福島原発の問題を見ていて思うこと。少なくともメンタルヘルスの専門家としては、人がこのような時に犯人探しをする傾向に注意したい。いつものように、みのもんたの「朝ズバ」は私たちが陥りやすいメンタリティを知る上でいい判断材料になるが、最近番組で問題になっているのは東電の出した行程表の不備、そもそもの安全管理の手ぬるさ、政府の初期対応のまずさ、などなどである。ある不都合な事態が生じると、過ちを犯したのはだれかということを追求する。過ちを許していたのは私たち自身であるという方向には向かわない。誰が正しくて誰か誤っているか、という単純な二分法に走りやすい。(というか、みのもんたがそれだけ単純なのかもしれないが。)例えば東電もまた災害の被害者でもありうる、という論調は出てもすぐに抹殺されてしまうだろう。私は東電の会長も社長も、避難所暮らしをしてそこから出社してみればどうか、報酬は全額返上して生活保護で生活すればどうか、と一方では思っている。そのくらいしないと「あんたたちにはこの苦しみはわからないだろう」という声には対処できない。しかし福島原発の放射能漏れが100%彼らのミスによる人災とは思わない。あの大震災がなければ、福島原発はほかの数十の原発と同じように安全に機能していただろう。
失敗学的に言えば、福島原発の事故は一つの失敗のプロセスであり、私たちが将来放射性物質を安全に扱う上でどのようなことが必要かを、失敗を経つつ学んでいる最中であるということを教えてくれたにすぎないのである。
牛肉のユッケによる食中毒の問題も同類である。不完全な人間が、手間を省き、同時に利潤を追求する上で安全管理の手抜きをするのはある意味では自然のことだ。それがとてつもない失敗や事故を引き起こすことから様々な安全策がとられるようになる。事故が起きてはじめて、正しい扱い方を学ぶのである。私たちが獲得した様々なノーハウは、そのような順番で蓄積されてきているのである。残念ながら福島原発も食中毒も、その例に過ぎない。なぜなら事情を詳しく、あるいはある程度知っている人が大勢いて、その問題を何とか解決しようという動きが出なかったからである。
2011年5月18日水曜日
2011年2月3日木曜日
失敗学的に八百長相撲を考える
「・・・ メールの中には、「1つ貸しているので、あと20で利権を譲りますがどうですか」「今日はまっすぐ思い切りあたっていきます」など、勝ち星の貸し借りやカネのやりとり、取組内容などについて、詳細に打ち合わせをしたと思われる文面があった。実際、夏場所では、前日にやり取りされたメールの内容に沿ったとみられる取組もあった。」(2011年2月3日03時04分 読売新聞)
これって、不完全な存在であるわれわれ人間としては、いかにもやりそうだね。「失敗心理学」(私の造語)的にはおおあり。相撲ってひょっとしたら八百長が一番きくのでは。野球やサッカーを考えて欲しい。「9回にホームランを打つから、甘い球を投げて」「後半左からのクロスをボレーでシュートするから、マークを甘くして。」どちらもありえない。すぐ観客にそれとわかる。それにバットがボールを真芯で捉えたり、シュートが枠の中に飛ぶとは限らない。ボールはいかようにでも転がる可能性がある。だから団体の球技の八百長は一般に難しいだろう。それでも一番可能性ありなのは、レフリーを買収することか。サッカーの国際試合などでも、彼らの「あり得ない」裁定には観客もすでになれているからだ。実際に結構頻繁に八百長が起きていると聞く。しかしそれにしても、ボールがポストに当たって跳ね返ったのを「ゴール!!!ピーッ」というのはあり得ない。せいぜいたいしたことのない反則でPKを与えるくらいか。こちらはそのチームに一点をプレゼントするのとほぼ同じだからだ。
相撲はその点いい(いや、もちろんよろしくない!!)。力で押し合っている同士にしか、加減がわからない。ということで、少し星が足りなくて困っている力士は、ほかの力士からお金で都合をつけてもらうこともあるだろう。ケータイという便利なものもあるし。
しかしこんなコメントをテレビかどこかでしたら、すごい顰蹙ものだろう。もちろん八百長を奨励するつもりなどない。でも相撲協会を公益法人として認めるのはもうやめたほうがいいし、国技として特別扱いする必要もないだろう。それよりもこの種の八百長がおきにくいシステムにすればいいだろう。星の数により位が上下する制度を改めるとか。「何場所負け越すとどうなる」という制度があるから、星の売買が行われるのではないだろうか?
ともかくも失敗心理学的には、この種の八百長はいくらでも起こりうるし、それで人の善悪を決めることなどできないということを言いたいだけである。
これって、不完全な存在であるわれわれ人間としては、いかにもやりそうだね。「失敗心理学」(私の造語)的にはおおあり。相撲ってひょっとしたら八百長が一番きくのでは。野球やサッカーを考えて欲しい。「9回にホームランを打つから、甘い球を投げて」「後半左からのクロスをボレーでシュートするから、マークを甘くして。」どちらもありえない。すぐ観客にそれとわかる。それにバットがボールを真芯で捉えたり、シュートが枠の中に飛ぶとは限らない。ボールはいかようにでも転がる可能性がある。だから団体の球技の八百長は一般に難しいだろう。それでも一番可能性ありなのは、レフリーを買収することか。サッカーの国際試合などでも、彼らの「あり得ない」裁定には観客もすでになれているからだ。実際に結構頻繁に八百長が起きていると聞く。しかしそれにしても、ボールがポストに当たって跳ね返ったのを「ゴール!!!ピーッ」というのはあり得ない。せいぜいたいしたことのない反則でPKを与えるくらいか。こちらはそのチームに一点をプレゼントするのとほぼ同じだからだ。
相撲はその点いい(いや、もちろんよろしくない!!)。力で押し合っている同士にしか、加減がわからない。ということで、少し星が足りなくて困っている力士は、ほかの力士からお金で都合をつけてもらうこともあるだろう。ケータイという便利なものもあるし。
しかしこんなコメントをテレビかどこかでしたら、すごい顰蹙ものだろう。もちろん八百長を奨励するつもりなどない。でも相撲協会を公益法人として認めるのはもうやめたほうがいいし、国技として特別扱いする必要もないだろう。それよりもこの種の八百長がおきにくいシステムにすればいいだろう。星の数により位が上下する制度を改めるとか。「何場所負け越すとどうなる」という制度があるから、星の売買が行われるのではないだろうか?
ともかくも失敗心理学的には、この種の八百長はいくらでも起こりうるし、それで人の善悪を決めることなどできないということを言いたいだけである。
2010年9月22日水曜日
失敗学 その17 (恥と自己愛 12) 失敗学的にはよくわかる、大阪地検の前田容疑者の「改ざん問題」
それは私もショックである。「朝ズバ」のみのもんた風の反応をすると、「とんでもないこと」、「前代未聞のこと、あってはならないこと」、「検察のおごり高ぶりの表れ」という感じである。しかし失敗学的にはこの大阪地検で起きたことは、非常にありがちなことだ。むしろこのことが明るみに出て社会的な制裁を浴びることの中に健全な面が含まれるということが出来るし、その点も同様に注目すべきだろう。じゃないと人間の不正を行ない、人を欺こうとするマイナスな側面ばかりに注目していることになるではないか。大阪地検で行われていたようなことが、まったく一般の国民に知られることなく行われている国はたくさんあるだろう。現にこの日本だって、検察庁はこれまでこの種のことを繰り返し、決して露見されることがなかったと考えてはいけない理由など何もないのだ。
ある閉鎖的な組織で、一定の役割を与えられた平均的な人間が、自分たちの都合のいいように仕事を進める上で不正を働いても、チェックを受けることがないとしよう。そこで一部の人間が、場合によっては大部分の人間が不正を行うようになる。その典型が、その組織のトップに居る人間であるが、そのトップに飼い慣らされている部下にも同様のことが生じるのは当然である。
もちろん最初は違う。人は慎重にことを運び、不正を嫌うだろう。ところがだんだん気が大きくなってくる。不正を行っているということに対する後ろめたさが麻痺してくる。これは普通の人間に起きるプロセスなのだ。政治家が政治献金か賄賂か見分けがつかないものを受け取るのも同じである。私達の一部が確定申告の際に、100%正直になれないのも同じ。そして不正を働く人の大部分をしめる「普通の人」には、私もあなたも含まれる。
あ~あ、言っちゃったねぇ。これじゃまるで大阪地検を擁護しているように聞こえなくもないじゃないか。著名人がこんなことを書いたら、ブログはすぐ炎上するかも。幸い読者は推定18人くらい、ということで全くその心配はないが。
ちなみに平均的な人、という風に言ったが、大阪地検で不正を働いた人々は司法試験を通過したエリートのはずだ。彼らは知的には非常に優れているはずだし、その意味では普通ではない。しかし道徳的にはかなり普通だろう。人の正直さをチェックするような試験などない。短時間で行う面接試験などでもまったくアテにならない。その普通の人が不正を働くようになる一つの決め手は自己愛のフリーランである。
自己愛のフリーランとは、このブログでは今年の6月11日に初登場し、それから何度か書いてきた考えである。自分の行動を上からチェックしてくれる人がいなくなると、私たちの自己愛はどんどん肥大していく性質を持つ、ということだ。簡単に言えば、人は組織の中で偉くなっていくと、どんどん周りが見えなくなって好き勝手をするようになる。ここで好き勝手とは、基本的には家で一人でリラックスして自由気ままに過ごしている時のふるまいをさす。何も特別な行動ではないのだ。
そして自己愛のフリーランは、実は組織についてもおきる。(またまたいきなり新説である。)つまりある組織が他からノーチェックな場合、その組織が好き勝手なふるまいをし出すということである。ただしその場合組織の中の個々人の自己愛がフリーランしているということではない。組織の内部は結構上下関係が厳しく、礼儀を守らなければならないかもしれない。しかしその組織が他の組織からチェックを受けない場合には、その組織全体が好き勝手な振る舞いを行うということである。検察庁などはその例だろう。
ここで読者はなぜチェックを受けない際に不正を働くようになるという普通の人間が備えた性質が、「失敗学」と関係しているか疑問に思うかも知れない。しかし失敗学が考える失敗には、いわゆるヒューマンエラー、つまり人間であるがゆえに起きる勘違いや思い違いによるものだけでなく、いわゆる魔が差すという事態、すなわち「道徳的な過ち」をも含むものと考えるべきだろう。そしてそれを防ぐ方法も、ヒューマンエラーを予防する方法と同じである。それは二重、三重のチェック機構であり、いわゆる内部告発の促進である。人は単なるミステイクをおかすのみならず、魔が差すものであるということを前提とし、受け入れることで、やっと私たちはそれに対する対抗手段を得ることである。とすれば検察庁の不正を防ぐには・・・・・・ 100パーセント可視化しかないではないか!!
