2013年10月31日木曜日

エナクトメントについて考える(8)

こんな夢を見た。新聞の一面に、「某大学教授、逮捕される。●月●日、東京都文京区に住む自称大学教授(自称精神科医)は
以下略。


分析家の主観性について

エナクトメントの議論にはいくつかの了解事項があるという。そのひとつは、それが主として分析家の主観がいかに反映されているかについての議論であるということだ。言い忘れたかと思うが、この論文はエナクトメントを主として治療者のそれに限定してい議論を進めているという断り書きもある。すでに書いたことだが、患者の言葉は全部エナクトメントと考えたっていい。それについての「深読み」「深読み」をすることが治療の前提というところがある。患者の言動がその無意識を反映しないほどに整合的で理屈にかなったものだとしたら、治療など必要がないことになる。問題は治療者の側の言動もエナクトメントとしてとらえることに意味があるという考えだ。
 治療者が自分たちの主観的な態度や裏に潜む無意識を知られ、探られる…・。確かにエナクトメントは分析家たちにとってキケンな議論である。その上関係論者はそこから一歩進んで、だからこそ治療者は分析の重要な時期に差し掛かったら、自分の反応も開示すべきだという、とこの論文には書かれている(p. 521)。えっ、そこまで行くか。関係性理論は進んでいるなあ。
 それに関連して、ベンジャミンの「moral third」という概念が紹介されている。オクデンの有名な the analytic third (精神分析における第3主体?)に類する概念であろうが、それは分析的な態度が破綻した時にも治療者を救うものであるという。そこでは治療者が自分の誤りを認めることも重要な機能として含まれるのだ。
 スタイナーもジェイコブスも(ということは英国学派も米国学派も、といっていいだろう)分析家の無意識的な葛藤に「引っかかる hook on」と主張している。そういうことだな。しばしば患者の側からの投影性同一化などのプレッシャーによりそれが刺激され、「ナルシシズムのバランスが崩れて」エナクトメントが生じるという。
この最後のナルシシズムのバランスが崩れて、というのは良いな。というのも分析家が一番弱みを見せるのは、自分の自己愛が刺激された場合であることはほぼ間違いのないことであるからだ。

2013年10月30日水曜日

エナクトメントについて考える(7)

 もうしばらくエナクトメントの議論にお付き合いいただく。(誰も読んでないって?ごもっとも。)
この論文を読んでいてしばらくは、ちょっと不安になった。私は「何でもエナクトメント、というところもある」と書いたが、この論文は案外保守的な論調が目立つのだ。たとえばこんなことも書いてある。「エナクトメントは、分析的な対話の破綻であり、そこで分析家は気づかずに行動をしてしまい、自分や患者の無意識的な願望を actualize (現実のものと)する。」なんて書いてある。これでは古典的な文脈でのアクティングアウトと変わらないではないか・・・・。
 もう少し読み進むとこうだ。「エナクトメントには4つの流れtがあるという。クライン派、現代的な米国自我心理学、自我心理学と、間主観性・関係性精神分析の4つである。」もう一つ付け加えるならばフランス流の精神分析であるという。というのもフランスの精神分析にはエナクトメントはあまり登場しないからであるという。
一つの考え方は、エナクトメントを思考との関係性で考えるという方針だ。英国の精神分析では、行動 action と思考 thought とを対比的に考える傾向があるという。そして例えばスタイナーによれば、エナクトメントがいつも行動が起きた後に気が付くものであるという意味では、抱える力の失敗としてみなされるという。アクティングアウトが失敗なように、エナクトメントも失敗ということか。相変わらず厳しいな。
他方アメリカのジェイコブスによれば、エナクトメントは二つに分かれるという。一つはノンバーバルなレベルで表出され、それが起きた後でないとわからないものであり、もう一つは情動、試行、ファンタジー、記憶などで伝えられるものであり、それは反省や自己分析によりコンテインが可能なものであるという。こちらの考えに立てば、エナクトメントはそれほど不健康ということでもなくなる。関係学派のレベンソンによれば、エナクトメントは少しも異常なことではなく、いつも常に起きているということになる。私の考えはやはりこちらに沿ったものだ。

このようなエナクトメントの議論はシンボリゼーション(象徴化)との関係でとらえることもできるという。シンボリゼーションされてないのがエナクトメントでしょ、という考え。クライン学派は思考は象徴化の達成されたもの、行動はそれ以前と考える。アメリカの関係学派だと、思考と行動は、コインの両面と考える。ふーんそんなものか。私の考えだと、思考も一種の行動、ということになるが。

2013年10月29日火曜日

エナクトメントについて考える(6)

 エナクトメントの文脈でいくつかの決定的に重要な論文がある。私が好きなTheorore Jacobs先生の、1986年の「逆転移エナクトメント」に関する論文。やはりこれが事実上この概念の嚆矢たるべき論文なのだろう。「治療者は逆転移を様々な形でエナクトし、行動に表わしているよ」、という論文。そりゃそーだよね。患者のほうはそれが当然のご突終始起きていると考えるのが普通だから、改めてエナクトメントについて議論することの価値もあまり大きくないというわけだ。治療者のほうの無意識も漏れだしているという議論だからこそ、エナクトメントは面白味があるわけだ。

 もう一つ重要な論文が述べられているが、私は読んでいなかった。(っていうか、主要論文をほとんど読んでいない!) Betty Joseph の From acting-out to enactment (1999)という論文。 なんだ、そのまんまの論文じゃないか!!というのもエナクトメントとアクティングアウトの区別というのが一番わかりやすく、また一番意味がある議論だからである。この論文でJosephは主張しているという。それは「現在精神分析では重要なシフトが起きていて、それはアクティング・アウト acting-out から、アクティング・イン acting-in への関心の移行だ」ということだ。」つまり行動化の中で、治療関係の外部で起きるものから内部で起きるものへ、分析の世界での議論が移ってきたというのだ。
 これはわかるようでよくわからない発言でもある。なぜならアクティング・アウトという言葉は、この間も述べたようにフロイトの「アギーレン agieren、活動 」の英訳であり、「アウト」という部分はその過程で偶然にくっついてしまったからだ。日本語だって「行動化」に内も外もない。(もっともacting-out を「行動外化」、acting-in を「行動内化」と訳していたならば違っていたかもしれない。そんな几帳面な人が行動化の最初の翻訳にかかわっていなかったことがありがたい。) もうひとつわからないのは、では分析家は最初はアクティング・アウトについてしきりに論じていて、だんだんアクティンぐ・インに移ってきたかと言えば、必ずしもそんなことはないだろうということだ。だって治療者に不満を持っていた患者が、治療室外で誰かに逆切れするとしたら、それはアクティンぐ・アウトだが、治療時間に遅れてやってきたり、治療者に乱暴な口をきくのだってやはりアクティング・アウトと呼ばれて議論されてるのが通常だからだ。むしろ行動化 agieren がアクティング・アウトと訳されてきたことの問題点が指摘され、それより「内も外もない」エナクトメントについての議論を人が好むようになったという現実があるのだろう。 

2013年10月28日月曜日

エナクトメントについて考える(5)

 エナクトメント、もう少し頑張ろう。実は最近精神分析で最も権威のある専門誌に載ったエナクトメントの論文が掲載されたのでそれを読んでみようと思う。そう、こういうことでもしないと絶対に自分からは読まないからだ。Towards a better use of psychoanalytic concepts:
A model illustrated using the concept of enactment* Werner Bohleber, Peter Fonagy, Juan Pablo Jim6nez, et al.( Int J Psychoanal (2013) 94:501 -530) 読者はまたさらに遠くにほったらかしである。
 この論文は現在の精神分析で様々な理論が提出されているが、それらに共通したなにかを追及する目的で書かれ、そこでテーマとして選ばれたのがこのエナクトメントなのだ。この四半世紀になって注目を浴びるようになったと紹介されているこのエナクトメントの概念は、やはり現代的な精神分析を論じるうえで何かのカギを握っているということか。そこでエナクトメントを扱った主要論文を参照してみるという。Steiner (2000, 2006); Jacobs (1986,2001), Mclaughlin (1991), Mclaughlin and Johan (1992) and Chused (1991, 2003); Goldberg (2002);, Hirsch (1998), Levenson (2006) and Benjamin (2009).などなど・・・・。(← 字数稼ぎか?)
そもそもエナクトメント enactment の由来は、acting out, action などの用語であり、フロイトがどらの症例のエピローグで導入したagieren というドイツ語である。昔これを「アジーレン」と発音して、故・小此木啓吾先生に、「アギーレンだよ」と直してもらったな。(ラテン語の動詞 'agere' to do という意味である.)これはストレーチーによりacting out という英訳を与えられた。実はエナクトメントの議論の前には、このアクティングアウトに関する長い議論があったのだ。これは治療にとってどのような意味を持つのか?だいたいにおいて、アクティングアウトは悪者であった。治療を妨げるもの、という意味である。なぜなら精神分析には、「想起してワークスルーする」という命題があり、アクティングアウトはそれとは真逆だからだ。フロイトの非常に知られた命題である、「人は思い出す代わりに反復する」(早期、反復、徹底操作)を考えればわかるであろう。でも本当だろうか?アクティングアウトはことごとく想起され、理解され、解釈を与えられるべきであろうか?そもそも人間のやることなすことを完全に理解し、解釈することなどできるだろうか?

