2014年11月30日日曜日

発達障害と心理療法 (7)


相手の痛みがわからない、相手の優しさがわからない

「自分が相手を利用している」感の由来は、相手が痛みを感じているという実感であろう。その実感はおそらく幼少時に対象と同一化をするプロセスに「込み」で体験され、習得されるに違いない。
 他方自分たち自身の痛みについては十二分に体験する事が出来る。彼らとのかかわりを進めて一つ印象深いのは、彼らは他人からの肯定を強烈に求めていたということである。そしてそれと同時に、その願望が満たされなかったときに、強烈な恥の感情や「不当に扱われた」という不満を聞くことが多い。自分の痛みは十二分に感じ取ることができ、他方で相手の痛みを感じにくいという非対象が、深刻な事態を生む可能性がある。それは、相互に功利的な関係性の中で「自分だけ不当に利用されている」という感覚を生むということである。その結果として「どうして自分を不当に扱うのか」についての訴えが増すことになる。これは周囲に戸惑いを生むだろう。いわば同じルールに従ったカードゲームをしているのに、一方的にルール違反をしたと非難されてしまうという感覚を生むことになるだろう。
さて私が最初に書いたことに関連したテーマである。一部の人は、「人の優しさ」がわからないのだろうか?
ここにある方が語った、自分の両親に対する気持ちである。
(省略)


この方に見られるような、人から何かをしてもらった際に感謝をしない傾向、むしろ文句を言いクレームをつけるような傾向は、治療場面ではそのまま逆転移の問題としてかなり鮮明な形で生じやすい。それはAさんに見られたような行動、に対する私の感情的な反応である。
 もちろん学生カウンセラーの対応にも不備な点はあろうし、私の配慮も十分ではなかったかもしれない。患者も治療者も、親も子も不完全な人間である。それでも相手の気持ちをくみ、不十分な点はその気持ちが充填してくれていると感じ、感謝の気持ちを持つ。それは相手に対する不満や怒りの感情があったとしても、それとは別に感じられる場合が多い。それが相手に対するアンビバレンスを持つ能力を意味する。このような能力が一部の方々には十分でないような気がする。

2014年11月29日土曜日

発達障害と心理療法 (6)


なぜ学生カウンセラーではうまくいかないのか?

私が体験したことは、ある意味ではかなりコントロールされた実験状況に近かったことがわかる。私はある病院の外来にいらした方を初診した後、カウンセリングが必要と考えられるケースについて、その事情を説明し、同意を得たうえで学生ガウンセラーに紹介した。一群の方々(D群としよう)は比較的良好な治療関係を築く事が出来た。ところが別の群(ND群としよう)ではことごとく治療関係が成立しなかった(といっても高々数例であるが)。両者の反応は対照的であった。
(一部略)
 ここで一言述べたいのは、確かに学生カウンセラーによるカウンセリングの機会というのは、非常に微妙だということだ。カウンセラーはおおむね経験不足で戸惑いや自信のなさを醸す。受ける側にも「この人は大丈夫か?」という心もとなさを抱かせるだろう。それもあり「あまり正式ではありません。カウンセラーの卵たちのトレーニングの機会でもあります。だから低料金で行います。」という暗黙の前提がある。またこの種のトレーニング期間は、実は社会が機能するために不可欠であることも確かである。
 いわゆる OJTon-the-job training 実地訓練)は、実はサービスが携わる人間にとって不可欠であり、考えてみればおよそすべての業務に携わる人間が一生OJTを行っており、カスタマーは実験台なのである。その意味ではND群の方々が感じた「利用され」感はある意味ではもっともなことなのである。そしてサービス業を利用する私たちが実際頻繁に感じ取り、体験することでもあり、「あの医者は新米だし藪だから通わない」といい別の腕のいい医者を探すことになったりする。しかし大部分は「あの医者はこんなところはあるが、まあまあ腕は立つようだし、しばらく通ってみよう」という形で折り合いをつけているのだ。そしてその裏にあるのは、「お互い様」の感覚がある。向こうがカスタマーを通して体験から学ぼうとしているように、こちらもなるべく低料金でいいサービスを受けようとしている。その意味ではどれだけ相手を利用するかということを考えている。
 そのような功利的な関係性の一方で私たちが曲がりなりにも社会生活を表面上は和気藹々と営めるのはなぜだろうか。それはお互いに相手の為を思い、自分を犠牲にしているというファンタジーを醸成し合っているからであり、それがいわば功利的な関係性の表面をまとうことでその醜さや恐ろしさを覆い隠しているからだろう。すると人によっては
このファンタジーを形成する能力が欠けているのだろうか?
 お互いに利用し、利用される感覚は、自分が相手を利用しているという感覚と、自分が相手に利用されているという感覚の療法が存在し、バランスを取り合っている感覚である。そのうちどちらが極端に勝っても、一方的に利用されることによる被害感や、一方的に利用していることへの後ろめたさが生じることになる。すると自分もしっかり利用しつつ、利用され感しか味わわないという問題には、「自分が相手を利用している」感の欠如がある。それはどこから来るのだろうか?

