2010年12月31日金曜日

年末の雑感 その2

昨日は雑感1などと書いたので、今日は自動的に「その2」ということになる。今年はインパクトのある出来事がたくさん起きた。家族内の出来事、自分の健康状況、友人の離婚、同僚に起きたこと、などなど。ここに書けることはひとつもない。しかし基本的には自分は恵まれた状況にある。大きな不満や不安は特にない。酒もタバコもギャンブルも株も何もやらないから、金銭的な悩みは特に起きない。毎日の仕事は基本的には楽しい、と言えるだろう。自分が援助やサービスの提供を仕事とし、多くの場合は正当に相手に評価してもらえるのだから、こんなに恵まれたことはない。

もちろん仕事には苦労があるが、それは予想できないことではない。援助する力にはあまりに限界が多く、結果として助けることが出来ない。たとえばうつの人に薬を処方すると、一部の人は非常によくなる。臨床をしていて嬉しい時だ。しかしどうしても副作用が強くて服薬が中断になったりする。一番苦痛の強い時に、さらに無駄な1,2週間を過ごさせることになる。さらには様々な薬を使っても欝がよくならない人もいる。この仕事のもっともつらい部分といえる。
私は自分は恵まれていると書いたが、それはそのままでは後ろめたさを伴いかねない。するとその分はサービスの持ち出しを行うことでバランスを取ることになる。例えば患者とのメールの連絡は、プライベートな時間にかなりの時間を使うことになるが、特に煩わしさを感じないのは、それがこの「持ち出し分」を補っているからかも知れない。それに・・・・休みの日に大したことなど何もやっていないからだ。
ということで本当の雑感になってしまった。
ということで皆様よいお年を。

2010年12月30日木曜日

年末の雑感その1

昨日家人が見ていた番組(たけしの何とか何とか)に出てきた、鳩山邦夫の言葉。「これ、もう言っていいかな?」ともったいつけた後に出てきた彼の話は、やはり彼らしい。法務大臣として死刑を執行した時の話だが、M氏事件については順番を無視して犯人の死刑執行を行ったという。その根拠が、彼の主観に強く感じられる「こんな凶悪な犯罪を行ったものは、死刑執行をされるべきである」という思いだという。そしてその犯罪の凶悪さは、それにより人が何人犠牲になったかということとは別の問題である、と確かに言っていた。邦夫氏が時々、事を行う際に見せる確信に満ちた態度、それは一歩間違ったら非常に独善的なものになりかねず、その意味で彼は政治家としての資質を欠いていることは明らかであろうと思う。もちろん他にたくさんの才能を持つ人なのだろう。聞けば由紀夫氏とともに虫おたくであるという。学者としても大成したかもしれない。小役人でもひょっとしたらいいかもしれない。でも国政を任せる人として不適格なのは、一歩間違うと極めて独善的な決断で多くの人を犠牲にする可能性があるからであろうと思う。
(ちなみにここに述べた意見は、私が死刑制度の維持に賛成か、反対かという問題とは全く別のことである。)
ところで・・・・・
昨日は本当にしょうもないことを書いた。しかししょうもないことをあっという間に発信できるこのインターネットの世界は恐ろしい。少なくとも発信する側の一方通行という形にして、受け手のことを一切考えないという今の私のやり方でしか、この恐ろしさに対処できない気がする。
今年5月のGWから何の前触れもなく始まったこのブログであるが、最終的にどのような形になるかを模索する数ヶ月であった。その模索は今でも続いているが、スタイルは私の中では定まってきてはいる。それは自分にとってこの機会を利用し、書き続けるとしたらこのようになるしかない、という方向に向かってきている。明らかに執筆のために使っていることがある。本を書くために原稿を書きためる作業は、具体的な先の目標(一種の締め切り、原稿を見せる編集者など)を持たない限りモティベーションを維持することが大変である。このブログはそれを仮想的に作ることができる。
もうひとつの利用の仕方は、発想を書き留めておくという機会とすることである。これは一種の日記であるが、私の場合はそれを読み返さず、後に散逸することは分かっているので、このブログはそれをいくらかは防いでくれる。
Last, but not the least, これはもちろん考えを他者に伝達する手段である。しかしそれが押し付けになっては意味がないので、私のブログを読んでほしい、とは誰にも言っていない。(院生に一人二人、言ったかもしれない。)むしろ「読まないでほしい」ということのほうが多いのではないだろうか?しかし奇特にも読んでいただいた方とのコミュニケーションの機会があると、少なくとも私にとっては非常にありがたい。細かく考えを伝える手間が省けるからである。
ということで年が明けてももう少し続けようと思っている。ただし自己防衛のためにも、次のようなdisclaimer が必要であろう。


このブログは、決して職場のコンピューターで、勤務時間に執筆したものではありません。(というより、職場でインターネットを用いて職務以外のサイトを閲覧したことは一度もありません。)更新は常に職場とは無関係の自分のコンピューターで、しかも勤務時間外(昼休み時間は除く)で行っています。あるいは万が一勤務時間に行うことがあったとしても、職務に関連したこと(精神科の診療に深くかかわり、その啓蒙活動の一環として行ったもの)です。アブナイ、アブナイ。

2010年12月29日水曜日

今年でもっとも窮屈だった通勤時間 (全くどうでもいい話)

私は日ごろ腹を立てることは少ないが、あるとすれば通勤途中だ。はた迷惑な人々に遭遇するからだ。私は他人のことを考えない人は嫌いだ。醜く感じる。(ただし神さんによれば、私は自分がはた迷惑なことをしていることは、不思議と気が付かないらしい。「存在しているだけではた迷惑になっている」ということもあるから気が抜けない。)
今朝はいつものとおり表参道駅から銀座線に乗ると、ちょうど7人がけのシートに6人が座り、20センチほどのスペースが開いていた。年末だからこんなこともある。そこで腰を下ろすことにした。ちょっと詰めてくれれば一人分あく、という按配の隙間だ。十分タイミングを見計らい、座らせてほしいという手振りなどもしたつもりだったが、両隣の男は一切席をつめようとしない! 大抵こういうときはどちらかが少し腰を浮かせて移動してくれるものだ。さもなければ自分も窮屈な思いをするからである。ところが二人とも一切反応しないのである!! 特に右側の男は、意地を張ってでもいるように、目をつむって腕組みをしたっきり、一切動こうとしないのである。左の男は、ケータイに何か打ち込んでいる最中だったので、こちらも反応なし。お陰で「こんな窮屈な席に座ったことがない」、という状態で新橋まで耐えた。最期は意地である。同じようなことをしている中高年のオヤジを見たら、私はこんなことをつぶやいているはずだ。「ア~ア、そんなにまでして座りたいかなー」。でもこれは半ばプライドの問題なのだ。
新橋でやっと対面の席が空いたので、そこに移って自分が今まで「嵌って」いた席をあらためて見る。全然座る前から広がっていないではないか! 元々人が入れるスペースではないところに、私がいたわけだから窮屈だったのも無理はない。それでもその横長の席全体としては6人が結構余裕を持って座っているのだから、全体が少しずつ詰めれば済むことではないだろうか? 普通やらないか? しかも片方の男のコートなど、私の体が押していた部分だけ凹んだままなのである。まるで私の体の形がそこに残されているような感じ。私の体に押されてさぞ窮屈だったと思う。どうしてそこまで窮屈な思いをしてまで、横にずれることをしないのだろう?
ここを読んだ人は、なんと瑣末なことを ・・・ と思うかもしれないが、日中一番腹が立ち、人の本性を見た思いをするのはこのような時なのだから仕方がない。人の性質は、互いに匿名的anonymous になるような通勤時間、公衆の場であらわれる。既に関係性が出来ている間柄とはまったく別の顔を見せる。
まじまじと二人の男の顔を見る。もちろん私の方など見ようとせず、片方は目を閉じたまま、もう片方はケータイをいじっている。彼らはそれぞれの棲息する関係性の中でどんな人としてふるまっているんだろう? 案外すごく普通なんだろう。そこがまた不思議なところだ。
ところで私はさすがに女性の乗客から同様の対応をされるということはないように思う。その一点だけでも、私は世の女性が、男性どもよりはるかに好きである。私が嫌いな、彼女たちの車中の化粧だって、むしろかわいいくらいだ。男性は人のことを考えず、勝手でどうしようもない存在だ、と思うのはこういうときである。

