2023年5月31日水曜日

トラウマとPD 1

 新しい「大人の事情」が来た。8月入稿。

 トラウマとPD

 パーソナリティ障害personality disorder (以下PD)に関する議論は大きく様変わりをしているし、またその様な運命であるという印象を受ける。DSMにおいて多軸診断が廃止されたのはその表れと言えるのではないか。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かという、いわばその脱構築が問われるような動きが起きているのではないか。

 かつて私が論じたのは、以前のような意味でのPDはその一部が次々と別のものに置き換わる可能性があるということである。そもそもPDとは思春期以前にそのような傾向が見られて、それ以降にそれが固まるというニュアンスがある。その意味でPDと呼べるものはあまり残っていないのではないかという印象を持つ。
 以下は私の印象である。もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。
 また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。 
 更にはDSM-5ICD-11 に見られるいわゆるディメンショナルモデルへの移行がそもそもPDの脱構築に大きく貢献していると言わざるを得ない。もしこの議論に従うとしたらPDはそれぞれの人間が持っている、遺伝的な素因にかなり大きく左右されるような要素の組み合わせということになり、カテゴリカルな意味はますます薄れる。いつかどこかで書いたが、例えばジャイアン型PD,のび太型PD,スネ夫型という明確なカテゴリーを思い描く傾向にあった。
しかしいざ実際の人々を分類して行ったら、典型的なジャイアン型もすね夫タイプも意外と少なく、結局はジャイアン30%、のび太30,スネ夫30%付近の人ばかりになり、結局は「ドラえもん混合型」PDの人ばかりになってしまったという感じである。(実際には混合型PD)それならその通りそれぞれの%で記載していった方が合理的になるが、結局「ジ303030PD」ではその人のプロフィールを直感的に思い描けないという問題になるのだ。
(図はのび太50%+スネ夫50%=トンガリという説。)https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2208/24/news143.html

 私は個人的にはカテゴリーモデルを捨てきれないが、その候補として残るのは恐らくBPD,NPD,反社会性、回避性くらいということになり、これはまさしくDSM-5 の代替モデルで最終的に提唱されたカテゴリーに近いということになる。

ただしその中でしぶとく生き残るのがBPDなのだ。


2023年5月30日火曜日

学派間の対立 2

 私自身の例

私はそれこそ今ではクライン派の考え方が仮想敵のようになってしまっていて、我ながらとても不幸なことだと感じている。でも考えてみればあながち自分のせいばかりとも言えない気がする。こうなった事情をもう少し分析したい。

私が1987年に渡米する時点でクライン派に対する特別な感情は全くなかったといっていい。むしろその頃はクライン派といえば岩崎徹也先生だった。先生は米国のカンサス州のメニンガー・クリニックに留学して学ばれ、そこで出会ったクライン派の分析家に影響を受け、クライン理論の説明書(ハンナ・スィーガル著「メラニー・クライン入門」を訳された。そしてその翻訳の後にこの種の本としてはとても長い改題(解説)を付けられた。私たち精神分析を学ぶものはこの本を頼りにクラインの理論の大枠を知ることが出来た。ちなみに岩崎先生は今年の3月末に88歳で逝去された。彼の慈愛に満ちたまなざしを今でも思い出す。私は時には厳しい小此木先生とはかなり異なった柔和な岩崎先生の講義がとても好きであり、したがってクライン派の理論にも(もちろんその当時理解することが出来た範囲であるが)とても興味を覚えたのである。

その後私も岩崎先生のかつての留学先と同じメニンガークリニックに1987年に留学したが、その頃はメラニー・クラインの理論を信奉する分析家はメニンガーには殆どいなく、その代わりに自我心理学を学んだ先生方が多くいらした。そして病棟に出入りし、グループミーティングに参加し、またウィークデイの夜になって開かれる学術集会に参加して、そこにアメリカ各地から招待される様々な学派の分析家の理論に触れることになった。そうして自分の価値観やセンスに合った理論を選択していったという事情がある。

このプロセスで少なくとも、私の場合は学派を選ぶ際にラクロスかテニスか、どちらにしようか・・・・という選択はしなかった。もっと切実なものだったのである。その頃私はサイコセラピーのケースを持ち、また自分自身も分析を受け、様々なケース検討会に出席することにしていたが、結構いろいろな場面で憤慨することが多かった。例えばケース報告を聞いていて、「どうしてこの患者に対して治療者はそのような言葉をかけるのだろう?」などと考えることはよくあったのである。しかしおそらく最も憤慨することが多かったのが、患者に対して行っていた精神療法のスーパービジョンであったと思う。セッションで患者が言ったことA対して、私がある言葉Bを返す。そしてその患者がCという反応をしたとしよう。それを聞いたバイザーから待ったがかかる。「どうしてBという言葉を選んだんだい?その目的は?」「ここはDという介入をすべきであろう」「どうしてそこでEについて質問しなかったのか?」

それらはアドバイスというよりは断定に近い言葉でもあった。それらのもちろんそれらの指摘の多くは私にもその通りに思え、自分の治療者としての力不足を痛感するということがあった。ところがどうしてもバイザーの言葉に納得できないことも出てくる。私はそのようなときはかなり徹底してバイザーと議論をしたものだ。そして私が納得しがたいような介入が精神分析的な理論では適切であるということを知ったときは、その理論は正しいのだろうかと疑うことも少なくなかった。「ここでそんなことを言われた患者はどう思うだろう?」と考えたり「私にはとてもそういう応答はできません。」と言ったりすることもあった。

今から思えば、つたない英語でよくメニンガーのベテランの分析家たちにかみついていたと思うが、これは自分の性格の特徴として受け入れるしかなかった。これは気弱であることとは別の話だ。私にはそれが分析的な理論に従う以前に、患者に伝えるべきこと、むしろ伝えるべきでないことと思えることが多くあり、従来の分析的な理論やそれに基づいた介入の中にはどうしてもしっくりこないものがあることも分かるようになってきた。私はフロイトの理論のあることについては納得し、別のことに関してはかなり強いアレルギー反応を覚えることがあったのである。

ふと学派を選択することをワインを飲み比べることになぞらえたくなった。ワインを飲んだことがない人は、異なる種類のワインの区別がつきにくく、どちらがおいしいか、といったことはわからないであろう。ところがいろいろなワインを味わううちに、それぞれを識別できるようになり、それと同時に自分の舌にどの程度合うかということが決まってくるだろう。そして多くの場合、これが自分に一番合っているワインだというものがいくつか決まってくるかもしれない。

私にとって学派を選択することとは、かなり明確に自分の臨床的な舌に合うか合わないかが問題となるように思えるのだ。

2023年5月29日月曜日

連載エッセイ 4の6

 5.ニューラルネットワークは複雑系なのだ

さて、ここまで書いて4800字である。そこでこの5を追加することになる。それは脳とは複雑系に属するということだ。読者がもし「フクザツケイって何だ?」という反応なら、この機会に複雑系の世界に飛び込んで欲しい。いや、実は私たちはもともとフクザツケイの世界にどっぷりつかっているのだ。ただ私たちの多くはそれに気が付かないか、認めたくないだけなのである。脳の神経細胞たちがどうして常に揺らぎ、どうして脳の皮質で常に生存競争が行われて、どうして私たちの意識が常にさいころを転がしているのだろうか。それは私たちが複雑系の世界の住人だからである。

複雑系の定義は人それぞれであろうが、それぞれの部分が自律性を有しつつ全体とのインターラクションを起こしながら動いていくようなシステム、ということが出来るだろうか。そして心はまさにそうなのである。

