2016年2月29日月曜日

報酬系と心(19) So called SP (30)

 さて、走性を示すC.エレガンスより一歩進んだ例として、我らが鮭を考えることができるだろうか?最初は考えた。しかし違うと思いなおした。最初の発想はこうだ。Cエレガンスはすでに尿中の微かな匂い(微量物質)を感じ取り、その濃度勾配のある方向に進むという仕組みさえあればいい。でも鮭は違う。彼女(一応メスを考えている)は、川の上流の岩場や、そこで待ち受けているオスを思い描いて、そこを一心に目指すのだ。心にイメージを浮かべてそれを目指す、というのはすごいことである。なぜならば、その時に報酬系は「直接には」刺激されていないことになるからだ。どういうことか?C.エレガンスは匂い成分により微かな快感を得ているはずだ。しかしメスの鮭は、産卵の瞬間の快感を想定し、想像しているにすぎないからだ。想像するだけの快感に対してどうして行動を起こすことができるのか?おそらくこれが報酬系のもっとも不思議なところであり、自然の巧緻が隠されている。これが偶然にも出来上がることで生物は, seeking システムは成立したのである。ただし…。メスの鮭を褒めるのは少し早いかも知れない。メス鮭は単に、水流に逆らって泳ぐことに快楽を覚えるという仕組みを与えられているかもしれないからだ。その意味ではC.エレガンスと同じである。おそらく自然界に住む下等生物のseeking システムはおそらくことごとく、「本能」により助けられている。太平洋の深海から川まで何千キロも泳いで遡行するウナギの稚魚だって、おそらく微量の物質(塩分濃度?母ウナギの育った川の匂い成分?)の勾配に従って泳いでいるだけなのである。そういう装置を生まれながらに持っているわけだ。(そのような装置がある個体が「適者生存」したのだ。)
とするとやはり偉いのは、快感中枢に刺激を与えるためにレバーを押すネズミくらいにまで行かなくてはならないのだろう。ネズミはレバーを押すという労働自体を快感と感じないはずだ。それにレバーを押すような本能が備わっているわけもない。しかし一度覚えた快感を記憶にとどめて、それを目指して、それ自体は直接的な快感でないレバー押しにいそしむのである。なぜそんなことができるのだろうか?

 読者は(まあ、23人だろう)私がなぜこの問題にこだわっているか訳が分からないと思う。しかし私はこの問題をもう30年以上考えている。精神科医になって二年目、初めて受験勉強や医師国家試験を目指した勉強や研修などを離れて、自分で考える時間を手に入れた私が原稿用紙に延々と書き綴ったのが、この問題であった。人はなぜ快を求めるのか。春先から3か月かけて書き上げた論文は原稿用紙に数百枚になったが、私はそれを土居健郎先生に読んでもらおうと思ったのだ。彼はきっと驚いたと思う。学部のころから時々珍妙なはがきを出してくる医学生が、精神科に進み、まったくわけのわからない原稿の束を送りつけてきたからである。ワープロがまだない当時の原稿は、手書きしか方法がない。万年筆で書かれて、ホワイトで沢山消されて欄外に文字が書かれ、しかも全く読みにくい崩し文字(というより下手な文字)で「快がどうのこうの…」と書かれた研修二年目の医師のその文章は、およそ精神科とは関係のない、まったく引用のないエッセイでしかなかったからだ。(実は今もそれをとってあるが、恐ろしくてとても読めない。)


So called SP (30)

Actual Sessions

Actual process consisted of 10 consecutive sessions ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・and full of innuendos.    





2016年2月28日日曜日

報酬系と心(18) 関係論的精神分析の新しい流れ(最終稿) 


