2010年11月30日火曜日

ニューラルネットワーク その1. 前野隆司氏の「受動意識仮説」

私のこのブログには、ほとんど引用文献がないことが特徴だろうが、それは私が読書が嫌いで勉強不足だからだ。ただしもちろん注目する理論、参考にすべき学術書などはある。最近の慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」という、名前だけ聞いたら非常にとっつきにくい理論もそのひとつだ。何しろ明快で、私がニューラルネットワークや、創造性、不可知性として考えている内容にそのまま重ねあわすことができる。解離について考える上でもとても有効な考え方だ。
私も「前野理論の専門家」ではないから誤解している部分もあるだろうが、その代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 前野 隆司 (著) 筑摩書房、2004年)
で先生は、ひとことで言えば次のような説を披露している。
どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
前野先生の心の理論を一言で言うと、それは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここでトップ、ボトムとは何か、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、とでもいえるだろう。)
そもそも脳はニューロンと神経線維からなる膨大なネットワークにより成立している。そこでは無数のタスクが同時並行的に行われている。それらが各瞬間に決断を下している。それを私たちは自分が決めている、と錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官といった存在はどこにもいないことになる。
さてここからは、私が追加する部分である。このような考え方からは、多重人格の由来やその振る舞いもきわめて合理的に説明される。DIDの人の心は少し特殊で、ニューラルネットワークの中がいくつかに分かれ、それぞれの活動が連絡を取り合わないような仕組みが存在している。するとそのいくつかのグループのどの活動が、トップに到達するかにより、誰が現在活動しているかということが変わってくるのである。これが、どうして現在の人格Aが、突然別人格Bに取って代わられるか、ということを説明しているというわけである。
さらにはそれぞれの人格の持つ自律性、つまりそれぞれが個別の人間として振舞う、という性質についてもこの前野氏の仮説により説明される。そもそもボトムアップモデルの特徴は、自己の持つ自律性とは末端のニューラルネットワークにより生じるさまざまな活動の産物であるとして捉える。するとニューラルネットワークがいくつかに分離されている状態は、そこに異なるいくつかの自立性を持った意識が生じるということを意味するのである。

2010年11月29日月曜日

治療論 17 常に直感とは反対を考える Think counter-intuitively

精神療法を行っていると、普通の人との普通の会話というのが、時々わからなくなる。こういうところが私が社会性がないところだと思うが、面倒になったり、まだるっこしくなったりする。おそらく私が酒を飲めないことも関係していると思うが、延々と終わりのない会話、というのはとてつもなく疲れる気がして、初めからパスしているところがある。(うちの神さんは、気があった人となら、何時間でも話し込むという天才的な能力を持つ)。
関係性が定まっている人との会話はそれなりに楽しめる。患者さんとの会話も、学生との会話もそれなりに楽しい。神さんとの会話も楽しい、というよりは同居している以上、楽しくしないと意味が無いので、それなりに楽しいものにするよう、心がけている。冗談を言い合うとか。学生と患者さんとは楽しいが、目的と内容が限定されていて、内容を伝え合ったり、こちらから伝え終わることで会話が終わるというところが重要である。それ以外の、時間に制限がなく、それが心地よく楽しいから話し続ける、ということは、年齢と共にますますできなくなっていく。むしろ一人でいるのが一番気楽である。これはやはり社会性の欠如である。
ところで精神療法家としての会話について書こうとして、書く前から脱線したわけだが、理由のない脱線ではない。精神療法においては、クライエントへの反応の仕方は「直感とはいつも反対」を考えているところがあり、それが何か特殊な注意力を必要とする。それは疲れるが、同時に醍醐味がある。すると「直感に素直に従い、つまり気の赴くままに交わす会話、普通の会話というのが刺激が少なく単調に感じられるわけだ。
なぜ治療者の交わす会話が直感とはいつも反対を目指す、ある意味で非常に不自然な思考に基づくものとなるかというと、直感的な思考は、患者さんが日常生活でいくらでも出会っているからである。それが何らインパクトを与えなくなって患者は治療者を訪れている。当たり前の反応をしてもむしろ「またか」という反応を招きやすい。
直感とは反対のことを言う、ということは、すなわち天邪鬼な思考をする、ととられては困る。患者さんの言葉から誘発されるさまざまな反応から、通俗的で誰でも考えるような反応を濾し分ける、というところがある。そして当たり前の反応しか出てこないのであれば、むしろ黙って聞いているというほうを選択するだろう。
たとえば患者さんが「もう何をやってもうまくいかない。誰も理解してくれない。先生もわかってくれない」といったとしたら、おそらくそれに対して思い浮かぶあらゆる反応は、彼が出会った反応の繰り返しに過ぎなくなるであろうし、それよりは黙って聞いているほうがいいのである。それで何かが解決する、というわけでもないが、少なくともこちらが患者さんの言葉を重く受け止めていることを示すことになる。
通俗的な反応、それは結局は感情的な反応ということになる。同じことを神さんから言われたらどうだろう。「もう何をやってもうまくいかない。誰も理解してくれない。アナタもわかってくれない」これを聞いて私は「またいつものが始まったか・・・・」とかつぶやいて、ムッとした態度を取るかも知れない。あるいは「そういうアンタも、こちらの気持ちをわかっている、とでも言うの?」と返すだろう。これは正直で、直感的にすぐ思い浮かび、感情的な反応であり、ゴミ以下の価値しか持たない反応なのである。
ただし精神療法家として仕事をするとしたら、このような価値のない言葉をやり取りするような環境もまたある程度は必要と言える。それは相手のためにはならなくても、自分自身の何かを排出して、重荷を下ろす上では何らかの意味を持っているということになる。

2010年11月28日日曜日

治療論 その16 「冗談」(症状、ではなく)にこそ無意識が表れる

市川海老蔵がこれからマスコミに叩かれるのだあろう。父親の団十郎は激怒したとか。でも生まれつき定められた道を歩むプレッシャーも大変なものである。それをある意味で押し付けた団十郎が本気で怒っているとしたら、それもどこか違う気がする。(彼自身も同じような運命だったのかも知れないが。)海老蔵があのような形で羽目を外す事でしかバランスを取ることが出来ないとしたら、今度の「失敗」にもある種の必然性があるのかもしれない。

私にまだ精神分析に対する理想化が今よりずっと残っていたころ、言葉や症状が無意識内容を象徴しているという考え方はとても魅力的であった。これは標準的な知的レベルのある理科系人間の心をいたくくすぐる可能性がある。ほんの僅かなサインが、広大な無意識の領域に潜んでいる問題の鍵を握っていて、その人の将来の行動すらも暗示するというのだ。コップに残された後からDNA鑑定で犯人を割り出してしまうような、スリルもそこにはある。それがフロイトの提唱した決定論的な考え方の悩ましいところだった。
メニンガーに留学していたころ、ある非常に高名な精神分析家がカリフォルニアから訪れた。グロッツテインというアメリカには珍しいクライン派の分析家である。極めて知的でおおむね話の内容をフォローできないような講演を聞いたが、その後に彼によるケースのスーパービジョンがあった。その中でグロッツテインは、患者の最初の挨拶の言葉一つを分析することで、セッションの進行具合が分かる、というような話をした。ちょうどケースを出すレジデントが一つのセッションの最初の部分を報告したときに、彼がそんな話をしたのだ。
はたして彼が予言したとおりに、そのセッションが展開したのかは何とも言えなかったのだが、とにかくその風貌(私の中では全盛期のカラヤンみたいな威厳があったが、本当は全然違うかもしれない。)と高度に知的な講演の内容から、「うーん、さすがに高名な分析家は違う」と思ったが、その頃すでにフロイト的な決定論に対しては疑いを持ち始めていた私はどうしても疑問に思えた。本当にそんなことはできるだろうか?そしてそれは意味があるのだろうか? (そのセッションだって、その後どうなったかは、ケースのプレゼンターの原稿が読まれていくうちにどうせ明らかにあることである。それを予言することに意味があるだろうか?)
こんな時に素朴な質問をして、納得のいく答えをもらえるバイザーを持っていた私はラッキーだった。私のサイコセラピーのバイザーであるドクター・キューリックは「どの程度彼が予言できたかは、何とも言えないが、そういうことを言うのは、恐らく分析家のナルシシズムだろう。」と喝破した。メニンガーのスタッフであった彼も、グロッツテインのセッションに出ていたのだが、彼がそう言うのを聞いて、私は頭の中がひっくり返った思いだった。「そ、そんな事なの? 偉い分析家なのに、そんなのアリ?」 もしそうだとすれば、分析家とはなんという人種だ、と思った。
いまではドクター・キューリックの言ってくれたことは、少し誇張が入っていたとはいえ、あながち間違いではないという気がする。患者の挨拶の仕方一つからセッションの行方を知るには、心の構造は複雑すぎ、ノイズが多すぎる。ビルの屋上から一枚の枯れ葉を落とし、下の舗道のどのブロックに着地するかを正確に言い当てるようなものだ。
ところで私がいつも思うのは、それとは別のことだ。ちょっとしたジョークに、その人の本心が実に現れることがある。これはほとんど例外がないのではないか? こういう部分に、一言が本心を表しているという決定論は結構当てはまるように思える。
私が朝出がけに見ている「朝ズバ」で、みのもんたさんがしばしばジョークをいう。「(石川)遼クンが優勝だって?すごいですよねえ。私が教えたとおりにやったからね。」そしてゲストの笑いを誘う。もちろんこれはジョークだが、実に彼らしい。「みのさん、ゴルフがそれほどうまいんですね」とでも言ったら、彼は「何いってんの?ジョーダンに決まっているじゃない」という反応をすることは間違いないが、やはりこの種のジョークは何かを表していることが直感的にわかる。某テレビ局でかつて高視聴率を取り、裸の王様になりかけていると聞くみのさんのナルシシズムを垣間見せてくれるのだ。
何かを自慢したいという願望や性的なファンタジーは、いつもその表現をうかがっているようなところがある。そしてジョークという形を借りてでも姿を現すところがある。だから治療者の語るジョークというのは注意が必要なのだ。
グロッツテインが問題した挨拶でも、その語尾や調子に、治療者や患者のお互いに対する気持ちが表れることだったらしばしばあるだろう。患者さんが入ってきたときに治療者が 「今日は時間どおりですね。」と言ったとしよう。それは「いつもは遅れるあなたが、今日は定刻通り入らっしゃいましたね」という驚きや避難を表している可能性がある。これは「患者さんの毎回のちょっとした遅れについては言及しないでおこう」と治療者が思っていたとしても言葉として紛れ込んでしまうというわけだ。
では私はフロイト張りに「言葉のちょっとした特徴は、無意識を象徴している」とでも言っているのだろうか?それは違う。ジョークや挨拶に表される人の気持ちは、その言葉が発せられた両者によって、実際に感じ取られることが多いからだ。その意味では漏れ出たもの、enactment 、そしてその意味ではあまり無意識、ではないということになる。これはフロイトが「夢判断」で披露したような、謎解きのような、アナグラム的な分析とはかなり異なった、非常に実感を伴った体験に基づいたものなのである。

2010年11月27日土曜日

治療論 15 治療者の言っていい冗談と悪い冗談

今日はフロイト全集(Standard Edition)の一冊をPDF化してみる。私にとっては、本をばらしてスキャンして捨てる、という罰当たりな行為をするのに一番ためらいのある本である。

治療者は冗談を言っていいのだろうか?もし言うとしたら、何がその素材となるのだるか?これが結構むずかしいのだ。ある意味では数日前に論じた柳田法相の失言問題とすこし似ている。政治家が人前で行うスピーチは、かなりの気分の高揚をともなうものだ。ある程度テンションを高めないと、通勤や買物の途中でわざわざ足を止めている聴衆も付いてきてくれない。そしてスピーチモードにある心は、通常の心のあり方とはかなり異なったものとなる。それは彼らの街頭演説の仕方を見ても分かるだろう。あの小沢さんも、夏の民主党の代表選ではあれだけ雄弁になり、サービス精神を発揮したではないか。そして政治家が熱に浮かされて通常の判断能力を失いかけている分だけ、そこに不用意な発言が紛れ込む可能性も高くなる。 
それに比べれば、一対一でクライエントと向き合う治療者の場合は、事情はかなり異なる。しかしそれでも治療者は時には患者との話を盛り上げようとして冗談を言うこともある。患者をリラックスさせ、また親しみを示そうとする過程で、口が軽くなり、ふと余計な言葉が出てしまう場合もあるのだ。また治療者は、治療中にざっくばらんに冗談でも言って、患者と大きな声で笑いたいと思うこともある。私が昔属していた診療所で、よく隣のオフィスから患者さんと一緒になった笑い声を上げていた治療者がいたが、彼女はとてもいいセラピストだったことも確かである。
しかし治療者にとって患者はサービスを提供する対象であるから、笑いを誘うにしても慎重さが必要となる。まず患者さんの身なり、身体的な特徴、癖などを話題にしたジョークが禁句なのは当然だ。そんなことをするのはよっぽど意地悪な人だと思うかも知れないが、私たちの日常生活では、夫婦間や気のおけない仲間同士の会話には、かなり相手を「いじる」ジョークがかわされる。お互いに相手があまり気にしていないと分かっているようなくせとか特徴をほのめかす会話はかなり多いことにあらためて気付かされる。
しかし治療者患者間では、お互いにかなりの時間を共有し、気心が知れた様な関係でも、その種のジョークは禁忌である。治療の場ではいかなる形でも、治療者が患者を意図的に傷つける行為は許されない。治療は外傷的な要素を孕むことは、純粋な不可抗力を除いては許されないのだ。
このことは裏を返せば、治療者は自分を嗤うジョークであればとりあえず「安全」であるということになる。しかし治療者が自分について語り、いわば自虐ネタで笑いを取ろうとすることも実は問題になることが多い。自虐ネタは当然治療者の自己開示をともなう。治療者の方は、私は特に何も隠すことはない、というおおらかな気持ちかもしれないが、患者の身になったらそんなこと「聞きたくもない」かもしれないのである。治療者の存在は、いろいろな意味で気になるのであり、自分を表現するとしても、著書なりブログなりですればいいことだ。(といってこのブロクを正当化する。)
そんな条件下で治療者は安全で患者と楽しむことの出来るジョークを言えるのかと思うのだが、私には時々気がついたら患者さんと大笑いをしているということがある。そういう時は実に楽しい瞬間なのだが・・・・・。今思い出そうとしても、何の話で笑ったのかがさっぱり思い出せない。まったくの偶然の産物なのだろうが、何かについて一緒に笑う機会があるのは確かだ。ただひとつ言えること。冗談を言って患者と共に笑うという「技法」などは、どの精神療法の指南書にも載っていないだろうということだ。

