2022年6月30日木曜日

パーソナリティ障害 概論 3

 書き写すだけで一回分!

 境界パーソナリティ障害の治療として有効性が確かめられているのは、ギャバードさんの本によると7つあるという。ここはそのまま写したくなってしまう。それらはメンタライゼーションに基づく治療 mentalization-based therapy (MBT, Bateman and Fonagy, 2009),転移焦点づけ療法 transference-focused therapy (TFP, Clarkin et al. 2007),弁証法的行動療法 dialectical behavior therapy (DBT, Linehan 2006),スキーマ焦点づけ療法 schema-focused therapy (Giesen-Bloo et al. 2006),情緒予見性と問題解決のためのシステムトレーニング Systems Training for Emotional Predictability and Problem Solving (STEPPS, Blum et al. 2008),一般精神科マネジ メント general psychiatric management (GPM, McMain et al. 2012), 力動的脱構築精神療法 dynamic deconstructive psychotherapy (DDP, Gregory et al. 2010)が含まれる。

Bateman A, Fonagy P (2009) Randomized controlled trial of outpatient mentalization-based treatment versus structured clinical management for borderline personality disorder. Am J Psychiatry166:1355-1364.
Clarkin, JF, Levy KN, Lenzenweger MF et al (2007) Evaluating three treatments with borderline personality disorder: a preliminary mu1ti-wave study of behavioral change. Am J Psychiatry 164:922-92.
Giesen-Bloo J, van Dyck R, Spinhoven, P. et al (2006) Outpatient psychotherapy for borderline personality disorder: randomized trial of schema-focused therapy vs. transference-focused therapy. Arch Gen Psychiatry 63:649-658.
Blum N, St.John D, Pfohl B et al (2008)
Systems Training for Emotional Predictability and Problem Solving (STEPPS) for Outpatients With Borderline Personality Disorder: A Randomized Controlled Trial and 1-Year Follow-Up. Am J Psychiatry. 165: 468–478. 
McMain SF, Guimond,T, Streiner, DL., et al. (2012) Dialectical behavior therapy compared with general psychiatric management for borderline personality disorder: clinical outcomes and functioning over a two-year follow-up. Am J Psychiatry 169:650-661.
Gregory RJ, Delucia-Deranja, E, Mogle JA (2010) Dynamic deconstructive psychotherapy versus optimized community care for borderline personality disorder co-occurring with alcohol use disorders: 30 months follow-up. J Nerv Ment Dis 198:292-298.
Linehan MM, Comtois, KA, Murray, AM. et al. (2006) Two-year randomized controlled trial and follow-up of dialectical behavior therapy vs. therapy by experts for suicidal behaviors and borderline personality disorder. Arch Gen Psychiatry 63:757-766.

 

2022年6月29日水曜日

パーソナリティ障害 概論 2

 力動精神医学

Freud は子供の発達段階におけるリビドーの固着とそれぞれに特有の防衛機制について考え、それらが用いられた際のパーソナリティの形成の理解の端緒を作った。Freud は「ヒステリー研究」(1895)の段階で「ヒステリー性格」について述べている。(P202)また肛門性格について論じ、orderliness, parsimony obstinacy頑固さ、吝嗇、極度の清潔好きをその特徴として挙げた。そしてこれを子供が肛門性愛の快感を諦めたことへの反動形成であるとした。(on transformations of instinct as exemplified in anal eroticism p2822)さらには自己愛的な性格を挙げ、超自我を内在化させていないが故の攻撃性や独立心が特徴であるとした。(Moses and monotheism three essays Freud, p. 3775.)

パーソナリティの議論についてはAbraham, Harry Guntrip が記述を行った。以下林先生の引用。「Abraham, K (1953)は,精神性的発達の停止と関連づけられた性格論(口唇性格,肛門性格) を提示したりそこでの口唇性格と肛門性格は,それぞれ極端な依存と攻撃,固屈.几帳面・潔癖が特徴とされ.依存性パーソナリティ症,強迫性パーソナリティ症の由来のひとつとされている)」

それらの議論を引き継いだ Wilhelm Reich は性格分析という概念を提出し、それが個人にとっての防衛となっているという考えを新たにした。彼は schizoid, oral, psychopathic, masochistic, hysterical, compulsive, narcissistic, or rigid などの性格構造について論じた。
Reich, W. (1990) Character Analysis (Chapters I-III), 3rd, enlarged edition, 

Guntrip, Harry (1961) Personality Structure and Human Interaction, London: Hogarth Press, quoted in Boadella, David (1985) Wilhelm Reich: The Evolution of His Work, London: 54.

 

2022年6月28日火曜日

治療者の脆弱性 推敲 2

フロイトと逆転移

この間フロイトは逆転移について4回しか触れていないと書いたが、実際はもっと触れている可能性がある。ともかくもまとめると以下の通りだ。
 1910年、フロイトは初めて逆転移に言及した(精神分析療法の今後の可能性、著作集9巻)。それは基本的には治療にとって妨げになるものであり、どんな分析家も自分のコンプレックスや内的抵抗の許すところを超えて進むことはできないという有名な言葉を残した。
 1912年、「分析医に対する分析治療上の注意」(著作集9巻)で、「治療者は不透明であるべきで、逆転移はその邪魔になる。」と言った。 
1912年(転移の力動性について 著作集9巻)「治療者は自身が教育分析を受けなくてはならない。」と言った。
1937年「終わりある分析と終わりなき分析」の中で、分析家は「5年に一度」教育分析を受けて逆転移を克服すべし、と書いている。そしてフロイトはフェレンチへの手紙で、自分自身の逆転移について触れている。これも興味深い。
Ferenczi にあてた1910年の手紙。
 「(シシリーへの旅行の間)どうしてもっと心を開いてくれなかったのですか?」というフェレンチの手紙に対して、

「それは私の弱さでした。私はあなたが想像しているような精神分析的なスーパーマンではありませんし、自分自身の逆転移を克服してもいません。だからあなたをその様に扱わなかったし、私の3人の息子についても同様です。あなたもお気づきの通り、私はもう自分のパーソナリティを暴露するような必要性を感じません。そしてあなたもお気づきのように、それは私の[フリースとの間の]トラウマに起因しているのです。… 私の同性愛的な備給の一部は撤去されたのです。」

2022年6月27日月曜日

PDの治療論の執筆は進む 

天気図の上では完全に梅雨明けなんだけどなあ。


反社会性PD

 反社会性PDはディメンショナルな診断ではその顕著なものを抽出することが難しい。何しろ典型的なASPDをディメンショナルに描写すると、たとえば「非社会性、脱抑制、離隔などの顕著な特性を有する人」などとなる。これじゃ何を言っているのかわからない。やはりADPDあるいはサイコパスとしてカテゴリカルに表現されないと彼らの治療については論じられないという所がある。

 反社会性PDの治療は、外来精神療法的なアプローチの効果はないと言われてきた。たしかに純粋なサイコパスとみなされる人たちに個人療法は効果がないと言い切れるであろう(Kernberg, 1984, Melpy,1988,1995,Gabbard p535)。他方では反社会的特徴を有する自己愛パーソナリティ障害の場合は救いがあるとされる(G,443
 一般にASPDは外来環境で衝動を発散する行動のはけ口がある限り、自らの感情に触れようとしないからである(Gabbard p437)。しかし幾つかの報告では入院治療に効果があるとされる(Salekin, et al, 2010)。ただしASPDの入院治療においては厳しい治療構造やルールの順守が要求される。患者が治療構造を破壊しようとする傾向やスタッフの抱く強い逆転移感情がしばしば問題となる。そのため一般病棟にASPDの患者を入院させることには極めて強い配慮と治療的な構造が必要とされる。
一般に不安や抑うつの存在は、治療効果が見いだされるサインと言える。逆に器質的な障害、過去の逮捕歴などは治療効果があまり見られないとされる。

Salekin RT, Worley, C, Grimes RD (2010) Treatment of psychopathy; a review and brief introduction to the mental model approach for psychopathy. Behav. Sci Law 28:235-266, 2010.

