2014年5月31日土曜日

解離の治療論 (45)欧米における解離の治療論(19)

 数か月前に書いたことだが、案外いいことを書いてあるので、少し書き直して採録。要するにトラウマを思い出すという作業をどこまで治療者側が援助するか、というテーマだ。私が昨日赤い字で書いたことは、「まあ、それもありかな。でも決して無理強いはいけない。それは侵入的だ。」ということである。昔は患者が自分から選択して自らを拘束してもらい、それから過去のトラウマを思い出す、というやり方はかつてはしばしばなされ、「適切な方法」として用いられていたが、それいまでは疑問視されているのである。私が昔アメリカのテレビで見たは、ある治療施設で、患者を拘束したのちに過去のトラウマを思い出させるVTRを見せるというものであった。しかしそれが解離性障害の治療の通常のプロトコールに組み込まれないとしたら、それなりの理由があるのだ。つまりそれはハイリスク、ハイリターンだということである。
「私はある記憶について思い出したいのですが、暴れるかもしれないので、両親にあらかじめ手を握っていてもらっていいですか?」と問われたら、私はそれもありかな、と思うだろう。しかしその途中で患者が捻挫や骨折などしようものなら、それで訴えられたら医師のほうに勝ち目はあるだろうか? あるいは別の人格が、「私は承知していなかったのに、医師がほかの人格と結託して私を拘束した」と証言した場合に申し開きが出来るだろうか、ということになる。それでも普段だったら出現することがない人格が出てきて自己表現をする機会が与えられることの意味はあるのであろうが、おそらくそれにより一気に病状が好転する、というわけでもないのであろう。ということは、ハイリスク、ローリターンであることすらありうる。
そこでこのような一文を付け加えよう。「なお入院治療において黒幕的な人格の解放や過去のトラウマの想起を促進させるという試みには、充分な慎重さが要求される。」




2014年5月30日金曜日

解離の治療論 (44)欧米における解離の治療論(18)


少し考え直した。入院治療についてここで何も書かないと、いよいよ読んだ人は途方に暮れるであろう。そこでやはり書いておくことにする。
解離性障害の入院治療
解離性障害の治療は主として外来治療で行なわれる。それは治療が比較的長期にわたること、そして自傷行為等の懸念される行動は一過性で、家族の対応や頓服薬の使用などで対処できることが多いことなどがその理由である。ただし自傷傾向が強まったり、PTSD症状が激化したり、併存症である気分障害が強まった場合には一時的な入院治療を考える事が出来るであろう。入院の目的としては、現在の不安定化を招いている事態(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)を同定し、それを改善してもとの外来による治療を再開できるようにするためのものであるという。
ただし現在の我が国の精神科病棟での治療の在り方を考えた場合、解離性障害の治療の多くが短期間の安全の提供や危機管理、症状の安定化に限られる傾向にある。
 しかし長期の入院の期間が経済的その他の理由で可能であれば、注意深く外傷記憶を扱ったり、攻撃的ないしは自己破壊的な交代人格を扱うこともできるだろう。またトラウマや解離性障害を治療するような特別の病棟があった場合にはなおのこと、治療効果を発揮するであろう。」
なおガイドラインには、次のように書いてある。「入院中に暴力的に振る舞い、言葉や行動や薬物による介入が功を奏しない場合には、閉鎖室や身体拘束や薬物による拘束が必要となる場合もあろう。しかしそれらの拘束の手段は、症状のマネージメントや症状を抑え込む手段containment stragegiesにより、実際に用いなくても済む場合が多い。後者の方法としては、ヘルパーの交代人格helper alternate identity  に接近したり、自分の心の中の「安全な場所」に行くというイメージ療法や同じくイメージ療法を用いて感情の「ボリュームを下げる」試みをしたり、安定剤、抗精神病薬を用いたりすることがあげられている。ところでトラウマについて扱っている間に、『自主的な』身体的拘束”voluntary” physical restraints により暴力的な交代人格をコントロールするという方法は、もはや適切な介入とは考えられていない。」
ここら辺、使わせてもらおう。ただし小保方さんのこともあるし、ここも自分で書くぞ。
「解離性障害の入院治療の意義として特記すべきことは、病棟による安全性が保たれることで、患者の退行を回避する必要がなくなり、より踏み込んだ治療が行える可能性が生まれることだ。外来治療においては特定の交代人格のまま治療を終える事が出来ない場合、実質的にその人格を扱う時間は非常に限られるが、入院治療においてはその限りではない。また入院中に家族を招いてのセッションなどが可能な場合もあろう。」
なんか舌足らずだから、あとで直すが、言いたいことはわかってもらえるだろう。



2014年5月29日木曜日

解離の治療論 (43)欧米における解離の治療論(17)

今日は夏みたいな日だ。まだ5月なのに。

ところで私は欧米のテクストを見ていると、何か綺麗事ばかり書いているような印象を持つのだ。大体上にかいたような治療を受ける人が実際どれだけいるのだろうか? ここからは前回書いたことの繰り返しであるが、私はアメリカの患者たちの多くがいかに金銭的に困っているかをよくわかっている。彼らの財布には23ドルしか入っていないというのはざらなのである。トラウマを負った人の多くは仕事がなく、健康保険にも入っていない。それでどうやって週二回、数年間の治療費が賄えるというのだろうか?それにたとえ保険に入っていても、精神療法に通えるのは一年に15回まで、などと制限が加えられてしまう。低所得者は高い保険の掛け金が払えないので、メディケイドという国の提供する保険に入るのだが、それで提供できる精神療法は質量とともに非常に限られたものになるのだ。私はメディケア、メディケイドの人たちばかりを対象にした地域の精神衛生センターで仕事をしていたが、そこでの経験からすると、このガイドラインに書かれているような治療など、いったい何人に一人が受けることが出来るのか、と思ってしまう・・・・・。
まあそれはともかく・・・・。外来の治療としては、特にやり方を定めるというよりは、折衷的 eclectic であるという言い方をこのガイドラインではしている。目標が達成できれば、認知療法的でも、力動的でもかまわないと言うことなのであろう。催眠についても用いることは有効であるが、主として沈静化、宥めること、自我の強化、と言った目的で行なわれると書かれている。EMDRなども必要に応じて用いればいい、と。そこで
治療の様式
 なお以上の記述は主として外来における個人療法を念頭に書かれたが、治療の様式には様々なものがある。それは精神分析的な傾向を持ったものであったり、認知行動療法的なオリエンテーションの中で行われることもある。さらにはグループ療法や家族療法の形もありうる。EMDRや催眠を積極的に取り入れる場合もあるだろう。現実の解離の治療はそれらの様々な治療様式を折衷的に取り入れたものであることが多く、一概にそれらの優劣を決めることはできない。なお入院形式の治療に関しては、稿を改めて論じなくてはならないほどに多くの論点があるが、現在の日本での精神科入院治療を考えると、ほとんどの治療施設において解離の問題は扱われないか、あるいは危機介入的な意味合いしか持たないかというのが現状である。

何か、書いてみると当たり前の話だな。

2014年5月28日水曜日

解離の治療論 (42)欧米における解離の治療論(16)

 さて第3段階は、ガイドラインでも特別章立てをする必要もないほどに簡略化されている。そこで私が自分で書いてみる。
3段階 「コーチングと家族相談の継続」
順調に治療が進み、回復のプロセスを辿った場合、頻回の治療はおそらく必要がなくなるであろう。しかし患者は時折面接を求めることがあるかもしれず、またその価値もあるであろう。なお患者がうつ病などの併存症を抱えている場合には、精神科受診による投薬の継続も必要となる。解離性障害、特にDIDについては、どのような家族のサポートが得られるかは、非常に重要な問題と言える。DIDの症状は基本的には日常的な(対人)ストレスのバロメーターというニュアンスがあるのだ。せっかくカウンセリングにより落ち着いても、日常的なDVが繰り広げられている家庭に戻っていくのでは意味がない。また一度は治療的な役割を担っていたパートナーも「初心」を忘れがちになるということも少なくない。その意味では継続的なカウンセリングは、よい治療結果を維持するという目的もあるのである。
何か他にあまり書くことが思い浮かばない。