2010年12月28日火曜日

解離に関する断章 その6. 会津若松の思い出

解離についての本を書き進めているが、昔の思い出話が出た。
そもそも私が精神科医として新人だった1980年の前半は、解離性障害という用語や概念は専門家の間でもほとんど注目されていなかった。もちろんその当時すでにアメリカでDSM-Ⅲは発行されていたが、そこに挙げられている診断としての解離性障害は、日本ではあまり解離性障害は話題になっていなかった。当然私も特に解離というテーマに興味を持つことなどなかったが、なぜか催眠現象には興味があった。その頃慶応大学の小此木助教授が主催する精神分析セミナーに通っていたが、そこでフロイトと催眠の関係などについてすでに聞いていたからであろう。
ちょうど1984年の夏だったと記憶している。当時会津若松に催眠の専門家がいるというのを聞いて、泊りがけで勉強をしに行ったということがあった。TU先生とおっしゃる方で、今でも福島県で臨床を続けていらっしゃる。そこで何度か先生が主として看護師に催眠を導入し、そのなぜか若くて美人ばかりの看護婦さんたちが、コロコロと催眠にかかるのを目の当たりにした。また私自身もかけてもらうという機会を持った。しかし・・・・私はこのとき間はまだ解離に「開眼」しなかったのである。催眠についても深く考えたわけではなかった。このとき看護師さんの一人にかりた50CCのバイクで、日曜日に五色沼を通り過ぎ、野口英世記念館まで行ってきた事を覚えている。それと読破しようと持っていったフランス語の原書 ”Mille Plateau” (Deleuse, Guattari) がまったく歯がたたなかったことくらいしか記憶にない。おそらくその時に私がTU先生によってコロッと催眠にでもかかっていたとしたら、少しは人生観が変わっていたかもしれなかったが、あいにくそうはならなかった。私は「なるべく同僚や友人に頼んで練習台になってもらいなさい。」とアドバイスを受けたが、サボり続けた。私は依然として催眠現象の意味深さや多重人格の存在を疑う側の人間、後に述べる「信じない派」のままであり続けた。

後に私がアメリカで1990年代の半ばから外傷というテーマに本格的にかかわった際に、その流れで再び解離現象に興味を持つことになった。そのアメリカでの体験であるが、ご存じの通り、1980年にDSM-IIIが出現して、いくつかの障害が一挙に世に出て精神医学の世界で市民権を得るということが、ちょうど留学当初に起きていた。それらのいくつかの障害とはPTSDであり、「ボーダーライン」であり、社交不安障害social phobiaであり、解離性障害だったわけである。解離性障害は精神医学的には従来のヒステリーの同義語であったにすぎないわけだが、それが解離という言葉に置き換わることで、ヒステリーという言葉が持っていたスティグマ性が失なわれ(これを私は、「ヒステリーが解毒された」、と称しているわけだが)、さらにはそれが外傷というテーマとの関連で紹介されたこともあり、非常に大きな影響を及ぼしていたわけである ・・・・。

2010年12月27日月曜日

解離に関する断章 その5 内的対象なのか、別人格なのか?

解離をめぐる問題で、臨床家が患者の症状が示唆する別人格の存在にとの程度向き合えるかどうかは、決定的な意味を持つ。私もある時期まではとても信じられなかった。私が留学中にメニンガー・クリニックで実際に解離性障害、特にDIDのケースについての症例検討会に出たときには、まったくそこで話されていることが理解できなかった。しかしDIDの症例に続けて出会ううちに少しずつ見方が変わってきた。
(つまらないから以下消去)


人格の精神分析学 (フェアベーン、山口泰司 講談社学術文庫)より

2010年12月26日日曜日

いわゆるA基準問題

今日は渋谷の○○(インターネットカフェ)で執筆。先週の木曜日にも立ち寄ったら、院生の××クンと鉢合わせ。都内の、まったく関係ない場所で知っている人と出会うということは、30年ぶりだ。ちなみに私が長くすんだカンザス州のトピーカは小さい町で、大き目のモールに行くと、たいてい患者さんの一人や二人、あるいはスタッフと出会った。これは案外居心地の悪い環境である。ある分析家は、スポーツジムで裸でシャワーを使っていたら、隣に自分の分析の患者さんがいてびっくりしたが、あちらはもっとびっくりしていた、とぼやいていた。東京にいると、そのような体験はまったくといっていいほどない。


いわゆるA基準、とはDSMにおけるPTSDのクライテリアのうち、「どのような外傷に遭遇したか」というものである。今執筆中のものだが、少し長めだがここに掲載する。

「私の患者さんに、外傷の経歴があるとは思えないにもかかわらずPTSD(Posttraumatic Stress Disorder, 心的外傷後ストレス障害)の症状を示している人がいます。その人もPTSDと言えるのでしょうか?」
つまり客観的に見て明らかな外傷なくして、外傷性精神障害はおきうるのか、という問いだ。当時の私はこの質問にかなり当惑したが、結局次のように答えたことを覚えている。

 (以下誰も読まないだろうから消去)

2010年12月25日土曜日

ある読者からの質問にお答えして

寒いクリスマス。といっても特に変わらない土曜日だが、とりあえず無事に迎えられていることに感謝。息子の帰郷も嬉しい。
今日はこのブログの読者から次のようなメールをいただいた。ここに部分的に公表させていただいても差し支えない内容だと判断した。私が以前書いた内容に非常に敏感に反応していただいた方であり、感謝している。


「・・・ 過去の出来事の記憶は、それを体験した主体を含みこんで存在する」と先生は書いておられますが、「出来る限り生々しい感情を認識すまい」と無意識に防御した時の記憶にも人格は存在するのでしょうか?つまり記憶そのものはあるんだけど、全く実感が湧かないという場合のことです。私の過去は失われてる記憶と、人ごとのように、でも鮮やかに覚えている記憶でいっぱいです。もし人ごとのようにしか感じられない体験にも別人格の存在を疑わねばならないとすると、私は相当数の別人格を持っている人間ということになり、それらすべてを統合することは不可能に近いような気がします。」

ある意味ではその通りだ、と私は思うようになっている。これまでにない心境である。ただしこうなると「別人格」の意味するものもおのずと変わってくることになる。ファジーな記憶を持っている場合、その記憶自体が時とともに風化していく性質のものであれば、それは自然なことだ。その記憶はエビングハウスの忘却曲線に従い、忘れ去られていく運命にあるだろう。しかしファジーでありながら予告もなくよみがえってくる記憶、そしてそれがある種の強い感情をともなっているようなものであれば、それを記憶したときの「自分」の状態も一緒に残っている、と考えられ、その自分はDIDの「別人格」萌芽のような性質を持っているということを言っているのだ。
だからあたかも見ず知らずの他人が自分をのっとっているかのようなイメージをお持ちになる必要はないだろう。「別人格」といっても、やはり自分自身なのだ。ただ催眠などを通してその時の自分に成り代わることで、そのファジーな体験が、感情をともなった生々しい体験となるだろう。ただしそのような体験は一生訪れないかもしれない。そもそも催眠にかかりづらい人も多いだろう。ですから私たちの多くは、過去の情緒的、外傷的でファジーな記憶を有する以上は多重人格的で、しかしそのことを自覚することもなく、また日常生活上支障をきたすことなく日常生活を送っているのだと思う。
ちなみに私は確かマイクロソフトのウィンドウズXPからついている「復元 recovery 」の機能と、この話が結びついてしまう。「復元とはタイムマシンだ」、と誰かが言っていたが、確かにこの機能はすごい。ウイルスにかかって、あるいは何かの理由により不具合が生じるようになって、どこをどういじっても治らないとき、例えば問題が生じていなかった一週間前の状態に戻すように「復元」を設定すると、その時の状態を回復し、またコンピューターが普通に動くようになる。「復元」の機能がつくようになって、ウィンドウズを再インストールする、ということをほとんどしないでも済むようになっている。でもこれってすごいことだ。「復元ポイント」が一定時間ごとに作られ、例えば一ヶ月前のコンピューターの状況が保存されている・・・・・。これってまさに多重人格的だ。復元ポイントが10あれば、10の状態で動くことが出来るポテンシャルをコンピューターは備えていることになる。でもそのためにハードディスクにかなりのスペースを使っているとか。私は人間が過去の事故を多重人格的に備えることがある、と考えるとき、このようなイメージを持っているのである。

2010年12月23日木曜日

解離に関する断章 その4 隠された観察者について

10年以上前に大ヒットした映画「メン・イン・ブラック」は私の大好きな映画で、何度も繰り返してみたが、その中に印象深いシーンがあった。登場人物が常軌を逸した行動を取り始める。それまでのまじめ人間エドガーが、UFOとコンタクトした時から目つきが変わり、やたらと砂糖水を飲みたがり、最後には発狂して殺され、解剖される。まるで何かにとり付かれたようになって死んだエドガーの頭部に蓋がみつかる。それを開けるとその中に小さな宇宙人がいて、操縦桿か握っているというわけだ。つまり小人の宇宙人が彼に取り付き、心と体を支配していた、というわけだが、非常に直感に訴えるわかりやすいシーンだ。ある人がこれまでとまったく異なった行動をとる。そしてその原因は、誰か別の魂が、その人をのっとり、脳を操っていたというわけだ。



 以下、省略)