また意外なことに、ASPDの薬物治療に関しては、効果のあるものは報告されていない。

2022年6月26日日曜日

治療者の脆弱性 推敲 2

   あらゆる心は、それが耐えることのできる限度window of tolerance を有する。限度や範囲を超えた体験に対して私たちはひどく脆弱であるし、また将来にその到来を思わせる予感や暗示的な出来事にも私たちは敏感に反応し、その際は信号としての不安や恐怖を覚えるのである。「不安や恐怖はしなやかだが折れない枝」の維持に欠かせないものなのだ。ちょうど健康な体はそれを侵害しそこなうようなあらゆる外的、内的な変化により痛みを覚えたり免疫反応を起こしたりするのと同じようにである。私はこのことを死の予期の問題と同類のものと考える。死を予期することは必然的に不安や恐怖を伴う。しかしそれを抜きに私たちの人生はありえないのだ。つまり脆弱性は必然なわけである。これは一切不安の伴わない余生を漠然と思い描いていた私にとっては非常に予想外のことであった。年老いるということは、常に一歩一歩機能が落ちて行く肉体に逆らって生きていくことであり、必然的に不安や恐怖や痛みを伴うものなのである。

ただし敏感さや繊細さは必ずしも脆弱性を伴わない場合もあるだろう。例えば映画を見ていて登場人物が表現する感情のかすかな寂しさを感じ取ることは繊細さと関係しているが、それは脆弱性に繋がらない。その映画を観た後、主人公の不幸な人生のことを思い暗い気持ちになることなどないであろう。ところが目の前で対面している相手の寂しさ、悲しさを感じ取るとしたら、それに対して治療者は情緒的に大きく巻き込まれる involve ことにある。そこにはそのクライエントに対してどのような情緒的なリスポンスをなすかについても含まれる。ある意味では治療者はそこに待ったなしのかかわりを持つことになるのだ。

そしてそれは即脆弱性と結び付く。それは子をもった親であったら、痛切に感じることだ。いたいけな子供を持つことで、どんな強靭な精神をもった親も極端に脆弱になるのであある。

2022年6月25日土曜日

治療者の脆弱性 推敲 1

  治療者の脆弱性というテーマでまず私が心に思い描いたイメージをお伝えしたい。それは脆弱性など持たない、ある優れた治療者のイメージである。私は治療者の持つ特徴として重要なのは十分に敏感であることである。治療者が自分の心の中に起きていることと患者の心の中に起きているであろうこと、あるいは患者が時には暗黙の裡に、または微妙な形で送ってきているシグナルに敏感でないならば、治療者として十分に機能できるかは疑わしいであろう。もちろん受け取った信号にどのように反応するか、あるいはしないかはもう一つの重要な点であろうが。ともかく感じ取ることが出来ること。それが大事なのである。
 しかしここにもう一つの重要な条件があり、それがレジリエンスである。つまりストレスに反応しつつ、しかし自分自身が安定していること、一時的に大きく揺れてもたちなおれることであること。もし敏感な心がそれゆえに大きく揺れて、崩れてしまっては治療者はその役目を果たすことはできないであろう。だからたとえて言うならば理想的な治療者の心とは「しなやかだが折れない枝」のようなものである。

さてこの繊細だがしなやかで折れにくい枝のイメージと脆弱性はどのように関係するのだろうか? それはこのように「しなやかだが折れない枝」のような心は、理想の姿ではあってもおそらく現実には存在しにくいであろうからだ

2022年6月24日金曜日

PD の治療論の書き始め

 ーソナリティ症の治療

 これについても詳しく記述するときりがない。結局BPDの話に多く紙面が割かれることになるのではないか。しかし自己愛性、反社会性などについても記述しておきたい。まずは林先生の記載を参考にする。何しろ完璧な仕事をいくつもの本でなさっているのだ。(以下、「」内はほぼ林先生の書いたもの。)

講座精神疾患の臨床 3 松下正明、神庭重信監修 不安又は恐怖関連症群、強迫症、ストレス関連症群、パーソナリティ症 の第4章「パーソナリティ症及び関連特性群 総説」

「パーソナリティ症の治療についての研究は,現在,世界の多くの国地域で進められている.わが国におけるそれらの治療法の普及はまだ不十分であるけれども,それらの考え方は,わが国のさまざまな治療の場で応用することができる.」

社会心理的治療(心理療法

PDの治療的な試みとしては、様々な分野で試みられている。支持的精神療法(精神療法的管理). 認知療法精神分析的精神療法といった心理社会的治療の主要な方法の多くはPDの治療を試みているが、その他にも家族療法デイケア.集団療法などのさまざまな種類の治療法が試みられている。」

効果が確認された心理社会的治療

そう、このような書き方をすると自然とBPDの議論に持っていくことが出来る。「近年の治療にいての動きの中で目されるのは.境界性パーソナリティ症に対する心理社的治療の効果についての無作為化対照比較試験(randomized controlled trial: RCT)による研究が多く発表されていることである45). RCTで効果が確認された最初の心理療法は1991年に発表された米国のLinehan, Mらの弁証法的行動療法(dialectic behavior therapy. DBT)ある.」そして以下、この二つの治療法及びメンタライゼーションについての解説に繋がる。しかし私としてはやはり反社会性PDについても論じたい。林先生はどうして触れていないのだろうか?

