2011年5月29日日曜日

「津波遊び」について

ネットで昨日拾ったある記事。

東日本大震災の巨大津波に襲われた宮城県の沿岸地域の園児たちが、津波や地震の「ごっこ遊び」に興じている。「津波がきた」「地震がきた」の合図で子供たちが一斉に机や椅子に上ったり、机の下に隠れる。また、子供には不釣り合いな「支援物資」「仮設住宅」といった言葉も聞かれるという。「将来役立つ」「不謹慎だ」と評価は分かれそうだが、児童心理の専門家によると、子供たちが地震と津波の衝撃を遊びを通じて克服しようと格闘しているのだという。「徐々に回数は減ってきましたが、震災直後は『津波がきた。逃げろ』と叫ぶとみんなが一斉に少しでも高い椅子や机に上がる津波ごっこ、『地震だ』と叫ぶと机の下に競って潜り込む地震ごっこを子供たちはやっていましたね」

心理学を専門にしている人間にとっては最も妥当な理解ということであろう。フロイトの「快楽原則の彼岸」での糸巻きの例で、ある意味でお墨付きがついている。私は常識については必ず疑うので、この妥当な説明にも、「本当だろうか?」と考えている部分がある。(大体わかったような説明は嫌いだ。)
それでも確かに多くの子供たちにとってはこの種の遊びは結果的に適応的だということくらいは言えるだろうか。そしてそれにも多くの個人差があるはずだ。おそらく「津波遊び」にはいろいろな子供が加わっているはずだ。津波に遭ってかろうじて生き残り、そのトラウマを克服しようとしている子供、津波に遭わず、それがひとごとだった子供。そして忘れてはいけないのは、クラスメートの「津波遊び」を見てフラッシュバックを起こしてうずくまる子供もいるはずだということである。
大多数にとって適応的なことも、少数の人々には不適応的であったり、外傷的にすらなりうるのである。

2011年5月28日土曜日

表面的なこと

「ほぼ毎日ブログ」をいったん中止してみると、今度は「やっと月一」という以前のモードに戻りそうだから不思議である。
短期間にテレビとラジオに出てみた(たまたまそういう機会があっただけ)わけであるが、テレビはもうたくさんだ(誘いも別にない)が、ラジオは別という印象を持った。声だけだからリラックスできるし、それだけ話す内容に集中できる。視覚情報を介するテレビは、出る側も観る側も、あまりにも表面的なことにとらわれてしまう。
けさ私はNHKのテレビを見ていて、女性のキャスターの首の長さに気をとられて、何を報道しているのか聞き逃した。続いて枝野官房長官が映ったが、彼の耳たぶが外側に反り返っているのに気をとられて、また内容を聞き逃した。そんなものである。そして視覚的なメディアに登場する人間はそのような表面的なことに対する視聴者の反応に気をつけなくてはならなくなってしまう。私がテレビというメディアを胡散臭く思うのは、そういう側面もある。

2011年5月23日月曜日

斑目さんと菅さん、うーんよくわからない

斑目さんと菅さんの間に「温度差」(よくわからないが、最近よく使われる表現)があるようだ。要するに斑目さんは「ワシは、海水注入がイカンとは言っとらん!」菅さんは最初は「斑目さんに聞いたら、海水注入でメルトダウンを起こすかも、といわれたので止めた!」しかしなにやらそれについても「私は言った覚えはない」といっているとか?斑目さんは最終的には「メルトダウンが起きる可能性はゼロではない」といったということまでには譲歩しているらしいが・・・・。でも大事なのは「ゼロではない」という言葉のニュアンスである。「メルトダウンの可能性がゼロではない、だから海水注入はやめたらどうでしょうか?」と菅さんに伝わったとしたらそれは「メルトダウンを起こすかも」というメッセージと同じになるのだから。斑目さんは菅さんに対するアドバイザーとして、彼にどのような伝わり方をされたかを確かめないと、役割を果たしていないことになるだろう。その意味ではこの二人が一緒に責任を追及されるのも仕方がないのであろう。しかしそれにしても・・・本質を外れた水掛け論という気がする。

2011年5月21日土曜日

今日は午後にお台場のホテルグランパシフィックで日本精神神経学会の総会に出席した。いろいろ目を見開かされた思いだった。日本精神神経学会は14000人の規模と言うが、日本に精神科医がそれだけいる(あるいは退会した人も合わせるともっといる?)というのも改めて驚きである。と言っても国民一万人あまりに一人、ということになるが。聖路加の同僚(そして医学部時代のクラスメート)の池田先生と一緒にずっと聞き、その後喫茶店でおしゃべり。
ところでこのところブログの更新を余りしないが、実はいろいろ不自由を感じて、英語のブログを開いた。しばらく私のテーマについて一年ほどかけて書いてみようと思っている。その分日本語のブログは片手間になるとおもう。英語のサイトは→ http://dissociationstudy.blogspot.com/ こちらはそのうち挫折する可能性が大きい。

2011年5月18日水曜日

福島原発の問題。失敗学的に言えば…

福島原発の問題を見ていて思うこと。少なくともメンタルヘルスの専門家としては、人がこのような時に犯人探しをする傾向に注意したい。いつものように、みのもんたの「朝ズバ」は私たちが陥りやすいメンタリティを知る上でいい判断材料になるが、最近番組で問題になっているのは東電の出した行程表の不備、そもそもの安全管理の手ぬるさ、政府の初期対応のまずさ、などなどである。ある不都合な事態が生じると、過ちを犯したのはだれかということを追求する。過ちを許していたのは私たち自身であるという方向には向かわない。誰が正しくて誰か誤っているか、という単純な二分法に走りやすい。(というか、みのもんたがそれだけ単純なのかもしれないが。)例えば東電もまた災害の被害者でもありうる、という論調は出てもすぐに抹殺されてしまうだろう。私は東電の会長も社長も、避難所暮らしをしてそこから出社してみればどうか、報酬は全額返上して生活保護で生活すればどうか、と一方では思っている。そのくらいしないと「あんたたちにはこの苦しみはわからないだろう」という声には対処できない。しかし福島原発の放射能漏れが100%彼らのミスによる人災とは思わない。あの大震災がなければ、福島原発はほかの数十の原発と同じように安全に機能していただろう。

失敗学的に言えば、福島原発の事故は一つの失敗のプロセスであり、私たちが将来放射性物質を安全に扱う上でどのようなことが必要かを、失敗を経つつ学んでいる最中であるということを教えてくれたにすぎないのである。
牛肉のユッケによる食中毒の問題も同類である。不完全な人間が、手間を省き、同時に利潤を追求する上で安全管理の手抜きをするのはある意味では自然のことだ。それがとてつもない失敗や事故を引き起こすことから様々な安全策がとられるようになる。事故が起きてはじめて、正しい扱い方を学ぶのである。私たちが獲得した様々なノーハウは、そのような順番で蓄積されてきているのである。残念ながら福島原発も食中毒も、その例に過ぎない。なぜなら事情を詳しく、あるいはある程度知っている人が大勢いて、その問題を何とか解決しようという動きが出なかったからである。