2014年11月28日金曜日

「汎用性のある精神療法」の方法論の構築 (いちおう書き上げた)

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「汎用性のある精神療法」の方法論の構築 
 はじめに
ある心理士さんの話を伝え聞いた。彼の職場は、一人の精神科医が院長で、複数の心理療法士を抱えたクリニックである。ある時その院長が言った。「うちでは誰も認知療法をやれる人がいないね。心理士さんのうち誰かその勉強をしてくれないか?」 その心理士さんは彼のスーパーバイザーにお伺いを立てたが、精神分析的なオリエンテーションを持っていたそのスーパーバイザーはあまりいい顔をしないので困ってしまったという。
  この心理士さんの話を聞いて、私自身もかつて似たような体験を持ったことを思い出した。昔米国で精神分析のトレーニングを受けていた頃、ロジャース理論に興味を覚えてスーパーバイザーに質問をしたことがあった。すると彼は顔色を変えて「ロジャースに理論なんてない。それよりも君がその理論に興味を持つこと自体が問題だ。」と怒られたことがある(岡野、治療的柔構造)。このようにある精神療法を専門とするものは、ほかの種類の精神療法を批判したり敬遠したりする傾向が多くあるのだ。
 他方精神医学においては、精神科医の多くは精神分析、認知療法、行動療法、森田療法などの種々の精神療法をひと括りにして認識する傾向にある。そして彼らは通常は特定の精神療法についてのトレーニングを受けていないために、その重要性について十分認識していない場合も少なくない。そしてさらに問題なのは、精神科医を目指す最近の若い医師たちは、精神療法や精神分析に関心をあまり示さない傾向にあるということである。はるか30年前、私が新人だった頃には、精神科を志す人の多くは哲学や心理学、精神分析に興味を持つ人たちでもあった。人の心を扱う薬物療法に惹かれて精神科に「入局」する(今では死語かもしれない)人などはあまり聞いたことがなかった。30年前が異常だったのか、現在が異常なのかのどちらかは私にはわからない。しかし現代の若手精神科医の多くが生物学的な精神医学、薬物療法などに関心を移しているのは、時代の流れかとも思う。そしてだからこそ彼らが関心を向ける脳科学も精神療法的な考え方に組み込む必要があるであろう。さもないと精神科において基本である、医師と患者が言葉と心を交わすこと、という部分がますますおろそかになってしまうであろう。薬一つを投与する際にも、医師―患者関係が大きな影響を及ぼすことは、医師から薬を出されるという経験を持った人には明らかな筈なのである。

「ドードー鳥の裁定」問題
  ところで私は精神療法に大きな関心を持ち、それが有効である場合が多いと信じているのであるが、具体的にどのような影響を患者に及ぼすかについては明確に理解しているとは言えない。そしておそらくは技法に還元できないような、そして科学的に実証できにくいような作用が、治療者患者関係において生じていると考えている。
 そのような私の考え方は、基本的にはレスター・ルボースキーが再提唱した「ドードー鳥の裁定」に影響を受けている。といっても彼の主張に影響されたというよりは、私が常日頃考えていたことを、この概念が的確に代弁していると感じるからである。ルボースキーのこの概念についてご存じない方のために少し説明すると、彼は1970年代頃より始まった、「どのような精神療法が効果があるか?」という問いに関して、「結局皆優れているのだ、その差異の原因は不明なのだ」という結論を出した。それを彼は「不思議の国のアリス」に登場する謎の鳥の下した裁定になぞらえたのである。(ただし精神療法に関するこの「ドードー鳥の裁定」というアイデアは1936年に Saul Rosenzweig が提唱したものであり、それがこのルボースキーの提案で初めて注目を浴びることとなったのである
Rosenzweig, Saul (1936). "Some implicit common factors in diverse methods of psychotherapy". American Journal of Orthopsychiatry 6 (3): 412–415.
Luborsky, L; Singer, B; Luborsky, L (1975). "Is it true that 'everyone has won and all must have prizes?'". Archives of General Psychology 32: 995-1008.
私はこの「ドードー鳥の裁定」を条件付きで、その大枠としては受け入れている。ここで条件付き、とはどういうことか。それは精神分析療法も認知療法も、行動療法も、特にそれが治療効果を及ぼすような患者がいるということだ。だから「精神療法のどれも同様な効果がある」のでは必ずしもなく、「どの精神療法にも、特別にそれが効果を発揮するような患者がいる」ということも重要な点だと考えているのだ。これは薬物療法に似ている。薬物A,B,Cがどれも平均して7割の患者に効果があるとしても、患者の中には、特にAが効いたり、あるいはBが効いたりということがある。
 しかしこの個別の患者さんにとっての効果、という要素以外にも、どの精神療法にも共通するような要素があると考える方が合理的である場合も多い。私は精神分析のトレーニングを受けた身であるが、確かにこの手法が助けとなる患者も多い。しかし私は分析状況で患者と話す時、どう考えても自分がテクニックらしきものを多用しているとは思えないことも少なくない。
 このように精神療法の効果は二段構えであるということが出来る。一つは非特異的な部分で、もう一つはそれぞれの精神療法に特異的な部分である。このうち「ドードー鳥の裁定」はもっぱら前者の方を指していると理解できよう。
  