 

2022年6月23日木曜日

PD(パーソナリティ障害)概論 1

また新しい依頼原稿が入った。トホホ 💦💦

はじめに
PDの概念は古い歴史を持つとともに、今なおその内容や分類において姿を変えつつある。1980年代以降盛んに論じられたBPDが最近少なくなっているという臨床家の声が聞かれる一方では、発達障害や、特にわが国での引きこもりとの関連が様々に論じられるようになっている(衣笠、2019)。
衣笠孝幸 (2019)パーソナリティ障害は減少しているのか 精神医学 61 pp138-142)
さらにはその分類についていわゆるディメンショナルモデルとカテゴリカルモデルの二つの対立はDSM-5とICD-11で異なるモデルが提出されていることが、その混乱を示している(林、2019 p144)。私たちは歴史を振り返りつつ現在の議論を知り、それを臨床に役立てる工夫をしなくてはならない。
林直樹(2019)パーソナリティ障害と現代精神科臨床 精神医学 61 pp138-142

2022年6月22日水曜日

精神科医にとっての精神分析 推敲 3

 治療者と患者の間で行われるメンタライジングはそれぞれの心に起きることを内省し照合することですが、それはお互いの意識レベルで起きていることの照合にはとどまりません。それだと単なる認知療法になってしまいます。それは必然的に患者のUANを検討することにつながります。それは臨床場面で患者がとったある言動に伴う意図や情動を検討することで、そこで働いているであろう無意識的な連合ネットワークを知ることになるわけです。ただしこれが伝統的な精神分析と異なるのは、UANの背後にある無意識的な動機やそれに関連した過去のトラウマを明らかにすることでそれを説明するという試みでは必ずしもないということです。UANはそこにいわば配線のようにして出来上がっているのであり、それを説明し理解する一つの方法などないのです。

その意味でFonagy 達が強調するのが、not-knowing という問題が重要であると考えます。そしてこれはBionのマイナスKとも関係しています。2019年にFonagyらが、not-knowable stance(分かりえないというスタンス) という呼び方に変えたいと言っていたという話もあります。ここで一つ言えるのはメンタライゼーションはこの不可知性ということを強調することでポストモダン的であるということだ。ポストモダンは一つの正解があたかも実在するといういわゆる実証主義 positivism の立場を取らず、むしろ不可知論であるということです。一見「人の気持ちを分かること」という分かりやすい言葉に置き換えることが出来るメンタライゼーションは、実は人の気持ちがわかるということがいかに多層に及び、幅広い心や脳の機能についての議論を巻き込み、答えを一義的に見出すことが不可能な、その意味でいかに「分かりえない」のかということを、Fonagyたちは伝えようとしているのです。

2022年6月21日火曜日

精神科医にとっての精神分析 推敲 2

 この点を踏まえたうえで、Gabbard 先生は、無意識的な連想ネットワーク unconscious associative networks UAN)という考え方を提出します。これは無意識的に成立している神経の結びつきということですが、それがどの様なものであり、どのように変えていくかということが精神分析の役割であるということです。このUANが意味するのは、人間の頭悩が結局は神経細胞の作るネットワークの産物であり、フロイトもあれから何十年も研究するとしたら同様の結論に至った筈であるということです.フロイトも無意識はある種のブラックボックスであると考えたし、それは私たちが Neural network と呼んでいるものに対して持っている考えとあまりかわらないのです。それにいみじくもユングが行っていた言語連想法はまさに一種のUANであり、フロイトの精神分析はそれに大きな影響を受けているものです。

Gabbard によれば最近の認知科学では、潜在記憶 implicit memory についての研究が盛んであり、これが私たちが気が付かないうちに人の行動に大きな影響を与えていることへの関心がますます高まっています。そこでこの連合ネットワーク association network という考えが注目されているわけですが、それは実は無意識的なファンタジーや衝動、ないしは認知療法で見られるスキーマなどとも関連していることが注目されているのです。


2022年6月20日月曜日

精神科医にとっての精神分析 推敲 1

精神科医にとって精神分析が意味するもの

 精神科医にとっての精神分析というテーマでお話します。ここにいらっしゃる先生方は精神分析についての一般的な知識はお持ちだと思いますが、おそらく精神科医としての日常の業務や、これまで学ばれた精神医学と比べて、精神分析はかなり違う世界の話だとお考えかもしれません。しかし私が40年前に精神科医になった時はきわめて無知でしたので、両者がかなり異なるということがピンときませんでした。というよりは精神科というのは心を扱う世界であり、当然精神分析が試みるような人の心の理解や分析をするものと思っていたのに、精神科医の主たる仕事は薬を出すことだと知って、とても意外で、また失望したことを覚えています。それと同時に薬物療法や生物学的な研究というものに対して非常に強いアレルギーを感じていたことも覚えています。ともかく精神分析にまい進しようと思っていたのですが、当時から精神科医の間では、精神分析の世界に入るのはかなりマイノリティだという感覚がありました。しかし私は漠然と、やがては精神分析と精神医学はどこかで連結可能なのだろうと思っていました。

 ただこうして精神科医としての人生を40年も送ってきた現在では、次のような考えを持っています。精神分析とは、精神医学の一つの領域を深化させたところにあるというよりは、別々の学問ないしは治療手段であり、自分は二足の草鞋を履いてきたということです。ただそのことを後悔しているというわけではありません。それなりに面白かったと考えています。そしてこの精神医学と精神分析は、いずれはどこかで統合可能であろうという考えを捨ててはいません。そのことが今日のお話にもある程度反映されるのではないかと思います。

その様なことを考えている精神分析家の一人に米国のグレン・ギャバード先生がいます。私が抄録の中で引用している彼の文章があります。彼は精神力動的精神医学の定義として次のように書いています。

「無意識的葛藤や精神内界の構造の欠損と歪曲、対象関係を含み、これらの要素を神経科学の現代の知見と統合する」(精神力動的精神医学、2014

2022年6月19日日曜日

精神科医にとっての精神分析 9

 このような精神分析の治療目標として Gabbard  先生が提唱するのが以下の通りです。
 「治療機序の主要な様式は、患者が分析家の心の中に自分自身を感じ取ると同時に、自分とは異なる分析家の主体性を感じ取る能力を獲得することである。」(Gabbard, 2003), Rethinking therapeutic action, p825. そしてFonagy 達の言葉を引用します。
[精神分析のプロセスは]メンタライジングにより、ないしは反省的な機能により心的現実を拡張していくことである。」(Fonagy, Target 1996)。UANやフロイトの言う「反復」を扱っていく上で、例えば自由連想や解釈などよりも、なぜこのメンタライジングのプロセスが強調されるのでしょうか?
APA (American Psychological Association) の辞書ではそれを次のように定義しています。
「自分と他者の心的状態を知ることで自分と他者の意図や情動を理解すること。」「リフレクティブ機能reflective functioning と同義」とされています。
 ところでこれは具体的にはどういうことでしょうか?実はこれは乳幼児の発達プロセスと同様のことを言っているわけです。発達早期に赤ん坊は母親との交流の中で、母親の中に自分を見つけるという作業をします。しかしその作業は同時に、母親が自分の投影の産物に留まらないという事実を発見します。母親は独自の主体性を持った他者であるということに気が付くわけです。それと同様のことが治療でも起きるわけです。患者は治療者の目に自分がどの様に移っているかを見ることになります。しかしそれだけではなく患者は治療者が独自の主体性を持った他者であるということを理解します。これは転移逆転移関係のことを言っていると同時にそれを愛着のプロセスにも重ね合わせることが可能なように言い換えたものです。言い換えればこの母子関係においてやり残した部分、あるいはそれが破綻しつつある部分を治療者と患者の関係性の中でやり直すというニュアンスがあります。そして最近精神分析でもとても重要なコンセプトが用いられるようになりました。それがメンタライゼーションです。これはピーターフォナギーとアンソニーベイトマンにより練り上げられた概念であり、要するに相手の心の中で、あるいは自分の心の中で起きていることを理解し、可能な限り言語化していくというプロセスです。
 治療者と患者の間で行われるメンタライジングはそれぞれの心に起きることを内省し照合することですが、それは必然的に患者のUANを検討することにつながります。それは臨床場面で患者がとったある言動に伴う意図や情動を検討することで、そこで働いているであろう無意識的な連合ネットワークを知ることになるわけです。ただしこれが伝統的な精神分析と異なるのは、UANの背後にある無意識的な動機やそれに関連した過去のトラウマを明らかにすることでそれを説明するという試みでは必ずしもないということです。UANはそこにいわば配線のようにして出来上がっているのであり、それを説明し理解する一つの方法などないのです。
 その意味で Fonagy 達が強調するのが、not-knowing という問題が重要であると考えます。そしてこれは Bion のマイナスKとも関係しています。2019年に Fonagy らが、not-knowable stance(分かりえないというスタンス) という呼び方に変えたいと言っていたという話もあります。ここで一つ言えるのはメンタライゼーションはこの不可知性ということを強調することでポストモダン的であるということだ。ポストモダンは一つの正解があたかも実在するといういわゆる実証主義 positivism の立場を取らず、むしろ不可知論であるということです。一見「人の気持ちを分かること」という分かりやすい言葉に置き換えることが出来るメンタライゼーションは、実は人の気持ちがわかるということがいかに多層に及び、幅広い心や脳の機能についての議論を巻き込み、答えを一義的に見出すことが不可能な、その意味でいかに「分かりえない」のかということを、Fonagy たちは伝えようとしているのです。

