2016年10月31日月曜日

退行 推敲 ①

退行の現代的な意義
  
初めに

現代の精神分析において、退行という概念はどのような意味を持ち、いかなる臨床的な意義を有するのかについて考えたい。最初に言葉の定義から見てみよう。

フロイト及び自我心理学における退行

退行の概念は Freud にはじまることは言うまでもない。小此木啓吾は精神分析における退行の概念について、以下のように記している。
「退行は,それまでに発達した状態や,より分化した機能あるいは体制が,それ以前のより低次の状態や,より未分化な機能ないし体制に逆戻りすることをいう。FreudS は,失語症の研究(1891)を通して,この JacksonJ. H. の進行 evolution と解体 dissolution の理論から影響を受け,退行は,精神分析によって観察された現象を説明する基本概念の一つになった。」(小此木、精神分析学事典、岩崎学術出版社)
 Freud の第一の関心事は精神の病理性であった。そして精神病理が一種の先祖がえり、進化の逆戻りと考える Jackson の概念は当時の「変質」の概念ともあいまって Freud に強い影響を与えていた。Freud はその後リビドーの固着と固着点への退行という概念を発展させ、ヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。すなわち Freud にとっての退行は、病理の成立過程の説明手段でもあったのである。
 Freud はこのような図式を終生持ち続け(続精神分析学入門、1938)、それはそのままの形で Anna Freud に受け継がれたが、そもそものリビドー論の衰退とともに忘れ去られる運命にあった。Freud 及び Anna Freud における退行は、このように治療にとっての抵抗と考えられていたことである。その意味で Anna Freud が、その抵抗として自我の前にまず退行を提示していることは興味深い。A.Freud 自我と防衛機制)フロイトは退行という言葉を用いていないものの、転移の退行形態が障害物となることを叙述している(バリント、P162)
 自我心理学の流れの中で、退行の概念に一つの広がりを与えたのが、Ernst Kris ARISE(自我のための適応的な退行)という考え方であろう。Kris はフロイトの「抑圧の柔軟性 Lockerung der Verdrangung (1917)の概念を手がかりに、自我による自我のための一時的・部分的退行 temporary and partial regression in the service of ego」と進展の概念を提示した。病的な退行は不随意的(無意識的),非可逆的で自我のコントロールを失った out of control of ego退行であるが,健康な人間の酒落,ウイット,遊び,性生活,睡眠,レクリエーション,その他の退行は随意的(前意識的)可逆的な自我のコントロール下 under the control of ego の退行であるという。中でも,芸術的創作過程で働く昇華機能と結びついた「自我による自我のための一時的・部分的退行」はシェーファーSchaferR. (1954)によって創造的退行 creativeregression」と呼ばれる。以上述べたものは米国の自我心理学の退行理論として分類されよう(以上、小此木からの引用は赤字)。
 その後退行概念の真の価値は、対象関係論において臨床に結び付けられた際に発揮されることとなったといえるだろう。英国の独立学派のBalintM. WinnicottD. W. は,それらの代表といえる。Balint は,「基底的欠損 The Basic Fault (1968)」の中で,ある患者はほとんど全体的な退行状態を示すことなく治癒していくが,ある患者たちは全体的な退行状態に陥る。その中には,退行状態の後再び成長を始める患者群(良性の退行の形態 benign form of regression)と,快楽に対する要求が際限なく起こり,治療的に扱えなくなる患者群(悪性の退行の形態 malignant form regression)があるとして、良性の退行は,外傷体験の時期よりも以前の無邪気な状態 arglos に回帰でき, 一次的な関係 primary relationshipに退行し,新しい出発を始め,新しい発見へと向かうが,悪性の退行は,絶望的なしがみつきに陥り,止まることを知らない要求や欲求を抱き続けて,嗜癖的な状態になり,新しい出発に達することができない。Balint は,一部の患者が深い悪性の退行状態に落ちる理由として「基底的欠損」という前エディプス期,特に口愛期の対象との依存葛藤が,環境との関係で適切に解決されていない基本的な障害があるためであるという。Winnicott は,退行を環境、とりわけ母親に対する依存への退行と見なし,ある患者は治療の途中で「真の自己 true self」が突然出現して,乳児の状態まで退行し,治療者も母親としての役割をとらざるを得ず,分析者としての立場を維持できなくなることがある (パリントのいう悪性の退行が,患者の中には一時的に退行を示して成長していく,いわゆる発達をもたらす退行状態を示すものがあり,その退行は治療的に有意義で,治療者がそれを受容し,いたずらに解釈せず,患者が成長するまで,患者とともにいて待つことの重要さを唱え,基本的にバリントと同様の意見を説いている。(赤字小此木)