「面談」はすべてを含みこんでいる
シンプルな例から考えてみよう。私が特定の精神療法のセッションを行うとする。精神分析的精神療法でも、認知療法でもいい。しかし実際のプロセスに入る前に、かならず患者との何らかの言葉の交わし合いがあるだろう。挨拶に始まり、「ここ数日(数週間)はいかがでしたか?」というところから始めるのが普通だ。そのプロセスをとりあえず「面談」の部分としよう。ここが実は大きな意味を持つ場合が少なくない。最初にそこで2,3日前にあった比較的大きな出来事の詳しいいきさつが語られたり、それについてのアドバイスなどを求められたりするだろう。すると「いや、もう分析的精神療法(認知療法)を開始しなくてはなりませんので、その話はまた後で」とは普通はならないだろう。それが患者にとって当面は重要だったり切羽詰った出来事であったりするからだ。もちろんそれを分析療法や認知療法の中で語ってもらうという方法もあるだろうが、その場合にもいつもの流れとは異なる、通常の会話に近いやり取りに近くなるのではないか。私はこのような「面談」の部分はしばしば必然的に生じ、かつ必要不可欠と考える。しかし一体この「面談」で何が起きているのだろうか?この「面談」部分は分析や認知療法のプロセスを邪魔しているのか? これはとても難しい問題である。
 この不思議な「面談」の性質について、かつてある論文で論じたことがある。(「面談」はすべてを含みこんでいる: 精神療法394号特集 575577, 2013年)そこでの要旨に沿ってしばらく述べてみよう。
 改めて「面談」とはいったい何かを考えた場合、それが基本的には無構造なことがわかる。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談として扱われるかもしれない。しかし二人の人間が再会する最初のプロセスは非常に重要である。相手の表情を見、感情を読みあう。そして精神的、身体的な状況を言葉で表現ないし把握しようと試みる・・・。ここには特殊な技法を超えた様々な交流も生じている可能性がある。「面談」を教科書に著せないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。私は数多くの「~療法」の素地は、基本的には「面談」の中に見つけられるものと考える。人間はそんな特別な療法などいくつも発見できないものだ。