2010年11月26日金曜日

「気弱さ」ということ

私のブログは「気弱な精神科医」ということになっているが、そもそも「気弱」とは某出版社の編集者の口から出た言葉である。数年前に「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」という本を出したときに、その内容を読んだ上で題についてのアイデアを出したのが、その編集者だった。私はそれを聞いて、ふたつ返事でOKを出したのである。「題に『気弱』、という表現が入っていいんですか?」と念を押されたことを覚えている。実際に本が出まわってから、作者から「こんなタイトルじゃ嫌だ!」というクレームが付くこともあるのかもしれない。「気弱」であると認めているということは、実は本当は気弱ではないと思っているからなのだが、では気が強いかというとそうではない。ある種の弱さを自覚しつつ、それを補っているものがあるのを自覚しているので、大丈夫だ、と感じているらしいのだ。人事のように言うが。そこでこれを「気弱さ」と表現して、通常の意味での気弱さと区別してみる。
海外体験のおかげで、私の「気弱さ」が欧米人にどのように映り、どのように扱われるかがわかったところがある。最終的に私は米国で人並みには適応できて帰ってきたつもりなので、「気弱」でも適応する方法がある程度はわかったつもりである。そして治療者として働く上でも「気弱」であることは私にとっては重要な意味を持っている。アメリカでも日本でも、だ。

ただし「気弱」であることは日本人の間ではそのポジティブな意味も含めてある程度は理解されても、欧米人との間でそれが通じたという思いは決してなかった。米国で唯一ある程度その路線で通じ合えたのは、私が担当した患者さんたちだったという経緯がある。その結果気弱さは文化を超えて人が持つ心のあり方であり、恐らく欧米の社会ではそれを表現することがかなり抑制されているということを感じた。患者さん達は精神科医の前で、強気さの仮面を脱いで自分の気持を語るから、そこで私の気弱さや「気弱さ」と反応し合ったことになるだろう。ともあれ欧米社会では、それこそ臨床場面で患者を扱う場面以外では、弱気で自信がないことは、それを表現することで何一つメリットがないということを知ったのは、大きな収穫だった。

「気弱」な私の立場から見た人々は、非常に自信を持ち、「そんなに風呂敷を広げていいの?」と問いたくなるような振る舞いをする。それなりに地位を得て、リーダー的な立場にたっている人を見ると、ほとんどの人がそのように映るのだ。そう、日本で活躍しているリーダーたちの多くは、気弱では決してないということになる。むしろ傍若無人なほどだ。ということは私がそのような立場にたっても「全然自信がないし、少なくともそこまで風呂敷を広げる勇気はない」ということになる。風呂敷を広げる、とは人に自分の主張や考えについて雄弁に語る、安請け合いをする、ということであり、見方を変えると私はそのようなことに対してよほど気弱で臆病ということになるだろう。

それでは私の気弱さを補って「気弱さ」にしているのは何かといえば、一種の自己表現の欲求、ということになる。例えばこんなブログを書くことだ。これはしかし「自己顕示」とはならないのは、「顕示」することに臆病だからである。

自分がそれに属すると思うからかも知れないが、傍で見ていて面白いのは、「恥ずかしがりやの目立ちたがりや」の人というのは見ていて飽きない、という発見が元になって、「恥と自己愛の精神分析」(岩崎学術出版社、1998年)が生まれたのである。

2010年11月25日木曜日

治療論 14 セラピストとしての生きがい

セラピストの生きがいとは何かを考える。これは案外むずかしい。医者、それも例えば外科医の生きがいなどと比べると、はるかに複雑だ。有能な外科医はとてつもないハードスケジュールをこなしているように見える。外科手術はそれこそ一昼夜以上かかって行うようなものもある。外科医の貴重な時間の多くが手術室で費やされることもあり、およそ常人とはかけ離れた生活パターンを持つ人が多い。夜遅く手術を終えてから、深夜まで外来をこなし、その後に診療録を書く、などということもある。どうしてそんなハードスケジュールをこなせるのかと思うが、実は彼らは手術の成功を祈っている患者自身やその家族から「ありがとう」という感謝の言葉のために生きているようなところがある。そしてそれを彼らは隠さない。

テレビでよく「天才外科医の激務の一日!」とか銘打って、彼らの手術室内外での活躍を紹介すると、私はつい見てしまう。彼らは何時間もの間手術に全神経を注ぎ、一ようやく仕事を終えた後、間をおかずして家族の待合室を訪れる。そして嬉々として手術の成功を伝えるのだ。彼らは家族に「きっと良くなりますよ。よかったですね。」と言っているように聞こえ、また「私はこんなに見事に手術ができましたよ。すごいでしょう?」と得意になって手柄話をしているようにも見える。

外科医はたいてい家族にはよくわからない用語を用いて手術の様子を説明する。どんなに大変な術式だったかを訴えているようでもある。二年ほど前にうちの神さんが歯科で上下の顎の骨を削るという大手術を受けたことがある。若干疎通性の悪かったその歯科医は、手術中に撮影したというおどろおどろしいポラロイド写真を持って、まだ意識がぼっとしている神さんのもとに現れたそうだ。そしていかに手術がうまくいったかを説明したのだが、その顎の骨が露出し、血だらけで、上下の方向すらも分からなくなっている口の写真は、見ていてもただショッキングなだけであったという。

さて、セラピストも外科医と同じサービス業である。同じように困っているクライエントを扱う。出来れば「ほら、こんなにうまく治療が行きましたよ」と報告したいのだろう。しかしクライエントがどうなった状態が治療の成功かを見定めることは、外科手術よりはるかに難しい。なぜなら一度の面接で具体的に何が改善したかを明確に示すことは事実上不可能な場合が少なくないからだ。それにそのセッションでクライエントが快適な体験をしたということは、その治療がうまく入ったことを必ずしも示さない。たとえばセラピストに会うことがあまりにも楽しみになってしまった場合には、決してそれから先の順調な治療プロセスを暗示しているとは限らないのである。こうしてセラピストは、外科医に比べて、何をやりがいにしているかが非常に難しくなってしまうことも了解できるだろう。

そんな事情から、セラピストの生きがいは、外科医とはかなり異なったものになるが、そのなかでも特徴的なものは、次の問いにより表されるものだ。

「自分は、正しい治療をしているのだろうか?」

セッションごとにクライエントがどのように改善を見せているかは非常に見えにくい。そこで「正しい治療をしている限り、患者は改善するはずだ。」ということになる。そして精神療法の世界では、様々な学派が、「正しい」治療法を唱導しているのである。

世界に600種以上存在すると言われている精神療法。その多くが技法と呼べる治療方法を示し、それに従ったセラピストたちを抱えていることになる。そしてそれぞれが自分たちの治療法こそ「正しい」と認識しているとしたら不思議な話であるが、そのような事態が生じる大きな原因が、上に述べた「効果が見えにくい」という事情なのである。

セラピストが毎日のセッションで「生きがい」「やりがい」を求める気持ちは大きい。外科医が患者さんや家族からかけられる「ありがとう」の言葉の分を、治療者がなにか別のものに求めようとすることを責めるわけにはいかない。しかしその結果として自分が「正しい」と思われる治療法をクライエントに一方的に押し付ける結果になるとしたら、実に皮肉な話である。

2010年11月23日火曜日

快楽の条件 8. おそらく最も理想的な快楽としての「創作」

私の患者さんに非常に、手先の器用な男性Aさんがいた。某有名時計会社で、長年修理技師をしていたAさんは、引退したのちも年金暮らしをしながら仕事をもらい、持ち込まれた時計のうち、在職中の技師が治すことのできない難物をただで自宅で修理し、若い技術者を驚かせながら時間を過ごした。しかし不幸なことに時計のデジタル化とともに仕事がなくなり、彼の楽しい日々は去り、その後は空虚な日々を過ごすことになり、うつ病を発症してしまった。
Aさんの不幸なところは、時計を直すという、彼にとっては非常に楽しい作業が、その注文がなくなるという外的な条件に翻弄されてしまったことである。もし作業が誰に左右されることもないものであり、それに熱中できるのであれば、そしてそれにより生計を立てることができるなら、これほど幸せなことはないであろう。その一つは創作である。仕事として創作にかかわることのできる人生は、人間が人生を持続的に燃焼させ、最も快楽的に送ることのできる人生といえる。
もちろん創作にかかわり続けることで人生を終えることはできない場合が多い。創作した者はたいがい金にならない。創作するのには、材料に金がかかるかもしれない。(指輪職人、などという例を考えればいいだろうか?)創作したものを置く場所がないということもある(捨てられた割りばしをもらてきて束ねて固めて、それを削って創作をするおじさんをテレビで見たことがある。「作品」はもちろん飛ぶように売れる、ということはなく、もらってくれる人の数も限られているだろう。「作品」に埋まっていく部屋に複雑な表情の奥さんの顔が忘れられない。)創作するためには体が動かなくてはならない(石像作りを創作する人は、材料費はあまりかからないだろうが、ハンマーを握れなくなったらおしまいだ)。ユーミンのように出せばヒットするようなCDを気長に作り続けるような人生は、だから最高といえるのだ。

実はひそかな私の趣味は「本づくり」だが、これは実はすごい追い風が吹いている。書いたものが原稿用紙の束として置き場所を求める時代は過ぎた。電子化すればよい。鉛筆やペンを握る力がなくなっても、キーが打てれば大丈夫だ。そうして書いた駄作を出版してくれるような出版社を探す努力も、これからはあまり要らないかもしれない。ただの自費出版である「E出版」がある。実に恐ろしいことだ。半身不随になっても、寝たきりになっても、パソコン(スマートフォン?)さえあればこの趣味を続けることができる。
ところでネットを散歩していたら、この上なく幸せな人を見つけた。創作の材料は何と鉛筆。カッターナイフや縫い針が材料。作品が場所をとることは決してない。それは鉛筆の先の大きさにすぎないからだ。そしてその作品の素晴らしいこと。

ブラジル出身の米国在住のダルトン・ゲッティDalton Ghettiさんのことをご存じだろうか?本業は大工であるという彼はこの作業を、一説では裸眼で行うというのだ。私が一番感心したのは、上の「のこ切り」。私は彼はこの世で一番幸せな人の一人ではないかと思う。題材は無限。材料はタダ。使う体力はわずか。後は気力と忍耐力、そして創造性だけで人生を楽しむことができる。
彼のため息が出るような作品をいくつか。(http://kronikle.kidrobot.com/pencil-tip-micro-sculptures-by-dalton-ghetti/より)






2010年11月22日月曜日

ありがたくない形で世間の注目の的になっている柳田法相。国会軽視との批判を受けた例の発言については、「(地元で)気を許しすぎたというのが率直なところだと思う・・・・」とした(11月22日、asahi.com) というのだが、これもヘンな発言。「気を許しすぎて」本音を語った、というのなら、一番問題な点に対する反省がないことになる。本当に「二つだけ」と思っていたことになってしまうからだ。ということは彼が失敗を繰り返す素地は残っていたということになるだろうか。でも報道されているとおり、特殊な経歴の持ち主(すし職人)とはいえ、学業は優秀だった人なのだ。ということは舌禍に気をつけながら発言するということに関する経験値が低いということなのだ。

口が軽く余計なことを言うことが多かった私は、米国でかなり苦労することになった。何しろ周りはマイノリティだらけ。それに訴訟社会。誰かにとって何か差別的な発言があるとすぐにでも矢のような批判や視線が飛んでくる。何か言う度に、誰かの気分を害する可能性がある、という状況ばかりで、たくさん失敗をしてしまった。日本は米国に比べてはるかに均一な人々により構成されているということもあり、何か発言した際にそれを批判的な立場で聞くような視点を常に持つ必要もあまりないのだろう。

思うに日本社会でお互いにぶつけ合う言葉は、かなり気安く、またぶしつけだ。日本語には敬語がある。しかしそれは裏を返せば軽蔑語が横行していることでもあり、ため口は平等な言葉というよりは失礼な口のきき方の部類に属する。政治家が記者たちに対して使う言葉のぞんざいさは目に余るが、それもその現われだろう。

2010年11月21日日曜日

治療論 その13 治療者は好意的に話を聞く - それは結局共感の一つの形だからだ

昨日の夕刻から今日の夕刻まで、三つの予定をこなし、時間がまったくなかった。火曜日にはすこしまとまってPDF化をしてみよう。分厚いフロイトの全集が目の前から消えるのはさぞかし心地よいだろう。

患者:「また店長に差別されたんです。」
治療者:「そうですか。この間もそんなことがあったそうですね。」
患者:「今度はもっとひどいんです。連休はシフトに入れてほしくない、と前から言っていたのに、他にいないからどうしても入って欲しい、と強引に押し切られました。明らかに私に不利なスケジュールをぶつけてくるんです。」
治療者:「なるほど。あなたは前からそこは旅行にいくつもりだとおっしゃっていたんですよね。」
患者:「そうなんです。店長は私をやめさせようとしているのかも知れない。」
治療者:「なるほど。その可能性もありますか ・・・・・・。」

こういうふうにセッションが始まるとする。治療者の方は、もちろん患者さんが店長の行為を過剰に被害的にとっている可能性も考えている。いや、かなりその可能性が強いと踏んでいるかも知れない。でも治療者は「店長はひどい」という患者の主張にいったん沿う。明らかに患者の話を好意的に、ポジティブに聞く。これは技法だろうか、それとも面接のプロセスの中でのごく自然な流れなのだろうか?

