は、前章で述べたオブザベーション observation に非常に近いことにお気づきのことだろう。
最後に共同注視における非解釈的な関わりという考えを追加して本章を終わりたい。景色や事物を母子が共同注視しつつその関係性を深めるということは、おそらく分析家と患者の関係でも言えるであろう。二人が自分たちの心から離れた扱いやすい素材、例えば天気のことでも診察にかかっている絵のことでも、窓から見える景色でも、外で鳴る雷の音でも、世間をにぎわしている出来事でも、一見分析とは何ら関係のない素材についてもそれを共同注視して言葉を交わすという体験は、おそらく両者の関係を深める一つの重要な要素となっている可能性がある。私は分析においてもそのような余裕があっていいと思い、それが解釈の生じる背景 background を形成する可能性があるのではないかと思う。そしてそのような背景を持つことで、患者の心模様を共同注視するという作業にもより深みが生まれるものと考える。
最後に私の好きなホフマンの言葉を挙げておこう。
解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。

2018年5月26日土曜日

解離の本 26


3.  トラウマ的環境に身を置かざるをえない事態では

一般的に生育環境においては、親の側が虐待をしているという認識がなくても、子供にとってはトラウマ的といえる環境が存在します。子供の側でもトラウマを受けていると感じる部分が解離されているために、その認識がかけている場合もあります。
たとえば家族が日常的に患者さんを否定し価値下げする状況にあったとします。患者さんはそれに合わせた自己認識たとえば「自分はダメな人間だ」を持ち、そのことを疑問に思わないとします。すると治療者がその患者さんの長所を指摘し、自己価値観を高めるようなかかわりをすることで、患者さんはかえって混乱に陥ってしまいかねません。患者さんの多くは目の前の親の思い描く自分に同一化しようとする特性をもつために、自分を「ダメな人間」と規定してきたわけですから、かえって自己イメージの混乱が起きかねないのです。時にはそれが症状の悪化につながることもあります。患者さんへの励ましや叱咤激励など、治療者や周囲がよかれと思い行うかかわりが、患者さんの不安を高め、罪悪感を深める可能性も出てくるのです。
治療においては原家族でおきていた可能性のあることについて、患者さんと話し合うことも大切です。また患者さんのそのような混乱を防ぐためにも、治療者は患者の置かれた状況を見立て、患者さんの家族や知人と情報を共有し、必要に応じてアドバイスを与える機会をもつようにします。場合によっては患者さんと家族に対して別担当者による並行治療を準備できればなお望ましいでしょう。可能であれば、患者さんの負担に関与している家族と本人の同席面接を設定し、家族療法的な介入や対応を検討することも有効です。ただしあらゆる方法を駆使しても現状が改善せず、家族といることが治療的に不適切と思われる場合には、家族から離れて安全な環境に身をおくことも検討すべきでしょう。すなわち現在の家族と物理的に距離を取ることを考える必要があります。


2018年5月25日金曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 6


3章 解釈の未来形-共同注視の延長について

前章では、「解釈中心主義」という言葉に表されるような、精神分析の治癒機序をもっぱら解釈に頼む姿勢について論じた。この章は、「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ・・・」、という立場での議論である。その場合には解釈は一種の「共同注視」ともいえる作業となるという主張である。
最初に「ここで解釈という概念を残し・・・」という私自身の表現について、注釈をつけておこう。精神分析の世界では、解釈を治療の中心にすえるという立場を取るか否か、という議論は非常に大きなウェイトを占める。それは言い換えれば伝統的な精神分析理論を否定するのか否か、という問いのような、一種の踏み絵のようなニュアンスさえある。おそらく精神分析の伝統を守る立場 (クライン派、自我心理学、対象関係論の一部など) では、解釈を中心に据えた治療を考え続けるであろう。これを第一の立場とするならば、より革新的な立場 (対人関係学派、関係精神分析など) 「解釈を超えた」治療機序を重んじるであろう。これが第二の立場だ。しかしここにはさらにもうひとつの立場が存在し、それは解釈という概念を拡大し、そこに「無意識にすでに存在する真実を伝える」という従来の考え方を抜け出し、治療的な要素を含んださまざまな介入に関して、それを解釈と呼ぶという立場が存在する。これを解釈に関する第三の立場と呼ぶのであれば、私は自分はその立場にあると考えてもいいと思う。よく考えれば分かるとおり、第二の立場と第三の立場は、実は非常に近縁なものとなりうる。それは解釈をいかように定義するかによりどちらにでも立つことが出来る、いわば両立しうる立場なのである。
ではその解釈の定義の違いとは、以下のように表現することが出来るかもしれない。第一の立場においては、解釈とは本来はフロイトが患者の無意識内容を伝えることを意味した。より一般化して言えば「患者の言動の隠れた意味を明らかにする介入」(Laplanche, Pontalis, 1973) と定義されるだろう。第二の立場は解釈の定義をそのまま受け、それを中心にすえることを拒否し、たとえば対人関係ないしは関係性そのほかの治療機序を第一に考える立場といえるだろう。それに比べて第三の立場では、解釈は「患者がより洞察を得るために役立つような治療者の介入すべて」とでも定義できるようなものである。
以上を前提として、本題に入っていこう。
ボストン変化プロセス研究会著 丸田 俊彦 訳 解釈を超えて. 岩崎学術出版社 2011

