2022年1月31日月曜日

引き続き 他者性の問題 8

 どうしてこんなに分かって欲しいのだろうか?

そこで改めて本題だ。フォナギー先生は以下のように言っている。「他者に理解されているという感覚への生物学的欲求は、他のほぼすべての目標に優先する」。

私達が常に欲しているのは、他者から理解され、承認されることだ。多少なりとも社会性を有している人は、よほど徹底したスキゾイドの人でない限り、他者に承認されることを望む。フォナギー先生の言うとおりだし、コフートの主張もそこにあったのだ。

そのことは定型的な発達を遂げている子供を見ればわかる。幼少時には母親に見られ、その存在を肯定されることは、子供が自己を形成するうえで決定的な役割を果たすのだ。それなのにどうして私たちは成長するにつれ、他者に見られ、知られることを時にはこの上なく疎ましく思うのだろうか?私たちがその人たちから存在を認めて欲しいと思うのは、それほど特別な他者なのだろうか?

まず他者に理解され肯定される必要について。ある程度自己理解を深め、社会で機能している人を考えよう。十分に自立して一人の生活も楽しめている。それでも他者からの承認を必要とするならば、それはどのような状況だろう。それはそのような人でも自分に対する自信が揺らぐことがあるからだ。そんな時人は「私はこのままでいいのでしょうか?」と他者に問いたくなる。それは端的に、私たちは自分自身を見ることが出来ないからだ。あるいはある程度は見ることが出来ても、凝視しているうちにその像がぼやけてくるものだ。

例えばある人が自分をそこそこ正直で倫理的な存在であると考えているとしよう。その人がたまたま信号無視をして道路を横切るとしよう。安全であることが明らかなら時々やっていることだ。ところが偶々それを見咎めた人から厳しく非難され、社会人として失格だと言われるとする。そのうちあなたは「本当にそうかもしれない」と思い始める可能性がある。もちろんちょっと注意されただけではそうはならないだろう。しかしその叱責が延々と続き、その人が多少なりとも私たちが敬意を払う人であったら、私たちは徐々に自信がなくなっていくはずだ。「それほどひどい人間だろうか?」と自問していくうちに分からなくなっていくはずだ。自分に焦点を当てると、それは徐々にボヤけてくるものなのである。そして誰かの意見を聞きたくなるだろう。そして誰かにそのことを相談し、「そこまで言われるほどでもないんじゃないですか?」と言われるとホッとし、「やっぱりね。」と安心するだろう。 

こんな浅薄な例ではなく、「自分はこの世に生きていく価値があるのか?」という深刻なレベルでの悩みを持っている人には、現実の他者が自分をどう遇するかを知ることは、とても切実になる。このように考えると人は決して一人で生きていくことは出来ないのだ。こう書くとなんだかとても当たり前のことを言っているようであるが。私たちは自己イメージを他者からの肯定により維持できるということだ。

ただしこの「他者からわかってもらえた」という体験は、実はかなり実証性の乏しい、いわば私たちの思い込みに基づいた体験でもある。ある他者から「その気持ちは分かりますよ」と言われて私たちはホッとし、ありがたいと思うだろう。ところがそれはいったいどのレベルでの理解なのか、本当に自分の思いや体験を正確に理解したうえでの言葉なのかは極めて怪しい。だからその人が別の場面ではあなたを理解してくれないと感じた場合、「あの時は分かってくれた人がどうして?」と思うと同時に「あの時も本当の意味で分かってくれていなかったのではないか?」と疑うことがある。それほど「わかってもらえた」という感覚は刹那的で、こちらの思い込みである可能性が高い。私たちは一刻も早く安心したいから「あの人に分かってもらえた」という感覚に満足してしまうのだ。

私はここに、内的対象像と実際の他者とのギャップが常に生まれる素地があると思う。人は相互承認に忙しいために、お互いを「分かった」つもりになってしまい、本当は相手の心は私の想像した姿をしていないという可能性を無視していまいがちである。そしてその結果として相互投影が生じ、したがって相互支配が生じる。他者からわかってもらうことは他者に侵入されることにもつながるのだ。

 

2022年1月30日日曜日

引き続き 他者性の問題 7

 書いているうちに少しずつまとまってきたが、本当にこの方向でいいのか。通常の他者とは、私たちがある程度知ることで内在化され、心の中に内的対象像を結ぶことで安心して関わることが出来る。それが出来ないことには一瞬たりともその人と対等な立場で会うことが出来ない。そのことを示すために、変な例を思いついた。
 列車の4人掛けの席に座り、ふと目の前に座っている人を見ると、上から下まで黒ずくめの衣をまとっている。あなたはギョッとしてその人を観察する。しかしその人が男性か女性かも、年齢も、あるいは果たして人間なのかもわからない。手足もすっぽり黒い衣装に覆われ、体型さえもわからないのだ。しかし時々頭の様な部分を動かし、呼吸するような音も聞こえるので、生きているらしいという事はわかる。そのうちその黒ずくめは片手(のようなもの)をこちらに差し出してきた。明らかに貴方にかかわりを持とうとしているようだ。・・・・
 あなたの対面にいるその人物(本当は人かどうかもわからないのだが…・)に対して、貴方はどのような態度を取るだろうか? まず間違いないのは、貴方はものすごく警戒するという事だ。相手は突然こちらを攻撃してくるかもしれない。今からその場を離れて「不審人物がいます」と通報したいという気持ちにかられる。でもそれをしてはいけないという気もする。その人は何かの病気で光をいっさい浴びることが出来ずにその恰好をしているのかもしれない。という事はその人はハンディキャップを負っている人、障碍を持った人という事になり、その人を怪しい人として通報するのはもってのほかだ。でもそれは実は人ではなく、動物であり、あるいはエーリアンであり、やはりSAT(機動隊特殊部隊)か何かが出動しなくてはならないのではないかと思う。そこであなたは周囲の人の反応を見るが、何と日本人的な反応なのだろう。みな見て見ぬふりをしているのだ。しかしそれにしてはその人(?)の周囲にはあまり座っている人がいない。「ここら辺、席が空いている、ラッキー!」と喜んで座ったあなたが不注意であり、例外的だったのだ。

何か描写するのが面白くて明らかに脱線しているので元に戻る。私はある意味で純粋な他者を描いているのだ。他人を主体として、得体のしれない人として遇するとどうなるかという事の一つの例だ。この例は私たちは少なくとも安全な対象イメージを心に描くことなしには対象と関わることが出来ない。もしその黒服の人物が、貴方のパートナーが事情があってその様な格好をしていると知っていたなら、その黒服を見ても「変な格好をしたうちの旦那」というイメージを心に持つことで関わることが出来る。
 つまりこういうことが出来る。私たちは対象と関わる時、内的対象像とそれではカバーできない新奇な部分の両方を体験しているという事だ。ところが問題なのは、私たちの内的対象像は暴走し、相手を束縛するのだ。おそらく「投影」という作用により。母親から「Aちゃんはお姉ちゃんだからね、我慢するのよ」と言われたAちゃん。「そうなんだ、私はお姉ちゃんなんだから、妹の我儘を聞いて、譲ってあげなくてはならないんだ」という理解に基づいた自己イメージ、つまり「我慢強いお姉ちゃんのA」を作り上げる。Aちゃんは母親の持つA ちゃんについての対象像に拘束されることになるのだ。

ただしこの対象イメージは本当はもっと相互的につくられるものだ。例えばAちゃんが「私だって妹に譲ってばかりではなくて我儘が言いたい!」と強く主張したとする。すると母親は「時々我儘を言う、聞かん坊のAちゃん」という大敵イメージを持つことになるかもしれない。そしてそれはAちゃん自身が持つ自己像「言いたいことは言うA」に対応して形成されたと見ることもできる。
 このAちゃんと母親の関係では、どちらの思いが強いか、どちらが相手に合わせてしまいやすいか、というファクターは結構大きい。母親の我が強いと、自然のAちゃんの方は凹む。また逆も可能だ。そしてAちゃんがあまりに相手に合わせる(それも無意識的に)タイプであれば、母親は自分の持つAちゃんの内的対象像によりAちゃんを支配しているなど思いもよらないだろう。
 色々行きつ戻りつしたが、「母親には自分を知られたくない」、には次のような原因があるようだ。やはり母親が持つ私についての対象像が問題だ。私はそれに支配されてきた。もちろん反発するためにいろいろ工夫をしたし、出来るだけ早い時期に一人暮らしをするのはその一つの手段だった。しかしそれは逆に言えば母親の私に対するイメージの支配力が私にはやはりとても大きかったという事だ。私がそれだけ我が弱かったという事にもなるし、相対的に母親の我が強かったという事にもなるだろう。その様な母親に私の情報を与えることは、さらにその支配力を強めるという事になるからだ。
 これらの事情はしかし、私が相手に分かって欲しいという気持ちに拮抗するものではない。特に気兼ねなく献本したのもその理由だ。だから相手の私についての内的対象像に支配される懸念のない、純粋な他者(一視聴者、読者)などから理解されたと思うのはとてもうれしいことである。

2022年1月29日土曜日

引き続き 他者性の問題 6

 私たちは自分の一番脆弱である意味では人間らしい部分を晒す相手を限るものだ。ごく親しい友人や恋人や家族である。あるいは自分のセラピストもそれに入るだろう。親しい友人ならこちらも相手の弱さを晒すことを受けいれている。そこでお互い様だ。そしてその弱さとは一番プライバシーにかかわることであり、むやみに外に知られたくないものだ。そこで親しい仲ではお互いにそれを外には漏らさないという暗黙の約束をしているという所がある。そして親というのはある意味ではこちらの弱さを一方的に知っている存在なのだ。一方的に弱みを握られている存在ということになる。