ある閉鎖的な組織で、一定の役割を与えられた平均的な人間が、自分たちの都合のいいように仕事を進める上で不正を働いても、チェックを受けることがないとしよう。そこで一部の人間が、場合によっては大部分の人間が不正を行うようになる。その典型が、その組織のトップに居る人間であるが、そのトップに飼い慣らされている部下にも同様のことが生じるのは当然である。
もちろん最初は違う。人は慎重にことを運び、不正を嫌うだろう。ところがだんだん気が大きくなってくる。不正を行っているということに対する後ろめたさが麻痺してくる。これは普通の人間に起きるプロセスなのだ。政治家が政治献金か賄賂か見分けがつかないものを受け取るのも同じである。私達の一部が確定申告の際に、100%正直になれないのも同じ。そして不正を働く人の大部分をしめる「普通の人」には、私もあなたも含まれる。
あ~あ、言っちゃったねぇ。これじゃまるで大阪地検を擁護しているように聞こえなくもないじゃないか。著名人がこんなことを書いたら、ブログはすぐ炎上するかも。幸い読者は推定18人くらい、ということで全くその心配はないが。
ちなみに平均的な人、という風に言ったが、大阪地検で不正を働いた人々は司法試験を通過したエリートのはずだ。彼らは知的には非常に優れているはずだし、その意味では普通ではない。しかし道徳的にはかなり普通だろう。人の正直さをチェックするような試験などない。短時間で行う面接試験などでもまったくアテにならない。その普通の人が不正を働くようになる一つの決め手は自己愛のフリーランである。
自己愛のフリーランとは、このブログでは今年の6月11日に初登場し、それから何度か書いてきた考えである。自分の行動を上からチェックしてくれる人がいなくなると、私たちの自己愛はどんどん肥大していく性質を持つ、ということだ。簡単に言えば、人は組織の中で偉くなっていくと、どんどん周りが見えなくなって好き勝手をするようになる。ここで好き勝手とは、基本的には家で一人でリラックスして自由気ままに過ごしている時のふるまいをさす。何も特別な行動ではないのだ。
そして自己愛のフリーランは、実は組織についてもおきる。(またまたいきなり新説である。)つまりある組織が他からノーチェックな場合、その組織が好き勝手なふるまいをし出すということである。ただしその場合組織の中の個々人の自己愛がフリーランしているということではない。組織の内部は結構上下関係が厳しく、礼儀を守らなければならないかもしれない。しかしその組織が他の組織からチェックを受けない場合には、その組織全体が好き勝手な振る舞いを行うということである。検察庁などはその例だろう。
ここで読者はなぜチェックを受けない際に不正を働くようになるという普通の人間が備えた性質が、「失敗学」と関係しているか疑問に思うかも知れない。しかし失敗学が考える失敗には、いわゆるヒューマンエラー、つまり人間であるがゆえに起きる勘違いや思い違いによるものだけでなく、いわゆる魔が差すという事態、すなわち「道徳的な過ち」をも含むものと考えるべきだろう。そしてそれを防ぐ方法も、ヒューマンエラーを予防する方法と同じである。それは二重、三重のチェック機構であり、いわゆる内部告発の促進である。人は単なるミステイクをおかすのみならず、魔が差すものであるということを前提とし、受け入れることで、やっと私たちはそれに対する対抗手段を得ることである。とすれば検察庁の不正を防ぐには・・・・・・ 100パーセント可視化しかないではないか!!
2010年9月21日火曜日
失敗学 その16. 「正義が勝つ」はぜんぜん正しくない
尖閣諸島の事件の影響で中国との関係が「悪化」しているという。中国政府の対応はあんまりだ。(中国の国民はみな良識があるいい人達ばかりだと思う。)のんびりと「汝怒るなかれ」とは言っていられない状態という気もする。そこで失敗学的に考えれば、案外そうでもない。
中国の振る舞いは日本人からすればまったく理不尽だが、人間社会ではよくある話だ。小学校のクラスにたとえるならば、中国政府はドラえもんに出てくるジャイアンのようなものだろう。ジャイアンは最近急に体が大きくなって発言権も増してきた。休み時間にぶつかってきたくせに、「土下座してあやまれ」と言ってきた。これを断ると無理難題を押し付けてきた。「給食当番に圧力をかけておかずを減らすぞ」、とか「他のクラスメートに働きかけて、シカトしてやるぞ」とかいい出した。おとなしく謝れば許してやる、と言うが、何を謝るのかがわからない。ぶつかってきたのは向こうだし・・・・。こちらは「毅然と」しているうちに収まるかと思ったが、どんどんエスカレートしていく。そこで「モト・ジャイアン」にそれとなく話をしてもらった。モト・ジャイアンはなんだかモト冬木みたいな名前だが、しばらく前まで間では彼もジャイアンだったのだ。ところが最近急に大人びて、真面目になり自己推薦で勝手に級長になっている。いつもは味方をしてくれるはずなのに、なんと「二人とも冷静に話しあって解決すれば?」などと言っている。どうすりゃいいんだ・・・・・。
しかしもともと人生は理不尽なことだらけである。さっきちょうど中国人(大陸出身)の患者さんと会ったので話を聞いてみたら、「中国のこのやり方は、ソ連から学んだのですよ。」と言う。知識人の中にはかなり中国政府が日本に対して無理なことを言っているという感覚を持っている人もいるという。それに反日運動自身もかなり政府がコントロールしているという話だ。
失敗学的に言ったら、とにかく人生は上手くいかなくて普通、アンフェアで当たり前、と覚悟をしておくべきであるということか。日本は早めに船長の拘留を解いて帰国してもらうか、あるいは「謝罪して」中国政府に許してもらうか。それとも前原さんの言うように「粛々と対応」し、中国政府をもっと怒らせて、後は時間が解決するのを長~い間待つか。どちらに進んでも何らかの痛みが伴う。妙案など最初から存在しないのだ。
ここで精神衛生上大切なのは、「どちらが正しいか」を考えないことだろう。いや、考えてもいいが「正しい方が勝つべきだ、勝つはずだ」という考えを持たないことだろう。国の振る舞いに、正しい、正しくない、はない。なぜなら国は人ではないからだ。国と国の間に誠実さとか、ましてや「友愛」などない。人間の共感の射程は、せいぜい目の前で苦しんでいる人か、家族、親しい友人程度だ。ある国が、別の国に共感することはない。(ある国の国民が、別の国の国民に特別共感を覚えやすいということはあるが。人種の近さ、宗教の近さなどが関係するだろう。ただし同じ人種で、同じ宗教を持つ人々同士が血で血を洗う殺戮を繰り返す例もいくらでもある。)
中国政府の言うことは無茶だ、日本の言うことのほうが正しい、といくら思っていても、事実上のリーダーの米国が「日本も中国もどっちもどっちだ。」と言うとしたら、もうどうしようもない。日本人にとっての正義は勝たないというケースのもう一つの例と諦めるべきだろう。
なんだか自分で自分を慰めるために書いているような感じだ。
中国の振る舞いは日本人からすればまったく理不尽だが、人間社会ではよくある話だ。小学校のクラスにたとえるならば、中国政府はドラえもんに出てくるジャイアンのようなものだろう。ジャイアンは最近急に体が大きくなって発言権も増してきた。休み時間にぶつかってきたくせに、「土下座してあやまれ」と言ってきた。これを断ると無理難題を押し付けてきた。「給食当番に圧力をかけておかずを減らすぞ」、とか「他のクラスメートに働きかけて、シカトしてやるぞ」とかいい出した。おとなしく謝れば許してやる、と言うが、何を謝るのかがわからない。ぶつかってきたのは向こうだし・・・・。こちらは「毅然と」しているうちに収まるかと思ったが、どんどんエスカレートしていく。そこで「モト・ジャイアン」にそれとなく話をしてもらった。モト・ジャイアンはなんだかモト冬木みたいな名前だが、しばらく前まで間では彼もジャイアンだったのだ。ところが最近急に大人びて、真面目になり自己推薦で勝手に級長になっている。いつもは味方をしてくれるはずなのに、なんと「二人とも冷静に話しあって解決すれば?」などと言っている。どうすりゃいいんだ・・・・・。
しかしもともと人生は理不尽なことだらけである。さっきちょうど中国人(大陸出身)の患者さんと会ったので話を聞いてみたら、「中国のこのやり方は、ソ連から学んだのですよ。」と言う。知識人の中にはかなり中国政府が日本に対して無理なことを言っているという感覚を持っている人もいるという。それに反日運動自身もかなり政府がコントロールしているという話だ。
失敗学的に言ったら、とにかく人生は上手くいかなくて普通、アンフェアで当たり前、と覚悟をしておくべきであるということか。日本は早めに船長の拘留を解いて帰国してもらうか、あるいは「謝罪して」中国政府に許してもらうか。それとも前原さんの言うように「粛々と対応」し、中国政府をもっと怒らせて、後は時間が解決するのを長~い間待つか。どちらに進んでも何らかの痛みが伴う。妙案など最初から存在しないのだ。
ここで精神衛生上大切なのは、「どちらが正しいか」を考えないことだろう。いや、考えてもいいが「正しい方が勝つべきだ、勝つはずだ」という考えを持たないことだろう。国の振る舞いに、正しい、正しくない、はない。なぜなら国は人ではないからだ。国と国の間に誠実さとか、ましてや「友愛」などない。人間の共感の射程は、せいぜい目の前で苦しんでいる人か、家族、親しい友人程度だ。ある国が、別の国に共感することはない。(ある国の国民が、別の国の国民に特別共感を覚えやすいということはあるが。人種の近さ、宗教の近さなどが関係するだろう。ただし同じ人種で、同じ宗教を持つ人々同士が血で血を洗う殺戮を繰り返す例もいくらでもある。)
中国政府の言うことは無茶だ、日本の言うことのほうが正しい、といくら思っていても、事実上のリーダーの米国が「日本も中国もどっちもどっちだ。」と言うとしたら、もうどうしようもない。日本人にとっての正義は勝たないというケースのもう一つの例と諦めるべきだろう。
なんだか自分で自分を慰めるために書いているような感じだ。
2010年9月11日土曜日
怒らないこと その7. 怒らないで人を導くことは出来るのか?