ガイドラインの記載にしたがって、「治療の方式 treatment modalities」という部分に移ろう。なぜこの項目が必要になるかというと、治療を3つの時期に分けるのとは別に、それをどのような形式(モダリティ)で行うかということが問題になるからだ。それを精神科医が薬を用いながら行なうか、心理士やソーシャルワーカーが行なうか、個人で行なうか、グループで行なうか、などによって多少なりとも遣り方が異なる。しかしそのどのモダリティで行なうとしても、大体の流れは、これまでに示した3つの段階で行なわれるということである。
 ガイドラインでまず登場するのは、当然のことながら個人精神療法である。ガイドラインには、通り一遍のことが書いてある。「頻度や期間は様々なファクターにより変わってくる。しかし通常はC-PTSDなどと同様、治療は長期に、年単位にわたって続くと考えるべきである。頻度については少なくとも週に一度、多くのエキスパートは週二度を勧めるという。ただし高機能の患者については、週一度でいいであろう」「それ以上に頻繁になる場合(例えば週に34回など)は、期間を限定することで、患者の依存や退行を予防する」とある。また「セッションの長さについては、4550分が基本であるが、時には7590分を必要とする治療者もある」と書いてある。セッションの終わり方については特に書いてある。「患者が混乱したり解離した状態でセッションを終えることを避けるために、いかにグラウンディング(地に足をつけること。氷を握ってもらう、などの試み)を行うかを患者と共に考えておく人が必要である」、と書いてある。これらについては一応そのまま書くことができる。しかしコピペしたと思われると小保方さんみたいなことになるといけないので、一応私の文章で書いておこう。
「頻度や期間は様々なファクターにより変わってくるが、治療は長期に、年単位にわたって続く場合が多い。ただしケースにより症状が急速に改善することもあり、その場合は治療を必要以上に遷延させるよりは、生活状況の変化等により問題が生じた際に再開するという立場もありうる。頻度については少なくとも週に一度であり、欧米の多くのエキスパートは週二度を勧める。またセッションの長さについては、4550分が基本であるが、時には7590分を必要とする治療者もある。セッションの終わり方については特に書いてある。「患者が混乱したり解離した状態でセッションを終えることを避けるために、いかにグラウンディング(地に足をつけ、解離状態から回復すること。氷を握ってもらう、などの試み)を行うかを患者と共に考えておく人が必要である。」



2014年5月27日火曜日

解離の治療論 (41)欧米における解離の治療論(15)

2段階についてもう少しちゃんと書こう。
「第2段階においては、人格間の交代は頻発しなくなり、主人格との治療関係性が深まる。それとともに主人格が幅広い感情を体験できるようになり、過去のトラウマについての取り扱いも、人格交代を起こすことなく行うことが出来るようになる。」「「主人格を選定し、治療関係を結ぶことにはときには困難が伴う。23の人格の共存や競合が避けられない場合が少なくないからである。すると治療の目標はいかにそれらが平和的に共存していくかについてのグループプロセスの様相を呈することもある。」
2段階
異なる人格間のめまぐるしい入れ替わりや、子供の人格、攻撃性を持った人格の活動が落ち着いた時点で、治療の第2段階に入る。という書き方がいいだろう。主人格、すなわち主として生活を営む人格が定着し、主人格との治療関係性が深まる。それとともに主人格が幅広い感情を体験できるようになり、過去のトラウマについての取り扱いも、人格交代を起こすことなく行うことが出来るようになる。(ただし主人格を選定し、治療関係を結ぶことにはときには困難が伴う。23の人格の共存や競合が避けられない場合が少なくないからである。すると治療の目標はいかにそれらが平和的に共存していくかについてのグループプロセスの様相を呈することもある。)

このように書いていくと、第二段階のタイトルである「直面化、徹底操作、トラウマ記憶の取り入れ」というのも書き直さなくてはならなくなる。だって、直面化、徹底捜査、というのとも違うのだ。これらは言うまでもなく精神分析的な概念であるが、ここでこれらの概念がタイトルとして選ばれる意味が分からない。解離の臨床に携わっている人々は基本的には精神分析家たちの、少なくともコアメンバーには属さない。その分だけ実はこれらのタームも恣意的に用いられているのかもしれない。あまり適当な言葉が見つからないが、一応「主要な人格との関係性を深め、解離以外の適応手段を獲得すること」としておく。

解離の治療論 (40)欧米における解離の治療論(14)


 2段階 直面化、徹底操作、トラウマ記憶の取り入れ
ここくらい全面的に自分で書くか。「ガイドラインによれば、第2段階での目標は直面化とトラウマ記憶の取入れである。1段階は、「安全性の確保、安定化、症状の軽減」だったから、これとのコントラストも必要になってくるな。基本的には、第1段階では十分に触れることのなかった患者さんの外傷記憶に関わっていく、ということになる。理屈ではそうである。というかトラウマ理論に沿った治療論となるとそうなるであろう。あるいは精神分析的な方針に従った、と言ってもいい。まずはトラウマそのものには触れず、安定化をさせ、次に治療関係が成立したらいよいよトラウマそのものにメスを入れる、という。でも治療としてはもっと淡々と、特に第一段階から第2段階にはっきり切れ目をつけてというわけではないだろう。というよりは、第一段階のプロセスがずっと続いていく、という雰囲気だ。特にトラウマをことさら扱うのだろうか?というか解離性障害はトラウマ理論に沿って行うべきだろうか?第1段階で安定化させなくてはならない症状が出ている、ということは、トラウマを抱えた別人格を扱う機会が多いということではないか。ということはトラウマを扱うのは第1段階で一番多いということになるのではないか?私の思う第2段階はこうだ(ということはもちろん第1段階も書き換えが必要になるが。)
2段階においては、人格間の交代は頻発しなくなり、主人格との治療関係性が深まる。それとともに主人格が幅広い感情を体験できるようになり、過去のトラウマについての取り扱いも、人格交代を起こすことなく行うことが出来るようになる。
なんだかずいぶん違ってきたじゃないか。ということは第1段階もこういうことになる。「第1段階においては、安全な環境を提供しつつ、さまざまな交代人格に表現の機会を提供し、それらの減圧を図る。治療者は患者とともに別の人格により表現されたものを互いに共有するための努力を払う。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめたり、生活史年表を作成したりという努力が必要となろう。」途中の「減圧」はヘンな言い方だし、これから推敲が必要だが、要するにその主張を十分に聞き、表に出たい、という圧力を減らす(「減圧を図る」)ということなのだ。実はこの部分、解離の識者からは反対の意見が出る可能性が高い。何しろ解離の治療は、「触らないこと」という思い込みが強いからだ。子供に人格は相手にせず。しかし臨床家意見を経てますます思うのだが、「出癖」は神話である。むしろ必要なのは、減圧、なのだ。

2段階を書き足していく。「主人格を選定し、治療関係を結ぶことにはときには困難が伴う。23の人格の共存や競合が避けられない場合が少なくないからである。すると治療の目標はいかにそれらが平和的に共存していくかについてのグループプロセスの様相を呈することもある。」

2014年5月26日月曜日

解離の治療論 (39)欧米における解離の治療論(13)

 さてここからは段階別の治療プロセスの話である。ガイドラインには、次のようにまとめてある。
第1段階 安全性の確保、安定化、症状の軽減
この第1段階の目標は、表題に掲げられたとおり、安全性の確保、安定化、症状の軽減だ。ただし患者によってはこの第1段階で治療の大部分を占めてしまうことがある。そして「彼女たちが広範にわたる情緒的に深いレベルでのトラウマのヒストリーを探ることはなく、人格たちの融合に至ることもない」と言う。
 さて安全性の問題についてはいくつかの項目が挙げられているぞ。1.治療の成功には安全性の確保が必要であるという教育を行う。2. リスキーな行動のアセスメント 3.安全であるためのポジティブで建設的な行動のレパートリーの作成。4.危険な行為を行う交代人格の同定。5.患者を安全に保つために交代人格の間で合意形成をする。6.グラウンディングテクニック、自己催眠、薬物の使用など。7.薬物依存や食行動障害など、他の専門家の助けを必要とする問題のマネージメント。8.患者が子供に暴力的であったりする際の専門機関の導入。9.患者の自己防衛を動員することを助ける。このうち5についてはとりわけハードルが高いと思うし、人格間の合意形成は治療の最終目標に入れるべきではないかとも考える。そもそもこれを行うためにはその人に備わっているあらゆる人格とコンタクトを取り、話し合う必要が生じる。しかし多くの「黒幕」的な人格は話をしてさえくれないことが多いのだ。
「マニュアルによれば、第1段階は、安全性の確保、安定化、症状の軽減が目標として挙げられる。それはさらに以下の項目に分かれる。1.治療の成功には安全性の確保が必要であるという教育を行う。2. リスキーな行動のアセスメント 3.安全であるためのポジティブで建設的な行動のレパートリーの作成。4.危険な行為を行う交代人格の同定。5.患者を安全に保つために交代人格の間で合意形成をする。6.グラウンディングテクニック、自己催眠、薬物の使用など。7.薬物依存や食行動障害など、他の専門家の助けを必要とする問題のマネージメント。8.患者が子供に暴力的であったりする際の専門機関の導入。9.患者の自己防衛を動員することを助ける。ただしこの5.に関してはその達成は治療の第1弾系以降になることも十分に考えられる。」