「面談」の特別バージョンとしての各種療法
私は現在幾種類も提唱されている精神療法の多くは、「面談」の中で現れる様々なプロセスの一つを拡大して扱うバージョンとしてとらえることが出来ると考える。たとえば認知療法であれば、「面談」の中で日常生活に現われる思考の推移のプロセスを拡大して扱うバージョンとしてとらえる。行動療法なら、いくつかの行動のパターンについて論じ、それを停止したり試みたりするという可能性について特化することになる。また「面談」に軽い呼吸法や瞑想の導入を組み込んでいる臨床家の場合は、催眠やイメージ療法の導入部分をすでに行っているといえるかもしれない。
 このように考えると「面談」をきちんとできていれば、特殊な療法についてのトレーニングは必要がない、という極端な見方をする臨床家が出るかもしれない。しかしむしろ種々の精神療法のトレーニングの機会を持つことが基本的な要素としての「面談」をより豊かなものにする可能性があると考えべきであろう。
 たとえば認知療法の訓練を受けて、自動思考の考えになじんだとする。「全か無かという考え」、「これは大変だ、とすぐパニックになってしまうこと」ポジティブなことに目をつぶること」感情的に推論をすること」、レッテルを貼ること」過大/過小評価すること」、などなど。このような心の動きを患者の思考や行動の中にいち早く読み取る訓練ことは、「面談」にも生かせるだろう。また精神分析における一連の防衛機制を熟知していることは、同様の意味で患者の心の病理の在り方を理解するうえで有益かもしれない。
 このように考えると各種療法をフォーマルな形で行う用意のある臨床家とは、必要に応じてそれに本格的に移行したり、その専門家を紹介するという用意を持ちながら、つまりいつでもその療法のアクセルを踏む用意をしながら、「面談」を行うことができる療法家ということになる。結局は各種療法の存在をどのように捉えるか、という問題は、あるていど汎用性のある精神療法としての「面談」をどのように定義し、トレーニングを促していくか、という大きな問題につながってくる。認知療法も、EMDR も、暴露療法も、森田療法も、効果が優れているというエビデンスがある一方では、汎用性があるとはいえない。つまりそれを適応できるケースはかなり限られてしまうということだ。すると認知療法家であることは同時に優れた「面談」もできなくてはならないことになる。 
「汎用性のある精神療法」としての「面談」
このあたりでこれまで私が用いてきた「面談」という用語を、改めて「汎用性のある精神療法」と呼び変えて論じよう。私が「面談」にこれまでかなり肩入れして論じてきたのは、これが患者一般に広く通用するような精神療法、すなわち「汎用性のある精神療法」を論じる上での原型となると考えたからであった。「汎用性のある精神療法」とは、いわばジェネリックな精神療法と言いかえることもできよう。私は各種療法のトレーニングを経験することで、この「汎用性のある精神療法」の内容を豊かに出来る面があると考えるし、それがこの小論の一つの趣旨と言える。「汎用性のある精神療法」はいずれにせよさまざまな基本テクニックの混在にならざるを得ず、いわば道具箱のようになるはずだ。そしてその中に認知療法的な要素も、行動療法的な要素も、場合によってはEMDRの要素も加わるであろう。
 こうは言っても私は臨床家は「何でも屋」にならなくてはならないというつもりはない。しかしいくつかのテクニックはある程度は使えるべきであると考える。試みに少し用いてみて、それが患者に合いそうかを見ることが出来る程度の技術。それにより場合によっては自分より力になれそうな専門家を紹介することもできるだろう。臨床家が使えるべきテクニックのリストには、精神分析的精神療法も、おそらく暴露療法も、認知療法も行動療法も、場合によってはEMDRも箱庭療法も入れるべきであろう。
 精神医学やカウンセリングの世界では、学派の間の対立はよく聞く。冒頭で述べたような認知療法が精神分析から敬遠される傾向などはその一つだ。しかしこれからの精神療法家はさまざな療法の基礎を学び、ある程度のレベルまでマスターすることを考えるべきだろう。なぜなら患者は学派を求めて療法家を訪れるわけではないからである。彼らが本当に必要なのは優れた「面談」を行うことのできる療法家なのである。
「汎用性のある精神療法」と関係精神分析
治療において何が基盤にあり、それが「ドードー鳥の原則」に反映される結果となっているのかという問題を扱ったのが、私の「治療的柔構造」(岩崎学術出版社)における考察であった。そこで至った結論は、結局治療者患者の「関係性」としか表現できないものがその基盤にあるのであろう、ということである。精神分析療法にも認知療法にも行動療法にも、そして薬物療法にもあるのは、治療者と患者の関係性である。それがそもそもの基盤にあり、精神療法プロセスは功を奏する。もちろん技法的な要素、すなわち各治療法に特有な治療原則や治療構造は必ずあるが、それは関係性が良好であって初めて意味を持つのである。
 この治療関係こそが精神療法であるという主張を全面的に押し出しているのが、いわゆる関係性理論の流れである。米国に見られる新しい精神分析の動きの多くは、伝統的な精神分析理論の核心部分の否定ないしは反省のうえに成り立っており、関係性理論はそれらの総称というニュアンスがある。その動きを構成するのは、コフート理論、間主観性の理論、メンタライゼーション、乳幼児精神医学、フェミニズム運動などであり、いずれも患者と治療者の間で生じるダイナミックな交流を極めて重視する立場を取る。最近では「関係性精神分析 relational psychoanalysis 」という呼称が定着し、この動きの事実上の牽引役であったスティーブン・ミッチェルが世を去って後のこの10年は、欧米を中心に大きな広がりを見せている。
 私はその中でもアーウィン・ホフマンの思考をその代表と考えるが、彼の考え方は治療関係における弁証法的なとらえ方を徹底することである。
 ホフマンは人間的な関係性という項を、他方の技法や治療原則に従った項と対置させたうえで、その両者の間の弁証法的な関係を生きることが治療であるとする。これは私が今述べた、すべての治療関係には、その底辺に関係性があり、そして各療法に特有な構造がある、という主張をより精緻な形で表現したものである。この考え方は、なぜ精神療法に様々なものがありえて、それが同様に治療的となりうるかという疑問に対する答えを提出しているといえる。
ホフマンの理論を詳述する余裕はないが、彼自身が自ら示す弁証法的構築主義の原則をここに掲げておこう。
   精神分析のプロセスの本来の目的は「真実」に直面することだが、その「真実」とはフロイトの精神分析の場合とはことなり、「私たちはみないずれは死ぬ運命にある、ということ以外の現実は常に曖昧で非決定論的である」ということである。人間は常に非存在と無意味に脅されながら意味を作り出しているのである。
   患者と治療者それぞれ自由な存在であり、二人で一緒に現実を構築する。その自由さのために、治療者の言動に患者がどのような反応をするかを十分な形で予測することは不可能である。
   治療者は親しみ深い存在であり、同時にアイロニカルな権威者である。治療者はその機能の一部を、「治療に抵抗とならない陽性転移」から受け継いでいるが、そのこともまた探索の対象となるからだ。
   精神分析には反復ないしは儀式的な部分があり、そこから離れることは、そうすることが治療者の利己的な目的によるものではないか、という疑いの目を向けられる。
   治療者の用いるテクニックと、患者へのパーソナルなかかわりとは、弁証法的な関係にある。治療者の態度は単なる「テクニックの正しい応用」を目指すべきではない。治療者は「正しくあろう」とすることを放棄した時に、自分のかかわりがいやおうなしに主観的なものであるという事実に直面するのだ。
   精神分析過程で構築されるものは、反復であり、かつこれまでにない新しい体験である。前者は神経症的な転移の圧力により、後者は患者の動因のうち健康な部分の圧力により作られる。
   患者が治療者に対して抱く理想化は、やがては損なわれてしまう運命にある。なぜなら治療者もまた患者と同じ人間だからだ。このことを認識することにより次のような懸念が生まれる。つまり治療者が提供できるのはあまりにわずかであるというだけでなく、治療者は金銭的にないしは自己愛的な満足のために患者を利用しているのではないかという懸念である。
   スティーブン・ミッチェル言い方を借りるならば、治療において問われるべきなのは、「治療者が何を知っているか?」だけではない。それは精神分析における治療的な行動の課程や性質についての理論である。つまりそれは「患者が何を望むか」という理論である。
以上に示されたホフマンの記述には、現実を、そして自分自身を見つめる冷静な目と、人間として持つ徹底した謙虚さを感じ取ることが出来る。そしてそこには、私たちが死すべき運命にあること以外に確かなことはないという、徹底したまでの不可知論的な視点がある。ホフマンの構築主義の独創性は、彼がそれを徹底した形で推し進めた結果いたった境地であることによるのだろう。
そしてこの関係精神分析にさらに特徴的なのは、そこに属する論者が、脳科学的な視点を広く取り入れる姿勢を示していることである。そこには患者の訴えを心の問題としてとらえる視点と、脳の問題としてとらえる視点との間の弁証法が存在するかのようである。最近の関係論者、特にフィリップ・ブロンバーク、ダネル・スターン、アラン・ショアたちの視点はそこで一貫しているという印象を受ける。
「汎用性のある精神療法」に欠くことの出来ない倫理則
最後に倫理の問題に触れたい。私がこれまでに述べてきたことは、「汎用性のある精神療法」としてさまざまな立場を包括するという方略であり、姿勢である。しかしこれらの試みを底辺で支えているのが倫理の問題であると考える。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つと考える。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積み、しかも心の問題について脳科学的な理解を行うことについてもわきまえる治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
 「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、という方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。私のところに治療に通うことを勧めます」には、すでに色濃い利益相反が入り込む可能性がある。
 
すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野:精神分析のスキルとは?(2) 精神科 21(3), 296-301, 2012)(心理療法/カウンセリング 30の心得』みすず書房、2012年)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 ここからは私になじみのある精神分析の世界の話になるが、チェストナットロッジをを巡る訴訟などを精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった。それは分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている。(Paul A. Dewald  (Editor), Rita W. Clark (Editor)Ethics Case Book: Of the American Psychoanalytic Association Paperback  American Psychoanalytic Association, 2007)
これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における、匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
  他方「汎用性のある精神療法」や関係精神分析はこの倫理則とどう関係しているのだろうか?これらの療法は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「汎用性…」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを考え直す必要があるが、「汎用性…」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が考えられるということがいえよう。
さいごに

「汎用性のある精神療法」というテーマで論じた。その中で紹介した関係精神分析は私が現在一番シンパシーを覚える学派であり、関係性や倫理性を重んじる立場がそこにかなりよく代弁されていると考える。しかし学派や技法にとらわれない、というよりもそれを超えた臨床的な営みとしての精神療法の在り方をこれからも考え続けることが私のライフワークと考えている。その有効性を一番的確に判断するのは、それが臨床的にどの程度有効かということである。しかし何が患者に有効かを客観的に判断することも決して容易ではない。それは精神療法が何を目指すのか、という問題とも絡んでくるからだ。この答えの見えない問いを私はこれからも持ち続けつつ臨床を続けていこうと考えている。

2014年11月27日木曜日

自己愛と恥について 推敲の推敲(2)

 以上示したように、私は恥を「対人場面における恥の感じやすさ」と「自己の存在やその主張を認められたいという願望」との緊張関係の中で捉える。それはいわば恥と自己愛の二次元モデルとでも言える。人には必ずしも自己顕示的で積極的な行動に出なくても、人から自分の存在を認められたいという、ごく自然な願望を持つ。これは発達早期に母親に自分の姿を捉えて欲しい子供の姿を見ればわかる。私たちは成人した後にも、このような願望を対人場面では常に持っているといってよい。そのあり方はきわめて流動的であり、状況依存的である。私たちは日常場面で常に正当な相手から正当に認められることを期待するものだ。そしてその期待値を上回った際には自己愛的な喜びを感じ、下回った場合には恥辱の体験となる。
 たとえば職場で自分より目上の人とすれ違ったときにぞんざいな挨拶しかされなくても、あなたは特に傷つくことはないかもしれない。ところがすぐ次の瞬間にすれ違った部下の頭の下げ方が小さかっただけであなたは激怒するかもしれないのだ。このように流動的な自己の存在やその主張を認められたいという願望」をすべての人が持つものとしてとらえることは、私が先に用いた「自己愛者」ないしは自己愛的な人間を画一的に想定し、恥はそれらの人たちに特異的な体験や病理である、という考え方よりはより現実的であろう。