「汝怒るなかれ」の原則を守ったとしたら、人は自分の誤りを正してもらう機会もなく、道を誤り続けるのではないか?」「自分の子を叱りつけることも出来ないで、親の役割をはたすことなど出来るのであろうか?」うーん、分かる、もっともらしい。「汝怒るなかれ」は人工的で、いかにも人間の本性に逆らい、無理をしているという感じが伴う。
私はこれについてはなんとなく答えを持っている。たとえばバイジーのAさんがかなり不味い過ちを起こしてしまったとする。例えば寝坊して、学生相談室であっている患者さんとの面接を、スッポカしてしまったとする。学生自体に悪気はなかっとはいえ、面接者としての覚悟が不十分であり、患者さんはすっかり怒ってしまい、もう治療にはきたくない、とまで言っている。多くのバイザーは、Aさんに対してかなり厳しい叱責をしたり、怒りをあわらにしたりするはずだ。
私はこれは怒るようなところだな、と思えば思うほど怒らないと思うが、大いに困惑し、それをAさんに伝えるだろうと思う。実際最近あるバイジーーさんがかなりよろしくないことをしてしまった時、私の反応といえば、「いやー・・・・・・・・。これは困った。どうしようか。何かあなたには考えはあるの?そうか・・・・・。あなたがそんなことをするのを予想できなかった私にも問題があったよね。」ここらへんでバイジーさんは、ただならぬ気配を察して、まだ十分に理由がつかめながらも謝罪を求め始めるだろう。
実はこのようなとき、心のどこかで私はAさんにムカついている。そしてそれが外に出ないようにかなり警戒している。その全体をAさんは察知している。それで十分なのだ。「汝怒るなかれ」の「怒り」は、外にact out されたそれ、というニュアンスがある。
汝怒るなかれ、とか言いながら、昔今とは別の病院に務めていたときに、そこのある女性の患者Bさんにすごく腹がたったことを思い出した。本人に直接はぶつけていないが、実は「なんてことを!アイツ!」とつぶやいてその患者さんを責めた。
そのBさんのしたことは、正確には言えないので、脚色をしてみると、こうなる。診察を終えたあと、気がつかないうちに、Bさんは自分のカルテを持ち出してしまったのだ。そしていまどのページを読んでいるところだ、ということを電話してきたのである。
ただその時のことを思い出すと、私は自分の当惑や失望についてはいくらでもBさんに伝えたが、彼女への怒りの部分は何の意味もなさないと考えていたのだ。なぜなら、Bさんは患者さんだし、そのような衝動的な行動を説明するに足るような傾向をかなり以前からしめしていたのである。ある意味ではBさんはそのような行動や、その他諸々の事情で仕事を続けられず、友達も持てずに私のところに来たのであり、言わば私はBさんのそんなところの改善の手助けをする役回りだったのだ。これは考えて見れば、骨折を扱う整形外科医が、その治療の途中で再び骨にヒビを入らしてしまい、それに怒るようなものである。ヘンでしょ?当惑や失望はあってもおかしくないが、怒るような問題ではそもそもない。とすればそれでも生じてきてしまったBさんへの怒りは、もう身から出た錆として自分で処理するしかないと感じられたのである。ここらへん、「失敗学」とも関連。
それに・・・・・治療者の怒りは患者の側にとってはあまりに破壊的なものになりかねない。大体精神科医やカウンセラーに怒られた体験を思い出し、「あの時先生に怒られていなかったら今の私はありません」というような話を私たちはどれほど聞くだろうか?ゼロとは言わないが、実際にはそれで医者や治療者嫌いになったり、それを一種のトラウマ体験としてしまったケースのほうが圧倒的に多いだろう。
私はこれについてはなんとなく答えを持っている。たとえばバイジーのAさんがかなり不味い過ちを起こしてしまったとする。例えば寝坊して、学生相談室であっている患者さんとの面接を、スッポカしてしまったとする。学生自体に悪気はなかっとはいえ、面接者としての覚悟が不十分であり、患者さんはすっかり怒ってしまい、もう治療にはきたくない、とまで言っている。多くのバイザーは、Aさんに対してかなり厳しい叱責をしたり、怒りをあわらにしたりするはずだ。
私はこれは怒るようなところだな、と思えば思うほど怒らないと思うが、大いに困惑し、それをAさんに伝えるだろうと思う。実際最近あるバイジーーさんがかなりよろしくないことをしてしまった時、私の反応といえば、「いやー・・・・・・・・。これは困った。どうしようか。何かあなたには考えはあるの?そうか・・・・・。あなたがそんなことをするのを予想できなかった私にも問題があったよね。」ここらへんでバイジーさんは、ただならぬ気配を察して、まだ十分に理由がつかめながらも謝罪を求め始めるだろう。
実はこのようなとき、心のどこかで私はAさんにムカついている。そしてそれが外に出ないようにかなり警戒している。その全体をAさんは察知している。それで十分なのだ。「汝怒るなかれ」の「怒り」は、外にact out されたそれ、というニュアンスがある。
汝怒るなかれ、とか言いながら、昔今とは別の病院に務めていたときに、そこのある女性の患者Bさんにすごく腹がたったことを思い出した。本人に直接はぶつけていないが、実は「なんてことを!アイツ!」とつぶやいてその患者さんを責めた。
そのBさんのしたことは、正確には言えないので、脚色をしてみると、こうなる。診察を終えたあと、気がつかないうちに、Bさんは自分のカルテを持ち出してしまったのだ。そしていまどのページを読んでいるところだ、ということを電話してきたのである。
ただその時のことを思い出すと、私は自分の当惑や失望についてはいくらでもBさんに伝えたが、彼女への怒りの部分は何の意味もなさないと考えていたのだ。なぜなら、Bさんは患者さんだし、そのような衝動的な行動を説明するに足るような傾向をかなり以前からしめしていたのである。ある意味ではBさんはそのような行動や、その他諸々の事情で仕事を続けられず、友達も持てずに私のところに来たのであり、言わば私はBさんのそんなところの改善の手助けをする役回りだったのだ。これは考えて見れば、骨折を扱う整形外科医が、その治療の途中で再び骨にヒビを入らしてしまい、それに怒るようなものである。ヘンでしょ?当惑や失望はあってもおかしくないが、怒るような問題ではそもそもない。とすればそれでも生じてきてしまったBさんへの怒りは、もう身から出た錆として自分で処理するしかないと感じられたのである。ここらへん、「失敗学」とも関連。
それに・・・・・治療者の怒りは患者の側にとってはあまりに破壊的なものになりかねない。大体精神科医やカウンセラーに怒られた体験を思い出し、「あの時先生に怒られていなかったら今の私はありません」というような話を私たちはどれほど聞くだろうか?ゼロとは言わないが、実際にはそれで医者や治療者嫌いになったり、それを一種のトラウマ体験としてしまったケースのほうが圧倒的に多いだろう。
2010年8月12日木曜日
失敗学 12 「本来の実力」ってなんだ?
日本列島に嫌がらせをしているような台風4号の動き。
また失敗学に入り込んでいる。相撲やゴルフなどでよく出てくる表現。「自分本来の相撲が取れなかった。」「実力が出しきれなかった。」これらはいずれも目くらましの、私たちの思考をひどく混乱させる表現だが、広く用いられ、しかもわかりやすい。人はこのような言い方にあまり疑問を持たない。石川くん君が「本来の力」を出したら、ゴルフの大会でかんたんに優勝するかもしれない。しかし「自分の力を出し切れなかったら」予選落ちをしてしまうというわけだ。
ではどのような時に本来の実力が出せるかと言えば、高いスコアをマークした時にそうであった、と後からわかるというわけだろう。でもこれってトートロジカルだ。実力が出たかどうかは、高いスコアが出ることでわかる。他方では、高いスコアが出るということは実力が出た証拠である …・
このことから分かるとおり、失敗学に基づかない思考は、本質主義的だ。つまり遼くんのゴルフの実力というものが、あたかも実態を伴ったように想定される。でも少しでもゴルフというスポーツを少しでもしたことのある人は、それが非常に揺れ幅の多い、蓋然的なものであるということを知っている(スミマセン、偉そうで。実は私はゴルフをしたことがありません。)
失敗学はもうひとつのテーあである不可知論につながっていて、そもそも実態を伴った「実力」を信じない。実力とは失敗学的には、「失敗」を起こしにくいこと、と言い直すことができようが、失敗がそもそも確率論的なものでしかない以上、実力も同じように理解される。すると実力とはむしろゴルフの選手の平均の飛距離とか、パターの回数とか、平均のストローク数などで表される。もし遼くんの平均ストローク数が、69で、普通のゲームでの順位が、5位だとしよう。すると遼くんが5位になったゲームで、始めて彼は実力を出したということになる。しかも偶然。
今年の5月に、遼くんが58ストロークという驚異的な記録で優勝したとき、彼はこういうべきだったのだ。「今日はまぐれにまぐれが重なり、実力とは別のスコアになりました。お騒がせしました。」
また失敗学に入り込んでいる。相撲やゴルフなどでよく出てくる表現。「自分本来の相撲が取れなかった。」「実力が出しきれなかった。」これらはいずれも目くらましの、私たちの思考をひどく混乱させる表現だが、広く用いられ、しかもわかりやすい。人はこのような言い方にあまり疑問を持たない。石川くん君が「本来の力」を出したら、ゴルフの大会でかんたんに優勝するかもしれない。しかし「自分の力を出し切れなかったら」予選落ちをしてしまうというわけだ。
ではどのような時に本来の実力が出せるかと言えば、高いスコアをマークした時にそうであった、と後からわかるというわけだろう。でもこれってトートロジカルだ。実力が出たかどうかは、高いスコアが出ることでわかる。他方では、高いスコアが出るということは実力が出た証拠である …・
このことから分かるとおり、失敗学に基づかない思考は、本質主義的だ。つまり遼くんのゴルフの実力というものが、あたかも実態を伴ったように想定される。でも少しでもゴルフというスポーツを少しでもしたことのある人は、それが非常に揺れ幅の多い、蓋然的なものであるということを知っている(スミマセン、偉そうで。実は私はゴルフをしたことがありません。)
失敗学はもうひとつのテーあである不可知論につながっていて、そもそも実態を伴った「実力」を信じない。実力とは失敗学的には、「失敗」を起こしにくいこと、と言い直すことができようが、失敗がそもそも確率論的なものでしかない以上、実力も同じように理解される。すると実力とはむしろゴルフの選手の平均の飛距離とか、パターの回数とか、平均のストローク数などで表される。もし遼くんの平均ストローク数が、69で、普通のゲームでの順位が、5位だとしよう。すると遼くんが5位になったゲームで、始めて彼は実力を出したということになる。しかも偶然。
今年の5月に、遼くんが58ストロークという驚異的な記録で優勝したとき、彼はこういうべきだったのだ。「今日はまぐれにまぐれが重なり、実力とは別のスコアになりました。お騒がせしました。」
2010年8月11日水曜日
失敗学 その 11
産経のニュース欄(もちろんインターネット版)にタケシのエッセイが載っていたが、彼ほど達観していて、つまりは人生がドーデもよくなっている人は、結局失敗学に従う発言になっている。彼は無駄なメッセージを流し、余計なことを考えて人生を送るつもりはないから、「~も結局は~ということだろう」というものの見方をするが、それは結局人間を現実的に(=不完全な失敗作として)捉えることになる。例えば次のような彼の言い分を見る。
「鳩山さんはたとえば、町内で暴力団に金払っても町はうまくいってたのに『この町に暴力団はいらない』と言う町会長みたいなもんだった。悪人になれなくて、ちっちゃな善人になろうとすると、みんなああいう轍(てつ)を踏むんですよ。だって基本的に政治家ってのは、多数の人間を殺す可能性がある戦いにまで、主導権を取る人なんだから、小さな善なんて言っている場合じゃない。大善人やるなら(インド独立の父)ガンジーやるしかないじゃないですか」
産経のニュース欄(もちろんインターネット版)にタケシのエッセイが載っていたが、彼ほど達観していて、つまりは人生がドーデもよくなっている人は、結局失敗学に従う発言になっている。彼は無駄なメッセージを流し、余計なことを考えて人生を送るつもりはないから、「~も結局は~ということだろう」というものの見方をするが、それは結局人間を現実的に(=不完全な失敗作として)捉えることになる。例えば次のような彼の言い分を見る。
「鳩山さんはたとえば、町内で暴力団に金払っても町はうまくいってたのに『この町に暴力団はいらない』と言う町会長みたいなもんだった。悪人になれなくて、ちっちゃな善人になろうとすると、みんなああいう轍(てつ)を踏むんですよ。だって基本的に政治家ってのは、多数の人間を殺す可能性がある戦いにまで、主導権を取る人なんだから、小さな善なんて言っている場合じゃない。大善人やるなら(インド独立の父)ガンジーやるしかないじゃないですか」
2010年8月6日金曜日
失敗学について その10.バイクでの私の失敗
畑村先生の失敗学の理論は、一言で言えば「痛快」なのだが、それは彼の直接的な物言いにある。実にわかりやすい。そして彼のもうひとつわかりやすい主張が、「人間は、失敗からしか学べない。」である。失敗からしか、というのだ。もちろんこれは極端だ。人間は成功からも学ぶことは出来るだろう。でも敢えてそう言わないところに意味があるのだろう。
これは例えば何かの技術を学び、トレーニングを行う際の考え方を大きく変える可能性がある。ある技術を修得するためには、その技術を学ぶことに、そしてそれを用いることに失敗する必要がある・・・・・。私たちの技術を学ぶプロセスに、ほとんどこの考えが顧みられない。ある技術Aを学ぶということは、Aを用いないとどういう事が起きるかを身をもって体験しなくてはならないが、たいていはこのプロセスは無視される。Aはたいてい、テキストで学習したあと、実地で試される。
私たちの多くが体験する運転について考える。自動車教習所ではまず教科の学習があり、その後実際に運転席にすわる。教科の内容は頭だけの内容であり、完全に習得されていないはずだから、なかなか教えられたとおりに体が動かずに失敗する。それを繰り返していくうちに運転は習得されていく。でも実はそれは運転を本当の意味で学ぶということではない。ではどうするのか?
