2018年3月31日土曜日

解離の本15


(症例略)


トラウマ体験と患者さんの心理的な問題がどのように関連し、どんな経過を経てきたのか、本人と話し合いながら病歴を整理します。解離性障害の人は時間の感覚に障害をもつことが多く、個々のエピソードを時系列に整理できないことが多いものです。また事実を事実としては記憶していても、そこに情緒的な実感が伴っていないこともあります。治療者は把握している事実の隙間に浮かび上がる空白の期間に注目し、そこで起きていたかもしれない外傷的事態をある程度推測しながら、患者さんの心理状況の軌跡を辿る必要があります。
以下にトラウマ体験とその記憶が、解離とどのような関係を持つかについて説明します。
  

4-1.トラウマと交代人格の出現

非常にインパクトの大きいトラウマ的な出来事があると、それに関する記憶はある特殊な形で私たちの脳で処理されることが知られています。それがトラウマ記憶と呼ばれるものです。
通常の出来事なら、私たちはその事実関係の部分と、その時の感覚や感情の部分を一つながりで記憶します。例えばどこかに出かけた記憶は、そこで起きた出来事のうち言葉で説明できる部分(いつ、どこに誰と行ったか、など)と、言葉では十分言い表せない部分(何を見てどう感動したか、など)は繋がって思い出される仕組みになっています。ところがインパクトの強い体験では、この記憶のつながりが切れてしまい、いわば断片化した状態となります。
なぜそのようなトラウマ記憶が出来上がってしまうかについて不思議に思う方のために簡単に説明するならば、事実関係の部分は、海馬というところで処理されるのに対して、感情、感覚の部分は主として扁桃核というところで処理されるのです。そして通常は海馬と扁桃核は協力し合いながら、記憶の別々の部分を分担して処理するわけです。ところがあまりに出来事のインパクトが強く、恐怖、不快、不安などが強いと、この海馬と扁桃核の共同作業が妨害されてしまうわけです。 
トラウマ記憶は通常の記憶とはかなり異なる振る舞いをすることが知られています。例えばある出来事についての記憶が思い出されても、事実関係は思い出せても何の感情も生じない状態になる人がいます。記憶のうち感情的な部分が切り離されてしまっているからです。ところがその感情部分の記憶の断片が突然その人の心を脅かします。これがいわゆるフラッシュバックという現象で、その人は強い恐怖とパニックに襲われてしまいます。
さて、以上のトラウマ記憶の成立は特に解離性障害を持たなくても起きることが知られています。実はトラウマ記憶のうち、感情的な部分は記憶のメインな部分から解離され、すなわち心のどこかにいわば箱に入った形でしまわれていると考えられます。つまりトラウマ記憶はその成立に解離という現象を含んでいることになります。そしてその意味では通常の私たちも解離という心の働きが生じる可能性があるのです。ただし解離傾向が非常に強い人が子供時代にトラウマを体験すると、以上に述べたトラウマ記憶の成立より、もう少し深刻で大掛かりなことが生じます。それはトラウマ体験を持った人格そのものの解離、という現象です。いわばトラウマ人格の解離、とでもいうべき事態です。
解離傾向の強い子供が繰り返しトラウマ体験をこうむった場合は、いわばその体験を担当するような特別な記憶は、日常の意識から解離され、生々しいトラウマの情景とそれに伴う情緒体験を記憶する別の人格が誕生します。トラウマ人格はその体験に関する記憶を、事実関係に関する部分と感情的な部分とが分かれていない記憶として持っています。つまりそのトラウマ記憶をそのものとして受け取れる人格を心が作り上げてしまうわけですが、今度は主人格にとっては、その記憶は事実関係も含めてすっぽり自分の生活史の中から抜け落ちてしまうことになります。
これらの「トラウマ人格」は普段は内部に潜んでおり表に出ることはありませんが、何かのきっかけでトラウマ記憶が想起されると覚醒します。かつてのトラウマ的事態と似たような状況、すなわちトラウマが再現される事態が勃発した場合も同様です。よって面接中にトラウマ記憶が想起されたり、トラウマ状況と同じような体験の感覚を抱いたりすると、その場で人格交代が起こります。
人格交代に際しては、意識消失などそれとわかる変化が観察されることもありますが、時には治療者が全く気づかないうちに人格が入れ替わります。人によっては頭痛の訴えや瞬き、手足の動きなど、特定の体の部位に決まった動きがみられます。その態度や表情、言葉遣いの変化から交代人格の出現に気づいた時は、積極的に関わる姿勢をみせるのがよいでしょう。人格との出会いをどう迎え、交代人格たちとどのように交流を深めていくかが、その後の人格全体との信頼関係および治療の進展に大きく影響するといえます。

(症例略)

DIDの交代人格には、大きく分けて「トラウマ記憶から自身を守るために誕生したと思われるもの」と、「主人格が発揮できない機能を補うために出現したと思われるもの」の二種類があります。前者の年齢は当時のそれと一致することが多く、トラウマ体験の前後に生まれたと推測されます。例えばある交代人格は、性被害にあった時の年齢で当時の情景を克明に覚えていました。
トラウマ記憶をもつ人格が現れて恐怖を訴え混乱に陥った時には、安全と信頼の感覚を取り戻すための介入が求められます。感情を爆発させ、自傷など何らかの行動化が伴う際には、クールダウンや制止のための言葉をかけます。患者さんはトラウマの渦中の体験を「こんなことがあって辛かった」というようにまとまった概念や思考として心に収めることができず、恐怖、痛み、嫌悪、不快などの感覚と説明できない情動に圧倒されて苦しみます。彼らの生々しい情緒体験を治療者が言葉に換えて伝え、外傷的事態とつなげた理解を示し、体験の再構成を促します。この過程を通して安全な現実との連続性を取り戻した時に、我に返ることができます。こうした対応を繰り返すことで、トラウマ記憶の体験が過去のものとして次第に心に収まっていくと考えられます。

(症例略)