2011年5月16日月曜日

やっぱり男はどうしようもない

日本の報道ではあまり扱われていないが、ニューヨークタイムス等では一面トップの記事で扱われたのが、国際通貨基金会長ドミニック・ストロースカーン氏のスキャンダル。来年のフランスの大統領選でサルコジ氏にとって代わる候補とされていた有力者だが、ニューヨークで女性に対する強要で逮捕されてしまった。これに呼応していたのが、スケールはいささか小さいが、ロック界の大御所内田裕也氏のスキャンダル。二人ともこれまで築いた業績や名声を一夜にして失ったばかりでなく、周囲に多大な迷惑や混乱を招いた。彼らの社会的生命のメルトダウンと言ったら大げさか?これらを目にして思うこと。やはり男はどうしようもない。しかし同じ男としてこれは同情が混じっている。
私が「男はどうしようもない」という時、「彼らがどうして身辺をきれいにし、思慮深いふるまいをしなかったか、アーどうしようもない」と言っているわけではないのだ。男性がある意味で本能に振り回されて常軌を逸してしまう部分をギリギリの線でコントロールして社会生活を送らざるを得ないという性(サガ)に対する憐れみも含めてこう言っているのである。政治の世界で、芸術の世界で力を発揮する人間が、下半身の問題でスキャンダルを起こすということはあまりに多く、政治、芸術、スポーツなどの世界における実力と性的な問題とは別物と切り離して考えるしかないように思う。米国にいた時散々聞かされたクリントン大統領(当時)のスキャンダルのことを思い出しても同様の感想を持つ。その種のスキャンダルはなかった代わりにどんでもない問題(イラク戦争のこと)を起こしたブッシュ大統領と比べると、クリントン氏は、大統領としての職務を立派にこなしたと言ってもいいが、彼ほど最悪なスキャンダルにまみれた人間もいなかったのである。
ただしこんなことばかり書いていると、これらの男たちが女性たちに行ったふるまいを許容していのか、と言われかねない。もちろんそんなことはない。社会的な地位を得た人間は、自分を狂わすものは何か、自分にとって命取りになるものは何かを十分知っておかなくてはならないということだ。
唐突だが原発事故を思い起こさせる。現代は男性はこれまでの粗暴で勝手で、彼らにとっては野生に近いふるまいを慎まない限りは人生のメルトダウンを起こしてしまう。それを防ぐためには何重もの防護策が必要である。女性とは一切一対一では会わないとか。自分自身に監視カメラを付けてしまうとか。SSRIを服用するとか(副作用を利用する)、カミさんに常に付き添ってもらうとか・・・・。

2011年5月15日日曜日

治療論 その8. (改訂版) 「治療者はセッション中にノートを取るべきか?」

治療者はセッション中に記録をとるべきか?これもあまりに色々なファクターが絡んでいるために、白黒を付けられない問題だが、よく学生やバイジーさんに問われる。精神療法に関しては、この種の問題が多い。「いちがいにどちらともいえない」という答えはどの問いに対してもほぼ同様に用意されているのであるが、その理屈が曖昧で、しばしば問われるのである。それに誰に指導を受けているかで大きく変わってくる場合がある。「セッション中にノートをとるべきでしょうか?」という問いは実は、「先生(バイザーのこと)は、バイジーにセッション中のノートの取り方についてはどのようにおっしゃっていますか?私もそのようにいたします(あるいはそうしていることにします)」ということだったりするのだ。ただしいかなる形でもこの種の問題は問われること自体に意味があることが少なくない。この問題について考える機会を与えてくれる、という意味では決して悪いことではないことだからだ。
本当はセッション中にノートをとるべきかどうかなどは、精神分析的な精神療法以外の治療法においてはあまり問題とされない。認知行動療法で「ノートをとるべきか?」を問うならば、もちろんイエス、となるだろう。セッション中に書き入れるフォームもあるくらいだ。ところが精神分析ではそうは行かない。フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということを言ったことから問題が始まった。フロイトの言葉としてしばしば引用される、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういう意味であった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派である。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それが「平等に」ではなく、まさに一つのことに注意を払うことになってしまうからだ。
フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。うーん、わかったような、わからないような。しかしフロイトと違って凡人の私たちは、ボーっと聞いていると何も思い出せなくなってしまうのだ。ところがそれに対してフロイトだったら、「いや、そういう意味での『ボーっと』じゃないのだ。どこにも注意しないで、でも一生懸命聞くのだ。全体を見渡すようにして聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」というだろう。
実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後に夜遅くまで再現してノートにつけたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり関係がないというのが私の印象である。
もちろんフロイト流に自由に心をめぐらせながら患者の話を聞いても、大体のあらすじなら十分に頭に入ってくるだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者の話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。ノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのにあまり時間はかからなかったよ。」これには少し安心した。
ただしここでの話は、セッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
セッションのノートのとり方について現実的な考え方を示しておく。人にはそれぞれ異なる認知パターンがあるし、記憶力の差もある。その個人にとってもっとも適当と思われる方法をとればいい。一番無難なのはセッション中はキーワードのみをノートに書き込み、後はセッション後にその間を必要に応じた詳しさで埋めるという方法だ。これは多くの治療者が実践しているであろう。ただし一セッションが終わってからほぼ再現してノートに起こせる人は、必ずしもトレーニングを積んでいない人の中にも現実にいるのであるから、それらの人たちはセッション中はキーワードさえも書かずに終了後に思い起こして要点を書き残せばいいことになる。
以上の話には例外がある。私たちは時にはバイザーへの報告や症例検討会での報告のために、セッションのほぼ全体を詳しく再現する必要に迫られることがある。その場合記憶力に自信のない人はかなり一生懸命ノートをとることになるだろう。そうなるとノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルなメッセージを逃したり、ということがおきるだろう。いつもと違ってある日急にペンを動かす治療者を見て、患者の側も不思議に思うかもしれない。これは一時的にではあれ患者治療者関係にとって決してよろしくないだろう。でもそれにより再現されたセッションが多くの情報を持つことになり、スーパービジョンや症例検討会にとって役に立つ場合もあるから、一長一短ということになる。
ちなみに症例報告で見事なセッションの記録が報告されたとき、助言者が「ところでこれほど詳しい記録をどうやってとったんですか?」ということを聞くのに出会ったためしがない。ここら辺はビミョーなのだろう。いっそのこと思い切って事情を患者に伝える? 別に隠すことでもないし、間接的に患者のためになることだから?ウーン・・・・
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。セッション中にノートをとることは少なくともタブーではない。しかしやはり考慮すべき点は次のことだ。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください!」 これもウーン・・・・・。

2011年5月14日土曜日

治療論 その7. (改訂版) 共感のために明確化する

昨日はなんとグーグルのブログ機能がダウン。当たり前に使えていた機能が突然不具合で更新できず。グーグルさんだいじょうぶ?と言ってもこちらはただで使っているのだが。


「治療者は精神療法やカウンセリングで一体何をやっているのかわからなくなります。」というバイジーさんの訴えを聞くことが多い。たしかに精神療法は非常に漠然としたプロセスである。カウンセリングとか面談とかいっても、単なるおしゃべりとほとんど区別がつかないように思えることもある。もちろん「単なるおしゃべり」に意味がある場合も少なくない。「先生の顔を二週間に一度見ないと不安になる」という患者もいる。その場合はおしゃべりをすることで治療者と顔を合わせることそれ自体がある種の目的を果たしていることになる。それでもいいのだ。ただし治療者の中には、もう少し自分のやっていることをはっきり分かりたい、整理して理解したいという人がいて、彼らに私が伝えるのがこれである。治療者は治療中に患者に対して「共感のための明確化を行なう」。
もちろん精神療法で何を目標にするかは、患者の抱えている問題の質によっても、また現在の機能レベルによってもことなる。だから大雑把なアウトラインとしてこうだ、ということを申し上げたいのだ。
この「共感のための明確化である」という説明は、意外とわかりやすいと私は思っている。言うまでもないことだが、私自身が、このような答えを出すことによって納得したという経緯があるからだ。治療者がセッション中に行うべきことのほとんどはこれに集約される。というより「単なるおしゃべり」でさえ、この形を取っていることが少なくない。

