2021年6月30日水曜日

私の考えが固まっていったプロセス 3

 そこで私の中に展開が起きたのは、渡米してからの34年間の間、という事になりますが、そこで最も私が関心を持っていたのは、精神分析におけるセントラルドグマ、すなわち匿名性、禁欲原則、受け身性などの治療原則が、どうして当てはまる場合とそうでない場合があるか、という事の一点にかかっていました。関係論、というよりはむしろそちらの方が気になっていたのです。そしておそらくそれらの問題意識を持つ一番の源流は、おそらくメニンガーの病棟で患者さんたちのインタビューをしたことです。当時は「しがない国際留学生」という立場で、後からは精神科のレジデントとして、私はメニンガーで精神分析を受けている沢山の患者さんの生の声を聴きましたが、彼らは一様に自分たちの主治医やセラピストに対して憤慨していました。メニンガーでは患者はすべて分析的な治療を受けています。そして私はその彼らが持つ不満を聞き取る役になったのです。国際留学生は正式なセラピストの資格がありませんし、言葉のハンディキャップもありますから、エラそうな治療者としての振る舞いも出来ません。最初は自己紹介から始めるわけです。「私は日本から見学性としてここに来ました。よろしくお願いいたします。」とあいさつをすると、患者の一人は、「おお、君は普通に自分のことを話すんだね。」と驚きました。その男性の患者さんは自分のセラピストが黙ったままで何も言ってくれないので腹が立って仕方ないという話をしました。そして若い精神科のレジデントが来ている薄いピンクのシャツについて、「おしゃれですね」とコメントしたところ、そのレジデントは「それは貴方の隠れた同性愛傾向を意味していますね」と解釈をされて激怒したという話をしてくれました。彼らはメニンガーで医師たちから幾分見下されている感じがし、私たちのような立場の見学性と同一化する傾向があるようでした。私は精神分析的治療やメニンガーでの試みについて理想化し、期待も大きかったので、このように内側で起きていることを知ることで、精神分析的な治療とはいったい何なんだろうと考えるようになりました。精神分析では治療者は患者に対して、分析的な治療原則に沿った独特なスタンスでアプローチをするわけですが、それが多くの場合逆効果を生んでいるのを見て深く考え込んだわけです。

そして得た結論は、治療者が自分を隠すか、開示するか、患者の願望を満たすか満たさないか、等はことごとく相対的な問題であり、治療状況で異なるという事実でした。そしてそれをもとに書き上げたのが「新しい精神分析理論」でした。

ただし基本原則は相対的だという姿勢は結局治療者が特権的な位置にあるというアサンプションを否定することであり、ヒューマニススティックなアプローチとつながり、ある意味ではサリバンが訴えていたことでもあります。

2021年6月29日火曜日

私の考えが固まっていったプロセス 2

 私にとって関係論的な転回がいつ起こったのか?

年代から言えば私が最年長という事で口火を切らせていただきますが、私が精神分析に触れたのは、心を考えることを生業にしようと考えた医学部時代でした。しかしフロイトを読んだというわけではなく、唯一の例外は、医学生のころフロイトの夢判断を文庫で読んだという体験ですが、これには全く歯が立たないという印象でした。ただ心を分析する、という意味の精神分析は、フロイト理論だけではないとその頃は思っていましたので、精神分析に興味は持ち続けていました。

 本格的に精神分析理論を勉強したのは、やはり精神科の研修医になり、小此木先生の指導を受けるようになってからです。このようなパーソナルな触れ合いというのは決定的ですね。目の前に偉大なロールモデルがいて、声をかけてもらえるという体験です。そしてその人のようになろうと思ったり、その姿に一歩でも近づこうとするわけです。1982年からの3年間、慶応の精神分析セミナーに毎週通いましたが、小此木先生はまだ50代の前半で最も脂が乗りきっていた時期といっていいでしょう。そこでフロイト、クライン、ウィニコットやフェアバーンなどの対象関係論、カンバーグ理論などについて網羅的に教えていただきました。小此木先生は百科全書のような人でしたから、何を聞いてもわかりやすく答えてくれる、しかも熱意をもってという感じでした。個人的に「岡野君、岡野君」とかわいがってくれたという体験は私にとっての宝でした。なぜならセミナーは10人程度のメンバーでしたから、先生は顔を覚えてくれたのです。私にはこの体験はとても大きいものでした。なぜなら精神分析ではそれ以降父親的な優しさを与えてくれる先生にはあまり出会わなかったからです。そして実に不思議なことに、その頃私はクライン派に対する苦手意識はありませんでした。私はその当時はどの理論がどのようなことを主張しているかについて、一生懸命勉強して覚えこむのに精一杯でしたから、それらの個々の理論に対する意見を持てるような状態になかったわけです。

その様なわけで私は最初はどの理論にも特に親和性を覚えていたわけではありません。ですから1987年(31歳)で渡米した段階では私の頭はまっさらで、すなわち全く無知で、だから「関係論的展開」も何もなかったのです。そしてそれから12年後の1999年には43歳で「新しい精神分析理論」を書きましたが、そこに書かれていることは、今の私の主張とほぼ同じです。その本にはホフマンも出てきていますし、「無意識はあまりに複雑すぎて、私たちには太刀打ちができない」などのことを書いていますから今と大体同じようなことをすでに言っていたわけです。という事は1987年に渡米してから10年間のうちに「展開」が訪れたという事になります。

さてもう少し私が「転回」にいつ頃至ったかを絞って考えると、1991年ごろ、35歳のレジデントの3年目には明らかにクライン派よりはコフート派にひかれていました。私はクライン派のバイザーのとらえ方に明らかに違和感を持っていましたし、レジデントの最終年度は自分に会ったバイザーを選ぶことが出来ましたので、コフート派の先生であるドクターキューリックを選びました。この年は「治療者の自己開示」も書いて分析研究に掲載されたということは、もうこのころは私は確信犯だったといえるでしょう。

という事は時期としては1987年から1991年までに、少なくとも好き嫌いははっきりしていったわけです。そしてこれ以降は

1991年  治療者の自己開示 (これは匿名性についての再考です)
1996
年  禁欲原則の再考  (これは文字通り禁欲原則の再考です)
1997
年  自己開示再考、治療者が自分を用いること (これはある意味では治療者の受け身性に関する再考です。)と発表しました。

すなわちフロイトの基本原則、つまり匿名性、禁欲原則、受け身性についてことごとくそれをそのままでは受け入れるべきではないという立場を表明し、それぞれが「新しい精神分析理論」の主だった章になったという事は、私は1990年代前半にこの立場を形成したという事になります。そうしてこのような基本原則に対する相対的な立場に近い理論としてはコフート理論や関係論があったという事でごく自然に関係論に結びついていったという流れになります。


2021年6月28日月曜日

嫌悪 11

  他方嫌悪についてはどうか。アルコールは苦手だという人は、お酒のコマーシャルを見ると、「ゲーッ」となる。その時脳の活動を見ると、少なくとも報酬系は興奮せず、とこか別のところが興奮するらしい。報酬系の反対の役割をする部位はおそらくたくさん脳内にあるはずだが、仮にそこを扁桃核に代表されるような「処罰系」という場所を想定するならば、そこが興奮することになる。ということは断酒のための嫌悪治療は少し込み入ったプロセスを必要とする。一つには報酬系が興奮しなくなること、そしてもう一つは処罰系が興奮するようになること。これら二つのプロセスを成功させなければならない。さもないとお酒は、たとえば「美味不味(ウママズ)い」となってしまう。ちょうど鞭で打たれるのが「イタキモチいい」となるように。酒の匂いを嗅ぐだけでも嫌になってこそ断酒が出来るのに、これでは何かのはずみでいつまた飲み始めてしまわないとも限らないではないか。しかし嫌悪治療では見事に酒を「嫌い」になるのだ。なぜだろう?
 おそらく嘔吐剤がいかに脳に働きかけるかにより、この治療の効果が決まってくるのではないだろうか。吐き気を催しているときには、何を食べてもおいしいと感じない。吐き気を感じることで、あらゆる食物は一気に嫌いな対象になってしまうという仕組みが出来上がっているらしいのだ。私は子供の頃よく熱を出した。すると食欲が落ち、吐き気が生じたが、その時口に入れたものはとてもまずいと感じ、それは熱が下がった後も嫌いな食べ物になってしまうことに気が付いた。そんな経緯で特にニンジンが嫌いになった。ただ私は熱を出す前にすごくニンジンが好きだったわけではない。その体験の前にニンジンは私の報酬系を興奮させていたわけではないのだ。ということは私がニンジン嫌いになるためには、一つのプロセス(ニンジンを食べることで処罰系を興奮させる)を果たすだけで済んだわけである。

ところで「処罰系」が分からないといっていたが、こんなネットの記事を拾った。

Brain Pathways of Aversion Identified ·February 14, 2019(Summary: Researchers have identified a specific pathway between the hypothalamus and habenula that controls feelings of aversion).

何と、もとの論文がネットでただでダウンロードできた!!

Lazaridis,I., Tzortzi,O., Weglage,M. et al. (2019)  A hypothalamus-habenula circuit controls aversion. Mol Psychiatry 24, 13511368. 

 嫌悪をコントロールするのは、脳下垂体と手綱 habenula の間の経路である、という。こんなことが最近になってわかったのだ。という事はこれまでは「いやだ!」という時に能のどの部分が活動しているかが分かっていなかったという事になる。
 この報告によると、恐れに関しては扁桃核が一番怪しいとされていろいろ研究されていたが、不快や嫌悪についてはあまりわかっていなかったという。そして最近では手綱という部位が快感や不快に携わっているという動物でのデータが得られているという。そしてこの部位の脳部刺激がうつ病に効果があるということもわかってきた。この部位はセロトニンもドーパミンもコントロールするということだ。

この種の研究を探しているうちに、次の論文を発見した。

 Kawai,T., Yamada, H., Sato, N. et al. (2015) Roles of the lateral habenula and anterior cingulate cortex in negative outcome monitoring and behavioral adjustment in nonhuman primates. Neuron, 2015, DOI: 10.1016/j.neuron.2015.09.030

  筑波大と関西学院大学と京都大学の先生方の研究だが、イヤな体験をするとき、サルの脳では前帯状皮質と外側手綱核という部位が興奮する。そうか、「処罰系」の代表はここだったのか。しかし両者の役割が違う。後者は嫌なことがあれば同じように反応するが、前者は「またかよ、やってられないぜ」という反応の仕方をするのだ。それが重なるたびにより大きな反応をするのだ。これはある意味では不快体験の蓄積、あるいは積分値に反応していると言えるのではないか。


     医学部時代の講義前の仲間との写真。筆者は二段目右から二番目



2021年6月27日日曜日

嫌悪 10

 以上のことからある重要な考えが浮かび上がる。「嫌悪=ストッパー説」である。そして実際嫌悪刺激を嗜癖などの治療に使うという試みが知られる。ネットで手に入る論文を読んでみた。
Elkins, RL, Richards, TL, et al (2017) The Neurobiological Mechanism of Chemical Aversion (Emetic) Therapy or Alcohol Use Disorder: An fMRI Study. Frontiers in Behavioral Neuroscience.2017.00182