2014年5月25日日曜日

解離の治療論 (38)欧米における解離の治療論(12)

ところで前回の考察(数週間前の話だ)では、この部分で自然治癒的なプロセスについての記載がないことについて、それが気になった。そこでの記載を一言でいうとこうなる。DIDは精神科の患者の2から5%の患者に見られるという(要出典)。そしてまだ見つかっていなかったり、誤診されているケースの存在を考えると、その実数はもっと多いのであろう。そしてDIDとして同定されるのは圧倒的に10代後半から20代である。50代になって顕在化する解離性障害などは決して多くない。ということはおそらくDIDのかなりの部分は自然経過の中で「消えて」行くのであろう。そしてその典型的な消え方は決して統合ではない。ほとんどの交代人格は「お休み」になるのである。これをDIDの自然経過natural course と考えるところから出発しなければ、治療を論じることにはならないであろう。
 ということでここはこのように付け加える。
「また他方では、DIDのかなりの部分は大きなストレスがない環境で徐々に後退人格の出現がみられなくなり、『自然治癒』に近い経過をたどることも推測される。これには華々しいDIDの症状を見せる症例が10代後半から20代において多いという事実から推察される。」
このくらい書いてもいいだろう。


2014年5月24日土曜日

解離の治療論 (37) 欧米における解離の治療論 (11)

 なんかガイドラインを書き換える作業になっているな。そこでガイドラインの次の部分。
「最も安定した治療の帰結は最終的な融合である。つまりは完全な統合、融合、そして分離の喪失である。しかし継続的なかなりの治療の後も、DIDの患者のかなりの部分が最終的な融合を達成できず、あるいは融合が望ましいとは言えない。慢性的で深刻なストレス、外傷的な記憶などの、人生の中でのきわめて苦痛な出来事を解決できないこと、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、医学的な併存症を持っていること、高年齢化、継続して存在する精神科的な併存症、別人格やDIDそのものに対する顕著な自己愛的な思い入れ、その結果としてより現実な長期的な治療結果を考えるならば、協力的なアレンジメント(アイデンティティたちの間で十分に統合されたりコーディネートされたりしている機能)を考えるべきであろう。しかし最終的な融合に至っていずに協力的なアレンジメントにある人は、後の人生で十分なストレスに出会うと、明白なDIDPTSDに陥りやすいようである。最終的な融合に達した後も、患者が有する残りの解離的な思考や体験方法についての統合の作業がさらに必要となろう。治療者や患者はほかの人格に任されていたような能力を取り入れたり、自分の持つ新たな痛みの閾値を知ったり、バラバラになっていた年齢を、一つの時系列的な年齢にまとめたり、自分の年齢に会ったエクササイズや疲労のレベルを知ったり、ということである。そして統合された見方からトラウマやストレスに満ちた出来事を改めて見直さなくてはならない。」

「ただし交代人格の間の理想的な形での調和は容易には達成できない場合もある。加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症を持っていること、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的な孤立などはいずれもその達成を妨げる要素と考えられる。」

シンプルすぎるかなあ。

2014年5月23日金曜日

解離の治療論 (36)欧米における解離の治療論(10)


<治療の目標> について記述しているのであった。これを続ける。ガイドラインには次のような文がある。
「患者ば別のアイデンティティを作り出すことを示唆したり、名前のないアイデンティティに名前を付けたり(ただし患者は自分が望んだら名前を選ぶことはできるだろう)、アイデンティティがすでに機能している以上に精緻化され、自立した機能を行うように示唆するべきではない。」
ここについては私は意義があるのだ。私は「名前のないアイデンティティに名前を付ける」ことは場合によっては、ケースバイケースだと考えている。なぜなら名前のない人格に一度会った時に、次に確かめるのが大変なのだ。「ええっと、●月×日にお会いした、■■についての思い出をお話になった方ですね。お元気でしたか?」というよりは、「ああ、Aさんでしたね」の方がいいだろう。私は人格に名前を聞いて「私に名前はありません」と言われたら、では仮に何々さんとお呼びしたらいいですか?と聞くことさえある。ここだけの話だが、それには治療的な意味あいさえ含まれる可能性があると思えるのだ。
とにかくこのガイドラインの文章は書き換える必要あり。

「患者ば別のアイデンティティを作り出すことを示唆したり、名前のないアイデンティティに名前を付けたり(ただし患者は自分が望んだら名前を選ぶことはできるだろう)、アイデンティティがすでに機能している以上に精緻化され、自立した機能を行うように示唆するべきではないことには慎重であるべきだとする臨床家が多い。」くらいかな。

マッピングについてもこんな風に書いてみよう。「いわゆるマッピングについては、以前ほど治療手段としての意味が与えられていないのも事実である。ただしそれが治療の進展により必然的に出現する別人格についての成育歴を聞くという作業の結果なされるのであれば特に問題はないであろう。」
さてガイドラインの治療論は佳境に入って行く。「望まれる治療の帰結は統合integration ないしは交代人格の間の調和 harmony である。統合や融合fusion などの用語は時には混乱を引き起こす。」 ん?どういう意味でだろう?「統合というのは広範囲の、長期にわたるプロセスで、解離的なプロセスのすべてに言及されることである。」「それに比べて融合というのは、ある一つの時点で二つ以上のアイデンティティが一緒になり、主観的な区別の感覚が失われることである。」ふーん、知らなかった。「最終的な融合final fusion とは最終的に統一された自己の感覚を持つことを言う。」「この両者の混乱を避けるために、一部の人々は統一unification という用語を提唱している。」フンフン。そこでここは書き直して。
 「望まれる治療の帰結は交代人格の間の調和 harmony である。統合や融合fusion などの用語は時には混乱を引き起こすので慎重にならなくてはならない。」 「この調和は、存在が確認されたすべての交代人格の共存を必ずしも意味せず、一定の人格の安眠状態をも含む。」
どうだろう!この「安眠状態」という表現。しっかし本当にこんな文章が、あの権威ある学会誌に掲載してもらえるのだろうか?いちおう依頼原稿なのだが。




2014年5月22日木曜日

解離の治療論 (35)欧米における解離の治療論(9)

ということでいくつもの事情に迷わされながら、再び戻ってきた解離の治療論のテーマ。これも別のオトナの事情がらみだ。確か数日前に「解離のセントラルパラドックス」という大げさな概念を述べた後のままになっていた。あまりに勝手すぎやしないか?そうかもしれないが、ブログは私の思考プロセスの、いわば雑記帳でもあるので、お許しいただきたい。

「解離のセントラルパラドックス」は、これがどのように体験され、理解され、解決されるかにより、治療者の立場も患者の立場も大きく分かれることになる。その意味で重要なタームと言えるのだ。この語は514日のブログでは、次のように定義した。「解離されていた心的内容、あるいは解離された心の産物 product としての心的内容は、自分の一部であって、しかも他者性を有するという事実」である。
 実はこのパラドックス、「非意識の産物」についてもいえることだ。と言ってもいきなり急か?でも少し説明しよう。夢についての考察の中で感じたのは、夢の内容とは non-consciousness での出来事ということだ。Non-consciousness とは「非意識」であり、意識されていない部分(すべて)ということである。たとえば私が今朝見た華々しい夢(といっても内容は全く覚えていない)。でもそれをもし今朝書き留めてあって、「なるほど、こんな夢だったな」と思った場合、もうその時は一種のownership 所有感が生じている。自分が書いたものならしょうがないな、みたいな感覚。似たような例で考えれば、昨日酒に酔った後のことは全く覚えていないが、連れの友人を殴ったという話を聞かされる。すると一応その友人に謝るだろう。全く記憶になくても「私は時々そんなことがあるんです。申し訳ありませんね。となるだろう。このように自分の脳の「非意識」から生まれたものは、自分に対する所属感や責任感が生まれるのが普通なのである。ただし主体としては、そこで一種の理不尽さを感じる。「本当は自分じゃないのに…」「無理やりお酒を飲まされたせいでこうなったんだし、本当は自分が悪いのではなく、アルコールのせいなのだ・・」この責任回避の念は人によってその強さは異なるし、世間が見る目にも人によって大きな差がある。だから精神病により他人を害するという事件が起きた場合、「病気のせいだからその人を罰するわけにはいかない」という立場といや、たとえ病気でも責任は取るべきだ」とに分かれたりする。米国などで、insanity defense を認めるかどうかが州により異なる、といった現象も起きる。