私はその昔研修医時代にバイクに載って通勤した。はじめは50ccのミニバイクを、そして後には250ccに出世して乗り回していた。その体験で忘れられないことは、転倒した体験だ。とくに50ccでタイヤが小さなバイクは、ブレーキをかける時ほんの少しでもタイヤが曲がっていたら、つまりハンドルを切っていたら、本当にあっという間に路面を滑り、そして転倒する。あのバイクがコントロールを完全に失い、道を斜めに横切って行く時の絶望的な感覚は決して忘れられない。
ある朝、病院に向かっていたら、雨が降ってきた。教習所では、特に雨の降り始めに路面が非常に滑りやすくなっていることを教わっていた。 そこで太い通りのカーブを緩やかに曲がっている最中に、こんなに交通量の多いところで車体が滑っては大変、といつもよりスピードを緩めるつもりでブレーキをかけると、ツーっと滑っていった。その時私の直後に車が走っていたら、私は今この世にいなかったかもしれない。
バイクのブレーキを、ハンドルが曲がった状態でかけると大変なことが起きる・・・・。それを身をもって学習するためには、私はこの生命を危うく失いかねない失敗を、4度ほど体験した。最後の一回など、「このくらい緩やかなブレーキなら、大丈夫だろう、というのは誤りである。」というかたちで。
私がバイクを運転して命を失わないための方法についての学習は、少なくとも教科書に太字では書いていなかった。それにそのような間違いを普通の人はしないらしく、そのような怖い体験を語って私に警告してくれる人もなかった。
私の知っているかなりの数の人が、若い頃バイクを乗り回し、ある時期からぱったりやめてしまった。私の職場の上司がそうであり(彼からバイクを安く買ったのだ)、私の妻もそうだ。彼らはバイクで事故を起こし、あるいは目の前で事故を起こして救急車で運ばれる運転者を間近に見て、あるいはトラックに巻き込まれる運転者を見て「バイクは怖い。運転してはいけない。」ということを学習して、乗るのをやめていくのだ。
私たちは自分の身を危険に晒すような技術については、「失敗」から学んでそれを防ぐ方法を知る。しかし自分の用いる技術が他人を、それも見えにくい形で害するという形でしか「失敗」しない限り、それは決して身をもって学ばれることはなく、決して失敗はこの世からなくならないのだろう・・・・。
これは例えば何かの技術を学び、トレーニングを行う際の考え方を大きく変える可能性がある。ある技術を修得するためには、その技術を学ぶことに、そしてそれを用いることに失敗する必要がある・・・・・。私たちの技術を学ぶプロセスに、ほとんどこの考えが顧みられない。ある技術Aを学ぶということは、Aを用いないとどういう事が起きるかを身をもって体験しなくてはならないが、たいていはこのプロセスは無視される。Aはたいてい、テキストで学習したあと、実地で試される。
私たちの多くが体験する運転について考える。自動車教習所ではまず教科の学習があり、その後実際に運転席にすわる。教科の内容は頭だけの内容であり、完全に習得されていないはずだから、なかなか教えられたとおりに体が動かずに失敗する。それを繰り返していくうちに運転は習得されていく。でも実はそれは運転を本当の意味で学ぶということではない。ではどうするのか?
私はその昔研修医時代にバイクに載って通勤した。はじめは50ccのミニバイクを、そして後には250ccに出世して乗り回していた。その体験で忘れられないことは、転倒した体験だ。とくに50ccでタイヤが小さなバイクは、ブレーキをかける時ほんの少しでもタイヤが曲がっていたら、つまりハンドルを切っていたら、本当にあっという間に路面を滑り、そして転倒する。あのバイクがコントロールを完全に失い、道を斜めに横切って行く時の絶望的な感覚は決して忘れられない。
ある朝、病院に向かっていたら、雨が降ってきた。教習所では、特に雨の降り始めに路面が非常に滑りやすくなっていることを教わっていた。 そこで太い通りのカーブを緩やかに曲がっている最中に、こんなに交通量の多いところで車体が滑っては大変、といつもよりスピードを緩めるつもりでブレーキをかけると、ツーっと滑っていった。その時私の直後に車が走っていたら、私は今この世にいなかったかもしれない。
バイクのブレーキを、ハンドルが曲がった状態でかけると大変なことが起きる・・・・。それを身をもって学習するためには、私はこの生命を危うく失いかねない失敗を、4度ほど体験した。最後の一回など、「このくらい緩やかなブレーキなら、大丈夫だろう、というのは誤りである。」というかたちで。
私がバイクを運転して命を失わないための方法についての学習は、少なくとも教科書に太字では書いていなかった。それにそのような間違いを普通の人はしないらしく、そのような怖い体験を語って私に警告してくれる人もなかった。
私の知っているかなりの数の人が、若い頃バイクを乗り回し、ある時期からぱったりやめてしまった。私の職場の上司がそうであり(彼からバイクを安く買ったのだ)、私の妻もそうだ。彼らはバイクで事故を起こし、あるいは目の前で事故を起こして救急車で運ばれる運転者を間近に見て、あるいはトラックに巻き込まれる運転者を見て「バイクは怖い。運転してはいけない。」ということを学習して、乗るのをやめていくのだ。
私たちは自分の身を危険に晒すような技術については、「失敗」から学んでそれを防ぐ方法を知る。しかし自分の用いる技術が他人を、それも見えにくい形で害するという形でしか「失敗」しない限り、それは決して身をもって学ばれることはなく、決して失敗はこの世からなくならないのだろう・・・・。
2010年8月5日木曜日
失敗学について その9. 失敗学と不可知性
どうも私の話はいつも不可知論の方に行ってしまう。というより私の興味が不可知性に向かっていくようなテーマに自然と向かうということだと思う。でも失敗学はやはりこの問題とつながっているのは確かだ。
失敗学とは、失敗をなくそう、という学問ではない。もしそうだとすると、それ自体が失敗例ということになる。失敗はなくすことはできない。そうではなくて、失敗学は失敗を少しでも深く知るための学問、というべきだ。あるいは、「失敗がどうしてなくならないかを問う学問」というべきか。
一昨日失敗が生じる原因は、私たちが「蓋然性」を「必然性」にすり替えてしまうことが問題だ、と私はいった。しかしこれは、私たちを取り囲む自然(宇宙)が悠久で(といっても宇宙物理から言えば始まりと終わりがあるようだが)、それに比べて私たち一人ひとりの人生がほんの一瞬に過ぎないということに関係している。私たちは「生きている限りは大きな失敗がなければそれでいい」のである。そのためには蓋然性を必然性に変えてでも、その矛盾が露呈しないうちに生き抜ければいい、というところがある。
例えばアメリカのシアトルに住んでいるとする。ここは何百年に一度の頻度で長周期の巨大地震が起きる地形であるという。(わかった風な書き方だが、全部過去のNHKの教養番組の受け売りである。)前回の巨大地震のころは、コロンブス以前でシアトルという都市はまだ存在していなかったが、その巨大津波の跡は、太平洋を越えた日本にさえ残っているという。そしてシアトルの内陸の地層を調べても、それ以前にも大地震が起きた形跡がうかがえるという。しかし今のワシントン州シアトルは、最後の地震からはるかに時間を経てでき上がったし、その頃は長周期地震という概念はおろか、地震学そのものがなかったから、建物なども地震など想定していない作りになっている。
そこで二千X年に次の地震が起きるとしよう。シアトル市に耐震構造の万全でないビルを建てたA氏が、二千Xマイナス一年に臨終を迎える。「自分の人生はうまくいった。自分でビルも建てたし、平和な人生を送ることができた。」A氏の人生は成功裏に終わったことになる。そして翌年巨大地震が発生する。シアトルの町は建物がいたるところで倒壊し、巨大な津波に襲われて多くの人が溺死し、あるいは家を失う。臨終を迎えていた建物のオーナーB氏は、死の直前になり建物の下敷きになり、薄れていく意識とともにつぶやく。「何という人生だ!こんな建物、砂上の楼閣だったのだ。苦労して財をなし、ようやく建てたビルに圧しつぶされて死ぬなんて、なんと皮肉で愚かな話なんだろう?」
ここでA氏が失敗しないために必要だったのは、大地震に備えてビルを耐震構造を備えたものに立て直すことではなかったのだ。ただ「何百年に一度という地震など、私が生きているうちに起きることは絶対ない」と信じ、生き抜けることだった。結局未来は不可知なのだ。今後10年の間に起きる確率が非常に低い出来事について、そのすべてに日ごろの準備をかかさないとしたら、人生はそれだけで終わってしまう。人は火災保険、水害保険、竜巻保険のすべてに加入し、癌保険、入院保険そして生命保険に入り、保険料を支払っていたら毎日の食費さえ残らなくなってしまうだろう。だから極めて重大で極めてまれな失敗は、絶対に起きないという前提で生きていくしかないのだ。そして万が一雷が落ちて家が焼け、あるいは竜巻にあって飛ばされたとしたら、人は言う。「未来に備えていなかったなんて、明らかに失敗だった。」未来は不可知であったことを忘れて、今度はそれを何らかの形で予見できなかったことを悔やむのである。
こうして失敗は永遠に存在し続けるのだ。(この文は、ここまで読んでいただける価値はあったのだろうか?)