2022年6月18日土曜日

治療者の脆弱性 7

 フロイトがこの点を楽観的に考えていたのはよく分かる。それは彼は分析の効果は薄れるから5年に一度の再分析を受けるべきであると言っている(Freud, 1937 サンドラーp79)。逆に言えば、5年に一度分析を受けていればいいのか、ということにもなるし、では自分は受けていないフロイトはどうなのか、ということにもなる。逆転移の理解は不可能なのではないか?という極めて本質的な議論はあまり見られないが、ドネル・スターン Donnel Stern の論文は参考になる。彼は

Stern, D. (2004). The Eye Sees Itself: Dissociation, Enactment, and the Achievement of Conflict. Contemporary Psychoanalysis, 40:197-237.

という論文で、逆転移を知ることは、「目が自分自身を見る」ということに等しいという趣旨のことを書いている。彼はそもそも例のボストン変化グループがやろうとしているのもそのことだという。彼らは複雑系理論を用いて説明する、と言うのだがここの部分はよく分からないまま読み進めると、スターンはこういう。「そもそもどのように逆転移の気付きcountertransference awareness を概念化できるのだろうか。」と言う。まさしく私の言いたいところだ。しかしこのことはほとんど話題に上らないのであるという。そしてレベンソンの「わかることの誤謬Fallacy of Understanding 」(1972)とはそのようなことを主張した本であるという。そもそも自分を分かることはbootstrapping の試みであるというとミッチェルも言っているというのだ。

2022年6月17日金曜日

治療者の脆弱性 6

  逆転移の話に戻る。今では逆転移は有力な情報を治療者自身に与えてくれるということになっている。しかしFreud の姿勢は違った。逆転移は分析家は認識し、克服しなくてはならないと言ったのだ。(かつてネットで拾ったファイルで、フロイトがこのcounter-- を何度用いたかをすぐに検索することが出来る。フロイトのスタンダードエディションの内容がすべて一つのファイルにまとまっている海賊版がネットで拾えるのだ。全3881頁。今アイパッドに入れて愛用をしている。以下はそのうち二か所。カッコ内はそのページ。)

Countertransference arises as a result of the patients 'influence on his UCS feelings and we are almost inclined to insist that he shall recognize this counter-tr in himself and overcome it.(Fr.1836)  We ought not to gibe up the neutrality toward the patient, which we have acquired through keeping the countertransference in check.(Fr.1896)

 結局この逆転移という言葉はフロイトの全作品の中では4回しか出てこない。ともかくも私はフロイトの逆転移の考えは正しい点と間違っている点があると思う。正しいのは、これは克服すべきものだという点。間違っているのは克服できると彼が思っているようであるという点。逆転移は結局は治療に対して障害になることは確かだろう。もちろん意識化され利用される逆転移もあるだろう。しかしそれはその時点でもう本当の意味での逆転移ではないのだ。問題は無意識的な、あるいは否認されている逆転移だろう。

2022年6月16日木曜日

治療者の脆弱性 5

  この問題はとても重要なテーマとかかわっている。それは私たちは自分たちをどの程度反省することが出来るかということだ。これについてはある種の常識的な考え方が成り立つであろう。それは私たちがそれに直面することが出来る分だけである。別言すれば私たちはあるレベルまでの反省はできても、それ以上は原理的に無理があるということである。ある分析家の提言を思い出そう(以前何度か引用したことがあるが失念した)。私たちの思考はそれより上位のものに対する防衛となると同時に、それ以下のものにとっては衝動であるということだ。例えば私たちがある日仕事が終わってからとてもアルコール飲料を取りたくなるとしよう。あるいはとても甘いものを食べたくなる、でもいい。そしてそれはふとその日職場で体験した不快な出来事に関係していることに気が付く。同僚に言われた何気ない一言により自分の能力に疑問を投げかけられたような気がして、一瞬それを忘れようとしていたのだ。そしてその言葉を思い出すうちにどの同僚への怒りが湧いてくる。普段は仲良くしているが時々自分を脱価値化してくるその同僚に、自分はかなりの憤りを感じていることに気が付くのだ。そして我慢できなくなり、その同僚に怒りのメールを出したとする。その同僚も謝罪してきて、あなたはその怒りのメールがちょっと度を過ぎていたような気がし出し、また反省モードにもなる。しかしそれはその同僚により指摘されたことが正しいのではないかという考えを防衛していた内容であることが分かる。つまりこのメールを書くこと自体が彼自身が持っているより深い、それこそ自分の存在そのものに対する疑い、生まれてきたことそのものへの疑いに関連していたとする。そしてそれはあなたの幼少時におけるある種のトラウマ体験が関係していることに思い至る・・・・。

ここでアルコールを飲む ← 同僚への怒りへの防衛 同僚へのメールを出す。← より深い自尊感情の欠如への防衛 という関係があるとしたら、最後の自尊感情の欠如へと行きつくことはさほど多くないかもしれない。それはおそらくつらい現実に突き当たった体験か、あるいは心理療法などでの洞察を得た場合に生じるのかもしれない。しかし日常生活でその過去のトラウマ体験にまで行きつくことはどの程度あるのだろうか。