対象関係論における退行

<以下に、Winnicott, Balint, 土居、松木 と論じよう。>

Winnicott の退行理論

Winnicott は退行を治療の根幹に据えたという点で極めて特徴的である。Winnicott 理論の骨子はある意味では至極単純である。それは幼少時に親からの侵害を受けることで偽りの自己が生じるということであり、治療はそれが形成される時期までさかのぼることと不可分であると考える。そして「分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来する」とする。つまり治療において治療者は必ず何らかの失敗をするが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現されるというのだ。患者は解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になる。しかし同時にWinnicott は「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(1955)とも言っているすなわち治療者が「患者を退行させよう」というのは邪だというわけだ。なお北山は、今から20年以上前の著書で、みずから Winnicott の退行理論について、それへの戸惑いも含めて紹介している。


2016年10月30日日曜日

書く楽しみ (続)

私はここのところをわかって欲しいので、盆栽の例を出したいと思います。盆栽が美しいと評価されるためには、手が加えられなくてはなりません。盆栽の品評会に、どこかに生えていた木をぽんと鉢に生けて持ってきても、誰もいいと思わないでしょう。それは余計な枝や葉が出ていて、形式としては美しくないからです。盆栽は手が加えられることで、隅々が全体に対しての部分という意味を持ち始める。
 またそれは今流行の
3Dプリンターで精巧に作られたプラスティックの木であってはなりません。もし一位になった盆栽が実はイミテーションだとわかれば、大スキャンダルになってしまいます。それは自然のものに手を加えられたものでなくてはなりません。それは自然から切り出したものである必要があります。そしてそこに切り落とされた断端がなくてはなりません。そうでないと、それが現実であって現実でないという矛盾が生じず、要するに面白くないのです。CGはそれが現実であって現実でないというところが面白い。実は症例報告もそうで、それが現実から切り出された盆栽でない限り、そもそも伝わらないのです。しかし伝わった瞬間にその症例は言うのです。「私の本当の姿はつかめませんよ。」それを症例報告する側も、聞く側も同時に体験しつつその症例に聞き入るということなのでしょう。だから美しい症例は、作品は、それが感動を与える分だけ人の手が加えられたものということがいえます。

最近なぜこれがこんなに流行るのか、という作品に関する専門家の解説を思い出します。「あの作品は実はつまらない。売れる要素を詰め込んだだけだから。プロの目から見たらナーンだ、と思うね。」最近大ヒットした漫画映画」「君の○は」がそうでしたし、例の佐○河○ 守さんが作ったとされた交響曲もそうでした。

2016年10月29日土曜日

書く楽しみ

●書くことは面白い

ここで私が言いたいのは書くことは基本的には楽しい作業であるということです。人は何かの形を作り上げることに、本能的な快感を覚えます。自分の心の中にある種の構造を築くことも好きです。それは人間が美しい形に快感を覚えるからでしょうし、それを自分で作り上げる過程そのものも快感の源泉になります。おそらくそれにはあらゆる日常的な活動が含まれます。ありあわせの食材から一品を作るのは快感ですし、それを誰かにおいしいといってもらえればさらに快感です。私にとっては書くということも作る喜びを伴うものです。実は一番楽しいのは、あるテーマについて考えることです。たとえば私は今日の講演の3番まで、「わかることはわからないことだ」というテーマで話すことにしましたが、それについて歩きながら、あるいは地下鉄の中で延々と考えるのが好きです。

<以下省略>

2016年10月28日金曜日

退行 ⑮

ここで筆者の考える退行の概念について論じたい。退行の概念は、精神療法への応用において最も意義を有する。松木(2015)の指摘するとおり、退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。
ただしここで退行の生じない転移関係もありうるということを心得ておきたい。極端な例を挙げるならば、治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているだけなので、怖い父親のように思える様になり、治療者はそれを父親転移とみなして解釈した、という例はどうだろう? これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、このままの治療関係ではどこにも着地の仕様がないであろう。なぜなら治療のある時点で患者が「先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるような関係性の成立は必須となるからである。そしてそこではある種の親しみと安心感、リラックスした状態の成立を意味し、それを表現する用語としては結局「退行した状態」が当たらずとも遠からずということになる。ただしそれはバリントの分類では、良性の退行と分類すべきものということが出来る。
 治療が促進するときに治療者が漠然と抱いているのは、治療者患者の双方にとって安心感が生まれ、患者にとっては自分の感情やファンタジーの表現が危険ではなく、受容されるという感覚が生まれることである。ところが問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしれそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味で私が提案するのは、新しい「退行」の概念であり、そこでは幾つかのことが行われる。
(特に治療者に対するものを含む)感情やファンタジーの表出が安心して行われる状況の成立すること。実はこれは土居の「甘え」が生じる環境と言い換えてもいい。
 結論として退行の概念は以下の点を留意しつつ注意深く用いることで、治療的意義を保持するというのが筆者の考えである。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、あくまでもそれは関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。
 第二には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が実際には体験したことがない状態でありうる。

