2023年10月31日火曜日

快感ホットスポットの図

 2時間かけて作った挿絵(もちろん既成の図に手を加えたものである。原図は以下の通り。

MLクリンゲルバック,KC.ベリッジ 快楽の神経回路 神経科学 ”The Joyful Mind”日経サイエンス 2013年1月号.




2023年10月30日月曜日

連載エッセイ 10-3

 何だかこの比喩を続けることで話をもっとややこしいものにしているようなのでここでやめるが、要するにこういうことだ。報酬系を全開にしているうちに、側坐核のドーパミンの受容体も減り、VTAの興奮の度合いも減っていくのだ。そしてこれは実に困った事態を引き起こす。あなたがごく日常的な生活を送っている際に生まれる電力が減るのだ(しまった、また比喩に戻ってしまった。)どういう事だろう?

 風車の比喩で少しわかりやすくなったかもしれないが、実は人間は生きている中で、あるレベルのドーパミンによる刺激を得ている。それにより通常の気力を保っているのだ。これが減ってしまうと鬱になったり生きていることが苦痛になったりする。

この件については、実は前回の連載で伏線を張っておいた。引用しよう。

「ところでこの実験にはもう一つ重要な見どころがあった。それは緑信号を見せた後にサルにシロップを与えなかった場合に起きたことだ。その場合サルは期待を裏切られたことになるが、その際はドーパミンの興奮がいわばマイナスになり、サルは著しい不快を体験することになる。(発火パターンの下から三番目。この意味は次回にでも説明することになろう。)

「ドーパミンの興奮がマイナスになる」という言い方はその文脈では変だったのだ。サルはシロップが与えらえることを予告する緑信号を見た時でないと出なかったはずだ。マイナス、という事はないはずだろう。しかし実はドーパミンニューロンの基礎レベルというのがあり、それに加えて放出される場合のことを「ドーパミンニューロンが興奮し発火した」と表現していたのだ。

ここで比喩を続けて(どっちなんだ!)嗜癖が生じるような事態を風車を回しすぎて「当局に睨まれた」という事態だと考えよう。実は当局はいつどのようなときに介入してくるかわかりにくいところがあるが、大体原則があるらしい。それは例のポジティブフィードバックと関係している。粒チョコレートを好むあなたは、大抵4,5個食べていると、もうそれ以上は欲しくなくなるとしよう。ところがある時不思議なことを体験するようになる。ある限度を超えると,例えば10個を越えると、ハイになってきて、もっともっと食べたくなるのだ。単なるチョコ好きであることを越えて、いかにも享楽をむさぼるようなあなたの行動に当局は目を付ける。そして報酬系に細工をしてしまう。先ほどの下向き制御(DR)である。すると今度はチョコを食べていない時はつらい、という状態になる。この状態は不思議であり、この苦しさを救うのはチョコレートを食べることなのだ。しかしかなり大量に食べる必要がある。ドーパミンの受容体も減り、ドーパミンニューロンの興奮もしにくくなっているから、かなり大量のチョコレートが必要になってくるのだ。

だたこのDRの仕組みだけでは私はいま一つ納得が出来ない。チョコレート中毒になったあなたはしばらくCA(チョコレートアノニマス)に通い、チョコレートの亡霊から解放され、普通の生活が送れるようになった。しかしあなたはしょせんチョコ中である。町でチョコレート味のソフトクリームを食べている人を目にすると突然激しい渇望が襲ってくる・・・・。これはどうやってDRで説明できるのだろうか?


2023年10月29日日曜日

連載エッセイ 10-2

 さてここで嗜癖が生じる仕組みを追求するためには、報酬系におけるドーパミンシステムのふるまいを知らなくてはならない。実は次のような原則がある。

 VTA(腹側被蓋野)から延びるニューロンが興奮すると、側坐核のシナプスにドーパミンを放出するわけだが、そこでドーパミンはそれを受け取る「受容体」に付着することになる。それが電気信号としてさらに送られていくわけだが、私たちの体験する心地よさは、どれだけ多くの受容体が、どれだけ早くドーパミンを受け取るかということにかかってくることが知られている。ここで説明のために比喩を用いてみよう。 ドーパミン受容体を、風力発電の際の風車に例えよう。そしてVTAから延びるニューロンの興奮が、風車に向かって吹き付けられる風(実はあなたが吹きつける息)だとしよう。すると生まれる電力は、まわった風車の数により決まることになり、その数を決めるのはあなたが吹き付ける息の強さということになる(ちなみにそれぞれの風車は、吹きかけられた息の強さ如何にかかわらず一定のスピードで回るものとする)。

 実際に風力に相当するのはVTAのドーパミンニューロンの興奮の強さという事になるが、それは具体的にはどれほど急激に嗜癖薬物(例えばコカイン)の血中濃度が上がるかによることが知られている。例えばクラックコカインのように、煙で吸って肺胞を通じて血中濃度が一気に高まるときに、VTAのニューロンは最大に興奮し、それにより最も強烈な快感を生み、一気に嗜癖が生じやすくなるのだ。(たばこの嗜癖性もまた、吸い込んで肺胞から吸収されたニコチンが一気に脳に達するからだ。)

 ここで風力が大きくなればなるほどたくさんの風車が回り、それだけ多くの電力が生まれるのであれば、こんなにいいことはない。快感の大きさも無限になるからだ。しかし残念ながら側坐核に存在するドーパミンの受容体には限度がある。それにあなたが吹き付ける息の強さにも限度がある。そこで人間が体験することのできる快感には上限があることになる。おそらくクラックを吸ったことのある人なら、第一回目に体験した快がそれに相当するのだろう。それ以上の快感は体験しえないことになる。(逆に痛みについて考えても面白いが、ここではまず快の方についてだけ考える。)

 さてもしこの仕組みがこのままだったら、W=Lはそのまま成り立つことになる。あるパケの10分の一の量で絶頂を体験したら、次回もまた同じ量で同様の絶頂を体験するだろう。これで問題はないはずだ。風車だって同じだろう。ところが多くの風車のフル回転を繰り返していくうちに二つの問題が生じる。(実は嗜癖ではほかにいくつものことが起きるわけだが、とりあえず主要な二つに限定しておく)。

 一つは風車が抜け落ちていくのだ。つまり同じ息の大きさでも回る風車の量が減ってしまう。おそらく通常起こされる電力は大体決まっているので、この発電所を管理している当局が「風車はこんなに要らないみたいだね」と勝手にいくつかの風車を撤去してしまうらしいのだ。

 そしてもう一つ、あなたの息の強さが失われていく。おそらくあまりにフーフーと強く息を吹き続けたので体力が消耗してしまったのかもしれない。あるいは例によって当局があなたの息の強さを「そんなに強く吹かなくても適切な電力はまかなえるだろう」と勝手に調節してしまう。どうやら当局は、生存にとって最もふさわしい電力というのを知っていて、それを超えた電力については異常を取り締まるらしいのだ。これがいわゆるシナプスの下向き調節 (downregulation, 略してDR)という現象である。