このように考えると私たちが治療者としてどこまで自己反省を自分に強いることが出来るかということについてもある種の結論が出ている気がする。それは自分自身が許容する範囲での反省、ということになる。別言すれば、それ以上反省することはとても苦しく、たいていは否認されているような心の内容には、私たちは触れることが出来ないのだ。ということは・・・・。逆転移の理解ないし解釈は常に限界があり、逆転移を理解した、反省したという思いは常に誤謬や欺瞞をはらんでいるということになる・・・・。

2022年6月15日水曜日

治療者の脆弱性 4

脆弱性と逆転移の問題
 私が精神分析理論を学び始めて最初のころから疑問を持ち始めていたのは、逆転移の理論である。フロイトは逆転移は厄介な障害になるものとみなされ、転移の様相をゆがめてしまわないように適切に調節され、訂正されなくてはならないと考えたという(Karl Menninger, 精神分析技法論. p.107)それから逆転移はそれを反省することで用いられる、価値あるものとされるようになた。私が引っかかるのは、本当に用いられるようになるのか、ということである。「逆転移は起きても仕方がない。それを反省材料にすればいいのだ。」は一種の免罪符のようなものにも聞こえる。メニンガ―は逆転移を示すものとして、過度にやさしくしていないか、などを挙げた。しかしそのようなことだったらまだ見つけやすいかもしれない。しかし一番発見しにくいのは治療者の自己愛憤怒なのである。
  ここでひとつ架空の例を考えよう。分析家ドクターAは経験豊富な精神分析家である。しかしある弱みを抱えているとしよう。それは自分の「人の気持ちを汲み取れない」のではないか、ということにしよう。彼は精神分析をとても愛しているし、フロイトをひそかに心の中でヒーローに思っている。心の探求をする精神分析家に憧れて辛いトレーニングをしにわざわざアメリカにまでわたって修行を続けたとする。そうしてようやく精神分析家の資格を得た。その間に結婚もしたし子供も出来た。精神分析のトレーニングでも幸いケースは続いた。しかし時々妻から言われる。「あなたはとても頭がいいけれど、人の気持ちが分からないところがある。」「 え?」と思う。しかしもしかしたら、とも思う。
<以下省略>

2022年6月14日火曜日

治療者の脆弱性 3

恥と自己愛トラウマ
 私は2014年に「恥と自己愛トラウマ」という本を書いた。その前書きでも言ったことだが、私は恥こそが最も人間にとって威力を持つ感情であるという立場を述べている。「恥を恐れ、恥をかきたくないという思いが人を強力に突き動かす。恥をかかされたという思いが相手への深い憎しみとなるのである。」とし、恥をかかされた体験を「自己愛トラウマ」と呼んだ。そしてこのトラウマの特徴として、加害者が曖昧であるということを強調した。ツイッターでつぶやいたことに対して、誰も反応をしてくれないとしよう。ブログを更新しても誰も読んでくれないとしよう。それを書いた人は深く傷つき、自己愛トラウマを体験する。しかしいったいどこに加害者がいるのか。誰もいないのである。あえて言うならば理想的な自己像、ツイッターに沢山反応が来て、購読者数が万を超えるようなユウチューバーであるという理想像を描いた自分こそが加害者なのである。
 もちろん私たちが自己愛トラウマを体験するとき、その明確な対象がいることもある。「あの人にバカにされた」「あの人にひどい暴言を吐かれた」などの場合である。しかし時には加害者と思われている人に、そのような覚えが一切ないという場合もある。あるいはそれを指摘されても「そんなつもりではなかった」「まさかその様に取られるなんて…」と驚くことも少なくない。私がこのことでよく例に出すのは、この「恥と自己愛トラウマ」にも書いた例だ。
2001年4月30日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。ずいぶん前の話だが、犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、浅草の繁華街で見かけた女性に「友達になりたいと思って」声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである。
 私たちが日常出会ったり、メディアで接したりする怒りの多くは同様の不可解さを少なからず備えている。この事件でも青年は普段はおとなしく、この種の暴力行為は予測しがたかったと言われている。そしてこの「びっくりした顔をしたのでカッとなった」という説明などはほとんど意味不明である。「びっくりした顔」もこの男性を、相手を殺傷としたくなるまでに傷つけたとしたら、これはまさしく加害者不在と言わざるを得ない。

2022年6月13日月曜日

治療者の脆弱性 2

  脆弱性については色々な種類があると考えるが、私が特に考えたいのが自己愛的な脆弱性ということだ。それは私たちが最も陥りやすい、と言うか自己愛を有するということはほぼ自動的にその脆弱性を備えるという意味では、私たちの存在にとって最も身近なものの一つだからだ。
自己愛と恥は表裏一体である
 私が自己愛という言葉に特別なものをさすつもりはない。きわめて単純な事実がある。それは人は常に自分のことを理解し、評価して欲しいということである。人にこれほど切実な欲求はあるだろうか? しかし人は同時に誤解されたり、理解されなかったりすることになれている。だから期待しないようにしている。しかしそれでもつい願望を持ってしまうのだ。そしてこの願望が常にある以上、それは脆弱性の存在を意味する。人から無視されたり、誤解されたりすることの苦しみ。治療者のそれは患者にさえ向かうのである。自分の解釈を誤解されたのではないか。「先生はわかってくれない」と患者から言われたことに対して、治療者は「私がどんなにこの患者のことを考えているかをわかってくれていないのか」、という形で自己愛の傷付を体験する。これを自己愛憤怒、ないしは恥の感覚と言う。いずれも自己愛的な脆弱性の表れである。人は「おはよう」「こんにちは」という声掛けに対して反応がなかったり、声が小さかったりするだけでも感情的に反応する。これは相手の感情状態を読み取るときの繊細さにも増していると私は考える。そこで自己愛的な脆弱性が生む二つの反応について考えたい。一つはコフートが述べた自己愛憤怒である。これは怒りとして相手に表出される。しかしこれは相手がその怒りを表出してもこちらに問題が生じない場合である。これが部下であったり、こどもだったり、生徒だったりする。そしてそれがもしかなわなかった場合、人は恥じ入り、抑うつ的になるのだ。