2018年3月30日金曜日

精神分析新時代 推敲 45


Andrew Morrisonの恥の理論

Kohut 理論の影響下で対人恐怖に類する病理を論じた人の代表が、Andrew Morrison である。彼は恥が自己愛との関連で論じられるという方針を明快な形で示したのだ。彼が1989年に著した「ShameThe underside of Narcissism 恥-自己愛の裏の面」は精神分析における恥の理論に大きな影響を与えた。その主張は次のように非常にシンプルで明快である。「恥とは自己愛の傷つきである。Kohut ははっきりとは言っていないが、彼の理論は恥の理論である(「恥の言語で綴られている。」)つまりMorrison は恥の体験はKohut 的な意味での自己の病理として捉えられるとしたのだ。
ここで Morrison に倣い、 Kohut の自己愛の理論にそって対人恐怖心性について考えてみよう。Kohut の中心概念 (Kohut, 1971) は、平易な言葉では次のように説明されよう。人は敬愛している他者から認められ、敬意を表されるという体験を、「あたかも人が生存のためには空中の酸素を必要とするように」(Kohut 自身の表現)必要としている。それが自己対象s elfobject の持つ「理想的な両親像であるということ idealized parental imago」と、「ミラーリング mirroring」の機能である。人は精神的な意味で生き続けるためには、それらの自己対象機能を果たすことの出来る他者を周囲に必要とする。幼少時は主として親がその役割を果たすであろう。そして成長してからは、友人や先輩や同僚や配偶者との間で、同様の関係を持つことになる。しかし最初の段階で親により自己対象機能を果たされなかった場合には、子供は健全な自己の感覚を養われずに、Kohut の言う意味での「自己愛的な病理」を持つようになると Morrison は論じた。彼によればそれは恥体験および恥の病理として言い換えられることになる。そしてそのような患者との治療関係においては自己対象転移が見られ、それに基づき治療が進展していくことになる。
Morrison の説にこのまま従えば、治療論に関しても Kohut  理論に沿って展開されることになるが、これを対人恐怖に対する精神分析的なアプローチとして用いることには一つの問題がある。それは対人恐怖ないしは米国における社交恐怖という病態が、Kohut-Morrison 流の恥の病理と微妙にずれるということである。これはMorrison が「恥の体験=自己愛の傷つき」という単純化を行っていることから来る問題ともいえる。対人恐怖者は、自己愛の病理のみにより説明できるかといえば、必ずしもそうではないであろう。単純に考えれば、自己愛的ではない人も、対人恐怖的となりうるのだ。
ただし Morrison の治療論を読むと、対人恐怖や恥を感じやすい人々にその対象を限定して論じるのではなく、自己愛の病理一般を恥という視点から見直すというニュアンスを持っており、これはこれで明快で説得力がある。彼は恥の防衛として生じるさまざまな病理、特に他人に対する憤りや軽蔑といった問題も自己愛が満たされないことから来る怒り(「自己愛憤怒」)という視点から扱っている。これはパーソナリティ障害に広く見られる問題を扱う手段としては非常に有効であろう。ただしそこに現れる患者像は、対人恐怖というよりはDSM的な自己愛パーソナリティ、すなわち自己中心的であり、他人を自分の自己愛の満足のために利用するといったタイプにより当てはまるという印象を受ける。

岡野の対人恐怖理論の図式

私が対人恐怖に対する精神分析的な考察を行った際に導入したのが、二つの自己イメージの葛藤という図式である(図1、岡野、1997, 省略)。それをここで改めて紹介したい。これは冒頭で記述した対人恐怖の心性を力動的に説明しようとした試みであり、また先に述べた自己愛の病理の理論を基盤としたものとも異なったものであった。
 人は自分を理想化したイメージと、恥ずべき自分というイメージの二つを分け持つことが多い。そしてそれぞれは別個に体験される傾向にある。冒頭のスピーチの例では、スムーズにスピーチをしている自分のイメージが理想自己に相当するが、いったん言いよどみ、冷や汗をかき、「ああ自分は駄目だ!」という思いと共に、今度は「恥ずべき自己」のイメージに支配されるようになる。いわば自己イメージの「転落」が生じるわけだが、それが著しい恥の感情をうみ、それが対人恐怖の病理の中核部分を形成すると考えるのである。
この両「自己像」のあいだの分極に関して重要なのは、この分極の上下の幅がその人の恥の病理の深刻さにつながるということだ。なぜなら恥多き人ほど、「自分は人前で自由に心置きなく自分を表現したい」と夢見ることが多く、それは現実とかなりかけ離れたものとなる傾向にあるからだ。また恥多き人ほど「自分はなんて駄目なんだ!」と思う時の落ち込み幅も尋常ではない。彼らはほんのちょっとした失態で「こんな駄目な人間は生きている資格がない」、とまで思ってしまうのだ。だからこそ対人恐怖傾向のある人においては、「理想自己」はより高く位置し、恥ずべき自分はとことん低く位置する傾向にあり、両者の懸隔は大きくなる。
逆に対人恐怖的な傾向が少ない人の場合は、両者の距離はあまり開いておらず、時には両者は融合して中心付近により現実的な自己として存在している可能性がある。パフォーマンスを職業として選択し、すでに場馴れしている人にとっては、両者の分極する程度はより限定されたものとなるだろう。たとえばプロの司会者であれば、「自分の技量はこんなところだろう」という妥当なレベルを思い描くことができ、日常の業務ではそれを大きく超えていることに驚くことも、それが極端に裏切られることも多くはないはずだ。彼らは自分に対する期待値も過度に大きくはなく、したがってそれだけ失望も少ないということになる。プロのパフォーマーなら自分の姿のビデオ再生を見ても、自分がイメージしていた姿と極端に異なるものを見ることはない。つまり「理想自己」から「恥ずべき自己」への転落はおきにくいのだ。ところが対人恐怖傾向のある人間は、自分のパフォーマンスの姿を写真で見ることすら強烈な恥の感情が沸き起こるものである。それは自分がこうあって欲しい、こうであればよかったというイメージが肥大し、そのために現実とのギャップに大きく失望するという悪循環が成立してしまっているからだ。

「対人恐怖」の治療状況における転移関係について

ところで81 (省略) を見る限りでは、二つの自己像の反転現象はあたかも自分という内的世界で生じているというイメージを与えるかもしれない。しかしたとえば一人自室で文章を音読していても、よほど臨場感を伴わない限り、対人恐怖症状としての声の震えは生じないだろう。ところがそこで目の前にたった一人が存在しているだけで動揺し、声の震えやどもりを引き起こされることがある。その意味では両「自己」の分極や反転現象は対象との関係により大きく依存することになる。
このことは対人恐怖症状について扱う治療環境を考える上でも重要である。通常は転移関係は治療関係の深まりとともに発展し、そこに患者の病理も反映され、それが治療的に扱われるわけであるが、対人恐怖症状についてはそれが必ずしも当てはまらない。むしろ治療者がまだ見知らぬ、あるいは出会ったばかりの時期にもっとも華々しくなり、それから徐々に軽減していく傾向にある。しかも対人恐怖の力動的な治療に必要とされる患者治療者関係は、あからさまな対人恐怖症状が患者の側に誘発されないような安全な環境が保障されていることが前提となる。その様な環境で初めて、治療関係によりさまざまに動く患者の心境に焦点を当てた治療が行なわれる。それは基本的には支持的で、古典的な分析状況とはかなり異なるものとなるはずだ。
私がかねてから治療実践に生かしているのは、そのような安全な環境を提供した上での、認知療法的な枠組みの導入である。分析的な枠組みと認知行動療法的な枠組みの共存は伝統的な分析的療法の立場からはなじみにくいかもしれないが、今後はさらに試みられるべきものであろう。精神分析的な枠組みは、認知行動療法的なプロセスにおいて生じたさまざまな心の動きについて語る場も提供できるという点で、後者の効果をより高めるというのが私の考えである。そのような例として後に二つの症例を提示したい。

