2016年4月30日土曜日

嘘 2 ⑥

嘘という名の快楽 3.―自己欺瞞

 まあここは、「嘘2」の継続、ということにしておこう。
 自己欺瞞の話の初めに、ある興味深い精神医学的な事実を紹介しよう。脳科学に興味のある精神科医たちにとっては常識ともいえる話だ。私達の脳は右半球と左半球に分かれており、脳梁というかけ橋でつながっている。そして時々精神医学的な理由から、この両方の半球の間の架け橋を切断する必要が生じるのだ。この様に聞けば不思議な印象を持つかもしれないが、脳の組織はその多くが左右に一対ずつあり、言わば左右対称の器官なのである。もちろんそれを束ねて形で脊髄につながっていくのであるが、左右脳のそれぞれに血液が還流しているし、血管さえ傷つけなければ、架け橋の部分を切り離しても大量出血することはない。そして驚くべきことに、それで気を失ったりすることはないのだ。そしてさらに驚くのは、左右に切り離された脳は、独自の心を示すことになるのだ。これを離断脳、といい、この事実が発見された当時は大変なインパクトを与えた。
さて問題は、離断脳状態にある右脳、左脳は独自の仕方で外界と情報をやり取りし、意思伝達をすることが出来る。
この分離脳の実験を試みたマイケル・ガザーニガの例として有名なのだが、彼は分離脳の患者の右脳に「立って歩きまわるように」と指示した。そして今度は左脳に「何をしているのか?」と尋ねた。すると患者は、飲み物を取に行くところだ、と即答したというのである。
ここで読者の中には、どうやって右脳と左脳に別々に指示を与えたり質問が出来たりするのか疑問をお持ちだろう。そのためにごく簡単に説明するならば、脳は、右半球は体の左半分を支配し、左半球はその逆、という役割分担を行っている。ただしその間をつなぐ脳梁によりたちまち情報は統合されて、あ、これは右半球由来の情報、あれは左半球、ということはない。右耳と左耳の情報は混じってしまうのだ。ただ、例えばステレオで音楽を聴く、ということを思い浮かべるとわかるとおり、モノラルで聞くよりずっと奥行きが感じられる。それは右耳と左耳から別々の情報が快って、統合されるプロセスで、立体感が生じるからだ。その意味で情報が初期の段階でステレオで入力し、それから統合されるという仕組みには意味があるのであろう。(同様のことは視覚における立体視についても言える。ただし視覚は、実は視野によって両側性に脳で処理されるために、少し話は厄介になるが。)
この「飲み物を取に行く」と即答した男性に戻ろう。彼は自分の行動を、そういうことによりすぐさま取り繕ったことになる。本当は自分がどうして立ち歩いているかわからないはずであるのに、次の瞬間にはそれを合理的に説明したわけである。この男性ははたして嘘をついているのだろうか?
この問題の結論を急ぐ代わりに(そしておそらく正解はないのであろう)私達の脳が常に行っている可能性のある働きについて考えよう。私たちが通常の脳を備えて日常的に活動をしている際、そこで起きている可能性のあるのは、ある種の自動的な、無反省的な行動ないしはそれへの傾向であり、同時にそれを理由づける理性の働きである。それがこの分離脳の実験において見事に表れているとは言えないであろうか?もしそうである場合、その自動的、ないしは無反省的な行動とはある種の快適さを生む者が選択されるのではないか?上の例であれば、右脳への情報のインプットは、「立って歩き回るように」という指令であった。彼はおそらくそれに従う必要を感じ、そうしなくてはまずいと思ったのであろうし、その意味ではその行動は快楽原則に従ったものであろう。そしてこのことは、私たちの行動が第一に快楽の追及、ないしは不快の回避を意図され、あとはそれがどの程度合理的に説明できるか、正当化できるか、ということのバランスにより最終的な行動が決定するということの、大脳生理学的な根拠ということが出来る。

2016年4月29日金曜日

嘘 2 ⑤

「自己欺瞞」の心理

さて私はここらで、この「弱い嘘つき」という言葉をもう少しマシな言い方に代えたい。それは自己欺瞞である。サルトルの言っていた、あれである。(実は弱い嘘と自己欺瞞は、異なる種類のものだ、という話に持っていきたいのだが、まだ先は急がないことにしよう。)
自己欺瞞とは、私なりに定義すると、ある虚偽を自分の中に抱え、いわば自分に嘘をついている状態だ ・・・・ と話を進めていこうとしたが、ここでいきなり項目わけをすることにする気になった。というのも私はなぜかこの自己欺瞞の問題が昔から気になっていたからだ。
 自己欺瞞とは、精神分析には出てこない概念だが、サルトルにとっては人間にとって本質的なあり方であるという。私も全く知らないのだが、おそらく虚偽、嘘、とも違う。それは虚偽は自分が嘘をついているという自覚があるが、自己欺瞞はそこらへんがあいまいになっているのだ。ここら辺はこれまでの「弱い嘘」とも関係しているし、アリエリーの主張とも通じている気がする。つまり「弱い嘘」は自分は本当の嘘をついているのではない、本物の嘘つきではない、という思考があり、ある意味では自分の嘘つきの部分に目をつぶっているからだ。そしてそれがどうして報酬系と関係するかと言えば、それが結局は自己中心性、自己愛傾向、他人を利用して自己を利するという問題と複雑に絡んでいるからである。ということで明日からは、

嘘という名の快楽 3.―自己欺瞞の心理学 ほんと、テキトーだな。

2016年4月28日木曜日

嘘 2 ④

いわゆるTNTパラダイム

 心は不快なことを本当に忘れる力があるのか?実はこのテーマは簡単なようでいて、とても難しいことだ。だから現代の実験心理学ではひとつの流行のテーマでもある。それはいわゆるTNT問題(think/not think paradigm、考える・考えないパラダイム) と呼ばれ、多くの研究がある。この研究では、被験者を集め、ある事柄に結び付けられた無関係の別の言葉を記憶してもらう。空―靴、城―虹、などという風に。それをたくさん覚えてもらうのだ。すると「空」と聞いたら、「靴」、と浮かぶようになる。ここまでが第一段階。そして次にその言葉を与えられたときに、そのいくつかについては、わざと想起しないように指示するのである。たとえば「城」と聞いたら、それが何に対応していたかを思い出さないように、被検者に指示するのだ。これが第二段階。そして第三段階としては、その訓練をした結果、被験者は、想起しないように訓練された単語対は、それ以外より、より思い出せなくなるのか、結び付けられた別の言葉を想起しなくなるのか、それとも変わらないのか、という研究をすることになる。
この研究の結論として得られたのは、考えまいとしたことは、より多く忘れられていったということだ。フロイトの抑制の理論はその意味ではおおむね正しかったと言えなくもない。