 アルコールの嫌悪治療aversion therapy などはいくつかの研究がある。この研究ではアルコール依存症の患者さんたちを入院させて、嘔吐剤を服用したのちアルコールを試飲してもらう。当然激しい嘔吐を引き起こすので、「アルコール=気持ちを悪くするもの」という条件付けが生まれるわけだ。これを数セッションやると、被検者の多くはアルコールを見ただけで嫌悪観を催し、飲まなくなるという。約70%の患者さんは一年が経過してもアルコールを飲んでいなかったというのだ。
 この研究の一つの売りは、fMRIを用いて、断酒に成功した人の脳の活動を調べ、明らかな変化が見られたということである。後頭葉に活動の低下が見られたと報告している。
 ちなみにこの研究は少し予想に反しているところがある。本当は活動が低下してほしいのは側坐核などの報酬系のはずである。後頭葉がどうして関係してるのかわからない。
 そこで改めて考えてみる。嗜癖とは何か。アルコール依存の人は、お酒のコマーシャルを見ると喜びを覚える。報酬系が興奮するのだ。ただし実際にお酒を飲んでいるわけではないので、「一杯やりたい!!」となる。これを渇望craving という。この渇望が最近のDSMのクライテリアにも新たに導入されたという。(ちなみに物質依存の診断基準も随分変わったものだ。以前ならアルコール濫用とアルコール依存を区別し、後者の条件としては離脱と耐性がある、というシンプルなものだったが、ここにそういえば渇望はなかった。確かに「吞まないでいると苦しい(離脱)、酔うために飲む量が増えていく(耐性)」というだけだと、肝心の「飲みてー!」(渇望)に言及していないことになる。(まあ飲まないと苦しくなり、たくさん飲むようになった人が「呑みてー!」とならない、ということはほぼあり得ないが。)これは物足りないことになる。ともかくもDSM-5ではアルコール問題を軽度、中等度、重度に分けているだけだ。そしてそれは11のクライテリアのうちいくつを満たすかによって決まってくる。23つだと軽度、45だと中等度、6以上だと重度だという。しかしこの11の中には、離脱(11番目)と耐性(10番目)も含まれる。この二つだけガッツリ満たしている「軽度」アルコール使用障害もあるんだろうか?それはおかしな話だ。

2021年6月26日土曜日

嫌悪 9

  嫌悪というテーマで書いているのであるが、実は嫌悪に直接触れてはいない。私はもっぱら快、不快について書いていたのだ。でもやはり不快と嫌悪は違う。というよりは不快感に含まれるが、それ独特の性質を持つ。言うまでもないことだが、対象性である。嫌悪は対象に対して向けられる。英語ならばAversion, dislike, hate…。「~を嫌悪する」という場合は目の前から消し去りたい、目を背けたい、そこから遠ざかりたいような「何か」に対する感情である。そしておよそあらゆる生命体がその反応を示す。おそらくそれは実際にその生体にとって危険物で、その生存を脅かすためにいわば条件反射として備わった反応なのである。私たちはそれが脳の辺縁系という部分にある偏桃体と深く関与することを知っている。ということは嫌悪とは偏桃体において何らかの対象物が感作された状態とみていいだろう。偏桃体が切除された場合に生じる反応はクリューバー・ビュッシー症候群と呼ばれ、興味深い記載はネットですぐ見つけることができる。
平山 恵造順大学脳神経内科)先生による、「Klüver-Bucy (クリューヴァ・ビュシィ)症候群」の記載(Brain and Nerve 脳と神経 26巻4号 (1974年4月))からの引用。

 1937, 1938, 1939年にわたつてHKlüverPCBucyが,猿の両側の側頭葉切除に際して現われた症状を記述した。すなわち,生物,無生物,有害物,無害物を問わず,逡巡することなく接近する行動,すなわち Lissauer 連合型精神盲,または視覚失認を思わせるような行動を呈する(psychic blindness物をやたら口にもって行き,口中に入れ,噛み,なめずり,唇でさわり,鼻先でにおいをかぐなどの動作がみられる(oral tendencies).食べられないものは捨て,食べられるものはのみ込む。目にうつるものは生物,無生物を問わず,あちこちと視線を送り,それに反応する。周囲の事物,変化に対しあたかも強いられたかのごとくに反応する(hyper—metamorphosis)。怒り・不安の反応が消失し,危険物をさけなくなり,無表情となることもあり,情動行為が変化する。ときには攻撃的反応をとることもある。(emotional behavior changes性行動が変化し,heterosexualhomosexualautosexualなどの性行動がみられる(increased sexual activity)。

 この様子を思い浮かべる限り、この猿の心は壊れてしまっているという印象を受ける。特に⑤が興味深い。いろいろなものとセックスをしたくなるのだ。人間の症例などを読むと出てくるが、ごみ収集車やエッフェル塔と性交をしたがる、などの兆候が表れるとも記載されている。つまり偏桃体とは生命体が経験から、あるいは本能的に嫌悪するような対象を識別し、そこから身を遠ざけるのを助けてくれる器官なのだ。そして性交渉などの特別な対象との特別な行為の際にのみにこの偏桃体による抑制が外れるということなのだろう。

2021年6月25日金曜日

私の考えが固まっていったプロセス 1

 私が精神分析に触れたのは、心を考えることを生業にしようと考えた医学部時代でした。しかしフロイトを読んだというわけではなく、唯一の例外は、医学生のころフロイトの夢判断を文庫で読んだという体験ですが、これには全く歯が立たないという印象でした。ただ心を分析する、という意味の精神分析は、フロイト理論だけではないとその頃は思っていましたので、精神分析に興味は持ち続けていました。

 本格的に精神分析理論を勉強したのは、やはり精神科の研修医になり、小此木先生の指導を受けるようになってからです。1982年からの3年間、慶応の精神分析セミナーに毎週通いました。小此木先生はまだ50代の前半で最も脂が乗りきっていた時期といっていいでしょう。そこでフロイト、クライン、ウィニコットやフェアバーンなどの対象関係論、カンバーグ理論などについて教えていただきました。個人的に「岡野君、岡野君」とかわいがってくれたという体験は私にとっての宝でした。なぜならセミナーは10人程度のメンバーでしたから、先生は顔を覚えてくれたのです。私にはこの体験はとても大きいものでした。なぜなら精神分析ではそれ以降父親的な優しさを与えてくれる先生にはあまり出会わなかったからです。そして実に不思議なことに、その頃私はクライン派に対する苦手意識はありませんでした。私はその当時はどの理論がどのようなことを主張しているかについて、一生懸命勉強して覚えこむのに精一杯でしたから、それらの個々の理論に対する意見を持てるような状態になかったわけです。私は2004年に帰国してからクライン派の理論には苦手意識を持つようになりましたが、それはアメリカで精神分析を勉強して帰ったという身でクライン派から一種の敵意やライバル視をされるという体験を持ってからのことです。勘の鋭い人間であれば、例えばクライン派とコフート派では全くの水と油ということはわかるはずですが、私は実際にクライニアンの先生方との情緒的な衝突を体験するまでそれがわからなかったという非常に鈍いところがありました。
 さてもう少し私が「今の考え」にいつ頃至ったかを考えると、1991年ごろ、35歳のレジデントの3年目には明らかにクライン派よりはコフート派にひかれていました。私がバイザーの先生方とどのような論争をしていたかを考えるとそれがわかります。この年は「治療者の自己開示」も書いて分析研究に掲載されたということは、もうこのころは私は確信犯だったといえるでしょう。
 さて精神分析にどのような理論があるのかについて一通りの文献に触れたのが1998年くらいでしょうか。トピーカのインスティテュートに入ることを許されて19941998年にレクチャーコースを修了するころには一通りの理論に触れていたことになります。さて私が新しい精神分析理論を書き上げた1999年には、ほぼ今言っていることをその本の中で言っています。脳科学のことはあまり出てきませんが、「無意識はあまりに解剖学的に複雑すぎて、私たちには太刀打ちができない」、などのことを書いていますから、基本的な概念は脳科学由来です。またこの本で紹介した「提供モデル」という概念は、私が分析研究に1998年に発表しています。しかしこの本にはまだ1998年に出された Hoffman の「儀式と自発性」からの引用はありません。それは私が2003年に出した、続編ともいえる「中立性と現実」にやや詳しく紹介してあります。

2021年6月24日木曜日

関係性精神療法セミナーの告知です

          関係性精神療法セミナーの告知です
    【Web開催!】関係性精神療法セミナー【Web開催!】

        精神分析の学び方:関係論編

このセミナー・シリーズは、2011年に第1回が開かれ、今年で第11回目を迎える。関係精神分析(関係論、関係性理論、関係性精神療法)は、対象関係論、サリバン派、コフート派、間主観性理論、自我心理学などを包括的に含み、現代のアメリカ精神分析の新しい流れを総括するものである。
これまで本セミナーでは、エナクトメント、動機づけシステム、共感と解釈、フェミニズム精神分析、無意識空想など、精神分析の根幹に関わる様々な概念をテーマに取り上げ、フロアの先生方と議論してきた。こうした議論は、精神分析の伝統的な理論体系を再検証することで、関係論の立場からの臨床実践を豊かにすることに貢献するものだったと思っている。しかし同時に、そうした議論がときには概念の知的理解が中心になりやすい印象があったことも否めない。
そこで今年は、精神分析を学ぶということがどのようなことなのにかついて、関係論の立場から考えてみたいと思う。関係論の立場からの訓練や学習は、伝統的な精神分析の訓練や学習と異なるのだろうか、それとも、同じなのだろうか。精神分析を実践する者は、初学者から経験者まで、必ず何らかの訓練や学習に触れていたはずである。フロアの先生方とともに、それぞれの体験を共有しながら精神分析の学び方について考えてみたい。今回は、京都の精神分析的心理療法の研究所KIPPで訓練を受けられ、卒業後も積極的に精神分析実践を探求しているA&C中之島心理オフィスの長川歩美先生を指定討論にお招きし、さまざまな学習の場所や方法を広く視野に入れながら議論を深めていきたいと考えている。当日は、アンケートなどを用いながら、参加者と積極的に対話を進めていきたいと考えている。(※Web開催のため、ご自宅にいながらセミナーに参加可能です)

参考文献: 吾妻壮 著(2019)『精神分析の諸相: 多様性の臨床に向かって』(金剛出版)富樫公一著(2018)『精神分析が生まれるところ』(岩崎学術出版社)
Koichi Togashi (2020) The Psychoanalytic Zero: A Decolonizing Study of Therapeutic Dialogues. New York & London: Routledge.
岡野憲一郎著(2018)『精神分析新時代―トラウマ・解離・脳と「新無意識」から問い直す臨床場面での自己開示と倫理』(岩崎学術出版社)