対人恐怖における謙虚さや謙譲の美徳という意義について

次に対人恐怖における謙虚さや謙譲の美徳という側面についても触れておきたい。これまで述べたように、対人恐怖は DSM-III1980年)において社交恐怖という形で欧米の精神医学界において市民権を得る形となった。それ以来社交恐怖についての理解と治療を扱った出版物が英語圏でも非常に多くなっている。そこには一種のブームが生じているといっていいが、それらは一様に恥の感情や社交恐怖をなくすべきもの、克服すべきもの、という論調におおむね終始している。それは最近の米国に見られる「恥ずかしがりを克服しよう」という類のタイトルを冠した数多くの著作を目にしてつくづく感じることだ。
もちろんそのような風潮はある意味ではやむをえないことなのかもしれない。欧米社会において社交嫌いで引っ込み思案であることは、社会生活において極めて不利であることを意味する。それと同様に欧米人に控えめさ、謙虚さの意味を説くことにも限界がある。他方わが国には内沼の業績(内沼、1977)に見られるような、恥の持つ倫理的な側面や、それがいわば「滅びの美学」とでもいうべき謙譲の精神につながるとみる立場が存在する。そして対人恐怖症状を持つ人が同時に、他人を優先し、譲歩する傾向を持つことにも注目すべきであろう。
私は対人恐怖の根幹にある力動は、この人に譲りたいという気持ちと裏腹の自分を主張したい願望との葛藤、内沼(1977)が表現するところの 没我性と我執性の葛藤にあると思う。それは既に述べた図式における理想自己と恥ずべき自己の葛藤と結局は同義であることに気づかれよう。この没我性と我執性の葛藤という問題を全体として扱ってこそ力動的なアプローチと言える。
対人恐怖症状の深刻さはこの両自己像の隔たりに反映されていると説明したが、その隔たりが継続しているひとつの理由は、当人が特に恥ずべき自己の姿を極端に脱価値化するために直視できないことにある。彼らは手が震えたり言いよどんだり、赤面している自分は、それを見たら誰もが軽蔑したりあまりの悲惨さに言葉を失ったりするような姿であると感じている。それらの人々に欠けているのは、おそらく人前で緊張をしたり、パフォーマンスを前にしてしり込みをしたりするのは普通の人にもある程度はおきることであり、その姿を他人に見せたからといって二度と人前に出られなくなったり社会的な生命が奪われたりするわけではないということである。そしてそればかりではなく人前での緊張や引っ込み思案は、他人に自己主張や発言のチャンスを与えるという積極的な意味も担っているということを彼らが知ることは、両自己像の懸隔を近づける意味を持つと考える。
治療関係において恥ずべき自分に対する肯定的なまなざしを向けることを促進した例として、以下に事例AさんとBさんを掲げたので参照されたい。

(以下症例は省略)

2018年3月29日木曜日

精神分析新時代 推敲 44


第8章 社交恐怖への分析的アプローチを考える

(2011年に書いた論文がもとになっている)

そもそも対人恐怖とは

わが国において従来頻繁に論じられてきた対人恐怖(現在では社交不安障害と呼ばれているものが概ねこれに相当する)は、精神分析的にはどのように扱われているのかというのが本章の中心テーマである。対人恐怖と精神分析というテーマについて考える際は、わが国における精神分析の草創期の、森田正馬の姿勢を思い出す。対人恐怖に対してもフロイト的なリビドー論に従った理解を示す精神分析の論客達に対して、森田は果敢に論戦を挑んだと言われる。それから約一世紀たつが、果たして精神分析は対人恐怖を扱う理論的な素地や治療方針を提供するに至ったのだろうか?
 まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。でも最終的に示したいのは、社交恐怖についてもしっかりとした先進分析的な理論が存在するということである。
私個人は、対人恐怖とは「対人間における時間をめぐる闘いの病」と表現することが出来ると考える。対人恐怖は 自分と他者との間に生じる相克であるが、そこに時間の要素が決定的な形で関与しているということだ。
一般に自己表現には無時間的なものと時間的なものがある。無時間的とは、すでに表現されるべき内容は完成されていて、後は聴衆に対して公開されるだけのものである。すでに公開されている絵画や小説などを考えればいいであろう。表現者が表現する行為は事実上終わっていて、その内容自体は基本的には変更されない。それが展示されたり出版されたりする瞬間に、作者は完全にどこかに消え去っていてもいい。それらが人々からどのような反応を得たかについて、作者はまったく知らないでもすむのである。それに比べて時間的な表現とは、今、刻一刻と表現されるという体験が伴う。人前で歌う時、演説する時、それは刻一刻と展開していくのであり、これこそが対人恐怖的な不安を招きやすい自己表現である。その事情をさらに詳しく見てみよう。
私たちは社会生活を営む際、自分の中で他者に積極的に見せたい部分と、なるべく隠しておきたい部分とを分け持っているものだ。そして社会生活とは前者を表現しつつ、後者を内側に秘めて他人とのかかわりを持つことにより成り立っていく。このうち無時間的な表現は、上述の通り、それが人目にさらされる際に作者は葛藤を体験する必要はない。しかしそれが時間的なものであり、時間軸上でリアルタイムで展開していくような「パフォーマンス状況」(岡野、1997)では事情が大きく異なる。もしパフォーマンスが順調に繰り広げられるのであれば、さしあたり問題はない。人は自己表現に心地よさを感じ、それがますます自然でスムーズなパフォーマンスの継続を促す。しかし時には何らかの切っかけで、表現すべき自己は一向に表されず、逆に隠すべき部分が漏れ出してしまうという現象が起きうる。そこで時間を止めることが出来ればいいのであるが、大抵はそうはいかない。対人恐怖とは時間との闘いであるというのは、そのような意味においてである。
さて、対人恐怖の症状に苦しむ人は、通常はある逆説的なかの切っかけでではしているという。いるという。現象に陥っている。それは自分の中の表現されてしかるべき部分と同時に、隠蔽すべき分も漏れ出してしまうという現象である。
 このようなパフォーマンス状況の典型例として人前でのスピーチを考える。誰でも自分が言いたいことを饒舌に話したいものである。自分が表現すべき内容を、弁舌軽やかに話せているときは気持ちがいいものだ。しかし途中で言葉がつかえたりどもったりして、内心の動揺も一緒に表現され始めたらどうだろう。しかも一度口ごもった言葉は、もうすでに目の前の人の耳に届いていて、決して取り戻すことが出来ないのである。人前で話すことが苦手で、それに恐れを抱いたり、そのような機会を回避したいと願ったりしている人達は多いが、彼らはこのような悪夢のような瞬間を味わった結果として、それに対する恐怖症反応を起こしているのである。
以上は症状として見た対人恐怖に関する議論であるが、対人恐怖にはこれにとどまらない部分が関与していることが多い。それは本来他人の目にさらされると萎縮しやすく緊張しやすいという性格的な素地があり、他人に対する恥や負い目を持ち、人との接触に際して相手を過剰に意識してしまうというパーソナリティ構造である。それが基礎にあり、そこから顕著な対人緊張症状(赤面、声の震え、どもりなど)を生じて対人恐怖の全体像を形作っていることが多い。このことを私は対人恐怖の持つ二重性として捉えている。ここでの二重性とは、対人恐怖が症状を有する症状神経症という側面と、一種のパーソナリティ上の特徴および障害という側面を併せ持つということである。
対人恐怖に伴う性格的な基盤については、森田正馬(1960)が「ヒポコンドリー性基調」と呼んで論じている。またDSMの疾病分類に従うならば、多くの社交恐怖の患者が、回避性人格傾向、ないしは回避性パーソナリティ障害を有するという事情と同様である。