Cエレガンスは幸せなのだろうか?>

私の心はどうしてもCエレガンス(線虫)に向かってしまう。彼ら(???)は尿の特定の「匂い」を求めて泳ぐという。(走臭性・・・という用語はないようだが。)彼らは期待に胸を膨らませて泳いでいくのだろうか? あるいはもう少し想像しやすくするために、産卵をしに川を遡行する鮭でもいい。あれほど一心不乱に、ボロボロになりながら上流を目指して一目散に及ぶメス鮭は、明らかにコーフンし、目的地に向かって期待を胸に泳いでいることだろう。もちろんもうひとつの仮説は、彼女たちが何かの恐怖におびえ、一目散に上流に「逃げ」ている可能性だ。しかし私は絶対前者に賭ける。なぜなら上流には、そのメスの鮭の産卵を待ちわび、排出された卵に狂ったように精子を振りかけるオス鮭がいる。彼らは何から逃げているというのだろう?彼らは彼らでコーフンしているのは明らかである。
オールズとミルナーが1954(うろ覚え、テキトー)にネズミの脳に報酬系を発見したとき、実験心理の世界ではそれが当時の着想を越えていたという。その頃は動物を駆動するのは不安や恐怖であり、それから逃れるものとしてのみ行動を説明していた。そこに動物は快感を求めて行動する、という選択肢が加わったのだという。私にはこの事情はよくわかる気がする。生命体に不快を避けるという行動と、快を求める行動の二つを考えた場合、明らかに前者の仕組みの方がシンプルであろう。前者は不快刺激に対してしり込みをする、触覚を、身体を収縮させるという反射を組み込めばいい。その際に方向はあまり問わない。とりあえずは不快刺激から遠ざかればいいからだ。ところが快を求める場合には、たちまちヤヤコシくなる。ある快刺激を受けると正確にそちらの方に体を駆動させる仕組みがなくてはならない。しかも走性という形をとるならば、それが快の獲得が確実に増大する方向に体を駆動する仕組みが必要になる。いったいどうしてそんなことが下等生物にすでに可能なのだろうか?
ヤーク・パンクセップが快中枢を理解するうえでseeking モデルを想定した意味もよくわかる気がする。Seeking システムはまさにこの走性のことを意味する。そしてここが動物と植物を決定的に分けるのであろう。私は植物は快感を得ていないと根拠なく断言できるが、それは彼らが快を求めて体を動かすという仕組みとは無縁であるという印象を与えるからである。たとえヒマワリが陽光に華を向けたとしても、そこにはseeking behavior を見せる動物の「必至さ」は伝わってこない。単にプログラムされたアルゴリズムにしたがって花を太陽の方向に向けているだけ、という印象がある。

 関係論的精神分析の新しい流れ (最終稿) 


はじめに

本稿では関係精神分析の最近の動向について論じてみたい。
関係精神分析(relational psychoanalysis, 以下RPと記す) の動きは、確実に拡大を続けているという印象を受ける。RPは特に北米圏でその勢いを拡大させている。RPの事実上の学会誌といえる「Psychoanalytic Dialogues」は、今年ですでに創刊25周年を迎える。1991年の1月にStephen Mitchellが創始したこのジャーナルは、最初は彼の率いる小さなグループの手によるものであった。しかし今では数百の著者、70人の編集協力者を数えるという。最初は年に4回だったのが、1996年にはすでに年に6回の刊行に変更されている。この紙面を毎号飾る斬新な特集のテーマは、まさにRPの動きをそのまま表していると言っていい。
そもそもPRとはどのような動きか?RPはそれ自体が明確に定義されることなく、常に新しい流れを取り入れつつ形を変えていく動きの総体ということができる。RP をめぐる議論がどのように動いていくかは、予測不可能なところがある。私は個人的には、Irwin Hoffmanの理論(Hoffman, 1998)により、その総体をすでに与えられていると感じているが、それはあくまでも総論的な全体の見取り図である。各論が今後どのように展開され、論じられていくかは予想が難しく、その時代の流れに大きく影響を受けるであろうという理解をしている。
Hoffman, I.Z. (1998) Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.
 とはいえRPの今後の行方をある程度占うことは出来るだろう。世界が全体としては様々な紆余曲折を経ながらも平等主義や平和主義に向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、倫理的な配慮がその基本的な方向付けを行っている。精神分析におけるこれまでの因習や慣習は、それが臨床的に役立つ根拠が示されない限りは再検討や棄却の対象となるだろう。
RPの繁栄の要因についてMills, J. (2005) はいくつかを挙げている。それらは分析的なトレーニングを積んだ心理士が増え、彼らは伝統的な精神分析インスティテュートによる教育ではなく、より新しいトレンドを大学で学んでいること、そして最近の新しい著作の多くは関係性理論に関連するものであること、そしてRPになじみ深い分析家が主要な精神分析の学術誌の編集に広く携わるようになっていることなどである。
このミルズの指摘に付け加えて筆者が強調したいのは、RPが非常に学際色が強く、そこにさまざまな学派や考えを貪欲に取り込み、枝葉を広げていく傾向や、臨床に応用可能なら何とでも手を結ぼうという開放性が一種の熱気や興奮を生み、それがひとつのモメンタムを形成しているという事情である。そしてそこにはそれらの熱狂を支える幾人かのキーパーソンがいる。具体的には故Stephen Mitchellをはじめとして、Peter Fonagy, Allan Schore, Jessica Benjaminといった面々の顔が浮かぶ。

このようなRPの流れは、全体として臨床上の、ないしは学問上位の自由や独創性を追求する流れ、ホフマンの言う治療者の「自発性」の側面に重きを置いたものと言えよう。しかしそれは必然的に伝統的な精神分析の持つ様々な慣習や伝統を守る立場(ホフマンの言う「儀式」の側面)からの抵抗を当然のごとく受ける。本稿ではその事情についても触れたい。