これについてはわが国の研究者の業績もある。(松田崇志(2008)「記憶の抑制に対する効果的な方略の検討 Think/no-Think パラダイムを用いて」人間社会環境研究 15号、20083 189197.)ところがこの研究は、忘れようとして被験者がどのように涙ぐましい努力をしているかが描かれているのだ。私はそれを読んでびっくりした。彼らは最初の単語が示されたとき、それに関連した別の単語を思い出さないようにするために、別のことに意識を集中させたり、最初の単語から連想されるものを考えるなりして、つまり「ほかのことを考える」ことで無理やり考えないようにしていたのである。しかしこれは果たして自然に「忘れる」ことなのだろうか?この問題もとっておこう。

2016年4月27日水曜日

嘘 2 ③

抑圧という名の魔法は果たして可能なのか?

さて、この議員の心にもう少し細工が起こり、賄賂を受け取ったことを「忘れて」しまうということが起きるだろうか?この場合は「嘘」や「弱い嘘」ではない。本当に忘れてしまい、あるいは偽りの記憶で置き換えられるのである。そうなると「賄賂は受け取っていません」と主張する議員に基本的には良心の呵責はないことになる。
ただ人の心はそうやすやすと、この魔法を使わせてはくれない。心に置くことが苦痛だからといって、それを記憶から消去してくれるような装置は私たちの中には通常は備わっていないのである。
ここで「抑圧」の話をしなくてはならない。ある考えや衝動などをなぜ心から追いやることができるのか? できる、とフロイトは考えた。フロイトは思い浮かべることが心に痛みを生じる場合、その内容は意識から押しのけられ、無意識にある、と考えたのである。そしてその心の痛みとしてフロイトは幾つかを考えた。それらは「ウンザリ感、恥、罪悪感、不安」がある。要するにさまざまな不快である。
具体例に則して考えよう。ここはある女性が職場でフロイトにならってセクハラを受けた、という例を選びたい。なぜならフロイトがこの抑圧の原因として考えたことは、主として性的な内容だったからだ。その女性はセクハラの記憶を思い出すたびに「ウンザリ感、恥、罪悪感」を体験する。つまりセクハラをしてきた上司のことを考えるとウンザリし、またそんなことをされて恥だと思う。また自分にもある程度の原因があったのかと思うと、罪の意識も感じるのだ。この恥とか罪の感情は、性的な内容を含んだものに特有かも知れない。それに性的な出来事はどこか隠微で、隠されなくてはならないという気持ちを私たちに生む。それで心の外に追いやることができる、とフロイトは考えた。
精神分析の理論は、この「思い出さないようにする」心の働きとして、様々なものを考えた。否認 denial、否定 negation、排除 foreclosure、抑制 suppression、解離 dissociation ・・・・・ とたくさん出てくるわけだが、結局これらは「抑圧」という名前でひとくくりにされると言っていい。少なくともフロイトはそう考えた。
ただし抑圧により忘れられた記憶は、通常の忘却とは違う、とフロイトは考えた。なぜならその本体は消えてなくなったわけではなく、無意識という心の別の部分に移ったと考えたのである。無意識とは通常私たちが思い浮かべることのできるもの以外の膨大な内容を蓄えた心の部分であり、通常はそれを意識化する、つまり思い浮かべる事が出来ない。
このフロイトの図式をもう少しわかりやすく表現してみる。意識とはスポットライトを浴びた舞台のようなものだ。そこで起きていることが意識されることだ。しかし舞台のそでや舞台裏では別のことが進行している。しかしそこにはスポットライトがあっていず、暗いままなので、観客にはそこでの動きが見えない。しかし、とフロイトは考えた。舞台裏で起きていることはさまざまな形で、「象徴的に」表舞台に影響を与えるのである。

さてここまで私は「思い出したくないものは、思い出さなくなる」ことを当たり前のことのように書いているが、この問題は実はすごくややこしい。「いやなことを考えない」ということが果たして可能なのかという問題は、脳科学的にも結論を出すのが難しいらしい。なぜならいやなことは「気になること」でもあり、心はそれを放っておかないからだ。人があることを考え続ける、やり続けるというのはよりシンプルである。心はそこに戻っていけばいいのだから。ところが不快な場合は、それがいったん心に入り込みそうになると、それを押しやるという努力を必要とする。その方法はどうだろうか?それを否認するような言葉を発したり、違う証拠となるような理屈を考え続けたり、その不快な事柄を思い出させた人に向かって怒ったりするだろうか。それが本当に可能なのか?

2016年4月26日火曜日

嘘 2 ②


人は本来「弱い嘘」つきである、というアリエリーの主張

(そう、ここでアリエリーの引用をするべきだった。)
社会行動学者ダン・アリエリーは、人がどうして嘘をつくかについてとことん考えた人である。ということで再び登場。字数稼ぎではない!!
「アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
 アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在していた。
 しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に自分は6尾釣った(ということは二尾は逃がした、人にあげた、という言い訳をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。
 アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換えよう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人は強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。
ではどうしてごまかすのか?それは快感だからであろう。4尾というより6尾の方が自慢のし甲斐がある。気持ちがいい。だからであろう。あとは嘘をついていることによる良心の呵責がどの程度それに拮抗するかだ。その拮抗点がその人にとっては10尾でもなく、5尾でもなく、6尾ということだ。このような嘘を「弱い嘘」と呼んでおこう。
話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。

そこで話を最初の賄賂を受け取った政治家に戻す。彼の嘘もこの魚の話の延長なのだろうか?恐らく。そして「秘書が受け取ったかもしれないが報告を受けていない」というのは、「絶対に受け取っていない」と言うよりは良心の呵責が少ないはずなのだ。そして「秘書が・・」と「弱い嘘」をつくことは、「ごめんなさい、受け取りました」と頭を下げるよりはるかに快感原則に従うのだ。