ここまで述べたら、エナクトメントの意義が少し明確になるのではないだろうか? アクティングアウトが悪者である、という伝統的な精神分析が有していた理想主義的な見方に対する反省が、このエナクトメントの概念には込められていたわけである。

2013年10月27日日曜日

エナクトメントについて考える(4)

試した。すごい切れ味!(もういいって)

エナクトメント概念の最近の流れ
さてエナクトメントの概念が精神分析の中でより大きな意味を持つようになった背景には、いわゆる関係性の理論の広がりがあると言えるだろう。エナクトメントは患者の側のみ、ないしは治療者の側のみに起きていることとして考えることにさほど醍醐味はない。そうではなくて、両者の関係性の中で何がエナクトされるか、という問題の方が臨床的に見て異議深く、また興味をそそる。
関係性理論においては、治療者患者関係は繰り返しという部分と新しい部分の両方を含むと考える。患者も治療者も、お互いを過去に出会った人にかぶせて関わっているという部分と、それ以外の全く新しい関係性として係わっているという部分がある。人との出会いで自分の思いがけない部分が出ることがあり、それは治療者側も患者側も同じなのである。
精神分析には転移、逆転移という概念があるが、それは伝統的には過去に持った対象との関係の、新しい場面での繰り返し、という理解のされ方をしてきた。私たちは育つ過程で、養育者、多くは母親や父親との関係性を、他人との関係の持ち方のいわばプロトタイプとして取り入れていく。それは健全な面と神経症的な面を含むことになる。わかりやすく言えば相手の顔色をうかがう傾向とか、相手に媚びる傾向とか、本心を表さない傾向とか、相手に甘える傾向だとか、ということになるが、それは重層的で、心の様々な層で相手への表出の仕方が異なる、その人に身についた一種のかかわりの複合的なパターンといえる。そしてそれは母親や父親と異なる人に出会っても無意識的な形で発動され、繰り返されることになる、というのが伝統的な考えだ。
さてこのように考えると、転移、逆転移という現象が、すでにエナクトメントとしての意味を持っていることになる。その人の身についた、無意識的に繰り返されるパターンとは、まさにエナクトメントの定義を満たしている。ただしそれはあくまでも繰り返し、でもある。
関係性の理論で論じるエナクトメントは、いわば繰り返されるパターンとは違うエナクトメントである。わかりにくいだろうか?
こんな風に書いてみる。 エナクトメント=繰り返しの要素 + 新奇な要素

関係性の理論が注目するのは、エナクトメントの持つ新奇な要素の方である。と言ってもちろん繰り返しの要素を無視するわけではない。しかしそれは古典的な精神分析理論がこれまで十分に関心を払ってきた部分なのだ。

2013年10月26日土曜日

エナクトメントについて考える(3)

例の裁断機の刃は、あっという間に研磨され、今日にも送られてくるという。裁断機の刃の研磨が一両日中にメール便で済んでしまうというこの国。(「研磨ワン」さん、拍手!!)しかも刃を取り出すための設計図もパソコンでダウンロードし、必要な工具(10ミリ、13ミリのスパナ)もアマゾンで注文しているのである。便利な世の中になったものだ。私が面倒くさがりなだけか?

何でもかんでもエナクトメントという議論
私が出した極めてシンプルな例は、そこにより何か臨床的な意味や洞察を含ませることを意図したものではない。このような会話が生じた臨床状況によっては様々な意味合いを持ちうるが、このように抽出した場合にはいかようにも可能性を考えることが出来るような例である。治療者の、「忘年会のためにセッションをキャンセルすることに、後ろめたさを感じているんですね。」という言葉にはさまざまな思考や感情がその背後に考えうるが、そのことを教えてくれるのが、エナクトメントという概念なのだ。この言葉が「意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す」というエナクトメントの定義を満たすかどうかを考えてみるだけで、そこにたくさんの可能性が広がっていることがわかる。そしてこの言葉に何がエナクトされているかを一つに絞る必要はないのだ。というより一つに絞れないことが臨床的な現実の多様性や不可知性を物語っているのである。
 このようなエナクトメントの概念の性質上、当然ながらこの概念は不要である、という見解が出てくる。「どのような治療者や患者の言動も、結局は何か意識化されていないものの表現である。あえて言うならば、何でもエナクトメントになってしまうのではないか。」
これは全くまっとうの議論なのである。実は私たちの言動の中で、意識化されていない心的内容が表現されていないものなど考えられないと言っていい。たとえばある言葉が、全く頭で考えたとおりに、つまり思考と少しのずれもなく口から出たとしよう。これは一見エナクトメントではないように思える。しかし思考そのものがすでにエナクトメントだったら?つまり考えた内容が、自分が気がつかない心の動きに左右されていたら?ってか、それが他の意識化された思考によって導かれたような思考ってあるんか? 

たとえば「今日は久しぶりに晴れて気持ちがいいな。」と思ったとしよう。この思考は外を歩いていて空を何気なく見上げたときに、浮かんできたものだ。ではなぜその思考が生まれたのか。おそらくさまざまな理由がその背景にある。たとえばこの思考は、たとえば仕事がうまく行っていて気分がよかったことにより浮かんできたのかもしれない。あるいは台風続きで不快を覚えていたために、雲のない空を見た感動もそれだけ大きかったのかもしれない。しかしおそらくそれらは特に意識に明確な形で上ることはないであろう。思考とはたいていはそのように重層的に決定されて、なおかつたまたま生まれてくるものだ。いわば思考そのものが無意識の集積の上に浮かんでいるようなものであり、その意味ではことごとくエナクトメントなわけである。それでは行動はどうか。行動とはそれこそ思考を背景としたもの以外のものも含まれるのであるから、なおさらエナクトメントということになる。

2013年10月25日金曜日

エナクトメントについて考える(2)

全くどうでもいい話だが、裁断機の刃を交換することにした。Plusという裁断機としては大手の機械を使っているが、最近急に刃こぼれが目立ち始めた。すごく苦労して刃を取り外してみると、ボロボロである。どうも最近連続して裁断した本が、ホッチキス留めになっていたのを噛んだらしい。裁断機の刃、というのが途方もなく高い。3万円の裁断機の刃が、なんと14000円もするのである。ということで刃を研ぐサービスに発注してみた。これだと1400円で研磨をしてくれるという。刃こぼれが2ミリ以下の場合にのみ可能であるという。ウーン、ぎりぎりか。どうなることやら。

ここで思い切ってできるだけシンプルなやり取りを取り上げてみる。
患者:来週の金曜日は職場の忘年会と重なっていて、セッションをキャンセルすべきか迷っています。
治療者:忘年会のためにセッションをキャンセルすることに、後ろめたさを感じているんですね。

これだけである。ただし実は患者の言葉を聞いた際治療者の中にさまざまな考えがよぎったとしよう。そしてそのうえで治療者は上記の言葉をかけたのである。これらのどこがエナクトメントだろうかを考えてみよう。
 ここで複雑さを避けるために、エナクトメントかどうかを調べるのは、治療者の言葉のほうだけにしよう。患者は忘年会と重なったセッションをキャンセルすべきか単純に迷って口にしただけなのだ。それに対して治療者は「セッションを自分からキャンセルするのは後ろめたさがあるからでしょうか?」と尋ねた。ただしこの場合、治療者はほかの反応をしていた可能性もある。それは「ではキャンセルにしましょう。」かもしれないし「セッションはキャンセルしないことにしましょう」であったかもしれない。あるいは何も返事をしないという選択肢もあり得る。いずれにせよそれにより意識化されていなかった心的内容が表現されたならエナクトメントということになる。上述の例では治療者がもし患者の言葉を聞いて、「この人は忘年会と重なったことでセッションをキャンセルすることに後ろめたさを感じているのだろうか?」と本当に思ったとしたら、そうしてもう一つ、「ではそのことを尋ねてみよう」と思ったとしたら、治療者の思考や意図と言葉は一致していることになり、そこに「意識化されていなかった心的内容が表現されていた」可能性は考える必要がないことになる。ゆえにこの言葉はエナクトメントではない、と言えるだろう。
 でも実はここから先が少しヤヤこしくなる。たとえば想像をたくましくして、治療者が後になってこのセッションのこの場面を思い出して、「なんであんな返し方をしたんだろう。もう少し患者さんの話を黙って聞いていればよかったのに。おそらくセッションをキャンセルされることへの私自身の不安があったのだろう。その時はそれに気が付かなかったが。」と思ったとしよう。するとこの一見何の変哲もない治療者の言葉は、実はエナクトメントだったということになろう。そこには図らずも治療者の不安が表れてしまっていたのだ。