「関係論的旋回」およびそれへの批判

RPの歴史を簡単に振り返ろう。RPの動きはいわゆる「関係論的旋回relational turn」と呼ばれ、1980年代にJay Greenberg Mitchellよるある著書により、事実上先鞭をつけられた(Greenberg and Mitchell, 1983)。その「旋回」の特徴として前出のMills は幾つかを挙げている(Mills, 2005)。それらは第一に、従来の匿名性や受け身性、禁欲原則への批判であり、第二に治療者が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたことであり、第三にRPの持つポストモダニズムという性質である。
 これらのうちの第一については、ある意味では当然と言えよう。従来の精神分析で一般に非治療的とみなされていた介入、例えば自己開示などは、これが治療可能性を含んでいる以上はRPにおいてはその可能性がさらに追及されることになろう。また第二については、RPは臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたと言える。RPの分析家たちは、学会でも自分自身の心についてより多くを語り、また臨床場面でも自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまり彼らは治療者としてよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求める立場からは明らかに距離を置くことになる。第三に関しては、RPにおける治療者のスタンスは紛れもなく解釈学的でポストモダンなそれであり、そこでは真実や客観性、実証主義などに関して明らかに従来とは異なる態度が取られている。
Greenberg, JR and Mitchell,SA (1983) Object Relations in Psychoanalytic Theory. Harvard University Pressグリーンバーグ,ジェイ・R. ミッチェル,スティーブン・A. 横井公一訳:「精神分析理論の展開」欲動から関係へ ミネルヴァ書房、 2001
さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?まず非常に明白な事柄から指摘しなくてはならない。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。Freudが精神分析において目指したのは無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
Freudは次のように言った。「無意識こそが真の心的現実であるthe “unconscious is the true psychical reality” (Freud , 1900. p. 613)。あるいは「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe science of unconscious mental processes(Freud, 1925, p. 70) とも言っている。意識的な体験を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは反論できないことになろう。この問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の俎上で扱うことの適切さにさえ議論が及びかねないので、この問題は一時棚上げにし、RPに対する批判の幾つかを挙げたい。
RPに対する批判は、ほとんどは「外部」から来ていると言っていいだろう。つまり従来の精神分析な立場を守ろうとする分析家や学派からのものである。しかし例外として初期の段階での批判がまさに「身内」から生じていたことは特筆に値する。RPの火付け役となった「精神分析理論の展開」の共著者の一人であるGreenbergは、1993年にその著書「Oedipus and Beyond エディプスとそれを超えて」(Harvard University Press,1993)で、関係論が欲動の問題を十分に否定されてはいないと主張した。そして「果たして『欲動なき精神分析drive-free psychoanalysis』は可能なのか?」という根源的な問題を提起している。これは欲動と関係性という、ある意味では明確に分けることの出来ない問題についてRPが対立構造を持ち込んだ以上、必然的に起きてくる議論であり、このGreenbergの著書はそれに先手を打ったと見ることもできるかもしれない。
また欧州の精神分析においては、「関係論的旋回」が分析理論における著しい退行を意味するという激越な批判もある(CarmeliBlass, 2010)。それによれば関係論的な旋回は伝統への挑戦であり、これまでの精神分析における技法や慣習を蔑ろにし、分析家の持つ権威を奪うとともに、かえってある種のパターナリズムに陥っているという。英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、RPに対してこのようなほとんどアレルギーに近い反応が見られるのもわからないではない。
Carmeli,Z, Blass, RB (2010) The relational turn in psychoanalysis: revolution or regression? European Journal of Psychotherapy & Counselling, 12:217-224
しかしより微妙な文脈で行われる批判には、それだけ注意が必要と思われる。ここではRPに対して詳細な批判を行っているMills2005)の論文を手引きにして論じたい。このMills RPに対する批判の中で筆者が妥当と思われる論点をひとつ選ぶならば、それはいわゆる「間主観性」の概念に関するものである。それは「精神の構造は、少なくとも精神療法の場面で扱う限りにおいては、他者との関係に由来する」The International Association for Psychoanalysis and Psychotherapyのホームページによる(http://iarpp.net/who-we-are)とするRPの方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。
間主観性の概念は、RPにおいてはRobert Stolorow, Thomas Ogden, Jessica Benjamin らにより精力的に論じられている。論者によりそれぞれニュアンスは異なるが、概してその論調は存在論的であり、「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24) という理解に代表されよう。そしてこの意味での間主観性は心が生じる一種の場としてとらえられる。
Mills, J (2005). A Critique of Relational Psychoanalysis. Psychoanalytic Psychology, 22(2), 155-188. 2005
Millsはこのような間主観性の概念は、それが個を埋没させる傾向にあるという点で問題であるという。そして例えばOgden (1994) の次のような主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは非分析者、そしてもう一つは第三主体the analytic thirdである (p. 483)Mills はこれについて、「そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency の存在はどうなるのだろうか」と問うのだ。Millsはここで随伴現象epiphenomenon という概念を引き合いに出す。随伴現象とは前世紀初頭にWilliam Jamesにより提唱された概念で、心は脳という物質に随伴するものあり、物質にたいしては何の因果的作用ももたらさないという説である。「間主観性も結局は随伴現象であるが、それに対してなぜそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」(p.162)というのがMillsの批判の骨子であるが、これは本質的な問題提起ともいえる。Giovacchini1999)は、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」といういい方すらしているという。
Giovacchini, P. (1999). Impact of Narcissism: The Errant Therapist on a Chaotic Quest. Northvale, NJ: Jason Aronson.
ちなみにここで筆者の考えを差し挟めば、このRPへの批判は、「無意識が人間を支配する」というFreudの考えに対する異議に通じるという印象を受ける。無意識の重要性を前提とする精神分析を外側から批判する人々の多くは、人間の持つ主体性が無意識という装置やリビドーの影に埋没することに不安や疑義を持つであろうし、精神分析の内部にあるRPの立場もそこに発している。ところが今度はRPにおける関係性や第三主体は単なる随伴現象であるにもかかわらず、その「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。
 このRP批判とFreud批判がパラレルに考えられるという事情は、関係性のマトリックスないしは第三主体もFreudの無意識も、結局はあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰着されるのであろう。人間は一方では脳や中枢神経ないしは生理学的な基盤に既定され、他方では他者との関係性や社会の中に埋め込まれている。両者はきわめて複雑で予想しがたい動きを示す。これらのいずれのみに焦点を合わせることは人間を総合的に理解することにはつながらない。RPがリビドー論を棄却しえているのかを問うたGreenberg と、上述の間主観性批判は、あたかもその二つの視点からRPを牽制していると考えられるのではないだろうか。 