2023年10月28日土曜日

連載エッセイ 10-1の書き直し

昨日書いた分をもう書き直す。よほどこのテーマについて考えが定まっていないわけだ。 

 前回のエッセイ(第9回目)では、あるものを摂取したり、ある行動を起こしたりする場合、それに伴う心地さ(L)が、それに対する希求の程度(W)とだいたい一致していることで、私達の生命は維持できているという話をした。そしてこのWを生み出しているのが報酬系であり、ここが正常に働くことでWとLは釣り合うことが出来ると述べた。  今回はこの二つが離れていく現象としての嗜癖という事について考える。その例については前回すでに触れてある。それ等は例えばニコチン中毒の人にとってのタバコや、ギャンブル依存の人にとってのかけ事だ。それ等の活動による喜びL自体はかなり低下していても、それをやりたいという願望Wだけが異常に高まるという事が起きる。実に不思議なことだがこれが嗜癖と呼ばれている現象である。  この嗜癖において何が起きているのかを考えてみる。通常のWとLの関係は釣り合っているのであった。つまりWはLで満たされ、しばらくWは低減するのだ。これは考えてみれば実にうまく出来ている仕組みだ。たとえばあなたがものすごく喉が渇いていて、コップ一杯の水を喉から手が出るほど欲しい場合を考えよう。500CCのペットボトル一本の水を飲んだら少しは落ち着くし、それ以上はいらなくなるだろう。つまりWとLが釣り合っているという条件を満たしてくれるのは、 渇中枢 thirst centerが満たされることで「水を摂取せよ!」という指令を送らなくなるからだ。こうしてWは自然と下がるのである。生理学的にはこれはネガティブフィードバックと呼ばれる。  しかし考えてみればこのシステムだってそれが働く保証はどこにもない。恐らく生命体が存在し始めた時に、この種のサーモスタット的な仕組みはすでにあったのであろう(というかそれを備えない個体は生き延びなかったことになる。)そしてそれが働かないと、行きつくところまで行ってしまうことになる。事実精神科では「水中毒」という症状があり、患者さんはいくら水を飲んでもそれを止めることが出来ない。いわゆる「ポジティブフィードバック」とはその仕組みを言う。ある種の活動は更なる渇望を生み、一定のクライマックスに達するまで突き進む。性的なオーガスムが例としてよく出されるが、例えば排卵 ovulation 等の例もある。WがLにより満たされるどころかそれを増大させるという状況が起きていると、まさに「止められない」という事になる。そして実は通常はネガティブフィードバックのループが備わっているある種の行動や飲食物のそれが外れると、嗜癖のような状態が出現する。  ネガティブフィードバックの仕組みが壊れる場合としては、過剰な行動が快感に結びついてしまうという場合もあるだろう。思いつくのは「首絞めゲーム」とか,辛い物への嗜好である。首を絞められて低酸素になるのはこれほど苦しいことはないと思うのだが、それが快感につながる場合があるからこそこのようなゲームが成立する。激辛が好きな人の場合も、口腔内の「痛み」が快感に結びついてしまうという事が原因であると私は理解している。  つまりネガティブからポジティブへの変換は、あらゆるものについて生じる可能性がある。だからおよそあらゆる事柄について、それを体験しても普通は飽きてしまうはずなのに、逆にはまってしまうことがある。水中毒の例がそうであるし、例えばサウナ依存もそうだ。  その様な現象を説明する手段としてよく用いられるのが、それ等の強烈な刺激がドーパミンの放出に繋がってしまうというものである。普通は不快な刺激、例えば過度に鞭で打たれること、サウナ依存のように熱いサウナに入り続けることなどで、ドーパミンが放出される。するとドーパミンシステムはサボってしまい、通常の事では出なくなる、と説明される。  さてここで私ははたと考え込んでしまう。それは本当だろうか。これは「最終共通経路説」による説明ではないだろうか?つまり快感はドーパミン放出のせいである、という理論であるが、これはベリッジらにより否定されたはずではなかったか?  もう一度考え直そう。ポジティブフィードバック現象において特徴的なのは、刺激が強くなれば飽きが来る、という事が起きず、それが更なる快感を生むという事態である。だから嗜癖に一直線で進むことになる。ここでは例えば鞭に打たれることがたとえLを生まなくてもWを生み、それが記憶されたのちにより大きなWが形成されるという事になる。すると必然的により大きな刺激によるWの体験を求めることになる。そしてこれが結果的にマイナスWの苦しさを生むことになる。そこで何が起きているかと言えば、刺激が強いほど大きなWという仕組みがあるレベルまで行きつくと壊れてしまうという事だ。いくら強くしてもWはある程度以上は大きくならない、どころかむしろ小さくなってしまう。なぜならドーパミンの放出量には限度があるからだ。(もしこれがなければ無限ループという事になる。)さてここからが面白いところだ。

2023年10月27日金曜日

連載エッセイ 10ー1

  連載の10回目も引き続き快の問題を扱うことになる。そこで準備をしているが、一つ困ったことがある。結局私は十分な理解に到達していなくてなかなか書き進められないのだ。どうもしっくりこない。いっそ何がわからないかを書いてみたら少しは先に進むのだろうか?

 私は参考書として常に「もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学 ( ダニエル・Z・リーバーマン (著), マイケル・E・ロング (著), 梅田智世 (翻訳)2020年)」を読み返しているが、読むたびに疑問が出てくる。この本に書かれていることでなるほどと思ったのは、大きなLを感じることなくWが高まっていくというプロセスの存在である。

 例えば私はWが生じるためには強烈な快Lを体験する必要があると書いた。しかしタバコはどうだろうか? 生まれて初めてタバコを吸って「美味しい!」と思う人などいるだろうか?大抵はおいしいと思わないのに、そのうち吸いたくなるようになる。タバコを吸うことは快感を味わうというよりは、吸いたいというWを満たすだけのプロセスになっていく。つまり習慣性だけが形成されていくわけだ。Lは低いままにWだけが上がっていくのだ。

 このように考えていくと、実はWを快の一種と考えること自体が、実は誤りではないかと思える。通常の範囲のWなら、確かにそれは快楽的だ。しかし嗜癖に至るとWはすぐにそれを満たされていないという苦痛(マイナスW??)という苦痛に変質してしまっている。このプロセスがどうしてもわからない。

考えてみよう。通常のWとLの関係は釣り合っているのであった。つまりWはLで満たされ、しばらくWは低減するのだ。ものすごく喉が渇いていて、コップ一杯の水を喉から手が出るほど欲しくても、500CCのペットボトル一本の水を飲んだら少しは落ち着くし、それ以上はいらなくなるだろう。つまりWとLが釣り合っているという条件を満たしてくれるのは、thirst center 渇中枢がWを下げてくれるからだ。そしてこれは私たちにとってとても都合がいいことであり、このシステムが働かないと大変なことになる。 しかし考えてみればこのシステムだってそれが働く保証はどこにもない。恐らく生命体が存在し始めた時に、この種のサーモスタット的な仕組みはすでにあったのであろう(というかそれが備われない個体は生き延びなかったことになる。)でもそれが働かないと、行きつくところまで行くことになる。いわゆるポジティブフィードバックとはその仕組みを言う。ある種の活動は更なる渇望を生み、一定のクライマックスに達するまで突き進む。性的なオーガスムが良く出されるが、例えば排卵 ovulation 等の例も思い浮かぶ。WがLにより満たされるどころかそれを増大させるという状況が起きていると、まさに「止められない」という事になる。そして実は通常はネガティブフィードバックのループが備わっているある種の行動や飲食物のそれが外れると、嗜癖のような状態が出現する。

 飲食物については嗜癖の形成が知られているもの以外はあまりそれは起きない。例えばチョコレート中毒やラーメン中毒などはあまり聞かない。だいたいすぐに飽きてしまうからだ。ところが食行動(例えば過食)ネットゲーム等のギャンブル、ジョギングなどはその明確な仕組みが備わっていないか、それが失効してしまう場合があるのだろう。

 ネガティブフィードバックの仕組みが壊れる場合としては、過剰な行動が快感に結びついてしまうという場合もあるだろう。思いつくのは「首絞めゲーム」とか,辛い物への嗜好である。首を絞められて低酸素になるのはこれほど苦しいことはないと思うのだが、それが快感につながる場合があるからこそこのようなゲームが成立する。激辛が好きな人の場合も、口腔内の「痛み」が快感に結びついてしまうという事が原因であると私は理解している。 

2023年10月26日木曜日

脳科学と小児臨床 3

 さてこの最早期にウィニコットが考える母親の機能とは、鏡の役割であるという。そのことは彼の名著「遊ぶことと現実」に「母親の鏡としての役割」と題して記載されている。(Mirror-role of Mother and Family in Child Development. in Playing and Reality, 1971.)
その中で彼は言う。
「(乳児が自分を見出す)鏡の前駆体は母親の顔である。・・・しかしラカンの「鏡像段階」は母親の顔との関係を考慮していなかった。」(p.111)
「最初は乳児は母親に抱えられて全能感を体験するが、対象はまだ自分から分かれていない。」
この論文が当時ラカンにより書かれた鏡像段階に関する論文を意識して書かれたものであるという点は興味深い。(そしてラカンとの関心の広さや方向性の違いもまた面白い。)そこでウィニコットはちょっと謎めいたことを言っている。それは母親は乳児を映し出す、という事だ。
「乳児は母親の顔に何を見出すのか?それは乳児自身なのである。母親が乳児を見つめている時、母親がどの様に見えるかは、彼女がそこに何を見ているかに関係するのだ。」(p.112)
(Mirror-role of Mother and Family in Child Development. in Playing and Reality, 1971.)
ウィニコットは続けて言う。
「私の症例では、母親は自分の気分を、さらには自分の硬直した防衛をその顔に反映させる。」「その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ないのだ。」(p.112)
 この概念は分かりづらいが、それは彼が言葉や記憶以前の世界を描いているからであったと考えられる。ともかくも、母親が子供を、ではなく自分を反映するという言い方は、シンプルに母親が鏡の機能を果たさないのであれば、と言い換えることが出来る。そしてこのウィニコットの提起したこの「母親の鏡の役割」は愛着理論における情動調律やメンタライゼーション理論に継承された。例えば発達論者は次のような言い方をしている。養育者によるミラーリング(乳児の情緒をまねること)は子供の自己発達において鍵となる。(Meltzoff, Schneider-Rosen, Mitchell,Kohut, Winnicott)

2023年10月25日水曜日

脳科学と小児臨床 2

 まずウィニコットははっきり言って分析的な衣をかぶっているが、フロイトとは全く対照的な臨床家であったといえる。彼の関心の対象は明確に、最早期に向けられていたのである。それは以下のような引用でもわかる。

「満足な早期の体験を持てたことが転移により発見されるような患者[神経症の患と、最早期の体験があまりに欠損していたり歪曲されていいた患者[精神病、ボーダーラインの患者]を区別しなくてはならない。分析家は後者には、環境におけるいくつかの必須なものを人生で最初に提供するような人間とならなくてはならない。」

 Winnicott,Hate in the Countertransference, 1949:p.198.