2022年6月12日日曜日

治療者の脆弱性 1

  このテーマに関しては、私が優れた治療者として思い浮かべる人たちを考えることにしよう。私は治療者の持つ特徴として重要なのは十分に敏感であること、そしてレジリエントであるということだと考える。治療者が自分の心の中に起きていることと患者の心の中に起きているであろうこと、あるいは患者が時には暗黙の裡に、または微妙な形で送ってきているシグナルに敏感でないならば、治療者として十分に機能できるかは疑わしいであろう。もちろん受け取った信号にどのように反応するか、あるいはしないかはもう一つの重要な点であろうが。しかしここにもう一つの重要な条件があり、それがレジリエンスである。つまりストレスに反応しつつ、自分自身が安定していること、一時的に大きく揺れてもたちなおれることである。もし敏感な心がそれゆえに大きく揺れて、崩れてしまっては治療者はその役目を果たすことはできない。たとえて言うならば繊細だがしなやかな木の枝のようなものである。それはしなるが容易に折れることはない。
 さてしなやかな心と脆弱性とがどのように関係するのだろうか? それはこのように「しなるが容易に折れることのない枝」は、理想の姿ではあってもおそらく現実には存在しないからである。あらゆる心は、それが耐えることのできる隙間を有する。それを超えるような体験に対して私たちはひどく脆弱であるし、また将来の到来を思わせる予感や暗示的な出来事にも敏感に反応する必要が生じる。そうすることで体験を安全な範囲に保っているということがある。
 こんなことを書いているうちに私は第4回目のコロナのワクチンを受けた。翌日起きた私は体調が思わしくないことに気が付き不安に感じた。その不安は、今日一日の仕事をちゃんとやれるであろうかということから来ていた。このところこのテーマについて考えていたからかもしれないが、私は十分に脆弱だと感じた。先ほど敏感さということに触れたがこれはほぼ脆弱性と結びついていると考えていいだろう。もちろん繊細さと脆弱性とは別のものだ。例えば映画を見ていて登場人物が表現する感情のかすかな寂しさを感じ取ることは繊細さと関係しているが、それは脆弱性に繋がらない。ところが目の前で対面している相手の寂しさ、悲しさを感じ取るとしたら、それに対して治療者は情緒的に大きく巻き込まれる involve ことにある。そこにはそのクライエントに対してどのような情緒的なリスポンスをなすかについても含まれる。ある意味では治療者はそこに待ったなしのかかわりを持つことになるのだ。

2022年6月11日土曜日

精神科医にとっての精神分析 8

  さてではどうして一方では自然科学の様々な分野で多くの研究の成果が挙げられているにもかかわらず、精神医学や精神分析ではその様な発展が顕著に見られないのでしょうか?一つには私たちの心の座である脳があまりにも複雑すぎて捉えどころがないからです。でもやはり脳から出発しなくてはならないでしょう。精神分析を論じるのにどうして脳が出てくるのかとお考えになるかもしれませんが、フロイトが最初にそうしたからです。
 考えても見て下さい。今から100年前、フロイトは精神科医であり、新しい心の理論を打ち立てたわけです。フロイトはかなり実証主義的な面を持っていましたから、そして何よりも病理学者でしたから、心としてかなり具体的な仕組みを考えていたわけです。しかし彼が生きた時代は神経細胞を見出すことしかできなかった。そこではファイ、プサイの二種類の神経細胞を分類してそこから心の理論を立てようとした。今は私たちははるかに進んだ脳科学を手に入れているわけですから、それに基づいた心の理論を打ち立てるべきなのです。フロイトはその様な試みを1890年代までは行ってきました。そして結局は挫折してしまうのですが、それが現れていたのが、科学的心理学草稿と言う論文です。そしてそれまで顕微鏡の下で観察されるものに基づきこころの理論を作っていこうとしていたのを一大転換して、脳に関する大きな仮説を設けたわけです。

そしてフロイトが考えたのが以下のよく出てくる図です。


そしてそれをニューラルネットワークの図と重ねたのが以下のものです。







2022年6月10日金曜日

精神科医にとっての精神分析 7

 

UANの発想はフロイトの「想起・反復・徹底操作」(1914)に見られた

実は無意識がそのような性質を有するということは、フロイトが当初考えていたことでした。フロイトが述べた定式化の極めて大事なものの中に次のようなものがあります。

人間は抑圧されたものを、想起する代わりに行動に移す(agieren(想起、反復、徹底操作、1914

つまり人があることを繰り返してしまう時、その原因となったことについて覚えていないことが多いということです。ではそれを思い出せば繰り返さなくても済むということかと言えば、それほど容易ではありません。しかし概ねこの事実が当てはまると言えます。例えば過食に走ってしまう人が、パートナーとの関係で空虚感を覚えているという場合を考えるならば、そのことを自覚した際に、別の形で空虚さを満たすような何らかの行動の変化が生まれる可能性があるでしょう。そのパートナーとの関係を改善し、空しさを感じなくても済むようになってその過食はある程度治まるかもしれません。

これはトラウマや解離の文脈では、トラウマ記憶を扱うことによるフラッシュバックの現象という形を取ります。あるクライエントさんは楽しそうなことがあると「お前は楽しむ資格はない!」という声に常にさいなまれていました。しかしそれについて扱う際には極めて長いプロセスが必要でした。すなわちUANはフロイトが言ったほどには簡単に解決しないということが一番重要な事だったわけです。

2022年6月9日木曜日

精神科医にとっての精神分析 6

 このUAN(unconscious associative network)という概念は何を意味するのか? 人間の頭悩が結局は神経細胞の作るネットワークの産物であり、フロイトもあれから何十年も研究するとしたら同様の結論に至った筈である.フロイトもそれ以上はプラックボックスであると考えたし、それは私たちが Neural network と呼んでいるものとかわらないのだ。意識+無意識=NNとすると、無意識はUANとなる。つまりUANを考えることは私達の心に作られたパターン,ネットワークを考えることになる.つまり脳科学的に心を促えるということは、UANと同じことになる。そしてそれでは私達の自由意志の問題はどうなるのか、ということになるが、NNモデルによればそれはUANに多くの蓋然性が加わり、析出されたものであり、それは自由意志が実は脳により作られているということを示しているのだ。
 さてこの考えに基づいても、UANを改変する一番のツールは治療空間である、と言える。たとえば男性は加害的というUANを持つている時、そしてそのために社会的な不適応を起こしている場合、それをどのように変えていくか、ということになる。そしてその時のツールがメンタライゼーシヨン的、ないしはリフレクティブな心の動かし方ということになる。


2022年6月8日水曜日

精神科医にとっての精神分析 5

 私は特にFonagy らの言う not-knowing という問題が重要であると考えます。そしてこれは Bion のマイナスKとも関係しています。2019年に Fonagy らが、not-knowable stance(分かりえないというスタンス) という呼び方に変えたいと言っていたという話もあります。ここで一つ言えるのはメンタライゼーションはこの不可知性ということを強調することでポストモダン的であるということだ。ポストモダンは一つの正解があたかも実在するといういわゆる実証主義 positivism の立場を取らず、むしろ不可知論であるということです。一見「人の気持ちを分かること」という分かりやすい言葉に置き換えることが出来るメンタライゼーションは、実は人の気持ちがわかるということがいかに多層に及び、幅広い心や脳の機能についての議論を巻き込み、答えを一義的に見出すことが不可能な、その意味でいかに「分かりえない」のかということを、Fonagy たちは伝えようとしているのです。

さてここからが無意識の問題です。通常の精神分析的精神療法では当然のごとく扱うはずの無意識を、メンタライゼーションでは少なくとも同じようには論じないといいます。しかしそこが G.Gabbard 先生の違う所で、そこからがこの現代的な精神分析の神髄なのです。そしてそこで重要になるのが、無意識的な連想ネットワーク unconscious associative networks UAN)という考え方です。現在の認知科学が強調する潜在システムと顕在システムが機能的に、そして神経解剖学的に異なるシステムであるという考え方は、フロイトの意識と無意識の区別と一致しています。そこで治療のゴールとなるのはいかにUAN変更を加えることが出来るか、ということです。