治療者:「最近どうですか。」
患者:「うーん、まあまあかな。」
治療者:「『うーん』って、何かあったんですか?」
患者:「ちょっとね、いつものことですよ。息子がなかなか言うことをきかなくって。」
治療者:「息子さんって?ああ、もうすぐ高校を卒業になるという。最近あまりお話しが出なかったですね。少し落ち着いているのかと思っていましたよ。」
患者:「いや先生、結局はずっと同じ問題ですよ。勉強の意欲はない。家の手伝いはしない。学校にも行ったり行かなかったり・・・・。それでいてちょっと注意をすると逆切れをする」
治療者:「あー、そうなんだ。そりゃ大変だね。・・・・」
どこの精神科の診察室でも、カウンセリングルームでも聞かれるような会話。そこで行なわれていることの多くは、ここに示した治療者の言葉に見られるような明確化の連鎖である。それは何のためのものなのか? それにより治療者が患者の状況を理解し、「あーそれは大変だね。」と共感するためのものである。
このことは、話をする患者の側に立てば、いっそう明らかになる。患者は面接者が顔を見るなりすべてを察して「ああ、大変なんだね。」といってもらえるのならそれに越したことがないだろう。でももちろんそうは簡単にはならないから、自分の現状について話す。今時分はいかに大変か、苦労しているか、つらいのか、という話をし、治療者はそれにうなずく。そして『大変だね。』と声をかけてもらえたり、「それはこうしたらどうなんですか?」と新たな考えを聞かせてもらえたりする。それにより新たな気づきが生まれることもある。これが精神療法の基本形なのだ。
「共感のための明確化を行なう」という話を駆け出しの療法家にすると、彼らはしかしいろいろな疑問を持つらしい。「何を聞くのか?」「何かきいていけないことはないのか?」などなど。しかしそれらは「患者さんに共感するために必要なことなら聞き、それ以外は聞く必要はない」ということになる。明確化する必要のないほど直接伝わってくる話なら、じっと耳を傾けていればいい。
「共感のための明確化を行なう」という話を、今度はベテランの治療者にすると、これに生理的な反応を示す人が多い。「精神療法では洞察を目指すことが真の目標だ。共感ではない。」
しかしでは、患者への共感をまず目指さない治療者が、どうやって洞察を得ることの援助をできるだろうか? という当たり前すぎる質問を投げかけるしかない。洞察とは、患者がこれまで見ようとしなかった点にリアリティを感じるプロセスであり、本来はつらいものである。患者は様々な抵抗に打ち勝ってそれを達成するのだ。自分を分かってくれていると思えない治療者からの指摘は、単なるダメ出しになってしまい、反発心が生まれたり、こちらが卑屈になるだけである。
「共感しただけでは治療ではないのではないか?」それはそうかも知れない。「患者は具体的なアドバイスを必要としているのではないか?」そういう場合もあるだろう。しかしたとえアドバイスを行うにしても、それはその前に患者の世界に入ることなしに出来るわけではない。別言すれば、十分な共感を得た治療者は、もうアドバイスをする一歩手前にいる。患者の置かれた状況や心理に十分共感ができた治療者は、それを自分自身の視点に立ち戻って言い換えたり、捉え直したり、感想を述べたりする事もできるであろう。それはすでにアドバイスらしきものである。でもこの「らしきもの」である点は重要である。実は治療者は患者にアドバイスをすることを本業としていないし、そもそも患者に代わって彼の人生に関するいかなる判断をくだすことも出来ない。患者が自らの判断を行う際に助けとなるような視点を提供することだけだ。患者の人生に共感した治療者がその上に出来ることといえば、自分の主観からそれがどう見えるか、感じられるかということである。そしてそれは恐らく多くの患者にとっては不必要なことなのだろう。なぜなら多くの患者にとっては、分かってもらうことである種の満足感を得ているからである。

2011年5月12日木曜日

治療論 25 患者をほめてはいけない・・・のか?

実はこれも相当「上から目線」の議論なのだが(タイトルを書いただけでそう思う)大切なテーマである。べテランのセラピストの中にも「私は患者さんをほめることはしません。ほめて欲しいと思って治療に来るようになってはよくないからです。」とおっしゃる方がいる。そこでこのタイトルにしたのだが、ほめる、というのが何か大人が子供に対してするようであり、その意味ですでにこのテーマが「上から」なのである。
まあともかく。私はこの種の理屈はヨークわかる。これが精神分析の禁欲原則に必ずしも由来しないことも含めて、事情はわかっているつもりである。私はこの種類の議論になると治療者はすぐに「褒めるのは反対」の立場に傾くことを知っているので(フロイトもその一人だったと考えていい)、あえていつもそれに対する反論から始まる。患者をほめたら、患者は次からそうされることを目的にして来院するようになるのだろうか?それほど単純なものだろうか?これは「クセになる」ことなのだろうか?おそらく否である。これは「ほめる」という言葉に含まれる上から目線なニュアンスにも関係するのであるが、治療者はほめるのではなく、患者に対して敬意を払っていることを口にする、あるいは感嘆したり感心したことを口にする、ということが大切なのであり、そうする限り問題が起きることはないだろう。逆に「この人をほめてよう。それにより治療につなぎとめよう」という類の作為がそこに混在すると、賞賛することは単なる「ほめる」ことになってしまい、「クセ」になる要素が増すとともに、治療的な価値を失ってしまうのである。
たとえば私はきれいに書かれた字に心を動かされやすい。何気なく患者さんが書いた字がきれいだと、思わず「字がお上手ですね」となる。私はそれを「ほめ」ているという意識はない。感心してそれが言葉に出るだけだ。患者さんはその日から私に字をほめてもらいたくて来院するということはおそらくないと思う。「クセ」にはなっていない筈だ。それでも患者さんは私が何らかのポジティブな気持ちを向けているのを感じるであろう。それは私が自分の患者を「贔屓にしている」からである。私が担当する患者だから、どちらかといえばいい点が余計見えてしまう、という状態が「贔屓にしている」ということだ。そしてそれは当たり前のことであろうし、おそらく治療関係がうまくいくための重要なファクターだと考える。私にはそれがわかるからそのようなコメントをする。しかし本当に感心しない限りはそれを口にしないのである。
フロイトがいみじくも指摘したとおり、治療者患者関係を維持するのは、緩やかな陽性転移、陽性感情である。これがなくして維持される関係性は、ある意味で極めて事務的だったり味気ないものとなったりするだろう。治療者に認められている感じが基底にない治療関係は危うい。そして治療者側から患者に何らかのリスペクトが向けられた際には、先ほどの「贔屓」を裏打ちする形で治療関係をさらに確固たるものになる。
リスペクトと「贔屓」との違いをもう少し。治療者側の贔屓の念は、患者側が料金を払って自分のもとに来談するということだけですで生まれてしかるべきだろう。デパートの紳士服売り場に現れた客に、店員は極めて恭しく、丁寧に応対するはずだ。その男性の風采が上がらず、その売り場にあるどのような服も彼に似合うものがないだろうと思えても、店員はだからといって追い返したりはせず、彼でも似合う服はないかと懸命に探すだろう。そしてそれはその客からも金を落としてもらおうという商人としての熱意以上の何かである。自分の働く売り場に足を運んでくれたことに対するありがたさから生まれるものと言ってもいい。
でもその客が体格がよく、すでに洗練された着こなしをしているとしたら、店員は一目置き、より敬意を持ってその客に接し、彼にとって満足の行くような商品を選ぶことに力を尽くすだろう。「お客様はご立派な体格でいらっしゃいますから、こんなスーツはいかがでしょう?」などという言葉も出るかもしれない。こちらはリスペクトといっていいだろう。
同じようなことは治療者患者関係にも言える。患者の美徳や強さや能力の高さは患者へのリスペクトの感情を生む。それを表現することで患者さんは治療者からのポジティブな感情を体感する。それでいいではないか。きっと「なんて自分の本当の姿をわかってくれる人だろう?」と思うだろう。そのような関係性のなかで初めて、治療者からの辛口のコメントもまた真実味をもって伝わる可能性があるのだ。