2010年12月22日水曜日

解離に関する断章 その3  解離の概念の「作図線効果」、「地ならし効果」

昨日は大学院の学生たちに、チビを紹介した。チビはいきなりたくさんの人たちに囲まれて興奮し、そのあと呆然としていた。きっと解離状態だったのだろう。

引き続き解離の話
どの世界にも流行(はや)り廃(すた)れがある。精神医学の概念についても同様である。精神医療に従事して30年足らずの私は、身をもってそれを経験する機会に恵まれた。
その上で改めて問いたいのだが、新しい障害概念が特定の時代に専門家達の支持を集め、マスコミをにぎわし、また臨床にも貢献するのはなぜなのだろうか?例えば最近のアスペルガー談義である。臨床家の間でアスペルガー障害について話題にならない日はないのではないか? これまで少し変わっている、どこかおかしいが診断に困る、という人について考える際、「結局アスペルガーではなかったのか?」という考えが、日に何度か頭をよぎるという臨床かも少なくない。どうしてそのようなことが起きるのか?
私の考えでは、「それはその新しい概念が、すでに複数の異なる障害に少しずつ形を変えて顔をのぞかせていたからである」というのが私の考えである。
たとえば躁うつ病の患者さん、神経症の患者さん、あるいは一見何も問題のない若者が、衝動的に手首を切ったり、すぐ感情的になり他人とうまく関係を結ぶことができない人がいて、臨床家の頭を悩ませていたのですが、そこに境界性パーソナリティ障害(BPD)という考えが与えられたことで、それらの人に共通して存在していた精神障害が急速に注目を浴びるということが1970年代に生じたわけである。そしてBPDという概念がいったんできると、それが患者さんの持つ様々な問題をより見やすく表現することにつながったのである。

(長いので、以下略)

2010年12月21日火曜日

解離に関する断章 その2 今、どうして解離なのか?

解離は静かな流行を見せている。そこで問うてみたい。「なぜ今、解離なのだろうか? 現代の精神医学において解離の持つ意味はいかなるものなのだろうか? 」 これについてとりあえず解答を与えるならば、それは解離が脚光を帯び、また必要とされるような時代的な機が熟したからということになる。ただしその意味を理解していただくためには、解離の歴史にまで若干さかのぼる必要がある。
  (以下略)

2010年12月20日月曜日

解離に関する断章 その1

過去のぼんやりとした記憶の存在が、解離や別人格の決め手となる

私たちは過去の出来事の中で、実際にそれが起きたという実感がなかなか持てなかったり、それ自身がぼんやりと霞がかかったような感じがしてはっきりと想起できないような記憶を持つことがある。実際「中学の3年間が一切思い出せない」、「大学の一年のころ、○○町に下宿していた時のことが思い出せない」というような訴えを患者さんから聞くことがある。
このように過去の明確でない記憶は、それが解離状態にあり、おそらく別の人格、あるいは別の自己の状態により担われている可能性が高い。ただしそのようなファジーな記憶を持っている人たちは少なからずいる。それらの人々すべてが、DIDとしての症状を持っているかといえば、必ずしもそうではないであろう。ただし過去の出来事の記憶は、それを体験した主体を含みこんで存在するという考え方が私にとって徐々にリアリティを持つようになってきているのも確かである。わかりやすくいえば、私たちはあいまいな記憶の数だけの交代人格を持っている可能性があるということである。そこでこの機会に記憶と自己の解離という問題を捉えなおしてみたい。

(以下略)

2010年12月19日日曜日

治療論 その 19  本人が聞いてショックなことは言わない (一瞬考えるのはOK)

私は学生とか同僚とかに関連した書類をデータとして残す時、呼び捨てにせず、「●●さん修論草稿」という風に、「さん」「君」などを付ける。あるいはメールアドレスを登録する時は、「××先生自宅」「△△さん職場」という風にする。これはこれらのデータやアドレスが当人の目に触れた時、例えば「岡野の原稿」などと登録されるとしたらちょっとキツいな、と思うからだ。それを他人にはしたくないというわけである。
他人について考えを表明したり、その人に呼び名を付けたりする時、それを当人が見たらどういう印象をもたれるかということは比較的重要なことである。(だからこのブログでも、事実上誰のこともかけない、ということが起きている。登場人物はいつも、神さんかチビか、あるいは自分の話である。これではネタも尽きて当然というものでもある。)
さて治療論がこれとどう結びつくかということであるが、患者さんのことを考え、ケース検討会とかスーパービジョン、あるいは同僚の間での話題とするとき、それを当人が立ち聞きしていたとしたら、「裏切られた」「私のことをそんな言い方をするなんて、見損なった」と思うような話をするとしたら、何かがおかしいということだ。(この「何か」、にはその人が治療者をしていることそのものも含まれかねない。)
さて読者の中には、このテーマは、私が少なくとも2回くらいは書いたものと同じであるとお分かりになると思うし、例の「残心」のテーマとも通じるということをご理解のことと思う。またこのことは治療者がどのようなノートを取るのか、というテーマにも繋がるのだ。治療者の治療録に書かれることも、それを読まれたら患者が卒倒するようなことを記すべではない、というよりは書きたくなる心境になるとしたら、何かが間違っている。自分が治療者をしているということも含めて。
もちろん考えるのはいいのだ。あるいは本人が絶対に読まないような外国語で書くのもありかもしれない。
例えばある患者さんのことを「大嫌いだ!」と思ったとする。(ちなみに私はそのように思える患者さんは今はいない。これは断っておく。)

では心に思うことはどうだろう?
思い切ってある患者さんに「この●●●!」と思ったという場合を想定しよう。いや、これだと迫力がないので、「このピカチュー野郎!」ということにしよう。これだとワケがわからないし、誰も傷つかないだろう。よほどその患者さんに腹が立ったら、心の中でこうつぶやいて相手を呪うかもしれない。きっと次の瞬間には「自分は何を考えているんだろう?いくらなんでも自分の患者さんをピカチュー扱いするなんて(ぜんぜん迫力なし)」と思い直す。これならありである。一瞬心に浮かべ、それを打ち消す。しかしもし打ち消す気持ちさえないのなら、おそらく治療場面においても必ずそれは影響を与えてしまうだろう。そのような人と治療関係を維持することなど出来ないだろう。

だめだ。ピカチューという呼び方を用いた例を出したら、気が抜けてしまった。もう書く気力がない。
でもこれって面白いかもしれない。腹が立ったら思い切って言うのだ。

「このピカ!」ア、これだと別の意味に・・・・・。

2010年12月18日土曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その11

たまたま早朝に目が覚めてつけたNHKでやっていた桂米助の「天覧試合」。30分間の巧みな話芸で、言い間違いはただの一度。(9回の裏のことを、表といい掛けただけ。)いくら本人が野球好きといえ、この込み入ったストーリーをここまでスムーズに、しかも間違えずに出来るのはトレーニングか、それとも記憶のよさが関係しているのか? 私にはこの種の能力はまったくないので感心するだけだが、記憶力がいい人は、スルスルと入って、スルスルと出てくるのかもしれない。いやそんなに簡単なものとも思えないが、単なる努力の賜物とも思えない。才能と努力が合致しないと出来ない芸はこの世に多いのだろう。

いつまでもしつこく終わらないこのシリーズ 「怠け病」はあるのか?。いまだにすっきりしていないからである。今日は参考文献として「それは『うつ病』ではありません!」(林公一著 宝島社新書、2009年)を取り上げてみる。
わかりやすい題、テンポのよい書き方。でも最初のほうで「うつ病は治る」と強調しているのは、なぜだろうと思った。治らない(正確に言えば、治るまでの時間があまりに長すぎて、すっきり治ったという印象をとても持てずに何年も経過している、というべきか)患者さんが少なからず存在することは、臨床家だったら知らないはずはないのに。本書ではあとの方に「難治性うつ病」という表現も出てくるので、林先生はそれと「うつ病」を区別しているのかもしれないが、いずれにしてもわかりにくいし、誤解を招きやすい。
そして本書のキーワードでもある「擬態うつ病」。これは林先生が本書を書く以前から用いている概念であるが、ひとことで言えば、うつ病を装うことで安穏とし、責任を回避している人たち、という意味がある。「擬態うつ病のもたらしたもの」として、安住、薬漬けの日々、擬態うつ病の連鎖、とある。全体の主張としては、最近増えてきたうつ病の中には、この「擬態うつ病」が含まれているということだが、それらの人々はそれを隠れ蓑にして甘えている、怠けている、という糾弾の姿勢が感じられる。
例えばこんな記載。「人間関係、過酷な仕事ということで倒れたり、落ち込むのは自然な反応である」(163ページ)。そしてそれは薬よりは、関係の改善であったり、自然の落ち込みはそれに耐えることというわけだ。
ただここでわかりにくいのは、人間関係、過酷な仕事で倒れるのは自然なことだとしても、その中には休養や療養が必要な人もいるであろう、ということを認めるのかどうか、という点である。例えば受験に失敗して深刻に落ち込むのは、「自然」なことだろう。では3日間布団から起き上がれないのは? それもよくある話だとしても、では二週間寝たきりになったらどう?叱咤激励してたたき起こし、新たな受験勉強を強いるべきなのか?それで果たしてうまくいくのか?
ここでうつ病と「擬態うつ病」を分けるとことはよしとしよう。でもそれでは「擬態うつ病」は一種の詐病なのだろうか? それとも治療を必要とする別の精神疾患である可能性はないのか? ここら辺の問題は、林先生の著書を読んだあとも、やはりくすぶり続けてしまう。

2010年12月17日金曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その10 一応結論??