◆ 日 時:2021年7月4日(日曜日) 午前10時~午後3時
(進行具合により多少の延長も考えられます)
◆ と こ ろ:インターネット会議室zoom利用
      *事前に専用のアプリをインストール頂く必要があります。
      *インターネットに接続されたご自宅のPC、スマホ(3G以上)等、利用可能。
◆ 発 表 者:岡野憲一郎(京都大学)・ 吾妻壮(上智大学)・富樫公一(甲南大学)
◆指定討論:長川歩美(A&C中之島心理オフィス)
司 会: 岡野憲一郎、富樫公一
◆ 受 講 料: 5,000円
◆ 定 員: 60名
◆ 申込方法:参加申込書にご記入の上、E メール、 FAXまたは郵送でお申し込みください。
受講の可否を申込書に記載の E メールまたははがきにてご連絡いたします。
振込み先を ご確認の上、受講料をお振込みください。
◆ 申 込 先:〒160-0004 東京都新宿区四谷 3-4 SC ビル 6 階
小寺記念精神分析研究財団セミナー事務局 FAX 03-3350-9749
E-mail:kodera.kt@nifty.com
◆ 申込期限:2021年6月28日(月)
主催:小寺記念精神分析研究財団

2021年6月23日水曜日

パーソナルセラピー 2

  マッサージのこの比喩からわかることは、その上級のマッサージ師は教師であるとともに反面教師でもありうるという事だ。ああ、こうやってもんでもらうといいんだ、という体験もあるし、「それちょっと違うんじゃないかな?」という事にもなるだろう。おそらく「こうやってもんでもらえばいいんだ」という体験が最初は多いからこそこの体験には意味がある。でもマッサージを自分自身でも施術するようになる過程で、ここはこうやって欲しい、とかそこは触って欲しくない、という事もわかるであろうし、ああ、先生は案外迷いながら、手探りでマッサージを行っているんだな、という事もわかるであろう。
 ところで分析を受け始めた私たちがまず体験するのは、分析家の対応の仕方はほかのあらゆる場面での会話と質が異なるということである。おそらく分析家はかなり受け身的で、自分の個人的な情報や考えを語ろうとしないであろう。普通ならいわばギブアンドテイクで進んでいく会話が、精神分析的な治療では進んでいかない。アナリザンドはそのことを前もって精神分析に関して持っていた知識からある程度予想していたかもしれない。「これが分析的な態度というものなんだな」と思うだろうし、実は自分が治療者としての経験を持っている人の中には、「この姿勢は私が治療者としてクライエントと関わる際のものにおそらく似ているだろう。」と考える人もいるだろう。自分は力動的な治療者としての経験を久しく持っていながら、自分自身のセラピーを経験していないという人は意外に多いものである。ただしそのことと、自分がそのような受け身的な治療者との間で体験することは全く異なるはずである。そして至極当然のように、次のように自分に問いかけるはずだ。

「分析家は私とどうして普通に話せないのだろうか?」「どうして分析家は質問に答えてくれないのだろうか?」もちろんあなたはいろいろ分析家に問いかけたり、もう少し普通に反応してくれるように頼むかもしれない。しかしおそらくほとんどの場合その成果は不十分であり、そのような疑問に行きつくだろう。

 ある実際に起こりうる状況を想定してみよう。「私は妻との関係についていつも話していますが、先生ご自身は結婚なさっているんですか?」そしてそれに対して何ら明確な返事をもらえなかったとする。あなたはおそらく「私の分析家がこの問いに返事をしてくれないのはどうしてだろう?」
 この問いをいかに大事にし、それをいかにまっすぐに追求していくところから、パーソナルセラピーの真のかかわりが始まると言っていい。もちろん「分析的な治療者は患者の質問に軽々しく答えない」という常識をあなたは知っていたかもしれない。でもそれは自分がクライエントになった際には全く別の意味を持つ。治療者の「~すべきでない」は今やクライエントの椅子に座っているあなたには全く関係のないことである。問題は自分が問いかけたい根拠があり問いかけ、それに答えがもらえないとしたらなぜそうなるのかについて問いただすことである。これは治療者にとっては挑戦的な態度と受けとらえかねない。しかしある意味では治療とはそのようなものである。精神分析では、「患者は○○してはならない」という規定を設けていない。患者はクライエントとして、というよりは社会人としての分別をわきまえているであろうが、そしてその過程であなたの分析家の度量の広さや、逆に限界についても知ることになる。もちろんスタイルについてもわかるはずだ。
 とはいえ私は分析家が即座にそれに対して回答をするかどうかということで分析家の力を知ることが出来る、というたぐいのことを言いたいのではない。治療者が患者の問いかけにいかに反応するかは、実は正解などなく、治療者自身が本当はその回答を得るために格闘しなくてはならない問題である。分析家がそれをあなたとの問いかけを通して行う姿勢を見せるとしたら、あなたはとても幸運だろう。
この分析家との対決についてはもう少し後に述べたい。

 

2021年6月22日火曜日

パーソナルセラピー 1

  パーソナルセラピーを通して関係精神分析を学ぶというテーマであるが、これは実はかなり混み入ったプロセスである。いわば教育分析を通して学ぶという事であり、分析の世界では昔から行われていることであるが、このプロセスで起きうることは実はとても複雑である。

  従来教育分析には、教育する、という意味と治療するという意味が両方含まれていた。実際にお手本を示してもらえるという意味では実に分かりやすく効率の良い学び方と言える。あるいは究極の学び方と言ってもいい。そしてなぜか、教育分析を受けた被分析者はその分析家の学派に属するのが当たり前、という習慣があるのだ。例えばクラインに分析を受けたシーガルやリビエールは当然クライン派になるし、フェレンチに教育分析を受けたバリントはフェレンチアンであるし、ウィニコットに受けたマスッド・カーンはウィニコッチアンと目される。しかしこれがどうしてあたり前の様にそうなっているのかは一度考えてみる必要がある。
ひとつ比喩を思い浮かべよう。貴方がマッサージ師になりたいとする。すると教育マッサージというのを受けなくてはならないという。それは上級のマッサージ師にマッサージをしてもらいながら学んでいくというシステムだという。自分の体のケアをしてもらいながら、ケアの仕方を学ぶ。しかもマッサージをする人は、される側の体験を持つべきである、という理屈もよく分かる。さてこの教育マッサージはうまく行くだろうか? 
  

2021年6月21日月曜日

嫌悪 8

 健康な苦痛と不健康な苦痛

状況A: ある男性が奴隷的な境遇に置かれて、苦役を強いられて重い荷物を運ぶことを想像しよう。当人はそれを一種の虐待と感じ、そのような運命を恨むことになるだろう。その苦行を一生忘れまいと考えるであろう。これは一種のトラウマだろうか。おそらく。

状況B: ある男性が筋トレに励んでいる。彼はアームレスリング道にはまり込み、世界大会に出て入賞することを夢見る。重い荷物、ならぬバーベルを一日何百回も持ち上げる。これもある種の苦行であるが、彼はそれを嫌がっていない。それどころか毎日何回バーベルを持ち上げるかを決めていて、それを遂行しないことに我慢が出来ない。彼は夢に向かって歩んでいると感じ、バーベルを何度持ち上げようと、平気だと感じるかもしれない。

 状況A,Bでその男性は同じ苦痛を味わっているだろうか。これについてはいろいろな意見があるであろうが、私はこれを一応等号で結びたい。苦しいものは苦しいのである。

あまりうまくない思考実験だがいくつか考えてみた。状況Bで一日100回バーベルを上げると決めていた人は、100回を超えると途端につらくなるかもしれない。「今日の分は終わったのに。」あるいは自分が全く鍛える必要のない筋肉に負荷をかけるトレーニングとなるととたんにやる気をなくすかもしれない。あるいは週に一日完全にオフと決めて楽しみにしていたとしたら、その日に急にトレーニングとなるときついかもしれない・・・・。うーん、あまり説得力がある話が出来ないが、要するに私は健康にいい苦痛と悪い苦痛を分けようとしているのだ。自分の為になっている苦痛か、為になっていない苦痛か、という違い。この議論は以前にした、冷房がない時代の暑さと、冷房がある(のに誰かのせいで使えない)時の暑さの違いとも似ている。あるいは階段で一人で足を踏み外して捻挫をした時と、誰かに押されて倒れて捻挫した時の違い。被害者意識が伴うことで苦痛は大きくなる。というよりは被害者でない時は苦痛そのものでもないのかもしれないとさえ思う。それはあえて言えば「現実」にしか過ぎない。昔の人は喉が渇いて水を飲みたいと思ったら、井戸端まで足を運び、筋肉を使って水をくみ上げた。これは一つの労働、労作である。今なら水道をひねるだけでいいだろう。いきなり断水になって、水を近くのコンビニに買いに行くとなったら面倒くさい、苦痛だと感じるだろう。でも井戸に水を汲みに行った時代の人は、これを苦痛と感じただろうか。単なる「現実」ではないだろうか。

 

 

 

2021年6月20日日曜日

嫌悪 7

 ここで「症例 HM」(記憶をつかさどる海馬を手術で切除された有名な症例)の話を思い出した。彼は海馬を持たないために新しい記憶を作り出すことができない。すると彼が手術を受けて以降起きたこととして、親しくしていた人がなくなったという話を聞いて嘆き悲しんだという。しかし次の日にはそれを忘れていて、再びその話を聞くと、また悲しみに浸ったという。こうして同じことを何度も悲しくもとになったという。なんと不幸なことだろうか。彼は覚えるということができなかったためにそれを忘れる、ということもできなかったことになる。
 実はこのエピソードの裏を取ろうとしたが結局わからず、スザンヌ・コーキン (), 鍛原 多惠子 (翻訳) 「ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者HMの生涯 単行本 – 2014/11/21に行き着いた。しかしどうせなら英語をkindleで読もうということで、SUZANNE CORKINPermanent Present Tense: The man with no memory, and what he taught the world を注文する。
 それはともかく、苦痛は記憶と深く関係している、ということからどのように論を進めていったらいいのだろうか。大切にしていたUSBメモリーをダメにしてしまう。それは苦痛な体験だが、これをもう少し抽象化した思考実験ができないだろうか? 私の銀行口座にいくらあるか知らないが、仮に10万円が失われるとする。例えば交通違反か何かをして罰金を支払わなくてはならないような場合だ。私は苦痛を感じる。しかしUSBメモリーと違ってその10万円にまつわる記憶など特にない。銀行残高が10万円減少するという、単なる記号である。しかしどうしてこれほど苦痛なのだろうか? 具体的なイメージとか表象に関係ないのであれば、記憶は関係ないということになるだろうか?いや、そんなことはない。もし私が明日になって、「そういえば残高が10万円減るんだったな」と思い出す。そのときはおそらくかなりその苦痛は減っている。もし私がHMさんのように昨日のことを全く忘れていたら、違うだろう。「あー、そうだった!」とまた同じような苦痛を味わうかもしれない。とするとこれも一種の悲嘆反応ということになる。おそらく私は10万円という価値がどのような具体的な利得と結びついているかをイメージできる。家賃ひと月分、とか。するとそれがなくなるのはその利得のイメージの喪失を意味するのだ。そういえば初めて外国に行ったとき、その国の紙幣がおもちゃに見えてしまい、それを使うことに全く実感がなかった。こんなおもちゃのような紙で、こんな立派な本が買えるんだ、という印象があったのを覚えている。