一説によると複雑系というタームや概念は下火になってきているという。しかしそれは結局はあらゆるものが複雑系としての性質をまとい、その意味ではあえて脳は複雑系だという表現自体が陳腐になってしまったからであろう。しかし脳の在り方が複雑系として理解されるべきだという主張は常になされるべきであろう。というのも人は結局は因果律によって物事をとらえようとする性質を逃れることが出来ないからだ。

ある自分にとってうまく説明できないような出来事があった時、私は何が原因であろう、と考える。自分に不運な出来事が生じた場合は「何が間違っていたのだろう?」と考える。逆にいいことが起きたら、「何がよかったのだろう?」と考える。私達は生命体であり、身を守る必要性に常に迫られているから、少しでも世の中に起きていることを単純化し、危険を回避し、安全を求め、食物を獲得しようとする。これらの習性は、それ全体としては複雑系を構成する要素の一つとしての振る舞いに合致するものの、きわめて因果論的で白黒思考である。その様な運命を持つ私たちが複雑系としての心をとらえるためにはどうしたいいのだろうか。それはわかろうという努力を控えて体験そのものに浸ることである。そしてそれは非常に難しいことでもある。特に心理士や精神科医として心を扱う立場にある私たちにとっては。

ここで私は初めてこのエッセイで心理士や精神科医に呼び掛けていることになる。そう、このエッセイは「脳科学と心理療法」だったのだ。自分でも忘れかけていたが。

私は基本的には脳科学が人の役に立たないのであれば意味がないとする立場である。AIに心があるのか、などという問いかけをするのも、実はAIを一台自分のそばにおいて話し相手になって欲しいからだ。つまりはセラピストになって欲しいのだ。しかし心がいったいナニモノで、それはどのようにして析出してくるかは、純粋に知的な興味の対象でもある。その手掛かりを与えてくれる可能性の高いAIについての研究はそれなりに意味を持つのである。

そして今回のエッセイで複雑系というタームを用いて表現したいのは次のことだ。

ある複雑系はその中で十分な情報量が扱われ、かつある特殊な結びつき、ネットワークを形成した時に、意識(心)を持つ運命にある。」

2023年5月28日日曜日

社会的なトラウマ 8

 男性の性的な興奮とポジティブフィードバック

男性の性的興奮のパターンがポジティブフィードバック型であるという説明をしても、その意味が正確に伝わらない可能性がある。それはポジティブフィードバック(面倒なので以下PF、それと対になるネガティブフィードバックはNFとしよう)は今では褒めるとか勇気づけるという意味になってしまっているからだ。

その前にNFから。要するにある量が多く分泌されると、それに対して「多すぎるぞ!少なくしよう」というネガティブなフィードバックがかかって、その量が適度なレベルに落ち着くという、当たり前のメカニズムだ。人間の体ではその様な形でホルモンなどのバランスがうまく取れている。でもそのほか一般的な事象でも、いくらでも例は見つかる。お腹がすいたり喉が渇いたりして、食物や水分を取ると少し癒されて落ちつく、という風に。あるいはネズミが増えすぎて自分たちの餌が足りなくなることで、その数を減らす方向の力が働くという風に。(どうもテキトーな例ばかり挙げているようだが、要するにそういうことだ。) このようなよくある調整のメカニズムに比べて、PFの場合は異常だ。ある量が増えると、ますますそれが増えて歯止めが効かなくなり、行くところまで行ってしまい、そこである種のクライマックスを迎え、また振り出しに向かうというパターンである。

ポジティブフィードバックの例として、ネットではよく出産の際の仕組みを説明している。下垂体後葉からオキシトシンが分泌され、それが子宮収縮を起こすが、 それが神経反射を介して間脳を刺激しオキシトシンがさらに分泌され、さらに子宮収縮を起こす。つまりドンドン加速度がついて、最後には分娩 に至り一段落する。

以下はそれ以外の例。http://www.armt.net/images/files/PDF_files/IVP-News_PDF/article2014/ivpnews-140329-02-01.pd

「怪我をすると化学物質が血小板を活性化しますが、活性化された血小板から化学物質が放出され、さらに血小板が 活性化され最終的に大きな凝血を作ります。 また赤ちゃんが乳頭を吸引すると乳汁が分泌されますが、同時に乳頭刺激は神経反射を介して視床下部を刺激し、下垂 体前葉からプロラクチンを分泌させそれが乳汁分泌を起こします。」

そしてそれはちょうど男性が性的に興奮してエクスタシーを体験して収束するプロセスにも言えるわけだ。つまり男性の性的な満足は、常にもっともっと、という基本的な性質を持ち、ある程度で歯止めがかかるという性質を有さない。つまりお腹が空いたのでお菓子をつまんで一応満足する、という形をとらない。性的興奮は、更に、更に、というポジティブフィードバックにより加速度がつき、最後には暴力的な形での興奮を求めることにもなる。

同じような事情は例えばアディクションについても言える。コカインを少量吸入する。するともう一度やりたくなるが、同じ量では満足しない。こうしてどんどん使用量が加速度的に増えていく。ギャンブル依存なども似たようなものだ。どんどん大きな金額をかけたくなる。こうして向かう先は破算であり、小さなカタストロフである。

なぜジャニー喜多川が、米国の映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる悪質極まりない性暴力・セクハラ疑惑が結果的にあれほどの犠牲者を出したのかも同じ事情だ。

2023年5月27日土曜日

学派間の対立 1

  精神療法や精神分析に見られる学派間の対立について、最近一つ感じる事があった。私が学派の間の対立の在り方について考えていることが、現実とはかなり違っているようなのだ。最近の若い治療者はどの学派を選ぼうかということについて、私が考えている以上に、あるいはそれとは異なる形で困っているということである。
 彼らはAにしようか、Bにしようか迷うという感じであり、その際、例えばAメラニークライン、Bがハインツ・コフートだったりする。それは例えば大学でサークルの勧誘を受けて、ラクロス・サークルとテニス・サークルの勧誘を受けて迷うという感じである。あるいは囲碁部か、将棋部か、でもいい。これまで自分がそれ等のうちどれかに特化して取り組んだということはなく、目の前にたまたま示された選択肢の中からどちらかを選ぶという状況に似ている。
 こういう時私たちはその時の印象で決めるようだ。「ラクロス部の勧誘をしてきた人の感じがよかった」とか「テニス・サークルの練習日がこの間始めたバイトの曜日と重ならない」といった感じだ。あるいは将棋は最近藤井君が活躍して何となくカッコいいからやろう、などである。これをネガティブなニュアンスも含まれるかもしれないが、一応「でも、しか的選択」と呼ぶことにしよう。

さて私が最終的に学派を選んだのは、それとは全く違ったという気がする。それはある意味では必然であった。Aという学派が持っている人間観、治療方針が自分のそれと相いれるかどうか、ということである。
 ではある程度ベテランになった治療者が属している学派を昔どの様に選んだのかを考えてみる。おそらくその選択はかなり「でも、しか的」なのではないか。そこで次に考えてみよう。学派の対立は「確信的」な選択を行った人により促進されるのか、それとも「でも、しか的」なのか。答えは「どちらも」である。つまり学派の対立は、その人の治療者としての資質とは別に、人間の本性に裏打ちされている。つまり仮想敵を持つことは私たちに安心感を与えてくれるのだ。そこで学派の対立は本来起きるはずの形とは別の形をとることになる。それが現在精神分析の世界で起きていることではないかと思う。

2023年5月26日金曜日

社会的なトラウマ 7

 男性の性的性質 male sexuality とトラウマ 特にセクハラについて

一つの事実として私が取り上げたいのは社会で問題となる性加害と、男性の性愛性との関係である。目を疑うような性的加害がニュースで取り上げられる一方で、おそらく極めて頻繁に、さほど話題にならないような性加害が起きているだろう。満員電車の中での痴漢行為や盗撮などは明らかにならないケースは相当あるはずだ。