結局私の結論は・・・
昨日大学院の私のゼミで話したことが少し助けになり、この「怠け病」の問題に対する一応の結論を導くことができた。以前に同じテーマで考えた際にも至った結論だが、今回また同じになった。

「新型うつ病も、引きこもりも、甘えや怠けではなく、一種の恐怖症 phobia (ないしは不安障害)である。」

パニックディスオーダーになった人の話などを聞くと、ふとしたきっかけで、普段当たり前に出来ていたことが、急に出来なくなることがわかる。例えば電車の中で急に吐き気に襲われたということをきっかけにして、電車に乗れなくなってしまう。それまでごく普通に電車を利用していた人が、その電車で言葉に尽くせないほどの恐怖を体験すると、それに対する忌避反応が生じる。するとそれに関するあらゆることから足が遠ざかるのである。
電車恐怖になった人は、電車に乗らない限りは普通の生活ができるであろう。でも電車を使った外出ができない。そしてそれを恥に思って人に隠すと、「アイツは何だ、いろいろ理由をつけては結局出張を拒否しているけれど、会社では普段どおりじゃないか。仕事をえり好みするなんて、けしからんやつだ。」ということになる。
もちろんこの程度のことなら代償が効く。自動車を使えば遠出も可能だろう。でも代償がきかない場合もある。アメリカのある有名な学者は、自分の町以外の講演をすべて断っている。学会にも出ない。うわさによれば飛行機恐怖症だというが、本人はそれを隠し、かっこつけて、「私は怠け者だから、遠出までして講演をする気になんてなれないし、学会発表もしないのだ。」とか言っている。そして彼は変わり者、欲のないものといわれることに甘んじているのだ。
私が主張しようとしているのは、新型うつ病も、引きこもりも、ある状況に恐れ、それを避けて生きている姿として理解できるであろうということだ。私はこれで新型うつや引きこもりがすべてすっきり説明できるとは思わないが、ひとつの視点として有効だと思う。これらのいわゆる「退却神経症」と笠原先生が命名した状態は、外に出ることへの強い恐怖が存在する。
引きこもりに関しては、これが明らかに言える。ある患者さんは、自分の地元で、昔の学校のクラスメートにでもであったら、それは死を意味する、という類のことをおっしゃる。恐れていることは一つだから、それを回避出来ている時には何でも出来る。ゲームを楽しむことも、遠くの県に旅行だってできる。ところが周囲は、それを怠けとしてしか受け取らない。
新型うつについても似たようなことがおきる。仕事について、会社についてかかわることが怖いし、不安にさせるのである。それでも無理して仕事を続けるから、5時に帰宅する際には思わず開放感に襲われ、表情が和み、趣味に走るのだ。
このように考えると、新型うつは、普通の意味のうつではないと言えるかも知れない。これが昔は、「抑うつ神経症」と呼ばれていたのも理由のないことではないのである。

2010年12月15日水曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その9

実は怠けかどうかの議論が一番難しいのが、引きこもりの問題である。最近の傾向としては、引きこもりの人のかなりの部分がネットでゲームをするようになっている。私は少し前までは、「引きこもり≒怠け病」派であった。国際医療福祉大学が主催している市民講座「乃木坂スクール」で、和田秀樹先生と私は5年ほど前に精神医学の講座を企画したことがあったが、その中の「引きこもり」の講座の中で、私はこんなことを言った。「引きこもりの人は、インターネットを取り上げてはどうか?そうしたら彼らが部屋から出てくることに少しは貢献するのではないか?」
今から思い起こしてもいささか単純すぎる議論ではあるが、私はかなり本気だった。私もかなり過激な意見をもっていたのだ。
するとそのときに講師をお願いしていた斉藤環氏は、その意見に異を唱えた。彼に言わせれば、引きこもりからネットをとってしまうと、何もしなくなって廃人のようになってしまう、ということであった。彼に言わせれば、引きこもりの人は、決してゲームが楽しくてやっているわけではない、仕方がないからやっているというのである。そして少なくとも、ネットを取り上げることは、引きこもりを部屋から誘い出すことにはならない、と語った。私はその頃、パチンコ依存症さえも病気として捉えず、一種の甘えとして捉える傾向があったので、大きく考えを改める必要があった。
さてそれから、ネット依存の話題が出るようになった。いわゆる「ネトゲ廃人」などについても深く考えさせられるようになり、またしばらくぶりに斉藤先生と話をする機会が訪れた。そこでまた数年前と同じ質問をぶつけると、彼の返答は少かわっていた。彼はネットへの依存症が見られる場合には、ネットに関わる時間を制限するという方針を示した。これもまた納得がいくものであった。
つまりこういうことである。引きこもりが、ある種の中毒、嗜癖を維持するためのものであるなら、それは許容されるべきではないということだ。これはロジックとしてはすごくわかるのである。それにおそらくネットゲーム中毒になっている本人も、もしそれが引きこもりの主たる原因になっているのであれば、それを取り上げられることをアンフェアとは感じないだろう。
ちなみにネットゲームの場合には、その依存症を効率よく治療する方法は、理論上は存在する。それは、ポイントがたまったり、先の段階に進むにつれて、内容がつまらなくなるようにゲームを作っておくということだ。私も実際にやっていないので頓珍漢なことをいっているかもしれないが、ゲームはそれがどんどん先の段階に進むことが興奮を生むために、やめられなくなるということが生じているはずだ。新しい武器を獲得して、次第に高いレベルの力を駆使してより強力な敵を打ち負かし、より大きな満足を体験する、というように。進めば進むほど面白いからこそ人はそこにのめりこむのだろう。だとすれば、進めば進むほど武器が貧弱になり、アホらしくなってきたり、あるいは一定の段階でもうゲームオーバーになってしまうような仕掛けを作っておけば、深刻な嗜癖は抑えられるのではないか。ちょうど飲めば飲むほど味が薄くなるウィスキーのようなものだ。あるいは金儲けをすればするほど税金を取られてしまい、しかも脱税が出来ないような仕組みのようなものである。後者はどちらも実現するのは難しいだろうが、ネットゲームの場合はその内容を法律で規制することで、いわばゲームの「射幸心」を制限するというわけである。(もちろん裏ゲームというのもどんどん作られるだろうが。)
脱線を元に戻すと、引きこもりの場合は、それが怠けかどうかは、引きこもりがそれ自体苦痛なのか、むしろ安楽だったり快楽的だったりするかにより、それが「怠け」の類として理解するべきかが決まるということである。当たり前といえば当たり前かもしれないが。そして私の基本的な立場は、普通の引きこもりも、現代型のうつも、それ自体は基本的に苦痛をもたらすものであるというものなのである。

2010年12月14日火曜日

シリーズ「怠け病」はあるのか? その8

今日は「日本ウェルネット」のご招待で、八王子で「解離性障害入門」の講演。「かいじ」という特急で、八王子から30分あまりで新宿まで帰ってくることが出来た。充実した講演だった。

