2021年12月11日土曜日

学ぶこと 1

 半年ほど前にまとめたものを正式な文章にすることになった。

精神分析を学ぶという事                           

  

1.まずは「学び」、そして「学びほぐし」という事

  私が臨床家や心理を学ぶ学生から問われるのが、「心理療法や精神分析をどのように学ぶべきか?」という事である。本稿ではこの本質的でかつとらえどころのない問いについて、私の個人的な体験を交えて考察を加えたい。ちなみに私はかつて2017年秋の日本精神分析学会の「精神分析をいかに学んだか」という企画で、「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というタイトルで発表し、その発表の内容が論文化されたという経緯がある。そこで書いたことを復習しよう。以下はその発表の内容である。

  かつて精神療法の技法論についてのセミナーで、何人かの講師とともに話をしたことがある。その時あるテーマが議論を呼び起こした。それは「患者からのメールにこたえるべきか」、という類の話題であった。そのセミナーは複数の講師が担当していたが、講師によりその問いに対する答えが異なっていたらしい。ここで「らしい」というのは前の講師が話を終えて帰るのと入れ替わりで私が話をしたので、その講師も私もお互いの講義の内容を聞いていないからである。

そのセミナーでは私が「そのメールに答えるべきである」というようなことを言って、別の先生が「答えるべきでない」と言ったのか、その逆だったかはわからない。しかしともかくも両方の言うことがかなり異なっていたということである。そしてそれを聞いていた聴衆の方から、後で苦情があった。講師が同じ質問に対して違う答え方をしたので混乱したというのである。

私はこの苦情のことを知った時一瞬「しまった、受講生を混乱させてしまった」と焦った。しかしその考えに対して、別の自分が突っ込みを入れているのを感じた。「ホラ、こここそ皆さんに学ぶという事の意味を伝えるときじゃないか。」と。そこで私はこの苦情について、次のような応答の仕方をした。

「異なる先生が異なる意見を持つというのは臨床場面では日常茶飯事です。そして異なる専門家が違う意見を言うという事は、そこにおそらく正解はないという事を表しているのでしょう。そしてこれからのみなさんの課題は、どちらの言い分がすんなり飲み込めるか来るかを判断し、ご自分で判断することです。もちろんどちらに決めなくてもいい場合も少なくありません。意見が分かれるのはほとんどがケースバイケースのことですから。そして断っておきますが、いかなる先生も、どちらが正しいかを教えてくれないという事です。」

そしてこのプロセスで重要なのがいわゆる「学びほぐし」のである。(ちなみに似ている概念として、フロイトの学習learning と事後学習after-learning という区別があり、少し関連性がある。)精神療法を学ぶためには、この「学びほぐし」が重要なのである。

そこでこの「学びほぐし」という言葉について説明しなくてはならない。この言葉は、哲学者である故鶴見俊輔さんがかつて作った言葉である。彼が若いころにヘレンケラー女史と面会をした際、彼女が自分は「沢山学んでは脱学習しました I learned a lot and then unlearned them」と言ったのを聞いて、即座に鶴見先生の頭には「学びほぐし」という言葉が浮かんだのだという。ちょうど編まれたセーターの毛糸をほぐして自分自身のセーターを編む、というニュアンスをそこに込めたようだ。つまり学びほぐしとは、いったん教わったことを改めて自分のものとすることだ。

 

 

 

そもそも物事を学ぶという事は「ABである」とか「●●はしてはならない」などのいくつかの決まり事を頭に叩き込むプロセスと言える。しかしそれを深く学んでいくうちに、「ABであるという教えはこのような根拠から生まれたのだ」とか「●●はしてはならない」とはあのような意味が込められていたのだ、と知ることで、逆に「でもABではないこともあるな」とか「●●はしていい場合もあるな」という考えが生まれ、これらの決まりごとが常に正しいわけではないことが分かってくる。そこから先は「いつ、どんな状況でABなのか?」とか「●●してもいいのはどんなときか」という自分にとっての判断の基準を作っていくというプロセスに入っていくべきであり、それがこの「学びほぐし」だと言える。

ではそもそもどうして学びほぐしが必要かと言えば、ある理論はそれを作った人思い付きや気まぐれがかなりの部分を占めているからだ。ここではとくに精神分析を考えよう。

フロイトの理論には素晴らしい概念や発想と、彼の誤りや気まぐれの産物ではないかと思えるものが混在している。フロイトは天才だったが、天才はいくつもの真実を発見するだけではない。いくつものミスショットもあるのだ。霊能力者と言われる人たちでも、その発想や直感のいくつかは真実であってもその他の多くが誤っているものであるが、それと似ているのだ。そしてフロイトの理論の中にも、無意識や転移や抵抗と言った優れた概念もあれば、リビドー論、死の本能などのように、後世の分析家にあまり受け入れえられなかった概念もある。そしてその中間にある多くの概念は、それが当てはまるかどうかはケースバイケースとしか言えないものもある。例えば「人間は想起する代わりに反復する」という言葉も、素晴らしい考え方ではあるものの、例外もまた見出すことが出来るというわけだ。

フロイトが治療原則として掲げた、匿名性とか禁欲原則、受け身性なども、同様である。これらはどの患者との治療においても守らなくてはならないものではなく、相対的なものであり、ケースバイケースであるということを、グレン・ギャバード先生がそのテクスト「精神力動的精神療法」の中で喝破している。だからフロイト理論を学ぶことは、必然的にその理論のどれを自分のものとするかにおいての取捨選択がどうしても必要になるのである。

 

さて学びほぐしは、師弟関係でも、バイザーバージ―関係でも起きる。フロイト全集を何度も読んでまずは学び、それを学びほぐしていくことはできるが、多くの場合私たちは実在する師匠やバイザーとの交流の中で何かを学ぶ。そしてその学んだものをほぐしていく過程で、彼らとの一種のバトルは必然的に起きてくる可能性がある。そのことを次に論じたい。