失敗学とは、失敗をなくそう、という学問ではない。もしそうだとすると、それ自体が失敗例ということになる。失敗はなくすことはできない。そうではなくて、失敗学は失敗を少しでも深く知るための学問、というべきだ。あるいは、「失敗がどうしてなくならないかを問う学問」というべきか。
一昨日失敗が生じる原因は、私たちが「蓋然性」を「必然性」にすり替えてしまうことが問題だ、と私はいった。しかしこれは、私たちを取り囲む自然(宇宙)が悠久で(といっても宇宙物理から言えば始まりと終わりがあるようだが)、それに比べて私たち一人ひとりの人生がほんの一瞬に過ぎないということに関係している。私たちは「生きている限りは大きな失敗がなければそれでいい」のである。そのためには蓋然性を必然性に変えてでも、その矛盾が露呈しないうちに生き抜ければいい、というところがある。
例えばアメリカのシアトルに住んでいるとする。ここは何百年に一度の頻度で長周期の巨大地震が起きる地形であるという。(わかった風な書き方だが、全部過去のNHKの教養番組の受け売りである。)前回の巨大地震のころは、コロンブス以前でシアトルという都市はまだ存在していなかったが、その巨大津波の跡は、太平洋を越えた日本にさえ残っているという。そしてシアトルの内陸の地層を調べても、それ以前にも大地震が起きた形跡がうかがえるという。しかし今のワシントン州シアトルは、最後の地震からはるかに時間を経てでき上がったし、その頃は長周期地震という概念はおろか、地震学そのものがなかったから、建物なども地震など想定していない作りになっている。
そこで二千X年に次の地震が起きるとしよう。シアトル市に耐震構造の万全でないビルを建てたA氏が、二千Xマイナス一年に臨終を迎える。「自分の人生はうまくいった。自分でビルも建てたし、平和な人生を送ることができた。」A氏の人生は成功裏に終わったことになる。そして翌年巨大地震が発生する。シアトルの町は建物がいたるところで倒壊し、巨大な津波に襲われて多くの人が溺死し、あるいは家を失う。臨終を迎えていた建物のオーナーB氏は、死の直前になり建物の下敷きになり、薄れていく意識とともにつぶやく。「何という人生だ!こんな建物、砂上の楼閣だったのだ。苦労して財をなし、ようやく建てたビルに圧しつぶされて死ぬなんて、なんと皮肉で愚かな話なんだろう?」
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| シアトルの皆さん、例に出してごめんなさい |
こうして失敗は永遠に存在し続けるのだ。(この文は、ここまで読んでいただける価値はあったのだろうか?)
2010年8月4日水曜日
失敗学 (昨日の続き)
暑い日が続くが、朝夕の日差しが低くなったのが嬉しい。それでも昼間の外出時は、雨傘などを日傘代わりに使っている。
昨日の話は、「失敗は蓋然性を必然性に取り違えることが原因となる」ということであった。わかりやすくいえば、「多分~なるだろう」を「ぜったい~はずだ」という考えに変えてしまうことで、確率的にはおきても決しておかしくないこと、すなわちそれ自身は失敗でもなんでもないことが、ことごとく「失敗」になってしまうということだ。これは当たり前の話であるが、私たちは生きていくうえで「たぶん→絶対に」変換をしばしば行う必要に迫られる。ちょうど太平洋戦争のさなかは、「負けるかもしれない」は口に出しただけでも非国民扱いされたように、である。
今日は失敗が起きるもう一つの要因として、恥の感覚を取り上げたい。おそらくこちらの方がより身近で大事なテーマかもしれない。失敗することはとても恥ずかしい、あるいは恥ずべきことであり、失敗しそうなこと、あるいはしてしまったことは出来るだけ隠したいという力は常に私たちの心に働いている。かくして「失敗が起きない」という前提に立った制度や体制が私たちの社会のいたるところに出来上がり、それが必然的に、失敗を産出する、というわけである。
失敗には、倫理的なものと、アクシデント、つまり自己とがある。倫理的、とは法や決まりを意図的に犯すということだ。これだって「出来心」「ふと魔がさす瞬間」という言い方をするなら、一種の事故なのであるが、これを自分が犯す可能性を認めることは難しい、というよりも社会がそれを普通は許してくれない。倫理的な「失敗」は本来起きてはならないものなのである。
例えば政治家たちに、「あなたたちは低い確率でではあっても、贈収賄に関わったり、違法な政治献金を受けるということがありますよね。」と尋ねても、「ハイ、そうです」などという輩など絶対いないだろう。「私は天地天命に誓って、そんなよこしまなことはいたしません。」となる。むろん政治家だけではない。一般の社会人でもそうだ。「私は低い確率ではあったも、ちょっとした所得隠しや水増し請求、裏金つくりなどをしてしまうかもしれない。それは私が人間だからだ」などといったら、即刻クビになるのではないか?「自分は決して悪いことはしない」という前提は、少なくとも社会に対しては建前上表明せざるを得ない。そしてそのことが、既に失敗を想定しないシステムをつくってしまう。だから人間社会に失敗は決してなくならない。ところが実際の政治で、賄賂が発生しない体性など、およそ考えられない。とすればこれはしっかり「おき得るべき失敗」として予想しなくてはならないのである。そしてそのためには、人間をまったく異なる存在として把握しなくてはならなくなる。その際の視点は、心理学でも社会学でもなく、むしろエソロジー(動物行動学)なのだろう。
昨日の話は、「失敗は蓋然性を必然性に取り違えることが原因となる」ということであった。わかりやすくいえば、「多分~なるだろう」を「ぜったい~はずだ」という考えに変えてしまうことで、確率的にはおきても決しておかしくないこと、すなわちそれ自身は失敗でもなんでもないことが、ことごとく「失敗」になってしまうということだ。これは当たり前の話であるが、私たちは生きていくうえで「たぶん→絶対に」変換をしばしば行う必要に迫られる。ちょうど太平洋戦争のさなかは、「負けるかもしれない」は口に出しただけでも非国民扱いされたように、である。
今日は失敗が起きるもう一つの要因として、恥の感覚を取り上げたい。おそらくこちらの方がより身近で大事なテーマかもしれない。失敗することはとても恥ずかしい、あるいは恥ずべきことであり、失敗しそうなこと、あるいはしてしまったことは出来るだけ隠したいという力は常に私たちの心に働いている。かくして「失敗が起きない」という前提に立った制度や体制が私たちの社会のいたるところに出来上がり、それが必然的に、失敗を産出する、というわけである。
失敗には、倫理的なものと、アクシデント、つまり自己とがある。倫理的、とは法や決まりを意図的に犯すということだ。これだって「出来心」「ふと魔がさす瞬間」という言い方をするなら、一種の事故なのであるが、これを自分が犯す可能性を認めることは難しい、というよりも社会がそれを普通は許してくれない。倫理的な「失敗」は本来起きてはならないものなのである。
例えば政治家たちに、「あなたたちは低い確率でではあっても、贈収賄に関わったり、違法な政治献金を受けるということがありますよね。」と尋ねても、「ハイ、そうです」などという輩など絶対いないだろう。「私は天地天命に誓って、そんなよこしまなことはいたしません。」となる。むろん政治家だけではない。一般の社会人でもそうだ。「私は低い確率ではあったも、ちょっとした所得隠しや水増し請求、裏金つくりなどをしてしまうかもしれない。それは私が人間だからだ」などといったら、即刻クビになるのではないか?「自分は決して悪いことはしない」という前提は、少なくとも社会に対しては建前上表明せざるを得ない。そしてそのことが、既に失敗を想定しないシステムをつくってしまう。だから人間社会に失敗は決してなくならない。ところが実際の政治で、賄賂が発生しない体性など、およそ考えられない。とすればこれはしっかり「おき得るべき失敗」として予想しなくてはならないのである。そしてそのためには、人間をまったく異なる存在として把握しなくてはならなくなる。その際の視点は、心理学でも社会学でもなく、むしろエソロジー(動物行動学)なのだろう。
2010年8月3日火曜日
失敗学 その7 失敗がどうして起きるのか、という根本的なテーマ
毎日暑い日が続くが、やはり私は冬がいやである。こんなに暑くて苦しいけれど、たとえば外出から帰って冷たい●●を口にする時はたまらない。(●●はビール、ではない。)これは冬には味わえない快感だ。
なぜ失敗が起きるのか、という根本的な問題に触れてみよう。それは突き詰めて言えば、私たちが毎日を送る上で、予想可能性を前提としているからだ。
例えばこの間の日曜に見た竜馬伝の中から。竜馬は薩長連合を画策して、長州の桂小五郎のもとを訪れ、「薩摩の西郷が絶対来るから、下関で待つように」と説得する。薩摩を憎んでいる藩士たちを束ねる桂小五郎は、それでも龍馬を信じて待つことにした。ところがとうとう西郷は現れず、桂は激怒して、「キミを信じた僕が馬鹿だった。二度とおれの前に現われるな!」となった。彼は藩士たちを前にして大恥をかかされたのだから無理もない。そして龍馬はどうして中岡慎太郎が西郷を説得できなかったのかと悔やむ ・・・・・・。絵にかいたような失敗である。
しかし考えれば、これはおかしな失敗だ。実際はストーリーを追えば分かる通り、それぞれの部分で成功する率は決して高くない。(少なくともドラマではそうなっている)。この計画が失敗したのは、「絶対に西郷が・・・・・」「必ず薩長連合は成就する・・・」という形で蓋然性を必然性に置き換えたからである。そこの時点で間違っている。西郷がおとなしく中岡慎太郎と一緒に下関まで来る確率はおそらく6割くらいだったのではないか?(←まったくテキトーな数字である。)とすれば龍馬はこう言えばよかったのだ。
「桂よ、おそらく西郷は此処に来るのは五分五分の確率だ。でもそれはすごいことなんだ。是非ここにいる長州藩士たちを説得して、待っておくれ。」
これでは薩摩を討つべし、と息巻く長州藩士たちを説得できるはずはない。「絶対!」ということで人はやっと動くものである。では龍馬は、7割(←少し上がった)のの確率にかけて、ハッタリで桂小五郎を説得しようとしたのか?
ここからは私の想像だが、龍馬の頭の中に、そして私たち皆の心のなかにある種の新年があるのだろう。それは強く期待し、強く念じれば、蓋然性は必然性になる。祈り、である。祈って、「多分」を「絶対」に置き換えることで、人は力を発揮できることがある。そしておそらく実際に西郷をつれてくる確率は、例えば6割から7割に上がるのだろう。だから私たちは「Aが起きる」ということを祈る、強く念じる、という行為をやめることがない。そして結果として蓋然性は必然性に「誤認」され、当然ありうる「Aは起きない」という現象を、失敗にしてしまうのだ。かくして私たちは普通の生活を送っている以上は、常に失敗を避けることができない・・・・。
なぜ失敗が起きるのか、という根本的な問題に触れてみよう。それは突き詰めて言えば、私たちが毎日を送る上で、予想可能性を前提としているからだ。
例えばこの間の日曜に見た竜馬伝の中から。竜馬は薩長連合を画策して、長州の桂小五郎のもとを訪れ、「薩摩の西郷が絶対来るから、下関で待つように」と説得する。薩摩を憎んでいる藩士たちを束ねる桂小五郎は、それでも龍馬を信じて待つことにした。ところがとうとう西郷は現れず、桂は激怒して、「キミを信じた僕が馬鹿だった。二度とおれの前に現われるな!」となった。彼は藩士たちを前にして大恥をかかされたのだから無理もない。そして龍馬はどうして中岡慎太郎が西郷を説得できなかったのかと悔やむ ・・・・・・。絵にかいたような失敗である。
しかし考えれば、これはおかしな失敗だ。実際はストーリーを追えば分かる通り、それぞれの部分で成功する率は決して高くない。(少なくともドラマではそうなっている)。この計画が失敗したのは、「絶対に西郷が・・・・・」「必ず薩長連合は成就する・・・」という形で蓋然性を必然性に置き換えたからである。そこの時点で間違っている。西郷がおとなしく中岡慎太郎と一緒に下関まで来る確率はおそらく6割くらいだったのではないか?(←まったくテキトーな数字である。)とすれば龍馬はこう言えばよかったのだ。
「桂よ、おそらく西郷は此処に来るのは五分五分の確率だ。でもそれはすごいことなんだ。是非ここにいる長州藩士たちを説得して、待っておくれ。」
これでは薩摩を討つべし、と息巻く長州藩士たちを説得できるはずはない。「絶対!」ということで人はやっと動くものである。では龍馬は、7割(←少し上がった)のの確率にかけて、ハッタリで桂小五郎を説得しようとしたのか?