「新型うつ」(という呼び方をしておく)のうち、一番問題とされるのが、「5時までのうつ」「好きなことにはやる気が出るうつ」となどの特徴である。「うつというからには、何事にもやる気が出ないはずだ。楽しめる活動が一切なくなり、何をやるにも億劫で生きがいを見出せないのが本来のうつである」という主張には説得力がある。というより実は私が知っているうつとはまさにそのようなものだ。普段は楽しいことが出来ないから、時間をすごせなくなる。気を紛らわす手段がなくなるから、毎秒毎秒を刻々と過ごさなければならなくなり、息をしていることさえもつらいと感じるようになる。時間の流れがそのまま痛みになって襲ってくる、と言ってもいい。自殺念慮とは、そのようなどうしようもない苦しさの中から生じてくるのである。仕事になるとうつになる、なんてそんなヘンチクリンなうつなどない、と言いたい。
でも私は臨床経験からは、そのような形のうつもありうることも知っているつもりである。谷沢永一氏の「私の『そう・うつ60年』撃退法」 (講談社プラスアルファ文庫) という本は、そのようなうつについて見事に描写してある。氏によると、彼がうつでない時は、仕事に関する専門書も、それ以外の書も同様に読めるという。ところがうつ期に入ると、仕事上読まねばならない本についてはパタッと手が止まってしまうという。
さて問題はどうしてそのようなうつが「増えたか」ということであるが、これもまた微妙な問題を含む。うつが増えたかどうか、ということは実はとても複雑な問いなのだ。
先週の日曜日、国際フォーラムに向かうために有楽町の駅前を通ったら、「パ●●ル」(抗うつ剤の名前。別に伏字にする必要はないか。)によりうつになる人が増加」とかいうプラカードを掲げている何人かの人々に出会った。そのようなことを報じている大手の新聞の拡大コピーをプラカードにはっていたところを見ると、最近そのような報道が確かにあったのだろう。実際にパキシルに限らずSSRIにより自殺念慮が増したという問題は、ずいぶん前からアメリカで報道されている。SSRIは副作用も少なく、より処方が簡便な抗うつ剤といわれているが、そのSSRIが用いられるようになってから、うつを病む人の数が急増している。でもこれは、抗うつ剤を処方する内科の先生が増えたから、うつの診断を受ける人の数が結果的に増えた可能性も示唆している。あるいは診断を受けている人が身の回りに増えたから、自分もうつであると考えて精神科医や診療内科医のもとに走る人が増えたという可能性も否定できない。
そしてこの件に関する私の主張は以下のとおりだ。SSRIの使用に伴ううつ病の増加は、うつ病の数の水増しであり、本来うつ病でない人がうつ病のふりをしている、ということではないということだ。彼らもまたれっきとしたうつ病に苦しんでいるのである。ただその苦しみの質は、典型的なうつ病のそれとは多少質が違うだけである・・・・。
この点の説明のために、うつから少し離れた例を出したい。不登校や引きこもりである。これらの数は近年確実に増加傾向にある。終戦直後は人々は食うや食わずで、生きることに一生懸命になり、学校嫌いもいなかったし、引きこもりもいなかったというのは、大げさではあるにしてもある程度真実だったのだろう。ということは、今ものが豊かになった現代において数多く表れている不登校や引きこもりは、贅沢病diseases of affluence であり、怠けや甘えのせいだろうか? 答えは否であろう。(続く)

シリーズ「怠け病」はあるのか? その7

新型うつ病、ないしは現代型うつ病とは何か?名前からしていかにも一見新しそうな概念であるが、従来「非定型のうつ病」としてDSMなどに記載されているものと非常に近い。というか同じものといっていいだろう。うつには、メランコリー型と、非定型が分類されている。DSMの今のスタイルはDSM-Ⅲに始まるから、1980年以来、つまりもう30年も前からこの分類があることになる。新型うつ病は、特に「新しい」タイプのうつということでもないのだ。

メランコリー型とは、典型的なうつの性質を備えたもの。朝特に憂うつな気分であり、夕方に向かって気分が上向いていく。食欲がなくなり、夜も眠れない、といった点が特徴だ。正真正銘のうつ。誰もこちらのうつになった人を見て「あなた本当にうつ?」とは聞かないだろう。

それに比べて非定型の欝は、 過食、過眠が特徴である上に、rejection sensitivity という特徴がある。日本語にすると「見捨てられ過敏性」というわけだが、つまり人に拒否されたり見捨てられたりすることに敏感で、グーッと気分が落ち込んでくるのである。こちらが、怠け病と一緒にされる。「うつになりました」、といいながらグーグー寝てよく食べて、人にシカトされると落ち込み、ということは声をかけてもらえると気分を直し、という人は、なかなか本物のうつをやんでいる人として同情されないだろう。

実はこの非定型なうつは、昔は「抑うつ神経症」と呼ばれていたものだ。つまりは性格によるうつ、と見られていたという歴史がある。「あの人のうつ、というのは性格の問題だから」、といわれるようなうつと考えられていたということだ。

2010年12月12日日曜日

シリーズ「怠け病」はあるのか? その6 

今日は東京フォーラムで国際トラウマ解離学会の日本コンポーネントの会があった。いろいろ刺激になった。また別の機会に書こう。その後会場の隣のレストランで忘年会。最後は柴山雅俊先生にいろいろな先生方の似顔絵を描いてもらった。私も一枚描いていただいたのでここに掲載する。「女性の場合には慎重に、男性の場合にはテキトーに描く」、ということだ。でもすごくうまく出来ているように思う。

(承前) 怠け病のもう一つ重要な要素がある。それはあたかも症状を誇張して表現しているかのような印象を与えるという点である。「本当はたいしたことがないのに、病気のフリをしているのではないか?」「他人の同情を買おうとしているのではないか?」という疑いがそれに対して向けられる。「熱っぽいので、仕事を休ませてください」という電話に対して、「甘えているんじゃないのか?」という疑いを持つことは、自分があきらめ・怠けモードにあることを正当化するために、その根拠を周囲に過剰に申告しているのではないか、と問われることをも含むわけである。
そこで最終的に問いたいのが「現代型うつ病」についてなのだが、告白すれば、私はこの「現代型うつ病」というのがわからないのだ。しかし確かなのは、このうつ病が最近急増している、と考えられるらしいこと、そしてこれが実はうつ病モドキという扱いを受けていること。一種の怠け病という疑いをかけられる傾向にある、ということである。怠け病はない、という私の主張を当てはまるならば、「現代型うつ病は、本当のうつ病である」という結論に至るはずだが、本当にそうなのだろうか?
一度実はこのことについて思考をめぐらせたことがあるが、一応そうなった。しかしちょっと複雑な理屈が絡むのである。そのことについて少しゆっくり考えてみたい。

2010年12月11日土曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その5  うつの話に行く前に

今日は岩崎学術出版社の「精神分析学事典」をPDFにした。高価な事典である。生前小此木先生が心血を注ぎ、2万円以上もする高価で大部(690ページ)の事典として出版されたが、バラバラにされて見るも無残なごみになってしまった。でもその代わりどこにでも持っていけるファイルに生まれ変わったことは嬉しい。丁寧にカラースキャンをして、圧縮しなかったら、たらなんと500メガバイト(0.5ギガバイト)の巨大なファイルになってしまったが。ただし私がこの事典を過去の数年間ほとんど開いたことがないのは、単に重いから、持ち運びが不便だから、というだけではない。不勉強だからだ。ということは、せっかくPDFにしても、意味がなかった?・・・・。やっぱりこれは罰当たりな行為だろうか?本を大切にするという立場の人は、悪夢にうなされるのではないか?

(承前)うつの話が一応メインなので、そこに行く前に寄り道。
人の心には常にある種のプロトティピカルな弁証法が働いている。それは特に葛藤状況で表れ、心の中では二つのモードが綱引きを演じる。一つは「あきらめ・怠けモード」。「もうたいがいにしようよ。」「あきらめて楽な道を行こうよ。」もう一つは「イケイケ・モード」。「ほら、頑張れよ。」「そんなことでくじけてどうする。またあとで後悔するぞ。」という感じだ。

私の得意な卑近な例。私は毎日通勤電車に乗るときにこの綱引きを繰り返している。地下鉄のホームに向かう階段の下から、いま列車を降りた風の乗客がパラパラと階段を上ってくる。こういうときが通勤客にとって一番悩ましい。走れば間に合うかもしれず、しまりかけるドアをかいくぐって列車に滑り込み、達成感を味わう。これがイケイケ・モードだ。他方あきらめ・怠けモードだと、「のんびりと行こうぜ。どうせ間に合わないよ。」しかしホームに着けば、明らかに少し急げば間に合ったタイミングであったことがわかり、行けば出て行ったばかりの電車を見送るむなしさを味わう。じゃ、イケイケで行くべきだったのか?でも走るのは億劫だし、血相を変えた初老の男がホームに駆け下りるのに出会う人たちも不快だろう。どちらにも一長一短ある。そんな時このモードが戦っている。よく考えればキャノンの「闘争・逃避反応」もこれに相当するのでは。動物界は、みなこの綱引きれを無意識的にやっているのかもしれない。

電車を捕まえるというときの卑近な例を出したが、人生も同じだ。風邪をひいて仕事に行くべきか迷う。この葛藤だ。このモードがどうして典型的かといえば、迷っている彼にアドバイスを求めると、たいていこの二つしかでないからだ。

さてこの二つのモードのどちらが優勢を占めるかは、その個人のおかれた環境がおそらく非常に大きな影響を与えるだろう。大体どちらかにプラスの価値が与えられる。格好を気にする場合には、「あきらめ・怠けモード」に軍配が上がる可能性がある。例えば進学校でなければ、学校の勉強を一生懸命することは、結構ダサいはずだ。進学校だって、期末テストを前に、「期末の準備?ゼーンゼン。昨日も12時間寝ちゃったよ」というのは圧倒的におしゃれだろう。

でもそんな不勉強男が放課後の部活に入ると、たちまち厳しい先輩が待っているはずだ。わずか一年先に入学しているだけの先輩に「お前ら、着替えが遅かったな。たるんでるぞ。校庭を3周走って来い。」といわれて、たちまちイケイケモードの世界に入る。そして日本では社会に出るということはこのモードに入ることだ。