2021年6月19日土曜日

CAPA(キャパ)という団体について

 とある事情があってオンラインの精神分析について調べているうちに、中国とアメリカの間でもっぱらオンラインによるトレーニングを行っている団体があることを知った。その名前はCAPA(The China American Psychoanalytic Alliance)米中精神分析同盟?という。
​2001年にエリーズ・スナイダー Elise Snyderというアメリカの分析家が北京と成都に招かれたのが始まりであるという。その後米国と中国の関係者が協定を結び、それには北京と西安のメンバーが加わった。その後成都の分析家たちがアメリカの分析家たちに、スカイプでのトレーニングを申し入れ、コロンビア分析協会のDr. Ubaldo Leli という人がそれを受け入れて、事実上のCAPAが始まったという。2008年には2年のコースが作られた。現在では400人の生徒と卒業生がCIC (キャパチャイナ CAPAINCHINA)という団体を構成しているという。

2021年6月18日金曜日

母子関係 推敲 5

生物学的意味合い
 最近では乳幼児研究の分野で、様々な知見が得られている。赤ん坊は生まれ落ちたときに白紙状態なわけではない。新生児の段階から親の模倣をする(新生児模倣 neonatal imitation)とされる。
Meltzoff AN, Moore MK. Imitation of facial and manual gestures by human neonates. Science. 1977; 198:75–78
Meltzoff, AN and Moore, MK. (1989) Imitation in Newborn Infants: Exploring the Range of Gestures Imitated and the Underlying Mechanisms Dev Psychol. 25(6): 954–962.

 つまり母子の間の活発なコミュニケーションは生下時からすでに始まっている。最近では母子の交流に関する実証研究が進み、特に母親からの語り掛けがそのほかのモード(視覚刺激、触覚刺激など)を伴うことで促進されることが示されている。具体的には、母親から声掛けと同時に身体的な接触があった場合には、その声掛けを訊いた際の赤ちゃんの神経学的な変化に、事象関連ポテンシャル(ERPs)や脳波のレベルで顕著な差が見られたという。By using electroencephalogram (EEG) and event-related potentials (ERPs), the present study investigated how neural processing involved in A-T integration is modulated by tactile interaction. Seven- to 8-months-old infants heard one pseudoword both whilst being tickled (multimodal 'A-T' (audio-tactile) condition), and not being tickled (unimodal 'A' condition). Thereafter, their EEG was measured during the perception of the same words. Compared to the A condition, the A-T condition resulted in enhanced ERPs and higher beta-band activity within the left temporal regions, indicating neural processing of A-T integration.

Tanaka, Y., Kanakogi, Y., Kawasaki, M., Myowa, M. (2018) The integration of audio-tactile information is modulated by multimodal social interaction with physical contact in infancy. Dev Cogn Neurosci. 30:31-40.

 さらに同様のマルチモーダルなかかわりは、母親の側の神経学的の情報処理にも顕著な変化を与えたとされる。
Auditory cues enable mothers to convey referential information, which directs infants’ attention to specific objects or to specific aspects of the environment18,19. Furthermore, tactile cues (e.g., hugging, touching, and kissing) are important signals of interaction between mothers and infants20
Tanaka, Y., Hukushima, H., Okanoya, K. and M, Myowa, M. (2014) Mothers’ multimodal information processing is modulated by multimodal interactions with their infants. Scientific Reports 4(2):6623

 これらの研究が示すところは大きい。すなわち母子が関わることによる情緒発達は計り知れず、しかもそれは接触を介することでより大きな意味を持つ。
 このことと子供が泣いたら抱き上げるかほっておくかという西欧と日本の差を考え直そう。泣いたときに抱き上げて視線を合わせるということは、それがあまやかしかどうかは別にして情緒発達を促すということになる。赤ちゃんが泣いたら抱き上げるべきか否か、という問いには、乳幼児研究に立場からは答えが決まっている。それは「抱き上げるべし」なのだ。

2021年6月17日木曜日

母子関係 推敲 4

 総合考察—母子関係の二タイプと複数の含意 implication

この論文では日本における子育てについて、甘えの概念を含む精神分析的な文脈に即して論じた。そしてこの世界では漠然とした、しかしそれなりに歴史のある二つの子育て観が併存していることを示した。それを土居の文脈で表現するならば、

「日本型」の子育て  甘え(受身的愛 passive love)への反応性の高さに特徴づけられる。

「西欧型」の子育て  甘え(受身的愛 passive love)への反応性の低さに特徴づけられる。

 すなわちこれらは二つの別々のもの、というよりは甘えニーズへの反応性の高、低により便宜的に分けられたことになる。そこでこのように子育て観を二つに分けたことにどのような意味があるのだろうか? この論文の冒頭で述べたように、私はこれらのどちらかに優劣をつける目的も、またどちらかの二者択一的な選択を促すという目的も持たない。それは物事を理解する上での一つの区分という意味合い以上を持たない、と述べた。精神分析的な文脈でこれを考える場合、これらのいずれかが正しいということにはならない。それはウィニコットの子育てにみられるように、どちらもありであり、その時々の判断で母親が決めていくことなのである。しかしそうはいってもこれらは両極端の子育てとして、白か黒かという形で取り入れられることが多く、それが問題を生む。その要因をいくつか挙げることで総合考察に替えたい。それらとは文化的な意味合い、生物学的な意味合い、民俗学的な意味合い。これらがスプリッティングを起こしてしまっている。

  文化的な意味合い
 文化的な意味合いに関しては、まぎれもないことであろう。赤ちゃんはお母さんの肩におぶさっていた。お母さんはそうやって仕事をしていたのである。すると母子の進呈的な密着はほぼ文化的な要請があったとみていいだろう。もちろん今では乳母車を使う母親も増えたので、状況は変わってきたが。しかしそのような身体的、物理的な意味合いだけでなく、心理文化的psychoculturalな含みはどうか。例えば日本文化においては、人々は甘えニードを感知する能力が高い(西欧人は相対的に低い)という可能性があるだろうか。実はそれを提案していたのがほかならぬ土居健郎であった。

(ここにすでに書いた部分を嵌め込むのである。)

 「甘えの構造」(1971)でアメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた感想について、彼は以下の記述を行っている。 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients. patients. In other wordsthey were slow to detect the concealed amae of their patients.」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16) つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」 つまり自分が「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことをする自由は他人によって与えられるものではない。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。「好きにさせて!」には重い責任が付きまとうのだ。そして土居はルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
 「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96Scholar Juan Luis Vives (1492- 1540) :“「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96People in the Westhoweveras the Vives quotation suggestsseem to feel that thanks carry with them shamewhich in turn hinders the feeling of gratitude. In the attempt to wipe out the sense of shame the Westernerone might suspecthas striven for long years not to feel excessive gratitude and thus passive love.Anatomy of D, p.86

 この文章は、一見極端で意味が通じにくいが、誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。そしてこのVivesのいう恥を「負い目」と読み替えるのであれば意味が通じる。他人から何かをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。その意味で自分の弱さ needinessを認めることになる。西欧人はこれを認めることを良しとしないという事になる。
 土居は欧米の母子関係において、甘えという概念や言葉を欠いていることを「文化的条件付け」と言い換えているが、それにより欧米人は「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えないという。つまり「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。しかし土居はまた甘えがフェレンチやバリントの「受身的対象愛」と同等なものと述べ、それが日本文化に独特のものであることは否定してもいる。
 土居はこのように述べるときに西欧の鈍感さというネガティブな側面について論じているという印象を与えるが、逆に日本人の在り方をネガティブに表現してもいる。たとえば日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念は甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。すなわち日本人は日本社会ではそれなりにこの独立を成し遂げていると考えるべきである。西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。それと比較して、日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。 このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。結局日本人と西欧人は、生まれ持って他者の甘えニーズに対する敏感さに違いを持っている.


2021年6月16日水曜日

オンラインと精神療法 7

 4.「テレプレゼンス」の問題とOSの新たな可能性

  最後にいわゆるtelepresence というテーマで論じたい。このテーマはOSに固有の問題であり、あえて言えばOSのメリットともデメリットともなりうる。発想としては、私のセラピーやSVを受けている方々の中には、多少時間がかかっても、あるいは感染の危険性を冒しても、私のもとに通い、対面でセッションを設けたいという人がいるという事である。私がその理由を尋ねると、彼らにとっては、OSでは私と会っているという実感がわかないというのだ。そして私の中の微妙な逆転移反応に耳を傾けてみると、私が個人的に会っていて心地よいクライエントやバイジーが直接対面を望むことは私自身にとってもうれしい体験となることに気が付いた。確かに対面では相手と会っている、接している、触れ合っているという実感があり、それはOSには欠けている可能性がある。ただし私はここでOSでは対面状況に比べて何かが欠けている、不足しているという見方には留まりたくない。おそらく実際の対面とOSの両者は別物であり、互いに異質であるという見方をしたい。ここで私はtelepresence という用語を用いたいのであるが、このような概念がすでにみられ、この概念が私がここで考えている対面とOSでの相手の互いの在り方の違いを比較的うまくこの言葉に乗せることができるように思えるからだ。

 ちなみにZhaoはこのテレプレゼンスについて、次のように定義する。

「これは一種の人間の同時的存在であり、それぞれが別々の場所に居て、身体的な意味で身近であるphysical proximity代わりに、電子的な意味で身近であるelectronic proximityことである。彼らはそれぞれの肉眼で見える距離の外にあるが、それでも電子的な通信ネットワークにより互いにすぐ傍にいるのである。

 A form of human colocation in which both individuals are present in person at their local sites, but they are located in each other’s electronic proximity rather than physical proximity. Although positioned outside the range of each other’s naked sense perception, the individuals are within immediate reach of each other through an electronic communications network (Ahao, 2003, p.447)