さて解離の別人格も、結局は似たような現象が起きるということを私は言いたいのだ。自分の中の別人格の言動についての主人格の体験は様々に異なるし、周囲がそれをどう見るかもまた異なる。もちろんどこにも正解などなく、異なる「解釈」が存在するだけなのだ。

2014年5月21日水曜日

臨床における「現実」とは何か? (7)

治療における現実と真実について考えているうちに次のようになった。下線部分は比較的新しい私の「発見」である。真実さとは、私たちが現実の過酷さに抗するために作り出すのだという発想である。


治療初期の段階では、Aと私は多くの点で価値観を共有し、彼の語る体験にも容易に共感することが出来た。すなわちAと私の「現実」は多くの点で「共同の現実」を形成出来ていたといえる。私の「顔色」についての体験の相違は、両者の「現実」として語られ、その差異が理解されたのちに「共同の現実」に繰り込まれていった。しかし治療の進行に従い、Aと私はそれぞれの感受性の違いや立場の違いをより明確な形で感じるようになっていった。Aの語った体験である「自分の中にあなたがいるので、もう私自身が考えられる」は、Aがやがて自らの「現実」と、私という他者の「現実」との参照をあまり必要としていなくなったことを表すのであろう。そしてそれが、私が具体的な終結の話を持ち出したという彼の「現実」につながったと考えられる。私はそれと私自身の「現実」との差異について指摘したものの、Aがそれに気が付いていない様子に、彼との埋められない距離を感じ、Aが終結に向かっていることを感じた。

 無論Aが終結を持ち出したというのは私の「現実」であり、真相は確かめようのない現実に属する。そして究極の現実とはこのように、Aと私は他人同士であり、やがて終結して別れていくという過酷なものであることが、Aと私が暗黙のうちに至った最後の「共同の現実」であったかもしれない。
それでは臨床における真実とは何か。それは不可知的で予測不可能な現実に抗する形で、自らにとって永久不変なものとして私達が求め続けるものであろう。それは治療関係において両者が互いの「現実」に向き合い、「共同現実」の儚さや現実の悲劇性を共有する勇気を与える。その際に治療者に求められる態度として重要なのは、技法的な熟達にはとどまらない「本物らしさ genuinenessである。そこには治療者が自らの立場に防衛的にならずに、真摯に患者と関わる態度が含まれるのである。

2014年5月20日火曜日

臨床における「現実」とは何か? (6)

真実さの続き。
昨日はこんなことを書いた。「それでは臨床における真実とは何か。それは患者が治療者に対して、その技法的な熟達を期待する一方で求める「本物らしさgenuineness」に関わる。そこには治療者が自らの立場に防衛的にならずに、真摯に患者と関わる態度が含まれるであろう。また治療者の人間らしさや自発性も関係している。そしてそれは治療関係において両者が互いの「現実」に向き合い、「共同現実」の儚さや現実の悲劇性を共有する素地を提供する。その意味では真実とは現実の過酷さを代償するものとして両者が追及するものであるかもしれない。」
でもそもそも真実ってなんだ?恐らく治療における真実は、自分とは何か、何が問題なのか、どうしたら安寧 well-being を獲得できるのかという問題意識としてあるのであろう。その意味では分析治療はそこに向かう作業なのである。そしてそれは治療者との共同作業で向かうべき問題なのだ。私はそれは究極の現実との遭遇、そしてそれは別れ(終結)であり、死であると思う。そしてそのためには治療者の真摯さ、率直さ、偽りのなさが必要になるのだ。どうしてだろう?テクニックだけを用いてもいいではないか?コンピューターのプログラムでもいいのでは? ケータイの「分析アプリ」?でも現実の照合というものであるである以上は、血の通った人間でなくてはならない。

そこでホフマンが問題にしているような治療者の人間的な側面や自発性はどのように関連するのか。治療者自身が技法と人間的な側面の弁証法を体現する以外の何物でもないから、というだろう。現実的な話、そんな大事な仕事をするのに、しかめっ面しい治療者と毎日対面するのはごめんだね。治療者はフツーじゃなきゃ。特に優しい、とか、特別共感的とかである必要はなくても、正直であってくれなくては。そう、正直さ、かな。欺瞞がない、というか。じゃないと現実の追及なんてつらい悲劇的な仕事をできないではないか。
そうか、治療における真実とは、近づきがたい現実に最終的に接近する地点を意味するのだろう。そしてそのために必要なことは治療者の正直さ、真実を追求する姿勢でもあるのだ。しかし正直さって全然学術的じゃない。学会でこんなことを言ったら笑われるだろう。真実って、こうやって現実と折り合って生きていこう、という方針なのだ。その追求にどうしても治療者の正直さが必要になってくる・・・・。うん、少しわかった気がした。ナンのこっちゃ。

2014年5月19日月曜日

臨床における現実とは何か?(5)


3日間頭を絞って書いたのが以下の文章。なんだ、引用がないじゃないか。

この臨床例の治療初期の段階では、Aと私は多くの点で価値観を共有し、彼の語る体験は多くの意味で私にとってはわかりやすいものであった。すなわちAの「現実」と私のそれは多くの点で「共同の現実」を形成していると感じられた。その中で互いの「現実」の差異を確認することは治療の重要なプロセスといえた。私の「顔色」についての照合はおそらく二人の間の共同の現実を作る働きをしてくれたのであろう。しかし治療プロセスの進行に従い、Aと私はそれぞれの感受性の違いや立場の違いを明確な形で持っていて、当然のことながら異なる「現実」を現実から切り取っていることに気づいていった。5年間の分析治療を通じてAは、私が彼の中にいて、彼が考えている、という感覚を持つに至ったというプロセスは、Aがやがて私という他者の「現実」との参照をあまり必要としていなくなったことを表すのであろう。それが私が具体的な終結の話を持ち出したという彼の認識につながったと思う。それについて指摘したものの、彼がそれに気が付いていない様子に、彼が遠くに行っている気がし、それ以上は侵入しないことにするとともに、Aを終結させることの必要を感じた。それに考えてみれば、私が持ち出さなかったというのも私の「現実」でしかない。究極の現実とはこのように、Aと私は他人同士であり、やがて終結して別れていくという過酷なものであったことをお互いに認識していた。

それでは臨床における真実とは何か。それは患者が治療者に対して、その技法的な熟達を期待する一方で求める「本物らしさgenuineness」に関わる。そこには治療者が自らの立場に防衛的にならずに、真摯に患者と関わる態度が含まれるであろう。また治療者の人間らしさや自発性も関係している。そしてそれは治療関係において両者が互いの「現実」に向き合い、「共同現実」の儚さや現実の悲劇性を共有する素地を提供する。その意味では真実とは現実の過酷さを代償するものとして両者が追及するものであるかもしれない。

2014年5月18日日曜日

臨床における「現実」とは何か? (4)