「自己愛アフォーダンス」とそのミスマッチング

ここでとっぴな用語が飛び出してしまうことをお許し戴きたい。「自己愛アフォーダンス」とは私の造語である。
 そもそもアフォーダンスとは、「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」(ギブソン)である。よく用いられる「引き手のついたタンス」の例について考えるのであれば、「""はそのタンスについて引いて開けるという行為が可能である」、という関係が成立していることになり、「このタンスと私には引いて開けるというアフォーダンスが存在する」あるいは「このタンスが引いて開けるという行為をアフォードする」と表現することになる。
自己愛アフォーダンスとは、ある状況で、ある人に対面をして、自分が認知され、敬意を表される度合いとして、その個人により各瞬間に推し量られる。ある人気アイドルが、実に巧みな変装をして雑踏に入る。当然誰も騒がないが、アイドル自身にとってのその際の自己愛アフォーダンスは無いに等しいから、無視されても不思議に思わない。しかし颯爽とマスクを外し変装を解いた時に、誰も振り返ってくれないとしたら、かなり自己愛が傷つくはずである。
このように自己愛アフォーダンスなるものを考えた場合、私たちの日常は実際の体験と自己愛アフォーダンスの齟齬により常に自己愛的な体験を味わっていることになる。自己愛アフォーダンスとして自分が想定した量より多くの注目や認知を受けた場合には、自己愛的な満足を味わい、場合によっては有頂天になるかもしれない。売れない芸人の一発芸が突然注目を浴びるようになったり、無名の作家が有名な賞の受賞候補に挙がったりしたような場合である。他方ではそれまでは一世を風靡していた「歌姫」が突然CDの売れ行き不振にあえぐ様な体験。それまでは元首相である父親の選挙区を受け継いで順調に政治家の道を歩んでいたはずなのに、突然政治資金問題で槍玉に挙げられ、家宅捜索を受ける女性政治家の例を考えればいいだろう。
ここで特に自己愛アフォーダンスとしての想定量を下回る満足しか得られなかった場合の反応を考えよう。実はそこで何が起きるかがもっとも問われるのであり、なぜなら自己愛の問題が「主として周囲に大きな迷惑や災厄を及ぼす」からである。その一つは恥の体験であり、それは抑うつや引きこもりという反応を生むかもしれない。「穴があったら入りたい」という表現のように、人から認められなかったり、汚名を浴びせられた際の私たちの反応は世間に背を向け、一切人と関わりたくないという反応である。しかしそこにはもう一つの反応がある。それは激しい怒りであり、「恥をかかされた」と感じた相手への攻撃である。
この発想が、コフートの「自己愛憤怒」から来たことはお分かりであろう。彼は自己愛が傷つけられると人は怒りを体験するといった。これは深い洞察である。彼らは恥じる代わりに怒るのだ。ただしここでそこに仮想的な恥の項目を入れることもできるかもしれない。
自己愛アフォーダンスのマイナス方向の齟齬が、かかわりを持った対象への怒りを直接生むのではなくて、その前のほんの一瞬だけでも人は激しい恥を体験して、それへの反応として「この俺のメンツをつぶしたな!!」と激しく怒るのである。

恥と自己愛トラウマ
大体以上で、私の近著である「恥と自己愛トラウマ」の趣旨は説明できたかもしれない。私のこの著書は、自己表現の願望が高まった人間が恥の体験と葛藤を起こすような人々についての考察である。この世の中で厄介なのは、自己愛的な人が、他者からの諫めや助言を「恥をかかせる体験」と認識して、烈火のごとく怒り、周囲に様々な災厄をもたらす。それがこの世における最大の不幸の一つであるが、この自己愛は、いったんそれをいさめる人がいなくなると、ほぼ自動的に膨張し、暴走 free run してしまうのだ、という主張である。

私が特に「自己愛トラウマ」という造語に加え、この本に「あいまいな加害者」という副題を付けたのは、この自己愛に対する傷つけを起こすような体験、すなわち「自己愛トラウマ」が実は極めて厄介な問題を抱えていることを主張したかったからだ。ここでその論旨を再びたどるならば、何が自己愛の傷つきとして体験されるかは、きわめて予想しがたく、個人差が大きいという問題がそこにある。私はそれを、たとえばアスペルガー障害における不当なまでのプライド他人への期待値の高さと被害的な傾向に関して論じた。
 たとえば「浅草通り魔事件」では、犯人は女性を追いかけて声をかけたところ、驚いた顔をされたのでカッとなったという。秋葉原事件で、KTはケータイの掲示板への自分の書き込みに誰も返答してくれなかったことで自暴自棄になった。これらも広義の自己愛の傷つきによる憤怒と考えられるが、このような反応の大半は周囲の人間には予想がつかない。その原因の一つはアスペルガー障害における思考を通常の社会通念からは追うことが難しいということがあげられよう。
ただし上述したようなフリーランした状態での自己愛を抱える人にとっては、ほんの些細なことでも彼らの傷つけるほどに、自己愛が肥大している可能性がある。ある大学病院のとある科の医局長は、外出先を示すマグネットをつけるボードを見て、自分のマグネットが一番上になかったことに激怒したという。これは極端にしても、複数の人に出すメールで、自分の名前がしかるべき順番に書かれていなかったことに痛く傷つくということは私たちの中でも起きうるだろう。
 これらの身勝手な、予想つかない形での自己愛の傷付きも、やはり自己愛トラウマと呼ぶべきであろうと考えるのは、彼らの傷つきは極めて深刻で、それに対する怒りの反応も深刻なものとなりかねないからだ。つまり彼らにとって傷付きであることは確かなのだ。しかしそのトラウマは、いわば加害者不在なのである。敢えて言えば彼らの肥大した、あるいは予測不可能なプライドが原因なのである。加害者不在のトラウマ。まるで自然災害のようなものだ。否、自然災害では少なくとも台風や津波などの現象がそこに明白に存在することになる。ただそこに人為性が欠如しているだけである。しかし自己愛トラウマの場合には、当人がなぜ傷ついたのかを周囲が理解不可能であることも少なくないのである。