つまりフロイトが治療の対象とした神経症圏の患者と異なり、ウィニコットは最早期の母子関係でのトラウマを体験した精神病やボーダーラインの患者に関心を向けていたことが明らかである。この二人の関心の違いはどこから来るのかはわからない。私の考えでは、神経症や精神病はその成因が極めて複雑な神経学的なプロセスが絡んでいる可能性があるのに対し、トラウマと精神病理との関係は比較的わかりやすいということが言えるのではないかと思う。そして思えばウィニコットのこの時の慧眼は現在の脳科学的な研究をはるかに先取りしていたということが出来るだろう。

さてウィニコットが考えていた最早期のトラウマとはどのようなものであっただろう?

一つには彼が、乳児の絶対的依存の段階において「母親の防護障壁としての役割が侵害されること」をトラウマと考えたということである。それはのちに弟子のKhanが累積外傷 Cumulative Trauma として概念化したものであった。そのカーンが言ったように、その防護壁とは、結局親の世話である(Khan,1963)という。ではそこでウィニコットはこの段階で何をトラウマと考えたのであろうか。

そこではウィニコットは母親の鏡の役割を強調し、それが損なわれることがトラウマであると考えた。私達は促進的な環境により提供され、それは抱えること holding 、取り扱うこと handling、そして対象を提供することobject-presenting へと進んでいく。その中でも最初期の抱えること holding により支えられている絶対的な依存においては、母親は補助的な自我機能を提供し、そこでは赤ん坊は menot-me は区別されない。その区別は me の確立なしにはできないのだ。 

私はこのウィニコットの語る絶対依存期、すなわち自他の境界のない状態を想像することが出来ず、何となく抽象的で哲学的な話のように考えていた。しかし最近脳科学的な見方をするようになり、急速に考えを変えつつある。そのことは後に述べたい。

2023年10月24日火曜日

脳科学と小児臨床 1

第〇〇回 日本〇〇学会 特別講演 「脳科学から見た子供の心の臨床」に向けての原稿作成である。

 近年愛着において母子間の間で起きている現象を脳科学的に捉えることが出来るようになっている。特に子供の右脳の機能及び母子間の右脳同士の関りについて知ることは、その後の精神発達及びその問題についての新たな知見を与えてくれる。脳科学的な愛着理論は精神分析的な愛着理論、特にウィニコットの理論の先駆性を明らかにし、その臨床への応用を可能にする。
 まず前提として述べておきたいのは、近年の愛着理論への注目は、トラウマ理論の発展・深化と結びついていたということである。
 1970年代に始まったPTSDに関連したトラウマ理論は、いわば記憶の病理といえ、海馬の成熟を前提としていた。ところが近年問題になっているのは、言葉や記憶が生まれる以前の幼少期のトラウマである。その時期のトラウマは深刻であるにもかかわらず、近年までその機序が十分に論じられてこなかった。それは何よりDSMに掲げられるようなトラウマに該当しないという事があったのである。
 ショアにより論じられた愛着トラウマは、言葉以前の時期において、母親との右脳を介した養育において生じたことを前提としている。その意味で乳児期の問題は重要である。しかしそれは実は分析家が先鞭を着けてきた。それがスピッツ、ボウルビイ、そしてウィニコットであった。その意味でアラン・ショアはウィニコット理論と脳科学を結びつけるようなところがあったといえるだろう。

2023年10月23日月曜日

連載エッセイ 9 推敲 9

 この部分、どうしてもうまく書けない。再び書き直し。

ベリッジとインセンティブ感作理論


  こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は否定されたことになったのだ。そしてその代わりに提唱されるようになったのが、ケント・ベリッジという学者の「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。

Berridge, KC and Robinson, TE (2016) Liking, Wanting and the Incentive-Sensitization Theory of Addiction. Am Psychol. 71(8): 670–679.

 このISM理論のエッセンスをひとことで言えば、私たちが実際に心地よさを味わうこと(liking, 以下に「L」と表記)と、それを願望すること(wishing, 以下「W」と表記)が全く異なる体験であることを示したのである。しかしこう言われただけでは何のことかわからないであろう。そこで以下に説明してみる。

 ここからは動物実験に代わって人間の例で考えてみよう。ラットやサルにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとっての報酬として、甘いもの、例えばチョコレートを例として考えよう。もちろん甘いものは嫌いだ、という人もいるかもしれないので、多くの人にとって当てはまる例として挙げているに過ぎないことを理解していただきたい。アルコールの方が好みの方はビールにでも置き換えてほしい。

 私達の多くはチョコレートのような甘いものを好み、しばらく食べていないとそれへの願望Wも、実際に食べた時のおいしさもLも大きい。その場合願望Wは実際のおいしさに見合ったものであろうから、W=Lという関係が成り立つだろう。ところが私たちは最初の何口かはおいしかったチョコレートを永遠に貪り続けることはない。大抵は甘すぎて頭が痛くなったり,単純にその味に飽きが来たりして、もう食べ続けたくなくなるものだ。つまり美味しさ(L)は徐々に低下し、食べるのを止めた後も、再び食べたいという願望もやはり低下している。つまりW=Lの関係は釣り合ったままで、その大きさが減少する。しかししばらく食べないでいると、両者はバランスを保ったままでまた増加していく。

 同様のことはジョギングなどの行動についてもいえる。適度の運動を快適に感じる人は多いであろう。しばらく走っていないと、それをやりたいという願望Wが高まり、実際に走り出したときはそれに見合うだけの心地よさLを体験する。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。走ることの心地よさ(L)は次第に低下し、それにつれてまた走りたいという願望(W)も低下する。

 このようにW=Lという関係は大体バランスが取れていることで、私たちの生命維持に役立っているのだ。通常は生命維持に役立つ飲食物や行動についてはある程度の心地さLが感じられるが、それが逆に健康を害するほどに過剰になればLが低減し、それらに対する願望Wも自然に低下するという仕組みは、私たちが健康を保つ上で極めて重要な仕組みといえる。

 このようにたいていの場合WとLは均衡を保っているが、それをベリッジが提案したように分けて考えることの意味はあるのだろうか?それはL=Wという均衡が時には破られ、両者が大きく食い違うという事が起きるからである。それが私達が何事かにハマったり、中毒になったりする場合である。するとお腹がはちきれそうになってもチョコレートを貪り続けたり(過食症の一種と考えられる)、体が悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きるのだ。


2023年10月22日日曜日

連載エッセイ 9 推敲8

 この部分、何度書き直しても上手くいかない。

ベリッジとインセンティブ感作理論

 こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は否定されたことになったのだ。そして提唱されるようになったのが、ケント・ベリッジという学者の「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。

 このISM理論は「最終共通経路説」の含む矛盾を説明するものとして現在注目されている。それは私たちが実際に快楽を味わうという体験(liking, 以下にLと表記)と、それを求める、ないしはそれを続けたいという願望(wishing, Wと表記)が全く異なることを示したのである。こう言われただけでは何のことかわからないであろう。そこで以下に説明しよう。

  ここからは人間の例に引き付けて考えてみる。サルやネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとっての報酬として、甘いもの、例えばチョコレートを例として考えよう。もちろん甘いものは嫌いだ、という人もいるかもしれないので、多くの人にとって当てはまる例として挙げているに過ぎないことを理解していただきたい。

 私達の多くはチョコレートのような甘いものを好むが、それを永遠に貪り続けることは普通はない。それにはいくつかの理由がある。私たちの多くは「ダイエットしているからこれ以上ダメ!」といって一定量以上を食べることについては自らにストップをかけるかも知れない。あるいは「甘すぎて食べていると頭が痛くなる」かも知れないし、単純に飽きが来ることもある。。このように美味しさ(L)は徐々に低下して、それを願望する度合い(W)もそれに伴い減少していくのだ。