ということで症例だが、これは私の著書「中立性と現実」の採録となる。かなり細部を修正したし、海外の例なので、個人情報の問題はクリアーされているはずだ。

<臨床例>

症例は、医療関係に従事する40代半ばの白人男性Aである。Aはかつて私と5年以上に及ぶ精神分析療法を行なった。最初に簡単にAのプロフィールを紹介しよう。Aは数年前に妻に去られ、仕事の同僚にも裏切られたことをきっかけにして深刻な鬱状態に陥り、精神病院に入院するまでになった。彼は信頼していた人からごみのように扱われたと感じ、彼らに対する激しい怒りとともに、体を壁に打ち付けるなどして「自分をこなごなにしたい」という願望を持ったのだ。しかしその後分析療法と薬物治療により順調な回復を見せ、パートタイムながら職場に復帰するまでに至った。Aは学究肌で情緒的に疎遠な父親を持ち、幼少時にはその父親を理想化と同一化の対象として育った。しかしその父親から暖かい言葉をかけてもらったことがなく、また父親がその後Aが思春期の頃に家庭を捨て、若い女性と結婚してしまったことで父親への理想化は激しい憎しみへと変わり、今でもほぼ絶交状態にある。Aは他人から無視されたりぞんざいに扱われたと感じた際には、同様の激しい怒りを他人に向けることが多かったそうだ。
Aとの治療においては私への理想化と治療に対する強い意欲が顕著であった。主として私の仕事上の都合で、セッションは早朝に行なわれたが、Aはめったに遅刻することなく毎日現れ、私に対して非常に丁寧で礼儀正しい態度を示した。しかしこれはAがしばしば他人に向ける激しい怒りや見下しとは対照的でした。Aが私との治療に満足し、多くのものを得ているとしたら望ましいことではありますが、他方でAが私に対して陰性転移を十分に表現できていないのではないかという可能性も考えられ、それはこの治療に対するスーパービジョンでもしばしば取り上げられた。そしてその問題を生んでいる可能性のある二つの要素が考えられた。ひとつには私自身がAとの治療が始まって以来一度もセッションに遅刻したり、直前にキャンセルをしたことがなく、休暇によるキャンセルも比較的少なかったことであり、いわば私の中の完璧主義がAの強迫的な治療への執着を生んでいる可能性である。そうしてもう一つはAが無職のころ設定された低い治療費をそのまま継続していることで、Aが何らかの負い目を私に感じている可能性である。
その後のあるセッションで、Aがいかに精神分析が役に立っているかについて語った際に、私はこれらの二つの可能性を問うてみた。私は次のように言った。「そういえば私の方も一度も休んだり遅刻したりしていませんね。そのことがあなたに、『自分もそうしなくては先生に悪いのでは』という気持ちを生んでいるということはあるでしょうか? 」「いまだに一セッションがXドルのままですね。そのことで私に一種の負い目を感じていませんか? 」これに対してAは、「先生の言うことはそうかもしれませんが、今一つ実感が持てません。」と言い、治療費の変更に関しては少し検討してみたいと伝えてきた。
それからさらにしばらくして、私は家族の事情で比較的長期の休暇を取る必要が生じ、Aとの治療が二週間以上中断されることになった。それまでは私の休暇は一週間が限度であり、この二週間以上の中断はAとの治療が始まって以来はじめてのものとなった。私がその休暇から戻った時はAはさして変わった様子を示さなかった。しかしそれから一週間ほどしたセッションで、Aは自分から積極的に治療費を上げて欲しいと言い出しました。それについてもう少し詳しく話を聞いていくと、Aは言いました。「先生が出かけていた間、実は私は見捨てられて一人ぼっちにされた気がしたんです。休みの二週間が終わるころには、またあの深い鬱の渦の中に再び巻き込まれていってしまう感じがしました。こんなことがおきるとは私は予想してはいませんでした。そして私ははじめて、この分析が自分にとって何を意味しているかを知った気がしたのです。この時間が、自分があの鬱状態から抜け出して毎日仕事をすることを可能にしてくれていると思ったら、それは到底Xドルでは足りないと思うようになったのです。」

私はAが私の休み中に持った様々な感情についてさらに話すことを促した。またAが治療費の値上げを要求した背景にある複雑な感情についてさらに理解を深めることが出来、治療が一歩前進したという実感を持つことが出来た。

2014年5月17日土曜日

臨床における「現実」とは何か?(3)


<臨床例>
A は治療開始時44歳、独身の白人男性であり、私が数年間精神分析療法にかかわった人である。
こりゃ、ほとんど以下略、だね。
臨床像
  A は背が高く小太りの中年男性であった。頭髪は豊富で、ひげを伸ばし、清潔ではあるが貧しさの感じられる身なりをしていた。

これ以下も省略。
ともかくも私はここであるケースを出そうとしている。そこでは「現実」の齟齬が生じて、それが一つの治療の転機になったということを示したいのだ。

2014年5月16日金曜日

臨床における「現実」とは何か?(2)

私は、「我謀らず」(広田弘毅)の精神で行っているが、右の欄は一体どうなんだろう?明らかに「宣伝」ではないか。典型的な作為ではないか。でも人に知られること be recognized は重要なことだし。それに出版社の方にはせっかくオンラインで注文できるようにしていただいたのだ。というわけで。

 さてこの「現実」の話がどうして面白いかというと・・・・。何しろ哲学的な議論から入っているから、敬遠されていないとも限らない。その面白さは、やはり治療場面で現れる。患者さんがある内容について語る。それは二人の間で起きたことでもいいし、ニュースで聞いたことでもいいだろう。自由連想であるから何でもありだ。そしてそれについて、治療者の体験と患者さんの体験がおおむね一致することが多いであろう。そのとき患者さんは治療者と話が合うし、理解されているという感じを持つはずである。ところがそれが食い違うことがある。治療者の「現実」と患者の「現実」の齟齬である。するとその「現実」の食い違いが梃子(てこ)のように働いて治療が進展していく。「私はこう思ったのですが、先生はこう思ったのですね。(二人の考え方はこのように違うのですね。面白いですね)」という理解が生まれるだろう。それはおそらく「共同の現実」に繰り込まれていくことになる。

ただそれがある程度以上埋まらないとしたら、つまりこのような「現実」の齟齬が次々と生じた場合には、「話にならない」ことになり、患者としては面白いどころか、それ以上話を続ける意味をなくす可能性すらあるだろう。このような「話にならない」状況は二つの場合により顕著になると考えられる。ひとつは治療関係に入り始めたところでの躓きとして体験される。私は英語で患者とコミュニケーションを行った時に、相手の単語一つの意味を理解しなかったことで患者が立ち去ったことがある。あまりに違う世界の人との間では「共同の現実」の断片すら作れないことがあるのだろう。もう一つは治療の終結の際に生じる可能性がある。それまで共同の現実をじわじわと押し広めていた両者が、それ以上にはいかない部分まで至り、それを機会に「あれ、話が通じていたこの人とは、結局赤の他人ではないか?」という一種の興ざめが生じるのである。これもこれで悪くないかもしれない。

2014年5月15日木曜日

臨床における「現実」とは何か?(1)


 大人の事情はいつやってくるかわからない。それが現実というものだ。ン? 現実? それがテーマである。この現実というテーマ、私は以前かなりこだわっていた時期がある。
15年ほど前だ。だから「中立性と現実」(岩崎学術出版社、2002)という本を書いたくらいだから。そのとき書いたことは、別段本を読み返さなくても大体出てくる。(まあ、自分で書いた本だからね。当たり前だ。) それはこんな感じだ。右の欄にも付け加えておいた。
まず現実と「現実」(カッコつき現実)をわける。現実とは、決して直接捕捉できないものだ。ここら辺はいいかな? 目の前にあるバラの花を思い浮かべよう。その赤い色は紫外線だけを当てたら出てこない。暗闇の世界でも意味を持たない。色盲の人にも意味を持たない。だから赤い色という属性は本質的ではない。大きさは? 人間にとっては手にとってにおいをかぐような手ごろな大きさだが、蟻ンコにとってはトンでもなく巨大だし、ゾウにとってはそれこそ私たちにとっての蟻のような大きさであり、踏みつぶせばおしまいだ。ということでどれも本質的な属性ではなくなってしまうとするなら、言葉で表しても、カラー写真でとってもそれを伝えられない。いや、その「源」は確かにあると思うよ。でもそれがどのように感知されるかは主観により全く違う。畑に自生してしまうバラは、雑草扱い、という地方もあるかもしれないし。(聞いたことないな)

そこで「現実」、すなわち鍵カッコつきの現実はどうか?それは主観的な体験として意味を持つ。生きていることとは体験することで、バラの花を観賞するのもその一つである。そのとき目に映り、においを発散しているのは、確かな体験として残る。だから「現実」は主観的に体験でき、表現できる。というか、それを「現実」と呼ぶのだ。

さてこのように分けると、私たちの体験はほとんど、というか全てが「現実」となる。いちいち鍵カッコをつけるのは面倒だが、これをせっせとつけることで「現実」は結局は主観的なものでしかない、ということを自覚し続ける、ということになるわけだ。まあ、一回目はこのくらいでいいか。

2014年5月14日水曜日

解離の治療論 (34) 欧米における解離の治療論(8)

<治療の目標>
DIDおよび解離性障害の治療目標について改めて述べるならば、それは患者さんが「統合された機能を獲得する」(ガイドライン)ということである。なぜなら「DIDの患者は日常生活に責任を分担しているアイデンティティ達からなる、一人の全体とみなされなくてはならない。」(ガイドライン) からである。ここで『機能」というとき、その範囲はかなり広い。それは他者との関係性を保ち、創造的、生産的な活動をすることを含む。そしてその機能を担う身体が単一のものでしかない場合、それに適応するのはいくつかに分かれた心のほうでしかあり得ない。これは身体運動の担い手としてそうであるばかりでなく、社会的な存在としてもそうである。そしてそのためには「患者は[自らが]別れているという感覚を持つにもかかわらず、自分は単一の人間であること、そして一般的には患者を構成するアイデンティティの一人あるいは全員によるいかなる行動についても、その人全体a whole personに責任を持つべきであることを念頭に置かなくてはならない。たとえ患者がその行動について記憶喪失があったとしても、あるいは自分がそれをコントロールしていたという実感がなくても、である。」
 「治療者は、別のアイデンティティたちはそれぞれが過去に直面した問題に対して、それに対処したりそれを克服するうえでの適応的な試みを表しているということを理解しなくてはならない。」(ガイドライン)「だから治療者は患者に特定のアイデンティティを無視したり『処分』するように促したり、特定のアイデンティティを別のそれに比べてより現実real のものとして扱うのは、治療的とは言えない。」そして「治療者は特定のアイデンティティをえり好みしたり、好ましくないアイデンティティを排除したりするべきではない。」すなわちこれはアイデンティティたちを平等に扱う、という治療原則をさす。
(ちなみに本稿ではアイデンティティという呼び方を繰り返しているが、私としては感覚的に「別人格」のほうが親しみやすい。ここは後で置き換えるかもしれない。)