2013年10月24日木曜日

エナクトメントについて考える(1)


エナクトメントとは何ぞや。別に論文の注文が来たわけではないが、少し考えをまとめておかなくてはならない別の事情がある。
最近あるところにこんなことを書いた気がする。精神分析学会関係だ。
「エナクトメント[行動に表れること]は精神分析状況において治療者ないし患者の意識化されていない心的内容が言動により表現されることを指す。エナクトメントの概念は現代における精神分析の中で最も重要な概念のひとつと言っていい。精神分析的な関係性においては、患者と治療者との間で、さまざまな非言語的なかかわりが生じ、エナクトされる。時には治療者の言語的な介入にも無意識的な内容が含まれ、エナクトメントとして扱われうる。このエナクトメントを治療関係において検討することで、それまで無意識レベルにとどまっていた内容が明らかにされ、治療が進展することが多い。エナクトメントは従来アクティングアウトとして理解されてきた行動を含むが、より微妙で非明示的なものをも含み、それを臨床的に有意義であり創造性を含むものとして概念化されたという経緯がある。
この短い文には、いくつかの要素が掲げられている。 
エナクトメントの面白さを一言でいえば、「人の行動(言葉も含めて)というオモテに、ウラは様々な形で出ていますよ」ということだ。人は普通オモテとウラを対比的に考える。ところがオモテにはウラが、そしてウラにはオモテが微妙に入り込んでくるものなのだ。しかし日常心理や精神療法の世界では、あたかも両者がきれいに分かれていて対比的な関係にあるかのように考えられる傾向にある。するとそこから生ずるさまざまな矛盾や問題点が、議論の格好の素材になる、というわけだ。
 普通精神療法では、患者の行動にさまざまな無意識的な意味が表される、と考える傾向にある。言葉にできないものを行動に移してしまう、という意味で「行動化」という概念が用いられるのだ。また患者の言葉には様々な無意識的な要素がその背後にあると考えるが、治療者のそれにも無意識が反映されているとはあまり考えない。治療者はちゃんと自分の無意識は心得ていますよ、という前提がある。
 しかしエナクトメントの概念は、患者の行動はおろか、治療者の言語的な介入にも、あるいは治療者の非明示的なふるまいにすら無意識の表現を読み込むことになる。するとこれまでの精神療法の常識では考えられない様々な問題が起きてくる。場合によっては患者が治療者の言語的な介入について、そのエナクトメントとしての性質を感じ取り、結果的にそれを「解釈」する、といった事態まで想定されてくる。患者
イコール無意識を明らかにされる側、治療者イコール患者の無意識をよりよく知る側、という関係が崩れてきてしまうのだ。

このエナクトメントの複雑で面白いことは、たとえばある一つの言動が、様々な状況が加味されることによりエナクトメントとしての度合いが微妙に変化するということである。あなたがある「A」という言動を発した場合、もしそれが考えていたことの文字通の表現であるならば、定義上それはエナクトメントではない。何もそれにより新たにあらわになってはいないからだ。しかしそれ以外だとことごとくエナクトメントとしての意味を持つ可能性が出てくる。
 たとえばあなたがそれを言ったそばから「あれ、思わずAって言ってしまった・・・・」となるなら、エナクトメントの可能性が大きい。Aを言ってしまった後、「まったくその気もないのに、どうしてそんなことをしまったのあろう?」という反応なら?それは単なる言い間違い間違いかもしれないし、そうなると常識的にはエナクトメントではないだろう。しかしフロイト的には、言い間違いも無意識の表現となる可能性があるから、エナクトメントということになる。その場合、それを聞いていた他者の反応によってもAがエナクトメントかどうかの判断が異なってくる。ある人はあなたのAという言動を聞いて、「やっぱりAと考えていたのね。そんなオーラが出ていたから」と言うだろう。しかし別の人なら、「あなたがAと考えるなんてありえないと思う」と言うかもしれない。前者の場合は、それがエナクトメントである可能性が濃厚であり、後者の場合であれば、単なる言い間違え、エナクトメントにあらず、ということになる。
 とすると「思わず言ってしまったという感覚」を得ることが、エナクトメントとしての証拠、とすらいえなくなってしまうのだ。

2013年10月23日水曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(14)

結論から言えば、入院治療の効果が大きいにもかかわらず、それを実質的に用いるの難しくなってきている、ということだ。これは主として米国の事情であるが、日本でも多少なりとも類似のことが生じつつある。日本の精神科病床数は36万程度と、ここ何年間かあまりかわっていないが、昔のように長期間入院している患者さんの数は減った。3か月以上の入院は保険料が下がることもあり、病院は入院後3か月経った患者さんに対しては退院を促すというやり方を取っているところがかなり多い。病院は利潤の追求のためにそうしているのだろうと言われそうだが、昨今の病院経営は決して容易ではないこともあり、医療経済上無理もないとも言える。入退院のサイクルが早くなるほど人手が必要になる一方では収益は増えないような仕組みがあるからだ。
 私は原則的には解離の患者さんが入院を必要とする機会は限られていると思うが、時には彼らが非常に調子を崩し、自傷傾向や自殺念慮が高まることがあり、一時的な隔離が必要になってくる場合があることを実感している。やはりいざという場合の入院病床は、治療構造の中に用意されていなくてはならない。
 解離の患者さんの入院治療ということでぜひコメントしなくてはならないのは、多くの精神科入院が解離の方にとっては再外傷体験という意味を持ちうるということだ。確かに統合失調症の急性期においては拘束や抗精神病薬の半ば強制的な投与が必要になるが、それを解離の患者さんに行なわれてしまう場合が往々にしてある。解離性障害は統合失調症と誤診されやすいいという事情が一層その傾向を生む。ところが解離性障害の方にとっての拘束や強制的な投薬は統合失調症の患者さんのそれとかなり異なるニュアンスを持つ。両方の患者さんにとってトラウマとして体験されることがあるが、解離性の患者さんの場合は、よりトラウマとしての意味を持ちやすいという印象である。それはそうであろう。彼らが過去にこうむっている可能性の高いトラウマの状況を再現させるからである。解離性の患者さんは様々な意味で誤解を受けやすく、症状をわざと装っていると誤解するスタッフも少なくないため、その意味でも外来治療が非治療的な形で行われることが少なくない。その点解離のケースをそれだけ多く扱っている病院は安心して患者さんを送ることができる。


部分入院治療Partial hospital

入院病棟より一つステップダウンした形で部分入院が用いられることがある。(部分入院とは日本で言うデイホスピタル、デイサービス、デイケアなどである。)ここではスケジュールに従って患者へのトラウマに関する心理教育やスキルトレーニングなどが提供されることになる。ただしその効果はよりトラウマに理解のある、あるいはそれに特化したプログラムの場合に大きいという印象がある。


グループ療法
さて次はグループ療法であるが、いきなり「DIDの方々は、一般のグループを上手く用いることができにくい」とある。ここでいう一般のグループとは、異なる診断や臨床的な問題を抱えた人たちとのグループである。例えばBPDとかパニック障害の患者さんが混じっているグループだ。DIDの方々は強い情動を惹き起こしたり、そこで過去のトラウマについてのディスカッションを促すようなグループに参加することでかえって症状が悪化することがある、とも説明される。
このようにグループ療法はDIDの治療にとってプライマリーなものではないと断ったうえで、いくつかの有効性も記載されている。ただし前項のPHでも述べたように、グループ状況でのスキルトレーニングや心理教育は大きな意味を持つという。

さてDIDの均一グループ、すなわちすべてDIDの患者さんにより占められているグループの場合は少し異なるということだ。注意深く選ばれた患者さんに対して、対人関係の向上に向けて話し合ったり、個人療法の効果を補うために用いることは有効であるという報告があるという。

明日から少し解離をお休みして、「エナクトメント」について何回か考える。

2013年10月22日火曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(13)