この様に考えると「勝手に産んだ恨み」という言葉が浮かんできた。私はこのことを全く考えたことがなかったが、最近の富樫公一さんの本の一チャプター“Being thrown into the world without informed consent” も思い浮かぶ。私は母親に生んでもらったことは感謝しているが、親の都合で自分が生まれたという、紛れのない事実には理不尽さを覚える。「私は生まれてきて問題がなかったからいいけれど、それは運が良かっただけではないか?」という気持ちがある。そしてもちろん私は全く同じように自分の子供をこの世に生み出したわけだ。だから子をなす、子として生まれるというのは理不尽なことなのだが、生物としての私たちの在り方は本来そういうものなのだ。

しかし勝手にこの世に生んだ、というだけでなく、自分の好きに自分を支配し、自分を育てた、という気持ちもある。これなども全くひどい話で、大変な恩を受けて大人にしてもらったくせに、よくもこんなことが言えるのであるが。しかし子供が「頼みもしないで自分を生んで、そして頼みもしないのに勝手に育てて」と親を恨むのはある意味では根拠あることなのだと思う。そしてこの恨みが何を示しているかと言えば、子供にとっての自分という存在はそれだけ親という存在にどっぷりつかって出来上がっているという事なのだ。結局それが決め手らしい。様々な習慣、ものの考え方、癖、言葉の使い方などが一度は親との同一化を経ている。そしてそれを最初は全く無抵抗に受けざるを得なかったわけだ。全く好き勝手に、時には理不尽に怒られ、教育され、洗脳されてきたことへの感謝とも憎しみともつかない感情を私たちは親に持っている。私たちは幼い頃は親の一言に100%動かされて育ってきた。そしてその本能的、反射的な受け身性をやはりどこか深いところに持っていて、それに対する嫌悪やいら立ちがその根底にあるのではないか。私たちが親に持つ気持ちは、①親に対する転移、②親からの終わることのない転移への逆転移で構成されているのではないか。

   は「親は自分を支配しかねない存在だ」という気持ち。

   とは親の「うちの○○ちゃんは私のいう事を聞くいい子だったはずだよね」に思わず従いそうになる部分、というわけだ。

だから親に知られることでこれ以上支配され、振り回されたくないという気持ちがわくのであろう。

2022年1月28日金曜日

引き続き 他者性の問題 5

  なぜ私は母親に知られたくなかったのかについて考え続けている。やはり思春期の到来という事、そして自立という事と関係している。それ以来その様な気持ちを持つようになった。独り立ちするためにはこの嫌悪感は有効に働いていたという事だろう。しかしもう自立したはずの年代、仕事を持ち家庭を持った時期以降もそれが続いていたという所が不思議なのだ。終わらない転移関係のようなものである。結局私は母親を他者として扱っていなかったという事になる(後に詳述)。
これに関係する以下の考えは全く的外れかもしれないが、少し進めてみる。どうせ自由連想だ。私は高校卒業を機に実家を出た後、たまに実家に帰り、母親の視線を浴びるととても不快になったのを覚えている。嘗め回される感じが特に嫌だ。親が子供に強い関心を持っているのはわかる。私もそうだ。しかしそれをまともに浴びるのは、少なくとも私にとってはとても不快な事だった。結局母親に会うと、あっという間に一人の幼い子供にされてしまうという事が不快なのだろうと思う。子供の部分を知られている、小さい頃におむつを変えてもらっていた、それにその人の前で全く無抵抗であった、ある意味では一番弱く無力な時から育てられたという事が関係しているのか。その意味ではどんなに虚勢を張っても(と言っても特にそうしているつもりもないが)その裏を親には見透かされているであろうという感じがする。(「私におむつを替えてもらったくせに、何を偉そうに言ってんの?」)親と大人になってから出会ったなら話は別である。しかしそうではないのだ。私は断りもなくこの世に生まれ、親との関係はそれこそ一方的に出来上がるのだ。それはフェアではない。

2022年1月27日木曜日

引き続き 他者性の問題 4

 他者をわかることは、余計誤解すること、そして他者を支配すること

はるか昔の話である。ある時出席していた学会の書籍売り場で私は書店の方と話をしていた。そこには私が出版した本も並べられているので、書店の販売員の方と本の売れ行きなどについて話していたのである。そして私は彼に「なかなか本を書く時間が取れなくて。それに家で机に向かって書いていると、家族がそれをあまり歓迎しないんです。」と少し愚痴をこぼした。すると横で本を物色していたある方が、「家族に反対されるくらいでないと本は書けませんよね」とひとこと言ったのである。「え、そうやってわかってくれる人がいるんだ!」と思って私はその人を振り返ったが、一面識もない人だった。それから言葉を交わすことなく、その人はどこかに行ってしまったが、私はこの時のことをいまだに忘れられない。それはまったく見ず知らずの、私にとっては何もつながりもない人(といってもその人はその学会に属していたはずだから同じ学会員ということにはなるが)がどうしてこれほど私のことをわかってもらえるのだろうと思ったからだ。

この出来事との比較で考えるのであるが、私たちは身近な人(家族など)、あるいは自分を小さいころから育ててくれた人(親など)にはどうして「わかってもらった」と思う体験が比較的少ないのだろうということである。もちろん彼らの理解や協力がないと生きてこられなかったし、これからも生きていけないわけだが、どうして私たちは彼らに対して「わかってもらう(と彼らが思う)ほどわかってもらえない」「わかってもらう(と彼らが思う)ほど誤解される」という矛盾した体験を持つかということが不思議なのだ。特に私が問題にしたいのは母親である。私は思春期以降思い続けていたのは「母親にわかってもらいたくない」という矛盾した願望であった。それで思い出すのであるが、私は若いころ、書いた本を母親に送っていた時期があった。母親は私の幼少時の作文の師匠であった。私が夏休みに作文を書くと、それを仕事の手を休めて読み、大きな丸をいつもくれた、という体験をよく思い出す。私は学校の勉強は特に目立つところがなかったが、作文だけは書くと褒められる、という成功体験を持つことが出来たのだ。その意味で母親は私の恩人である。彼女自身が文章を書くことがとても好きだったということも、少なくともその一部は私に遺伝したと考えるし、それ自身はありがたいことだ。

話を戻すと、私は出版した時は必ず送っていたのだが、ある日母親にこう言われた。

「あまり本を書いてばかりだと体を壊すから気を付けてね。」

はっきり理由は分からないが、私はこの言葉を聞いてから一切本を母親に送ることをやめてしまった。「ああ、やはり母親は全然わかってくれないし、これ以上『わかられ』たくもない」と思ったのだ。母親は今から9年前に亡くなり、私はこの気持ちを結局生前の母親に言う機会はなかったが、言っても仕方のないこと、どうにもならないことが分かっていたし、気が付いた時には病魔に侵されていた母親に言っても困惑するだけだというのは明らかだったからだ。(続く)

2022年1月26日水曜日

引き続き 他者性の問題 3

  さてこの時点で、ウィニコットの言っていることがどのように他者性の問題と関連するかについてお話ししましょう。精神分析の一つの大きな流れに対象関係論があります。この理論では対象object という言葉が特殊な意味を持ちます。そしてそのことがいつも少し引っかかっていました。対象関係論では、「対象」とはモノではなくて、常に「内的対象」なのです。つまり心の中のイメージ、瞼の母のようなものなのです。ただし例外はウィニコットの移行対象transitional object で、これは人形などのものなんですね。そこで彼はこれを論文の副題にfirst not-me possession 「最初の自分でない所有物」と付け加えて混乱を避けています。他方では英語の口語でいうobject というのは本当にモノなんです。You are objectifying me! と言えば、私をモノ扱いしないで、奴隷扱いしないで、という意味です。そこで精神分析では外界にいるものを何と呼ぶかが不明なのです。私だったら他者、と言いたいところなのですが、それがありません。ただしそれに近いのが主体subject なのです。皆さんは疑問に思うかもしれませんね。対象関係論とは別の文脈で、いわゆる間主観性の議論が行われるようになりました。そこでは治療者が観察や治療の対象とするいわばObject としての患者をいかに扱うか、というのではなく、治療者と患者はお互いに一個の主観であるという考えがこの間主観性の議論なのですが、これはいいかえれば他者の議論と言っていいでしょう。

2022年1月25日火曜日

引き続き 他者性の問題 2

  私は哲学的な議論は難しすぎてわからないので、西田幾太郎の絶対他者とかラカンの大文字の他者など耳には入ってくるのですが、ありがたみが分かりませんでした。最初にそのきっかけを作ってくれたのはウィニコットです。
 Winnicott 1969年に不思議な短い論文を書いていて、それが「the use of an object 対象を用いること」というものです。そこでおずおずとこんなことを提案します。「私たちは対象と関係することを知っている。何しろ対象関係論、というくらいだから。そして関係するとは相手を自分の投影の産物としてみることである、と。つまりはBさんとかかわっていても、心の中のBさんイメージと戯れているかもしれない。ただしBさんも私Aに対してそうしていて、これを私(ウイニコット)は、交差同一化cross-identification と呼ぶのですが、私はその先にある関係性について提案したい。それが対象を用いることである、ということです。