2011年5月10日火曜日

症例提示の仕方(3)

症例提示の最後の部分は治療方針についてである。おそらくどのような面接場面でも、試験官からこの問いが発せられないことはないだろう。
「それでこの患者さんの治療方針は?」
よくない答えの典型例:「パキシルを投与します。」
このような答え方をする報告者に対する試験官の問いかけは次のように狡猾なものになる可能性がある。
試験官「ほう、ではゾロフトではなく、パキシルである理由は?」
報告者「いえ・・・・ゾロフトでも悪くありませんが、私はあまり使ったことは・・・ハイ、ゾロフトでもいいと思います。」
試験官「それではどうしてすぐにパキシルが出てきたのですか?」
報告者「いや、その・・・・」
試験官「では、パキシルについて聞きます。何ミリを投与しますか?」
報告者「最初は10ミリ、慣れてきたら20ミリにします」
試験官「20ミリでも効かなかったらどうしますか?」
報告者「30ミリにします。」
試験官「それでも効かなかったら、40ミリにしますか?」
報告者「いや、それは・・・・」
試験官「30ミリまでは増やしても、40ミリには増やさない根拠は?」
報告者「いや、特に・・・・・」
試験官「それと20ミリで効かない時、すでに副作用が強いときでも、30ミリにしますか?」
報告者「いや、その・・・・」
試験官「先ほどは30ミリにする、とおっしゃいましたが」
報告者「ハイ、いえ、あ、ハイ」(しどろもどろ)


この報告者と試験官とのやり取りは、この種の口頭試問でおきやすい問題を反映している。この問答、報告者のパキシルについての知識をめぐるやり取りのように見えるが、実は違う。治療方針を柔軟に考えることが出来ない報告者の問題を浮き彫りにしている。パキシルについての問答になっているのは、それがwrong door だったというわけだ。いやパキシルというドアを開けていけないわけではない。ただ開ける必要もないときに開けたことが問題なのだ。
よりよい答え方は、こうである。
報告者「治療にはさまざまな方針が考えられます。生物学的な治療および社会心理的アプローチがあります。・・・・典型的な形では薬物療法と精神療法の併用が考えられます。」試験官の顔には、苛立ちが見られる場合もあれば、安心感も見られるかもしれない。苛立つのは意地悪な試験官。報告者がなかなか尻尾を出さないからである。安心感を見せるのは、まずは治療方針についての質疑が満足のいく出だしを見せたことへの満足感を表しているからだ。このような善良な試験官に当たるのは幸運である。治療方針といっても薬だけではない。薬といってもパキシルだけではない。まずは広い網を張った答え方をし、そこで報告者は柔軟でグローバルな考え方を披露するのだ。「治療にはさまざまな方針が考えられ、生物学的な治療および社会心理的アプローチがある」ということは正論中の正論である。試験官は文句の付けようがない。そしてこんな答え方をされては、いよいよ質問時間を使われてしまう。そこで苛立つのである。そしてこの報告者の「・・・・」とは、試験官の顔色を見計らっているのだ。あまり彼を苛立たせてはいけない。議論はまずは一般論から入って、徐々にフォーカスを絞っていくものだ。そこで薬物療法と精神療法、と答える。そこで試験官がすかさず、「生物学的な治療には、薬物療法しかないのですか?」と聞くかも知れない。それにはにっこり笑って「もちろんそれだけではありません。電気ショック療法も、光療法も含まれます・・・」と報告者。試験官は面白くないといって横を向いてしまうかもしれない。

2011年5月9日月曜日

症例提示の仕方 (2)

30分の診断面接は、それ自体がドラマという感じであるが、次の30分、すなわち症例提示と質疑による口頭試問についてはどうか?これはそれを試験の場面において行うということに興味がない人の場合にはどうでもいいことであろうが(専門医試験に実地試験がない日本であれば、結局は誰も興味がない、ということになるが)症例提示は別の意味でのドラマである。診断面接が実際の生身の患者さんとのやり取りであるならば、症例提示は試験官とのやり取り、ないしは駆け引きがある。主たる違いは、診断面接と違って試験官がこちらのやりたいように時間を使わせてくれないということだ。
もちろん診断面接の場合にも、効率の悪い面接の仕方をして時間の無駄になってはいけない。しかし30分の時間をどのように進行するかは結局は自分に任されている。その意味では自由なのだ。ところが症例提示ではいきなり試験官から駄目だしや注文が来る。報告の最中でいきなりそれを中断することを求められることもある。たとえば現病歴について詳細に話しているといきなり、「ハイ、現病歴についてほかに大事なことは?」と試験官が割って入ってくる。事情を知らない報告者は「えっ、こんなに詳しく話しているのに、もっと大事なことを言い忘れていることなの?」とパニックに陥るであろうが、そうではない。試験官は「現病歴についてはわかったから、ほかに言い残すことがなければ、次に進んでください。」という意味で言っているのだ。
実は試験官は報告者の症例提示をこうやって急かせる意味がある。なぜなら報告者としては「止められない限りは、意味のある情報を伝え続けていい」という大義名分があるからだ。そうして主訴、現病歴、既往歴、社会生活歴、MSE・・・・と進んで、あっという間に27分が経ってしまったら、実は報告者の思うツボ、彼の勝ちなのである。なぜならば試験官は口頭試問の部分を3分間しか残していず、報告された内容について質問を浴びせる時間はわずかしかないのである。つまりは報告者に減点を与えるチャンスを逃すことになる。だから実際15分の報告を延ばすことで出来るだけ残りの質疑の時間を減らすことは、報告者の最大のテーマのひとつといっていい。極端な話、報告者の報告が立て板に水で、しかも理にかなっていていて口を挟む余地がない場合には、試験官は30分をすべて報告の時間に使わせて、文句なく合格にしてしまうケースすらあるほどだ。
もうお分かりのように、きちんとした報告は、それを行うだけで30分かかってもおかしくない。どうして30分の面接の内容を30分かけて報告することが出来るのか、と問われるであろうが、例の陰性所見、というのがある。「患者さんは、~ということはなかった。」というのも立派な報告だ。あるいはMSEの所見の提示にもやたらと時間がかかる。さらには患者さんの外見について説明することを考えてもいい。患者さんがどのような表情か、どのような話し方か、どのような服装か、目を合わせるのか、表情は硬いのか、それとも・・・などを報告するとそれだけでも大変な時間がかかってしまう。そこでその30分の報告を試験官はちょん切っていく。時には現病歴をゆっくり聞いたかと思えば、いきなり「じゃ、時間がないからMSEに行って頂戴」などと言われる。
ちなみにここで書いてあることは、いかにも試験対策っぽいが、実は実際の臨床でも、あるいは日常生活でも応用が出来る。人に用件を伝えるときには、だらだらせず、まず結論を言うこと。あるいは少なくとも聞いている人がわかりやすいようにまとめること。あることに時間を費やすことは、別のことに使うべき時間を無駄にしているということ。何か人生を学ぶようである。