2016年10月27日木曜日

退行 ⑭

退行概念と甘え
 退行概念を考えるうえで日本の臨床家が否応なく直面するのが、甘えの問題である。特にその提唱者である土居が甘えを治療論と結びつけているからである。土居は患者が治療者に甘えられることは治療の一つの目標だとする(要出典)。もしそうであるとしたら、治療場面における退行はむしろ土居にとっては必然ということになる。

実は精神分析では、土居に先んじて古澤平作先生が類似の考えを持っていた。「古澤先生は、まずフロイトの技法に則って患者に洞察を求める努力をしているうちに分析することが患者の心をいかに切り刻むことになっているかに気づき、しだいに『自己と患者との融合体験』こそが患者の生命の出発点であり、患者がこの一体感や対人関係での親密な融合感を体験しうるようになることこそが治療の目標である」と考えるようになった。いわゆる「とろかし療法」と呼ばれたものである。」(コピペ)この考えはおおよそウィニコットに近いことになる。来日しているジャン・アブラム先生はここら辺を強調し、「土居とウィニコットは同じことを言っている!」「どうしてウィニコットではなく、バリントを引用しているのだ!」と英語で言っている。松木先生は反対なさるかもしれないが、確かに似ていると思う。ついでに言えば、古澤先生もそうか。

2016年10月26日水曜日

退行 ⑬

そして
松木先生によるウィニコットの退行論

松木邦裕先生のウィニコットの退行論もよくまとまっていてわかりやすい。ウィニコットは親からの侵害が偽りの自己を作る、という例のロジックだが、ここで言っていることがすごい。要するに「分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来する」のであり、それは退行も同じというわけだ。治療において治療者は必ず何らかの失敗をするが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現されるという。患者によっては解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になるという。しかし同時にウィニコットは「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(Winnicott 1955)とも言っていることを松木は強調する。つまり「患者を退行させよう」というのは邪(よこしまだというわけだ。これもよくわかる。
さてここから松木先生独自の退行論に入っていくが、これが面白い。彼は1994年に分析研究誌に掲載された「退行について―その批判的討論」という論文がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情なども暴露しつつ語る。要するに、彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」がラジカルすぎて、物議をかもしたというのだ。彼の趣旨は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向である。しかし転移なら二者心理学的で、未来志向的である。そしてそのような視点は、バリントにはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、ウィニコットは転移の視点を入れている点で、評価に値する、という。


2016年10月25日火曜日

退行 ⑫

このところ、このブログの量が低下している。他に用事が多いのだ。

松木邦裕の見解

松木先生の論考は出色の出来である。これを引用しないことには始まらない。
問題の論文は「松木邦裕(2015)精神分析の一語 第8回 退行 (精神療法 41.5.p743753)
彼は精神分析の中でも退行概念を無視しているのが、英国クライン派であるという。クライン自身は妄想ー分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしているが、その後継者たちには、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちもいるという。そしてビオンの次の言葉が面白い。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う。」(Bion,1960 cogitation, Karnac Book, London)何か、北風と太陽の話のようだな。それから松木先生は、メニンガー、バリント、ウィニコットの3名の分析家の退行理論をまとめる。
 この中でバリントの考えを松木は比較的単純なものとしてとらえている。彼にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であるという。例の primary love 原初的愛の考え方である。また例の良性の退行、悪性の退行については、バリントが「認識されることを目的とする退行」と「充足を求める退行」と言い直しているという。そしてこれを分けるものとして治療者の態度があげられている。「治療論から見た退行」から松木が引用するのは以下の文章。「分析家の技法と振る舞いが万能的であるほど、悪性退行に陥る危険は高まる。逆に分析家が患者との間の不平等を残らせるほど、分析家が患者にとって押しつけがましくない普通の人に見え、退行が良性になりやすくなる。」