入院治療の記述の続きを読む。「入院中に暴力的に振る舞い、言葉や行動や薬物による介入が功を奏しない場合には、閉鎖室や身体拘束や薬物による拘束が必要となる場合もあろう。しかしそれらの拘束の手段は、症状のマネージメントや症状を抑え込む手段containment stragegies により、実際に用いなくても済む場合が多い。後者の方法としては、ヘルパーの交代人格helper alternate identity (ふーん、そういう風に表現するんだ)に接近したり、自分の心の中の「安全な場所」に行くというイメージ療法や同じくイメージ療法を用いて感情の「ボリュームを下げる」試みをしたり、安定剤、抗精神病薬を用いたりすることがあげられている。
 そして、「ところで」とある。「ところでトラウマについて扱っている間に、『自主的な』身体的拘束
voluntary physical restraints により暴力的な交代人格をコントロールするという方法は、もはや適切な介入とは考えられていない。」
この一行は意味深い。こういうことだ。「昔は患者が自分から選択して自らを拘束してもらい、それから過去のトラウマを思い出す、というやり方はかつてはしばしばなされ、「適切な方法」として用いられていたが、それいまでは疑問視されている」ということだろう。私が昔アメリカのテレビで見たのもこの映像であった。そうか、効果は疑問視されているのか。しかし発想としてはあり得るのではないか。つまり多用はしてはならない、というだけであり、そのような扱いを希望する患者さんの場合には、その援助をすることはあながち悪いとは言えないような気がする。
「私はある記憶について思い出したいのですが、暴れるかもしれないので、両親にあらかじめ手を握っていてもらっていいですか?」と問われたら、私はそれもありかな、と思うだろう。
ここから先は私の推察であるが、おそらく(まだ)暴れ出してもいない人に対して身体拘束を施し、暴力的な状況を人工的に作り上げることは人道的にいかがなものか、という疑問が呈されたのではないか? その最中に患者が骨折などしようものなら、それが患者が「自主的」に治療者に願い出て施された拘束のせいでも、医師は訴えられてしまえば負けてしまう可能性がある。これは米国でもいかにも起きそうなことであり、したがって治療的に有効な可能性を残していても、不適切な治療手段とされたという経緯があるのではないか。
もう一つの重要な問題は、この自主的な身体拘束を用いた「治療」が、ある種の「病巣を摘出する」という精神につながる物であり、トラウマ記憶は想起させれ解除反応させることになるという考えに基づいている可能性である。もちろんそれは全面的に否定されるものではないが、これまで何度も云うような「再固定化」につながるものでなくては意味はないのである。


2013年10月21日月曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(12)

ガイドラインは続いて入院治療についての説明に入る。「DIDの治療は主として外来治療で行う、たとえトラウマの素材を取り扱う時でさえ」、とある。それはそうだろう。今のアメリカでは精神科に入院することは、ハーバードのメディカルスクールに入るより大変だといううわさもあるほどだから。しかし入院が必要になるのは、自傷他害の恐れが高くなったり、PTSDの症状が極めて深刻な場合であるという。入院の目的としては、現在の不安定化を招いている事態(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)を同定し、それを改善してもとの外来による治療を再開できるようにするためのものであるという。
「現在の保険医療の事情を考えた場合、入院治療は短期間を余儀なくされ、その目的も安全の提供や危機管理、症状の安定化に限られる。」「しかし長期の入院の期間が経済的その他の理由で可能であれば、注意深く外傷記憶を扱ったり、攻撃的ないしは自己破壊的な交代人格を扱うこともできるだろう。」「トラウマや解離性障害を治療するような特別の病棟があった場合にはなおのこと、治療効果を発揮するであろう。」
私がこの種のガイドラインを読むことの不快感は、それがあまりに「彼らの事情」で書かれているからだ。私はアメリカに長くいたが(もう聞きあきたぞ! いい加減にしろ!)反米的なところがあるから、この種の事にも反応してしまう。「現在の保険医療の事情を考えた場合」って、アメリカの事だろう?カナダだって日本だって事情はずっとましだぞ、と言いたい。確かにアメリカにわたって最初に驚いたのが、入院にかかる医療費がいかに高額であるか、ということだった。1980年代ですでに、日本円にして一泊15万~20万というレベルだったのである。しかもそれが有名なメニンガークリニックだけでなく、市中の総合病院の精神科病棟でもあまり変わらなかったのである。これでは保険を使っていないと入院できない。それでもよく保険会社がそれだけのお金を出すものだと思っていたら、1990年代になると、保険会社がそれに対する支払いを渋るようになり、見る見るうちに入院期間は短期になって行った。それでもトラウマや解離時代の到来とともに、各地にもトラウマ病棟、MPD病棟なるものが出来たが、そのうち一般病棟に統合せざるを得なくなった。というのも入院期間がそれまでの数カ月から数週間、2週間、と短縮されていったからだ。トラウマ病棟と銘打って患者を集めて、特別のスタッフを配置して、というやり方が意味を持っていたのは、入院期間が数週間は許されており、そこで何らかの意味のある治療が成立している時代だった。そのうち入院が3日間、などというのが通常になってくると、精神科の入院は「一時的な自傷他害の恐れ」のため取りあえず隔離する、以外の何物でもなくなってしまった。

2013年10月20日日曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(11)

今日はあまりにひどい天気。せっかくの日曜日が台無しだが、月に一度の研究会にはみなさんがいらした。有意義な時間を過ごせたと思う。


ガイドラインの「治療の方式 treatment modalities」 という部分に移る。
外来治療の枠組みについて
治療の第一の選択は外来での個人精神療法である。頻度や期間は様々なファクターにより変わってくる。しかし通常はC-PTSDなどと同様、治療は長期に、年単位にわたって続くと考えるべきである、とする。頻度については少なくとも週に一度、多くのエキスパートは週二度を勧めるという。ただし高機能の患者については、週一度でいいであろう、とも書いてある。それ以上に頻繁になる場合(例えば週に34回など)は、期間を限定することで、患者の依存や退行を予防する、とある。またセッションの長さについては、4550分が基本であるが、時には7590分を必要とする治療者もある、と書いてある。セッションの終わり方については特に書いてある。患者が混乱したり解離した状態でセッションを終えることを避けるために、いかにグラウンディング(地に足をつけること。氷を握ってもらう、などの試み)を行うかを患者と共に考えておく人が必要である、と書いてある。
ちょっとここで口をはさみたくなる。私はアメリカに長年いたが、患者たちの多くがいかに金銭的に困っているかをよくわかっているつもりである。彼らの財布には23ドルしか入っていないというのはざらなのである。トラウマを負った人の多くは仕事がなく、健康保険にも入っていない。それでどうやって週二回、数年間の治療費が賄えるというのだろうか?それにたとえ保険に入っていても、精神療法に通えるのは一年に15回まで、などと制限が加えられてしまう。低所得者は高い保険の掛け金が払えないので、メディケイドという国の提供する保険に入るのだが、それで提供できる精神療法は質量とともに非常に限られたものになるのだ。私はメディケア、メディケイドの人たちばかりを対象にした地域の精神衛生センターで仕事をしていたが、そこでの経験からすると、このガイドラインに書かれているような治療など、いったい何人に一人が受けることが出来るのか、と思ってしまう・・・・・。

まあそれはともかく・・・・。外来の治療としては、特にやり方を定めるというよりは、折衷的eclectic であると言う言い方をしている。目標が達成できれば、認知療法的でも、力動的でもかまわないと言うことなのであろう。催眠についても用いることは有効であるが、主として沈静化、宥めること、自我の強化、と言った目的で行なわれると書かれている。EMDRなども必要に応じて用いればいい、と。

2013年10月19日土曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(10)

2段階 直面化、徹底操作、トラウマ記憶の取り入れ
いよいよ第2段階だが、この非常に精神分析的な響きに驚く。直面化も徹底操作も精神分析の概念ではないか!!しかも最初に書かれているのが、この段階におけるabreaction除反応(解除反応ともいう)の重要性であるという。これも言うまでもなく精神分析起源だ。そして書いてある。「除反応は十分計画され、その方法も注意深く選択されなくてはならない。」「たとえば暴露exposureによるものか、計画された除反応planned abreactionか。」しかしこれに関しては、特にDIDの患者に限ることではないという気がする。PTSDでもC-PTSD(複合型PTSD)でも同じである。しかしここでこの第2段階で特にDIDに当てはまることとして書いていあることがある。トラウマの記憶を担っている人格との作業だ。そうすることで「その人の人格を超えた情緒の体験の広がりが増す」からだという。このトラウマの作業により、トラウマ記憶はナラティブメモリーへと変わっていくというのだ。

さて次に出てくるのが、融合儀式fusion ritual である。うーん不勉強にして聞いたことがなかったなあ。トラウマ記憶のナラティブ化が進むにつれて、人格たちは別れている理由がなくなってくるという。この儀式は催眠やイメージングにより行う。ただしまだ融合する用意が出来ていない交代人格にそれを強いては決していけない、とも書いてある。
 さて第3段階は、特別章立てをする必要もないほどに簡略化されている。そこで行われるのは第2段階の発展的な継続やコーチングであり、実質的にはトラウマを抱えた非解離性の患者の治療と変わりないという。
 ここまで読んでずいぶんそこに書かれることに目新しさを覚えるとともに違和感も覚える。人格が寝るという現象、自然治癒的なプロセス、年齢的な症状の推移などが書かれていない。あるいは積極的な融合儀式について書かれている。この歳(57歳半)まだまだ学ぶことが多いなんて、道は遠いなあ。

2013年10月18日金曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(9)