Laplanche, J and Pontalis, J.B (1973). The Language of Psycho-Analysis: Translated by Donald Nicholson-Smith. The International Psycho-Analytical Library, 94:1-497. London: The Hogarth Press. P228


1.あらためて「解釈」とは? 技法の概要
2章から検討している解釈という分析的な技法について、ここで改めてその定義について調べてみよう。わが国の精神分析事典(岩崎学術出版社、2003) には次のように記されている。
[解釈とは] 分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、2002) ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていた。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「示唆(ないし暗示)suggestion 」と言い表したさまざまな治療的要素からは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009) 。(前章から継続してお読みの方は、治療者が示す共感も、この示唆により近い介入といえることがお分かりだろう。ともかくフロイトは解釈以外のあらゆるものを、このように呼んだのである。)私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。
小此木啓吾編2002「精神分析事典 岩崎学術出版社

2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトによりこれほどまでに退けられたのか? この点について振り返っておこう。本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。(SE.17, p164)

心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。
Lines of Advance in Psycho-Analytic Therapy (SE.17, p164)
治療者が患者に示唆を与えることを避けるべきであるとする根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針から逸れるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日の日本の精神分析の世界では、解釈は分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしフロイトがそうしたように、示唆を排除する立場もそこに含めるとしたら、治療者の介入のあり方はかなり制限を加えられることになるだろう。なぜなら実際の臨床場面では、解釈以外のかかわりを治療者が一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。「解釈とはことごとく示唆の一種である」というHoffmanの提言もその意味で頷ける(Hoffman, 1992)。
 もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

3.臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来る可能性がある。ただしそのために、以下のような形で、その概念を拡張することが必要であり、また有用であると考える。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえるということだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、患者と分析家が共同作業によりそれをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いているが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意した。
目の前の患者の背中に文字が書いてあり、彼はそれを直接目にすることができないとする。そして治療者は患者の背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。あるいは患者が部屋に入ってきて扉を閉める際に背中を見せた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれない。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?
もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかだろう。答えは重層的であり、またケースバイケースなのだ。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さをも意味しているのだろう。
ここでいう、答えがケースバイケースというのは、次のような意味である。患者はすでにその背中の文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。あるいは背中に文字が書かれていることを知らないかもしれない。
患者がもし何かの文字が書かれていることは知っているとした場合、それを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて治療者に伝えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを知らせてほしいかも知れない。さらにはその文字が解読しづらく、患者との共同作業によってしか意味が通じないかもしれないだろう。このようにさまざまな状況により、その背中の文字の扱い方が異なってくるのである。

 以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者本人よりは治療者のような周囲の人が気づきやすいような、患者自身の特徴や問題点を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者の仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者の耳には直接入っていない噂話かもしれない。
この場合にも治療者が出来ることに関しては、上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性が確かにあるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字の意味するものが患者にとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は、外から植えつける「示唆」的であっても、それが患者にとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも了解されるだろう。