言い直すとこうです。対象と関係することは要するに相手と空想の世界で会うこと、「主体的な現象の内側で相手と会うこと」であり、他方用いるとは、「主体的な現象の外側に置くこと」です。そしてこれは双方にそのキャパシティがなくてはなりません。つまり私たちAが他者Bを用いるためには、ABを用いる能力があり、Bに用いられる能力があるということを意味します。そして用いることが出来るとは、Bからやがて去る覚悟を持つということです。そしてBから見たら、Aから去られる覚悟を持つということです。ということはお互いに無常なるもの、儚きものとして関係するということです。このことをウィニコットは論文の最後の方で行っています。分析家は患者から用いられることに慣れていて、それは治療の終わりを見ることが出来ることであるといっています。

2022年1月24日月曜日

引き続き 他者性の問題 1

 他者性の問題-相手を分かる、分からない

  将棋の藤井君(恐れ多くもこう呼ばせていただく。ただ年齢がはるかに上というだけで。)が113日の(名人位挑戦者決定予選の)B1総当たり戦の、千田七段との対戦で負けてしまった。私はそれを聞いた時、何か急に自分が衰えたと感じた。体力と気力が低下して、生きるのが少しだけしんどくなったという感覚。実に不思議な現象だ。それだけ私は藤井君や大リーグの大谷くん(恐れ多くも年上だからこう呼ばせていただく)に支えられているのだ。これはいったいどういうことだろう? 
 私にとって藤井君は他者、他人だ。彼にとって私はもっと他人、というより星の数ほどのファンの一人にすぎない。私の藤井ファンとしてのあり方は極めて自己中心的で、彼が将棋が鬼のように強くて、性格的にも好ましいからファンなのだ。私は精神的に彼に寄生させてもらっていて、彼が勝ったら喜び、負けたら落ち込む。彼があまりに負けが混みだしたら、ファンであることがつらくなって、もっと強い人のファンになるのだろう。(ファンの風上にも置けないヤツだ。)
 一つ言えるのは、藤井君は確かに私の心の中に居るということだ。精神分析で言う内的対象、というわけである。それも彼という人間を知っていてイメージをつかんでいる、というのにとどまらない。もっと親密で、彼の幸、不幸と私のそれは同期している(勝手に私がそうしているのである。)例えば「将棋の渡辺くん」という漫画を1巻から4巻までキンドルで購入して読んだ私は、恐らく渡辺明棋士のことをよりよく頭に思い浮かべることが出来て、心の中でより強固なネットワークを形成している。しかし彼が勝っても負けても特に私は心を動かされることがない。ところが藤井君の場合は違うのだ。藤井君の私の心の中における存在の仕方は、渡辺君(恐れ多くも)のそれとは違う。そして内在化、という意味では、藤井君の方がより強固なされ方をそれはかなり重要な意味を持った内的対象なのだ。
 さて私の内的対象としての藤井君と、実在する藤井君とはどう違うのか。これがまた面白いのである。ある意味では実在する藤井君を本当は知らない。外側だけの彼のことを知っている。でも例えば将棋に全く興味のない高校時代の彼のクラスメート、人間臭い(傘をよく忘れるらしい。それにキノコが苦手とも言われている)彼のことを身近に知っている級友が,彼がいかにすごいかを知らなかったりするのだ。「将棋の天才と言われている、でも普通の高校生」と思うだけかもしれない。すると私の方がよほど「彼がいかにすごいか」を知っているという事にもなる。私が遠くにいるのに彼のことをよく知っているという事になる。
 先ほどの「将棋の渡辺君」の話にも通じる。奥さんの伊奈さん(漫画家)は、渡辺棋士のダメダメ部分をすごく分かっている。干支を言えないご主人のことを「あきれた人ね!」というかもしれない。伊奈さんにとって、夫の「すごさ」はある意味ではもう焦点距離の内部に入ってしまい、見えなくなってしまっている。つまり他者はその近くに行けば行くほど分からなくなってしまう所があるのが不思議だ。
 他者のことを知ろうとすると、実はますますわからなくなってしまうという所がある。他者から遠くのところで、遠景で眺めることで「見える」こともある。焦点を結ぶからだ。しかしそれはその他者が関係する様々な現実の一つを切り取って見えることに過ぎない。
 私はウィニコットの力を借りて、他者を一つの主体として遇するべきだと言う。自分のあずかり知らない部分を持った人として扱い、自分の創造の世界で作り上げた、つまり内的対象としての他者をその人そのものと思ってはいけないというわけである。でも本当は私たちは他者を宇宙人として扱うことは実はできないのだ。

2022年1月23日日曜日

偽りの記憶 論文化 12

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、まず記憶が脳でどのように形成されるかについて論じたい。ただし記憶の問題の解明はまだ始まったばかりであり、かなり仮説的なものも含まれることをお断りしたい。

まずある事柄を覚えている、あるいは想起する、とはどういうことかを考えよう。例えば高校の卒業式のことを私たちは「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の顔などが沢山一挙に浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆるものを含む。そしてそれらはもともと脳の様々な部位で蓄えられていたはずだ。ということは記憶とはそれらが結びつけられている状態と見なすことが出来よう。

いわゆるニューラルネットワークモデルとは、人間の脳が膨大な数のニューロン(神経細胞)が網目状の構造をなしていると考える。それに従えば、過去の出来事を想起することとは、数多くのニューロンが同時に興奮する現象とみていい。そしてそこで物事の想起がまさに進行していく過程を説明するのが「連想活性化説 associative activation(p96) である。これは記憶とはある一つの事柄からの連想という形で波紋が広がるようにニューロンが活性化されていくという事だ。そのつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶ。似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。そこを伝わって記憶のネットワークが賦活化され、記憶内容が次々と広がっていくのである。

以下略

2022年1月22日土曜日

偽りの記憶 論文化 11

ちょっと付け加えた。

 私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより1990年代までアメリカで精神科の臨床を行っていたが、その間の動きをよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、一般的に知られるよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果として戦闘体験を有する人や性被害の犠牲者となった人々が示すPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになったのである。ただしこれは個々人があまり思い出したり語ったりしようとしなかった記憶が問題とされるようになったというばかりではない。社会が、医療従事者がそれを無視したり注目していなかったことがかかわっていた。1988年にはエレン・バスとローラ・デービスによる「生きる勇気と癒す力」では、チェックリストを示し、それに該当すると幼児期に性的虐待を受けて、その記憶を抑圧しているために忘れている可能性が高いことを示した。また1992年にはハーバード大学のジューディス・ハーマンも「心的トラウマと回復」で幼少期のトラウマによって自責や自殺願望に苦しめられている女性たちを救うためには、“抑圧された記憶”を回復させることが必要だと説いた。虐待の被害者が治療によりその記憶を蘇らせ、そこから回復する過程を描き、わが国でも阪神淡路大震災の翌年の1996年に翻訳されて出版され、大きな反響を呼んだ。
 ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであった。つまり数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。そして出来上がったのがFMSF(偽りの記憶症候群財団)である。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。
 欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む傾向にある。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこのFMSFをめぐる論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。 
 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994年)から要約すると以下のようになる。
「私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。」
 ロフタスは彼女の研究を通じて、幼少時の性的外傷がしばしば抑圧され、それが治療により想起されるという立場を取った臨床家、特に「トラウマと回復」の著者であるジュディス・ハーマンなどに向けられた。このハーマンとロフタスの論争は、このトラウマ記憶の回復をめぐる論争や対立を象徴していたと言えよう。そしてロフタス自身も2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる(Jenkins)。
Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

2022年1月21日金曜日

偽りの記憶 論文化 10

 ●過誤記憶の植え付けは可能か?

ある意味ではここからが本論考の主たるテーマとなる。過誤記憶は人工的に、それも健常人に作り出すことが出来るのであろうか? 結論から言えば、条件さえ整えばかなりの割合で可能であるという研究結果が出ている。私たちは過去の出来事を誤って想起することがあることはすでに見たが、さらに外部からの働きかけによりさらに大きな歪曲を伴った過誤記憶としてよみがえる可能性があるのだ。もちろんそのような例のすべてで過誤記憶が生じるわけではないが、それが私たちが考える以上に高頻度で生じることが明らかになっている。

例えば海軍でのサバイバル訓練の例が挙げられている(p.208)。そこでは被検者が模擬的に捕虜にされた特定の人物に厳しい尋問を受けるという状況に身を置かれる。そして被検者たちは実際とは異なる尋問者の写真を示された。やがて解放された被検者は、何と8491%の率で、写真で見せられた人物を実際の尋問者として報告したという。さらにはその尋問に関連した具体的な情報についても、質問の仕向け方により過誤記憶を生み出した。例えばそこに電話はなかったにもかかわらず「尋問者は電話をかけることを許可したか?」そしてその電話について描写せよ、と言われただけで、98%の被検者は、そこに電話があったと証言したという。

 この実験は過誤記憶が成立するという一つの例であるが、それを増幅するような様々な手続きがありうるという。例えば記憶の内容を言葉にすることで、その正確さが損なわれるという研究があり、これについては興味深い実験が知られている。被検者に30秒ほどある人物の写真を見せ、二つのグループに分ける。一つにはその写真の人物を言葉で描写してもらい(例えば髪の毛が茶色、目の色が緑、唇が薄い、など)、もう一つのグループにはそれを求めなかった。そして数日後にその写真をどのくらい覚えているかを調べると、書き留めてもらった人の正解率は27%で、それをしなかったコントロール群は61%であったという。つまり言葉で描写することを求めた方のグループに、より大きな記憶の歪曲が起きたのだ。この種の実験も結構色々な研究者により追試されて、色や味、音などについても同様の結果が出ているという。言葉にするということはそれをかなり限定し、歪曲することに繋がる。体験を忘れないように文章に書きとめるということ自体が過誤記憶を生み出す可能性があるのだ。