この治療者の姿勢は、ちょうど被告人に対する弁護士の立場に似ている。クライエントを推定無罪の前提のもとに弁護する。この場合は、法廷における一つのルールに従ったものと言えるだろう。クライエントの立場をなるべくポジティブに捉えて、逆にネガティブに捉える検事の側と見解のぶつかり合いを演じる。しかし治療者の好意的な姿勢はそれとは異なる意味を持つ。

患者の話を好意的に聞くのは、患者自身がその見方を取るのであり(まあ、当たり前の話だが)、治療者は共感を示すプロセスで同様の好意的な味方をするわけだ。ただしもちろんそれで終わるのではない。そこから出発する、ということである。まずは好意的な解釈に立って話を聞き、明確化をすすめ、その前提から主発した際の矛盾を患者と確認しながら、より中立的な立場に向かうのである。こんな風に。

治療者:「ところでどうして店長はあなたに連休に入ってもらおうとするんでしょう。」
患者:「一応理由はあるようですけれど。連休は忙しくなるので、私が店にいると安心だ、とか言うんです。」
治療者:「えっ? そういう事ですか。ということは店長はあなたにむしろ期待しているということではないんですか?」
患者:「いや、そレは口実で、そううまいことを言って、実は私に嫌がらせをしているように思えるんです。それに第一店長は私を褒めたことなんてないんですから。」
治療者:「でも店長は他のスタッフを褒めたことはありますか?ないんでしょう?もともと表立って褒めることがなくても、見る所は見ている、という可能性はないんですか?」
患者:「・・・・・・・。」

この例では、治療者が患者の話に疑義を示して、代替案として示した内容も、また患者に対する好意的な内容になっている。が、いずれにせよ最初の患者の見解を否定する方向にあることは確かである。
患者の話を好意的に聞くというのは、結果的に患者に対する共感と等価である、という理屈は、当たり前すぎてちょっと盲点かもしれない。でも私達人間の心は、ほとんどあらゆる点で自分に甘いということも確かなことである。その例外は、自分に対する否定的な見解を示す場合などであろう。患者は「どうせ私なんて誰も見向きにされない。誰にも愛されない。」という世界観を示すことがある。しかしその時でさえ「そうばかりとは言えないと思いますよ。あなたを好きな人もたくさんいますよ」という、ある意味では患者の考えを真っ向から否定するような見解もまた、ほぼ確実に患者の心を和ませるのも事実だ。
もちろん治療者は治療場面を離れてまで患者に好意的な見解を持ち続ける必要はない。しかし治療者が治療に注ぐエネルギーの一部は共感に使われ、それが結果的に患者に沿うという形で向かうのだから、むしろ患者びいきになるのはごく自然なことであろうと思う。誰でも同一化する対象にはそうなるのである。幼い子供に対して好意的な見方しかできない親の立場と同じである。そして不幸にも私たちの多くは、パートナーや親に好意的な見解を持ってもらうことが出来ない。何しろ普通に話してもらうことだけでも大変なのだから。

2010年11月19日金曜日

治療論 その12 (11の続き) 治療者の話し方は、少なくとも「上から目線」をやめれば、「普通」に近づく

治療者は患者と「普通に話す」という教えは、ドクター・ベナルカザール(以下、ドクターB) という私のスーパーバイザーだった先生の影響である。「僕は患者とは普通に話すよ。今君と僕とが話すようにね。」というのを聞いて、ちょっと衝撃だったのを覚えている。10年位前の話だ。この経緯はどこかで書いたと思うが、「治療者が患者と普通に話す」という彼の言葉にインパクトを受けたということは、いかに私が「普通に」患者と話していなかったかを表していると思う。
ドクターBは私より10歳以上年上の精神分析家、20年以上前に留学した当初から知っていた。当時はメニンガーで若手のホープとされていた。ドクターBはそのころから留学が終わるまで断続的に私のバイザーだったわけだが、私がアメリカで最初からざっくばらんに話ができた数少ない人であった。それはなぜだろう?と考える。 ひとつには彼の非常にあけっぴろげな性格である。彼は誰でも分け隔てなく声をかけ、親しげに話した。大変な碩学、哲学に特に造詣が深かったが、ぜんぜん気取って見えなかったのは、彼がベネズエラ出身の外国人で、スペイン語訛りの聞き取りにくい英語を話していたということもある。英語が流暢でなく、上背もなく、あまり風采も上がらない分、留学生の私もそれだけ同一化出来る部分が大きかったのだ。
ドクターBと話していてつくづく思ったのは、英語が「タメ語」であるということだ。英語では、身分や立場の差を越えたお互いの素のコミュニケーションの部分が表現されているというところがある。日本語の助詞や敬語の部分は、言葉の「尾ひれ」という感じだが、それを剥ぎ取った言葉のやりとりが起きるのである。だから他人とのコミュニケーションのやりとりは簡素であり、直截的である。たとえ子供と話していても、年上と離しても、ある種の同様の「質」を感じる。それは普通さであり、普遍さ、と言える。「普通に話す」「普通に聞く」は英語というコミュニケーションを用いることによりさらに保障されるというところがある。
ドクターBとの会話が最初から気楽であったひとつの原因は、それが英語というタメ語であり、こちらに特に圧迫感を与えてこなかったというわけだが、もちろん英語を話していても、相手がお高く留まっていたり、威圧的であったりすることはある。その人の声の調子、対手に対して取る態度、などにそれは表れるだろう。ところがドクターBの態度や外見には、決して気取りがなかった。そしてその結果として彼の話し方は「上から目線」ではなかった。それがよかったのである。そう、普通でない話し方の一番の犯人は、上から目線、なのである。
しばらく前に、日本語はそれ自体が上から目線であると書いたが、日本の心理士さん達はそれをよくわきまえ、言葉遣いに気をつけ、患者さん達に非常に丁寧な言葉を使う傾向にある。私はそれ自体は非常に大切なことだと思う。彼らは具体的なケースについて同僚の間で語るときも敬語を用いる。「●●さん(患者さん)はセッションでこうおっしゃった」というような表現を聞き、私は最初は丁寧すぎて慇懃無礼ではないかと思ったほどだが、最近は耳が慣れてきた。
しかし心理士に比べてかなりその種の配慮が欠ける医師の場合、彼らの「上から目線」の弊害はかなり大きいと感じる。カウンセリングを受ける方々が、それ以前の精神科医とのコンタクトで外傷に近い体験を持ったという例は非常に多く聞かれる。その主たる理由は、医師の持つ様々な権限から来るのであろうが、医師の対応が「上から」であることに拍車をかけるのが、彼らの多忙さである。5分で一人の患者をこなす必要がある際、丁寧な挨拶など事実上できないではないか。彼らが「上から目線」を反省して丁寧な応対をするように心がけていても、短時間に多くの患者をさばかなくてはならないという状況が変わらない限りは、結果的に彼らの態度をぞんざいなものにしている。医師の「上から目線」の問題はかなり根が深いということになるだろう。

2010年11月18日木曜日

ほとんどがウケ狙いから始まる政治家の失言

一昨日は、「中国はドライアイスのように『昇華』して、一足飛びに先進国になるのではないか」、と書いたが、やはり違うように思う。例えば中国は軍備を増強して周辺の国に睨みを効かせ、すきあらば侵攻するぞ、というような脅し(ブラフ?)をかけて来る。日本はそのいい犠牲者だ。この種の覇権主義は、国民により選ばれることのない、独走が許される政治体制でしか生じないだろう。ほかの「先進国」を見ればわかるとおり、国粋主義的な発想には、それと対になる市民権運動や平和主義的な主張を持つ人々がすぐ対抗する。「先進国」では保守反動と革新派はたいがい綱引きをしていて、このバランスの上に政権が存在するのである。そしてそこには、民衆やメディアが政権を担当する与党に目を光らせ、隙を見ては批判する、こき下ろすという体制がなくてはならない。つまりは言論の自由、メディアによる報道の自由が保障されていなくてはならないのだ。やはり大衆による革命という洗礼を通過していない国は、どうしてもそこに行き着けない。西欧諸国はその血なまぐさい歴史を前世紀には終えているのだ。それを終えた国同士が「お互い仲良くやりましょう」、という紳士協定を結ぶのである。中国はそこに一人だけぽつんと混じり、浮いているのだが、ほかの代表と同じ立派な服装をし、しかもお金をたくさん持っているために他の紳士と同様に処するしかないという状態なのだろう。


さて柳田法相の失言問題。私にはある程度わかる気がする。話を面白くするには、自虐ネタかゴシップ。聞く人は退屈な話よりは喜ぶだろう。スピーチをしている最中に聴衆に眠たそうな顔をされるのは、悲しいことだ。そこでサービスをもっとしようとして、間違いが始まる。柳田さんの「国会での答弁は二つだけを覚えておけばいい」の話は、あれだけあからさまに言わなければ、それなりにうけたかも知れない。しかし彼の言い方は度が過ぎていたし、聞く人が聞いたらとんでもない発言でもあった。失敗が生じるかどうかは、例えば「もしそれを~が聞いたら(知ったら)どうなるのか?」という問いをどの程度頭に思い浮かべることができるか、によるのだろう。

2010年11月17日水曜日

治療論 その11.治療者は「普通に」話を聞く

治療者は患者さんの話を「普通に聞く」ことを心がけよ。といっても何のインパクトもないかもしれない。しかし普通に人の話を聞くということは実は非常に難しいことだ。人は先入観を持つからである。だからお互いをよく知り合っているはずのもの同士の会話ほど、「普通に聞く」事が難しくなることはよくある。親子間や夫婦間でこれはよく生じる。たとえばこんな会話がその例である。

A:「ねえ、はさみを使った後はもとのところに戻しておいてね。」
B:「わかったよ、もう、・・・・・ いちいち。」
A:「何よ、その言い方!」
B:「あ~、キミとはやってられない。」

普通に聞くということが出来なくなった者同士の会話の例である。「使ったものは元に戻しておいて」というAの要求はもっともらしいものに聞こえる。でもBはそれを「普通」に、素直に聞いて、反省して謝罪する、というわけではない。AはそのBの態度に腹を立てる。それにBが更にキレる。

ここにはお互いに「どうせ相手は~という人だ」という決め付けがある。AにとってBはいくら言っても使ったものを戻してくれないだらしない人。BにとってAは細かいことをいちいちうるさく言う人。だから互いのメッセージは、その直接的な内容を超えて、相手に対する先入観を裏付けるあらたな証拠として相手に届くことになり、それが感情的な反応を引き起こしているのである。

ところでこのA,Bの相手に抱いているイメージ、あるいは「どうせあの人は~なひとだ」という先入観や決めつけは極端だろうか? こんなことくらいで感情的にならずに、克服していくことで共同生活は成り立つのではないか? そりゃそうである。共同生活を続けている人々の間では、大体折り合いのつくところはすでについている。AとBの間でさえ、そうなっているはずだ。

たとえばAがトイレを使ったあとにちゃんと蓋を閉めないが、そのことについてBはあまりこだわらないから、この件では揉め事は起きていない。またAは薄味が好きで、Bも似たようなところがあるから、料理の味付けについてはけんかにならない。

ところがAはかなりの整理好きで、文房具を置く位置には非常にこだわる。他方ではBは短時間に何回もはさみを使う作業をする際に、いちいち道具箱(もちろんAの一存でそろえたものだ)の所定の位置に戻しに行くのは面倒くさいしバカバかしいと思っているが、なんとかAに従っているというわけだ。だからお互いに折り合いがつかないことについては、もう互いの主張を「普通に聞く」ことは出来ない段階まで進んでしまうのだ。