PRにおける最近のトピック

以下にRPにおいて特に最近取り上げられているトピックをいくつか挙げたい。それらはFerenczi理論の再評価、脳科学、トラウマ理論、解離理論、フェミニズム、などである。こう挙げただけでもRPの学際性は、それ自体が一つの大きな特徴といってもいいであろう。先にRPは無意識の探求という本来の精神分析の在り方を逸脱していると述べたが、その意味ではRPは「精神分析的であれ」という縛りを自らから解き放ち、あらゆる関連分野における知見を貪欲に取り込むという動きがみられる。

Ferencziの再評価

近年においてFerencziの再評価が進んでいる。Freudと同時代人とも言えるFerenczi は、驚くべきイノベーターであり、RPを事実上先取りしていたという意見すらある(Aron, L. & Harris, A.Eds. (1993) The Legacy Of Sandor Ferenczi. Routledge)。実際RPにおいては、Ferenczi 理論の再考は盛んにおこなわれ、2008年にはニューヨークにフェレンチセンターも立ち上がっている。そしてこのセンターの代表はLewis Aron, Adrienne Harris といったRPのリーダー格ともいえる人たちである。ちなみにわが国でも森茂起による翻訳により、Ferencziの業績が再評価される機会が与えられている(森、2000, 2007)
森茂起 (翻訳), 大塚 紳一郎 (翻訳), 長野 真奈 (翻訳)、シャーンドル・フェレンツィ (), 精神分析への最後の貢献―フェレンツィ後期著作集  岩崎学術出版社2007
茂起 (翻訳)シャーンドル フェレンツィ (), Sándor Ferenczi  (原著),  臨床日記 みすず書房、2000 (The Clinical Diary of Sándor Ferenczi Reprint Edition by Sándo Ferenczi  (Author), Judith Dupont (Editor), Michael Balint (Translator), Nicola Zarday Jackson (Translator) Harvard Universities Press, 1995
Ferencziといえば、かのH.S.Sullivanが米国でのその講演を聞いて深く共感し、自らの考えに最も近い精神分析家と感じ、弟子のClara Thompsonをブタペストまで送って分析を受けさせたという逸話が思い出される。RPFerencziとのつながりは実はその時代にまでさかのぼって作り上げられていたとみることも出来る。
 ダイアローグ誌上でFerencziの概念の再評価に大きく貢献した人としてJay Frankel (2002) の名があげられる(Frankel, 2002)FrankelFerenczi1932年に発表した論文「大人と子供の言葉の混乱」()を取り上げ、そこで提案されている「攻撃者との同一化」という概念が、トラウマ状況において被害者である子供の心に生じる現象をとらえている点で、よく知られるAnna Freudの同概念に勝るとする。Frenkel は最近のトラウマ理論を援用しつつ、Ferencziの同論文の解読を行い、そこに同一化のプロセスと解離のプロセスが同時に生じているという点を指摘する。すなわち解離とは攻撃者に対面した現在の恐怖を無きものにするが、それは攻撃者を内側に取り込むことによりコントロールが可能となると考えられるのだ。この様にFerenczi の概念の先駆性は、解離の概念の分析的な理解という文脈においても論じられる傾向にある。


