2.教育分析、またはパーソナルセラピーについて
次に私が話を進めたいのは、パーソナルセラピーを通して関係精神分析をいかに学ぶということであるが、これは実はかなり混み入ったテーマである。いわゆる「教育分析」という概念は、特に精神分析の分野ではかなり私たちに馴染みがあるはずだが、このプロセスで起きうることは実はとても複雑なのだ。
従来教育分析には、教育、指導する、という意味と治療するという意味が両方含まれていた。実際に自分自身がある意味では実験台になって、上級者にお手本を示してもらえるという意味では、実に分かりやすく効率の良い学び方と言える。人によってはこれこそが究極の学び方と考えるであろう。
精神分析には、一つとても興味深い慣習がある。それは教育分析を受けた被分析者は、その分析家の学派に属するようになることが多い、というものである。もちろん例外はたくさんあろうが、いわば世襲制のようにある経験豊富な分析家が後継者を育てていくことをあまり疑問に思わない。それだけそのような例を私たちはたくさん知っているのである。
例えば父親であるフロイトに分析を受けた(ただしそのことはあまり公にはされなかったが)アンナ・フロイトは、父親の死後は彼の精神分析理論の守護神のようになったことはよく知られる。あるいはメラニー・クラインに分析を受けたハンナ・シーガルやジョアン・リビエールは当然クライン派になるし、ウィニコットに受けたマスッド・カーンはウィニコッチアンと目される。フェレンチに教育分析を受けたバリントはフェレンチアンである。コフートに分析を受けた人たちでコフート派にならなかった人はむしろ例外的であろう。
しかしこれがどうして当たり前の様に考えられているのかについては、一度問い直す必要がある。少なくとも私が考える限り、どのような治療スタイルを選択するかには、その人の性格や感受性、人生観などが大きく影響しているはずだ。○○派の先生に分析を受けたぐらいで簡単に○○派になれるものだろうか? 私の考えでは、ちょうど芸能や習い事の世界で弟子が師匠の後を継ぐように、精神分析の世界でも被分析家も分析家の後を継ぐような慣習がきっとあるのだと思う。少なくとも教育分析と言われる分析についてはその様なことが起きているのだ。
でも私の考えでは、そもそも精神分析とはそのようなことが起きる場では必ずしもないはずだ。精神分析はある意味では分析家との対立であり、戦いであってもおかしくないだろう。戦い、対立を通して、被分析者は自分の進む道を見つけていくのだ。ところが教育分析では本来の分析とは異なる、一種の教育のようなもの、それは弟子が師匠の理論を引き継ぐという、いわば家元制のようなプロセスが生じる。そしてはある意味では馴れ合いも生じ、おそらくそれは純粋な心の探求というものとはかなり質の違うものとなる可能性がある。そしてこの馴れ合い的な関係は教育分析ではない、一般の分析においてもある程度は生じる可能性があるものと思われる。