  このように定義されたテレプレゼンスの概念は、これも立派な身近に存在するあり方であるということを保証してくれている。そしてプレゼンスでもテレプレゼンスでも、分析的な治療は成立するのだ、と言われているような気がするのだ。ただし私が注目したいのは、ちょうど私の一部のバイジーさんたちのようにOSでなく対面の方をどうしても選択するという人たちとは別に、OSの方をあえて選択する人たちもいるという事だ。すなわち彼らにとっては、プレゼンスよりもテレプレゼンスによる交流がより好ましく感じられているようなのである。
 私のあるバイジーさんのクライエントは、それまでの対面からZOOMを用いたセッションになり、自分がそれ以前よりはるかに自分の気持ちを話すことが出来ることに気が付いたという。その方は特に治療者に対しての考えを伝えやすくなったという事だ。その他にもOSにすることで何となくリラックスできるという体験を持つ方は多くはないとしても一定の割合でいらっしゃるようである。ではOSによるテレプレゼンスの何が、クライエントやバイジーにリラックスしてより心を開く効果を及ぼしたのであろうか。
 そこで私が思い浮かべるのは、すでに視線の問題でも触れた点である。OSにおいては両者の視線は原理的に合わせられないようになっている。そしてそれだけでなく相手がすぐそばにいる場合にはノンバーバルで伝わってくるもの、あえて言葉にすれば「気配」のようなものが、テレプレゼンスの場合には希薄になっているのではないだろうか。対面場面ではその相手の存在感presence に伴う気配に圧倒されてしまう人が、OSにおいてはそれに被爆しなくて済む。テレプレゼンスは、その視線が自分に合わせてくる可能性(危険性?)を含めた「気配」が希薄となるのではないかというのが私の考えである。
 ここではプレゼンスとテレプレゼンスの違いとして、被曝することとか、視線を合わせてくる危険性、とかいう言い方をしているが、それはこれが一種の対人恐怖や羞恥心の感覚ともつながる問題だと私が実感するからである。私個人は対面場面で視線の交わし合い(避け合い?)から生じる緊張感に時には苦痛を感じるが、TPはそれを軽減することにより、リラックス効果を与えるのではないか、それにより話者はより「素」になれる場合があるのではないか、というのが私の考えである。
 ここでテレプレゼンスにおいては「気配オフ」になるという事情に触れたが、実はこの気配は、相手のそれがオフになるだけではない。対面状況では相手に伝わるであろう自分の気配に関しても、OSではオフになるのである。対人恐怖者は自分が相手に及ぼす気配をも恐れる。私は対人恐怖の人がヘッドフォンで音楽を聴いている時には店に自由に入れたり店員と会話ができたりする一つの理由は、自分の立てる足音を含めた自分自身の気配のモニタリングが低下するためであることを見出した。これは考えてみれば自己視線恐怖の心性にもつながる、自己の「気配」への敏感さとも関係していると言えるのだ。
 この「気配」の問題に関して私が最近興味深いと思ったのは、学校でもオンラインの授業が取り入れられることにより、一部の登校拒否の生徒たちはとても大きな恩恵を被っているという事である。一部の生徒はオンラインの授業が開始されることで、新しい学びを得たり課題をこなしたりという事に喜びを感じているという。不登校の中にはこのように対人恐怖的なバリアーが取り払われることで、周囲の気配や自分の気配に脅かされることなくタスクをこなすことが出来る。
 このように考えるとOSを体験することは、おそらくそれにより初めて心を開放できるクライエントもいるという気付きを与えてくれるのではないかとも思う。フロイトは100年以上前に寝椅子を用いだし、患者の視線をオフにした治療を編み出したわけであるが、私たちがOSに特有の性質、TPの方を選択するような治療があってもおかしくないのではないかと思う。ただしそれは通常私たちが知っている精神分析とはかなり異なるものになるかもしれないが。 

2021年6月15日火曜日

オンラインと精神療法 6

 3.OSのメリットとデメリット

ここで私の実体験から見たOSの利点と問題点について考えてみたい。利点としては、言うまでもないことであるが、セッションに通うための時間だけでなく、交通費も節約されることである。これは治療のために遠隔地から通うクライエントにとってはこの上ない利点といえる。これにより国内の異なる地方、あるいは地球上の異なる地域に在住している治療者と患者の間でのセッションが可能となる。この利点は地方在住のアナリストやアナリザンドにとっては計り知れないことになる。

フロイトの時代にはおそらくセッションに通うクライエントは同じ界隈に居住しているという人を除いては、遠隔地から治療者の近くに長期間滞在するという形が取られていたと想像する。そこでは精神分析のセッションを毎日持つということは、そのために一定期間は分析を中心とした生活を送るという前提があったのであろう。そしてその間は仕事を休むという形にせざるを得ないクライエントも少なくなかったのではないか。ということは精神分析のクライエントは、働かずにその上治療費を賄うことが出来るような裕福な人たちであったという事になる。つまり精神分析を受けることができるのは一部の特権的な人々に限られていたということになる。

このことはとても大事な点であり、現在週に5回とか6回のセッションを行うとしたら、セラピストの側もクライエントの側も、かなり条件がそろっていなくてはならないことになる。そのうちの一つはクライエントの側に潤沢な時間的な余裕があることである。もちろん治療費を払えるだけの経済的な余裕があることも条件となるが、それはセラピストの側が低額で行うということでその負担をかぶるという形になる。結果的にトレーニングケースの一定の部分は、仕事がなく経済的にも豊かとはいえないクライエントが占めることになる。そしてそのうちの一部は抑うつやパーソナリティの問題などで仕事を得ることができない、すなわち機能レベルが決して高くないクライエントが精神分析の対象に選ばれることにもなる。しかしそれはあまりにもフロイトが行っていた精神分析の実践と異なることになる。
  ちなみに私の米国の体験では、メニンガー・クリニックに分析に通う場合には、車で10分程度の移動時間をその前後に設ければよかったので、フロイトの時代の分析と同じような条件が成立していたと考える。メニンガーに勤務して同じキャンパス内の分析家のもとに通うという条件は分析治療を受ける際には、セッションに通うための時間は限りなくゼロなので極めて理想的だと感じたと同時に、同様の機会は交通事情がより困難な都会や、日本においては得難いであろうと想像していた。そして実際に帰国してからほかの候補生たちの苦労話、たとえば他県にまで長時間かけて教育分析を受けに通った方々の話を聞くことで自分の場合はなんと恵まれていたことかと思ったものである。

 そして少なくともOSにより移動時間や交通費の問題が大幅に解決することは、精神分析の対象となるクライエントの機能レベルをより高めるということにもつながるだろう。仕事前の一時間をセッションに充て、あとは仕事も含めて通常の社会生活を送ることのできる人々が分析の対象となる可能性が高まるとしたら、OSを用いることのメリットは、単なる時間的な問題には限らないということになる。

さてOSの第2のメリットは、対面場面に特有ないくつかの問題を解決してくれることである。ギャバードはその「長期力動的精神療法」のテキストの中で、セッション中にノートをとることがラポールの形成の妨げになり、またセラピストが時々時計に目をやるのを気が付くことでクライエントが傷つく可能性があるために、面接室での時計の位置に配慮が必要であると書いてある。これらはことごとく対面で行うセッションを行うことに伴う懸念である。これらの問題はオンラインの設定にすることで、完全に解消しないまでもかなり軽減するであろう。

もう一つOSのメリットは、クライエントの「帰宅問題」を解消してくれるということである。これは要するに患者がセッションの後解離を起こしたり、脱力症状を呈したり、あるいはクライエントの希死念慮が高まるなどして安全な帰宅が保証できないという場合に生じる問題を解決してくれるということだ。クライエントがセッションの後に何らかの形で動けなくなった場合、セラピストは患者の家族を呼び寄せたり、新たな救護場所を必要としたり、など様々な問題が生じ、その日の外来のスケジュールが大幅にくるってしまうこともある。オンライン診療のメリットはこれらの問題を一挙に解決してくれるのである。

次にOSのデメリットについても考えたい。OSは非常に便利なものだが、同時にクライエントの側にある種の設定を必要とする。セラピストは多くの場合通常のオフィスを用いればいいが、クライエントの側が自宅の環境にプライベートな空間を保証することが難しい場合がある。しばしばクライエントは自宅の中で防音がしっかりして声が家族に漏れないような場所を確保することに困難さを有する。時にはセッション中に部屋に押し入ってくる幼い子供の面倒を見たり、餌を欲しがって飼い主を呼ぶ犬の世話のために中座したりしなければならず、それでなくても家人に聞かれているのではないかとの懸念で内緒声になったりする。治療を受けていること自体を家族に伏せているようなケースでは、オンラインの治療は非常に不都合であったり、事実上不可能であったりする。さらに細かいことにはなるが、機材の設定がうまくいかず、相手の声が聞きづらかったり、途中で回線が途切れてセッションがいきなり中断を余儀なくされるなどの問題は頻繁に起きる。

もちろんこのプライバシーの問題はセラピストにもある程度は該当する。セラピスト側が仕事場のオフィスからではなく、自宅からOSを行う場合は、プライバシーの問題はしばしばクライエント以上に重大な問題となる。クライエントの側は家族が効いている可能性についてそれほど問題にしない場合もありうる。しかしセラピストが面接の内容を外に漏らすことは決して職業上許されることではないからだ。

ただしこの文脈では実はこのコロナ禍ではOSのメリットがもう一つ加算されることになる。通常の診療場面ではドアをわずかに開けて換気することが時には必要となるが、OSにおいては診察室には治療者が一人なので、部屋を閉め切り、OSを行うことが可能になるのである。

ここでOSのデメリットとして論じた点に関しては、私たちがオンライン治療を行うことを余儀なくされた一年以上前に比べれば、はるかに多くの経験を持ち、多くの経験値を積むことによりかなりスムーズにそれを行えるようになってきていると思う。私の偽らざる感想を言えば、私たちがこのような文明の利器を手に入れて、四半世紀前までだったら考えもしなかったような遠隔地の間でのセッションが可能になったことに、はっきり言って実感がないほどである。たまたまこのシステムがフロイトの時代に確立したなら、新し物好きのフロイトがZOOMによるセッションを取り入れてOSを取り入れたことはほぼ間違いないと思われる。婚約者マルタに1000通を超える書簡を送り、フェレンチとは数百通の手紙を交わしたフロイトが今の世にいたら、ラインやメールを死ぬほど活用したであろうし、ブタペストのフリースとは毎日のようにズームでやり取りしたであろうことはほぼ間違いがないであろう。ただそれにより交流の進展も加速し、フリースやフェレンチとの関係も実際よりずっと早く進展して、収束してしまったかもしれないと想像する。

2021年6月14日月曜日

オンラインと精神療法 5

 2.オンライン・セッションに関する個人的な体験

 私の体験からお話すれば、私は昨年の春まではZOOMを用いた対話というものをほとんど体験していなかった。それが心理面接やスーパービジョンの代替手段になるともあまり真剣に考えていなかったし、それを用いたカンファレンスや研究会にもそれほど興味を持っていなかった。実際の対面での面接や研究会などにはとてもかなわないだろうと思っていたからだ。しかしコロナの影響でやむを得ずZOOMなどを様々な場面で用いることになり、OSは思っていた以上に活用ができることに驚いているというのが正直なところである。ただしOSは、カメラ・オンとオフでかなり異なるという実感があり、時と場合により使い分ける必要があると考えている。