Jay Frankel, J. (2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressors: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.
脳科学
Psychoanalytic Dialogues誌に2011年に掲載されたAllan Schore (2011) の論文は、RPが脳科学的な知見との整合性を求めている事実を示している。脳科学者であり、精神分析にも造詣の深いSchore は、精神分析的な知見がどのように脳科学的な素地を有しているかという問題を追及し、そこで右脳がフロイト的な無意識におおむね相当するという大胆な仮説を提出する。Schore が強調するのは黙示的な情動調節の重要性であり、その不調は第一に早期の関係性のトラウマ、すなわち愛着の問題に由来し、それが精神療法における主要なテーマになるであろうということである。
Schore, A.N. (2011). The Right Brain Implicit Self Lies at the Core of Psychoanalysis. Psychoanal. Dial., 21:75-100.
このようなSchoreの主張は脳科学と愛着の問題、そしてトラウマの問題を一挙に関連付けるとともに、右脳の機能との関連で、Freudにより提示された無意識の概念の重要性を、ほかのどの関係論者よりも強調する。Schore の研究は、脳科学という文脈を通して、現代的な精神分析はもっともFreudに近づく可能性を示しているともいえるであろう。

愛着理論
愛着理論は関係精神分析において今後の議論の発展が最も期待される分野のひとつである。奇しくも2007年に ”Attachment: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis”(愛着:精神療法と関係精神分析における新しい方向性)という学術誌の第一号が発刊となった。まさにRPと愛着理論との融合を象徴するような学術誌であるが、その第一号に登場したPeter Fonagy が熱く語っているのは、愛着に関する研究の分野の進展であり、それの臨床への応用可能性である(White, K., Schwartz, J. (2007)Fonagy は最近は特徴的な愛着を示す幼児とその母親を画像診断記述を用いて研究をしているという。かのJohn Bowlbyの生誕100年に発刊したこの学術誌は、彼の研究と臨床とをつなぐ強い意思を現代において体現しているといえる。
White, K., Schwartz, J. (2007). Attachment Here and Now: An Interview with Peter Fonagy. Att: New Dir. in Psychother. Relat. Psychoanal. J., 1:57-61.
現在愛着理論に関する研究は華々しい進展を遂げているが、その出発点としてのBowlby1988)は かなり明確に分析批判を行っている。
「精神分析の伝統の中には、ファンタジーに焦点を当て、子供の現実の生活体験からは焦点をはずすという傾向がある。」(Bowlby, 1988, p.100) この批判は現在のRP論者の言葉とも重なるといえよう。
Bowlby (1988)writes that there is a ‘Strong tradition in Psychoanalytic thought on focusing attention on fantasy and away from the real life experiences of childhood’ (p. 100). 

メンタライゼーション

メンタライゼーションの研究および臨床への応用は、上に述べた愛着理論の研究と密接な関係がある。メンタライゼーションの理論的な根拠は、従来の精神分析理論、愛着理論のみならず最新の神経生理学をも含みこむものの、原則的にはそれが発達途上の情緒的なコミュニケーションの失敗ないしはトラウマ(いわゆる「愛着トラウマ」)の産物であるという視点が貫かれているという点である。この理論の提唱者であるPeter Fonagy Anthony Bateman は、養育者から統合的なミラーリングを提供されなかった子供がメンタライゼーションの機能に支障をきたすプロセスをいくつもの図式を用いて詳しく論じる (BatemanFonagy, 2006) 。彼らはともすると漠然として治療方針が見えにくいというRPに対する批判が当てはまらないような、極めて具体的な治療指針をそのプロトコールで示しているのだ。

Bateman, A.Fonagy, P. (2006) Mentalization-based Treatment for Borderline Personality Disorder: A Practical Guide 1st Edition. Oxford University Press; 1 edition, 2006 ベイトマン A./フォナギー P.著 狩野力八郎・白波瀬丈一郎 監訳 メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害 ― MBTが拓く精神分析的精神療法の新たな展開岩崎学術出版社、2008

解離理論、トラウマ理論

Donnel Sternは、RPの野心的なリーダーの一人であり、2014年の日本精神分析学会年次大会にも招かれ、基調講演も行っている。彼によれば、精神分析のテーマは、従来の分析家による解釈やそれによる洞察の獲得ということから、真正さ authenticity, 体験の自由度 freedom to experience そして関係性 relatedness に推移しつつある (Stern, 2004) 。そのStern は特にエナクトメントに着目し、それを解離の理論を用いて概念化する。エナクトメントとは、事後的に「ああ、やってしまった」「あの時は~だった」と振り返る形で、そこに表現されていた自分の無意識的な葛藤を理解するというプロセスを意味するが、そのようなエナクトメントが起きる際に表現されるのが、自己から解離されていたもの、として説明されるのだ。
RPの世界でSterm とともに解離の問題を非常に精力的に扱っているのがPhillip Bromberg であり、わが国でも彼の近著が邦訳されている(Bromberg, 2012)。Bromberg の解離理論は、基本的にはすでに紹介したStern と同様の路線にあるが、それをさらにトラウマ理論と結び付けて論じる。トラウマ理論とは、人間の精神病理に関連する要因として過去のトラウマ、特に幼少時のそれを重視する立場であるが、Bromberg トラウマを発達過程で繰り返し生じるものとして、つまり一つの「連続体」として捉える。そして自分の存在の継続自体にとって脅威となるトラウマの影響を tsunami(津波)と表現し、それが彼の解離理論と深く関わるのだ。