精神分析の文脈から見た恥の病理

従来精神分析においては、社交恐怖を扱う試みは少なかったが、皆無ではなかった。比較的近いところでは (と言ってももう40年ほど前になるが) 舞台恐怖 stage fright (いわゆる「あがり症」) についての Gabbard 先生の論文(Gabbard, 1979)がある。これはかなりリビドー論的な対人恐怖理論で、興味深い。そこには展望文献として Bergler (1949)Ferenczi (1950)Fenichel (1954) らの論文が挙げられている。
Bergler は「舞台恐怖」を voyeuristic terror(覗き見恐怖)を原因とするものと考えた。すなわち幼少時に原光景を覗き見たことへの罪悪感への防衛として、覗きを行った主体を聴衆へと転化した結果、それに対する恐れが生じているとする。Ferenczi (1950) は、舞台恐怖にある人は極度の自己注視の状態にあり、一種の自己陶酔状態にあるとした。Fenichel は「舞台恐怖」は無意識的な露出願望、およびそれが引き起こす去勢不安が原因になって生じるものとして説明した。彼によれば対人恐怖的な心性の背後にあるのは、抑圧された露出的衝動であり、患者はそのような衝動を持つことについて懲罰されることの方を選ぶ。その場合聴衆は超自我ないし去勢者として機能し,そこに聴衆を前にした恐怖感が生まれる,と説明する。これなどはいかにもリビドー的、エネルギー経済論的だ。
これらの説によれば、対人恐怖症的な症状は幼児期のリビドー論的な葛藤の再現ないしはそれに対する防衛として理解されることになるが、臨床的な実用性は乏しいように思われる。ただしFenichel のいう露出願望というのは、患者の持つ自己愛的な側面、自分をよく見せようという願望を捉えているという意味では、私が先にパフォーマンス状況に関する説明の際に触れた、「他者への表現を積極的に行う部分」と同じ文脈にあると言えなくもない。
このような古典的な解釈に比べて、Gabbard の提案は対象関係論的であり、私たちの常識的な理解の範疇にあるといえる。彼は上がり症が一種の分離個体化にまつわる不安に由来すると説明する。ステージに立つということは、「ここからはすべて自分でやらなくてはならない。誰も助けてくれない」という再接近期の不安の再燃につながり、それがあがり症の本質として説明されている。ただその説明だけでは一面的で物足りなく、より心の中の力動に一歩踏み込んでいない嫌いがある。
ちなみにこのGabbardの論文は当時の時代背景を反映したものであった。それまで対人恐怖的な議論は欧米では少なかったが、その流れを変えたのが1980年の米国の新しい精神科診断基準であるDSM-IIIであり、そこに収められた社交恐怖social phobia という新たな概念であった。この社交恐怖は「ひとつないしは複数のパフォーマンス状況に対する顕著で持続した恐れであり、そこで人は見慣れない人の目に晒されたり、他人からの批判の目に晒されたりする。人はそこで恥をかいたりhumiliating恥ずかしかったりするembarrassingような振る舞いをすることを恐れる。」とされている(American Psychiatric Association, 2000)。ここに見られる社交恐怖ないしは社交不安障害は細かい点においては異なるものの、多くの点で対人恐怖と類似し、いわば対人恐怖の米国版といった観があった(岡野、1997)。
この時期に同時に見られたのは、対人恐怖様の心性について、自己愛パーソナリティ障害の一型として記載しようとする動きであった。Broucekはその恥についての精神分析的な考察のモノグラフ(Broucek1991)の中で,自己愛人格障害をこのような趣旨に従って二つに分けている。それらは「自己中心型self-centered」と「解離型 dissociative」と呼ばれている。このうち「自己中心型」の方は誇大的で傍若無人な性格で、従来からの自己愛パーソナリティが相当するのに対し,「解離型」では,むしろ引きこもりがちで恥の感覚が強く,対人恐怖的な人ということになる。これらの理論の背景になったのは、1970年代より米国の精神分析会において大きな潜在的な力を持つことになったKohut理論であり、そこで事実上取り上げられることになった恥の感情およびその病理であると考えられる。

2018年3月28日水曜日

精神分析新時代 推敲 43


2.相手の痛みを感じることが出来ない場合

私は先に、加害殺傷のファンタジーには、それを実際に行動に移すことへの恐怖と罪悪感が強力なストッパーになっていると述べた。すると恐怖や罪悪感がそもそも生まれつき希薄だったり欠如していたりする人の場合にはどうだろうか、という問題になる。あたかもゲームで人を殺すようにして、実際の殺害行為に及ぶことになることになりはしないか? 自分の体の「動き」により大きな「効果」をもたらしたいという願望、そのためのファンタジーにおける殺戮、それに罪悪感の希薄さや欠如が加われば、それが実際の他人に向けられても不思議はないとも考えられる。注目していただきたいのは、彼らが特別高い「攻撃性」を備えている必要すらないということだ。彼らの胸に生じる可能性のあるのは「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という素朴な疑問だけであろう。
「人を殺してみたかった」という犯罪者の言葉を、私たちはこれまでに少なくとも二度聞いている。一人は20005月の豊川事件の加害者。もう一人は2014 7月の佐世保での女子高生殺害事件においてである。後者の事件の加害少女は、小学校のときに給食に農薬を混入させ、中学のときには猫を虐待死させて解剖するという事件を起こしている。さらには2014年の事件の前には父親を金属バットで殴り重傷を負わせている。そこにはそれらの行為による「効果」に明らかに興味を持ち、楽しんでいるというニュアンスが伺えるのである。
ではどのような場合にこの「人の痛みを感じられない」という事態が生じるのだろうか?
他人の感情を感じ取りにくい病理として、私たちはまずはサイコパス、ないしはソシオパスと呼ばれる人々を思い浮かべるであろう。いわゆる犯罪者性格である。また自閉症やアスペルガー障害などの発達障害を考える人もいるかもしれない。確かに残虐な事件の背景に、犯人の発達障害的な問題が垣間見られることはしばしばある。
まずはコアなサイコパス群についてである。彼らの多くは一見通常の言語的なコミュニケーション能力や社会性を有し、そのために他人を欺きやすい。2001年の大阪池田小事件の犯人などは、典型的なサイコパスでありながらも、何度も結婚までしている。なぜ他人の痛みがわからない人がかりそめにも社会性を身につけるのかについては不明だが、おそらくある種の知性は、かなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。あるいは彼らの他人の痛みを感じる能力には、「オン、オフ」があるのかもしれない。
 最近わが国でも評判となっている著書『サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅』で、ジェームス・ファロンは大脳の前頭前皮質の腹側部と背側部における機能の違いを説明する()。前者はいわば「熱い認知」に関係し、情動記憶や社会的、倫理的な認知に対応し、後者は「冷たい認知」すなわち理性的な認知を意味する。そしてサイコパスにおいては特に前者の機能不全が観察されているとする。それに比べてむしろ後者の「冷たい認知」に障害を有するのが自閉症であるとする。
そこでこの自閉症を含む発達障害に目を転じてみよう。実は過去20年の間に起きた殺人事件で加害者にアスペルガー障害が疑われたケースはかなりある。そのためにこの障害自体が攻撃性や加害性と関連付けて見られやすい傾向にある。しかし当事者のために一言述べておかなくてはならないことがある。それは自閉症やアスペルガー障害を持つ人々が人の心を読みにくいために加害的な行動をとりやすいということは、一般論としては決して言えないということだ。それどころか彼らの多くは高い知能を有し、人から信頼され、研究者や大学教員となって活躍している。
ここで他者の心を理解しにくいということは、道徳心や超自我が育たないという事を必ずしも意味しないという点についても強調しておきたい。むしろ彼らの持つ秩序へのこだわりは、加害行為に対する強い抑制ともなっている可能性がある。彼らの多くは、法律や規則や倫理則を犯すことを生理的に受け付けない。私の知るアスペルガー傾向を持つ人々の中には、車の運転をする際に法定速度を絶対に超えない人がいる。あるいは決められたアポイントメントの時間に一分たりとも遅れる事が出来ないという人もいる。その種の「決まり」を守らないことは、彼らにとっては「キモチわる」く、感覚的に耐えられないようだ。
しかし「決まり」を守る道徳性と「他人に痛みを及ぼすこと」を抑止する道徳性は次元が異なるのもはたしかであろう。前者による罪悪感や羞恥心や「キモチわるさ」は、いわば自分の側の不快や痛みである。他人の痛みを感じる力が希薄でも成立するのだ。しかし後者は自分がどうであれ、他人の痛みがそのまま問題となる。方向性としては全く逆なのである。ただしもちろん「人を害してはならない」は「決まり」でもある。他人の苦痛を感じにくい人でも、「決まり」を破るという意味で加害行為はそれなりに「キモチわる」くもあるだろう。しかし他人の痛みを感じることによる決定的な抑止を欠いている場合には、加害行為はゲーム感覚で、あたかも仮想上の敵に対する攻撃と同じレベルで生じてしまう可能性があるのだろう。つまり発達障害傾向にサイコパス性が重なっている場合には、事情は大きく異なる可能性があるのだ。