2016年4月25日月曜日

嘘 2 ①

嘘という名の快楽 2.―「弱い嘘」つきは人間の本姓に根差す

いやなことは考えない、という心理

人の心は分からないことだらけだ。わからないからこそ面白い。
先日もつらつらとこんなことを考えていた。人はどうして事実を直視せず、明らかに誤りと思える事柄に固執するのだろうか?私たちの生活はなんと多くの否認や欺瞞に満ち溢れているのだろうか?
 この問題には明らかに情動が関係している。するとごく単純な発想が湧いてくる。ある事実を否認するのは、それを考えることがつらいからであり、否認が快楽を呼び起こすからではないか? つまり否認や欺瞞は快楽的なのだ。するとそれが事実に即しているかどうかという判断は二の次なのである。
これは前章で嘘を扱った時とおなじテーマである。ただしこれを多かれ少なかれ、善人も悪人も私たちすべてが行っているという点がミソである。
ある政治家が賄賂を受け取ったかどうかを尋ねられる。「私はこれまでに不正を一切していない。」という。「いや、受け取ったか受け取らないかを聞いているのです」とマスコミが畳み掛ける。「記憶があいまいだ。秘書に確認する…。」 「きのうA誌の記者には、相手との接触を肯定したそうですが?」「だから、相手と会食したことはある。それだけだ。」
聞いていても何とも往生際が悪いが、その政治家はうそをつこうとしているのか? これは否認か?虚言か?はたまた解離か?自己欺瞞か?それは分からない。しかしひとつ確実に言えることがある。それはその政治家にとっては、賄賂を受け取ったという記憶を心に置くことはとてもつらそうなのだ。できるなら触れたくない。だから彼は会見を回避する。どこかに逃げ出したい。自分はふと悪い夢を見ているのではないかと思う。ある時は「あれはなかったんだ」という気持ちになる。賄賂は受け取っていないと思える、そんな瞬間も確かにあるのだ。しかしまたその記憶は突然戻ってきて、心に痛みを与える。すると賄賂を受け取った政治家にとっては、「嘘をつくかつかないか」、ということはあまり大事ではなくなる。問題は「いかにそのことに触れず、他人に触れさせないか」ということであり、それに必要な手段を取るだけである。
ところでこの政治家の頭には、もう一つのきわめて注目すべきことが起きる。この政治家のおかれた状況にある人の場合は、良心がどこかに行ってしまうということだ。あるいは少し変質してしまう。
 もちろん「嘘をつく」ということは人としてしてはならないことである。ところが私たちは日常生活を送る上で平気でうそをつく。ちょっとした数字のごまかし、話の誇張、あるいは他人を傷つけないための嘘 (英語で “white lie” という表現がある)などは、それをつくことに良心の呵責はない。それと同様にそれを認めることが自分に不快であればあるほど、嘘をつくことは身に迫る危険を回避することであり、正当化される。(同様のことは、快についてもいえる。強烈な快を及ぼす事柄は、自分にとってはおそらく無条件に正当化されるものである。そしてそのような場合は、通常の倫理観を超越することになるのだ。)

そう、自分のメンツを守るための嘘は、おそらくそれほど非人道的ではない。少なくとも当人にとっては「悪気」はないのである。後の<報酬系と倫理観>の章で詳述しよう。

2016年4月23日土曜日

フロー体験 ⑧

結論:フロー体験と報酬系
 最後にまとめておこう。チク先生が一人で打ち立てたフロー体験という概念。彼はこれを人間存在にとって特別な体験、ある種の至高の体験として取り上げ、そこで起きていることの心理的な側面を描いた。チク先生の頭には、それが一つの純化された体験という考えがあったと思う。確かにそれはある一定の性質を持った特別な体験という風に考えることもできる。
 報酬系から見た場合には、フロー体験は確かに報酬系と関与している。基本的にフロー体験は心地よい。しかしかといってそれは強烈な快楽ではなく、したがってそれに嗜癖が生まれるほどではない。コカインで言ったら、コカの葉を噛んで、少しいい気持になっている程度かも知れない。決して純度100パーセントを鼻から啜ったヤクチュウの体験ではない。
 フロー体験が報酬系の軽度の満足、という体験だけで終わらないとしたら、その特殊性であり、高揚感であり、満足感である。非日常性という点からは、新奇さが際立っていると考えてもいい。自分がピアノを弾いていてフローに入ると、自分の体から離れ、自分を見下ろしている。その不思議さはその最中も実感されるし、それに充足感が伴う。再びあの状態に戻ってみたいと思うだろう。それがある種のスキルの維持や努力、訓練といったものと結びついているし、それはもちろん独自の努力や苦痛をも伴う。そう、フローはある意味では快感と労作の微妙なバランス上にあるのだ。臨界状況、といった感じか。
 快感と苦痛のバランスということであれば、読者は嗜癖に伴う同様の状態を思い出すかもしれない。パチンコ中毒の人は、打っていても苦痛だという。ただそれがどこかで心地よいからこそ通い続け、大金を注ぎ込むのだろう。これもある意味では快と苦痛のバランスなのだ。でも体験の質としてはフローとパチンコでは雲泥の差だ。前者は人間が到達する、ある高いレベルでの体験。後者は退廃そのものだ。前者はある種の自己実現であり、その追及にはあくなき鍛錬や自分との挑戦が必要だが、後者はそれに支配され、自己実現とは逆の体験であり、努力や鍛錬の放棄である。前者は求められ、後者は流される。前者は生きがいを覚えさせ、後者はおそらく精神的な死に最も近く、緩徐で受身的な自殺行為と一緒だ。
 両者の決め手の一つは自律性であり、自己コントロールかもしれない。フローにおいては、大脳生理学的な検査が示す通り、前頭葉の活発な関与がある。フローは流される体験ではなく、泳ぐ体験である。たとえそこに自動感が伴うとしても、それは同時に自らの行動を完全に支配する行為でもあるからだ。フローとしてタスクとスキルが均衡している状態であることを思い出そう。それとは逆に、嗜癖においては、自己は嗜癖薬物や嗜癖行為の持つ特性に完全に支配され、ある意味では身動きが取れなくなっている。自分の報酬系に完全に支配され、なすすべもなく押し流される嗜癖の体験。この両者はある意味では対極的にあると考えてもいいかもしれないのだ。

フロー体験 ⑦

昨日からフロー体験の脳における基盤について書いている。

 日本にも研究があったぞ。(Yoshida K, Sawamura D, Inagaki Y, Ogawa K, Ikoma K, Sakai S.2014Brain activity during the flow experience: a funtional near-infrared spectroscopy study. Neurosci Lett. 2014 Jun 24;573:30-4.)にほんの研究者もすごいじゃん。それによると、フローはかなりの部分が前頭前野の働きを反映したものだという。たとえば注意とか、情動とか、報酬の処理reward processingだとか。しかしフロー体験の際の前頭前野を研究したものがないという。そこでこの研究では光トポグラフィを使うことにしたという。日本のお家芸、光トポ。そこで28人の大学生に、ゲームをしてもらい、フロー体験と退屈な体験をしてもらった。昨日の、「フロー体験=簡単すぎず、大変過ぎないタスクの遂行時の体験」という議論に従うわけだ。すると・・・・ その結果フローの際は、左右の腹側外側前頭前野の活動が増すが、退屈なタスクでは減少した。それとなんと言っても左右のDLPFCの活動の増加。ともかくも前頭前野の活動が増す、という仮説は実証された。フロー体験では、「脳の社長さん」としての前頭前野は活発になっているのである。一応後からチェックする際のために、原文も書いておこう。(oxy-Hb concentration was significantly increased in the right and left ventrolateral prefrontal cortex. Oxy-Hb concentration tended to decrease in the boredom condition. There was a significant increase in oxy-Hb concentration in the right and left dorsolateral prefrontal cortex, right and left frontal pole areas, and left ventrolateral PFC