さてはさみの置き場所とは他愛もない例だが、AとBは互いの趣味や世界観、知的能力の違いがそこに現れるようなかかわりについても同じような食い違いを見せる。Aが何度も持ち出す、過去の親へのうらみ、Bの繰言である上司への不満。これらに互いに相手への不満や非難の要素が入ると、さらに素直に聞けなくなる。しかしそれぞれが相手に話すことで不満をある程度は解消したがる。これはしばしば衝突する。そう、相手を知っていること、そして相手と依存関係にあるということは、相手の話を普通に聞かなくなる関係なのである。

さて治療者の聞く姿勢は、もちろんパートナーとは異なる。そこには大きな遠慮があり、互いへの尊重がある。それは両者が基本的には社会的な関係にあるのであり、広いパーソナルスペースを互いに認め合っているからだ。二人はため口をきくこともないし、はさみを共有することもない。そして治療者は患者の話を素直に、普通に、何度も聞く。一つには、50分以内にそれから解放されることがわかっているからだということもある。しかし何よりも「やれ、やれ」「またか、参ったな。」という、それ自体は自然に起きる反応に流されることなく、それらを一つ一つチェックする事を、治療者の機能としてわきまえているからである。

おもえばA,Bも実は最初に出会った頃は、そうだったのだ。最初にはさみの置き場所を指定されたBは、Aのいつにないこだわりに当惑しながらも、Aに嫌われないためにすなおに言うことを聞いていたはずである。あるいはAの方も、最初はあまりうるさく言わないようにして、Bが戻し忘れたはさみを、そっと道具箱に戻していたのかもしれない。「やれ、やれ」を互いに自分の内側で処理していたのだ。

治療関係においては、治療者は患者とのかかわりで生じる内心の「やれ、やれ」を一つ一つチェックしながら、それが自分のほうのこだわりから来ている反応なのか、それとも患者のこだわりからなのかを考える。そしてそれがどのような形で患者にフィードバックされたら言いか(あるいはするべきかどうか)を考える。

どうだろう。「普通に話を聞く」って、実はすごく込み入った仕事なのだ。「普通に聞く」は決して「普通には出来ない」かもしれないのである。「普通なかかわり」について細かく考えていくのは、療法家の業であり、それ自身は決して「普通」ではないかもしれない。だから精神療法はきわめて人工的に「普通」や自然」を作り上げる作業とも言える。

7年ほど前に書いた「自然流精神療法のすすめ」の中で、精神療法過程を「盆栽のようなもの」と表現したことを思い出した。

2010年11月16日火曜日

中国の工作員はつまり、「国家公務員」なんだと思うと、少し納得がいく

昨日の相撲で、連勝街道を突っ走っていた白鳳が破れたときの町のインタビュー。「生粋の日本人の力士である稀勢の里が連勝を止めたのは、それなりにうれしい」、という意味のことをいった人がいた。これは少し意外だった。私はそんなことぜんぜん考えたこともなかったのである。まあ、言われてみればそれはそうかもしれない。しかし私はむしろ白鳳があれだけ流暢に外国語としての日本語を勉強し、「昭和の大横綱双葉山をめざして・・・・」などというのを聞いて、外国人なのにこれほど日本を愛してくれて本当にありがたいと思っていたのだ。「日本人の力士がモンゴル人の力士の連勝を止めてよかった」、というのは少し了見が狭い話である。たとえば移民の国アメリカでは、まったく考えられない発想だろう。

さてどうしてもこだわってしまう中国の話。9月10日のブログでサラリーマン川柳の「カミサンを 上司と思えば 割りきれる」を紹介したが、これを思い出させるような発想を得た。中国で盛んに日本を挑発するデモの首謀者なども、要するに政府からお金(あるいはそれ相当の見返り、報酬)をもらって政府の策動に協力している人たちの筈だ。彼らもそれで生活を潤しているのであろう。特別日本が憎いのではないかもしれない。そう思うと、見方が違ってくる。そこで「半日デモの首謀者も、国家公務員と思えば割り切れる」(字あまり)
彼らの任務は政府の方針に従って、一市民を装って反日本のデモを行なう。政府(というよりは軍?)の合図によりデモを集結させ、おとなしく暴れ、合図と共に解散する。彼らにとってこれはビジネスであり、スパイ活動などと呼ぶには大げさすぎる。日本でも学生運動が華やかなころは、デモ隊を抑える国家公務員としての機動隊とよく揉みあいを起こした。ところが中国の場合は、デモをする側も、それを押さえる側も、ある意味では両方が国家公務員であり、双方が国の決めたシナリオどおりに動いているということになろう。そしてその限りにおいてはこの国家体制は結構持つのかもしれない。
私はずっと中国は人民が立ち上がり、一党独裁が打倒され、一皮も二皮も剥けないと、とても近代国家にはなれないと思っていた。しかしこのネット社会に「革命」はもう起きようがないのかもしれない。革命の原動力になるのは抑圧され、貧富にあえぐ人々だったのであろうが、今の中国では、最下層の人々の生活レベルも劇的に向上しているのではないか?(この辺事情を知らないから自信がないが。)世界全体がこれほどグローバル化し、人や情報の交流が加速した社会では、「途上国」は革命を待たずに一足飛びに近代化を成し遂げるということもあるのではないか?ちょうどドライアイスが液体の相を経ずに気化(昇華)するように、中国の人民も今徐々に昇華しつつあるかもしれない。何しろ北京の通行人に西側のメディアがインタビューできてしまうのだから。10年前はこうではなかったはずだ。賭するとこれはひとつの実験かもしれない。経済の自由化とメディアの規制、巨大な私服機動隊の組織、というのはその未曾有の実験を成功させるための舞台装置なのではないか。
ただし以上の考えは、中国国家や人民の一連の動きが、ことごとく計算されていた場合である。しかしそこで計算されていない要素もたくさんあるだろう。軍の内部での内部抗争、党内での覇権争い、そして反日教育の「成果」など。教育を通じて日本に対して植えつけられた憎しみは、きっと本物だろう。だからこれらの要素が計算外の動きを見せる可能性はいくらでもあるといっていいのではないか。
これはおそらく中国との外交に対する考え方を根本的に変える必要を意味している。変に感情的にならず、穿った見方が必要かも。分析で言うところの「解釈」に似た介入をするのはどうだろう?

「中国の一部の人々の反応は実に不思議である。日本に対する怒りの根拠はあまりないにもかかわらず、あれほど怒っているように振る舞っている。でも当局が来ると非常におとなしく従うところを見ると、やはり真剣には思えない。」

「温家宝首相は、左手が麻痺したようである。日、中、韓の首脳同士の握手というあれだけ大事な局面で、左手をダラッとたらしたままだった。」

「一部の中国の人民が、日本に対する憎しみを持つのはもっともな話だ。日本があれだけひどいことをしてきたという教育を受けた人は、誰でも怒るだろう。それだけ中国の教育体制が行き届いているということだ。」

「中国ではメディアの規制がひどすぎて、胡錦濤国家主席でさえも尖閣諸島のビデオを見る機会がなかったらしい。菅首相はメモを見てたどたどしい挨拶をするくらいなら、一緒にビデオを鑑賞するべきではなかったか?」

だめだ。これでは逆にかの国を「いたずらに刺激してしまう」結果になりかねない。

治療論 その10.くらいか? 治療者の「上から目線」を戒める

昨日(というより一昨日になってしまった)は一日、対象関係論セミナー(渋谷、こどもの城)で、北山修、藤山直樹両先生の司会を務める。油の乗り切った両先生の講義を間近で聞く。これはかなり贅沢だ。こんな機会を持てることをつくづく幸運に思う。

「上から目線」という言葉は、つい最近になって聞かれるようになった気がする。私は個人的な事情から、過去を、留学以前と以後、とに分ける習慣がある。つまり私のアメリカ留学の始まった年である1987年以前と、それ以後という風に分けるのだ。留学した当時はネットなどもなかったから、日本で起きていることは週に一度とっていた週刊誌を除いては、伝わってこなかった。最終的に帰国したのが2004年であるが、日常的にいろいろな情報に触れる中で、「あ、これは前はなかったな。」と感じるものがある。そしてこの「何とか目線」という表現も以前にはなかったと思う。「カメラ目線」などという表現も「以後」の言葉だ。(第一「メセン」って、変じゃないか?それだったら「視線」だろう。ということで新しいものにわけもなく反発する年寄りの一員になっている私は、「上から目線」という言葉についても嫌いだった。しかし実は「上から目線」という表現は、「治療者としてあってはならない姿勢」を、わかり易い言葉で表現するのに非常に便利なのだ。


「上から目線」、とはようするに「他人を見下す」、ということであり、英語でのcondescending look という表現がぴったりだ。Descend = 降りる、というニュアンスがハマっている。もう少し日常語では looking down on 誰々、 ということである。そしてこの「上から目線」にもうひとつ、観察者のつもりになる、という意味を私は付け加えてしまう。ここがミソだ。するとちょうど、古典的な分析家の悪しき態度、ということになる。それは特権的に知っているという立場であると同時に、客観的に上から眺める人というニュアンスがあるのだ。

「最近の関係性理論とは、要するに治療者の『上から目線』の反省に立つ、と言っていい。ただし私が上から目線、という場合、ちょっと特殊な意味を込めている・・・・・。」 という感じでの説明になる。

2010年11月14日日曜日

フランス留学記(1987年度版) 第8話. パリ最後の夏(最終回)

最近二冊の本を業者に頼んでPDF化してみた。両方とも片手で持つのがやっと、1000ページ近くにもなる学術書。一冊なんと150円、両方で300円、送料のほうがよほどかかった。本はバラバラにされ、PDFスキャナーに通されたあとは、廃品回収業に出されるという。業者からEメールで送られてきたのは、二つのかなり大きなPDFファイルだけ。さて使ってみて・・・・これが意外といいのだ。検索も自由、一部だけの印刷もOK.コピペも可能だ。手持ちの分厚い本はすべてPDFにしてしまうかとも思う。
ちなみに留学記はこれでおしまいだが、最後に出てきた闘「仏」記、とはこれに付けるつもりの題だった。今となっては、何の意味もないが。

これまでに述べたことは、フランスのような「進んだ」文化の持つ生産性、そこにおいて将来何かが生み出される可能性、ということとは別の問題であろう。フランス人の自らの自由を重んじる、という傾向は、一方では芸術その他の分野で創造的なものが生みだされる可能性を残すと同時に、他方では徒らにその自由の行使にエネルギーを使い果たしてしまうだけということにもなり兼ねない。日本の企業で三日間だけの夏休みに甘んじるサラリーマンは、フランスのサラリーマンが三週間余分に休んでイタリア旅行をして貯金を使い果たすかわりに、その企業の売り上げにその分だけ貢献していることになる。これだって立派な「生産」である。


この例だけではいかにも日本人がその自由を行使することによって得られるであろう体験の幅を犠牲にして日本のG.N.P.の伸びに貢献しているようで寂しいだが、この自由の意識の進み具合の差、という事についてはもう少し積極的な解釈も出来る。それはこれまでに書いた様にフランスにおける対人関係がその個人間の自由を廻る攻めぎ合い、という形である意味で単純化され、行き着くところまで行ってしまった、ということと関係している。言わばそこに、混沌としたもの、「余剰」といったものが見られず、あまりにドライでありすぎることが、かえって何か新いものを生み出す余格を奪っているのではないか、と思うのである。今年も連勝が伝えられる、そしてフランス人も畏敬の念を隠さないF1レースのホンダにしたって、その技術のレベルの高さは日本人的な会社の運営や人との関係、そしてそこで発揮されるエネルギーの産物と見ることが出来ると思う。.