2018年5月24日木曜日

精神分析新時代 推敲の推敲 5


そもそも精神療法とは何をするものなのか?
ここからは、本章の後半部分である。前半では、治療者の役割のうちの解釈部分は、治療者が自分の無意識を知りたいという前提があって初めて意味を持つのであろうが、そこで主要な介入とはオブザベーション(指摘)であるという内容だった。しかし本章で問い続けている、「患者が何を求めて来談するか」という問題に関する答えには至っていない。そこで「そもそも精神療法とは何をするものなのか?」というテーマにまで戻りたい。きわめて原理的な問題だが、これまでの議論を前提にして改めて問い直すと、何か新しい見え方をするかもしれない。
実は精神療法とは何をするものなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを明確に定義することは出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングの場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストと患者が一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そして患者が再びセラピストを訪れる意欲や動機を持ち続ける限りは、そのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的な事態(治療者による患者の搾取など)が生じない限りは、かなりの範囲のかかわりが精神療法として成立し得るであろう。
そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが患者の中に維持されうるかを考える。ここではふつうは具体的な動機付けが先ず考えられるのであるが、私は逆を行きたい。それは患者にもわからないような動機から考えるということである。たとえば私たちがヨガに通うとき、マッサージに通うとき、パソコン教室に通うとき、おそらく家を出る際には、それらの場所を訪れたときの雰囲気や、そこから帰った時の気分を思い浮かべるであろう。おそらくは私たちは間違いなく、そこから帰る時の、ある種の漠然とした心地よさを予想しているはずである。あるいはそれを継続すると決めたことによるある種の達成感ということもあるだろう。そしてその心地よさがどこから来るかは、本人にも詳細はわからないのである。
私たちが治療のセッションに向かう時間になった時、「今日はどうしよう? 行こうかな?」と迷う際の決断の決め手となるのは、面接室の雰囲気、治療者との会話、行き帰りの時間等における心地よさの度合いを先取りして体験している。そしてそこでの総合的な評価はおおむね無意識的になされているものである。
ある患者さんは、「セッションに行くと、そのあと気分が持ち上がる、いい気持ちになる、達成感がわく、ということがあるんです」と言ったが、それは彼の治療がうまく行っていることの表れと言えるだろう。それが治療者に会いたい、そこでは居心地良く過ごすことが出来る、などの体験を生む。
一つここで言及しておきたいのは、セッションに訪れる人は、ある種の心地よさを求めている、という私の主張は、そのセッション自体が快適であったり楽しかったりすることを必ずしも要請してはいないということだ。そのプロセス自体は苦しく、痛みを伴ったものかもしれない。ただそれでも患者がセッションに訪れるとしたら、その苦しみや痛みそのものがある種の心地よさを生み出しているはずなのだ。それはたとえば苦しいだけのトレーニングや山登りへ人を向かわせるものでもある。苦しいからこその達成感も私たちを捉えて止まないものである可能性があるのだ。
しかしここではとりあえずはセッションそのものから何らかの快適さを味わうという、比較的単純でわかりやすい状況に話を絞ろう。そこにはそこには様々な要素が考えられよう。私は特に以下の三つを考える。

1 自分の話を聞いてもらい、わかってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して誰か(治療者)に説明をしてもらうこと。
3.治療者の存在に触れることで孤独感が癒されること。 

お気づきのように、私はここに「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。その根拠はすでに本章の前半で述べたからだ。ここではそれ以外の理由を考えていただきたい。もちろんこの三つ以外にもあるかもしれないが、これら三つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。
 1.に関しては、人が持つ、自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして自分達の体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に、なぜ人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかし多くの場合、それだけではないだろう。
2.については、ある意味ではこれが治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになることが多い。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭におさめたいという私たちの願望に由来するのであろうが、これは物事の因果関係を明らかにするということでもある。それを自分自身ではできないと感じる時、他者の視点を必要とするのだ。その事情を説明された他者が、「それはAが原因でBが起きたからだよ。」と単純に説明しただけで、その人は心に収めることが出来るかもしれない。それは自分自身ですでに説明されていたとしても、他者の口を通して語られることで初めて腑に落ちるということもあるのだ。その中にはたとえば「起きたことはたいしたことないから、心配することないよ」「単なる気のせいだよ。」という説明すら意味を持つかもしれない。
ここで例を一つ出したい。最近引退したフィギュアスケートのAさんが、テレビのドキュメンタリー番組で流されたシーンでコーチとやり取りをする。演技を前にしてコーチが何かAさんに言っている。それに彼女は一生懸命うなずく。よく聞くと「メダルを取ることなんていいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という内容の言葉が聞こえる。Aさんはそれを真剣に聞き、大きくうなずいてリンクの中央に向かって滑り出していく。
あのコーチの言葉は何であったのだろう? 「自分の演技をしなさい」とはどのような意味を持っているのか。おそらくコーチにもAさんにも明確な説明は出来ないのではないか。ただそれでも大切な効果を担っていた言葉なのである。それによりAさんは、「そうか!」と思えたのである。
私たちの生きている世界はカオスである。将来何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。その世界での出来事に、一つの理由や意味を見出すことで私たちは安心するのだ。それにより将来をある程度予知でき、危険を回避し、安全に生きることが出来るからである。
さて3.である。これも実に侮れないどころか、実は心理療法が継続される際の最大のモティベーションとなっているのではないかと考える。そしてこれはもちろん1.とも深く関係している。治療者が患者の話を聞いて理解することで、患者は治療者の存在を身近に感じ、その孤独感がある程度は癒されるのである。人間関係の中には、長年連れ添った夫婦や、成人後も生活を共にする親子関係などにおいて、身体的には互いに近い場所で生活をしていても、精神的には極めて希薄な関係性しか持てない場合がある。そればかりか、一緒にいることでもっと寂しくなる、という、いわば「在の不在」(日下、2017)としての他者であったりする。その中で治療者は常に患者の側に立って、「在の在」としての役割を発揮するのである。
松木 邦裕 (2011) 不在論: 根源的苦痛の精神分析. 創元社.
日下 紀子 (2017) 不在の臨床―心理療法における孤独とかなしみ. 創元社.