2016年4月22日金曜日

フロー体験 ⑥

フローの体験のとき脳で起きていること

では脳の中では何が起きているのだろうか?これに関してはいくつかの研究があるようだ。研究のデザインとしては、被検者に人工的にフロー体験を創り出し、そのときの様子をMRIで探るという手法である。フロー体験とはそんなに簡単に出来るのか、ということになるが、チク先生の、フロー体験はスキルとチャレンジのバランスだ、という定義の仕方を思い出そう。このおかげで、被検者に何らかのタスクをしてもらい、それが簡単すぎる場合と難しい過ぎる場合、そしてその難易度を自分で調整できて好きなレベルでやれる場合という3つの状況を作り出し、三番目がよりフローに近いものと見なすという手法がとられている。

Ulricha, M., Kellerb, J., Hoenigc, K. et al. (2014) Neural correlates of experimentally induced flow experiences. NeuroImage, 86: 194–202. という論文をもとに解説しよう。彼らは27名の被検者に退屈に感じるようなもの boredom、きついものoverload, そしてフローを新たすようなちょうどいい難しさの計算のタスクを与えた。その結果、フローの際は、左下前頭回(IFG)と左被殻の活動が増した。同時に内側前頭前皮質(MPFC)と扁桃核の活動が低下した。ここで被殻の活動の増加は、結果予測のコーディングの上昇coding of increased outcome probability、左前頭回の活動の増加は、認知的なコントロールの深い感覚deeper sense of cognitive control内側前頭前皮質(MPFC)の低下は、自己言及的な情報処理 decreased self-referential processing、扁桃核の活動が低下は、ネガティブな体験の低下 decreased negative arousal を表す・・・と言われてもねえ。まあ何となくわかるのは、扁桃核の活動低下。フロー体験が恐怖や不安とは縁遠い体験であることを示している、ということだ。


 

2016年4月21日木曜日

フロー体験 ⑤

フローと快楽、幸福
チク先生の説には、脳の話がよく出てくる。どの程度根拠を持った説かは疑わしいが、興味深いことも確かだ。彼はフロー体験中は、使用することの出来るインプットのほとんどすべてが、ひとつの活動に向けられる。これが時間の感覚が変わり、不快が気付かれず、否定的な思考が入ってこない理由であるという。脳はひとつのことに集中することにあまりに忙しいので、他の事を処理できない。そしてこの状態は明らかに、マインドフルネスや瞑想、ヨガにおけるある状態と類似する。特にヨガとの関連については、それは「徹底的に計画されたフロー体験の例である」(Csikszentmihalyi, 1990, p.105)という。つまりそれは心地よい、自分を忘れるような没入であり、それ自身は身体を鍛錬することで得られるという(ibid , p.105)。ヨガが奇妙なポーズ(失礼!)を作り、一日何時間もある心の状態を達成しようとするのは、そこで自己の解放、ないしは「存在 being、意識 consciousness、悦び bliss」の統合であるという。しかし、とチク先生は強調する。それはヨガによってのみ達成されるわけではない。(ここがポイントだ。) 
  チク先生はフローの概念は、道教との考えとも異なるという。道教には、人間が自然と一体となることを最終的な目標とするところがある。ところがフローにおいては、人は意識によるコントロールをひとつの達成目標とする。人間はその存在自体はカオスであるという。すなわちそれは様々な欲望に支配され、無秩序で、それ自身のコントロールによる快楽を味わうことが出来ない。その意味ではフローにおいては、フロイトの意識が、イド(エス)を統率する際に生じるものであるというニュアンスがあり、実際にフロイトの概念を用いての説明もその著書で行われている。
  さてこの部分が一番大切かもしれない。チク先生の仕事は幸福 happiness と快楽 pleasure との違いを考えさせる。快楽はどちらかといえば受身的な体験であり、テレビを見たり、マッサージを受けたり、薬物をやったり、という体験だ。(チク先生の本には、テレビを見ることへの戒めがよく出てくる。)それに比べてフロー体験による快楽は、ある種の焦点化された活動によってのみ達成される。つまり能動的なのだ。そして幸福とは単なる快楽ではなく、そこにある種の時には痛みを伴った挑戦がなくてはならないとする。マーチン・セリグマンはチク先生のフローの概念をと通じて、幸福と快楽の区別を行っている(Seligman, 2002, p. 119)。彼によれば、幸福とは快楽とフローのバランスにより成立しているという。快楽は受身的で刹那的だ。たとえばケーキをひとつ食べるのは快楽だが、5つ同じケーキを食べさせられるとしたら多すぎて苦痛だろう。それは食べる側が受身的であり、その快楽をコントロールできない場合に生じる。快楽とフローとのバランスとは、その快楽とチャレンジを統率する自我のコントロールの能力を前提とし、それ自体は能動的な行動であり、をれを人生に生かすことに幸福があるというわけである。

2016年4月20日水曜日

酒に酔って人を殴った人に責任能力はあるのだろうか?