まあともかくこのガイドラインを読み進めてみよう。
第1段階 安全性の確保、安定化、症状の軽減
この第1段階の目標としては、表題に掲げられたとおりだ。書かれていることは大抵の精神療法の初期のプロセスに関するものと変わりない。患者によってはこの第1段階で治療の大部分を占めてしまうことがある、と書かれている。そして「彼女たちが広範にわたる情緒的に深いレベルでのトラウマのヒストリーを探ることはなく、人格たちの融合に至ることもない」と言う。私はこの段階での治療をもっぱらやっているのみなのかと一瞬不安にもなる。
 さてそれ以外にこの第一段階について書かれたことについては、特に目新しいものはないし、常識的な内容である。交代人格には、基本的には登場した際に会うという形を取るべきであるとか、特定の人格に「奥に引っ込んでください」などと言わない、とか。あまり前だよね。それとか人格を時には呼び出すことも必要であるとか。それもそうだ。
 さて安全性の問題についてはいくつかの項目が挙げられているぞ。1.治療の成功には安全性の確保が必要であるという教育を行う。2.安全ではない、リスキーな行動のアセスメント 3.安全であるためのポジティブで建設的な行動のレパートリーの作成。4.危険な行為を行う交代人格の同定。5.患者を安全に保つために交代人格の間で合意形成をする。6.グラウンディングテクニック、自己催眠、薬物の使用など。7.薬物依存や食行動障害など、他の専門家の助けを必要とする問題のマネージメント。8.患者が子供に暴力的であったりする際の専門機関の導入。9.患者の自己防衛を動員することを助ける。

でも何か書いているうちに少し感動してきた。アメリカ人はこうしてやたらとシステム化して考えるが、我々日本人(というか私)はこれをちゃんとやろうとしない。それでいて自分で何かを作り出そうと考えたりする。こうやってきちんとマニュアル化しているものを取り入れるのも悪くはないかもしれない。このいくつかの項目のうち5は、とびぬけて高いハードルという気がする。というよりはこれを行うことが第1段階に入っていることに多少なりとも違和感を覚える。そもそもこれを行うためにはその人に備わっているあらゆる人格とコンタクトを取り、話し合う必要が生じる。しかし多くの「黒幕」的な人格は話をしてさえくれないことが多いのだ。

2013年10月17日木曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(8)

台風一過、気持ちいい朝、と思ったらもう次の台風が発生だって?もう勘弁してよ。

この後ガイドラインは、段階ごとの治療論に入って行くので、それを読んでからでもいいのであるが、一言述べておこう。少なくともここまでで描かれている解離性障害の治療論はかなり楽観的で、非現実的でもあるように思う。このガイドラインの最初の部分にでも、例えば「自然治癒的なプロセス」についての言及がなされているべきであろう。さもなくばこのガイドラインを読んだものは非常に混乱するのではないか?そして次のような幻想を抱くのである。「正しい治療を受けないDIDは決して治癒することがない。」でも実態はそうではないように思う。DIDはおそらくもっと自然で、非病理的な形で存在し、その大部分は治療(の必要性)とは無縁なのだ。
DIDの自然治癒の問題

これは脱線の中での章立てである。精神科の患者の2から5%の患者に見られるというDID.私はおそらく全人口の1%ほどは潜在的にDIDを持っているように思う。そして顕在化するのはその10分の一?もっと多い気がする。高校の一学年は、数百人程度か?その女生徒のうち一人、二人はいてもおかしくない。しかしその大部分がそうと同定されることなく終わってしまう。DIDとして同定されるのは圧倒的に10代後半から20代である。50代になって顕在化する解離性障害などは、遁走を除いてあまりない。ということはおそらくDIDのかなりの部分は自然経過の中で「消えて」行くのであろう。そしてその典型的な消え方は決して統合ではない。ほとんどの交代人格は「お休み」になるのである。これをDIDの自然経過natural course と考えるところから出発しなければ、治療を論じることにはならないであろう。
 私は精神疾患の自然経過を考える時、古代人や戦国時代の人々のことを考える。当時の人々の中で不適応を起こしたり、何らかの症状のようなものを呈している人たちを現代社会に呼び寄せ、現代的な診断基準を当てはめたらどうなるのだろうか?もちろん精神疾患は社会や文化に大きな影響を受ける。しかしそれを透かしてある種の典型的な躁うつ病、統合失調症などを見出すことが出来るだろう。私はそこにおそらくDIDに相当する人もいたであろうし、PTSDの人もいたであろう。それらがすべて「治療」を受けずに経過していく。その結果彼らは昔の社会でどのように変化し、老い、死んでいったのだろうか?
しかし同様の自然経過は、精神医学がはるかに進歩した現在においても観察できる。うつ病のようなポピュラーな精神疾患でさえ、医療にかかわるのは氷山の一角と言われているのである。ましてや不全型のDIDがそうと同定されることの方がきわめて稀なことではないだろうか?

2013年10月16日水曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(7)

さてガイドラインの治療論は佳境に入って行く。「望まれる治療の帰結は統合integration ないしは交代人格の間の調和 harmony である。統合や融合fusion などの用語は時には混乱を引き起こす。」 ん?どういう意味でだろう?「統合というのは広範囲の、長期にわたるプロセスで、解離的なプロセスのすべてに言及されることである。」「それに比べて融合というのは、ある一つの時点で二つ以上のアイデンティティが一緒になり、主観的な区別の感覚が失われることである。」ふーん、知らなかった。「最終的な融合final fusion とは最終的に統一された自己の感覚を持つことを言う。」「この両者の混乱を避けるために、一部の人々は統一unification という用語を提唱している。」もうここはどうでもいいや。
 「最も安定した治療の帰結は最終的な融合である。つまりは完全な統合、融合、そして分離の喪失である。しかし、・・・」と続く。「継続的なかなりの治療の後も、DIDの患者のかなりの部分が最終的な融合を達成できず、あるいは融合が望ましいとは言えない。」これが聞きたかった!しかしそれは私が望む形ではなかった。この後に「融合が達成できない理由」が続く。「慢性的で深刻なストレス、外傷的な記憶などの、人生の中でのきわめて苦痛な出来事を解決できないこと、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、医学的な併存症を持っていること、高年齢化、継続して存在する精神科的な併存症、別人格やDIDそのものに対する顕著な自己愛的な思い入れ、その結果としてより現実な長期的な治療結果を考えるならば、協力的なアレンジメントを考えるべきであろう。」ん?この「協力的なアレンジメント」ってなんだ?「つまりアイデンティティたちの間で十分に統合されたりコーディネートされたりしている機能」ということだという。しかしこうも書いているぞ。「しかし最終的な融合に至っていずに協力的なアレンジメントにある人は、後の人生で十分なストレスに出会うと、明白なDIDPTSDに陥りやすいようである。」ここら辺は私は異論がたくさんあるが、もう一区切り訳してからそれを展開しよう。
 「最終的な融合に達した後も、患者が有する残りの解離的な思考や体験方法についての統合の作業がさらに必要となろう。治療者や患者はほかの人格に任されていたような能力を取り入れたり、自分の持つ新たな痛みの閾値を知ったり、バラバラになっていた年齢を、一つの時系列的な年齢にまとめたり、自分の年齢に会ったエクササイズや疲労のレベルを知ったり、ということである。そして統合された見方からトラウマやストレスに満ちた出来事を改めて見直さなくてはならない。」なーんだ。結局昔の統合主義とあまり変わらないではないか…・


2013年10月15日火曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(6)

 DIDの治療の目的は、アイデンティティたちがお互いを重要なパートナーとして知り合い、認め合い、互いの間の葛藤を解決するということは治療の基本中の基本である。」うん、全くその通り。ちなみにこの論文に見られるように、英語圏の文献ではDIDの人格たちのことを「別人格」とか「交代人格」ではなく「アイデンティティidentity」 と呼んでいるわけだが、日本語にするとちょっとピンと来ない。それはともかく。
 「治療者は、アイデンティティたちはそれぞれが過去に直面した問題に対して、それに対処したりそれを克服するうえでの適応的な試みを表しているということを理解しなくてはならない。」フンフン。「だから治療者は患者に特定のアイデンティティを無視したり『処分get rid of』するように促したり、特定のアイデンティティを別のそれに比べてより現実real のものとして扱うのは、治療的とは言えない。」なるほど。「治療者は特定のアイデンティティをえり好みしたり、好ましくないアイデンティティを排除したりするべきではない。」平等に人格たちを扱う、という原則のことだろう。
「患者ば別のアイデンティティを作り出すことを示唆したり、名前のないアイデンティティに名前を付けたり(ただし患者は自分が望んだら名前を選ぶことはできるだろう)、アイデンティティがすでに機能している以上に精緻化され、自立した機能を行うように示唆するべきではない。」ちょっと待った!!いや、異論があるわけではない。これは例の「医原性にDIDが作られるのではないか?」という批判に対する答えというニュアンスがある。治療者はDIDの人格を新たに作り出しているという誤解を受けるようなかかわりは避けなくてはならない。しかしこれはむしろ患者向け、というよりは精神医学会に向けた断り書きという意味があるように思える。