一番恐ろしいかもしれない最後の15分

ということで私もだらだらせずに、最後の15分に移る。ここでは診断面接についての質疑が行われるが、ここで問われることは、ごく素朴で単刀直入なことが多い。試験官は「では診断的な理解について報告してください。」あるいは「では診断は?」とひとこと。それが終わると、「治療方針は?」となる。ただし前半の報告自体が突っ込みどころ満載だと、この診断と治療についての質問にいたらないことが多い。もちろんそれは好ましいことではない。
まずは診断であるが、それを問われた報告者が「エー、患者さんは不眠を訴えています。それと食欲の低下も示しています。気分の浮き沈みが・・・・」とやりだすと、試験官は苛立つ。報告者はうつ病という診断の根拠を述べようとしているのであるが、これはまた時間稼ぎに使われてしまってはたまらない。「診断は、とお聞きしているんですよ。ほかの事はいいんです。」と言われるかもしれない。ここで一番妥当なのは、いわゆる最も可能性のある診断(working diagnosis)と鑑別診断 (differential diagnoses) をまずは列挙することだ。しかもここで鑑別診断はリーゾナブルなものである限りは、数が多いほうがいいだろう。なぜなら「私はとりあえずうつを疑います。でもこれだけほかの可能性もかんがえていますよ・・・たとえばA,B,C・・・」ということで面接者の技量を示すことが出来るからだ。
ただし調子に乗っていると痛い目を見る。うつ症状を訴えるものとして、「統合失調症」を鑑別診断としてあげたとする。Post-psychotic depression ということもあるし。統合失調症まで頭の隅に入れていたということを示せるし。それに統合失調症の前駆症状として抑うつ的になることもあるし・・などと考えてのことだ。すると「ではこの症例で、統合失調症を疑わせる所見は?」と聞かれてたちまち窮してしまう。「確かに幻聴とか被害念慮もないし・・・ヒエー、そもそも患者さんに幻聴があるか聞いていなかった!!」しかしいまさらそれについてコメントも出ないし。面接者は「特にそのような所見は・・・ありませんでした。」もちろん試験官はこう聞いてくる。「統合失調症を疑わせる所見がないのに、どうしてそれを鑑別診断に入れるんですか?」
やぶ蛇とはこのことである。試験官も人間だから(というより実は試験を受けている面接者よりホンの少し先輩の医者であるというだけだ)あのいかにもうつ病の診断を満たしている患者さんに統合失調症の疑いはかけず、面接者が念のために統合失調症を除外する質問を向けていなかったことにも気がついていなかったかもしれない。ところが彼がそれを鑑別診断に加えるという余計なことをしたために、診断面接の瑕疵を浮き彫りにしてしまったことになる。過ぎたるは及ばざるが如し。うーん人生の勉強になるなあ。
ちなみに英語ではdon’t open the wrong door とかいう言い方がある。面接者が統合失調症のことについていったのは、このwrong door だったということになる。自分から開けた以上、当然試験官も入ってくる。ところがそこは実は入ってこられては困るドアだったのだ。ただしこのドア、実は面接者のほうで入っていく用意がある場合には実はあけてもいいのだ。あるいはそれをわなのように仕掛けるということもある。試験官が入ってきそうな突込みどころを仕込んでおく、そしてそれに最後の15分を使っていただくという手があるわけだ。これは高等戦術だ。そしてそんなことに興味を持つ人は誰もいないだろう(日本では)。

2011年5月8日日曜日

症例提示の仕方 (1)

30分面接が終わったからといって、安心してはいけない。それをどのように理解し、治療方針を立てるかを示すことが最終的なゴールだからである。米国の精神科専門医試験については、それを12~15分ほどの口頭によるプレゼンとして試験官に行う。(残りの15~18分は、プレゼンの内容についての口頭試問であり、全体が一時間で終了するという計算になる。ああ、思い出すだけで嫌になる。) プレゼンの際重要なことをあげれば、①聞く人にわかりやすいような提示の仕方をする。(病歴の提示に関しては時間軸上の順序に従ってin chronological order 行う。)② それにより面接者が少なくとも平均以上の精神医学的な知識を有していること、そして「安全な」臨床家であることが示されるようにする。③ 診断面接において十分に聞けなかったこと、聞き逃したこと、ないしは陰性所見があれば、それについての釈明や説明を行う。④ 診断や治療方針に関しては、ひとつの考えにとらわれず、いくつかの可能性を同時に考えられるような柔軟性を示す。
このうち①に関しては、一番説明がしやすい。誰かにある人についての説明を受ける状況を考えよう。どのように説明されたら一番わかりやすいだろうか?それを考えながらやればいいのである。診断面接とはうまくしたもので、実は面接した内容が、ほぼ順番どおりそのままプレゼンできるようになっている。ここに特別のからくりがあるわけではない。まず面接者が患者のことをわからなくてはならないが、その際に得るべき情報の順番が、ある意味で報告で伝える順番でもあるはずだというわけだ。
たとえば診断面接で、まず患者の年齢、性別、職業、家族構成や居住環境を最初のうちに聞くことを私は勧めたが、これはある人を理解するうえで最低限必要なことであり、またまず報告することでもある。その次も同様。まず主訴。それがどのように起きてきたか? きっかけは? それにより社会機能はどの程度奪われているか・・・・・。そう、診断面接で聞いたことの順番なのだ。(もうちょっと言うと、診断面接のフォームも、そのように作られている。)
プレゼンの仕方のひとつの指針をここで書いてみたい。一本芯を通すのである。主訴と、現病歴と、過去の病歴と、家族暦と、診断と、治療指針が一本の線上にあるようにする。小説を読んだりするときもそうだろう。全体がつながっていて、たとえば導入部で描かれたエピソードが話の伏線になっていることで、全体がつながっている感じが重要であり、それが呼んでいる人がその小説が「わかり」引き込まれる原因にもなるのだ。(ただし野田秀樹や伊丹十三のような、一見つながりがあまりない逸話が並んでいるような戯曲や映画などでは、全体にひとつのテーマがそれとなく流れていたり、ストーリー自体が実は単純なので、クリアー過ぎる芯をワザとぼかすということをするのだろう。一本芯は、あまり単純すぎると退屈になって面白くなくなってしまうのだ。)
この文脈で③が生きてくる。ここでこの所見があれば一本の線が引けるのに、そうではない時、聞き逃したかのうせいのあること、あるいは陰性所見を同時に報告するのである。もちろん現実の患者はその人生や病理の現れ方がさまざまな偶発事に左右されていることは十分ありうるので、それを補うことで、やはり相手にとって聞きやすく、理解しやすく(ということは自分にとっても納得しやすく)するのである。
一本の線は、プレゼンの最初から引かれ始めるべきである。例を挙げよう。
主訴が「家を出るのがこわい」であったとしよう。もちろんもう少し主訴として付け加えたいところだが、とりあえずこれが患者の口から、困っていることとして最初に出てきたものだとしよう。続いて現病歴として「2年ほど前より、外出時に・・・・・となることが多くなった。」という風に、家を出られないことの具体的な理由が述べられる事から始められるほうが聞きやすい。ところがたとえばこんな現病歴がプレゼンされたらどうだろう?
「去年の夏ごろより、Aさんは奥さんと話してもイライラすることが多く、家でも口をきかなくなって来たという。今年の初めより、夜間に不眠を訴えるようになった。食欲もなくなり、体重も減少した。奥さんはAさんの態度に耐えられなくなり、離婚話を持ち出したことから、Aは家庭での悩みを職場でも話すようになった。職場の帰りに同僚と酒を飲むことは続いていたが、その量が増えてきた。しかしそれでも仕事を休むことはなかった・・・・・」
ここら辺から聞いている人(試験官)はいらいらしてくるはずである。ぜんぜん一本の線を引き始められない(あるいは面接者がプレゼンをしつつ線を引く気になっていない、あるいは彼の頭の中で線が引けていない????)家を出るどころか、ぜんぜん会社にいけてるジャン。
「家を出るのが怖い」という主訴から、聞く人はすでにある種の恐怖症(対人恐怖、引きこもりも含めて)か統合失調症を予感している。次にくるのはうつ症状あたりであろうが、うつ病の場合は、「仕事にいけない」、「行く気になれない」という主訴になるはずで、しかもできない、やれないことは、家を出ることだけではないはずである。こうして報告を受ける人は、主訴を聞いた時点で、線を引くための点を頭のなかでどこかに打っているはずであるが、その次の現病歴がうつ病を匂わせるような、しかも外出が怖いというとは直接つながらない話であるために、すでに相当の混乱に陥っていることになる。
ここで主訴としての「家を出るのが怖い」というプレゼンの仕方が間違っていたということもいえるであろう。確かにそれは「一番困っていることは?」という問いかけに反応して患者の口から出てきた言葉かもしれない。しかし面接者は話を聞いていくうちにそれを自分流に理解したうえで「つまりしばらく仕事にいけていないので、周囲の人の目が気になっているということなんだな、一番困っていることはそもそも仕事に行くだけの気力が起きないことなんだな」と理解し、患者の話を総合して「仕事に行く気力が起きない」と言い換えればいいということになる。少なくともこれが主とそして最初に提示されれば、その後のややまとまりのない現病歴も、少しは入ってくるし、そこにうつ病を思わせる線を引き出すこともできるのである。
ちなみに陰性所見については、現病歴で「特に他人から害を及ぼされるような気がしたり、人とであったり電車に乗ったりすることそのものに特別恐怖心を抱いているわけではない」ということを報告することで、恐怖症や統合失調症の路線ではないことを相手に伝えることもできるわけである。(また最初からうつ病を疑ってしまい、たとえば被害妄想や被害念慮についてまったく面接で聞いていなかった場合には、そのことをここで釈明ないしはコメントしなくてはならない。面接者としては、自分の面接の不備さを暴露することに抵抗を覚えるかもしれないが、試験官の目には、「自分の面接の不備な点について気がついてさえもいない愚か者」ということでさらに減点されるということになる。)(続く)