突然この問題について書きたくなった。理由は一切ない。
新聞にもよく出てくるだろう。電車で痴漢をしたり、公園で全裸になったり、街中で露出をしたり、タクシーの運転手を殴ったりする事件。起こした主はいい歳をした会社の役員や教員や警察官だったりする。社会的な分別を十分に備え、それなりに地位もあり、大切に守るべき家族もある。これまで特に犯罪歴もなく、仕事の同僚や上司からもそれなりに信頼を築いている。その人が朝気が付いたら留置所にいるのである。最初は夢でも見ているのではないかと思う。わが身を見るとスーツ姿の通勤スタイルだ。昨日のことを一生懸命思い出すが、久しぶりに上司の悪口を言いながら同僚と飲んでいたことしか思い出せない。それからの自分がおそらく酔って一人で帰宅する途中で何かに巻き込まれたのだろう。いや何かをしでかしたのか。やがて留置所の係官から細切れの情報が伝えられる。「お前は昨日の自分の行動を覚えていないのか?昨日帰宅途中にタクシーに乗り、降りた際に金を払おうとせず、運転手に暴力を・・・。」やがて普段の自分なら到底考えられないような行状を語られる。悪い夢でも見ているようだ。これが会社に知られて、家族にも知られ、何もかもおしまいになってしまう。これからどうして生きていけばいいのか・・・・。以上のような体験は実は他人ごとではない。誰にでも起きうることだ。
 ここで考えてみよう。運転手を殴ったあなたは、あなた自身なのだろうか?恐らくそうは言えないだろう。酔った時のあなたは、おそらく通常のあなたではない。アルコールという物質の影響を受け、普段の理性など微塵も残っておらず、支払いを要求する運転手に突然腹を立てて暴力を振るってしまった。普段の自分なら絶対やらないことである。果たして私はその行為に責任を取るべきであろうか?
 一つの考え方は、その行為は「酒のせい」で起きたことであり、本人が関係ないところで起きたのだから、責任能力はない、というものだろう。しかしこのような場合に本人が無罪放免という話は聞いたことがない。なぜだろう?
ここで得意のウィキ参照である。
心神喪失および心神耗弱の例と問題:心神喪失および心神耗弱の例としては、精神障害知的障害発達障害などの病的疾患、覚せい剤の使用によるもの、飲酒による酩酊などが挙げられる。ここにいう心神喪失・心神耗弱は、医学上および心理学上の判断を元に、最終的には「そのものを罰するだけの責任を認め得るか」という裁判官による規範的評価によって判断される。特に覚せい剤の使用に伴う犯罪などに関してはこの点が問題となることが多いが・・・」 とここまで読むと、酒で酔っ払っても、覚せい剤を使用しても、やはりそれによる犯罪は無罪放免ということになる。しかしここには続きがある。「判例ではアルコールの大量摂取や薬物(麻薬、覚せい剤など)などで故意に心神喪失・心神耗弱に陥った場合、刑法第39条第1項・第2項は適用されないとしている。
やっぱりね。つまりポイントはここだ。酒や覚せい剤は、それを自分から(故意に)用いたのであれば、責任は取るべきである。だって酒に酔うと自制心が無くなることを知りながら、自分から進んで飲んだということは、やはり責任をまぬがれないだろう、という理屈である。
ちなみにこの飲酒と責任能力の問題は、当然ながら犯罪学上、刑法上の長い議論を経ているという。そこで上のような議論が出てきたわけだが、それは「原因において自由の理論」と呼ばれるという。つまり犯罪の原因を作った時点では、自由を行使し、それを主体的に選択したでしょ、だからあなたの責任ですよ、ということだ。いずれにせよ、この原因において自由の理論は、犯罪行為時に心身喪失や心神耗弱だったからといって、処罰は免れないという解釈だという。
ではこう質問しよう。自分が飲酒して歯止めが効かないような行動に出たことはなく、したがってそれを防ごうという意図もなかった。もちろん飲酒をしたときに運転をすることは極めて危険だから、それは注意しているし、実際飲酒運転はしたことがなかった。しかし「自分は運転手に対して暴力をふるうことが分かっているから、酒を飲まないようにしよう」というような注意を払う必然性はなかった・・・・。恐らくそのような場合は、自分が飲酒でそのような行為を起こすことをその当時は予見できなかったことを考慮して、事件当時は責任能力が制限されていることを認め、刑は軽くするべきであろう、本来は。しかし実際にはそうならない。なぜだろうか?難しい問題だ。私はその本当の理由は次に述べるものに尽きるだろうと考える。
このような理屈を逆手に取り、皆が酒を飲んで犯罪行為に及んだとしたら、歯止めが効かなくなるではないか?

そしてもう一つ重要なポイントがある。それは飲酒が報酬系を刺激し、その人に快感を与えることだ。それ故に快楽を求める人が、その上に罪を逃れるとは何事だ!ということになる。人は快楽を追い求める他者に対してきわめて非寛容なのである。
ということで、最後に報酬系が出てきた。

2016年4月19日火曜日

フロー体験 ④

  チク先生のフロー体験の論述は、結局人間の幸福とは何かという点に向けられていると考えられる。「人間の最善の瞬間は、受身的で受容的なリラックスする時間というわけではない」と彼は言う。「最善の瞬間とは、困難で価値あることを達成しようという努力の中で、その人の心と体が限界まで拡張されることである。」 これがフロー体験のことを言っているのは、昨日示した図からも明らかであろう。その際に人は最高の満足体験を得ることになる。チク先生はそれが特に創造性を発揮する瞬間であることを強調する。
チク先生の生い立ちについても触れよう。彼はハンガリーに1934年に生まれ、第二次世界大戦の影響にさらされている。幼少時に彼はイタリアの監獄に入れられたが、そこでフローの体験につながる体験を持ったという。それはチェスを行うときの没頭体験であり、まるで違う世界で、違う時間の流れを味わうという体験だった。スイスに旅行中に、チク先生はかのCJユングの講演を聞き、心理学の面白さに目覚めたという。そしてそれをさらに深めるために米国に渡った。そして彼自身が画家であることもあり、芸術や創造的な活動を研究するようになった。そこでフロー体験に出会ったという。
チク先生の業績で有名なのが、サンプリング研究、ないしはビーパー研究と呼ばれるものであり、それは幸福を計測可能なものとして捉えたことで有名であるという。十代の少年少女にビーパーを与え、それが不定期になった時の体験を書いてもらう。すると大体において彼らは不幸を感じていたが、そのエネルギーを何かに注いでいるときは、そうではないということを発見したという。そしてそれがいわゆるポジティブ心理学に発展していったという。
彼のもっとも有名な著書 
M. チクセントミハイ:フロー体験 喜びの現象学 世界思想社、1996.)
における主張は、幸せは決して固定されたものではないということだ。それは私たちがフローを達成するプロセスで発達するものであるという。
さらにそのような道を歩む人を彼は、autotelic personality オートテリック(自己目的的)な人の特徴が挙げられている。それによると、

明確で直截的なフィードバックが得られるようなゴールを目指すこと。setting goals that have clear and immediate feedback 特定の活動に没頭すること。Becoming immersed in the particular activity 今起きていることに注意を払うこと。Paying attention to what is happening in the moment 直接的な体験を楽しめるようになること。 Learning to enjoy immediate experience 目の前の課題に対する自分のスキルに応じた課題を追及すること Proportioning one’s skills to the challenge at hand であるそうだ。