 同様のことはジョギングなどの行動についてもいえる。適度の運動を快適に感じる人は多いであろう。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。(私は3分でもうたくさんである。)走ることの心地よさ(L)は次第に低下し、それにつれてまた走りたいという願望(W)も低下する。

 このようにW=Lという関係はいずれにせよ概ね成り立つことで、この仕組みは私たちの生命維持に役立っているのだ。というのも通常は生命維持に役立つ物やことがらについては心地さLが感じられ、それが過剰になればLが低減したりマイナスLになったりする(つまり嫌悪する)事で、それに対する願望Wも自然と低下する事で、それを適度で健康的な量だけ取り込む(行う)ことが出来るのだ。そしてこのことは私たちが通常当たり前に体験することであり、単純に言えば、好きなものは求め、嫌いなものは遠ざけるという当たり前の現象をLとかWを使って言い換えたに過ぎないのだ。

 ところがベリッジの考えたようにLとWを区別して考えることが意味を持つようになるのは、L=Wという均衡が破られ、場合によっては両者が大きく食い違うという事が起きるからである。それが私達が何事かにハマったり、中毒になったりする場合である。するとお腹がはちきれそうになってもチョコレートなどのお菓子を貪り続けたり、(過食症)、体が悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きる。

 そこで改めてこのLとWの違いについて考えたい。というのもおそらくこのLとWの区別は多くの人にとってなじみが薄いであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はベリッジ以前にはなかったのだ。しかし彼のISM理論により指摘されてなるほど、という事になったのである。

 特に分かりにくいのがWであろう。Lなら実際にチョコレートを食べたりジョギングしたりすることで直接に体験される。ところがWはいわばバーチャルな感覚なのだ。それはLを体験していない時にそれを想像した際に(実はここに、「今体験しているLを中断することを想像した際」も入るのであるが、ここでは触れないでおこう)感じられるに過ぎない。つまりそれは快そのものというよりは、それが欠如している時に、それをどれだけ求めるかにより間接的にしか知りようがないのである。

 その意味でWは純粋に「精神的なもの」と言い表すことが出来る。それはチョコレートの甘さやほろ苦さが直接舌の味蕾を刺激するという生理的なプロセスを得ない。なにしろチョコレートは実際に口に入ってはいないのだ。しかしあなたはそれを将来味わうことを期待して喜びを感じるのだ。

 Wはまた「記憶に結びついたもの」とも言えるであろう。それはかつて味わったチョコレートの記憶を呼び覚ますことで呼び起されるものだ。

 さてこの前提に立ってベリッジが説明しようとしたのはこのWとLが解離した状態がどうして生じるか、であった。つまり最初はW=Lを保っていたはずの両値がどんどんかけ離れて行き、W≠Lという奇妙な現象を説明する手段だったのである。すると好きでもないのに求める、という依存症に特有の現象が起こる。

依存症に苦しむ人たちを傍で見ていてつくづく感慨深いことがある。それは彼らが求めているものを同時に嫌悪しているという矛盾だ。アルコール中毒の人は酒を「美味しい」と思って飲んでいるのだろうか?ニコチン中毒の人にとってのタバコは?あるいは過食症の人にとっての食事は? 彼らはこれらのものを消費していない時にはそれを激しく求める。しかし実際に酒を飲み、タバコを吸っていても決しておいしくないという。私のギャンブル依存の患者さんははっきり言った。「スロットをやっていても苦しいんです。でも絶体に止められないんです。」苦しいことを私達はなぜ欲するのだろうか。

通常の私たちの生活には起きにくいこの不思議な現象がどうしてじるのだろうか。それは報酬系が壊れる、ないしは焦げ付くという現象であるが、これは次回に述べたい。


2023年10月21日土曜日

連載エッセイ 9 推敲 7

 この問題を追及したベリッジらは、私たちの体験する心地よさや快楽には二種類あると考えた。報酬はいわば二重帳簿なのだ。一つはそれに携わっている時の心地よさだ。これは「好き like 」という感覚(L)と表現できよう。チョコレートを口に含んでいる時、ジョギングを気持ちいと感じている感覚だ。そしてもう一つはそれを強く求めたり、止められなかったりする感覚。これを彼らは「欲する、求める want」と言い表した。こちらは「W」としよう。

 通常ならLとWは一致していると考えることが出来る。つまりチョコレートやジョギングはそれを心地よく感じる分だけ、再び求める。それに飽きて楽しくなくなってきたら、そろそろ切り上げたくなる。つまりいずれにせよL=Wが成り立っているのだ。

 ここでもう少LとWの違いについて説明したい。というのもおそらくこのLとWの区別は多くの人にとってなじみが薄いであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はなかったのだ。しかしベルッジに指摘されてなるほど、という事になったのである。

 特に分かりにくいのがWであろう。Lなら実際にチョコレートを食べたりジョギングしたりすることで直接に体験される。ところがWはいわばバーチャルな感覚なのだ。それはLを体験する事を想像した際に感じられるに過ぎない。つまりそれは快そのものというよりは、それをどれだけ求めるかにより間接的にしか知りようがないというところがある。

 さてこのWはある意味では純粋に「精神的なもの」と言い表すことが出来る。それはチョコレートの甘さやほろ苦さが直接舌の味蕾を刺激するという生理的なプロセスを得ない。なにしろチョコレートは実際に口に入ってはいないのだ。しかしあなたはそれを将来味わうことを期待して喜びを感じるのだ。

Wはまた「記憶に結びついたもの」といえるであろう。それはかつて味わったチョコレートの記憶を呼び覚ますことで呼び起されるものだ。

 ここでどうしてこのLとWの区別がここまで大切なのかを考えよう。それはこのLとWがどんどんかけ離れていくという病的な事態が生じることが知られているのだ。それが嗜癖の問題である。ベリッジらが示したこのLとWの区別は、この最初はW=Lを保っていたはずの両値がどんどんかけ離れていくという奇妙な現象を説明する手段だったのである。



2023年10月20日金曜日

連載エッセイ 9 推敲 6

 ベルッジとインセンティブ感作理論

  こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は否定されたことになったのだ。ちなみにこれらの発見に大きく貢献したのがケント・ベルッジという学者の「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。

 このISM理論は「最終共通経路説」の含む矛盾を説明する理論として現在注目されている。それは私たちが実際に快楽を味わうという事とその体験を想像するという事が全く異なることを示したのである。以下にそれを説明しよう。

 私たちが快を求め、不快を回避する事は、生命体の維持にとって合目的的といえるだろう。通常は生命維持に役立つ物やことがらについては心地よく感じられ、害になるものはその逆の傾向があるからだ。でも私たちは自分を害するものやことがらにやみくもに向かってしまうことがあるのである。

 ここからは人間の例に引き付けて考えよう。サルやネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとってのチョコレートを例にあげよう。私達の多くはチョコレートのような甘いものを好むが、それを永遠に貪るわけにはいかない。それにはいくつかの理由がある。はるか昔の文明開化の頃なら、チョコレートは舶来の貴重品で、簡単に手に入れることなどできなかっただろう。今では安価になりコンビニでどこでも手に入るようになった。でも私たちの多くは「ダイエットしているからこれ以上ダメ!」といって自らにストップをかけるだろう。あるいは「甘すぎて食べていると頭が痛くなる」とか、単純に飽きが来るのが普通だ。快の源は一定の範囲でしか私たちを惹きつけないのである。

 あるいはジョギングなどの運動でもいい。適度のジョギングを快適に感じる人は多いであろう。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。(私は3分でもうたくさんである。)

 ところが私達は何事かに「ハマる」とか中毒になるという状態を時々経験する。お腹がはちきれそうになってもチョコレートなどのお菓子を止められなかったり(過食症)、体は悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きる。それはなぜなのだろうか?