ここからは私の想像だが、龍馬の頭の中に、そして私たち皆の心のなかにある種の新年があるのだろう。それは強く期待し、強く念じれば、蓋然性は必然性になる。祈り、である。祈って、「多分」を「絶対」に置き換えることで、人は力を発揮できることがある。そしておそらく実際に西郷をつれてくる確率は、例えば6割から7割に上がるのだろう。だから私たちは「Aが起きる」ということを祈る、強く念じる、という行為をやめることがない。そして結果として蓋然性は必然性に「誤認」され、当然ありうる「Aは起きない」という現象を、失敗にしてしまうのだ。かくして私たちは普通の生活を送っている以上は、常に失敗を避けることができない・・・・。
失敗学 5 関取の残心 ← なぜか今日の投稿になってしまった
このブログは無計画で思いつきで書いているので、説明不足が多い。昨日の話も、どうして受話器を置いてため息をついた話と残心が関係あるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。要するに両方とも終わり方の問題だと言いたかったのだ。
残心と終わり方、というテーマとの関連で、最近相撲を見るのが少し面白くなった。相撲取りによって相手を土俵に押し出した後の態度がぜんぜん違うのだ。要は残心をそこに込めることができるかどうか、ということだ。私の関心の発端は、朝●龍だ。はっきり言って彼は残心のかけらもなかった。相手が土俵を割ってからも、バーンとダメ押しをして、その結果相手は土俵を割っただけでなく、そこから突き落とされそうになる。これは危険行為だ。私は常々相撲の土俵を最初につくった人間は間違っていたと思う。あれは臼状に作るべきであり、土俵を一段高く作ったがために、押し出された人は高いところから突き落とされるために怪我をしかねなくなった。土俵を一段高くするのなら、本来ならボクシングやプロレスのリンクのように、ロープを張っておきたいものだ。いわゆる「砂被り」にいる人は、まるでクッションになって相撲取りの怪我を防いでいるのか、とさえ思ってしまう。(ということはあそこにいたという反社会的な屈強な方々は、その意味で役に立っていたということになる。)
話を戻すが、朝●龍の態度はあまりに品がなかった。土俵を割った相手にどのような態度を取るかが、相撲取りの品格の表れなのである。その意味では琴欧州などは優等生ではないか。相手を押し出した後は、力を抜いて、むしろ抱えてあげるようにして、相手が土俵下に転落するのを防いで挙げる。相撲取り同士が抱き合うような形で静止して戦いが終わる。激しい戦いが、勝敗がついた瞬間静寂に戻るという感じだ。撲取りはあそこで相手に思いやりを示し、同時に品格を表すといっていい。投げられた相手に手を差し伸べる、というのも同じ類だ。負けた相手に情けをかけると言ってもいい。それをされた側の相撲取りも、それにより卑屈になることもないようだ。(朝●龍だったら、投げられて手を差し伸べられたら、払いのけるのがイメージできそうだが、実際にはそれも見たことがない。)
ともかくも一連の動から、すぐに静にもどるという流れは、その人が自分の動きをコントロール下に置き、それによる周囲や自己への影響を掌握しているということを表す。そしてこの動から静へ戻った状態が残心というわけである。とすれば残心を欠いた動きとは、アクティングアウト、衝動的で刹那的、無反省で無駄の多い動き、ということになるだろう。ある意味では「動物的な動きと同じじゃないか」、というわけだ。いや動物だって、例えば鷹ははるか上空から獲物を狙って一直線に急降下してうさぎをしとめるという動作を残心をもって行なえるかもしれない。鷹はそれを迷いなく、同様もなくいとも自然に行なうだろうからだ。するとやはり残心は「余裕」と関係しているのだろう。そして余裕のなさこそ、失敗への近道だといってもいいのかもしれない。(失敗学の話をしているのであった。)
残心と終わり方、というテーマとの関連で、最近相撲を見るのが少し面白くなった。相撲取りによって相手を土俵に押し出した後の態度がぜんぜん違うのだ。要は残心をそこに込めることができるかどうか、ということだ。私の関心の発端は、朝●龍だ。はっきり言って彼は残心のかけらもなかった。相手が土俵を割ってからも、バーンとダメ押しをして、その結果相手は土俵を割っただけでなく、そこから突き落とされそうになる。これは危険行為だ。私は常々相撲の土俵を最初につくった人間は間違っていたと思う。あれは臼状に作るべきであり、土俵を一段高く作ったがために、押し出された人は高いところから突き落とされるために怪我をしかねなくなった。土俵を一段高くするのなら、本来ならボクシングやプロレスのリンクのように、ロープを張っておきたいものだ。いわゆる「砂被り」にいる人は、まるでクッションになって相撲取りの怪我を防いでいるのか、とさえ思ってしまう。(ということはあそこにいたという反社会的な屈強な方々は、その意味で役に立っていたということになる。)
話を戻すが、朝●龍の態度はあまりに品がなかった。土俵を割った相手にどのような態度を取るかが、相撲取りの品格の表れなのである。その意味では琴欧州などは優等生ではないか。相手を押し出した後は、力を抜いて、むしろ抱えてあげるようにして、相手が土俵下に転落するのを防いで挙げる。相撲取り同士が抱き合うような形で静止して戦いが終わる。激しい戦いが、勝敗がついた瞬間静寂に戻るという感じだ。撲取りはあそこで相手に思いやりを示し、同時に品格を表すといっていい。投げられた相手に手を差し伸べる、というのも同じ類だ。負けた相手に情けをかけると言ってもいい。それをされた側の相撲取りも、それにより卑屈になることもないようだ。(朝●龍だったら、投げられて手を差し伸べられたら、払いのけるのがイメージできそうだが、実際にはそれも見たことがない。)
ともかくも一連の動から、すぐに静にもどるという流れは、その人が自分の動きをコントロール下に置き、それによる周囲や自己への影響を掌握しているということを表す。そしてこの動から静へ戻った状態が残心というわけである。とすれば残心を欠いた動きとは、アクティングアウト、衝動的で刹那的、無反省で無駄の多い動き、ということになるだろう。ある意味では「動物的な動きと同じじゃないか」、というわけだ。いや動物だって、例えば鷹ははるか上空から獲物を狙って一直線に急降下してうさぎをしとめるという動作を残心をもって行なえるかもしれない。鷹はそれを迷いなく、同様もなくいとも自然に行なうだろうからだ。するとやはり残心は「余裕」と関係しているのだろう。そして余裕のなさこそ、失敗への近道だといってもいいのかもしれない。(失敗学の話をしているのであった。)
2010年7月31日土曜日
失敗学 6 少し真面目な話
残心の話は、臨床的にはいろいろ広がる。今日は少し真面目な話だ。
例えばカルテや臨床記録。私たちは通常は診療録が患者自身に読まれることを想定していない。しかしあるセラピストの診療録を読むことで、そのセラピストの持つ基本的な治療姿勢が伺えることがある。早い話が、いじわるな書き方をするセラピストの治療は信用できないということになる。「いじわるな」、とはそれを患者自身が読んだときにトラウマになるような記録と考えればいいだろう。
ところで患者には読まれないことになっていたはずの診療録が、今や患者の側の情報開示の考えが進むことで、患者が要求して読むことが出来るものになってきている。一足先にアメリカでそのような動きが見られ始めた際、セラピスト達はその対処に困った。時にはカルテは患者からの開示の要求だけでなく、裁判所から提出を要求されたりする。そのためにセラピスト達はいわば「本音」を記録することができなくなったと感じた。私自身は患者がセラピストの書いた記録をすべて読む権利があるとは思えない。それではまるで、セラピストは自分の心をすべて患者に開示する義務を負うことになり、そんなことは現実的ではない。しかしまあここではそのような議論は置いておこう。
この問題と残心がどう関係するのか。記録を書く際にも、それが患者の目に触れる可能性を忘れないということ。それではセラピストは患者に対してネガティブなことを考えることすら許されないということか?そうではない。残心を持ちつつ書かれる内容がネガティブなものであっても、それはいずれ患者に伝えられる運命にあるべきものであり、患者が本来読むことにはなっていない(と私は依然として考えるが)カルテを通して、時期早尚に伝えられてしまったというだけである。そしてそれはトラウマとは異なるインパクトを持つのだろうと思う。
例えばカルテや臨床記録。私たちは通常は診療録が患者自身に読まれることを想定していない。しかしあるセラピストの診療録を読むことで、そのセラピストの持つ基本的な治療姿勢が伺えることがある。早い話が、いじわるな書き方をするセラピストの治療は信用できないということになる。「いじわるな」、とはそれを患者自身が読んだときにトラウマになるような記録と考えればいいだろう。
ところで患者には読まれないことになっていたはずの診療録が、今や患者の側の情報開示の考えが進むことで、患者が要求して読むことが出来るものになってきている。一足先にアメリカでそのような動きが見られ始めた際、セラピスト達はその対処に困った。時にはカルテは患者からの開示の要求だけでなく、裁判所から提出を要求されたりする。そのためにセラピスト達はいわば「本音」を記録することができなくなったと感じた。私自身は患者がセラピストの書いた記録をすべて読む権利があるとは思えない。それではまるで、セラピストは自分の心をすべて患者に開示する義務を負うことになり、そんなことは現実的ではない。しかしまあここではそのような議論は置いておこう。
この問題と残心がどう関係するのか。記録を書く際にも、それが患者の目に触れる可能性を忘れないということ。それではセラピストは患者に対してネガティブなことを考えることすら許されないということか?そうではない。残心を持ちつつ書かれる内容がネガティブなものであっても、それはいずれ患者に伝えられる運命にあるべきものであり、患者が本来読むことにはなっていない(と私は依然として考えるが)カルテを通して、時期早尚に伝えられてしまったというだけである。そしてそれはトラウマとは異なるインパクトを持つのだろうと思う。
2010年7月29日木曜日
失敗学 その4 残心は失敗学につながる
私は武道などで言われる「残心」について決して深く理解しているという意識はないが、臨床的には非常によく体験する。またまたどうしても頼ってしまうwikipediaによれば、
「・・・・技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。・・・」
ある患者さんと電話で話していて、疲れといら立ちを感じた。受話器を置いて思わず「アーア」とため息が出た。そしてふと受話器が完全に置かれていなくて、まだラインがつながっているということに気づいた時、「あ、このため息を聞かれたかもしれない」」とヒヤッとしたことがある。おそらくタイミングから言って、多分相手は私のため息を聞くことなく受話器を置いただろう。しかしタイミングとしては結構危うかった。
もちろん相手が友達や家族なら、これはありである。時には目の前の母親に聞こえるようにため息をつくこともあるだろう。しかし患者さんを相手にこれをやるのは明らかにこちらの落ち度である。明らかに不快になる可能性のあるような電話なら、それをとらないという選択肢もあったであろうし、もし治療者として電話での応対が必要であるならば、それは仕事なのだから、ため息などつかずに、そこでの感情は処理できなくてはならない。もちろん、「そうはいっても治療者も人間だから…・」という声聞こえないわけではないだろうが、仕事上のことならおよそどのような場合にも当てはまる。タクシーに乗って、初乗り程度の距離の行き先を告げて、運転手が「ハァー」とため息を付いたら?レジで小銭をゆっくり取り出して言われた額を正確に払おうとした客に、レジ係の口から「アーア」と思わず出てしまったら?客の側が逆上してもおかしくない状況である。