バリントの理論の一番の特徴は、この治療者の態度により退行は良性にも悪政にもなるという考え方だろう。松木先生にまとめてもらったわけだが。ここら辺は私は全然違う。もちろん相性もあるが、これは人によって全然違うという気がする。対応が(不幸にして)良いと、逆説的に悪性の退行を引き起こす、ということもあろう。相性が悪いと、そもそも患者さんが治療者を相手にしないので、退行そのものが起こらない、とか。ともかくも治療とはすなわち退行で、それを治療者がどう取り扱うかが問題だ、というのがバリントの主要な関心事であった。

2016年10月24日月曜日

退行 ⑪

バリントの退行概念 

(以下の文章は、「治療論から見た退行(中井久夫訳)」(特にP193~)の文章を下敷きにしているが、中井先生の翻訳はやはり特徴的なので、私の訳に一部なおしてある。たとえば new beginning は「新規撒き直し」ではなく「新しい始まり」にしてある。もちろん中井先生の味わい深い訳には深く敬意を表する。

 マイクル・バリントの考察は、フェレンチの臨床経験に対する詳細な考察に始める。そしてその体験から私たちが学ぶべきことを模索しつつ、退行を両性と悪性に分ける。
良性の退行とは、
相互信頼的な、気のおけない arglos、気を回さない関係の成立が難しくない。
退行は心の新しい始まりに至るものである。そして現実への開眼とともに、退行は終わる。
退行は認識されるためのもの、それも特に患者の内的な問題を認識してもらうためのものである。
要求、期待、ニードの強度は中等度である。
臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がない。

他方悪性の退行では、
相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回さない雰囲気は何度も壊れ、しばしば、またもや壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線、補償として絶望的に相手に纏いつくという症状が現れる。
悪性の退行は、新たらしい始まりに到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険と嗜癖類似状態発生の危険が絶えずある。
退行は外面的行動をしてもらうことによる欲求充足を目的としている。
要求、期待、ニードが猛烈に激しいだろう。
臨床像に重傷ヒステリー兆候が存在し、平衡状態の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わる。
 この単純明快な分類がいかに多くの臨床家の役に立ったことか。バリントは次の点を主張することを忘れない。「退行とは一人の人間の内部で起きることでなく、関係性の産物なのだ。」


2016年10月23日日曜日

ある講演 推敲後 

この講演のゲラチェック、大変だった。ここ2,3日かかりっきりであった。以下はそのアリバイ。あえて小文字。

 本当に皆さんが、解離の患者さんに会うことは少ないのかっていうと、案外そうでもないだろうなと思うんですね。昔から言われている多重人格障害、現代的な言い方ではDID、つまり解離性同一性障害ということになりますが、人によっては人口の1パーセントほどはいらっしゃるのではないかと言われています。そうすると統合失調症と同じなわけです。だから解離の患者さんは案外いろいろな所にいらっしゃるし、かなりの部分が、それを表現することを、かたくなに拒んでいるというか、なるべく秘密にしておきたいっていうのもあるだろうし、一時期そういう状態があって、数年間、あるいは数カ月間、いろいろな人格が出現する時期が続いて、また消えてしまうみたいな感じの方も多いのでしょう。ですから、そういう意味では、いろいろな所で恐らく、皆さん出会っていらして、気が付かずに過ごしてしまったこともあるかもしれないです。
 ただすごく誤った扱い方と私が考える扱い方をしてしまうこともあるでしょうし、そういう意味では、ある程度、こういう障害に対して意識をお持ちになるってことは、大事ではないかというふうに思います。

<省略>

 はい、分かりました。そういうことで非常に結構だと思うんですけども、このケースについてある解離の研究会で話したら、ある有能心理士さんは「これはDID、多重人格だろう」というふうに言うんですね。またある精神科の先生に訊ねると、「これだけじゃ何とも言えない」ということでした。実はこの方は、うつ病の患者さんなんですね。特に多重人格ではないです。ただし、そういう方がこういうメールを送ってくると、私は感慨深くなっちゃうんです。どういうことかというと、通常、多重人格という症状を現してない彼女でさえ、心の中に小さい頃の自分みたいなものがいて、そしてここからが大事なんですけども、それが勝手に動きだすっていうところなんですよ。小さい頃の自分をイメージすることができるだけじゃなくて、それが、あたかも命を持ったかのように動きだして、自分はそれに驚いて、そして「10代の私が暴れます」というとき、心は二重映しみたいになっている。