2014年11月26日水曜日

自己愛と恥について 推敲の推敲(1)


自己愛の問題と「自己愛トラウマ」

私に与えられたのは「自己愛と恥について」であるが、これはとてもありがたいテーマである。というのもこれ以外のテーマでは書きようがないと感じるほどに、私にとっては自己愛のテーマと恥とは不可分なのである。
そもそも自己愛の問題を臨床的に取り扱わなくてはならないのはなぜか。それは人の持つ自己愛の問題が主として周囲に大きな迷惑や災厄を及ぼすからである。自己愛者(本稿ではこのような呼び方をさせていただこう)は周囲の人々に対して、支配的に振る舞ったり、怒りをぶつけたりする。彼らの多くは社会の中では強者であり、虐待者の側に立ちやすい存在と言える。彼らの病理を理解し、治療的に扱うことは多くの人を救うことになるのだ。
このような自己愛者の振る舞いを理解するためには、彼らの心にある、実は非常に脆弱でもろい部分を把握する必要がある。彼らはそこを突かれ、侵害されたと感じて、周囲に対して反撃しているという部分がほとんどなのだ。ある意味では彼ら自身が最初にトラウマを体験していて、自己愛的な言動もそれに対する反応として理解せざるを得ないのである。私は最近「恥と自己愛トラウマ」という著書を上梓したが、このタイトルはそのような事情を端的に表しているといっていい。
 ちなみに自己愛トラウマというのは私の造語である。自己愛の傷つきが人間の心的なトラウマのかなりの部分を占め、またそれに対する反応は他者への攻撃や辱めである。これは自己愛人格にとどまる問題ではなく、実は私たち人間すべてに多かれ少なかれ言えることである。とすれば自己愛やその傷付きによるトラウマを知ることは人の心を理解する上で非常に重要である。
 以上は「恥と自己愛トラウマ」における主張の要旨であるが、ここで改めて、そもそも恥と自己愛がどのように関連したテーマなのかについて、改めて書いてみたい。
そもそもどうして「恥と自己愛」なのか?

ところでなぜ自己愛のテーマと恥とは結びつくのだろうか? 両者はいわば正反対なものとも考えられよう。自己愛とは自分を外に示したい、認められたいという願望に根ざす。他方の恥は、他人から見られることを避け、人前から身を引くという傾向に結びついているだろう。
 私のこのテーマに関するモノグラフ「恥と自己愛の精神分析」は1997年の出版であるが、この本を書く最初のきっかけは恥の体験についての関心である。私は医師になりたての頃から、いわゆる対人恐怖の心性に興味を持っていた。自分の中にそれを強く感じていたからだ。私が1980年代の半ばに渡仏や渡米をした時、海の向こうの精神科医たちに手土産代わりに何か伝えられることがあるとしたら、それは対人恐怖についての日本における研究であろうと思っていた。その頃は、対人恐怖は、日本に特有の病理と考えられていた時代である。内沼幸雄氏の「対人恐怖の人間学」は私にとってのバイブルであった。
 ただし確かに恥の感情は、他方に少なからずある自己表現の願望との関係でのみ十分に理解することができたのである。自己表現の願望があるからこそ、それを真っ向から阻止してくる恥をかくことへの恐れがこれほど大きな関心事となっていたのだ。内沼博士の所論にも人間の「強力性」と「無力性」の相克が生き生きと描かれていた。
高校生のころ、サッチ(あだ名、仮名)というクラスメートがいた。私はどれだけ彼をうらやましい、と思ったことか・・・・。彼は私が欲しいものをたくさん持っていた。スポーツは万能。勉強もよくできた。しかし特に人前で物怖じしない態度が素晴らしかった。彼と私はフォークソング部なるものに所属し、サッチのボーカルに合わせてギターを弾いたりなどしていた。彼はよく通る声もしていた。高校2年の文化祭で体育館で何かの催しがあり、司会者が客席からボランティアを募ったことがあった。舞台に上がってちょっとセリフを言うだけの簡単なものだったと思う。私はそんなところに出ていくようなタイプでは全くないが、ちょっと興味を感じたことを覚えている。しかし手を挙げることなど考えられない。私はシャイだったのである。するとサッチが後ろの客席から立ち上がり、「ハーイ!」と声を上げながら、ステージの方に走っていくではないか!その姿の無邪気で恐れ知らずな雄姿は、40年以上たっても目に焼き付いている。
どうしたらサッチのようになれるのか? 否、私はどうして彼のようになれないのか。彼と私はどうして違うのか、などと思い続けた青春時代だった。しかしこう書いてみると、恥と自己愛に関する私の関心の原点は、まさにここら辺にあったことがわかる。それは、私が羞恥心が旺盛だった、という一事にはとどまらない。は悔しかったのである。羨ましかったのである。他方には自己を表したいという願望があるからこそ、私はそれを阻む羞恥の問題について考えざるを得なくなった。私が自己主張をしたい、人に存在を認められたいという願望を持たなければ、私は自分の羞恥を自覚することもなかったのである。羞恥と、自己表現の願望とのただならぬ緊張関係がそこにあり、それはすでに諸家により論じられてきているのだ。
ここで自己を表したい、認められたい、という願望を「自己愛」と呼ぶことができるとしたら、私は恥と自己愛のただならぬ関係をこのころすでに生身で体験したことになる。「恥と自己愛」というテーマにはすでに高校時代には逢着していたということになるかもしれない。しかし私の中で恥と自己愛のテーマが結びついたのは、それから十数年後の米国留学中であった。
米国では成立していた自己愛と恥の連結