3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合

相手を蹂躙し、殺害することに快感が伴う場合、攻撃性の発揮は執拗で、反復的となる。2015年の『文芸春秋』5月号に、「酒鬼薔薇」事件(1997年)の犯人Aの家裁審判の判決の全文が載せられている(6)。これを読むと、一見ごく普通の少年時代を送った少年Aが猟奇殺人を起こす人間へと変貌していく過程を克明に見ることが出来る。思春期を迎えると、悪魔に魅入られたように残虐な行為に興奮し、性的な快感を味わうようになる。少年Aの場合は、性的エクスタシーは常に人を残虐に殺すという空想と結びついていたという。
米国ではジェフリー・ダーマーという殺人鬼が197080年代に起こしたおぞましい事件が知られているが、彼の父親の手記も同様の感想を抱かせる()。ダーマーは主にオハイオ州ウィスコンシン州で合計17人の青少年を殺害し、その後に屍姦死体の切断、さらには肉食行為を行った。母親は極めて精神的に不安定であったが、父親はそれなりの愛情を注いでいたようである。しかし父から昆虫採集用の科学薬品のセットをもらってからは、動物の死体をいじることに夢中になり、その対象も昆虫から小動物に移行する。彼のネクロフィリア(死体に性的興奮を覚える傾向)の追求にだれも歯止めをかけることはできなかったのだ。そして取り返しのつかない惨事が起こってしまう。
私たち人間にとって性的ファンタジーほど始末におえないものはない。私たちの多くは一生これに縛られて生きていくようなものだ。私たちの性的な空想は、その大半は同世代の異性に向けられ、また一部は同性に向けられる。ここまでは問題はない。しかし私たちの一部はそれを小児に向け、またごく一部はその対象をいたぶることでその興奮を倍加させ、そしてそのごく一部が、殺害することでエクスタシーを得る。犯人Aやジェフリー・ダーマーの場合のように。そしてそのすくなくとも一部は遺伝や生物学的な条件により規定されるようである。もし私たちがそのような運命を担ってしまったら、どうやって生きていけばいいのだろうか?
 おそらく全人類の一定の割合の人々は、ネクロフィリアを有し、猟奇的な空想をもてあそぶ運命にあろう。彼らはみな犯人Aのような事件を起こすのだろうか? ここからは純粋に想像でしかないが、否であろうと思う。彼らはおそらくそれ以外の面で普通の市民であろうし、自らの性癖を深く恥じ、一生秘密として心にしまいこみ続けるのではないだろうか? そしてごく一部が不幸にしてそれを実行に移してしまうのであろう。

4.突然「キレる」場合
殺傷事件の犯人のプロフィールにしばしば現れる、この「キレやすい」という傾向。普段は穏やかな人がふとしたきっかけで突然攻撃的な行動を見せる。犯罪者の更生がいかに進み、行動上の改善がみられても、それを一度で帳消しにしてしまうような、この「キレる」という現象。秋葉原事件の犯人は、人にサービス精神を発揮するような側面がありながら、中学時代から突然友人を殴ったり、ガラスを素手で叩き割ったりするという側面があった。池田小事件の犯人などは、精神病を装ったうえでの精神病院での生活が嫌で、病棟の5階から飛び降り、腰やあごの骨折をしたという。これは自傷行為でありながらも「キレた」結果というニュアンスがある。一体キレるというこの現象は何か。米国の精神科診断基準であるDSM-5では、この病的にキレやすい傾向について「間欠性爆発性障害」という名前がついているが、この障害は、おそらくあらゆる傷害事件の背景に潜んでいる可能性がある。

以上攻撃性への抑止が外れる4つの状況を示したが、現実にはこれらはおそらく複合して存在している可能性がある。殺人空想により性的快感を得る人間が、人の痛みを感じ取る能力にかけ、同時にキレやすい傾向を有し、また幼少時に虐めや情緒的な剥奪を受けることで世界に恨みを抱いた状態。それが凶悪事件を犯す人々のプロフィールをかなりよく描写しているのである。
ちなみにこれらの4つのうち、2番目と4番目に関しては、そこにサイコパスたちの持つ脳の器質的な問題が影響している可能性があると私は考える。殺人者の半数以上に脳の形態異常や異常脳波が見られるということが指摘されてもいる。近年のロンドンキングスカレッジのブラックウッドらの研究によると、暴力的な犯罪者は脳の内側前頭皮質と側頭極の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の容積が少ないという。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。(http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507Study finds psychopaths have distinct brain structure.) 前出のファロンの著書も同様の結果を報告しているのだ。


治療的介入の新理論

暴力はどのように防ぐことが出来るのであろうか?暴力をふるい、人を傷つけた人のなかには、それを深く反省し、服役後は再犯を犯すことなく市民生活を送っている人もいる。しかし犯罪を繰り返す反社会的パーソナリティ障害、サイコパス、犯罪者性格などといわれる人々に対する治療は、難しく、原則として治療法は存在しないというのが専門家の一般常識であった。ただしかつては彼らを治療しようというヒロイックな試みもあった()1960年代にアメリカの精神科医 Elliott Barker 氏が、ある治療的な実験を行ったという。彼が唱えたのは、「サイコパスたちは表層の正常さの下に狂気を抱えているのであり、それを表面に出すことで治療が可能である」という説だった。彼は「トータルエンカウンターカプセル」と称する小部屋に、若く知性を備えたサイコパスたちを入れて、服をすべて脱がせ、大量のLDS(幻覚剤)を投与し、お互いを革バンドで括り付けたという。そしてエンカウンターグループと同様の試み、すなわち心の中を洗い出し、互いの結びつきを確認しあい、心の奥底を話し合うといったプロセスを行った。そして後になりそのグループに参加したサイコパスたちの再犯率を調べると、さらにひどく(80%)になっていたという。つまり彼らはこの実験的な治療により悪化していたわけだ。結局この治療的な試みで彼らが学んだのは、どのように他人に共感しているように演じるか、ということだけだったという。