2011年5月7日土曜日

ちょっと好きになれない寿司職人

いつにもましてドーでもいい内容だから、字も小さめである。昨日引っ越したばかりで近所の寿司屋にはじめて入ってみた。徒歩30秒でロケーションはよかったが、あまりいい体験ではなかった。メニューには「今日のコース」というのがあって、比較的安く(3000円程度)それを親子3人でそれぞれ頼んでみた。カウンター席しかなかったが、神さんがそもそも「生ものが嫌い」という目の当てられないような状況だったのがいけなかった。(そもそも生もの嫌いで寿司屋に行くな!)「苦手なものはありますか」、と一応聞いてくれた寿司職人は、年のころは30代後半、小太り、茶髪である。その誘いについ乗ってしまい、「ツブツブしたものが苦手で・・・」と神さんがつぶやいた辺りからもうおかしくなった。おそらく自分のネタを「ツブツブしたの」と言われてちょっと気分を害した寿司職人はそれでも苦笑い。「イクラとかウニとかが駄目なんで・・・」と神さんがさらに明確化。「コースにウニが入っているんですが、どうしましょう?」と職人。私が「じゃ、その分、卵焼きか何かに代えてください」と言うと、寿司職人は薄笑いを浮かべて「卵焼きに代えるといっても・・・・・いいんですか?」となぞの問いかけ。私は「値段がつりあわない、ということですか?」、と尋ねると、寿司職人が曖昧ながら肯定した様子。私が「じゃ、卵焼きを二つでも三つでもくださいよ。」と言うと、職人は薄笑いの苦笑い。「いや、そんなわけにも行きませんよ。」卵焼きにも力を入れているから、馬鹿にされては困る、ということなのか?ここら辺からもう寿司職人は、「こんな客を相手にしてられないなー。常識がわかってないじゃないか。」という雰囲気。私たちの後に入ってきた明らかに常連と親しげに会話を始める。
コースは結構おいしかった。牡丹エビ。中トロ、北海道のウニ、真ダコ、などなど。でも二十歳の息子には十分でなく、卵焼きと鯵を追加で欲しいという。寿司職人に私が「卵と鯵を一つずつ」声をかける。すると職人が「一つずつ・・・ですか?」とまた苦笑いの薄笑い。一つずつなんて握れない。二艦が一単位なんだ、ということらしい。それを察して「じゃ、二つずつ。」
そりゃーいつも回転寿司で満足している我々は寿司屋の常識を知らない。(実はちゃんとした寿司屋に一家で行ったことは、今回がはじめてであった。)でも馬鹿にされた感じ。寿司と言ったって、たかがご飯の固まりに生の海産物を載せたただけじゃないか。気取るな、と言いたい。でも面白い人間観察の体験でもあった。

2011年5月6日金曜日

MSEで何をどのように聞くのか?(後半)

診断面接は後終了まで2分に迫っているのであるが、なぜか時間の流れが遅くなっているようである。ちょうど漫画「巨人の星」で飛雄馬が消える魔球を一球投げるのに数ページを費やしたように。
ところで昨日MSEでは患者の見た目 appearance, 話し方 speech, 見当識 orientation, 記憶 memory, 知能 intelligence, 知覚体験 perception, 思考 thought, 情動 emotion, 感情 affect を調べる(またコピペをしたが、正確さを期して「知能」、も含めた)といったが、これを「精神症状」という。昨日書き忘れた。MSEとは「精神症状検査」とでも言うべきものであるが、適当な訳語はまだないと思うので、このままにしておく。時計の針がもう30分にさしかかろうというときに面接者が忘れてはならないのは、「先ほどの三つを覚えていらっしゃいますか?」である。「先ほどの三つって?って?」駄目だコリャ。ただしかなり有名な先生の診断面接のデモンストレーションでも、この三つを患者に聞き忘れるのである。ある例では、面接者が「では、これで終わります。有難うございました。」というと、患者が「こちらこそ。ところで、先生、まだ私は覚えていますよ。リンゴ、帽子・・・・」。しかし記憶について質問した当の面接者が、それを確かめ忘れるのはしゃれにならないが、それでもってその面接者が専門医試験に落ちるということはない。それはなぜか。
それにより患者を危険にさらすという恐れがないからだ。以下に述べるとおり、面接者は第一に「安全」な治療者でなくてはならない。それを疑わせるような面接を行なわない限り、失格ということはない。(ちなみにそれとの関連で、実際診断面接の試験でこれをやってしまっては落ちる、ということはあまりないが、ひとつ例外がある。それはうつを思わせる患者に自殺念慮を問わなかったという場合である。決定的な質問を失念してしまうことで、その面接者は、安全とはいえなくなってしまうからだ。)
さて患者が2つ、ないし3つを思い出したところでもう1分しか残っていない。MSEでまだ聞いていないことの中で大切なものは何か、ということをざっとさらって見る。ここで私なら「誰もいないところで声が聞こえてきたりすることはありますか。」を聞いておきたい。いくら統合失調症が病歴から疑わしくないといっても、幻聴の有無を聞くぐらいはしておきたい。さらにすでにうつ病の患者に自殺念慮があることを確かめていたとしたら、このMSEではこのように尋ねるのが必須となる。「先ほど死んでしまいたいという気持ちになられるということでしたが、今現在そのような気持ちはありますか。」これに対して答えが「はい。」であれば、次のように問わなくてはならない。「具体的に、どのようにしてそれを実行しようとなさっているか、考えがあればお聞かせください。」これは自殺念慮の切迫さを問うていることになる。
こうして時間は30分の面接の終了となるが、最後には必ず「締め」の挨拶が必要となる。
短い時間ではありましたが、ざっとご様子をお聞きしました。この検査の結果や治療方針については後ほどお伝えいたします。お疲れ様でした。」