 アメリカで恥に関する精神分析の書籍が目白押しに出版されだしたのが1980年代である。アンドリュー・モリソンの「恥―自己愛の裏面 Shame Underside of Narcissism」 という本は特に私にとっては非常にインパクトが大きかった。彼の主張は、そもそも「コフートの自己愛の理論は、恥に関する論考である(コフート自身はそう言っていないが)」「恥とは自己愛の傷つきのことである」という、とても明確なものだった。そのころ私は十分にコフート理論に興味を覚えていたし、それと私が以前から関心を抱いていた恥の議論と結びつきについても非常に興味深かった。このあたりから、私の中では恥と自己愛の問題は互いに関連したテーマとして扱われるようになった。そして恥について自己愛との関連から論考を発表することも多くなった。精神分析においてはモリソンらによって、「恥 ―(コフート理論)- 自己愛」という路線が既に引かれていたからというのがその理由の一つだ。
さて私はこの恥と自己愛のテーマの連結については、おおむね問題ではないであろうが、それは単純化しすぎているというような反論があり得るとも思う。自己愛を、自分は「優れている、イケている」と感じることだとすると、それがが崩れた時にのみ恥が体験されるとは限らないだろう。「恥は自己愛の傷つきか?それだけか?」と問われるとちょっと難しい。恥は自己を不甲斐ないと思う気持ちだ。恥ずかしい、情けないと感じ、穴があったら入りたいという体験である。私はそのような気持ちが体験されるのは、むしろ私たちが自然にもつ願望、自己の存在やその主張を認められたいという願望が絶たれた際であると思う。自分は優れていると感じる必要はない、とにかく一人の人間としてその存在を認められたい、という気持ちはだれにでもあるものだ。それを「健全な自己愛」と呼ぶのであれば、それの破綻こそが恥の体験であるという意味では、モリソンらの考える図式は妥当であろう。
 この健康な意味での自己愛を守る気持ちが強い場合、つまり自らが「普通でありたい」「もう恥をかきたくない」という願望が強ければ強いほど、それがうまくいかなかった場合の恥の感覚も強いということが言えるであろう。その意味では恥の感情は、それを克服しようという気持ちに比例するというところがある。私はサッチのようになりたいと強烈に願った。だからなれなかった自分を強烈に恥じたのである。
この「健全な自己愛」ということを恥との関連で考えた場合、森田正馬が唱えた、対人恐怖のとらえ方なども同じような概念化に入ってくると言えよう。森田に特有の「負けず嫌いの意地っ張り根性」という概念化やそれを踏襲した内沼幸雄先生の「強力性と無力性の葛藤」という考え(ドイツ精神医学、特にクラーゲス、クレッチマー、カレン・ホーナイなどなど)のとらえ方もある意味では自己愛のことを論じていたと理解できるのである。

Klages, L: Die Grundlagen der Charakterkunde, 1928. 邦訳:赤田豊治訳、『性格学の基礎』、うぶすな書院、1992 (ISBN 4900470058)

2014年11月25日火曜日

発達障害と心理療法 (5)



メンタライゼーションを通して病理を知る

 (省略)

解離傾向≒相手を思いやる傾向≒相手の気持ちが敏感にわか(りすぎ)る傾向。

それと逆の状況とは、

非解離傾向≒相手を思いやれない傾向≒相手に対する感謝の希薄さ≒相手を疑い、恨む傾向

 そう、メンタライゼーションの重要な機能は、相手の親切心を読み取ることであり、その部分がないと、相手は自分を利用するだけの存在と見なしてしまうのである。
(私の中でもしばしばこれが起きるのを感じる。)

2014年11月24日月曜日

発達障害と心理療法 (4)

白鵬が優勝して涙。「ほめてくれていると思う」。彼の中に、褒めてもらうことを望み続ける小さい少年が中にいるというのは、でもあの体を見ると想像しにくい。ガタイが大きいということはつらいことでもあるのだ。

臨床例の話。(省略)

































2014年11月23日日曜日

発達障害と心理療法 (3)


NDDの患者さんたちとの体験
さて解離性障害の患者さんたちとの出会いに一足遅れて、私は一群の患者さんと出会うことになる。なかなか本格的なラポールを形成することは難しく、私がそれらの人たちと会う前には、深呼吸をしたり、リラクセーションを必要とするような方たちである。(以下省略)