 <省略>

 われわれの心というのは、脳の中にある情報処理のセンターがあって、そこでの働きが体験されているものです。そして通常はそのセンターが1個なわけです。だから、われわれは心っていうのは1個、自分を1人って考えているわけですが、実は脳の容量はとても大きいので、いくつかのセンターが共存することがあり得て、それぞれが勝手に動きだすという、そういうようなことができるような力というのを、われわれ中枢神経系は持ってるというわけです。
 それは中枢神経系はあまりにも広大で、あまりにもネットワークが緊密なために、その中にいくつかの情報処理のネットワークが出来上がるということを、ポテンシャルとして持っているということを皆さんに、お分かり頂きたいのです。そしてさらに言えば、解離を理解する上ですごく大事なのは、心の中にできた、いくつかのセンター、パーソナリティー、人格状態が、それぞれ個々の自律的な意識を持っていて、それを個々の人として認めるっていうのが、決定的に重要になってくるってことなんです。
 この話をするのはすこし早いかもしれませんが、別の人格、つまりAさんという人の別人格であるBさんが現れてきたときに、「Bさん、あなたはAさんの一部でしょう」とか、「Aさんが心の中につくり上げたイメージ、それがBさんなんですよね」という言い方をすると、Bさんは「どうして私という存在を認めてくれないの? 私はAさんとは違う存在ですよ」という反応を示すことが普通なのです。それぞれ出てきた人格に対して、個別の人格を持ち、主体性を持った人格として扱うということは、解離的な問題を持った患者さんを理解する上で、決定的な点な意味を持つのです。
しょっぱなから結論めいた言い方をしていますけども、そんなことが今日の講演の最後までに、もうちょっと説得力のある形で言えたらなって思います。私がこの2時間で達成したいのは、皆さんの臨床の場面で、もしいつもと違う雰囲気で、全然違う顔つき、目つき、表情のつくり方で話をし始めた人がいて、いつものAさんじゃないなというふうに思えた場合、そしてその人が明らかに子どものような振る舞いをして遊びだしてしまう、甘えてくる、あるいは怒りだす、ということが起きた際に、それを見なかったことにしてしまわないようにしてほしいということです。
 だからといって「治療的に扱ってください」とまでは言わないけども、それをすごく重要な出来事としてとらえ、これがいわゆる解離なんだなというふうに、どっかでそういう話聞いたことあるなということを思い出していただき、次の治療につなげるようなことをしていただけたらなと思うんです。
 別の人格が登場した時に、もし治療者が戸惑ったり怪訝そうな顔をしたりすると、その別人格は空気を読み、奥に引っ込んでしまうことがあります。「この先生にもやっぱり分かってもらえなかった。この人の前でも出ることが出来ないんだ」というわけです。そのようなことがあると、解離の問題がずっと扱われずにいるということがおきます。一般に解離は、その人が過去においてある状況を生き、扱うことが出来なかった場合に生じます。それがずっと心の底のほうに隔離されて、冷凍保存されてたようなことがあったということです。基本的に解離というのは何かが起きたときの、そのときの自分が表現されずに冷凍保存され、箱に入った状態で、今まできてしまったということです。
 解離性障害とは何か。教科書的なことを言いますけども、心の機能はその多くが、それぞれ自律的に営まれ、それを意識がまとめています。解離とは、そのまとまりが一時的に失われて、心の一部が停止したり、独自に活動を始めた状態です。解離症状としての突然の意識消失とか記憶の消失、運動機能の消失、知覚機能の消失等があります。そして解離の一番複雑な状態としてDIDというのがあります。DIDというのは、別の所に別の心が出来上がって、勝手に動いてる状態です。

<以下、全部省略>

 

