2021年12月1日水曜日

解離における他者性 61

 まずは1から考えましょう。他者として見ずに、例えばその人自身の演技とみる。

 この演技という範囲は非常に広い。~と思い込んでいる。~のつもりになっている、というものを含むとしたら、どこまで「意図的」な行為かはわからない。そしてその演技の意図としては大抵が「注意を引こうとする」ため。というのが定番である。この最後の点については、以下の文章を約7年前にこのブログに乗せたことがある。2015111日である。

先日「プリズム」(百田尚樹、幻冬舎文庫、2014年、ただしオリジナルは2011)を手に取った。解離性障害をテーマにした小説である。本文を読む前に「解説」を読んだが、そこに書かれている某精神科医の言葉には本当に失望した。これを読むことでますます一般の人々のこの障害についての誤解が深まることは間違いない。

 私自身は、岩本広志のような「見事な多重人格」とは出会ったことがない。ただ、あたかも多重人格だけれども実はそれを装っているだけ(決して詐病ではなく、本人がそのように思い込むところに病理がある)といったケースなら何名か知っている。多重人格といういかにもドラマチックでしかも精神科医が関心を向けそうな症状を呈することで、自分自身をアピールしている。私はこんなに辛いんだ、こんなにユニークな私なのに(あるいはそれゆえに)世間は私を退ける、私はもっと注目され特別扱いされるべきだ―そんな気持ちが多重人格という大胆な症状に仮託されているのだ。(中略)こうしたケースに薬など無用である。人格変換という「派手な症状」にはあえてそっけなく向き合い、アピールなんかしなくてもあなたは十分言い切る価値があるし意味があるという事実を理解してもらうことに力を注ぐ。催眠療法とか精神分析などの込み入った療法を採用すると、むしろ本人は「多重人格である私」を肯定された気分になって勢いづいてしまうので、淡々と対処していく。・・・

 ちなみに私は「解離新時代」(岩崎学術出版社,2015年,pp.2-3)で以下のように書いた。

解離否認症候群は以下の6項目にわたる主張をほぼ全面的に受け入れるものである。

1.私は定型的な解離性同一性障害に出会ったことはほとんどない。

2.ただし自分を解離性障害という患者さんには何人かであったことがある。

3.自分がいくつかの人格を持つという主張はアピールであり、それを一つのアイデンティティと見なしている。

4.最善の対処の仕方は、人格部分が出現した場合に、それを相手にしないことである。

5.相手にしないことで、人格部分の出現は起きなくなる。

6.解離性障害はおおむね医原性と見なすことができる。