ちなみに私は「名前のないアイデンティティに名前を付ける」ことは場合によっては致し方ないと思っている。もしそのアイデンティティが患者との間でしばしば話題になり、何らかの呼び方が必要になるときはあるからだ。例えばある患者さんは遁走状態に頻繁になり、遁走時のアイデンティティはいつも決まった行動パターンを有しているらしいことが分かっている。遁走時のアイデンティティにたまたま話しかけることが出来たりしても、無愛想で口を開こうとしなかったりする。名前など聞いても無視されるなどして取り付く島がないのだ。そのような場合、そのアイデンティティを仮に「Aさん」と呼ぶことにするのは差支えがないと思う。Aさんと呼ぶことにしたら、それが例えば雪の結晶ができる際の最初の塵のような役割を果たし、一気に人格の精緻化が進むかといえば、そんなことは起きないのがふつうである。ある遁走の方はすぐ遠くに旅行に出てしまうアイデンティティをお持ちだったが、名前がなかったので、「旅行さん」という名前を仮に付けたが、彼は結局そのうち出なくなってしまった。そんなものである。
 同様に、私はいわゆるマッピングを詳細に行い、例えば実際にAさんという名前がついている人について、年齢、性別、性格、記憶などについて詳しく聞き出すような試みは、非治療的、とか禁忌、とかは考えていない。しかし治療には役立たないことも多い、ということだ。もしそれによりAさんのプロフィールが詳細になり、活動量を増すとしたら、おそらくほかのこれまで出ていた主役級のアイデンティティの出番が減ることになるだろう。人間の脳の容量は、同時にいくつものアイデンティティを活動させるほどには大きくないであろうからだ。もし同時に覚醒し、活動できるアイデンティティが34人であるとしたら(そして実際にその程度だと私は思うが)、特定のアイデンティティをことさら精緻化させることでそれが6人にも10人にも増えるということはないと私は考える。

2013年10月14日月曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(5)

さて肝心の治療論に近づいているが、こんなことも書いてあって面白い。「医原性のDIDについてはかねてから活発な議論があった。しかし専門家の間ではこのことはつよく否定されている。」「DIDの症状の全体にわたって、医原性に作られたということを示すような学術論文は一つも出されていない。」ただし、とある。「他のいかなる精神科的な症状と同様、DIDの提示は、虚偽性障害や詐病である可能性がある。DIDをまねるような強い動因が働く場合には注意しなくてはならない。たとえば起訴されている場合、障害者年金や補償金などが絡んでいる場合。
ここに書かれているのは事実かと思うが、やはりDIDは詐病との関連が指摘されることが多いのはなぜなのか?例えば統合失調症についての鑑別診断に、詐病や虚偽性障害が言及されるだろうか? おそらくないだろう。ところが解離性障害となるとこれが出てくる。では実際に多いのだろうか? 私の感覚では決して多くない。というよりDIDが鑑別診断上問題となった数少ないケースは統合失調症の方が何人か、程度である。むしろそれよりもDIDを詐病と疑う臨床家の数の方がはるかに多い、という印象である。これも不思議なことだ。解離性障害の性質として、詐病や虚偽性障害を疑われやすいという特徴があると考えるしかないであろう。
<治療の目標>

最初にこう書いてある。「統合された機能が治療の目標である。DIDの患者は日常生活に責任を分担しているアイデンティティ達からなる、一人の成人の人間全体 a whole adult personとみなされなくてはならない。」「患者は別れているという感覚を持つにもかかわらず、患者は単一の人間single personであること、そして一般的には患者を構成するアイデンティティの一人あるいは全員によるいかなる行動についても、その人全体a whole personに責任を持たせるべきであることを念頭に置かなくてはならない。たとえ患者がその行動について記憶喪失があったとしても、あるいは自分がそれをコントロールしていたという実感がなくても、である。」
 うーん。それなりに注意深く書かれた文章であり、やはり問題がないわけではないか。最初の「統合された機能が治療の目標だ」はその通りである。人格の統合、と言わずに機能の統合、というところがミソである。要するに人格同士がお互いに協力関係にあり、全体として機能出来ていればいい、というわけである。

2013年10月13日日曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(4)

昨日は京都の精神病理・精神療法学会。午前中に出番が終わり、京都は暑いなあ、と思いながら東京に戻ると、もっと暑かった!学会では幸い[アウェイ感」は特になく、楽しく議論をすることが出来た。

依然として脱線気味である。ISSTDのガイドラインの中身を見ているうちに、「DIDは人格の統合が行われる前にトラウマが起きたために、ちゃんと統合されなかった」という論旨に対する異議を唱えている最中である。
 さて子供が人格Bを精緻化する際のもう一つの重要な要素であるファンタジー傾向。これについての論文では言及してないが、これも考えれば同一化と非常に近い関係にあることがわかる。少年が忍者タートルと同一化してかのように振舞う為には、その少年の側のより高い想像力や知性が必要となる(うそ、うそ)。何しろコピー元の情報は限られているのだから。
ということで再びガイドラインに戻ろう。192ページのepidemiology (疫学) についての項目。精神科の患者のうち1~5%がDIDの診断基準を満たすという。ということは実際の人口ではこれよりかなり少ないということになるか。ここら辺に異論はない。そしてそれらの患者の多くがDIDとは診断されていず、その原因としては、臨床家の教育が行き届いていないから、とある。大部分の臨床家は、DIDが稀で、派手でドラマティックな臨床症状を呈すると教育されているという。しかし実際のDIDの患者は、明らかに異なる人格状態を示す代わりに、解離とPTSD症状の混合という形を取り、それらは見かけ上はトラウマに関連しない症状、たとえば抑うつやパニックや物質乱用や身体症状や食行動症状などにはまり込んでいるという。そして診断はこれらのより見かけ上の診断を付けられ、それらの診断に基づいた治療の予後はよくないという。ここら辺は事情は日本とほとんど変らないと言うことか・・・。
 さてNOS(他に分類できないもの)についてはどうか。臨床現場で出会う解離性の患者の多くはNOSの診断を受ける。ここには実際はDIDだが診断が下っていない場合と、DIDに十分になりきっていないタイプとが属するという。後者に関しては、複合的な解離症状を伴っていて、内的な断片化がある程度生じていたり、頻繁でない健忘が生じているものの、もうちょっとでDIDにいたっていないという場合であるという。ここら辺も特に異論はない。ただし私の感想としては、DIDの人は、人格が精緻化されるという方向にまで普通は行き着いているようである。人格の分節化のプロセスは、いったん始まったらあとは半ば自動的に起きるプロセスといえるのではないか?

さて施すべき心理テストはたくさん書いてあるぞ。以下頭文字のみ。SCID-D, DDIS, MID, DES, DIS-Q, SDQ-20.・・・本当に彼らはたくさん作るな。私はちなみにほとんど使ったことがない。

2013年10月12日土曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(3)


(ここからは脱線気味である。)
 B状態にある人格に目鼻が書き込まれ、名前が与えられるというのはつまり、DIDで見られるような交代人格状態にまで成長しうるということを比喩的に表現していることはいうまでもない。ではどうして子どもはB状態をそこまで精緻化できるのか?私には一つの仮説がある。それは子供の同一化の能力だ。子どもはアニメのキャラクターに「なりきる」ことが出来る。アメリカで「忍者タートル」という番組をやっていたが、幼かった息子は番組を見ながら本気になって登場人物と同じように鉢巻をして敵に向かってかまえる仕草をしていたのを思い出す。
 この種の「なりきり」は成人の同様のそれよりワンランク高度なものである。ここで思い出していただきたいのが、言語の習得のプロセスである。子どもが母国語を話し出す際は間違いなく模倣のプロセスを含むが、彼らの発音やイントネーションは完ぺきなそれになっていく。これは外国語の習得と明らかに違う。中学生になり、英語の教師の口真似をして人工的に学んでいく際は、真似をしているだけなのだ。私は自分が英語を話す時は常にfalse selfであることを自覚せざるを得ないが、どこかに「にせもの」感があるのは英語の習得が「なりきり」の段階を経ていないからなのだ。
 どうして子どもは自然に「なりきる」ことが出来るのか。おそらくミラーニューロンの活動の程度が極めて高いからであろう。子どもにとって最も重要なプロセスの一つは、大人の模倣をし、意思伝達を行う言語を獲得することである。その為のミラーニューロンの活性の程度は並外れているのであろう。そしてそれは思春期の到来とともに低下して行く。子どもは日本人になったうえに、外国人になる必要はあまりないわけだ。アイデンティティは取りあえず一つあればいい。それ以上あるとかえって混乱するだろう。その為にも周囲に同一化してなりきる能力はある程度抑制されていかなくてはならない。
 B状態が人格として成長する能力にも、周囲の何らかの表象を取り込み、それを自分のものとして精緻化して行くというプロセスにはミラーニューロンの活動が欠かせないのであろう。例えば母親にとって「いい子」の人格を形成するためには母親が理想の子どもとして思い描いているであろうイメージを取りこみ、同一化する能力が必要なわけだ。

ところでこう考えて行くと、同一化、なりきりの力と同様に重要になってくるのが、子どものファンタジーを抱く能力である。

2013年10月11日金曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(2)

