2021年12月27日月曜日

偽りの記憶の問題 19

  本書の記述には時々「あれ?」と思うこともあるが、だいたいよく書かれていて、これまでの知識の整理になる。いろいろ物議をかもした、ジェフリー・ミッチェルのストレス・デブリーフィングのことも書いてある。CISD(Critical Incident Stress Debriefing 緊急事態ストレス・デブリーフィング)というやつだ。ある事故が起きて、多数の人が犠牲になっている時、そこに専門家が乗り込んで犠牲者を集め、何が起きたかを徹底的に聞くという手法だ。これは911の米国多発テロ事件の時も用いられた有名な手法だが、その後これを受けた患者により多くPTSDが発症したなどの報告があった。ショウの本はこの試みがどの様な意味で問題なのか、なぜ記憶の専門家からの異論があるのかを解説する。一つにはこのCISDは人の記憶を融合させる見本であるという。例の「言語隠蔽効果」(言葉にすることでかえって誤った記憶が生成される)により自分の描写と他者の描写が記憶として混同されて残ってしまうかもしれない。それに代理トラウマも起こる。こんなことが書いてある。トラウマになりかねない体験 potentially traumatic experience, PTE はアメリカ人の90%が体験する。ところがそれによりPTSDを発症するのはその10人に一人だという。つまりほとんどの人は深刻なトラウマとなりうる体験に対して反応を起こさないのだ。しかしそれでPTSDになるかもしれないのではないか、という疑いを自らが持った人は、実際にそうなってしまう可能性があるという。

 ここの部分は私がこの偽りの記憶について書く論文の核心部分になるかもしれない。私が個人的に知りたいところだからだ。いつか英国と米国でPTSDの罹患率がずいぶん違うというデータを見たことがある。同じ戦闘体験による外傷でも、米国ではそれがPTSDを起こしかねないという言説に晒されると、よりPTSDになりやすいという話を聞いて、とても混乱させられた。でもここはその問題を扱っているのだ。
 以下に書く問題はこの偽りの記憶の問題とは必ずしも結びつかないが、大切な点だ。自分が親から厳しいしつけを受けるとしよう。体罰も含めて虐待に近い扱いだ。ところがそれを受けた子供本人が当たり前だと思うと、それがトラウマになりにくい。昔は多くの家庭で、子供が悪さをしたり、行儀が悪いだけで殴りつけられていた。そのような社会では、自分だけがひどい扱いを受けているという実感がなく、したがってトラウマとして体験されにくいという事はより少ないのではないか?このことは子供を人とも思わない扱いをしてきた人類の歴史を考えればわかる。これは悲しい現実だが、あらゆる機会に子供は虐められ、女性は凌辱を受けかねないというのが私たちの歴史である。その様な状況で、おそらくPTSDは今ほど起きなかった可能性がある。それは一つには「皆がそのような扱いを受けている」という感覚があったのではないだろうか。奴隷は人間として扱われないという過酷な状況を生き抜いたが、みなCPTSDを発症したわけではないだろう。あるいは社会主義、共産主義体制が厳格に守られている社会で、さらには軍隊のような規律が厳しい体制の中で、例えば不登校、出社拒否に相当する行為が許されただろうか。トラウマによる被害と発症は、それが可能な状況においてのみ起きるのではないか?
 これは想像するだけで怒られそうな話だが、このことと代理トラウマの問題が関係していそうだ。