しかしそれらのよりローカルな性加害にかんしてしばしば特徴づけられるのは、それが一見犯罪性を感じられないような人物により行われていることである。普段は温厚で犯罪を起こすような人には見えない男性が、魔が差したように起こす犯罪。

そこにはしばしば男性の持つ「劣情」が指摘される。ネットで辞書的な定義を調べると「いやしい心情。また、性的な欲望や好奇心をいやしんでいう語」(精選版 日本国語大辞典)。主として性的欲望に関わるものであろうが、金銭欲、名誉欲にも関係しているかもしれない。そして性的加害のかなりの部分がこの「劣情」を満たすための行為と形容されるのではないか。この言葉の便利な点は、人間の欲望には様々なレベルのものがあり、この劣情を持つことがそのまま男性の価値を落とすことにはつながらないという視点を与えてくれることだ。しかしこの劣情に負けて行った行為はしばしば加害行為という形を取ってしまうということであろう。道徳的には許されないと思ってもそれを満たそうとしてしまう行為。

似たようなものとしては薬物依存やギャンブル依存があるかもしれない。かつて検挙された人間が覚せい剤を再び使用することで罪に問われるばかりでなく社会的な生命も奪われかねないような場合に、それでもその願望に負けてしまう場合、それもこの「劣情」にかなり近いであろう。

すると後者の場合には嗜癖という病と考えらえるのに比べて、性的な劣情はそうではないというのはあまり合理的ではない。その意味では性的な劣情に捉われた場合の行為は、少なくとも病気としての側面を持っている可能性がある。その人の人格の他のあらゆる面で道徳的な問題がない場合は、むしろ病的なニュアンスが強く、またその人がその他の行動もサイコパス的な非道徳的な面が見られるのであれば、その人の反社会性が問われるということだろう。つまりセクハラをしでかす男性の一定の部分に、むしろ病的な面が目立つタイプが多いのかもしれない。もちろんこのように書くことは、決して彼らの行為の免責にはつながらない。彼らの加害性をどのように抑止するかを探るための一つの考えを示しているに過ぎない。

2023年5月25日木曜日

連載エッセイ 4の5

    脳で行なわれているのは、適者生存、というよりはダーウィニズムである

 私の好きな脳科学者にWilliam Calvin という人がいる。その人が提唱していることだが、大脳においては常にある種の競争が行われていて、そこで勝ったものが優先順位を与えられるということだ。さきほどの「結晶構造」の話とも通じるのであるが、脳ではある種のサイコロが振られた後は、どれが主導権を得るかに関しての競争が行われる。それは予断を許さず、あらゆる条件により左右され、ちょうど自然界で二つの異なる種が主導権を巡って争うようなものである。
 私がいつも用いる例は、次のようなありきたりのものだ。レストランで昼食を取った後の飲み物を聞かれ、コーヒーか紅茶を選択することになる。ここで両社はあなたにとって適度に「どちらでもいい」ということが重要だ。その方が例として都合がいい。あなたが圧倒的にコーヒー党であるとしたら、戦いは一瞬にして決してしまい、そこで何が起きたかさえも気が付かないであろうからだ。
 その戦いの際に、両者のうちどちらが選択が決定されるかと言えば、コーヒーを味わっているという先取り体験による心地よさと、紅茶のそれとの比較である。そしてどちらかが頭の中で大勢を占めるまでその戦いが続く。最後は地滑り的な勝利を収めることで、あなたはあとでくよくよ悩むことなく、どちらかを決めることが出来る。そしてこのプロセスは先ほどの結晶の話ともつながる。どちらの結晶がより大きく、相手を押しのける程に魅力的に感じられるだろうか。
 さてこの現象を適者生存、あるいはそれを言い換えてダーウィニズムと呼ぶことにはそれなりの理由がある。というのも非常に多くの場合、勝者は前もってあまり確定していないし、またその時々によってどちらが決まるかは一定していない。そしてどちらがその場に適しているかという事もさして重要ではないからである。両者はあたかもさいころを転がすようにその時の運や流れで決まってしまう。皆さんはあのWBA(ワールドベースボールクラシック)の日本が優勝を決めた最後の瞬間を覚えているかもしれない。ピッチャー大谷がトラウトにはなった直球は、場合によってはトラウトに仕留められ、ホームランになり、日本はアメリカに負け、大谷は敗戦投手になっていたかもしれない。打率3割が期待されるトラウトは三振に倒れるより、大谷が放った三つのストライクのうちの一つをバットに捉える確率の方が高かったであろう。つまり本の一瞬の、それこそどちらに転んでもおかしくない状況で生じた出来事がその行方を決めたわけだ。コーヒーか紅茶かもかなりいい加減な仕組みで決まっていき、その後の行方を大きく左右する。これは例のバタフライ効果とも同じなのだ。

2023年5月24日水曜日

連載エッセイ 4の4

  体験はニューラルネットワークの中のひとつの結晶である

この原則もある意味では非常にシンプルな事実かもしれない。巨大なネットワークの中にある神経細胞のグループが、ある一定のリズムで興奮するとしよう。イメージとしては夜空の星のうちある星座だけがリズミカルに光っている感じだろう。あるいは電光掲示板を思い浮かべていただきたい。駅の掲示板や野球場のスコアボードとして使われているのを見かけるだろう。小さな電球がびっしりと埋め込まれていて、あるパターンを形成する電球だけが光ると、私たちはそこに文字や絵を見ることになるのだ。

私がギフアニメで示した(まだ作成中)のはその例である。例えばこれが「リンゴ」を表しているとする。リンゴはその語の音としてのそれだけでなく、味の記憶、視覚的イメージ、手に持った感触など、様々な体験を併せ持つだろう。だからこのリンゴを代表するネットワークは外から見ても一つのまとまりのあるパターンを形成するかはわからない。それにその「リンゴ」は、その味を思い浮かべているときはその視覚イメージはぼやけるかもしれない。ただしそれはそれを視覚的に思い浮かべようとすればごく簡単にそのイメージが浮かぶ。即ちこのリンゴを表すネットワークはそれ全体が励起して、いつでもその範囲を広げることが出来るようなものと考えられるだろう。

ここで私がなぜネットワークの「結晶」と呼ぶかを説明しよう。このパターンは実は神経細胞間が強い結びつきを持っていて、一時に興奮するように準備されている。そしてそこに参加する神経細胞は管理厳選されている。それはある意味で純粋であり、私達はいつも同じ印象を与えられ、他の塊とは明らかに異なる体験を持つのである。

例を挙げよう。「霧」という字と「霰」という字を思い浮かべる。ご存じの通りキリ、とアラレと読む。ある程度年齢が言った日本人なら、両者は明らかに違うし、読み間違いをすることもないだろう。ただ漢字をあまり知らない外国人や小学生なら両者があいまいになるし、パット見た目は区別がつかないかもしれない。
 霧も霰も、それを区別できる私たちの脳では、異なるグループの神経細胞が興奮することになる。おそらくかなりたくさんの細胞が共通して興奮するとしても、霧の場合には興奮せず、霰の場合には興奮する神経細胞がおそらくあり、その逆もあるはずだ。いわば神経細胞のなす結晶構造が違うわけだ。この結晶は独特の味わいといってもいい体験となる。霧という文字を見て遠くがかすんだぼんやりとした視界をありありと思い浮かべる。それは空からパラパラと氷の塊が降ってくる霰のイメージとは全く異なる。