2016年10月22日土曜日

退行 ⑩

退行概念の今後について
 最後に結論めいたことを述べるならば、精神分析における退行の概念は、いかなる治療状況において治療が促進するかを論じるうえで極めて有用となる。そこで対象関係論的な退行理論が示していたのは、ある種の早期の母子関係に由来するような、支持的である種の遊びが許容されるような関係性が治療を促進するという考え方である。ただしそれがその人の成育歴上の早期の段階への回帰と考えるべきかについては、その根拠は定かではないであろう。仮に早期の母子関係への回帰が生じたとしても、そこでの環境の失敗のやり直しというニュアンスがあるにせよ、実はその是正すべき環境はかつて起きたことはないという矛盾が生じる。その基本的な過ち basic fault が起きた時点にまで立ち戻る、とはどのようなことを意味するのか? 問題はその時生じなかったことを補足、回復させることであるとしたなら、それは退行ではなく、それこそバリントの言う「新規撒きなおし」ということになりはしないだろうか? でも待てよ、撒きなおし、といういい方が、一から戻って、というニュアンスだが、そうではないのだ。起きていることはむしろ、記憶の再固定化、というところがある。そしてそれが治療的に作用するためには安全な環境の提供ということがある。
治療が促進するときに治療者が漠然と抱いているのは、治療者患者の双方にとって安心感が生まれ、患者にとっては自分の感情やファンタジーの表現が危険ではなく、受容されるという感覚が生まれることである。ところが問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしれそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにあるのである。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味で私が提案するのは、新しい「退行」の概念であり、そこでは幾つかのことが行われる。
(特に治療者に対するものを含む)感情やファンタジーの表出が安心して行われる状況の成立すること。実はこれは土居の「甘え」が生じる環境と言い換えてもいい。



2016年10月21日金曜日

解離の概念および治療 ⑦、 退行 ⑨

解離性障害の対応と治療

という形で後半を書き始めるのだが、以前に書いたものでかなり言いたいことは言っている。自己引用しながら言い回しを変えつつ、進めてみよう。
はじめに
本稿では解離性障害をいかに臨床的に扱うかというテーマで論じる。扱う精神疾患は転換性障害を含む解離性障害一般であるが、その中でも解離性同一性障害 dissociative identity disorder (以下本稿では「DID」と記する解離性健忘 dissociative amnesia  (以下「DA」と記する) については臨床上の扱いの難しさもあり、特に詳しく論じることにする。