2010年12月9日木曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その4

(承前)
このように考えると、「怠け病だ」という糾弾は、日本人のきまじめさ、勤労精神に反する行為に向けられるのであり、つまりは日本人の勤勉さの表れ、ということになるだろう。ただそれだけではない。仕事を休む人に向かって「それは怠け病だ」という人の中に、私は一種の悪意さえ読み取る。否、悪意とまではいえなくても、ある種の怨嗟の念を感じる。「みんな真面目に働いているのに、なぜあなただけそれを免除されるんだ!」 というわけだ。自分だって苦労しているのだから。確かにこのロジックは強力だ。社会生活の中で、このような主張は常に勝つことになる。それも日本だけではない。
さて「怠け病」といわれる本人の体験はどうか?これが実に複雑なのだ。たとえば今日は朝から何となくだるい。熱を計ると36.9度。ビミョーである。何となくのどに鈍痛があり、風邪の引きはじめという気がしないでもない。そこで職場に電話を入れて、今日は休ませで欲しいと告げる。すると上司が「君に休まれるとこまるんだよ。みんな頑張ってでてきているんだよ。」「・・・・・・・・」「どうしたの、よほど具合が悪いの?」「家、熱が少し・・・・。といっても7度はないんですけれど・・・」「何だ、そんなの病気でもなんでもないよ。怠けじゃない?」

そう言われたあなたは、本当にこれが甘えではないか、といったんは思うのだ。自分はなんでもないことをさも大変そうに言って、楽をしようとしているのではないか?自分のいつもの悪い癖が出て、手を抜こうとしているのではないか?
私たちの大部分は、日ごろの仕事や勉強を半ばいやいやながら、それでも自分に鞭打って行っているというところがある。よほど好きでやっていることでもない限り、私たちの日常の活動は、半ば義務感で、そしてある程度の楽しみも感じつつ行っていることばかりである。サボりたい、休みたいという願望と、手を抜くな、頑張れ、という声の両方を聞きながら何とか義務をこなしているのだ。
仕事ではないが、義務という観点からダイエットをする時を考えよう。読者のほとんどが何らかの経験を持っていることと思う。少し気を抜くとすぐ一日のカロリー摂取量が増える。するとそんな自分を叱るもうひとつの声が、「気を抜くな」という。これらの両方の声に揺れ動きながら私たちはダイエットを続けている。だから「手抜きではないか?」、「サボりではないか?」という考えはいとも簡単に私たちの心の中に響き、それに同一化しようとする。そしてほとんどの場合、「怠けだ」「甘えだ」、という声は正解である。いつも自分を両方向から引っ張る声のひとつだからだ。そしてほんの一部は、不正解である可能性がある。休みたい、しんどい、という願望は「怠け」ではなく、それにしたがって仕事を休まないがために心身に負担が及ぶ。こうして本物のうつが進行していくのである。

2010年12月8日水曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その3

(承前)さて体の調子をちょっと崩して仕事を2,3日休むことを決めた人に対して、その家族や同僚はどうして「甘えだ」「怠け病じゃないか?」と責めることが多いのだろうか?その理由は余り明らかではないが、いくつか思っていることがある。一つには文化的なことがあるだろう。
日本の文化においては、皆が一生懸命働くということが、相変わらず美徳とされる。町を歩いていると、宅配便のお兄さんたちが、カートを走って押してお届け物をしているのを見かける。きっと彼らは「配送の際は小走りで」、というインストラクションを本社から受けているはずだが、それにしても誰も見ていないのに手を抜いて歩みを止めるということもせず、凄いな、と私は思う。私は十数年も、はるかにのんびりとしてあくせくしない(そしてあまり努力もしない?)アメリカ人を眺めてきたから、その違いはすごくよくわかる。

患者さんたちの語る彼らの職場の様子も、一生懸命は日本人にとって至上命令であるかのようだ。もちろん最近の若い世代では違ってきているのかもしれない。もっと自由を謳歌し、それ以外には手を抜く、という傾向が生まれているのかもしれない。しかし若者がマイペースになり、ハングリー精神を失っている、という懸念や指摘は、私が「若者」だった頃もあった。でも学生時代は散々遊んでいても、就職の時期を迎えれば、同級生たちは見事に変身して行った。今の若者も、就職のときはさすがに茶髪を黒に染め戻してリクルートスーツを身にまとう。結局すごくまじめになって社会人になるのだ。そのギャップが大きくなってきているというだけだろう。

そしてこのまじめさ、一生懸命さはおそらく日本文化を長年依然として支えているのだろう。日本製品の品質は工芸品から電気製品、農産物も含めて依然として極めて高い。最近では電化製品では韓国に大きく水をあけられたりしているといっても、中国や韓国のように国がてこ入れをして競争に力を入れる結果として一時的に生産性があがっているのとは、歴史が違う。日本人は根のまじめさや勤労精神から品質を高め、競争力を培っていると思う。
ではそのような文化を支える一生懸命の精神とは、その力を緩めようとするあらゆる傾向に対して警鐘を鳴らし、それを道徳的に糾弾するという姿勢だ。つまり「怠けじゃないの?」という疑惑の視線というわけだ。
私自身根っからのまじめさという文化をどうしようもなく受け継いでいるところがある。夏の間の「パリ留学記」を少しでもお読みになった方は、私の病的なほどのまじめさが表れているのを感じていただけたかもしれない。(自分で言うのもナンだが。)そしてその一部は、たとえば母親のまじめさ、そして自分がいかに小さい頃から熱心に勉強し、いかに苦労してきたかという話に影響を受けている。「昔は夜は電気がなかったからね、暗闇の中で広告の裏に昼間学校で教わったことをビッシリ書くのよ。次の日見たら真っ黒になるまで書いてあったのよ。」などという話を聞いたものだ。「努力しなくてはいけない」という超自我が心の中にデン、と据付けられたようなものだ。(まだ続く)

2010年12月7日火曜日

シリーズ「怠け病」はあるのか? その2

「怠け病」とミュンヒハウゼン病、詐病の区別をつけていないので、話は見えにくいかもしれない。三本の糸はまだ絡まったままである。書きながら解いていくつもりであるが、その方向性はある程度定まっている。それはミュンヒハウゼン病、詐病は存在するが「怠け病」は存在しない、ということである。あるいは私はこれまでそう言いつづけて来た。人が病気を得ると、そして特に精神科的な病気になると、精神科医が診断を下す間に、真っ先に家族につけられるかもしれないのが、「怠け病」である。

うつ病を考えよう。このごろ何となく気分が乗らない。浮かない。これまでできたことが急に億劫になっている。でもうつの初期はまだ笑顔は出るし、好きなことなら出来る。しかしこれまで義務でやっていたことは急に体が動かなくなるのだ。そこで仕事も休みがちになる。

「なんとなくダルいなあ。今日は仕事(別に学校でもいい)を休んじゃおうか。」すると周囲、特に親や配偶者などのは、「そうやって怠けてるんじゃないの?」という反応になることが多い。

もちろんそれ以外の反応もある。「まあ、あなたらしくないね。仕事を休むなんて余程のことじゃない? 医者にでも診てもらえば?」とむしろびっくりされることもある。このほうはむしろラッキーである。自制心力が強く、頑張り屋の性格の人は、運がよければこうやって優しい言葉をかけてもらえるかもしれない。しかし環境があなたの頑張り屋を当然のものとし、むしろがんばればがんばるほど仕事を任せられた場合、これまでの頑張りは「当たり前」とみなされ、それが出来ないと「怠けてんじゃないの?」となる。あたかも人はいつも怠け、手を抜いてしまおうという願望を常に持ち続けていて、それを実際に満たしている状態が「怠け病」とでも言いたげなのだ。である。だから「怠け病」はその病名を就けられた人ではなく、むしろつけた人の問題をあらわしていると言うわけだ。

「怠け病」はない、という主張はつまり、「怠け病」という言葉を使う人に見られる独特の視点へのアンチテーゼというわけである。もちろん私の立場自体が極端すぎる可能性はある。しかし私にとっては精神科医であるということと、このアンチテーゼを掲げているということは、かなり密接に結びついている。結構この問題に関してはムキにならざるを得ない。

ところでこの「怠け病」とほぼ同義の、ものすごく強い概念がある。それが「甘え」である。土居先生に敬意を表し、「甘え」を基本的にはポジティブなものとするならば、「甘え病」といったほうがより性格ということになる。

では「怠け病」はない、とはどういうことか? それは人は好き好んで怠けるのは難しいということだ。これまで熱心に通っていた仕事を怠けるようになる、とはどういうことか?それは仕事を行う意欲をなくした状態といえる。しかし人は健全な場合は、ひとつのことに意欲や興味をなくすだけには終わらない。興味は別の方向に向かう。それがより安易で快楽的な活動に向かうか、より困難で苦しみを伴うものなのかはわからない。前者はたとえば、しかし普通は「何もしなくなる」(怠ける)方向には向かわない。それはたとえば趣味やゲームに熱中したり、酒や女におぼれるという形をとるかもしれない。もし後者なら突然山に修行に出かけたり、四国にお遍路さんに出かけたりするだろう。いずれもこれらは「怠ける」という風には形容されない。身を持ち崩すとか、突然悟りを開いたり、第二の人生を歩み始めたとかいわれるだろう。いずれにせよ私が言いたいのは、人はひとつの活動をやめても、他の運動やそれにより得られるような快感刺激を求めるのがより自然だからだ。

だからもし純粋に「怠けている」様に見えるとしたら、それはその人の活動レベルが、それまでに高すぎ、いったん休む必要が生じたということになるが、そうなるとこれは怠けではなく必要な「休息」ということになる。

結局「怠け病」といわれる状態はたいていは、欝や身体の不調による活動低下という、それ自体が疾患に伴うものであることが多い。それでも人は活動が落ちて仕事や通学が出来なくなった人々を「怠け病」や「甘え」と真っ先に決め付けてしまう。これはなぜなのだろう?(運よければ続き。)

2010年12月6日月曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか?