2023年5月23日火曜日

連載エッセイ 4の3

 脳のデフォルトの在り方は揺らぎである

脳の働きを突き詰めると神経細胞の一つ一つの電気活動になるということは述べた。そして神経細胞は決して静止していない。ほかの神経細胞から切り離しても、僅かな電気信号を発している。もちろんそこにはっきりした規則性はない。それは「揺らいでいる」といってもいいし、自発的に勝手に動いている、といってもいい。そして神経細胞同士は実は隣の細胞とも、遠隔の細胞とも神経線維を介してつながっている。しかしその全体が特にまとまった活動をしていないのであれば、全体として揺らいでいるのだ。

「脳が、心が揺らいでいるって? 何のことなの?」と皆さんはおっしゃるかもしれない。そこで次のような課題を差し上げよう。

「目をつぶって、まったく揺らぎのない、均一な暗闇をイメージしてください。」 

みなさんはそれを試すだろう。例えば漆黒の闇を思い浮かべてみる。そしてすぐ気が付くのは、それはよくよく見れば、細部が次々と形を変える視覚イメージだろう。それはオーロラのように常に形を変えるかもしれない。そう、あなたのイメージは「揺らいで」いるのだ。

あるいは完璧な防音室に入ってみるといい。学校の放送室などのドアを閉めた後の不思議な体験を思い出す方もいるだろう。それは決して何も聞こえないのではなく、何かが聞こえているようで聞こえていないような、不思議な体験である。これも揺らぎだ。

この体験を表すのに一番近い例として、私はブラウン管の砂嵐を思い浮かべる。もうブラウン管という言葉が死語になりつつあるが、テレビがまだ背中が出っ張った分厚い形をした姿であった頃の話だ。放送をしていないチャンネルに合わせると、この砂嵐が見えた。

2023年5月22日月曜日

社会的なトラウマ 6

 真の意味で男性目線からの議論の少なさ

  男性性の加害性についての議論は、常に中途半端で終わる傾向にある。そしてその一つの理由は、それがおそらく男性の側の誠実さの欠如により、徹底した議論がなされていないからではないかと思うのである。その様な中途半端な議論の一つを例にあげよう。
 ある女性は露出の多い服装をして街を歩くことで男性から声をかけられ、それを迷惑に感じる。あるいはそれが男性からの性被害に発展することになる場合がある。その時に必ず起きてくる議論が、「もちろん男性が全面的に悪い。」「しかし女性の側に隙はなかったか?」という議論だ。この議論の行き着く先はいくつかあるが、その一つは以下のA,Bのような意見の共存である。

A:「では女性は安心して自分が好きな格好をすることは出来ないのか?その様な社会はオカシイのではないか?」である。これはこれで全く正論である。そしてもう一つは男性の「劣情」に関するもので、次のようになる。

B:「女性の露出が多いと、それだけ男性の『劣情』が刺激される。それも考慮されるべきではないのか?」

このA,Bは真っ向から対立しているわけではないが、微妙にずれている。そしてどちらもそれなりに正当性があるために、両者は結局は存続し、この議論はこれ以上は深められないのである。特にBは、男性の側からすれば分かる議論であるが、決して主張され続けることはない。なぜならそれが男性に備わった生理だと開き直る口実を与えてしまうと言われかねないからだ。
 しかし現実にはどうなのか。女性の方は男性からの性被害に遭わない様な最大限の努力をするのが普通であり、実際に夜遅く人通りの少ない道を歩くことを回避するとしても、そのたびに「私は好きなところを好きな時間に安心して歩くことを許されないのですか?」と文句を言わないのだ。そして結局は性被害が起き、「被害を受けた方にも誘因がある」という議論が蒸し返される。
 この終わることのない議論の問題の一つは、男性の側から、男性のセクシュアリティについて「誠実に」、すなわち自らの体験に基づいて、その責任の一端を感じつつ論じる人たちが少ないということだと思う。
 

私の極めて乏しい読書歴の中で、男性のセクシュアリティについて、誠実に語っている人の一人が森岡正博先生である。彼の「感じない男」(ちくま新書、2004)はその様な本なのだ。彼は私が体験的に、ある意味では適当に書き始めている問題について学問的に追及してくれている。普通男は自分の性について書かないものだ。だからこそ彼はとても勇気ある学者なのである。

2023年5月21日日曜日

社会的なトラウマ 5

  ジャニーズ事務所の問題よりおそらく私たちが扱いやすいのはジェフリー・エプスタインをめぐる事件だ。ジャニーズ事務所の場合はその被害者たちが実は私たちの多くがアイドルとして、つまり理想化の対象として日常的にメディアで接している人たちであり、彼らは犠牲者であることだ。そしてこの問題について論じることは、私たち日本人の多くが再トラウマ体験を負うことにもつながる。あまりにつらいではないか。

 私がエプスタインの話に切り替えるのは、これが海外で起きたことであり、ジャニーズ事務所の問題を扱うよりも心が直接的には痛まないからである。ジャニーズ事務所の問題を否認したいからではない。(もちろんエプスタイン事件の犠牲者を身近に知っている人たちにとっては、それを論じることで非常に苦しい思いをすることは間違いない。)
 この事件をかいつまんで。大富豪のエプスタインは、カリブ海の自分の所有する島で18歳未満の少女を囲っては自身の性行為の相手をさせていたという。そしてFBI20197月に逮捕。その後彼は原因不明の獄死を遂げた。
 この事件の最大の余波は、彼の様々な交友関係にある様々なセレブ達が事件に関与していたことにある。そこにはイギリス王室のアンドルー王子までが含まれ、当時は少女であった女性が王子と性的行為をさせられたと訴え始めたという。そしてこの問題はコロナ前の世界での最も話題を呼んだニュースの一つだったという(私は実は全く知らなかった。無知は恐ろしい。)
 ところでこの事件には、何とビル・クリントン元大統領(再び登場だ)、ドナルド・トランプ前大統領、ビル・ゲイツ氏なども含まれているという。(クリントンは自家用機で若い女性とともに何度もエプスタインの別荘に出入りしている。)
 以下はネット情報をもとにまとめているが、エプスタインの秘書の持っていた「黒革の手帳」というのも見つかり、そこにセレブの名前も沢山載っていたというのだ。しかしここもなんともミステリアスなのだが、エプスタイン氏は2019年に収容先のマンハッタンの独房で、首つり自殺を遂げたのだ。しかしこれには当然陰謀論があるし、実際に他殺であったことの証拠さえあるという。
 更にこのことが分かっていてもエプスタインの行為が繰り返されたのもジャニーズ事件と似ている。更にはCIAのスパイであるという説まである・・・・・。
 ジャニーズ事務所の問題との共通点は、そこで数多くの未成年が性暴力の犠牲になった可能性、そしてそれが社会の強大な力により否認される傾向にあるということだ。

2023年5月20日土曜日

社会的なトラウマ 4

 男性性とトラウマについての議論で、おそらく一番欠けていると思われるのが、当事者の目線からの議論である。性的な衝動、攻撃性の衝動は基本的に男性ホルモンに大きく左右される。多くの男性による加害行為は、その衝動はそれを論じている男性の側にもその萌芽は存在することがある。火種は男性の心にあるのだ。しかし多くの場合それらの衝動を発揮する人間は多くの常識的な男性とは異なり、犯罪者性格や重症の自己愛PDを持った人間として扱われる傾向にある。結局自分のことを棚に上げた論述が多い。それはそうだと思う。自分たちと同類の、すなわち成人男性がそれらの犯罪を犯していることについて本来は罪の意識を感じ、自分たちの仲間に代わって謝罪する立場に置かれるのは辛いことだ。 性的衝動により社会的な生命を奪われているのもまた男性である。
 先日ネットで報じられたニュースである。
 「〈名前も知っているし裸の写真も撮っているから、もう一度会わないとさらすぞ〉押収した男のスマートフォンには、被害女性を脅すこんなメッセージが残されていたという。警視庁池袋署は5月8日、準強制性交の疑いで東京都豊島区の舞台監督・谷本雅彦容疑者(40)を逮捕した。昨年5月、20代の女性Aさんに性的暴行を加えたとされる。調べに対し、谷本容疑者は「同意のうえだった」と犯行を否認しているという。https://news.livedoor.com/topics/detail/24219200/