解離性障害を持つ患者との出会い
解離性障害を有する患者と出会い、初回面接を行う際の留意点についてまず論じる18)
解離性障害の初回面接は、患者が「解離性障害(の疑い)」として紹介されてきた場合と、統合失調症や境界性パーソナリティ障害の診断のもとに紹介されて来た場合とではかなり事情が異なる。本稿では解離性障害の可能性があると思われる患者について、その鑑別診断を考慮しつつ初回の面接を行うという設定を考えて論じることにする。ちなみに解離性障害は決して珍しい障害ではない。一般人口の 1~5% に見られるという見解もあり24)、精神科医が一般の臨床で実際に出会うことは決して少なくない。また解離性障害についての認知度が増すに従い、それが見逃される可能性は少なくなってきているであろう。  
 患者を迎える
解離性障害の中でも特にDID の初回面接においては、患者はしばしば面接者に警戒心を持ち、自分の訴えをどこまで理解してもらえるかについて不安を抱えている。面接者は患者にはまず丁寧にあいさつをし、初診に訪れるに至ったことへの敬意を表したい。DIDの患者は多くの場合、すでに別の精神科医と出会い、解離性障害とは異なる診断を受けている。患者が持参する診療情報提供書や「お薬手帳」には、過去に統合失調症を疑われた名残としての抗精神病薬の処方がみられるかもしれない。またそのような経験を持たなかった患者も、その症状により周囲から様々な誤解や偏見の対象となっていた可能性を、面接者は念頭に置かなくてはならない。
 解離性障害の患者が誤解を受けやすい理由は、解離(転換)の症状の性質そのものにあると考えられる。DIDのように心の内部に人格部分が複数存在すること、一定期間の記憶を失い、その間別の人格としての体験を持つこと、あるいは転換性障害のように体の諸機能が突然失われて、また回復することなどの症状は、私たちが常識的な範囲で理解する心身のあり方とは大きく異なる。そのためにあたかも本人が意図的にそれらの症状を作り出したりコントロールしたりしているのではないか、それにより相手を操作しようとしているのではないか、という誤解を生みやすい。そして患者はそのように誤解されるという体験を何度も繰り返す過程で、医療関係者にさえ症状を隠すようになり、それが更なる誤解や誤診を招くきっかけとなるのだ。
 初診に訪れた患者に対してまず向けられる質問は、患者の「主訴」に相当する部分であろう。もちろん挨拶を交わし、本人の年齢、身分(学生か、会社勤務か、など)、居住状況(独居か、既婚か、実家で家族と一緒か、など)、等の基本的な情報をまず聞いておくことは賢明である。しかしその次の質問は、本人が現在一番困っていること、不都合に感じていることに焦点づけられるべきであろう。
 筆者の経験では、解離性障害の「主訴」には、「物事を覚えていない」「過去の記憶が抜け落ちている」などの記憶に関するものが多い。それに比べて「人の声が聞こえてくる」「頭の中にいろいろな人のイメージが浮かぶ」などの幻覚様の訴えは、少なくとも主訴としてはあまり聞くことがない。それは前者は患者が実際の生活で困っていることであるのに対し、後者は患者がかなり昔から自然に体験しているために、それを不自然と思っていない場合が多いからであろう。
現病歴を聞く
解離性障害の現病歴は、社会生活歴との境目があまり明確でないことが多い。通常は現病歴は発症した時期あるいはその前駆期にさかのぼって記載されるが、特に DID の場合は、ものごころつく頃にはすでにその症状の一部は存在している可能性がある。たとえ明確な人格の交代現象は思春期以降に頻発するようになったとしても、誰かの声を頭の中で聴いていたという体験や、実在しないはずの人影が視野の周辺部に見え隠れしていた、などの記憶が学童期にすでにあったというケースは少なくない。ただし通常は解離性障害の現病歴の開始を、日常生活に支障をきたすような解離症状が始まった時点におくのが妥当であろう。
 もちろん解離性障害の患者の中には、幼少時の解離症状が明確には見出せない場合もあり、その際は現病歴の開始時を特定するのもそれだけ容易になる。たとえば DF の場合は突然の出奔が生じた時が事実上の発症時期とみなせるだろう。また転換性障害についても身体症状の開始以前に特に解離性の症状が見られない場合も多い。
 解離性障害の現病歴を取る際、特に注意を向けるべきいくつかの点を挙げるならば、それらは記憶の欠損、異なる人格部分の存在、自傷行為、種々の転換症状などである。
 患者に記憶の欠損の有無を問うことは、精神科の初診面接ではとかく忘れられがちであるが、解離性障害の診断にとっては極めて重要である。記憶の欠損が解離性障害の診断にとって必須の条件というわけではないが、同障害の存在の重要な決め手となることが多い。人格の交代現象や人格状態の変化は、しばしば記憶の欠損を伴い、患者の多くはそれに当惑したり不都合を感じたりする。しかしその記憶の欠損を認める代わりに、患者の多くは「もの忘れ」が酷かったり注意が散漫だったりすると他人から思われるほうを選ぶかもしれない。初診の際も患者は問われない限りは、記憶の欠損に触れない傾向にある。面接者の尋ね方としては、「一定期間の事が思い出せない、ということが起きますか? 例えば昨日お昼から夕方までとか。あるいは小学校の3年から6年の間の事が思い出せない、とか。」等の具体的な問いを向けるのが適当であろう。
 他の人格部分、ないしは交代人格と呼ばれるものの存在に関する聴取はより慎重さを要する。多くの DID の患者が治療場面を警戒し、異なる人格部分の存在を安易に知られることを望まないため、初診の段階ではその存在を探る質問には否定的な答えしか示さない可能性もある。他方では初診の際に、主人格が来院を恐れたり警戒したりするために、かわりに他の人格部分がすでに登場している場合もある。診察する側としては、特に DID が最初から強く疑われている場合には、つねに他の人格部分が背後で耳を澄ませている可能性を考慮し、彼らに敬意を払いつつ初診面接を進めなくてはならない。「ご自分の中に別の存在を感じることがありますか?」「頭の中に別の自分からの声が聞こえてきたりすることがありますか?」等はいずれも妥当な質問の仕方といえるだろう。


 退行 ⑨

こっちも進めなきゃね。



初めに
現代の精神分析において、退行という概念はどのような意味を持ち、いかなる臨床的な意義を有するのかについて考えたい。最初に言葉の定義から見てみよう。

小此木啓吾は精神分析における退行の概念について、以下のように記している。
「退行は,それまでに発達した状態や,より分化した機能あるいは体制が,それ以前のより低次の状態や,より未分化な機能ないし体制に逆戻りすることをいう。フロイトFreudS は,失語症の研究(1891)を通して,このジャクソンJacksonJ. H.の進行 evolution と解体 dissolution の理論から影響を受け,退行は,精神分析によって観察された現象を説明する基本概念の一つになった。」(小此木、精神分析学事典、岩崎学術出版社)