ここで一つの用語を導入するならば、それは「解離のセントラルパラドックス」ともいうべき問題である。それは解離されていた心的内容、あるいは解離された心の産物product としての心的内容は、自分の一部であって、しかも他者性を有する」という事実を表す。(思い切って新しいタームを導入したが、これがどの程度有効なものかは今後使用しつつ試してみたい。)




2014年5月13日火曜日

解離の治療論 (33)欧米における解離の治療論(7)

さて夢の話でずいぶん回り道をした。というより別のところに行っていたわけだ。ようやく元の解離の文脈に戻る。と言っても誰も読んでないか。
解離の話は尽きることがないので、延々と書いていて、そのうち本にしようと思っていたら、ある由緒正しいところからの依頼論文が舞い込んできたのだった。そこでそれに向かってまとめるつもりでのこれまでの記述を再考している。それを数回行ったところで、夢の準備を急がなくてはならなくなったのだ(ナンの話だ?)
そこで過去数回を一挙に短縮して、ここに掲載する。と言いながら再推敲だ。いずれやらなければならないからね。

<欧米における解離治療論>
解離の研究に関しては、解離の国際学会がそのオピニオンリーダー的な役割を担っている。それはInternational Society for The study of Trauma and Dissociation “ISSTD” 「国際解離研究ソサエティ」と呼ばれるものである。そこが発刊している Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults, third revision (成人DIDの治療ガイドライン、第3版)という論文(ISSTDの学会誌であるthe Journal of Trauma and Dissociation のサイトで無料でダウンロードできる。 http://www.isst-d.org/downloads/2011AdultTreatmentGuidelinesSummary.pdf)が非常に参考になる。
この論文では初めにDIDの成因についての理論的な説明がある。そこには「例外を除いて幼少時のトラウマが原因である」と書いてある。解離は幼少時のトラウマに対する防衛であり、それも闘争・逃避反応のような類のものであり、精神力動的な概念である防衛とは異なる、とある。
ISSTDが欧米の多くの国が参加して行われる国際的な学会であることを考えると、解離が幼少時のトラウマにより生じるという考えはおおむねコンセンサスを得ているといえる。ただし筆者としてはやはりトラウマというよりはストレス(dissociogenic stress (解離原性ストレス、岡野、1997)と呼んだものを考える必要があるのではないかと考える。
ちなみにこの論文の冒頭では、もう一つ少し気になることが書いてある。「DIDはもともと統合されている心に生じた問題ではない。正常な心の統合がうまく行かなかったことが原因だ。そしてそれは圧倒的な体験や、養育者との関係の障害(例えばニグレクトや、問いかけに応えてくれないなど)が幼少時の臨界期に生じたことによる。その結果として心にサブシステムが形成されたのだ。」ここで「心が統合されていないうちにトラウマが起きることで、解離が生じる」、という部分が誤解を招くと考える。
 子供は小さいながらに統合された心を形成しつつある。ところが圧倒的な出来事が起きて意識の活動が頓挫する。その間に脳の別のネットワークが心の働きを代行すべく機能を開始する、ということが起きるのだろう。それが解離の始まりなのだ。問題はこのもう一つの部分の心が独自に人格を持つという現象が幼少時にしか典型的に起きないということだろう。それはなぜだろうか? 一つの可能性は幼少時には「心が成熟していないから」ということであり、それがこの「ガイドライン」の主張なのであろう。しかしそうではなく、幼少時には特殊な能力が備わっているから、と考えるべきだろうと私は思う。つまり人間の脳のIPS細胞的な性質なのである。
 この点をもうちょっと説明しよう。圧倒的な出来事が起きた時、大人でも朦朧としてしまい、トランス状態になることがある。いわゆるperi-traumatic dissociation (トラウマ周辺の解離)、という状態だ。それを仮にB状態としよう。B状態はやがてフラッシュバックのように襲ってくることになるだろう。構造的解離理論がこれをEP(情緒的な人格部分)と呼んでいるのは私も知っているし、それはうまい考えだと思う。つまりフラッシュバックした時は、体験そのものがよみがえっているというよりは、人格状態が丸ごとよみがえってくるんだよ、と言う含みだ。PTSDを解離の範疇に飲み込むような概念である。
問題はB状態がどこまで精緻化されるかということだ。精緻化sophistication とは要するに、B状態が「顔なしさん」ではなく、目鼻が書き込まれ、名前まで備わっている状態になるということだ。

 B状態にある人格に目鼻が書き込まれ、名前が与えられるというのはつまり、DIDで比較的典型的に見られるような、プロフィールのはっきりした交代人格状態にまで成長しうるということを比喩的に表現している。ではどうして子どもはB状態をそこまで精緻化できるのか?私には一つの仮説がある。それは子供の同一化の能力だ。子どもはアニメのキャラクターに「なりきる」ことが出来る。この種の「なりきり」は成人の同様のそれよりワンランク高度なものである。
 ここで類推されるのが、言語の習得のプロセスである。子どもが母国語を話し出す際は間違いなく模倣のプロセスを含むが、彼らの発音やイントネーションは完璧なそれになっていく。これはそれ以後に行われた外国語の習得とは明らかに違う。中学生になり、英語の教師の口真似をして人工的に学んでいくプロセスは単なる模倣に過ぎない。私たちが語学として学んだ外国語を操っているときの不自然な感覚、false self  の感覚はまさにそこに由来する。
 どうして子どもは自然に「なりきる」ことが出来るのか。おそらくミラーニューロンの活動の程度が極めて高いからであろう。子どもにとって最も重要なプロセスの一つは、大人の模倣をし、意思伝達を行う言語を獲得することである。その為のミラーニューロンの活性の程度は並外れているのであろう。そしてそれは思春期の到来とともに低下して行く。子どもは日本人になったうえに、外国人になる必要はあまりないわけだ。アイデンティティは取りあえず一つあればいい。それ以上あるとかえって混乱するだろう。その為にも周囲に同一化してなりきる能力はある程度抑制されていかなくてはならない。
 B状態が人格として成長する能力にも、周囲の何らかの表象を取り込み、それを自分のものとして精緻化して行くというプロセスにはミラーニューロンの活動が欠かせないのであろう。例えば母親にとって「いい子」の人格を形成するためには母親が理想の子どもとして思い描いているであろうイメージを取りこみ、同一化する能力が必要なわけだ。
ところでこう考えて行くと、同一化、なりきりの力と同様に重要になってくるのが、子どものファンタジーを抱く能力である。同一化は、いわばコピーの能力であるが、ファンタジーはそこに自分の側からの加工が加わる。少年がアニメの主人公と同一化して振舞う為には、そこに新たなストーリーを作り上げて、その中で遊ぶ必要がある。そう、ここでミラーニューロンに支えられたコピー能力と、ファンタジー能力を二つ分けておいたのを記憶しておいていただきたい。
ということで再びガイドラインに戻ろう。192ページのepidemiology(疫学) についての項目。精神科の患者のうち1~5%がDIDの診断基準を満たすという。ということは実際の人口ではこれよりかなり少ないということになるか。私はここら辺に異論はない。そしてそれらの患者の多くがDIDとは診断されていず、その原因としては、臨床家の教育が行き届いていないから、とある。大部分の臨床家は、DIDが稀で、派手でドラマティックな臨床症状を呈すると教育されているという。しかし実際のDIDの患者は、明らかに異なる人格状態を示す代わりに、解離とPTSD症状の混合という形を取り、それらは見かけ上はトラウマに関連しない症状、たとえば抑うつやパニックや物質乱用や身体症状や食行動異常などにはまり込んでいるという。そして診断はこれらのより見かけ上の診断を付けられ、それらの診断に基づいた治療がなされた際の予後はよくないという。ここら辺は事情は日本とほとんど変らないと言うことか・・・。ただし一つだけ異論あり。DIDの人で臨床上問題となる人はしばしば鬱を併発しているが、鬱の治療って大事だと思うけれど。
 さてNOS(他に分類できないもの)についてはどうか。臨床現場で出会う解離性の患者の多くはNOSの診断を受ける。ここには実際はDIDだが診断が下っていない場合と、DIDに十分になりきっていないタイプとが属するという。
 後者に関しては、複合的な解離症状を伴っていて、内的な断片化がある程度生じていたり、頻繁でない健忘が生じているものの、もうちょっとでDIDにいたっていないという場合であるという。ここら辺も特に異論はない。ただし私の感想としては、DIDの人は、人格が精緻化されるという方向にまで普通は行き着いているようである。人格の精緻化のプロセスは、いったん始まったらあとは半ば自動的に起きるプロセスといえるのではないか?
私の印象では人格の精緻化が、かなり急速に進むタイプと、一定以上は進まないタイプがあるようである。それは人格に特異的というよりは、患者さんに特異的である。例の「顔に目鼻」の比喩を用いるならば、典型的なDIDの患者さんの中で目鼻のない状態なのは黒幕さんだけで、あとはたいていかなりはっきりとした目鼻がついている。ところが解離性遁走の場合には、DIDに「併発」していない限りは目鼻がはっきりしない方のほうが多いようである。
さて施すべき心理テストはたくさん書いてある。以下頭文字のみである。SCID-D, DDIS, MID, DES, DIS-Q, SDQ-20.
さて肝心の治療論に近づいているが、こんな興味深い記載もある。
「医原性のDIDについてはかねてから活発な議論があった。しかし専門家の間ではこのことはつよく否定されている。」
DIDの症状の全体にわたって、医原性に作られたということを示すような学術論文は一つも出されていない。」
うん、心強い記載である。しかし「ただし・・・・・」と続く。
「他のいかなる精神科的な症状と同様、DIDの提示は、虚偽性障害や詐病である可能性がある。DIDをまねるような強い動因が働く場合には注意しなくてはならない。たとえば起訴されている場合、障害者年金や補償金などが絡んでいる場合。
ここに書かれているのは事実かと思うが、やはりDIDは詐病との関連が指摘されることが多いのはなぜなのか? 例えば統合失調症についての鑑別診断に、詐病や虚偽性障害が言及されるだろうか? おそらくないだろう。ところが解離性障害となるとこれが出てくる。では実際に多いのだろうか? 私の感覚では決して多くない。というより私の経験では、DIDが鑑別診断上問題となった数少ないケースは、概ね統合失調症の方である。もちろん誰かが演技をしてDIDを装うことはできるであろう。でも同様に統合失調症を、PTSDを、パニック障害を装うこともできる。それにプロフィールの複雑さを考えるとしたら、DIDを真似するより、統合失調症やPTSDやパニック障害を真似する方が容易である気がする。
 DIDを装うとした場合、ではその理由、ないしは利得はなんだろうか?これもあまり大したことはないだろう。障害者年金のことだろうか? しかし精神科医が患者の障害者年金の申請書を書く場合、「解離性障害」だけでは説得力がないことを私は知っている。なんといっても統合失調症、うつ病などが障害の重みを伝える診断名である。だからそのためにDIDを装う根拠はほとんどない。
 では犯した犯罪の責任を逃れるためか?しかし裁判で「あの人を害したのは、私の中の別の人格です」という主張が通ることは普通はないのである。裁判官に一笑に付されてしまう可能性が高い。とするとDIDが詐病と関連付けられる外的な理由は事実上ないことになる。というよりも誰が、これほど誤解と偏見の伴うDIDを好き好んで装うのだろうか?

