2021年12月2日木曜日

解離における他者性 62

 

人を部分と見なす、とはどういうことか?

 

部分と見なす、という表現を書いていて、私自身もこの意味がよく分かっていないと感じる。私たちは恐らく交代人格にどのように会ったらいいかを本当はよく分からない。あるいは私がいま用いている「交代人格」とは何かという事が分からないし、そもそもその様な呼び方がふさわしいかもわからない。でもなんともほかに呼びようがないのである。別人格alter personality, alternate personality, alternative personalityや副人格という呼び方も昔はあったが、あまり最近は目にしない。専ら用いられるのは部分 parts とか人格部分 parts of personality という言い方である。私の考えでは、DIDの方との関係の中で出会う人格は、他に何と呼んでいいかわからない人格ではないかと思う。そこでとりあえずつけられた交代人格とか部分とかの呼び方をあまり深く考えることなく用いるのではないか。あるセラピストの方は、私が「部分 part」という呼び方に異議を唱えると言ったら、「では何と呼ぶのですか?本にもパーツと書いてありますよ」という反応だった。たしかにそうなのだ。どのような呼び方をしたらいいかがわからず、とりあえずその様な呼び方をしている先達を習ってそうしているだけかもしれない。 

ただパーツと呼ばれた人格さんの中には「私は部分じゃありません!」とか「どうしてパートと呼ぶんですか?」という反応をされる方もいるであろう。だから呼び方はやはりかなり重要な問題なのだ。そう反発したくなる気持ちもわかるだろう。もしあなたが例えば一卵性双生児の一人で、「貴方がたは二人で一人前なので、半分の人格にすぎません」と言われたら憤慨するだろう。というよりも「あなたは半分です」と言われたことの意味が分からないのではないだろうか。もちろん「あなたは半人前です」という言い方があるが、それはまだ十分に成長していない、という意味であり、「まだ幼い」、「子供の様だ」という意味であろう。しかし子供の心は大人の半分だ、という発想は恐らくないのである。大人の心を大きな円だとしたら、子供の心は恐らく小さな円であり、「半円」ではないはずである。

そこで半分、部分であるという言い方はある種のイメージに由来することがある。それは最初は丸だった自分が半分に分かれたという考え方だ。