 



2023年10月19日木曜日

連載エッセイ 9 推敲 5

 快に関する共通経路説に対する反論

  ところがこの共通経路説はこの後反論に遭うことになる。それまでの定説が新たな事実と共にあっさりと、あるいはジワジワとひっくり返ってしまうことになったのだ。それが自然科学の醍醐味である。

 それはある実験がきっかけとなった。ケンブリッジ大学のウォルフラム・シュルツ Wolfram Schultz のグループは、サルの脳の報酬系に電極をさして、その部分の興奮の状態をもう少し詳しく調べようとした。そしてサルにチューブを通して甘いシロップという報酬を与えてみる(リンデン,p.153)とサルの報酬系は発火(細胞の興奮)を示した。ここまでは予想通りである。そして彼はサルに電気信号を見せることと組み合わせた。まず緑の信号をサルに見せ、その二秒後にシロップを与えてみるという事を繰り返した。すると最初は報酬系はシロップが与えられた瞬間に興奮していたが、そのうち緑の光を見た時に発火するようになった。つまり緑信号を見た後に報酬が得られることを学習したサルは、その時点ですでに喜びを先取りするようになった。そしてここが肝心なのだが、二秒後に実際のシロップが与えられた瞬間には、報酬系の発火はもはや見られなかったのである。


デイヴィッド・J・リンデン著、岩坂彰訳 快感回路 -なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか 河出書房新社 2012年 

 ちなみにもう一つ重要な所見があり、それは緑信号を見せた後にサルにシロップをあげなかった場合だ。その場合はドーパミンの興奮がマイナスになるのだ。(この意味は後に説明する。)

  この実験結果に基づき、シュルツはドーパミン系に関する新しい理論を打ち立てた。ドーパミンは実は快楽物質ではなかった。予測した報酬が実際にどの程度得られたか、という予測誤差 reward prediction error に反応しているに過ぎないのだ。だからサルは緑の光が点灯した時点で満足するが、その予想にたがわずシロップが得られたときは、予測通りであった(予測誤差がゼロであった)ためにドーパミンの興奮は起きなかったのである。

 この実験結果は多くの学者を悩ませることになった。実際にサルが快感を味わったのは、シロップを口にした瞬間のはずだ。でもその時にドーパミンの分泌に関係しないのであれば、ドーパミンの「最終共通経路説」は正しくないことになるのだろうか?予測通りシロップを味わったサルは嬉しくなかったのであろうか? これらの問題はさておき、シュルツの予測誤差説は学界内に浸透していった。

  さらにもう一つ、共通経路説に対する反証となる実験が行われた。そもそも快感はドーパミン経路の興奮により得られるとしたら、脳にドーパミンが枯渇している場合には快感は得られないはずである。しかしドーパミンを枯渇させたラットでも、報酬を得た際の「おいしい」という感覚は問題なく体験できるということが分かったというのである(page 2, Berridge, 2017)。もちろんラットは「おいしい」とは言わないが、顔の表情が弛緩し、舌や口がリズミカルな動きを示すことでそれはわかるのだという。つまり脳の中に報酬系とは別の部位Xがあり、そこでドーパミンの代わりに何らかの物質が働いて私たちは心地よさを味わうのだと考えられるようになった。

 こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は全面的に否定されたことになったのだ。ちなみにこれらの発見に大きく貢献したのがケント・ベルッジの「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。

 このISM理論は「最終共通経路説」の含む矛盾を説明する理論として現在注目されている。大前提として私たちは快を求め、不快を回避する、という事はいいだろう。これは生命体全体に当てはまる原則のようなものである。通常は生命体の維持に役立つ物やことがらについては心地よく感じ、害になるものはその逆であるから、この原則に従うことはその個体の生存にとって合目的的である。

 ここからは人間の例に引き付けて考えよう。サルやネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとってのチョコレートを例にあげよう。私達の多くはチョコレートのような甘いものを好むが、それを永遠に貪るわけにはいかない。それにはいくつかの理由がある。はるか昔の文明開化の頃なら、チョコレートは舶来の貴重品で、簡単に手に入れることなどできなかっただろう。今では安価になりコンビニでどこでも手に入るようになった。でも私たちの多くは「甘すぎて食べていると頭が痛くなる」とか「ダイエットしているからこれ以上ダメ!」といって自らにストップをかける。このように好きなものには飽きが来るのが普通だ。快の源は一定の範囲でしか私たちを惹きつけないのである。

 あるいはジョギングなどの運動でもいい。適度のジョギングを快適に感じる人は多いであろう。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。(私は3分でもうたくさんである。)

 ところが私達は何事かに「ハマる」とか中毒になるという状態を時々経験する。お腹がはちきれそうになってもチョコレートなどのお菓子を止められなかったり(過食症)、体は悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きる。それはなぜなのだろうか?

 この問題を追及したベルッジらは、私たちの体験する心地よさ、快には二種類あると理解することが出来ると考えた。報酬はいわば二重帳簿なのだ。一つはそれに携わっている時の心地よさだ。これは「好き like 」という感覚(これを以下にLと表現しよう)。チョコレートを美味しいと感じ、ジョギングを気持ちいと感じている感覚だ。そしてもう一つはそれを強く求めたり、止められなかったりする感覚。これを彼らは「求める want」ことと言い表した。こちらは以下に「W」としよう。

通常ならLとWは一致している。つまりチョコレートやジョギングは心地いい分だけそれを続けたくなる。それに飽きて楽しくなくなってきたらそれ以上続けたくなくなる。つまりL=Dが成り立っている。ところが過食症やランナーズハイではこの二つにずれが生じる。つまり楽しさ、心地よさが減って来てもWは引き続き高いままであるという状態である(W>L)。通常ならW=Lの成立により私たちの生命を支えてくれるドーパミンシステムがどうしてこのようなことになったのか。そしてそこにドーパミンシステムによる報酬系の誤作動の問題について論じなくてはならない。

 さてここでもう少しこのWなる値について説明したい。というのもおそらくこのLとWの区別は多くの人にとってなじみがないであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はなかったのだ。しかしベルッジに指摘されてなるほど、という事になったのである。

一言でいえば、こうだ。ある事柄を体験する際にその時の快感をLとする。するとWはそのLを実際に体験した時の快感を想像した量である。

 例えばあなたがある銘柄のチョコレートが好きだとする(といっても普通程度に好きだということにする。)。週に一度は店で購入して帰宅後に美味しくいただくことが習慣になっているとしよう。あなたは週に一度のその機会を楽しみにし、実際にそのチョコレートをいつも通り美味しいと感じる。そこでその時の快楽の体験をLとする。

 ここで帰宅の最中に少し時間を巻き戻そう。あなたはチョコレートを鞄に入れてしばらくは、それを帰宅してから食べていることを想像して生唾をゴックンする。その時はおそらくほぼLの量をそのまま想像したであろう。そこでそれをWとしよう。おなじLでどうしていけないかと言われそうだが、どうやらLとWは脳の別々の部分で処理されているようだし、この両者の値がこれからどんどん食い違っていくという事態を考えているため、両者を分けたほうがいいのだ。そこでこのWの量をどのように計測することが出来るか?それはLを想像した時に、報酬系のドーパミンニューロンの興奮の量として計測されるはずだ。思い出していただきたい。サルが緑の信号を見て、「やった、これからシロップがもらえる」と喜んだ時の値に相当するのである。

 さてあなたが特にその銘柄のチョコレートに対する嗜癖が生じていないのであれば、チョコレートを購入してこれから食べようとするごとに、購入した時の先取り値Wと実際のおいしさLは一致していることになる。だから食べた時に「いつも通り美味しい」と感じるのだ。そしてこの報酬系のシステムは私たちの生命の維持に役立っているはずだ。美味しいもの(そしておそらく体にいいもの)を欲しいと感じ、それを実行に移す、という事が繰り返されている限り、このシステムは私たちを健康に保ってくれることになる。ところがここからが問題なのだ。それはこのLとWがどんどんかけ離れていくという病的な事態が生じることが知られているのだ。

 例えばあなたはそのチョコレートを時々食べるだけでよかったのであるが、ある時からいつの間にか毎日でもそれを食べたくなったらどうだろう?それを一日でも欠かすと、「あのチョコを食べたい!」という欲求Wが頭に浮かんでくる。 W=Lだったはずなのに、今やWは3Wとか5Wとかに高まってしまう。

 さらには毎日のように食べているうちに、そのチョコレートの美味しさは半減したり(0.5L)、実際には不味く感じたり(マイナスL)するかもしれない。しかしそれにもかかわらず、3Wとか5Wは維持されていく。すると「あの不味いチョコレートを猛烈に食べたい!」という極めて不都合な事態が生じる。あたかもこの報酬系に不具合が生じたような自体がどうして生じるのか?それを次回に論じよう。