ということで結論としていえるのは、解離性障害の性質として、詐病や虚偽性障害を疑われやすいという特徴があると考えるしかないであろう。もうその種の扱いを受けることがDIDの性質そのものなのだ。

2014年5月12日月曜日

現代における夢理論(8)

夢の創造性
私自身の立場を表明するならば、ホブソンらの理論や池谷氏の伝える夢における海馬の役割から、夢のあり方のかなりの部分は説明可能になると考える。夢は日中の体験の残滓や昔の記憶など、おそらく海馬に保存されている内容とがランダムに入れ替えられる。しかし本当にランダムかといえば、そうではないかもしれないとも考える。というのもある種の夢に関しては、その出来栄えが、単なる記憶のランダムの配列とは思えないほどのものだからだ。それが夢の創造性ということである。あたかもその配列を誰かが意図したかのような可能性が疑われさえする。
少し余談だが、私はある時、人間が作りえたメロディーの中で一番いい出来栄えのものは何かを考えていた。私にとってはそれはビートルズの「イエスタディ」だということになった。ポールの作曲によるこの曲はいったいどうして出来上がったのだろう。ところがネットで調べるとこんなことが書いてある。
日本版のウィキ(「イエスタディ」の項)を引用する。
ポールは、この曲が出来た経緯について「就寝中に夢の中でメロディが浮かび、あわててコードを探してスタジオで完成させた」と答えている。また「あまりにも自然に浮かんできたものだから、別の誰かの曲のメロディなんじゃないかと思って、みんなに聞かせて回ったけど、誰もこのメロディを知らないみたいだったから、僕のオリジナル曲だと認識した」とも述べている(後年、クラシック等によく似たメロディが発見されたというニュースもあったが関連は不明)。
問題はランダムな音階のつなぎ合わせがあれほど美しいメロディーを偶然に作りえるのか、ということだ。恐らくそうではないだろう。モーツァルトが目が覚めたときに交響曲がスコアごと頭に浮かんできた、というエピソードを聞くと、「どこかで誰かが意図的に」作っているのではないかと疑ってしまう。
しかし自然界でもよく似た議論が起きる。そもそもどうして生命は生まれたか?そのもとになったアミノ酸は、原子のカオスの中から有機物が偶然産生されるというプロセスを経ているという。まあアミノ酸くらいまではいいだろう。小石を入れた箱をゆすっていると、ところどころに小石が組み合わさった石垣のような構造が出来てもおかしくない。でも別の部分はバラバラだろう。それと同じなのだ。どこかでそろばん作りのビデオを見たことがある。立体菱形のそろばんの玉(というのかな?)を箱にバラバラに入れて、あとは串(そろばんのたまを貫く細い棒)が並んでいる串を入れていくだけ。串の先から順番に玉が入っていく。これが実にうまくいくのだ。しばらくするとそれぞれの串にたまが詰まっていく。玉がバラバラに入っている箱のカオスから構造が出来上がっていくのだ。でもその調子でDNAまで行くんやろか?
ただしここで人間の脳と自然界では、人間の脳のほうに圧倒的に分がある。大体眠っている間にも脳はしっかり意識外で働いているのである。恐らく作曲の才能のある人は、無意識でそのメロディの価値を査定しているのであろう。ポールの報酬系は、おそらくイエスタディのメロディがたまたま合成されたときに強く反応し、そのメロディが他のそれに比べて格段に強く海馬に焼き付けられたのであろう。

ところでこの創造性の過程を夢の理論の中で論じているが、創造性の問題は別にレム睡眠に限ったものではないのは当然である。ポールだって大部分の曲は、日常的に突然向こうからやってくるという形をとっているのであろう。それがたまたま夢の中でも生じるということが、創造過程が基本的に意識外で生じるということの裏付けになっているということに過ぎない。

2014年5月11日日曜日

現代における夢理論(9)

5月6日の夢のシンポジウムで出会った「夢のダーウィニズム」の概念。吾妻先生の発表にあった。そう、思考も夢もダーウィニズムである。頭の中にぱっと浮かんで急激にほかの候補者を押しのけて大きくなった夢の候補、言葉の候補。このダーウィニズムが正常に働いているおかけで、例えば私たちはレストランでメニューを選ぶのにさほど苦労しないのだ。頭の中でサイコロを振る、ということともちょっと似ているな。ロボットはこれができないから常に乱数表に頼らなくてはならないということになるだろう。しかしいったいナンの話だろう?