フロイト及び自我心理学における退行

フロイトの関心事は精神の病理性であったことを考えると、病理イコールジャクソンにおける進行と逆方向に向かう傾向ととらえることは自然であった。フロイトはその後リビドーの固着と固着点への退行という概念を発展させたが、それはヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。このような図式をフロイトは終生持ち続け(続精神分析学入門、1938)、それはそのままの形でアンナフロイトに受け継がれたが、そもそものリビドー論の衰退とともに忘れ去られる運命にあった。その中で対抗の概念に一つの広がりを与えたのが、Ernst Kris ARISE(自我のための適応的な退行)という考え方であろう。(以下、赤字は小此木) Kris はフロイトの「抑圧の柔軟性 Lockerung der Verdrangung (1917)の概念を手がかりに自我による自我のための一時的・部分的退行 temporary and partial regression in the service of ego」と進展の概念を提示した。病的な退行は不随意的(無意識的),非可逆的で自我のコントロールを失った out of control of ego退行であるが,健康な人間の酒落,ウイット,遊び,性生活,睡眠,レクリエーション,その他の退行は随意的(前意識的)可逆的な自我のコントロール下 under the control of ego の退行であるという。中でも,芸術的創作過程で働く昇華機能と結びついた「自我による自我のための一時的・部分的退行」はシェーファーSchaferR. (1954)によって創造的退行 creativeregression」と呼ばれる。以上述べたのは米国の自我心理学の退行理論として分類されよう。

こうやって改めて文章に組み込むと、小此木先生の文章は簡潔で的確である。やはり彼は天才だった・・・・。

対象関係論における退行

退行の真の価値は、それが臨床に結び付けられた際に発揮されると考えることが出来る。英国の独立学派の, パリントBalintM.,ウィニコット WinnicottD. W. は,それらの代表といえる。パリントは,「基底的欠損 The Basic Fauld (1968)」の中で,ある患者はほとんど全体的な退行状態を示すことなく治癒していくが,ある患者たちは全体的な退行状態に陥る。その中には,退行状態の後再び成長を始める患者群(良性の退行の形態 benign form of regression)と,快楽に対する要求が際限なく起こり,治療的に扱えなくなる患者群(悪性の退行の形態 malignant form regression)があるとして、良性の退行は,外傷体験の時期よりも以前の無邪気な状態 arglos に回帰でき, 一次的な関係 primary relationshipに退行し,新しい出発を始め,新しい発見へと向かうが,悪性の退行は,絶望的なしがみつきに陥り,止まることを知らない要求や欲求を抱き続けて,嗜癖的な状態になり,新しい出発に達することができない。パリントは,一部の患者が深い悪性の退行状態に落ちる理由として「基底的欠損」という前エディプス期,特に口愛期の対象との依存葛藤が,環境との関係で適切に解決されていない基本的な障害があるためであるという。ウィニコッ卜は,退行を環境とりわけ母親に対する依存への退行と見なし,ある患者は治療の途中で「真の自己 true self」が突然出現して,乳児の状態まで退行し,治療者も母親としての役割をとらざるを得ず,分析者としての立場を維持できなくなることがある(パリントのいう悪性の退行)が,患者の中には一時的に退行を示して成長していく,いわゆる発達をもたらす退行状態を示すものがあり,その退行は治療的に有意義で,治療者がそれを受容し,いたずらに解釈せず,患者が成長するまで,患者とともにいて待つことの重要さを唱え,基本的にバリントと同様の意見を説いている。(赤字小此木)

 いきなりトンで、ここも書いてしまおう。
治療への応用

退行の概念は、治療への応用を考える際に最も意義を有する。シンプルな提言から述べてみよう。治療関係や治療状況とは、そこで退行が生じることを一つの前提としていないだろうか?現代の分析家ならおそらく眉をひそめてこういうだろう。「うーん・・・・。ちょっと違いますね。分析とはそこで転移が生じることです。」もちろんこの答えは大正解である。しかし転移が生じる一つの前提は、退行ではないだろうか?(もちろん退行という概念を前面に出せば、ということである。別に退行といわなくてもいいのであろうが。)もちろん退行を伴わない転移もある。目の前の治療者が表情を変えずに話を聞いているだけなので、怖い父親のように思えてきた、という例はどうだろう?しかしこの「退行を伴わない転移」はおそらくどこにも生きようがないであろう。なぜなら治療のある時点で「先生のことを、怖いお父さんと同じように感じていましたよ!」という心の裡を話す機会がなくてはならず、そこではそれを話せるという退行した心情がどうしても必要となってくるからだ。
ともかくもフロイトも自我心理学者も対象関係論者もこの治療状況における退行という考えに親和性を持っていたことからも、治療=退行の促進という図式自体に問題はないことになる。

したがって退行は現代的な意味からも、治療を論じる請けで需要な概念ということが出来る。しかし果たしてこれは前の状態に戻ることなのか、新たな進展なのだろうか?ここが重要だ。