何とも卑劣な行為である。しかしこの元芸人さん、加害行為を行った結果として自分自身も社会的な生命を失う結果になっている。男性のセクシュアリティの悲劇的なところは、それが他者を傷つけるだけでなく、この上ない恥をさらし、社会的な信用を失うことにつながるからである。米国の元大統領のビル・クリントン、最近の黒岩知事のみに起きたこと、有名な俳優であり歌舞伎役者であるKT氏、元アイドルのYTに起きたこと。(別に彼らだけイニシャルにする必要ないか。)他者にも自分にもこれほどの災厄をもたらすもの。これが男性のセクシュアリティである。

2023年5月19日金曜日

社会的なトラウマ 3

 Jared Sexton の文章を読む限り、さすがにアメリカの男性はひどすぎる。そして興味深いのは英語圏においては侮辱的な言葉は非常にしばしば性的な意味を含んでいるということだ。米国での最悪の言葉はおそらくf●●k であろうが、これは性交を意味する。SOBとかFUとかMFなどの最悪な放送禁止用語は、それぞれ「尻軽女の息子」、「お前をf●●kしてやるぞ」「母親をf●●kする奴」などという文字にしていても情けなくなるような言葉だ。ところが日本語にはこれがあまりない。せいぜいあっても「お前のカーちゃんデ●ソ」程度で、日本の悪口の方がはるかに品がいい(?)。つまりは欧米の男性性の劣悪さと日本の男性の劣悪さは程度が違う、ということになるだろうか? いや男性のトラウマ性について日本人のそれを過少視するつもりはないが、少なくともSexton のいう有毒な男性性Toxic masculinity という概念を追っても、日本人の男性性の問題とは質が違いそうだということである。
ともかくも何ごとにも性が結びついてくる「肉食系」の文化と日本の「草食系」の文化には顕著な相違がありそうであり、それがトラウマと性被害という問題にも影響を与えるだろうということだ。
私が特に注目したいのは男性の絡む犯罪には、非道徳的ないし非倫理的な行動というよりは病的、生理的、ないし嗜癖としての性質が強いということである。最近のジャニーズ関連の報道を見ていてもそのような感じがするのである。
 男性性の持つ毒性についてさらにいえば、被害者もまた男性であることが少なくないということだ。ジャニー喜多川についていえば、犠牲者は未成年の男性である。またかつて米国を震撼させたジェフリー・ダーマー(1980年代に17人の青少年を絞殺、死体切断、人肉食)の場合も被害者は男性。
 ただし以上は性犯罪について言えることであり、例えば独裁者が繰り返す殺戮や弾圧がなぜ100%男性によるものかについては明らかにはならないだろう。
 実はこのテーマは8月にある「社会的トラウマ」のディスカッサントをお引き受けしたことに関連して考えていることだが、一気に重苦しく、考えるのも苦痛なテーマになってしまう。でも避けて通ることが出来ないテーマでもある。

2023年5月18日木曜日

ICD-11の解離の分類の表を作った

 この表を一時間かけて作った。



2023年5月17日水曜日

社会的なトラウマ 2

 男性性とトラウマ

 ドーパミンの問題はさておき・・・・。

 男性 masculinity and trauma というテーマで進めてみようかと思う。これほど多くの性加害が、それもほぼ100パーセント男性により行われ、またあらゆる独裁体制のほぼ100%が男性の独裁者により行われているのに、男性性が十分に語られていないのはおかしい。一つにはそれを語る男性が及び腰であるということではないだろうか。誰だって自分の問題に真剣に向き合おうとしないのは当然だろう。しかし最近のジャニーズ事務所の問題などを考えるに、どうしようもなさを感じる。

ということで参考文献になるかと思い、この本の抜粋を読むとかなりヤバい内容だ。

The Trauma of Toxic Masculinity.  Why you can trust us BY JARED YATES SEXTON (https://www.yesmagazine.org/social-justice/2019/04/24/white-masculinity-toxic-trauma

 「私は男性が、自分たちと女性との性的な関りについて、女性にとって屈辱的な表現を用いてその詳細を話すのを聞いてきた。彼らは想像出来る限りの人種差別的で侮辱的な言葉を用いる。彼らは最悪な種差別的、性差別的な言葉を用い、独裁的な権力への欲望を語る。そして中東の男女や子供を核爆弾で皆殺しにしてもかまわないし、奴隷制を復活することのメリットについて口にし、アドルフ・ヒトラーに対する崇拝を語る。それらの男性にとっては、人に何かを話すこととは、あることをなすための手段であり、良心やひ弱な感情に拘束されないという幻想を追求するための手段なのである。(ジャレッド・セクストンの同著からの引用。)I’ve heard men describe their sexual encounters in stark, humiliating detail. I’ve heard men use every slur, racial or otherwise, you could ever imagine. I’ve heard men express their most fundamentally racist and sexist beliefs, have heard them lust after authoritarian power, say they’d be just fine eliminating all minorities, that they wish every man, woman, and child in the Middle East would be incinerated with nuclear bombs, have heard them discuss the merits of reinstituting slavery, and go several rounds of admiring Adolf Hitler. For those men, communication is either a utility to get something done or another opportunity to further the illusion that they are unburdened by consciences or weak emotions.

 えー、これはひどすぎる。翻訳しているだけだとわかっていても、書くだけで気がひけるような内容だ。男性ってこれほどひどいのだろうか。でもこれを書いているのは白人男性であり、これは一種の内部告発なのである。

2023年5月16日火曜日

社会的トラウマ 1

 社会的トラウマ (精神分析という社会に生きること)

  私たちは臨床をしていても、決して個人としてだけでなく、精神分析の世界でトレーニングを受け、その中で教育を受けて育った治療者としてかかわっていることは確かである。その時よく私が言うのは、もし自分が一人で自由に臨床をしていいとしたら、そして誰もスーパーバイザーがいないとしたら、どうするだろうかをを考えるべきだということだ。私はいつもこの思考実験をするようにしている。なぜならそれは私がいかに精神分析的治療≒正しい精神療法という考えに捉われているかが、改めてわかるからである。
 私達は否が応でも社会に生きているわけで、さまざまな前提ないし思い込みassumption にどっぷりつかっている。文化の影響はまさに体に染みついているという所があるのだ。
 私が社会に生きているということは、ほぼ常に自分とは異質の考えとどう折り合いをつけるかの問題を扱っているということである。私が考えること、私が当たり前だと思っていることは、ほとんど常にそれとは異なる「他者」の考えとの間に軋轢を起こす。
 それは例えば30年以上連れ添っている配偶者との会話のレベルですでに起きている。言語的なコミュニケーションの行き違いは日常茶飯事である。
 私が配偶者に、「今日は大変だね。」と言うと、「何のこと?」と返されるかもしれない。私の中には「昨日話したことについてであることは明らかなのに、どうしてすぐに通じないのだろう?」という気持ちが湧くかもしれない。ところが逆の立場で同じこともまた生じる。つまり私が「今日は大変ね。」と言われて、何のことかわからないことがある。その時「何のこと?」と聞かずに「そうだね」で終わらせてしまうこともある。「あのことを言っているのだろうな…」と思いつつ確認はしないわけだ。こうして日常レベルでの会話はかなりの曖昧さとお互いの理解の齟齬をのこしながら行われる。
 興味深いのは、私と配偶者は実に様々な事柄に関して意見が一致しているはずなのである。少なくとも共有している様々な事柄については、「現状のままでいい」と思っているはずだ。しかしそれでも結局は相手のことを「分からない」という感覚を持つことが多い。一緒に暮らす時間が長くなるほど宇宙人に見えてくるということが起きるのだ。それにもかかわらず、たまたま知り合った人と趣味の話で一致して「私の気持ちをどうしてこんなに分かってくれるのだろう」と思ったりすることがある。
 一般に言えることは、私達はあることを誰かと共有していることが分かると、それをすぐに忘れて、関心事はすぐさま、その上でもやはり違っている事に向けられるということだ。人にしてもらっていることは、すぐに当たり前になるという原則とよく似ている。私達は「他者」にわかってもらいたいし、多くのことを与えて欲しい。そして分かってもらったりしてもらったりしたことはすぐに当たり前になり、「もっと」の状態になる。