これらの研究は偽りの記憶財団が糾弾したような虐待の虚偽記憶を生み出すプロセスが可能となることの実証的なエビデンスを示しているといえるであろう。

 

●過誤記憶を助長するファクター (催眠、洗脳、サブリミナル効果)

 

1.催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか

想起された記憶と虚偽記憶というテーマで欠かせないのが、催眠による記憶の回復についてである。例えば次のような想像をしてみよう。非常に有能で経験豊かな催眠術者が被験者に深い催眠をかける。すると彼はそれまで思い出すこともなかった子供時代のあるエピソードについて滔々と語るとしよう。テレビ番組などでそのようなシーンを見た方もいらっしゃるかもしれない。これは実際に可能なのだろうか? ある研究によれば、アメリカの大学生の44%はそのような現象を信じているという。研究結果はその実証性は「ない」ということだ。あるいは退行催眠(催眠状態で年齢を退行させる施術)による実験でもその信憑性は疑わしいとされる。
 1962年の研究で、ボストン大学のセオドア・バーバーが発見したのは、幼児期まで退行するという暗示をかけられた被験者の多くが、子供の様なふるまいをし、記憶を取り戻したと主張したという。しかし詳しく調べてみると、その「退行した」被実者が見せた反応は、子供の実際の行いや言葉、感情や認識とは一致しなかったという。バーバーの主張によれば、被検者たちには子供時代を追体験しているかのように感じられたのだろうが、実はその体験は再発見した記憶というより、むしろ創造的な再現だった。同様に、心理療法中、暗示的で探るような質問に催眠術を組み合わされると、複雑で鮮明なトラウマの過誤記憶が形成される可能性があるという。

これが一般の心理学における一つの見解であることは了解したとしても、一つの問題が生じる。退行催眠が可能な人のいったい何人にDIDの人が混じっている可能性があるだろうか?そもそも催眠にかかりやすい人とは、結局解離性障害を有している人という事はないだろうか? 誰かこの疑問に答えてくれないだろうか? おそらく無理であろう。

2022年1月20日木曜日

偽りの記憶 論文化 9

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、まず記憶が脳でどのように形成されるかについて論じたい。ただし記憶の問題の解明はまだ始まったばかりであり、かなり仮説的なものも含まれることをお断りしたい。

まずある事柄を覚えている、あるいは想起する、とはどういうことかを考えよう。例えば高校の卒業式のことを私たちは「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の顔などが沢山一挙に浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆるものを含む。そしてそれらはもともと脳の様々な部位で蓄えられていたはずだ。ということは記憶とはそれらが結びつけられている状態と見なすことが出来よう。

いわゆるニューラルネットワークモデルでは、人間の脳が膨大な数のニューロン(神経細胞)が網目状の構造をなしていると考える。それに従えば、過去の出来事を想起することとは、数多くのニューロンが同時に興奮する現象とみていい。そしてそこで物事の想起がまさに進行していく過程を説明するのが「連想活性化説 associative activationである。これは記憶とはある一つの事柄からの連想という形で波紋が広がるようにニューロンが活性化されていくという事だ。そのつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶ。似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。そこを伝わって記憶のネットワークが賦活化され、記憶内容が次々と広がっていくのである。

例を挙げよう。私がパリという言葉を思い出すと、昔留学した一年間の出来事がザザーッと流れてくる。それはパリ留学のうちのどの部分の記憶を思い出すかによりいかようにも展開していく。そのうちの一つ、例えばパリ滞在中に行ったドイツ旅行のノードについて思い出すと、そこからザザーッと流れ、パリとは直接関係のないミュンヘンの街角の喫茶店で食べた、生クリームてんこ盛りのケーキのことまで思い出す、というように広がっていくのだ。

このようなネットワークの広がりとしての記憶は、最初にどのように形成されたのだろうか。そこで中心的な役割を果たすのが大脳辺縁系にある海馬と扁桃核である。私たちはある出来事を経験し、そこで特に印象に残った記憶は海馬や扁桃体という部分が強く働いてそれを一時的に記憶にとどめる。つまりその記憶に関するネットワークの核となるべき部分が形成されるのであるが、それはいくつかのニューロンの間のノード(シナプス)が太くつながりを持つようになるという事だ。そしてそこでは具体的にはそのシナプスを形成する材料となるタンパク合成が行われる。川幅を広くするためにはブロックなどの建材を積み上げるなどの作業が必要であるが、それと同じである。このことは、ラットにある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することで学習が行われないという研究結果から明らかになった。

(以下略)

2022年1月19日水曜日

偽りの記憶 論文化 8

 欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。 

 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。
 
ところでロフタスとワシントン大学は2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる(Jenkins)
Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

ところで常識的な立場からは、ロフタスの主張は概ねその通りであるという事は言えるだろう。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。

筆者はこの問題はどちらにも政治的に巻き込まれることなく客観的に論じたい。その一番の根拠は次のようなことである。
 イノセンスプロジェクトという団体が冤罪の濡れ衣を着せられた人たちを337人ほど釈放させたという。それらの例の少なくとも75パーセントで、誤った記憶が有罪の根拠とされていた。この数字は米国の、それもDNA鑑定が出来た事件に限ったものだという。

私は個人的にはここに含まれる問題は二つあると思う。一つは純粋な過誤記憶、もう一つは自己欺瞞的な過誤記憶である。私たちは「ABかもしれない」を「ABである」に変えてしまう傾向を恐らくデフォルトとして持っている。イノセンスプロジェクトの場合も、二つの場合が共存するのだ。そしてより多く、えん罪の被害者を救うためにも、この蘇った記憶の問題を少しでも明らかにすることは重要なのである。

 

2022年1月18日火曜日

偽りの記憶 論文化 7

 ところで読者の皆さんはこのテーマで書かれた多くの論文や著書を読んで結局失われていた記憶が突然蘇ることがあるのか、について曖昧な回答しか得られない可能性がある。特にそれが臨床家により書かれたものでなければそうだ。そこで以下の論述の前に私の結論を最初に申し上げておく。それはその様な現象は実際に「起きうる」のである。その頻度は多くないにしても実際に臨床で体験される。例えば次のような例を挙げておこう。

「ある中年の男性が課長としてリーダーシップを取っていたが、(以下略)。」

この例に関しては、教会への通所という忘れていた出来事は事実関係が確認され、少なくとも偽りの記憶でないことを私自身が確認することが出来た。そしてもちろんこの出来事だけが特別ではない。解離の機序が働く場合にはこの種の健忘、そしてその後の想起はしばしば起きることを私自身が目にしているのである。

 記憶は蘇るのか?

さて、忘れていたはずの記憶が後になって甦ることはあるのか、そのプロセスで偽りの記憶はいかに形成されるのかについての考察が本論稿のテーマである。心理療法に携わる人にとっては、「抑圧されていた記憶が治療により蘇る」という現象があることはある意味では常識と考えられるのではないか。少なくとも精神分析ではその様なフロイトの考え方に異議を唱えることなど思いもよらないほうが普通ではないだろうか。それに比べて「偽りの記憶」の問題の歴史はまだ浅く、人々にもその正体が十分には理解されていないであろう。「抑圧された記憶がよみがえる中で、時々偽りの記憶が生まれるが、それはあくまでも例外的なものである」というのが一般の臨床家の感覚ではないであろうか?
 私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより1990年代までアメリカで精神科の臨床を行っていたが、その間の動きをよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、一般的に知られるよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果として戦闘体験を有する人や性被害の犠牲者となった人々がPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになったのである。ただしこれは個人の中に抑圧されていた記憶がよみがえったというばかりではなく、社会が、医療従事者がそれを無視したり注目していなかったことがかかわっていた。ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであった。つまり数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。そして出来上がったのがFMSF(偽りの記憶症候群財団)である。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。

2022年1月17日月曜日

偽りの記憶 論文化 6

 この論考を読む方々の多くが臨床に携わっていることを想定して、次のような問いを掲げよう。
 あるクライエントAさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ましたが、内容は覚えていません。でも何か幼い頃の光景が出てきたように思いました。そして目が覚めてから小さい頃の母親とのあるエピソードが思い出されました。私は母親に何かの理由で怒られて、家を追い出され、裸足のままドアをたたき続けたんです。あの時の怖さや不安が急に蘇ってきました。」
 心理面接で聞く話としてはさほど珍しくもないであろうが、これを聞いた面接者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく臨床家によって実に様々な答えが返ってくるであろう。「Aさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際に起きたことの記憶が想起されたのであろう」「一種のトラウマ記憶であり、フラッシュバックとともにその出来事が再現されたのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「このAさんの記憶は夢に触発されたものであり、実際にこのようなエピソードがあったのかについてはその保証はない。」「いわゆる偽りの記憶である可能性があり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。実際にはこの様なごくシンプルそうに見える事例を取ってもその扱い方には様々な可能性がある。このようなエピソードをどのように受け入れ、扱うかは、現実にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるであろう。ところが「ケースバイケース」で済まされない問題がそこにある。もし母親の虐待的な養育があった場合に、それを偽りの記憶として片づけられたら、それはクライエントにとってのトラウマになりかねない。しかし逆に十分な養育を行っていた母親が虐待していたという可能性を疑われるという事もありうる。以上がこの「蘇った記憶、偽りの記憶」をめぐる議論の複雑さを示している。臨床家ごとの異なる扱いは、しかし恣意的であってはならず、高度な臨床的判断が必要となるのだ。本稿での以下の論述も、Aさんのエピソードをどのように考えるべきかという画一的な扱いを提案することはできないが、その場に置かれた臨床家がより良い判断を下すことが出来るような柔軟性に寄与することが出来ることを願う。

2022年1月16日日曜日

偽りの記憶 論文化 5

 トラウマ記憶は特別か?