Bromberg, P. (2012) The Shadow of the Tsunami (Routledge, 2012) 「関係するこころ」(フィリップ・ブロンバーグ著、吾妻壮ほか訳、誠信書房、2014年)
Stern, D.B. (2009) Partners in Thoughts; Working with Unformulated Experience, Dissociation, and Enactment, Routledge. 一丸藤太郎監訳、小松貴弘訳: 精神分析における解離とエナクトメント. 創元社, 2014.


以上現在の関係精神分析のあり方や将来の発展性について概説したが、もちろん本稿で触れられていないテーマは膨大である。私の概説はRPという大きく複雑な流れの一つのラフスケッチに過ぎないことを最後に付け加えておきたい。

2016年2月27日土曜日

So called SP (28), (29)

Ms. A States ・・・・・
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So called SP (29)
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2016年2月26日金曜日

報酬系と心(17)

幸福感は、私たち人間の真に求めるものだろう。というか、それ以外に究極の生の目標はあるだろうか? Cエレガンス、あるいは進化的にそれ以前の生物が初めてひと揃いのドーパミン系のニューロンを備え、それがその生物を「ある方向」に向かわせる機能を担ったときから、生命体の究極の目標はその原初的な報酬系の興奮であった。 その満足は絶対的に肯定され、思考された。人はそれを後になって幸福と呼ぶようになったのだろう。無論中には痛みを求める人もいる。手首を傷つけ、自ら首絞めをする人も。でもそれはやはりそれが結局は報酬系の刺激となるからである。その意味で苦痛はスパイスに似ている。それは報酬系のランドスケープに加わることでいっそう全体を引き立たせることになる。
ところで生命体にとって幸運なことに、報酬系を刺激するものは、自然界では非常に限られ、またその満足度も極めて低い位置に抑えられていた。そのせいで幸福感は通常は低い位置でのみ得ることが出来、高いレベルでのそれには労力や運が深く関連していた。「ナチュラルハイ」は本来そのような性質を有していた。考えても見よう。水泳の北島康介が北京オリンピックで金メダルを取ったとき「チョー気持ちいい」といったことは有名だが、彼があの「チョー気持ちよさ」を再び得るためにすべき努力や、遭遇すべき幸運のことを考えればいいだろう。チョー・ナチュラルハイは、登山家にとっての山の頂きの様なものだ。多大の代償を払って運がよければようやくたどり着ける類のもの。

だからフロイトがコカインを再発見し、一種の魔法の薬として評価した経緯は非常にうなずける。そのナチュラルハイの高みを、一瞬にして、それも数的を口の中にたらすだけで達成できてしまうからである。

ある書評 2 so-called SP (27)

9,10章については私の専門性をやや外れるために割愛させていただくが、最終章である第11章の岸本氏による「コンシャス・イド」については少し詳しく述べたい。というのも本章はソームズおよびニューロサイコアナリシスの向かう先がフロイト理論の単なる脳科学的な追試ではなく、その先に広大に広がる心の世界の探求を進めるうえで大きな意味を持っていると考えられるからである。言うまでもなく「コンシャス・イド」、すなわち「意識的なイド(エス)」、とはそれ自身が矛盾した概念だ。フロイトはイドをリビドーの貯蔵庫と考え、無意識的なものと捉えたからだ。フロイトはまた、自我は大脳皮質で生じることに概ね対応するものと考えたが、自我機能の中には、前意識的、ないしは無意識的な部分もあるとした。しかし心を脳科学的にとらえなおし、そこにフロイト理論を重ねた場合、彼の考えたイドには意識化された部分がある、と考えたのがソームズであった。彼はまたイド概念をそのようにとらえなおすことにより、精神分析的な概念は身体性をも含めた心の理論として復権させることもできるというニュアンスをそこに込めている。そしてそれはフロイトの理論を踏み台の一つにはしていても、それを超えた理論の発展を目指したものである。岸本氏自身が「ソームズはフロイトの信奉者ではない」という節を設けている通り、最終法廷はあくまでも臨床実践の場であり、フロイトの復権ではない。
無論「コンシャス・イド」という概念自体が挑発的であり、さまざまな議論を呼んでいるのも事実である。伝統的な分析の立場からのみならず、ニューロサイコアナリシスからも批判を浴びる可能性がある。しかしそれはニューロサイコアナリシス、あるいはひいては心に関する理論そのものをいい意味で活性化させるという意図が込められているのであろう。
コンシャス・イドの概念が特に意義深いのは、すでに述べたパンクセップの情動脳科学の議論はそのままこの範疇に収まる点である。

以上本書についての概説を行ったが、もちろん評者としては多くの読者が本書を直接手に取り、実際に読んでいただきたい。決して平易な内容とはいえないが、現代の脳科学が到達しているレベルを知ることが出来、またフロイト理論がなぜいまだにこれほどの影響を持つかの理由を知ることにもなるであろう。


So called SP (27)
  
Clinical Exaple

I would like to discuss a case A that I treated long time ago in the US, ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・early teens.       