診断面接を行なう面接者の資質


以上診断面接の手順について触れたが、ここでは面接者の以下の3つの資質や能力を問うていることになる。
1. 安全な面接者、臨床家か。患者の示す精神科的な所見について、それが患者にとって不利益になったり、他者を害するような可能性を正しく見抜くことができるか。
2. 平均的な臨床家としての臨床的な知識を備えているか。
3. 患者との間に適切なラポールを築くことができているか。
診断面接とは、患者の心に隠されている決定的な病理を探り出すという特別な能力ではない。ごく当たり前の質問を投げかけ、あるいは当たり前の観察眼を持ち、安全であることを期して質問を重ねた場合に、誰でも行き着くような診断的な理解に、その人も行き着けるか、ということが重要なのだ。

2011年5月5日木曜日

MSEで何をどのように聞くのか?(前半)

5月3,4,5日と東北に行ってみた。仙台から松島、女川、石巻、南三陸町。帰りの新幹線で外から見える景色に、「どうしてこちらはちゃんと家が立っているのだろう」とふと錯覚に陥ることがあった。しかし松島だけは深刻な災害を免れ、観光客を沢山目にした。


MSEの進め方は、テキストにより色々な記載があるであろうが、厳密なやり方はあまりない。明らかにすべきことは、患者の見た目 appearance, 話し方 speech, 見当識 orientation, 記憶 memory,知覚体験 perception, 思考 thought, 情動 emotion, 感情 affect の今現在の様子である。ちょうど内科医がまずは患者に口を開けてもらい、喉を見て、それから眼底を見て、それから首を触診して甲状腺やリンパ腺の肥大を見て…というふうに、現在の患者の心のあり方を記載する。ただし忘れないでいただきたいが、時間はもう5分しかないのである!どうしてあと5分で患者の見た目 appearance, 話し方 speech, 見当識 orientation, 記憶 memory, 知覚体験 perception, 思考 thought, 情動 emotion, 感情 affect を調べることが出来るのだろうか?(ここは明らかにコピペをしている。)実はこれらのうちのいくつかはすでにこれまでの面接のプロセスで調べられているのである。見た目や話し方、情動などはすでに話し方などを通じて明らかだからだ。すると最後の5分で面接者が新たに質問をすることにより明らかにするべきことは限られている。私がまずおすすめするのは次のような順番で質問を向けることである。
「まず今日の年月日を教えていただけますか?」(患者が何月何日、で終わる場合には、何曜日か、西暦、あるいは元号で何年かを促す。)
「これから3つの物の名前をあげます。あとでお聞きしなおしますので、覚えておいていただけますか? りんご、帽子、心理学」(もちろん最後の3つは何でもいいが、互いに無関係なものがいい。りんご、赤、サル、という3つをあげると、患者は、赤いりんごを食べている猿を想像してしまい、個別の3つの項目を覚えるということとは異なってくるからだ。もちろんこの3つは、自分の得意なものを用意しておく。その場で思いついた3つを覚えておこうとしても、患者さんよりさらに覚えていられない可能性がある。何しろ面接者は質問をどのように進めるか、何を忘れずに聞くかで頭がいっぱいだからだ。あるいは3つを即興であげたなら、それを何処かにメモしておくように。それとなぜこの質問をMSEの最初にするかというと、3分後にこの質問を患者さんに向けなくてはならないからだ。つまりこれは短期記憶を調べるのであるが、その前には、記銘が出来ていなくてはならないので、次の質問は忘れずに。)
「今私が言った三つを繰り返していただけますか?」患者が3つを正確に繰り返したのを見届けて、次に質問すべき幾つかは、もう心で準備しておく。
「100から7を何回か引いていただけますか?まず100引く7は? そこからもう一度7を引くと?  もう一度?」(だいたい100,93,86,79,72くらいでよしとする。集中能力の検査。)
「現在の総理大臣はだれですか?」(一般常識)。
「次の二つに共通しているものは何かを上げてください。猫とライオン(ネコ科)、猫とネズミ(哺乳類)、猫と蚊(生き物)」(抽象思考の検査)。
ここで大体2,3分は経っているので、もう尋ねてもいい。
「先ほどの3つを覚えていらっしゃいますか?」
さて、この時点でおそらくあと面接時間は2分ほどしか残っていない・・・・・。読者の中にはこういう質問があってもおかしくない。
「MSEはもっと早く始められなかったのですか?」もっともである。

2011年5月3日火曜日

大嵐の前の4分

さてこんなことをしている間に、時計の針は21分をさしている!社会生活暦、家族暦、医学的問題のチェックを4分でしなくてはならない。患者の幼少時から思春期、青年期、壮年期について、学校での適応、学歴、職歴などをみな4分で聞かなくてはならないなんて・・・・。ただし焦ることはない。質問の仕方はいくらでもある。どのように質問を向けるかに注意すれば言い。幼少児のことだって、「小さいころの思い出で、なにか強い印象に残ったことがありますか?」と聞くことで、すでに多くのことを一挙にカバーしていることになる。ただし精神科の面接では、もう少し焦点づけた質問のしかたをするのだが。私は以下の点についてははずさないで聞くようにしている。逆に言えば、それ以外はあまり重要度が高くないということだ。
「小さい頃の様子はいかがですか?何かとてもつらい思いをしたりしたことは?」そして相手の反応を見ながら、もう少し詳しい質問を欲しているという空気を読み、言葉を継ぐ。「たとえばとても厳しく育てられたとか、体罰を受けたとか、あるいは学校でいじめにあったとか・・・・・。」もちろん幼少時の性的、身体的虐待の有無を含めて聞こうとしているのであるが、なかなか言葉にしにくいことでもある。深刻な問題が幼少時にあったと感じられた際は、その存在がほのめかされたというだけでもいい。だいいち4分しかないのだ。(米国ではここらへんはかなりはっきり口に出して聞くことが多い。In your childhood, have you ever been physically or sexually abused? などというふうに。)
もちろん幼少時、学童期には他の問題についても聞いておきたい。「友達とはいかがでしたか?成績はどの程度でしたか?」成績の話などぶしつけだが聞いておきたい。ただしこれまでの話の経過から大学を卒業しているということがわかっているなら、成績の話を省いてもぜんぜんかまわない。「少なくとも平均以上の知能」という見立ては出来ているからだ。本人がIQ 130以上なのか、特異な音楽の才能があるか、などはこの際は重要ではない。あとは学校を出てからの職歴。長期間仕事を持たない時期があったかどうか?ここら辺はざっとさらう程度で患者さんの機能レベルを伺うことになる。もし引きこもりの問題がうかがわれる際には不登校の時期の有無、いつごろからはじまったのかを聞いておくことも重要となる。
家族歴はさっと一言で片付けることが多い。「ご家族や親戚の方々で、精神科的な治療を受けられたり、入院されたり、あるいは自殺をされたりした方はいらっしゃいますか?」ここでもし両親ともうつ病の既往があるなどということが聞かれれば、これは本人の確定診断に多少なりとも影響がないわけではない。しかしそれとて決定的ではない。家族歴が診断面接では最後の方に回り、手短に聞かれるとしたら、それはその情報源としての意味があまりないから、ということになるだろうか。
さてここら辺から面接者は時計と睨めっこである。どうしてもこの面接は最後の5分前には一段落付けなくてはならないからだ。大嵐のために。