仕事としてするなら、覚悟を決めて気持ちの余裕を持たなくてはならない。「カスタマーに失礼があってはならない」、と言い聞かせる程度ではおそらく足りない。ふとその注意が途切れると「自然な」反応が出てくるからだ。「カスタマーを常にいかに心地良くするか」くらいで丁度いいのかも知れない。ちょうど目的地に向かうのに、「遅れてはいけない」ではなく「いかに約束の一時間前につくか」を考えることでミスを防げるように。
残心って、「余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念・・・・」とかwiki では言っているが、そんなにカッコつけなくても、失敗を減らす工夫や知恵だと思えばいいのである。ただしもちろん目的地に一時間前につくようにしていても、やはりたまには遅刻は起きる。それを意識しておくことが失敗学である。人間のやることに失敗がなくなることは決してない・・・・・。
「・・・・技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。・・・」
ある患者さんと電話で話していて、疲れといら立ちを感じた。受話器を置いて思わず「アーア」とため息が出た。そしてふと受話器が完全に置かれていなくて、まだラインがつながっているということに気づいた時、「あ、このため息を聞かれたかもしれない」」とヒヤッとしたことがある。おそらくタイミングから言って、多分相手は私のため息を聞くことなく受話器を置いただろう。しかしタイミングとしては結構危うかった。
もちろん相手が友達や家族なら、これはありである。時には目の前の母親に聞こえるようにため息をつくこともあるだろう。しかし患者さんを相手にこれをやるのは明らかにこちらの落ち度である。明らかに不快になる可能性のあるような電話なら、それをとらないという選択肢もあったであろうし、もし治療者として電話での応対が必要であるならば、それは仕事なのだから、ため息などつかずに、そこでの感情は処理できなくてはならない。もちろん、「そうはいっても治療者も人間だから…・」という声聞こえないわけではないだろうが、仕事上のことならおよそどのような場合にも当てはまる。タクシーに乗って、初乗り程度の距離の行き先を告げて、運転手が「ハァー」とため息を付いたら?レジで小銭をゆっくり取り出して言われた額を正確に払おうとした客に、レジ係の口から「アーア」と思わず出てしまったら?客の側が逆上してもおかしくない状況である。
仕事としてするなら、覚悟を決めて気持ちの余裕を持たなくてはならない。「カスタマーに失礼があってはならない」、と言い聞かせる程度ではおそらく足りない。ふとその注意が途切れると「自然な」反応が出てくるからだ。「カスタマーを常にいかに心地良くするか」くらいで丁度いいのかも知れない。ちょうど目的地に向かうのに、「遅れてはいけない」ではなく「いかに約束の一時間前につくか」を考えることでミスを防げるように。
残心って、「余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念・・・・」とかwiki では言っているが、そんなにカッコつけなくても、失敗を減らす工夫や知恵だと思えばいいのである。ただしもちろん目的地に一時間前につくようにしていても、やはりたまには遅刻は起きる。それを意識しておくことが失敗学である。人間のやることに失敗がなくなることは決してない・・・・・。
2010年7月28日水曜日
失敗学 その3
ゆうパックが7月の初旬に遅れたことの理由が、今日の朝日新聞(インターネット版)にあった。失敗学の良い例である。
「・・・・ 遅配は「ゆうパック」が「ペリカン便」と統合した7月1日の直後から発生。お中元シーズンの出ばなに統合したことで取り扱い荷物量がほぼ倍増し、6日までに34万個超の荷物の配達が遅れた。総務省は日本郵便に対し、30日までに書面で遅配の経緯を報告するよう求める一方、聞き取り調査も実施してきた。・・・ 日本郵便の説明では、「ゆうパック」と「ペリカン便」は荷物を仕分けるためのコード番号が異なるため、統合後は新たに6ケタの数字が書かれた共通ラベルを荷物に張ることにした。百貨店などの大口顧客には6月中旬、伝票を打ち出すシステムの新しいプログラムを提供し、共通ラベルを印刷して張ってもらうように要請した。 ・・・・
だが、大口顧客の中にはシステムの更新が間に合わないところがあり、ラベルのない大量の荷物が全国70カ所の集配拠点に押し寄せた。「区分機」と呼ばれる機械で自動仕分けができなくなり、急きょ手作業で仕分けることになったが、手順や人員の配置が明確に決まっておらず、現場が混乱。あふれた荷物が仕分け場所をふさぎ、作業が遅れた。「ゆうパック」「ペリカン便」の集配拠点の機械の違いも混乱に輪をかけた・・・・。」
特に太字部分(私による)が問題箇所だ。ここに書かれたことが予見できなかったのが問題、というよりはこのような予見しにくい問題が起きるということを想定した上で、必要と思われるよりはるかに多くの人員と時間の余裕を見ておかなかったのが問題といえる。これなどは、人は理屈どおりに動き、計画はしっかり立てればその通りに進行するだろう、という姿勢自体が誤りであり、その結果として問題がおき続けるということを示していると思う。
仕事に采配を振るう人は、少しでも段取りが気になれば自分で実際に現場を視察をして、大丈夫かを確かめるだろう。そして余裕の上に余裕を見る。なぜならば人は理屈では説明できない失敗もするからだ。予見できない失敗をするということを予見して準備をする。予見できない、ということを予見する。これは失敗学の極意でもあり、一番難しい(実行できない)部分でもある。
このブログは妻は見ない(これだけはありがたい)から書くが、彼女はよく遅刻をする。彼女は最近ではインターネットで綿密に時刻を調べてから異動するのに、である。一方私はめったなことでは遅刻はしない。(最近はね。昔はよくしたもんだ。)私は乗り換え時間などは非常にテキトーであるが、少なくとも一時間前には目的地つくようにして、時間をつぶすようにしているので、周囲の喫茶店などにあらかじめ当たりをつけておく。この違いが面白い。
妻は作業効率が非常によく、そのために自分を過信する傾向にあるから、一生懸命乗り換え時間などを調べていても、結局ちょっとの時間の遅れが到着時間の遅れに繋がる。私の「一時間前に着いておく」という方針は、「どんなことがあってもさすがに一時間以上は遅れないだろう」ということで、そこには説明の付かない、予想の出来ない失敗も想定している。失敗学に基づいているのだ(エヘン)。
あるとき痛い思いをした。ある場所に行くことにより、例によりとんでもなく早く出かけようとしたところ、妻にたしなめられた。「何でまたこんな時間から行くの?おかしんじゃない?」「いや、初めての駅での乗換えがあるから」、というと「じゃアタシが調べてあげるよ」と手っ取り早くネットで乗り換えの駅と電車をリストしてプリントアウトまでしてくれた。それを見るとすばらしい。A駅でのJRから私鉄への乗り換えは、15分ほど余裕がある。これなら大丈夫だろうと思い、ギリギリ出だかけた。A駅について余裕で私鉄のホームを探すが、これがなかなか見つからない。どこにも表示が出ていないのだ。ホームを歩いているうちに表示が見つかるだろうと思うが、これがなかなか見つからない。時間がたつうちにどうもおかしいということになる。そして同じA駅でもJR駅とと私鉄駅とでは500メートルほど離れているということが気が付いたのは、もう私鉄の電車が出る5分前であった。私は必死で走って事なきを得たが、元々運動が嫌いな私がこのようなことで走らされるのは、かなり痛い経験であった。この種の焦りを少なくとも大学生くらいまでは私は始終していた(遅刻の常習犯で、待ち合わせに一時間遅れる、などということも結構あった)が、それをしないようになったことが、人生における私の数少ない進歩だとおもっていたのに。だから私のほうが失敗学を妻に説くことになっている。最近は学生によく言う。「ストレスの解消法の一つは、準備をよくしておくことです。」実に年寄りくさい話だ。
「・・・・ 遅配は「ゆうパック」が「ペリカン便」と統合した7月1日の直後から発生。お中元シーズンの出ばなに統合したことで取り扱い荷物量がほぼ倍増し、6日までに34万個超の荷物の配達が遅れた。総務省は日本郵便に対し、30日までに書面で遅配の経緯を報告するよう求める一方、聞き取り調査も実施してきた。・・・ 日本郵便の説明では、「ゆうパック」と「ペリカン便」は荷物を仕分けるためのコード番号が異なるため、統合後は新たに6ケタの数字が書かれた共通ラベルを荷物に張ることにした。百貨店などの大口顧客には6月中旬、伝票を打ち出すシステムの新しいプログラムを提供し、共通ラベルを印刷して張ってもらうように要請した。 ・・・・
だが、大口顧客の中にはシステムの更新が間に合わないところがあり、ラベルのない大量の荷物が全国70カ所の集配拠点に押し寄せた。「区分機」と呼ばれる機械で自動仕分けができなくなり、急きょ手作業で仕分けることになったが、手順や人員の配置が明確に決まっておらず、現場が混乱。あふれた荷物が仕分け場所をふさぎ、作業が遅れた。「ゆうパック」「ペリカン便」の集配拠点の機械の違いも混乱に輪をかけた・・・・。」
特に太字部分(私による)が問題箇所だ。ここに書かれたことが予見できなかったのが問題、というよりはこのような予見しにくい問題が起きるということを想定した上で、必要と思われるよりはるかに多くの人員と時間の余裕を見ておかなかったのが問題といえる。これなどは、人は理屈どおりに動き、計画はしっかり立てればその通りに進行するだろう、という姿勢自体が誤りであり、その結果として問題がおき続けるということを示していると思う。
仕事に采配を振るう人は、少しでも段取りが気になれば自分で実際に現場を視察をして、大丈夫かを確かめるだろう。そして余裕の上に余裕を見る。なぜならば人は理屈では説明できない失敗もするからだ。予見できない失敗をするということを予見して準備をする。予見できない、ということを予見する。これは失敗学の極意でもあり、一番難しい(実行できない)部分でもある。
このブログは妻は見ない(これだけはありがたい)から書くが、彼女はよく遅刻をする。彼女は最近ではインターネットで綿密に時刻を調べてから異動するのに、である。一方私はめったなことでは遅刻はしない。(最近はね。昔はよくしたもんだ。)私は乗り換え時間などは非常にテキトーであるが、少なくとも一時間前には目的地つくようにして、時間をつぶすようにしているので、周囲の喫茶店などにあらかじめ当たりをつけておく。この違いが面白い。
妻は作業効率が非常によく、そのために自分を過信する傾向にあるから、一生懸命乗り換え時間などを調べていても、結局ちょっとの時間の遅れが到着時間の遅れに繋がる。私の「一時間前に着いておく」という方針は、「どんなことがあってもさすがに一時間以上は遅れないだろう」ということで、そこには説明の付かない、予想の出来ない失敗も想定している。失敗学に基づいているのだ(エヘン)。