蘇った記憶、偽りの記憶について考える際、トラウマ記憶の問題は特に重要である。私たちが外傷的な出来事、トラウマを体験した際に、その際の記憶は通常の記憶とは異なる振る舞いを見せることが知られている。それはしばしば突然蘇り、またしばしば偽りの記憶という形をとる。1980年代から米国で社会問題となった偽りの記憶は患者により報告された幼少時に受けたというトラウマ記憶であった。

様々な記憶の中でもトラウマ記憶は特別な存在なのか? それは突然蘇ったり偽りの記憶として生成される傾向を持つのであろうか? 一般に信じられているものは以下のようなものであろう。トラウマを受けた状態では、精神が極めて動揺し、そのために通常の記憶とは異なる記憶が形成される可能性がある。その際しばしば人は興奮状態や解離状態になり、その結果としてトラウマ体験の時の記憶はある意味では抑制され、別の意味では促進される傾向にある。一部に記憶喪失が、そして別の部分に記憶増進の両方が起きるという。これは臨床的に言っても妥当である。前者は自伝的な記憶の障害であり、後者はフラッシュバック等の情動的な部分の過剰な記憶ということになる。この問題について正面から問いただした研究がある。2001年にスティーブン・ポーターとアンジェラ・バートの論文  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?)がそれだ。

Porter, S., Birt, A. (2001) Is Traumatic Memory Special? A Comparison of Traumatic Memory Characteristics with Memory for Other Emotional Life Experiences.  Applied Cognitive Psychology. 15;101-107.

 彼らは306人の被検者にこれまでで一番トラウマ的であった経験と、一番うれしかった経験を語ってもらった。その結果トラウマ度が極度に高くても、非常に明確で詳細な内容を語ることが出来たという。ただし彼らはトラウマ的なことに関しては抑圧repression を用いるのではなく、一生懸命意識から押しのけようとしていた(抑制 suppression)という。またトラウマの度合いが高い人ほどDES(トラウマ体験尺度)の値も高かったという。この抑圧と抑制の区別はもう少し解説が必要であろう。抑制とは意識的な努力であり、そのことを考えないようにしているわけで、その意味では「忘却」はしていないのだ。それに比べて抑圧とはその内容全体が無意識にあり、その代理物としての症状や夢を通してしかその存在を知ることが出来ないのである。

 このデータをどう理解するべきか。私の考えでは、おそらくトラウマが抑圧されるという議論についての一定の結論はここに出されているのではないかと思う。つまりそれはフロイトが(誤って、ではあるが)非難されている議論、すなわちトラウマは抑圧されるという議論をさしている。ただ解離の関連する記憶の想起は実際に臨床上体験されることであり、それを否定することは出来ない。

結論から言えば、この研究では、臨床上問題となるようなトラウマ記憶を救い上げることが出来ていないと言える。それが一般の健常者を対象とする研究の限界かも知れない。では改めてトラウマ記憶について説明しよう。これはPTSDで問題になるような、恐怖を伴ったトラウマ的な記憶である。トラウマ記憶は通常の記憶と異なる性質を有するという事が知られている。一番の特徴はそれが通常の記憶と異なり、いわば情緒的な部分が時空間的な情報の部分と別れてしまったものである。これについてはかつて「忘れる技術」という本を書いたが、記憶は認知的(「頭」の)部分と情緒的な部分と情緒的(「体」の)部分の組み合わせであるという説明の仕方をした。前者は時空間的な情報の部分であり海馬で作られるが、後者は扁桃核や小脳で作られる。一般的な記憶はその両方を備えているのがふつうであるが、それが分かれてしまい、例えば体の部分のみになってしまったり、両者はバラバラに思い出されると言ったことがトラウマ記憶の特徴であると説明した。

このトラウマ記憶はキチンと想起できない、という面と、逆に忘れられない、という両側面を持つ。PTSDの患者と一般人に記憶力テストを行い、一連の単語を見せた後、それを覚えておくか忘れるかを被検者に指示する。すると、PTSDの患者の方が記憶できた単語数が少ないという。ところが興味深いことに忘れるように言われた単語は逆に余計覚えているという所見も明らかになった。つまりPTSDでは「忘れる」能力が低下しているということなのだ。

 

 

2022年1月15日土曜日

偽りの記憶 論文化 4

 始まりの部分。

この論考を読む方の多くが臨床に携わる人であることを想定して、次のような問いを掲げよう。

あるクライエントさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ましたが、内容は覚えていません。でも何か幼い頃の光景が出てきたように思いました。そして目が覚めてから小さい頃の母親とのエピソードが思い出されました。私は母親に家から出されて、裸足のままドアをたたき続けたんです。あの時の怖さや不安が急にありありと蘇ってきました。」(以上架空の症例の話である。)

よくある心理療法の一コマである。これを聞いた面接者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく臨床家によって実に様々な答えが返ってくるであろう。「クライエントさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際に起きたことの記憶が想起されたのであろう」「一種のトラウマ記憶であり、フラッシュバックとともに蘇ったのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「これは夢に触発されたものであり、実際にこのようなエピソードがあったのかについてはその保証はない。」「いわゆる偽りの記憶であり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。実際にはこのエピソードをどのように受け入れ、扱うかは、現実にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるであろうというしかない。つまりこれらのどの立場もありうるというのが現実なのだ。

この様なごくシンプルそうに見える事例を取ってもその扱い方には様々な可能性があるというのが、「蘇った記憶」をめぐる議論の複雑さを示している。本稿での以下の論述も、蘇った記憶に対する画一的な扱いを示すことにはならないが、その「複雑さ」を考える上での参考となり、より臨床的な柔軟性に寄与することになればと願う。

2022年1月14日金曜日

偽りの記憶 論文化 3

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、まず記憶が脳でどのように形成されるかについて論じたい。ただし記憶の問題の解明はまだ始まったばかりであり、かなり仮説的なものも含まれることをお断りしたい。

まずある事柄を覚えている、あるいは想起する、とはどういうことかを考えたい。例えば高校の卒業式のことを私たちは「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の顔などが浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆるものを含む。そしてそれらは脳の様々な部位で蓄えられている。ということは記憶とは脳の様々な個所に保存されている記憶の断片が結びついた状態であることは確かである。

いわゆるニューラルネットワークモデルに従えば、想起とは数多くのニューロンが同時に興奮する現象とみていい。そしてそこで物事の想起が進む過程を説明するのが「連想活性化説 associative activationである。これは記憶とはある事柄からの連想という形で活性化されていくという事だ。ニューラルネットワークをニューロンの網目状の構造と見なし、そのつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶ。似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。そこを伝わって記憶のネットワークが賦活化され、記憶内容が広がっていく。例を挙げよう。私がパリという言葉を思い出すと、昔留学した一年間の出来事がザザーッと流れてくる。そのうちの一つ、例えばパリ滞在中に行ったドイツ旅行のノードについて思い出すと、そこからザザーッと流れ、最初パリをイメージした時には出てこなかったミュンヘンの街角の喫茶店で食べた、生クリームてんこ盛りのケーキのことまで思い出す、というように広がっていくのだ。

このように昔形成された長期記憶は大脳皮質その他の様々な部位に散らばっており、それらが一瞬にして同時に興奮するわけだが、その記憶は最初にどのように形成されたのだろうか。そこで中心的な役割を果たすのが大脳辺縁系にある海馬と扁桃体である。私たちはある出来事を経験し、そこで特に印象に残った記憶は海馬や扁桃体という部分が強く働いてそれを一時的に記憶にとどめる。ではこの一時的な記憶が作られるとはどういうことかを考えるならば、要するにシナプスの間の結びつきが強くなるということだが、そこでは具体的にはタンパク合成が行われる。川の幅を広くするためにはブロックを積み上げるなどの作業が必要であるが、それと同じように脳の場合はタンパク合成によりシナプスの補強を行うわけだ。このことは、ラットにある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することで学習が行われないという実験からもわかる。
 さて以上を基礎知識として、最近記憶に関する研究に大きな進歩が起きているので紹介したい。その一つがいわゆる記憶の再固定化の問題である。これは一度記憶された内容が思い出されることで、その記憶がさらに増強されたり、逆に消去されたりするという現象であるが、これについては東大の喜田聡先生のグループの研究が有名である。

ただしこの実験は実はきわめて専門的な知識が必要となるので、少しわかりやすく書き換えたい。喜田グループはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはあることを思い出そうとしないのに突然何かのトリガーにより想起されるという現象である。その詳しいメカニズムは十分に分かってはいないが、一つたしかなのは記憶はそれを思い出すという事で一時的に「不安定」になり、そこから増強されるか消去されるかの選択肢が生まれるということだ。比喩を用いるならば、それまで記憶という名のパズルの一つのピースとして治まっていたものが、思い出すことでいったん外れ、その形を変えるのである。そしてトラウマを思い出す時間が短いと、その記憶はよりしっかりと定着し(つまりそのピースはよりしっかりと嵌り直し)、思い出す時間が適度に長いと(例えば10分以上)それは薄れる方向に働く(つまりピースはサイズが小さくなったり、より外れやすくなる)という事だ。実は臨床的にとても大きな意味を持つ。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。どうせ思い出すなら、安全な環境で3から10分以上思い出す必要があるという事だ。