逆に日本人的な付き合いでは相手への気這い、違慮、譲り合いといった、自分の自由と権利ということを考えていたらその存在意義が真っ先に問われてもおかしくない事柄が対人関係を動かしていく。本当に相手が欲していること、そして自分のしたいことが互いにわからないままに、あるいはそれをぼかすことにより人との関係が成立するようなところがある。これは紛れもない私の偏見であろうが、私が世界的なレベルに達しているとして評価したい日本のあるコメディアン達やエッセイスト、劇画家の生み出すものは、この様なつかみ所のない混沌とした対人関係から多くの題材を汲み出している様に感じられる。

翻ってこれらの事情の精神医学的な現われ方はどうか。私は予想に反して、パリでも多くの対人恐怖的な訴え(いわゆるsociophobie)を持った患者に接した。しかし彼等のその訴え方がいかに堂々としていたことか。彼等には相手への恐怖をもその相手に対して表現し、主張して行かなくてはならないパラドクスを抱えている気がする。それ以外のコミュニケーションは社会慣習上、そして言語的にも存在を許されていないからである。他人への長怖の念が、例えば顔を赤らめてうつ向く、といった形で表現され得ないとすれば、それは別の形に変わってその個を苦しめるだろう。フランス人の訴えのうち極めて頻繁に耳にする日常化した不安や外出、広場恐怖、そしてアルコールや薬物依存の多くが他者に対する「甘え」が許容されない社会に特有のものに思えて仕方がない。

しかし私は少し脱線し過ぎたようである。「甘え」を知らない人々をそれと共に行きる人々に比べて「進んでいる」という事は出来ない。もしかしたら私達日本人の方がその先駆者というべきなのかも知れないが、ともかくも自由の意識というテーマとはもはや同列には論じられない。いずれにせよ精神医学を専攻する私達はその影の部分を扱う運命にあると言えるのであろう。

私のパリ留学は結局病院に通い詰める事で終わった。この一年、特に驚くべき事も起こらず、特別の感動も味わわなかったような気がする。しかしそれは毎日があまりに変化に富み過ぎていた為に、そのこと自体に慣れてしまっていたのかも知れない。一年を改めて振り返ると、私の毎日は、まるで病気と戦っていた様なものだと思う。外国という、本来的でない状況にある日突然身を置き、言葉の障害の為にそれまで出来ていたことがままならなくなり、それを少しでも克服しようとし続けることで自分自身も苦しみ、周りにも迷惑をかけて来た。私はまた同情と、時にはある種の哀れみのこもった目で見られた。闘病生活ならぬ闘「仏」生活のこの一年を、肯定的に捉えるのははばかれる。むしろ自分の国を離れて外国で活動したい、という厄介な希望を持つなんて、なんて傍迷惑なことだろう、などとばかり考えていた。もちろん私という存在自身を否定するという発想には結び着かないが、このまま借りを返さずに日本に帰って仕舞うのは何か後ろめたい、という気がするのだ・・・・・・。(了)

2010年11月13日土曜日

いじめの問題 その1. A子さんの「いじめと自殺」問題を考える

昨日Kさんよりかわいい貯金箱をいただきました。ありがとうございます。


画像はネットから取りました

さていじめの問題である。
こんな大事な問題を一言だけコメントするのは忍びないが、心の問題を扱う立場としてはあまりに重要な問題である。群馬県桐生市の小学6年生A子さんが先月23日に自殺し、家族が学校でのいじめが原因だと訴えている問題である。A子さんが自殺する2日前には、一人で給食を食べていると、担任教諭以外の教職員に泣きながら訴えていたことも分かったという。
問題は、市の教育委員会が、小学校の報告に基づき、いじめがあったと認定したものの、いじめと自殺との関連については「明らかな因果関係は認めることはできない」とし、明確にしなかったということだ。特に小学校長の言葉の移り変わりが議論を呼んでいるようだ。
 はじめは「A子さんが特別にいじめの対象になっているとは把握できていない」
次に「いじめがあった。」 11月8日の記者会見では「A子さんの命を守ることが出来ず、大変申し訳ございませんでした」。しかし「いじめが直接的な原因かはわからなかった」。さらに「(いじめが自殺の一因になった可能性については)「まぁ、わかりません」と口ごもったという。
もっとシンプルに言えば、「いじめはあったが自殺との直接の因果関係は不明である。」 と言っているのだが、この言い方が言質をとられたくない、責任を認めたくない、という意図によることは、ほぼ確かだろう。いじめが自殺の一因になった可能性まで「わからない」といっているところに、それはあらわれている。理論的には「可能性」は常にあることになる。その小学校の教育方針、親の姿勢、A子さんの性格傾向、すべてが「可能性」に含まれるのである。極端なことを言えば親がA子さんから片時も目を離さなければ自殺は防げていたわけで、親が完璧に注意をしてはいなかったことまで、「自殺の一因である可能性」はあるということになる。さらには精神科的に言えば、もしA子さんがいじめ以前からうつ病の兆候を示していたとすれば、「一因」のかなり大きなものになり得てしまい、この事件はさらに複雑になってしまっていただろう。(ちなみにA子さんがうつであった客観的な証拠はなさそうだ。)

校長が「(いじめが自殺の)一因である可能性」まで「わからない」と口を濁したことは、責任を認めるような言動は一切控えること、つまりその種の質問にはイエスと言わないことを関係者の間で申し合わせているか、あるいは自分であらかじめ決めていたということだろう。それに引きずられて「(いじめが自殺の)一因である可能性」まで否定してしまったのだろう。
もちろんこのブログでの私の考えは、かなり徹底した不可知論、それを逆側から見た失敗学的な世界観にたっているのであり、自殺についても一つの原因を求めることが出来るという立場とは異なる。その点からは、「いじめはあった」のであれば、それは「自殺の直接的な原因であった」かは「わからない」が、「自殺の一因であった可能性」はもちろん「あった」ことになる。

人は、社会は、そしてA子さんの遺族は特に、自殺との因果関係を明確にしたいと思うだろう。そうでなければ哀しさや怒りのやり場がなくなってしまうからだ。そしてそのことは、「社会から、学校からいじめをなくそう」という動きに貢献する一方で、「いじめはありました。それは自殺に関係していた可能性があります」という機会を、保身的な人たちからは逆に奪う結果になることは、このA子さんの例に示されていると思う。
(何らかの)いじめはあった(らしい)と率直に認めることは、自殺の唯一つの原因を探さないという姿勢から生まれるのだろう。

2010年11月12日金曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(5)

今日は勤務先の休み時間に、私の本を読んだという方の訪問を受けた。Kさん。DID の診断を持ち、しっかり主治医をもっておられる。ということは私の患者さんではなく、だから読者の一人、というわけだが、そうすると出会い方がまったく違うのが面白かった。Kさんの交代人格のひとりの「ゆかり」さん。私がずいぶん前に書いたキャタピーについてのブログを褒めていただいた。私の「天才息子」の話である。読んでいただいてありがとう。
久しぶりの留学記。まだ一回分余っている。今週末で最終回ということになる。


8月になり、病棟で過ごす日にちがいよいよ残り少なくなると、私は間近にフランス人に接しながら生活するのもこれが最後と思い、少し欲張って彼等の背負っているフランス文化と日本文化との比較の総括を、彼等を横目に見つつ試みてみた。それはつまるところ彼等の文化を日本のそれに比べて「進んだ」ものとして提えるべきか、ということについての私なりの検討ということになる。勿論彼等フランス人の「文化」と言っても、私がこの病棟で見聞きしたことの中に現われるそれとしてしか語る事は出来ないのだが。
フランス人がその人生の中で最も重んじるものの一つとは、自分自身の自由と権利、ということだろう。しかしそれは他人に対しても同様のことを認める以外には成立しようがない。そこで彼等の行動の原則は、自分の権利を可能なだけ主張すること、そして他人の権利を最低限は認めること、という言い方でとりあえずは単純化出来る。これは勿論状況に応じて様々な形で現われるが、特に対人接触に関しての現われ方はどうか。先ずとにかく彼等はよくしゃべり、自己主張が強い。しかしそこでは相手も自己主張をして来ることを想定しているし、それによって一種の競合関係が成立し、その中で互いにどの様に譲歩し合うべきかが検討される。これらは彼等にして見れば当然の論理ということになるし、それが親しい友人関係での自然な会話の形をとっている、ということもある。またこの自己の権利の主張は必ずその具体的な根拠を必要とするため、彼等は具体的な数値や歴史的事実にしばしば非常に精通している。彼等は会話の中でそれを延々と述べたてるのである。
そしてこの様な関係に入り込むことに慣れていない人間に対しては、彼等は極めて冷徹に拒絶を示す事があるのだが、それをしばしば地でいった私自身が具体的にどの様な目にあったか。先ず声が小さいから初めから向こうはその主張の内容を聞く前にこちらを低く値踏みしてしまう。おまけに言葉が不自由だから主張はどうしたって力を持たない。それに力対力という関係に慣れていないから、相手が勢いを得てしまうといよいよ形成の逆転が難しくなる。彼等はこちらの弱みを見ればそれに付け込むことの方が発想として自然だが、私は弱みを持った自分は同情される方が自然だろう、と思う習慣が身についているので、どうしても彼等の対応に対して失望して仕舞う。私は病院以外で日常の用事を済ます場合、同じようなことでみじめな思いを一年前とさして変わらなく体験している。病院でそれとは多少事情が違うのは、そこでは私の関与している事柄が少しはあって、それについての主張すべき内容もあり、それを他の人がある程度受け入れる、という状況が成立しているからである。彼等が私の思考行動パターンにある程度慣れてしまつている、ということも大きいだろう。
そこで結論を急ごう。この様なフランス人の意識は日本人より「進んで」いるのであろうか。私はやはり「進んで」いるのだと思う。自分がどれだけの自由をもっているか、ということの自覚を深めること自体が、自分の所属する国や文化が一定の時代の推移を経過し、ある一定の学習を経て来た、ということを前提としているからである。日本人は少なくともフランス人ほどにその自由を自覚するに至っていないし、その自由の意識は、はそれを依り深く自覚している他人に触発された場合に不可逆的に進む可能性があるのである。私自身もパリの人々と接して、自分の権利や自由の可能性に新たに目を見開かせられた部分はあった。

2010年11月11日木曜日

治療論 その9. 治療者の「邪念」について

いつかふと、治療者は聖人となることを目指すべきなのか、という疑問を持ったことがある。これは直感的にはいただけない。凡人は頑張っても聖人君主になれるはずがない。それでもなぜそんなことを考えたのかというと、私自身も精神科医になり、心の問題を抱える患者を担当するようになって以来、かなり「真面目」になったという自覚があるからだ。なぜなら「自分が治療を受けるとしたら、こんな治療者は信頼できないし、治療も受けたくない」というイメージが浮かんでしまい、できるだけそれに近づかないようにするからだ。自分の治療者が姑息だったり意地悪だったりしたら、その人に自分の心の問題を相談する気になるだろうか? この辺はごく単純な発想であろう。成人君主というのは大げさだが、人間として恥ずべき要素を省いていった先の努力目標というわけである。
同様のことはもちろん治療者に限ったことではない。例えば聖職者、法曹関係者、政治家、教師などの場合には同様か、それ以上のモラルスタンダードが求められるであろうし、それらの職につく人は、同様のプレッシャーを感じてもおかしくない。それに社会が (マスコミの作り上げる社会のイメージが、というべきか) それを要求するところがある。だから酒気帯び運転にしてもタクシーの運転手の殴打事件にしても、問題を起こした人が警察官や裁判官、朝●新聞社の記者などだったりすると、それだけで新聞ネタになるのだ。その記事の論調は、「裁判官ともあろうものが、よりによって・・・・・・」であり、そんなことは(たとえば)裁判官が備えているべきモラルの水準に反する、ということになる。
さて精神分析は、「治療者は聖人であれ」とは言わないが、結果的に治療者のあるべき姿として、これに近いことを要求しているところがある。分析理論は、いわば「治療者は邪念を捨てよ」といっているようなものだろう。それはこういうことだ。
フロイトは治療者は逆転移を持ってはならない、といった。逆転移とは、フロイトの定義では転移の治療者バージョンである。治療者が患者に対して起こす転移だ。では転移とは何かというと、人間が幼児期の問題を解決していない場合に、かかわる相手を親の二重写しのようにみなしてしまうということだ。そしてその相手とのかかわりの中で、自分にとって未解決な問題を滑り込ませてしまう。具体的には自覚していない願望を満たそうとしたり、不安を解消しようとしたりする。患者さんは病気である以上そのような転移現象を治療者に対して起こすのも無理ないが、直す側の治療者に限ってはそのような転移現象(つまり逆転移)を患者さんに起こしてはならないとフロイトは考えたのだ。
フロイトの主張はしごくごもっともだが、その後の分析家たちは、フロイトよりも自分たちを等身大で見るようになっていた。つまり治療者であっても人間である以上ある程度の転移現象を起こすことはやむをえない、と考えるようになっている。でもそれでもあからさまな転移を起こすような事態は決して薦められず、少なくとも治療者は自分の転移に自覚的であるべきだ、という了解事項は広くもたれている。
さて精神分析を離れた人間同士の付き合いの中で、転移現象に相当するものは、実はいくらでもある。普通の人は神経症傾向を必ず持っているから、他人との交流で、ひそかに自分の願望充足や不安の解消を滑り込ませる。もちろん表面上は、必要な情報を伝達し、相手のニーズにこたえ、自分の要求をするといった目的に合致した行動をとっている。ただそのとき同時に、「相手に好かれたい」「相手に自分を印象付けたい」「相手を馬鹿にしたい」「相手に意地悪をしたい」「相手に求愛したい」などの個人的な願望を同時に満たそうとする。すると人間関係はややこしくなり、いつの間にか相手を利用したり、相手に利用されたりということが始まり、ストレスに満ちたものとなる。精神分析で言えば転移、逆転移現象に相当する願望を、私はわかりやすい言葉で、「邪心」とよぶことにしている。
邪心を伴った行動は、周囲の人にしばしば敏感に感じ取られ、本人もその代償を払わされる。よくある例が、自分のナルシシズムの満足ということである。臨床例はいろいろあるが、社会面から一つ例を挙げてみる。前原外相の発言についてである。彼が公的な発言で、タカ派的なところが目立ち、そこにスタンドプレー的な要素が見え隠れし、「言ってやったぞ。どうだい!」的な邪心を私は感じてきた。だから中国側は、彼を「トラブルメーカー」呼ばわりしたのだろう。前原さんはこれをまったく見当違いの荒唐無稽な非難とは言い切れないと感じたのではないか? 彼が二,三日前に「自分の発言にこれから慎重になりたい」と言ったという記事を読んだ。それは正しい反応だと思う。しかし実は彼はこれを、数年前の偽メール事件の際に、すでに一度学んだのではなかったか? 邪念はなかなか抜けないものなのだろう。
ただし日本の「プロの」政治家の中でこの種の邪念のない人はおよそ皆無ではないか? 要はそれをいかにコントロールし、後に代償を払うような事態を避けることができるか、であろう。

2010年11月10日水曜日

治療論 その8. 「治療者はセッション中にノートを取るべきか?」

例の尖閣列島のビデオが出回ってからは、中国は鳴りを潜めているようだ。これは一つの重要な教訓を与えてくれている。こちらがまともに反応したら、向こうも一歩下がる。パワーポリティックスとは、ある種のスパーリングのようなものだと単純化して考えよ、ということだ。日本は相手からパンチを浴びせると、「こちらから向かっていくと、相手はもっとやけになって打ってくるのではないか。ここはあまり怒らせないようにするべきではないだろうか?」とパンチを引っ込める。すると向こうは怪訝そうな顔をしながら、ここぞとばかりさらに打ってくる・・・。日本はますます遠慮してしまう・・・・。ということを繰り返してきた、ということではないだろうか?だったら今回は、「不幸にしてビデオが出回ってしまった。しかしこれでどちらに日があるかは明らかであろう。オタクの見解をただしたい。」と中国側に提言をする、というのが最も正解という事になるだろう。やはり「石原慎太郎」流の反応が、実は一番まとも、ということになるのではないか?