2016年2月25日木曜日

ある書評 1 So called SP (26)


 ニューロサイコアナリシスへの招待 (岸本 寛史 編著 誠信書房、2015年)は野心的な著書である。同著は編者岸本氏のリーダーシップのもと、平尾和之、久保田泰考、成田慶一、秋本倫子諸氏(敬称略)が執筆に携わっている。
 そもそもニューロサイコアナリシスという分野は、まだ新しく、ニューロサイエンス(神経科学)とサイコアナリシス(精神分析)という異分野に橋を架けようとする野心的な試みであるが、その全貌をわかりやすく日本に紹介するというのが本書の出版の意図であろう。
そもそもニューロサイコアナリシス(神経精神分析)という名前になじみのない方も、我が国に多いであろう。この分野を一種の脳科学と考える向きもあるかもしれないが、編者が「はじめに」で断っているとおり、ニューロサイコアナリシスは、脳科学と精神分析の両者を、「まったく同等の重みを持って、『心そのもの』を複眼視しようとしている」(編者)のである。もちろんそれは多くの課題を伴ったテーマであるが、本書の編者岸本は、仲間とともにそれに果敢に取り組んでいる。
 第1章 「ニューロサイコアナリシスの源流」では、その立役者マーク・ソームズが、この分野を開拓した歴史がつづられる。その頃フロイトの夢理論に対して、脳科学的な見地から真っ向から反対していたアラン・ホブソンの理論に対して、同じ脳科学的な研究からフロイトの理論の復権を試みたソームズは、のちにノーベル賞受賞者となるマーク・カンデルの後ろ盾を得て、1999年にニューロサイコアナリシスの国際雑誌を発刊するまでにこぎつけたのである。
第2章 「ニューロサイコアナリシスのはじまりと展開」は平尾和之氏による概説である。平尾氏は2006年のロサンゼルス大会を期に、京都の研究グループに参加し始めた経緯について述べている。氏はニューロサイコアナリシスの主要な著書である「脳と心的世界―主観的経験のニューロサイエンスへの招待」マーク・ソームズオリヴァー・ターンブル著、星和書店、2007年)の翻訳者でもあり、岸本医師と共に日本におけるニューロサイコアナリシスの動きを牽引している。(ちなみに本書の著者諸氏は秋元氏をのぞいて京都大学医学部の出身ないしは所属であり、京都という地の持つ学際性を表しているという印象を持つ。)
同じく平尾氏による第3章 「夢のニューロサイコアナリシス」は、本学会の初期の呼び物でもあったホブソンとソームズの夢をめぐる議論にページが割かれ、その内容も非常に興味深い。
第4章「ニューロサイコアナリシスの基盤」および第5章「ニューロサイコアナリシスから見たフロイト理論」は再び岸本氏による執筆であり、フロイト理論と脳科学との接点に関する極めて濃厚な論考が展開される。特に第5章で扱われているのは、欲動の問題である。フロイトの欲動論は、現在の精神分析理論では十分な関心を集めているとは言えないが、脳科学の分野ではヤーク・パンクセップの情動脳科学、とくに「SEEKINGシステム」が重要な意味を持つ。このことは評者にとって極めて大きな示唆を与えてくれた。そしてこの情動脳科学でとらえたこころはまさに身体性を伴ったものであり、かつてフロイトがリビドー論で解き明かそうとしていた試みを現代風に引き継ぐ形をとっているのである。
第6章、第7章は「ヒステリーからの問い」及び「トラウマとその帰結」という久保田泰考氏の手による論考であるが、評者は大いに刺激を受けた。これらのテーマは直接ニューロサイコアナリスで話題になっているというわけではないようであるが、精神科医としてのきわめて豊富な知識を背景に、ヒステリーやトラウマという精神分析では古典的なテーマについて、現代の脳科学的な視点から縦横無尽に論じているという印象がある。氏の様な書き手がわが国のニューロサイコアナリシスを支えていくのであろうと感心した。

第8章「感情神経科学との接合によって開かれる世界」(成田慶一氏)は、先述のパンクセップの情動脳科学について、よりいっそう詳細な紹介が行われている。


So called SP (26)