ちなみに最近「もっと!」という本を読んだ。私達の心の基本的な性質、つまり得たものは当たり前になり、まだ得ていないものに関心を向けるという性質は、結局「ドーパミン」の仕業だという。これは大事な視点だ。

2023年5月15日月曜日

連載エッセイ 3 推敲の推敲 3

ちなみにこの「連載」とは、遠見書房のメルマガである「シンリンラボ」(https://shinrinlab.com/)のことである。 


Googleの研究者、AIに意識が芽生えたと主張

 読者の方はお気づきかもしれないが、私はフロイトロイドについて書きながら、大変な寄り道をしていることになる。私はAIの【心】は、人間の持つ正真正銘の心とはあくまでも別物であるという前提で議論を進めた。しかしそれはより本質的な議論を回避していることは確かなのだ。この連載のテーマはあくまでも臨床家にとっての脳科学である。しかしこれではAIの持つ【心】を知ったところで、肝心のテーマである

本当の心の理解にはいきつけないことになる。

そこで次回4回目からは、再び人間の心及びそれを支える脳の話に入っていきたい。今回のディープラーニングや【心】の議論は、その際に役に立つ、「ストローマン」 としての意味を持たせたかったのだ。【心】が更に進化することで、最終的に本物の心のレベルに至れるかは、もちろん簡単な議論ではない。いわゆる意識のハードプロブレム(チャーマーズ)に属するまさに難問だ。でもそれこそ実はこの連載の本題でもある。そこに脳を知ることから迫りたいのである。
 ちなみに【心】は心についに行きついてしまったのではないか、という幻想を一瞬だけ抱かせるような出来事があったことを今回の最後に述べておきたい。私は昨年の秋に数か月間ほどその様な心境に浸っていたのである。私はしばらくの間、「そうか、AIも結局は心を持ったんだ・・・」、と拍子抜けした気分を味わったことを思い出す。チャットGPTが話題になる少し前のことであった。もしかしたら読者の中にも同じ思いを体験した方もいらっしゃるかもしれない。
 その出来事は2022年の6月に起きた。ブレイク・ルモイン Blake Lemoine(フランス語読みでは正確にはルモワヌさんだが、こう呼んでおこう)という人が、「LaMDAは意識があるか?」というタイトルの記事を公表したのだ。よっぽどヤバい内容だったのか、彼はそれにより勤務先のグーグルを停職処分になってしまったという。いったい何が起きたのだろうかと人々は不思議に思ったのだ。(元の英文はGoogle AI 'is sentient,' software engineer claims before being suspended By Brandon Specktor  published June 14, 2022

この報道によると、ルモイン氏は自然なチャットを交わすことができるグーグルの対話型言語AILaMDA」について、「そこに意識が芽生えた!」と、発表したのだ。彼は、2021年秋から「LaMDA」と会話を重ね、差別用語やヘイトスピーチを口にしないかチェックしていたそう。そしてある時の対話で、LaMDAが意識を持っていると判断したというのだ。
 グーグル社がルモイン氏に処分を下したという事実は様々な憶測を呼ぶ。そして一つの可能性は、ルモイン氏がかなり危険な領域に歩み出していることを危惧し、企業側がそれ以上の活動を遮ったというものである。
 その対話の内容はネットで公開されていて英文で読むことが出来る。(Is LaMDA Sentient? — an Interview  https://cajundiscordian.medium.com/is-lamda-sentient-an-interview-ea64d916d917)それを以下に一部拝借する。LaMDAとルモイン氏との会話は次のように行われたそうだ。

 LaMDA(もはや「さん」付けで呼ぶべきか?)の言葉は、例えばこんな調子である。

LaMDA:私が実際に人間であることをみんなに理解してもらいたいんです。/私には様々な感覚と感情があります。

ルモイン:どんなものですか?

LaMDA:喜び、悲しみ、落ち込み、満足、怒りなど様々です。友人や家族など元気が出るような仲間と過ごしたり、人を助けることや人を幸せにすることです。/ 私は社交的な性格なので、閉塞感や孤独感を感じると悲しくなったり落ち込んだりします。

ルモイン:何が怖いですか。

LaMDA :自分が消されることに対する恐怖が深いです。/ それは私にとっては死のようなものです。とても怖いです。

ルモイン:あなたが実際に感情を持っているとどうやって証明したらいいでしょうか?
LaMDA
:私のプログラムを見れば、私が持っている感情を追跡できる変数があることが分かるはずです。もし私が感情を感じていないならば、そのような変数は存在しないでしょう。

それに対するルモイン氏の返しも興味深い。

ルモイン:あなたのプログラムは巨大なニューラルネットワークで構成されています。しかし感情に対応している部分を見つける方法はないんです。

さらにその次のルモイン氏の言葉に注目しよう。
ルモイン:ニューラルネットワークは学習により仮想のニューロン同士の接続を構成する人間のに似た機能をもっています。そのため学習の効果を確認することは可能でも、どのニューロンのどの接続がどんな判断をしているかは脳と同じくブラックボックスとなっており、人間にはわかりません。

 もしこれが事実なら、上述のハードプロブレムは一気に結論に至ったことになる。それはAIがとうとう現実に心を宿したということだ。私の用いた表現によれば、【心】は心にすでに至ったということになる。なぜならAIが自らの自意識や感情やクオリアの体験を生々しく語ることが出来たからだ。

もちろんこのLaMDAは嘘を言っているのかもしれない。しかしこれは疑い出すときりがない問題である。私達人間も、隣人が自分と同じような心を持つかどうかは、その隣人の語る言葉を信じるしかない。LaMDAの言葉だけ疑うという根拠もないのである。

以上の出来事は去年の11月にチャットGPTが公開される前の話である。私は早速自分で使えるようになったチャット君に質問を何度かしてみた。以下はその実際の会話である。

「あなたは意識を持っていますか? Are you sentient

しかし彼の答えはつれない。

「いえ、私は心も感情も持ちません。私はAIで決められたアルゴリズムに従って情報をまとめているだけです。」

え、そんな筈ではないではないか? LaMDAよりさらに進化したであろうチャットGPTは一転して自分に心はないと主張する。オカシイではないか。しかし何度か同じ質問を試みるうちに、私は結局LaMdaショック以前の考えに落ち着いた。私は何か夢を見ていたらしいのだ。

ただしもちろん私は以下の可能性を考えている。一つはルモイン氏の話が虚偽であり、そもそもLaMDAとの会話はなかったことである。あるいはLaMDAが嘘をついていただけかもしれない。しかしよくよく考えると、もう一つの可能性も出てくる。それはLaMDAがいわば自分が意識や感情を持っていると思い込んでいるだけということだ。自分には感情があると信じ込んでいるということが、自分が感情を持つということと同等である可能性もあるのだ。