2022年6月7日火曜日

精神科医にとっての精神分析 4

 そこで注目されるのが、「治療機序の主要な様式は、患者が分析家の心の中に自分自身を感じ取ると同時に、自分とは異なる分析家の主体性を感じ取る能力を獲得することである。」(Gabbard (2003), Rethinking therapeutic action, p825. ということです。要するに心の動かし方を両者の間で実践するという所があります。
 これは具体的にはどういうことでしょうか?実はこれは乳幼児の発達プロセスと同様のことを言っているわけです。発達早期に赤ん坊は母親との交流の中で、母親の中に自分を見つけるという作業をします。しかしその作業は同時に、母親が自分の投影の産物に留まらないという事実を発見します。母親は独自の主体性を持った他者であるということに気が付くわけです。それと同様のことが治療でも起きるわけです。患者は治療者の目に自分がどの様に移っているかを見ることになります。しかしそれだけではなく患者は治療者が独自の主体性を持った他者であるということを理解します。これは転移逆転移関係のことを言っていると同時にそれを愛着のプロセスにも重ね合わせることが可能なように言い換えたものです。言い換えればこの母子関係においてやり残した部分、あるいはそれが破綻しつつある部分を治療者と患者の関係性の中でやり直すというニュアンスがあります。そして最近精神分析でもとても重要なコンセプトが用いられるようになりました。それがメンタライゼーションです。これはピーターフォナギーとアンソニーベイトマンにより練り上げられた概念であり、要するに相手の心の中で、あるいは自分の心の中で起きていることを理解し、可能な限り言語化していくというプロセスです。さてではそのようなメンタライゼーションのプロセスにおいて具体的に扱われるものはどのようなものなのでしょうか?

2022年6月6日月曜日

精神科医にとっての精神分析 3

  ところがそれから大きく時代が変わりました。そして様々な理論が台頭し、それらとの相互乗り入れをしています。しかしそれを精神分析を殺さずにそれらとの融合を図っているのがギャバード先生なのです。
 そこでその精神分析の最近の流れを考えると、幾つかのことが言えます。先ほどの多元論的視点がそうでしたが、もう一つはより不可知論的になっているということです。フロイトが星の運航をニュートン力学的に考えるのと同じようにこころを考えたとすると、今は量子力学で、不確定性理論に基づく考えにシフトしている。精神の動きに一つの型などない。いくつかがあるとしてもそれはその時々で微妙に形を変えているのです。そしてその精神分析の流れがモダンになるほど、その不可知論的な特徴が明らかになります。それがネガティブケイパビリティという概念にも表れています。
 そこで注目されるのが、「治療機序の主要な様式は、患者が分析家の心の中に自分自身を感じ取ると同時に、自分とは異なる分析家の主体性を感じ取る能力を獲得することである。」(Gabbard (2003), Rethinking therapeutic action, p825. ということです。要するに心の動かし方を両者の間で実践するという所があります。

2022年6月5日日曜日

精神科医にとっての精神分析 2

  精神科医にとっての精神分析と言えば、もう全く違う世界の話だと思うかもしれない。私も40年前に精神科医になった時同様の気持ちを持った。最初は精神分析はこれからいったい何年生き残るのかとも思った。自分はかなりマイノリティの世界に踏み込むという覚悟を持ったのだ。ただそれから40年たって精神分析はすたれていないだけでなく、多くの臨床家の心をひきつけているように思う。私も分析家であるからその気持ちはよくわかる。私が思うに正統派の精神分析にとっては治療構造は極めて重要である。そしてそこでフロイトが考え出した治療原則を守ることもとても重要である。その際分析における治療者患者関係はある種の独特の営みの世界に入る。その世界における心の理解を追求するのが精神分析の世界である。さて私はもう一つの仮説を提出したい。それは精神分析は基本的に通常の人間交流と変わらないという立場である。そのような立場に立てばあらゆる精神分析の図式を相対化することになり、かなり厄介な話になる。しかし私はある意味での精神分析の脱構築をすることで、より多くの精神科医を精神分析の世界に引き込みたいという気持ちがある。そこでそのような文脈でお話を聞いてほしい。そこで私の用いるキーワードは多元性 pluralism であり、脳科学 neuroscience である。

 

2022年6月3日金曜日

他者性の問題 115 差別の問題、かなり補足した

 「障害」の概念とその表記の仕方

この問題について検討する前に、そもそも障害や疾患とは何をさすのかについて少し論じよう。最近ではわが国では「精神疾患」の代わりに「精神障害」の表現が用いられるようになったようであるが、その一つの理由は欧米の診断基準である DSM ICD が標準的に用いている “disorder”(通常は「 障害」と訳される)という呼び方に対応するためのものだったと考えられる。しかし「精神障害 」の「害」の字は明らかにマイナスイメージが付きまとうということから、最近では代わりに「障碍」ないしは「障がい」という表記をすることが多くなってきた。(ただし「碍」という文字の語源を調べると、これにも同様にマイナスな意味が含まれるようであり、果たして「障碍」への置き換えには意味があるのかという疑問も生じる。) 
 そして最近はこの disorder がさらに「症」と訳されるようになって来ている。といってもさすがに「精神障害」が「精神症」に代わったという話は聞かない。インターネットの検索エンジンで「精神症」と入力しても、何もヒットしないから間違いのないことであろう(20224月の段階の話であり、今後どうなるかはわからないが)。だからこれはあくまでも個別の「障害」に関してであるが、それにより「強迫性障害」には「強迫症」が、「~パーソナリティ障害」には「~パーソナリティ症」という表現が新たに提案されたのである。そしてこの流れは 2013年に発行された DSM-5 の日本語訳「DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引」(日本精神神経学会、2014) から見られるようになった。
 この事情については内閣府に設置された作業チーム(連絡会)により以下に説明されている。

連絡会は、(中略)児童青年期の疾患では、病名に「障害」が付くことは、児童や親に大きな衝撃を与えるため」「障害」を「症」に変えることが提案され、また同様の理由から不安症及びその一部の関連疾患についても」同様の措置が取られたという経緯が記されている(以上同書、  p.9)

この決定は私にも若干の「衝撃」を与えたが、そこで特に困惑させられたのは、「解離性同一症」という日本語表現であった。これはDSM-5 (2013) における dissociative identity disorder (解離性同一性障害)の日本語訳として提案されたものである。いちおう解離性同一性障害という従来の表記の仕方も並列して提示されていた。しかし「解離性同一症」の「同一症」はさすがに何を意味しているのかが不明で、日本語としても不自然である。そこで研究仲間の野間俊一先生と話し、少なくとも「解離性同一症」くらいにはすべきだと合意した。
 更に同様の措置は2018年に公表されたICD-11WHO)についても取られた。それによれば日本語の「障害」は不可逆的な意味で用いられる disability の意味でより広く理解されるため、可逆的なものもあることを表すため、そして「『~障害』と診断されることは、当事者にとっても負担感が大きいとの懸念がある」としてある(第22回社会保障審議会統計分科会、疾病、障害及び死因分類専門委員会資料R元年226日より)。