事典項目【ミュンヒハウゼン症候群】について書いていてわからなくなってしまった。ミュンヒハウゼン症候群に代表されるいわゆる虚偽性障害は、詐病(病気のフリをすること)とは違う。詐病の場合は、病気のフリをすることで実利を得ることを目的とする。だから詐病は実は「病気」ではない。DSMもそこら辺は考えているようで、「V65.2」というコードを与えられ、「臨床上注目される状態」となっている。どうでもいいようだが、とても大事なテーマだ。 虚偽性障害は詐病とは違い、一応病気として扱われる。どうして同じように病気の不利をしているのに、詐病だと病気ではなく、虚偽性障害は病気扱いされるかというと・・・・・・。これが実はよくわからない。一応理屈からいうと、虚偽性の場合には、病気の不利をするが、別に実利を追求しない、というところが・・・・・・病的なのだ。普通はしないことだからということである。病気のフリをして病院に入り、ケアをしてもらうことをなぜ人はしないか、というとそれが何の特にもならないだけではなく、むしろ不利になるからだろう。
その意味ではミュンヒハウゼン症候群は、自傷行為にも似ている。自分の手を切る、髪の毛をむしるということは自己を痛めつける行為であり、普通の人はやらない。それと同様に、自ら進んで自分に病気の状態を作り、病院に入るのも普通の人はやらないことだから、病気として扱うというわけだ。それはそうだろう。誰だってバイキンの混じった水を自分に注射したり、捻挫をわざとしては救急を訪れるのは、普通はいやだ。自分に痛いことをする人はよほどの変わり者、正常とはいえない状態、つまり病気だということになる。
さてここからがわからないところだ。病院に入り、包帯を巻いてもらい、三食を出されることは自傷行為に本当に似ているのだろうか?むしろ詐病に似てはいまいか?つまり虚偽性障害の中で、それほど「痛くない」状態があり、それは明らかな虚偽性障害と詐病の中間くらいに位置することになる。こんな感じになる。

 
 典型的な虚偽性障害 ・・・・ 明らかに「痛い」こと、たとえば傷口を汚い手で触ってわざと化膿さ
                   せて病院でケアをしてもらう、など。
 典型的な詐病 ・・・・ あまり痛いことはせず、もっぱら病気であると申し立てて、傷病手当をもら
               う、など。
 中間の状態 ・・・・ あまり痛いことを自らにせず、病院でケアをしてもらうこと。
 つまり中間な状態とは、実はそこに「実利」に少し近いことがあたかも報酬のように与えられ、それでも普通の人は満足しないにもかかわらず、当人はそれをよしとしてしまう状態だ。

 
わかりやすくいえば、病院という場所が好きでしょうがない人、看護婦さんに包帯を巻いてもらうことが喜びである人の場合、その虚偽性障害は詐病とほとんど変わらなくなってしまうのではないか、という問題が生じてくるのだ。
さてこれほど長々と前置きをしたが、この「中間の状態」は冒頭の「怠け病」に近づいてくるのである。そして怠け病とは、現在極めて増加しているといわれている「新型うつ病」の一つの見え方なのである。(続く。そりゃそうだろう。)

2010年12月5日日曜日

12月にしては穏やかで暖かな一日。今日は四谷で日本精神分析協会の大会であった。北山修先生、奥寺崇先生による、国際精神分析協会北京大会への参加の報告。言論の自由が奪われている中国で、自由連想を主体とした精神分析が成り立つか、あるいは西欧社会で成立した精神分析が、アジア人にどのような意味を持つのか、などのテーマについて考えさえられる。

PDF化、思った以上に進んでいる。分厚い本がファイルになって、その体積が無限小になり、USB
メモリーに何冊でも持ち歩けるようになる。しかも本棚に確実に隙間が広がっていく。最後には本や書類が消えて、大きな画面のモニターに一ページ一ページを映し出すようになる・・・・。それらの本を実際に読む保証はあまりないのだが、それでもこれまでに数限りない引越しをするたびに本を詰めた段ボール箱の山と戦ってきたあの苦労から解放されると思うと幸せである。

2010年12月4日土曜日

治療論(いちおう) 18 叱り付けない(続き)

昨日はあんなことを書いたが、それは叱りつけることで大切なことが伝えられることはある。そのくらいはわかっている。人が誰かに何かを伝えたいとき、叱責するということはあるだろう。そこにこめられた気迫、感情、思いといったものがそのメッセージに込められることになる。しかし叱ることには加害的な要素がしばしば加わり、それは不必要な形で人を傷つける。ある人がメッセージを伝えるとき、相手にそれに対する注意を喚起する分だけ、それが確実に伝わる可能性があることになる。叱るということは、つまり大きな声を上げて、相手の過ちを指摘することだが、それにより衝撃を受け、一瞬にして身が引き締まり、場合によっては怒りや悲しみに襲われつつメッセージが伝えられる。おそらくそれが許されるのは、叱る側も叱られる側と同じ痛みを味わっているときであろう。どうしても教え、伝えたい内容が、ゆっくり念を入れ、時間をかけて伝えられる量をはるかに超えている時、人は厳しく叱責しながらそれを伝えることにもなるだろう。そうすることは教える側も、教えられる側以上にしんどい。


いったい親はどこまで子供に時間をかけ、教えるべきか、どこまで叱責が許容されるべきか、ということを、私は神さんが息子に公文の算数と国語を教え込むのに付き合いながら考え続けた。うちの神さんは、アメリカで日本語を知らずに息子が育つことを懸念して、公文の教師の資格まで取り、地元のアメリカ人の子供たちを教えながら、息子を鍛え上げたが、毎日が大変な剣幕の連続だった。しかしこの剣幕は、叱責はやはり愛情と言い換えられるのだろうと思っていた。子供が教えたことができれば喜び、できなければ怒るというプロセスを二人三脚でやってくれる存在からは、いくら怒られても外傷とはなりえないのだろう。

ではこの愛情としての叱責を行える存在は果たしてどの程度いるかといえば、それは人生を通じてごくわずかなのだろう。そしてそれ以外の大部分の叱責は、ナルシシズムやサディズムの混入を免れないのだと思う。