2022年1月13日木曜日

偽りの記憶 論文化 2

 サブリミナル効果

サブリミナル効果とは、意識にのぼらないような強度の刺激を与えられることで、人間の行動に変化が生じるという現象を指す。1950年代の有名なポップコーンの実験以来このテーマの研究は色々行なわれているが、それでも今一つその存在の決め手がないようだ。しばしば例に挙げられる1957年のジェームズ・ヴィカリーの調査とは次のようなものだ。彼は米国ニュージャージー州のある映画館で上映中のスクリーン上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し映写したという。するとコカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことである。この実験は大きなセンセーションを巻き起こしたが、ヴィカリーは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表せず、また同様の実験が追試されたがこのような効果はなかったとされる。数年後にはヴィカリー自身が「マスコミに情報が漏れた時にはまだ実験はしていなかったし、データも不十分だった」という談話を掲載したという。また19582月に、カナダのCBCが行った実験で、ある番組の最中に352回にわたり「telephone now(今すぐお電話を)」というメッセージを映してみたが、誰も電話をかけてこなかったという。さらには放送中に何か感じたことがあったら手紙を出すよう視聴者に呼びかけたが、500通以上届いた手紙の中に、電話をかけたくなったというものはひとつもなかったというのだ。
 ただしサブリミナル効果の存在を示したという、信憑性のある実験結果も報告されている。ベリッジとウィンキルマンBerridge and Winkielman2003)による研究では、参加者を募って3つのグループに分け、彼らが気が付かないようなほんの一瞬、3枚の写真のどれかを見せたという。それらの写真とは笑顔と中立的な顔と怒った顔の三枚である。そしてその後フルーツ飲料を自分で好きなだけ自分のグラスに注がせるという実験である。その結果は笑顔を見せられた人たちは、それ以外の人たちに比べて50%ほど多くフルーツ飲料を自分のグラスに注いだという。

という事でサブリミナル効果の真偽は実験者によって異なるという事になるが、一つ言えることがあるだろう。それは意識に上るか上らないかの情報が私たちの判断に影響を与えるという事は数多くあるという事実だ。例えば無人の販売所で、大きな目を描いた絵を置いておくと、人はよりずるをしないという研究がある。その場合正直に支払った人のどの程度がその絵を意識するか、なんとなく感じるか、あるいはまったく気が付かないかというのは、その間の線引きもあいまいなものである。つまり人は気が付かないうちに様々な情報に影響を受けるという事実は間違いなくあるのだ。しかしそれは恐らく、気が付こうと思えば気が付くようなレベルの刺激であろう。3000分の一秒という瞬時に映される像は、おそらくそれにいくら目を凝らしても知覚できないであろうし、それに影響を受けるという事はあまり考えられないだろう。ところがどのような表情の写真を見せられたかは、はっきり意識化される情報である。その意味でヴィカリーの研究に信憑性はないが、ベリッジの研究には信憑性が生まれるのである。

 ところでこのサブリミナル効果の問題は、私が専門としている精神分析の世界では深刻なテーマを呈している。精神分析の世界で通常私たちが無意識として考えるのは、私たちの心の奥底にうごめいているが意識できないような本能や願望などである。しかしそのような無意識内容などそもそもあるのかという事について、疑問符が付けられるという動きが、精神分析の内部でも、少なくとも一部の分析家によりみられる。これはその様なフロイト的な無意識が存在しないというわけではなく、それを確かめようがないという問題があるからだ。ただし重要なのは、精神分析の本流にいる分析家が、無意識の例としてサブリミナル効果を挙げているという事は、彼もまたフロイトの古典的な意味での無意識をあまり想定していないという事になるのだ。それよりは、意識していない部分が私たちの意識的な考えや行動に影響を与え得るという意味で一番検証しやすい「無意識」内容こそがサブリミナル効果なのである。

フロイトは夢において極めて特徴的なプロセスが働き、いくつかの単語が組み合わさるといったいわば化学反応のような現象が脳で生じて、それが症状として表れるという説明を行った。しかしそれは最近のサブリミナルメッセージの研究の一つと似ている。例えば歌に組み込まれた「バックワードメッセージ」(逆に再生すると現れるメッセージ)が効果を発揮するという研究もある。「ルイテレワノロハエマオ」と聞いた人が、なぜか背筋がゾッとする。それはこれを逆向きに読むと「お前は呪われている」となり、しかし無意識はその様なパズルを解き、ヒヤッとするという理屈だ。でもこんなことあるはずはないではないか?その意味ではアナグラムの持つ効果なども同様ではないかと思う。

2022年1月12日水曜日

偽りの記憶 論文化 1

 初めに 問題のありか

本論文は「偽りの記憶」についての考察である。私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1990年代はずっとアメリカで臨床を行っていたが、多くの女性や子供が、実は性的な被害を受けていたことが明らかにされたことになる。ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであり、FMSF(偽りの記憶症候群財団)が出来上がった。そこでは数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。

欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。
(以下略)

2022年1月11日火曜日

偽りの記憶 推敲 7

記憶の神経学的な仕組みについての補足 記憶について考えるうえで参考になるのが、ミラーとブッシュマンの研究 (ショウp225)である。(Miller ,EK & Buschman, TJ (2013)Brain rhythms for cognition and consciousness. Neuroscience and the Human Person; New Perspectives onHuman Activities.121.) 要するに記憶の正体とは、脳の中でいくつかの神経からなるネットワークが興奮し、起動しているということである。そしてそれはさらに言えば、ある特定の事柄を意識しているとは、それに関連した神経ネットワークに参加するニューロンが同期化しているという話だ。ここで同時に興奮することと、それらが同期化することの違いを理解していただきたい。同時に興奮することとは、脳のいくつかの部位が同時に興奮しているということであり、そこに必ずしも同期は含まれない。例えば料理をしているときは、料理に関するいくつかの部位が同時に興奮していることで、例えばフランス料理を作っている時は、イタリア料理のことも比較的容易に思い出せるであろう。それは例えば家で料理と全く関係のないゲームをやっている時にはイタリアンのことを思い出せないという違いにより表される。ところがフランス料理の中でも、例えばブイヤベスを作っている時、それに使っている食材のことも、過去に作って評判の良かったブイヤベスの記憶も、おそらく一つのこと、同じこととして体験されるのではないか。そのような時におそらくそれらのイメージを結ぶ神経細胞の興奮は同期化している(サインカーブが重なり合う)のである。同期化という言い方が分かりにくいなら、「共鳴」でもいい。神経細胞の興奮が同期することとは、それらがお互いに高め合う効果を生むということである。 さてすでに同期化を繰り返している神経細胞のグループならこれはやさしい。例えば歴史上の人物「ショウトクタイシ」を私たちはよく知っているから、これらの8つの音は同期し合うことで共鳴する。すぐにピンとくるわけだ。同時に「オノノイモコ」も同期しやすいはずだ。ところが二つを切ってつないで「ショウトクイモコ」としてもすぐには鳴ってくれない。しょうがないから両者を同時に無理やり鳴らすことに意識野は使われる。これをやり続ける仕事がワーキングメモリーだ。もう少し身近な例だと、でたらめな7桁の番号、例えば34290765を一分後に書けなくてはならないとする。しかもメモすることが出来ない。その時にはこれら7桁の数字をこの番号で覚えるという記憶を、意識のワークスペース全体を使わなくてはならないことだ。ショウはこのことが、人間の意識がどうしてマルチタスクが出来ないかについても説明するとしている。それをするには一つのニューロンがいくつもの波長のリズムを送り出さなくてはならないが、それが出来ないというわけだ。 過誤記憶にはいくつかの種類がある 私たち精神科医が遭遇する過誤記憶に類似した現象には、他にいくつかありそうだ。それらとは妄想であり虚言、つまり嘘である。これらは精神病理学的に明白に区別されるべきものだが、これが案外厄介だ。  ある架空のAさんを考えよう。彼は野球をやっていて、巨人軍のスカウトからアプローチをされたという。その話を聞いた私は、Aさんの野球の実力を知っているためにそれがおそらく現実には起きそうにないように思えるとしよう。しかし全くあり得ないことではないところが難しいのだ。まずこれが妄想である可能性についてはもちろんある。現実にないことを頭の中であたかも実際に起きていることとして作り上げてしまうという病的な現象が妄想だ。あるいは虚言(つまり嘘)であるという事も十分ありうる。こちらは精神疾患とは言えない。多かれ少なかれ人間は嘘をついてしまうことが時々ある。 ところがこれが過誤記憶である可能性があるとはどういう事だろうか。例えばAさんが夢を見て、その中で野球の練習からの帰り道にある男が「私は巨人軍のスカウトですが、貴方の練習を見ていて将来性を感じました。連絡先を教えていただけますか?」と言い、Aさんは電話番号を告げるとその男は立ち去ったとしよう。ところが月日が経つと、Aさんはそれが夢なのか現実なのかがわからなくなって来たとしよう。その練習場所はいつものなじみのグラウンドだし、そこでAさんの練習をたまたま見ていたスカウトがAさんにアプローチするという事は全くないわけではない。そして夢の内容を現実に起きたものに知らぬ間に置き換えてしまうというのは過誤記憶に分類されるのだ。こうなると一見あり得そうにない話を聞いた場合、それを過誤記憶か妄想かという問題になるが、前者は正常でも起きえることで、後者は精神病の症状だという区別をすればそれで済むというわけではない。何しろ妄想的な着想は一見正常人と思われる人にも突然孤立して現れることがあるからだ。 ちなみにこれにはさらに厄介な事態が関係する。Aさんにファンタジー傾向が強く、実際にプロ野球の球団からスカウトされることを夢見ている彼は、そのような場面を夢想することもあるだろう。白日夢、ファンタジーという事になるが、それは夢とは違い、ある程度意のままに構築することが出来るのだ。そしてAさんがそれに没入した場合に、これも将来過誤記憶として成立する可能性がある。ファンタジーの中で生じる出来事が、より現実に近い内容であるとするならば、それは現実といよいよ区別がつきにくくなることもあろう。
  自己欺瞞か嘘つきか? ある研究では写真の顔を魅力的に出来たり、不細工に出来たりするソフトを作り、(面白いソフトがあるもんだ)被検者のオリジナルの写真と、加工を加えた何枚かの写真を提示した。するとほとんどの被検者が選んだのは、オリジナルより10~40%魅力度を上げた修正写真だったという。ちなみに友人の写真と面識のない人の顔では、10%上げたもの、面識のない人なら2.3%上げたものを選んだというのだ。まあ分かりやすく言えば、人は自分の顔を美化する、ということだが、これは過誤記憶の問題にもかかわってくる。私たちは自分を欺くことがうまいのだろうか?ところが他人の写真でも、アカの他人でも同じような傾向が起きるとしたら、これは自己欺瞞とも言い切れないことになる。 このテーマとの関連で私はダン・アリエリーの研究を思い出す。(以下省略)