Barker, E,McLaughlin, A. The Total Encounter Capsule.Canadian Psychiatric Association Journal. 22:355-360, 1977.
以下に「入門 犯罪心理学 原田隆之著」(9)を参考にして記述してみたい。このような悲観論を代表するものとしては、1970年代に有名なアメリカのマーチンソン Robert Martinson の研究があったという。それが犯罪者の治療は何をやっても効果がないという研究結果を伝え、それによりアメリカは犯罪の厳罰化の方向に動いたという経緯があった。いわゆる「何をやってもダメ nothing works 」理論を提唱したのだ。そしてさらに脳の画像技術が進み、暴力的な犯罪者は、すでに述べたような脳の器質的な変化を伴っている可能性があることが明らかになり、それが治療的なペシミズムを推し進めたのである。
しかし後にマーチンソンの見解は誤りであるということがわかったという。彼が治療と見なしていたものの中には、保護観察、刑罰、刑務所収容の対象者までも含まれていて、改めて治療的なものだけを選んで調査をした結果、約半数に治療効果がみられていることがわかったのだ。そしてその後マーチンソンは自説を撤回し、1979年に52歳の若さで飛び降り自殺をしてしまったという。その後Lipsey いう研究者により、犯罪者の治療についての研究がまとめられたが、それはそれまでの悲観論を大きく変えるものであった。
そのリプセイの研究によれば、その主張は以下の3点にまとめられるという。1.処罰は再犯リスクを抑制しない。2.治療は確実に再犯率を低下させる。3.治療の種類によって効果が異なる。

Lipsey, MW., Landenberger, NA. & Wulson SJ (2007) Effects of Cognitive-behavioral programs for criminal offenders. The Campbell Libruary of Systematic Reviews. ネットでダウンロード可能!!

1.については、拘禁や保護観察は逆にわずかだが再犯率を上げてしまうという。これについては一見常識的な考え方が通用しないというのは驚きでもあるし、また興味深い。2.はこれまでの治療悲観論への反論とも言える。適切な治療を行った場合の再犯率が35%、行わなかった場合が65%であるというのだ。これは劇的な効果ともいえる。そして3.適切な治療とは、認知行動療法、行動療法であり、それ以外の療法、たとえば精神分析やパーソンセンタード・セラピーなどでは再犯率にほとんど影響はなかったという。また治療を行うなら拘禁下よりも社会で行う方がいいとも述べられている。
アンドリューズとホンダという研究者はこれらの理論を踏まえて「RNR3原則」というものを導いている。それらはリスク原則、ニーズ原則、反応性原則だということだが、これらが守られないと、犯罪者に対する効果は台無しになるどころか、再犯率は少し増えるという。
まずはリスク原則について。これは要するに、再犯率が軽い人に高強度の治療をすべきではない、ということである。そうすることで費用もかさむし、再犯率も上がると伝えている。ウィスコンシン矯正局の研究では、低リスクの人に低強度の治療をしたところ再犯率は3%だったが、高強度の治療にしたところ、それが10%に跳ね上ったという。ちなみにここで高強度とは11の面接などであり、低強度の治療とは、自習とか視聴覚教材を用いたものである。刑務所などでは模範囚には手厚い「治療」の場が提供される一方では、反抗的な囚人は放っておかれるということが起きているという。その逆を行かなくてはならないというわけである。
ニーズ原則については、これを説明するためには犯罪にまつわる「セントラルエイト」の記述が必要だ。犯罪にはいくつものリスクファクターがあるが、アンドリューズらはそれを8つに絞ったのだ。それらは、①反社会的認知、②敵意帰属バイアス、③性犯罪者の認知のゆがみ、④反社会的交友関係、⑤家庭内の問題、⑥教育、職業上の問題、⑦物質濫用、⑧余暇使用であるという。そのうちたとえば⑦の問題しかない人には、それに集中した治療、つまり薬物乱用への対処を行い、同じように、④、つまり悪い連中とつるんでいることが問題となっていた人には、それに対する治療を行うという意味だ。
反応性原則とは要するに、効果があることをせよ、効果がないことをしても仕方がない、というもので、そこには効果がないものとして、アニマルセラピーや精神分析が挙げられている。受刑者が動物に触れるのは確かに情操教育に効果的と直感的に感じるが、再犯率には関係がないという。しかしそのような直観に従った「治療」を私たちはしがちであり、真に効果的な治療、すなわち認知行動療法を行うべきだ、と述べている。

具体的な治療的介入の試み

さて以上は原田氏の著作の治療に関する項目を紹介した形になるが、そこでのエッセンスとなる部分について述べたい。それは、上述の「セントラルエイト」のうちの①反社会的認知に集約されるだろう。②敵意帰属バイアス、③性犯罪者の認知のゆがみも、認知的な問題ということでは①にまとめていいであろう。そしてその認知の問題に注目して認知行動療法を行うことには明らかな効果があり、再犯防止につながると述べられているのだ。これは確かに重要な提言であり、「サイコパスには治療は不可能である」という私たち臨床家が慣れ親しんだペシミズムへの反省を促してもくれる。もちろん犯罪者に対してその考え方を根本から変え、まっとうな人間に生まれ変わらせることは不可能に近いのかもしれない。人間の「育て直し」などは本来不可能なことなのである。その意味では治療の成果として目覚ましいものは期待できず、せいぜい再犯率がたとえば6割から4割に減る、という程度のものでしかないだろう。しかしそれならそれ以外の精神疾患、うつとか境界パーソナリティ障害とか解離性障害の治療が、それに比べてはるかに高い治療効果が上げられているかといえば、そういうわけではない。精神科医療は多くの場合、「少しだけ改善」に役立つだけなのである。いずれにせよ「サイコパスは救いようがない」は、実は私たちが持っている偏見かもしれないのだ。
ではこの反社会的認知とは一体何か? それはたとえば「ドラッグはかっこいい」とか「戦場で人を斬って初めて一人前になる」とか「やつらをポアするのは人類を救済するためだ」というような思考であり、それに従うことで、現実の他者への攻撃性の抑止が外れてしまうというようなものだ。②の「敵意帰属バイアス」として分類されているものは、本来恨みを持つべきでない相手を恨むことであり、私のこれまでの自己愛の議論(9,10)では、H.Kohut の自己愛憤怒に深く関連している。居酒屋で隣のグループの一人が「馬鹿じゃないの」と言ったことを、自分のことだと捉えて、ナイフでその人を刺し殺してしまったりするという極端に理不尽な例 (それを原田氏は「馬鹿じゃないの殺人」と命名している) も挙げられる。私がこれまで述べた4タイプについても、独特の反社会的な認知がみられるのであろう。そのことを踏まえつつ、それぞれの4タイプについての治療について触れたい。