 カメラ・オンの体験

ZOOMなどでお互いにカメラ・オンで行うOSは、設定によっては相手の顔が大写しになり、自分の顔も大写しになるという特徴がある。ZOOMを用いるようになり、私たちの多くはセッション中の自分の顔をまじまじと見るという体験を治療者として初めて持ったのではないか。そしてこれは一部の自己愛的な傾向を有する治療者を除いては、あまり心地いい体験とはなっていないようである。私自身はたとえカメラ・オンの場合でも私自身の顔は見えないようにしたり、きわめて小さいサイズに保ったままにしたりし、相手の顔もかなり小さくする傾向にある。そして相手側がどの様な設定にしているかは、カメラ・オンか、オフか以外にはわからないので、かなり個々のユーザーに自由な選択の余地があることになる。例えば相手がカメラ・オンでも、こちらがその顔を意図的に遮断するということが可能なのであり、これは対面のセッションでは不可能なことである。つまりこちらが相手の顔を見ていないことを、相手が気が付かないという状況をOSでは作ることができるのだ。

ここで一つ気が付くことだが、カメラ・オンのOSは、それでもクライエントとの視線は決して正確には合わないということである。ふつう私たちはモニターに映ったクライエントの顔に向かって話す。決してカメラに向かって、ではない。そしてクライエントもモニターの私に向かって話すのであり、カメラに向かってではない。ということは両者は決して正確には目線を合わせることができない。目線を合わせようとすると両者がカメラに向かって話すことになるが、そこには相手の顔は映っていないことになる。逆にもし相手が自分の目を見据えて話してきていると感じたら、実は相手はこちらの目線をそらせてカメラを見ていることになる。(実際にカメラオンにした時の自分と目線を合わせようとしてみるとよい。決して自分と目を合わせることはできないのである。)私は実はカメラオンのOSが持つこの特徴は、視線を合わすことのストレスをかなり軽減しているのではないかと考える。しかしこの件はまた後程改めて論じよう。

 カメラ・オフの体験

それに比べてカメラ・オフでは、寝椅子を用いたセッションにとても似せることができるという印象を持った。カウチを用いたセッションの一番の特徴は、クライエントが横になり連想をするということ、そしてもう一つはその間お互いに視線を合わせないということである。その意味ではお互いにカメラ・オフにして行うセッションは、寝椅子を使ったセッションの代替手段としてとてもうまく行くという印象を持つ。最初と最後だけカメラ・オンにして挨拶をし、セッション中はオフにし、あとはクライエント側がヘッドギヤを装着して体を横にすることで、寝椅子を使ったセッションにかなり近い状況を再現できるのである。(先ほどの議論を思い出せば、OSでは視線を合わせる対面の状況は決して再現できないが、寝椅子を用いた状況はそれをかなり正確に再現できることになる。)ただし私はそれを週一度の寝椅子を用いたケースに対して行っているだけであり、週4回のケースに対しては試していない。週4以上のケースでは同じようにカメラ・オフで面接を行った場合にどこまで同じ雰囲気を再現できるかどうかは私には実体験がないのでわからない。おそらくかなり違ったものになるのではないかと想像する。

2021年6月13日日曜日

オンラインと精神療法 4

 さてこのOSの問題は、もちろん昨年以来私たちを悩ませているCOVID-19 の出現よりかなり前から論じられており、ユング派の専門誌によれば、近年では中国での大掛かりな研究が2005年から中国とアメリカで行われたことが知られている。中国の70人の精神科関係の専門家がアメリカ人の分析家から教育分析とスーパービジョンをすべてオンラインで受けながら、週3から5回の精神分析と、週に一回から三回の力動的精神療法を行ったものである。これはかなり大きな議論を巻き起こしたというが、それでもこのTeleanalysisに関する実証の伴う研究は、少なくともCOVID-19以前には少ないと言われていた。しかし現在では様々な研究が行われていると想像する。
 紙ベースで送られてくるInternational Journal of PAの最新号にも、すでにいくつかのコロナ関係やteleanalysisの論文が見られている。本来はこのような発表にあたってそれらの文献を読むことから始めるべきであるが、まずは例によってこの問題に関する私の個人的な経験を整理したい。私は何か論文を書く場合にはまず文献を読む前に自分の現実の体験を書いておくことにしている。それは文献を読んでいく段階でかなり知性化されて行ってしまい、現実の体験を理解するうえで様々なバイアスを持ってしまうからである。
 私の体験からお話すれば、私は昨年の春まではZOOMを用いた対話というものをほとんど体験していなかった。それが心理面接やスーパービジョンの代替手段になるともあまり真剣に考えていなかったし、それを用いたカンファレンスや研究会にもそれほど興味を持っていなかった。実際の対面での面接や研究会などにはとてもかなわないだろうと思っていたからだ。しかしコロナの影響でやむを得ずZOOMを用いることになり、OSは思っていた以上に活用ができることに驚いているというのが正直なところである。ただしOSは、カメラ・オンとオフでかなり異なるという実感があり、時と場合により使い分ける必要があると考えている。

2021年6月12日土曜日

オンラインと精神療法 3

 改めて書き直し。

オンラインによる精神分析的な治療がどの程度可能かについて考察するが、このテーマにはいくつかの問題が含まれていると考える。
 一つはオンラインによる治療が従来行われてきた精神分析の実践の質をどの程度保証できるのか、果たしてそれは同等のレベルにあるものとして扱われるべきなのか、それとも質の劣る代替手段 poor substituteなのか、あるいはそもそも代替手段とはなりえないのか、という問題である。
 もう一つはオンライン・セッションのように、従来私たちが考えている週4回以上、寝椅子を用いるという治療形態以外の治療構造において行われるセッションを、今後どの程度精神分析の訓練の一環として用いることができるのか、という問題である。こちらの方はもちろんオンライン・セッション以外の治療形態についてもその考察の対象とすべき問題である。フロイトが始めた週6回の寝椅子を用いた精神分析はその後それに変更を加えようとする様々な試みがなされた。それらは電話を用いたセッション、メールを用いたセッション、一日複数回のセッション、週末だけに固めたセッション、いわゆるシャトルアナリシスなどであり、これを訓練の一環としてどの程度認めるのかはこれまでもたくさん議論されてきたことである。ただこの問題はとてもすそ野が広いテーマなので今日は特に論じる予定はない。
  最初に用語の問題であるが、電話やインターネットを用いた精神分析的な試みは様々な名称で呼ばれ、議論されてきている。これまでTechnology-assisted analysis, remote psychoanalytic work, teleanalysis, etc.などの用語が用いられてきた。私はインターネットを用いたセッションをオンライン・セッション、略してOSと表現させていただく。また治療者と非治療者のことを簡便に、セラピストとクライエント、という呼び方にとどめておく。なぜならオンラインでアナリスト、アナリザンドという言い方を用いると、これが精神分析の一つの形式として用いられることを前提としているかの印象を与えるかもしれないからだ。

2021年6月11日金曜日

どのように伝えるか 推敲の推敲 2

 2.  患者にいかに伝えるか?

 解離性障害とはどのようなものか?についての説明

精神科医は患者に対する心理教育を行う際に、たとえ話や比喩を用いることが多い。例えばうつ病であれば「ストレスによる心の疲れ」とか「過労による心身の不調」、あるいはいわゆる「適応障害」などの表現が、漠然とうつ病の姿を描き出す。統合失調症やその他の精神病状態の場合は、「現実と空想の区別がつかなくなった状態」や「自分の妄想の世界にとらわれてしまった状態」などと表現できるだろう。また神経症一般については、「気の病」「神経質」「心身症」などの表現がなされ、多くの人が自分の日常心性をそれに重ねてその病状を思い浮かべることが多い。「自律神経の乱れ」などの表現はこれらの精神疾患を身体症状との関連を含めて曖昧に言い表す場合に用いられることが多い。
 ところが解離性障害の場合、そのように一般的な言葉でその病気を伝えることはなかなか難しい。臨床的な文脈でしばしば用いられる「知覚や思考や行動やアイデンティティの統合が失われた状態」(ICD-11, DSM-5)という説明も、具体性に乏しく、今ひとつ説得力に欠けるようにも思える。それに加えてDIDのように複数の人格が一人の中に存在するという現象は、それ自体が常識を超えていて荒唐無稽に聞こえてしまう恐れがある。そのことが解離性障害を理解し、説明や教育を行う上での大きな問題となりうる。

私自身は解離を脳における神経伝達路やネットワークの異常と考えている。上に示した神経症や精神病や気分障害には比較的緩やかに始まり徐々に進行し、その回復にも時間を要するという特徴がある。それは全体として炎症反応になぞらえることが出来るであろう。ところが神経ネットワークの問題はそれらとは異なり、癲癇発作等に見られるように比較的急激に発症して急速に、ないしは瞬時に回復するという特徴がある。そのために心を脳の神経ネットワークとして理解してもらうことが一番の近道であると信じる。
  
「解離性障害とは何かを一言で言い表すのは難しいのですが、次のように考えてもらいましょう。心とは一種のネットワークだと考えてください。このネットワークは神経細胞と神経線維からなるので、これを神経ネットワークと言います。たとえるならばこれは地上に張り巡らされた送電システムのようなものです。神経細胞は電柱、神経線維はそれらを幾重にも結ぶ電線のようなものだと想像してください。私たちが何かを覚えるということは、あるネットワーク上のつながりのパターンが出来上がることですし、体からの感覚や体を動かす運動は、そのネットワークが皮膚や筋肉に繋がっていてそことの信号のやり取りをします。私たちは普通意志の力でそのネットワークの働きをコントロールしていますが、時々断線や混線が起きて、筋肉に信号がいかなくなったり、記憶のネットワークにアクセスできなかったりします。すると心の機能や体の機能がバラバラになってしまい、いろいろ不思議な症状が起きます。急に物を思い出せなかったり、急に声が出なくなったり、歩けなくなったり、という事はそうしておきます。どうしてこの混線が起きるかは詳しいことはわかっていませんが、これらを解離症状と呼んでいます。」

ただしこれではDIDの説明にならないので、DIDに関しては改めて次のように説明する。「さてDIDについては少し込み入ったことが起きます。心とは神経ネットワークから生まれてくると説明しましたね。ところが人によってはいくつかの神経ネットワークが同時に出来上がるという不思議なことが起きます。すると一人の頭の中にいくつかの心が同時に存在するという事が起きます。そしてお互いに別人のように感じるのです。それは複数の脳が共存している状態、つまり一人の家に他人同士が同居している状態にかなり近いのです。そしてその複数の人が一つの体、つまり一組の耳、目、口を共有するので、混乱してしまうという事が起きるのです。」
 ここまで説明した時にパソコンにある程度詳しい人なら次のように伝えてもいいかもしれない。「実は一つの人格はパソコンやケータイに入っている一つのアプリやOS(オペレーションシステム)のようなものと考えてもいかも知れません。私たちはいくつかのアプリを同時に立ち上げることが出来ますね。ユーチューブなどで、いくつかの映像を同時に流してしまい、声が重なったりすることがあるでしょう。DIDではそれと似たようなことが起きているのです。