2011年5月2日月曜日

診断面接の後半 嵐のような15~25分

診断面接は、後になるにしたがって、ますます「構造化」されていく、と数日前に私は書いた。つまりオープンクエスチョンは減っていき、クローズドクエスチョン、あるいはイエス、ノークエスチョンが増えていく。もっとひどいと、患者さん(今日はさんを付ける)が言いよどむ場合には答えを待たずに別の質問に移る。いささかマナー違反なこともしなくてはならないが、それはこの面接が、診断をつけるという目的を持ったものだからやむをえない。患者さんをせかせてもそれで憤慨させてしまわないだけのラポールをすでにつけておくことが前提だ。あるいはそのような矢継ぎ早の質問になっていくことをはじめにお断りしておく。そうすれば運よければ患者さんはジェットコースターに一緒に乗ってくれるのである。
さてなぜ15分目から25分目が嵐のようかといえば、時間がないからだ。最後の5分をあらかじめ予報しておくと、大嵐、である。なぜならMSEが待っているからだ(後述)。主訴と現病歴を把握する、という最初の15分と、大嵐の最後の5分間にはさまれた10分に、面接者は次のことをしなくてはならない。主訴以外の精神医学的問題がないかの探索、過去の病歴(既往症)、社会生活暦、家族暦、医学的な既往症のチェック、である。どうだ、忙しいだろう。最初の15分で患者さんの問題には大体当たりをつけてある。でも実はもっと大きな、あるいは決して無視できないことが起きていて、患者さんはそれを主訴に上げていない可能性がある。何しろ主訴は「主」訴であり、「副」訴ではない。(ちなみに「副訴」などという用語は聞いたことがない。)患者さんはあくまでも主訴を伝えることを最初の質問で要請されているに過ぎない。例え面接者が首尾よく患者さんのうつ病歴について大まかに把握し、過去に入院歴があるらしいこともわかり、またかつてそう状態になったことがないということまで把握していても、たとえば患者さんが長年アルコール引用を続けていて、そのために仕事を失っているというヒストリーがあったらどうだろう?アルコールの長期乱用はうつ病に大きく影響を与える以上、アルコール依存症という問題は無視できない。そしておそらく面接者が探りを入れる中でアルコールについてたずねない限り、患者さんのほうからそれを伝えるということは少ないのだ。面接者はここで悩む。出来れば過去の入院暦について、外来での治療暦について知りたい。それは患者さんの現病歴に深さないしは時間軸を与えるだろう。でも現在のほかの問題についてたずねるのは、現在の問題に更なる奥行き、平面軸上の広がりを与えてくれる。どちらに行くべきか・・・・。ここら辺はどの精神科のテキストにも書いていないことだが、私なら、既往症に行く前に、「副訴」(ないない)に探りを入れておく。なぜならそのほうがリスクが少ないからだ。もし過去の病歴について、たとえば10年前にはじめて精神科の外来を訪れ、5年前に第一回の入院歴があり、3年前に第2回の入院があり・・・・という話を聞いてから、「ではうつ病以外に何か精神科的な問題は?」と尋ねられた患者さんがアルコールの問題を持ち出した場合には、面接者は非常に焦りを覚えるだろう。それよりは17分の時点で「そうか、この患者さんにはうつ以外にも、アルコール依存があるのか。こりゃ大変だぞ」と覚悟を決めて、「では欝やアルコールの問題、あるいはそのほかのことで、初めて精神科におかかりになったのはいつですか?」とたずねたほうが時間が節約できるのである。
他の問題の探り方
「副訴」と使い続けるとクセになりそうなので、「他の問題」と言い換えよう。ここも時間を節約しながら、的確に聞いておきたい。
勧められない尋ね方。「今までうつの症状についてお聞きしましたが、他の問題、たとえば一気に食べ過ぎて、後で吐いてしまったりとか、しばらくの期間一切食べ物を口にしない、というようなことがありますか?あるいはひとつのことを繰り返して行ったり考えたりして、それが頭を離れないようなことはありますか。あるいは・・・・」
これをはじめると大変なことになってしまう。前者は摂食障害について、後者は強迫症状について聞いているのであるが、もちろん患者さんには専門用語を使うわけには行かないから、平易な言葉を使うしかない。するとこの路線で、PTSDとかパニック障害とか社交恐怖とか身体か障害とか、解離性障害などなどの神経症圏の病気について同じことをやらなくてはならない。そこで・・・・
あまり勧められないが、やむを得ない尋ね方
「先ほど精神科の先生におかかりになっているとお聞きしましたが、診断名についてはお聞きになっていますか?たとえばうつ病以外には何かお聞きになってはいませんか?」
もちろん患者さんが精神科にかかっていない場合にはこの手は使えない。そこで次のような質問をすることもありである。
「精神科にはうつ病以外にもさまざまな問題があります。いかがでしょう、時々不安に襲われたりパニックになったりしたことはありますか? あるいはひとつの習慣がやめられなくて困ったりしたことはありますか? 考えや行動がとめられなかったり、習慣がやめられなかったり・・・・」
不安に襲われ、パニックになる、という表現は実は不安性障害一般を広くカバーする。パニック発作やPTSDに悩む人はすぐにピンと来て肯定するだろう。また習慣に関する問いも、過食嘔吐や買い物依存や、DVやアルコール依存やパチンコ中毒など、あらゆる障害を持つ人がピンと来る聞き方だ。もしそれでアルコール依存の既往が聞けなかったらって?You gave it a try anyway. That’s enough.
ところでここまで書くと、次のような疑問の声が聞こえてきそうだ。「いろいろ探りを入れていても、肝心の統合失調症について聞いていないではないか?」
もちろんそのとおりだ。統合失調症を疑うならそれに則した質問をすればいい。しかし統合失調症の既往があるかどうかは、大体この時間帯になるとおのずとわかっているのである。あえて聞かなくてもいい。どうせ最後の大嵐の5分のMSEで聞くことになるのだ。「ところで現在、あるいは過去に誰もいないのに人の声が聞こえてくる、という体験をお持ちですか?」

2011年5月1日日曜日

今日は新宿区の日本青年館で「対象関係論勉強会」北山修先生の講義の司会。一日中おかしな天気で、何とか雨を逃れていたが、帰宅途中に土砂降りになった。午前、午後と北山先生による治療同盟の講義及び症例の報告。臨床家としても、レクチャラーとしても、そして理論家としても、どうして彼はこれほどに完成されているのだろうとつくづく思う。そして司会という立場でそれを傍で見られることはつくづく幸運なことである。