 ちなみにこの報酬系の壊れた状態を私達は依存症、ないしは嗜癖と呼ぶのである。


2023年10月18日水曜日

「脳科学から見た子供の心の臨床」の抄録

本年11月26日の 日本小児精神神経学会の講演の抄録である。

     「脳科学から見た子供の心の臨床」

 最近の精神医学には、これまで関係が深いとはいえなかった複数の研究領域、たとえば脳科学、愛着理論、トラウマ理論、解離理論、精神分析が融合される傾向がある。とくに脳科学の領域においては、子供の心の臨床に応用できるような知見が提供されつつあり、そこには脳科学的な知見を取り入れることに積極的な臨床家の貢献があった。その中でも Allan Schore は R.Spitz や J.Bowlby や DW. Winnicott さらにはD. Stern  らにより描かれた早期の母子関係が脳科学的に根拠づけられることを論じ、特に愛着関係における様々な侵襲的な要素を「愛着トラウマ」として概念化した。そして特に乳幼児の右脳の機能の発達に着目することの重要性を説いた。Schore によれば右脳は発達早期に左脳に先んじて機能を開始し、そこで母親の右脳の機能との相互作用によりその発達が促進され、他者との情緒的な関係を結ぶ基盤が形成されることを論じた。ちなみにこの右脳の機能については最近の J.B.Taylor の著作が新たな視点を提示している。
  この Schore の説は一世紀前に活躍した精神分析家 Winnicott の論述と驚くほど符合する。Winnicott が論じた母親からの侵襲の概念や、彼の弟子 M.Khan による累積トラウマは Schore の論じる愛着トラウマを大きく先取りする議論であった。現代の発達論においては母親のミラリングや情緒応答性の重要性や、それが障害された場合に生じる情緒発達の障害の議論へと受け継がれている。
  これらの理論を臨床的に反映させたものとしてP.Fonagy らのメンタライゼーションの理論をあげることが出来よう。この理論においては母親の情緒応答性の欠如による内的対象像の病理についてきめ細かく論じられ、それが境界パーソナリティ障害の成立の機序を説明しているが、様々な病理に応用可能である。
 報告者は一臨床家として次のような提案を行いたい。現代的な子どもの心の臨床は、これらの理論を踏まえ、トラウマ的な視座を中心としたきめ細かなケアを行うべきであろう。そして家庭での母子関係の在り方は将来は生物学的にも検証可能な形で示すことが出来るものと考える。


2023年10月17日火曜日

連載エッセイ 9 推敲4

 嗜癖の成立

このドーパミンシステムに誤作動が起きることにより、嗜癖の問題が生じる。それは具体的には勝手にDがどんどん大きくなって行ったり(D→XD)、常にそこに存在するようになって私たちを苦しめることになるのだ。こうなると私たちはその行動を行わないことによる苦痛(マイナスXD)を常に引き起こす。それはどういうことか。

 先ほどのチョコレートの例である。もしこれから買ってきたチョコレートを味わおうとしていた時に、それを紛失していたとしたら、あなたはかなりの苦痛を味わうはずだ。人間とはそういうものである。もともとそのチョコレートを食べることを諦めていたなら、それを購入することもなかったし、食後のデザートとして味わおうと楽しみにすることもなかったのだ。しかしそれを買ったつもりになって、期待を高めたが為に今あなたは絶望の淵に立たされている(大袈裟だ。)

 そこで考えよう。もしあなたがこの失望を否が応でも常に体験させられるとしたらどうだろう?もちろんあなたがいくらチョコレートをせっせと買ってもあなたの鞄に空いた穴から落ちてしまう、という状況を想定しているのではない。自分でもコントロールできない形でこの失望を常に体験するという状況である。それは一種の飢餓(渇望)にたとえられるだろう。いつもは別にそのチョコレートを食べなくても平気であっても、こうなるとあなたは常にチョコレートの亡霊に悩まされるのだ。

 そこで思考実験。まずその渇望は、あなたがチョコレートを食べる直前に、それをありありと想像したことによって生じた。しかしありありと想像する根拠は十分あったのだ。あなたはチョコレートを買った覚えがあるし、今まさにそれを食べようとする行動を誰も阻止しない。あなたが「チョコレートが食べたい!!!」とそれを渇望するのはまさにそのような時だ。その場合は食べるべきチョコレートが実際にあれば問題がない。しかしそうではない時にそのチョコレートを食べる想像が勝手に起きるようになったらどうなるか。例えば日常生活の中で、茶色のものを見ただけで、或いは「チ」とか「チョ」とかの音を聞いても生じてしまったらどうだろう?あなたはついそのチョコレートを食べていることをありありと想像してしまい、しかしそれを手元に持っていないために深刻な失望を味わうことになるのだ。もしその様なことが起きれば、あなたは常にチョコレートの亡霊に支配された人生を送ることになるだろう。

 このチョコレートの例は少し非現実的だが、実際に同様のことは嗜癖が生じている場合には常に起きている。アルコール中毒の人が断酒をしている時に、ふと嗅いだアルコールを含んだ消毒液に反応した場合。パチンコ中毒の人がせっかくパチンコから遠ざかって忘れかけていたのに、街角で「チン、ジャラジャラ」の音を聞いてしまい、いたたまれなくなるという場合。セックス依存症の人がたまたま目にした魅力的な人により正常な判断を失う場合。瞬く間にDが再現されて、渇望を体験して苦しむ、というパターンは皆共通しているのである。


2023年10月16日月曜日

連載エッセイ 9 推敲3

 さてここでもう少しこのDなる値について説明したい。というのもおそらくこのLとDの区別は多くの人にとってなじみがないであろうからだ。学者の間でもこの両者を区別するという発想はなかったのだ。しかしベルッジに指摘されてなるほど、という事になったのである。

一言でいえば、こうだ。ある事柄を体験する際にその時の快感をLとする。するとDはそのLを実際に体験した時のことを想像した量である。

 例えばあなたがある銘柄のチョコレートが好きだとする(といっても普通程度に好きだということにする。)。そして先ほど店で購入してこれから帰宅して美味しくいただこうと思っている。あなたはそれを実際に食べ、いつものおいしさだと感じる。そこでその時の快楽の体験をLとする。ここで帰宅の最中に少し時間を巻き戻そう。あなたはチョコレートを鞄に入れてしばらくは、それを帰宅してから食べていることを想像して生唾をゴックンする。その時はおそらくほぼLの量をそのまま想像したであろう。そこでそれをDとしよう。おなじLでどうしていけないかと言われそうだが、どうやらLとDは脳の別々の部分で処理されているようだし、この両者の値がこれからどんどん乖離していくことを考えているから、両者を分けたほうがいいのだ。そこでこのDの量をどのように計測することが出来るか?それはLを想像した時に、報酬系のドーパミンニューロンの興奮の量として計測されるはずだ。思い出していただきたい。サルが緑の信号を見て、「やった、これからシロップがもらえる」と喜んだ時の値に相当するのである。

 さてあなたが特にその銘柄のチョコレートに対する嗜癖が生じていないのであれば、チョコレートを購入してこれから食べようとするごとに、購入した時の先取り値Dと実際のおいしさLは一致していることになる。だから食べた時に「いつも通り美味しい」と感じるのだ。

 しかしこのDの純粋な値を計測することはサルやネズミと違って難しい。もしあなたが脳の側坐核に電極を差し込むことに合意をしても、である。というのもあなたなら、そのチョコレートを食べようと思えば、少しお金を出すだけで自由に買えるだろうからだ。そこで例えばあなたがその貴重なチョコレートを週に一つくらいの頻度でしか手に入れられないような特殊な事情があるならば、それを手に入れた瞬間に報酬系で計測されるDがLに相当するはずだ。でもそのような状況を作り出すのは案外難しいはずだ。ただし私たちはそのDをある程度予測することは出来るだろう。それは実際にそのチョコレートを食べているときのことを想像してみることだ。するとそれは例えば0.1Dなどのように、一瞬その喜びを想像上で味合わせてくれるであろう。

 ところが一つ、Dの値を計測する方法がある。その為に一つ思考実験をする。もしあなたがそのチョコレートを実際食べようと思った時点で、カバンの中を調べてもそれが見つからない場合はどうだろうか?どうやら途中で落としたらしい。その場合の失望はマイナスDとして体験する。それはドーパミンの興奮量が減少する、ということで表される。先ほどサルの実験の時に、シロップをお預けになったサルの頭で起きることとしてマイナスのドーパミンの興奮について紹介した。そのことを思い出していただきたい。

 なぜこのようなことが起きるのか。ここで秘密を明かさなくてはならない。実は脳内ではDは一定の量で常に与えられている。報酬系は弱いDつまり d を常に体験させてくれているのだ。そしてその上で期待をした時には大きなDを味わう。ところがお預けをくらった時は、それでも普通なら体験出来ていた d がゼロになってしまう。これには耐えられないのだ。つまり期待という形でLから遊離したDは、それが得られなくなった途端マイナス d という苦しみとなって帰ってくるのだ。

 しかしそれにしてもなぜこんな面倒くさい仕組みが出来ているのだろう? 一つの仮説は生命体はこの一度味わった快を追い求めるための装置としてこのドーパミンシステムが備わっているのではないだろうか。それが生存の可能性を高めるのだ。ところがこのシステムにはバグが生じることが知られている。そしてそのためにネズミの生活どころか私たちの生活自身が穏やかではすまないのだ。それを以下に述べよう。