あるとき痛い思いをした。ある場所に行くことにより、例によりとんでもなく早く出かけようとしたところ、妻にたしなめられた。「何でまたこんな時間から行くの?おかしんじゃない?」「いや、初めての駅での乗換えがあるから」、というと「じゃアタシが調べてあげるよ」と手っ取り早くネットで乗り換えの駅と電車をリストしてプリントアウトまでしてくれた。それを見るとすばらしい。A駅でのJRから私鉄への乗り換えは、15分ほど余裕がある。これなら大丈夫だろうと思い、ギリギリ出だかけた。A駅について余裕で私鉄のホームを探すが、これがなかなか見つからない。どこにも表示が出ていないのだ。ホームを歩いているうちに表示が見つかるだろうと思うが、これがなかなか見つからない。時間がたつうちにどうもおかしいということになる。そして同じA駅でもJR駅とと私鉄駅とでは500メートルほど離れているということが気が付いたのは、もう私鉄の電車が出る5分前であった。私は必死で走って事なきを得たが、元々運動が嫌いな私がこのようなことで走らされるのは、かなり痛い経験であった。この種の焦りを少なくとも大学生くらいまでは私は始終していた(遅刻の常習犯で、待ち合わせに一時間遅れる、などということも結構あった)が、それをしないようになったことが、人生における私の数少ない進歩だとおもっていたのに。だから私のほうが失敗学を妻に説くことになっている。最近は学生によく言う。「ストレスの解消法の一つは、準備をよくしておくことです。」実に年寄りくさい話だ。
2010年7月27日火曜日
加藤智大被告のこと、そして失敗学その2
加藤智大被告が、「母親からの育てられ方が影響した」という証言をしたというニュースが今日流れた。精神科医としては複雑な心境。このメッセージが沢山の誤解をまねくのだろう。少なくとも「やはり母親の育て方か・・・・」という単純な考え方に陥る人が多く出ないことを望む。その上で言えば・・・・・客観的に見ればそこそこの育て方をした母親のことを深く恨む子がいる。それほど人間の主観世界は千差万別だということだろう。幼い子にとって親は絶対的な存在であるという時期がある。そこでの親は、愛情の源泉ともなれば、限りなく冷酷で恐ろしく、しかし絶対服従を強いられる対象ともなりうる。こうなると親になるというのはつくづく大変なことだ。自分の始めた仕事を受け継ぎ、深い感謝の念を持ち続けてくれる存在をこの世に持つことを意味するかも知れない。しかし自分を一生恨むという存在をこの世に送り出す可能性もあるのだ。
失敗学の続き。失敗学は、人は失敗を一定の確率や頻度でしでかすという前提から始める。しかしこの「失敗」には広義のそれ、つまり倫理的な堕落や慢心も含まれると考えるべきだ。失敗や過ちにも色々あるのだ。
例えば相撲界の野球賭博。政治家と金。これらのことが決して見過ごされていいというつもりはない。しかし彼らが心を入れなおし、清く正しく相撲道(だったっけ?)に精進し、政治を行ない、一切の悪に染まらない決意を固めることで済むわけはないことを認めるべきだろう。相撲界から賭博や暴力団の影響を駆逐するのなら、あるいはクリーンな政治を望むのであれば、途方もない資金と労力を使ってそれらを取り締まるしかないという事実を受け入れるべきだ。その認識がない人のコメントは実に空疎である。聞いていて知的レベルを疑う。(とは明らかに言いすぎだ。)
失敗学の続き。失敗学は、人は失敗を一定の確率や頻度でしでかすという前提から始める。しかしこの「失敗」には広義のそれ、つまり倫理的な堕落や慢心も含まれると考えるべきだ。失敗や過ちにも色々あるのだ。
例えば相撲界の野球賭博。政治家と金。これらのことが決して見過ごされていいというつもりはない。しかし彼らが心を入れなおし、清く正しく相撲道(だったっけ?)に精進し、政治を行ない、一切の悪に染まらない決意を固めることで済むわけはないことを認めるべきだろう。相撲界から賭博や暴力団の影響を駆逐するのなら、あるいはクリーンな政治を望むのであれば、途方もない資金と労力を使ってそれらを取り締まるしかないという事実を受け入れるべきだ。その認識がない人のコメントは実に空疎である。聞いていて知的レベルを疑う。(とは明らかに言いすぎだ。)
2010年7月26日月曜日
失敗学的な世界観 1
今日から新しい話題である。失敗学。畑村洋太郎先生の創始した学問である。これも私がよく話すことなので、ゼミ生などは食傷気味かもしれない。でも私の世界はこれを中心に回っている(大袈裟か。)とにかく大事なテーマなのだ。
たとえば皆さんはこんなことを考えないか?安倍さんも、福田さんも、麻生さんも、それから鳩山さんも菅さんも(ええっと、この順番でいいんだったっけ?)なぜみな政権についてからは、数々の失態ですぐに人気をなくしてしまうのだろう?
ここで「それは政治家がおろかだからだ」という発想に行ってしまう人は、失敗学とは縁が薄い人である。失敗学的にはこう考える。「あの程度の失敗をするというのが、本来の人間の姿ではないか?(したがって自分がやっても同様の結果になる可能性が高いだろう。」)
まあ上に述べた方々は立派な大人だし、高学歴でもあるし、それにそのときまでに対人関係でもまれて勝ち残って言った人なのだから、サンプル群としては立派なものである。そこから抽出したほぼすべての人が、失態をしでかすのだ。ということは人間とはたかだかあんな程度と考えるしかないのではないか?
たとえば皆さんはこんなことを考えないか?安倍さんも、福田さんも、麻生さんも、それから鳩山さんも菅さんも(ええっと、この順番でいいんだったっけ?)なぜみな政権についてからは、数々の失態ですぐに人気をなくしてしまうのだろう?
ここで「それは政治家がおろかだからだ」という発想に行ってしまう人は、失敗学とは縁が薄い人である。失敗学的にはこう考える。「あの程度の失敗をするというのが、本来の人間の姿ではないか?(したがって自分がやっても同様の結果になる可能性が高いだろう。」)
まあ上に述べた方々は立派な大人だし、高学歴でもあるし、それにそのときまでに対人関係でもまれて勝ち残って言った人なのだから、サンプル群としては立派なものである。そこから抽出したほぼすべての人が、失態をしでかすのだ。ということは人間とはたかだかあんな程度と考えるしかないのではないか?
あるいは列車の車両事故、警報機の故障、信号の機能の障害など。あれだけの複雑なシステム、問題が起きて当たり前なのだ。それなのに目的地への到着が遅れると言っていちいちハラを立てるのは(もちろん私も腹をたてるのだが)、あまりにも失敗が起きないのが正常、と考えすぎるのではないか?
これらの例が示すのは、私たちが持つある性質だ。それは失敗は異常なこと、恥ずべきこと、望むべくは全くなくすべきだと考えることである。そしてそれを前提として世界を観察し、日常の生活を組み立てていく。…. どうだろう?可能だろうか?実はこれに「失敗」することも、前提なのである。
2010年7月5日月曜日
(承前)
揺り戻し、とはごく簡単にいえば、喜びに慣れてしまうということである。あることを獲得し、それに慣れていく、というプロセスは、それ自体は苦痛体験とは無関係なように見えるかも知れないが、実は過酷な試練ともいえる。これをよく知っているものは、ある成功を収めたと同時に「しまった!」と思うかもしれない。お笑い芸人のような人気商売を考えよう。売れる、ということは必ずいつかは落ち目になる、忘れられる、ということを意味する。盛者必衰、というわけだ。そしてそのプロセスが楽しいはずがない。そしてそれが人生の後になって否応なく訪れるのである。売れている喜びは、必ずそこから落ちることの苦痛となって帰ってくる。売れっ子であることに慣れる、ということはもっと悪い。喜びすら感じられず、あとは苦痛のみが約束されている。ただし売れっ子になったことで失われたもの(平穏な日常、など)が、落ち目になることで取り戻せる、などの場合は、もちろん話はそこだけ別である。
ところで昨日の説明で、積分云々というところが分かりにくい、という反応が読者からあった(ウソである。)そこで図を書いてみた。(本当は執筆が多く、こんなものを書いている時間はないのだ。)
この図のA領域の面積は、芸人が売れたことによるトータルの快である。Bは売れなくなった後の苦痛のトータルだ。売れた、というのは単に一時的なものではなく、実はこのような二次元的な体験である、ということをこの図により表現したかったのである。
明日から話題を変えよう、というよりしばらくは「仕事に合わせた」話題にしようと思う。
(とりあえず終わり。)
ところで昨日の説明で、積分云々というところが分かりにくい、という反応が読者からあった(ウソである。)そこで図を書いてみた。(本当は執筆が多く、こんなものを書いている時間はないのだ。)
この図のA領域の面積は、芸人が売れたことによるトータルの快である。Bは売れなくなった後の苦痛のトータルだ。売れた、というのは単に一時的なものではなく、実はこのような二次元的な体験である、ということをこの図により表現したかったのである。
明日から話題を変えよう、というよりしばらくは「仕事に合わせた」話題にしようと思う。
(とりあえず終わり。)
2010年7月1日木曜日
(続き)
ところで脳の全体の働きが同期化したらどうなるのか? これは困ったことになる。てんかんの大発作、いわゆるグランマールと言われる病気がある。てんかんは部分性と全般性とがあり、全体性だと大脳皮質の広範にわたって発作波が出現するので意識がなくなる。いわゆるプチマールはそれがごく短時間繰り返し起きるだけで、全身運動に影響はないが、グランマールとなると意識を失うだけでなく、全身の激しいけいれんが起きる。
グランマールが起きている状態で脳波を取ると、かなりの広範囲にわたって、大波が出現し、しかも同期化している。つまりは脳波の同期化の極みは、グランマールやプチマールなどの全般性てんかん発作となる。カイカンなどとは程遠い!だから脳の活動のつながりが快感である、という原則がそのようなレベルにまで当てはまるはずはないのも確かである。快感の生まれる脳の興奮は、穏やかに広い範囲の脳が共鳴しているような状態であろう。それは・・・・・ややこしい表現をするなら、ある形式をその全体として把握している状態と言える。例えば美しい絵、感動する旋律、巧みに設えられた推理小説など。それらの全体がつながって感じ取られるような体験は、快感を生む。
そもそもあることを把握する、分かる、という体験もそうだ。数学の問題を読んでいても、最初は意味がつかめず、解決の糸口が見当たらない。それがある瞬間に全体が見えることがある。それが大脳皮質の広い範囲にわたって共鳴が生じた時だ。その逆を考えるのも分かりやすい。分かりにくい論文。駄作の小説。部分部分だけが脳の一部を興奮させるが、全体がつながらない。それが「何が言いたいのかわからない状態」である。よくかけていない論文とは、要するに美しくない、脳に快感を与えない論文のことである。
グランマールが起きている状態で脳波を取ると、かなりの広範囲にわたって、大波が出現し、しかも同期化している。つまりは脳波の同期化の極みは、グランマールやプチマールなどの全般性てんかん発作となる。カイカンなどとは程遠い!だから脳の活動のつながりが快感である、という原則がそのようなレベルにまで当てはまるはずはないのも確かである。快感の生まれる脳の興奮は、穏やかに広い範囲の脳が共鳴しているような状態であろう。それは・・・・・ややこしい表現をするなら、ある形式をその全体として把握している状態と言える。例えば美しい絵、感動する旋律、巧みに設えられた推理小説など。それらの全体がつながって感じ取られるような体験は、快感を生む。
そもそもあることを把握する、分かる、という体験もそうだ。数学の問題を読んでいても、最初は意味がつかめず、解決の糸口が見当たらない。それがある瞬間に全体が見えることがある。それが大脳皮質の広い範囲にわたって共鳴が生じた時だ。その逆を考えるのも分かりやすい。分かりにくい論文。駄作の小説。部分部分だけが脳の一部を興奮させるが、全体がつながらない。それが「何が言いたいのかわからない状態」である。よくかけていない論文とは、要するに美しくない、脳に快感を与えない論文のことである。
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