2016年4月18日月曜日

フロー体験 ③

もう一つ別の例。たとえば高層が禅を組んでいる途中に、一種のフロー体験を持つ時って、このスキルとチャレンジの相関図には当てはまらないのではないか?そう、おそらくこの図は正確ではないのだ。チク先生(短くなったな)の一つの思いつきか?
皆さんはお分かりだろう。決め手は報酬系、快感なのだ。そして同時に伴う解離。G線上のアリアって、すごくいい曲だが、動きは遅い。でもそれを情感を込めて弾いている時は、そこに報酬系の興奮が伴い、その行為自体が自動的になった状態がフロー体験になりうる。おそらくこの図に技巧を書きいれたのは、フロー体験を一種の究極の体験として描きたいチク先生の意図が働いているのではないか?個人的には最大の技巧と最大のチャレンジの均衡にあるのは、一種の緊張を伴った状態だろうと思う。間違えないように必死な部分があるはずだからだ。技巧がチャレンジを十分上回った状態でしか、快は生まれないと思う。やはりフロー体験の正体は「報酬系の興奮+解離」なのだ。
 他の例で考えよう。TEDトークでチク先生が説明するのが、作曲家の体験。彼はそれが一種のエクスタシーに近付くと、作曲家自身は何も考えなくなる、という。曲が勝手に降ってくる、あるいは降りてくる。
あるいはチク先生はこんな例も出す。(彼のTEDのプレゼンでは、この種の「証言」が多い。
あるフィギュアスケート選手の例。「それが起きたのは、それらのプログラムの一つでした。すべてが上手く行き、とてもいい気持でした。 それは一種のコーフンrush であり、いつまでも続けていける、あまりに上手く行きすぎて止めたくないという感じ。まるで考える必要がなく、すべてが自動的で、思考せずに行われる感じ。まるで自動操舵のようで、何も考えていない。音楽を聴いていても、聞いているということが意識されず、なぜならその音楽の一部になっているからだ・・・・。(How To Enter The Flow State というサイトから。岡野訳。)
この例も先ほどの「報酬系の興奮+解離」を証明している。このスケーターの例は、一種のエクスタシーと言ってもいいだろうが、エクスタシーの語源はご存じのとおり。「エクスタシーの語源はギリシア語έκστασιςekstasis、エクスタシス、外に立つこと)で、がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められている。」(ウィキ、デジタル大辞林)これ自体が解離だからね。


2016年4月17日日曜日

フロー体験 ②


フロー体験の特徴は、ある種の解離体験が報酬系の興奮を伴い、それが宗教的な洞察に結びついたり、創造的な活動となると同時に、そこに至福や興奮といった情動が伴うことであろう。幽体離脱や没頭体験が苦痛や痛みを伴うという話を私たちは聞かない。通常はそれらの苦痛の状態でそれらの解離状態が生じ、当人は身体感覚や不快な情動から開放される形をとる。すなわち報酬系とかいり状態とは連動して生じる傾向にあると考えるべきであろう。両者をつかさどる神経ネットワークは連結しているわけだ。
うーん、こんな説明でも分かってもらえないかな。私としては「ピーク体験」という方がピンと来る。人の脳と心が最も効率的に活動し、もっとも幸福を感じ、最も創造的で、最も高次の活動。そのようなものが存在して、私たちはそれを達成できるようになることを目指したいという発想である。それは分かるのだが、それほど単純なものだろうか? チクセントミハイ先生(相変わらず長いな)のフロー体験の説明も、スキル(技巧)とチャレンジという二軸のうち、両方が高いエリアとして分類されている。つまり人間が与えられた最大級の課題に対して、最大級のスキルでそれを遂行しているというニュアンスだ。しかもそれを行っている時の注意はピンポイントで課題に向かい、いわば課題そのものと一体化し、しかも意識はそれを外から見ているという状態。そう説明されている。



例を考えよう。バイオリニストが演奏をする。たとえばチゴイネルワイゼンのすごーく速い部分を弾いている時は、このスキルが最大、チャレンジも最大ということになる。ゆっくりとした部分はチャレンジが小さく、スキルは大きい、つまり、えーっとリラクセーション、relaxation 弛緩した状態ということになる。バイオリニストがあまりスキルがないと、boredom 退屈、ということか。なんか少し変だな。この図って、あまり正確じゃないのではないか?フロー体験は、例えばバイオリニストが、カデンツァの部分をものすごい勢いで引いている時に体験され、たとえばG線上のアリアのように、プロなら間違えようのない曲を弾いている時は、体験されない?そんなもんだろうか?ゆったりしていても、素晴らしい曲はいくらでもある。それを弾いている時にピーク体験があってもいいのではないか。

2016年4月16日土曜日

フロー体験 ①

フロー体験の快楽
しばらく前に、一世を風靡した学者がいる。ハンガリー人でMihaly Csikszentmihalyi という学者だが、とても我々には読めない。日本語で、「ミハイ・チクセントミハイ」と書かれて初めて、人の名前らしく感じる。会ってみると恰幅のいい普通のおじさんである。(イヤ、私は直接会っていない。ユーチューブで彼のプレゼンの動画を見て、そんな印象だっただけである。)
チクセントミハイ先生(長いな)はいわゆる「フロー体験」について画期的な仕事をした。彼は芸術家やスポーツ選手がその活動のピークとも言える瞬間に体験する不思議な現象をフロー体験と名付けた。もう一人の自分が勝手にその活動をしているのを見るような体験。もうちょっと正確には
フロー (Flow) とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。← やった!ウィキペディア丸写し!(どや顔)。
 ちなみに、これってまるで報酬系のことだと私は思うんだけれど。というか報酬系と解離だね。脳科学的には複合的なプロセスとして理解できるが、それを「フロー体験」と言ってしまった方が、アピール力がある、という例だろうか。