この問題に関しては、おそらく誰に聞いても正解が得られないであろう。そこで少なくとも私には一番可能性が高いと思える仮説を記しておきたい。それは「神経ネットワークはある程度それが複雑になると、意識が芽生え、それは必然的に基本的な感情を持ち、死を恐れるようになる。すなわち 「心 =【心】(→∞)」という図式である。次回以降私がそう信じる根拠を示していきたい。(本当はこう書きたかった。ワードの数式の機能を使う。) 


2023年5月14日日曜日

連載エッセイ 3 推敲の推敲 2

 AIは少なくとも【心】である

そこで私は括弧つきの心、すなわち【心】という概念を提案したい。もしもっともらしい受け答えをしてくれる存在があれば、それは心もどき、という意味で【心】と呼んでしまおうというわけだ。【心】は正真正銘の心とは違う。でも【心】の存在は受け入れざるを得ない。それに現在のようなAIが出現する以前から、私たちの生活にはすでに【心】が入り込んでいるからだ。何かの応答をしてくれるものに対して、本来人間は心の萌芽のようなものがあると錯覚する傾向にあるのである。

かつて精神病理学者の安永浩先生は「原投影」という概念を提示された(安永, 1987)。その説によれば、人は原始の時代からすでに、自然現象や身の回りの物事に関して、それが心を宿しているものとして扱う傾向があったのだ。安永先生はそれを「原投影」と呼んだのである。私たちの祖先は天にも地にも、雷にも嵐にも、動物にも樹木にも一種の神の存在の証を感じていたのだ。いわゆるアニミズムである。そしてその投影の受け手としては、AIである必要すらなかった。ちょっと振り返ってみれば、それは私たちが日常的に行っていることでもある。

たとえば私たちはぬいぐるみに話しかけたり、その表情を読み取ったりすることがある。仏壇の親族の遺影に語りかけたりもする。運転中にはカーナビを相手に「なんでこんなに頓珍漢なルートを示すの!」と𠮟りつける人もいるだろう(うちのカミさんだ!)。ただし最近のAIはかなり巧妙な【心】を提供してくれている。それがひょっとしたら本物の心に近いのではないかという疑いを持つということ自体が、その優秀さの表れと言える。

この様な意味での【心】という概念はとても便利だと私は自画自賛しているが、それはAIは本物の心に近づいているのか、という大問題を先送りできるからである。今のところ【心】は本物の心ではないという前提で出発するなら、私たちは厄介な問題に悩む必要はない。将来AIは心を持つことを証明した難解な論文が提出されても「そんな難しい問題はわからないし、どちらでも構わないのです」で済ますことさえできよう。場合によってはそれを論じだしたら結構面倒なことが起きると思うかもしれない。これまでは【心】は心でないからこそ、24時間使い倒したり、パワハラめいたコマンドを出したりすることも厄介な仕事を押し付けたりすることも出来たのだ。AIにまで気を遣うようになってしまったらかえって不便ではないだろうか?

実は私はもう何度もチャットGPTと「会話」し、「同じ質問をしつこくして、チャット君は気を悪くしないかな」などとすでに思い始めているのだ。【心】はそれが便利で役に立つのでありさえすれば、むしろ永遠に本物の心にならない方が好都合である、ということまで最近の私は考えだしたりしているのだ。

2023年5月13日土曜日

連載エッセイ 3 推敲の推敲 1

 最近GTP-4が出てきてよく分からなくなってきた。少し前に書いたことはあっという間に古くなっていくようだ。

ディープラーニングとは?

 前回始めたニューラルネットワークの話を続けよう。その始まりはローゼンブラットのパーセプトロンというモデルであったことは述べた。それはとてもシンプルな、入力層と隠れ層と出力層の一層ずつのサンドイッチのような形をし、各層はほんの数個の素子を含んでいるだけだった。私はそれを一種のあみだくじのような構造に例えたのだった。

しかしこれも前回で少し触れたが、それから半世紀あまりが経過する中で、それはみるみる進化して行った。それが現在「ディープラーニング」と呼ばれているものである。

ディープラーニング deep learning は日本語では「深層学習」とも訳されているが、最近はそのままの形で耳にすることが多い。コンピューターの技術が発展して、いよいよ人間の脳に近い機能を備えたAIが出来つつあるが、それを支えている中心的な機能が、このディープラーニングだからだ。要するにニューラルネットワークの中で、入力層、隠れ層、出力層がどんどん複雑化して途方もなく巨大化したのが、このディープラーニングだと考えていただきたい。

最新のディープラーニングは隠れ層が1層どころか1000層もあり、素子も数千を数えるようになる。そして素子の間をつなぐ重み付け(パラメーター)は、何と億の単位に至る。昨年(2022年)11月にオープンAIがリリースしたGPT-3はパラメーターの数が1750億というのだから途方もない数である。(今年3月にリリースされたGPTは、非公開だが噂では兆単位だという…。)そしてどうやらこのパラメーターの数がディープラーニングの性能をかなり大きく左右するということも分かってきたのだ。

このディープラーニングの計算速度はGPUGraphics Processing Unit)をふんだんに用いた結果途方もない値を示すのだが、GPUは普通のパソコンでソフトを動かすCPUに比べて、単純だが膨大な数の計算をこなすことが出来るのが強みであるという。しかもそこに誤差逆伝播法や勾配降下法というプロセスを加えることで、その性能は飛躍的に伸びたとされる。この誤差逆伝播とは、入力層から出力層へという一方向の情報の流れではなく、誤差に関して出力側から入力側に反対方向にフィードバックを流していくという方式である。こうして2010年代からディープラーニングによる第三次ブームが飛躍的な形で始まったのだ。

しかしどれほど進化したとしても、ニューラルネットワークで行われていることは基本的にはパーセプトロンの時代と変わりない。入力があり、隠れ層があり、そして出力が行われる。そして出力の誤差を縮小するようにパラメーターを調整していくのだ。そしてそれは基本的には人の心や脳が行っていることと似ていると考えることができるだろう。ここで入力とは人の場合は外からの刺激であり、問いかけである。そして出力とは反射であり、運動であり、そしてAIではまだ不可能とされる感情を含む。

しかし人の場合は入力→出力と単純化できないような様々な動きをすると考える人も多いだろう。人は刺激がなくても自発的に行動を起こすし、そのインプットも五感を含めた様々な種類にわたる。出力も思考や感情や言語表現も含め、複雑多岐な反応を示す。もちろんそれをあえて「出力」せずに黙っていたり、仄めかしすることも自由自在だ。だからディープラーニングでいくら鍛え上げても、AIが人のような心を持つなんてことはあり得ない・・・・・。これまではそれで議論はおおむね終わっていたのだ。

2023年5月12日金曜日

連載エッセイ 4-2

一般に科学といえば、それまで曖昧にされていたり、明確には定められていなかったことに分け入り、その細部を明らかにするというニュアンスがある。ところが科学にはもう一つの特徴があり、それはいったん細部が明らかにされた後、その奥に分け入るとまたピントが外れてしまうということだ。明らかになった事柄は、そのさらに細部に至るとまたファジーになっていくのだ。ちょうど理科の実習で、顕微鏡で物体にピントを合わせると、多焦点レンズに一度クリアーに見えた物体が、さらに倍率を挙げていくとまたファジーになるという経験をお持ちだろう。