The rationale for handling SPs that meet these conditions is as follows. If a SP has some communications with the therapist, the nature of the SP can be gradually modified and detoxified, probably in a similar way that any traumatic memories are ab-reacted and become less salient in exposure therapy or EMDR (Eye Movement Desensitization and Reprocessing). Although there are many ways to neurologically explain how exposure technique would work (KM Myers and M Davis Mechanisms of fear extinction Molecular Psychiatry (2007) 12, 120–150, 2007) I would like to consider the way handling dissociative cases therapeutically from a standpoint of memory reconsolidation (Okano, 2015). SPs are parts of the patient which never had a chance to express its feeling. (As one of my patients aptly describes “it seems as though SPs are a group of people who are deprived of any chance to be honest and express themselves”.- a quotation form one of my patients that I discussed at the beginning of this paper). Through the experiences of expressing themselves, SP’s traumatic memories can be modified and reorganized, hopefully to a point where they would not recur any more. This would be a state where the SP become mostly dormant and becomes less likely to break into the patient’s daily life.  
Okano, K. Kairi Shinjidai (New Age of Dissociation) Iwasaki Gakujutsu Publishing. 2015


2016年2月24日水曜日

報酬系と心(16) So called SP (25)


<報酬系と幸福感>

覚せい剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンの田●まさしが、こんなことを書いている。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」夕刊フジ2016 212()配信
これは報酬系の考え方からすると、すごくよくわかる体験である。いや、彼の薬物の使用を正当化しているわけではない。薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。私はこの項を、<報酬系と倫理観>と組み合わせて読んでいただきたい。
報酬系とは、その興奮を起こすものがその生命体にとって絶対に必要であり、肯定するべきことという感覚を与える。そのことは報酬系が系統発達的にどのような役目を持っていたかを考えればわかる。ある物質や刺激に対してそれを求めるという行為を示す生命体が適者生存の法則に従い生き延びてきたとすると、それは絶対の善の感覚を与えていたはずだ。
たとえばCエレガンスという線虫が、よく実験に使われる(302個の神経細胞が同定され、その配線までわかっているという。またC エレガンスは科学物質や温度への走光性がある。去年九州大学のグループが、ガン患者の尿に対する誘因行動を起こしたと発表した。(http://www.kyushu-u.ac.jp/pressrelease/2015/2015_03_12.pdf
このような時エレガンスは、「やった!」とか言いながらその尿に惹かれているはずである。
もちろんC.エレガンスに心はないかもしれない。でも私たちの報酬系を支配するドーパミン系のニューロンが、すでにエレガンスの神経系には見られるという。つまり報酬系の萌芽がエレガンスにはすでにあり、さらに進化した動物にもやはり同様のドーパミン系のニューロンが備わっていると予想される。するとその神経系がより複雑になり、いつしか原初的な心が生じるときには、すでにここが刺激されるときの「やった!」という多幸感は生じていることが容易に想像される。
私がここで強調したいのは、安らぎとか満ち足りた気分とか、私たちが絶対的に肯定し、だれもがその獲得の権利があると考えるようなこれらの感覚が、報酬系の刺激によりユニバーサルに生じ、それはどんなにその生体にとって害になるようなものに対しても同様であるということだ。なぜなら報酬系を刺激するものはどれも等しく幸福感を与えるからである。とすれば、依存性のある薬物や行為にハマってしまうことはまさに悪魔に魅入られたとしか言いようのない出来事なのだ。これほどの不幸があるだろうか。


So called SP (25)

The conditions and the rationales for handling SPs in psychotherapeutic setting should be as follows: The therapist should have established some degree of therapeutic alliance with an identified SP that he intends to handle; such an SP should be cooperative enough to keep therapeutic structure and intends to make use of the treatment for the benefit of the whole personalities of the patient. The host personality should be certain enough that the SP is not excessively disruptive and aggressive, so that the therapist should never be in any physical danger.
It is to be stressed that the handling of SP is actually called for for the benefit of the patient’s life. No heroic attempt on the part of the therapist to “arose” or “coax into disappear” with any SPs which are already dormant and never showed up recently to manifest themselves or disrupt the patient’s life and his/her relationship. The principle of “do not wake a sleeping baby” should be applied here. We need to be cautious that the therapeutic handling of an SP could cause any iatrogenic disturbance to the patient, such as unexpected worsening of the patient’s functional level, triggering of frequent appearance of any SPs.
The conditions in which the handling of SP can be appropriate and therapeutic should be summarized as follows.
1.    A SP has been haunting frequently enough in the patient’s life for an extended period and the continuation of that pattern for the near future is expected.
2.    That SP is cooperative enough to the therapeutic situation and the therapist, and the host or the SP itself can assure that any physically aggressive disruptive behavior can be avoided.    

In clinical situations, the handling of SP is warranted and deemed appropriate if some SPs are sending frequent messages via auditory hallucination, disruptive verbal threats or remarks, any handwriting in the patient’s diary with aggressive messages that the host cannot remember making such entries. If that appearance of SP is considered to be caused by any contact with past aggressors or recent  retraumatization of any kind, the approach to these new episodes should be prioritized instead of delving into handling SPs.