嘘 ⑥


今、ここまで書いてきたことを読み直してみた。うーん。なんとなくバラバラだなあ。毎日思いつきで書いているからしょうがないか。でも何とかまとめなくてはならない。英語で言えば、tie the loose ends. 話の帳尻を合わせる? 結局こんなことを書きたかった。OBさんを見て感じるのは、嘘をついているときは、その世界に浸って、夢を見ているような感じ。ファンタジーの世界だ。他方ではそれが現実でないことを知っている。だから記者会見では笑顔が消えている。もし彼女が妄想を抱いているとしたら、その世界の構築のために様々な虚構が重なり、しかもそこにとっぴな面が垣間見られるために、話を聞いているだけで記者会見場がざわつくはずである。たとえば目の前の記者を指差して、「ほら、あなたは今私に悪意の電波を送っているでしょう・・・・」などとなり、そこで記者会見は終わってしまっただろう。
しかしそうではなかった。ファンタジーを、ごくわずかな嘘を維持することでそのまま残そうと必至になっていたのだ。すなわちファンタジーの世界が維持できるために必要な事実の歪曲について、それをどのように維持するか、どのような嘘を重ねるかを熟知し、計算していたことになる。それだけ彼女は「正気」だったのである。
どうして、それとホーシューケーが関係しているかって?そうだろう。読者としては当然聞いてくるだろう。でも私はやはりここにそれが関係していると思うからこの著書(ナンの事だ?)の一生に入れようとしている。それは嘘が快感な場合は、人の理性を捻じ曲げるからだ。というより理性とは、感情、もっと言うと快感に従った行動に理由付けをするようなものなのである。(もちろんその理由付けのロジックそのものに従うことが快感になる場合もあるから、要注意。ある種の信念、信心、理論、教義など。) そしてその嘘を維持するために必要なのがスプリッティングという心の仕組みである。それに浸っているときに、現実を横においておくことが出来る仕組み。もちろんすべての私たちがその能力を与えられているわけではない。でも結構普通の人でも生じているのを見かける。このことに対してはなぜか意見を曲げない、明らかにおかしいとわかっているはずのファッションにこだわる、など。
さて嘘が維持されるためには、それがとてつもない、アリエないものであっては困る。現実に突き当たって、あるいは罪悪感にさいなまれて、できないからだ。それではスプリッティングが維持できなくなる。しかしそこにもうひとつの狡知がある。それがアリエティが述べている、「希望的盲目willful blindness」というやつだ。これは昨日縷々説明した問題だ。そして私が至った結論。自分の虚偽や悪事による影響との心的距離が増し、それを体感しにくくなればなるほど、抵抗や罪悪感が減少する。 あとはその虚偽や悪事は快楽的になり、その人により維持されるのだ。
なんだ、結構まとまっているではないか。でも最後の部分を補足したくなった。たとえば彼女がこう言っているということは紹介した。

図表加工が改竄を疑われるとは「思いもしなかった」
私は学生時代に、バンドの濃さで示される量ではなく、バンドの有無を論文の図表で示す場合には、曖昧ではなく明確に示すべきだと指導を受けたことがあり、あるか、ないか、を見やすく加工することが改竄を疑われる行為だとは思いもしなかった。 

なんかそら恐ろしいロジックである。彼女の説明には、実は同じようなにおいがする。私なりに「翻訳」してみる。
「(スタップ細胞が存在するという前提に立つと)後はそれをどうやって信じてもらえるか、である。ならわかりやすい手法がいいではないか。その場合には借りてきた写真でもいい。だってUFOが存在するという真実を皆にわかってもらうためには、夜空にぼんやりと写ったUFOの写真よりも、たとえば灰皿を空中に投げてそれを写した写真を提示した方が、形がハッキリしていてわかりやすいではないか。UFOが存在するのが真実なのだから、そのような小細工は本質に影響はないし、当然許されるはずだ。」

これも「虚偽や悪事による影響との心的距離が増し、体感しにくくなる」例に当てはまるが、それは図表を改ざんした論文を同僚や上司に見せたときの反応がそれに相当する。「あるある、みんなやってんだから・・・」と彼女は想像したに違いない。というか「そのような指導を受けてきた」、と主張することはそれを意味している。とするとこの世界には常識なのかもしれない。それにしても「思いもしなかった」とは・・・・。

2016年4月15日金曜日

嘘 ⑤


昨日掲載した、過去のブログの内容を読み返してみたが、8か月前に書いたことで、一応言いたいことは尽きている気がする。つまり私たちの心には常に、若干の嘘、虚偽なら目をつぶって許す能力がある。それは大きな良心の呵責を感じることなくできるのだ。釣りに行き、今日は魚を4匹しか釣っていないのに、成果を聞かれて「56匹かな」というのは普通のことなのだ。それが他愛のない、場合には周囲の人のためになるような嘘なら、それをつくことが許されるし、なんといっても心地よさを提供してくれる。
はるか昔のことだが、家族に輸血が必要な非常事態が生じたことがある。血液型の適合したカミさんが、病院で、「ぜひ自分の血を取ってほしい」と申し出た。アメリカは体重が一定以下だと輸血用の採血をしてくれないという法律がある。貧血でも起こされたら困るのだろう。そこでカミさんは輸血係のナースに体重を尋ねられた。彼女はそんなことなど知らず、正直に答えた。「118ポンドです」するとそのナースは、「困りますね、ちょっと足りませんね。」と言った。大切な家族の手術のためにどうしても輸血をしてあげたいというカミさんの心を知っていたナースはこういったのだ。「輸血をするには120ポンド以上の体重が必要です。いいですか、もう一度聞きますよ。あなたの体重は何ポンドですか?」カミさんは答えた。「はい!120ポンドちょうどです!」「よろしい、では採血の準備に入ります」。神さんは幸い倒れることがなかった。手術も無事終わり、みな満足したのである。
おそらく世の中はこんな風に回っている。もちろん体重100ポンドを切る女性が120ポンドと虚偽の体重を報告するのは問題だろう。あるいは120ポンドないと合格できないような大事な試験に、本当は118ポンドの人が、ひとりだけ体重を上乗せして目こぼしをしてもらうのもイケないことだ。でもちょっと位の脚色は大抵の場合許されるだろう。
少し話は飛ぶが、ここでも紹介した(かな?たぶん、そんな気がする)デーヴ・グロスマンの戦争における 『人殺しの心理学 (ちくま学芸文庫2004年)で、著者がこんな例を挙げている。人は同じ殺すという行為でも、目の前でそれを行うことには極めて大きな抵抗が生じる。ところが距離が大きくなるにつれて、極めて大胆になっていく。たとえば至近距離では、相手を銃剣で刺すということさえ極めて恐ろしく感じ、抵抗を覚える兵士がほとんどだが、遠方からの狙撃となると抵抗が一気に小さくなる。夜間に赤外線の照準を使ってサイレンサーつきで撃つ場合には、倒れる相手は暗闇で見えにくいため、はるかに容易になり、さらに上空から爆弾を落とすとなると、それにより何十、何百という人命を奪うにもかかわらず、ますます抵抗が少なくなる。相手がほとんど見えないからだ。 これらの問題に共通していることがある。