ここでDSM-5においてもICD-11 においても、「~障害」と呼ばれることのスティグマ性、差別性が懸念されていることは注目すべきであろう。そしてそのような意図もわからないでもない。ただしその様な目的で「~障害」という呼び方が廃止されるとしたら、今度は「~障害」と従来通り呼ばれ続けるものの「差別性」が逆に問われるようになってしまうという懸念もある。これはある意味では「~障害」に対する差別性を逆説的にではあるが促進することになるのではないかという懸念がある。

幸いなことにICD-11 においては DID の日本語訳の表現は「解離性同一性症」となっている。
 ただこの○○病→○○障害 →○○障碍 →○○ 障がい →○○症という変更は一つの重要な点を示唆している。それは精神の病気と正常との間には、私たちが思っているほど明確な分かれ目はない場合が多いということだ。一方に健康な人がいて、他方に障害を持った病者という図式を当てはめることで、前者から後者への差別意識が生じる可能性があるのである。少なくとも神経症圏の精神障害は、それが軽ければ性格や習慣の一部、深刻になったら病気(障害)という考え方がおおむね当てはまると言っていいだろう。
 私が経験した米国での精神医学のトレーニングは、言葉の定義や意味を患者さんたちに伝えることに役立ったが、それは次のような患者さんからの質問への対応にも有用であった。それは「これって病気ですか?」という質問である。私はほとんど躊躇なく次のような答え方をすることを学んでいた。「あなたの持っているその傾向が、仕事や生活に支障をきたす問題を起こすくらいに深刻であるならば、それは病気と呼ばれるのが一般的です。もしそうでなかったらむしろ、あなたの持っている特徴の一つや性格の一部と言えるでしょう。」こう答えることで私は患者さんから打ち込まれた質問のボールを、患者さんの側に打ち返した気持ちになる。自分のある傾向が仕事や社会生活にどの程度問題となっているかを判断するのは患者さん自身であろう。そこでこう答えることで私たちが「診断」を下すという責任の一部は、患者さん自身にゆだねることが出来るからだ。

2022年6月2日木曜日

他者性の問題 114

 私が本章で示したいのは、DIDの交代人格を他者として捉えるという立場は、治療の最終ゴールは統合であるという考え方とは齟齬が生じるということである。それは現代的な言い方をするならば、共存という姿勢にとって代わられるべきものである。

そこで臨床家がどの様に交代人格と会うべきかという事について改めて論じたい。まず大事なことは、言うまでもなく個々の交代人格を尊重する姿勢を保つという事である。DIDの患者さんとの臨床で、異なる複数の人格と出会うという事は実際に、それも頻繁に起きる。患者さんは通常はAさんの人格で来院するとしても、時々Bさんとして表れることもあり、また状況によっては途中からさらにCさんに変わることもある。そしてそのような人格のスイッチングは治療者がどの人格に対しても温かく迎えるという姿勢があればあるほど促進される可能性が高くなるのだ。
 一つ重要な点は、DIDの患者さんは常に人の気持ちを敏感に感じ続け、時には相手を過剰に警戒したり、気づかいや忖度をしたりする傾向が強いという事だ。交代人格は自分が出現することで相手を驚かせてしまうのではないか、あるいは自分が受け入れてもらえないのではないかという懸念を持つことが多い。そのことを治療者の側がよくわきまえておく必要があるだろう。
 私はDIDの方との面接では、前回の人格さんと同じ方かががあいまいな場合は、出来るだけそれを確かめるようにしている。前回のセッションの時のAさんとは別のBさんとして現われた際に、あくまでもAさんという前提で話すことには意味がないであろう。もちろん前回の内容をBさんは内側で聞いていた可能性がある。その様な場合にしばしばBさんは前回の人格Aさんと異なる人格で現れているという事を治療者には明らかにしない傾向にある。しかし来談する人格が常に同じAさんであるという事を治療者が前提とするならば、患者さんに治療者の想定に合わせるのを強いることになりかねないのである。
 DIDの患者さんたちの交代人格は通常は、自分が会った覚えのない人に話しかけられ、自分が話した覚えのない話題をふられ、それに合わせることに慣れている。それは彼らが社会適応を維持する上で学習したことかもしれない。しかしそれが治療場面でも繰り返されることは回避しなくてはならない。

2022年6月1日水曜日

他者性の問題 113 共意識状態についてまだまだ加筆が必要である

 私がまず強調したいのは、Dissociation においては複数の主体が「共意識状態 co-conscious」で存在しうるという点である。これはわかりやすく言えば、二人の「自分」が同時に目覚めているという事だ。もちろんそこに二人の人間がいれば、当然そうなる。二人の人間がそれぞれ自分を有しているからだ。ところがそれが一つの体、一つの脳を持った人間に生じることが解離の特徴でもあり、まだこの上もなく不思議な点でもある。

ただし第○○章でもすでに検討したとおり、たとえ意識Aと意識Bが存在していたとしても、Freud が考えたような「振動仮説」に従えば、各瞬間にどちらか一方が覚醒していて他方は眠っていてもいいことになり、そのような二つの意識のあり方は「連鎖的consecutive」ないしは「連接的 sequential」とでも表現できるものとなる。しかしDIDにおいてはこれらの形とは異なり、意識ABは同時に覚醒していることが大きな特徴であることは確かである。

しかしすでに本書で見てきたとおり、人の心はいわゆるスプリッティングを起こすことも知られる。つまり一つのことについて、ある時にはAという考えを、また別の時はBという考えを持ち、それらA,Bが矛盾しているという事がある。その典型例はとしては、いわゆるボーダーラインパーソナリティにおいて見られるスプリッティングである。そこでは例えばある日は治療者を理想化し、翌日には徹底的にこき下ろすといったことが起き、あたかも治療者に対する二つのイメージが矛盾した形で存在しているかのごとく感じさせる。
 このようなスプリッティングで特徴的なのは、その矛盾した対象イメージに対して本人に問うても、当人はそれに当惑を覚えないという事である。彼は「昨日は自分はそう思った、でも今の私は先生に対して全く違った気持ちを持っている」という言い方をするであろう。つまりスプリッティングといっても、それは対象イメージについて起きていることであり、当人の心が分かれているという事ではない。つまりAという思考を生んだ意識と、Bのそれとは「共存している」のではなく同一のものなのだ。

ところが解離の場合は全く異なることが生じる。おそらく患者は同様の事態に関して、次のようなことを言うはずだ。「残念ながら先生に対してその様な言い方をした覚えが全くないのです・・・。」つまりAという言葉を発した心とBという言葉を発した心が連続していないという事になる。

では解離の場合Aを生んだ意識とBを生んだ意識が同一のものでないという証拠はあるのであろうか?もちろんある時はAと言い、別の時はそれを言ったことを忘れてBと言う意識がそれでもボーダーラインのスプリッティングのように単一のそれであると主張することが出来なくもない。そしれそれがFreud の「振動仮説」に見られた立場である。しかし私たちが二つの意識の存在を確かめることが出来るのは、それらが共意識状態にあるという例を体験することにある。