 さて次に少し気になることが書いてある。「DIDはもともと統合されている心に生じた問題ではない。正常な心の統合がうまく行かなかったことが原因だ。そしてそれは圧倒的な体験や、養育者との関係の障害(例えばニグレクトや、問いかけに応えてくれないなど)が幼少時の臨界期に生じたことによる。その結果として心にサブシステムが形成されたのだ。」
うーん、どうだろうか?私は結構反米的だが(アメリカで長年暮らしたのに)、反対のための反対はしないつもりである。でも気になることは多々ある。特に彼らの感受性は結構疑っているのだ。ということでこのDIDの成因についても彼らの感受性で臨床を行い、出てきた結論としてあまり頭から信用しないことにしている。

私は「心が統合されていないうちにトラウマが起きる」、という部分が納得しかねる。子供は小さいながらに統合された心を形成しつつある。ところが圧倒的な出来事が起きて意識が飛ぶ。その間心のもう一つの部分が心を代行するということが起きるのだろう。それが解離の始まりという気がする。問題はこのもう一つの部分の心が独自に人格を持つという傾向が、幼少時にしか典型的に起きないということだろう。幼少時には心が成熟していないから、というのではなく、幼少時には特殊な能力が備わっているから、と考えるべきだろうと私は思う。うん、ここは全然違うね。私の方が絶対正しいという保証はもちろんないけれど。
 もうちょっと説明しよう。圧倒的な出来事が起きた時、大人でも朦朧としてしまい、トランス状態になることがある。いわゆるperi-traumatic dissociation (トラウマ周辺の解離)、という状態だ。それを仮にB状態としよう。B状態はやがてフラッシュバックのように襲ってくることになるだろう。構造的解離理論がこれをEP(情緒的な人格部分)と呼んでいるのは私も知っているし、それはうまい考えだと思う。つまりフラッシュバックした時は、体験そのものがよみがえっているというよりは、人格状態が違うんだよ、と言う含みだ。PTSDを解離の範疇に飲み込むような概念である。
問題はB状態がどこまで精緻化されるかということだ。精緻化sophistication とは要するに、B状態が「顔なしさん」ではなく、目鼻が書き込まれ、名前まで備わっている状態になるということだ。

2013年10月10日木曜日

欧米の解離治療は進んでいるのか?(1)

うーん、この問題は頭が痛いなあ。よくわからない。解離研究と言えば米国だが、アメリカ人の書いた本であまりためになったという実感がない。「構造的解離理論」もとても難解で、飲み込めていない。(一応翻訳者の一人です、はい。)こんなことではいけないではないか?別に隠すことはないが、私は人の書いた本を読むのが大嫌いなのである。(自分が書いた本はほとんど開いたことがない。)
ということでしばらくは、四書五経を読むつもりで観念して、Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults, third revision (成人DIDの治療ガイドライン、第3版)という論文を読む。これはすごく由緒正しい論文だ。何しろ著者を聞いて驚いてはいけない。International Society for The study of Trauma and Dissociation (“ISSTD”)なのだ。つまり「国際解離学会」そのものが著者ってどういうこと?つまりこの国際的な学会がガイドラインを作ることを決定して、内部でエキスパートを選んで部会を立ち上げ、書き上げたガイドラインということだ。つまりこれ以上のお墨付きはないことになる。それにこれが書かれたのは2010年だし。ちなみにこの論文は、ISSTDの学会誌であるthe Journal of Trauma and Dissociation のサイトで無料でダウンロードできる。http://www.isst-d.org/downloads/2011AdultTreatmentGuidelinesSummary.pdf

始めにDIDの成因についての理論的なことが改訂ある。ここはあまり問題ない。例外を除いて幼少時のトラウマが原因である、と書いてある。解離は幼少時のトラウマに対する防衛であり、それも闘争・逃避反応のような類のものであり、精神力動的な概念である防衛とは異なる、と断り書きがしてある。
ちなみにこのDIDの成因の説として構造的解離理論が登場してくるが、これはある意味では当然のことと言えるだろう。この理論の提唱者の一人であるVan der Hart先生のこの学会での位置を物語っているのだろう。

2013年10月9日水曜日

「再固定化」概念の見直し(5)

この再外傷体験という問題についても、実はこれまでの神経回路一本の連結、という機序を想定出来るというのが私の考えだ。説明のために別のケースを取り上げる。米国で聞いたある女性(Aさん、としよう)のケースである。Aさんはある男性に付きまとわれて、危うく性被害に遭うという体験を持った。彼女はそれに傷つきはしたが、さほど深刻な反応は起こさなかった。ところが後になって捕まった同じ男性が、何人かの女性に性的暴行を加えたあげくに殺害していたということがわかり、それが大きく報道された。その報道に接して、自分にトラウマを負わせた男が実は殺人犯であったことを知ったAさんは大きなショックを受け、「一歩間違えれば自分は殺されるところだった」と思ったという。その時からフラッシュバックや感覚鈍麻などを伴ったPTSD症状が始まったのだ。
 ウーン、この例、使えると思ったがどうだろう。私はこの次にこのように言いたかった。この男性にトラウマを負わされた時の記憶群がある。それがある別の表象群と連結したのだ。それは凶悪な人間、殺人者のイメージ。一昨日の「見直し(3)」に出てくる「B県人」、つまり「そこそこいい人たち群」とは真逆の、恐ろしい凶悪で冷酷な人間のイメージ。これでいいのだろうか?なんとなく納得がいかないままに絵をかいてみる。(字数稼ぎではないので、誤解のないよう。一種の気晴らしである。
) ポイントはここでも、一本の神経回路の成立である。 

2013年10月8日火曜日

「再固定化」概念の見直し(4)

ちなみに同様の例で、しかし「B県人」に相当する人がいない場合はどうだろう?「あ、この人いい人ね」ととりあえずはラベリングができる人がいないような場合だ。この人の例では「再固定化」はおそらく半永久的に生じない可能性がある。つまり「繋がる先」が存在しないからだ。もちろんそのような良い対象像をこれからコツコツと構築していくことが可能であるならば、話は別であるが、おそらく幼少時にその原型さえも創られていない場合には至難だろう。ただし人間は誰でも、よい対象を取り入れるポテンシャルをある程度は生まれながらにして持っていることも事実であろう。生まれてこのかた良い対象に全く出会わなかったというケースも稀であろうし、架空のよい対象、例えば童話やアニメの中にある良い対象を取り入れることも可能であることは、解離性の人たちが例として示すところである。治療者が良い対象のひな型になることで、患者の記憶の中に埋もれていた良い対象像群のイメージが活性化されていく、ということは可能であろう。そしてそれが「見直し(1)」で述べた2番目の例に相当する。
 では3番目の例、すなわち「昔のあまり思い出したくないこと」を想起した際にそれが再燃して、フラッシュバックや解離が頻発するようになったという例はどうであろうか?これはいわば逆方向の再固定化という風に概念付けられるのではないか?再固定化は原則的によりトラウマ性の少ない形で記憶が改変されるという場合であるが、逆の場合もあろう。こんな例もある。昔軽い交通事故にあい、打撲程度ですんで忘れていたことのある人が、別のトラウマを体験する。そのフラッシュバックに、昔の交通事故の思い出も重畳する形で見られたというケースである。あるいは再外傷体験という現象。性的トラウマなどで、取調べを受けることで余計その外傷性が増すというケースもよく聞く。

2013年10月7日月曜日

「再固定化」概念の見直し(3)

神経回路一本の連結のみで生じる「再固定化」の例

再固定化の例として、こんな思考実験を考えた。仕事の上での同僚Aさん。どうもいい印象がない。面と向かって話したことは一度もないが、いつも人を上から見下すような、自信ありげな強い口調がイケスカないのだ。ところがある時、そのAさんが、B県のC高校の出身であることを知った。ナンだ、同郷ではないか。それに学年もあまり違わない、ということはどこかですれ違っていた可能性もある。すると途端に印象が違って来た。自分はB県人だし、B県出身の人間はとっつきにくいが悪い人間はいないと思っている。Aさんもぶっきらぼうで言葉は荒っぽいが人は悪くないのかもしれない。今度飲みに誘ってみよう、と思うようになった。
 この場合AさんとB県人とのネットワークは一本でつながる。するとAさんのイメージは、B
人というイメージに強く影響を受けることになり、Aさんの心証はガラッと変わってしまうことになるだろう。(図をかくのに時間がかかったから、これで一回分。)

 






2013年10月6日日曜日

「再固定化」概念の見直し(2)

昨日は一日中いやな雨。津田ホールで精神分析協会による「公開講座」に出席。北山修先生司会、藤山直樹先生との討論という形を取った。久しぶりに人前で話すのが非常に気が進まないという体験を持った。基本的に自分の考えを伝えることは好きだ。でも人前で話していて楽しくない。注目を浴びてもうれしくない。高揚感もなく、でもやるべきことをこなしている感じ。でも北山先生にいっしょにラジオ番組をさせていただいた時は楽しかった。つまり人目にさらされることがうっとうしいのである。書く、ということはその種の問題が除外されるから割と無理なく自己主張が出来る。
ちなみに昨日の公開講座、結果的にはとてもいい刺激を受けることが出来て楽しかった。