今日のテーマも現在進行している大学院の授業「精神分析学概論」からのスピンオフ。
治療者はセッション中に記録をとるべきか?これもあまりに色々なファクターが絡んでいるために、白黒を付けられない問題だが、よく学生やバイジーさんに問われる。精神療法に関しては、この種の問題が多い。いちがいにどちらともいえない、という答えはほぼ用意されているのであるが、その理屈が曖昧で、しばしば問われるのである。もちろん問われること自体が、この問題について考える機会を与えてくれる、という意味では決して悪いことではない。
フロイトが「治療者は患者の話を聞きながら、一つのことに注意を払うべからず」ということをいったことから問題が始まった。彼の言ッた、治療者は「平等に漂う注意evenly suspended attention」をはらうべし、とはそういうことであった。フロイトはもちろんノートを取ることへの反対派。ノートを取るということは、聞いたことをまとめ、書き付けるということで、それがまさに「一つのことに注意を払う」ことになってしまうからだ。わかったような、わからないような。フロイトによれば、治療者は患者の話をボーっと、漠然と聞いていなくてはならない。それが治療者の無意識という名の「受診装置」(フロイト自身の言葉)により患者さんの話を聞くことだという。
それに対して「でもそれでは後で何も思い出せないのではないでしょうか?」という問いには、「いや、どこにも注意しないで聞いているからこそ、後からそのまんま再現できるのだよ」ということをフロイトは言ったとか言わなかったとか。実際にフロイトはノートを取らずに聞いた話を、夜患者さんが帰った後にすらすらと再現してノートに付けたという。でもそれってフロイトの記憶力のよさではないか?実際にはセッションでノートを取らずに、後で再現できるかどうかは、個人の能力差が非常に大きくあり、おそらくそれは治療者としての力量とはあまり、というかおそらくほとんど無関係。
ちなみに、アメリカでの精神分析のトレーニングコースで学んだとき、ノートのことが話題になったが、講師であるシニアの分析家がこんなことを言っていた。「フロイトがあんなことを言ったので、皆最初はセッション中はノートを取るまいとするんだよ。でも私の知る限り、その結果は思わしくないね。大体は挫折するものだ。私の場合も、それは無理だとわかるのに時間はかからなかったよ。」ちなみにこれはセッションのかなり忠実な再現をできるかという話であり、セッション中の山場だけを書くのであれば、ノートを一切取らずに後で思い出すことも問題はないだろう。逐一詳しいノートを取るのは、症例報告やスーパービジョンのため以外には、臨床的な意味はあまり必要はないだろう。実に詳しくノートを取っている心理士さんが多いが、「後で読み返すのですか?」と問うと、たいていは「いや、何となく習慣で。」という答えが返ってくる。
さて今までは、いわば前置きだった。実際にはノートの問題はこうなる。もし自由に心をめぐらせながら患者の話を聞くのであれば、ノートは特別の細部をメモっておく必要があるとき以外は詳しくとる必要はないだろう。大体のあらすじなら空で聞いていても十分に頭に入ってくるし、その時のノートを読み返すことはないであろう、ということになる。これは常識的な答えだろう。しかしそれはその間じっとその話に注意を向けている場合である。ところが時には、そのうち目がトロンとして眠くなってしまう場合もあろう。何もしないで話を聞くというのは、話が十分に興味をひく場合を除いては、集中している時間には限度がある。ふと余計なことを考えているうちに、患者さんの話しは先を行っていた、というのはよくある話だ。そしてノートを取ることは、時にはそれを防いでくれる。もちろんノートを取ることに使うエネルギーにより、患者さんとのアイコンタクトをしたり、ノンバーバルナメッセージを逃したり、ということはあるだろう。でもノートを取るという行為を通して、注意が持続することもある。その場合はノート取りはあとで読み返すため、というよりは注意を持続させ、内容を整理しながら聞くための方法ということになる。それでセッション後の記録の作成の時間も短縮できるなら一石二鳥だ、という発想もある。
結局治療者がノートをとるかとらないかは、以上のことを加味した上で柔軟に決めよ、ということになる。ただし一つだけ注意点がある。もし自分が患者の立場で何か悩みを治療者に打ち明けたら、治療者が一心不乱に記録を書き始めたら、どんな気持ちがするだろうか? 病院では最近はカルテの記入がコンピューター入力になったところが多いが、初診で患者さんの話から得られた情報を一身に入力していると、患者さんはこんなことを思っているかもしれない。「先生は、私がこんなに一生懸命話をしているのに、コンピューターばかり見て、カチャカチャやるのはやめてください。!」

2010年11月9日火曜日

治療論 その7.  共感のために明確化する

今日はあまり一般の方には興味がないテーマについて書いてみた。ほとんど思いつきであるが、思いつきだからこそ残しておきたいと思う。

もちろん精神療法で何を目標にするかは、患者の抱えている問題の質によっても、また現在の機能レベルによってもことなる。ただ私は精神療法家を目指す心理の学生に対しては、基本は「共感のための明確化である」という説明をしている。これは意外とわかりやすい説明の仕方だと思っている。治療者が行うべきことのほとんどはこれに集約される。精神療法を始めるに際して、「とりあえず行うことは、患者さんの話を明確化するための質問です。」と説明すると、学生はいろいろな疑問を持つ。「何を聞くのか?」「~を聞いてもいいのか?」「聞いてどうするのか?」などなど。しかしそれらは「患者さんに共感するために必要なことなら聞き、それ以外は聞く必要はない」ということになる。明確化する必要のないほど直接伝わってくる話なら、じっと耳を傾けていればいい。
「治療の目的は、共感を行うということだ」と言うと、心理の学生はそれをそのまま受け止める傾向があるが、すでにトレーニングを経ている治療者には、これに生理的な反応を示す人が多い。「精神療法では洞察を目指すことが真の目標だ。共感ではない。」ただし患者への共感をまず目指さない治療者が、どうやって洞察を得ることの援助をできるだろうか? 洞察とは、患者がこれまで見ようとしなかった点にリアリティを感じるプロセスであり、本来はつらいものである。患者は様々な抵抗に打ち勝ってそれを達成するのだ。自分を分かってくれていると思えない治療者からの指摘は、単なるダメ出しになってしまうのである。
「共感しただけでは治療ではないのではないか?」それはそうかも知れない。「患者は具体的なアドバイスを必要としているのではないか?」そういう場合もあるだろう。しかしアドバイスをたとえ行うにしても、その前に患者の世界に入ることなしに出来るわけではない。別言すれば、十分な共感を得た治療者は、もうアドバイスをする一歩手前にいる。患者の置かれた状況や心理に十分共感ができた治療者は、それを自分自身の視点に立ち戻って言い換えたり、捉え直したり、感想を述べたりする事もできるであろう。それはすでにアドバイスらしきものである。でもこの「らしきもの」である点は重要である。実は治療者は患者にアドバイスをすることを本業としていないし、そもそも患者に代わって彼の人生に関するいかなる判断をくだすことも出来ない。患者が自らの判断を行う際に助けとなるような視点を提供することだけだ。患者の人生に共感した治療者がその上に出来ることといえば、自分の主観からそれがどう見えるか、感じられるかということである。そしてそれは恐らく多くの患者にとっては不必要なことなのだろう。なぜなら多くの患者にとっては、分かってもらうことである種の満足感を得ているからである。

2010年11月8日月曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(4)

留学記が終わりそうで終わらない。といってもあと1,2回分ある。チエリー(登場人物)もすっかりオヤジになっているだろう。最後に会ってから20年以上経っているのだ。それにしても生命はどうして老いていく運命にあるのか?そんなしょうもないことを考える。
ほぼ毎日更新のブログを半年続けてみて、自分なりに使い方がわかった気がする。今後もおそらく・・・続けようと思う。しかしこれでもあくまでも試験的にやっているだけである。

7月も終わりに近付き、パリの病院での生活もひと月を割ってしまった。滯在許可証 carte de séjour が切れるのは 9 月の半ばであるが、8月の末にはアメリカへの旅行を計画しているし、9月に入れば帰国の準備に追われて何も出来ないだろう。
依然病院での活動にはやっとのことで参加している、という感じである。患者を担当させてもらっている、ということは私もそこの一員として認められているんだな、という確認作業を何度も繰りかえす。それにその仕事にしても7月から就任したアンテルヌのテイエリーに大分依存している。この26歳の秀才の医師と私はかなり親しくなったが、同時に私は彼を大分困らせたようである。彼は病棟で患者の担当医を決める役割を任されていたが、私は患者を常時二人は担当させて欲しい彼に要求したし、その扱いに関しては自分の考えをかなり通させてもらい、余り妥協をしなかったからである。内科のアンテルヌである彼は、純粋に精神医学的なことで私の判断より上回ることは余りないように思えたからである。彼との毎日の関りでも私はまたいろいろ考えさせられた。
ティエリーはケベック出身で、今から10年前、16歳でパリに来たのだが、私が身近に接した中で誰よりもパリジャンとしての際立った性質を持っていたと思う。人文、社会科学にわたる広い知識、そして何よりも豊富な医学の素養、そしてそれをもとにした強引な議論の仕方。またあらゆる議論にも無関心ではありたくない、というある意味でのふところの広さ。フランスでは医学生は学部の6年のトレーニングを終えた後、アンテルヌとして数ケ月ごとに各科を回り、そこで第一線に立って活躍する。そのせいか彼等は身体疾患に対する扱いについての経験を豊富に持つ。精神科に来る前は産婦人科、救急病棟にいたというティエリーは精神科に来てからもまもなくその活動の中心となった。私は彼が病棟の仕事を殆ど独占しかねなく、油断すると私の仕事まで奪い兼ねないのがちょっぴり不満であった。自分では半人前だと分かっていながらである。

病棟で何らかの仕事を少しずつ与えられながら、私の頭を結局最後まで去らなかつたのは例のことであった。私がその病棟にいる、ということがそもそも傍迷惑ではないのだろうか。勿論このようなことを考えていては何も学べないということも同時に分かつているのである。しかし私が結局は帰国の日を毎日数えながら、朝はいつも憂舊な気分で病院に向かったとすれば、このことが一番大きな原因のような気がする。病棟で患者を担当することはうれしかったが、私に担当されては迷惑ではないか、という気がどうしても先に立つ。私がフランスで正規の資格を得て勤務するのであればまた違うのだろうか。自分に問うてみると、病院での活動の動機は余り純粋ではない。もしこれを数年続ける、としたら逃げ出していたかも知れない。ここまではやれた、ということを自分に対する既成事実にして、後はさっさとパリを去ってしまいたい、という気持ちが確かにある。これでは結局は自己満足に過ぎないのではないか。しかしまた病棟で患者を少しずつ担当していく中で、私は私以外には出来ない、と思う仕方で患者と接することが出来たと思うことも少なからずあつた。病棟での活動に思うようについていけないことからくるフラストレーションは患者との面接の後にはある程度軽減される事が多かった。(続く)