何が解離性障害の原因なのか、についての説明

 (以下略)「精神医学」2021年11月号に所収予定

2021年6月10日木曜日

どのように伝えるか 推敲の推敲 1

 本論文では解離性障害の当事者に対して行う「実感と納得に向けた病気の説明」について論じるが、その背景には最近諸外国で論じられることの多い「共有意思決定Shared decision making (SDM)」という概念がある。これはいわゆるインフォームドコンセント(説明をした上での同意、以下IC)の先を行く概念であり、ICよりさらに丁寧な、いわばその患者寄りのバージョンと考えてもいいであろう。
 ICにおいては医者は患者に対して次のように語りかけるであろう。「このお薬は~などの効果と副作用がありますが、それをご理解なさった上で、よろしければこの書類にサインしてください」。それは以前にありがちだった「黙って私の出す薬を飲みなさい。」という医師の態度よりははるかに好ましいといえよう。しかしそれでもICの際に患者からは次のような不満が聞かれることも多い。「早口で説明されただけなので、実はあまりわかっていなかった。」「もっと時間をかけて分かりやすく、他にどのような薬があるのか、飲まなければどうなるかも説明して欲しい。」
 患者の側からすれば全くその通りであろう。そしてこれを目指すのがSDMというわけである。ただし医師の立場からすれば、SDMを実行することはとても手間と時間のかかることでもある。薬一つを処方するために最初に患者に説明すべきことはたくさんあるが、大概はそれだけでは終わらない。さらにその薬AをBに替える際には、Bの副作用のリストアップをして、またAからBに具体的にどのように切り替えるのか、Aの量をどのようにして減らしていき、どのタイミングでBを始めるか、など説明も必要になろう。ところがその説明の為に患者一人当たりの外来の時間を延ばす余裕はほとんどないというのが多くの臨床家の実情である。
 そこで私が本稿で述べる内容は、SDMのための時間が比較的潤沢にとれる際に行う患者への説明についての提案だとお考えいただきたい。なお類似の論考については岡野(2012)をご参照されたい。
1. 治療者が理解しておくべき前提-解離性障害の診断を惑わす要素

まず医師に対して私から「説明」をさせていただきたいことがある。それは解離性障害を理解し説明するに際してご理解願いたい事柄である。それはその診断を惑わすいくつもの要素があるという事だ。

解離性障害が含みうる症状が幅広いということ
 解離性障害の分類は徐々に精緻化し、細分化してきている。たとえば最新のICD-11の分類では、従来の「転換性障害」の代わりに「解離性神経症状症 Dissociative neurological disorder という呼称が与えられている。そしてそれはさらに以下の下位分類を持つ。
視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、めまいを伴うもの、その他の感覚変容を伴うもの、非癲癇性の痙攣を伴うもの、発話障害を伴うもの、脱力または麻痺を伴うもの、歩行症状を伴うもの、運動症状(舞踏病、ミオクローヌス、振戦、ジストニア、顔面けいれん、パーキンソニズム、のうちのいずれか)を伴うもの、認知症状を伴うもの。
 すなわちこれは解離症状が神経の障害のあらゆる表現形態を呈する可能性があることを表している。それは精神科のみならずあらゆる身体科の症状と、見た目は類似する可能性がある。精神疾患の中で、そのような性質を有するものは解離性障害をおいてほかにない。そして大概の場合症状が現れた時点で神経内科や身体科を受診することとなり、そこで診断がつかずに精神科に送られ、最終的に解離性の病理が同定されるケースも多い。
 解離性の身体症状の中でも痙攣はしばしば精神科医と神経内科医の両方にとって混乱のもととなっている。これが従来偽性癲癇、ないしはNon-epileptic seizure (NES, 非癲癇性痙攣)と呼ばれる病態であるが、この偽性癲癇の患者の50%は真正の癲癇を伴うという報告もあることだ(Mohmad, et al. 2010)。すなわち真性癲癇と偽性癲癇は共存する可能性が高いという、診断する側にとっても非常にややこしい事情がある。
統合失調症のような症状を呈すること
 解離性障害のもう一つの問題は、それがしばしば精神病様の症状を伴うために、診断を下す立場の精神科医の目を狂わす可能性が高いということである。しばしば語られることであるが、DIDのケースは「シュナイダーの一級症状」を統合失調症以上に満たすとされる(Kluft, 1987)。考案者のK.Schneider は「(一級症状)が異論の余地なく存在し、身体的基礎疾患を見いだすことができない場合、われわれは臨床上、謙虚さを持ちつつ統合失調症と呼ぶ」としたとされる(Schneider, 2007)。以来長きにわたってこの一級症状は統合失調症を臨床的に診断する上での決め手と考えられてきた。特に「させられ体験」と「会話しコメントする声」は、DSM-Ⅲに始まりICD-10に至るまで、統合失調症の診断の一部に組み込まれたくらいである。(ちなみにDSM-5においては大きく方針が変更となり、一級症状を重んじる立場は見られなくなった。)
 多くのDIDのケースを手掛けたKluftは、この一級症状のうち特に「させられ体験」(特に感情領域について)、「考想奪取」、「思考吹入」等が多くみられる一方では、「考想化声」、「考想伝播」、「妄想知覚」については一例も見られないとした(Kluft,1987)。この主張は筆者の臨床経験とも一致するが、一つの大きな疑問を呈してもいる。果たしてSchneider が見ていたのは、統合失調症の患者だったのか、それともDIDとの混合だったのか、という点である。DIDの概念が当時の精神科医の間でほとんど整備されていなかったことを考えると、E.Bleuler やSchneiderが扱っていたケースにはSchizophrenia に交じって解離症状を呈する多くの患者が含まれていた可能性もあるのである(O'Neil, 2009)。
 私がここで強調したいのは、統合失調症のようなメジャーな疾患でさえも、その診断基準や分類はその時代により大きく変わり、それまでの常識が覆ることもあるということだ。(破瓜型、妄想型、緊張型などの精神科医にとってはなじみ深かった分類がDSM-5で消えてしまったことを考えればそれがよく分かる。)その意味では「幻聴と聞いたら統合失調症」という従来の精神医学的な常識も疑い直さなくてはならないのである。
 実際にはDIDにおける幻聴や周囲の人々との体験に関係念慮的なニュアンスが加わることもあり、それは重症対人恐怖症における精神病様症状の鑑別の難しさに通じるところがある。結局DIDの診断には症状の縦断的な流れを聴取することがとても重要になるのだ。幼少時から生じている解離様症状については、それがDIDの症状であるという可能性をより強く考えつつ、場合によっては統合失調症との併存を考え、少量の抗精神病薬を用いて反応を見ることも試みることも考えるべきであろう。通常解離性障害における精神病様症状は抗精神病薬にあまり反応しないが、DIDの方で抗精神病薬を少量服用することでより安定する場合がある。
詐病のようなふるまいをすること
解離性障害について理解を深めるうえで重要なのは、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。その理由についてはすでに述べた通り、解離性の症状が精神科のみならず身体科のあらゆる症状を示す可能性があるからであり、このため一般科の医師のみならず本人にとってもどこまでそれを意図的にコントロールしているかがわからなくなってしまう場合もある。
 ある患者は台所でネギをトントンと刻んでいるうちに足も同じリズムでガクガク言い出し、ついには両足が痙攣のような動きをし始め、コントロールが出来なくなってしまったという。その患者は一時は救急車を呼ぶことも考えたというが、その症状はほどなくして治まった。しかしそのような訴えを聞いて「自作自演ではないか」という疑いの目を向ける精神科医も少なくないのではないか? また別のケースではあるDIDの患者が診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から瞬時に主人格に戻って受付で普通に会釈をした。その様子を観察していた看護師から、患者がそれまでは幼児人格を装っていたのではないかと疑われた。
 これらの事情から解離性障害は詐病扱いをされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。また一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人には様々な人格を見せる一方で、それ以外の場面ではそれらの人格の姿を消してしまうという様子がしばしば観察され、それも上記のような誤解を生む一因となっているのであろう。治療者はその様な扱いを患者が受け続けてきた可能性も含めて話を聞き、それまでの苦労に理解を示すことも重要になってくるであろう。そして何よりも解離性障害を扱う臨床家は、そのような「疑い」の気持ちを起こさせる傾向を自分たちの中に見出すことも大切である。

2021年6月9日水曜日

オンラインと精神療法 2

  2の問題、すなわちフロイトの週4回以上、寝椅子を用いるという形態以外のセッションがどの程度「分析的」か、どの程度スタンダードに見合ったものとするかという問題についてはどうだろうか。これは精神分析の本質的な問題にかかわることというよりは、いかに訓練を平等に、均一に行うかという問題に関連しているように思う。精神分析がある標準的な構造をもち、分析家のトレーニングで何を要求されるかが決まれば、それに従わないやり方を認めるかどうかは当然問題にされる。その際に参考となるのが、いわゆるテレアナリシスをどのように認めるかという問題であろう。

この問題に関しては恐らく様々な見解が出されているであろう。最近の文献で目についてものを読んでみても、「テレアナリシス」は時には大きな効果を及ぼす、という事が書いてある。Ehrlich, LT (2019) Teleanalysis: Slippery Slope or Rich Opportunity?Journal of the American Psychoanalytic Association, 67(2):249-279.

さて私の体験をだいたい書いたので、参考文献として以下のものを読んでみる。

Lucio Gutiérrez (2016) Silicon in ‘pure gold’? Theoretical contributions and observations on teleanalysis by videoconference. Int.J. Psychoanal. 98:1097-1120.

 

科学技術の発展とともに、様々な分析の携帯が可能になった。オンラインチャッティング、text messaging, videoconference, など。それを共時的synchronic(オンラインチャッティングなど、リアルタイムなもの)と通時的diachronic email, 文通など)という風に分類するようである。そこでは身体的な遠隔存在 bodily telepresence が成立しているという。これを Zhao はこのように定義する。A form of human colocation in which both individuals are present in person at their local sites, but they are located in each other’s electronic proximity rather than physical proximity. Although positioned outside the range of each other’s naked sense perception, the individuals are within immediate reach of each other through an electronic communications network (Ahao, 2003, p.447)

これは人間の一種の同時的存在であり、それぞれが別々の場所に降り、身体的な意味での近接関係physical proximityの代わりに、電子的な意味での近接関係electronic proximityにある。彼らはそれぞれの肉眼で見える距離の外にあるがoutside the range of each other’s naked sense of perception、それでも電子的な通信ネットワークにより互いにすぐ傍にいるwithin immediate reach of each other。まず1960年代から、電話による分析の問題は存在していたという。そして様々な議論はあっても結論は出ないという事がずっと続いていたという。

 

2021年6月8日火曜日

どのように伝えるか 推敲 2

2. 患者さんにいかに伝えるか?