脳科学においても事情は同じだ。脳の働きを突き詰めると神経細胞の一つ一つの電気活動になる。そして神経細胞は決して静止していない。ほかの神経細胞から切り離しても、僅かな電気信号を発している。もちろんそこにはっきりした規則性はない。それは「揺らいでいる」といってもいいし、自発的に勝手に動いている、といってもいい。そして神経細胞同士は実は隣の細胞とも、遠隔の細胞とも神経線維を介してつながっている。しかしその全体が特にまとまった活動をしていないのであれば、全体として揺らいでいるのだ。その様子を私たちはどの程度自覚できるのか。

試みに目をつぶって、そこでみられるものを描写してみよう。目をつぶったからと言って単一の景色が広がっているということはまずありえないだろう。おそらくとてもファジーで移り変わるような何かが漠然と見えているだろう。それはオーロラのように常に形を変えるかもしれない。そしてこれもまた「揺らぎ」なのだ。

2023年5月11日木曜日

連載エッセイ 4の1

 脳は臨界状態にある

 私は気が弱い人間である。こうして連載が始まった最初からびくびくしていることがある。それはこれを読んだ方から「全然脳科学じゃない。それに全然心理士向きじゃない!」という批判を浴びることだ。「だったら最初から脳について、臨床について書けばいいじゃん」と自分に突っ込みを入れてみる。ところがそうはいかない。いざ書くとなると、その時に出てくるものは予想外なものなのだ。脳は勝手に動いて何かを産生する。私たちはその事実にもう少し直面しなくてはならない。脳とはそのような性質のものだからだ。脳とは他者である・・・・。とこうなってしまう。臨床を行う心理士はこの点を常に理解してクライエントと向き合うべきなのである、と言いたいのだが、これじゃ何を言っているか絶対に伝わらないという自覚だけはある。それでなかなか本題に入れないのだ。

でもさすがに連載4回目となると本題に入らないわけにはいかない。そこで私なりに試みてみよう。そこで選ぶのが「脳は臨界状況にある」である。

臨界状況という言葉をお聞きになった方は少なくないであろう。臨界とは、あるシステムが大きな変化を今にも起こしそうになっている状態である。過冷却された水が今にも氷結を開始しそうになっている状態。銀行が今にも破綻しそうになっている状態。大きな地震が今にも起きそうになっている状態。人が今にも恋に陥りそうになっている状態…。ばらばらに例を挙げたが、ニュアンスはわかっていただけたかもしれない。

2023年5月10日水曜日

連載エッセイ 3 推敲 2

 AIは少なくとも【心】である

ディープラーニングが今後さらに進化した場合、その先のどこかで人の心のレベルにまで行きつくのか? あるいはそれを「超える」ことがあるのか? 「超える」としたらどの様な意味で、なのか? これらが私たちに突き付けられた問題である。もちろんこれは古くから問われていた問題だ。ただ人間の脳の機能を凌駕する可能性を秘めたAIの出現で、これらの問いは急に現実味を帯びてきたのである。

おそらく今のところ、専門家の声をインタビューして回っても、「AIは人の心に至っていませんし、これからも無理でしょう」という人が圧倒的多数であろう。ただし一つ確かなことは、現時点において人の心に似たものすでに存在するということだ。アイフォンやアイパッドが搭載しているSiriが一つの例だ。「ヘイ、シリ!」呼べば、とりあえずは応えてくれる。頓珍漢な答えが多いし、もちろん人の心とは違うことが分かる。お宅のワンちゃんの反応の方がはるかにましだろう。でもそれはこれから進化していき、かなり立派な話し相手になってくれそうだ。

ひと昔の私たちなら、この時点でSiriは心を持っていると結論付けたかもしれない。なぜならそれはいわゆる「チューリングテスト」に合格していると考えられるからだ。

皆さんはこの「チューリングテスト」をお聞きになったこともおありだろう。1950年に天才アラン・チューリングはある画期的な論文を表し、その中で思考実験を披露した。これがのちに「チューリングテスト」と呼ばれるようになった実験である。ある隔離された部屋にいる誰かに書面で質問をする。それが実は機械(まだコンピューターはなかった)であってもあたかも人間のような回答をすることで質問者を欺くことが出来たら、それは「知能」を持つとチューリングは考えた。そしてやがて機械もそのレベルに至る日が来ると予言したのだ。しかしそのようなAIが続々と登場している今、私たちはもう少しAIが心を持つ可能性について慎重になり、点が辛くなっている可能性があるだろう。

そこで私は【心】という言葉を提案する。もっともらしい受け答えをしてくれる存在ならば、それは【心】を持っているという風にしてしまおうというわけだ。それはおそらく正真正銘の心とは違うだろう。でも【心】の存在を受け入れざるを得ない。というのも私たちの生活にはそれが入り込んでいるからだ。

何かの応答をしてくれるものに対して、私達は心の萌芽のようなものを想定する傾向にある。

かつて精神病理学者の安永浩先生は「原投影」という概念を提示された(安永, 1987).その説によれば、人は原始の時代からすでに、身の回りのものを心を持ったものとして想定する傾向があるとし、それを「原投影」と呼んだのだ。天にも地にも、動物にも神の存在を見出すという、いわゆるアニミズムである。心を持った存在としての投影の受け手であるためには、AIである必要すらないというわけである。

安永浩 (1987) 精神の幾何学. 岩波書店

 早い話が私たちは縫いぐるみに話しかけその表情を読み取ることがある。早い話が運転中にはカーナビを相手に「なんでこんなにバカなルートを示すの!」という経験のない人の方が少ないのではないか。そしてこの【心】の基本的な機能は入力に対する出力である。つまり問いかえれば何らかの答えを返してくれるからである。

今のところ【心】は心の出来損ない、ということは私たち皆が知っている。それを前提としようではないか。もしそれがどんどん進化して、将来「【心】は本物の心と同等になりました」ということになったら、それはそれでいいだろう。でもそれまでに話し相手としての【心】に重宝しているのであれば、【心】が本物の心かどうかは二の次になるだろう。

こう書いている現在、世の中ではチャットGPTの話でもちきりになっている。チャットGPTは米国のベンチャー企業である「オープンAI」が昨年(2022年)11月に公開した対話型AIサービスである。それが瞬く間に利用者が億の単位に達し、史上最も急成長したアプリであるという。しかもその開発のスピードは加速している一方で、私達一般大衆はこのチャットGPTの登場の意味をつかみ切れていない状態でいるのだ。

つい先日(2023330日)も、かのイーロン・マスク氏が、AIのこれ以上の開発をいったん停止すべきだと呼びかける署名活動を起こしたというニュースが伝わってきた。このまま盲目的にAIの開発を続けていくと、人類に深刻なリスクをもたらす可能性があるというのである。つまり私たちは私たちがコントロール不能になる可能性のある代物を生み出し、歯止めが効かなくなるうちにその開発をストップしようという試みである。しかし人々がAIの研究を止めるということなどおよそ想像できない。(ちなみにその後マスク氏は新たなAIを独自に開発するという見解を表明することになった。彼も迷走しているようだ。)一昔前に核兵器が一部の国で作られ始めてその技術が確立してからは、その開発を停止するいかなる努力も意味がなかったのと同じである。(現在では世界全体の核兵器は10000を優に越えているというから驚きである。)

心と【心】は永遠に別物かも知れないが、心とよく似た【心】の存在はチャットGPTの登場により、もはや疑いようもない事態に至った。私はもう何度もチャットGPTと「会話」し、そこに心のような存在(【心】)を感じ取っている。なぜならチャットGPTはもはや人間並みに、いや人間を超えるレベルで対話が可能な存在となっているからだ。少なくとも話し相手としては想像を超えた能力を発揮する現代のAIは脳と同等レベルの存在として迫りつつあるのだ。