2010年11月7日日曜日

親子の関係 (2) なぜ親は救いようがないのか。子供に関しては「病気(ビョーキ)」だからである

まあ、私が親であり、すくいようのない立場になっているから、こんなことも書けることなのだが。
親は、子どもに対して「神経症」いやむしろ「心気症」や「強迫神経症」のような状態になっているのだ。例えば足のかかとの裏の皮が、「ちょっとでも段々になっていると、平らになるまで剥かなくては気がすまない」(神さんの例)、というのは、正常範囲の神経症だ(ということにしておこう)。しかしそれが気になって気になってしょうがなく、出血しても剥き続けたら病気である。気になって気になってしょうがない、いつも出血寸前で思いとどまる、となったらこれは病気に近いところをギリギリでウロウロしている状態といえるだろう。(神さんは、皮をむいて、そこだけ極薄になり、血の色が透けているかかとを、気味悪がる私に無理やり見せようとする。悪趣味だ。)神経症とは、このように一つのことに強いこだわりを見せるが、その対象は普通は身体の一部であったり(心気症)、自分の心に浮かぶ特定の思考内容だったりする(強迫神経症など)。
さて子供が元気かどうかを心配する親は、ともすると子供に対しても、それがあたかも自分の一部であるかのようにして、強いこだわりを示しかねない。親は子供がごく小さいころに、自分の身体や心に対してと同様、あるいはそれ以上の関心を抱く時期がある。母親は特にそうだが、父親も母性的なタイプの場合には起きる可能性があろう。そして不幸なことにそのこだわりは固着してしまい、子供がどんなに大きくなって、場合によっては老境を迎えても、それを捨てることができない。
もちろん、子供には親に対する神経症なこだわりはない。トンデモナイことだ。それに動物生態学的にも、子供にそんな余裕はない。そんなものがあると、今度は自分の次の世代、つまり自分の子供に対する神経症的なこだわりをする余裕がなくなってしまうではないか。
親の子供に対する神経症的なこだわりとはどういうものか。たとえば5歳を迎えた子供が一人で近所の保育園に通い始めるとする。今日は初めての日だ。親は子供が見えなくなるまで見送ることにして、そのあとは保育園までのほんの200メートルほどの道のりのことを考える。「あそこで角を曲がる。これは大丈夫だろう。しばらく歩くと横断歩道がある。ちゃんと手を挙げて渡れるだろうか?たまたまわき見運転をしている車が突っ込んできたらどうしよう、アー!!」と叫び、子供の後を追って飛び出そうとする母親は夫にたしなめられる。「お前、そんなことを心配していたらこれからやっていけないぞ。」母親は、「そうね…」といって、もう子どものことは考えないことに決める。そうでないと何も手に付かない。ほかのことで気を紛らわすしかない。
こうして親がそれでも子供の後を追って安全確認をするということを思いとどまるのは、もう子供は一人でできる、安心なのだ、という結論に達するからというわけではない。そんなことをしていたら親はおかしくなってしまい、夫の言う通り、「これからやっていけない」からだ。
そうなのである。親は子供のことを頭で振り払おうとすることでしか、この神経症から逃れることができない。もう少し言えば、子供が目の前から消えてしまうことが、親を解放してくれる。だから・・・・基本的には思春期以降親をケムタがる状態になった子供は、親と別居をするのが健全なのである。それは親を守り、子を守る。子の中にはそのような親の神経症に暴露されて、自分も神経症になり、疲弊してしまいかねないからだ。

2010年11月6日土曜日

治療論 その6. 患者さんの人生の流れは変えることが出来ない

朝からいい天気である。一日中オフィスにこもっていても気分は悪くない。この一週間色々なことがあった。あす朝の「報道2001」が楽しみだ。

臨床を行っていてしばしば感じること。バイジーさん達にはいつも言っていることだが、患者さんの人生の流れを変えることはできないということだ。ただしそう言うと、「では治療者は何も患者さんに影響を与えられないのか?」と言われそうだが、次をよく読んで欲しい。「患者が治療者から時々影響を受けることも含めて、その流れを変えることはできない」、と言いたいのだ。治療者は時々患者さんに影響を与えることはあるのである。そんなことは当たり前である。しかしこれは「治療者は時には患者さんを変えることができる」ということとは異なる。治療者が共感を示す。両者の間に何かが生じる。それが時には患者を変える。その一連のプロセスに、治療者は意図的な影響を与えることはできないというわけだ。
ただし私は「治療者は患者を変えることが出来る、などと自惚れてはいけない」などと言いたいわけではない。これは治療者の力不足などという議論ではない。むしろ「患者の人生を取り巻く現実は複雑すぎて、治療者がそれを意図的に変えようとする力が及びようがない」ということである。たまに治療者が意図した仕方で患者を変えられたとしても、そこに働いた偶発性は無視しようがない。
また外傷的な関わりについては別である。治療者は患者さんに対して外傷的な関わり方をすることで、その人生を不幸に導く力は、確かにあると言える。問題は「治療的」な関わりの方である。だから人間は他人に幸運をもたらす力に比べて、不幸をもたらす力を、はるかに多く持っている、ということが出来るのだ。

ちなみにこのような考え方は、治療的な不可知論であり、いわゆる「弁証法的構築主義 (I. Hoffman, M. Gill) の考え方とその本質は同じである。でもここで示した治療観は、臨床経験から来る素朴な実感であり、理論とは無関係である。

2010年11月5日金曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(3)

小沢さんが岡田幹事長にようやく会ってもらえたものの、国会招致を断わられたという。それに対して管さんが「会えただけでも一歩前進だ。これからも粘り強く説得を・・・・」でも関係が悪化している外国の首脳に会う、というような話じゃないんだから。一人の国会議員にいいように振り回されていることの異常事態をどう考えるのか、ということだ。情けない話。
でも誰が総理大臣をやってもこんなことになってしまうのも分かっているわけだ。これまでに自民党、民主党も含めて優秀な人達が皆情けないパフォーマンスしか見せられなかったということは、日本という国で総理大臣の職をこなすのは、やはり至難なんだろう。


私が担当出来たのは入院患者のごく一部であったが、その中には私の特に印象に残った患者がいた。彼女P婦人は42歳、二ヵ月前から始まった不安を伴った抑欝状態が、夫の長期の出張を前にして昂じ、入院となった。丁度彼女の入院して来た日がアンテルヌの交代の時期で、病棟に私しかいなかった為、受け入れを私がしたのが切っかけで、そのまま担当することになった。ともかくもカルテを埋める必要上私が彼女の病歴を取り、私の聞き取りが不充分なせいもあってか何度も同じことを聞き返してしまい、彼女は途中で、「私はなぜ何度も同じことを繰り返して話さなくてはならないのですか? これまでのことは殆ど前の病院の資料に書いてあることでしょう?」と言って涙を流し始めた。彼女はこの数年間の間に6回の同様の入院歴があり、その度に何度も同じような問診に応じなくてはならなかつたため、その言い分にもっともなところがあった。しかし私は何よりも自分の不自由なフランス語のせいで彼女が私を拒絶しているものと思い、二、三日の間必要最小限の会話のみを交し、誰かに担当を代わって貰わなくてはならないな、などと考えていた。しかし彼女は私を主治と思い続けて、数日後に不安発作に襲われた時に彼女の方から面談を申し込んで来た。それから私はP婦人とかなり長い面接を週に3、4回の割で行なうことになった。
P婦人は元来引っ込み思案で対人緊張が強く、思春期から類繁に不安発作に襲われたが、幸い優しく理解のある夫に恵まれ、また思春期に達した三人の子供があつた。ここ数年の欝状態もこの様な性格傾向の上に生じ、時には入院により症状の軽快を待つという必要があった。
私はP婦人との対話を通じて幾つかの事を考えさせられた。彼女は病棟内でも他の患者との交流を避け、また午前中は過呼吸発作を伴った不安に見舞われて看護婦を呼ぶ、ということが多かったが、その様な傾向に対して病棟では余計な同情や配慮はかえってよくない、との態度がとられることが多かった。彼女は一番慣れた私との話を好み、他の医師に対しては不安を表わす傾向にあったが、私の態度が患者の依存心を助長しているのではないかという様にもよく言われた。私もP婦人が、私に依存して来ている、と感じられたほとんど初めての患者であった為に、それだけ思い入れが大きくなりつつあることが分かっていて、むしろスタッフに対してそこを突かれないように気を使ってばかりいた様に思う。
それにしても、と私は思った。パリ人はなんと他人の依存傾向に巻き込まれまいと警戒する人達であろう。患者の依存的傾向を知りつつ一歩譲歩してそれを受け止める、といった場面に出会うことは少ないように思う。P婦人の示す種々の不安について、特に退院に関するそれについて毎日聞いていた私が、突然スタッフ会議で一週間後に設定されてしまった退院の期日について、もう少し余裕を持った方がいい、主張するだけで、私は何度かからかいの目を向けられた気がした。

2010年11月4日木曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(2)

唐突だが、親にとって子供とはどんな存在だろう。順調に育ってくれたら独り立ちをして出て行く。するともう簡単には帰ってこない。あれだけ何年も一緒に過ごした息子が、もう盆暮れに数日帰ってくるかこないか。いやそのうちに半年に一度電話だけ、ということになる。(私の両親は健在だが、今の私は彼らにそうしているだけだ。)仕送りをしても特に感謝されるわけではない。誕生日にメールひとつ来るわけではない。電話をしても面倒くさそうな返事をされるだけだ。(そうしている。)それでも子供のことを想い続けるとは、どういう事だろうか? 子どもがどこかで幸せに毎日を送る、それだけである。これからまったく縁を切ることになっても、あるいは何らかの拍子に恨みを抱かれたとしても、一言も感謝されなくてもそれは変わらない。ひょっとしたらこちらが親であることを完全に忘れてしまったとしても同じだろう。子どもがどこかで幸せに生きていれば、ただそれだけでいいのである。
それにしても親はどうして感謝されないことをして満足するのだろう。それは恐らく子供は親に消えて(でも必要な分だけ養ってもらって)もらうことでもっとも幸せになるからではないか?親は子供を子供以外の存在としてみることが出来ない。子供は常に親の前では子供にさせられる。それは決して子供の為にならない。それでも親が子供の周りでうろうろするなら、少なくとも消えた存在でなくてはならない。事実人類の歴史において、それは問題なく踏襲されていた。人はそれほど長生きしなかったからだ。寿命が伸びても閉経の年齢に関しては昔と変わらないと言うが、母親は閉経後も命を長らえることは想定外だったのであろう。親は実際に消えていたのである。現代においては、姥捨ては自主的に生じなくてはならないのかも知れない。

ライネック病院で、私は何人かのスタッフと対等に近い関係を持つことが出来たと思える瞬間を持った。対等、ということは私が精神科を専門とする者としてある程度の主張をし、それが彼等にとって役立つ情報となったり'その考えを変えるに至ったりする場合である。ただでさえ自己主張が強く、自分の非を認める事が少ないように思えるパリ人が私の主張を簡単に受け入れてくれるはずはない。だからそのようなことは起きるとしてもあくまでも「瞬間」的なのである。
病院で私の立場に近いのはとりあえずアンテルヌ達ということになる。これまでも述べた通り、フランスではアンテルヌは病棟の日常診療の主役とも言えた。丁度日本の大学病院で言えば日常臨床の経験をある程度積んだ研修医、ないしそれ以上の医師、という事になるだろうか。私も医師として扱われる以上理屈からは彼等と同様に見なされる。しかし実質が伴わないのでそれだけ厄介な存在になっていたのだが。私達の病棟には6月からチェリーとサラモンがアンテルヌとして勤務していた。彼等は11人という少人数の入院患者に常に目を配る。お互いに仕事を取り合うような勢いで病棟の活動を運営していく。私にはその様な力は到底ないが、私が特に担当を主張する2、3人の患者について彼等は私には任せてくれたので、私はそれ等の患者に関しては自分の見解を述べる機会があつた。彼等アンテルヌが精神科ではなく一般医を専門としている事も関係していた。彼等にサイコセラビーの経験はなく、また彼等を指導する教授も週二回の回診を通じての薬物療法主体のマネージメントに重きを置くとなると、面接の時間帯を設定して、治療関係の動きにこだわる私の主張は、とりあえずは耳を傾けようか、という気を起こさせたのかも知れない。
彼等アンテルヌと私は手分けして他の病棟からのコンサルテーションの依頼にも応じた。ライネック病院では救急外来に自殺企図の患者が多く入院して来るが、それ等の患者には一様に精神科医の往診を依頼して来た。一日に2、3件という場合も少なくなく、私はそのうちの一人を担当させてもらい、その病棟の主治医と相談し、精神科の処方をし、病棟に帰ってその依頼を控えてあったノートに自分のサインをする。その様なときは私も彼等アンテルヌと同じように一様それなりの仕事をした、という気になる。しかし週二回の回診の後のスタッフ会議では、自分の患者について有る程度の意見を述べるだけで、後は他の患者についての彼等同志の会話について行けずに始終黙り通し、という事もあり、その様な時には自分が結局は病棟の活動に如何に取り残されているかを痛感するのである。もっともその様な場合スタッフは私のことを、「、全くわけがわからずにいる」、というよりは「半分眠った様で元気がないね」と表現してくれるので私は少し救われた思いがした。

2010年11月3日水曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(1)

留学記も最後の章である。おかげで印刷された原稿をデータ化する作業にもなれた。「パリ最後の夏」という題ははったりである。そもそも一年の留学だから一度しか経験しなかったのだから。でも同時に、パリには二度と行かない、という考えの表れでもある。(事実1987年の夏以来、一度もパリには赴いていないし、将来もその気持ちはない。)それにしても今この記録を読み直して思うのは、私の語学へのこだわりの強さである。語学はそれを母国語としないものにとっては、まさに修練の道である。ちょうどバイオリンを思春期以降に習うのと似ている。決して幼少時から始めた人間に追いつけない。ところが私のようなまじめな人間は、つい「極めたい」とか思ってしまう。私はそれを英語とフランス語とやり、両方とも極めることなどできていないが、フランス語は悲惨な終わり方をしたわけだ。一年も留学してものにならず、しかも何も有効活用していない。もうサビついて形すらわからないほどになっている。私がパリに行きたくないには、フランス語に挫折し、別れを再体験したくないから、とも言えるかもしれない。それだけに次に訪れたアメリカは、私をしっかり育て、鍛えてくれる場所でなくてはならなかったというわけである。