1.怨恨、復讐による場合
このタイプでの典型的な反社会的認知は、「私は相手により深く傷つけられた」、「私は相手により人生を台無しにされた」というものであろう。ただしこの認知は彼らのそれまでの人生経験そのものから醸成されている可能性があり、彼らにとってのアイデンティティにすらなっているだろう。生育環境から生じた親への恨みや極端な自己価値観の低さは、一時的な治療的介入で癒せるものではないことは、経験ある臨床家であれば十分承知しているはずだ。だから私たちはこの種の認知に介入することは決して容易な作業ではないことを覚悟しなくてはならない。
 しかし私は彼らの認知を是正することとは違った視点から、これらの人々の暴力の暴発を抑止出来る可能性は残されていると思う。すでに例として出している秋葉原事件の犯人の場合には、彼が事件の実行の直前に体験したのは、インターネットで誰も彼のスレッドに書き込みをしてくれない、という激しい失望だった。それが彼の世間に対する恨みを急激に高めたわけだが、もし彼の人生において、Kohut の言う自己対象的な機能を果たす人がいたなら、彼の孤立無援さや絶望感を少しでも和らげ、後の暴発を防ぐことになったかもしれない。もちろんそれは一時しのぎでしかないかもしれないが。
そのような自己対象的な存在は、結果的に犯人の「認知」を是正する可能性もあった事も理解すべきであろう。他人に理解されることで「自分は生きていく価値があるのだ」という「認知」が生まれる可能性もあるのである。
 なお被害妄想が統合失調症や妄想症によるものである場合には、抗精神病薬が功を奏する可能性は十分にあろう。ただし当人が服薬を断固拒否する可能性もまた高いために、この手段も無効である場合がある。

2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
いわゆるサイコパスや情性欠如と呼ばれる人々や、自閉症スペクトラムを有する人のごく一部においては、加害殺傷の際に、相手を単なる「もの」と見なすような思考が典型的な形で見られる。「人間だって食用の牛や豚と同じ動物ではないか」という類の思考である。すでに解説したとおり、相手の痛みは知的なプロセスを経ることなく、それこそ動物でも直感的に感じ取れるものである。それを認知の是正により根本的に解決することは不可能に近いであろう。それは色覚異常の人が天然色を体験することが不可能なのと同様である。おそらくコアなサイコパスは、認知療法的な治療に最後まで抵抗するのではないか、という悲観論を私は持っている。

3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
このケースに関しては、彼らの認知的な歪みを是正する可能性はさらに小さいと考えざるを得ない。いかなる理性的な思考を持たせようとしても、自らが得る快感がそれにはるかに勝っているとしたら、認知療法の効果も限られているように思う。その意味ではこのタイプの加害者の治療は、薬物依存の患者に対する心理療法的なアプローチと同様の困難さを伴うであろう。
 このタイプの加害者に対しては、むしろ生物学的なアプローチがより有効かもしれない。実際の去勢はさすがに倫理的な問題があるにしても、科学的な去勢、すなわち薬物により男性ホルモンを低減させるということで、若干の効果がみられることがある。ただしむろん万能ではない。私も米国時代に経験があるが、人を縛って快感を得るという思春期の男性患者に、黄体ホルモンの注射を毎週施した結果、テストステロンは限りなくゼロに近付いた。しかしそれでも病棟でこっそりと他の患者を縛っていたということが発覚してガッカリしたしたという思い出がある。
もう一つこれは精神医学の教科書にはあまり書いていないが、抗うつ剤の使用が有効である場合もある。特に SSRISNRI といった抗うつ剤には、性欲減退という副作用がある。これも米国での体験であるが、ある露出癖のある中年患者に、プロザック(米国では一昔は代表的だった SSRI,日本では認可されなかった) を飲んでもらった。しばらくするとあまり露出に興味を示さなくなり、「もうあまり面白くなくなりました」と、頼もしい証言を聞いた。少しは彼の役に立ったのかもしれない。幸いなことに性的快感を伴う他害行為は、男性が年を取るにしたがって男性ホルモンが落ちてくるにつれて、明らかにその勢いがおさまっていくということは観察されている。

4.突然「キレる」場合
高い衝動性を有する患者には、脳の器質的な問題が考えられ、精神科領域では主として抗てんかん薬やリチウム、抗精神病薬などが用いられてきた。そのほか、オキシトシンでも効果が期待できる可能性があろう。(オキシトシンは扁桃核を抑制する働きが知られている。)しかしその効果は決して高くはない。そのほか怒りのコントロールについての行動療法的なアプローチもある程度は有効であろう。

最後に
本稿では攻撃性や暴力について精神医学的な考察を行った。暴力的な人々に対して、治療的なペシミズムに陥らずに、彼らのさまざまな「反社会的認知」を理解し、可能な限り対処していくという姿勢が求められているのだろう。しかしそれでも彼らに対してなすべきことには限界がある。おそらく14の全てを兼ね備えてしまった人間に対して私たちが出来ることは限られているのであろう。そのような人を想像してみよう。まず発達障害的な素地を持ち、内側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまったりした場合はどうだろうか。真に私たちが備えなくてはならないのは、社会適応をそれなりに遂げ、権力にまで結びついた攻撃性や暴力かもしれないのだ。 

参考文献

[省略]

2018年3月27日火曜日

解離の本 14


3. トラウマの取り上げ方

解離性障害にはトラウマが深く関連していることが多いのは確かです。ただしアセスメントや治療開始の時点では、トラウマの存在や内容は必ずしも明らかになっていません。生育歴の記憶を辿ってもすぐには想起されず、むしろその時期の記憶には空白が見つかることがあります。そして「どうしても思い出せない」という期間には、トラウマに関連する事象が起きていた可能性があります。この段階で無理な想起を促す必要はなく、治療に安心して来られるよう手助けするほうが優先されます。
トラウマの想起に抵抗を示す人に対しては、むしろその抵抗感を取り上げて話し合います。苦しい記憶に目を向けるのはどんな人にも辛いものですが、治療で起きる抵抗感には過去に体験してきた対人関係の傷つきが影響しています。自分の語る内容を拒否され否定されるのではないかという不安、他者に理解されないという不信感があります。その訴えを否定せずに耳を傾け、治療でも同じことが起きるのを恐れている場合はそれを共有します。このやりとりが患者さんの警戒感を緩和し、トラウマ記憶の想起を後押しするのです。
抵抗や不安に対し無理な開示を強要すれば、その侵入的な態度はかつてのトラウマの加害者との関係を想起させ、患者さんの心を追い詰めます。それは過去の対人関係の反復となり、トラウマの再演となる危険があります。治療の初期ではその人のペースを尊重するのが何より大切です。
  
別人格からの情報を得る

ちなみに初診の段階で別人格の協力を得ることで、侵入的になることなく、トラウマの存在の手がかりを得ることもありえます。私たちがしばしば体験するのは、異なる人格のうち、ある人はトラウマを受けた記憶を有し、あるいはそこにアクセスすることが可能であるということです。その場合は上述のトラウマの開示の強要とは異なった、比較的理にかない、侵襲性の低いやり取りが可能となります。以下のようなやり取りをご覧ください。