2023年10月15日日曜日

連載エッセイ 9 推敲 2

 快に関する共通経路説に対する反論

 ところがこの共通経路説はこの後反論に遭うことになる。それまでの定説が新たな事実と共にあっさりと、あるいはジワジワとひっくり返ってしまう。それが自然科学 natural science の醍醐味である。それはある実験がきっかけとなった。ケンブリッジ大学のウォルフラム・シュルツ Wolfram Schultz のグループは、サルの脳の報酬系に電極をさして、その部分の興奮の状態をもう少し詳しく調べようとした。まずサルにノズルを通して甘いシロップという報酬を与えてみる(リンデン,p.153)とサルの報酬系は興奮した。ここまでは予想通りである。そして彼はサルに電気信号を見せることと組み合わせた。まず緑の信号をサルに見せ、その二秒後にシロップを与えてみるという事を繰り返した。すると最初は報酬系はシロップが与えられた瞬間に興奮していたが、そのうち緑の光を見た時に発火するようになった。つまり緑信号を見た後に報酬が得られることを学習したサルは、その時点ですでに喜びを先取りするようになった。そしてここが肝心なのだが、二秒後に実際のシロップが与えられた瞬間には、報酬系の発火はもはや見られなかったのである。

  この実験結果に基づき、シュルツはドーパミン系に関する新しい理論を打ち立てた。ドーパミンは実は快楽物質ではなかった。予測した報酬が実際にどの程度得られたか、という予測誤差 reward prediction error に反応しているに過ぎないのだ。だからネズミは緑の光が点灯した時点で満足するが、その予想にたがわずシロップが得られたときは、予測通りであった(予測誤差がゼロであった)ためにドーパミンの興奮は起きなかったのである。

 この実験結果は多くの学者を悩ませることになった。実際にサルが快感を味わったのは、シロップを口にした瞬間のはずだ。でもその時にドーパミンの分泌に関係しないのであれば、ドーパミンの「最終共通経路説」は正しくないことになるのだろうか?予測通りシロップを味わったサルは嬉しくなかったのであろうか? これらの問題はあるものの、シュルツの予測誤差説は学界内に浸透していった。

 

 さらにもう一つ、共通経路説に対する反証となる実験が行われた。そもそも快感はドーパミン経路の興奮により得られるとしたら、脳にドーパミンが枯渇している場合には快感は得られないはずである。しかしドーパミンなしでも、報酬を得た際の「おいしい」という感覚は問題なく体験できるということが分かったというのである(page 2, Berridge, 2017)。もちろんネズミは「おいしい」とは言わまいが、顔の表情が弛緩し、舌や口がリズミカルな動きを示すことでそれはわかるのだという。つまり脳の中に報酬系とは別の部位Xがあり、そこでドーパミンの代わりに何らかの物質が働いて私たちは心地よさを味わうのだと考えられるようになった。

 こうしてドーパミンの「最終共通経路説」は全面的に否定されたことになったのだ。ちなみにこれらの発見に大きく貢献したのがケント・ベルッジの「インセンティブ感作理論 incentive sensitization model」 (略してISM理論)であった。


報酬の二重帳簿問題


このISM理論は「最終共通経路説」の含む矛盾を説明する説として現在注目され、私自身もその大枠に納得しているものである。まず大前提として私たちは快を求め、不快を回避する。通常は生命体の維持に役立つ物やことがらは心地よく、害になるものはその逆であるから、この仕組みは概ねにおいて役立っている。そして幸いなことに、通常は快は無限に得られるわけではない。

 ネズミにとっての甘いシロップの代わりに、人間にとってのチョコレートを例にあげよう。私達の多くはチョコレートのような甘いものを好むが、それを永遠に貪るわけにはいかない。それにはいくつかの理由がある。はるか昔の文明開化の頃なら、チョコレートは舶来の貴重品で、簡単に手に入れることなどできなかっただろう。今では安価になりコンビニでどこでも手に入るようになった。でも私たちの多くは「甘すぎて食べていると頭が痛くなる」とか「ダイエットしているからこれ以上ダメ!」といって自らにストップをかける。このように好きなものには飽きが来るのが普通だ。快の源は一定の範囲でしか私たちを惹きつけないのである。

あるいはジョギングなどの運動でもいい。適度のジョギングを快適に感じる人は多いであろう。しかし30分も走れば息が上がり、もういい加減にやめて家に帰りたくなるだろう。(私は3分でもうたくさんである。)

 ところが私達は何事かに「ハマる」とか中毒になるという状態を時々経験する。お腹がはちきれそうになってもチョコレートなどのお菓子を止められなかったり(過食症)、体は悲鳴をあげながらもジョギングを止められなかったりする(いわゆる「ランナーズハイ」)という事が起きる。それはなぜなのだろうか?

 この問題を追及したベルッジらは、私たちの報酬には二種類あると理解することが出来ると考えた。報酬はいわば二重帳簿なのだ。一つはそれに携わっている時の心地よさだ。これは「好き like 」という感覚(これを以下にLと表現しよう)。チョコレートを美味しいと感じ、ジョギングを気持ちいと感じている感覚だ。そしてもう一つはそれを強く求めたり、止められなかったりする感覚。これを彼らは「求める want」ことと言い表した。こちらは以下に「D」としよう。(なぜWでなくてDにするかは以下に述べる。)

通常ならLとDは一致している。つまりチョコレートやジョギングは心地いい分だけそれを続けたくなる。それに飽きて楽しくなくなってきたらそれ以上続けたくなくなる。つまりL=Dが成り立っている。ところが過食症やランナーズハイではこの二つにずれが生じる。つまり楽しさ、心地よさが減って来てもDは引き続き高いままであるという状態である(D>L)。通常ならD=Lの成立により私たちの生命を支えてくれるドーパミンシステムがどうしてこのようなことになったのか。そしてそこにドーパミンシステムによる報酬系の誤作動の問題について論じなくてはならない。


2023年10月14日土曜日

連載エッセイ 9 推敲 1

  今回のテーマは快感の脳科学である。この分野もまた私がとても大きな関心を寄せているテーマである。この連載エッセイではまだ快や不快について真正面から扱ってはいなかった。しかしこの快不快の問題は、脳と心のあり方を知るうえで極めて重大なテーマなのだ。恐らくこのエッセイの2~5回でお話した内容を補完するような内容である。というのもAIやそこに備わる知性について論じた際、5回目の「意識とクオリア」の問題を除いては。感情の話は一切除外していたからである。しかしこのことは快や不快や感情などは恐らくAIが持ちえないもの、つまり心にプロパーなものであるという事を意味しているのである。  このエッセイを開始した時は、私も含めて世の中は chat GPT で騒然としていた(まあ、今でもそうだが。)。私としても人の心とAIとの違いを知ることがとても重要に思えたし、その気持ちは今でも変わらない。しかしこれまでの考察で私が至った結論は、AIは知性ではあっても意識ではないこと、そして意識は人間の脳の働きから生まれる幻想であるという事であった。すると読者はこう問うであろう。「ではAIが感情を持つためにはどうしたらいいのでしょうか?」  それに対して私が答えられることは、「おそらくそれについては手掛かりすらないのが現状です。私達が半世紀かけて作り上げたAIは知性を生むことが明らかになったものの、主観やクオリア、感情を持つためにAIが備えるべき仕組みについてはまだ手が付けられてすらいないのだ。」  以上を前提としたうえで、快、不快の問題に取り掛かりたい。

快楽は脳の一点から生まれる?