2010年12月3日金曜日

治療論(いちおう) 18 叱り付けない

私は幸い、ひどく叱り付けられたことはほとんどない。理不尽な叱り方をされたのは、中学校2年のころ、数学の教師に雷を落とされたことぐらいしか、思い浮かばない。そして人を叱りつけることも不慣れである。叱ったことがないわけではないが、その結果として決していい思いはしなかった。ただしここでは自分の子供を「叱る」ことは一応カウントしないことにする。だって子供って理不尽だし、最後には声を荒げて従わせる、という部分はどうしても起きてくるからだ。じゃないと親をやってられないというところがある。それに子供のほうも怒鳴られているうちに平気になってしまい、親が怒鳴っても平気で無視する、ということもおきてくる。
息子が思春期に入ってから、私は一度だけ叱ったことがあった。ただ「こんなときは父親は叱るのかな。じゃそうしてみるか。」という感じだった。それからしばらくはテキは口をきかなくなってしまった。
そしてポツリ。「パパはわかっていない。」 
もうこんなことは二度とすまい、と思った。(幸い息子は非行に走ることなく、無事成人した。)
また恐れ多いことだが神さんに声を荒げたことがある。実は患者さんにも一度ある。それらの結果も無残だったことはどこかに書いたから繰り返さない。(神さんは「幸いにも椅子を持ち上げなかった」、云々、というやつだ。) 
だいたい人は叱っても変わらない。というより余計意固地になる。行動が変わったとしても力に屈しているというだけだ。ほとんどの場合恨みを残す。よく叱られて師の愛情がわかった、などという美談を聞くが、大部分は眉唾である。だいたいが「師」の方の短気である。「これこれのことを教え諭したい。でもそのための手順が少し大変だ。そもそも弟子は師匠のいうことを聞くものである。だから一喝してしまおう」、となる。これは鬱憤晴らしかもしれない。あるいは一種の手抜きだ。なぜ手抜きかといえば「~という理由だから、~それをしてはいけないよ。なにか質問や反論はある?」というより、「××をやめよ!」というほうが時間がかからないからだ。
叱られた当人の心は一時的にグシャッとなっている。一種のトラウマといっていい。そのダメージはつけとなって、少なくとも一部は師匠の方に回ってくると考えなくてはならない。少なくともグシャッとなった心は、もはや「××をやめよ」を理性的には聞いていない。××は、~だからしてはいけないのだ。という部分が抜けている。××は、なんだか大変なことになってしまうから、怒られるから、してはいけない、でとどまる。
しかし弟子も少しひねてくると、「××してはだめだ、と言っているのは師匠、あなただけですよ。まったくなんて理不尽なんだ。」となる。あるいは師匠がうっぷん晴らしで叱っていると、叱られた方は、それを敏感にわかるものである。叱責はますます威力を失う。
だいたい人を叱る、とは大変なことなのだ。叱るということは、人に平手を食らわすようなものだ。相手の顔は苦痛でゆがむし、こちらの手だって相当痛い。少なくともしばらくはビリビリ感が残る。そしてそれがトラウマを残す。これはよろしくない。人の心はすさみ、治癒に時間がかかる。しかし人類史上、人はみな弟子を、部下を、子供をマイノリティを叱り続けてきたのだ。
私は動物世界の方がフェアではないかと思う。私がよく見るNHKの番組に、日曜7時半からの「ダーウィンが来た」がある。この間はコブダイの争いをやっていたが、これはネチネチしていない。領地を侵入されたオスのコブダイは、早速相手を攻撃する。理由がはっきりしている。知恵がついた人間は、勝手に領地を作っておいて、「ここはオレの領地だということもわからないのか。無礼なやつだ!」となってしまうのである。(運がよければ続く。)

2010年12月2日木曜日

精神科医のデンタルIQ

市川海老蔵の事はやはり気になる。もちろん彼の身になったらどう感じるだろう、という意味でであるが、今秋放映されたNHKの「プロフェッショナルたち」で確かに彼は、「人がどう思っているかは気にならない」と言っていた。つまり彼はこんな目にあって大変だろう、という私の思いと、彼自身の主観的な体験とはまったく異なる可能性があるだろう。とはいえ自業自得だと人はいうかもしれないが、自分の怪我でたくさんのファンに迷惑をかけたことを痛みに感じない人はいないはずだ。

さて今日の話。かつてあるパーティで、カリフォルニアで開業していた日本人の歯科医から、デンタルIQという話を聞いた。彼らはそんな概念を持っているらしい。「あの患者は、デンタルIQ低くてね。」とか仲間同士で言い合っているのかもしれない。
今気になって、“dental IQ” というキーワードで検索してみると、そのテストまであるではないか?
http://www.hooah4health.com/prevention/disease/dentaldisease/docs/What_is_Your_Dental_IQ.pdf (「デンタルIQテスト」??)
私が知る限り最もこのdental IQ が最も低い部類に属するのが、毛沢東である。彼の主治医による伝記(Li Zhi-Sui :The Private Life of Chairman Mao Random House, 1996) には、彼の口の中の事情が書いてあり、かなりショッキングだった。そもそも歯を磨く習慣がない彼の口の中がどれほど苔むしていたかは、想像ができない。毛沢東の主治医であった著者の観察では、中は緑色で歯も見えなかったとか書いてあった。口臭なども想像するだけでも・・・・・。
さて私も相当デンタルIQは低い方なはずだ。熱心に歯を磨かないからだ。まあ平均一日一回は最低磨くが、定時でなく思い立ったとき、それもテキトーな磨き方、である。そしてこれには理由がある。私の歯は、年齢とともに着実に崩壊している。幸い歯周囲炎はあまり目立っていないが、虫歯菌(「ミュータンス菌」、とか言うそうな)は非常にゆっくりと、しかし着実に私の歯を溶かし続けている。そしてそれがいかに私ががんばって歯磨きをしたかとは関係ないようである。

実は私もかつて何度か、歯磨きをがんばったことがある。今日から毎日きちんきちんと磨けば、もう歯医者でいたい思いをし、高いクラウンで散在しなくてもいいのだ。そして半年がんばって磨き、年二回のチェックに訪れたときに、また新たな虫歯を二本指摘されたときの落胆。それを歯科医に言うと、もちろん「磨き方が悪いからです。」といわれる。そりゃそうかもしれない。しかしこんなことが2度ほどあって、私は確信したのである。どんなことがあっても、私の虫歯は進行する。がんばって歯を磨けば、その進行をほんの少し遅くするかもしれない。でも結局は進行して、その結果クラウンをかぶる歯が増えていく。幸い一度クラウンをかぶった歯はその後は無事である。ということは歯磨きをそんなに熱心にやらなくたって、全部クラウンになったら、もう歯医者とは縁を切れるのではないか。これは私の本音だが、歯科医からすれば、私のデンタルIQは、40くらいだといわれてしまうだろう。
私は最近日本人がこれまで以上に歯磨きに熱心になっていると感じる。人のことは放っておきたいのだが、人はなぜ歯を磨くときに鏡でそれを見る習慣があるのだろうか? お手洗いで鏡の前をあまり占領されてしまうと、気の弱い私は手も洗わないで出てきてしまう。こんなことが重なると私のデンタルIQはもっと下がってしまいそうである。

2010年12月1日水曜日

解離現象と「火山モデル」

私は最近、解離性障害について、火山活動の比喩で患者さんやその家族に説明することが多くなってきている。これは解離という現象が長い目で見た場合のある程度の予測可能性と、日常生活レベルで見られる予測不可能性からなり、それが自然現象、例えば地震や火山活動、気象現象などと非常に似ているところがあるからだ。だから解離の患者さんの治療中にいきなり「火山を思い浮かべていただければわかるとおり・・・・」などと話し出して、とっぴな例を出す医者だ、と思われていないとも限らない。しかしこちらは何とか説明をわかって欲しい一心なので、使える比喩は使わせていただきたいと思っているわけである。
ただ学問的に言っても、自然現象と脳の活動とはある意味で非常に類似している。どちらも複雑系において生じる様々な現象であり、その基本的なあり方はカオスに近い。カオス、とは科学的に用いる場合は、確か「ある決定論的な手続きで生じながらも決して定常状態に至らない現象」とか何とか定義されるはずであるが、わかりやすく言えば、ある種のパターン(≒揺らぎ)はかろうじて見出せても、それが決して確かな規則性を見出すことができない、ということである。ちょうど地震について言えば、火山活動がある地方で頻発することがわかっていても、実際にその地方で、何年おきに地震が生じるかを決して正確には知ることが出来ないということであり、実は自然現象はことごとくこのような性質を持つ。(地球の自転の速さだって、一回ごとに揺らいでいて、しかもしだいに遅くなっている、という風に。何か当たり前のことを言っているようだな。)同様に交代人格の出現だって、あるいは時々生じる激しい人格部分による興奮状態にしても、そこに正確な規則性を見出すことは出来ない。(もちろん、人間の脳を自然と同じように極めて複雑な体系として理解しているわけであるから、脳において生じることは同様の性質を持つことには変わりない。てんかん発作、躁転、欝のエピソード、神さんの気分、みなある程度の周期性は伺われても、性格にはその変化を知りえない。)
さてこんなことがどうして重要になるかというと、解離性障害を持つ人は、普段は十分に適応で来ていても、時々自分を抑えられないような興奮に襲われたり、記憶を失ったり、ということが生じるために、周囲から誤解されたり、職を失いかけたりするからである。そこでそのパターンを知り、予防する手段を一緒に考えるのであるが、それが難しいのだ。
特に難しいのが、興奮する人格をどうするか、という問題である。解離性障害を持った方は日常が安定していてストレスが少ない場合は、平穏に生活を送ることができる場合が多い。この感情の嵐の鍵をしばしば握っているのが、患者さんの過去の特に深刻な外傷体験を担った人格である。その人格、ないしは人格部分は普通は眠っていることが多く、日常生活に支障をきたさないことが多い。しかしその人格は時には静寂を破って姿を現すかもしれない。その人格が果たしていずれは姿を現し、それが担っている記憶の処理を必要とするのかは、時には深刻な臨床的な課題となる。そのあり方が火山に似ているのだ。火山はそこに大きなマグマを貯めている可能性がある。そのマグマの力を無視することは将来の噴火の予防や、それに対する準備を怠ることにつながる。場合によっては、横に穴を開けて「ガス抜き」をする必要も生じるかもしれない。(実際の火山ではあまり考えられないか?・・・・)
しかしその火山は将来にわたって噴火することなく、死火山になる運命なのかもしれない。するとその火山にいたずらに刺激を与えることは避けるべきであろう。
日常の臨床は、その火山の性質を注意深く見据え、それが活火山でも、死火山でもありうる可能性を考えていなくてはならないのである。