6月も終わりに近付き、ライネック病院での研修に慣れて来たかと思えば、もう帰国までふた月余りしかない。8月の終わりには「人並み」にウァカンスをとってアメリカまで足を伸ばしてみようと思っているので、もうパリでの生活は残り少なくなってしまった事になる。思えばこの一年殆ど何も出来なかったような気がする。興味のある資料を捜しにサンタンヌ病院のアンリ・エイ図書館にももっと通っておきたかった。それに何よりもパリに一年いながら訪れていない所ばかりある。気が向けば安い料金で近隣のヨーロッパの国々を回ることも出来た。しかし私は病院に通い続けてこのままバリの生活に区切りを付けることになりそうだ。
思えばよく病院に通ったものである。風邪で一日体んだ以外はヴァカンスを除いて一日も欠かさず病院に顔を出したことになる。我ながら何故ここまでしたか分からない。ここで正式な仕事を持っているのならばともかく、中途半端な身分で、それも言葉に苦労しながら通い続ける意味は果たしてどれだけ有ったのか知れない。この一年が自分の将来に具体的にどう役立つのかもあまり思い当たらない。フランス滞在という経験を生かして、ここでの思想を日本に帰って伝えたり、言葉の習得に励んだり、というのであればもっと能率的な方法もあっただろう。自分でもはっきりしないが、私はもっと漠然としたこと、一体自分はフランス人に交じって何処まで出来るのか、どこが限界なのかを確かめたい、という気持ちだけでこれまで来たようである。限界と言えばそれは去年来たばかりの時にその大枠は見えてしまっている。しかしそれが悔しく、少しでも何とかならないかとあれこれ模索しつつの9ケ月だった。
一体私は9ケ月の.生活で少しはここに適応したのであろうか、と考えてみる。ある分野では間違えなく私は一年前よりも多くの知識や習慣を獲得しているのは事実である。専門領域での独特の表現や、薬の名前、それによく聞かれるバリのいろいろな地名などなど。また一日のうちかなりの時間をフランス語で話して過ごすので、そのスビードは少しは速くなっているのであろう。しかし純粋な意味での聞き取りの力が進歩したという実感は結局持てていない。病棟でのフラン.ス人スタッフ同志の会話のうち、あるものは恐らく20~30パーセントも分かっていないのではないかと思う。早口で話し掛けられると聞き返さないことの方が少ないのではないか? 医師や患者の名前、薬の名前などの固有名詞はいやがおうでも覚えるので、病院の中での会話は何となく状況はわかる場合が多く、見当を付けて適当に応対しているだけで、何とかコミュニケーションが成立することが大半だが、フランス語そのものの肝心の点での進歩の実感が少しもないのである。私はもともと語学が好きで、それなりに思い入れがあるだけに、純粋な意味での聞き取りの力、音を拾える能力が頭打ちになっていることもわかり、それだけに残念な思いがある。
しかし純粋な聞き取りの力、というのはなく、あるのは特定の環境での具体的な事態に自分がどれだけ関与出来ているかだけなのかも知れないとも時々思う。というのも自分が中心となって進める会話と他人同士の会話を傍から聞いているのとでは、その質が全く違う、という実感があるからである。だから私は患者との一対一での対話はむしろ気楽な気分さえ覚えるようになった。
私は常々、精神療法においてはその際の言葉の完全な使用が必要条件であろうと思って来たが、その考えもほんの少し修正する必要があると思うようになった。というのも特定の患者との面接を繰り返すことにより、その世界を徐々に共有し、そこに現われる内容もある程度なじみ深くなると、言葉の障害の間題は後方に退いていく様に思えるからである。それは情緒的な関係において言語外のコミュニケーションが如何に大きなウエイトを占めているか、ということを同時に示していると思う。この事を考える度に私は東京である日米混血の英語教師から聞いた話を思い出す。彼女の母親は日本人で、その英語もなまりがひどく文法に関してもかなり危なげだったという。彼女はアメリカでその母親とアメリカ人の父親のもとで、全面的に英語による環境の中で育ち、完壁な英語を身に付けたのである。しかし彼女は思春期に至り、他人から指摘されるまで、母親の英語の不確かさに全く気付かなかったという。たまたま遊びに来たクラスメートが、彼女の母親の英語を聞いて、その日本語アクセントのためにぜんぜんわからなかったというのだ。これは彼女がそれまでに母親との間で伝達し続けて来たものが英語以上のなにものかであり、その伝達に関してはその母親のつたない英語でも十分に役に立ったという事情を示している。

2010年11月2日火曜日

治療論 その5. 「自分が患者の立場なら何を望むか」から出発する

昨日テレビでこんな話を耳にした。「最近アメリカで開発された新しい治療の技法で、認知症の患者さんがどんどん改善しているとのことです。」私も「へーえ、すごいな。どんな技法なのだろう?」とさらに聞いてみると「それはバリデーションというテクニックです。」という。でもそれって、テクニックというより・・・・・・。バリデーション validation (~を正当なものとすること) とは、相手の話を真正面から受け止め、肯定することから出発することだ。認知症の患者さんに限らず、あらゆる治療において非常に大切なことである。しかしこれを「新しい治療技法」としてアメリカから後生大事に輸入する必要などどこにあろうか?でもある意味では、外国で開発された最新のテクニックとしてありがたく取り入れることが、結果的にいいのかもしれない、と思い直した。今日の話はそれと少し通じる。

まだアメリカで留学を始めて間もないころ、今の同僚の和田秀樹先生とは、一緒にたくさん時間をすごしたものである。20年近くも前のことだ。あるとき先生がこんなことをおっしゃった。「自分は治療をするならクライン派的にやると思うけれど、受けるならコフート派的な治療がいい。」このことをよく覚えているのは、ある意味ではこれが精神分析理論を学ぶもののひとつの素直な考えだと思ったからである。
和田先生はそのころアメリカでコフート理論を学び始め、その魅力に取り込まれ始めていた。しかし彼は日本ではクライン派の先生からスーパービジョンを受けていたという事情があり、クライン派的な考え方に慣れ親しんできた。彼の中でちょうどクライン派からコフート派へと視点が移行し始めていたころだったのだろう。彼はそれから帰国して、わが国のコフートの代表的な研究者の一人として活躍していらっしゃるが、彼の言葉がヒントになって、この表題に述べたことを考えている。
こと心理療法に関する限り、治療者が目の前の患者に同一化し、その患者だったらそう扱って欲しいような仕方でその患者を扱うことは、その治療指針の最たるものだと思う。迷ったらそれを考えたらいい。ただし必ずしも同じ扱いをする必要はない。ただそこを出発点と考えるということだ。
さてこのように但し書きをつけて用心をしても、すぐさま反論の矢が飛んでくるものだ。その代表的なもの。
「もし自分が治療者だったら支持的に扱ってもらいたいかもしれない。でもそれが自分のためにならないとわかっていて、ほんとうなら厳しい直面化や解釈をしてもらうべきだろう。だから自分なら後者を選ぶのだ。だからこの主張は間違っている。」
でもこれは少しおかしな論理なのだ。
もしこれが事実だとすると、目の前の患者さんの気持ちに成り代わったときに思うことは、「それは支持的に接して欲しい。でも実は厳しい直面化や解釈が必要だということもわかっている。」これは言い換えるなら、「本当は支持的なだけでなく、直面化や解釈も忘れないで欲しい」となる。そして治療者はそのような理解を「出発点」とすればいいことになる。
これは結局単なる支持的なかかわりとも、厳しいだけの直面化とも異なるかかわりをすることを治療者は選択するべきであるということを意味している。それは患者の側に潜んでいるアンビバレンスにも働きかけるということだ。そしてこの点を理解して伝えることは、単なる支持や、直面化を超えた力を持つ可能性がある。
何か私の提言は当たり前すぎて平凡すぎるものに思えてきた。でも実はこんな単純なことを思いつかない治療者があまりにも多い気がするのである。そうでない限り、精神科医や心理士との治療体験を外傷的なものとする人がこれほど多いという説明がつかないからである。

2010年11月1日月曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(4)

ついでにもう少しパリでの精神科医療について述べてみよう。パリには精神科における療法はほとんど出揃っている印象を受ける。そしてそれはそれぞれの療法家の機能分化が進んでいる、ということでもある。特に60年代からフランスの精神医療場面に広まった精神分析的な流れは、それから派生した種々の療法と共に定着していった様である。精神分析家や弛緩療法家は大学ないし市中でそれぞれ独自に治療を行ない、大学の外来に初診で訪れた患者はその症状に応じてそれ等の専門家に紹介される。
精神分析以外にも、たとえば現象学的精神医学は、フランスではミンコフスキー、エイ以来遇塞した状態だったが、近年になってぺリシエ教授の他にパリのロンテリロ-ラ、フェルナンデ・ゾイラ、シュテール、マルセイユのタトシアン等の業績が注目を集めつつある。行動療法的アプローチや家族療法はまだ限られているらしいが、これから盛んになる可能性は大きい。ちなみにネッケルではアメリカでの一年の留学を終えて来たばかりのロロール副医長を中心に脱感作療法や assertive therapy が試みられ始めている。学部の精神科の専門講義ではゲシュタルト療法、バイオ・エネルギー、家族療法、交流分析、サイコドラマなどなど、主としてアングロサクソン系の療法についての講義が大半を占めている様である。
ちなみに精神分析について付け加えれば、私はフランスにおけるその普及は宿命的であつたという気がする。日本では生物学的なアプローチを重んじる精神科医にとつては精神分析的な用語を使うこと自体が幾分かはタブー視されていた印象があるが、こちらではたとえ批判的にではあれ、どの精神科医の話にも顔繁にそれらの用語が現われる價向にある。何でも言葉で説明してしまいたいフランス人にとっては精神分析理論にみられる psychogenetic な考えはまことに性にあっているのであろう。フランスの精神分析はその歴史は古いものの、1968年のパリ第8大学の精神分析「学部」の設置あたりから新しい段階を迎えたようである。そしてその勢いは数年前のラカンの死を契機に少し衰えたとは言え、まだ当分続く気がする。それが証拠に大きな本屋の精神分析関係のコ-ナーで売られている本の如何に豊富なことか。それに分析関係の雑誌だけでも十数冊あるのである!少し列挙してみれば、Nouvelle Revue de la Psychanalyse (フランス精神分析協会の雑誌、Gallimard 社), Revue Freudienne de la psychanalyse (P.U.F.社), Psychanalyse à l'Université(パリ第7大学の精神分析学科の雑誌)、ラカン派の ORNICAR と Ane、その他 Analytica, Topique, Analyique, La Psychanalyse de l'enfant, Esquisse psychanalytique, Revue de la Psychnalyse Groupale, Cahier pour l'Analyse, Littoral, Cahier de Lecture Freudienne, Frenesie, Étude Freudienne ・・・・・・。これに店頭には登場しないものを加えたらどのくらいの数になるのだろうか。これだけ述べると、まさ・にフランスは精神医学に関してはすっかり輸入国になってしまつたかの様な印象を与えるかも知れないが、日常の臨床においてはフランスの伝統的な精神医学における概念があちこちに現われ、時には私を戸惑わせた。
私が先ず困ったのは、プッフェー・デリラント bouffée delirante である。日本でだったらさしずめ「急性錯乱」とでも訳されるであろうこの疾患単位は、しかし急激に始まる機能性の幻覚妄想状態をも広く含める概念であり、これがしばしば日常の診療の際の診断名として登場するのである。外来に来た幻覚妄想の顯著な患者を見て、分裂病の急性期だな、と思っていると、発症が急であればほぼ間違いなく診断名はブッフェー・デリラント。しかもフランス人の医師はこの概念を初期の分裂病、という含みを余り持つ事なく用いるらしい。何人かの医師に尋ねると、「三分の一はなおってしまうし、三分の一はこれを何回か繰り返すし、残りの三分の一は分裂病になるんだよ。」などとそっけない答えが返って来る。分裂病の枠のもとに全ての精神科的な急性疾患を入れてしまうのには無論同意出来ないが、一方では幻覚妄想状態がたとえ一時的に見られただけの場合にも、それが先ず再発することを前提としてフォローすることの必要性を日本での経験から得たつもりでいる私にとって、この概念を飲みこむことは始めは難しい気がした。フランスの精神科医が自国の伝統的な精神医学に敬意を表することは他にもあった。そもそもブッフェー・デリラントも、19せいきのフランスの精神医学者マニャン Magnan, V.(1835-1916)の概念であるが、医局での医師同志の会話の中に「この患者にはエランヴィタール(生命的な躍動)が足りないね」」とか「生ける現実との接触が欠けている」などという会話がまれならず聞かれる。いうまでもなく前者はベルグソン、後者はミンコフスキーの用いた概念である。また或精神科医の集まりで突然ある医師から「日本の精神科の患者には精神自動症(クレランボー)が見られるのか?」と聞かれ、思わず絶句したこともある。
私は各国が独自の精神医学に基づき医療を行なうのはむしろ自然なことだと思う。もともと疾患概念自体が種々の予断に基づいているのであり、万国共通の絶対なものを考えることそのものにわながある気がする。私が始めはあれほど起和感を持ったブッフェー・デリラントでさえ、何時の間にかフランスの医師達との話の中で自然とロにするようになってしまっている。それなのにいざフランス精神医学による統一した診断基準を探そうとするとテキストによって微妙に違ったりしてはっきりしない。いざとなると DSM-Ⅲ を持ち出す精神科医もかなりいる、という事情は日本と同じである。(第七話 終わり)