 私が「快や不快は脳が生み出すものです」と言っても、誰も反論できないであろう。コカの葉から抽出し精製した白い粉状の物質(コカイン)を微量だけ吸入すると、途轍もない快感が得られる。それは生身の人間がいくら修行を積んでも決して得られるものではない。しかもその快感は、人生で味わう精神的な喜びと質的には何ら変わらないのだ。

 精神分析の祖であるフロイトもこのコカインの効果にいち早く気が付いた一人だった。当時は軍医が兵士の疲労回復に使うくらいであったこの白い物質の麻酔効果や著しい快感を生む性質を知ったフロイトは、これこそが精神の病に効く万能薬だと考えたのである。その頃脳の解剖学はほとんど進んでいなかったが、それでもコカインが脳のどこかに作用して快感を生むという事だけは明らかだった。

 つい最近まで私たちは快と不快に関するある種の「セントラルドグマ」を有していた。そしてこれが快と不快の議論をとてもシンプルかつクリア―にしていたのだ。まずそれを以下に示そう。

  まず1950年代のオールズとミルナーによる快中枢(報酬系)の発見があった。いうならば脳の中に快に関する「押しボタン」が見つかったのである。中脳の側坐核と言われる部分だ。ネズミの実験をしていて、たまたまその部分に誤って電極が刺さった時、ネズミはその電気刺激を得ようと狂ったようにレバーを押し続けたのである。それまで科学者たちは、脳の中に、そこを刺激すると快が得られるような部位があるなどそもそも想定していなかったのだ。

 そもそも脳はどこがどの様な役割を果たしているかが分かりにくいという問題がある。例えば攻撃性を例に挙げてみよう。脳の一部に攻撃性に関係する部位があり、そこが電気刺激されると人が攻撃的になり、そこを抑制されると攻撃性が抑えられるという事は起きるかもしれない。(sham rage を引き起こす視床下部の一部などはそれに該当するだろう。)しかし実際に攻撃性に関与する脳の部分は沢山ある。他に攻撃性を生む場所は沢山あるわけだ。

 ところが報酬系の発見は、脳の中でそこだけの刺激が快感を生むという意味で特別だった。そしてそこでは刺激を受けることによりドーパミンという物質が分泌されるという事もわかった。そして誓って言うが、いかなる進歩したAIもこのような報酬系を有さない。高等な生物(おそらく大脳辺縁系を有する哺乳類以上なら確実に)の脳にしか備わっていないのである。

 この発見から提唱されたのは、いわゆるドーパミンの「最終共通経路 final common pathway 」(Stahl)説である。簡単に行ってしまえば、あらゆる快楽は、最終的には、報酬系の刺激に相当する中脳のドーパミン経路の興奮に繋がるという理論だ。元オリンピックの水泳の選手が、平泳ぎで金メダルを取った時はなった「チョー気持ちい!」と、暑い日に仕事から帰って冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出して一口飲んた「うまい!」は共通した脳の働きによる、というものである。過去40年ほどはこれで色々説明できることになっていた。比較的最近までは、である。

 最終共通経路という理解は私たちに人間性に対するある種の失望を与えるかも知れない。何しろすべての快感は脳の中では同じものなのだというのだ。私達はふつう心地よさについて、高尚なもの、精神的なものと卑俗的なもの、原始的なものを区別する傾向がある。高僧が何年も山にこもり瞑想を続け、ついに自分と宇宙が一体であることを悟り、安らかな幸福感を味わったとする。それとコカインを鼻から吸って得られる心地よさを一緒にすることなどできようか。高僧の得た幸福感は精神的なものであり、人間が苦難に耐えた末に最終的に求める満足感に近いものと言えるだろう。それに比べて賭け事をしたり薬物を用いたりして得られる快感は刹那的であり、動物的であり、非道徳的なものに思えはしないか。

ところが最終共通経路説は、少なくとも脳で起きていることは同じであることと唱えることになる。自然な環境で得られる快感を得た状態を「ナチュラルハイ」と呼ぶが、それは健康的なものであり、薬物によるそれはまやかし、病的なものという先入観が私達にはある。しかしいずれも快感中枢が刺激された状態で脳がそう感じさせているだけなのである。しかし前者をより健全だと思うのは、後者のような快感には、本来味わってはいけない快感であるという後ろめたさが伴うからであろうか。でも主観的には両者は一緒なのである。

 あるコカイン中毒の患者が久しぶりにコカインに手を出してしまい、こう呟いたという。

「ああ、私本来の感覚を取り戻すことが出来た。私は過ちを犯したのではない。神様が『よく頑張ったね』と一瞬のご褒美をくれたのだ。」


2023年10月13日金曜日

連載エッセイ 9 その10

 ここまで論じたことで、多少はDシステムの怖さを言い表すことが出来ただろうか。Dシステムはある快楽的な出来事を記憶して、それを思い出させ、疑似体験、つまり0.1Dほどの体験(「あの時は気持ちよかったなあ」というそれ自身は快楽的な体験)と、その直後のマイナス0.1D(「でも現実には少しも気持ちよくないや」という苦痛体験)を起こさせる。もし生活の中でそれを半分くらい再体験する可能性を見出すのなら、それを確実にするべく0.5Dの喜び(半分ぬか喜び)をあたえ、またそれを取り逃がした際の不快体験を起こす事でそれを獲得する行動を確実なものにするのだろう。例えばライオンが餌を駆る時はこんなことを繰り返しているのだろう。だからこれ自体は合目的的な装置なはずだ。ところがこれが誤作動を起こして暴走することがある。

 このDシステムは通常は、ある快楽行動のその成就可能性により実際の(つまり初回にLとして体験されたDの)10%とか50 %等の先取り体験を起こさせる。もちろんそれが実現不可能なら殆どゼロだ。ところが体験として何を選ぶかにより、このシステムは誤作動を起こす。勝手にDがどんどん大きくなって行ったり(D→XD)、常にそこに存在するようになって私たちを苦しめる。こうなると私たちはその行動を行わないことによる苦痛(マイナスXD)を常に引き起こす。

 一番典型的な形でこの暴走を起こすのは嗜癖性を有する薬物である。コカインやヘロイン、覚せい剤といったたぐいの物質で、純度が高く、しかも吸入して一気に血中濃度、脳内濃度をあげることで強烈な快(想像上ではなく、実際に体験するXD!)を体験することで、Dシステムの暴走が起きる。また賭博、ギャンブルもこれを引き起こしやすい。両者に共通する要素はお分かりだろうか。L、2L、3Lといった強烈な快の上昇を現実に体験することだ。そのほとんどは人工的な条件で成立し、そこには現在の科学の力が影響していることが多い。コカインならどんどん精製技術をあげて純度を高めることで。賭け事なら合法的な賭博場で膨大な勝ちや借金をすることで。ゲームならますます繊細な画像やダイナミックな動きを取り入れることで。おそらくこのような条件なしにはDシステムの暴走は起こりにくい。だから昔南米の原住民がコカの葉っぱを嚙んでいても、それはあまりに薄すぎて、大きなLもDも体験し得なかったのだ。(ただし賭け事に関しては、特別な地位にあり、有り余るほどの財宝を持つ人なら、これに陥っていた可能性もある。)

ただし私たちは日常的な行動もまたこれを引き起こすことを知っている。例えば最近のゲーム依存はどうだろう?この場合現代ならほとんど皆が持っているスマホに入っているなんてことはないゲームにはまってしまうことがある。確率としては低いながらも、特に年少のうちに暴露されたゲームは依存症を生みやすいと言われる。しかし周囲の大人の目がそれを見つけ、スマホを取り上げることで、その子の体験するLが急増しないうちに芽を摘むことは出来るだろう。ところが思春期を経て大人になり、ある程度の行動の自由を得、またその行動を誰からも阻止されることがなくなると、急速なLやDの上昇を体験することを自らに許容することにもなる。人間は弱い存在なのだ。こうしてDSM-5やICD-11に掲載されている行動嗜癖に当てはまる行動のリストはこれからもますます高まっていくのだろう。

 さて以下は私見だ。(といってもこれまでも私見ばかりだったが。)薬物依存や行動嗜癖等によるDシステムの暴走を生む決め手は、どれだけ大きなLを、何度か繰り返し体験できたか、なのだ。よくコカインや覚せい剤を初回に体験した人が言う。「〇〇の10倍気持ちよかった!」この○○にはこれまでの人生で体験した幸せとしていろいろなものが入るであろうが、いずれも私たちが普通に体験していて覚える快感だ。いわゆるナチュラルハイ、というやつである。そしてこれはふつうは多寡が知れているのだ。不快や苦痛と違い、快には天井があるのである。

 そこでたとえば「希望の大学に合格した!」という例を考えよう。有頂天になり、周囲のものがばら色になるかもしれない。これをかなり大きなLとしよう。しかしその10倍の気持ちよさ(10L)を想像できるだろうか?大学にもうひとつ受かっても、新しい恋人と結ばれても、高々2Lとか3Lどまりであろう。普通はふたたびLを体験できれば上出来であろうし、たいていはL以下である)。それにもう一つ大学に入るためにはまた何年もかかるであろうし、その試験にも失敗するかもしれない。さらに新しい恋人と結ばれるのにはそれこそ何年かかるかわからず、またその満足体験(Lとしよう)は恐らく人生では二度と体験されない方が可能性としては大きい。そう、通常はDシステムの暴走を来すような条件(どれだけ大きなLを、何度か繰り返し体験できたか)は満たされないのだ。それにたとえ同じLをどうしても体験しようとすると、そこにかかる時間や苦労は並大抵ではない。人はさすがにそれをあきらめざるを得ないのだ。(考えてもみよう。どんなに筋金入りのパチ中の人も、パチンコ屋さんが富士山の頂上にあったとしたら、7合目の山小屋から毎日登頂することは諦めるはずだ。)