解離性障害とはどのようなものか?についての説明

 精神科医師は患者に対する心理教育を行う際に、たとえ話や比喩を用いることが多い。例えばうつ病であれば「ストレスによる心の疲れ」とか「過労による体調不良」、「精神的な疲労」などの表現が、漠然とうつ病の姿を描き出す。統合失調症やその他の精神病状態の場合は、「現実と空想の区別がつかなくなった状態」や「自分の妄想の世界にとらわれてしまった状態」などと表現できるだろう。また神経症一般については、「気の病」「神経質」「心身症」などの表現がなされ、多くの人が自分の日常心性をそれに重ねることが多い。「自律神経の乱れ」などの表現はこれらの精神疾患を曖昧に言い表す場合に用いられることが多い。
 ところが解離性障害の場合、そのように一般的な言葉でその病気を伝えることはなかなか難しい。臨床的な文脈でしばしば用いられる「知覚や思考や行動やアイデンティティの統合が失われた状態」(ICD-11, DSM-5)という説明も、具体性に乏しく、今ひとつ説得力に欠けるようにも思える。それに加えてDIDのように複数の人格が一人の中に存在するという現象は、それ自体が常識を超えていて荒唐無稽に聞こえてしまう恐れがある。そのことが解離性障害を理解し、説明教育を行う上での大きな問題となりうる。
 私自身は解離を脳における神経伝達路のレベルでの異常と考えている。上に示した神経症や精神病や気分障害には比較的緩やかに始まり、その回復にも時間を要するという特徴がある。それは全体として炎症反応になぞらえることが出来るであろう。ところが神経伝達上の問題は、癲癇発作等に見られるように急激に発症し、回復するという特徴がある。そのために心を脳の神経ネットワークとして理解してもらうことが一番の近道であると信じる。
「解離性障害とは何かを一言で言い表すのは難しいのですが、次のように考えてもらえば比較的わかりやすいのではないかと思います。心とは一種のネットワークだと考えてください。このネットワークは神経細胞と神経線維からなるので、これを神経ネットワークと言います。神経細胞は結び目、神経線維はそれらを幾重にも結ぶ電線のようなものだと想像してください。私たちが何かを覚えるときは、あるネットワーク上のつながりのパターンが出来上がることですし、体からの感覚や体を動かす運動は、そのネットワークが皮膚や筋肉に繋がっていてそことの信号のやり取りをします。私たちは普通意志の力でそのネットワークの働きをコントロールしていますが、時々混線が起きて、筋肉に信号がいかなくなったり、記憶のネットワークの内容を取り出せないという不思議なことが起きます。すると心の機能や体の機能がバラバラになってしまい、いろいろ不思議な症状が起きます。急に物を思い出せなかったり、急に声が出なくなったり、という事はそうしておきます。どうしてこの混線が起きるかは詳しいことはわかっていません。」

ただしこれではDIDの説明にならないので、DIDに関しては次のように説明します。「さてDIDについては少し込み入ったことが起きます。私たちの心、というのも実は一つの大きな神経ネットワークから生まれてくるものなのです。ところが人間の脳にはいくつかの神経ネットワークが同時に出来上がるという不思議なことが起きます。すると一人の頭の中にいくつかの心が同時に存在するという事が起きます。でもお互いに別人のように感じるのです。なぜならそれは複数の脳が共存している状態、つまり一人の家に同居している状態にかなり近いからです。そしてその複数の人が一つの体、つまり一組の耳、目、口を共有するので、混乱してしまうという事が起きるのです。」

 ここまで説明した時にパソコンにある程度詳しい人なら次のように伝えてもいいかもしれません。「実は一つの人格はパソコンやケータイに入っている一つのアプリのようなものと考えてもいかも知れません。私たちはいくつかのアプリを同時に立ち上げることが出来ますね。ユーチューブなどで、いくつかの映像を同時に流してしまい、声が重なったりすることがあるでしょう。DIDではそれと似たようなことが起きているのです。

何が解離性障害の原因なのか、についての説明



身体疾患や精神疾患の際に、患者や家族はしばしばその「原因」を問う。よく私たちは「どういう育て方をしたらこうなるのか?」「育て方を失敗した」などという表現を用いることからも明らかである。そしてそれは解離性障害についても同様である。また両親は自分たちから何かの要因が遺伝したのではないか、と思うことも多い。さらに最近では様々な外傷的な出来事、例えば家庭での虐待や学校でのいじめなどに原因を探ることも多い。また患者当人が「自分がこうなったのは親のせいだ」という考えを持つことも多い。これらの原因はある場合には大いにあり得ることで、また別の場合には考慮する必要があまりないこともあり、応え方は非常に難しくなる。

心理教育の立場からは、「何が原因なのか」という問いかけに対しては、以下のような一般的なものが適当と考える。
「一般的に言えば、子供が幼少時に体験したトラウマや深刻なストレス体験が、精神疾患にかかるリスクを押し上げています。それは精神疾患一般に言えることすし、解離性障害についても同じです。特に幼少時の深刻な性的身体的虐待を含めた幼少時のストレス体験が発症に深く関係しているようです。さらには生まれつき催眠にかかりやすい傾向の人たちがいて、その人たちは解離という心の働きを起こしやすいことが知られています。それに比べて子育ての仕方は、各家庭ごとに様々なバリエーションがありますが、それが精神疾患の発症に影響を与えるとしても間接的で偶発的な形でしかないと考えられます。」
「ただしここで一つ重要なことがあります。子供が小さいころに親からひどい育て方をされて、それを恨んでいたり、傷つけられたと感じている場合、親の側からは、実際の子育ての場面でトラウマ的なことが生じていなかったように思えても、子供にとってはトラウマになってしまう場合があります。そこでそれは不幸な出来事として受け入れざるを得ないこともあります。」そして次に付け加えたいのは、私が最近実感していることである。
「子育ての時期は、親は子供に対して絶対的な力を持っています。その親に叱られたり無視されたりすることは、実は子供にとって想像以上につらく、恐ろしい体験だったりします。もちろんそればかり考えていたら、親は子供を叱ったり、時にはほかのことに気を取られて子供の注意を払わなかったり、ということは一切してはならないことになってしまいかねません。もちろん親も普通の人間ですから、そのような機会を完全に避けることは無理でしょう。でも親の子供へのあらゆるかかわりが、絶大なインパクトを持ちかねないことを念頭に置くことは大切でしょう。」

DIDの治療とはどういうことをするのか、についての説明 特に「解離の治療は症状を悪化させないか?」について

 解離性障害、特にDIDの診断の告知に関連して非常に頻繁に持たれる懸念がある。それは解離性障害と診断されたり、交代人格として特定されることが、患者にとって新たなアイデンティティになり、結局その病理の悪化につながったりするのではないか、というものである。実際に解離症状をそれと認め、治療対象とみなすことは、その障害をさらに悪化させ、固定化するという考えを持っている臨床家は少なくない。杉山も以下のように述べ、その風潮を懸念している。「一般の精神科臨床の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?)が主流になっているように感じる。」(杉山登志郎)

発達性トラウマ障害と、複雑性PTSDの治療 杉山登志郎 誠信書房 2019年

 この懸念を持つ場合は、交代人格を、本人とは別人として扱う、あるいはDIDの症例に存在する交代人格を数え上げる作業(いわゆる「マッピング」)などは、まさに症状を「悪化」させるものとして捉えられるであろう。このように解離性障害の診断や治療が悪化につながるという考え方に対する心理教育については、次のような考え方を示すことが望まれる。
「解離性同一性障害を含めた解離性障害一般については次のように考えてください。解離性障害とは人間の脳に別の意識が宿っている状態です。それは基本的にあなた自身でも、あなた自身の一部でもありません。いわば「一心同体」ではなく、「異心同体」なわけです。ですからあくまでも交代人格とはできるだけ協力関係を保つ必要があります。ちょうど同じ家に同居している人のように、交代人格もあなたと同じようにそこに住む権利があると感じていることでしょう。ただその同居人はこれまでずっと押し入れに冬眠していて、一時的に今起き出しているかもしれません。あなたとしては同居人がまた冬眠すればそのうちを自由に使うこともできるでしょう。冬眠するか起き出すかはその同居人の事情によるので、あなたが必要以上に気を遣う必要はありませんが、起きている以上は連絡を取り、その都合を聞き、協力体制をとる必要があります。」
 このように説明して、解離性同一性障害の治療の基本はできるだけ起きている交代人格たちの声に耳を傾け、それを主人格にも薦める必要がある。なお、交代人格を扱うと固定化されてしまうという懸念については次のように言うことができます。
「解離症状はそれが生じることが許されることで、表面上は一時的に促進される可能性は確かにあります。解離された部分の多くは、自ら姿を現そうとする圧力を備えています。その場合治療者はそれにブレーキをかける必要も生じるかも知れません。例えば仕事中に子供の人格が出てきては困る場合などです。しかしむしろ抑えられていた解離が治療場面などである程度解放されることで、それ以外ではむしろ出にくくなることも考えられるのです。」
 実際DIDにおいては、ある交代人格の解放及び出現が次々と別の部分の解放の連鎖を生むということがある。その最初のきっかけは、話を聞いてくれる恋人の存在、治療者との関係の深まり、あるいは再外傷体験などである。これは、そもそも解離している部分は自己表現を許されなかったために、存続してきたという事情を思えば、治療的な進展を意味すると考えるべきであろう。そしてそれは患者が抑圧的な環境から逃れ、保護的な環境で生活出来るようになれば、いずれ起きてくるであろうプロセスなのである。
 ただしもちろん一時的な解離症状の頻発は、その時の生活状況にとっては不都合である場合も少なくない。毎日仕事を持っている患者にとっては、そのために仕事に集中できずに自宅療養を必要とすることもあり、またパートナーとの間で頻繁に「発作」を起こしてその介護の限界にまで追い詰めることもある。そこでこのプロセスが安全にかつ適応的に生じるためには、そこに治療的な介入が必要となるのであるわけである。

いつ、どのようにして治っていくのか?統合とはどのようなことなのか?


 これは解離性障害、特にDID に関する最大の問題であり、家族や本人が一番知りたいことのひとつであろう。しかしこれは同時に非常に難しい問題でもあるということを認識すべきであろう。
 これまでの臨床経験の蓄積から私たちがおおむね理解しているのは、次のような点である。まずは解離現象は精神病症状と異なり、その人の現実検討や社会適応能力を長期にわたって著しく損なうというケースは多くはない。筆者の自験例のフォローアップによれば、一部の患者は1,2年の経過で人格の交代現象はほぼ消失すること、またかなりの割合の患者において人格の交代の頻度が顕著に低下する傾向にあること、そして残りの患者の殆どにおいて、治療の初期段階を除いては症状の悪化を見せていない。すなわちDIDの長期的な予後として言えるのは、DIDのかなりの部分があまり問題が長引くことなく解消していくという傾向にあるということである。
 ただし以上は比較的安定した人間関係や生活環境を保て、またうつ病などの併存症を持たない場合、という条件がある。逆に加害的な他者とのストレスフルな同居が長引いたり、慢性のPTSD症状が継続してフラッシュバックが日常的に頻繁に生じているような場合では、解離症状も遷延する傾向にある。

最後に

 解離性障害についていかに伝えるかというテーマで論じた。これを書くことで私は今一度解離について精神科医に、そして患者に伝えることがいかに難しく、多くの工夫を必要としているかを改めて感じた。今後とも少しでもわかりやすい説明ができるように考察を重ねていきたい。