自分の虚偽や悪事による影響との心的距離が増し、それを体感しにくくなればなるほど、抵抗や罪悪感が減少し、その虚偽や悪事は快楽的になる。つまり虚偽や悪事は何らかの利得のためにするのであろうが、罪悪感にさいなまれることなく、純粋にそれによる快感のみに浸ることが出来るのだ。

2016年4月14日木曜日

嘘 ④


仮置きという名の快楽   ← ナンでも「快楽」を付ければいいと思っているようなタイトル

ところでOB方さん事件をきっかけに注目を浴びるようになったのが、OB方さん事件の後、なぜ研究の捏造が行われるのかについて興味を持っていた。私は最初、犯罪者でもない人たちが、ありもしないデータをでっち上げて論文を作ることができるのかがわからなかった。論文を書く人たちは高い知能だけでなく、当然世間の常識や通常の倫理観は備えているだろう。どうしてそのような人たちが窃盗や万引きまがいの犯罪を犯すのだろうか?
しかし考えてみれば、高知能、社会的な適応を遂げたはずの人たちの多くが脱税や贈収賄などの罪を犯すことは周知のとおりである。ということは犯罪行為は一般の人でも容易に犯しうるということなのだろうか?私たちはそれほど反社会性を備えた存在なのだろうか?
しかしこの問題を考えていくうちに、いくつか納得のいく説明を得ることができた。そしてこれもまた報酬系の問題なのである。そし手その決め手となったのが、データの「仮置き」という問題だった・・・・。と書いてきて、このこと確かすでに書いていると思った。調べてみると、去年の821日、自己愛な人の推敲10/50というエントリーである。
アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる―嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』Simple Model of Rational Crime, SMORCを批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在していた。
しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くしても変わらず(というか、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に自分は6尾釣った(ということは二尾は逃がした、人にあげた、という言い訳をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。
 ここでこれまで検討した正真正銘のサイコパス型ナルシシストとこの議論を照らし合わせてみる。たとえば木嶋佳苗の心にあった矛盾は、「自分は男性を救済した」と「自分は男性を殺害した」という矛盾であったはずだ。彼女はこの途方もない矛盾を抱えることが出来たという意味では、やはりきわめて病的な心を持っていたということになる。
 しかしプチ・サイコパスたちはどうだろうか?米国でエンロンが2002年に破綻した時、一連の粉飾会計操作が行われている間、そのコンサルタントをしていた人たちは、不正が「見えていて」「見えていなかった」という。これを彼らは「希望的盲目willful blindness」と呼んだらしいが、その性質は本質的には「4尾」と「6尾」の矛盾と変わりない。しかしその矛盾の度合いが、ずっとサイコパスのレベルに近かったということだ。
 このように私たちの中にはマイクロ(私たちの大部分)から正真正銘(日本に100人?)まで様々なレベルのサイコパスたちがいて、自分たちの自己愛的なイメージと、それと矛盾するような現実との間に折り合いをつけて生きているのだ。そして繰り返すが、彼らに共通しているのは、「自分はイケてる」という、時には全く根拠のない思考なのである。
アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換えよう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人は強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。
私はこれを人間の持って生まれた悪による行為と考えるよりは、心が必要とする「アソビ」(機械の遊びlooseness, allowanceに相当)であると理解する。私も「先生の発表には、何人くらいの人が聞きに来ましたか?」と言われたら、ざっと30人くらいかと思ったら、少し盛って「うーん、40人はいなかったかな?」などととっさに言っても特に後ろめたさを感じないだろう。人は自分自身に対して楽観的である、と言い直してもいいし、ほんの少しでも見栄えを良くしたい傾向がある、と考えてもいい。人前に出るとき、ネクタイを直したり、スーツの襟を直したりするのとあまり変わらないような気もする。それくらいのいい加減さでいいのだ。
最後に脱線の話をしてこの項を終わりたい。小保方さんの「スタップ細胞」をめぐる一連の事件、それから東大や京大の医学部で生じている論文の不正に関する問題を目にしながら、私は今、恐ろしい可能性について考えている。科学論文って、案外不正の巣窟なのではないか?データの改ざんは、私が想像していたよりはるかに頻繁に行われているのではないか?私はデータを取り扱う論文を書いたことがほとんどないので、量的研究論文を量産する人たちへのある種の畏れ多さを持つ。しかし「スタップ細胞」の論文がnature 誌にまで載ってしまうことを考えると、科学論文は、その気になれば、いくらでもデータの改ざんが出来るのではないかと疑ってしまう。なぜならば、データの信憑性を最終的にチェックする方法がないからだ。たとえ公正を期するために、「科学論文には、ローデータとして実験ノートの提出が必要である」という決まりを作ったとしても、そこに数字を書き込むのは当事者なのである。すべての実験過程で特定の第三者が目を光らせるなど、ありえない話だ。
この問題を調べているうちに出会ったのが、「データの仮置き」という言葉である。ある論文を書くとき、仮説に従った、出るべきデータを、仮にそこに置いた論文を作成する、ということがあるらしい。それをデータの仮置きというそうだ。東大の論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまったという。あってはならないことだが、これが巧みに私たちの心に侵入してきて、上の心の「アソビ」レベルで扱われたらどうだろう?マイクロサイコパスレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?
 そのようなことが起きるからこそ、人はあれほど論文をねつ造し、データを改ざんするのではないか?最初の頃はあくまでも「仮に」置かれていたデータが、論文の提出期限が迫っても、なかなか実験データが上がってこないため、他の部分もその仮置きデータに沿って書き足されていく。あとは最後の最後にそこに正しいデータを入れ替えればいい、という段になって、例えば仮に置かれていたデータ「8.1」の代わりに「8.5」が実際のデータとして上がってくる。それだと論文を書き直さなくてはならない。その時実験結果を報告してきた院生に教授が尋ねる。「もう一度聞こう。君は目がかすんで、スクリーンの数字を、実際は8.1なのを8.5と読み違いをしてはいないか?え? 僕の言っている意味がわかるかい?」 そのような状況に立った院生の何人かに一人が、「ハイ、教授。正しくは8.1でした」と答える・・・・。そういう問題なのかもしれない。
あるいはインサイダー取引など、かなり怪しいのではないか?株の取引などしたことがないので純粋に想像だが、例えば知り合いの会社社長が電話をしてくる。「君にはいろいろお世話になったね。だから君には少しばかりお礼をしたくてね。わが社のある製品が、今度特許を取得して・・・・。おっと余計な話は禁物だな。じゃ元気でな。」
あれほど厳しく罰せられるインサイダー取引。でもこの種の会話をする人たちは正真正銘のサイコパスでなければならないのか?よくわからない話でこの章を終える。