2022年1月10日月曜日

偽りの記憶 推敲 6

偽りの記憶の植え付け

 人工的に健常人に偽りの記憶を受け付けることが出来るのだろうか?結論から言えば、被検者の70%以上が、犯罪と感情的な出来事の両方で、完全な過誤記憶を作り上げるという。こうなると例えば裁判などにおける証言の意味すら曖昧になってきたりする。(裁判にかなりの回数出た経験があるが、利害関係を有しない人に関する証言は、自然科学におけるエビデンスと同等にあつかわれるという印象を持っているからだ。)

例えば海軍でのサバイバル訓練の例が挙げられている(ショウ、p.208)。そこでは模擬的に捕虜にされた特定の人物に厳しい尋問を受けるという状況に身を置かれた人たちが、その後に偽の尋問者の写真を示された。やがて解放された被検者は、何と8491%の率で、写真で見せられた誤った人物を尋問者として報告したという。それに具体的な情報でさえ、質問をそのように仕向けるだけで過誤記憶を生み出した。例えばそこに電話はなかったにもかかわらず「尋問者は電話をかけることを許可したか?」そしてその電話について描写せよ、と言われただけで、98%の被検者は、そこに電話があったと証言したという。

私はここには人間が人の言葉を信じたり、そこに迎合したりする上で極めて重要な性質が示されていると思う。例えばABかという比較的重要な決断を下すような場面を考える。あなたはそのどちらかについて決定的な意見を持っていないものの、とりあえず個人的にはAを選ぼうと決めているとする。しかしそれを数人の間の徹底的な話し合いにより決まるとし、そこでは全会一致の判断が採用されるとするならば、最終的にBに合意することになるとしよう。あなたは本当はAに未練を残しているが、「あなたも話し合いでは最終的にBで納得したはずじゃないですか。あれは本心じゃなかったのですか?」などと言われると「いや、確かにBでいいと思いました。はい、Bでいいです・・・・」となるだろう。ここには無言の圧力、英語ではpeer pressure が働くはずだ。この偽りの記憶の生成にも似たような作用が働くのではないか。

例えばこの海軍の実験で、「電話を使うことを許可されましたか?」と言われたときの被検者の反応は「え、電話ってあったっけ?」かもしれない。しかし尋問者のさも自信ありげな質問の態度から「あの電話を見過ごすのは私がどうかしていたからだろうか」と思い始め、いつの間にか電話がそこにあったことになってしまう。「電話があったか自信がない」から「電話があったことにしよう」という変化のプロセスがかなり微妙な形で、しかも一瞬で生じた場合、私たちはこのことに気づかず、過誤記憶が生み出されるとしたら、これは大いにありうるし、実際に私自身にも起きているような気がする。

言語化が過誤記憶を生み出す

おそらくこの問題に関連して興味深い話がある。それは「言葉にすると記憶が損なわれる」という説である。これに関連して面白い実験が描かれている。人に30秒ほどある人物の写真を見せ、二つのグループに分ける。一つにはその写真の人物を言葉で描写してもらい(例えば紙が茶髪、目の色が緑、唇が薄い、など)、もう一つのグループには何も施さない。そして数日後にその写真をどのくらい覚えているかを調べる。すると書き留めてもらった人の正解率は27%で、それをしなかったコントロール群は61%であったという。つまり言葉に直した方のグループに、そこで大きな記憶の歪曲が起きたのだ。この種の実験も結構色々な研究者により追試されて、同様の結果が出ているという。色や味、音などについても同様の結果が出ているらしいのだ。言葉にするということはそれをかなり限定し、歪曲することに繋がる。それが過誤記憶を生む傾向を増すという事らしい。
 この問題との関連で、ジェフリー・ミッチェルのストレス・デブリーフィングについても触れたい。CISD(Critical Incident Stress Debrifing 緊急事態ストレス・デブリーフィング)というやつだ。ある事故が起きて、多数の人が犠牲になっている時、そこに乗り込んで犠牲者を集め、何が起きたかを徹底的に聞くという手法だ。これは911の時も用いられた有名な手法だが、その後これを受けた患者により多くPTSDが発症したなどの報告があった。ショウの本はこの試みがどの様な意味で問題なのか、なぜ記憶の専門家からの異論があるのかを解説する。一つには人の記憶を融合させる見本であるという。例の「言語隠蔽効果」(言葉にすることでかえって誤った記憶が生成される)により自分の描写と他者の描写が記憶として混同されて残ってしまうかもしれない。それに代理トラウマも起こる。ショウは以下のように記述する。トラウマになりかねない体験potentially traumatic experience, PTE はアメリカ人の90%が体験する。ところがそれによりPTSDを発症するのはその10人に一人だという。つまりほとんどの人は深刻なトラウマとなりうる体験に対して反応を起こさないのだ。しかしそれでPTSDになるかもしれないのではないか、という疑いを持った人は実際にそうなってしまう可能性があるという。

ここの部分は私がこの偽りの記憶について書く論文の核心部分になるかもしれない。私が個人的に知りたいところだからだ。いつか英国と米国でPTSDの罹患率がずいぶん違うというデータを見たことがある。同じ戦闘体験による外傷でも、米国ではそれがPTSDを起こしかねないという言説に晒されると、よりPTSDになりやすいという話を聞いて、とても混乱させられた。でもこのことなのかもしれない。

以下に書く問題はこの偽りの記憶の問題とは必ずしも結びつかないが、大切な点だ。自分が親から厳しいしつけを受ける。体罰も含めて虐待に近い扱いだ。ところがそれを当たり前だと思うとそれがトラウマになりにくい。どこの家庭でも子供が悪さをしたり、行儀が悪いだけで殴りつけられていた社会では、自分だけがひどい扱いを受けているという実感がなく、したがってトラウマとして体験されにくいという事はないのではないか?このことは子供を人とも思わない扱いをしてきた人類の歴史を考えればわかる。これは悲しい現実だが、あらゆる機会に子供は虐められ、女性は凌辱を受けかねないというのが私たちの歴史である。その様な状況で、おそらくPTSDは今ほど起きなかった可能性がある。それは一つには「皆がそのような扱いを受けている」という感覚があったのではないだろうか。奴隷は人間として扱われないという過酷な状況を生き抜いたが、みなCPTSDを発症したわけではないだろう。あるいは社会主義、共産主義体制が厳格に守られている社会で、さらには軍隊のような規律が厳しい体制の中で、例えば不登校、出社拒否に相当する行為が許されただろうか。トラウマによる被害と発症は、それが可能な状況においてのみ起きるのではないか?

これは想像するだけで怒られそうな話だが、このことと代理トラウマのことが関係していそうだ。

2022年1月9日日曜日

偽りの記憶 推敲 5

 トラウマ記憶は特別か?