[省略]


同伴者からの情報を得る

患者さん本人からトラウマの情報を得る際には以上に述べた諸点に注意を払う必要がありますが、家族や同伴者からの情報も時には非常に有用になります。初診の段階では出来るだけ患者さん本人とは別に家族や同伴者と話す機会を設け、患者さんの過去の社会生活歴やトラウマの存在について率直に情報を得る必要があります。


2018年3月26日月曜日

解離の本 13


「泣き虫」だったフミカさん(30代女性、無職)

(省略)
 
このフミカさんの例から分かることは、子供の自我境界の脆弱さは、ある程度は本人が持って生まれた自我の弱さが関係しているものの、それを支える生育環境も非常に大きな位置を占めているということです。英国の分析家ウィニコットも述べたとおり、乳児は自分の感情や考えを母親とのやり取りを通して獲得していきます。そしてその際は子供が最初に感じ取り、思い、自由に母親に表現された際に、母親バージョンの感情や思考を押し付けられる(「侵害を受ける」)ことなく共有されることで、いわば乳児が自分を母親の中に見ることで成長していきます。その後に子供は母親が自分とは異なる感情や思考を持つ自分とは異なる人間であることを学び、自他を区別し、自我境界を確立していくわけですが、その前段階として重要な、自分の感情や思考を養育者に認められ、照り返してもらうプロセスが不十分であれば、この段階に進めないのです。
  
2-5.アスペルガー傾向

解離性障害を持つ人によっては、生活史を遡っても幼少時にそれらしいトラウマが見当たらない患者さんもいます。例えばアスペルガー症候群など他の障害をもつ患者さんでは、通常の対人関係で過度な傷つきを体験し、些細な出来事がトラウマを生み出すことがあります。一般の人と異なる言動がいじめの対象となり、長期に渡り集団における疎外感や孤独感を体験し続けたことが慢性的なトラウマ体験となり、空想世界に引きこもる人もいます。そこに没頭するうちにイマジナリー・コンパニオンが誕生し、次第に自らその人格になることで、解離傾向が発展していきます。このようなケースでは、周囲が患者さんの問題に気づき、適切な環境調整を行うことで症状が軽減される場合もあるようです。
アスペルガー障害の人々は、ある意味ではトラウマの連続とも言えます。彼らは人との接触の仕方に独特の特徴があり、子供たちはそれをすぐに見抜きます。その結果として普通に振舞っているつもりでいても、グループの中では傷つきの体験になってしまうことが少なくありません。そしてそこにさらに独特の世界のとらえ方が加わると、そのトラウマの度合いが増す可能性があります。アスペルガー障害を持つ人の中には、他人からの親切心や好意を敏感に感じ取れない傾向の強い人がいます。そして疑り深く、他人の意地悪な点、自己中心的な点がクローズアップされてしまうことが少なくありません。するとこの猜疑心のために、他者からの親切心が示されても、「この裏には何かがあるに違いない」という警戒心を生む結果になり、ますます良好な対人関係を結びにくくなってしまう可能性があります。
これまで示してきた解離性障害の患者さんたちの多くは、他人の気持ちを感じ取りやすく、他人に合わせる傾向がある人たちとして描かれてきました。しかしアスペルガー傾向のある人たちには、このような特徴がむしろ見られないながらも、この対人関係におけるトラウマの深刻さのために、深刻な解離の病理に至るケースも少なくありません。

2018年3月25日日曜日

精神分析新時代 推敲 42


「動き」と攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情表現、たとえば怒りや悲しみなどの苦痛や、喜びなのである。器物だったらそれは形が目に見えて崩れたり、大きな音を立てたりする。また人は怒りや喜びの表情を表す。
 上に示したプレイセラピーでは、子供は私が数個積んだ積み木を崩して音を立て、その「効果」を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げられた数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ「効果」もそれによる興奮も大きいだろう。そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその「効果」に一番反応するのは、実は人の表情であり、感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「効果」の証拠になる。そして同一化や投影の機制を通じて同様のことが人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズバーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし他人を攻撃し破壊することで引き起こす苦痛も、それに負けずとも劣らない「効果」となり得る。苦痛や恐怖を与えられた人間は、もがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。
 幼いころに地面にアリの巣を見つけ、さまざまなことを試みて無数のアリたちの反応を見た記憶のある方もいるだろう。人によっては砂糖粒を落としてアリが喜び群がるのを楽しんだかもしれない。しかし私達の大部分はてっとり早くアリの巣の入り口をふさいで慌てふためくアリを眺めたに違いない。ありを喜ばせるよりは、苦しませる方が興奮を誘ったはずだ。
しかし幸いにも、人間を相手にした私たちは、他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心や倫理観などをバイパスした、それよりもはるかに原始的な心のメカニズムが関係している。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類の研究者も伝えている ()
一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮、あるいはWinnicott の言葉で言えば慈悲mercyと呼べるような心性が、本能の一部に組み込まれていて発達のかなり早期から発動し始める。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのであろう。そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに私たちを興奮させ、私たちの精神生活の一部にさえなっているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇捻挫事件」「××全治一か月事件」などと題された本を想像してみよう。人は店頭で手に取ってもすぐに棚に返してしまうだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。あるいはビデオゲームを例にとってもよい。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。そしてそれも残虐性、というよりは自分が与えた「効果」の大きさへの貢献と考えるべきである。
 私は今でも時々、2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件のことをよく思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが、犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、主として抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば少しは合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ普通のことであり、むしろそれを現実の世界で抑えている理性が正常に働いていることを示しているのである。

攻撃性への抑止が外れるとき

加害行動は現実の他者に向かうことに対する強烈な抑止が働いていると述べた。ファンタジーでの加害行動が頻繁なだけ、この抑止のメカニズムは強固でなくてはならない。そして私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が何らかの原因で外れた結果なのだ。
では攻撃性の抑止はどのような時原因ではずれるのだろうか? 私はその状況を以下に4つ示してみる。それらは 1.怨恨、復讐による場合、2.相手の痛みを感じることが出来ない場合、3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合、4.突然「キレる」場合である。

1.怨恨、復讐による場合
特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。家族を惨殺された遺族は、たとえ善良な市民でも、犯人への無期懲役や死刑求刑の判決を喜ぶだろう。復讐はかつては道徳的な行為ですらあった。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人であっても、おそらくたやすいことになってしまうのである。しかし考えれば、これは実に恐ろしいことではないか?
私が特に注意を喚起したいのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものでありうるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはそれがいかに筋違いで身勝手な考えのように思えても、その人の暴力への抑止装置は外れてしまう可能性があるのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、それはより顕著となるかもしれない。しかしそれ以外にも偶発的な、ないしは理不尽な怨恨は数多く生じる可能性がある。幼少時に子供が虐待を受け続けたと感じても、当の親は子供の主観的な体験にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分はこの世から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになってしまうのだ。それは神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合さえある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと私は理解している。人はこれらの事件を耳にした時、いったい何が起きたのか、と不思議に感じるかもしれない。原因不明の暴力の突出であり、人間の持つ攻撃性が露出したものと理解するかもしれない。しかし当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。