再固定化と新たなネットワークの形成
ここで私の考えはいよいよ訳がわからなくなっていく。再固定化って、そんなに特別な現象ではなく、たとえば気付きとか、「あ、そうか!」体験で起きていることとあまり変わらないのではないだろうか? これについて少し考えて見よう。
 そもそも私たちがある事柄について決して忘れないような体験をする時、脳の中で何が起きているのか?例えば長い間考えあぐねていた問題にあるヒントが与えられ、そこから一気にその問題が解決したとしよう。いわゆる「あ、そうか!」体験。これは一度それが生じた場合には、二度とそれを忘れることはないだろう。その意味ではその問題に関する思考そのものが変質し、再固定されたということになるのではないだろうか。しかしここで再固定化された際の脳の中の機序はある意味では容易に想像できることだ。「心から見える脳」である。(ナンの事だ?) つまりはちょうど円環の最後がつながった状態。神経回路が形成されて、ネットワークAとネットワークBがつながった状態。これによりABが同時に興奮が可能になった状態である。ああ、Aって、結局Bなんだという体験。ちょうど水をたたえた二つのダムの間に掘られたトンネルのようなものだ。シャベルによる最後のひと堀りで両者がつながる。それと同じようにABだったんだという体験が一回でも起きたら、それ以降ABが別個に興奮することはない。必ず同時に興奮するのだ。しかしそれにしても水路の場合は、実際にトンネルがつながるのだが、神経ネットワークに関しては、なぜ一瞬生じた疎通が一生続くのだろうか? そのために、一回の記憶が半永久的に続く状況を思考実験を通して考えて見る。
 例えばあなたがパソコンの入力画面で4ケタのパスワードを求められ、適当にそれをでっち上げたとする。あいにく書きとめるメモ用紙もペンもなく、しばらく頭の中で転がしておかなくてはならない。何しろ一度忘れたら大変なことになる、貴重なパスワードだとしよう。頭の中で何回も唱えることで当座はそれを保つが、何か別の事に気を取られるとわすれてしまう。これはいわゆるワーキングメモリーの状態だ。最初の数分間だけ持つ。そのうち海馬の働きで長期記憶に引き継がれる。こうなるとしばらくは忘れない。それをしっかり保っていれば、数週間で大脳皮質に移される。これで半永久的な記憶になる。
 このプロセスで起きるのは、たとえば3.5.4.1という数字のつながりであり、それを形成するエングラム、つまりは「サンゴーヨンイチ」という音ないしは視覚像だが、もちろんサン、ゴ、ヨン、イチは別個に知っているので、それぞれをつなぐ繋ぎ目の部分の接続がより確固たるものになって行くことになる。4つのリングの結び目だけ新しく作ればいいというわけだ。このプロセスは再固定化とは関係ないが、再固定化が生じる際に脳に何が起きているかを知る手掛かりになる。

さて「あ、そうか!」体験はそれまでの思考が一歩進んで変質した、という意味では再固定化に近いプロセスではどうか。やはり同じようなことが起きると考えるべきだ。まず、「そうかABなんだ!!」という感動があるだろう。そしてそこで扁桃体の興奮と共にワーキングメモリーはほぼ自動的に回転し、長期記憶の形成にまでスムーズに流れて行く。これは先ほどの「パスワードを忘れたら大変なことになる!」という人為的なモティベーションの代わりに自然な形で生じる、つまり感動によるワーキングメモリーの維持ないしは長期記憶の形成である。でもパスワードの場合と本質的には変わらない。というよりはパスワードでは3本のかけ橋、神経回路の形成が必要だったが、この場合はもっと単純な、エングラムABとの間の一本のかけ橋になぞらえることが出来るのだ。
  ここで扁桃体による興奮の部分を考えて見ると、それはミスマッチによる意外性が関係しているとは考えられないか? ミスマッチによる「えっ、そんな見方があるんだ!」「なに?そんな反応ってあり?」みたいな体験が扁桃体を刺激し、そこで新たに形成された神経回路を強化するということではないだろうか
?

2013年10月5日土曜日

「再固定化」概念の見直し(1)



「再固定化」は強力な概念であり、また現象であるが、私自身は納得していない(もちろんよく分かっていない、ということもあるが)。それは記憶の再編だけの問題なのか?たとえば誰かのある一言をきっかけにものの考え方が変わるのはなぜか?自己価値観の変化は?自分を受け入れられるようになるのは?
 例えばこんな例を挙げてみる。私がある本を出す。読者はたいていは私からは見えない。ところがある読者から、「とても面白かった」というコメントをもらうとする。私は当然うれしいし励みになる。やる気が出る。あたりまえでよくある話かもしれない。同じようなことは治療場面でも生じるかもしれない。勇気づけ、ポジティブなフィードバック、自己価値観の向上、等様々な呼び方がなされるだろう。しかしこれも私はTRPのプロセスではないかと考えるのだ。自分の中で何かが変わるただし変わったのは「記憶」という呼び方が適切ではないだろう。
 あるいはこんな例。ある幼少時に非常につらい思いをして、人を信用できなくなっている人との面接。何度か(何年か?)のかかわりを通して、少しずつこちらを信頼し、その人の他人とのかかわりの持ち方全体が変わっていく。これもTRPではないか? 純粋な記憶が問題ではないけれど。
 もう一つの例を加えておこう。昔のあまり思い出したくない出来事を治療者により尋ねられた女性。それまでほぼ忘れていたことがその晩から思い出されて、感情が非常に不安定になる。フラッシュバックが頻発し、不眠気味になる。これもTRPではないか?ただし逆方向に働いた場合である。臨床をやるものとしては、脳科学的にこれらとTRPと類似した機序で起きるのか、それとの異なるのかについて知りたいところだ。
 自分の本に対するイメージ、という最初の例を考えてみる。これは記憶ではなく、一種の印象のようなものだ。私にはほんの表紙のイメージが浮かび、細かい内容についてはその章の一つ一つが思い出せるが、一挙に押し寄せてくるわけではない。そしてそれに対して「まあまあの出来」とか「恥ずかしい出来」とかの評価を下している。「面白かった」という読者の反応を受けた前とあとで、私が持つ本の具体的なイメージ(黒の表紙、本文の章立て、など)は代わらない。その評価が少し変わるというわけだ。これは記憶か?必ずしも。思考内容か?おそらく。なぜならそれを点数化することが出来なくもないからだ。読者の反応を受ける前は自ら60点に採点していた自分の本を、読者の葉書を読んだあとは75点に修正する。これも思考内容の変更であり、認知の変化であり、再固定化ではないか? 待てよ?認知療法で生じることも再固定化か???

2013年10月4日金曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(6)

 別人格と再固定化というテーマで最終的に提言できることを書いているわけだが、「別人格には主張がある」という仮説は、これが遁走になると、事情がよくわからない。遁走中の人格はしばしば人格的には白紙のような存在で、必要最小限の意識レベルで行動しているかのようであり、そうすることで何を主張したいのかは不明なのである。茂原の高3女子の件が報道されているが、御本人に会わずして何とも言えないが、やはり朦朧として最小限の判断力で徘徊していた可能性がある。ちょうど意識状態としては非常にプリミティブな古代人に戻ったかのような???
 解離性遁走にはわからないことが多いが、おそらく人間の心にはある種の「古代人的」な人格状態モード(コンピューターで言えば、DOSモードのような)が存在し、そこへの回帰が時々原因不明ながらも起きるのではないか?古代人への回帰願望?古代人からのメッセージか?遁走状態にみられる自我の在り方は、いわゆる文化結合症候群に見られるそれにむしろかなり近い。アイヌのイム、東南アジアに見られるラター、アモックなどにかなり類似している。突然あるプリミティブな人格状態になり、急速に回復して健忘を残す。DIDによる人格交代と、遁走における人格状態の変化との違いは何か?
 おそらく人格状態の交代には、二つの要素がからんでいることになる。一つは主人格のストレスの大きさないしはストレス耐性の弱さであり、もう一つは交代人格の持つ「出たい」という衝動であろう。おそらく人格Aがストレスに耐えられず、また人格Bが出番待ちをしているというタイミングが重なれば、AからBへの移行が生じる。しかしAがストレスに耐えられない時に、Bに相当する人格がまだ存在しない、あるいは未形成な場合はどうか? おそらくそれが遁走を生むのであろう。遁走がしばしば全生活史健忘を生むのは、人格Bに相当する状態が、それ自身の生活史を持たず、いわば白紙の状態でAの人生を引き継いだ状態と仮定することが出来る。
 ということで何ともわけのわからない終わり方だが、私自身はこれがまとめの作業になっている。TRPの考え方は、DIDタイプの人格交代に対してはある程度の応用が可能だが、遁走タイプに対しては未知数である。 (おしまい)