夢の素材がランダムであるということは、それ自身に奥深い意味を見出すことは、必ずしもできないということだ。例えば私の見る夢の中には昔住んでいた田舎の雰囲気も出てくるし、私が小さい頃の母親も出てくる。家人が出てくることもある。それは私の脳に蓄積されている記憶の中に彼らが登場する頻度がそれだけ多いから、という単純な理由かもしれないし、彼らとの交流がそれだけ情緒的なインパクトが大きかったからかもしれない。また今日の夢なぜ父親が出てこず、私がよく知る患者の顔が浮かんできたかに深い理由などないことが多いのだ。たまたまそれらがピックアップされたのである。しかしそれが極めて入りくんだストーリーラインの中に組み込まれて仕上がってくる。よくぞこんな素材でそこまで、というような緻密さや情緒的な説得力なのだ。そしてそのストーリーラインを作っているのは脳の活動である。その合成の力こそ驚くべきである。
 私が述べたこの視点と、フロイトの精神分析的な視点との違いをおわかりだろうか? フロイトは、夢が無意識的な願望などを極めて上手く包み隠すことに驚いた。そしてそこにいくつかの科学的なメカニズムを考えた。それらが(1) 圧縮の作業、(2) 移動の作業、(3 )戯曲化、(4) 理解可能にするための整理ないしは解釈、と言われるものである。そして最も重要な意味を持つのは、その素材なのである。たとえば患者の夢の中にピストルや葉巻が出てきたら、それは男性の性的な衝動という意味を持つ、などの例がわかりやすいだろう。なぜならそれが抑圧され、夢によって形を変えて表れることがその人の神経症的な病理を表すのであるから。しかし私の立場は、本来は無意識内容というよりはランダム的に与えられた素材を使ってストーリーを紡ぎあげるメカニズムこそが驚くべきであり、たとえ夢がいかに意味深長でも、その素材の持つ意味を追求することには限界があるというものだ。たとえばピストルや葉巻はひょっとしたらそれ以上の意味はない。でもそれが夢の中に織り込まれてストーリーが構築される様が驚くべきなのである。そしてその素材の選ばれ方やストーリーの展開の仕方の根本にはランダム性、カオス的な性質が横たわっているのである。
 ところでこの夢の過程に特徴的なのは、意識の受身的な性質である。私たちは夢に圧倒され、一大スペクタクルを見たような気がする。スクリーンに展開されるストーリーをただ追うだけで精いっぱいの観客の立場なのだ。そしてそれに胸打たれ、その余韻の中におかれる。ただその余韻は長くとも覚醒して5分程度までが限度である。そのうちその圧倒的な印象も、その内容の細部も霞のように消えていくのが普通だからだ。しかしともかくも私たちは夢に対して完全に受け手であり、観客の側に立たされる。それは「いいメロディーが思い浮かんだ」「いいストーリーラインを思いついた」という創造プロセスに多少なりとも見られる能動感が既になくなっている。
 ただし脳の側の自律性ということについてその精巧さを強調した後に言うのも矛盾しているようだが、その「質」については疑問である場合も少なくない。仮に特殊な機材が発明され、30分ほどのレム睡眠の間に体験したストーリーラインを完璧に再構成でき、それを映画に出来たとしよう。それを見た人の評価はきっと散々だろう。夢の話の展開は突拍子もなく、ちぐはぐでナンセンスである。その夢の内容に感動を覚える、というのはそのクオリティーの高さというよりは、それを見る脳が同時に情緒的な反応を起こしやすいという条件下にあるからだと考えられる。だから覚醒した直後はその夢の内容に感動して泣くようなことがあっても、5分ほどしてみると、ケロッとして「オレはなんであんなことに泣いていたんだろう?」ということになる。
 以上のことから一つの結論が得られはしないだろうか?意識による介助のない創造過程は十分な彫琢が得られない可能性があると言うことである。ちょうどどんなに感動的な映画でも、個々のシーンを繋げる編集の作業が欠かせないのと同じように。脳の自動的な課程は糸がランダムな長さで紡ぎ出されるだけであり、それを織って布にしていくのは意識による介入という可能性がある。
心理療法家への教訓
教訓どころか、私は心理士の皆さんによからぬ影響を与えているのかもしれない。夢に必ずしも意味はない、などと言っているからだ。来談者の夢の報告に一心に耳を傾けている臨床家にとっては全くもって失礼な話である。
 ただし私は夢というよりは心の在り方一般についてのランダム性を考えている。来談者の何気ない一言、ふるまいの一つ一つに意味を見出そうという立場を私は取らない。もちろんそれがある程度透けて見える場合には話は別である。そのような一言、ふるまいだってもちろんあり、来談者にそれを見る手助けをすることは、心理療法の醍醐味の一つである。)
 これまでも述べたように、意識的な活動は無意識=ニューラルネットワークの自律性を反映しているというところがある。それに意味が与えられるのは言葉が出てきた後、行動を起こした後というニュアンスがあるのだ。意識がその言葉や行動を、自分が自発的に行ったものと錯覚して、その理由づけ、後付けをする。
ただしここで脳のさいころの転がし方にはやはりパターンとか癖があることも無視できない。おそらく治療の一つの目標は、それを来談者と一緒に探るということかもしれない。そのためには来談者もその行動が自分のもの、という感覚をいったん捨てて、他人事のように考えるとよい。脳の観察を治療者と行うのだ。そしてそれは夢についてもいえるのである。
私が信頼する分析家の一人ドクター・ギャバードDr.Gabbardの最近の精神分析のテクストにも、夢解釈の技法についての言及がある(精神力動的精神療法-基本テキスト 岩崎学術出版社 2012)。それによれば来談者が夢について報告した際に、それに対する最も有用なアプローチは、「その夢について思いつくことを仰ってください」であるということだ。つまり夢そのものに対する来談者の思考について聞くことなく、夢の意味することを知っているかのように語るべきではないというわけである。ただしここに関しては、フォサーギ先生の夢理論に関連してすでに一種の「常識的対応」として論じてある。
以上のことから私が強調したいのは、脳科学的に夢の在り方を考えた場合、少なくともその意味を探ることが来談者の心を深堀りしていく、という単純なものではないということである。夢は脳の自律的な活動の結果であり、その成立過程にはあまりにわからないことが多い。もしかしたらフロイトが考えたように、抑圧された無意識内容が形を変えたものかもしれない。しかしそれにしてはその無意識内容の解釈の方法はあまりにも多く、おそらく治療者の数ほどの解釈が成り立ってしまう。そしてホブソンらの説が正しいのであれば、少なくとも夢の素材そのものはかなり蓋然性があり、偶発的なものらしい。すると素材そのものよりは、それをもとにして出来上がった内容にこそ無意識=脳の神秘がある。そしてその仕組みはほとんどわかっていない。
 だから夢の解釈を試みることは、例えば曲から、作品からその人の無意識を探ろうという試みに似ている。人はそれに関心があるだろうか?むしろ曲を、絵画をそのものとしてとらえ、その価値を見出すだろう。曲にしろ絵画にしろ、作者を離れて皆のものになるというところがある。作品は未知の力がその作者の脳を借りて生まれたというニュアンスがある。それのもとになった作者の無意識を探るということには人はあまり関心を示さないだろう。
 私は来談者の語る夢に意味を見出すべきではないと言っているわけではない。ただし夢はそこに隠された意味を追求するにはあまり適していないと考える。夢は脳が描いた一種の作品であり、むしろそれをどう感じるか、そこから何を連想するかなのである。その意味で夢の扱い方はロールシャッハ的と言えるだろうか?
 ある来談者が、すでに何年か前に亡くなった母親が夢に出てきたと報告する。その夢の中で彼女は母親を罵倒していたという。穏やかな関係にあった母親を罵倒している自分を夢で見て、その来談者は心配していた。「私の中に母親への怒りや憎しみがどこかにあったということでしょうか?」
 そのような夢に対する対応は、次のようにあるべきだろう。「お母さんを罵倒している夢をたまたま見てしまったんですね。その夢がどこから来たかは、あまり気にする必要はないと思いますが、そのような夢を見たあなたの反応はいかがですか?」
 それに対して彼女はこう答えるだろう。「いや、実際に私は母をそんなに責めたことなどなかったし、そうしようと思ったことも思い出せません。」 「それじゃびっくりなさったでしょうね。現実とかけ離れた夢も人は見るものです。でも夢の中であってもお母さんを罵倒したことがそこまで後ろめたいとしたら、それはどういうことでしょうね。だって親子の間の言い合いなんて、普通にありませんか?」
読者はあまりに当り前で表面的なこの対応に失望するかもしれないが、夢の生成過程がほとんどわかっていない以上このくらいの対応しかできないだろう。
 夢は意味がないとあまり強調し過ぎないように、最後に一つコメントを付け加えたい。夢の内容の中には、それがフラッシュバックの色彩を持つものがある。その場合は扱いはおのずと異なってくる。繰り返し夢に訪れる外傷的なシーンは、それ自体が過去に生じたトラウマの反映である可能性があり、その具体的な内容を扱う治療的な必然性があると考えるべきであろう。しかしその場合も、ギャバード先生の示唆の通り、その夢の内容についての来談者の反応を最初に尋ねる必要がある。その夢に対する同様や嫌悪感、恐怖などがその外傷性を間接的に示す場合が少なくないからである。