私たちが外傷的な出来事、トラウマを体験した際に、その際の記憶はどうなるのだろうか?トラウマ記憶は特別なものなのか? この問題についてはさまざまな見解があるが、2001年にスティーブン・ポーターとアンジェラ・バートの論文Is Traumatic Memory special ? はそれに答えたものだ。(何と!! ただでダウンロードできた!)彼らによれば、よく信じられているのは、トラウマを受けると動揺し、そのために記憶が十分に残らないという説だ。そしてそこには解離の議論もよく出てくる。これもトラウマの最中にひとは解離状態になり、そのためにその出来事を十分に記銘できない、という主張である。ただしその際にトラウマ記憶は一部に記憶喪失が、そして別の部分に記憶増進の両方が起きるという。これは臨床的に言っても妥当である。前者は自伝的な記憶の障害であり、後者はフラッシュバック等の情動的な部分の過剰な記憶ということになる。ところがポーターとバートはそのような理論に根拠はないという。精神医学では半ば定説化しているこのトラウマ記憶と解離との関係についての否定的な理論も2000年以降提出されているというのは意外だった。それによると「通常は感情的な出来事の最中に解離を起こすことはなく、トラウマとなる状況の記憶が特別に断片化されることを裏付ける根拠もない」という。(P194)。ここの部分は読み飛ばすわけにはいかない。ぜひこの論文の原著に当たってみなくてはならない。

しかしそれとは別の見解もあるらしい。それは脳に損傷がなければ、記憶に対する「トラウマ優位効果」が存在するという。ある研究者は最近トラウマを経験したという被検者を集めて、その時点、三か月後、三年半後に聞き取り調査をしたという。そしてそれとともに心に良い影響を与えた記憶についても尋ねたそうだ。そして衝撃的な出来事の記憶は、時間を経ても非常に一貫性があり、特徴の大部分がほとんど変わらなかったという。また心に良い影響を与えた経験に比べ、悪影響のあった経験の記憶は時間を経過しても極めて安定していたとされる。これが「トラウマ優位効果」という事であろうが、私たちが体験しているPTSD症状を伴う体験を持った人々の語りはこうではない。という事はこれらの実験に参加した人々は、臨床群とは異なると考えるしかないように思える。

 ところで例の論文Is Traumatic Memory special ? に目を通してみた。トラウマ記憶に関する議論には、私たちが臨床上親しんでいるトラウマ理論とは別にトラウマの優位/同等議論というのがあるらしい。こちらの方をこの論文は支持しているのだ。そこで読んでみると…いやはや、私はこのような地道な研究をする人たちに改めて頭が下がる思いである。

Porter, S., Birt, A. (2001) Is Traumatic Memory Special? A Comparison of Traumatic Memory Characteristics with Memory for Other Emotional Life Experiences.  Applied Cognitive Psychology. 15;101-107.

 

最後のディスカッションのところをまとめると、彼らは306人の被検者にこれまでで一番トラウマ的であった経験と、一番うれしかった経験を語ってもらった。その結果トラウマ度が極度に高くても、非常に明確で詳細な内容を語ることが出来たという。ただし彼らはトラウマ的なことに関しては抑圧repression を用いるのではなく、一生懸命意識から押しのけようとしていた(抑制 suppression)という。またトラウマの度合いが高い人ほどDES(トラウマ体験尺度)の値も高かったという。

このデータをどう理解するべきか。私の考えでは、おそらくトラウマが抑圧されるという議論についての一定の結論はここに出されているのではないかと思う。つまりそれはフロイトが(誤って、ではあるが)非難されている議論、すなわちトラウマは抑圧されるという議論をさしている。ただ解離の関連する記憶の想起は実際に臨床上体験されることであり、それを否定することは出来ない。

 

2022年1月8日土曜日

偽りの記憶 推敲 4

 催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか

もう一つ本書で問題にするのが、「催眠でも埋もれた記憶を掘り起こせるのか」というテーマは偽りの記憶の問題にとって重要である。このような想像をしてみよう。非常に有能で経験豊かな催眠術者が被験者に深い催眠をかけると、彼はたとえば子供時代のあるエピソードについて滔々と語るというようなことが起きるのだろうか。ショウの書によれば、アメリカの大学生の44%はそのような現象を信じているという。しかしその実証性はなんと、「ない」ということだ。
 1962年の研究で、ボストン大学のセオドア・バーバーが発見したのは、幼児期まで退行するという暗示をかけられた被験者の多くが、子供の様なふるまいをし、記憶を取り戻したと主張したという。しかし詳しく調べてみると、その「退行した」被実者が見せた反応は、子供の実際の行いや言葉、感情や認識とは一致しなかったという。バーバーの主張によれば、被検者たちには子供時代を追体験しているかのように感じられたのだろうが、実はその体験は再発見した記憶というより、むしろ創造的な再現だった。同様に、心理療法中、暗示的で探るような質問に催眠術を組み合わされると、複雑で鮮明なトラウマの過誤記憶が形成される可能性があるという。
 もしこのような記述になぜこの数行の文章が悩ましいか? 考えてみよう。退行催眠が可能な人のいったい何人にDIDの人が混じっている可能性があるだろうか?そもそも催眠にかかりやすい人とは、結局解離性障害を有している人という事はないだろうか? 誰かこの疑問に答えてくれないだろうか? おそらく無理であろう。 

洗脳

洗脳は最近ではむしろ感化 influence という表現を用いることの方が多い。この感化は、実は私たちが日常的に体験していることでもあるという。私たちはよく、「自分は洗脳などされていない」と思いがちである。しかし私たちはこの国に生まれて、ごく普通に生きているだけで、すでにたくさんの考えを受け付けられ、信じ込んでいるものだ。例えば私は無宗教だが、●●教の信者に彼らの信じていることを話してもらえば、彼らのことを一種の洗脳状態が起きていると見なすかもしれない。しかし●●教の側から見れば、私の方が明らかに無宗教という形での洗脳の犠牲者になっているように思えるだろう。いや、宗教などを持ち出すこともないかもしれない。例えば私たちが属する学派などはその例かも知れない。私は××(どちらかと言えば)学派に属するわけであるが、▽▽学派に属している先生の気持ちはわからない。ところが向こうはこちらのことを同じように考えているであろう。一つ確かなことは、私たちはある環境である考え方を取り入れ、それをかなり頑強に守るという傾向がある。それは何となく信じている感じでも、それをいったん変えようとするとかなりの抵抗を自分の中で感じる。つまりこれは一種の信じ込み、洗脳、いや感化のレベルと考えてもいいのであろう。
 私は時々人はなぜこれほどまで自分の考えを変えないのかと不思議に思うことがある。もちろん私自身も含めてだ。ある時AM真理教の元信者がインタビューに応じるのを見たことがある。彼は今でもM教祖様との間柄について問われると、陶然とした表情になり、いかにM様に救われたか、いかに自分を分かってもらえたかと話す。つまり洗脳状況ではある思想、思考は報酬系としっかり結びついているのだ。一種の嗜癖と考えてもいいだろう。ある思考は、それに関連した人間関係、知識体系を巻き込んでいて、全体がその人の快感につながっている。だからそこから逃れられないのだ。ではなぜその宗教や人に信心し、ほれ込むのか。それは恐らく非常に偶発的なものだ。たまたまその人との関係に嵌まり込み、そこで快感を体験すると、そこから抜け出すことが出来なくなっていく。それは人が恋愛対象を見つけるプロセスとかなり類似しているのだ。 

サブリミナル効果

サブリミナル効果とは、意識にのぼらないような刺激を与えられることで、人間の行動に変化が生じるという事である。実は有名なポップコーンの実験以来このテーマの研究は色々行なわれているが、今一つその存在の決め手がないようだ。

1957年に行われたジェームズ・ヴィカリーの市場調査業者はしばしば例に挙げられる。ニュージャージー州のある映画館で映画の上映中にスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであったという。この実験は大きなセンセーションを巻き起こしたが、ヴィカリーは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、この実験の内容と結果についての論文を発表せず、また同様の実験が追試されたがこのような効果はなかったとされる。数年後にはヴィカリー自身が「マスコミに情報が漏れた時にはまだ実験はしていなかったし、データも不十分だった」という談話を掲載したという。また19582月に、カナダのCBCが行った実験で、ある番組の最中に352回にわたり「telephone now(今すぐお電話を)」というメッセージを投影させてみたが、誰も電話をかけてこなかったという。また、放送中に何か感じたことがあったら手紙を出すよう視聴者に呼びかけたが、500通以上届いた手紙の中に、電話をかけたくなったというものはひとつも無かった。 さらに、新潟大学の鈴木光太郎教授は、この実験そのものがなかったと指摘している。

なんかひどい話であるが、この種の検証は色々行なわれていて、あるものはサブリミナル効果の存在を示し、あるものは示さなかったという結果になっているらしい。例えば次のような実験には信憑性がありそうだ。Berridge and Winkielman2003)による研究であり、参加者を募って3つのグループに分け、彼らが気が付かないようなほんの一瞬、3枚の写真のどれかを見せる。それらの写真とは笑顔と中立的な顔と怒った顔の三枚である。そしてその後フルーツ飲料を自分で好きなだけ注がせるという実験である。その結果は笑顔を見せられた人たちは、それ以外の人たちに比べて50%ほど多くフルーツ飲料を自分のグラスに注いだという。

 ところでこのサブリミナル効果の問題は、私が専門としている精神分析の世界では深刻なテーマを呈している。精神分析の世界で通常私たちが無意識として考えるのは、私たちの心の奥底にうごめいているが意識できないような本能や願望などである。しかしそのような無意識内容などそもそもあるのかという事について、疑問符が付けられるという動きが、精神分析の内部でも、少なくとも一部の分析家によりみられる。これはその様なフロイト的な無意識が存在しないというわけではなく、それを確かめようがないという問題があるからだ。ただし重要なのは、精神分析の奔流にいる分析家が、無意識の例としてサブリミナル効果を上げているという事は、彼もまたフロイトの古典的な意味での無意識をあまり想定していないという事になるのだ。それよりは、意識していない部分が私たちの意識的な考えや行動に影響を与え得るという意味で一番検証しやすい「無意識」内容こそがサブリミナル効果なのである。

フロイトは夢において極めて特徴的なプロセスが働き、いくつかの単語が組み合わさるといったいわば化学反応のような現象が脳で生じて、それが症状として表れるという説明を行った。しかしそれは最近のサブリミナルメッセージの研究の一つと似ている。例えば歌に組み込まれた「バックワードメッセージ」(逆に再生すると現れるメッセージ)が効果を発揮するという研究もある。「ルイテレワノロハエマオ」と聞いた人が、なぜか背筋がゾッとする。それはこれを逆向きに読むと「お前は呪われている」となり、しかし無意識はその様なパズルを解き、ヒヤッとするという理屈だ。